断捨離の手が止まる(3)1951年、小学校最後の夏休みは(前)
1951年7月21日から8月31日、小学校6年の夏休みの日記が出てきた。当時としては精一杯おしゃれなA5のノートではなかったか。鉛筆はHBだったろうから、うすくて読みにくい個所もあり、担任の乙黒久先生は、誤字脱字を訂正してくださっていた。また、最後には、「熱心に正確によく書けています。これから一生、なるべく日記を書き続けましょう。」と、なんとも作文が嫌いな私を励ましてくださっている。
作文がどうしても苦手だった私も、宿題とあって、一所懸命書いたふしがある。一日2行のこともあるが1頁のこともある。主に家庭内のことで、父、母と二人の兄たちがよく登場する。家は、池袋の平和通りで、父母と長兄三人で薬屋を営んでいた。トタン屋根の「バラック」で、定休日もなく、働いていた。次兄は、私と7つちがいの高校3年生であったか、私大のエスカレーターで、きびしい受験の体験はなかったようだ。私も、まだ、中学受験など考えていなかったので、のんきに過ごしている。
私は何の気なしに書いている風なのだが、家族内の微妙な人間関係や復興途上の池袋という街の雰囲気、講和条約調印直前のかなり騒然とした時代を思わせる出来事もあって、いま思うと興味深い。
ツベルクリン
父の薬専時代の友人が葉山の一色で開業していて、遊びに来ないかのお誘いがあったらしく、家族みんなで「今年こそ」と楽しみにしていた。ところが、私はツベルクリン反応が陽性になってしまっていた。次兄からは心配とも脅かしともとれる?発言があったらしい。
「『光子、ようせいになったんだからあぶないよ、海水浴は日にあてられて、つかれるから一ばんいけないよ』としんぱいしてくれたが、私はいきたい。」(7月25日)
調べてみると、学校での一斉のツベルクリン検査もBCG接種も2003年の結核予防法改正により廃止になって、毎年の健康診断時の問診表によりツベルクリン検査やX線検査を実施してきたが、2012年からは、ツベルクリン検査自体が廃止されている。
小学校で、毎年?ツベルクリン検査とBCG接種を繰り返していたのはいったい何だったのだろう。反応の精度がきわめて低くかったからだという。現在は、結核感染の有無は別の方法が開発されているとのことだ。ちなみに、この1951年には、日本人の死因の1位だった結核が脳卒中のつぎの2位になったと発表されているが、結核はまだまだ猛威を振るっていたことは確かである。
結核の治療薬「パス」も市販され、店にパスのお客さんが来て、私が店にいたりすると父は店から奥に引っ込むように言われていたことも思い出した。
すいみつ・ばばな・すいか
「すいかははじめて食べるのです。いままでは、おなかをこわすからといって、たべませんでした。それからすいみつやばななはいちどもたべたことがありません。あじがわからないのでたべる気にもなりません」(7月27日)
そのころ、果物といえばリンゴとミカン、ナシくらいしか食べたことがなく、リンゴだと国光よりデリシャスが、ナシは二十世紀がごちそうであった。家では、桃、バナナ、柿は食べさせてもらえなかった。母は、いつも「おなかをこわすから」といって買ってはくれなかったのである。過保護というより、当時はぜいたく品だったからではないか。風邪で熱を出した時には、ミカンの缶詰を開けてくれるのがうれしかった。父は、ジョホールのゴム園時代の「完熟バナナを知ってるから、青いバナナを日本で黄色くしたバナナなんて食えたものではない」というのが口癖だった。
西の東横・東の西武
「今日は休みだったかなと思ったらやっぱりしまっていた。今度は西武デパートへ行くことにした。東横の品物はたいていケースにはいっているが、西武デパートでは手にとるようにできています。私はちょっとでもめづらしいと手にさわって行きました」(7月30日)
母と買い物に出て、池袋西口の東横が休みだったので、東口の西武に出かけた日である。東横の定休日は月曜だったのか。たしか西武が木曜、後にできた三越は火曜だった。
東横は、この日記の前年1950年にオープン、西武百貨店が出来たのは、1949年、その前身は、武蔵野デパートで、私にもかすかな記憶がある。天井の高い、広いスペースに品物が平置きされた市場のようであった。1946年夏、疎開先から、焼け跡に建てたばかりのバラックに住みはじめたころから、池袋西口駅前の闇市には、母に連れられて、よく出かけ、たしか下駄屋さんの奥で、「ヤミ米」をひそかに買っていたこともあった。
登校日?童話会
8月1日は、出欠自由の登校日だったのだろうか。「童話会」が開かれ、私の大好きだった「みかんの花咲く丘」の合唱の練習で、二部合唱の低音部を初めて知ったと書いている。次は担任の乙黒先生の「新吉の手がら」で、これは先生の創作ではなかったか。先生は学芸会で、自らの創作劇を演出していた。同じクラスから主役が抜擢されて、憧れもしたのだった。童話会の次の出し物はN先生の怪談だったらしい。
「N先生がこわい話をするといったら、私達はみんなしずかになりました。私は、こわい話やたんてい小説がすきですからいっしょうけんめいききました。ところが先生は小さな声を出してこわそうに話すし・・・」(8月1日)
夏休みの一日のために、先生方は熱心に創作や準備に関わっている様子は、今の学校事情からは想像ができない。
トマトオムレツ
「『晩ごはんにどんなおかずがいいか』いうとおかあさんは、なにかの本をもってきて『これがいいよ」といって「トマトオムレツ」と書いてあった。これならできそうなのでやってみることにした。はじめにトマトに熱湯をかけて、かわをむくことだった。おゆをかけてしばらくしてむくと、おもしろいようにトマトのあのうすいかわがむけます。・・・」(8月3日)
少し得意げなのが、見て取れる。母は、そのころ、『婦人の友』や『栄養と料理』などをときどき買っていたのを覚えている。父が「料理の本はいろいろあるけど、母さんの料理って、いつも同じだ」とか嘆いているのを聞いたこともあった。商店の主婦の忙しさは、おとなになって、私もわかるのだが、父の認識不足は続いていたのではないか。
豊島園~夢のレジャーランド
子どもの頃の遊園地となれば、豊島園だった。家族で出かけることも、いとこたちが田舎から上京すると、もてなし?の意味もあってよく連れ立って出かけ、ボートには何度か乗っている。この日は、母と次兄との三人で出かけている。
「豊島園なんてあきるほどですが、私にはなんとなく面白いのです。」
と書き出している。豊島園の花形はなんといってもウォターシュートだった。小舟が高いところから斜面を走って池へと飛び込むだけの単純な乗り物だった。池に着面する瞬間、船頭さんが飛びあがり、乗客とともに水しぶきを浴びる、というものだった。
兄は、家で初めて買ったマミヤの小型カメラでその水しぶきを撮り、兄と私も乗ったとある。また、私が初めて仔馬に乗った姿を兄はカメラに収めている。
「おじさんに『すいません、うつしますからちょっとどいて下さい』といって私と小馬をうつしました。私はなんか一人でのったつもりですましてとりました」(8月4日)
あの豊島園がなくなると聞いたときは、思い出がもぎ取られるようでさびしかった。いまは、何になっているのか・・・。
自転車とそろばん
その頃、近所の友だちとの外遊びといえば、自転車乗りだった。三角乗りから覚えた自転車だったが、走ると言っても、平和通りから路地に入った辺りをぐるぐる回るくらいのことで、途中で友だちを誘ったり、空き地にとめておしゃべりをするのが楽しみだった。また当時、塾といえばそろばん塾で、塾のバッチもあって、4級になったとか何級に受かったとかの話になると、私にはうらやましかったが、とうとう塾に通うことはなかった。近所の音楽の先生にオルガンを習ったり、低学年のとき絵を習ったりしたことはあったが、長続きしなかった。(つづく)
1階の一室のリフォームが始まるので、タンスを移動した。その小さな抽斗から、何枚かの新しい風呂敷が出てきた。その中の一枚に、私が短歌の手ほどきを受けた阿部静枝先生の一首が染められていた。「日の差せるまま時雨来ぬふるさとへ入る木の橋が白くながく見ゆ」であった。亡くなった数か月前に刊行された短歌研究社の短歌研究文庫『阿部静枝歌集』(1974年3月)の「地中以後」に収められている晩年の作。包み紙や箱でも残っていたらと思うが。おそらく前年10月14日、宮城県の出身地での歌碑除幕式(中田町石森伊勢岡神明社)の参加者に配られたものではないか、と思われる。ただ、歌碑の短歌とは異なるのだが。
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