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2024年6月29日 (土)

沖縄の離島の悲劇を忘れてはいけない―「慰霊の日」に(2)

ハンセン病者の人体実験が続けられていた!

 この稿を終わろうとしたとき、「ハンセン病開発中の薬、療養所で 副作用確認後も投与試験」の報道に接した(『朝日新聞』2024年6月25日)。熊本県「菊池恵楓園」の調査報告書の公表を受けての報道であった。園長室で薬剤「虹波」を服用させたり、半ば強制的に注射をさせたりする人体事件のようなことが戦中・戦後も繰り返されていたというのである。

 「菊池恵楓園」といえば、1952年、あるハンセン病患者が証拠不十分なまま逮捕され、不当な裁判を受け、その結果、死刑となった「菊池事件」を思い起す。この療養所の医師にハンセン病と診断され、療養所への入所を執拗に迫られた被告が村の衛生担当者を殺害したと疑われた事件である。逮捕後は、構内の仮拘置所に隔離され、療養所内の特別法廷においては、本人が否認する中、一度も出廷したことがないままに、第3次再審中の1962年9月、福岡拘置所への移送直後2時間後に死刑が執行されるという異例の事件であった。この事件の背景には、戦時下の「無らい県運動」を引き継いだような病者の強制隔離政策と差別助長の社会的風潮があったのである。

<詳しくは、以下を参照>
・熊本県HP 3-1.菊池事件
https://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/attachment/49316.pdf

・菊池事件略年表(菊池事件再審を求める会作成)
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 今回の報告書では「薬剤投与試験」1942年から開始されたとする。戦後も続けられたがいつまでかは不明で、調査中という。1943年アメリカでは新薬プロミンが開発され、1947年国内でも使用開始したにもかかわらず、1948年「優生保護法」で、ハンセン病者や障害者の断種や中絶が続き、1953年「らい予防法」では隔離政策は維持されていたのである。1996年「らい予防法」の廃止、2001年熊本地裁が「らい予防法」の違憲性、国家賠償請求を認め、国は控訴せず謝罪、「ハンセン病補償法」成立、2009年「ハンセン問題基本法」成立後も、さまざまな偏見と差別が続いているのが実態である。長島愛生園初代園長で、「無らい県運動」を率先して進めた、戦後も「らい予防法」での隔離政策を維持した医師光田健輔に1951年、文化勲章が授与されている。

なぜ、沖縄に、二つの国立ハンセン病療養所があるのか

 こうした日本のハンセン病小史を省みて、私の沖縄旅行で忘れられない一件がある。2017年2月、今は本島と橋でつながっている屋我地島の国立ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」を訪ねたときのことである。米軍機が兵舎と間違えて空爆がなされた愛楽園であったが、ここにも、病者への過酷な隔離と差別の歴史があった。

 私の「愛楽園」訪問の目的は、「癩」と皇室との関係への関心から、貞明皇后の「御歌(みうた)碑」を確認することだった。1932年11月、大正天皇の皇后、貞明皇后が「つれづれの友となりても慰めよ行くことかたきわれにかはりて」と詠み、この歌を全国のハンセン病療養所に下賜金とともに贈ったことから、歌碑が建てられたのである。「愛楽園」の10万坪近い敷地は出入り自由らしいので、地図と案内板を頼りにまわったものの、その歌碑を見つけることができなかった。海岸に出れば、水子の供養塔があり、思わずドキリとした。広い砂浜の先には小島や岩が点々とし、左には古宇利島への長い橋も見えた。その日は、交流会館の閉館時間も過ぎていたので、翌日、出直すことにした。通常の病院と変わらないたたずまいで、夕方とあって建物の間を白衣の人たちや配膳の人たちが行き来していた。

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 翌日、交流会館の展示で、「沖縄愛楽園」の沿革と国策によるハンセン病者の強制隔離と差別の実態をあらためて目の当たりにするのだった。

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米軍の空爆後、瓦礫と化した屋外で解剖がなされている。1945年7月10日米軍の撮影による

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1944年3月に着任した2代目愛楽園園長の早田晧は、7月から空襲時の避難壕の掘削を開始、手足の不自由な患者たちにも、掘ることを課し、病状を悪化する者が続出した。それが原因で、米軍の上陸後一年で死者が274人に上っている。下の銘板は自治会の名で1997年に建てられている。上の写真は、「早田壕」と呼ばれた壕の入り口の一つである。

 翌日、交流会館の展示を見て、「御歌碑」のたどった経緯も分かってきた。

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 上記の写真は、1932年11月に貞明皇后が詠んだ歌が全国のハンセン病療養所に下賜され、愛楽園では1943年2月に建立された「御歌碑」である。この写真説明には「絶対強制隔離政策の正当化と強化の役割を果たした」と明記されていた。皇室の威をかりての国策推進の典型といえよう。

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 上記の写真は、空爆による焼跡の中に立つ「御歌碑」だが、米軍の指示により、台座からはずされ、沖合の海に沈められたと説明されている。続いて、米軍は「国家神道」につながるものとして撤去を命じた、とも説明する。「国家神道」というより、GHQは、天皇、皇族崇拝につながるものとして撤去を命じたのではないか。

 案内の地図にある現在の「御歌碑」はどんなふうになっているのか、ふたたび構内を歩き回るのだが、見つからない。半分諦めかけていたところ、草ぼうぼうの広場の片隅に、思いもよらない姿をさらしていた。はじめは信じられなかったのだが、ボロボロになったブルーシートの間から、「貞明皇后」と読める文字、「つれづれの・・・」の文字も見える。

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 帰り際に、交流会館に寄って、係の人に尋ねてみた。見つけたのは古いもので、新しい歌碑があるのではないかとも。どこかあいまいな返答で、釈然としないまま、愛楽園を後にしたのだった。

 平成期の天皇夫妻が、1975年7月、皇太子時代に沖縄国際海洋博の開会式のために、沖縄に初めて訪問した際、沖縄愛楽園を訪問している。その時、「御歌碑」は再建されていたのか。横倒しの歌碑は、沈められた歌碑と石の形も台座も異なるところから、再建されたには違いないが、あのような姿になったのはいつだったのか。交流会館の前には、「高松宮妃殿下」「三笠宮妃寛仁殿下妃殿下」の記念植樹があった。

  あの「御歌碑」はどうなっているのか、気になっていた。2018年、沖縄愛楽園開所80周年の記事を見たので、園に電話してみた。「元の位置に戻しました、あの時はまだ工事中でして」とのことであった。工事中にしては、相当長い間放置されていた姿ではあった。正直なところ、自治会は、あのまま海に沈めてもよかったのではと思う一方、日本のハンセン病の歴史的遺構として、残されるべきものであったかもしれない。残す以上は、しっかりとその果たした役割を伝えてゆかねばならないと。

 なお、沖縄県には、もう一つ、宮古島に、国立ハンセン病療養所南静園がある。全国に13ある国立ハンセン病療養所のうち、二つが沖縄にあることになる。大正期の1916年8月、前述の光田健輔が多摩全生園の園長時代、西表島に3万人の患者を隔離できる候補地として、視察に来ている。収容人数の拡大と逃亡防止のためだったとするが、地元の猛反対行動に、逃げるように島を離れたとの、当時の報道もある。現在の沖縄の基地問題に共通するものがあるのではないか。
 

<以下もご参照ください>
冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(1)
沖縄、屋我地島、愛楽園を訪ねる(2017年2月14日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/02/post-eeb9.html

 

なぜ、貞明皇后だったのか

  また、なぜ、貞明皇后の「御歌碑」だったのかについては、以下の拙著も併せてお読みいただければと。

「貞明皇后の短歌が担った国家的役割 — ハンセン病者への<御歌>を手掛かりに」
『<パンデミック>とフェミニズム(新フェミニズム批評の会創立30周年記念論集)』翰林書房 2022年10月

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2024年6月26日 (水)

沖縄の離島の悲劇を忘れてはいけない―「慰霊の日」にふたたび(1)

 沖縄は、6月20日に梅雨が明けて、6月23日の慰霊の日前後の新聞は、『沖縄タイムス』と『琉球新報』はもちろん各新聞は、温度差があるものの、さまざまな形の特集や記事を掲載している。手元の四紙に目を通して思ったのは、式典の様子や平和の礎に祈る人々への取材がほとんどであった。

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左「沖縄タイムズ」【2024年6月23日」臨時号
右「東京新聞」(2014年6月24日)より

 中に一つ、東京新聞の「集団自決 息絶えた母」は、渡嘉敷島へ米軍が上陸した際、日本軍が住民を集め、手りゅう弾を渡し、集団自決を迫ったという事件を報じている。母と弟を目の前で殺された遺族の姉妹に取材した記事だった(2024年6月24日)。死にきれなかった者は、日本兵や身内が手をかけ殺すといった凄惨な場面を目撃した姉妹は死んだふりをして難を逃れたという。渡嘉敷島の住民にとって「慰霊の日」は、集団自決がなされた3月28日であった。90歳と86歳の姉妹は、6月23日に「平和の礎」を訪れ、日本軍への怒りと悲しみを新たにしたとある。

渡嘉敷島へ~欠航の合間に

 2017年2月初旬、私たちは、夫の強い要望で渡嘉敷島へ渡ったのは、村の人口よりやや多い、700人以上のマラソンランナーたちが去った直後だった。高速船は欠航だったが、波に強いというフェリーで出港、内海を出ると、甲板にいた私たちは波しぶきを浴びた。島では、タクシーの女性運転手のガイドによって、「観光案内書」にはないコースを巡ることになった。

  大江健三郎の『沖縄ノート』(岩波書店 1970年)を巡る裁判や教科書裁判で争われた「集団自決」について少しでも知りたいと思ってのことだった。渡嘉敷村のHPには、以下のように記されている。「パニック状態に陥り」「かねて指示されたとおりに」「集団を組んで」と、曖昧な表現となっている。

「3月27日には渡嘉敷島にも上陸、占領し、沖縄本島上陸作戦の補給基地として確保しました。日本軍の特攻部隊と、住民は山の中に逃げこみました。パニック状態におちいった人々は避難の場所を失い、北端の北山に追込まれ、3月28日、かねて指示されていたとおり、集団を組んで自決しました。手留弾、小銃、かま、くわ、かみそりなどを持っている者はまだいい方で、武器も刃物ももちあわせのない者は、縄で首を絞めたり、山火事の中に飛込んだり、この世のできごととは思えない凄惨な光景の中で、自ら生命を断っていったのです。」

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 一方、1979年、曽野綾子らによって建立されたのが「戦跡碑」であった。その碑文には、一家が集団自決をする凄惨な場面が記述されたあとに「そこにあるのは愛である」という文言が唐突であり、いささか驚いた。

 27 日、豪雨の中を米軍の攻撃に追いつめられた島の住民たちは、恩納河原ほか数か所 に集結したが、 28 日敵の手に掛かるよりは自らの手で自決する道を選んだ。一家は或いは、 車座になって手榴弾を抜き或いは力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは 愛であった。この日の前後に 394 人の島民の命が失われた。 その後、生き残った人々を襲ったのは激しい飢えであった。(中略)  315 名の将兵のうち 18 名は栄養失調のために死亡し、 52 名は、 米軍の攻撃により戦死した。 昭和 20  8  23 日、軍は命令により降伏した」

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赤丸が訪ねたところ、黒丸が訪ねたかったところです。

以下の当ブログの過去記事もご覧いただければと。
 冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(5)「アリラン慰霊のモニュメント」をめぐる 2017.02.24

 冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(4)渡嘉敷村の戦没者、集団自決者の数字が錯綜する、その背景 2017.02.22

 冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(3) 2017.02.19

 

伊江島で何が起きていたのか

  2016年6月、本部(もとぶ)港から伊江島に渡っている。島の中央に突起したグスク山を目指し、フェリーで30分の船旅であった。島内は地元出身の運転手さんに案内してもらったが、今やリゾート地としての島、百合の花の島、伊江牛の島が自慢らしかった。

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 伊江島に米軍が上陸したのは1945年4月16日、六日間の激戦の末、4月21日には占領された。本島に疎開できず残っていた島民の半数近くの1500人、兵士2000人が犠牲となった。米軍は、伊江島の滑走路が何としても欲しかったという。その後、米軍は、「銃剣とブルドーザー」により島民の土地を収用、島民は追い出され、米軍基地がおかれた。一時は全面返還の話もあったが、現在も島の3分の1以上が米軍基地である。その四分の三600ヘクタールの私有地には、防衛省が地代を払い続け、1800人ほどの地主に、毎年16億の予算が付けられている。基地内には「黙認耕作地」というものがあって、耕作地、住宅地にも利用されている。
 なお、案内の運転手は、「地代が年に1000万以上の農家もざらにいるさ」とも話していたが、実際は、6割以上の地主は、100万以下ともいう。また、基地内の私有地が、不動産屋により売買され、「絶対返却されることはない」からと投資の対象にもされている。

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 1961年、「伊江島の土地を守る会」が発足、米軍に対する非暴力による抗議運動の根拠地となった団結小屋である。もちろん今は無人で、外壁には、大きな文字で、伊江島の土地を守る会、そしてその運動の中心だった阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう/1901~2002年)からのメッセージが書かれている。

ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(4)伊江島1(2016年 月17日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/07/post-2b26.html

ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(5)伊江島2
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/07/post-4891.html

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 1948年8月6日、米軍の上陸用舟艇に積まれていた未使用砲弾が爆発、島民107名の犠牲者を出した。地上戦で生き残った島民の命が奪われた大惨事であった。

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苛烈な激戦で、
唯一残骸をさらしている「公益質屋」。1929年の世界恐慌は、島民の暮らしを直撃し、高利貸しに苦しむ村民に、村が設けた質屋であった。

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ガマの一つ、手前の平らな部分が広く、多くの人々が潜んでいた。

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『毎日新聞』(2024年6月20日)の記事では、1943年日本軍は伊江島に飛行場建設を決定、戦況が悪化する中、要塞化を進め、1945年4月16日米軍上陸後は、軍は住民を巻き込み、多くの犠牲者を出した。毎日新聞は、このシリーズで、6月21日は、与那国島出身の大舛松市大尉の戦死を軍神とあがめ、戦意を高揚した同調圧力を、22日には、波照間島の島民が強制避難した先でマラリアに感染、島民の3割に当たる477人が犠牲になったことを報じていた。

 

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 私が6月23日の追悼式に参加したのは2016年だったから、すでに8年も経つ。会場に入るのは二重のチェック、式典後の帰りのバスから見た会場周辺の光景、青い制服の警備スタッフがが延々と続く。安倍首相の時代である。ことしはどうだったのだだろう。

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 私のわずかな沖縄体験ながら、沖縄本島はもちろんだが、伊江島、屋我地島、渡嘉敷島を訪ねただけでも、多くを知り、考えさせられることも多々あった。次回は、国立ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」のある屋我地島について書いておきたい。

 

 

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2024年6月20日 (木)

女川原発2号機、9月に再稼働か―電気料金が安くなる?

 6月13日、東北電力は、 女川原発2号機の安全対策工事を完了したと、報道陣に公開した。多くの新聞は、翌日、高さ29メートル、長さ800mの防潮堤の写真とともに報じている。9月の再稼働を目指しているという。

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海抜29m、800mの防潮堤。東日本大震災前の敷地の海抜は14.8m、津波の予想最高水位は23.1mにそなえたというが。『福島民友』(2024年6月14日)より。

 しかし、事故が発生した場合の避難計画は課題が残ったままである。石巻市になる牡鹿半島先端の住民たちは孤立する。女川町内では東日本大震災時の津波で道路が寸断され、孤立した地域があった。大震災時は、原発3機を擁した敷地内施設に、数百人もが避難していたという危険を冒していたことを、私などは5年後現地に行って初めて知った。もちろん、シェルターがあるわけではない。

 避難経路対策の不備ばかりでなく、地元のみやぎ脱原発・風の会によると、以下のような問題があるという。東北電力、宮城県知事あての要望書、質問書、それへの回答書などを通読した限りなかなか難しいのだが、私の理解の範囲では以下が重要らしい。
① 2021年7月12日の硫化水素流失事故を踏まえて、検出・警報装置の設置、有毒ガス防護・再発防止策がなされていないこと
②女川原発周辺での地震は、活断層によるものはなく、海洋プレート内地震とされているが、活断層の有無も調査検討が必要なこと。

 いずれも、2024年1月1日の能登半島地震による志賀原発の被害を教訓として、これらが解決しない限り再稼働はあってはならないとするものである。

 またさらに、東北電力は、女川原発2号機の再稼働にあたり、つぎのような試算を示した。

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『河北新報』オンライン(2024年1月29日)より。
参考
:原子力発電費1352億円+他社からの購入費265億円=1617億円
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億円÷販売電力量689億キロワット時=2.35
総原価19743億円÷年間発電量38.67億キロワット時=41.82円(1キロワット時)、日本卸売電力取引所20.37円(1キロワット時)

 これらを分析すると、標準家庭で電気料金が月額で140円値下げができることになるという。
  ところが、つぎの記事によれば、消費者庁電気料金アドバイザー大島堅一の試算では、年間経費1617億円を年間販売電力量689キロワット時で割り、標準家庭月額を計算すると611円になる。決して値下げとはならないと

 東北電力はこれらの見解に対して、試算は当面3か年のもので、2号機の発電経費だけでなくその他の経費を含めた上の算定で、前提が違うし、中長期的にみれば、電力の安定供給を確保できるものである、とする。

東北電の原発費用、電気料金を底上げ 女川2号機再稼働しても…引き下げ効果の約4倍に | 河北新報オンライン /2024年1月29日
https://kahoku.news/articles/20240127khn000055.html

 なお、今回初めて知って、驚いたことがいくつかあった。一つは、試算の表の中に出て来る「他社からの原子力発電購入電力料:265億円」の存在である。東北電力は、かつて受電していた東京電力の柏崎刈羽原発1号機は休止しているが再稼働の申請もしていないし、日本原子力発電の東京第二発電所は、地元の同意を得られず再稼働のめどが立っていない、にもかかわらず、両原発に契約上維持費ということで、毎年支払っており、これからも払い続けるらしい。現在の契約内容は、競争上、あるいは守秘義務により明らかにできない、とする。一つは、JEPX(日本卸売電力取、現理事長金本良嗣)というものがあって、例えば女川原発2号機再稼働した場合の1キロワット時の単価の二分の一くらいになるという。私には、まだ実態が分からないが、各電力会社が日常的に依拠できることが可能なのだろうか。 

 いずれにしても、原発頼みの地域経済、女川町にはかつて21の浜があって、漁業が盛んであった。大震災では、以降、人口約1万人は半減、6000人弱、死者は827人、約90%の家屋が被害を受け、ほとんどが全壊となった。復旧にあたっては、海の見える町を目指して高い防潮堤は建設せず、土地のかさ上げによって実現した。原発による固定資産税、原発関係者の居住や消費が町の財政に欠かせない事態に至っている。

 今年の2月にも、女川町が震災復興のモデルのように絶賛した番組「羽鳥モーニングショー」に疑問を呈した記事を書いている。
女川の町は、いま~被災地復興 のモデル?(2024年2月13日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2024/02/post-f07644.html

 女川町には、たった一度しか訪ねていないが、どうしても気になってしまうのは、1968年に、東北電力が原発を女川町小屋取に建設を決定して以来、親子二代にわたって建設反対運動に取り組んでこられた阿部宗悦さん、阿部美紀子さんのことを知ったからである。次の記事と重なるが、美紀子さんは現在町議会議員三期目、2022年『原発のまち 50年のかお』を編集した。

写真集『原発のまち 50年のかお』の勁さとやさしさ(2022年11月22日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/11/post-3f4728.htm

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写真集『原発のまち 50年のかお』(一葉社 2022年11月)表紙、1976年9月23日、女川原発絶対阻止三町(女川・牡鹿・雄勝)連合決起大会。

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1976年6月23日、女川町主催の漁業説明会、阿部壮悦さんと美紀子さん。美紀子さんの近況は以下にも。
「機動隊が盾で殴るんだよね」“原発頼み”の町が強いられた50年前の分断と、迎える再稼働のとき | tbcニュース│tbc東北放送 (1ページ) (tbs.co.jp)

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2024年6月17日 (月)

1960年6月15日、その頃何を考えていたか・・・。

 数年前にも、当ブログに以下の記事を書いた。状況としては、何も変わってはいない。内閣支持率が10%台になっても(6月の時事通信世論調査16.4%)、国の行方に対して、危機感というものがなく、議員たちは自分の選挙での当落だけを考え、お金の算段に血眼なのである。政党資金規正法改正にしても、パーティー券購入先の氏名・職業公表がなぜ5万円以上なのか、政策活動費の公開がなぜ10年後なのか、委員をいつ誰が選ぶのかわからない第三者機関設置なのか、施行が2年以上先の2027年1月1日なのか、目くらましにもならない法案で決着を図りたい自民・公明・維新なのである。議会の多数決だけで「政治」が動く。                                                                                                                                   

615日、思い起すこと(2019616日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/06/post-fd0e28.html

  64年前の6月、あの時の社会の、時代の雰囲気は、どうしたら伝わるのか、私自身、どう受け止めていたのか、いつも考えてしまう。「安保反対」「岸を倒せ」闘争のきわめて個人的な体験と感想をくり返すにとどまっている。これまでの記事と重なる部分もあるのだが。

 1960年5月19日、夜10時過ぎ、衆院安保特別委員会の質疑打ち切り、新安保条約、日米地位協定などを単独可決、警官隊を導入、午前0時直前に衆院本会議で会期延長を自民党の単独採決、日付が変わった0時06分からの衆院本会議で日米相互協力・安保条約、駐留・地位協定、関連法案が討論なしで、自民単独、全員起立で可決している。直ちに参議院に送られているが、いずれにしても1か月後には自然承認されてしまうのだ。

 6月以前にも、学内でのクラス討論、学内集会、全学連反主流派集会へ出向き、安保阻止国民会議の請願デモ。私は少なくとも「請願」するという「自覚」もなく参加していたと思う。参加者の流れに添って、議員面会所にタスキをかけて立って迎える議員の前で、気勢をあげた。誰かが請願書なるものを渡していたのだろうか。背後の車道では、全学連主流派と呼ばれる学生たちの列の先頭の数人は一本の棒を握り、隊列をびっしり整え、ジグザグ行進を始める。その息の荒さと熱気に圧倒されていた。5月19日の深夜まで議事堂を囲んでいたデモには参加した記憶がない。

 私が何度も参加していた請願デモは、聞き知ってはいたが、後に知る、清水幾太郎の「いまこそ国会へ―請願のすすめ」で、われわれの手に何が残されているのか、「今こそ国会は行こう。請願は今日にも出来ることである。誰にでも出来ることである。・・・国会議事堂を幾重にも取り巻いたら・・・、そこに、何物も抗し得ない政治的実力が生まれて来る」(『世界』5月号特集<沈黙はゆるされるか>1960年4月)という呼びかけに影響を受けていたらしい。そして、規制のゆるい車道では、手をつないで車道いっぱいに広がって行進する「フランスデモ」になることが多かった。たいていは右も左も学友だったのだが、見ず知らずの人と手をつなぐこともあった。なんで<フランス>デモだったのか、近年のフランスでのデモは、いっそう過激になっているのに。

 私の記憶が鮮明なのは、「ハガチー事件」と称されるものだ。6月10日、羽田空港出口の弁天橋近くに、アイゼンハワー米大統領の来日を控えて、大統領秘書広報担当ハガチーの到着を待つべく、自治会の支持のもと、道路わきに座り込みをしていた。ハガチーが乗っている車は道をふさがれ、車の上にかけ上がる者もいて混乱、立ち往生していたが、意外と早く、米軍のヘリコプターがやって来て、マッカーサー駐日大使らとの一行は脱出した。ヘリコプターの着地や発着のときに巻き起こす風は強烈で、多くの参加者は、仰向けに吹き倒され、私は恐怖すら感じた。それくらい近くに座り込んでいたのだろう。帰宅して肘に擦り傷を負っているのに気づいた。私が目の当たりにした現場の光景は、いったい何だったのか。計画的な行動だったのか、偶発的なものだったのか。いまでもわからないが、翌日の新聞は、こうした暴力的行為は、国の恥、国際的にも非礼極まりないという論調であった。国論を二分する日米安保条約であったし、議会が機能していないこの時期に、アメリカの大統領を招くために、警備を強化するという政府こそ、暴挙に近いのではと素直に思ったものだ。

 6月13日夜、川崎市の日本鋼管川崎製鉄所労組事務所と東京教育大学自治会室に家宅捜索が入ったのを新聞で知った。在学の自治会室に「安保阻止東京都学生自治会連絡会」の事務局があったのも、初めて知ったのだった。

 そして、6月15日の樺美智子さんの惨事が起きる。その夜、私は別件で出かけていて遅い夕食のお蕎麦屋さんのテレビで事件を知って、そのショックは大きかった。それに加えて6月17日の朝刊一面の、在京新聞社七社の「共同声明」にも衝撃を受けた。「暴力を排し、議会主義を守れ」と題され「六月十五日夜の国会内外における流血事件は・・・」で始まり、「民主主義は言論をもって争わるべきものである。その理由のいかんを問わず、またいかなる政治的難局に立とうと、暴力を用いて事を運ばんとすることは断じて許されるべきではない」とし、政府の責任とともに、「社会、民社両党」の責任も問うていた。警官隊を導入しての単独採決は暴力ではなかったのか、国会周辺のデモ隊への機動隊の行動は暴力とは言えないのか。何とも納得しがたく、マスコミへの信頼が失墜した。

 その後、みずず書房の広報誌『みすず』で始まった小和田次郎の「デスク日記」を読んでいくと、ほぼ同時進行するマスコミ内部の様相、政治権力からの圧力にひれ伏しているのかも知るようになった。

 そして、私の最初の就職先、学習院大学政経学部研究室勤務により、清水幾太郎の実像の一端に接することになる。以下の当ブログの記事もご覧いただければと思うが、戦前からの足跡をたどれば、みずからも「マスコミ芸人」と称するだけあって、その変わり身のはやさに驚いたのであった。

 メデイアの中の「知識人」たち~清水幾太郎を通して考える(1)(2020年8月18日) 
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/08/post-c87232.html

メデイアの中の「知識人」たちー清水幾太郎を通して考える(2)2020年8月18日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/08/post-6bcb67.html


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『図書新聞』【2010年7月31日】所載の江刺昭子『樺美智子 聖少女伝説』。この書評を通じて、私の中で、少し整理されたかなと思う、50年前のできごとであった。

樺美智子 聖少女伝説』
等身大の活動家から何を引き継ぐべきか

 偶像化への異議申立て、なるか 

副題の「聖少女伝説」、帯の「60年安保 悲劇の英雄(ヒロイン)の素顔」の文言にも見られるように、没後五〇年、六〇年安保世代を当て込んだような出版元の宣伝が目についた。が、本書の著者は、資料や関係者の証言に添う形で、樺美智子の実像に迫り、「60年安保闘争の唯一の死者として、伝説の人物として、聖化され、美化され」(14頁)半世紀を越えることへの異議申立てを試みたと言えよう。

本書は6章からなり、1・2章では、一九三七年生れの美智子の恵まれた生い立ちと一九五七年東京大学に入学、二〇歳で日本共産党に入党し、活動家としての出発までが描かれる。3章・4章では、共産党内の分派活動家たちによる「共産主義者同盟」(ブント)へ参加、一九六〇年六月一五日の死の直前までが検証される。教養学部時代は、地域の労働者の勤務評定反対運動などを支え、国史学科へ進む。警職法反対闘争に加えて、日米安保改定反対運動が国民的にも盛り上りを見せるなか、美智子は、一九六〇年一月岸首相の訪米阻止のため空港食堂に籠城、検挙を体験、政治的な使命感をさらに強めることになる。5章「六月一五日と、その後」6章「父母の安保闘争」では、美智子の死の前後と周辺の動向が検証される。その死をめぐっては、国会構内での学生・警官隊の動き、解剖結果の死因―圧死か扼死―を巡る対立、実在しない至近学生の証言報道などの問題が提起される。「国民葬」の経緯や活動家のその後などと遺された両親の苦悩と各々の死まで担った政治的な役割についてたどる。

美智子自身の思想形成、当時の学生運動における革新政党や分派による主導権争いなどに触れている部分はあえて割愛した。まじめで勉強好きな女子学生が自覚的に傾倒してゆく社会主義的思想、正義感や使命感が格別強かった青年の行動を、私は否定することができない。同時に、二年ほど年下にあたる評者には、六〇年の日米安保改定反対闘争の結末が樺美智子の死だけに集約され、当時の多くの市民たちの多様な行動や声が掻き消されてしまうことに危惧を覚えたのも事実である。

「聖少女伝説」化がなされた過程への考察が、本書ではやや不明確なのが気になった。伝説形成の基底には二つの要素が絡み合っているのではないか。まず、一九六〇年六月一七日の朝刊に掲げられた「暴力を排し 議会主義を守れ」という在京新聞七社共同宣言について、本書では「新聞論調は全学連に批判的であった」(241頁)とあっさりとしか触れられていない。この「共同宣言」に象徴されるマス・メデイアの大きな転換、マス・メディアの責任が問われるべきだろう。宣言の「その事の依ってきたる所以を別として」「この際、これまでの争点をしばらく投げ捨て」の文言に見られるように、「事件の原因を探求し、責任の所在を突きとめ、解決の道を明らかにすべきジャーナリズムの基本姿勢を放棄」し、時の政府を免罪し、暴力批判という形で大衆運動を抑圧する側にまわった、という重大な転機(小和田次郎ほか『戦後史の流れの中で 総括安保報道』 現代ジャーナリズム出版会 一九七〇年 二六九頁)への自覚や反省が薄れていることを指摘したい。五月一九日の暴力的な日米安保改定強行採決を目の当たりにした国民の危機感が高まるなか、政府、財界からのマス・メディア工作・統制、さらには自主規制さえ露骨になった事実と皇太子の婚約に始まる皇室慶事祝賀モードへの流れの結果でもあった。以降、マス・メディアは、六月一九日に条約が自然承認された後の「挫折感」がことさら強調され、さらに今日まで「新日米安保条約」の内容自体についての論議が遠ざけられ、樺美智子の追悼と偶像化を一種の逃避として利用してきた欺瞞性はなかったか。

また、当時「新日米安保条約」に反対した人々のなかには、高度経済成長の担い手となり、その恩恵を享受する過程で、贖罪をするかのように樺美智子を美化する人も少なくない。美智子への称賛を惜しまなかった活動家や知識人たちが、保守派の論客になったり、会社経営や大学行政に携わったりしながら、その一方で「伝説化」に加担している場面に出会うことにもなる。また、当時、まったくの傍観者であったか、無関心であった人たちまでが、たんなる感傷やノスタルジィに駆られて、その偶像化に酔うこともある。こうした風潮が、今日まで「日米軍事同盟」の本質的な論議を回避し、沖縄の基地を放置し、「抑止力」なる幻想をいまだに引きずる要因になってはいないだろうか。

筆者は、現代の若者たちに、一九六〇年前後、日本の未来を真剣に考えていた青年たちや市民たちの等身大の姿を伝えたいと思った。本書が、自身を含め、多くの読者が自らの足跡を真摯に省み、今後なにをすべきなのかを考える一冊になればと願う。

(『図書新聞』2010年7月31日号所収)

 

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2024年6月15日 (土)

菅沼正子さんから「デボラ・カー」が届きました。

 久しぶりに届いた「今も輝くスター55(10)デボラ・カー」は以下をご覧ください。

ダウンロード - e4bb8ae38282e8bc9de3818fe382b9e382bfe383bc55e3809010e38091e38387e3839ce383a9e383bbe382abe383bc.pdf

 私にとってのデボラ・カーも「地上より永遠に」です。「ここよりとわに」と読む題名がかっこいい、と思ったものだった。 何しろ、男優たちがスゴイ。私の関心はそちらへ。バート・ランカスター、モンゴメリー・クリフト、フランク・シナトラに、ここでは悪役のアーネスト・ボーグナイン。モンゴメリー・クリフトは、元ボクサーで、相手を失明させたという過去を持つ、翳のある兵士を演じている。日本の軍隊ものと違うのは、閉鎖的な軍隊という組織の腐敗を、アメリカ映画はどこか、余裕をもって描いていたことになるのかなと、いま思う。

なお、左画面のマイリスト「すてきなあなたへ」ではこれまでの第一回からまとめて10本を順次読むことできます。

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2024年6月 6日 (木)

赤い羽根と緑の羽根と~募金の向こう側で

 「赤いきつねと緑のたぬき」ならぬ「赤い羽根と緑の羽根」が、いまだに、地域の自治会を悩ませているという。班長が各世帯を回って、対面で定額の募金を徴収する場合も、班長の負担をなくすため、自治会費に上乗せしたり、自治会財政の中から全世帯分を募金として天引きしたりする場合は、本来自由であるべき「募金」や「寄付」を否応なしに徴収されることになり、各地で異議が噴出しているとも報じられている(「強制される善意 緑の募金 自治会費天引き」『毎日新聞』2024年5月16日)。

 前者の事例では、顔見知りのご近所さんとのトラブルは避けたい、断りにくいという悩みを持ち、後者の事例では、有無をいわさず強制的に自動的に募金させられていることは納得できない、募金の分を返還して欲しいなどの不満が鬱積している住民も多いのではないか。

 しかし、自治会の総会や意見を言う場所で、そうした悩みや疑問を表立って発言する人は稀で、たとえ、そうした意見が出たとしても、多くは役員会などでは、慣例重視、隣接自治会との横並びということで、無視される場合が多い。私も自治会活動をする中でいやというほど体験した。

 私は、地域の自治会にかかわっていた20年ほど前に、佐倉市の社会福祉協議会と日本赤十字社の一世帯一律500円を班長さんが集金していた慣例を、役員・班長さんの協力で、募金は自由であることを前提に、募金袋を手渡しで回し、募金をしたい人が自由な金額を入れてもらう方式にして、今は定着している。佐倉市共同募金会支会長名と佐倉市社会福祉協議会長名で「お願い」がくる「赤い羽根」の共同募金も同様だが、「緑の羽根」募金については、幸いにも自治会で実施されたことがない。

 そもそも、こうした募金が行政を通じて地域の自治会や町内会に丸投げするという、いわば「家庭募金」の実施に地方自治体が加担すること自体が、自由意思による募金の精神に反している。

 かつて、市の担当者に、なぜ、そうした募金活動を自治会に担わせるのか、少なくとも、強制するような形での募金はしないように、行政として明確に指示してほしいと、申し入れしたことがある。たしかに、自治会・町内会役員の手引きなるものに、「あくまでも会員の自由意思による」と付記されるようになった。社協や日赤の募金の「協力お願い」文書にも「自由意思」の文字が見受けられる。しかし、一世帯500円を目途に集金したり、自治会からまとめて世帯分を天引きしたりする自治会が多いのが実態である。

「緑の羽根」の募金主体は、公益社団法人「国土緑化推進機構」に設置された「緑と水の森林ファンド」である。「国土緑化推進機構」は農水省の外郭団体で、その役員の出身を調べてみると、みごとに、農水省、とくに林野庁官僚の天下りの受け皿になっていることがわかる。常勤の常務理事・専務理事は、1200万円以上の年俸と多額の退職金が用意されている。今の理事長は、前東大総長の浜田純一とか。植樹祭(1950年~)、育樹祭(1977年~)、開催と各地の緑化運動への助成、「緑の募金」関連活動なのである。

 さらに、2024年6月2日には岡山県での全国植樹祭に天皇夫妻が出むいたニュースは、まだ覚えている人も多いだろう。全国育樹祭は昨年10月11・12日,茨城県でおこなわれ秋篠宮夫妻が出かけていて、そういえばそんなニュースを思い出す。ことしは10月19日福井県で行われる。この二つの行事は、負担が大きいと問題になっている国民体育大会と同様、都道府県の持ち回りなのである。国体も含めて、天皇、皇族が出向くことで共通する。主催団体は、皇族を利用、あるいは宮内庁が皇族の出番を定例化しているのではないか。

 また、林野庁は各種団体と共催で、「みどりの感謝祭」というものを開催、ことしは、八王子市で秋篠宮佳子さんが出向いている。

 「国土緑化推進機構」では、「緑の羽根」募金が始まると、「みどりの大使」とかのミス東京が首相の胸に「緑の羽根」を着けるなどが恒例になっているらしく、こんなことを知ると、なぜか馬鹿らしくなってくる。

 かつては25億ほど寄付が集まっていたが、近年は、19億~20億円と減少している。だからと言って、間違いなく官僚の天下り先になっていて、皇族を利用している「国土緑化推進機構」に安易に寄付するものではないし、まして強制的な手段での募金に対しては声を上げなければならない。

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雑草がぼうぼうだった庭の一画を、連れ合いが突如、土を掘り起こし、1週間ほどかけて腐葉土や培養土を混ぜ、ピーマン、トマト、ナスを植えた。無事育ってくれればと。

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