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2024年6月20日 (木)

女川原発2号機、9月に再稼働か―電気料金が安くなる?

 6月13日、東北電力は、 女川原発2号機の安全対策工事を完了したと、報道陣に公開した。多くの新聞は、翌日、高さ29メートル、長さ800mの防潮堤の写真とともに報じている。9月の再稼働を目指しているという。

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海抜29m、800mの防潮堤。東日本大震災前の敷地の海抜は14.8m、津波の予想最高水位は23.1mにそなえたというが。『福島民友』(2024年6月14日)より。

 しかし、事故が発生した場合の避難計画は課題が残ったままである。石巻市になる牡鹿半島先端の住民たちは孤立する。女川町内では東日本大震災時の津波で道路が寸断され、孤立した地域があった。大震災時は、原発3機を擁した敷地内施設に、数百人もが避難していたという危険を冒していたことを、私などは5年後現地に行って初めて知った。もちろん、シェルターがあるわけではない。

 避難経路対策の不備ばかりでなく、地元のみやぎ脱原発・風の会によると、以下のような問題があるという。東北電力、宮城県知事あての要望書、質問書、それへの回答書などを通読した限りなかなか難しいのだが、私の理解の範囲では以下が重要らしい。
① 2021年7月12日の硫化水素流失事故を踏まえて、検出・警報装置の設置、有毒ガス防護・再発防止策がなされていないこと
②女川原発周辺での地震は、活断層によるものはなく、海洋プレート内地震とされているが、活断層の有無も調査検討が必要なこと。

 いずれも、2024年1月1日の能登半島地震による志賀原発の被害を教訓として、これらが解決しない限り再稼働はあってはならないとするものである。

 またさらに、東北電力は、女川原発2号機の再稼働にあたり、つぎのような試算を示した。

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『河北新報』オンライン(2024年1月29日)より。
参考
:原子力発電費1352億円+他社からの購入費265億円=1617億円
1617
億円÷販売電力量689億キロワット時=2.35
総原価19743億円÷年間発電量38.67億キロワット時=41.82円(1キロワット時)、日本卸売電力取引所20.37円(1キロワット時)

 これらを分析すると、標準家庭で電気料金が月額で140円値下げができることになるという。
  ところが、つぎの記事によれば、消費者庁電気料金アドバイザー大島堅一の試算では、年間経費1617億円を年間販売電力量689キロワット時で割り、標準家庭月額を計算すると611円になる。決して値下げとはならないと

 東北電力はこれらの見解に対して、試算は当面3か年のもので、2号機の発電経費だけでなくその他の経費を含めた上の算定で、前提が違うし、中長期的にみれば、電力の安定供給を確保できるものである、とする。

東北電の原発費用、電気料金を底上げ 女川2号機再稼働しても…引き下げ効果の約4倍に | 河北新報オンライン /2024年1月29日
https://kahoku.news/articles/20240127khn000055.html

 なお、今回初めて知って、驚いたことがいくつかあった。一つは、試算の表の中に出て来る「他社からの原子力発電購入電力料:265億円」の存在である。東北電力は、かつて受電していた東京電力の柏崎刈羽原発1号機は休止しているが再稼働の申請もしていないし、日本原子力発電の東京第二発電所は、地元の同意を得られず再稼働のめどが立っていない、にもかかわらず、両原発に契約上維持費ということで、毎年支払っており、これからも払い続けるらしい。現在の契約内容は、競争上、あるいは守秘義務により明らかにできない、とする。一つは、JEPX(日本卸売電力取、現理事長金本良嗣)というものがあって、例えば女川原発2号機再稼働した場合の1キロワット時の単価の二分の一くらいになるという。私には、まだ実態が分からないが、各電力会社が日常的に依拠できることが可能なのだろうか。 

 いずれにしても、原発頼みの地域経済、女川町にはかつて21の浜があって、漁業が盛んであった。大震災では、以降、人口約1万人は半減、6000人弱、死者は827人、約90%の家屋が被害を受け、ほとんどが全壊となった。復旧にあたっては、海の見える町を目指して高い防潮堤は建設せず、土地のかさ上げによって実現した。原発による固定資産税、原発関係者の居住や消費が町の財政に欠かせない事態に至っている。

 今年の2月にも、女川町が震災復興のモデルのように絶賛した番組「羽鳥モーニングショー」に疑問を呈した記事を書いている。
女川の町は、いま~被災地復興 のモデル?(2024年2月13日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2024/02/post-f07644.html

 女川町には、たった一度しか訪ねていないが、どうしても気になってしまうのは、1968年に、東北電力が原発を女川町小屋取に建設を決定して以来、親子二代にわたって建設反対運動に取り組んでこられた阿部宗悦さん、阿部美紀子さんのことを知ったからである。次の記事と重なるが、美紀子さんは現在町議会議員三期目、2022年『原発のまち 50年のかお』を編集した。

写真集『原発のまち 50年のかお』の勁さとやさしさ(2022年11月22日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/11/post-3f4728.htm

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写真集『原発のまち 50年のかお』(一葉社 2022年11月)表紙、1976年9月23日、女川原発絶対阻止三町(女川・牡鹿・雄勝)連合決起大会。

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1976年6月23日、女川町主催の漁業説明会、阿部壮悦さんと美紀子さん。美紀子さんの近況は以下にも。
「機動隊が盾で殴るんだよね」“原発頼み”の町が強いられた50年前の分断と、迎える再稼働のとき | tbcニュース│tbc東北放送 (1ページ) (tbs.co.jp)

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