「大塚金之助の短歌と天皇制」を書きました―『大塚会会報』最終号!
・人間が 神になったり その神が 人間になる 国なのである
・君のしずかな 態度の底に 暴力を ひそませているのを 見のがしはしない
(『日本評論』25巻1号 1950年1月)
1977年に亡くなられた、経済学者大塚金之助の短歌です。このたび『大塚会会報』最終号(53号 2024年8月)に「大塚金之助の短歌と天皇制」を書きました。
大塚金之助の一橋大学、明治学院大学、慶應義塾大学の教え子の方々が相寄って「大塚会」を発足、1981年に『大塚会会報』を創刊しています。私は、どの大学ともご縁があったわけではないのですが、「短歌に出会った男たち―大塚金之助」(『風景』57号 1995年7月)を目にとめられた水野昌雄さんのお誘いで、会友として入会いたしました。その後、「大塚金之助の留学詠」(『大塚会会報』40号 2013年8月)などを寄稿しています。武田弘之さんの『群青』に連載中の「歌人・大塚金之助ノート」を読んではいましたが、あまり熱心な読者ではなかったように思います。ただ、「獄窓の歌」に感銘を受け、大塚金之助に関心を持つようになりました。
会報には、歌人では、武田さん、水野さんのほか、三井修さん、田中綾さんたちが寄稿されていたように思います。今回、大塚会の解散を機に最終号への原稿依頼がありました。締め切りが6月末日ということもあり、短いものを送りましたところ、なんと、8月25日に出来上がって届いたのです。その手際の速さに驚いてしまいました。創刊号より編集をされていた戸塚隆哉さん、長い間、ほんとうにありがとうございました。
拙稿は、以下で読むことができます。
大塚金之助の短歌と天皇制
私が大塚金之助の短歌に出会ったのは、30年ほど前になろうか。とくに「獄窓の歌」の乱れることのない強靭な意思と努力によって詠まれた短歌に感銘を受けた。1995年、短歌の同人誌に「短歌に出会った男たち―大塚金之助」を書くきっかけになった。『大塚金之助著作集』の第九巻を読んで、金之助の短歌の歩みと全容を少しばかり知ることになった。といっても、2013年、大塚会の後押しで「大塚金之助の留学詠」(『大塚会会報』40号 2013年8月)を書かせていただくまでのブランクが長い。
そして、さらに、十年以上も経たこのたび、たしか、金之助には「天皇」を詠んだ歌があったはずと、戦後の方から頁をくり始めて見出だしたのが、つぎの短歌だった。もちろん戦前には、天皇(制)について詠んでいたとしても発表はできなかったが、金之助の著作活動と沈黙は、まさに天皇(制)との対峙であったといえよう。
天皇を詠んだ短歌は、いずれも、五句の行分けで、初出は『日本評論』25巻1号(1950年1月)である。
降伏の日(一九四五年八月)
・真珠湾 奇襲の戦果を その夜の 君は無批判に うけとりました!
人間宣言
・人間が 神になったり その神が 人間になる 国なのである。
・あのやさしい 天皇の名において 十三年、 僕が追放されたとは 信じられまい。
『著作集』では、これらの短歌の前に掲載されている、以下の二首を含む四首の「君」を「天皇」と読みかえて読んでいいのだろう。
・君のしずかな 態度の底に 暴力を ひそませているのを 見のがしはしない。
・人間を 口にする君が 人間を 虐殺ナチズムを どうしてとったのですか?
一九四六年一月一日の天皇の「人間宣言」や新憲法における「天皇」を詠んだ短歌は、GHQの望むところであったのかもしれないが、上記のような金之助の短歌が、リアルタイムで発表されていたなら、おそらく、検閲は通らなかったように思う。新憲法には、GHQの占領戦略のために「天皇制」が残された。明治憲法下における天皇の権能、天皇への絶対服従や敬意を詠んだ歌には検閲が厳しかったが、「人間宣言」から「憲法施行」の1947年5月3日までの間には、つぎのような短歌が雑誌に掲載されている。
・神格にあらずと宣らす大君の是非論(あげつら)ふ世としなりたり
横井駿一(『国民文学』1946年7月)
・米軍ゐて灯しかがよふ丸の内大内山のみ暗く侘しき
阿部静枝(『八雲』創刊号 1946年12月)
・神にあらず人にも似ざる旅を行き新しき代の感覚のずれ
坪野哲久(『人民短歌』1946年12月)
・新憲法かにかく成れど「象徴」の模糊たる二字にわが怡(たの)しまず
安藤佐貴子(『短歌研究』1947年3月)
・天皇陛下自ら私と言ひ給ふ私の語柔らかくまして親しき
古川達夫(『国民文学』1947年10月)
上記の横井、古川の作は、天皇の「人間宣言」を受け入れ、身についたかつての天皇制への思いも含めて、あきらかに親天皇制の立場で詠んでいる。坪野哲久は、1946年2月から開始した「巡幸」の光景への違和感を「感覚のずれ」と結んでいる。坪野は、金之助が「石井光」の名で、『短歌評論』(1933年4月~1938年1月、実質的に渡辺順三が編集)に寄稿していた時代の仲間であった。ちなみに、私の『ポトナム』における、短歌の師であった阿部静枝の短歌は、GHQの本部が置かれている帝国ホテルの窓の灯りに比して、皇居が闇に包まれている侘しさを詠んでいる。この『八雲』の一連には、「雲の上に主権をおきてひれ伏せる暗愚の歴史閉じて起つべし」が並び、戦前無産婦人運動の活動家だった一面をのぞかせるが、天皇制については整理しきれていないものもうかがわせる。
一方、歌壇のベテランたちは、1945年8月15日の玉音放送を受けた直後、つぎのような短歌を寄稿している。
・聖断はくだりたまひて畏くもあるか涙しながる
斎藤茂吉(『朝日新聞』1945年8月20日)
・大君の宣りたまふべき御詔かは 然る 御詔を われ聴かむとす
釋迢空(『朝日新聞』1945年8月16日)
・かすかなる臣の一人とつつしみて御聲のまへに涙しながる
佐藤佐太郎(『短歌研究』1945年10月)
・失いひしもののすべてにいやまさる玉のみ聲を聞きまつるかも
五島美代子(『短歌研究』1945年10月)
・現つ神吾が大君の畏しや大御聲もて宣らせたまふ
窪田空穂(『短歌研究』1945年10月)
上記、『短歌研究』の佐藤、五島、窪田の三首の下句(ゴシック部分) は、臼井吉見の「短歌決別論」とも呼ばれる時評(「展望」『展望』1946年5月)において、批判の対象とされた。すなわち、1941年12月8日に詠まれた歌と比較して、「宣戦と降伏と、二つの場合の詠出が、そつくり同一」として引用されたのである。
臼井の時評後、桑原武夫による第二芸術論(「第二芸術」『世界』1946年11月)を経た後も、歌人たちは、つぎのような短歌を発表していたのである。金之助が短歌に絶望し、1950年以降、短歌を作らず、決別した理由は、こんなところにあったのではないか。
・たたかひをいかに苦しくおぼしけむ平和の民とともにいますべし
土岐善麿(『八雲』1947年8月)
・うらさびしく、行く道なかに、尊き一人(いちにん)に、思ひ至り、帽を脱す
釋迢空(『八雲』1948年1月)
・皇室のおはざりせばいかさまになりてあらまし我が国の態
窪田空穂(『現代短歌文学選集・窪田空穂選集』1948年2月)
そして、その後、多くの著名歌人たちが、歌会始の選者に、召人に、陪聴者にとなだれ込み、天皇制維持に加担し続けている。そして、現在は、女性皇族には結婚後も皇族にとどまってもらうとか、旧皇族の男系男子を養子にきてもらうとか、いや女系天皇・女性天皇を認めるべきとか、人権無視も甚だしい、時代錯誤的な“迷案”をもって各党が議論しているのを知ったら、大塚金之助は、どんなにか嘆くことだろう。
近年はとくに、多くの歌人たちは、天皇制について明確に歌うことを避けている中で、最近、つぎのような短歌に出会った。
・天皇をことほぐこゑに満ち充ちてこのくにあやふしとおもはざらめや
・大嘗祭の天皇の儀のむなしさをこころしておけいまの世の子ら
一ノ関忠人(『さねさし曇天』砂小屋書房 2024年6月)
最後に、拙い二首を。
・第一章天皇と第九条を併せ持つ憲法にながらく面従するも
・元号の五つをもて語られる歴史の闇は問われぬままに
内野光子(『野にかかる橋』ながらみ書房 2021年5月)
参考文献
『昭和萬葉集』巻7(昭和21年~22年) 講談社 1979年4月
『大塚金之助著作集』第9巻(歌集・歌論) 岩波書店 1981年9月
内野光子「短歌に出会った男たち―大塚金之助」『風景』57号 1995年7月
中根誠『プレス・コードの影―GHQの短歌雑誌検閲の実態』 短歌研究社 2020年12月
内野光子「GHQの検閲下の短歌雑誌に見る『〈天皇〉〈天皇制〉」『論潮』15号 2022年8月











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