« 2024年7月 | トップページ | 2024年9月 »

2024年8月27日 (火)

「大塚金之助の短歌と天皇制」を書きました―『大塚会会報』最終号!

・人間が 神になったり その神が 人間になる 国なのである

・君のしずかな 態度の底に 暴力を ひそませているのを 見のがしはしない
(『日本評論』25巻1号 1950年1月)

 1977年に亡くなられた、経済学者大塚金之助の短歌です。このたび『大塚会会報』最終号(53号 2024年8月)に「大塚金之助の短歌と天皇制」を書きました。

 大塚金之助の一橋大学、明治学院大学、慶應義塾大学の教え子の方々が相寄って「大塚会」を発足、1981年に『大塚会会報』を創刊しています。私は、どの大学ともご縁があったわけではないのですが、「短歌に出会った男たち―大塚金之助」(『風景』57号 1995年7月)を目にとめられた水野昌雄さんのお誘いで、会友として入会いたしました。その後、「大塚金之助の留学詠」(『大塚会会報』40号 2013年8月)などを寄稿しています。武田弘之さんの『群青』に連載中の「歌人・大塚金之助ノート」を読んではいましたが、あまり熱心な読者ではなかったように思います。ただ、「獄窓の歌」に感銘を受け、大塚金之助に関心を持つようになりました。
 会報には、歌人では、武田さん、水野さんのほか、三井修さん、田中綾さんたちが寄稿されていたように思います。今回、大塚会の解散を機に最終号への原稿依頼がありました。締め切りが6月末日ということもあり、短いものを送りましたところ、なんと、8月25日に出来上がって届いたのです。その手際の速さに驚いてしまいました。創刊号より編集をされていた戸塚隆哉さん、長い間、ほんとうにありがとうございました。

 拙稿は、以下で読むことができます。

ダウンロード - e58685e9878ee58589e5ad90e3808c20e5a4a7e5a19ae98791e4b98be58aa9e381aee79fade6ad8ce381a8e5a4a9e79a87e588b6e3808d20240826_21453170.pdf

 

 

 

 

| | コメント (0)

2024年8月23日 (金)

対馬丸沈没から80年、私たちは何をしなければならなかったのか

1944年8月22日、那覇から九州に疎開する学童たちを乗せた「対馬丸」は、奄美大島沖を過ぎた悪石島付近で、アメリカの潜水艦により撃沈された。判明した乗船者数は1788人、氏名が判明している方々1484人、その内、学童が783人とされている。

Img_2350
東京新聞【20024年8月23日】より

 

P6202039
対馬丸記念館、展示より。今年は記念館開館20年節目の年。

その内、漁船などに助けられた人、奄美大島に漂着したなどして救助された人たちは、280人に過ぎない。

私は、1944年末ころか、東京の池袋から千葉県佐原にあった母の生家に母と疎開した身である。年月も両親から聞いておかなかったのではっきりしないが、両国駅での列車の混雑ぶりだけが記憶に残っている。疎開船の学童たちとの体験とは、大きく異なるけれど、他人事には思えなかった。

2016年、遅ればせながら、6月23日の慰霊の日の式典に参列した折、対馬丸記念館を訪ねることができた。壁いっぱいの亡くなった方々の遺影、多くの幼いあどけない遺影に、胸が痛む思いだった。生き残った方々の悲痛な声や映像や文字に苛まれるのだった。

20166p6202060
遺影と遺品の展示室にて。

今年も「小桜の塔」の前での追悼式が開かれたとの報道である。それに合わせたものなのか、内閣府は来年度、沈んだままの対馬丸の船体の再調査を来年度予算に計上したという。船体は、すでに1997年水深約870メートル海底で発見されていて、当時、生存者や遺族が引き上げを要請したが政府は、船体の強度などを理由になされなかった。が、今回、内閣府は、平和学習や戦争の記憶の継承にも役立つとして、遺品の収集などを目指すというが、何を今さら、80年も経ってぬけぬけと・・・。

P6202070

対馬丸記念館に隣接した旭丘公園内にある小桜の塔、向かって右側が対馬丸の犠牲者、左側にその他に船の犠牲者名が刻まれていた。今年の8月22日いは約400名の方々が参列したという。塔建立70年になる。

 

以下の過去記事もご覧ください。

2016年7月16日
ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(2)「対馬丸記念館」~なぜ助けられなかったのか: 内野光子のブログ (cocolog-nifty.com)

 

 

 

| | コメント (0)

2024年8月15日 (木)

『トビウオのぼうやはびょうきです』を読んでいた頃 ~被曝と核戦争の恐怖は今も続く~

 この猛暑で、物置の片付けや書棚の整理も中断しているが、探し物をしていたら、娘の保育園時代の絵本が少しまとまって出てきた。あった!『トビウオのぼうやはびょうきです』(いぬいとみこ作 津田櫓冬絵 金の星社 1982年7月)。読み聞かせていて、いつも最後の方で、声をつまらせてしまうのだった。娘は覚えているだろうか。

 1954年3月1日、赤道に近いビキニ環礁で水爆実験がなされた。近くで操業中のマグロ漁船「第五福竜丸」が「死の灰」を浴びてしまったのである。絵本は、その水爆実験近くの海に住んでいたトビウオの母と子の悲劇である。

 おとうさんトビウオが仕事に出たまま帰らず、海に広がった何かを浴びて、子どものトビウオが日に日に弱っていくのをお母さんトビウオは必死になおそうとするががかなわず、絵本は「たすけて やれる ひとは いないでしょうか」で結ばれる。

 焼津に帰港した「第五福竜丸」の漁師たちは、入院、治療を受けたが、その内の一人久保山愛吉さんは40歳で、その年の9月亡くなってしまう。アメリカの広島、長崎への原爆投下に続く、水爆実験による被害だった。

 その後も、日本では、東日本大震災時に福島原発が爆発、いまだにその処理ができていないなか、各地の原発の再稼働が進み、世界では核戦争の恐怖にさらされている。

 広島、長崎での岸田総理は、コピペのような挨拶をする。長崎の式典に、イスラエル大使を招ばないからと、アメリカはじめG7各国は大使の参列を拒むという。原爆を落とし、日本の各地を空爆したアメリカは何ひとつ責任をとらぬままの79年であった。

 たまたま覗いた朝ドラの「虎に翼」8月14日は、主人公の裁判官が、原爆被害者がアメリカではなく、日本国を訴える裁判に関わる場面であった。屈辱的な「日米平和条約」が発効してから二年後の1954年の設定だろうか。8月15日ドラマは、どのような展開になるのか。

 Img_2348

左側の文章は:「おかあちゃん。ぼくね、とても あたまが いたいの」
ある 日、トビウオの ぼうやが、いいだしました。
ぼうやの からだには ぶつぶつが
 できて、目はにごり、まもなく うわごとを いうように なりました。
「あっ、あの 夕焼け、こわいよう、 こわいよう!」「ねえ、おとうちゃんは、いつ かえって くるの?」
「あたまが いたい!いたいんだよう!」

Photo_20240815120801
こんな絵本も出てきました。『ちいちゃんのかげおくり』(あまんきみこ作 上野紀子絵 あかね書房 1982年7月、1983年6月5刷)。左上の丸いシールには、「第29回青少年読書感想文全国コンクール課題図書」となっています。

| | コメント (0)

2024年8月10日 (土)

8月8日は何の日だったか、2016年のこと、忘れはしません。

 8月6日と8月9日、広島と長崎に原爆が落とされた日の間の8月8日しか選択肢がなかったという。明仁天皇が生前退位を表明するビデオメッセージが放映された日である。

 明仁天皇にも忘れてはならない日が四つあるとか。私にも忘れられない日はいくつかあるが、近々では、親の命日を忘れて過ごしてしまうことはあっても、この8月8日は忘れることができない。

 というのも、あの日から、天皇制に関する世の中の風向きがかわってきたようにも思えるからである。その約一カ月前の7月13日の夜7時のNHKニュースで、唐突に生前退位の「お気持ち」報道がなされたのである。どこからのリークだったのか、頃合いを見ての報道であったのか、なんともきな臭い生前退位表明であった。当初はこの報道を否定していた宮内庁サイドであったが。

 私は、現憲法下で、天皇自らが生前退位の意思表明ができるのか否かが疑問であった。メッセージの中身といえば、加齢によりしくじることもままあり、公務が負担になったこと、昭和天皇から代替わりのときに生じた社会のさまざまな混乱を避けたい、といったことが語られた。本来「公務」というならば、国事行為だけのはずが、平成期の天皇は皇后をともないながら「公的行為」という曖昧な領域における活動を盛んに行ってきたのである。昭和天皇から引き継いだ国民体育大会・植樹祭・豊かな海づくり大会などの行事にとどまらず、戦没者慰霊、災害地訪問、福祉施設訪問などを積極的に増やし、誕生日、外国訪問、さまざまな行事の際の記者会見や「おことば」の発信という場も拡大してきたのは、天皇自身の意向ではなかったのか。

 明仁天皇は、たしかに、昭和天皇の1988年の「下血報道」や様々な場での「自粛」の横行を目の当たりにしていたので、あの「騒動」はやりきれない、という思いは理解できる。しかし、自ら拡大してきた「公務」が負担になったからというのは、私には腑に落ちなかった。

 一方、世間では「長い間、ご苦労様でした。ゆっくりお休みください」と理解を示した。同時に、政治の世界では、2016年9月「天皇の公務負担軽減などに関する有識者会議」という諮問機関が立ち上げられ、2017年4月21日最終報告書がまとめられた。政府、国会では「静かな環境のなかで」天皇退位特例法が審議され、参院全会一致で、2017年6月9日成立、天皇の終身制は不動とし、一代限りの退位容認となった。

 2019年5月1日、新天皇即位日程を挟んで、長い間、明仁天皇夫妻への国民に寄り添う発言や振る舞いへの讃美報道や記事が続いた。そして、平成を語るのに天皇夫妻の短歌まで動員して情緒的なヒストリーが作り上げられていったのである。

 そして、代替わりに伴う諸儀式をさまざまな映像で見る限り、「日本国民統合の象徴である」天皇がなすべき行為であったのか、「主権の存する国民の総意に基く」地位にある天皇がなす行為であったのか、はなはだ疑問である。神話にもとづく儀式であったり、伝統儀式といっても、長い歴史の中で、定着しているはずもない手続きであったり、まず法律的な根拠もない中で、皇室や国民の日常とはまったくかけ離れた束帯や十二単姿で歩む映像は異様であった。天皇を仰ぎ見て、首相や招かれた人たちが万歳三唱する姿は、平等や国民主権にも悖り、滑稽にも思われた。

 即位・大嘗祭違憲訴訟の原告でありながら、集会や傍聴にも参加できないまま、このたび、控訴をひかえた集会に是非ということで、話をすることになった。まずは体調管理につとめないと・・・。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

なぜ私たちは天皇制に反対しているのか 
即大訴訟控訴審に向けて8・31集会

202年8月31日(土)18時~
文京区民センター2A

講演:内野光子「短歌と勲章~<歌会始>という通過点」

主催・即位・大嘗祭違憲訴訟の会

詳細は下記をご覧ください

ダウンロード - img175.pdf

 

| | コメント (0)

2024年8月 7日 (水)

<緊張感をもって注視する>って、だれもが言うけど~。

 株価の乱高下が著しい、この数日、証券会社や銀行のアナリストたち、ものものしいカタカナの肩書を持った人たち、「緊張感をもって注視する」としか言いようがないのだったら、そのデータと経過を語るべきだろう。しかし、首相や財務相、日銀総裁が「緊張感をもって注視する」とだけ言っていて足りるのだろうか。

 経済人も含めて、賃上げができた、ボーナスが上がったと経済政策が実ったかのような発言は、大手企業だけの話ではないか。その大手企業が、もう毎日のように、安全基準を満たさない車だったり、製品だったり、情報の大量漏れ、セクハラ・パワハラだったり、不祥事というより「犯罪行為」がつぎつぎに発覚しているのに、ほとんど安泰なのはどうしてか。

 政治家や各省庁、自治体などでも、言うに及ばず、「犯罪行為」が“発覚”してから慌てて<緊張感をもって注視する><説明責任を問う>と言ってしまえば何をしなくてもいいかのように凌いでいる。当事者であれば、早々<謝罪>して、<今の職務を全うしなければ>と開き直る。「あんな人たち」があっちにもこっちにもいるではないか。

 私たちは、毎日の暮らしの中で「緊張感をもって注視」してばかりいられないのである。

20247_20240807140301

一時の不安は嘘のように、わが家の<畑>からは、毎日とは言えないけれど、一日置きくらいに、収穫できるようになりました。大いに助かっています。

| | コメント (0)

オリンピック、早く終わらないかナァ

 オリンピックの中継はほとんど見たことがない。ニュース番組やワイド番組でたまたま見る程度なのだが、現地に派遣のアナウンサーやレポーターがやたらとはしゃいでいるのと、スタジオの解説者がいい加減だったり、訳知り顔の発言だったりが気になってしまう。嫌いなアナウンサーや解説者のアンケートなるものがネット上で出回っているらしい。

 それに、日本の選手の中には、日本人とのハーフの人もだいぶ多くなってきたのを見ると、国を「背負って」競うオリンピックの意味はもう薄れてきてしまっているのではないか。個人やチームで競うのが、スポーツ本来の姿ではないのか、とも。

 敗れた選手の涙や謝罪が強調される報道の背景には、「国威発揚」の影がちらつく。スポーツは、選手たちも観客たちも、もっと楽しむものではなかったかと。

 そして、“昭和”の人間には、これって、競うべき「スポーツ」なのかと思うような種目もいくつか見受けられ、選手たちの身の安全を、願うばかりなのである。

 選手ファーストは、いつのまにか開催国ファーストになってしまい、セーヌ川を泳がされたトライアスロンの選手たちは気の毒だった。

20248

「いらっしゃるー」と門扉を開けてのいつもの声に飛び出すと、写真のような野菜いっぱいの袋をいただく。土地を借りて本格的に野菜を育てているHさんから。この夏は、猛暑でインゲンも大きなトマトもまるっきりダメだったと嘆いていました。モロヘイヤはさっそくおひたしにして、ミニトマトときゅうりはサラダにして夕飯のお供にしました。きゅうりは、写っている以外にも太ったり曲がったりのものも何本かあって、漬物にしたり、ジャンボピーマン?と炒め物にしたりしていますが、まだ野菜室に残っています。ごちそうさまです。

| | コメント (0)

2024年8月 1日 (木)

国立女性教育会館、改編、存続決まる

 昨年12月、埼玉県嵐山町にある「国立女性教育会館」の閉鎖方針が文科省・内閣府より示された。そのニュースを聞いた時は、私もいささか戸惑った。国立女性教育会館は、1977年、国立婦人教育会館として発足(2001年1月に「婦人」を「女性」に変更、2001年4月に独立行政法人となる)、全国の自治体や市民団体による女性の地位向上、男女平等の普及活動の中心的な役割を担い、女性関係資料のアーカイブの充実にも寄与してきたはずなのに、なぜ?と思ったのである。それに、私は、戦後短歌史をジェンダーの視点からたどってみようという小さな研究会のメンバーとして、国立女性教育会館の「女性学・ジェンダー研究フォーラム」1998年・99年に参加、その熱気に圧倒されたという思い出がある。さらに翌2000年には、会館主催の研修会に”講師”として招ばれもしたという縁もあったのである。詳しくは、過去の関連記事をご覧ください。

嵐山の女性教育会館が閉鎖?!これまでの実績を思う(2024年1月16日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2024/01/post-61eb52.html

 その会館の閉鎖方針の行方が心配であったが、きのう7月31日「埼玉の嵐山町に女性活躍司令塔 組織改編、移転せず」という見出しの小さな記事があった(『東京新聞』7月31日)。「見出し」だけでは、はっきりしなかったが、埼玉県、嵐山町の強い要望もあって、移転、閉鎖の方針を転換し、全国約360ある男女共同参画センターと連携、活動の支援強化をすることになったらしい。

 あたらしい方針によれば、女性教育会館が行ってきた研修、調査研究、関係機関の連携促進など事業内容の高度化を図り、必要な機能を本館に集約し、老朽化した宿泊棟、体育施設などは2030年度までに撤去を目指す、という(『埼玉新聞』7月31日)。

 私も泊ったことがある、160室もある宿泊棟、研修施設を目指すなら新しい宿泊施設は当然必要だろうし、あの広大な緑豊かな敷地も大切にしてほしいと思う。存続が決まって、ほっとしたところだが、これからの動向を注視していきたい。

 

20247

5月末、夫は、急に思い立って、庭の隅を掘り起こし、トマトやナスの苗を植えた。それからは、毎日、天気予報を欠かさず見て、水やりやとぎ汁、畝にビニールをかぶせたりと、丹精込めて育ててきた。これまでも、一つ二つとれてはいたが、この日、ようやく大量の?収穫にこぎつけた。さっそくナスと牛肉を素揚げして、南蛮漬けにしてみた。トマトは、これからも毎日とれそうで、サラダにできると楽しみにしている。

| | コメント (0)

« 2024年7月 | トップページ | 2024年9月 »