対馬丸沈没から80年、私たちは何をしなければならなかったのか
1944年8月22日、那覇から九州に疎開する学童たちを乗せた「対馬丸」は、奄美大島沖を過ぎた悪石島付近で、アメリカの潜水艦により撃沈された。判明した乗船者数は1788人、氏名が判明している方々1484人、その内、学童が783人とされている。
その内、漁船などに助けられた人、奄美大島に漂着したなどして救助された人たちは、280人に過ぎない。
私は、1944年末ころか、東京の池袋から千葉県佐原にあった母の生家に母と疎開した身である。年月も両親から聞いておかなかったのではっきりしないが、両国駅での列車の混雑ぶりだけが記憶に残っている。疎開船の学童たちとの体験とは、大きく異なるけれど、他人事には思えなかった。
2016年、遅ればせながら、6月23日の慰霊の日の式典に参列した折、対馬丸記念館を訪ねることができた。壁いっぱいの亡くなった方々の遺影、多くの幼いあどけない遺影に、胸が痛む思いだった。生き残った方々の悲痛な声や映像や文字に苛まれるのだった。
今年も「小桜の塔」の前での追悼式が開かれたとの報道である。それに合わせたものなのか、内閣府は来年度、沈んだままの対馬丸の船体の再調査を来年度予算に計上したという。船体は、すでに1997年水深約870メートル海底で発見されていて、当時、生存者や遺族が引き上げを要請したが政府は、船体の強度などを理由になされなかった。が、今回、内閣府は、平和学習や戦争の記憶の継承にも役立つとして、遺品の収集などを目指すというが、何を今さら、80年も経ってぬけぬけと・・・。
対馬丸記念館に隣接した旭丘公園内にある小桜の塔、向かって右側が対馬丸の犠牲者、左側にその他に船の犠牲者名が刻まれていた。今年の8月22日いは約400名の方々が参列したという。塔建立70年になる。
以下の過去記事もご覧ください。
2016年7月16日
ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(2)「対馬丸記念館」~なぜ助けられなかったのか: 内野光子のブログ (cocolog-nifty.com)
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