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2024年9月22日 (日)

津田沼九条の会との交流会に参加しました~共通の課題とこれから

 今日9月22日、私が参加している「さくら・志津憲法9条をまもりたい会」と「津田沼九条の会」の交流会に参加しました。津田沼の会が佐倉市内の個人的な施設「平和博物館」見学の折、交流会が持てないかの申し出を受け、実現しました。津田沼の会からは7人、私たちの会からは6人と、かなり賑やかな会となりました。こうした形での交流会は初めてでした。

 それぞれの会の代表から会の成り立ちや活動状況が報告された後、自己紹介により、会での役割分担、各自の思いや今後について語り合いました。ともに2006年発足ということも分かりました。

 各自の憲法9条をまもりたいという強い思いは共通していました。さらに、会員の高齢化という現実に直面していることも、共通の課題のようでした。津田沼の会も、かつては、習志野市内の4つの九条の会があり、合同で活動することもあったけれど、他は現在休眠状態であるとのこと。佐倉市においても「佐倉九条の会」はじめ複数の団体が活動していた時期もあったけれど、現在は私たちの会だけになってしまった状況は、拭いようもない現実であって、全国の九条の会共通の悩みではないかとも。

 津田沼の会では、毎月、A4一枚のニュースを発行し、会員100名に届けていること、毎月3日には、スタンディング活動を欠かさず実施し、毎年12月には「守ろう!平和!実行委員会」主催として、大きなイベントを実施しているのが頼もしい限りでした。

 佐倉の会からは、ニュースは次回で50号を迎え、その準備中であること。ニュースは、会員により、戸別配布しているが、最盛期とは違って1000部どまりになることも。また、佐倉市内四つの県立高校の登校時に、順次、毎年2校程度、チラシやニュースの配布を続けていることは、独自の取り組みかも知れないと話題になりました。

 行政との関係では、私たちの会のニュースは、近辺のコミセンなどの公的施設に配置してきましたが、近年は、配置しない施設もあり、難しくなっていることが話題になると、津田沼の会のイベント主催の折なども苦慮されているとのことでありました。

 ともかく近隣の九条の会と話し合えたことは収穫でもありました。

  なお、私製の、かなり恣意的ながらA4、9枚になった「さくら・志津憲法9条をまもりたい会」の活動年表を持ち帰っていただいたので、読んでいただき、感想など伺える日があればと思った次第です。

 

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2024年9月15日 (日)

いい加減にしてよ、自民党総裁選報道

 9月13日、自民党の総裁選が始まり、9人が立候補した。今回は、告示前から立候補表明、立候補の意向を示す人たちの発言や20人の推薦人の有無などが取りざたされた。連日の新聞やテレビのワイド番組、週刊誌などのはしゃぎようにはうんざりするほどだった。いわば自民党への注目度や関心を高めようという意図はあきらかで、自民党にジャックされたようなものだ。選挙までの二週間近い間、こんな状況が続くのだろう。これって、報道機関の中立公正なんて、どこかへ飛んで行ってしまっているのではないか。いまのところ将来の総理候補ということで国民の関心は若干あるかもしれないが、所詮、自民党内の総裁選びであって、国民に選挙権があるわけではない。

 どの候補も、根拠や具体的な施策を示すわけでもなく、政治改革、経済成長、所得倍増、世界をリードする、増税ゼロなどと言われてみても、絵に描いた餅、絵空ごとにすぎない。それに、妙な笑顔や強い口調で訴える振る舞いは、かつて務めていた大臣や幹事長時代のぼそぼそとした言語・意味不明なことも多い発言を思い出し、その落差に笑いたくもなる。これで、自民党の支持率が上がるとしたら、国民はなめられていることになる。

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9月14日、日本記者クラブでの候補者討論会・・・

それでは、立憲の代表選はどうかというと、これまた、情けないことに、昔の人が立候補したことである。すでに勢いを失った維新の会に秋波を送る候補者もいる。支持率が低迷するわけである。公明党は代表が代わるというけれど、ここも高齢化は否応なしで、近くの市議も嘆いていたっけ。共産党も、トップが女性にはなったけれど、幹部が男性ばかりで、元職が出ずっぱりなのはどうしたわけか、党員も機関誌購読者も減る一方らしい。

いったい私はどうしたらいいんだろう。世論調査でも、支持政党なしが、自民党支持よりはるかに多く、回答者の半数に迫っているのがよくわかる。

 

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庭のヤマボウシの枝は二階のベランダを超す勢いで、紅い実を沢山つけた。つけては落とすので、掃き寄せるのが大変。

 

 

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2024年9月 4日 (水)

台風はどこへ~「短歌と勲章~通過点としての<歌会始>」と題して話しました。(2)文化勲章への道~国家的褒章はだれが選考するのか

 歌会始選者を国家的褒章の一つであることから、さらに、その上の褒章制度とされる紫綬褒章や日本芸術院会員、文化勲章の受章者はどのように選考されるのか。歌会始選者への通過点とも思われる芸術選奨がどのように選考されるのか。そこに共通するのは、究極的には、ときの政権によって決められているという実態に着目した。受章者、選ばれた人たちを報道するメディアは、一様にその名誉や権威を称え、どんな選ばれ方をしたかについては触れることはない。選ばれた人たち自身の対応といえば、なぜ選ばれたかと謙遜の弁とともに光栄であるとよろこびの言葉が語られ、それを伝えるのがメディアである。

 芸術選奨: 11の部門別に文科大臣任命による選考審査委員と推薦委員を設置。「文学部門」の選考審査委員7人の内1人が歌人、推薦委員10人の内2人が歌人という構成である。ここにも、資料②にあるように、受賞者が後に推薦委員になり、選考審査委員になるというコースが出来上がりつつあり、固定化、閉鎖的な選考システムであることがわかる。毎年2月末日前後に委員名と前年の業績を対象に受賞者・授賞理由が公表される。

 紫綬褒章: ほかの分野の褒章とともに、科学技術分野、学術・スポーツ・芸術文化分野で業績のあった人たちを対象に、毎年4月29日と11月3日に受章者が公表される。しかし、この褒章制度の根拠法は、新憲法下には存在せず、1955年、なんと1881年明治14年の太政官布告第63号「褒章条例」を持ち出すという離れ業で復活させたものである。形式上も推薦委員会すらもなく、各省庁や自治体などの推薦により、内閣賞勲局との協議で閣議決定される、官制の、官僚による褒章であることがわかる。国民は、受章者ですら、明治初期の太政官布告に拠るものだとはよもや思わないであろう。

 文化勲章:文化勲章を受章するには、原則として、文化功労者選考分科会によって文化功労者になっていなければならない。その文化功労者選考分科会の委員は文科大臣の任命により毎年9月初旬に公表される。

 昨年の9月下旬、委員の名前を知りたくて官報を検索するが、見出せず、文科省に9月何日のどのページに載っているかを問い合わせた。翌日の回答では「9月2日に委員は任命されているが、官報に載せるのを忘れました」という。そんなことがあるのかと一瞬驚いた。さらに、数年前までは文科省のホームページに委員名は公表されていたはずだが、近頃載せないのですか、と尋ねたところ、「文化功労者選考分科会は、一年に1回しか開催されないので、委員の先生方の名前をホームページで永らく公表しているのはいかがと思いまして」との返事に、また驚いたのである。ホームページに載せない理由もさることながら、9月に任命されて、1回の会議で、11月3日の授賞式に間に合わせていることになる。ということは、文化功労者と文化勲章は、文科省によりすでに受章者は決まっていて、選考分科会は、そのリストを承認するだけではないのかと、推測されるのだった。

 そして、この推測を裏付けるような記事を見出したのはつい最近である。前川喜平元文科省次官のインタビュー記事につぎのような個所があって、私の推測は確信に替わったのである。次官当時、文科大臣が任命するはずの文化功労者選考分科会委員10人のリストを杉田和博官房副長官のところに持っていくと、「この2名を外せ、政権批判をメディアでしていた、こんな人を選んではダメ、ちゃんとしらべてくるように」との発言で、差し替えさせられた、という(「前川喜平元次官が語る 官邸人事・不当と違法の分かれ目は」朝日新聞デジタル 2020年10月28日)。官邸の介入も明らかになったのである。

 上記いずれの場合も、最終決定は閣議であり、その過程でも、省庁、政権の選考介入があるのは間違いない。それをかくも有難くいただく人たち、何も文化勲章などもらわなくとも、と思うような人たちのよろこびの声を聞くのは、ちょっと情けなくもなる。

 なお、当日、時間が少しでもあったら、触れたいと思ったのが、メディアで活躍する有識者、評論家、コメンテイターと呼ばれる人たち、しかもリベラルと思われる人たちの天皇制への傾斜が顕著になってきたことである。

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 以下は、15分ほどで話したことの要旨である。具体的な人名とその発言内容を紹介したかったのである。資料④は、人名と発言の出典を示した。

金子勝(1952~):マルクス経済学者の金子は、2018年の(明仁)天皇の誕生日会見で、「天皇陛下は声を震わせて」、沖縄に人びとの苦難の歴史に触れて、その犠牲に心を寄せ続けていくとの発言を紹介した後、「アベは聞いているのか?」とツイートして、天皇の言葉を評価した。

内田樹(1950~):「天皇の第一義的な役割が祖霊の祭祀と国民の安寧と幸福を祈願すること」に「さらに一歩を進め、象徴天皇の本務は死者たちの鎮魂と苦しむ者の慰藉であるという「新解釈」を付け加えられた。これを明言したのは天皇制史上初めてのことです」と明仁天皇を評価する。

金子兜太(1919年~2018年):戦後の前衛俳句運動の理論家でもあった俳人、金子は『東京新聞』連載の「平和の俳句」【2016年4月29日】の入選作「老陛下平和を願い幾旅路」の短評に「天皇ご夫妻には頭が下がる。戦争責任を御身をもって償おうとして、南方の激戦地への訪問を繰り返しておられる。好戦派、恥を知れ。」 「アベ政治を許さない」というプラカード揮毫者でもある。自身、激戦務める。2003年日本芸術院会員、2008年文化功労者となる。

水脈(みお)の果(はて)炎天の墓碑を置きて去る(『少年』、1955年)

望月衣塑子(1975~):東京新聞社会部の気鋭の記者である望月は、作家の島田雅彦との対談の中で、コロナ禍でこそ、天皇や皇后のメッセージが欲しい、と天皇・皇后へ賛美と期待を寄せている(「皇后陛下が立ち上がる時」『波』2020年5月)

木村草太(1980~):気鋭の憲法学者は「そもそも天皇制自体、憲法の立て付けとして少しおかしい」としながら、天皇制の積極的な意義として「政治の場に品格や公共性を示すことができる」として、天皇の前での醜い争いができなくなる、というが、例えば国会議員や閣僚が品格や公共性を示しているとは到底思えないし、天皇が、醜い争いの抑止力にもなっていないのが現状ではないか。

長谷部恭男(1956~)2015年6月衆議院憲法審査会において、自民・公明などの推薦の参考人として、集団的自衛権の違憲を表明して話題になった憲法学者だが、天皇制について、日本国憲法は身分制秩序の破壊を「大部分は貫徹したが、最後に天皇制という身分制の飛び地を残し」たとして、天皇制を容認している。

 時間もないので、河西秀哉、落合恵子、高橋源一郎を端折り、最後に、加藤陽子(1960~)、上野千鶴子(1948~)に触れた。加藤は、「前(明仁)天皇は『原子力発電所の状況が予断を許さぬ』と言い切り、「この人は危機のときに本当のことを言ってくれるはずという人々の信頼に応えた。」という形で親天皇制を示す。上野は、その加藤の研究者としての評価を「(加藤さんは)前天皇の信任が厚く、何度もご進講に招かれています」と語り、あたかも「ご進講」が研究者のステイタスかのようにも聞こえる。

 こうした発言がメディアで繰り返されることによって醸成された雰囲気の中で、国民は、天皇や皇族たちとの距離を縮めたかのような、天皇制へちかしく傾き、一種の思考停止に陥ってしまっているのではないか。

 このような言説をどう乗り越えるのかが今後の私たちの課題かと思う。乗り越えるべき壁は高くて厚い。「無駄な抵抗」と言わせないために、小さな穴でもあけたいと思う。亡くなられた関千枝子さんのお誘いで原告になったものの、傍聴にも集会にも出ずしまいであったが、今後は少しでも、参加できたらと思う、と結んだが、今後の活動は体力勝負になるだろう。

 私の話の後、弁護士の方から、第一審判決までの流れと控訴審にあたっての争点などが話されたが、とくに裁判経過がややこしい。

 夜の開催、台風の行方が分からずじまいであったが、50人の方が参加された由。まずはほっとし、早く宿へといそぐ。家から持ち込んだいなりずしとフルーツ、夫は、部屋の近くの自動販売機でビールとおつまみを買い、ともどもお疲れさまでしたの乾杯と反省会になった。

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予約のとき、「皇居の見えない部屋ならあります」とのこと。KKRホテル東京、最上階15階から丸の内方面をのぞむ。夜の高速道路の車列の灯りもきれいだった。朝食をとった12階のレストランからは、皇居が望めたが、のぞいてどうする?

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2024年9月 3日 (火)

台風はどこへ~「短歌と勲章~通過点としての<歌会始>」と題して話しました。(1)

 8月15日、当ブログでお知らせしましたように、以下の集会で、上記の題で話をしました。以下、歴史的人物は別にして、人名には自然に「さん」付けとなったが、ここでは敬称は省略している。

なぜ私たちは天皇制に反対しているのか 
即大訴訟控訴審に向けて831集会
2024
831日(土)18時~/文京区民センター2A
講演:内野光子「短歌と勲章~<歌会始>という通過点」
主催・即位・大嘗祭違憲訴訟の会
詳細は:ダウンロード - img175.pdf

 台風10号の進路がなかなか定まらず、関東も、いつどこで遠隔豪雨や雷雨に見舞われるかもしれない状況の中で、主催者も迷われたとのこと、私も心配だったが、実施となり、交通機関も平常通りであった。

 多くの方の前で話すのが、いつまでたっても苦手なので、レジュメや資料の他に読み上げ原稿も持参したが、斜め左の壁時計を見ながら、かなり端折りながらの1時間であった。

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短歌と勲章~「歌会始」選者という通過点      内野光子

1.歌会始選者への道、その閉鎖的な世界
1)コースのパターン化
2)長期化・固定的
3)結社の偏向、私物化 
4)前衛?リベラル派?からの変節・転向

2.文化勲章への道~国家的褒章はだれが選考するのか
1)芸術選奨の場合
2)紫綬褒章・文化勲章の場合

3.“リベラル派” 識者・論者の天皇制への傾斜
資料① 近年の歌会始選者たちの国家的褒章受賞歴
資料② 近年の芸術選奨(文学部門)の歌人の選考審査委員・推薦委員一覧
資料③ 受章者はどのように決まるのか
資料④ リベラルな?人たちの発言典拠一覧
資料⑤ 引用短歌一覧

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「1.歌会始選者への道、その閉鎖的な世界」では、 資料①②を使いながら、歌会始選者の近年の傾向、特色を説明した。資料①から明らかなように、選者に就くコースがパターン化している。「芸術選奨⇒歌会始選者⇒紫綬褒章」のコースをたどるのが永田和宏、三枝昂之、内藤明、栗木京子。また以下の三人は、いきなり歌会始選者にピックアップされたが、つぎのような縁故があったことは無視できないだろう。永田和宏の妻であった故河野裕子、三枝昂之の妻ある今野寿美、岡井隆の「未来」の後継者となった大辻隆弘である。

つぎに長期化の例としては、木俣修24年間、岡野弘彦29年間、岡井隆21年間、世代がかわっても、現役の永田が20年間、三枝が16年間で、当分辞めそうにもない。内藤明は12年間務めて来年から栗木京子に替わっている。なぜ長期になるのか。栄誉や権威が伴うとされ、執筆・講演・短歌大会や新聞雑誌歌壇選者などの依頼が多くなり、属する結社の会員獲得にも一役担うなどの現実的な利益も享受できるからではないか。

選者は五人、来年を例にすれば、三枝・今野夫妻は同じ「りとむ」の発行人、編集人であり、永田・栗木は、同じ「塔」の選者であり、大辻は、「塔」と同じアララギ系の「未来」の代表・理事長である。現在、結社の主張の違いや特色はすでに薄れてはいるものの、この偏り方はやはり異常であり、長期化、固定化、私物化の傾向と重なる。

資料①近年の歌会始選者たちの国家的褒章受賞歴
ダウンロード - e8b387e696991.pdf

資料②近年の芸術選奨(文学部門)の歌人の選考審査委員・推薦委員・受賞者一覧 
ダウンロード - e8b387e69699e291a1.pdf

「1-4)前衛?リベラル派?からの変節・転向」については、資料⑤で、選者・作品に即して紹介した。塚本、穂村、斉藤の作品は、歌会始選者ではないが、 天皇を詠んだ歌として参考までにあげた。塚本は後、紫綬褒章を受章、斉藤には歌会始選者にと声がかかったら「ぼくも行くかも」の発言がある(『短歌人』2016年11月)。

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資料⑤ 引用短歌一覧

塚本邦雄(1920~2005
・日本脱出したし 皇帝ペンギンもペンギン飼育係りも
(『日本人霊歌』1958年)

岡井隆(1928~2020
・また一歩ジャーナリズムは右へ寄る 読み捨てて出づあつき靴履き
(『斉唱』1956年)
・天皇の居ぬ日本を唾(つばき)ためて想う、朝刊読みちらしつつ
(『土地よ、痛みを負え』1961年)
・皇(すめら)また皇(すめらぎ)といふ暗黒が杉の間に低くわらへる
(人生の視える場所 1982年)

三枝昂之(1944~)
・檄文にちかき言葉を書きつのる冬の真昼の樫よりかたく
 (
『若き志士達の世界へ』1973)
・サーチライトがわれをよぎりゆきわが影がはいつくばっている 祖国
(同上)

永田和宏(1947~)
〈特定秘密保護法案、衆議院で強行採決、1126
・だれもまだ怖さを実感してゐないその間にこそ機はあるらしも
(『置行掘』2021年)
・不時着と言ひ替へられて海さむし言葉の危機が時代の危機に
(同上)
・権力にはきつと容易く屈するだらう弱きわれゆゑいま発言す
(「現代短歌」 2015年1月)
(安保法制反対の学者の会の呼びかけ人コメント6首のうちの1首)

栗木京子(1954~)
・観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生
(『水惑星』1974年)
・観覧車ゆふべの空をめぐりをりこれからかなふ望み灯して
(歌会始「望」2020年、召人)

大辻隆弘1960~)
・冷ややけき床のおもてに膝を折り手を延べまししことも偲はゆ
(『橡と石垣』2024年)
・皇室は短歌(うた)の強味であることをわれは書きたりはつか怯えて(同上)
・天皇を嗚咽せしめし感情を推しはかりつつ涙してをり(同上)

穂村弘(1962~)
・ゴージャスな背もたれから背を数センチ浮かせ続ける天皇陛下
(『短歌往来』20102月)

吉川宏志(1969~)
・天皇が原発をやめよと言い給う日を思いおり思いて恥じぬ
(『短歌』201110月『燕麦』2012年所収)

斉藤斎藤(1972~)
(国民統合の象徴でいただく為の文化的貢献こそ、われわれ歌人にしか不可能な、超政治的貢献である〉
・つまりなるべくしずかに座っててください 察しますから、察しますから
(『短歌研究』20211月)

*赤字の短歌は、当日の資料には書き洩らしてるが、ぜひ伝えたかった作品である。

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 岡井隆は、塚本邦雄、寺山修司らと前衛歌人と称されていたが、1960年、当時の現代歌人協会が歌会始入選者の祝賀会を開催したことに強く抗議し、メディアの歌会始報道と選者たちを批判していた。ところが1993年、昭和天皇没後のはじめての歌会始の選者となった。当時の歌壇にはまだ批判する歌人も多く、特集など組むメディアもあった。岡井自身は、歌会始は、最大ではあるが、一般の短歌コンクールの一つだから、特別な思いはないとか、いまや体制も反体制も死語になったとか弁明しつつ二重橋を渡った。しかし晩年には、歌会始批判は若気の至りであったとし、人間は変わるから成長するとも語っていたが、なんとも身勝手な、無節操な、と私には思われた。

 三枝昂之は、1960年代後半、早稲田大学の学園闘争の活動家で、第一歌集は革命的ロマンティムズの歌とも称されていたが、後に日常的な作風に替わった。評論も多いが代表作『昭和短歌の精神史』(2005年)では、戦争期・占領期をひとくくりにする視点から、その二つの時代に活躍した歌人たちにむけて「あの時代を苦しくも誠実に担った人々への、60年後の鎮魂の書である」と結んでいる。これって、戦時期の翼賛、占領期の無抵抗の歌人たちの責任をなかったこととするに等しいのではと考え、書評を書いたこともある。

 永田和宏は、変節というより、親天皇(制)を全うしながら、政権批判をしていることになり、それぞれの場での短歌の評価に矛盾はないのか、ダブルスタンダードの典型的な例かもしれない。2015年から歌会始選者となった今野寿美が、2016年から「しんぶん赤旗」歌壇の選者を二年間務めたことと共通するものがある。

 来年から選者になる栗木京子の観覧車の歌は、若い人ならだれでも知っている有名な歌である。というのも、中学校の国語教科書すべてに、与謝野晶子、石川啄木、斎藤茂吉たちの歌と並んで教材として収録されているからである。2020年召人として詠んだ歌は、自らの歌の「本歌取り」といえる。ずいぶんとサービス精神に富んだものというのが感想であった。数年前、お笑い芸人たちに短歌を競わせ、栗木が一刀両断で勝負を決めるというNHKの短歌番組が続いていた。栗木がそこまでするのかと、どこか痛々しく見えてしまったのだが、その芸人の一人が、松本人志のセクハラに加担したとして、活動を停止している。あの番組はどうなったのか。

 大辻隆弘は、2019年2月の朝日新聞の歌壇時評「短歌と天皇制」において、戦後短歌は天皇制への反省からスタートしたが、今や天皇制アレルギーはなくなった、という。岡井の弁明を想起するが、資料⑤の三首以外にも多くの類歌を2024年3月に出版した歌集『橡と石垣』に収められている。

<参考過去記事>
来年の歌会始の選者が決った~やっぱり栗木京子も(20247 2日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2024/07/post-b0fbd5.html

来年の「歌会始」はどうなるのだろう(20233 9日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2023/03/post-74140a.html

「短歌と天皇制」(217日『朝日新聞』「歌壇時評」をめぐって(1)~(4)(2019225日~35日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/02/210-9ef9.html
(1)以下URL省略

 

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