台風はどこへ~「短歌と勲章~通過点としての<歌会始>」と題して話しました。(2)文化勲章への道~国家的褒章はだれが選考するのか
歌会始選者を国家的褒章の一つであることから、さらに、その上の褒章制度とされる紫綬褒章や日本芸術院会員、文化勲章の受章者はどのように選考されるのか。歌会始選者への通過点とも思われる芸術選奨がどのように選考されるのか。そこに共通するのは、究極的には、ときの政権によって決められているという実態に着目した。受章者、選ばれた人たちを報道するメディアは、一様にその名誉や権威を称え、どんな選ばれ方をしたかについては触れることはない。選ばれた人たち自身の対応といえば、なぜ選ばれたかと謙遜の弁とともに光栄であるとよろこびの言葉が語られ、それを伝えるのがメディアである。
芸術選奨: 11の部門別に文科大臣任命による選考審査委員と推薦委員を設置。「文学部門」の選考審査委員7人の内1人が歌人、推薦委員10人の内2人が歌人という構成である。ここにも、資料②にあるように、受賞者が後に推薦委員になり、選考審査委員になるというコースが出来上がりつつあり、固定化、閉鎖的な選考システムであることがわかる。毎年2月末日前後に委員名と前年の業績を対象に受賞者・授賞理由が公表される。
紫綬褒章: ほかの分野の褒章とともに、科学技術分野、学術・スポーツ・芸術文化分野で業績のあった人たちを対象に、毎年4月29日と11月3日に受章者が公表される。しかし、この褒章制度の根拠法は、新憲法下には存在せず、1955年、なんと1881年明治14年の太政官布告第63号「褒章条例」を持ち出すという離れ業で復活させたものである。形式上も推薦委員会すらもなく、各省庁や自治体などの推薦により、内閣賞勲局との協議で閣議決定される、官制の、官僚による褒章であることがわかる。国民は、受章者ですら、明治初期の太政官布告に拠るものだとはよもや思わないであろう。
文化勲章:文化勲章を受章するには、原則として、文化功労者選考分科会によって文化功労者になっていなければならない。その文化功労者選考分科会の委員は文科大臣の任命により毎年9月初旬に公表される。
昨年の9月下旬、委員の名前を知りたくて官報を検索するが、見出せず、文科省に9月何日のどのページに載っているかを問い合わせた。翌日の回答では「9月2日に委員は任命されているが、官報に載せるのを忘れました」という。そんなことがあるのかと一瞬驚いた。さらに、数年前までは文科省のホームページに委員名は公表されていたはずだが、近頃載せないのですか、と尋ねたところ、「文化功労者選考分科会は、一年に1回しか開催されないので、委員の先生方の名前をホームページで永らく公表しているのはいかがと思いまして」との返事に、また驚いたのである。ホームページに載せない理由もさることながら、9月に任命されて、1回の会議で、11月3日の授賞式に間に合わせていることになる。ということは、文化功労者と文化勲章は、文科省によりすでに受章者は決まっていて、選考分科会は、そのリストを承認するだけではないのかと、推測されるのだった。
そして、この推測を裏付けるような記事を見出したのはつい最近である。前川喜平元文科省次官のインタビュー記事につぎのような個所があって、私の推測は確信に替わったのである。次官当時、文科大臣が任命するはずの文化功労者選考分科会委員10人のリストを杉田和博官房副長官のところに持っていくと、「この2名を外せ、政権批判をメディアでしていた、こんな人を選んではダメ、ちゃんとしらべてくるように」との発言で、差し替えさせられた、という(「前川喜平元次官が語る 官邸人事・不当と違法の分かれ目は」朝日新聞デジタル 2020年10月28日)。官邸の介入も明らかになったのである。
上記いずれの場合も、最終決定は閣議であり、その過程でも、省庁、政権の選考介入があるのは間違いない。それをかくも有難くいただく人たち、何も文化勲章などもらわなくとも、と思うような人たちのよろこびの声を聞くのは、ちょっと情けなくもなる。
なお、当日、時間が少しでもあったら、触れたいと思ったのが、メディアで活躍する有識者、評論家、コメンテイターと呼ばれる人たち、しかもリベラルと思われる人たちの天皇制への傾斜が顕著になってきたことである。
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以下は、15分ほどで話したことの要旨である。具体的な人名とその発言内容を紹介したかったのである。資料④は、人名と発言の出典を示した。
金子勝(1952~):マルクス経済学者の金子は、2018年の(明仁)天皇の誕生日会見で、「天皇陛下は声を震わせて」、沖縄に人びとの苦難の歴史に触れて、その犠牲に心を寄せ続けていくとの発言を紹介した後、「アベは聞いているのか?」とツイートして、天皇の言葉を評価した。
内田樹(1950~):「天皇の第一義的な役割が祖霊の祭祀と国民の安寧と幸福を祈願すること」に「さらに一歩を進め、象徴天皇の本務は死者たちの鎮魂と苦しむ者の慰藉であるという「新解釈」を付け加えられた。これを明言したのは天皇制史上初めてのことです」と明仁天皇を評価する。
金子兜太(1919年~2018年):戦後の前衛俳句運動の理論家でもあった俳人、金子は『東京新聞』連載の「平和の俳句」【2016年4月29日】の入選作「老陛下平和を願い幾旅路」の短評に「天皇ご夫妻には頭が下がる。戦争責任を御身をもって償おうとして、南方の激戦地への訪問を繰り返しておられる。好戦派、恥を知れ。」 「アベ政治を許さない」というプラカード揮毫者でもある。自身、激戦務める。2003年日本芸術院会員、2008年文化功労者となる。
水脈(みお)の果(はて)炎天の墓碑を置きて去る(『少年』、1955年)
望月衣塑子(1975~):東京新聞社会部の気鋭の記者である望月は、作家の島田雅彦との対談の中で、コロナ禍でこそ、天皇や皇后のメッセージが欲しい、と天皇・皇后へ賛美と期待を寄せている(「皇后陛下が立ち上がる時」『波』2020年5月)
木村草太(1980~):気鋭の憲法学者は「そもそも天皇制自体、憲法の立て付けとして少しおかしい」としながら、天皇制の積極的な意義として「政治の場に品格や公共性を示すことができる」として、天皇の前での醜い争いができなくなる、というが、例えば国会議員や閣僚が品格や公共性を示しているとは到底思えないし、天皇が、醜い争いの抑止力にもなっていないのが現状ではないか。
長谷部恭男(1956~)2015年6月衆議院憲法審査会において、自民・公明などの推薦の参考人として、集団的自衛権の違憲を表明して話題になった憲法学者だが、天皇制について、日本国憲法は身分制秩序の破壊を「大部分は貫徹したが、最後に天皇制という身分制の飛び地を残し」たとして、天皇制を容認している。
時間もないので、河西秀哉、落合恵子、高橋源一郎を端折り、最後に、加藤陽子(1960~)、上野千鶴子(1948~)に触れた。加藤は、「前(明仁)天皇は『原子力発電所の状況が予断を許さぬ』と言い切り、「この人は危機のときに本当のことを言ってくれるはずという人々の信頼に応えた。」という形で親天皇制を示す。上野は、その加藤の研究者としての評価を「(加藤さんは)前天皇の信任が厚く、何度もご進講に招かれています」と語り、あたかも「ご進講」が研究者のステイタスかのようにも聞こえる。
こうした発言がメディアで繰り返されることによって醸成された雰囲気の中で、国民は、天皇や皇族たちとの距離を縮めたかのような、天皇制へちかしく傾き、一種の思考停止に陥ってしまっているのではないか。
このような言説をどう乗り越えるのかが今後の私たちの課題かと思う。乗り越えるべき壁は高くて厚い。「無駄な抵抗」と言わせないために、小さな穴でもあけたいと思う。亡くなられた関千枝子さんのお誘いで原告になったものの、傍聴にも集会にも出ずしまいであったが、今後は少しでも、参加できたらと思う、と結んだが、今後の活動は体力勝負になるだろう。
私の話の後、弁護士の方から、第一審判決までの流れと控訴審にあたっての争点などが話されたが、とくに裁判経過がややこしい。
夜の開催、台風の行方が分からずじまいであったが、50人の方が参加された由。まずはほっとし、早く宿へといそぐ。家から持ち込んだいなりずしとフルーツ、夫は、部屋の近くの自動販売機でビールとおつまみを買い、ともどもお疲れさまでしたの乾杯と反省会になった。
予約のとき、「皇居の見えない部屋ならあります」とのこと。KKRホテル東京、最上階15階から丸の内方面をのぞむ。夜の高速道路の車列の灯りもきれいだった。朝食をとった12階のレストランからは、皇居が望めたが、のぞいてどうする?
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