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2024年10月29日 (火)

今回の選挙結果、どうみる?

 投票には出かけたけれど、どうもすっきりしないのは、どの党も、賃上げ、手取りを増やす、減税、社会保障費の軽減など、もっぱら、目先の問題が叫ばれていた。「お金」の問題は切実だが、どの党も、その財源を明確に示さず、その実効性は薄弱なのだ。

 それでも、選挙では、自公政権に、NOを突きつけた結果となった。自民一強はもうヤメにしよう、という国民の気持ちのあらわれか。それにしても投票率は低調なのは、自公はイヤだけれど、といって、支持する政党がなかったのではないか。それでも投票に出かけたひとの多くは、いわゆる「中道路線」を選んだ結果が、「立憲」、「国民」の議席増加につながったのだろう。

 赤旗のふんどし借りて勝ち戦(三重県 毎熊伊佐男)

 共産党風を起こして飛ばされる(埼玉県 栢野正則)

 「朝日川柳(山丘春朗選)」(2024年10月29日)の中の二句、共産党は「自民党の非公認候補者のいる支部への2000万円」をスクープしたにもかかわらず議席を減らした。日常活動への疑問と革新政党にあってはならない党内のさまざまな問題が噴出していたからではないか。

 受け皿が器問われる選挙あと(兵庫県 井上喜正)

  なるほどなあ、「共感と納得」、短歌をやめて、川柳に挑戦したくなるほど。「川柳の○○借りて」の一文となった。
  そもそも怪しいなと思っていた「国民民主」が、早くも、自公との部分連立?大臣ポスト?がささやかれているというのだ。日本の政治は、変わりそうにもない。

 身近なのことでいえば、最近、つぎのような疑問にしっかり応えてくれそうな政党が見当たらない。

・マイナ保険証は使いたくない。
・消費税は、少なくとも食品だけをゼロにしてほしい。
・オスプレイの事故が続く中、木更津の陸上自衛隊基地には、沖縄の普天間基地米軍海兵隊のオスプレイの機体整備に加えて、自衛隊のオスプレイの暫定配備は来年7月までのはず、移動先の佐賀空港とても、安全性の保障は何もない。移動後も機体整備は続くという。アメリカの言いなりに、危険なオスプレイを飛ばす自衛隊、米軍オスプレイの整備基地なっている木更津、いったいどうしてくれるのか。どの党も論議を避ける。
・エネルギー政策における原発に関しても、10月29日女川原発2号機の再稼働が始まった。東日本での再稼働は初めてである。現地で地震や津波による原発事故が起きた場合、道路は寸断され、避難は困難を極め、農地や海の放射線汚染は逃れないだろう。2011年3月福島原発事故による被曝状況は、ここ千葉県に限っても永らく続いた。古い原発の使用期限を延長し、廃炉の跡地に建て替える政府の方針がこのまま進んで良いものか。

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「東日本大震災後初めての原発建設、24年は候補地の検討が加速する」斉藤 壮司 (2024.01.12)日経クロステック/日経ものづくり、から。上記国内原子炉三社とは、三菱重工業、東芝エネルギーシステム、日立GEニュークリアエナジーである。-

 ・秋篠宮家の長男の進学問題などどうでもよい。皇位継承問題の法整備もまるで進まない。私は、天皇家が絶えるまで、このまましずかに待てばよいのにと思うが、そんなことを言う政党もない。
・ヘルパーさんたちが足りないというのに、この4月、訪問介護の基本報酬削減がなされ、中小の事業所の閉鎖がふえているという。いつか訪問介護を受けるかもしれない身としては、不安がつのるばかりである。

 

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ポトナム短歌会の公式ホームページが立ち上げられました。

2024年10月より、新しい編集部により、あらたに「ポトナム短歌会」のホームページが立ち上げられました。ぜひお立ち寄りください。

ポトナム公式ホームページ」で検索してみてください。

https://www.potonam.com/

ロゴマークポトナム.JPG

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2024年10月28日 (月)

ショウほど素敵なものはない?政府が決める文化勲章なのに

 投票日が27日に迫った、10月25日、政府は、文化功労者20人と文化勲章受章者7人を決定、発表した。受章者を誰が選ぶのかといえば、政府なのだ。「選ぶ」の主語は政府なのだが、主語なしで「今年の文化勲章は、・・・〇〇さんら7人、文化功労者には・・・〇〇さんらの20人が選ばれた」と報じたのは朝日新聞である(11月26日朝刊、35頁)。手元の「毎日」は「政府は・・・文化勲章を・・・の7氏に贈ることを決めた」(10月26日朝刊 23頁)と「東京」は、「政府は、・・・〇〇氏ら7人に贈ると決めた」(10月26日朝刊 4頁)とある。選挙報道でざわついていたメディアだが、すでに著名な受章者たちの幾人かのよろこびの声も併せて報道している。ことしは、文化功労者の草笛光子、文化勲章のちばてつやへの注目度が高かったようである。11月3日の文化の日、皇居での授章式後の記念撮影には、緊張した姿が報じられて来た。中には、日常の言動とうらはらに、ひたすらありがたがる受章者もいたりする。

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 私は、これまで、このブログをはじめ、いろいろな場所で話したり書いたりしてきたことなのだが、文化勲章は文化功労者の中から、多くは数年後に受章することが多い。文化功労者や文化勲章のような国家的褒章制度において、受章者がどのように選定されたかを問題にしないで、その受章の結果ばかりが独り歩きすることに危惧を抱いている。というのも、文化功労者を選考にあたって、文科大臣は文化功労者選考分科会に諮問の上、文科大臣が決定することになっている。その選考分科会の委員は文科大臣が学識経験者から任命する。要するに、文科大臣から選考を投げられている選考分科会の委員は、文科大臣任命なのだから、いわば、文科大臣の意向が最重要視されていることになる。

  さらに、驚くことは、文化功労者選考分科会の委員は9月初めに任命され、会議はたった一日しか開かないそうだから、そこで文化功労者と文化勲章の授章者が決まるというのである。文化勲章については、文化功労者選考分科会委員の全員の意見を聞くという手続きが加わるが、その後は、文科大臣の推薦、内閣賞勲局の審査を経て閣議決定される。選考分科会委員に任命された人が、いくら優秀な学識経験者としても、選考はまずムリ筋の話ではないか。

  ということは、文科省サイドから提出された受章者候補者を承認するしかないのではないか。そして、元文科省次官であった前川喜平のつぎのような発言などと考え合わせると、文科大臣の選考分科会委員の任命にすら首相官邸の横やりが入っているというのだから、さもありなんという推測は、現実となって驚きもしたのである。
  つまり、朝日新聞デジタルの記事「前川喜平元次官が語る官邸人事・不当と違法の分かれ目は」(2020年10月28日)によれば、文科大臣が任命するはずの分科会メンバーなのだが、前川さんが文科省次官のとき、文化功労者選考分科会委員10人のリストを杉田和博官房副長官のところは持っていくと、「この2名を外せ、政権批判をメデイアでしていた、こんな人を選んじゃダメ、ちゃんと調べてくるように」と差し替えさせられたという。

  10人の文化功労者選考分科会委員は毎年9月上旬に任命されるが、どういう訳か、官報での氏名公表は10月末日のようである。受章者の決定・報道後にしか、選考分科会委員の氏名が公表されないことは、何を意味するのか。今年の選考分科会委員の氏名は、まだ官報には載っていない。

  そんなふうに、時の政府により、恣意的に、閉鎖的に決まっていく受章者を華々しく報じ、受章者のよろこびの声と晴れがましい姿を報じるメディアの変わらぬ姿勢には、疑問を抱かざるを得ない。

 ショウ(章・賞)ほど素敵なものはない、ということなのか。

 

 

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2024年10月23日 (水)

1950年代、ダンスが盛んだったころ~児童舞踊、バレエ、フォークダンス、社交ダンス・・・

 母親が残しておいてくれたのだろう。断捨離のさなか、また面白いものが出てきた。20頁に満たない『島田舞踊』の二十数冊で、1951年1月の復刊180号から1953年7・8月合併号までだった。小学生のころ、私は体育と音楽が苦手だったからか、今だったらスイミングスクールだったかもしれないが、母は、「児童舞踊」の教室に通わせてくれた。池袋西口から要町方面へのバス通りの立教通りへ曲がらずに進んだ右手に、井坂文房具店があり、その裏手の板間の離れが教室だった。指導は、島田豊舞踊研究所の島田(井坂)静子先生で、決して広くはない稽古場には小学生がつねに10人以上はつめていた。多くは、ビクター発売の童謡のレコードに合わせた振り付けで踊るものだった。雑誌を見ると、幼年部も中学生の部も、バレエの部もあったのかもしれず、とにかく、全国各地での学校や幼稚園での講習会を展開し、支部(教室)、本部での発表会も盛んにおこなわれてしていたことがわかる。当時は、児童舞踊に限らず、敗戦後の解放感から学校でも、地域でも、職場でも、舞踊、ダンスの類が流行していたようだ。中学校に入ると、今度は、自分から体操部に入って、児童舞踊はやめている。その体操部も長続きはしていない。

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戦後の復刊号180号【1951年1月】

 『島田舞踊』の復刊号には、発表会の折などときどき見かけた、少し太った優しそうな印象の島田豊先生が「島田舞踊再刊の辞」として、昭和二年(1927年)9月に創刊したが、昭和17年(1942年)、紙の統制により警視庁の命令で大正書院『少国民舞踊』に併合され、179号で廃刊になった経緯が語られていた。そんなこともあったのだと、いまさらながら知るのだった。母は、大正末期に数年間、小学校教員をやっていて、当時の「自由教育」が叫ばれるなか、長兄出産のため退職している。島田豊の「遊戯」とも異なる「児童舞踊」の普及活動には関心を持っていたのではないかとも推測される。

 井坂文房具店は、井坂先生はどうされたのだろうか。池袋の実家には帰っても、確かめることはしていなかった。雑誌には、なつかしい発表会のプログラムまではさんであった。

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読売ホールを一日借り切っての発表会で、私は、杉並・豊島支部のなかに登場し、上記の第一部の最後の方で、同じ池袋第五小学校の同学年の友達と「りんどうの歌」に出演しているようだが、すでに記憶が薄れている。二人の友達は、宝塚のファンで、マッちゃん、マッちゃん(寿美花代?)とはしゃいでいたっけ。

 中学校では、フォークダンスが盛んで、昼休みになると、クラスメートはこぞって参加していたが、私はどうもなじめず、少しいじけていた。高校時代もフォークダンスは盛んだったが、私は、相変わらず体育祭などのフォークダンスに参加する程度だった。そして、社交ダンスも知らずじまいの人生だったといえよう。

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2024年10月18日 (金)

鳥海昭子さんからの古い手紙が出てきて、思い出すのは

断捨離のさなか、古い手紙などを整理していると、2004年、私の30年ぶりの第二歌集『野の記憶』(ながらみ書房 2004年6月)を出版したときの礼状が何通か出てきた。その中で、やはり、思い出深かったのは、鳥海昭子さん(1929~2005)が選んでくださった6首が色鮮やかに散らし書きがされているはがき大の色紙だった。

鳥海さんとは、1969年5月、戦前からの『ポトナム』同人であった増田文子さんが代表で創刊された同人誌『閃』での出会いであった。鳥海さんは、7号(1970年5月)から同人になり精力的に、作品を発表されていた。「閃」は隔月刊ながら毎号20首、30首は当たり前で、巻頭は順次40首が回って来るのだった。私の7号(1970年5月)の「幻の対話」40首については、橋本喜典さんからは、次号での批評1頁の3分の2以上を費やして、きびしい批評をいただいていた。「率直に言うが鑑賞するのに大変疲れた。意識的にか無意識的にか、語法・措辞が独りよがりすぎるのではないか」で始まり、「こまかい技術論に終始したようだが、技術の問題は最初にして最後の問題だと思うがゆえである」(「感想の二、三~“閃”七号について」『閃』8号 1970年7月)で終わる。私は、反論の余地もなく、自らの非力を悔いるばかりだった。
同じ号で、鳥海さんは、40首の中の1首「陽に手紙かかげて解かん検閲を受けて抹殺されたる幾語」について、「(前略)異常な事柄と厳しさを察することができる。だがどの一首も読者に吸いついては来ない。それは『幾語』というような総括的な表現で処理してしまうからである。陽にかかげて解けた幾語を具体的に使う方がおもしろいし内容も広げられるのではないかと思う」と評してくださった。当時は児童養護施設でのお仕事の関係で、毎月の歌会に参加されるわけではなかったが、会えばいつも優しく励ましてくださる大先輩であった。その頃の『閃』誌上の鳥海作品、山崎方代を思わせる歌もある。

やどかりが何かの終りをあるいてどこともなくどこまでも
(「何かの終り」『閃』7号 1970年5月)

つまづいたふるさとのやぶれかぶれのゆきしぐれ(同上)

あかない窓ひとつ春風がやけにたたいていきました(同上)

今日ここに来ているいることも人生のいい方向にむいてはいない
(「いびつな壺」『閃』8号 1970年7月)

とおい祭りの主役のようにびわの実のびわの種ある
(「釘をとどける」『閃』9号 1970年9月)

ぼく 王子さま嫌い 脈絡のない子のことば夕陽のような(同上)

さきの2004年の手紙の最後には「会いたいなあ————。」とあったが、翌年の10月9日に急逝、12月には、ご子息の中込祐さんから『ラジオ深夜便誕生日の花と短歌365日』(NHKサービスセンター 2005年12月)が、遺作として届けられた。お会いしたかったなあーーーー。

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今日10月17日の花は「フジバカマ」、花言葉は「あの日のことを思い出す」であった。鳥海さんは「些細なることにてありき本日のためらひ捨ててフジバカマ咲く」であった。

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1971年1月、『閃』の同人でもあった阿部正路さんの案内で我孫子文学散歩の折、左から増田文子さん、鳥海昭子さん、藤井治さんと。

ところで、色紙に書いて下さった6首の内の2枚、お仕事柄、子どもことを詠んだ拙作がほかにも選ばれたが、鳥海さんの筆になるとまんざらでもない短歌?に思えてくるから不思議である。

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内野光子『野の記憶』(2004年6月)より、鳥海昭子さんの筆になる。

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2024年10月16日 (水)

即位・大嘗祭違憲訴訟の控訴審第1回弁論は11月12日となりました

8月31日、即位・大嘗祭違憲訴訟の控訴をひかえた集会について、以下の記事で紹介しましたが、第1回の口頭弁論の期日が決まりました。

台風はどこへ~「短歌と勲章~<歌会始>という通過点」と題して話しました。(1): 内野光子のブログ (cocolog-nifty.com)

台風はどこへ~「短歌と勲章~<歌会始>という通過点」と題して話しました。(2)文化勲章への道~国家的褒章はだれが選考するのか: 内野光子のブログ (cocolog-nifty.com)

2024年11月12日(火)
東京高等裁判所、14時開廷
(傍聴の方は30分前に裁判所前に集合)
終了後、日比谷図書文化館にて報告集会があります)

 「即位・大嘗祭違憲訴訟の会NEWS」23号(2024年10月1日)には、8月31日の集会の模様を桜井大子さんがまとめてくださっています。その末尾に、参加者の感想が寄せられていたことも書かれていました。少し面はゆい気もしますが、やはり励まされる思いがいたします。ありがとうございました。 

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2024年10月 2日 (水)

新内閣発足したが、さっそく手のひら返し

 自民党総裁選の立候補者9人について、私からいえば、いずれが最下位になってもおかしくない人たちで、もはや絶望的でした。9人はずいぶんな“夢“を語りまくっていました。立候補しておけば、誰が総裁になっても、次の組閣で何らかのポストを頂戴するかもしれない、の魂胆が見え見えでした。さらに個人的な感想ながら、決選投票になった二人の”笑顔“は明らかに人工的?つくられた笑顔、トレーニングの末の笑顔はぎごちなく、そこまでするのかの思いがしました。

   新総裁は、閣僚などのボロが出ないうちに、野党の選挙対策が整わないうちに、早めの10月9日の解散27日選挙で切り抜けをはかるのでしょう。そして、第一党になることはまちがいなく、何の根拠もなく「所得倍増」などと叫んでいた人がこともあろうに財務大臣になるくらいですから、私たちの暮らし向きは変わり様がない、というより悪くなる一方ではないかと不安の種は尽きません。

 新首相は、地位協定の見直しを表明していましたが、沖縄の辺野古基地問題、日本の空を飛べない自衛隊機や民間機などをどう解決するのでしょうか。富裕層の金融所得課税や法人税引き上げへの本気度がどれほどなのか、自民党内での意見調整は難航するにちがいありません。「国民みんなが笑顔で暮らせるように」というけれど~。

 所用で、京都に二泊してきました。つかの間を鴨川沿いに歩きました。

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宿は、荒神橋近くのKKR「くに荘」でした。旧久邇宮邸跡とのことで、巨樹も多く、5階の部屋から鴨川が望めました。

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荒神橋下の飛び石付近で、遊ぶ子供たち。最近、「科捜研の女」のロケで、この飛び石を沢口靖子が渡ったそうな、宿の人が教えてくれました。すでに放映されたとのこと。

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あちこちでシロサギやカモがゆったりと遊んでいました。

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荒神橋から京阪三条まで、丸田町橋、二条大橋、御池大橋を経て、三条大橋までの約1.5キロほどを散策。三条小橋から高瀬川をのぞむ。宿泊した「  くに荘」には、「鴨川のほとりにいでてながめやる 荒神橋はなつかしきかも」という香淳皇后の歌碑が建っていた。皇后の実家が久邇宮家というゆかりによるもの。 

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