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2024年10月18日 (金)

鳥海昭子さんからの古い手紙が出てきて、思い出すのは

断捨離のさなか、古い手紙などを整理していると、2004年、私の30年ぶりの第二歌集『野の記憶』(ながらみ書房 2004年6月)を出版したときの礼状が何通か出てきた。その中で、やはり、思い出深かったのは、鳥海昭子さん(1929~2005)が選んでくださった6首が色鮮やかに散らし書きがされているはがき大の色紙だった。

鳥海さんとは、1969年5月、戦前からの『ポトナム』同人であった増田文子さんが代表で創刊された同人誌『閃』での出会いであった。鳥海さんは、7号(1970年5月)から同人になり精力的に、作品を発表されていた。「閃」は隔月刊ながら毎号20首、30首は当たり前で、巻頭は順次40首が回って来るのだった。私の7号(1970年5月)の「幻の対話」40首については、橋本喜典さんからは、次号での批評1頁の3分の2以上を費やして、きびしい批評をいただいていた。「率直に言うが鑑賞するのに大変疲れた。意識的にか無意識的にか、語法・措辞が独りよがりすぎるのではないか」で始まり、「こまかい技術論に終始したようだが、技術の問題は最初にして最後の問題だと思うがゆえである」(「感想の二、三~“閃”七号について」『閃』8号 1970年7月)で終わる。私は、反論の余地もなく、自らの非力を悔いるばかりだった。
同じ号で、鳥海さんは、40首の中の1首「陽に手紙かかげて解かん検閲を受けて抹殺されたる幾語」について、「(前略)異常な事柄と厳しさを察することができる。だがどの一首も読者に吸いついては来ない。それは『幾語』というような総括的な表現で処理してしまうからである。陽にかかげて解けた幾語を具体的に使う方がおもしろいし内容も広げられるのではないかと思う」と評してくださった。当時は児童養護施設でのお仕事の関係で、毎月の歌会に参加されるわけではなかったが、会えばいつも優しく励ましてくださる大先輩であった。その頃の『閃』誌上の鳥海作品、山崎方代を思わせる歌もある。

やどかりが何かの終りをあるいてどこともなくどこまでも
(「何かの終り」『閃』7号 1970年5月)

つまづいたふるさとのやぶれかぶれのゆきしぐれ(同上)

あかない窓ひとつ春風がやけにたたいていきました(同上)

今日ここに来ているいることも人生のいい方向にむいてはいない
(「いびつな壺」『閃』8号 1970年7月)

とおい祭りの主役のようにびわの実のびわの種ある
(「釘をとどける」『閃』9号 1970年9月)

ぼく 王子さま嫌い 脈絡のない子のことば夕陽のような(同上)

さきの2004年の手紙の最後には「会いたいなあ————。」とあったが、翌年の10月9日に急逝、12月には、ご子息の中込祐さんから『ラジオ深夜便誕生日の花と短歌365日』(NHKサービスセンター 2005年12月)が、遺作として届けられた。お会いしたかったなあーーーー。

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今日10月17日の花は「フジバカマ」、花言葉は「あの日のことを思い出す」であった。鳥海さんは「些細なることにてありき本日のためらひ捨ててフジバカマ咲く」であった。

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1971年1月、『閃』の同人でもあった阿部正路さんの案内で我孫子文学散歩の折、左から増田文子さん、鳥海昭子さん、藤井治さんと。

ところで、色紙に書いて下さった6首の内の2枚、お仕事柄、子どもことを詠んだ拙作がほかにも選ばれたが、鳥海さんの筆になるとまんざらでもない短歌?に思えてくるから不思議である。

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2004
内野光子『野の記憶』(2004年6月)より、鳥海昭子さんの筆になる。

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コメント

色紙の二首、良い歌ですね。そして人柄のにじみ出る味のある文字ですね。門外漢の当方でも、情景が浮かんできました。――マイナンバーカード拒否を貫くぞ、の後期高齢者より。

投稿: 門外漢 | 2024年10月18日 (金) 21時11分

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