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2024年10月23日 (水)

1950年代、ダンスが盛んだったころ~児童舞踊、バレエ、フォークダンス、社交ダンス・・・

 母親が残しておいてくれたのだろう。断捨離のさなか、また面白いものが出てきた。20頁に満たない『島田舞踊』の二十数冊で、1951年1月の復刊180号から1953年7・8月合併号までだった。小学生のころ、私は体育と音楽が苦手だったからか、今だったらスイミングスクールだったかもしれないが、母は、「児童舞踊」の教室に通わせてくれた。池袋西口から要町方面へのバス通りの立教通りへ曲がらずに進んだ右手に、井坂文房具店があり、その裏手の板間の離れが教室だった。指導は、島田豊舞踊研究所の島田(井坂)静子先生で、決して広くはない稽古場には小学生がつねに10人以上はつめていた。多くは、ビクター発売の童謡のレコードに合わせた振り付けで踊るものだった。雑誌を見ると、幼年部も中学生の部も、バレエの部もあったのかもしれず、とにかく、全国各地での学校や幼稚園での講習会を展開し、支部(教室)、本部での発表会も盛んにおこなわれてしていたことがわかる。当時は、児童舞踊に限らず、敗戦後の解放感から学校でも、地域でも、職場でも、舞踊、ダンスの類が流行していたようだ。中学校に入ると、今度は、自分から体操部に入って、児童舞踊はやめている。その体操部も長続きはしていない。

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戦後の復刊号180号【1951年1月】

 『島田舞踊』の復刊号には、発表会の折などときどき見かけた、少し太った優しそうな印象の島田豊先生が「島田舞踊再刊の辞」として、昭和二年(1927年)9月に創刊したが、昭和17年(1942年)、紙の統制により警視庁の命令で大正書院『少国民舞踊』に併合され、179号で廃刊になった経緯が語られていた。そんなこともあったのだと、いまさらながら知るのだった。母は、大正末期に数年間、小学校教員をやっていて、当時の「自由教育」が叫ばれるなか、長兄出産のため退職している。島田豊の「遊戯」とも異なる「児童舞踊」の普及活動には関心を持っていたのではないかとも推測される。

 井坂文房具店は、井坂先生はどうされたのだろうか。池袋の実家には帰っても、確かめることはしていなかった。雑誌には、なつかしい発表会のプログラムまではさんであった。

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読売ホールを一日借り切っての発表会で、私は、杉並・豊島支部のなかに登場し、上記の第一部の最後の方で、同じ池袋第五小学校の同学年の友達と「りんどうの歌」に出演しているようだが、すでに記憶が薄れている。二人の友達は、宝塚のファンで、マッちゃん、マッちゃん(寿美花代?)とはしゃいでいたっけ。

 中学校では、フォークダンスが盛んで、昼休みになると、クラスメートはこぞって参加していたが、私はどうもなじめず、少しいじけていた。高校時代もフォークダンスは盛んだったが、私は、相変わらず体育祭などのフォークダンスに参加する程度だった。そして、社交ダンスも知らずじまいの人生だったといえよう。

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