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2024年11月25日 (月)

あの頃の大学歌人会~風前の灯だった中に岸上大作も

 いま、各地で大学歌人会が立ち上げられ、隆盛を極めているようだ。老舗の京大短歌会、早稲田短歌会など、現在は、学生であれば、在学大学にこだわらないかなり自由な短歌会のように見受けられる。その大学歌人会同士の交流はどうなっているのだろうか。

 私の学生時代には、たしかに、在京の大学の歌人会の合同歌会などが開かれていた。断捨離のさなか、その片鱗をただよわせる資料がいくつか出てきた。

 私が入学した1959年、今はすでに消えた東京教育大の短歌会の上級生に、前川博さん、林安一さんがいらした。同期には、野地安伯さん、津田正義さんがいた。すでに卒業していた岩田(森山)晴美さんいらしたことも知ったのだった。

 私の短歌研究会のノートは、59年5月19日に始まっている。週火・木とE館212教室で開かれ、多いときは十人、少ないときは四・五人のときもある。黒板に各人が発表する短歌を眺めての合評会だった。

 ・いくすじか野火のけぶりのたゆたひて桧木林にうすれ行くな
  り(野地、5月19日)
 ・ビルの壁に囲まれて地の小暗きにあそべる鳥のかげ光れをり
  (林、5月19日)
 ・中古車の並ぶ広場を投げやりに小さきあくびする男の去りぬ
  (内野、5月19日)
 ・てらてらと照れる椿につながれて茶色の牛が動きつつ居る
  (津田、5月21日)
 ・ああ五月車輪の下にあお向けの少年の頬に地の熱かよう
  (前川、5月26日)

 野地さんは、現在『白路』の代表である。林さんは、私も入会した『ポトナム』の先輩でもあり、後、『うた』に移っているが、亡くなられている。津田さんの上記の歌は、「毎日歌壇」の佐藤佐太郎の選に入ったと知らされ、驚いたのだった。津田さんは、現在でも、ペンネームで「毎日歌壇」や東京新聞の「東京歌壇」にたびたび登場する常連でもある。前川さんは、寺山修司張りの作品が多く、異彩を放っていた。津田さんも前川さんも俳句との二刀流で頑張っているようである。いま手元には、ガリ版刷りになった「作品集NO1(1960年4月)」「NO2(作成年月不明)」があり、さらに『ポロニア』という小冊子は、私の在学中に、1号(1960年2月)から7号(1962年12月)までが確認できる。

 なお、大学歌人会といっても、ささやかな歌会ではあったが、1959年には、國學院大學、二松学舎大学と三校の合同歌会を開いたり、ときには、國學院との二校で、新宿の「トキヤ」や市ヶ谷の「カスミ」の隅で、小さなテーブルを囲んでの歌会だったりした。それが私にとっての大学歌人会だった。その記録が数枚残っていた。わら半紙というのか、仙花紙というのか、今ではまっ茶色になって、折り目や端からボロボロと崩れるように劣化してしまった紙、その上、謄写刷りなので、かなり読みにくい。さらに、私のメモが混じっているので、コピー機で調整をしても限界がある。

 1959年6月13日(土)に東京教育大学で開催された「歌会詠草」には15人が出詠、二人が欠席で、プリントの余白には、着席順までメモしてある。それによれば、参加者は、以下の通りである。
 国学院:藤井常世・山口礼子・平田浩二・高瀬隆和・岸上大作・鈴木・西垣
 教育大:前川・林・野地・山西・鴨志田・津田・内野
 中央大:島有道、不明:尾島

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 詠草の上に作者名が、下には互選の点が書き込まれている。高点歌を見ると、以下の通りだった。藤井常世さんも参加されていたことがわかるが、私の記憶はすっかり飛んでしまっている。

・かなしみに溺れてはならぬ危ふさに坂道尽きし海が美し
(山口礼子)8点
・おそいくる錯乱はげし冬の地図いづこにも黒き墓標を認む
(高瀬隆和)6点
・告げむと思ふこと多けれど告げず来ぬその眸の翳り気にかかりつつ(藤井常世)5点

 ちなみに、拙作「軍談に花を咲かせる先輩は短き煙草を厳しく吸いぬ(内野)」は4点、「愛葬る日の華麗にてわが裡にも豊子が蒔きし種子は育てり(岸上大作)」は2点であった。この歌会と時を置かずに開催されたのが、阿部正路さんと清水二三 恵さんの出版記念会を兼ねた「明日を展く会」(1959年6月27日、高田馬場「大都会」)で、大学歌人会の主催であった。

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上記写真については、つぎの過去記事を参照ください。
60年前の1960年、50年前の1970年、いま何が変わったのか(1)私の1960年(2020年1月25日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/01/post-8ad825.html

  また、59年10月24日(土)に国学院大学で開催された「教育大・国学院・二松学舎三大学合同作品合評会」のプリントによれば、出詠は29首というから、にぎやかだったに違いない。参加者は以下の通りだが、今となってはフルネームが分からない作者が多い。

 国学院:女川務・岸・榎本・篠田・志村・山口礼子・鈴木・近藤・山本・岸上大作・鈴木・平田浩二・三浦(篠田・山本作品なしか)
 二松学舎:林・丸山・上園・斎藤・伊藤・巣山・那珂・出浦・岩崎・山田・鶴田
 教育大:林安一・前川博・津田正義・鈴木通代・山西明・野地安伯・内野光子

 高点歌は以下の通りで、二松學舍勢が強かった。

・雪にわが喀きたる血の緋まざまざと熾烈なるかなわれをはなれて
(二松学舎、鶴田)6点
・窓の外に蜘蛛さかさまにぶらさがり四肢動かざるままの夕やけ
(二松学舎、林)5点

 ただ、プリントの中央の一首が7点入ったらしいのだが、歌も作者も判読できない。もしかしたら、「真夜中の浅瀬に佇てばわが翳も清き流れの中にまぎるる(山口)」と読めないこともない。とすると山口礼子さんの作品か。私の一首と言えば、恥ずかしいのだが、何とも荒っぽい、稚拙な・・・。言葉もない。「デモ終えて広場の隅に十円の硬き氷菓をせわしく食いおり」なのだが、それでも3人が入れてくださっていたのである。

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 1960年以降の資料がない。どの大学も安保闘争で、騒然としていたのだろう。大学の短歌会の交流どころではなかったのかもしれない。6月15日、学生のデモ隊が国会内に突入、警官隊と衝突、樺美智子さんが死亡した事件、安保条約の自然承認を経て、安保闘争は次第に停滞していったのだが、夏休み明けに、林安一、岸上大作、高瀬隆和、田島邦彦さんたちにより『具象』が7月に創刊されたのを知った。私などはどこか置いてけぼりを食ったような感じがしないでもなかった。そして、岸上さんが、その年の12月に自死したのを、年明けに知ったのだった。

 また、残っているプリントによれば、1961年6月17日、國學院大學において「三大学合同歌会」が開催されている。28人が出詠しているが、この三大学はどうも、國學院大、教育大、中央大らしい。というのも、「昏れなずむ机の上に灯を点ける懐疑も愛へひとつに武器か(田島)」とあるので、田島邦彦さんではなかったのか。もうひとり、「加藤」の名の下に「中」とあるからである。国学院のメンバーもかなり入れ替わり、変わらないのは教育大の野地、津田さんと内野の3人であった。メモの不備で、私の歌がどれだかわからない?!。

 野地さんや津田さんは、この頃のことを覚えているだろうか。かくして、私の大学歌人会交流は、終わったようなのである。

     

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2024年11月24日 (日)

特別公開の旧堀田邸に出かけてみた。

 きのうは、好天に誘われて、特別公開中の旧堀田邸に出かけた。長いこと、佐倉市内に住みながら、一度も出かけたことはなかった。京成佐倉駅から酒々井駅行きの千葉グリーンバスで4分ほどの「厚生園入口」で下車、旧堀田邸まで歩いた。意外と近かったのだが、なにせバスは、1時間に一本くらいしかなかったのである。佐倉ゆうゆうの里の施設を左右に見て、桜並木を進む。

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バス停か2・3分歩き、櫻の並木道に入ると、正面が旧堀田邸の門となり、右手に入ると厚生園病院となる。

 350円の入園料であったが、受付で、ボランテイアの案内はどうしましょうかと尋ねられたので、ぜひとお願いした。丁寧な説明をききながら、派手さはないが、趣向を凝らした旧佐倉藩主堀田正倫の邸宅の見学と庭園を散策した。廃藩置県で一時佐倉を離れた堀田家だったが、佐倉に戻った正倫は、1890年(明治23年)、純和風の邸宅を構えた。一帯の農事試験場を含め3万坪あったという。邸宅は広く、国指定の重要文化財にもなっているというが、まるで迷路のようでもあった。通常非公開の二階と書斎棟が特別公開ということらしかった。敗戦後しばらく、厚生園の所有となり、病室にも利用されたというが、現在は寄付を受けた佐倉市の所有である。

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佐倉市教育委員会による「佐倉武家屋敷・旧堀田邸・佐倉順天堂記念館」パンフより。左上の写真は、大正天皇の皇太子時代に立ち寄った折に増築された湯殿、湯船というものが見当たらない。傾斜のついた板間での掛け湯であった。

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客間から庭園を望む。写真は夫から拝借。

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2024年11月23日 (土)

「再稼働の女川原発で父娘半世紀の闘い」を見ましたか

 今日の「報道特集」の<特集・再稼働の女川原発で父娘半世紀の闘い>は、女川の原発反対運動を半世紀以上も続けてこられた故阿部宗悦さんと娘の阿部美紀子さんに焦点をあてたものだった。2016年、旅の途中ながら、知人から紹介された阿部美紀子さんに女川町の津波の被害から復旧さなかの町と原発近くまで案内していただいたのだ。以降、女川から目が離せなくなって、当ブログでも何本かの記事を書いている。

当時の阿部美紀子さんは、東日本大震災の翌年亡くなられた父親の遺志を継いで町議をされていた。東京の大学を卒業して以来、船問屋だった宗悦さんたちの原発建設反対運動を共にすることになったという。原発が建ってしまった後も、さまざまな形の活動の中心的な役割を果たし、東北電力と対峙してきたことになる。番組では、10月29日の再稼働を目の当たりした口惜しさを何度も語っていた。

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阿部さんは、仕事(町議を三期務めた)を辞めたそうだが、今年の7月7日、父宗悦さんの十三回忌に再稼働反対のデモ行進の様子が映されていた。参加した人々の掲げるさまざまなプラカードの言葉に東北電力はどう応えるのか。宗悦さんもきびしく見守っているに違いない。

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阿部美紀子さんが、25歳頃の父宗悦さんとの写真。

 2016年、鳴り砂で有名だった浜に海抜29メートルの防潮堤の先にある原発が見える小屋取浜に案内してくださった阿部美紀さんが、長い反対運動を振り返って、しずかに語る、いくたびも味わった口惜しさは、私もいたく動揺しながら、胸に迫るものがあった。

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<関連の過去記事のいくつか>

女川原発2号機、9月に再稼働か―電気料金が安くなる?(2024年6月20日 )
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2024/06/post-f2b257.html

 写真集『原発のまち 50年のかお』(一葉社)の勁さとやさしさ(2022年11月15日)
 http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/11/post-3f4728.html

 女川原発2号機はどうなるのか~再稼働反対の声は届かない(2020年10月30日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/10/post-bb75a1.html

 連休前、5年後の被災地へ、初めての盛岡・石巻・女川へ(6)(7)(2016年5月14日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/05/5-5cf0.html

 

 

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2024年11月19日 (火)

図書館への本の寄贈は迷惑?

 断捨離のさなか、図書や資料の処理に苦慮している。必要に迫られて購入した図書や雑誌、いただいた図書や雑誌、コピー資料などがあちこちから出て来てしまって、始末に困っている。図書館勤めが長かった習性か、たんなるズボラか、その後も細々、ものを書き続けているためか、一度利用した資料でもしまっておいた結果である。

 ここ5年、一度も開いたことのない図書で、古書店に引き取ってもらえそうなかどうかが一つの目安である。劣化があまりひどいものや傍線、マーカーなどが目立つものは廃棄する。一方、私の関心度が高い天皇制、女性史、短歌史、歌人研究に係る図書、雑誌、コピー資料は、これからもがんばるぞ?の自らの励ましの意味もあって、どうしても捨てられないものもある。自分の著作の保存用とあわせて書評や引用された文献なども捨てがたい。
  仕分けしていると、思いがけず、これは貴重と思われるが、残された時間内に、まず利用することもない短歌関係の資料に出くわす。現代詩歌文学館、日本近代文学館、国立国会図書館の所蔵を調べて、問い合わせながら、わずかではあるが、寄贈することにしている。短歌関係では、詩歌文学館の収集量はかなりのもので、二部目までは受け入れてくれる。 私が所属している『ポトナム』は創刊百年を超えたが、コピーを仮製本した形で持っていた大正期の一部を未所蔵の詩歌文学館に寄贈した。

   また『ポトナム』をまだらにしか所蔵していなかった近代文学館、なんと発行元から寄贈していなかった時期も長く、今後の寄贈をポトナム短歌会の方に依頼した上、手元の近年までの所蔵分を寄贈した。それに、『昭和萬葉集』の選歌を依頼された『ポトナムの』戦前分、講談社が国会図書館やいくつかの大学図書館でコピーし、一年分ないし半年分を仮製本したものを譲ってもらった30冊近いものも、受け入れていただいた。欠号が多く、当時のコピーの性能は劣っていたのか、原本の保存状況が悪かったのか、読みにくい部分もあったのだが、私はこれまでも、たびたび利用していたので、愛着もあったのだが、寄贈できて、ほっとした。というのも、国会図書館の欠号部分も多かったので、コピーの形だが受け入れ可能か、との電話での問い合わせに、コピーは受け入れられないと、断られた資料であった。
 また、国会図書館ではこんなこともあった。手元の児玉暁さんという歌人の個人誌『クロール』を私蔵するよりは、所蔵していない国会図書館にと思い、問い合わせた。ホームページにある「寄贈についてのお願い」という文書にしたがってくださいということだった。以下がその冒頭である。

「寄贈をお申し出くださる方には、次の事項をお願いしています。
・寄贈申出資料の取扱いを当館に一任すること。
・当館が蔵書としない資料は、原則として廃棄します。 当館が蔵書としない資料の返送を希望される場合は、寄贈のお申し出の際にご相談ください。 なお、返送の送料は、寄贈申出者のご負担となります。
・寄贈申出資料について国立国会図書館サーチによる所蔵確認を行うこと。
・寄贈申出資料のリスト(Excel: 12KB)を作成し、資料の送付に先立ち、そのリストを当館に送付すること。」 

 一読、やっぱり“役人”の書いた文書だな、と思った。今年の1月、ともかくエクセルの寄贈申出リストの書式に従って送信すると受信の返信は直ぐ届いたが、その後の寄贈受け入れの有無の返信も返却もないので、廃棄でもされてしまったのかと、11月になって問い合わせた。すると、今度は数日で返信が来た。「カビの処理をしていたので、遅れて申し訳なかったが、受け入れた」の主旨の返信であった。カビ?も疑問だったが、受け入れるまでなんで10カ月もかかるのだろう。それに、メールのやり取りのなかで、一言も謝礼の言葉がなかったのは、どうしてなのだろう。現在も遠隔複写やデジタル資料で、国立国会図書館には随分と世話になっているし、かつて務めていた職場ながら、残念に思うのだった。寄贈の申し出を断るにしても、受け入れるにしても、寄贈者の厚意への配慮がなさすぎるのではないか。

*当ブログの参考記事です。
『クロール』は突如、消えてしまったが~児玉暁の遺したもの
 (2023年12月28日)
  http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2023/12/post-0a8ca6.html

 最近では、『新胎』(欠号有)と『歌人集団・中の会・会報』1~23号を近代文学館に収めていただいた。『新胎』は田島静香さんから送っていただいた記憶がある。名古屋に住んでいた頃、「中の会」が発足したのを知って会員になっていたらしい。当時は、仕事と子育てで多忙な時期で、その活動に参加することはができなかったが、中の会主催のシンポジウムには一・二度参加した形跡もあった。どちらの資料も、もう利用する機会もないだろうということで、手離したのだった。これも行き先が決まって安堵したところである。                          

 図書館が「寄贈」について、慎重になるのはよく理解できる。大学図書館勤めをしていた時期、在職者や関係者の個人の著作などは別として、退職した教授や大学関係者やまたその遺族から蔵書の寄贈申し出があると、頭を抱えてしまう。「○○文庫」として、特別の書架に別置してほしいとか、「○○文庫蔵書目録」を作成してほしいとか、の注文が付けられることもある。書架が満杯に近いので別置は無理、重複する図書や劣化が著しい資料の廃棄などを約して受け入れることが多い。「寄贈図書台帳」のコピーを渡すこともあった。あるとき、退職した先生から「私の蔵書印がある本を古書店で見たという友人がいるが、どうしたわけか」とねじ込まれたこともある。近年、京都市の公共図書館で、桑原武夫からの寄贈図書が放置されていて問題になったこともあった。

 かつての職場で、近世文学専攻で書誌学者でもあった教授が、自ら収集した資料はほとんど古書店から入手したものだから、手離すときも古書市場にまかせて、ほんとに欲しい人の手に渡るのが、資料にとっても一番」と話されていたことも、記憶に留めておきたい

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2024年11月13日 (水)

生まれて初めて法廷に立った! 即位礼・大嘗祭はなぜ違憲なのか

 即位礼・大嘗祭違憲裁判は、平成から令和への天皇代替わりの即位礼の諸儀式と大嘗祭の違憲性を問うもので、2024年1月31日、東京地裁の一審判決は、憲法判断を回避、政教分離原則や信教、思想の自由について、憲法は制度的に保障したもので、個々の私人の信教の自由を直接保障するものではないとして棄却するものでした。私たち原告は、東京高裁に控訴、といっても、私などは、8月31日の集会に初めて出て、話をさせてもらった程度のことながら、事務局の勧めで、11月12日、控訴審の第1回口頭弁論で、陳述することになりました。

 8月31日の集会で話したことは「短歌と勲章~通過点としての歌会始」でした。事務局の方は、ご自由に思いのたけを書いてよいとは言うものの、それでは陳述にはなりそうもありません。さてと、ということで、分厚い「控訴理由書」を何度読んでも、むずかしい。それならばと、開き直って、代替わり当時の諸儀式を、テレビや新聞で見る限りではあるが、なんとも、時代離れした、あるときは滑稽にも思えたり、あるときは新天皇夫妻が気の毒になったり、付き合っている参列者たちって、どうなの?と思ったりしたことを書いてみてもいいのではないかと。
 儀式を三つほどに絞って、あらためて思い出しながら、いったいこの儀式の法的根拠はあるのかと調べてみて、驚くことばかりでした。 

 以下が私の陳述の要旨で、約15分、実際は、「ですます調」で丁寧に?話したつもりです。なお、冒頭には、自己紹介的なもので、なぜ即位礼・大嘗祭に関心を持ったかも述べました。傍聴席には30人以上いたように思います。

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「剣璽等承継の儀」 2019年5月1日の映像で見るかぎり、三権の長など二十数人がひかえた松の間に式部官長と宮内庁長官の先導で新天皇、秋篠宮、常陸宮が入り、壁際にしつらえた壇上の中央に天皇が立ち、壇の下の左右に秋篠宮、車いすの常陸宮が控えている。そこへ剣と璽をそれぞれ捧げ持った侍従たちが、天皇の前の二つの「案」と呼ばれる台に恭しく置く。さらに、国事行為で使われる御璽(天皇の印)と国璽(国の印)が捧げられた後、直ちに、侍従たちが台の上から引き取り、ふたたび捧げ持ち、天皇たちとともに部屋を退出する。男性たちの床を打つ靴音ばかりが響く6~7分間ほどの無言の儀式であった。女性の皇族は参列できないのが慣例で、今回は参列者側に、当時の安倍内閣の閣僚、片山さつき議員が女性として初めて参列したと報じられている。

 皇位の継承の証である「三種の神器」のうちの剣は熱田神宮に、鏡はは伊勢神宮に収められ、宮中にある剣と鏡は、形代(かたしろ)と呼ばれるレプリカだ。その鏡は賢所に、剣と勾玉は、吹上御所の「剣璽の間」に置かれているそうだ。しかし、代々の天皇すら、それらの包みを開いて中身を見てはならないものとされている。

 少なくとも「三種の神器」の「剣」に関していえば、これらの由来は、古事記・日本書紀にある、素戔嗚尊の八岐大蛇退治の折、尻尾から出てきた剣であり、後に天照大神に献上したのが「草薙剣」であるといった神話が由来です。この神話は寓話であり得ても、裏付けのある史実でもなく、伝統でもない、荒唐無稽な、グロテスクなフィクションではないでしょうか。天皇自身も「天照大神」の「子孫」であるとは信じていないでしょうし、国民の大かたも信じられない中で、見てもいない「剣」を大真面目に承継したとして、演じなければならない「剣璽等承継の儀」での姿は滑稽に思えてしまう。

「剣璽等承継の儀」の法的根拠は、皇室典範にも日本国憲法にもなく、根拠というならば、「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う国の儀式等の挙行に係る基本方針について 」という長い件名の「閣議決定」(2018年4月3日)だ。時の政府によっていかようにもできるという証左ではないか。その「閣議決定」では、「各式典は、憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の伝統等を尊重したものとすること」、「各式典についての基本的な考え方や内容は平成の代替わりを踏襲されるべきものであること」と記され、「剣璽等承継の儀」については国事行為である国の儀式として、宮中において行う。」とされている。

 承継されるべき「三種の神器」なるものがもっぱら「神話」にもとづいたものもあり、長い歴史の中での承継、移転の経緯にも疑問が多い。「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」の地位継承の儀式を、「国事行為」の中の「儀式を行ふこと」に含めるという「閣議決定」は、憲法第7条十項を拡大解釈したものと言わざるを得ない。

 今回の各式典は、基本的に昭和から平成の代替わりにおける「考え方や内容は踏襲されるべきもの」とされた。1915年の大正、1928年の昭和、1989年の平成への代替わりの儀式は、明治42年、1909年2月11日に公布された「登極令」によって実施されたことになる。令和の代替わり儀式が、1947年廃止されたはずの「登極令」と内容的に変わらない2018年の「閣議決定」によって実施されたことは、形式的にも、内容的にも新憲法下では認めがたいもので、違憲性が高いと考える。

即位礼正殿の儀 2019年10月22日に行われた「即位礼」の最初の儀式は、「賢所大前の儀」。賢所は、「天照大神」が祀られているというところ。天皇は、格式の高いという白の束帯姿、剣と勾玉を捧げ持つ侍従たちに先導されて賢所への回廊を進み、さらに皇霊殿、神殿を巡り、皇后も白の十二単姿で続く。侍従や女官が長い裾を、腰をかがめて移動する姿は、決して美しい姿とは言い難い。天皇は、その各所で「お告げ文」なるものが読まれているそうだが、その声を聞いた者はない。そして、秋篠宮を先頭にロングドレスの女性皇族の7人が傘をさして、あの日は雨風の強い日だったので、砂利道を賢所に向かう姿のちぐはぐな光景には、「伝統」なるものの異様さに気づかされる。

 続いて午後に行われた「即位礼正殿の儀」は、松の間に設えた天皇用の「高御座」、皇后用の「御帳台」が並ぶ。高御座の正面から束帯姿の天皇、御帳台から皇后も異なる色鮮やかな十二単で現れた。ここでも、天皇の前には剣と璽が置かれ、ここで発する天皇の「お言葉」といえば、「日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより皇位を継承」したことを内外に宣明し、これに対して安倍首相が祝辞「寿詞」(よごと)を述べ、首相の万歳三唱に、参列者が唱和していた。
  ここで、6.5mの高御座、5.7mの「御帳台」、天皇は、床上1.3mの位置から「お言葉」を述べ、首相が天皇を見上げて読む祝辞は「私たち国民一同は、天皇陛下を日本国及び日本国民統合の象徴と仰ぎ」とあり、「令和の代(よ)の平安と天皇陛下の弥栄(いやさか)をお祈り申し上げます」との言葉で結んでいる。

この一連の流れの中にはつぎのような問題点があると考える。
・これらの儀式は、憲法、皇室典範、皇室典範特例法上の定めにもなく、あるのは「閣議決定」(2018年4月3日)のみ。
「高御座」「御帳台」の設えの違いは何なのか。これら二つの設えも時代によって異なり確固たる伝統なるものはないうえ    に憲法上の平等規定に違反。
・憲法第一条「日本国及び日本国民統合の象徴」であり、「主権の存する日本国民の総意に基く」天皇は仰ぐ存在ではない。にもかかわらず、首相の祝辞は、「大日本帝国憲法」の「天皇制」を引きずっているとしか思えず。

 大嘗祭 毎年11月に行われる皇室行事の新嘗祭は、天皇の代替わりの折には大嘗祭として行われていた歴史上記録もあるが、永らく中断したり、その儀式としてのあり様も様々な変遷をたどったりしている。
 今回、大嘗祭以外の諸行事「剣璽承継の儀」「即位後朝見の儀」「即位礼正殿の儀」「祝賀御列の儀」「饗宴の儀」は、2018年4月3日「閣議決定」の基本方針により「国事行為」とされた。大嘗祭は、同日の「内閣口頭了解」という3行ほどの文書で決められた。それも、平成への代替わりのときの大嘗祭についての 「閣議口頭了解」(1989年12月21日)を踏襲する、とだけ記されている。
 その踏襲された「閣議口頭了解」では、つぎのような理由で、宮内庁が取り仕切る皇室行事として宮廷費からの支出により実施することが決められた。
・皇室の長い伝統を受け継いだ、皇位継承に伴う一世に一度の重要な儀式である
・天皇が祖先や神(皇祖及び天神地祇)に対し、安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに、国家・国民のために安寧と五穀
 豊穣などを祈念される儀式であり、この趣旨・形式等からして、宗教上の儀式としての性格を有するものと見られることは
 否定することはできない
・国がその内容に立ち入ることにはなじまない性格の儀式なので大嘗祭を国事行為として行うことは困難である
・その儀式について国としても深い関心を持ち、その挙行を可能にする手だてを講ずることは当然と考えられる。その意味に おいて、大嘗祭は、公的性格がある

  ここで、問題なのは、大嘗祭の「趣旨・形式等からして、宗教上の儀式としての性格を有するものと見られることは」否定せず、さらに、「国がその内容に立ち入ることにはなじまない性格の儀式」としながら、大嘗祭は公的性格があるとするのは大きな飛躍でしかない。あきらかに憲法20条の政教分離の原則、89条の「公の財産の支出又は利用の制限」に反すると考える。
 宮内庁の「大嘗祭について」(2019年10月2日)の文書でも明らかなように、この儀式の次第は「貞観儀式」(平安時代中期、870年代)「登極令」(1909年)などの記述と「基本的に異なるところはない」とも記され、今回も平成の代替わりと同様に行う、されていた。

 さらに、大嘗祭のメインと言われる悠紀殿、主基殿において天皇と神とが寝食を共にすることによって皇位継承がなされるという「秘事」に至っては、あまりにも現実離れした「ままごと」のようでもある。「秘事」と称して、天皇と二人の女官しか知り得ない作業や行為であるとしながらも、さまざまな準備や用意をする人々の手を借りねばならないはずで、「秘事」はもはや建て前にしか思えない。にもかかわらず、参列者や国民には知らされないという矛盾に満ちた儀式といえよう。なお、悠紀殿、主基殿における供え物の新穀の産地を決めるのは、亀の甲羅を火にくべて、その割れ具合による「亀卜」という占いによって都道府県が決めたというが、これも秘密裏に行われているので、その実態は分からない。

これまで見てきたように、大嘗祭の諸儀式は、すでに廃止された「登極令」を持ち出して踏襲しており、現在の法的な根拠もなく、日本国民統合の象徴であって、その地位は主権の存する国民総意に基づく天皇がなすべき行為、儀式とは言えず、憲法第一条に反する。

 したがって、上記で述べた、少なくとも「剣璽等承継の儀」「即位礼正殿の儀」「大嘗祭」は、過去の閣議決定、閣議口頭了解や廃止された「登極令」などを踏襲するもので、法的根拠はないまま実施されたことはきわめて違憲性が高いと考える。その憲法判断を求めるものである。同時に、これらの儀式が国費をもって実施したことによって、私が受けた精神的な苦痛は多大かつ持続しているので、国に対する損害賠償を求めるものである。 

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 五人の陳述が終わると、谷口園恵裁判長は、双方の弁護士と二言三言話していたが、よく聞き取れなかったのです。裁判長が「これで結審・・・・」のような声がしたかのような瞬間、傍聴席から「逃げるな」の声や、原告の弁護士から「忌避申し立て」などの声が飛んで、裁判官たちは退席していったのです。

 後の報告集会で、ようやく閉廷前後の顛末がわかりました。弁護士、陳述人が順次感想を述べ、質疑に入りました。きょうで結審、次は判決ということになるのが、控訴審では多いそうです。谷口裁判長の来歴なども紹介され、判決には期待できないが、これからも頑張りましょうということになりました。
 これからは、裁判の傍聴ならばいざ知らず、法廷に立つことはまずないでしょう。貴重な体験でした。事務局の桜井大子さん、弁護士の吉田哲也さんには、お気遣いいただきました。ありがとうございます。

  20241112-2
地裁から報告集会会場の日比谷図書館に向かう。なつかしい西幸門、NHKへの抗議デモやモリ・カケ問題のデモの出発地点であった。また、野音のさまざまな集会のたびに通った門。集会後、夕暮れ近い公園の黄葉はまだ始まったばかりのようだった。傍聴した連れ合いともども「やっぱり疲れた」と、ここも久しぶりの「松本楼」で夕食をとった。

 

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