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2024年12月31日 (火)

歌壇時評を書きました。

『ポトナム』2025年1月号に「歌壇時評」を書きました。短歌総合誌の『短歌研究』と『現代短歌』が、来年から、その出版形態を大きく変えるということです。この時評の執筆時には、『短歌研究』が隔月刊になることしか知らなかったのですが、その後『現代短歌』が、これまでの判を小さくし、その内容も重厚長大路線から10分で1・2本読める記事を主体にするということです。後者については、2月号の時評で触れたいと思います。 様変わりする短歌総合誌の流れは、ネット時代に即応したものながら、やはり一抹の寂しさを感じます。その一方で、大方は自費出版の歌集出版費が異様に高額なことにも触れています

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『ポトナム』2025年1月号より

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2024年12月22日 (日)

大嘗祭違憲訴訟の東京高裁での陳述書が掲載されました

 11月12日、大嘗祭違憲訴訟の控訴審、東京高裁に提出した私の陳述書が「即位・大嘗祭違憲訴訟の会NEWS」24号に掲載されました。この陳述の概略については、以下の当ブログ記事に書きましたが、今回は、提出した陳述書全文が収録されています。代替わりの一連の儀式、とくに大嘗祭関連の儀式についてはにわか勉強ではありましたが、調べて分かった限りのことを書きました。どう考えても、民主主義国家が国費を使ってなすべき儀式とは到底思えませんでした。天皇家の宗教「神道」に則って代替わりの儀式を行うこと自体、「国民統合の象徴」である天皇である以上、違憲と考えざるを得ないと思ったのです。

生まれて初めて法廷に立った! 即位礼・大嘗祭はなぜ違憲なのか : 内野光子のブログ
(2024年11月13日)

 

「即位・大嘗祭違憲訴訟の会NEWS」24号(2024年12月11日)は以下の2頁からご覧ください。

ダウンロード - 2024e5b9b411e69c8812e697a5e5a4a7e59897e7a5ade8a8b4e8a89fe69db1e4baace9ab98e8a381e999b3e8bfb0.pdf

 

 なお、11月12日、法廷での陳述は、提出した陳述書とは、若干異なり、自分なりに少し整理したり、補ったりしたこともありましたが、これは裁判記録に残るとのことです。

 

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2024年12月19日 (木)

あの瞳が輝いている~高橋真琴さんが亡くなられた。

 高橋真琴さんが90歳で亡くなられた。高橋さんが、同じ佐倉市にお住まいと知ったのは、1992年、町内の空き店舗で開催された「山川惣治と高橋真琴チャリティ展」であった。山川さんの似顔絵を描くコーナーでしきりに筆を動かしているのが印象的だったが、高橋さんにお目にかかることはなかった。山川惣治の少年王者は懐かしかった。高橋さんの描く少女の挿絵は同時代に見ることはなかったが、いろいろな意味で画期的な少女漫画であることを知ったので、興味深いものがあった。

町内の山川ファンの男性が、近くに住む山川さんと併せて高橋さんの展覧会を思いついたらしい。その後、高橋さんのお住いと画廊が駅一つ先の志津にあるというので訪ねたことがある。可愛らしい画廊で、温厚な高橋さんとお話しすることができ、小さな絵をも求めた。高橋さんは、青少年育成などの地域活動をされていて、私も友人たちとミニコミ誌を発行したりしていたので、しばらく、手紙や年賀状などのやり取りが続いていた。

その後、高橋さんは、佐倉市の名士のような形で、さまざまな場で活動されるのを遠望するようになった。いま、佐倉市を走るコミュニティバスの車体には、高橋さんの描く少女の瞳の星は輝いている。

いま書棚を片付けていて、高橋さんの絵や年賀状は、箱のなかだが、いずれお目に掛けたいと思っている。

ご冥福を祈ります。

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2006年6月29日「朝日新聞」より。古いファイルから、こんな記事が出てきた。

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2018年12月1日から走り始めている佐倉市コミュニティバス。

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2024年12月17日 (火)

1903年(明治36年)生まれの亡母は何がしたかったのだろう~わずかに残されていた敗戦直後から晩年の婦人雑誌(2)

 晩年に購読していたらしい、二・三の雑誌

 1955年10月号の『婦人公論』は創刊四十周年記念特大号とある。目次で執筆者を一望すると、当時の女性作家、女性論者が総動員されていて、中央公論社時代の面目躍如の感があり、壮観でもある。創刊が1916年(大正5年)1月なので、大正から昭和の激動の40年間を駆け抜けてきた雑誌である。「目で見る婦人公論四十年史」は、大正6年10月の神近市子大杉栄刺傷事件(日影茶屋事件)から昭和30年8月6日原水爆禁止世界大会の広島大会会場の写真で終わるは40頁近いグラビアが圧巻である。窪田空穂選による「歌壇」があるはずなのだが、破り取られているのは、その頃から母が短歌を作り始めたのではないかと伺わせる証ではないか。別冊付録「女の一生100問100答」は残念ながら残されていない。

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グラビアには、マダム・マサコによるフランスのヴォーグ紹介があるが、ここでもこれらファッションは、遠い憧れではなかったか。実用的で、働くイメージの強いファッションは今でこそ通用するのでは。

 1958年2月号『婦人指導者』は『婦人と教育』の前身らしい。この頃の母は、末っ子の私がすでに高校生で、長兄も結婚したので、家業や家事から解放された感があったのだろう。長兄が生まれるまでの数年間小学校教師をしていたので、もう一度学びたい、社会とのつながりを持ちたいと思い始めたのではないか。私の小学校時代はPTAのクラス役員などもしていたが、そのための外出を父親は快くは思っておらず、「また、行くのか」と嫌味をいわれていた記憶がある。また、1958年当時、ご近所の島田美恵子さんが主宰する「母親勉強会」にも入り、町内会の婦人部(?)にも顔を出し、夏祭りの際には、子どもたちの出しものの踊りなどを教えていたらしい。

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暉峻とし子、山川菊栄の名も見える。さまざまな形の地域の婦人団体の活動報告が続く。

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NHK第二放送で1957年10月14日から5日間にわたって放送された「女子教育史」が好評だったのを受けて、誌上録音し、その一回分が掲載されている。番組の冒頭では与謝野晶子「山の動く日来る」が朗読されたらしい。

 

  1959年7月発行の『土曜会会報』23号(土曜会、20頁)というサークル誌が残っている。ちょうどこの号には、1959年度の総会報告が掲載されていて、会員70名とあり、もう一つの会員アンケート紹介は、名簿も兼ねていて、住所・子供の年齢性別・職業・活動歴・会への希望が一覧できる。母は、「職業欄」に「時事問題に悩んでいる(安保、勤評)。教員をしている子も大学に行っている子もこれを中心に話すので」と記し、「希望欄」には、「時事問題などの講演を聞きたい」として丸岡秀子、市川房枝、伊藤昇、波多野勤子の名を挙げている。

 しかしこのサークル誌が発行された1959年の夏には、がんの手術をしたのだが、手遅れのため12月には、亡くなっているのである。その年の博文館の「当用日記」も残されている。夏以降、短歌の下書きや走り書き、もちろん家族のことはもちろんだが、病状と悪化への不安が綴られていて、読むのがつらい。

 母親は、何を学びたかったのか、何をしたかったのか、私には、それを尋ねる余裕もなく、母を見送ってしまった。もう少し長生きをしてくれたなら、私の最初の職場には、波多野勤子さんの『少年期』のその「少年」が、アメリカの国連勤務から帰国、教員になった大学に勤めていたり、二番目の職場では、丸岡さんの親戚がいらして、お宅に連れて行ってもらったり、近年は、市川房枝記念会ともご縁があって、『女性展望』に執筆させてもらったりして、現在は維持会員でもある。共通の話題が、たくさんたくさんあったのに・・・。もっともっとと話したかったのに。

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メジロが盛んに来るようになった。皮まで食べ尽くしているのがわかる。ヒヨドリは、例年より少ない

 

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2024年12月16日 (月)

1903年(明治36年)生まれの母は何がしたかったのだろう~わずかに残されていた敗戦直後から晩年の婦人雑誌(1)

敗戦直後の雑誌2冊

 長兄の代になって実家が小さなビルに建て替えるとき、屋根裏の物置から母の遺品を持ち出したのだろう。12月の母の命日は過ぎてしまったのだけれど、手元に何冊か半端に遺された「婦人雑誌」を記録にとどめておきたい。当時の婦人雑誌は、A5判で60頁ほどで、ざら紙で劣化も著しく、スキャンするにも綴じが今にも崩れそう。いや崩れてしまっているものもある。

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 この『婦人倶楽部』(大日本雄弁会講談社、64頁)1948年7月号の「夏の新型スタイル集」、何と懐かしいファッションだろう、杉野芳子(右端中央に見える)のデザインらしい。こんなワンピースやブラウスを着ている人を、身近に見ることはまずなかった。グラビアと言っても白黒だが、水泳の兵頭(前畑)秀子とスケートの茨木(稲田)悦子の子育てさなかの写真であった。裏表紙の広告がおもしろい。家業は薬屋だったし、私は店番が好きだったので、薬や化粧品の名前や製薬会社にも覚えがある。仁丹、山ノ内、三共、武田などは今も健在であるが、クラブ乳液のクラブ化粧品は今のクラブコスメティックになり、バニシングクリームのマスターがいまのマスターコスメティックかは不明。当時母はまだ短歌を作り始めてはいないようなので、私の関心から、短歌講座「歌のこころ」というコラムは、名歌というよりは、子や妻との微妙な関係を歌った作品の鑑賞が興味深い。ちなみに、このコラムの右側は、芹沢光治良の「新婚」という連載物の最終頁である。

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 『婦人界』(婦人界社、64頁)の表紙絵は志村立美。当時は、おゃれをしようと思えば、洋裁や和裁のできる人に仕立ててもらうか、自分で縫うしかなく、必ず型紙が付つけられていた。ここでもデザイン杉野芳子、田中千代が活躍する。つぎの斎藤茂吉の巻頭言のカットが中川一政である。

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左頁下段が目次、上段が茂吉の「白玉の憂ひ」と題して伊藤左千夫の

・白玉のうれひをつつむ戀人がただうやうやし物を云はなく

を引き、豊麗な肉体にこもる日本女性の情調を詠んだものとし、健康な女体の美を称えている。読みものでは、美濃部達吉の妻、美濃部多美子の「夫とともに歩んできた道」では、達吉が詠んだ短歌も紹介されていたのである。息子の美濃部亮吉の孫を大層可愛いがっていたそうで、つぎのような歌を孫への手紙に書き添えていたという。

・夏木立しげれる宿にかはらねど幼き子等の聲は聞こえず

 また、自宅に上げた客が暴漢と化して達吉は銃に撃たれ、入院するが、そのさなか、1936年2月26日2・26事件が起き、つぎのように詠んでいたという。

・我はただ我行く道を歩むなりいかに嵐はあれくるふとも

 なお、中河幹子選の短歌欄と中村汀女選の俳句欄は、最終頁に掲載されている。一等賞金100円、この雑誌が40円だから3か月分にもならないが。

 

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2024年12月10日 (火)

サザエさん健在!長谷川町子美術館に行ってみたい!

 数年前も、なかなか処分できず、しまい込んでいた『サザエさん』第一巻から八巻(1949~1952年)と、『町子たんぺん傑作集』(1950年)『似たもの一家』第一集(1950年)の10冊を前に、どうしたものだろうと考えあぐねていたところ、思い出したのが長谷川町子美術館であった。劣化もあるし、ラミネートフィルムでカバーしたものもある。これは愛読していた次兄が、後に施したものだろう。こんなものを果たして受け取ってくれるものか不安であったが、ともかく送り付けてしまったのである。

 そして日を置かず、届いたのが丁寧な礼状と共に、詳しい受領リストと各冊の表紙と奥付のカラー写真10枚であった。さらにサザエさんグッズと美術館の招待券10枚が同封されていて驚いてしまった。早い対応と大切に扱われた証のようでうれしかった。送付した「サザエさん」は、シリーズ初期のもので、出版はいずれも姉妹社だが、礼状に記されていて初めて気づいたのだが、印刷者が「単式印刷株式会社」「信行社印刷所」「川口荷札株式会社」「鈴江一臣」だったりしていることが、貴重だったらしい。
 サザエさん、健在!長谷川町子美術館、ありがとう。

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左上はメモ帳、手拭いの上にのせました。

「サザエさん」についての過去記事もご参考までに。

「サザエさん」に見る敗戦直後のくすり事情1~2
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/09/post-3f6a.html
 (1918年9月2日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/09/post-22b7.html

(1918年9月3日)

 

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2024年12月 7日 (土)

「美智子皇后の短歌」について書きました。

 私が会員になっている「新・フェミニズム批評の会」編集の『現代女性文学論』(翰林書房)が刊行されました。私は「美智子皇后の短歌-<平和祈念><慰霊>の短歌を中心に」(2023年8月締め切り)を寄稿しました。美智子皇后の短歌を、文学的に高く評価する評者がいる一方、皇后は女性作家ではないとする評者もいます。皇族が短歌を公表する場は、今では新年の「歌会始」くらいになりましたが、平成期には、他にも元旦の新聞紙上に発表されたり、美智子皇后の短歌は単独歌集『瀬音』として出版されたりしました。明仁天皇の短歌と共に、政治的なメッセージが伴う短歌も少なくはありませんでした。そこに焦点をあてたつもりです。「はじめに」も「おわりに」も、たかだか十頁ちょっとの文章には不要と思われましたが、結果的に、つぎのような章立てとなりました。

はじめに
1.天皇・皇后の短歌はどのように発信されいたのか
2.皇后の短歌はどのように鑑賞され、広められていったのか
3.天皇制維持への皇后としての意欲ー「リベラル」な論者の支持を追い風として
おわりに

 笙野頼子、川上未映子・・・多和田葉子とさまざまな作家が対象となっています。ご関心がありましたら、ぜひ最寄りの図書館にリクエストをお願いします。

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