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2025年2月26日 (水)

「何か求むる心海へ放つ」(放哉)って、今は少し恥ずかしい

 前の家では物置に置きっ放しにしておいた、若い時の書作品が出てきた。これまで、『ポトナム』で指導を受けた先生たちの色紙を額に収めて飾ることはあっても、拙作を部屋に飾るということは思い浮かばなかった。それでも、私の部屋をリホームした昨年、その一つを持ち出して飾った。その後、転居の話が急に進み、あたらしい住まいはコンパクトながら、どうしたわけか、昔の拙作が懐かしく、飾ってもいいかなという心境になった。上記「何か求むる心海へ放つ」と同じ尾崎放哉の「たった一人になりきって夕空」の二句を認めた軸、夫が運んでくれた、大きな額の「大工町寺町佛町老母買ふ町ありやつばめよ」(寺山修司)などを並べてみる。上の二作は、職場のサークルで、同僚でもあった書家の宮本沙海さんの指導で続けていた頃、「墨の国展」(内山雨海主催)に出品した思い出の作でもあった。しかし、いずれも若気の至りというか、今なら、こんな句や歌は選ばなかっただろう。寺山の歌、「町」のリフレインが気に入っていたのだが、自分自身が「老母」となった今では、自虐の歌にもなってしまう。少し、恥ずかしいけれど、自分の部屋には放哉の軸にすることに。

 

 

 

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2025年2月25日 (火)

なつかしい歌ばかり、初めてのコンサート

 2月23日、転居先の施設で、私たちにとっては初めてのコンサートだった。バス・バリトンの池田直樹さん、メゾ・ソプラノの池田早苗さんご夫妻と山口裕子さんのピアノ伴奏であった。直樹さんは二期会の現役だが、早苗さんも七十代、若い山口さんと三人とも東京芸大大学院出身とのこと。

  つぎのプログラムのように、懐かしい歌ばかりであった。武島羽衣作詞、滝廉太郎作曲の「花」は、私にとって思い出深い曲であった。また古い話ながら、池袋第五小学校6年のとき、合唱指導に熱心な音楽の先生がいらして、多分にわか作りの合唱団だったが、なんと豊島区の代表となって、東京都全体のコンクールに出場し、日比谷公会堂で歌ったのが「花」だった。私はアルトで、今でもアルトの出だしだけは、歌う?ことができる。

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 池田直樹さんの解説によれば、日本最初の二部合唱曲とのこと。さらに池田さんは、廉太郎は東京音楽学校から留学生としてドイツに渡ったが、数か月で結核を発症、やむなく帰国後二三歳で亡くなったとも、続けられた。そのドイツというのは、ライプチヒで、2014年10月のドイツ旅行で、メンデススゾーンハウスを訪ねようとして、道に迷い、偶然出会ったのが滝廉太郎の下宿跡の碑であった。地図を広げ、迷っていた私たちを見て、向かいの道で手招きしてくれる人がいた。日本人とみて、滝廉太郎の碑を教えてくれたのである。碑に接したカフェのオーナーだったのである。私たちは、その店で一休みし、メンデススゾーンハウスへの道順をも教えてもらったのであった。そんなことを思い出しながら「花」の二重唱に聞き入った。

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 北原白秋・山田耕筰のコンビの歌の由来、原語での「野ばら」「菩提樹」、「森のくまさん」や「もう飛ぶまいぞこの蝶々」は、オペラ風の振り付けもされていた。楽しい一時間であった。

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2025年2月18日 (火)

「岩波の本は、返品できないんですよ、いいですね」~歌集『ゆふすげ』をめぐって

 転居先に出入りの本屋さんからの確認の電話だった。やはり、読んでおかねばと、注文した『ゆふすげ』(美智子著 岩波書店 2025年1月)の件である。著者「美智子」は、平成期の美智子皇后、美智子前皇后のこと。苗字のない著者というのも不思議な気もするが、苗字を持たない人たち、皇族たちがいることをあらためて思い知るのだった。

 「重版を待つので、少し遅れます」と本屋さんは言っていたが、意外と早く届いた。「昭和、平成の未発表歌四六六首」を収録、「昭和四十三年」(1968年)から「平成三十一年」(2019年)までの歌を暦年順に、年ごとに一首から十数首を収めている。一首もない年もある。

 これまで、美智子前皇后の歌集の代表的なものに以下がある。しかし、いずれの歌集の奥付にも、著者の名はなかった。

『ともしび 皇太子同妃両殿下御歌集』 宮内庁東宮職編 婦人画報社 1981年12月

『瀬音 皇后陛下御歌集』 企画・編集・刊行大東出版社 1987年4月(1959年~1996年作 367首 未公開191首)

  『ともしび』と『瀬音』とは重なる作があり『瀬音」と今回の『ゆふすげ』とは年代的には一部重なるが、これまでの未発表作が収録されている。また、平成期の歌は、『道』という十年ごとに刊行された明仁天皇の記録集(宮内庁編 NHK出版)の各最終章「陛下のお側にあって」のなかの「御歌(みうた)」に収められている。そこには、毎年一月一日のメディア向けに発表される三首と歌会始に発表された一首を加えて四首が、宮内庁の解説?つきで収められていた。ちなみに、元旦の新聞に載るのは皇后三首、天皇が五首と決まっていたし、『道』においては上記のように皇后は年に四首、天皇は年に十首前後と、その差は著しい。その差を埋めるべく、皇后本人の意もあって、単独の歌集が刊行される運びとなったのではと推測される。

これまで発表されてきた歌は、とくに『道』には、あくまでも「公的行事」――法的根拠がない――としてなされていた植樹祭、国民体育大会、豊かな海づくり大会のほか被災地、戦跡、訪問、福祉施設訪問などで詠んだ歌が主であったが、『瀬音』と『ゆふすげ』には、たしかにプライベートな歌が多い。明仁天皇を詠み、明治天皇、昭和天皇、香淳皇后など皇族たちへの追悼歌が散見するのは当然として、自らの父母への哀惜、自らの師や友人たちの追悼歌も多い。中でも、私が注目したのは、短歌に係る者として、美智子前皇后の歌がどのようにして形成されていったかの関心から、その指導者であった歌人五島美代子、佐藤佐太郎、佐藤志満への追悼歌であった。

 たとえば、『瀬音』の「昭和六十二年」には「佐藤佐太郎先生をいたみて」と題した三首の中につぎの歌がある。

・もの視(み)つつものを写せよと宜(の)りまししかの日のみ目を偲びてやまず

 また、『ゆふすげ』の「昭和六十二年」に「忍ぶ草 佐藤佐太郎先生をいたみて」と題した三首に中の一首である。

・みよはひを重ねましつつ弥増(いやま)せる慈(いつく)しみもて教へ給ひぬ

「平成二十一年」には「佐藤志満先生追悼三首」と題した中につぎの一首がある。

・「わが親族(うから)ゆめ誹(そし)らず」とかの大人(うし)の讃へし妻にありませし君

 佐藤夫妻への敬意と信頼をうかがわせる歌である。

  また、「お妃教育」における、五島美代子が担当した「和歌」は、週1回の2時間10回の日程であったという(『入江相政日記三』261頁)。五島美代子のエッセイによれば、開講に先立って、三つの目標、本当の気持ちをありのままに詠む、毎日古今の名歌を一首暗唱する、一日一首を百日間作り続ける、という約束を交わし、美智子前皇后はそのすべてをクリアしたという(『花時計』321~325頁)。彼女の歌には、文学的な才能や知性ばかりでなく、その努力もうかわせるエピソードである。 

   つぎに着目したのが、夫である明仁天皇を詠んだ歌であった。歌詠みにとって、濃淡はあるものの、「相聞」は、基本的なテーマでもある。憲法上特別な地位にある夫婦ではあるが、美智子前皇后は、最上級の敬語を使ってつぎのような歌を詠み続けるのだが、違和感を覚えざるを得なかった。夫婦の実態は知り得ないが、私などの世代でもそう思うのだから、若い人たちは、どう思うのか、聞いてみたい。

・高原に初めて君にまみえしは夏にて赤きささげ咲きゐし(「高原」と題して「平成四年」)

・初(うひ)にして君にまみえし高原(たかはら)にハナササゲは赤く咲きてゐたりし(「平成二十九年」)

 繰り返される最初の出会いの緊張感と胸ふたがれる思いが「赤いささげ」の花に託されているように、私には読める。

・大君に捧ぐと君は北風の中に楓の枝を手折(たお)らす(北風」と題して「昭和六十三年」)

 これは、昭和晩年の大君、昭和天皇と「君」との関係をうかがわせる。

・御列は夕映えの中ありなむか光おだやかに身に添ふ覚ゆ(「平成二年」「光」と題して。「御即位に伴ふ祝賀御列の儀」の註)

 即位後の安堵感が見て取れるが、彼女は、代替わりの諸々の儀式を乗り越えるにあたって何を思ったのだろうか。

・日輪は今日よみがへり大君のみ生まれの朝再びめぐる(「平成六年」「天皇陛下御還暦奉祝歌」と題して)
・君の揺らす灯(ともし)の動きさながらに人びとの持つ提灯揺るる(「平成十三年」「灯」と題して)

 「日輪」の歌には、いささかその大仰さに驚いたが、彼女は承知の上でのパフォーマンスにも思えるのだった。「灯」の歌も、行幸啓の先々での提灯による歓迎の模様を詠んでいる。提灯や日の丸の小旗は、地元の奉迎・奉祝の実行委員会のような組織や「日本会議」、神社庁などが配布する場合が多い。提灯を揺らしていたのは、いわば物見高い人たちや動員に近い形で集まった人たちだったのではないか。天皇と国民との交歓風景の演出だったり、創出であったりのようにも思える。。

・清(すが)やかに一筋の道歩み給ふ君のみ陰にありし四十年(よそとせ)(「平成十二年」「道」と題して)

 「君のみ陰に」「陛下のお側にあって」という表現が、天皇と皇后の関係を端的に示しているとしたら、これを認めてしまったら、憲法上象徴たる天皇、天皇家には男女平等がないことになりはしまいか。野暮なことをと言われそうだが、天皇、天皇家を、日本国憲法の「番外地」にしてはならない。

 なお、2月5日のNHK「歌人 美智子さま こころの旅路」の影響もあったのだろう、『ゆふすげ』は、共同通信によれば、10万部を超えるベストセラーになっているそうだ(「美智子さま歌集が10万部超 1月の刊行から大反響」2024年2月14日)。NHKの番組は、美智子前皇后の歌の紹介などを歌人永田和宏が行い、ゆかりのある人たちのインタビューなどにより構成されていた。もちろん、誰もが敬語を使って、その人柄や歌について語っていた。朝ドラに出演していた若い女優の語りとイメージ映像は、あまりにも情緒的であって、むしろわずらわしく思えたのだが。そういえば、2月16日の「朝日歌壇」の永田和宏選に、つぎのような一首があった。永田さんは『ゆふすげ』の解説者でもあったのである。これって、少しやり過ぎじゃないかしら?

・行きつけの小さな本屋に注文し重版待ちいる歌集『ゆふすげ』(埼玉県) 中里史子(2月16日)

また、一週間後に永田選でつぎの歌が掲載されていた。やっぱりこれって、投稿歌壇の私物化と言ってもいいのでは?

・カバーより透けて見えにしゆうすげは清らに咲きて歌集の(水戸市)佐藤ひろみ(2月23日)

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2025年2月11日 (火)

今なら炎上?投書というトラウマ

 またも、古い話で恐縮だが、1958年の秋、メディアと言っても当時は新聞が主流で、紙上では警職法と勤評問題について毎日のように大きく報道されていた。まだ、わが家にはテレビがなく、インターネットなど想像もつかない時代であった。次兄が中学校の教員であったこともあって、家では、よく話題になった勤評と警職法だった。大学生や働く大人たちが反対の集会やデモに参加しているのを見聞きしていて、予備校生であった私もざわつき始めたのだろう。「朝日新聞」の学生欄の「アーケード」に投書したところ掲載されたのが、以下「”日本の曲がり角”と受験生」だった。

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1958年11月17日「朝日新聞」夕刊より 

 いまから思えば他愛ない内容なのだが、大きな反響があったらしく、新聞社には42通もの手紙が寄せられたという。投書の際、肩書に予備校名まで記してしまったので、予備校あてに何通かの手紙やはがきが届き、中には脅迫めいたはがきもあった。私は、校長室に呼ばれ、浪人生の身で軽はずみなことをするな、全学連が押しかけてきたらどうする、勉強が第一だろうとお説教を食らった。たしかに、摸試では低空飛行だった私には耳が痛かった。

 その手紙の大半は、同じような思いを代弁してくれてよかったとする浪人生のものだったいう。中には生半可な知識でものを言うな、今は勉強に励むときだから我慢せよという大学生もいた。同じ予備校に通う者からは、「あんたは、通学路の駅前の横断歩道を渡らず、三角地帯を通る近道をしているのは、ルール違反ではないか、そんな人間が警職法云々を言うな、というものもあり、少し怖い思いをした。

 一方、「朝日新聞」は、その反響にこたえる形で、浪人生たちの声を聴こうと座談会を企画、有楽町の朝日新聞社に数人の浪人生が参集、教育学者の海後宗臣東大教授も参加されていた。私は、他の浪人生と共にいったい何を話したのだろう。年末には以下のような記事にまとめられた。座談会の終了後、みんなでラーメン?をごちそうになったことを覚えている。

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 いま手元には、手紙の一部が残されている。転居の折にも、「わが十代」の思い出として捨てきれなかったのである。手紙への返事は、当時、両親からも出さないように封印されたが、便箋に何枚も書いて下さった方々、ほぼ同年代の方々は、今どうされているだろうか。

 「投書のトラウマ」とはいうものの、退職後には、地域の自治会活動で知ることになった「自治会と寄付金」を「朝日新聞」の「私の視点」に投稿、掲載されたこともある。これが縁でTBSテレビのワイド番組での短いコメントが放映されたりした。2006年から始めた当ブログには、日頃の思いを、雑多ながら綴り続けている。記事によっては、若干の反響があったり、情報交換のきっかけになったりするので、楽しみにもなっている。

 

 

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2025年2月 8日 (土)

十数年ぶりのおひなさま登壇!

 転居の折に積み残してしまったものに、おひなさまがあった。

長女のために購入したのだったが、家を出て下宿するようになっ

たのをきっかけに、こまごました付属品を出さないで飾ることに

していた。今回はそれらを処分して、赤い毛氈と屏風だけを運び

ようやく、ひさしぶりに飾ったのである。これまでは、なんだか

んだと理由をつけては、飾っていなかった。

 せめて、せめて、これからは毎年、飾ってあげたいと思うのだった。

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ベランダの正面の古木は、枝垂れ桜だそうで、楽しみにしているのだが。

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2025年2月 7日 (金)

即位・大嘗祭違憲訴訟の控訴審陳述書、「反天ジャーナル」に転載されました。

当ブログでも、お知らせしましたように「即位・大嘗祭違憲訴訟」
控訴審での私の「陳述書」が全文読めるようになりましたが、下記
の「反天ジャーナル」(20205年2月5日)に転載されました。

ほかに重厚な力作やユニークな記事も満載ですので、お立ち寄りい
ただければと思います。


「反天ジャーナル」(2025年2月5日)
https://www.jca.apc.org/hanten-journal/ 

ご参考までに、当ブログ記事も。
2024年12月22日 (日)
大嘗祭違憲訴訟の東京高裁での陳述書が掲載されました.
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2024/12/post-0daf4b.html

 


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2025年2月 3日 (月)

「歌壇時評」を書きました。

 『ポトナム』2月号に「歌壇時評」を書きました。近年、短歌の総合誌に掲載される若い人の作品を拾い読みしたりすると、難解というか、意味不明の歌が多くなった。たまたまかも知れないが、とくに若い女性の性愛の歌が続いたりして、辟易とすることがあった。同じ短歌の世界に居ながら、どこかがちうのだろう。私などは、わかったふりをすることもないので、無理なく読み、詠んでいきたいと思う。

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2025年2月『ポトナム』より

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2025年2月 2日 (日)

皇室はもはや「無法地帯」?~皇室における女性の基本的人権は

「皇族は男女平等番外地」(東京都 長谷川節)
(朝日川柳 2025年1月31日)

 天皇制が憲法の「番外地」というならば、皇族の人権も「番外地」ということになるのだろうか。皇室はもはや「無法地帯」と言っていいかもしれない。
 1月31日の上記の川柳が目についた。日本国憲法の「第一章 天皇」を、天皇制を、憲法の「番外地」と称して容認する識者もいる。上記の川柳は、皇室において男女平等が認められないこと、憲法の男女平等条項は皇室の女性に及ばないことを「番外地」と詠んだ川柳。「番外地」のなかでさらに「番外地」となると、「無法地帯」に等しいのではないか。

 2024年10月29日、 女性差別の撤廃を目指す国連の女子差別撤廃委員会は、日本政府に対して、男系男子による皇位継承を定めた日本の皇室典範の改正や、選択的夫婦別姓の導入に向けた民法改正を勧告していた。ところが、2025年1月29日、外務省は、これに抗議して、国連の女性差別撤廃委員会を、日本の拠出金の使途から除外することを決めたというではないか。女性差別撤廃どころか、なんとえげつないことをするのだろう。その理由として「皇位につく資格は基本的人権に含まれていないことから、皇室典範において皇位継承資格が男系男子に限定されていることは女性に対する差別に該当しない」「皇位継承のあり方は国家の基本に関わる事項であり、女性差別撤廃条約に照らし、取り上げることは適当でない」とするのである。要するに皇位、皇位継承者には基本的人権の適用外、皇位継承事項は国家の重要事項であって、女性差別撤廃条約の適用外、外からとやかく言われる筋合いはないというのである。

 また、2021年12月22日、政府に提出された皇位継承に関する有識会議の報告書では、皇族数の確保策として、


〈1〉女性皇族が結婚後も皇族の身分を保持
〈2〉旧宮家の男系男子が養子として皇族に復帰

の二案が示されたことを思い出す。一案では、女性皇族に結婚後の身分保持―眞子さんのように自由になれない。二案では、女性皇族は旧宮家男系男子と養子縁組をさせられることになるかもしれないのである。しかも、いずれの案も皇位継承者の確保には直結はしない。「有識者」の人選もさることながら、彼らは、女性皇族たちの人権について思いは至らなかったらしい。

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どのメンバーも、各省庁の審議会などの常連であって、「皇位継承」ないし「皇室」についての有識者とは思えない。富田(1951~)清家(1954~)
宮崎(1958~)細谷(1971~)中江(1973~)、大橋(1975~)ということで、従来の有識者会議メンバーより若返ったというが、彼らとて、大方はイエスマンで、上昇志向の高い人ばかりに見受けられた。

 さらに、この二案を示された政府も、誰も関わりたくなかったかのように、積極的に論議せずに今日まで手付かずであった。ところが、この1月31日、衆参両院の各党派代表者による皇室課題に関する全体会議が開かれ、今国会中に結論を得たいとすることに多くの党が賛成したという。

 有識者会議報告の一案については、各党派の賛成が多いが、女子皇族の結婚後の夫や子供の身分をどうするとか、二案の旧宮家男系男子の養子縁組による皇室復帰させるかについては、各党派での違いがあるという。この先の議論で、皇室典範の改正ができたとしても、憲法の基本的人権条項に反することになり、違憲は明らかながら、皇室のタブー化は進むに違いない。

 皇族の「国事行為」以外の外国訪問、被災地訪問、戦跡訪問はじめ、さまざまな行事参加は、まったく法的根拠がないまま実施されて来た。また、大嘗祭はじめ皇位継承の様々な儀式についても、明治時代の太政官令を持ち出し、伝統の名のもと前例踏襲のまま実施してきたのが実態である。日本は法治国家であるはずなのに。

 にもかかわらず、近年の宮内庁は、「公的行為」を拡張して、皇族たちの露出度を高め、必死になって広報し、国民の関心をつなぎとめようとしている。それらの情報をひたすら拡散しているのが、いまのマス・メディアの姿といえるのではないか。

 

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