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2025年3月29日 (土)

初めてのレストラン、金婚記念に少し遅れて。

  花曇りというのか、はっきりしない中、電車の音のする方へ、ということでJR佐倉駅近くのレストランで食事をすることになった。連れ合いは、結婚50周年!の記念のつもりといっていたが、なかなか予約が取れず、この日になった。きょうは、私たちと女性二人の二組だけでこじんまりした雰囲気のなかで、久しぶりの外食。往復も施設のバスで、少し得をした気分でもあった。駅付近は京成佐倉駅とも、いささか雰囲気がことなるものの、駅前は外食チェーン店、コンビニ、地銀、駅近に葬祭場まであるのも一緒であった。

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食いしん坊の私は、お皿にすぐ手をつけてしまう。かわいらしいデザートも。連れ合いのスマホから送ってもらった。

 帰宅後、敷地内の探索、ソメイヨシノは、三分咲き?五分咲き?というところだったが、さまざまな花に癒される。

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まだ花が残っていたミモザ。
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桜の花に似た白い花、スモモだった。

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人が近づくと寄って来るコイたち、ちいさい子どものコイもいっぱい。

 

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2025年3月28日 (金)

4月7日、天皇が硫黄島訪問~石破総理は明日29日、日米合同慰霊祭に参列~

  トランプと石破について、もはや語るのも忌々しいし、斉藤某知事の無表情な往生際の悪い顔は見たくもない。一方で、マス・メディアやネット上では、皇室ネタというか若い皇族ネタがあふれ、笑顔が振りまかれている。

  そんな中で、見過ごすことができないニュースがあった。今年の1月から調整されて来た、天皇夫妻の硫黄島訪問が4月7日と決定したことである(「両陛下、来月7日硫黄島へ 戦後80年で戦没者慰霊―宮内庁」時事通信配信2025年3月21日)。さらに上記記事によれば、当日は「羽田空港から政府専用機で硫黄島入りし、2万人余りの日本人戦没者を慰霊するため国が建立した「天山慰霊碑」(硫黄島戦没者の碑)①、軍属として徴用された島民の慰霊のため小笠原村が整備した「硫黄島島民平和祈念墓地公園」②、日米双方の戦没者を慰霊する都の施設「鎮魂の丘」③を訪れ拝礼。遺族団体などとも面会する」という。(数字は下記の地図参照)なお、島には住民はおらず、自衛隊のみ常駐している。羽田から、航空機で2時間なので、日帰りも可能だが、観光は一切行っていない。

 天皇訪問に先立って、硫黄島で、毎年3月下旬に実施されている「日米硫黄島戦没者合同慰霊追悼式」が、今年は、明日3月29日に実施されるが、石破総理は今日の参院予算委員会で参列することを表明した。そして翌3月30日には、中谷防衛大臣とアメリアのヘグセス国防長官の会談が控えている。

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矢印の辺りにある「再会記念碑」は、1985年の「硫黄島戦闘四十周年に当たり、曾つての日米軍人は本日茲に、平和と友好の裡に同じ砂浜の上に再会す。(中略) 昭和六十年二月十九日  米国海兵隊/第三第四第五師団協会/硫黄島協会」を記念し、1995年に建てられた碑で、この碑の前で、「日米合同慰霊追悼顕彰式」がおこなわれた。2000年からは、毎年おこなわれるようになった。地図は上記時事通信配信記事から借用編集した。

 折も折、私たちには唐突に思えたのだが、3月24日、陸海空の三自衛隊を平時から有事まで一元的に指揮する「統合作戦司令部」が、防衛省に240人体制で設置された。唐突とはいえ、2022年末、例の安保関連三文書に、「統合作戦司令部」の新設が明記されていたのである。毎日新聞は、今回の「統合作戦司令部」設置の狙いを次のように報じている。

「これまでは自衛隊トップの統合幕僚長が、防衛相を補佐しながら部隊運用の指揮などにあたっていた。業務が集中しがちだったため、今後は統合作戦司令官が専任で部隊運用にあたる。防衛任務や災害に迅速に対応する狙いがあり、22年に閣議決定された安全保障関連3文書に創設が明記されていた。同時に複数の案件への対処が必要となる複合事態が増えていることも背景にある。」(社説「自衛隊に統合司令部 一元化の内実が問われる」2025年3月27日)

この一文の前段からは、いわゆる「文民統制」がなし崩しになる不安が募る。また、大規模災害などでの自衛隊派遣の遅れ、初動の遅れには、被災者でなくともやきもきした記憶があるが、そんな事態が解消されるのか。

昨年の7月に発表されていた在日米軍の「統合総司令部」の設置も近い中、先の日米両国の防衛トップの会談では、何が話されるのだろう。両国の作戦面での協力といっても、日本の「敵基地攻撃能力?」にしても米軍の情報の方が圧倒的に多いわけで、米軍の指揮下に入らざるを得なくなるのではないか。米軍が他国への攻撃に突入した場合、日本の自立性が維持できるのか、など課題は多いが、どんなことになるのか。

 これ等の事案は、「台湾有事」を念頭に進められてきたことである。日本が巻き込まれるとしたら、日本に米軍の基地があるからではないか。トランプ政権は在日米軍強化を停止すると言い、日本の軍事予算も増額をと主張しているらしい。沖縄海兵隊のグァムへの移転もその一環だと思うが、どうぞ、どうぞ撤退してくだい、そうしたら嘉手納基地も新辺野古基地も不要になるのではないか。日本の「敵基地攻撃能力?」のために、いくら自衛隊を増強したところで、中国の軍事力や北朝鮮のアメリカを目標にしての、国民生活を犠牲にしてまでの軍事力強化に追いつきはしないのだから、軍事費の膨張は、無意味なのではないか。「専守防衛」と「敵基地攻撃能力」という言葉からしても矛盾する日本の軍事政策がまかり通るのか、というのが素朴な疑問である。

 ところが、日本政府は、きのう3月27日、中国が台湾に武力攻撃する事態を想定して、沖縄県・先島諸島から避難する約12万人の受け入れ計画概要なるものを内閣官房が発表した。受け入れ先の山口県、九州各県は、その移動手段、宿泊施設、就学問題など課題は山積みで、各自治体は困惑しているという(「台湾有事 沖縄12万人避難」『東京新聞』2025年3月28日)。
まさに、机上の空論、画に描いた餅に過ぎないというのが、現地からの声だという。

 こうした流れの中での、天皇夫妻の硫黄島訪問なのである。戦後80年の「慰霊の旅」の最初にあたるとも言われている。石破総理の「戦後80年談話」は諸般の事情?で見送られるということだが、天皇は、ひたすら平成の天皇の「慰霊の旅」を踏襲することになるのだろう。その最初にして、あまりにも政治的なタイミングでの硫黄島訪問であると思えてならない。

 平成の天皇夫妻は、1994年2月、硫黄島を訪問している。以下は、拙著において、硫黄島で詠んだ天皇と美智子皇后の短歌について書いている部分だが、ご参考までに。

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「一九九四年二月、天皇夫妻は、六月のアメリカ訪問に先立って小笠原諸島を訪問、硫黄島の戦没者の碑、鎮魂の碑に参拝、天皇は「精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき」とやや儀礼的に詠んだが、皇后はつぎのように詠む。

・慰霊地は今安らかに水をたたふ如何(いか)ばかり君ら水を欲(ほ)りけむ(「硫黄島」一九九四年)

硫黄島は、アジア・太平洋戦争末期、一九四五年二月一六日に米軍の砲撃が始まり、三月二六日制圧され、日本軍「玉砕」の島として知られる。戦死者は、日本軍約二一九〇〇名、米軍六一四〇名に達した。生き残った兵士たちや島民たちの生の証言は、筆舌に尽くしがたい凄惨を極め、テレビ番組やNHKアーカイブスの「戦争証言・硫黄島の戦い」、厚生労働省の「硫黄島証言映像」などで知ることができる。兵士たちは、水や食料、武器を絶たれた中での戦いであった。 大岡信は、「立場上の儀礼的な歌ではない。豊かで沈痛な感情生活が現れている。(中略)最新作まで一貫して気品のある詠風だが、抑制された端正な歌から、情愛深く、また哀愁にうるおう歌の数々まで、往古の宮廷女流の誰彼を思わせる」と絶賛する(「折々のうた」『朝日新聞』一九九七・七・二三)。だが、この一首は、死の間際に水を求める兵士たちの壮絶な姿を情緒で包み込み、美化してはいまいか。」拙著「美智子皇后の短歌」(『現代女性文学論』翰林書房 2024年)より。

 

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2025年3月26日 (水)

令和の米騒動、コメはいったいどこへ。

 

  今日は、所用があって、前の住まいに出かけた。

  帰りに、農家の野菜などを大掛かりに販売している店に、もしやと思って立ち寄ってみた。ありました!2キロ、3キロ、5キロが「多古米」としてきれいに包装されていた。5キロは持って帰るのには重い。3キロを買ったのである。3キロ税込み2914円!

 というのも、生活クラブ生協で、年間予約していた「旭あいのう米」5キロが、3月10日、突然欠品の知らせとともに、以降予約は中止となってしまったのである。他の産地米だったら、毎回の注文票から注文してくださいということで、とりあえず「那須山麓米」2キロ(1244円)を注文したところ、なんと、3月24日の時点で、すべての米の注文が打ち切りになってしまって、その2キロも届かないことになった。他の産地米の予約をしていた組合員だけには、量を減らして届けるとのこと。これほどの深刻なコメ不足とは。生協での欠品、注文中止の理由が、注文急増、前年の2倍となったからというのも、納得がいかない。予約者優先で、計画的に受注抑制できなかったのか。新米が出るまで、生協の配達はなくなったわけである。昨年のお米の出来が不作とも聞いていない。お米はいったい何処に行ってしまったのだろう。政府の備蓄米の放出も、遅すぎる上、決まってからも,店頭に出るまでの時間がかかりすぎる。この先いったいどうなるのか。

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前の住まいの庭のいつものところに、黄水仙は、気丈にも?咲いていた。

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ベランダから、満開?に近い枝垂れ桜と旧堀田邸を望む。

 

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2025年3月22日 (土)

「いつも いつも とおる 夜汽車・・・」

  部屋の窓を開けると、JR成田線の列車の音が聞こえてくる。ベランダで洗濯物を干している間にも、耳にする。公園や街を隔てたかなり先のはずなのに、近くの木立の間から聞こえてくるような気がする。線路沿いに住む人たちには申し訳ないが、電車の音を聞くのはきらいではない。

  1945年3月の空襲で焼け野原になった池袋の生家の跡地に、バラックを建て、一家がそろって住むようになったのは1946年7月だった。省線の線路、踏切まで、焼け残った土蔵が一つ二つと十数軒のバラックが建てられていただけなので、山手線の走る音が聞こえていた。いま、生家の二階の窓からは線路を超えたサンシャインビルが間近に見えるようになってしまった。

 私たち家族が疎開したのは、母の実家のある千葉県の佐原だった。まず、身を寄せたのが、母の病死した兄の奥さんと子供3人の家であった。小高い山のふもとで、前は一面のたんぼが利根川まで続いていた。佐原駅前の食堂には、祖父とその後添い、叔父一家が住んでいた。そこへ行けば、何かごちそうになれるか、何かしらのおやつがもらえたりした。また、どんなわけだったのか、その二階の大広間に泊ることが何回かあった。夜遅くまで、朝早くから、駅に列車が着くたびに大きな音とともに大きく揺れるのであった。最初は驚き、怖い思いもしたが、寝床で揺れる感覚がいまではなつかしい。

 池袋の実家を離れての引っ越した先は、南武線と小田急の登戸駅に近いマンションだったが、列車の音の記憶がない。窓を開ければたんぼと梨畑が見おろせる牧歌的な立地だった。名古屋での12年間は、近くに地下鉄が開通するまでは、列車や電車とは縁がなかった。

 そして、佐倉市に転居して37年、近くにモノレールは走っていたが、音まで聞こえてこなかった。同じ市内ながら、今回の転居で、遠くに線路を走る列車の音をきくことになった。両国からの成田回り銚子行きは、我が家の疎開列車でもあった。

 文部省唱歌「夜汽車」は、勝承夫作詞のドイツ民謡だそうだ。

「いつもいつも とおる夜汽車 しずかなひびききけば 遠い町を思い出す」

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ハクモクレンがもうひらき始めた。前の家の紫木蓮はどうだろうか。

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“安定的な”皇位継承というけれど・・・会議はどうなる?

 秋篠宮家の長男は

 3月3日、昨年の12月11日に筑波大学への進学も確定し、高校生活も終わろうとしたタイミングなのか、秋篠宮家の長男が成人になったとして、初めての会見がおこなわれた。肉声が公けになるのは初めてということで、注目されていた。昨年9月6日の誕生日で、すでに18歳になっていたが、学業優先とのことで、この日になったのだろう。宮内庁の記者クラブからの質問はあらかじめ知ってのことで、その回答は宮内庁の広報室はもちろん、官邸にまで届いているかもしれない。
 広報室や両親の指導のもと本人の努力の末、臨んだ会見だったように見えた。しかし、当然のことながら、象徴天皇制に踏み込むはずもなく、その内容は当たり障りのないもので、全体的に「よく暗記できました」というのがまずもっての印象であった。天皇の「おことば」に習って、冒頭、岩手県の山林火災に言及し、見舞いの言葉が語られた。
  3月18日、筑波大付属高校卒業式直前の校内での「お声かけ」による会見は、“人払い”と警備が伺われる中で、「高校生活はどうでしたか」という記者の質問に「授業や課外活動など充実した3年間を過ごすことができました。また、忘れられない思い出も作ることができました。先生方や友人たちをはじめとするお世話になった方々に深く感謝申し上げます」と。
  同日、宮内庁が作成、発表した文書は、高校卒業までの成長記録で、末尾には、この会見についての言及もある。「懸命に準備を重ねられて、緊張感をお持ちになりながらもご自身のお考えを述べられました。ご成年を機に、自らのお立場を改めて認識され、お考えをまとめられる貴重な機会になったものと拝察しております。」とあり、同時に写真も発表されている。
  それにしても、筑波大学には、原則的に車で通学するというが、その警備は莫大なものとなり、様々なリスクもともなうのではないか。一般学生と同様に寮で一人住まいするのが、現在の憲法にかなうというものである。

  天皇家の長女は

 2020年3月22日、天皇家の長女が、学習院女子高等科卒業にあたっての「お声かけ」による記者の質問には「とても楽しく、とても充実した学校生活で、かけがえのない思い出ができました」と答えていた。また、宮内庁からは、本人の「文書」も発表されている。
 2022年3月17日には、成人会見が行われた。彼女は、あらかじめ質問が知らされていることも明かしながら、かなり具体的なエピソードをまじえて語っていた。ときに、ちょっとつかえ、短い沈黙があったりしたが、しっかりとシナリオ通り、話し果せたという感があった。 彼女はいっとき不登校の時期もあったが、どう乗り越えたのか。幼少時代、母と手をつなぎながらも、ひとり横を向き、出迎えた報道陣を不思議そうに、しかも、しかと見つめ返している一枚の写真を思い起こす。           

 この悠仁さんと愛子さんの二人は、メディアなどでよく比べられるもし、愛子天皇待望の向きもあるようだが、衆参両院の正副議長の主催する「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議に基づく政府における検討結果の報告を受けた立法府の対応に関する全体会議」という長い名の会議で、長い「協議」を経て、条件付きで女性皇族が結婚しても皇室に残る、といった辺りに落着するのではないかと思う。ただし、これは、安定的な皇位継承策とは直結するものではない。

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敷地内のあちこちでアセビは花ざかり

 

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2025年3月21日 (金)

皇族数の“確保”って、いうけれど・・・。 

 ”確保“とは、逃走中の容疑者の身柄を「確保」、食料の「確保」、避難路の「確保」、などというときに使用することが多いのではないか。たしかに人材「確保」というのも聞くけれど、「〇〇数の確保」にしても、皇族方にしてみれば、どこかもの扱いされていると感じてはいないかと余計な心配をしてしまう。

  『読売新聞』は、2月1日、「衆参両院の正副議長と各党・会派の代表者らは31日、安定的な皇位継承に関する与野党協議を衆院議長公邸で開き、議論を再開した。各党・各会派は皇族数の確保策について今国会中に一定の結論を得ることで一致したが、主張の隔たりは大きく、議論は難航することも予想される(「皇族数の確保策、今国会中に結論…これ以上先延ばしできないの認識で一致も主張には隔たり」2025年2月1日)と報じた。

  『毎日新聞』は、3月16日の「社説」で「皇族確保の与野党協議 安定継承を念頭に結論を」と題して「皇族数の確保策を検討する与野党協議が再開された。2021年に政府の有識者会議が出した報告書を踏まえ、昨年5月に議論を始めたが、意見がまとまらず事実上中断していた。このままでは皇族の数が減り、皇室活動が先細りするばかりだ。今国会中に一致点を見いだす必要がある」とし、末尾では「有識者会議の報告書は政治的対立を懸念し、皇族数確保に論点を絞っていた。喫緊の課題について結論を急ぐのは当然だが、与野党は皇位継承の観点を踏まえて協議に臨む必要がある。天皇の地位は憲法に「国民の総意に基づく」と明記されている。持続可能な皇室像について正面から議論し、国民が納得できる結論を得る。それこそが政治の責務である。」と結んでいる。

   記事中にある2021年の有識者会議、「皇位継承に関する有識者会議」が、①女性皇族が結婚しても皇族として残る  ②女性皇族と旧宮家の男子と養子縁組をする、という、ほんとに中途半端な、曖昧とした案をまとめたものだから、「全体会議」でも、男系にこだわり、女性天皇・女系天皇につながる①案に反対す保守派がいる限り一致は見られないだろうし、②に至っては、時代錯誤も甚だしく、現実性に乏しいだろうし、他の「妙案」とて、あろうはずがない、と私は考えている。

  その後、「全体会議」は、開かれているのだろうか。結論が出たというニュースはみあたらない。会期が迫っている今の国会は、石破総理の商品券問題や何やかやでそれどころではなく、また見送られる可能性が高い。

 私は、皇位継承者がいなくなるというのならばそれでいいのではないか、とも。残る皇族方には、お引き取り願って、自立の道を拓く努力をしてもらい、それまでは国の責任で必要最小限度の支援をしなければならないだろう。おのずと憲法の第一章は不要となり、削除されることになる。あの世から、そんな日が来ることを願うことになるのだろう。

 いや、今からできることもある、と考えているのですが、どうお考えでしょうか。以下もご参照ください

「私の言いたかったこと」を報告しましたが~大嘗祭に思うこと: 内野光子のブログ
【2025年3月10日】
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北側の庭には、トサミズキが何本か植えられて、かわいらしい黄色い花房を揺らしている。
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そばによると、黄色いだけではない花房だった。

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2025年3月12日 (水)

河津桜が咲いていました。

 移植まもないという河津さくらが咲いていました。少し遅いようにも思いますが、ベランダ先のスイセンも咲いていました。中庭のツワブキは呆けた花を突き出しています。いつも窓越しに見ているクスノキまで、行ってみました。そこには小さなお社があったのにはびっくりしました。

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河津桜と旧堀田邸を収めてみました
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手前の巨木となったクスノキの根が這うあたりには鳥居の跡か、右手には小さな社がありました。

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旧居の庭のヤマボウシに来ていたメジロたちはどうしているかな。

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2025年3月10日 (月)

「私の言いたかったこと」を報告しましたが~大嘗祭に思うこと

  3月8日、新・フェミニズム批評の会の例会で、即位・大嘗祭違憲訴訟の東京高等裁判所での陳述において「私が言いたかったこと」を報告することができました。私のパソコンのzoomの不調で、ご迷惑かけましたが、なんとかお話しすることができました。質問や感想も多く出されました。とくに印象に残ったのは、私の陳述では直接触れていませんが、皇室典範を改正して、女性天皇、女系天皇をまず実現する方がよいのではないか、と言うものでした。昨年5月の毎日新聞の世論調査でも、女性天皇容認が81%を占めています。

  一見、平等原則に近づくようには思えますが、陳述で述べたように宗教色の濃厚な違憲性の高い儀式や伝統ならざる“伝統”的な皇室行事に放り込まれるわけですし、法的根拠のない伝統・慣例という名による基本的人権が損なわれるという厚い壁に直面するのは明らかです。

  もう1件は、まったく実現性のない議論をしても仕方がないのではないか、今日の議論は余り参考にならなかったという趣旨の発言でした。

 以下は、今回、話したわけではないのですが、日頃思っていることなので、そんな気持ちが、報告にも出てしまったかもしれません。たしかに、少し古い2019年4月の毎日新聞の世論調査でも天皇制の廃止に賛成する人は、わずか7%に過ぎません。他の世論調査でも5%前後を推移しています。一挙に廃止するのは、たしかに困難かと思うのですが、現在の皇族方の特権を外し、基本的人権を保障し、同時に予算も縮小し、皇居も有効活用し、一般国民の生活に近づき、しずかに暮らしていく中で自活の道を切り開いもらいたいです。そうした過程で、憲法第一章を無化し、憲法改正を進めることくらいしか、私には思い浮かびません。

 天皇制を維持しようとする人たちには、それを利用しようとする人たちと、なんとなくあってもいい、愛子天皇も悪くない程度に考えている人たちとがいて、後者が多いのです。しかし、皇族たちの暮らしやあちこち出かけて一流のホテルに宿泊し、慰霊や祈念をしたり、イベントで挨拶したりしている姿を目の当たりにするうちに、それらの費用は、すべて私たちの税金、国費でささえていることに気づくはずではないでしょうか。となると、天皇ってなに?あの広い皇居ってなに?とその存在意義が問われてくるのではないかと思います。

 報告が終わってから、そう、今日は国際女性デーだったことに気づき、旧居近くのお宅の庭をはみ出して、咲いていたミモザの樹を思い出したのです。

 当日、配布した報告概要と参考資料なのですが一部補充しました。
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<報告概要>

    (新・フェミニズム批評の会 202538日)

「即位・大嘗祭違憲訴訟」の陳述で言いたかったこと〈報告概要〉     

1.即位・大嘗祭違憲訴訟の裁判の経過

2018年1210日 東京地裁に提訴(原告241名)

2024年1月31日 東京地裁判決棄却

 政教分離原則は、制度的保障であって私人の信教の自由を直接保障しない。
 政教分離原則違反の国の行為が直ちに、私人の信教の自由を侵すものではない

2025年228日 東京高裁判決棄却

 諸儀式に国費を支出したことは、憲法201項の信教の自由は制度的保障であって個人の信教の自由を保障するものではない。諸儀式へ     の参加の強制には当たらず、宗教的活動したとはいえず、諸儀式が個人の宗教的感情や思想と相容れないものであり、内心の葛藤があ    ったとしても、国が不当な圧迫や干渉があったというのは余りにも間接的であって損害賠償の対象とはならない。

2.剣璽等承継の儀【1951日】の違憲性

  神話等にもとづく三種の神器の承継(宗教性が高い):信教の自由の侵害
  儀式の法的根拠がない:主権在民原則違反、政教分離原則違反

「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う国の儀式等の挙行に係る基本方針について 」「閣議決定」【1843日】その内容は:

 ・ 憲法の趣旨に沿い皇室の伝統等を尊重
 ・ 基本的な考え方や内容は平成の代替わりを踏襲=1909年公布「登極令」
 ・ 国事行為(国費)

3.即位礼の違憲性

賢所大前の儀:賢所(天照大神を祀る)・皇霊殿・神殿各所でのお告げ文(宗教性が高い):信教の自由の侵害
即位礼正殿の儀:儀式の根拠は「閣議決定」のみ(法的根拠がない):主権在民原則違反
高御座・御帳台/首相が天皇仰ぐ祝辞と萬歳三唱:平等原則、主権在民原則違反

4.大嘗祭【191022日~23日】の違憲性

 例年は皇室行事で行う新嘗祭が代替わりのときに限り大嘗祭となる

儀式の根拠:「閣議口頭了解」【1843日】、1989年の「閣議口頭了解」の踏襲。その内容は:
 ・ 皇位継承の一世一度の重要な儀式
 ・ 神への安寧・五穀豊穣・への感謝、国家・国民のため安寧・五穀豊穣祈 
   念は宗教上の儀式である
ことを否定できない
 ・ 国が立ち入ることできない性格の儀式なので国事行為とするのは困難
 ・ 国の関心と挙行への手立ては 当然なので公的性格あり
 ・ 皇室行事として宮廷費から支出

 悠紀殿・主基殿の秘事
 日付をまたいで、天皇と神とが寝食を共にすることによって皇位継承がなされる
 供え物の産地(都道府県)を決めるのは亀卜という占いによる

 儀式の根拠 宮内庁文書「大嘗祭について」【19102日】=「貞観儀式」「登極殿」の踏襲

 5.私の主張:以上の儀式は、廃止された「登極殿」などを踏襲する「閣議決定」「閣議口頭了解」を根拠とするもので、主権在民原則違反であり、これらの儀式が国費をもって実施されたことは政教分離原則違反、信教の自由の侵害による精神的苦痛は多大かつ持続しているので国に対する損害賠償を求める。

政教分離原則:憲法上にこの文言はないが、以下の規定を言う。

宗教団体に特別の法的地位、特権の付与の禁止及び宗教団体による政治上の権力の不行使(憲法第201項後段)
国の政治活動の禁止(第203項)
宗教上の組織に対する公金支出の禁止(第89条)

第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。
いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
② 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
③ 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
第八十九条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

制度的保障:公権力、特に立法による人権制限がなされないよう、制度を守ること。「信教の自由」を守るために政教分離原則という制度を守る

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<参考資料(2025年3月8日新・フェミニズム批評の会配布資料)>

 1.類似裁判判決
1977年7月13日津地鎮祭最高裁(大法廷)判決:目的効果基準の採用

起工式は、宗教とかかわり合いをもつものであることを否定しえないが、その目的は建築着工に際し土地の平安堅固、工事の無事安全を願い、社会の一般的慣習に従った儀礼を行うという専ら世俗的なものと認められ、その効果は神道を援助、助長、促進し又は他の宗教に圧迫、干渉を加えるものとは認められないのであるから、憲法二〇条三項により禁止される宗教的活動にはあたらないと解するのが、相当である。(藤林益三裁判長、5人の少数意見藤林、団藤重光ほか)

199539日大阪市民による即位礼大嘗祭訴訟の大阪高裁判決:納税者基本権に基づく諸行事への国費支出差し止め、精神的苦痛の損害賠償請求(←19921124日大阪地裁)
(「反天皇制市民1700」創刊~)
即位礼支出差し止めは、すでに支出済み、納税者の地位にもとづいて国に対して国の具体的な行為是正などを求める訴訟提起することは制度として認められず、いずれも不適法。大嘗祭について、「大嘗祭が神道儀式としての性格は明白であり、これを公的な皇室行事として宮廷費をもって執行したことは、前記最高裁大法廷判(津地鎮祭判決1977年7月13日)が示したいわゆる目的効果基準に照らしても、少なくとも国家神道に対する助長、促進になるような行為として、政教分離規定に反するのではないかとの疑義は一概に否定できない」
 即位の礼についても 「国事行為として実施することは法令上の根拠にもとづくものと解せられる(憲法7条10号、皇室典範24条)。しかしながら現実に実施された本件即位礼正殿の儀は、旧登極令及び同附式を概ね踏襲しており、剣、璽とともに御璽、国璽がおかれたこと、海部首相が正殿上で萬歳三唱したこと等、旧登極令及び同附式よりも宗教的の要素を薄め、憲法の国民主権原則の趣旨の添わせるための工夫が一部為された。
*神道儀式である大嘗祭諸儀式・行事と関連づけて行われたこと、天孫降臨の神話を具象化したものといわれる高御座や剣や璽を使用したこと等、宗教的な要素を払拭しておらず、大嘗祭と同様の趣旨で政教分離原則に違反するのではないかとのうたがいを一概に否定できないし」**天皇が主権者の代表である首相を見おろす位置で、「お言葉」を発したこと、首相が天皇を仰ぎ見る位置で「寿詞」を読み上げたこと等、国民を主権者とする現憲法の趣旨に相応しくないと思われる点が存在することも否定できない。

 2.剣璽承継の儀 2019年5月1日(松の間写真/配置図)

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3.賢所大前の儀 2029年5月1日

賢所に向かう皇后
歯を食いしばっているようにも見えます。裾を持ってかがんだまま移動する女官の姿と言い、美しい姿には見えません。

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賢所に向かう皇族たち
2019年5月1日は雨風の強い日でしたから、ドレスの裾が汚れないか心配でもありました。2枚の写真のちぐはぐさには”伝統”なるものが感じられませんでした。

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 4.代替わり関連予算/宮内庁関連予算 

費目

金額

参考事項

即位礼正殿の儀*

176700万  


国事行為(国費)

饗宴の儀

46600万  

祝賀御列の儀 

1億2800

大型モニター30

14900

オープンカー

  8000

賓客用滞在費

508000

警備費 

381900万 

儀仗など   

28700

大嘗祭

 271900

皇室行事(宮廷費)

総額

1674100

1239000万(昭和から平成)

「即位儀式と両陛下の歩み」jijicom201910月配信)より作成
195か国からの賓客などの接待費用で、前回の5倍超になる
**大嘗宮の設営関係費は解体費も含め19700万の予算がとられた

 2024年度宮内庁関係予算


宮内庁費*


                       126


皇室費


宮廷費


        95


内廷費


       3.2


皇族費


   2.6


合計


      226.8

*宮内庁には、別途国家公務員として特別職70人、一般職986人の職員がいる。二為に使用される

通常の宮内庁予算と比べてみて、代替わり予算がいかに多いのかがわかります。2019年10月22日・23日の2日間しか使用されない大嘗宮のために19億も支出されるとは。また通常の宮内庁関連予算と千人以上の国家公務員を抱える宮内庁と知って、少し驚きました。数少ない皇族方のため、いったい何をしているのかとも。皇居も含め、あちこちにある天皇陵や御料地などは国立公園などにして、緑を残し周辺の環境整備をし、御物と言うものがあるなら国立博物館として、開放してはどうかとなどとも思うのでした。

 

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2025年3月 9日 (日)

久しぶりに、地元の9条の会に参加しました~登戸研究所見学を思い起こす

 引っ越しの前後、数か月休んでいましたので、世話人の方たちとは久しぶりでした。会報の編集中で、2月にでかけた明治大学生田キャンパスにある登戸研究所資料館見学の感想集です。私は参加できませんでしたが、皆さんの関心の向けどころが違っていて、興味深かったです。「さくら・志津憲法9条をまもりたい会」ニュース51号が楽しみです。

 以下は、2014年12月 明治大学平和教育登戸研究所資料館・NPO法人インテリジェンス研究所共催の「第9回防諜研究会」の講演会・ツアーに参加した折の感想です。当ブログの「明治大学生田キャンパス、「登戸研究所」跡を訪ねる(1)(2)(2014年12月23日)からの抜粋を再掲します。

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「陸軍の秘密戦における登戸研究所の役割―登戸研究所の軍事思想」山田朗(明治大学文学部教授、明治大学平和教育登戸研究所資料館館長)~とくに印象に残ったこと

登戸研究所の組織・沿革とその背景にある日本陸軍の軍事思想の特徴について話された。登戸研究所は、1937年11月、日中戦争の長期化に伴い、秘密戦(防諜・諜報・暴力・宣伝)の必要性が高まり、陸軍科学研究所登戸実験場として生田に設置された。その背景には、陸軍は銃砲弾重視の「火力主義」を物量不足から貫徹できず、歩兵による銃剣突撃重視の「白兵主義」が台頭、少数精鋭主義、攻勢主義、精神主義が強調されたが、これを補強する「補助手段」が必要となった。軍縮・経費節減から編み出される細菌兵器、敵国攪乱の毒ガス、謀略工作などを重視するようになった。1941年6月からは陸軍技術研究所の第九技術研究所と再編された。所長は、スタート当初よりかかわった篠田鐐中将があたる。その研究は、主なものだけでもつぎのように分かれていて、敷地11万坪、幹部所員約250人、民間人あわせて1000人以上が働いていた。

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予算・編成図、資料館の展示より


1)電波兵器(第一科)
2)風船爆弾(第一科)
3)特殊カメラやインク、毒物など諜報・謀略用品の開発(第二科)
4)対人、対動物、対植物の細菌兵器の開発(第二科
 5)経済謀略、戦費調達のための贋札づくり(第三科)


私にとっては、ほとんど初めて聞く内容だった。

2)の「風船爆弾」の風船作りについては、女学生などが勤労動員されていたことはよく聞くが、風船爆弾の機能や使われ方は、今回初めて知った。太平洋の偏西風を利用して生物兵器を搭載した風船をもってアメリカへの攻撃を計画していたが、毒ガスや生物兵器登載が国際的な使用禁止への流れの中で無理となり、爆弾を搭載して、1944年11月~1945年3月ごろまで約9300個の風船爆弾を放ったという。その内、着弾が確認できたのは361個だった。和紙とこんにゃく糊による風船は“牧歌的“にさえ思えてくるが、兵器の一部であったのである。詳しい記録や証言は少ないが、日本での放球時の爆発、アメリカでの不発弾の爆発で、それぞれ日米の犠牲者が出ている。


4)の「細菌兵器」について、思い起こすのは731(石井)部隊の医師たちの細菌などによる人体実験である。731部隊は、関東軍防疫給水部本部の研究機関の通称で、登戸研究所の研究との違いは、講師によれば、731は、野戦場における対人の兵器としての細菌研究で、登戸では、あくまでも敵国かく乱のための兵器としての生物兵器研究であったという。前者については、近年になって記録や証言、研究が多く、全貌が明らかになりつつあるが、登戸研究所については、その全貌が見えてこないという。両者とも関係者の責任、戦争犯罪に問われることがなかったのは、占領軍による研究成果の記録・情報取得を交換条件に関係者免罪が取引された結果であるとされている。


 もっとも驚いたのが、登戸研究所が「贋札づくり」の任務を担っていたことだった。国(軍隊)がニセ札を製造していたわけだから、登戸研究所の中でも「秘密の中の秘密」で、敗戦時にはほとんどの資料を焼却しているので、その実態が分からなかった。その後のわずかな証言から少しづつ明らかになってきたということだ。
  ニセ札製造とその流通の目的は何だったのか。1935年中華民国政府の蒋介石政権は米英の支援で統一通貨「法幣」を制定、浸透していたが、日本軍は物資不足・外貨不足のため長期戦を余儀なくされていた。そこで、日本軍は、ニセ札を大量に流通させてインフレを起こさせ、中国経済を混乱させること、ニセ札を使って現地の物資調達を容易にすることの二つを目的にニセ札製造に踏み切った。1939年から1945年までの間に、40億円相当(当時の日本の国家予算が200億)を発行したが、現実にはインフレは起こらなかった。このニセ札は、日本軍が発行していた「軍票」の信用がない中で、物資調達に重要な役割を果たした。製造には、巴川製紙や凸版印刷などの民間も協力させ、運搬は中野学校出身者らが担当したという。

  こうしてみると、戦争が、戦場での殺人行為を容認や競争をエスカレートさせるだけでなく、大量殺人やニセ札製造などという凶悪な犯罪行為を国家が推進していたことになる。「これが戦争というものなのだ」と納得する人間の愚かさを痛感させられる。これは、現代にも通じることで、情報収集やスパイ行為など一見頭脳的な行為にも思えることすら、CIAの情報収集や日本の公安警察に見るように、違法な国家犯罪を助長することにならないか。 


 登戸研究所資料館見学

 山田朗研究室の院生の方の案内で、資料館に向かう。キャンパスの北東の端で、登戸研究所第二科の実験棟の一つだった36号棟を改装して資料館にしたという。11万坪の敷地に40棟以上の建物が存在していたことになろう。明治大学は、敗戦後慶応大学などが借用中だったところ、1950年に、約5万坪を建物ごと購入している。1951年に明治大学農学部がこの地に移転し、80年代まではいろいろな建築物が残っていたらしい。資料館は、外観はきれいに塗装され、2010年4月から一般公開された。入口は小さく、廊下をはさんで両側に部屋が並ぶだけの構造である。36号棟は、第二科の「農作物を枯らす細菌兵器開発」実験を行っていた建物だった。どのへやにも大きな流し台が付いているのは、そのまま残されている。

  館内には5つの展示室が設けられ、第1室は沿革と組織、敷地、組織、予算などが戦局拡大と共に増大していく様子をパネルの図表で明らかにしていく。第2室は、研究所第一科が中心で開発した風船爆弾(ふ号兵器)関連の展示である。第二科は当初の電波兵器から風船爆弾開発に乗り換えたかのようで、1943年11月の風船爆弾試射実験で目途がつき、1944年11月からアメリカ本土攻撃が始まるのである。第3室は、第二科の生物兵器、毒物兵器、スパイ機材などの開発の分担組織や実態を少ない資料から浮き彫りしようというものだった。第4室では、ニセ札の製造・製版・印刷・古札仕上げ・梱包・運搬・流通の過程とニセ札以外に旅券やニセのインドルピーや米ドルなどの製造にまで及んだという。

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2014年12月23日撮影、「偽札はどうつくられたのか」。拡大してみてください。

  第5室の敗戦と登戸研究所についての展示に、私は多くの示唆を得た。闇に葬られようとした登戸研究所を歴史研究の対象の俎上に載せたのは、研究者でもなくジャーナリストでもなく、地元川崎市の市民地域学習活動の一環だったし、法政二高と長野県赤穂高校の生徒たちによる地域の歴史調査活動から始まったのだった。それまで口を閉ざしていた関係者や地元市民らが語り始め、資料を持ち寄り始めたのである。中でも元幹部所員の伴繁雄氏は、高校生との交流の中で、初めて、その体験を語り始めたそうだ。そうした活動の成果としてつぎのような本が刊行されるに及んだのである。

・川崎市中原平和教育学級編『私の街から見えた 謀略秘密基地登戸研究所の謎を追う』(教育史料出版会 1989年)
・赤穂高校平和ゼミナール・法政二高平和研究会「高校生が追う陸軍登戸研究所」(教育史料出版会1991年)
・伴繁雄『陸軍登戸研究所の真実』(芙蓉書房 2001年)

 向かって左の五号棟はニセ札の印刷工場として使用。2011年2月に解体され、 右の二十六号棟は、ニセ札の保管倉庫として使用、2009年7月に解体されてしまった。  
 

 キャンパス正門の守衛室うらの動物慰霊碑。1943年3月建立、その存在は登戸研究所で働く人にも 知られていなかった。現在も、農学部での動物慰霊碑にもなっていて、毎年ここで慰霊祭が行われている。近くに、民家も迫っている

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2024年12月23日撮影、動物慰霊碑

 資料館の見学の後は、上記のように登戸研究所の痕跡をたどった。遺された史跡、遺すよう努力された明治大学の研究者はじめ多くの方々には敬意を表したい。ここで、どうしても思い起こすのは、ドイツが国として取り組んでいる戦跡・記録保存の努力である。少し前のドイツ紀行の記事でも触れたように、たとえば、ベルリン郊外のザクセンハウゼン強制収容所は、一部を博物館にして、広大な敷地に残る建築物こそ少ないが、更地にした上で収容棟の配置を明確に残している。ベルリン市内の陸軍最高司令部跡にはドイツ抵抗運動博物館を置き、ライプチヒの国家保安省跡にルンデ・エッケ記念博物館を設置している。ホローコースト追悼記念碑やロマ・シンティ追悼記念碑をベルリンの国会議事堂・ブランデンブルグ門直近の一等地に設置している。日本との違いをどう見るべきか。

 

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2025年3月 3日 (月)

「新聞歌壇」の選者ということ~馬場あき子の退任をめぐって

 2月25日の朝日新聞は、馬場あき子が47年間務めた「朝日歌壇」の選者を退任すると報じた。半世紀近くも選者であったことに改めて驚いた。97歳、「元気なうちに幕を」と3月をもって引退を決めたとも記事にはあった。そして後任は4月から川野里子が務めることになったとも。

 さまざまな組織で、同じ場所に長期間留まることは、デメリットの方が大きいというのは、もはや自明のことと言ってもいいだろう。今回の選者退任は、記事によれば、本人の意志だったようである。昨今の歌壇の様相では、若手の活躍もめざましいので、朝日新聞側の意向も影響したかもしれない。本人が言い出さない限り、首に鈴をつけるのは難しいのが常である。「朝日歌壇」は共選制をとるとはいえ、一人の選者が半世紀近くも留まることは、「歌壇」にも少なからず影響を及ぼしたのではないか。

 そして、いま一つ、私が注目したのは、後任の川野里子は、馬場あき子が立ち上げた「かりん」という結社の有力歌人であったことである。残念ながら、「やっぱり」という思いが強かった。

 馬場さん、もう少し度量のある人かな、と思ったが、やはり自らの結社からの後任を条件にしたのではないか。川野さんの作品も評論も歌壇での評価は揺るがないものである。私も、その評論については、格別の敬意をもって読み、多くの示唆を受けている。 

 もはや、「結社」などどうでもいいじゃないかの声も聴くが、現在の「歌壇」で持つ意味は小さいとは言えない。地方版の歌壇選者にも、後任は同じ結社の人だったりするのを目の当たりにする。

 もう一つ、気になるのは、新聞歌壇選者は、一つのステイタスになっていて、なかなかやめようとしない。そうすると、とくに投稿の常連さんと選者の間に、家族を見守るような関係ができて、私情が入り、歌壇欄の私物化につながってしまうことがあるからである。

 最近、私は妙な電話をもらった。当ブログ上で、某新聞歌壇の某選者のある件で批判を書いたことがある。だいぶ前の記事だった。その当人からの電話で、ブログの記事によって、私の名誉は傷つけられたが、それをいまさら訴えたりする気はない。ただ、私の話も聴いてから書いて欲しかったという趣旨だった。この選者の件の事案について、新聞社も歌壇も動いてはいない。歌壇に文春砲はない。

 もう十年以上も前になるだろうか、やはり、ある歌人、新聞歌壇の選者も務めている人から、似たような電話をもらった。私の著書での批判によって、私の弟子が何人も去っていった? 名誉棄損で訴えたいが準備はできているか、というものだった。戸惑った私は、私の著書のどの部分が名誉棄損に当たるのかを尋ねると、いま、ネット上で、あなたの著書を読んで、私の批判をしている人がいる。私は生きている人間なのだから、あなたは、なぜ私の話を聞きに来なかったのかとも。件の拙著はこれから入手するつもりだとも言っていたが、その後なんの音沙汰もない。

 二人に共通するのは、名誉棄損、裁判、そして、批判するなら、直接本人の話を聴け、というものであった。私は、常々客観的な資料の裏付けを求めながら執筆しているつもりである。存命の人の批判をするには、本人に話を聞かねばならないのか。もし反論があるのならば、メディアや自著で明らかにすべきであろう。歌壇が無風なのは、こんなところに要因があるのかもしれない。

 私のわずかな体験ながら「インタビュー記事や自叙伝ほどあてにならないものはない?!」という場合があるということも学習した次第である。

 話はそれた?かもしれないが、ご容赦を。

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春はもうそこまで。3月2日、4月並みの気温だったが、ベランダ前の枝垂れ桜の支柱工事が朝早くから始まった。半日以上かけての工事であった。

 

 

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