「いつも いつも とおる 夜汽車・・・」
部屋の窓を開けると、JR成田線の列車の音が聞こえてくる。ベランダで洗濯物を干している間にも、耳にする。公園や街を隔てたかなり先のはずなのに、近くの木立の間から聞こえてくるような気がする。線路沿いに住む人たちには申し訳ないが、電車の音を聞くのはきらいではない。
1945年3月の空襲で焼け野原になった池袋の生家の跡地に、バラックを建て、一家がそろって住むようになったのは1946年7月だった。省線の線路、踏切まで、焼け残った土蔵が一つ二つと十数軒のバラックが建てられていただけなので、山手線の走る音が聞こえていた。いま、生家の二階の窓からは線路を超えたサンシャインビルが間近に見えるようになってしまった。
私たち家族が疎開したのは、母の実家のある千葉県の佐原だった。まず、身を寄せたのが、母の病死した兄の奥さんと子供3人の家であった。小高い山のふもとで、前は一面のたんぼが利根川まで続いていた。佐原駅前の食堂には、祖父とその後添い、叔父一家が住んでいた。そこへ行けば、何かごちそうになれるか、何かしらのおやつがもらえたりした。また、どんなわけだったのか、その二階の大広間に泊ることが何回かあった。夜遅くまで、朝早くから、駅に列車が着くたびに大きな音とともに大きく揺れるのであった。最初は驚き、怖い思いもしたが、寝床で揺れる感覚がいまではなつかしい。
池袋の実家を離れての引っ越した先は、南武線と小田急の登戸駅に近いマンションだったが、列車の音の記憶がない。窓を開ければたんぼと梨畑が見おろせる牧歌的な立地だった。名古屋での12年間は、近くに地下鉄が開通するまでは、列車や電車とは縁がなかった。
そして、佐倉市に転居して37年、近くにモノレールは走っていたが、音まで聞こえてこなかった。同じ市内ながら、今回の転居で、遠くに線路を走る列車の音をきくことになった。両国からの成田回り銚子行きは、我が家の疎開列車でもあった。
文部省唱歌「夜汽車」は、勝承夫作詞のドイツ民謡だそうだ。
「いつもいつも とおる夜汽車 しずかなひびききけば 遠い町を思い出す」
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