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2025年4月21日 (月)

映画「グリーンブック」を見て

 映画サークル主催による映画会が開かれた。1月の入居以来3回目となる。2月は「最高の人生の見つけ方」、3月は「家族はつらいよⅢ 妻よ薔薇のように」であり、洋画と邦画を交代で上映して来たらしい。

「最高の人生の見つけ方」(ロブ・ライナー監督 2007年)、余命半年と宣告を受けた自動車工場の工員のモーガン・フリーマンと実業家で金持ちでもあるジャック・ニコルソンが病院で同室となる。慌てふためくニコルソンと冷静で、博識なフリーマンとは、何かと騒動を起こすのだが、フリーマンが、死ぬまでやっておきたいことのリストを認めているのを知ってから、二人がそれらを一つ一つ実行してゆく物語といっていい。原題は“Bucket Lsit”(棺桶リスト)というのだから、かなりそっけない。ニコルソンの資金あっての一種のアメリカンドリームに思えたが、興行成績は良かったという。日本でも同じ題名のリメイク版が吉永小百合・天海祐希で製作されている(犬童一心監督 2019年)らしい。

「家族はつらいよⅢ」は、山田洋次監督のシリーズ物で、贅沢な俳優陣で繰り広げられるホームドラマ。一家の大黒柱の主婦夏川結衣が、ある一件で、家出するとどんなことになるか、家事労働の評価を問うみたいな解説もあったが、映画の結末では、おそらく、何も変わらずに、元のさやに戻るハッピーエンドではなかったか。

 今回の「グリーンブック」(ピーター・ファレリー監督 2018年)は原題のままで、それは、黒人専用ホテルや店のリストを掲載するガイドブックだったのである。実話に基づくもので、アフリカ系のピアニスト(マハーシャラ・アリ)と彼のコンサートツアーのために雇われたイタリア系白人の運転手(ヴィゴ・モーテンセン)とによるアメリカ南部が舞台のロードムービー。時代は1962年の設定で、1876年から1964年の公民権法制定まで南部各州には、人種差別的内容を含む州法が存在していた。これらの人種差別の法律は、ホテルやレストラン、公共施設に至るまで、白人が有色人種を分離することを合法としていたので、演奏先の先々でさまざまな迫害を受けるのだが、ピアニストは、あるときは毅然として抵抗し、あるときは迫害に耐えるのだった。私は、いまさらながら、さまざまな差別、迫害の実態を知って、いささか驚くのだが、2020年、警官の黒人男性殺人事件の記憶は新しい。トランプ政権下で、多様性が否定され、差別が助長されているのを目の当たりにすると、人種差別は、決して解消はされてないことも知るのだった。

 映画では、紳士的で高踏的にも思えたピアニストと庶民的で粗野にも思える運転手は、互いに認め合い、理解を深めてゆく。一つ興味深かったのは、ピアにストへの迫害に、つい暴力をふるってしまった運転手が拘束され、ピアニストもろとも警察に留置されてしまう。ピアニストが弁護士と連絡を取ると、ただちに釈放するよう電話が入り、一件落着するのだが、当時の司法長官ロバート・ケネディの名が交わされる?場面があった。そういえば、ロバート・ケネディは、黒人差別による事件には厳しく臨んでいたのではなかったか。実話だったのか、少し話が出来過ぎてる感?もあった。

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運転手の旅先からニューヨークへの妻への約束の手紙、添削や代筆までするピアニストは、たばこもやらず、ケンタッキーのチキンも食べたことがなかった。

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写真は1940年版のグリーンブック(COURTESY NEW YORK PUBLIC LIBRARY)
ニューヨークの郵便配達員だったビクター・ヒューゴ・グリーンが1936年に創刊したグリーンブックには、自動車で旅行する黒人が安全に利用できる施設が掲載されていた。1967年まで、毎年のように刊行されていた。

施設が主催する映画会も、近く再開するとのことで、楽しみにしている。 

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2025年4月19日 (土)

東京新聞はなぜ、「空気を読み過ぎる」のか?!

  当ブログの前記事「女性天皇・女系天皇に期待する人たちへ、その先を考えてみたい。」(4月14日)は、4月11日の東京新聞社説「皇位巡る議論 安定的な継承のために」が「女性・女系天皇を認めることは、男女同権を目指す社会の在り方とも一致する」として「女性・女系天皇」容認に踏み切った論調への批判であった。

  そして今日4月19日の「社説」下の「ぎろんの森」は「皇位継承策と国民の支持」と題して、読者から多くの意見が届き、「そのほとんどが『社説は国民の常識・感情に寄り添ったものだ』などと賛意を示すものだった」という。この記事でも、共同通信の世論調査をあげて女性天皇を認めることに計90%が賛同し、女性皇族が皇族以外の男性と結婚して生まれた子が皇位を継ぐ「女系天皇」にも84%が賛成です」として、末尾に憲法の第一条をあげ、「主権者である国民の意見とかけ離れ、理解と支持が得られないような制度は安定的とは言えません。国民代表である国会議員は、そのことを忘れてはなりません。東京新聞は引き続き、読者と共に考え、主張すべきを主張していきます。」と結んでいる。

  しかし、当ブログの前記事でも書いているように、日本国憲法第一章にある「天皇」に「女性天皇」ないし「女系天皇」となる人を当てはめてみればわかる通り、基本的人権が認められないばかりでなく、慣習や慣例にしばられ、“宗教的”な振る舞いや行事への参加が強制されることになるのはないか。「皇后」という立場であっても、そこを突破する過程で失語症や適応障害という病に直面したのである。

  少し立ち止まってみれば、「女性天皇」や「女系天皇」が可能となれば、民主的な、男女平等の皇室制度が実現するかのような言説は、幻想に過ぎないのではないかと思う。その辺のことをスルーして、世論調査に追従するのみでは、ポピュリズムに堕した論調といってもよい。

  いま、「東京新聞はなぜ、空気を読まないのか」(菅沼堅吾著 東京新聞 2025年1月)という本が、広告によく登場する。著者は、東日本大震災発生当時の東京新聞の編集局幹部で、「空気を読まず、読者に知らせるべきことを果敢の報じる」ジャーナリストの神髄を示す回顧録、ということである。

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  先の「ぎろんの森」の結語でもある「東京新聞は引き続き、読者と共に考え、主張すべきを主張していきます。」というが、天皇制になると、あまりにもストレートに「空気を読む」「空気を読み過ぎる」論調になってしまうのは「なぜ」なのか。

 ところで、私はかつて、かつて、「時代の<空気を読む>ことの危うさ」(『短歌研究』2009年6月)という題で、書いたエッセイがあることを思い出した。「空気が読めない」といういい方が流行していた頃のことではなかったか。「空気が読めない人」をKYなどと呼ぶことも流行っていたようだ。

ご参考までに。

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『短歌研究』2009年6月号より

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2025年4月14日 (月)

女性天皇・女系天皇に期待する人たちへ、その先を考えてみたい。

  4月11日の『東京新聞』の社説の一つが「皇位継承を巡る議論 安定的な継承のために」と言うものだった。国会での議論がなかなか決着を見ない中、社説は、「世論調査では女性天皇を容認する人は約9割、女系天皇は約8割に上る」として「世界では女性の王位継承はすでに一般的。日本でも女性・女系天皇を認めることは、男女同権を目指す社会のあり方とも一致する。何より、皇位の安定的な継承と国民の支持を優先して考えたい。」と結んでいる。

  しかし、天皇制自体が、男系男子を強固に守って、といっても婚外子男子でつなげてきた実にあやしげな「万世一系」の皇統ではないか。日本国憲法における「皇位の継承」は「世襲」とのみと記され、あとは「皇室典範」に委ねているわけだから、女性天皇も女系天皇も、皇室典範の改正で可能ではある。といって、そこに女性天皇が出現したとしても、たとえば、ひたすら前例を踏襲するばかりであった即位礼、大嘗祭などにおいて「男女」を置き換えて実現しようとしたらどうなるのかなど、ちょっと想像しがたい。世論調査における女性天皇・女系天皇を「容認」する人たちの多くは、まさに「容認」であって、「男女平等なんだから女性天皇・女系天皇があってもいいじゃない」といった流れでの回答ではなかったか。

  2021年の有識者会儀のまとめた二案(①女性皇族が結婚しても皇族の身分を残す ②旧宮家の男系男子を養子に迎える)は、どちらにしても、安定的な皇位継承には直結するものではない。いずれも、女性皇族の基本的人権、第14条1項の「法の下の平等」と第24条1・2項の「家族生活における個人の尊厳と両性の平等」違反するものであって、国会での議論に値する案とは言えない。②案について各党の対応が分かれているというが、第14条2項の「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」との整合性をどう考えているのか。この二案を前に議論しているという超党派の「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議に基づく政府における検討結果の報告を受けた立法府の対応に関する全体会議」は結論を出せるのか。

 『東京新聞』の社説も、憲法の平等原則に立ち返ることなく「日本でも女性・女系天皇を認めることは、男女同権を目指す社会のあり方とも一致する。」と主張するのは余りにも拙速ではないのか。

  同日の4月11日『朝日新聞』のオピニオン欄で「国連委拠出金除外の波紋」について3人の論者に語らせている。国連女性差別撤廃委員会から「女性差別に該当する皇室典範の改正」を勧告された報復として拠出金使途から除外するという外務省の対応について、「憲法学者」西村裕一は、「皇室と女性差別を考える時」と題して「外務省の対応の是非はともかく」と留保して「皇室典範の規定が女性差別に該当しないという政府の説明それ自体は、憲法学の有力な立場に沿う」そうだ。一方、「天皇制自体が差別的なのだから、その中での女性差別は憲法や条約の問題ではない」という奥平康弘説が憲法学界では有力」だ という。メディアによく登場する長谷部恭男や木村草太などは、天皇制を憲法の「番外地」としているのだが、有力だという奥平説との関係はどうなのだろうか、素人にはわかりにくい。

 記事では、論者は「数年前に起きたある女性皇族の離脱劇」として、眞子さんを例として「問われるべきは、女性を犠牲にして成立している現在の皇室制度が“平和で民主的な日本国”の象徴を支える制度としてふさわしいと言えるかでなければならない」と続ける。しかし、“平和で民主的な日本国”にふさわしい「皇室制度」はあり得るのだろうか。もはや制度の問題ではなく、「日本国憲法第第一章天皇」と「平和で民主的な日本国」が両立し得るのかが問われるべきではないのか。この「第一章」があることによって、様々な場面で「平等」はなし崩し的にひずみを来し、「国事行為」という名のもとに、「公的行為」拡大の過程で、時の政府は、その「権威」を利用して来たと言ってもいいのではないか。それを受け入れてしまっている国民もいる。

 「憲法学者」には、「第一章」の位置づけと今後あるべき姿を明確に示してほしい、と願ってやまない。同時に、私たち国民も「いいんじゃない」で済ますことなく、真摯に向き合いたい。 

以下の当ブログ記事もご参考までに。
「皇族数の“確保”って、いうけれど・・・。」2025年3月21日

 「“安定的な”皇位継承というけれど・・・会議はどうなる?」2025年3月22日

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4月8日、ベランダ先の枝垂れ桜は満開を迎えるとあっという間に散り始めた。

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4月14日、芽吹き始めた木々の下で。

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2025年4月12日 (土)

沖縄の渡嘉敷島の「戦没者」慰霊祭に思う~住民を守らなかった日本軍

  先月3月29日、『東京新聞』に「2025戦後80年」シリーズとして、「『二度と戦争やめて』沖縄・渡嘉敷島 戦没者の鎮魂祈る」という小さな記事があった。「集団自決」で亡くなったとされる330人の慰霊碑「白玉之塔」の前での慰霊祭に約100人が参加、戦没者の鎮魂を祈ったとし、それに続いて「集団自決」の模様を以下のように伝えていた。

「米軍は1945年3月27日、渡嘉敷島に上陸。島北端の山中に逃げた住民は28日、集団自決に追い込まれた。鎌で切りつけたり、縄で首を絞めたりして、肉親同士が殺し合った」

 簡潔で、間違ってはいないと思われる記事なのだが、私たちが、渡嘉敷島の現地での見聞や書物の記述とは、ずいぶんと違っているように思えた。
 私たちが、渡嘉敷島を訪ねたのは2017年2月6日、那覇港から、欠航の合間を縫って、ようやく渡ったのだった。高波にも見舞われながらの70分の船旅、日帰りの強行軍だったが、タクシーの運転手兼ガイドさんの女性の案内でかなり精力的にまわったのではなかったか。

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   記事に「島北端の山中」とあるが、現在は、起伏こそあるが、広がる草原の先には、「国立沖縄市青少年交流の家」があり、野球場も見渡せ、海に向かえば、座間味島、阿嘉島も見える。のどかな光景なのだが、1960年、米軍がミサイル配備の基地建設のため、辺りの山は削られ、谷を埋め、地形は一変したという。69年に基地は閉鎖され、本土復帰の数年後に返還されたというのだ。もともとニシヤマと呼ばれたこの山間の地で、「集団自決」という凄惨な殺戮が繰り広げられたのである。現在は、1993年3月28日に建てられた「集団自決跡地」の碑がある。敗戦直後の1951年3月28日には「白玉之塔」は建てられていたのだが、米軍の基地建設のため接収され、現在の位置に移設されていた。

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   現在では、体験者の多くの証言により、渡嘉敷での「集団自決」は、軍の命令や関与があったことは明らかになっている。以下の証言でも、日本軍は住民を守るどころか、殺人や自決に至らしめたのである。

例えば、『沖縄タイムス』の社説にもあるように、軍は「敵に捕まった場合の投降も事実上禁止されたほか、「米軍に捕らえられれば女は辱められ、男は股割きにされる」という恐怖を住民に植え付けたのである」とし、一人の男性の証言をつぎのように続けている。

「あの日。金城さんの家族5人がいた壕では村長の「天皇陛下万歳」三唱が合図となりあちこちで手りゅう弾が爆発した。金城さんは、死にきれなかった妻子を小木でめった打ちにする男性の姿を見て「やるべきことが分かった」という。兄と2人で泣き叫びながら母と弟妹の頭に石を打ち下ろした。」(「[沖縄戦80年]慶良間「集団自決」悲劇の背景に軍の存在」2025年3月26日)

  同じく地元紙の『琉球新報』は、慰霊祭の記事ではつぎのように伝えている。

「1945年3月27日、渡嘉敷島に米軍が上陸し、住民は日本軍の命令で北山(にしやま)に集められた。翌28日に「集団自決」が起き、当時の村民の4割に当たる330人が犠牲となった。」(「渡嘉敷島「集団自決」80年の慰霊祭 刻まれた肉親の名を呼ぶ 沖縄戦」『琉球新報』 2025年03月28日)

『読売新聞オンライン』では、死んだふりをして難を逃れた女性の証言としてつぎのように伝えている。

「隣の座間味島(座間味村)に米軍が侵攻した翌日の3月27日、集落に「米軍が攻めてくる」といううわさが広がり、家族や知人らと山へ逃げ込んだ。夜通し歩き続け、日本軍の拠点にたどり着いたが、兵士に立ち入りを拒まれた。」(「沖縄戦で恐慌状態になり「親族同士で殺し合い」2025年3月27日」

 ところが、総務省がまとめた「渡嘉敷村における戦災の状況」では、「集団自決」について、以下のように記されている。

「日本軍の特攻部隊と、住民は山の中に逃げこんだ。パニック状態におちいった人々は避難の場所を失い、北端の北山(にしやま)に追込まれ、3月28日、かねて指示されていたとおりに、集団を組んで自決した。手留弾、小銃、かま、くわ、かみそりなどを持っている者はまだいい方で、武器も刃物ももちあわせのない者は、縄で首を絞めたり、山火事の中に飛込んだり、この世のできごととは思えない凄惨な光景の中で、自ら生命を断っていったのである」(総務省「(沖縄県)渡嘉敷村における戦災の状況」『一般戦災死没者追悼』所収)

 なお、渡嘉敷村のホームページ「慶良間諸島の沖縄戦」にも、上記と全く同文の段落があるので、総務省は、このページから一部を引用したものと思われるが、どうしたわけか、段落の冒頭部分「物量に劣る日本軍の特攻部隊と・・・」の「物量に劣る」が省かれている。総務省は、こんな姑息な「忖度」までを“日本軍”にするのかと。

 しかし、渡嘉敷村HPでも、「かねて指示されていたとおりに」というが、「いつ」「誰」が不明である上、「母と弟妹」は殺されたのであって、「自ら生命を断っていったのである」は、多く証言から、事実に反する記述ではないかと思う。さらに、同じHP上には、「大東亜戦争及び沖縄戦における本村関係者全戦没者数」の一覧表の欄外に*を付した「注意書」?では以下のような記述があるのである。

「狭小なる沖縄周辺の離島において、米軍が上陸直前又は上陸直後に警備隊長は日頃の計画に基づいて島民を一箇所に集合を命じ「住民は男、女老若を問わず軍と共に行動し、いやしくも敵に降伏することなく各自所持する手榴弾を以て対抗できる処までは対抗し癒々と言う時にはいさぎよく死に花を咲かせ」と自決命令を下したために住民はその命をそのまま信じ集団自決をなしたるものである。」

 渡嘉敷村HPにおけるこれらの齟齬を担当だという村の教育委員会に尋ねたところ、古いことなのでわからない、とのことだった。
「慶良間諸島の沖縄戦」
https://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/material/files/group/1/jiketsu01.pdf

 渡嘉敷島では驚かされた一件があった。曽野綾子撰文による「戦跡碑」である。かねてより保守の論客としても知られる作家の曽野綾子(1931~2025年2月)の撰文の一部を見てみたい。

「(前略)3 月 27 日、豪雨の中を米軍の攻撃に追いつめられた島の住民たちは、恩納河原ほか数か所 に集結したが、翌 28 日敵の手に掛かるよりは自らの手で自決する道を選んだ。一家は或いは、 車座になって手榴弾を抜き或いは力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは 愛であった。この日の前後に 394 人の島民の命が失われた。 その後、生き残った人々を襲ったのは激しい飢えであった。(中略)  315 名の将兵のうち 18 名は栄養失調のために死亡し、 52 名は、 米軍の攻撃により戦死した。 昭和 20 年 8 月 23 日、軍は命令により降伏した」(全文参照「戦争の悲劇的結末への宣誓」観光庁「地域観光資源の多言語解説文データベース」https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/H30-01471.html

「力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは 愛であった。」という唐突な「愛」への疑問はぬぐいようもなく、家族による「殺人」に至らしめた要因をも「家族愛」「家族制度」に包み込んでしまっている。

 さらに、撰文末尾近くの将兵の死因にも言及する。住民の「集団自決」と将兵たちのその徹底抗戦を賛美するかのような書きぶりだが、栄養失調や戦死した犠牲者は浮かばれず、その遺族の口惜しさは格別だろう。ともかく、生き残った割合は、住民より将兵の方がはるかに高いのである。日本軍は住民を守るどころか「集団自決」という「殺戮」後に、抗戦していたことになる。

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 総務省や観光庁の公式見解がまかり通っている現実と、いまここでは触れないが、教科書検定問題の決着は、「歴史を正しく次代に継承すること」とは真逆の道をたどっていると言っていいだろう。

 戦争や戦場の悲惨さを伝えることは重要だし、平和を祈る気持ちも大切にしなければならないが、メディアも「識者」も、なぜそのような戦争が始まったのか、戦場や銃後での理不尽な死者たちにも、しかと目を向けるべきだろう。安易に「戦没者」とひとくくりに出来ない死者たちがいることも私たちは知る必要があるのではないかと思う。

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 ガイドさんと話に夢中になっていて、「白玉之塔」に参るのを失念してしまった。

 

以下の過去記事もご覧いただければと、ご参考までに。

冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(3)2017年2月19日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/02/3-e774.html

冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(4)渡嘉敷村の戦没者、集団自決者の数字が錯綜する、その背景2017年2月22日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/02/post-0e0c.html

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2025年4月 8日 (火)

沖縄の「チビチリガマ慰霊祭」に思う

  4月6日の全国紙の朝刊は、沖縄県読谷村のチビチリガマで5日に行われた慰霊祭について報じていた。『朝日新聞』は「戦後80年」のシリーズとして「<集団自決>の地 語り継ぐ」、『東京新聞』は「2025年戦後80年」のシリーズとして「集団自決の過ち 繰り返さない」という記事だった。慰霊祭は、遺族会により行われ、生存者の参列はなく、遺族30人を含む約100人が参列している。1945年4月1日、米軍の沖縄本島への上陸が始まり、追い詰められてガマに避難した住民140人は、4月2日、住民同士や家族同士で殺し合った末、83人が犠牲となり、その6割が18歳以下だった。いわゆる「集団自決」による犠牲者だった。そうした中で生き残った者は「戦後長く口を閉ざし、証言するようになったのは80年代以降」(『朝日新聞』)だった。

   私たち夫婦が、このチビチリガマを訪ねたのは、2014年11月だった。ガイドも務める運転手さんによれば、米兵に突撃して射殺された2人を含み、狭い壕内で毛布に火が放たれもして、毒薬の注射や自決などにより85人が命を落とした。赤ちゃんの泣き声は、敵に居所を知らせるから、早くここを出るなり、殺せと兵士たちに迫られた母親もいたという。

  体験者の証言や聞き取り、研究者による調査研究などによって、こうした真相がわかってきたのは1980年代で、1985年には遺族たちと地域住民により追悼の平和の像が完成した。が、間もなく何者かに破壊されたので、石の壁で囲われるようになったとのことだった。

  私たちがガマに着いたときは、修学旅行の高校生が来ていて、ガイドの女性が説明をしているところだった。少し壕に近づき手を合わせたい気もしたが、運転手さんは、高校生たちの邪魔にならないようにしましょう、とその場を離れたのだった。

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  では、なぜ集団自決がなされたのか、その背景を『朝日』は「皇民化教育や〈軍官民共生共死〉という軍の方針があった」と言い、『東京』は「日本軍の強制や誘導があり〈強制集団死〉とも呼ばれる」と伝えている。
  NHK沖縄放送局の4月5日のニュースでは、この集団自決の背景を「捕虜になることを許さないとした当時の教育や軍の方針などがあったと考えられています」と伝えた。

  では、その「軍の方針」「軍の強制」とは何だったのか。上記の記事では。その辺が不明確なのである。これまで、私は「軍官民共生共死」という「軍の方針」とはどんなものだったのか、をあまり深く調べもしなかったのだが、とくに、沖縄の日本軍において、実践されたようなのだ。

  石原昌家教授のインタビューによると、1944年8月に赴任した第32軍の牛島満司令官が、同月31日、全兵団長を集めて行った訓示は「最後の一兵に至るまで敢闘精神を堅持」「一木一草といえどもこれを戦力化すべし」と言うものだった。さらに、第32軍が44年11月18日に作成した「報道宣伝防諜(ぼうちょう)等に関する県民指導要綱」によって「軍官民共生共死の一体化」と称して、「住民は戦場に動員されたり、飛行場や陣地の構築にかり出されたりし、軍民が一体化する中で米英軍の激しい攻撃にさらされ、多くの命が失われた」という結果を招いたというのである(「『県民の総決起』強いた沖縄戦の実相 数千の証言集めた研究者に聞く」『朝日新聞』2023年7月13日)。

 よく言われる「軍人勅諭」「戦陣訓」だけでなく、沖縄には、さらに密接な形での軍の方針が住民を苦しめた。その上、兵士たちは恐怖を煽るばかりでなく、住民たちに手をかけ、住民たちも家族同士、住民同士の殺傷に及び、失われた命だったのである。「自決」というのは、自らの意思による、潔い自裁さえ思わせるが、現実は、それとは程遠い殺戮が展開されたのではなかったか。「集団自決」は「強制集団死」と言い替えられることも多いが、「誰に」強制されたかがやはり不明である。「軍の誘導や強制により」と書き添えられることも多いのだが、体験者の証言などからは、より切迫した恐怖感があったからとしか思えない。

 

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2025年4月 6日 (日)

少しはからだ動かさくちゃ、歩かなくちゃ、ダメでしょ。

  ようやく新しい暮らしにも慣れて、週3回の「はつらつ体操」というのに参加するようになった。施設では体の状態によっていくつかのメニューがあって、朝のラジオ体操と「はつらつ体操」は初級者向け(弱い)である。「はつらつ」の方は、何しろほとんどが椅子に座ってできるメニューで、右足を痛めている私にはありがたい。インストラクターは、女性二人、男性一人の日替わりらしい。 45分間で、準備体操、筋トレ・脳トレ・音楽に合わせてのリズム体操で終わる。最後に流される音楽は「人生いろいろ」「川の流れのように」などである。「脳トレ」というのが、私は苦手で、いまだにきちんとできたことがない。両手の左右を違えて動かす、手の動きに足の動きを組み合わせて、それぞれ違った動きをさせる。「いいですよ、できなくても大丈夫ですよ」とインストラクターはみなやさしいのだが。

 一昨日、連れ合いが、施設の東門からJR佐倉駅への近道があるらしいから、ちょっと歩いてくる、というので、私も、途中まではと歩き出した。なるほど、道は、タイヤの跡があるからようやく車が通れるほどの幅で、右手が石垣の上に鬱蒼とした林、左手が荒れた林や竹林が続く下りの坂道、どこまで続くのか、足元には、どんぐりのような木の実が散らばっていてぴしぴしと靴にあたる。引返すに引き返せなくなって、途中で小休止。左手には住宅が見えてきて、線路と道路に突き当たる。なんだ、県の合同庁舎が見えてきたのである。いつもバスで通る道に出る。地図を見ると「さくら庭園」の外回りを歩いてきたことになる。それでも3000歩少し。近頃にしては上出来なのである。

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 振り返るとこんな道なのだ。

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旧堀田邸から見た芝生の先にはこんな風に緑地が広がっていたのがわかる。V字型の緑地の左の内側に厚生園病院や特養などがあり、右手の先の内側に旧堀田邸があり、その先に施設があることがわかる。そもそも、もともとは、この一帯は堀田家の農事試験場であったという。Vの左の外側は長い坂道となる。

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今年のお花見

  今日4月6日は、施設内のお花見の会で、午前中、談話室では、施設長Tさんの演奏があるという。最初のトランペットの演奏に驚いたが、トークによれば、音大を目指していて、ピアノよりトランペットの方が得意だったが、その後、福祉の道を選んだとのことであった。ピアノによる日本の歌、荒城の月、さくらさくらなどのメドレーに続き、お好きなジャズや映画音楽を楽しそうに弾いて下さった。「テネシーワルツ」や「オーバー・ザ・レインボー」は聞き覚えがあったが、1990年代に流行したという日本の「木蘭(もくれん)の涙」も知らなかったし、1930年代アメリカで生まれた「アラバマに星落ちて」はジャズのスタンダード曲ということも初めて知った次第。続々と集まってくる人たちに、スタッフの方の気配りたいへんなものだった。しばし、演奏に心和んだ後は、お楽しみのお花見弁当である。 外は、朝は日が射していたのに、少し肌寒い空模様になって来た。

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施設内の真ん中を貫けるサクラ通り、旧堀田邸への道でもある。前日4月5日撮影。

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