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2025年5月30日 (金)

沖縄愛楽園交流会館、オープンから10年

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2025年5月22日「東京新聞」
沖縄愛楽園交流会館リーフレット(2017年4月)
https://www.nhdm.jp/hansen/wp-content/uploads/2021/03/airakuen.pdf

  沖縄愛楽園交流会館が開館したのは2015年6月1日だったという。私たちが、国立療養所沖縄愛楽園を訪ねたのが2017年2月だったので、オープンして、まだ2年も経たない頃だったことになる。佐倉市の家を朝7時20分に出て、羽田から航空機、那覇からの高速バス、本部からタクシーに乗り継いで交流会館に着いたのは閉館の5時を過ぎていた。園内は自由に歩けるので、ともかく、まずもっての目的だった貞明皇后の「御歌碑」(つれづれの友となりても慰めよ 行くことかたきわれにかはりて)を園内の地図をたよりに探したのだったが、見当たらない。

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右上岬の根の辺りの⑱に「御歌碑」があるはずだった。すで2017年には交流会館が建っている。(2011年9月作成)
2011年9月作成の「園内図」:
http://w1.nirai.ne.jp/ai-jichikai/img/guidemap.pdf

 園内には、白衣の人たちや夕食の配膳車を押す人たちが行き来していた。「御歌碑」が見つからないまま、園内各所の説明板を見ながら巡っていたところ、運動場のような草はらに出た。その広場の隅に何かあり、遠目にはわからなかったが、近づいてみると、大きな岩のようなものが青いシートに覆われていた。シートはあちこち破れて透けて見える。その岩には、「貞明皇后」の文字も読め、なんと大きな碑が横倒しになっていたのである。よく見れば、「つれづれ・・・」の文字も読める。最初は信じられなかったのだが、探していた「御歌碑」に違いなかった。

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この広場が「友愛の広場」だったのか定かではない。

 翌日、本部港のホテルから再び沖縄愛楽園に向かい、交流会館の展示を見たのだった。写真やパネル、証言などによるハンセン病者への過酷な差別の歴史がわかるような展示だった。国の絶対強制隔離政策により断種、堕胎が日常的に行われ、さまざまな人権侵害がなされていたが、1931年「癩予防法」の成立により、さらに強化されていった。1932年には、貞明皇(太)后(大正天皇の節子皇后)からは、上記の短歌と下賜金が、全国の国立ハンセン病療養所に贈られ、皇族たちによる「救癩」事業を「恩寵 」として、癩根絶運動が推し進められた。愛楽園には、1943年2月に「御歌碑」が建立されたとある。しかしこの時期にはすでに、ハンセン病の伝染力は弱いことがわかり、治療薬プロミンが開発されていたのにもかかわらず、戦後1948年の「優生保護法」の対象とされ、1953年の「らい予防法」は旧法を引き継いだままで、差別は助長され、1996年にようやく廃案になったという経緯がある。2001年、熊本地裁の患者らによる国家賠償請求訴訟で原告勝訴が確定して、国の謝罪や賠償に至るも、いまださまざまな差別の歴史が続いているのが現状である。

 1943年に建てられた「御歌碑」の歴史も下記の展示で、一部解明された。1943年に建てられた碑は、敗戦直後、米軍からの指示を受けて、台座から外し海に投棄された、とある。横倒しになっていた「御歌碑」は、それとは岩の形も異なり、いつ再建されたのだろうか。その後どうなったのだろうか。 気になるところであった。

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交流会館展示より。上が1943年建立時、下が焼かあとで焼け残った「御歌碑」

 

 下記の論稿を寄せるにあたって、沖縄愛楽園交流会館に問い合わせたところ、「現在は元の位置に戻されて建っています」とのことだった。

「貞明皇后の短歌が担った国家的役割――ハンセン病者への「御歌」を手がかりに」
ダウンロード - e8b29ee6988ee79a87e5908ee381aee79fade6ad8c.pdf

 ただ、以下は推測なのだが、あの「御歌碑」が再建されたのは、1972年の本土復帰後、1975年、明仁皇太子夫妻が沖縄を初めて訪問した折、沖縄愛楽園にも立ち寄っているので、それに合わせて再建されたのではないか。その後、碑の近くだったと思われる場所に、1985年6月26日には高松宮夫妻、1992年10月27日には寛仁親王夫妻の来園記念植樹がなされている。そして、まさに、碑のあった場所に、2015年のオープンを目指して交流会館建設が始まった時点で、撤去され、あの広場に置かれたのではなかったか。私たちが訪ねた翌年の2018年には、開所80周年記念式典が行われているので、これに合わせる形で、元の位置に近い交流会館の脇に戻されたのではなかったか。

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右上岬の根もと、〇で囲んであるところに小さく「御歌碑」と書かれている。その下が交流会館で、その正面玄関前に、高松宮夫妻、寛仁親王夫妻の記念植樹がなされている。
2024年4月作成の「園内図」:https://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/iryou/hansen/airakuen/site/access.html

 新旧の「園内図」を比べてみると、あたらしい図にも「御歌碑」の位置は、交流会館の裏側海岸側に、小さく表示されのているものの、図の左下の「説明板」では省かれている。交流会館は沖縄愛楽園自治会の運営であり、沖縄愛楽園は「国立」である。現在の交流会館の展示に、元の位置近くに戻された「御歌碑」に言及されているのだろうか。自治会としての意向はどうだったのだろうか。昨年10月現在の入所者は83名(うち女性44名)、平均年齢86.5歳という。
 それにしても、私たちが目の当たりしたのは、いわば「放置」に近い状態だった。この辺の経緯や事情、あたらしい「園内図」にあるような位置に戻された現在の「御歌碑」の画像や説明板などがあれば見てみたい。撤去のままの方がよかったのか、あるいは他の差別や戦禍の歴史を語る「建造物」と同様に、目に触れる形できちんと説明板を付して残しているのかを知りたいが、再訪がかなわない今、教えていただければありがたい。

 「こまかいところが気になりまてねぇ、悪いクセでして」と「相棒」の右京さんのセリフを一度言ってみたかった?

 以下の過去記事と重なる部分がありますが。
冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(1)沖縄、屋我地島、愛楽園を訪ねるhttp://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/02/post-eeb9.html

 

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2025年5月28日 (水)

きょう、朝日新聞がようやく社説「皇室制度のあり方」を掲載したが。

 朝日新聞は、今日、ようやく、「皇室制度のあり方 女性・女系将来の道閉ざさずに」を掲載した。社説で「皇室制度のあり方」が論じられるのは、昨年の5月7日以来である。これで、全国紙3紙と産経、東京(中日)新聞の社説が出そろった。産経は別として、読売新聞の女性・女系天皇容認を論じた記事や社説は、保守系の「読売」がと話題にもなった。以下の当ブログの記事もご参照ください。

皇室情報氾濫の中で、見失ってはならないもの(2025年5月23日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2025/05/post-98bae1.html

 朝日新聞は、与野党協議の結論にはまだ至ってないが、中間報告についてまとめ、所見を述べているので、やや長文となっている。中間報告では、①秋篠宮の長男までの皇位継承の流れ、にはおおむね賛同、②女性皇族の結婚後も身分を保つ、 には共通認識があり、③皇統に属する男系男子を養子に向かえる、には積極論も反対論もある、とまとめている。②については、本人の選択を尊重する、にはおおむね一致したとする。一方、女性皇族の配偶者と子供の身分については、意見が分かれている。男系男子を主張する自民は皇族の身分を与えてはならないとし、立憲は、身分を与えないと政治的な中立性など保てないとする。

 社説としては、②の本人の選択を尊重した点を評価、③の配偶者に皇族の身分付与する道を閉ざしてはならない、としている。また、旧宮家の男系男子を養子にする案は、幅広い国民の理解を得ることの困難と門地による差別にもあたるとしている。

 ただ、今回の社説で、他社と若干異なるのは「根本の論理深めたい」としている点である。これまでも、朝日の紙面では、識者等による、同様の論調はなされてきたが、社説として以下のように述べていることである。

象徴天皇制と、「個人の尊重」や「法の下の平等」など憲法全体に流れる「人類普遍の原理」と。憲法には異質なものが同居しており、完全に整合させることは難しい。
 新しい制度が、その不整合を逆に大きくしないか。国民統合の象徴としての天皇を支えるためのよりふさわしい方向なのか。現憲法のもと培われてきた現代社会の価値観に合致するのか。根本的な論点を、深めてもらいたい。

  なんとも慎重な、まどろっこしい文章に思えた。 「女性・女系将来の道閉ざさずに」という新しい制度が実現したとしても、その「新しい制度」が、「その整合性を逆に大きくしないか」という問いかけこそが、みずからの社説への問いかけではないのか。

 産経を除いた他紙の社説も、「国民の総意」や世論調査の結果などを盾として「女性・女系天皇」へと傾いているが、「国民の総意」「世論」ほど作られやすいものはない。日本の戦時下のメディアの翼賛体制、安保闘争報道における1960年6月15日直後の「在京七社共同宣言」などから学んでは来なかったのかと、振り返るのであった。

 

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2025年5月25日 (日)

短歌の世界でも、「皇室」利用がまかり通る?

  もはや斜陽の週刊誌が、ここぞと攻勢をかけているのが、著名人のスキャンダルと高齢者向けの健康志向・相続対策ネタと並ぶ「皇室ネタ」ではないか。

 私が、永らく「下手の横好き」でかかわってきた「短歌」に限ってみても、最近は、いわゆる「お硬い」岩波書店が美智子前皇后の歌集『ゆふすげ』(2025年1月)を出版した。『ゆふすげ』は、歌会始選者で、御用掛でもある永田和宏のぜひにと強い勧めで出版に至ったという、未発表歌集である。また、永田和宏による『人生後半にこそ読みたい秀歌』(朝日新聞出版 2025年4月)は、下記の広告のように「皇室和歌相談役で美智子さまの歌集『ゆふすげ』の解説者による、中高年の日々を楽しく生きるヒント集」との宣伝文句が添えられていた。

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2025年5月21日「朝日新聞」広告より

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2025年5月22日「週刊文春」より

ご参考までに

当ブログの過去記事

・岩波、お前もか~美智子前皇后の新刊歌集出版をめぐって(2025年1月23日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2025/01/post-93b30d.html

・「美智子皇后の短歌」について書きました。(2024年12月 7日 )

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2024/12/post-a13602.html

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2025年5月23日 (金)

皇室情報氾濫の中で、見失ってはならないもの

 皇室情報はなぜ増えたのか

 新聞、テレビ、ネット情報の中で、最近、とみに拡大してきたのは、皇室情報である。当ブログ記事でも何度か触れてきたが、2023年4月1日に宮内庁に広報室が新設されて以来、皇室情報は一気に増した。24年4月1日にはインスタグラムが、25年3月28日にはユーチューブの公式チャンネルが開設され、皇室行事の動画が配信されるようになった。ヤフーやニフティを開くと、desktopには必ずと言っていいほど、愛子さん、佳子さん、悠仁さんの画像が散見できる。どうしてこんなことになったのか。

 毎日新聞は5月17、18日に全国世論調査を実施し、皇室への関心の有無を聞いている。それによれば、「今の皇室に関心がある」は「大いに」と「ある程度」を合わせて66%、「あまり」と「全く」を合わせた「関心がない」の33%の2倍に達した。ただ、年齢層別にみると、18~29歳では「ない」が50%で、「ある」の49%をわずかに上回った。年齢層によって関心の度合いは違い、年齢層が上がるほど関心も高くなる傾向があった。女性天皇容認は70%という結果だった。

 若い人の皇室への関心が薄れている傾向がよくわかる。18~29歳、10代・20代の層にいかにアピールするかが広報室の課題であり、今の皇室情報の氾濫は、宮内庁広報室の焦りにも感じられる。若い皇族たちの皇室行事への参加、視察先、外遊先などの模様に加えて、今春からは、悠仁さんのキャンパスライフにかかる情報も多くなった。

 それにしても、彼らの動線の前後や脇は厚い警備が巡らされているのである。視察先の受け入れ側の警備や対応は、むしろ負担なのではないか。国民と触れ合う、寄り添うと言っても、あらかじめ用意された人々との無難な交流や会話は、いかにも仕組まれたという感は免れない。

 

皇族数確保策はまとまるのか

 今国会の会期末が一カ月後の6月22日に迫る中、国会の場での取りまとめを、今国会中には何とかまとめるように必死であった両院正副議長。皇位継承を維持するための、皇族数確保に向けて、各党の協議がなかなかまとまらない。そんな中、5月15日の読売新聞の社説と特集記事「皇統の安定と現実策を」によって、安定的な皇位継承の確保を求めて「皇統の存続を最優先に」「象徴天皇制 維持すべき」「女性宮家の創設を」「夫・子も皇族に」の4項目の提言を行った。

 これに先立ち、4月11日、東京新聞の社説「皇位巡る議論 安定的な継承のために」では「女性・女系天皇を認めることは、男女同権を目指す社会の在り方とも一致する」として「女性・女系天皇」容認を掲げた。さらに、4月19日の「社説」下の「ぎろんの森」では、さきの社説には読者から多くの意見が届き、「そのほとんどが『社説は国民の常識・感情に寄り添ったものだ』などと賛意を示すものだった」との記事。さらに、5月17日の「ぎろんの森」では、さきの読売の社説を受けて、「『女性・女系』提言を歓迎する」として、東京新聞は、日頃、読売新聞とは「憲法改正の是非や安全保障、原発などの問題を巡り主張が異な」るが、今回の読売新聞の提言は「本誌と主張をまったく同じ内容であり、歓迎する」としている。

 一方、毎日新聞は、社説「皇族確保の政党間協議 もう先送りは許さない」(2024年4月10日)「皇族確保の与野党協議 安定継承を念頭に結論を」(2025年3月16日)、朝日新聞の社説「皇位の継承 国民の声踏まえ協議を」(2024年5月7日)も、関連記事を報道する中で、世論調査や研究者などの意見などの形で、男系男子による皇位継承に固執した案では、国民の幅広い理解を得られるものとは言いがたく、女性・女系天皇を後押しして来たともいえる。従って、主要メディアは、女性・女系天皇容認へと傾く中で、4月19日の産経新聞の社説<主張>は「<皇統と読売提言>分断招く「女系継承」は禁じ手だ(論説委員長 榊原智)」と近年の持論を展開した。もっとも、森暢平によれば「女性天皇推しだった『産経新聞』の変節」(週刊エコノミスト Online サンデー毎日 2025年1月27日)したという。2001年小泉純一郎政権下の「国家戦略本部」により女性天皇を含む皇室典範改正が検討される中、産経新聞は社説<主張>において「女性天皇 前向きな論議を期待する」と発表していたのである(2001年5月11日)。

 おりしも、自民党の「安定的な皇位継承の確保に関する懇談会」(麻生太郎会長)は皇族確保策を巡り「女性皇族の夫と子『皇族とせず』」との見解を示した( 2025年5月21日)。これまでの、いわゆる<保守>が分断の様相を見せ始めたのである。

私が不思議に思うのは

 ところが、これらの社説を読んでいて、私がいつも不思議に思うのは、各社、その冒頭に、前提としてつぎのように述べていることだ。
 『朝日』は「憲法が定める国の重要な制度に関わる問題だ。広範な合意のないまま、数の力で押し切ることはあってはならない。」と。「毎日」は「皇室制度の維持は、国のかたちにかかわる重要な問題だ。安定的な皇位継承の実現を念頭に議論を進めることが欠かせない。」としている。

 国の決め事に際して議論を尽くせという一般論は当然のことだが、「皇位継承問題」が「憲法が定める国の重要な制度に関わる問題」、「皇室制度の維持は、国のかたちにかかわる重要な問題」という認識は、国民共通のものになっているのだろうか。たしかに、憲法の「第一章」は「天皇」である。いま、この「第一章」を失ったとしても、「国のかたち」が変わるのだろうか、国民生活に何ほどの影響があるのだろうか。むしろ国民にとっては、「主権在民」の基本原則がすっきりとした形で腑に落ちるのではないか。

 また、『読売』は、「日本の伝統、文化を守り伝え、常に国民に寄り添ってきた皇室を存続させていくことは、多くの人の願いだろう。」「だが、皇族数の減少は深刻で、このままでは皇室制度そのものが行き詰まる恐れがある。何よりも重視すべきは、皇統の存続だ。」と断定する。前の文章では、世論調査などを念頭にしているのかもしれないが、日本の皇室が「日本の伝統、文化を守り伝え、常に国民に寄り添ってきた」とするが、皇室が守って来た伝統、文化は、宗教色の濃厚な、基本的人権に反するものも多々あり、伝統といっても、たかだか明治以降に形成されたものでしかないものもある。「国民に寄り添ってきた」というが、いわゆる、法的根拠のない「公的行為」を拡張してきた平成期以降の皇室に過ぎないのではないか。「何より重視すべきは、皇統の存続だ」という一文に至っては、「存続のための存続」となり、主権者たる「国民」の姿が見えてこない。

 『産経』に至っては、政権により変節するという都合のよさに加えて、「歴代の天皇と日本人が大切に守ってきた、この男系継承こそ現憲法が記す『世襲』の根幹だ。これを守らなければ、天皇の正統性は損なわれ、皇統の土台が崩れてしまう。女系継承の容認は日本の皇統断絶を意味する。」と。長い日本の歴史の中で、そもそも、守らなければならない「天皇の正統性」が担保されているかも危ういのではないか。

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旧堀田邸内の門から「さくら庭園」を望む。

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施設内、中庭の柿の木の下で。こんなに実を落としてしまって、秋は実をつけるのだろうか。

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2025年5月18日 (日)

高良真実『はじめての近現代短歌史』読後~“若い人”の「短歌史」へ

 遅ればせながら、高良真実『はじめての近現代短歌史』(草思社 2024年12月)を読んでみた。これまでときどき見かけた書評や感想では大方、好評であったように思う。明治以降の作品を中心とした、その解釈や時代背景もわかるハンディな「近現代短歌史」として評価され、巻末の「参考文献一覧」の量にも圧倒されたようであった。

 私が驚いたのだが、著者が1997年生まれというから二十代後半ながら、近現代の短歌通史を書こうと思い立ったことだった。著者が「本書は、これまで多大な気力と体力とお金を学んでいくものであった短歌史を、できるだけわかりやすく、簡潔に伝えることを目的としています」(「はじめに」)と述べ、かなり気合が入っていることは確かである。

 これまでの短歌史が、男性歌人による、男性歌人が中心の、評論や論争に偏りがちな通史であったことなどを考え合わせれば、たしかに、若い女性歌人を書き手とする女性歌人・作品が多く語られる短歌史であったのは間違いない。また、「短歌史は秀歌の歴史である」に見るような割り切りのよさは、随所に迷いのない文章となって、明快さを際立たせている。著者は、作品を抄出するのに、全集や選集、あるいはアンソロジーなどからではなく、歌集を典拠にしていることも伺える。そして、今世紀に入ってから活躍し始めた若い歌人たちを対象にしている点も、これまでにはない特徴である

 ここからが、私の“注文の多い”読後感になる。

時代区分において元号と西暦が混在するのはなぜか

「第一部 作品でさかのぼる短歌史」では、一九〇〇年代から二〇二一年以降の120年余の間を十年刻みで、各年代に数首をあげて鑑賞している。十年刻みにどんな意味があるのかは不明だが、多分便宜的なものかもしれない。二〇二〇年代からさかのぼるという試みも一興である。まず直面する今世紀の若い世代の歌人の作品には、「ほう」といった驚きもあり、興味深い作品もあった。
 ところが、「第二部トピックで読み解く短歌史」になると、「明治時代の短歌/大正時代の短歌/昭和の短歌1(~昭和二〇年)/昭和の短歌2(昭和二〇~三〇年代)/昭和の短歌3(昭和四〇年代以降)/九〇年~ゼロ年代の短歌/テン年代以降の短歌」の七章に分けられる。「テン年代」?最初はなんのことかわからなかったのだが、二〇一〇年代を表すらしい。 
 近代以降の短歌史の時代区分について、ここでは詳しく述べないが、小泉苳三の『近代短歌史・明治篇』の区分の流れを汲んだ木俣修、篠弘の幾冊かの短歌通史では、
元号を用いて、明治、大正、昭和の区分がなされている(拙著「近代短歌史の時代区分」『短歌と天皇制』風媒社1988年10月)。中井英夫『黒衣の短歌史』でも1945年8月敗戦以降の短い期間ながら、昭和の年代を用いている。しかし、1997年生まれの著者が、「平成」「令和」の時代区分を用いることがなかったのは当然のことながら、なぜ「昭和」にこだわっているのかが不思議にも思われた。今の若い人たちに、昭和何年といっても、今から何年前のことかが、すぐには「計算」できないのではないか。
 かつて、私が篠弘の『対論形式による現代短歌史の争点』(短歌研究社 1998年12月)の企画に参加した折、篠弘の『現代短歌史Ⅰ~Ⅲ』の中で、西暦と元号表記が混在することは、今後の若い世代には、わかりにくく、読者に混乱を招くのではないかと指摘したことがあった。上記『争点』の「はしがき」において「当初の対論者の一人である内野光子氏のサゼッションより昭和の年号をやめ、原則として西暦を使用した。年号のイメージが有効であったのは昭和四〇年ごろまでであって、たしかに本書のこれからの読者には西暦がふさわしい」と書かれてから、四半世紀も経っている。

 いまだに、公文書は原則元号表記だし、若い人からの年賀状で「令和」表記であったりして戸惑うこともあるのも事実ではある。 本書の著者には、短歌史を西暦で整理してもらいたかった。 

・女性歌人・作品の扱われ方について

冒頭にも書いたように、たしかに、本書は、女性歌人・作品が多く語られる短歌史であったが、「第二章大正時代の短歌」における「女性歌人はどこへ行ったのか」、「第四章昭和の短歌2(昭和二〇~三〇年代)における「女人短歌・女歌論」「戦後の女性短歌」、「第五章昭和の短歌3(昭和四〇年代以降)」において「七〇年代の『女歌』論リバイバル」「八〇年代女性シンポジウムの時代」という枠内で語られている。こうした扱い方は、篠『現代短歌史』三部作における女性歌人や作品の扱い方を踏襲しているのではないかと思われるのだ。同書も、各章の一節として「女歌」をまとめ、さまざまな章の一部に中城ふみ子をはじめ女性著名歌人の作品が紹介されるという構成であった。

・「見えなくされていた」のは女性歌人や作品ばかりではなかったのではないか

 女性歌人や作品に多くのページを割いているというが、明治・大正・昭和前期、本書での「第二部トピックで読み解く短歌史」の「第二章大正時代の短歌」の中で、やや自虐的に「女性歌人はどこへ行ったのか」と題した第五節で、与謝野晶子、今井邦子、若山喜志子、片山廣子が初めて登場するが、女性には性別のイメージが張り付いていて、その存在を「見えなくされていた」という。この間のプロレタリア短歌時代の五島、山田あき、館山一子、あるいは無産運動の中で、短歌や評論も残している阿部静枝がおり、戦後は、各人異なる道を歩んだことなどにも言及が欲しかった。『新風十人』に参加していた五島美代子と斎藤史に触れるのみであった。
「見えなくされていた」のは、女性歌人ばかりでなく、治安維持法などによる言論弾圧、戦争協力を強制された日本文学報国会、植民地における皇民化教育の一環としての日本語教育やそこの登場する短歌なども、あえて見えにくくする体制側の工夫があった。戦後に書かれた短歌史こそ、そこに陽をあてるべきだったのに、見えにくかった部分は、どんどん薄められ、歌人たちの回顧でもまるで「なかったこと」のように語り継がれて、フェイドアウトしてゆくことを、著者は知らないわけではないだろう。敗戦後の米軍による占領期における、それこそ「見えなくされた」言論統制においても同様のことが言えるが、占領期の歌人の対応は素通りされている。

・なぜ「男性中心の歴史をなぞる結果」になったのか

 著者が「おわりに」で、述べるように「エリート歌人の作品を引き、かつ男性中心の歴史をなぞる結果」になったのだろうか。 近現代の短歌を支えてきた、いわば、短歌の裾野の人々への目配りが見えにくかった。たとえば、短歌総合誌に登場する「エリート歌人」ではない多くの読者、新聞歌壇の選者と読者、減少したとは言え多くの結社を支えてきた編集者や同人、現代歌人協会・日本歌人クラブによる活動と「国民文化祭」、歌壇における「歌会始」の果たす役割などにも目を向けるべきではなかったか。そういう意味では、1970年代半ば、「昭和五十年」というくくりではあったものの、講談社による『昭和萬葉集』の刊行は、短歌の裾野の人々の「秀歌」を掬い上げ、短歌自体の持つ「記録性」の重要性を再認識させたはずである。「トピック」からも外されているようで、残念なことの一つであった。

 いまは、もうこの辺で。
 短歌史に取り組んだ著者の意欲には、敬意しかない。資料の探索も丁寧ではある。「短歌史」という「読み物」としては、面倒なこともなく読みやすかった。「第六章九〇年代~ゼロ世代の短歌」「第七章テン年代以降の短歌」では、初めて知ることも多く、これまでモヤモヤしていたことが整理されたこともあった。欲張らずに、今世紀以降にかぎっての、著者にとっては同時代の「短歌史」をぜひまとめて欲しいと思った。さらに、「短歌史」となれば、「参考文献一覧」ではなく、文中に「注」として典拠を示すのが大事なのではないか。

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イロハモミジの翼のような若葉は、やがて種子を運ぶという。花も咲くというが、まだ見えていない。ベランダから。

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隣接の「さくら庭園」には、様々な樹木に接することができる。手入れされた芝生も心地よいが、松の木の根方に揺れるブタクサもヒメジヨもかわいらしい

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2025年5月 9日 (金)

“若い人”の歌集から~戸惑いながら刺激を受ける

 私のような高齢者に、ときどき、若い人の歌集が舞い込んだりする。「若い」といっても歌集をお送りくださる方たちの大方は私より若いわけなのだが、子ども世代、孫世代にもあたる人たちの歌集には、戸惑うことも多いが、刺激を受けることもある。私は歌集を評するというのは苦手で、つい突っ込みたくなる。世代の違いを忘れて、それって違うだろう、どこか疲れてしまう、みたいなことになりがちで、その作品の良い点というのがなかなか見いだせない、読みの弱さがある。しかし、素直にいい歌だなあ、こんなこともあるんだ、ここまでは気付かなかった、私にもよくある「あるある」といった、広い意味の「共感」を見出すことは楽しい。著者の意図とは大きく外れたとしても。

山中千瀬『死なない猫を継ぐ』(典々堂 2025年1月)

「あ」を補う赤字を入れる「たたかい」と「家庭」きらきら並ぶ紙面に

相似形の影を踏み合いこれからもあたしたちひとりひとりがひとり

あたたかいほうがコピーだからちゃんと冷たいほうの原紙に印を 

屋良健一郎『KOZA』(ながらみ書房 2025年3月)

戦没者追悼式の壇に立つ首相に向かう百のケータイ

閉館の曲の流るる図書館の外に雪後の雨降りており
(二〇二三年年六月、普天間フライトラインフェア)
オスプレイの前に顔出しパネルありて沖縄人が次々顔出す

嵯峨直樹『TOWER』(現代短歌社 2025年4月) 

辛辣な言葉を放ちあいながら小さな影はかけ橋わたる

テーブルのクリアファイルに陽は当たり細く鋭い傷あと光る

ゆうやみに銀のてかりをまといつつ高架を走る通勤電車

小林理央『金魚すくいのように』(角川書店 2025年4月)

出張で読める地名が増えてゆくことに楽しみを見出す始末

図書館の机に伏せて寝るようなノスタルジーを抱えて歩く

不意打ちの真夏の雹は池袋の街ごとわたしをかきまぜてった

 小林さんは1999年生まれ、「物語の中から自分をゆっくりと引っ張りあげてしおりをはさむ」なんて、硬い本を読んでいても、いまの私と変わらないじゃないかと、若返った気にもなる。

 

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桜並木は雨上がりの新緑の散策路になった。右手が施設の1号棟。

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隣接のさくら庭園から堀田邸を望む。手前の木には、大きなカタツムリが。5月10日撮影

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2025年5月 6日 (火)

宮城晴美さん講演を聴いた~沖縄における門中制度の遺制

 

沖縄における「集団自決」についての記事を書くにあたって、以下のような「沖縄タイムス」の記事を知った。

「男性だけの家族で『集団自決』は起きていない」 沖縄女性史家・宮城晴美さん調査 犠牲者の8割超...(『沖縄タイムス』2025年4月6日)https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/1559089

沖縄女性史の研究者である宮城晴美さんの調査によると、下記の表のように、「沖縄の『集団自決』の犠牲者の8割以上が女性や12歳以下のこどもであったという。ここには、日本の家父長制が大きく影響していて「『米軍に襲われ純潔性を失うよりは、死んだ方がまし』との考えも植え付け、男性が女性や子をあやめる土壌をつくったという」

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 といえば、さきの集団自決についての当ブログ記事でも触れた、曽野綾子撰文による「戦跡碑」にあった「一家は或いは、 車座になって手榴弾を抜き或いは力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは 愛であった。」の一文を思い起こす。

 折も折、宮崎晴美さんが「沖縄と天皇制」について講演するという。WAM(女たちの戦争と平和資料館、新宿区西早稲田)は、毎年4月29日「昭和の日」は、祝わない日の一つとして、講演会を開いている。オンデマンド配信で視聴することにした。

 宮城さんは、1879年(明治12年)の琉球処分、教育による同化政策、1886年、官民一体となっての皇民化教育から説き始めるが、その中で、王国時代からの「門中制度」が果たした役割に着目する。「門中制度」とは、当時の士族層が男性血統による嫡子相続を固守する父系血族集団で、儒教思想を基盤とする、いわば琉球版家父長制といわれている。結婚も家格を重視、親同士が決めるという。一方、一般の平民は、所有権のない土地を耕作するので相続は生ぜず、男女平等、結婚は「モウ遊び」と呼ばれる自由恋愛だったという。1898年1月、北海道、小笠原諸島と共に沖縄にも徴兵令が施行され、7月に民法が公布された。士族層にとっては、門中制度が民法によって法制化され、歓迎され、平民に対しては、日本語教育、琉装廃止、モウ遊び禁止、改名運動など、同化政策は強化されていった。

 昭和期に入ると、県民自らの日本風の改姓・改名運動や方言撲滅運動が見られた。戦争末期の沖縄戦において、集団自決がなされたのは、軍民一体となっての軍事活動がなされていたので、日本軍は、敵への投降はスパイとなって機密が漏れるのを怖れるということで厳禁、女性は強姦されるか慰安婦になるとの恐怖に陥れた。そして日本軍は、地元の指導者を伝令として、家長に集団自決を命じた。結果、男性家長は妻子・母・姉妹を殺めることになった。

 1945年9月7日、米軍と日本軍の降伏文書調印により、米軍単独の沖縄占領が始まり、1947年9月20日のいわゆる「天皇メッセージ」により、米軍の占領は長期固定化した。新民法により女性は解放されたはずだが、その実態は 良妻賢母教育がなされていた。「祖国復帰」運動は、「日の丸」と一体となっているという中で、1972年本土に復するが、米軍基地は、むしろ強化の一途をたどる。しかし1975年の国際婦人年を境に女性たちが声を上げ始めたという。にもかかわらず、男性の場合は、長男は県外に出にくかったり、次男・三男は養子に出され、女性の場合、親の位牌を継げず相続できないこともあったり、結婚すると男子の出産を要求されたりする。1985年以降、離婚率が全国一位といった実態もあるという。(注)

(注)ここでいう離婚率は、人口1000人当たり の離婚件数か。婚姻件数の離婚件数を比べての割合は相対離婚率というらしいが、これも沖縄県は上位を占める。

 宮城さんは、こうした「家」制度、「門中制度」の遺制が根づいている現状を「疑似天皇制」名付けている。私が沖縄を訪ねた折、亀甲墓を見かけたり、清明祭の話を聞いたりして、沖縄では祖先を大事にする人たちが多いんだと言った認識しかなかったが、その根底には、「門中制度」あったのだと、いまさらながら知るのだった。

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宮城さんの講演当日のレジメより

 平成期の天皇が、「八・八・八・六」を基調とする、沖縄の短歌「琉歌」を作っていたことと、琉球処分以降、政府による皇民化教育の一手段として、日本語教育、方言撲滅、標準語励行運動などの母語奪ってきた歴史との整合性を思わずにはいられない。

  なお、宮城さんの講演は、「wamセミナー天皇制を考える」シリーズの第17回目であった。WAMが祝わない日は、4月29日のほか、2月11日、2月23日、11月3日である。ちなみに、私は、第3回2021年2月23日に「〈歌会始〉が強化する天皇制」について話している。

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 「ナイチャーと結婚するな」と妹に相撲を見つつ祖父が言うなり
 帰ること無かりし祖父のふるさとは平らかにして米軍機並む
   屋良健一郎歌集『KOZA』(ながらみ書房 2025年3月)

  

 

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2025年5月 2日 (金)

4月29日は祝日だった~「昭和の日」はどのようにして決まったのか。

   連休も後半に入るが、この頃、休日や曜日の感覚がわからなくことがあって、これでは認知症の検査もおぼつかないかもしれない。4月29日などは、忘れて郵便局に出かけたりして、あとから「天皇誕生日」だったと気が付く始末。いや、カレンダーには「昭和の日」とある。そう、「みどりの日」が5月4日に移動して、「昭和の日」になったんだっけ。いったいいつからだっけ。その頃はもう退職していたから、休日が増えた恩恵にはあずかっていない。「昭和の日」となるまでの与野党の攻防を、おぼろげながら思い出した。戦前はもちろん「天長節」、戦後は、以下のような変遷をたどる。

1948~1988年 天皇誕生日

1989~2006年 みどりの日

2007年~   昭和の日   

 なんだか、怪しげな「祝日」だったんだ。大正天皇の誕生日8月31日、平成期の天皇誕生日12月23日は、いまは、祝日にはなっていない。明治天皇誕生日の11月3日は、戦後、「文化の日」になって、祝日として残った。

 昭和から平成の代替わりで、昭和天皇の誕生日が「みどりの日」として残され、さらに「昭和の日」となった。前の天皇の誕生日を祝日にし続けたら、祝日だらけになってしまう。さらに、「昭和」の名を残すとしたら、国民主権、象徴天皇制の憲法は何だったのか。戦前に逆戻りの感さえする。なぜ、「昭和の日」になったのか、少し調べてみた。
 それぞれ、「国民の祝日に関する法律」(以下祝日法)の改正によるものだが、現在の法律では、「昭和の日」(4月29日)は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」日であり、「みどりの日」(5月4日)「自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ」日とある。

 4月29日が「みどりの日」とする趣旨を、1989年当時の小渕恵三官房長官は、私的諮問機関で有識者らによる「皇位継承に伴う国民の祝日に関する法律改正に関する懇談会」の意見を踏まえて、以下のように答えている。

「飛躍的な経済成長の結果、我が国の国民生活は、物質的にはほぼ満足し得る水準に達したものと考えられますが、これからは、これまでにも増して心の潤いやゆとりといった心の豊かさを涵養することが求められています。我が国は緑豊かな自然を持った国であることにかんがみ、この自然に親しむとともに、その恩恵に感謝し、豊かな、心をはぐくむことを願い、「みどりの日」として国民の祝日とする」(衆議院 内閣委員会 平成元年2月10日)

 なお、懇談会では「昭和天皇は植物に造詣が深く、自然をこよなく愛したことから「緑』にちなむ名がふさわしい」との意見が大勢を占めたという。この「みどりの日」を、2007年に政府案の「昭和の日」に改める祝日法案が成立するまでにはかなりの曲折があった。2000年、2003年の二度の廃案を経て、2004年、自民・公明が提出、2005年4月、衆議院で民主党が賛成に転じて可決、参議院を経て成立、2007年施行となった。この間、日本共産党、社民党は反対している。

 内閣府による「昭和の日」についての説明では、「(前略)60年余りに及ぶ昭和の時代は、未曽有の激動と変革、苦難と復興の時代でした。今日の日本は、このような時代の礎の上に築かれたものであり、昭和の時代を顧み、歴史的教訓を酌み取ることによって、平和国家、日本のあり方に思いをいたし、未来への指針を学び取ることは、我が国の将来にとって極めて意義深いことです。こうした観点から、昭和の時代に天皇誕生日として広く国民に親しまれ、この時代を象徴する4月29日を昭和の日」にする、とある(「各「国民の祝日」」について」)

 しかし、ここには、昭和天皇の時代を「未曽有の激動と変革、苦難と復興の時代」としか捉えておらず、長きにわたった日中戦争、そして、アジア太平洋戦争下における昭和天皇の果たした役割、責任についての言及や反省もなく、「激動」と「苦難」という認識のまま、「昭和の日」としている点に、大いなる疑問が残る。祝日法第一条に「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける」とあり、「国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日」となり得るのかを、もう一度考え直さねばならないのではないか。

 昭和天皇誕生日の「昭和の日」には春の叙勲が、明治天皇誕生日の「文化の日」には、秋の叙勲が発令され、文化勲章の授章式が行われている。政府が決める叙勲や授章を「天皇誕生日」に絡めているのは、戦前の天皇制の遺制と言っていいだろう。

 そういえば、来年2026年にむけて、「昭和100年」というくくりで、近頃、マス・メディアの特集が組まれているのを目にする。メディアが勝手に名付けたものかと思っていたところ、なんと「明治100年」の時と同様に、政府は、本気で、昨年末から、大掛かりな記念事業を行うつもりですすめている。いくら転居でガタガタしていたとはいえ、うかつであった。

 内閣官房「昭和100年」関連施策推進室による「「昭和100年」関連施策について」https://www.soumu.go.jp/main_content/000990655.pdf)には、以下のような段落がある。

「昭和を逞(たくま)しく生きた先人たちの叡智(えいち)と努力の結晶であり、令和を生きる我々は、昭和の先人たちが築いた「豊かさ」の土台に立ち、その叡智(えいち)と努力に学びながら、歴史の流れの先にある、我が国の新たな姿・価値観を模索していくことが必要である。現在、国民の約7割が昭和以前の生まれ、約3割が平成以降の生まれとなっている。今日の我が国は、少子高齢化の進展、感染症の脅威、地球規模の気候変動やそれに伴う自然災害の激甚化など昭和期とは異なる多くの課題や、戦後最も厳しく複雑な安全保障環境に直面している。こうした中、「昭和100年」を契機に昭和を顧み、先人の躍動に学び、昭和の記憶を共有することは、平成以降の生まれの世代にとっても新たな発見のきっかけとなり、また、世代を超えた理解・共感を生むとともに、リスクや課題に適切に対処しながら、幸せや生きがいを実感でき、希望あふれる未来を切り拓(ひら)く機会になる。さらに、いつの時代にあっても忘れてはならない平和の誓いを継承し、将来にわたる国際社会の安定と繁栄への貢献につなげていく機会になる」

 なんとも白々しい美辞麗句による「昭和讃歌」ではないか。「昭和の先人たちが築いた「豊かさ」の土台に立ち、その叡智(えいち)と努力に学びながら」「昭和を顧み、先人の躍動に学び、昭和の記憶を共有する」などはNHKの「プロジェクトX」のコンセプト、ナレーションを想起する。

 ああ、気を緩めてはいけないと、肝に銘じた『昭和の日』であった。

2025
昔の職場の友人二人が訪ねてくださり、しばし歓談ののち、「旧堀田邸」「さくら庭園」へ散歩に出ると、見事な藤に出会った。

 

 

 

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