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2025年6月21日 (土)

天皇奉迎提灯、日の丸小旗を配るのは誰なの?

 天皇夫妻の歓迎行事の主催者は誰か

 6月19日、天皇夫妻は、広島を訪問、原爆死没者慰霊碑に供花、被曝遺構展示館、平和祈念資料館の見学の後、被爆者、伝承者らと面談した。その後、ホテル(リーガロイヤルホテル広島)の窓から提灯奉迎に応えた。その様子を、「産経新聞」は、つぎのように伝えている。

 ホテル近くの「ひろしまゲートパーク」(旧広島市民球場跡地)では、約5千人(主催者発表)がLEDの光で灯(とも)るちょうちんや日の丸の小旗を手にし、「天皇陛下万歳」を三唱した。 主催者によると、天皇陛下は宮内庁を通じ、「広島の街に浮かびあがる皆さんの提灯のあかりはとてもきれいでした。皆さんの万歳の声もよく聞こえ、うれしく思いました」とお言葉を贈られた(産経新聞 6月19日22時15分配信)

「主催者」ってだれ?記事にはない。調べてみると、以下のようになっていた。後援が広島県、広島市と各教育委員会となっている。 

主催:天皇陛下奉迎広島県委員会
名誉会長:湯崎英彦(広島県知事) 会長:池田晃治(広島県商工会議所連合会会頭)
後援:広島県・広島市・広島県教育委員会・広島市教育委員会

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「沿線で歓迎『感動。うるうるでした』天皇皇后が広島市に到着」「広島テレビNEWS」 2025年 6月19日13時49分 

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「天皇、皇后両陛下の広島ご訪問を歓迎する提灯奉迎に集まった人々」=19日午後8時8分、広島市中区の「ひろしまゲートパーク」(恵守乾撮影)「産経新聞」2025年6月19日22時15分配信。他のテレビ報道によれば、女性の声で「みぎィ、ひだりィ」の号令で提灯は揺れていた。

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ホテルの窓から「奉迎提灯」に応える天皇夫妻「広島テレビNEWS」2025年6月19日

 そしていつも気になる、この提灯や日の丸の小旗は、いったい誰が配るのだろう、とネットで今回の歓迎行事を調べていくと、「日本会議(広島)」のホームページに以下のようなポスターが掲載されていた。これによると、先着1000名に「奉迎提灯」を用意するとあった。また、小学生、200名には記念品を贈るとも。提灯は「日本会議」が配布していることがわかった。提灯はLDLの灯りというから回収するのだろう。日の丸小旗の方はというと、同じ「日本会議(広島)」のホームページには、下のチラシに続いて「天皇陛下奉迎広島県委員会」の事業内容として、以下のように掲げているので、日の丸小旗も配布していると思われる。なお、この委員会の事務局の連絡先住所・電話番号は、「日本会議広島」と同じであった。

一、  提灯奉迎:ご宿泊の際に、お泊りのお部屋からご覧いただける広場にて、提灯でお迎えの心をお伝えします。
二、  行幸地及び沿道での奉迎活動:お通りになられる沿道やご訪問される場所で、 国旗小旗でお迎えの心をお伝えします。
三、  皇室を敬う心を大切にする諸活動:日本の美しい国柄(皇室と国民の絆)を次代に伝えるために、記念冊子の頒布活動
どを行います。

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 なお、ちなみに、機関誌『皇室』を発行している「公益財団法人日本文化興隆財団」では、国旗小旗頒布事業も行っていて、様々なイベントに応じて年間10万本を無償配布している。同財団の前身は、全国神社総代会を母体とした国民精神研修財団であった。

 

歓迎のための大掛かりな警備 

天皇皇后の地方訪問は、国民に寄り添い、国民とふれあうためにということで、とくに平成期に拡大の一途をたどった。ところが訪問先の受け入れ体制、とくに警備は強化されてきた。今回の歓迎行事を後援する広島県の秘書課から「天皇皇后両陛下の行幸啓について」と題し、「天皇皇后両陛下におかれましては、地方事情御視察のため、来る令和7年6月19日(木曜日)から6月20日(金曜日)まで、広島県へ行幸啓になる予定ですのでお知らせいたします。」して、以下の「お願い」を、5月19日に発表している。さらに、広島県警は、6月12日に天皇皇后の広島訪問にむけて大掛かりな訓練も行っている。加えて訪問当日は、広島市周辺の大規模な交通規制を行い、車列の走る沿道の規制、訪問先の施設の入場制限も実施した。

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歓迎行事に小学生を動員?

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 「奉迎事業」の一環として、広島市の秘書課から上記のような文書が、市内の小学校に発せられた。近隣の小学校6年生を「お出迎え」要員として、動員をかけたのである。6年生の社会科の単元に「天皇の地位」について学ぶのに、天皇皇后の視察の様子を間近で見ることで理解を深める、との主旨も記してあった。「間近に見る」といっても、車が通り過ぎる瞬時のことであろう。とってつけたような理由ではないか。しかも、参加児童の名簿の提出まで指示されたというのである。朝日新聞は、つぎのように報じた。

 県労働組合総連合や県原爆被害者団体協議会(佐久間邦彦理事長)など13団体が5日、児童の氏名や学級、よみがななどの個人情報を「事前に宮内庁に提出することとし、その同意が求められている」と指摘し、対応の再検討を求める要請文を広島市と市教育委員会に提出した。(「小学生の個人情報必要?不要と判明 天皇皇后両陛下の出迎え行事」『朝日新聞」2025年6月7日)

 朝日の記事は、地方版だったのだろうか、 気づかなかったのだが、「東京新聞」では以下のように報じていた。

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 天皇皇后夫妻が、地方の訪問先で戦没者や被災者の慰霊、遺族との面談、施設の見学などによって、何かが多く変わることはあり得ない。天皇皇后夫妻自身は一種の達成感は味わえるかもしれないが、それに伴う受け入れ体制整備のための、多額の予算と人員、自治体や市民生活への影響、負担を考えたことがあるのだろうか。天皇は、政治にかかわれないことは憲法上当然だが、上記の歓迎行事に見るように、保守政権の支持母体の一つでもある「日本会議」が大きくかかわっている事実、それに、今回の歓迎行事には表立っては見えなかったが、地方訪問先の都道府県の神社庁が大きくかかわっている実態もある。憲法上の天皇の権能を逸脱し、特定の宗教への加担を意味しないだろうか。いや一部の政治勢力は、天皇、皇族たちのパフォーマンスをどこかで利用してはいないか。マス・メディアは、気づかないのか、気づかないふりをして、無批判に天皇、皇室情報を流し続けているように見える。

 最後に、大阪万博訪問の折の歓迎行事案内のチラシをご覧ください。

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 主催として記載されているの以下の通りであった。

 天皇陛下奉迎大阪実行委員会(事務局 日本会議大阪内)
 〒541-0056 大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺6号 大阪府神社庁内
 TEL ------------  FAX-----------    nippongaig--------com

 

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2025年6月12日 (木)

お知らせ、残念です。

   当ブログで、2021年より紹介してまいりました「今も輝くスター55」を執筆中の菅沼正子さんが逝去されました。謹んでお悔やみ申し上げます。

 菅沼さんは、当ブログの2021年8月から23年10月までに、「今も輝くスター55」として、フェイ・ダナウェイ、チャプリンからデボラ・カーに至るまで12本の記事を寄稿してくださいました。もともと、地域の主婦4人が始めた地域ミニコミ誌「すてきなあなたへ」(1998年1月創刊)の30号から終刊70号(2002年7月~2015年6月)に42本の映画を紹介してくださり、地域の読者の方々からは「映画評が毎号楽しみ」の声もかけられ、親しまれていました。2021年からは、その続編のような形で、当ブログに、今度は、映画界のスターの評伝を寄稿してくださいました。次の原稿を楽しみにしておりましたのに、残念です。悔しいです。

 菅沼さんは、静岡県出身、近代映画社の『スクリーン』編集部に勤務されたのち、フリーランスの映画評論家として、旺文社、集英社、講談社の雑誌などに執筆されていました。著書に『女と男の愛の風景』(マルジュ社 1996年)『スター55』(筑波書房 1996年)『エンドマークのあとで』(マルジュ社 2001年)。2001からしばらくの間、NHKラジオ深夜便「菅沼正子の思い出のスクリーン・ミュージック」に出演、宇田川清江アナウンサーとの軽やかなやり取りが印象的でした。

 菅沼正子さんは、私の若い時からの友人で、もとはと言えば大学同期、同じ学科の故菅沼祐亨さんのお連れ合いです。まだ、学生結婚がめずらしい時代でした。親しい仲間で、新婚旅行に発つ二人を東京駅まで見送りに行ったときの写真が残っています。新幹線がない時代でした。祐亨さんを亡くされ、さびしいともらしていた正子さんでしたが、今頃は、ご夫妻で新しい旅の予定を立てているかもしれません。

 お世話になりました。ありがとうございました。

   ご冥福を祈ります。

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2025年6月 9日 (月)

阪田寛夫『武者小路房子の場合』を読んでみた。

 「評伝」ということになるのだろうが、人間関係の複雑さと時系列での動向がなかなか頭に入らず、戸惑った。1913年実篤と房子が結婚、さらに、1918年9月我孫子から「新しい村」への転居、「新しい村」での房子、後に妻となる安子と実篤の恋愛感情の微妙な心境が、実篤の小説『世間知らず』(1912年11月)、「或る男」(『改造』1921年7月~1923年11月連載)などの引用で語られるのである。「もういいかげんにして」と言いたくなるほどグダグダな成り行きなのである。実篤は、房子と正式に離婚できないまま、安子との間に長女を得て、1922年結婚するのだが、房子との離婚が成立、安子が入籍するのが1929年である。房子のさまざまな行状も語られ、武者小路の姓を捨てることなく、「新しい村」の入植者の青年との結婚生活を全うし、「新しい村」で亡くなるという生涯が語られるのであった。

  実篤ファンには叱られそうだが、実篤が朴訥な絵とともに書く人生訓のようなさまざまな色紙の言葉は、彼自身の足跡と相俟って、悟った風な偽善者の言葉のようにしか思えなくなってしまった。中・高時代、課題図書のような感覚で読んだ実篤の小説のいくつかを読み返したり、その他の多くの小説をあらたに読もうという余裕が、いまの私にはない。

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住まいの近くの蕎麦屋川瀬屋さん。長嶋茂雄さんもよく通っていたんですよ、とタクシーの運転手に教えてもらっていたのを思い出して、出かけた。二人の注文は違っていたが、「おいしゅうございました」。明治時代の創業の由。あらかじめラストオーダーの時間を尋ねると、打ったお蕎麦がなくなり次第とのこと。この近辺には4軒ほどのお蕎麦屋さんがあるらしい。市立図書館前の房州屋さんにも行ってみたい。

 

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2025年6月 6日 (金)

時代の不穏な空気~天皇制とメディア

  今日の「朝日新聞」(朝刊)の4面に「養子案棚上げ不自然」と題したつぎのような小さな記事があった。

  安定的な皇位継承に関する与野党協議をめぐり、自民党の麻生太郎最高顧問は5日、皇族数確保策として戦後に皇籍離脱した旧11宮家の男系男子を養子に迎える案について「多くの党が支持している養子縁組案を棚に上げ、取りまとめが行われることは不自然で、まかりならない」と訴えた。都内で開かれた麻生派の非公開の会合後、事務局長の井上信治衆院議員が記者団に明かした。養子案には自民、日本維新の会、公明党、国民民主党が賛同。一方で立憲民主党は慎重姿勢だった。立憲の野田佳彦代表は麻生氏との水面下の交渉で、養子案を時限付きで容認する意向も示したが、合意には至っていない。

「皇族数確保策として戦後に皇籍離脱した旧11宮家の男系男子を養子に迎える案」に自民、日本維新の会、公明党、国民民主党が賛同しているにもかかわらず、養子縁組案を棚に上げ、取りまとめが行われることは不自然で、まかりならない、と麻生元首相が自らの派閥の会合で訴えたというのだ。

 「養子縁組案」に賛同している政党の議員たちが、本気でこの案に賛成しているのだろうか。戦後80年も経った現在、「戦後に皇籍離脱した旧11宮家の男系男子を養子に迎え」てまで、男系男子の天皇家を維持するというのだから時代錯誤も甚だしいと言わざるを得ない。立憲の野田代表も、水面下の交渉で時限付きで養子縁組案を容認する意向も示したというから情けない。

 さらに、女性皇族が結婚後も身分を維持する案でも、配偶者と子に皇族の身分を与えることに反対する自民と賛成の立憲との隔たりもあって、今国会中の「立法府の総意」のとりまとめは見送られる方向だ、とも、6月4日の「朝日新聞」webニュースは伝える。やっぱり、今国会でも見送られる。というのも、有識者会議提案の2案自体には、かなりの無理があったのではないか。

 一方、立憲の野田代表が、さきの麻生発言を、「ちゃぶ台返し」だと批判しているというのだ。これまで衆院の正副議長と麻生・野田の協議で、女性皇族が結婚後も皇族として残る案だけは今国会で成立させる意向だったのに、ということらしい(「立憲・野田代表「看過できない」 麻生氏の皇位継承めぐる発言に」「朝日新聞」webニュース2025年6月6日)

「女性皇族が結婚後も皇族として残る」ことになり、皇族数が増えたとしても、女性差別、女性皇族人権無視も著しい皇室制度の中に取り込まれることなる。いずれも皇位継承者の確保に直結する方策にはならない。そんなことは、誰にでもわかることを、大真面目に協議していること自体、ナンセンスだし、滑稽にも思えてくる。現在の大方のマス・メディアは、女性・女系天皇制導入の世論形成に必死にも思われるが、それとて、「愛子天皇」に直結するわけではない。
 安定的な皇位継承策が日本の将来にどういう意味を持つのか。

 こんな記事を書いているさなか、小室夫妻の第一子誕生をスクープした『女性セブン』の最新号6月19日号に「雅子さま、周囲に漂う不穏な気配 戦後80年の慰霊の旅に苛烈な抗議、全国植樹祭は直前になって体調不良でご欠席…それでもご覚悟をもって戦災の地へ」の記事があるのを知った。なにが「不穏」なのかは、雅子皇后の体調不良のことなのか、慰霊の旅の先々で抗議の声が上がっていることなのか判然としない。4月には硫黄島、6月には沖縄、広島、9月には長崎、7月にはモンゴルへと続く「慰霊の旅」について「「慰霊の旅」が各地で手放しに歓迎されているわけではない。」として、慰霊の旅によって「昭和天皇の戦争責任・戦後責任を清算する」ことは許されないという主旨での抗議活動も複数紹介している。そして、記事は「雅子さまは、これまでさまざまな壁を陛下との絆で乗り越えられてきた。32回目の結婚記念日は、その愛を再確認し、この先待ち構える、決して平坦とは言えない慰霊の旅へのリスタートとなるのだろう。」と結ばれている。いったいこの記事は何が言いたかったのか。

 毎日のように、皇族たちの動静がことごとしく、華やかに報道されているのを目の当たりにすると、私は、時代の不穏な空気の只中で、かつての「翼賛メディア」を想起してしまうのである。

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敷地内の池の周りにはショウブが咲き始め、コイたちは相変わらず、人影に寄って来る。

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2025年6月 4日 (水)

武者小路実篤と熊谷守一

 

 偶然なのだが、調布市の武者小路実篤の「仙川の家」と実篤公園を訪ねる数日前に、施設の映画サークルによる上映会で「モリのいる場所」(沖田修一監督、2018年5月公開)を見た。映画は、かなりユニークな生涯を送った画家熊谷守一(1880~1977)のある一日をたどるフィクションで、守一を山崎努、その妻を樹木希林が演じていた。文化勲章を辞退する場面があったので、1968年、守一78歳のころを想定しているのかも知れない。熊谷家に出入りするさまざまな人たちも交えて、カメラマンと助手二人の目を通して守一夫婦をユーモラスに描いたものだった。冒頭、林与一扮する昭和天皇らしき人物も登場していた。

 守一は、晩年、脳梗塞の後遺症で倒れた後、20年間ほど、豊島区千早町の自宅から外出することを好まず、30坪ほどの荒れ放題?の庭の草木や小さな生き物たちをこよなく大切にし、絵にも書き、「仙人」のような暮らしをしていたらしい。私も小さな画集で、猫やアリの絵を見たことがある。実家の池袋に近い、かつて敗戦直後、校舎のない池袋第二小学校の低学年の時代、千早町近くの要町小学校に通学していたこともあり、気にはなっていた。そして20数年前、熊谷守一美術館のギャラリーで開催の阿木津英さんの歌の書展を見に行ったこともあった。この美術館は1985年守一の次女、画家の熊谷榧さんが旧居跡に建て、2007年、豊島区に作品ごと寄贈して区立美術館になっている。

 武者小路実篤記念館で、実篤の絵や書を見ていて、なんとなく似たような雰囲気が察しられるので、接点はないものかと見ていると、やはりあったのである。軸になっていて、守一独特の筆になる「むしゃさんの書展に」(1968年11月)と題するもので「むしゃさんの字は人がらが出ていておもしろいとおもひます・・・」というものだった。

 帰宅後、記念館の所蔵目録で調べてみると、いろいろな出会いがあったのである。1943年には「熊谷守一・岸田劉生・武者小路実篤三人展」が開かれている。以下はいずれも未見であるが、1954年?「清光会の集りにて」という安井曽太郎と実篤、守一3人の写真があり、守一は、実篤の「無車翁八十五歳祝福画展」の若水会先駆展の題簽を書いたり、遺族あての実篤追悼書簡(1976年4月13日)を送付したりしている。この間、戦後、実篤が安倍能成、辰野隆らと発行していた雑誌『心』(1948年7月~1981年7・8合併)」には、守一の絵が寄せられたり、実篤が守一の「椿に黒鶫」の解説を寄せたりする交流があったことがわかる。

 しかし、描く絵や文字が似ているようでも、守一は、本格的な美術教育を受けた、プロの絵描きであり、実篤は、小説家の余技として絵に向かい合った人であったと言える。その暮らしぶりにも、大きな違いがあった。絵が描けなくなって、困窮のさなかに相次いで子どもを失っている守一、三鷹の牟礼の家では、娘家族ら、大勢の孫たちにも囲まれて15人の大所帯で暮らしていた実篤。30坪の庭、1000坪の庭。自分で掘った小さな池、敷地内に二つの池。守一が、岐阜の名士の家の生まれとはいえ、複雑な家庭環境であったこと、実篤は、貴族、子爵の家に生まれている。こうした違いは、両者の生きた時代では、越えがたい差異となって表れたのではないか。その象徴的な出来事と言えば、実篤は1952年11月3日文化勲章や叙勲を受け、守一は1968年文化勲章を打診され辞退し、叙勲も辞退していることだろうか。

 

 

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2025年6月 3日 (火)

「人見るもよし 人見ざるもよし・・・」実篤公園へ出かけました。

 

 6月1日、昼は晴れそうなので、夫に誘われ、武者小路実篤(1885~1976)の「仙川の家」と実篤公園に出かけた。京王線の仙川駅下車(センガワ、と読むらしい)。10分ほど歩くが、途中の角角に、公園まで「あと320m」といった小さな標識があるのは、初めての訪問者にはありがたい。左手の桐朋学園の裏門をすぎると正面の木立が公園の入り口だ。旧実篤邸には「今日は公開中です」との声に玄関を上がる。「壁は土壁などで手を触れないでください。内部の写真撮影は禁止」と念を押される。平成の終わり2018年に「国登録有形文化財」になったそうだ。1955年、斜面を利用して、サンルームが張り出しているしゃれた造りながら和風でもある。編集者や訪問客でにぎわっただろう応接間も客間もゆったりとしていた。書斎兼アトリエはたたみ敷、汚れた絨毯やマット類が敷かれているのも当時のままらしい。約1000坪余りの土地を求めたという。1976年90歳で亡くなるまで、安子夫人と暮らした家だった。

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 「仙川の家」は、土・日・祝日のみ公開であったので、運がよかったのかも。

 案内の人から、この先の地下道をぬけると実篤さんの銅像があるので、進んでもらうと「ヒカリモ」がみられると、勧められた。菖蒲田にかかる木の橋を進むと、崖の岩の洞の水たまりが、黄色に光っている。「ヒカリモ」といい、関東でも珍しいものだそうだ。

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二つ池、湧き水も小川もある庭園にいささか驚きつつ、現在の「実篤公園」は1500坪に拡張されている

 さらに大きな池に沿って進むと、また階段の下には地下通路があって、武者小路実篤記念館へと続く。今週いっぱいは「実篤の肖像」という特別展が開催中で、岸田劉生、堅山南風ら交流のあった画家たちの肖像画や多くの自画像の展示が興味深い。常設の詳しい年譜もじっくり見たいところだったが、膨大すぎた。なお、多くの書画、「仲よき事は美くしき哉」はじめ、いわゆる、野菜や花などの絵に人生訓めいた一言が添えられた色紙もさまざまながら、つくづく幸せな人だったんだな、の思いが強い。

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あまりメッセージ性のない?絵はがきの一枚買った。

 なお、「新しい村」への直接的なかかわりは、わりと短かったことも知った。実篤は「青踏」の社員でもあった竹尾房子と恋愛の末、結婚し1918年開村と同時に宮崎に移り住む。農作業をしながら文筆活動するという生活の中で、房子の奔放な男女関係に悩み、1922年離婚。実篤の身の回りの世話をしていた入村まもない飯河安子と再婚、入籍している。1925年には村を離れ、外から支援を続けていた。離婚、再婚の経緯と戦時下における実篤の活動については、展示では不明な点が多かった。

『写真で見る実篤とその時代Ⅱ昭和二~二〇年』(武者小路実篤記念館発行 2001年10月)には以下のような記述がある。

「昭和六年の満州事変、…一四年には出版への取り締まりが強化されるなど社会的な状況は厳しさを増していった。こうした流れは実篤にも及び、昭和一四年四月、大正四年に発表した反戦的な戯曲「その妹」が、検閲により一部削除処分を受けた。」(14頁)

 「昭和一八年頃までの実篤作品は、戦意高揚につながる作品がある一方、直接には関係ない美術に関するもの、随筆、詩、評論などを集めた雑感や戯曲などが順調に発表、出版されている。当時の実篤の社会的な立場と戦時色を反映してはいても、どこかのんきで明るく元気づけられる実篤の作品が、世の中でもとめられていた一面もうかがわせる。」(26頁)

 また、『武者小路実篤記念館(図録)』(調布市武者小路実篤記念館発行 1994年5月)巻末の「年譜」によれば、1941年は空欄で、「1942年5月 日本文学報国会・劇文学部会長就任(5月26日、同会発足と同時に)、11月 東京で開かれた大東亜文学者大会開会式で講演。1943年4月 中国南京で開かれた日中文化協会主催全国文化代表者大会に参加。1944年12月 家族とともに伊豆大仁へ疎開。」とある。

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 この間、1941年12月8日の開戦直後の12月24日大政翼賛会文化部主催の文学者愛国者大会が開かれている。開会のあと「国民儀礼」(宮城遥拝、君が代斉唱、戦没将兵への黙祷、証書奉読(高浜虚子))に続き、菊池寛が座長で、多くの文学者たちとともに実篤も登壇、演説している。高村光太郎は「彼等を撃つ」を、尾崎喜八は「此の糧」を朗読している(櫻本富雄『日本文学報国会』青木書店 1995年6月、59~60頁)。ちなみに、日本文学報国会の小説部会会長が徳田秋聲、詩部会長高村光太郎、短歌部会長佐佐木信綱であった。1942年8月2日~12日には、文芸報告運動講演会を全国展開、主要都市80カ所で開催、実篤も講師として参加している。同年11月3日から開かれた大東亜文学者大会では、二日目の11月4日の会議の実篤に触れて、『大阪毎日新聞』(1942年11月5日)は、次のように伝えているという。

 「日本文学者を代表して武者小路実篤氏は大東亜戦争はこれまでややもすれば晦冥に堕しがちであった文学者の進路をここに宣揚した。われら行くべき道はわが皇軍の武力によって戦いとられた戦果に対して文学芸術の側からの協力以外にないと力強く主張する」(櫻本前掲書 201頁)

  記念館では、「この道」と題する、こんな色紙も売っていた。やはり、複雑な思いがしたものである。

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 戦時下や武者小路房子のことをもっと知りたいと思い検索するとつぎのような文献も知り、ぜひ読まねばと思っている。

阪田寛夫『武者小路房子の場合』 新潮社 1991年9月
松本和也『太平洋開(戦前後の文学場:思想戦/社会性/大東亜共栄圏』神奈川大学出版会 2020年5

 

 

 

 

 

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