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2025年7月29日 (火)

私の八月十五日

 地域のミニコミ誌に以下を掲載いたしました。これまで、短歌を作ったり、短歌にかかる文章を書いてきたことを近隣で知る人は少なかったのですが、今回、友人のすすめもあって、寄稿いたしました。編集者による見出しや挿絵も入った誌面となりました。ありがとうございます。

    私の八月十五日        

 1944年の秋、私と母は、母の実家がある千葉県佐原に向かった。乗り換えの両国駅の混雑は相当なものだったらしい。というのも、列車に乗り込むとき、私は、つぶされないように大人の男性たちの頭の上を手から手へと母のところに運ばれ、事なきを得たという話を後から知ったからだろうか。

 母の実家には、すでに縁故疎開をしていた小学生の次兄がいた。母の実家は、母の長兄はすでに病没、義姉が3人の子ども抱え、農業を継いでいた。非常時の疎開とはいえ、私たち三人が転がり込んだことになる。しばらくは、食事も世話になったに違いない。庇に薄縁を敷いて寝泊まりし、母が七輪で煮炊きしている姿をおぼろげながら思い出す。

 1945年4月14日未明、城北大空襲で池袋の生家は焼失、父と長兄は手拭いで手を縛り、逃げ果せたという。家族五人はそろったが、そのまま世話になるわけにもいかず、どうした経緯で決まったのか、私たちは、香取神宮に近い馬市場の管理人の古家に引っ越した。馬の取引が行われていたというだけに、牧場のように広い草原の正面には、いくつもの馬小屋が並んでいた。古家は、二階建てではあったが、つっかい棒が二カ所ほどに立てられ、危ないから二階には決して上がるなと言われていた。                     

 敗戦直後、この馬市場に兵士たちが集合、解散式らしきものがなされた。私たちは、家の灯りをすべて消して、板戸の隙間から、息をひそめて、闇のなかの兵士らの動きに目を凝らしていた。

馬市場跡の原っぱは格好の遊び場であり、野菜や芋類を育てた場でもあった。「オワイ」と呼んだ人糞を、兄たちは、畑に運んだ。素人の畑仕事は難しかったことだろう。農家から分けてもらった「オキナワ」という水っぽいサツマイモ、農家の収穫後、「持っていけ」と言う親切な農婦もいて、畝に残ったニンジンやジャガイモを拾った。蒸して主食の代わりにもなった。スイトンやコウリャンやムギ入りのご飯はご馳走であった。そのご飯をめぐって、「三杯目はダメだぞ」「まだ二杯目だ」と兄たちが口論したこともあった。

・容赦なく変電所にも突き刺さる焼夷弾を見たり父にすがりて

・農婦らに哀れまれたか収穫後の畝に残れるニンジン拾う

・ふとんには青大将の落ち来たる敗戦の夜は兄たち黙しぬ

・幼かりし我には疎開地ひろがれる水田の果ての直ぐなるポプラ

(「花しょうぶ通信」2025年8月)

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わが家の空襲罹災証明者の写し。現物はペラペラの紙に、謄写印刷も薄くて読みにくい。太く濃くなっている文字は、父が後からなぞったかと。

 

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2025年7月27日 (日)

ポツダムに「原爆犠牲者追悼碑」が建てられていた

   昨夜のNHK7時のニュースで、7月25日、ベルリン近郊のポツダムで広島・長崎の原爆犠牲者の追悼行事が行われたと報じられた。ポツダムと原爆犠牲者追悼との関係がすぐには結び付かなかった。 被爆した広島の市電の敷石と長崎のある神社の石をあしらった立派な記念碑を前に若い人たちも黙祷を捧げていた。

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 ポツダムに、こんな記念碑があったかな、と「ポツダム会談」が開かれたというツェツィリエンホフ宮殿を訪ねたときのことを思い出していた。私たちが、ポツダムを訪ねたのは、2008年8月だったが、調べてみると記念碑建設は2010年、15年前とのこと、もちろんこの記念碑はなかったとわかる。

 米英ソの首脳が日本の降伏条件などを協議する中で、トルーマン米大統領が日本への原爆投下を承認し、軍に命令した日が1945年7月25日だったという。ちょうど80年目だったのである。

 建設時の報道によると、2005年12月、ドイツ・ポツダム市議会は、平和市長会議へ加盟したことを機に、トルーマンが滞在した建物「トルーマン・ハウス」の前を「ヒロシマ・ナガサキプラッツ」と命名した。その広場に、記念碑建立のためのカンパ活動が始まり、2007年7月に日本とドイツ市民の有志により「ポツダム・ヒロシマ広場をつくる会」が結成され、2010年7月25日に、追悼碑除幕にいたった。アメリカサイドから反対の意見もあったが、碑文には、原爆投下の経緯と共に「原爆の破壊力は、数十万の人々を死に追いやり/人々に計り知れない苦しみをもたらした/核兵器のない世界を願って」、とドイツ語・日本語・英語の三か国語で記されている。

 ポツダム市議会とポツダム市民に敬意を表するばかりである。

 <参考>

・原爆投下を承認した地ドイツ ポツダムで犠牲者の追悼式典

(NHK NEWS 2025年7月26日)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250726/k10014875031000.html

・ドイツ・ポツダムに原爆追悼記念碑が完成
(原水協ニュースペーパー 2010年10月1日)
http://gensuikin.peace-forum.com/2010/10/01/101001newspaper_4/

・原爆投下命令80年で追悼行事 元米大統領滞在の地―独ポツダム
(時事通信 外信部2025年07月26日配信)

https://www.jiji.com/jc/article?k=2025072600134&g=int

 

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2008年8月撮影。ポツダム会談は、背景の宮殿で行われた。
上記の葉書は、1972年1月、ポトナム短歌会の大先輩の金子元英さんから頂いたはがき。デュセルドルフでの勤務が長く、この新年はベルリンで過ごし、東独のポツダムを訪問し、「民族問題」について考えさせられたこと、日本には「沖縄」という課題があるとも書かれていた。この年の5月15日にアメリカより施政権が返還され、沖縄は「日本復帰」したのだが。

 

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2025年7月26日 (土)

塚本邦雄と天皇制

  塚本邦雄は、私にとっては、縁遠い歌人である。戦後短歌史を語る上で重要な足跡を残した歌人であったことは理解しているつもりだが、いわば<敬遠>しつつ、アンソロジーなどで読んでいたにすぎない。それでも、若い頃、『塚本邦雄歌集』(白玉書房 1970年12月)を入手、今も手元にはある。今般、林和清『塚本邦雄の百首』(ふらんす堂 2025年6月)を読む機会を得た。折から、『現代短歌』110号(2025年7月)は、没後20年ということで<塚本邦雄的生活>という特集を組んでいた。「百首」の方は、他の百首シリーズと同じように、楽しみながら読んだ。とくに、私の関心から、天皇制にかかるつぎの二首は、不勉強ながら初めて知った。

・おどろくばかり月日がたちて葉櫻の夜の壁に若きすめらみこと
(『詩歌變』不識書院1986年9月)

・迦陵頻伽のごとくほそりてあゆみますあれはたまぼこのみちこ皇后
(『黄金律』花曜社 1991年4月)                                               

 つとに有名な「日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも(『日本人靈歌』四季書房 1958年10月)も「皇帝ペンギンその後の日々の行を告げよ帝國死者興信所」(『身』湯川書房 1994年11月)と併せて読むと、菱川善夫が「皇帝ペンギン」を「天皇」と解釈していたの思い起こす。(マーカーの文字は、正しくは旧漢字)。『献身』の出版は、1994年、政田岑生が亡くなった年である。私が、『短歌と天皇制』(風媒社)を出版したのが1988年10月、昭和天皇重病報道のさなかであったが、政田さんから、塚本が『短歌と天皇制』を読みたいと言っているので、分けてもらえないか、という主旨の葉書をいただいたのは、出版から数年経っていたような気がする。私には、想定外のことであったが、慌ててお送りしたのだった。折り返し、政田さんからは、礼状と共に『玲瓏』の最新号の2冊が届いたのだが、塚本邦雄が拙著を読んだか否かは不明であった。

 話は飛ぶが、2016年5月の連休前に東日本大震災の被災地の石巻と女川を訪ねる機会があった。北上市の日本現代詩歌文学館にはぜひと思って立ち寄ったところ、なんと「塚本邦雄展」が開催中だったのである。思いがけないことだったが、会場には見学者もおらず、丁寧な展示には、少し緊張気味でみてまわったのであった。入手したカタログには、当時『ポトナム』の代表だった安森敏隆さんが『幻想派』のことを執筆していたのも初めて知った。この程度の関心であったのだが、今、そのカタログの塚本青史さんの「百首選」と先の林和清さんの「百首選」が微妙に異なったり、そして『現代短歌』の特集で、若い歌人たちがテーマごとに選んだ20首がときどき重なったりするのを楽しみながら読んでいる。 

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2025年7月23日 (水)

政治家への道~女性アナウンサー、タレント、元アスリートたち

 今回の参院選でも、アナウンサー、タレント、アスリート、テレビコメンテイターたちの立候補が目立った。そして、多くの人たちが当選した。とくに、「女子アナ」と呼ばれる人たちが多かった。 見落としがあるかもしれないが、調べてみると。

自民:   鈴木大地(東京) 水泳 

      若井敦子(岐阜)  空手

            橋本聖子(比例) スケート・自転車

参政: さや (東京)     歌手

            後藤翔太 (比例) ラグビー

          梅村みづほ(比例)フリーアナ 

維新:  新実彰平(京都)  元関西テレビアナ

     佐々木理江(大阪)タレント

国民:  庭田幸恵(富山)   元富山テレビアナ

             牛田茉友(東京)   NHKアナ

立憲:  福士珠美(青森) 元青森テレビアナ

           石垣のり子(宮城)元FM仙台アナ

             蓮舫 (比例)     タレント、キャスター

社民:  ラサール石井(比例)タレント

無所属:   永江孝子(愛媛)   元南海放送アナ

     芳賀道也(山形)     元山形放送アナ

  無所属の泉房穂(兵庫)、保守の北村晴男弁護士(比例)も当選したが、テレビ出演が多いコメンテーターであった。
 特に参議院では全国の比例があるので、「知名度」が圧倒的な勝因になるということか。かつて、参議院は「良識の府」と呼ばれることもあった。いまや、知名度のみで、票を稼ぎ、強引に議会に押し出す場になってしまった。政治を身近なものにしたという人もいるけれど、彼らがどんな実績を残したのか、残していくのかが問われるべきだろう。そういえば、れいわの山本太郎だって俳優だったし、今回落選した自民の山東昭子は、東映時代劇の俳優だった。過去には以下のような例がある。

 https://mainichi.jp/graphs/20241023/hpj/00m/010/001000g/20241027k0000m010135000p

 千葉県の県知事も、よくも森田健作(鈴木栄治)が12年間も続いたものと、あきれたが、その後に、鈴木大地を擁立する動きがあったとのこと。千葉県民はかなりなめられているということか。森田時代の県庁職員は、知事が何もしないからラクだった?県民にしても、出張先や”表敬”訪問者とガッツポーズするのが仕事だったような印象であった。

 

 

 

 

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選びたい人がいない~千葉県の参院選

 選挙のたびにいつも悩む。棄権して済むことではないと、気を取り直して投票に向かう。今回の参院選でもそうだった。住まいの近くに選挙カーが来るわけでもなく、演説会が開かれているわけでもない。NHKの政見放送を聞くしかない。期日前投票に出かけた当日、選挙公報が届くという状況だった。

 今回の千葉県は、16人が立候補、報道によれば、投票率は55.74%で前回より5.73%アップ、期日前投票が有権者の24%の127万近くとなった。

 投票結果は以下の通りで、国民、立憲、自民の3人が当選していた。自民の当選者は、国会中継で顔を見るくらいで、あとの2人は、どんな活動をしていたか知らない人たちだった。次点の参政党に続き、現職自民、れいわ、共産、維新の人たちも選挙広報の情報しかなかった。もっとも、トップ当選の「国民」の女性は、今年2月までNHK記者だったという。

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自民が一人3番手の当選で、前回の二人当選から見れば、その凋落ぶりがわる。自民票が国民民主に流れての新人トップ当選となったのか。国民民主もふらふらしていて「野党」と言えるのか。それに、玉木代表と言い、榛葉幹事長と言い、ジェンダー平等とはおよそかけ離れた言動も許せないし、千葉県では、党員、議員間のセクハラも問題になっているというのに、なぜ?の思いもする。

 次点に迫った「日本人ファースト」の参政党の女性は何者なのか。「比例」の広報から、その公約を見てみると、いちばん最後の行に「憲法に哲学を」とある。代表の政見放送では触れられることはなかったが、改憲でも護憲でもない「創憲」と称する憲法草案を見てみると、びっくり仰天、口語体ではあるが、「明治憲法」と紛う前文と条文である。神聖なる天皇の政治的権能、自衛軍の創設、公共の利益優先による人権制限、「国民」規定による外国人排除なる中身。候補者たちはこれを読んでいるのだろうか。https://sanseito.jp/new_japanese_constitution/

 そして、公約の一部には、外国人対策の過激さに加えて、食糧の自給率100%、医療費削減のためのgo toトラベル、外国人に依存しない観光業、子ども一人に1カ月10万円の給付金???・・・。これでは日本は立ち行かなくなるだろう。どうしてこんな党に、多くの人が票を入れたのか。既成政党、そして有権者は、真剣に考えなければならない。

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 維新の公約は、なるほど実現できるものはやって欲しいものもある。3の「ポイント付与による最低所得制度導入」?ってどういうこと。私がもっとも不安に思うのは、6の「0歳児からの投票権付与」であり、これは、民主主義の土台に係ることである。「ゼロ歳からの議決権付与」という同じようなことが、実は、地域の町内会、自治会の法人化の際の条件となっているのである。詳しくは、下記の当ブログをご覧ください。要するに、ゼロ歳児から子どもに投票権を与えるというもので、もちろんゼロ歳児からある年齢までは、意思決定権を持つのは困難なので、「親なりの保護者が代わりに投票をする」というものである。これは、吉村大阪府知事の発言にもあるのだが、子どものころから政治に関心を持ってもらう?子どもにも未来を決める権利がある?というのが理由なのである。今でも家単位、世帯主中心の行政をさらに強化するものではないか。さらに、これは、保護者が子ども投票権を代理行使するわけだから、保護者が複数の投票権を持つことになる。本来の多数決原理に反し、多数意見がさらに増大するわけで、少数意見が埋没しやすく、議決の安定性が確保できるので、政治でいえば、多数与党の議会や行政が盤石になるというのだろう。さらに、無関心層が拡大することになりかねない。

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 いま、欧米でも右翼の台頭が懸念されているが、日本にもその波がやってきたのだろうか。有権者の責任はますます重くなる。

<参考>

赤ちゃんにも選挙権!? 吉村知事、おかしくないですか?(2024年4月28日) http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2024/04/post-06d5a9.html

 

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2025年7月 9日 (水)

『比翼の象徴』を読み始めた~

 昨年、2024年4月まで、全国紙の新聞記者として皇室、歴史問題を担当していた井上亮(1961年~)による『比翼の象徴 明仁・美智子伝』上・中・下(岩波書店 2024年7月、9月、11月)を読んだ。著者紹介の欄には「全国紙」としか記されていなかったが、「日本経済新聞」と後の情報で知った。1500頁にも及ぶ三冊は、「第1章 万世一系と「神の子」」から「第17章 退位への道のり」と題する編年体の明仁天皇、美智子皇后の伝記である。各章100から150以上の注が付され、著者は「本書の記述はすべて筆者による取材と信頼を置ける資料に基づいており、想像、憶測に基づいたものではない。そのため、煩雑ではあるが文中にはできるだけ出典を明らかにする注を付記した」と、序文の末尾と中・下巻の目次の後に明記している。

 たしかに、本書は、さまざまな関係参考文献、書籍並びに新聞記事、雑誌記事をかなり網羅的に渉猟した形跡を残している。「あとがき」によれば、その基本的資料は、明仁皇太子時代は、記者クラブ「宮内記者会」内の報道室にあった宮内庁作成による敗戦直後からの皇室関係の新聞記事スクラップ帳のコピーと、平成以降の日経社内の歴代の担当者による皇室記事のスクラップの蓄積であったという。さらに、著者自身による丹念な取材が加わって、書き上げられたのが本書である。加えて、長い間、皇室担当の記者という立場での人脈も広く、濃密であったようである。

 私たち外部の人間には知り得ないさまざまな情報を駆使していることは明らかである。しかし、皇室にかかる幾多の「事件」や「事案」についてのことこまかな経過や事情が語られるのであるが、その着地点というのが、書名の由来にもなっている、つぎのような本書の結語であった。

「日本国憲法に定められてはいるが、その『かたち』が明確ではなかった『象徴』を、明仁天皇は美智子皇后とともに形救ってきた。それは各々の翼で支え合い、一体となって飛ぶ比翼の鳥のように二人の思索と経験、人間性によってなし得た『思想』といってもよかった。退位とは、その地図なき旅の終着点であり、総仕上げの姿である。天皇の強い意思と、皇后とともに国民との間に培ってきた信頼、敬愛によって成し遂げられた偉業であり、憲法の想定を超えた象徴天皇制における『革命』であった。」(下巻539頁)

 「革命」とは穏やかでないが、著者が、そのように思うことは自由である。しかし、「本書の記述はすべて筆者による取材と信頼を置ける資料に基づいており、想像、憶測に基づいたものではない」と明記されているが、私が、通読した限り、そう言い切るには、いくつかの限界があるように思われた。 全巻を通じて、いまは、とりあえず、どうしても気になったつぎの二点を指摘しておきたい。

 一つは、明仁・美智子夫妻の言動の評価を、著者の見解や他者からの引用によるのではなく、典拠がないまま、主語が「国民」や「世間」となることが多いこと。

 もう一点、天皇夫妻の短歌をしばしば引用するが、短歌によって夫妻の言動の思想的背景や心情を語らせる場面が多いこと。

 いずれも、皇室担当記者として夫妻への圧倒的な敬愛のあまり、客観性を失い、美化に陥るリスクを負うことになっていないか、の思いに駆られたのである。その一部の事案を例に検証したいと思っている。

 いま付箋だらけになった 膨大な三冊を前に、どれだけのことが書けるのか、挑戦中である。

 

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7月11日、施設内の池の辺りも今日は涼しく、コイたちも元気に寄って来てくれた。

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7月10日、猛暑日だったにもかかわらず、黒いコイは、数十匹の子連れ?で寄って来た。数日前の猛暑日には、職員が苦しそうな2匹を見つけ、新しい水槽に入れたら、1匹は、助かったが、1匹はなくなったそう。コイの熱中症もこわいなと。さっそく池の水を増やし、シートで日影を作ったところ、日中は、出入りが多いそうだ。

 

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2025年7月 1日 (火)

「夏越の大祓(なごしのおおはらい」をし損ねて

  6月29日、京都のガーデンパレスでポトナム短歌会の全国大会が開催された。昨年は東京での開催だったので、めずらしく連続の参加となった。顔見知りの会員が々少なくなっていくのが寂しい。それでも、誌上で名前しか知らない方々の幾人かと話をかわすのは、楽しい。誌上での作品にもおのずと親しみを覚えて読むことができる。

 恒例の選者賞や互選賞には、まったく私には縁がない。今年は、選者同士というのが幾組かあった。互選賞のトップも選者のお一人だった。講演は、吉川宏志さん、新しい、若い歌人たちの作品の傾向、読み方についてであった。雑誌などで、断片的には、接する歌人たちの作品が例に挙げられていたが、私には、歌集としては読む機会がないものだった。「わからない歌があってもいい」「快い雰囲気や気分が伝わったり、抱えて持つのがかっこよかったりする歌集も多い」のでは・・・とも。中で、私が読んだのは、唯一、屋良健一郎さんの『KOZA』だったが、重い、しっかりしたテーマを持つ歌集だったと思う。

 コロナ以降、ポトナム大会は、日帰りとなり、懇親会は夕方の6時半には解散である。今回、私が大会に参加の間、同行の夫は、長い学生時代を過ごした京都だったので、ひとり、思い出の地をめぐって来た由。

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2階の会場近くのロビーから蛤御門を望む。右手手前は土御門内裏跡の石碑がある。

 ホテルは、向かいが京都御所の蛤御門、敷地は土御門内裏跡の一部ということだった。翌日は、ゆっくり目にホテルを出たが、ともかく暑い。地下鉄の丸太町まで、歩いて7・8分ながら、行きには気づかなかった、いくつかの見どころがあった。

 護王神社~6月30日は「夏越の大祓」本番

 6月30日は、年の半分を過ぎたところで、つぎの半年が無事に過ごせるようにと、「茅の輪」を何度かくぐり巡ると、お祓いができるとのこと。午後からはその神事もあるらしい。平安遷都に尽力した和気清麻呂公を祀る。かつて清麻呂公の災難を助けたというエピソードから、狛犬に替わって「狛イノシシ」が拝殿前に置かれている。

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午後3時から大祓いの神事が行われるそうだが、午前中からにぎわっていた。茅の輪の右手にはイノシシが、さらに右手には、この輪の正式なくぐり方の説明があったが、何やら複雑でもあり、省いて先を急いだ。「大祓い」はできなかったのである。

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居の右手には、樹齢百年を超える花梨の木があって、そのわきには、吉井勇の歌碑があった。「風なきに榠樝の實またほろと落つかくて極まる庭のしづけさ」とある。 説明版では「榠樝」に「くわりん」と仮名が振ってあり、とくに、この境内の花梨を歌ったものではなく、歌集『残夢』から採ったという。2009年11月「昭和天皇陛下御即位二十年奉祝記念」として建立との記載があった。

有栖川家旧邸~その持ち主の変遷

 明治初期に京都御所の建礼門前に建てられ、地裁の仮庁舎になり、1891年に現在地に移築。地裁所長の官舎として使用された後、2008年に大学校舎などが隣接する平安女学院が取得し、茶道や華道の授業やクラブ活動に使われてきた。2148㎡の敷地に木造平屋の主屋のほか登録有形文化財になっていた。
 ところが、平安女学院は、創立150年を迎えるにあたって、経営上、入札を経て、大手「森トラスト」に売却したというのが去年のことである(読売新聞 2024年6月2日)。女子大学経営はどこも厳しいらしい。京都ノートルダム女子大学の2026年からの学生募集停止のニュースも報じられたばかり。

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聖アグネス教会

日本聖公会聖アグネス教会は、1923年10 月、平安女学院(St.Agnes’School)の生徒・教職員による教会として認可された。第二次大戦中は、軍需資材置場に充てられたり、戦後は占領軍将兵の礼拝に用いられるなどされたが、現在は、日本聖公会の京都教区の大聖堂Cathedralとして、地域に根差す一つの教会(Parish Church)、そして平安女学院の礼拝堂(Chapel)としての3つの役割で持って、信徒を学校関係者に限ることなく、信仰活動の拠点となっているそうだ。大聖堂は1898(明治31)年に竣工し、設計は立教学院初代校長も務めたアメリカ人建築家ジェームズ・マクドナルド・ガーディナーによるもので、外観は煉瓦造のゴシック様式、三層の鐘楼が特徴でもあるという。

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大丸ヴィラ

イギリス風の洋館に「大丸ヴィラ」とあるので、百貨店の施設のようにも思われたが、調べてみると、この洋館は大丸百貨店店主の下村家が居宅として1932年に建てられ、イギリスのチューダー様式でまとめらているという。京都市登録有形文化財に指定されている。
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やっぱり京都は奥が深い。一つ一つ、丁寧に見学したいものである。

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