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2025年8月26日 (火)

今どきの中学生が出会う短歌~国語教科書に登場の歌人たち、その作品は(2)

光村図書出版『国語2』

 この教科書には、中学3年間で、古典の和歌、近・現代短歌への格別の配慮がみられる。詩については1年生で、短歌については2年生で、俳句と古典和歌について3年生でという学習指導要領に従い、基本的には各社共通ではあるが、光村の場合は、各年に、コラム「四季のたより」として、和歌・短歌や俳句などを掲載している。また、一年生の教科書にも「百人一首を味わう」として、20首を収録している。

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 2年生では、栗木京子の書下ろしエッセイの「短歌に親しむ」に以下の五首を掲載している。

・くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる(正岡子規)(学図・東書・三省堂・光村)⇒三省堂、教育出版、光村

・夏のかぜ山よりきたり三百の牧の若馬耳吹かれけり(与謝野晶子) ⇒光村*新

・死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞こゆる(斉藤茂吉)(学図・三省堂・教育)⇒光村*新

・鯨の世紀恐竜の世紀いづれにも戻れぬ地球の水仙の白(馬場あき子) ⇒光村*新

・蛇行する川には蛇行の理由あり急げばいいってもんじゃない(俵万智)⇒光村*新

  

 同じく栗木の「短歌を味わう」では、つぎの六首を鑑賞の対象としている。

・白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ(若山牧水)(東書・三省堂・教育・光村)⇒三省堂、光村

・不来方のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心(石川啄木)(東書・学図・三省堂・光村)⇒三省堂、教育出版*新、光村

・のぼり坂のペダル踏みつつ子は叫ぶ「まっすぐ?」、そうだ、どんどんのぼれ(佐佐木幸綱)(学図)⇒光村*新

・ぽぽぽぽと秋雲浮き子供らはどこか遠くに遊びに行けり(河野裕子)⇒光村*新

・観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生(栗木京子)(東書・学図・三省堂・教育・光村)⇒三省堂、教育出版、光村

・一本の道をゆくとき風は割れぼくの背中で元に戻った(木下龍也)⇒光村*新

  ここでは、中学校国語教科書のいわば定番の短歌と併せて、河野裕子と木下龍也の短歌が登場する。木下は、近年の短歌ブームの渦中にある若手であって、その評価には異論もあるが、栗木は、作品として定着したとみたのだろう。光村出版の編集は上記、栗木の「短歌に親しむ」「短歌を味わう」に見るように、その重用が顕著である。

 2年生の「広がる読書」には、近・現代短歌に関しては、以下をあげている。

栗木京子『短歌を楽しむ』岩波書店 1999年(12月)
栗木京子『短歌をつくろう』岩波書店 2010年(11月)
東直子『短歌の時間』春陽堂書店 2022年(3月)

 

 以下は「季節のしおり」に収録された近・現代短歌で、学年と季節を示す。このコーナーでは、俵万智を除いて、光村出版としては、これまでとっていなかった、伝統的な近代の歌人の短歌を意識的に収録したのかもしれない。

・なつかしき冬の朝かな。湯をのめば、湯気がやはらかに、顔にかかれり(石川啄木)<1年・冬> ⇒光村*新

・やはらかに柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに(石川啄木)<2年・春>(教育)⇒ 光村*新

・清水へ祇園をよぎる桜月夜今宵逢ふ人みなうつくしき(与謝野晶子)<2年・春>⇒ 光村*新

・海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり(寺山修司)<2年・夏>(東書・光村)⇒光村

・葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり(釈迢空)<2年・秋>(三省堂)光村*新

・街をゆき子供の傍を通る時蜜柑の香せり冬がまた来る(木下利玄)<2年・冬>  ⇒ 光村*新

・「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ(俵万智)<2年・冬>(東書・三省堂・教育)⇒三省堂、光村*新

  

 さらに、3年生の教科書の巻末には、「郷土ゆかりの作家・作品」ということで、文学全般にわたって、北海道から沖縄県まで、都道府県ごとにリスト化している。近・現代短歌が採られている都道府県名を記した。こうしてみると、茂吉の「みちのくの・・・」を除いて、他社の教科書にない短歌を「郷土ゆかり」のいわば「ご当地短歌」として登場させていることに注目すべきだろう。

・みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる(斎藤茂吉)<山形県>(教育)⇒三省堂*新、教育出版、光村*新

・陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ(斎藤茂吉)<山形県> ⇒光村*新

・海恋し潮の遠鳴りかぞへては少女となりし父母の家(与謝野晶子)<大阪府>⇒光村*新

・ふるさとの和泉の山をきはやかに浮けし海より朝風ぞ吹く(与謝野晶子)<大阪府>⇒光村*新

・幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく(若山牧水)<宮崎県>光村*新

・ふるさとの尾鈴の山のかなしさよ秋もかすみのたなびきて居り(若山牧水)<宮崎県> ⇒光村*新 

 

 また、3年では、「君待つと」と題して、萬葉、古今、新古今からの名歌が収録され、さらに古典の名作としても古典和歌が取り上げられている。

 以上みたように、光村出版の中学校国語教科書は、和歌・短歌を全学年通じて、さまざまな工夫で、さまざまな個所で取り上げ、和歌・短歌への関心と理解を深めさせようとする意図が見えるのが特色と言えよう。

  つぎに、東京書籍の「新編新しい国語2」を検討したいが、参考のため、当ブログの過去記事と2016年版の概要一覧をご覧ください。

<参考>

中学校国語教科書の中の近代・現代短歌と短歌作品~しきりに回る「観覧車」(2011年11月30日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2011/11/post-de32.html

<中学校国語教科書における「近代・現代短歌」の概要(2016年度版)>
201576日作成 内野光子)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/tyuugakkkokokugoitiran.pdf

なお、遡っては、以下の記事と比較表もご覧ください。

中学校国語教科書の中の近代・現代短歌と短歌作品~しきりに回る「観覧車」(2011年11月30日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2011/11/post-de32.html

<中学校国語教科書平成18年度・24年度比較表>
http://dmituko.cocolog-nifty.com/hikakuhyou.pdf

(つづく)

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8月25日、ベランダに出ると小さな「朝の訪問者」、カメラを向けると顔を隠した雨蛙。昨夜の「夜の訪問者」ヤモリは、さすがに写真を撮る気にはならなかったが。

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2025年8月25日 (月)

今どきの中学生が出会う短歌~国語教科書に登場する歌人たち、その作品は(1)  

   2025年4月から中学校の教科書が新しくなった。2016年から採用の中学校の国語教科書、2年生で扱われる「近・現代の短歌」について調べたことがある。この10年間にもう一回の検定を挟むが、今回の検定で、どう変わっているのか、変わっていないのか、調べてみようと思う。十年前には、三省堂、東京書籍、教育出版、学校図書、光村出版の五社であったが、今回は学校図書が撤退して四社となった。学校図書は、親会社の数研出版の伝統もあって理系に重点を置きたかったのかなとも。

 三省堂『現代の国語2』

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 「第3章ものの味方・感性を養う」に登場するのが短歌で、俵万智「短歌の世界」という書下ろしのエッセイが冒頭に置かれている。ここでは、短歌は、伝統のある定型の詩形であること、短いこととリズムが特徴であり、自作と栗木の二首をあげ、いずれのも「恋の歌」と紹介されている。「心の揺れ」が作歌の第一歩とする2頁ほどの短い文章。 
 以下、短歌の作者名あとの(括弧内)は、2016年度版の収録教科書を示し、⇒三省堂教科書の収録の新旧を示す。調査対象教科書が初めて収録した短歌については緑のマーカーで示した。

・「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ(俵万智)(東書・三省堂・教育)⇒三省堂
・観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生(栗木京子)
(東書・学図・三省堂・教育・光村)⇒三省堂

     

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「短歌十首」
では

・くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる(正岡子規)(三省堂・学校図書・東京書籍・光村)⇒三省堂

・その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな(与謝野晶子) (三省堂)⇒三省堂

・みちのくの母のいのちを一目みん一目みんとぞたたにいそげる(斎藤茂吉)(教育出版)三省堂*新

・草わかば色鉛筆の赤き粉のちるがいとしく寝て削るなり(北原白秋) (東書・三省堂)⇒三省堂

・白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ(若山牧水)(東書・三省堂・教育・光村)⇒三省堂

・不来方のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心(石川啄木)(東書・学図・三省堂・光村)⇒三省堂

・列車にて遠く見ている向日葵は少年のふる帽子のごとし(寺山修司)(三省堂)⇒三省堂

・シャボンまみれの猫が逃げ出す午下り永遠なんてどこにもないさ(穂村弘)(三省堂)⇒三省堂

・空をゆく鳥の上には何がある 横断(ゼブラ)歩道(ゾーン)に立ち止まる夏(梅内美華子) 三省堂*新

・細胞のなかに奇妙な構造のあらわれにけり夜の顕微鏡(永田紅)(三省堂)⇒三省堂

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 2016年版と比べると、茂吉の「死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞こゆ
(学図・三省堂・教育)」が上記と入れ替わり、釈迢空「葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり」が除かれ、梅内の作品が新規に入ったことになる。俵「「寒いね」・・」と栗木「観覧車・・・」は俵のエッセイで触れているからか、「十首」には二人とも登場しない。今回新しく収録された歌人は、迢空と入れ替わった梅内のみで、これはかなり大胆な変更であったが、作品が替えられたのは茂吉だけという異動であって、全体的には、オーソドックスな人選と選歌がなされているのではないか。

 また、歌人の顔写真がモノクロとカラーの違いがあるのは、まさに世代の違いを表していて興味深い。「私の本棚広がる短歌の世界」として、以下の3冊が書影入りで紹介されている。参考のため、(  )で、初版発行年月を示した。

俵万智『あなたと読む恋の歌百首』朝日新聞社(1997年8月)
栗木京子『短歌をつくろう』岩波書店(2010年11月)
枡野浩一『ドラえもん短歌』小学館 (2005年9月)

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 巻末の「小さな図書館」42冊の中には、村上しいこ「歌うとは小さないのちのひろいあげ」(講談社 2015年5月)をあげ、短歌甲子園を目指す高校生の物語が紹介されている。
 なお、三年生で、俳句と古典和歌―萬葉集、古今集、新古今集を学ぶのは変わらない。


教育出版『伝え合う言葉中学国語2』

 短歌は、「第六章想像を広げる」に含まれる。穂村弘の書下ろしエッセイ「短歌の味わい」では、つぎの自作を含めた四首の鑑賞がなされている。斎藤史の登場はいささか唐突にも思えた。教師も生徒も、この一首の時代的背景を理解するのは、容易ではないかもしれない。

・白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ(若山牧水)(東書・三省堂・教育・光村)⇒三省堂、教育出版
・濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ(斎藤史) ⇒教育*新
・観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生(栗木京子)(東書・学図・三省堂・教育・光村)⇒三省堂、教育出版
・春のプール夏のプール秋のプール冬のプールの星が降るなり(穂村弘) 教育出版*新

 「短歌十首」ではつぎの作品を挙げている。

・くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる(正岡子規)(三・学・東・光)⇒三省堂、教育出版

・ああ皐月(さつき)仏)蘭西(フランス)の野は火の色す君も雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟(コクリコ)(与謝野晶子) ⇒教育出版*新

・みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞたたにいそげる(斎藤茂吉)(教育)⇒三省堂*新、教育出版

・不来方のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心(石川啄木)(東書・学図・三省堂・光村)⇒三省堂、教育出版*新

・日本を脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも(塚本邦雄) 教育出版*新

・海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり(寺山修司)(東書・光村)⇒教育出版*新

・俺は帰るぞ俺の明日へ 黄金の疲れに眠る友よおやすみ(佐佐木幸綱)  ⇒教育出版*新

・自転車のカゴからわんとはみ出してなにか嬉しいセロリの葉っぱ(俵万智) ⇒教育出版*新

・おねがいねって渡されているこの鍵をわたしは失くしてしまう気がする(東直子) 教育出版*新

・もう二度とこんなに多くのダンボールを切ることはない最後の文化祭(小島なお) ⇒教育出版*新

  2016年版は、「近代の短歌」として晶子2首、茂吉3首、白秋1首、牧水1首、啄木2首、合計9首が収録されていたのが、「短歌十首」として、大幅に世代交代が行われ、新しく塚本邦雄、寺山修司、佐佐木幸綱、東直子、小島なおの短歌が採られ、その異動が顕著であった。
 作品としては、晶子の「なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな」「小百合さく小草がなかに君まてば野末にほひ虹あらはれぬ」が上記の1首に。
 啄木は「やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに」「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」の2首に替わって「不来方・・・」が入り、俵は「『寒いね』・・・」に替わって、上記の作品が採られている。

 穂村のエッセイに登場する4人の短歌は、ここには入っていない。

 なお、穂村はもう一本「少しだけ変えてみる」というエッセイで、啄木の「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」などを例に、一文字、一語変えるだけで、一首の世界が変わり、広がることを説いている。

 各章ごとに「広がる本の世界」という読書案内が付されているが、第六章では以下が紹介されている。
小島なお・千葉聡「短歌部、ただいま部員募集中!」(岩波書店2022年4月)

 コラムの「四季のたより」では、古典和歌一首と俳句が掲載されている。また、三年生になると、俳句と古典和歌の単元があり、萬葉集、古今集、新古今集を学ぶようになっている。さらに評論として、穂村弘「青春の歌―無名性の光」が登場する。
 教育出版は、穂村の重用が目立つほか、若手歌人の起用が顕著であることもわかる。ちなみに、私が住む佐倉市は、この国語教科書を採用して久しい。

 なお、巻頭に掲げられた詩は、二社ともに、新川和江の「名づけられた葉」であった。
(つづく)

 

 

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2025年8月21日 (木)

“マラソン”の思い出、あの熱量はいま?

 すでに、下記の当ブログ記事でも、東京の職場でのランナー体験を書いています。本記事では、名古屋、千葉でのランニング?ジョギング?体験の記録の一部残しておきたいと思った次第です。

断捨離の手が止まる~“皇居一周ランナー”だった頃(2024年2月19日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2024/02/post-5099f9.html

  過去記事では、1970年代、皇居一周ランナーの仲間入りしたことを書いた。その後、1976年に名古屋に転居、転職したあとは、子育てと仕事でランニングどころではない時期があったが、娘が小学校に入った頃から、ほそぼそ再開、家族で地元の記録会や大会や研修会に参加するようになった。1988年、千葉に転居、転職した後も、何回か大会と名の付くイベントに参加していた。その後は近くの友人とウォーキングに精を出し、あるいは、夜空を眺めながら近くの中学校の200mトラックを何周しようと頑張っていた時期もあった。しかし、今では出かけて、4・5千歩は歩いたと言っては喜んでいる始末、残った資料を見ては、ただただ、懐かしむことばかり。
  名古屋に転居して、連れ合いの方は、1976年から、出勤前だったり、勤務先からの帰りだったりせっせと走り込んでいて、フルマラソンにも挑戦していた。

私が走るのを再開したのは、親子ジョギングのような形で娘と参加した第1回「天白川緑地を走る会」(天白区役所ほか主催)で、1984年12月の記録がある。天白区役所前をスタートして、島田橋を経て菅田橋を折り返す4.5キロコース。毎年12月に開催され、1987年の4回まで皆勤であった。

・また、よく参加していたのが、「天白川月例マラソン」(新体連名古屋市連盟ほか主催)で、連れ合いはいつも10キロの部だったが、私と娘は3キロか5キロだったか。1987年4月が10周年記念大会ということで、私は、女子・中学生以上の部で、6人参加、最年長で3位!?で、立派な賞状もいただいた。この間、娘は学内のリレーや天白区内小中連合運動会400mリレーで優勝(1分03秒2)したりした。

1984

・私の「名古屋シティマラソン」デビューは1986年11月、 娘と私は4キロで、ゼッケンも「完走証」も残っている。タイムは自己記入?夫は20キロ。87年も参加、夫も娘も記録を伸ばしているのだが。

1986

私のランニング人生?で、最も過酷だったのが、1987年8月に参加した「車山クロスカントリー」(新日本体育連盟主催)であった。2泊3日で、研修会も兼ねていて、仕上げがクロスカントリ―大会であった。車山スキー場リフト駅の東、ビーナスラインにに囲まれるような”草原”地帯の1周2キロを3周する6キロコース女子の部に、私は参加した。”草原”とはいうものの結構アップダウンもあるコースで、高校の運動部の練習とも重なっていたらしく、上級生かコーチがところどころに立っていて、叱咤激励していた。後ろからすごい勢いで走って来る選手からの「コースお願いしまーす」の声に脇に寄って、コースを譲るという場面が何回か、どこの生徒たちだったか、あとで「尽誠学園」だったらしいと知る。私の記録は51分23秒22人中20位、最年長ではなかったか?娘は48分06秒18位、最年少であったはずである。 夫は、東洋大学の駅伝選手だったというコーチとともに、山の尾根を一団となって走っているのが見えた。10キロコース57分49秒で36人中19位だった。1位は、トッパン陸上部の43分53秒とある。あの時の苦しさはともに語り草になっている。

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  1988年4月、夫の転任に伴い私の転職で、ひとまず船橋に居を得た。娘も転校先の小学校ブロック体育祭で800mを走ったり、市民陸上競技大会で女子400mリレーなどに出場していた。

1989年3月21日、「第10回京葉レディス健康マラソン」に娘と参加、私は一般5キロ31分44秒で240人中169位のカードをもらっている。最高齢は66歳であったが、40代後半以降はさすがに少ない。娘とは、かなりの差をつけられていた。

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・翌年1989年6月には、夫と娘は「第6回富里スイカロードレース大会」に参加、私はもっぱら応援だった。89年10月8日、NTT主催の「第3回墨東ふれあいマラソン」には、夫と娘が参加、それぞれ男子4部10キロ、女子中学生の部3キロで参加、江戸川のサイクリングコースの走りは気持ちよさそうだった。

・翌1990年10月7日の「第4回墨東ふれあい健康マラソン」には、私も女子3部5キロ参加、一家で走ったことになる。140人中80位で、タイムはともかくまんざらでもない?と思ったのだが、大会などへの参加はこれが最後で、その後は、印旛沼の阿宗橋まで、自転車でサイクリングコースに出て、家族で走ったりしていた。もっとも、私は、千葉での職場は、車を持たない我が家からは交通の便が悪く、結局、自転車で片道35分を走りに走った。冬の5時退勤の帰り道は、今考えれば怖ろしく危険な道中であった。産廃道路と言われトラックの往復が激しい歩道もない道、広い畑を突き抜ける道、運動にはなるが、よく事故を起こさなかったかと。雨や遅刻しそうになると、タクシーを呼んだ。10分ほどの距離だった。退職の間際の頃は、京成の勝田台駅からスクールバスが出るようにもなった。ただ、その頃から、家族三人はそれぞれが忙しくなって、もっぱら家周辺に限られてのジョギングになったのであった。

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2025年8月20日 (水)

「火垂るの墓」と「禁じられた遊び」ふたたび

 今年の8月は、立て続けに二本の映画を見た。

「火垂るの墓」(1988年、高畑勲監督)2025年8月15日

 夜9時から、日本テレビで放映。ずいぶんと前にも、テレビで見ているので二度目になるのだが、細かいところはかなり忘れている! 今回はカットなしでの放映ということだが、これまで、どんな個所がカットされていたのか。冒頭、サクマ式ドロップス(文字は左から書かれていたはず)の四角い赤い缶が転がる場面があっという間に過ぎてしまって、定かに確認できなかった。録画をとっておくべきだった。

 というのは、かつて、池袋の生家近くにあった「サクマ式ドロップス」の工場のことを書いたとき、缶が転がるのをラストシートとばかり思いこんでいたからである。その製造元の佐久間製菓は、コロナ禍のさなかに廃業したが、跡地はどうなっているのだろうか。今は、従妹夫婦が住んでいる生家だが、いまだに跡地界隈に立ち寄ってはいない。

サクマ式ドロップス工場の思い出~池袋第5小学校のクラス会へ(2009年10月 8日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/10/post-e8b5.html

 

 敗戦が真近い神戸で、父が出征し、母と暮らしていた中学生の兄と4歳の妹の物語である。母を空襲で失い、西宮の親戚の家に引き取られるが、だんだんと邪険に扱われるようになって、崖下のトンネルのようなところに隠れるように暮らし始める。さまざまな思いつきや精一杯の工夫をしての暮らし、けなげにも幼い妹を喜ばせ、いたわる兄だったが、食料にも事欠き、衰弱してゆく妹を助けられず、一人で亡骸に火を放つ場面はつらかった。元気な頃に二人して蛍と戯れた場所だった。

 私が、このアニメで、注目したのは、兄妹に係る大人たちの描き方だった。親戚のおばさん、鍋や七輪を融通してくれた金物屋さん?、親切な農家のおじいさん、畑を荒らされたことに怒り狂うオジサン、突き出された交番で、無罪放免にしてくれたお巡りさん、栄養失調だと見放すお医者さん・・・、どこにでも、どの時代にでもいそうな人たち。責めるでもなく、称えるわけでもなく淡々と描いているからこそ、兄妹の交情と哀切が際立っているように思えた。

 

「禁じられた遊び」(1952年、ルネ・クレマン監督)2025年8月17日

 施設の映画サークルによる上映会で見た。この映画は、かつて公開時でなく、名画座のようなところで見たように思う。二度目とは言え、かなりの部分は忘れていることに気づく。

 1940年、両親をドイツ軍の空爆で失い、孤児になった5歳の少女、牛を追って来た少年と出会い、その家族に引き取られる。両親の死、子犬の死、少年から弔うということを教えられた少女は、小さな生き物たちの死を十字架を立てては悼むことを覚える。それがやがて、さまざまな十字架、美しい十字架を欲しがるようになって、少年は懸命に応えようと十字架を盗み始め、二人の秘密の遊びのようになっていく。私は、今回も、二人をめぐる少年の家族たち、戦争による生死が身近に迫って来る農村の大人たちの描き方の巧みさにも着目した。

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少女を演じたブリジット・フォッセーは、20歳になって映画界に復帰、様々な映画に出演、私の覚えにあるのは、「さらば友よ」(1968年)くらいである。

 空襲で御者を失った馬の暴走で重傷を負った少年の長兄の死、戦線から耐えきれず逃げ帰って来た隣家の息子、その息子と恋仲の少年の姉、少年の父と隣家の主とのさまざまな確執、村の教会の牧師、少女の孤児院措置のためにやってくる警官・・・。時には、ユーモラスにも描かれるなかで、少年のやさしさと少女の愛らしさ、その別れに涙しそうになるのだった。

 ルネ・クレマンといえば、私にとっては、やはり「禁じられた遊び」と「太陽がいっぱい」(1960年)だろう。大学の学園祭で、私たちの専攻クラスにより同監督の「鉄路の斗い」(1945年)を上映したのも懐かしい思い出である。

 

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2025年8月18日 (月)

8月15日、天皇と首相の「言葉」の過大評価を考える

天皇の「語り継ぐ」とは

 8月15日、「全国戦没者追悼式」に臨んだ天皇の「おことば」の「戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います。」の一文をとりあげて、翌8月16日の各新聞は社説や記事で一様につぎのように評価していた。 

読売新聞社説:「戦中・戦後の苦難を、語り継ぐ必要性にも初めて触れられた。」

日本経済新聞社説:「『語り継ぐ』という新たな要素を加えられた。上皇さまの平和への願いを受け継ぎ、次世代に継承することへの強い思いがうかがえた。」

毎日新聞:「天皇陛下、記憶の継承に言及」の見出しで「『戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ』の一節を新たに加えられた。記憶の継承に明確に言及。」

朝日新聞:「天皇陛下 次世代に託す思い」の見出しで「『戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ』という新たな表現で、継承への思いを示すものとなった」

 またNHKの15日の夜7時のニュースでは、「戦後生まれの天皇陛下は、戦争の記憶と平和への思いを、戦争を知らない世代に継承していくことの大切さについて、記者会見などで繰り返し語られていて、今回の追悼式のおことばにも『語り継ぐ』という表現が、初めて盛り込まれました。」また、「深い反省とともに」という表現を「深い反省の上に立って」と変えたことを報じている。 

 そして、ノンフィクション作家保阪正康のコメントとして、
「『語り継ぐ』というのは、かなり主体的な意味の強い言葉で、主体的に戦争のことを語る、苦しかった人たちの思いをつないでいくという強い意思を感じる。」さらに「戦中・戦後の苦難」という言葉については「戦争は昭和20年8月では終わっていない、原爆で傷ついている人が今もいるように、戦争の傷はずっと残っている。苦難と闘っている人がいるということを、私たちは忘れてはいけないと、おっしゃっている。天皇陛下の人生観や歴史観が凝縮されていて、戦争の傷あとに対する思いが深いと感じた」と語らせている。
 さらに、天皇の「おことば」が基本的な内容は変わらないことについては、「変わらないということは、祖父・昭和天皇、父・平成の天皇の気持ちを継いでいくと、戦争に対する反省や心の痛みを継いでいくということをおっしゃっていると思う。それが天皇家の強い意思」と感じたとする。

  以下は私の素朴な感想であるが、「語り継ぐ」を盛り込んだとする一点を、これほどことごとしく揃いも揃って、高く評価する点が不思議であった。すでに多くの戦争体験者や遺族は、必死の思いで語り継いできたことは、多様なドキュメント、映像や図書などでも残されてきた。それを、いまさら「おことば」にその言葉が登場したからと言って、大げさに報道するメディアもメディアだという思いである。これまでのメディアの営為に自負はないのかとも思ったのだが。

 

石破首相の「反省」とは

 NHKは8月15日当日のニュースで「全国戦没者追悼式での総理大臣の式辞で「反省」ということばが使われたのは2012年以来となります。」と伝えた。他のテレビニュースも13年ぶりの「反省」を強調するものが多かった。

 新聞にあっては、
東京新聞社説(8月16日):「首相の「反省」 個人でなく政府が示せ」の見出しで「近年の首相は、所属政党にかかわらず戦没者追悼式の式辞で、アジア諸国に対する加害への反省を表明してきたが、安倍晋三氏は2013年以降、反省の表現を使わず、菅義偉、岸田文雄両氏も踏襲した。石破氏が反省の文言を復活させたことをまずは評価する。ただ、石破氏も何を反省するのか、具体的には示していない。」

読売新聞社説(8月16日):「終戦の日 80年続いた平和を次の世代に」の見出しで「石破首相は式辞で、2012年の野田首相以来となる、先の大戦の「反省」に言及した。」

毎日新聞社説(8月16日):「首相は反省と教訓明示を」の見出しで、戦後80年の首相談話を見送った経緯に触れた後「大戦の『反省と教訓』に言及した。『反省』は村山氏の時から式辞に盛り込まれたが、2013年の安倍氏以降は消えていた。13年ぶりに復活させた形だ。しかし、何を反省し、教訓とするのかについては、『進む道を二度と間違えない』などと曖昧に述べただけだ」

朝日新聞社説(8月16日)「終戦の日と首相 平和国家未来像語る時」の見出しで「首相式辞は、93年に細川首相がアジア近隣諸国に『哀悼の意』を表し、翌年の村山首相が『深い反省』を加えた。その後、自民党政権時代を含め、長らく踏襲されてきたが、第2次政権下の安倍首相が13年に言及をやめ、その後は使われなくなった。『反省』が13年ぶりに復活したが、アジア諸国への加害責任には触れておらず、何を反省し、教訓とするのかは明確でない。短い式辞で意は尽くせない。戦後50年の村山談話、戦後60年の小泉談話、戦後70年の安倍談話と同様、首相談話を出すべきだった」

  ここでは、13年ぶりに復活した「反省」に着目している点が共通している。「評価」すると明言するのは、上掲のなかでは東京新聞だけである。戦争を知らない、戦争体験者でもない、当事者でありえない第三者が「反省」するって、どうなの?という突込みもある。今年の天皇の「おことば」にあって、「深い反省とともに」という表現を「深い反省の上に立って」に変えたことは、その辺のことを配慮してのことだろう。
 石破首相の式辞に寄せられた「反省」の中身がないことを、いずれの新聞も指摘しているが、これは、天皇の「おことば」にも当然言えることではないか。首相には、指摘して、注文するが、天皇の「おことば」を称揚することはあっても注文をつけないのが、いまも変わらぬメディアなのである。

 首相の式辞について、朝日新聞の社説で「アジア諸国への加害責任」に触れていないことに言及するが、そもそも首相の式辞には「300万余の同胞の命」の「御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます」であって、「植民地やアジア各地での加害責任」、そこで犠牲になった「同胞」以外への追悼は読み取れなかったのである。                     

 参考 10年前に『女性展望』(2015年11・12月号)に寄稿した文章です。
戦後70年、二つの言説は何を語るのか(2016111日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/01/70-6a1c.html

資料1.天皇の「おことば」全文
 本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦においてかけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
 終戦以来80年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います。
 ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

資料2.首相の式辞
 天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、戦没者のご遺族、各界代表のご列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行いたします。
 先の大戦では、300万余の同胞の命が失われました。 祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦場に斃(たお)れた方々。広島と長崎での原爆投下、各都市への空襲並びに艦砲射撃、沖縄での地上戦などにより犠牲となられた方々。戦後、遠い異郷の地で亡くなられた方々。今、すべての御霊(みたま)の御前(おんまえ)にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。
 今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊(とうと)い命と、苦難の歴史の上に築かれたものであることを、私たちは片時たりとも忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念を捧(ささ)げます。
 未(いま)だ帰還を果たされていない多くのご遺骨のことも、決して忘れません。一日も早くふるさとにお迎えできるよう、全力を尽くします。
 先の大戦から、80年が経(た)ちました。今では戦争を知らない世代が大多数となりました。戦争の惨禍を決して繰り返さない。進む道を二度と間違えない。あの戦争の反省と教訓を、今改めて深く胸に刻まねばなりません。
 同時にこの80年間、我が国は一貫して、平和国家として歩み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてまいりました。 歳月がいかに流れても、悲痛な戦争の記憶と不戦に対する決然たる誓いを世代を超えて継承し、恒久平和への行動を貫いてまいります。未だ争いが絶えない世界にあって、分断を排して寛容を鼓(こ)し、今を生きる世代とこれからの世代のために、より良い未来を切り拓(ひら)きます。
 結びに、いま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様にはご多幸を、心よりお祈りし、式辞といたします。    
  令和7年8月15日      内閣総理大臣 石破茂                                                                                                        

                                                                                                                        

 

 

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2025年8月15日 (金)

戦後80年、私の8月15日 八首

『現代短歌新聞』に5首、『うた新聞』に3首寄稿いたしました。わずかな記憶も忘れないうちにという思いです。

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「オキナワ」という名のさつまいも(5首)              

疎開地の馬市場跡に居を得れば馬柵(ませ)というもの焚き木となりて

容赦なく変電所にも突き刺さる焼夷弾を見たり父にすがりて

共同の井戸より母は戻り来て「負けたんだって」とバケツを放つ

ふとんには青大将の落ち来たる敗戦の夜は兄たち黙しぬ

「やっとこさ」手に入れたると「オキナワ」を父は掲げて土を払いぬ 

五歳の夏 (3首)                 

兵士らは馬上の一人に従いて馬市場跡に列をなしゆく

行進の靴音止みて号令のあとの晩夏の闇は深まる

農婦らに哀れまれたか収穫後の畝に残れるニンジン拾う

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2025年8月13日 (水)

『神近市子の猛進』を読む、神近は短歌も詠んでいた(2)神近市子、波乱の生涯

   神近市子は、長崎県出身、父と兄を幼少時に亡くし、姉二人との母子家庭で貧しかったが、読書する文学少女で,活水女学校を経て、津田梅子の女子英学塾で学ぶ。在学中に『青鞜』に参加、1913年女子英学塾卒業後、弘前の県立高等女学校の教師になるが、『青鞜』への参加がばれて一学期で退職。東京に戻り、尾竹一枝(後の富本紅吉)、伊藤野枝とも知り合い、小野賢一郎(1888~1943,俳号は蕪子)の紹介で東京日日新聞の記者となる。東京日日新聞の高木信威(1872~1935)との不倫関係にあって女児を出産、生家に預け、記者活動を続けていたことが、上記事件の公判中に明らかになった。

 1915年大杉と知り合い、16年上記の事件に至り、東京日々新聞社を退社。1919年服役後からは小説、翻訳、評論など多角的な文筆生活に入り、20年に鈴木厚と結婚、一男二女をもうけるが、39年に離婚。その間、プロレタリア文学運動にもかかわるが、28年長谷川時雨の『女人芸術』創刊より参加、その廃刊を継ぐような形で、34年には自ら『婦人文芸』を創刊する。当時の執筆メデイアは、新聞、総合雑誌、婦人雑誌、文芸雑誌、時局雑誌等多岐にわたる。人脈も広めてゆく。39年の離婚前後から、3人の子どもとの生計も神近の双肩にかかってきたためか、執筆量も多く、大手出版社による『中央公論』(中央公論社)『雄弁』(講談社)『現地報告』(文芸春秋社)『新女苑』(実業之日本社)などへの寄稿も増した。日本文学報国会の会員ではあったが、彼女の論稿の基調は、戦時下の女性労働者の重要性とその権利保護にあって、意識的に、戦意高揚に直接的につなげることを避けたきらいがある。また、とくに太平洋戦争開戦前後からは、語学力を生かして、1940年『トルキスタンの旅』『動物と人と神々』『アメリカ史物語』、1941年『アメリカ成年期に達す』、1942年『新疆紀行』、1943年『船と航海の歴史』などの翻訳が多いのが、他の評論家に見ない特色と言えるのではないか。

 近年よく使われるようになった、内閣情報局の内部資料『最近における婦人執筆者に関する調査』(1941年7月)は、婦人雑誌八誌を対象に、婦人執筆者の執筆頻度、その内容種別などを、1940年5月号から翌年の4月号までを調査、各人、各文献の解説、出版社の評価など「量的」「質的」分析がなされている資料である。今回、神近市子を調べてみると、「純粋評論家」として3点が挙げられ、決して多い方ではないが、「彼女の婦人解放の思想は此の意味に於て依然として、社会組織に於ける不合理の状態の廃止を目指して社会を変化せんとするあの社会主義的態度を思はせるものがある」などと評されている。

 『神近市子の猛進』の著者石田は、戦時下における神近の文筆活動について、つぎのように述べている。
「そこに女性の戦争協力を先導するような言説はなく、運動として表舞台に立つこともなく、街頭に進出することもなかった。戦争を奇貨とする点では同じであったが、女性の国民化という大衆運動を展開し、公職追放となる市川房枝のように、戦争協力が問われることになる女性指導者たちとは、その点で一線を画していた。」(200頁)

 戦後は、その参議院議員市川房枝らとともに、神近は売春廃止の法案を何度も国会に提出するが廃案になっていたが、さまざまな曲折を経て、不備が指摘される中、t956年5月24日公布に至り、施行させた彼女たちの功績ははかりしれないものがある。 

 私は、短歌の師であった阿部静枝が、上記の資料で「純粋評論家」として、多くの婦人雑誌に重用された実態について触れたことがある。夫、阿部温知とともに無産政党の党員としての活動の過去がありながら、戦時下において、評論家としての執筆や活動を拡大してきたのは、かつての活動で得た知見や執筆・弁舌能力と社会性を備えていたからであり、歌人という肩書も加わって、翼賛へと傾いていった過程をたどったことがある。また、彼女には、結婚前に、男児を出産し、隠すように他人に預けて活動してきた経緯があり、夫と死別してからは、子供を引き取ったことによる経済的な必要と体制やメディアから「期待」される蜜の味も手離したくなかったため執筆活動に励んだ一面もあったと推測される。そして、戦後は、社会党から分かれた民社党の党員となり、豊島区区議会議員を三期務めたことを思うと、神近市子ほどの革新性や話題性はないが、一人の女性の歩みとして、似たような軌跡ではなかったかと、あらためて感慨深いものがあった。

参考:「内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか 女性歌人起用の背景」『ポトナム』2006年1月~2月。『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房 2013年8月)所収

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下段は「量的考察」の「純粋評論家」の図表の一部。氏名の五十音順で、阿部静枝は11点で座談会が多いのが目立つ。後のページで、トップは宮本百合子の22点、次が羽仁もと子の19点が突出している。

 

 

 

 

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2025年8月12日 (火)

『神近市子の猛進』を読んだ、神近は短歌も詠んでいた(1)神近市子の短歌

・ひとり居て思うことあり 嬉しきは孤独に生きる力もつこと

  神近市子が、このような短歌を詠んでいることを、石田あゆう『神近市子の猛進 婦人運動家の隘路』(創元社 2025年3月)で知った。なるほど、神近らしい、と思った。

 神近市子(1888~1981)といえば、なんといっても、アナーキストで自由恋愛を主張する大杉栄と恋愛関係にあったが、妻堀保子と愛人伊藤野枝(辻潤の妻)の四人の複雑な関係と確執から、1916年11月9日、葉山の日蔭茶屋で大杉を刺傷したという事件が有名で、裁判を経て、17年10月から2年間服役している。当時は、神近の嫉妬による犯行であるといったスキャンダルめいた報道が多かったようである。今ならば、有名人のW不倫以上の複雑な関係が取り沙汰されるに違いない事件だった。
  私は、神近市子の「社会党左派」の議員であった、もう一つの顔の方が身近だった。私の若いころ、生家のあった地元池袋を含む当時の中選挙区「東京5区」選出の政治家としての姿が印象に残っている。母と出かけた演説会や選挙ポスターから受ける印象はやはり、「闘士」の面影が色濃かった。1953年、吉田茂首相の「バカヤロー解散」後の選挙で 初当選、65歳であった。ちなみに、そのときの東京都の当選者は以下の図表の通りで、なんとなつかしい名前ばかりである。

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1953年4月衆議員選挙東京都当選者。5区に鈴木仙八、神近市子、河野密、中村梅吉の名前が見える。淡い空色が社会党左派で原彪、鈴木茂三郎、帆足計、島上善五郎、山花秀雄。ブルーが浅沼稲次郎、加藤勘十、三輪寿壮、菊川忠雄、山口シズエ、中村高一。社会党が強かった!

 

  この後も、神近は、60年11月の一度の落選を挟んで、55年1月、58年5月、63年11月、67年1月の選挙で当選、5期を務め、81歳で政界を引退している。

 1919年の出獄後から1953年衆議院選挙で初当選するまでの間の活動は、断片的に垣間見ることはあったが、『神近市子の猛進』で初めて知ることも多かった。

 その一つが、神近と短歌の出会いであった。(66頁)出典は、神近の長男鈴木黎児編集による『神近市子文集(三)』(武州工房 1987年11月)であった。さいわいにも、国立国会図書館でデジタル化されており、しかも個人送信により入手することができた。そこには、二本の短歌関係の随筆が収められていた。それらの文献によれば、神近が鈴木厚との結婚時に「(淀橋区)下落合」に住んでいたのは、半田良平宅の道路を隔てた向かいであり、その後も近くに家を建てたらしい。半田良平夫妻、子どもたちと家族ぐるみの交流があったことと、今井邦子の『明日香』には、気ままに投稿する仲だったことが書かれている。

 北海道に遊説で道南を回った折にはつぎの歌を含む五首を書き留めている。
・見はるかす札幌のかた夕陽はえて ポプラの並木赤くもえたつ(月寒の丘にて)

・開拓の長き苦難をかたるかに 古きサイロ山合にみゆ(倶知安にて)

 衆議院の法務委員会で、岐阜・愛知へ視察に出かけたとき、岐阜の宿で、請われて色紙に書いたのは、東海道での光景を詠んだつぎの歌だった。同行の議員たちも、その光景を見ていたので、喝さいを浴びたという。
・白鷺はおもしろきかな畔にいて 田植える人を眺めて立てり

  当時の「心境にはつぎの歌がもっともピッタリとくる」として、エッセイを閉じている。
・つれづれを史記よみてあり愛しきは 夏殷周の興亡のあと

 (以上「歌と詩と――半田氏の自称弟子」『随筆サンケイ』1961年3月。『神近市子文集(三)』所収)

 

 さらに、もう一本のエッセイ「私の短歌」では、今井邦子との出会いに始まり、自分の勉学の道をひらいてくれた家族やふるさとの大村藩という経済的に豊かだった背景にも及んでつぎのような短歌が記されている。
・ふるさとは友ありてよしこの宵を 心ゆくまでかたりあかして

  1958年7月のソ連視察時、公務が終わっての自由行動の折、トルストイの生地行きを提案、一同向かい、トルストイの墓を訪ねる。彼の墓はトルストイ一族の立派な墓ではなく、樹木の下にひっそりと石一つがあるのを目の当たりにして「何だか悲しかった」としながら、詠んだのがつぎの二首である。
・大樹の下に長方形の石一つ 墓をたずぬる人絶えまなし

・妻や子とは離れて眠るトルストイ 墓をたずぬる人絶えまなし

 二通りの表現を試みて、「主観と客観の違いだけで、どちらに重点をおいたわけでもない」と歌作にも余裕が感じられる一場面である。

 また、1959年、北欧諸国の福祉施設の視察で回ったときに「こんな一首がひょいと頭に浮かんだ」とある。
・北海の波分けてくる船ひとつ 我に希望もたらすがごと

 さらに、このエッセイの終わり近くには、「こうして原稿を書いていると、自分の生涯のことが次々に追憶され、私の生涯が成功と失敗の連続だったことが思い出されて来る」として、冒頭の一首が挙げられている。
・ひとり居て思うことあり 嬉しきは孤独に生きる力もつこと

  「孤独は自分でつくりだせることを知らなくてはならない。周囲に人なく物なくそれを孤独と考えるのは外形的なもので、外に求め、あこがれる場合は孤独ではない。求めず、あこがれぬ心境こそ孤独というものだろう。」「(芸術の)作者の側にも世俗に惑わされず、真実をあくなく追及してそれを表現する努力につとむべきだろう。」と。
(以上「私の短歌」『朝日新聞』1975年8月。『神近市子文集(三)』所収)

  なお、この『神近市子文集(一)(二)(三)』を編集した鈴木黎児は、神近と鈴木厚の長男で、離婚の際には神近に引き取られたのだが、苦労も多かったようだ。それでも、母の書き残したものを、自分なりの眼で収集しての私家版であったようだ。『神近市子著作集』全六巻(日本図書センター 2008年)が刊行される20年以上も前のことになる。さらに、鈴木黎児は、各文章の末尾に、解説を付し、執筆の背景や鈴木自身の率直な感想や批判もしているのである。その収集の努力と遺族による顕彰のみに陥りやすさを抑制している営為には敬意を表したい気持ちである。

  なお、今井邦子との関係ついて、神近の以下の文章がある。
「最後に会った今井さん」『明日香』今井邦子追悼号 13巻8号 1948年11月
「最後の会見」(今井邦子追悼講演録)『明日香路』1巻4・5合併号 1949年5月

  また、堀江玲子『今井邦子の短歌と生涯』(短歌新聞社 1998年1月)にも、邦子が鶴川村への疎開を紹介されたこと、再疎開した下諏訪の生家に、神近が4・5回訪ねていること、亡くなる年1948年2月にも見舞っていることなどが記されていた。

 半田良平については、さきの『文集』にも何度か出て来るが、「隣人としての半田先生(一)(二)」(『沃野』31~32号 1949年10月=11月)に詳しい。

*引用の短歌は、原文では二行の分かち書きになっているが、ここでは一字アキで示した。

(つづく)

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2025年8月 6日 (水)

「コメ クエ コメ クエ」の稲文字を偲ぶ~減反政策に一貫して反対し続けた人

   私たち家族が千葉県佐倉市のニュータウンの一角に転居してきたのは、1988年秋であった。家が建つまで、田んぼをまたぐ橋の上から見えた稲文字「コメ クエ コメ クエ」がめずらしく、見おろしながら渡っていた。「田んぼアート」などが流行る前のことだ。そして、翌年には、「コメハ ニホンノココロ」に変わった。そして、毎年、変わる稲文字を見るのが楽しみになった。いったいどんな人が、こんな手の込んだ方法で、政府の減反政策反対の意思表示をしているのかと思っていたが、10年ほどの後、その作成者に会うことができた。1998年末、地域の主婦たち4人で始めたミニコミ誌『すてきなあなたへ』の取材でお話を聞くことになったのである。四半世紀前のことにもなる。

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 こんなことを思い出したのも、きのう8月5日、石破総理、小泉農水相は、半世紀以上も続けてきた「減反政策」を見直し、コメの増産に踏みるとの発言があったからである。見直しの対策として、耕作放棄地の活用、農業経営の大規模化、農地の集約・大区画化などと一口に言っても、農業人口が激減している中、容易なことではない。農業従事者の高齢化、兼業農家対策として、すでに法人化などが進められているようだが、課題は多い。
 減反政策は、1960年代、コメの生産過剰を抑制、コメの価格調整のために、1970年から2018年まで続いた。現在も農水省が生産量目安を発表したり、主食用米からの転作費補助金を出したりして、実施的な減反政策がとられていたところに、今回のコメ不足、価格の高騰という「米騒動」に至ったわけである。

  稲文字の作成者石川昭次さんは、周辺の宅地造成が進み、残された50軒ほどの集落の中にある代々続く農家だった。集落の中には、開発業者に田畑を売って立派な家を建てたり、コメを作らなくなったり、農業をやめたりした人もいるそうだ。このあたりの田んぼは大雨のたびに水没していたが、印旛沼の開拓をした吉植庄亮が利根川と印旛沼の間の安食(印旛郡栄町)に関門を作ったことで水害はなくなったという。歌人吉植庄亮の名前が飛び出し、この地にも関係があることを知った。そして、「農家というのは田や畑があってのことなので、時代に流されず、目前のことに惑わされず地道に続けるのが一番」と語っていた。1993年の「米騒動」については、決して単純なコメ不足ではなく、農家がため込んでいたわけではない」とも語り、1994年からは稲文字をやめて、普通の田んぼに戻したという。

 この稲文字は、週刊誌やテレビにも登場していたそうだ。稲作のほか無農薬野菜にも挑戦、研究を続け、居間の本棚には、農業関係の本だけではなく、『世界』や『中央公論』が並んでいて、インタービューの後も『朝日新聞』の「声」欄にときどき登場するのを見かけたことがある、筆も立つ人である。
 その数年後、石川さんから電話をいただき、びっくりしたことがある。「オレのことが農業新聞に載っている」というのだ。はじめは何のことか分らなかったが、『日本農業新聞』の草野比佐男さんのコラムに、石川さんの稲文字を詠んだ拙作が載っていたのである。草野さんとは何のご縁で知り合ったのか、いまは思い出せないのだが、私の30数年ぶりの第二歌集『野の記憶』(2004年6月)をお送りしていたことはたしかであった。

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 石川さんには、いつもミニコミ誌を真っ先にお届けしていたが、農作業でお留守の時も多かった。お会いできたときは、長話になったり、お土産に野菜をいただいたりしたのも懐かしい思い出である。私たちのミニコミ誌も終刊し、石川さんの訃報は、しばらくたってから、お聞ききした。

石川さん!、減反政策はようやく見直されますよ!?

 

 

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2025年8月 4日 (月)

図書館の「指定管理者制度」についての講演会へ。

    8月2日、市内の表記講演会に参加した。古くなった佐倉市の図書館の建直しを機に10年前から、利用しやすい図書館を目指して活動してきた市民の会が主催だった。「佐倉市立図書館アクションプラン(2025~2032)」において、図書館への「民間活力の導入」がうたわれ、「指定管理者制度」導入への方向性が示されたのを受けて、開催された講演会だった。私も図書館という職場から離れて久しいが、もっぱら利用する立場になったので、無関心というわけではなかった。ただ、利用する資料が、古い雑誌だったり、特殊コレクションの資料だったり、学術書だったりすることが多かったので、公立図書館収蔵資料の利用というより館外貸し出しの窓口として利用することがほとんどである。今回、こうした会に参加するのは初めてで、たいそうなことは言えないが。

 公立図書館に「指定管理者制度」が導入されると、図書館の現場ではどういうことが起こるのか、利用者へのサービスが向上するのか、実際導入した図書館が、自治体直営に戻った経緯はどうであったのかなどを、私は知りたかった。会場の大方の人もそんな期待を持っていたのではなかったか。

 講師は、公共図書館職員、館長を歴任した方で、経験と知見はゆたかに違いなかった。ところが、講演内容は、図書館概論的なもので、図書館の歴史、図書館の役割などへの言及が長く、いつ本題に入るかと不安にも思えたのだった。1時間が過ぎた頃、司会者は、講師に紙を渡していたが、多分、その催促ではなかったか。講師は、時計を見て、ようやく本題に入った。受付で配布された資料「指定管理者制度の概要と現状」には、政府の進める公共施設の指定管理者制度自体の法的根拠やメリットとともに「図書館における指定管理者制度」に関するデータや参考文献の抄録なども用意されていたので、この辺りに時間を割いてもらいたかったと、少し残念であった。

 配布資料に、市区町村のデータが一部転記されているが、元資料と思われる日本図書館協会の下記「図書館における指定管理者制度の導入等の調査について2023(報告)」注① にあたってみると、以下のことがわかる。都道府県立図書館で22年度まで導入しているのは8館のみで、(表1)によれば、その内、導入業務を見ると、「施設管理のみ」4館、「施設管理等」3館で、「図書館業務の一部」1館となっている。

 市区町村立図書館では、22年度までに674館が導入済みで、全3228館の20.9%ということになる。(表4)によれば、市区町村立図書館で導入した指定管理者の種類、性格を見ると、674館の内、民間業者が圧倒的に多く554館である。なお、民間業者、最大手のTRC(図書館流通センター)の最新の情報によれば、25年7月現在、602の公共図書館がTRCを導入していることになっている。注② TRCのシェアが拡大しているのがわかる。なお、首都圏について、注③を参照してみると、東京都23区の図書館の導入率が60%を超えるのではないかと思われる。

 さらに、「指定管理者制度」と一口にいっても、以下のような形態がある。a)は、日本では、まだ普及していない。c)の「委託」というのは、従来からも実施されていた方式であり、採用している図書館も多く、統計には「指定管理者制度」に組み込まれているらしいが、実態は把握しにくいのではないか。b)が、制度本来の方式である。

a)PFI(Private Finance Initiative): 公共施設等の建設、維持管理、運営等を民間の資金、経営能力及び技術的能力を活用し、効率的かつ効果的に公共サービスを提供する。

b)指定管理者制度: 民間事業者等のノウハウを活用し、住民サービスの質の向上、施設の設置の目的を効果的・効率的に達成するため2003年9月から実施された制度。自治体の運営目的に添って事業者が提案、運営する。

c) 業務委託: 自治体作成の仕様書に添って、業務の一部を民間事業者に委託する。

 この指定管理者制度の目的は、市民サービスの質的向上と効果的、効率的運営ということになるが、果たしてその目的にかなうものなのかどうか、私は疑問に思っている。日本図書協会は、以下のような理由で、図書館は指定管理者制度になじまないものと結論付けている。私なりにまとめてみると、図書館は、自治体の責任において直営するのが基本であり、政策決定をする自治体と運営主体となる管理者との分離は、運営自体に障害が発生し、計画的な人材育成がむずかしくなる。その上、指定期間が3~5年と短く、職員の経験や専門性の蓄積が困難となる。指定管理者制度を続けていると、自治体に図書館に通じる専門職員が誰もいなくなる?事態は発生するのでは。

 実態として、市民へのサービスの質が落ちたり、利用者が減少したりする例も多く、(表2)に見るように指定管理者制度から直営に戻るケースも決して少なくはない。下記「報告」の(2)をご参照ください。

 たしかに、b) 指定管理者制度により専門性を要する図書館業務―たとえば、選書、整理、配架、レファレンス、リクエスト対応、検索、出納などが担われることになると、機械化が進み、効率的になったとしても、利用者の要望が届きにくく、対面のサービスも後退する。その図書館の地域的な特色や蔵書構成へ知見も軽視され、画一的に処理されるだろう。しかも、指定管理者の職員雇用態様はまちまちで、雇用期間や報酬が不安定になり、多くは、派遣、契約、パートなどの非正規職員によって担われることは明らかで、サービスの向上はむしろ減速するのではないか。直営に戻ったケースから、私たちは学ぶことも多いに違いない。

 講演会の参加者は50人、その中には、佐倉市市議会議員も、党派を超えて9人も参加していたそうだ。それだけに、指定管理者制度導入の問題点を明確にした内容だとよかったのになあ、と思うことしきりであった。

  • 「図書館における指定管理者制度の導入等の調査について2023(報告)」
    file:///C:/Users/Owner/Desktop/hokoku202302.pdf

<図書館における指定管理者制度導入等の調査にについて2023(報告)>

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2025年8月 2日 (土)

8月2日、「こうの史代展」オープン、行ってきました。

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会場近くのロビーでの公刊された作品集展示。

 佐倉市立美術館で今日オープンした「こうの史代展」に出かけた。こうの作品は、「この世界の片隅に」の映画(2016年)を、しかもテレビで見たくらいで決して読者とは言えない。この展示会で初めて、1995年のデビューから今日までの作品の全貌を知ることができた。といっても、若い人たちが、作品の前に張り付いて熱心に見ていることも多く、1時間余りでは、素通りした個所もある。
 こうの史代(1968~)さんは広島市生まれ、テーマは、古事記から現代にいたるまで自在ながら、花やインコ、にわとりなどへの眼差しもあたたかく、
ほんとうにどれもやさしい絵だし、原爆の被害とその後に続く悲劇を丹念に描いた『夕凪の街、桜の国』(双葉社 2004年)のような、深刻な哀しいストーリーも、説得力があり、心に染み入るような場面が多い。まんが、コミック、アニメの世界とは隔たりがあると思っていたが、私も少し変わったかな。

 そして、こうのさんはアシスタントを置かずに製作を続けているということにも、表現者としての覚悟がみられ、心動かされている。

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佐倉市立図書館1階ロビーで製作中のこうのさん。テーマは「日の鳥」?今年の5月から金沢、福知山での巡回展を経て、8月2日佐倉での展示となった

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こうのさん退席中の絵具たち。

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左が「第30回紙屋町シャレオ古本まつり」、右上が『長い道』の絵はがきです。 

 

 

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