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2025年8月21日 (木)

“マラソン”の思い出、あの熱量はいま?

 すでに、下記の当ブログ記事でも、東京の職場でのランナー体験を書いています。本記事では、名古屋、千葉でのランニング?ジョギング?体験の記録の一部残しておきたいと思った次第です。

断捨離の手が止まる~“皇居一周ランナー”だった頃(2024年2月19日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2024/02/post-5099f9.html

  過去記事では、1970年代、皇居一周ランナーの仲間入りしたことを書いた。その後、1976年に名古屋に転居、転職したあとは、子育てと仕事でランニングどころではない時期があったが、娘が小学校に入った頃から、ほそぼそ再開、家族で地元の記録会や大会や研修会に参加するようになった。1988年、千葉に転居、転職した後も、何回か大会と名の付くイベントに参加していた。その後は近くの友人とウォーキングに精を出し、あるいは、夜空を眺めながら近くの中学校の200mトラックを何周しようと頑張っていた時期もあった。しかし、今では出かけて、4・5千歩は歩いたと言っては喜んでいる始末、残った資料を見ては、ただただ、懐かしむことばかり。
  名古屋に転居して、連れ合いの方は、1976年から、出勤前だったり、勤務先からの帰りだったりせっせと走り込んでいて、フルマラソンにも挑戦していた。

私が走るのを再開したのは、親子ジョギングのような形で娘と参加した第1回「天白川緑地を走る会」(天白区役所ほか主催)で、1984年12月の記録がある。天白区役所前をスタートして、島田橋を経て菅田橋を折り返す4.5キロコース。毎年12月に開催され、1987年の4回まで皆勤であった。

・また、よく参加していたのが、「天白川月例マラソン」(新体連名古屋市連盟ほか主催)で、連れ合いはいつも10キロの部だったが、私と娘は3キロか5キロだったか。1987年4月が10周年記念大会ということで、私は、女子・中学生以上の部で、6人参加、最年長で3位!?で、立派な賞状もいただいた。この間、娘は学内のリレーや天白区内小中連合運動会400mリレーで優勝(1分03秒2)したりした。

1984

・私の「名古屋シティマラソン」デビューは1986年11月、 娘と私は4キロで、ゼッケンも「完走証」も残っている。タイムは自己記入?夫は20キロ。87年も参加、夫も娘も記録を伸ばしているのだが。

1986

私のランニング人生?で、最も過酷だったのが、1987年8月に参加した「車山クロスカントリー」(新日本体育連盟主催)であった。2泊3日で、研修会も兼ねていて、仕上げがクロスカントリ―大会であった。車山スキー場リフト駅の東、ビーナスラインにに囲まれるような”草原”地帯の1周2キロを3周する6キロコース女子の部に、私は参加した。”草原”とはいうものの結構アップダウンもあるコースで、高校の運動部の練習とも重なっていたらしく、上級生かコーチがところどころに立っていて、叱咤激励していた。後ろからすごい勢いで走って来る選手からの「コースお願いしまーす」の声に脇に寄って、コースを譲るという場面が何回か、どこの生徒たちだったか、あとで「尽誠学園」だったらしいと知る。私の記録は51分23秒22人中20位、最年長ではなかったか?娘は48分06秒18位、最年少であったはずである。 夫は、東洋大学の駅伝選手だったというコーチとともに、山の尾根を一団となって走っているのが見えた。10キロコース57分49秒で36人中19位だった。1位は、トッパン陸上部の43分53秒とある。あの時の苦しさはともに語り草になっている。

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  1988年4月、夫の転任に伴い私の転職で、ひとまず船橋に居を得た。娘も転校先の小学校ブロック体育祭で800mを走ったり、市民陸上競技大会で女子400mリレーなどに出場していた。

1989年3月21日、「第10回京葉レディス健康マラソン」に娘と参加、私は一般5キロ31分44秒で240人中169位のカードをもらっている。最高齢は66歳であったが、40代後半以降はさすがに少ない。娘とは、かなりの差をつけられていた。

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・翌年1989年6月には、夫と娘は「第6回富里スイカロードレース大会」に参加、私はもっぱら応援だった。89年10月8日、NTT主催の「第3回墨東ふれあいマラソン」には、夫と娘が参加、それぞれ男子4部10キロ、女子中学生の部3キロで参加、江戸川のサイクリングコースの走りは気持ちよさそうだった。

・翌1990年10月7日の「第4回墨東ふれあい健康マラソン」には、私も女子3部5キロ参加、一家で走ったことになる。140人中80位で、タイムはともかくまんざらでもない?と思ったのだが、大会などへの参加はこれが最後で、その後は、印旛沼の阿宗橋まで、自転車でサイクリングコースに出て、家族で走ったりしていた。もっとも、私は、千葉での職場は、車を持たない我が家からは交通の便が悪く、結局、自転車で片道35分を走りに走った。冬の5時退勤の帰り道は、今考えれば怖ろしく危険な道中であった。産廃道路と言われトラックの往復が激しい歩道もない道、広い畑を突き抜ける道、運動にはなるが、よく事故を起こさなかったかと。雨や遅刻しそうになると、タクシーを呼んだ。10分ほどの距離だった。退職の間際の頃は、京成の勝田台駅からスクールバスが出るようにもなった。ただ、その頃から、家族三人はそれぞれが忙しくなって、もっぱら家周辺に限られてのジョギングになったのであった。

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