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2025年9月30日 (火)

『比翼の象徴』(井上亮)を手掛かりに<平成流>を考えてみた。

 知人に勧められ、雑誌『反天皇制市民1700』に『比翼の象徴』を手掛かりに、明仁・美智子夫妻による<平成流>の30年余についての拙稿をまとめてみたのが、以下である。この雑誌の由来は、表紙裏の「反天皇制市民1700ネットワークとは」に掲げられている。昭和から平成への代替わりの際の即位の礼・大嘗祭違憲訴訟で、1995年3月、大阪高裁で敗訴したものの「政教分離違反の疑いがある」という画期的な判決を確定させると同時に、原告市民1700人を中心に天皇制を廃止するために何が必要か、何ができるかを考える一助としてこの雑誌を発刊したとある。

 『比翼の象徴 明仁・美智子伝』の著者は、日本経済新聞皇室担当記者であった。1500頁に及ぶ3分冊をともかく読み終えて、思ったのは、日経に限らず、現在の大手メディアと皇室との関係、皇室報道は似たりよったりだということがわかる。拙稿を読んでくださった方々から、岩波がこのような本を出していたのを知らなかったとか、岩波書店、朝日新聞、東京新聞の親皇室、親天皇への傾斜、報道は目に余るといった感想が多く見られた。

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続きは以下をご覧ください。

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<関連過去記事>

『比翼の象徴』を読み始めた~(2025年7月 9日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2025/07/post-6fff14.html

 

 

 

 

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2025年9月27日 (土)

「日本人と選挙」(NHK「歴史探偵」9月24日)を見ました。

   表題の番組に、図書館時代の友人のEさんが、「市川房枝記念会女性と政治センター」の資料紹介で、出演するという知らせが入った。当初は9月17日の予定だったが、十島の地震で、1週間後に延期、当日は、またニュースの延長で15分遅れた。「歴史探偵」は初めて見る番組で、スタジオには、タレントの探偵社所長?とアナウンサーが司会を務め、取材のアナウンサーとゲストの「選挙オタク」という若い女性タレントが登場。なんかなじみのない人ばかり。「日本人と選挙」と、テーマは大きいが、ちょうど100年前、1925年に普通選挙法が成立・公布され、はじめて実施された1928年の「男子普通選挙」、1942年の「翼賛選挙」、1946年の「戦後初めての選挙」に焦点をあてるという構成だった。それぞれの選挙の時代的背景にはあまり踏み込まず、選挙の仕組み、取り組み、結果をさまざまな資料で紹介していた。そして、取材先は、国立フィルムセンター、慶応大学メデイアセンター、高知市自由民権記念館、斉藤隆夫記念館、市川房枝記念会女性と政治センターのある婦選会館など多岐にわたっていた。婦選会館以外は行ったことがなかったので、興味津々だった。女性の選挙権獲得の運動、市川房枝の果たした役割について、Eさんの資料解説もわかりやすく、穏やかな話しぶりが、昔のままだった。

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 1925年5月、普通選挙法の成立・公布を経て、1928年2月20日に実施された選挙は、治安維持法などによる弾圧が厳しいなか、男子のみに与えられた選挙権だったが、まるでお祭り騒ぎのようだったという。ポスターも制限がないので、あちこちと張られ放題。結果は、政友会と民政党の接戦に終わった。この選挙で無産政党からは8人が当選、社会民衆党からは、議長の安部磯雄、西尾末広、鈴木文治、亀井貫一郎の4人が当選、当時の書記長は片山哲だった。

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 1941年10月に東条英機が首相に就任、12月8日には太平戦争突入、翌年1942年4月30日に実施された選挙は、「翼賛選挙」と呼ばれる。政党はすでに解散させられ、1940年10月、「大政翼賛会」が発足、大政翼賛会の推薦候補か非推薦かの候補者によって争われたが、政府、メデイア、地域をあげて推薦した候補が圧倒的な多数を占めた。

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 市川房枝は「婦選なくして普選なし」と闘ってきたが、翼賛選挙に際して、「女性の権利獲得のためには政府に協力する姿勢」を示して、「翼賛選挙貫徹婦人同盟」の代表者となっている。Eさんは、市川の苦渋の選択を語っていた。

 そして敗戦後、1946年11月3日の新憲法公布に先だって、4月10日に女性が初めて選挙権を行使する総選挙が実施された。大方のメディアの予想に反して、女性の投票率は67%に達している。「日本ニュース」14号(1946年4月18日)では、各地の投票所に列をなし、駆け付ける女性たちの姿を伝えている。アイヌの女性たち、大島のあんこたち、託児所まで設置された投票所、和服姿で投票に向かう京都の女性たち・・・。そんな一コマに、高峰秀子の姿も映されていた。
  その選挙結果は党派別で言えば自由141、進歩94、社会93、協同14、共産5、諸派38、無所属81で、女性の立候補者82名中39名が当選したのである。  

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あとは番組を見ての、感想ながら、大学での研究者が何人かが登場したが、多くてやや散漫にはなりはしなかったか。むしろ、資料に密着した人たちの話をもっと聞きたかった。これからは、女性と選挙、女性と政治についての特集番組があってもいいのではないか。とくに、最近の女性候補者にアナウンサー、タレント、コメンテイターなど、ただ名前が売れている人たちが多くなってしまい、でなければ、二世議員が多くなってしまったのは、ほんとに政治が「軽く」なってしまったのではないか、と思わざるを得ない。

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2025年9月25日 (木)

小さな「博物館」だったけれど~身近な人々の戦時遺品が語る

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 開設して二年という佐倉市新臼井田の「平和博物館」を訪ねた。上田美毎・厚子夫妻が自宅近くの持ち家のリビングを展示室として開放している。美毎さんは1941年生まれ、父の辰右衛門さんは、生まれる直前に出征し、1944年8月16日、36歳で戦病死、父親の顔を知らない。1944年生まれの厚子さんの父、高三郎さんは1944年9月16日に28歳でビルマで戦病死した、とされるが、お二人の遺骨は戻ってこなかった。そこで、ご夫妻は、父親の戦地での足跡や最期を見届けたいと、遺品や資料を整理、戦友を訪ねたりしたという。さらに平和遺族会の活動を通じて、地元をはじめ各地から寄せられた遺品や資料を次世代につなげたいと公開することになったのが2023年9月だった。貴重な遺品や資料は紹介しきれないが、とくに印象に残った一部を紹介したい。

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美毎さんの父辰右衛門さん出征の折の地元の俳句仲間から送られた日の丸。「白梨」の号を持ち、俳句をたしなんでいた。「身を忘れ心征野に駈廻る 紫水」「征途いま男の子にぞある夏の雨 花村」「つゆ晴れを召され征く身ぞかがやかさ ふみを」などとある。「祝」の文字が痛ましい。

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左が「死亡通知書」と題され、昭和21年8月26日付で、辰右衛門さんは、昭和19年8月16日、西部ニューギニアの「サルミ」で戦病死されたことが記されている。あて先は、戸主の父親、田島與吉さん。右は「遺骨引渡案内書」で昭和21年9月13日付で、10月3日から増上寺で引き渡されるとの案内である。文書は「東京地方世話部長名」で、当時、「東京地方世話部」という部局があって陸軍人事資料を管理していたらしい。

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ニューギニアで戦った部隊編成は、わたくしにはよくわからないけれども、「野戦高射砲五十三大隊本部編成表(昭和19年3月調整)によると、辰右衛門さんは「観測係」の「観視班」で三角△が付されているので、戦病死であったとされている。黒丸が戦死・戦傷死、〇がその他で、無印が帰還された者とされている千葉県佐倉で編成された歩兵第221連隊。西部ニューギニアで、総員3300人の9割が死亡。その大半は敵と戦うことなく、飢えや病で命を落とした。全体では、約20万人のかたがたがなくなっていることも初めて知った。(「西部ニューギニア 見捨てられた戦場~千葉県佐倉歩兵221連隊」『NHKシリーズ証言記録・兵士たちの戦争』)

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一年志願制度において、青年学校修了者と師範学校卒業の教師は、半年を免除され、短期に除隊することができたとする。除隊記念のお盆には、「軽き身に重き務をつつがなく果して帰る今日の嬉しさ」(?)「國の光」と書かれている。除隊のうれしさがにじみ出ているではないか。「歩兵五十七連隊」は佐倉城址を駐屯地としていた。

   美毎さんは東京豊島区千早町で、厚子さんは、渋谷で空襲の被害に遭っている。私の生家は池袋一丁目なのだが、私は母や次兄と千葉県佐原に疎開していたので、1945年4月13日夜から14日未明の城北大空襲は、直接には体験はしていない。父や長兄から、その様子を聞くのみだった。目の前で家は焼かれ、焼夷弾に追われるように、逃げ惑い、川越街道を知り合いの農家へとひたすら走ったという話は聞いている。父は、3月10日の東京大空襲の後も、池袋には立教大学があるから、絶対空襲にはならないだろうと、店を続けていた、というのである。私は、敗戦の翌年、疎開先の小学校に入学したが、間もなく、父が焼け跡にバラックを建てたというので、池袋の小学校に転校している。校舎は焼けてなく、川越街道沿いの重林寺の本堂が教室であった。

  上田美毎さんの千早町の家は、物置だけが焼けて、家は焼け残ったから、何とか暮らしていけたとも語っていた。一つちがいの美毎さんとは、戦後間まもない池袋西口の闇市や駅前「へびや」や「のとや」などの共通の話題は尽きなかった。

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散歩の途中、生け垣に面白い実を見つけた。イヌマキらしい。

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2025年9月22日 (月)

『二十四の瞳』を見た~何年前のことだったか。

 

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 映画サークルの上映会、今月は『二十四の瞳』(木下恵介監督 1954年)だった。たしかに一度はすでに見ている70年以上前の作品だ。私が覚えているシーンといえば、しばらく学校を休んでいた高峰秀子の大石先生を家まで訪ねることになる、一年生の子どもたち、はじめは元気だったが、歩いても歩いてもなかなかたどり着かず、やがて心細さで泣きながら、それでも歩き続ける場面、六年生の修学旅行で小豆島から琴平に向かう船と大石先生の夫が機関士を務める観光船とすれ違う場面くらいだった。1928年(昭和3年)から敗戦の翌年1946年まで、戦争の時代に翻弄されながら生き抜いてきた大石先生と教え子の物語である。

 まず、2時間半以上の大作であることに驚き、通して流れる数々の童謡やそのメロディー、それだけでも懐かしさに目が潤んできそうになることだった。たしかに、今から思うと、やや過剰な、冗長に思える場面もあったのだが。

 18年間に及ぶ物語だから、1年生、6年生の子役は、3000組の兄弟、姉妹の中から選ばれた12組だったという。そして、成人してからは、小林とし子、井川邦子、月丘夢路、田村高広・・・の顔を思い出す。そして何より懐かしかったのが、笠智衆、浦辺粂子、夏川静江、清川虹子、浪花千恵子、小林十九二等のわき役陣だった。大石先生の旦那さんの天本英世のホントに若いころ、デビュー作?だったか、端正な顔立ちの青年だったのだ。「平成教育委員会」当時の天本の姿は、チラ見ながら不思議な役回りだったことも思い出す。

 いったい私は、この映画をいつ見たのか。かつての映画手帳のメモをもとに、表にしたものを、このブログでも掲載したことがある。

・忘れてはいけない、覚えているうちに(8)1950年代の映画日記が
(2023年1月5日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2023/01/post-13eecb.html

Img5371955拡大してみてください。
 最上段1955年の1月4日、エビス本庄で3本、「青い麦」「恐怖の報酬」「二十四の瞳」を見ていることになっている。3本立にしては妙な組み合わせである。
中学3年のお正月、まさに高校入試の直前である。渋谷までよく出かけたものである。下記の「消えた映画館の記憶」によれば、池袋には30館以上の映画館があったのに。私が足を踏み入れた映画館にはマーカーをしてみた。

【豊島区】34
テアトル池袋(池袋1-721)、テアトルダイヤ(池袋1-721)、日勝映画劇場(池袋1-743)、池袋新東宝(池袋1-743)、池袋松竹劇場(池袋1-743)、池袋地下劇場(池袋1-743)、池袋東急劇場(池袋1-750)、池袋大映劇場(池袋1-773)、池袋大映名画座(池袋1-773)、池袋東映(池袋1-780)、池袋名画座(池袋1-780)、池袋劇場(池袋1-781)、池袋東宝劇場(池袋1-781)、池袋ピース座(池袋2-871)、池袋日本館(池袋2-914)、池袋世界館(池袋2-914)、シネマ・ロサ(池袋2-1165)、シネマ・セレサ(池袋2-1165)、シネマ・リリオ(池袋2-1165)、池袋エトアール(池袋2-1166)、池袋地球座(雑司ヶ谷5-700)、池袋山手映画劇場(雑司ヶ谷5-703)、北池袋北映座(堀之内182)、駒込ロマン座(駒込3-3)、スガモ・シネマ(巣鴨2-4)、巣鴨映画劇場(巣鴨2-41)、巣鴨オリンピア劇場(巣鴨3-22)、シネマ庚申塚(巣鴨5-1008)、大塚鈴本キネマ(西巣鴨2-2022)、大塚ヒロキ映画劇場(西巣鴨2-2080)、白鳥座(目白町1-1116)、目白映画劇場(椎名町3-2031)、長崎映画劇場(椎名町7-3858)、平和シネマ(椎名町7-3864

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2025年9月15日 (月)

初めて「敬老の日」らしい?一日でした。

 これまで、「敬老の日」などあまり意識することなく過ごしてきたが、ここ施設ではさすがに、そんなわけにはいかなかった。といっても、とくに誰かがうやまってくれたわけではない。

 午後からは、ホールで、ジャズコンサートが開催された。アルトサックス奏者佐藤洋祐さんと野本晴美さんのピアノ演奏であった。佐藤さんは、大学時代は札幌が活動の場で、2008年に渡米、15年帰国まで活動、グラミー賞ベストジャズ・ボーカル・アルバムの年間賞を2回も受賞したそうだ。いまは、千葉県佐倉市を根拠地に、県内はじめ日本各地、海外でも演奏を展開されているという。野本さんは、芸大の作曲科出身だがジャズピアノでは、定評があり、佐藤さんと組んでの演奏も多いらしい。

 ジャズたるもの、私にはなじみがなく、作曲者の名前も覚束ないが、オープニングは「A列車で行こうよ」という曲だったらしい。ちょうど私が生まれた頃に発表された曲だったことがわかった。続いて、映画「ひまわり」(1970年)のヘンリー・マンシーニのテーマであり、映画「ティファニーで朝食を」(1962年)でオードリー・ヘプバーンがうたった「ムーン・リバー」だった。ロシアのウクライナ侵攻で、話題になった「ひまわり」だったが、残念ながら、私はこの映画を見ていない。何とも、もの悲しいメローディで、サックスがこんなにも透明感の高い音色が出せる楽器と、初めて知った。

 グレンミラー楽団の「ムーライト・セレナーデ」、「茶色の小びん」など3曲、さらに、映画「世界残酷物語」のテーマ「モア」と続いた。映画の方は、1962年公開当時、どこかキワモノめいて見ていなかったが、オルトラーニの曲は、さまざまな楽器で、主題曲は、シナトラはじめ多くの歌手によりカバーされているというのだ。知らなかった!

 日本のものもやりますよ、ということで「蘇州夜曲」(李香蘭主演『支那の夜』主題歌、西城八十作詞、服部良一作曲。1942年)など、そして最後は、「川の流れのように」(秋元康作詞、見岳章作曲、1989年)であった。このレコードの発売は、1989年1月、美空ひばりが亡くなったのは6月だったので、最後の曲だったわけである。さらに、この曲は、施設で週3回実施している、ストレッチ・筋トレ体操教室のクールダウン「ひばり体操」の曲でもあったのである。

 10曲以上にも及んだ楽しい一時間は、あっという間に過ぎた。そして、夕食は、敬老の日特別メニューの「松花堂弁当」であった。レストランは混んでもいたので、部屋に持ち帰って、ワインとともに。ごちそうさまでした。

 明日で、施設内の歌会も三回目になった。それも楽しみにしているところ。

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中庭の柿の木、青い実を沢山つけていた。猛暑で、変形した実も多いと聞くが、ここでは無事のようだった。

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2025年9月10日 (水)

9月6日、皇族の成年式、めでたいのはだれ?!皇室報道はこれでよいのか

 「十日の菊」と言われるかもしれないが、秋篠宮家長男の成年式についての感想である。

 9月6日、秋篠宮家長男の成年式というのが、おこなわれた。18歳のときは、受験期と重なったので一年後の誕生日に執り行われたという。よそ様の家の祝いごとに、あれこれ言うつもりはない。しかし、ことは、宮家の話である。一連の行事は国費で行われたし、それらの行事は、すべて、宗教的儀式の一環であったからである。

 私は、大嘗祭の違憲性についても、当ブログで、上記二つの問題点を中心に調べもし、即位礼・大嘗祭違憲訴訟の控訴審、東京高裁での陳述でも指摘したところである。 

・生まれて初めて法廷に立った! 即位礼・大嘗祭はなぜ違憲なのか(2024年11月13日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2024/11/post-2e11f6.html

・大嘗祭違憲訴訟の東京高裁での陳述書が掲載されました(2024年12月22日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2024/12/post-0daf4b.html

  マス・メデイアはまったくと言っていいほど、今回の私的宗教的行事に国費を使っていることの違法性に触れることなく、スルーしているとしか思えなかった。それどころか、成年式の当日の社説で産経新聞は「悠仁親王殿下 挙って成年式を寿ぎたい 政府報告書の継承策実現を」、読売新聞は「悠仁さま成年式 新たな門出をお祝いしたい」とことごとしく論じた。読売新聞では、多くの写真入りで、現天皇、秋篠宮の成年式を振り返る形での解説記事「悠仁さま成年式 40年ぶりの皇室行事、注目ポイントは?」を9月5日のデジタルで報じている。手元にある朝日新聞は、9月7日、成年式報道とともに「悠仁さま成年式」特集で全面を使い、19年間の歩み、儀式の写真、一連の儀式・行事の際の服装まで、絵入りで解説するという丁寧さであった。しかも、各儀式・行事の「公的行事」「私的行事」の別まで記してある。

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  成年式当日には、テレビも含め多くのメディアによって「晴れやかに、おごそかに」という常套句とともに、日の丸の小旗を持った人たちの感激のことばを街の声として、その慶事は報道された。

 ところが、上記朝日新聞の記事中にある「公的行事」というのが、私には、大いに気になるところであった。そもそも、皇族男子の「成年式」そのものの法的根拠はなにもない。戦前には、1909年(明治43年)2月11日に皇室令4号として発布された「皇室成年式令」があったが、1947年5月2日に「登極令」などと一緒に廃止されている。
 したがって、敗戦後の平成、令和の天皇、秋篠宮の成年式は、もっぱら「慣例」ということで、それも廃止された「皇室成年式令」にしたがって実施されてきたにすぎない。独特の神道的とでもいうか宗教色の濃厚な儀式でありながら、参列の皇族たちはみな洋装であるという、奇妙なドレスコードだけを見ても、どこか滑稽にも見えてくる。未成年皇族の装束の袍の6mもある後身?は何の由来があるのか、など不思議に思いながら「加冠の儀」の中継を見ていた。

 上記、朝日新聞の記事による「公的」「私的」の判別の基準は何なのか。記事によれば、6日に行われた「冠を賜うの儀」「加冠の儀」「朝見の儀」が「公的行事」であり、宮中三殿拝礼、勲章親授、御礼言上、宮内庁長官らからの祝賀、上皇夫妻への挨拶、内宴(帝国ホテル)は「私的行事」になっている。それに続く、8日伊勢神宮参拝、神武天皇陵参拝、9日昭和天皇陵参拝は「私的行事」、10日「三権の長らを招いての午餐」は「公的行事」となっている。

 宮内庁関係の予算には、皇室費と宮内庁の運営・人件費などにかかる宮内庁費がある。皇室費がさらに、内廷費(上皇・天皇・内廷関係)、皇族費(各宮家の手元金)、宮廷費(儀式、国賓・公賓等の接遇、行幸啓、外国ご訪問など皇室の公的ご活動等に必要な経費など)と分かれているので、判断の基準として、経費の出所の違いなのだろうか。たとえば、帝国ホテルでの宴会は、秋篠宮家への支給分から出ているということだろうか。宮廷費以外は、宮内庁経理の公金ではないとされているので、支出の詳細は公表されていないが、国費であることには変わりはない。今回、成人になることによって皇族一人当たりに支給される額が305万円から915万円になったことが話題になっているが、この皇族費とは別に、皇嗣である秋篠宮家には、一般宮家への定額3050万円の3倍にすることを先般の代替わりの際に成立した「天皇の退位等に関する皇室典範特例法附則第6条」で決められている。

<参考>
皇族費の各宮家別内訳(令和7年度)
https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/kunaicho/pdf/kouzokuhi.pdf

宮内庁令和7年度予算概要
https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/kunaicho/pdf/r07-01.pdf

  というわけで、公的・私的行事と分けたところであまり意味がなく、限りなく宗教的儀式の近い行事をふくむ「成年式」関連行事を国費ですること自体への疑問は大きい。百歩譲って、どうしても実施するというのならば、現状に在っては、皇族費の中で、簡素に行うべきではないか。
 今回の成年式を境に、成人皇族としての「公務」が増していくと、報じられるが、その「公務」とて、法的根拠はまったくないもので、ほとんどが、「宮廷費」での支出になることだろう。平成期の明仁・美智子天皇夫妻が、拡大してきた「公的行為」なるものを公式化、定例化、恒久化することに必死になっているのが、いまの宮内庁や天皇家はじめ宮家であるかのように思える。

 宮内庁も情報発信に熱意を示す。たとえば、インスタグラムで、今回の秋篠宮家の長男の近況を知らせる動画などは、垣間見ただけでも、わざとらしくて、どこか気の毒にも見えた。それに、マス・メディアは、写真一つをとっても、「宮内庁提供」「代表撮影」なるものが多く、取材の自由があるのかと思うし、訪問先での「お手振り」、日の丸を持っての歓迎ぶり、関係者や周囲への「お声かけ」といったシナリオ通りの動向をワンパターンで報じているに過ぎないのを目の当たりにすると、情けなくもなる。日本の皇室には女性差別があるなどと言っている場合ではない。もっと根本的な、日本にとっての天皇制とは何であったのか、未来にわたって必要なのかという問題提起がなされるべきではないかと思うことしきりである。

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2025年9月 3日 (水)

今どきの中学生が出会う短歌~国語教科書に登場の歌人たち、その作品は(3)

 各社の中学校国語の二年生の教科書を中心に調査した結果であり、わかる範囲で、一年・二年生教科書にも触れている。二年生教科書の短歌の収録状況は以下の手順で示している。短歌作品の作者は、作品に続いて(  )で示し、さらに、前回2016年版の収録教科書の調査結果を(  )内で示している。さらに⇒によって、2025年版の収録 結果を、三省堂、教育出版、光村、東京書籍の順で収録状況を記した。新しく収録したものは緑のマーカーで示している。ややわかりにくい整理になってしまったが、お気づきの点は、よろしくご教示くださるようお願いする次第です。

 東京書籍『新編新しい国語2』

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 全体で8単元に分かれているが、各単元の扉の一頁に、目次とつぎの短歌一首とそれをイメージする写真が載せられている。表紙裏の谷川俊太郎の詩「未来へ」の裏に「扉の短歌八首」として、一頁にまとめられている。この頁の写真は小さいが、扉では、半分くらい占める。歌のイメージとしては分かり易い写真か(前半4首が上段、右から、後半4首が下段)

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1.桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命をかけてわが眺めたり(東書)⇒東京書籍

2.さみしくて見にきたひとの気持ちなど海はしつこく尋ねはしない(杉崎恒夫)⇒東京書籍*新

3.よく晴れた夏をゆったり曲がってくバスすみずみまで蝉の声(岡野大嗣)⇒東京書籍しん*新

4.幸福と呼ばれるものの輪郭よ君の自転車のきれいなターン(服部真理子)⇒東京書籍しん*新

5.距離を置く作戦実行中ですが月がきれいで話がしたい(千原こはぎ)⇒東京書籍しん*新

6.君待つと我が恋ひをれば我がやどの簾動かし秋の風吹く(額田王)(⇒東京書籍三年生)

7.ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちくる涙は(穂村弘)(東書)⇒東京書籍

8.卒業生の最後の一人が門を出て二歩バックしてまた出ていった(千葉聡)(東書)⇒東京書籍

 
 道浦母都子「短歌を楽しむ」は、書下ろしの短文であるがつぎの三首を鑑賞している。編集者の意向もあったのだろうが、書き手自身の作品が登場していない。その方が説得力があるように思うのだが、これまでの三省堂の俵、教育出版の穂村、光村の栗木での鑑賞文では、自作を登場させているが、なんだかなと、どこか抵抗があったのであるが。
   

・金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に(東書)⇒東京書籍

・海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり(東書・光村)⇒光村、東京書籍

・観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生(東書・学図・三省堂・教育・光村) ⇒三省堂・教育・光村、東京書籍     

  次の五首のうち、茂吉の晩年の作品以外の子規、牧水、啄木の作品が全四社、上記エッセイに登場した、栗木の全四社、俵の「寒いね」の三社収録作品は、いわゆる「教科書短歌」の定番ともいえよう。茂吉と晶子は、収録作品が一首に集中しないところがさすがと興味深い。

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「短歌五首」

・くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる(正岡子規)(学図・東書・三省堂・光村)⇒三省堂・教育・光  村、東京書籍

・最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片(斉藤茂吉)(東書)⇒東京書籍

・白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ(若山牧水)(東書・三省堂・教育・光村)⇒三省堂、教育、光村、東京書籍

・不来方のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心(石川啄木)(東書・学図・三省堂・光村)⇒三省堂、教育、光村、東京書籍

・「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ(俵万智)(東書・三省堂・教育)⇒三省堂、光村、東京書籍

  なお、単元8「描写を味わう」で、これも定番の太宰治「走れメロス」に続いて「短歌から始まる物語」と題する章があって、「物語を創作するための出発点として、詩歌や絵画などの作品から想像を広げていくやり方がある」として、気に入った短歌一首から想像を膨らませて、短歌の要素を整理して「物語を創作しよう」というものである。現代の生徒たちにどのように受け止められているのか、知りたいと思った。

 2016年版と比べて、気になったことの一つに、2025年版の教育出版の3年生の教科書に、佐佐木幸綱「古典の歌、現代の歌」が見当たらなかったことである。そこには、正田篠枝(1910~1965)と竹山広(1920~2010)のそれぞれ広島と長崎の被爆者歌人の作品が掲載されていたのである。

・太き骨は先生ならむそのそばに小さきあたまの骨あつまれり(正田篠枝) 

・死屍いくつうち越こし見て瓦礫より立つ陽炎に入りてゆきたり(竹山広)

 正田の短歌は、今年の8月6日、広島の平和記念式典での挨拶の折、最後に引用されたことで、話題になった。1947年12月にGHQの検閲厳しい中、発行された私家版『さんげ』からの一首である。後、平凡社から出版された『耳鳴り 原爆歌人の手記)』(1962年11月)の中に収録された。1971年平和公園内の「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」に刻まれている。アメリカの核の傘の下、核保有国と持たない国との橋渡しをするとか、核兵器禁止条約締結国会議にオブザーバーとしての参加にも慎重な石破首相に引用された正田さんはあの世でどんな思いで聞いただろう。竹山さんの「核兵器廃絶を見ずわれは死なむその兆しさへ見るなくて死ぬ(『空の空』 )の悔しさも、若い人たちにはぜひ伝えたいものである。

 それにしても、「短歌甲子園」などの入選作などを見ていると、これまで見てきたような、収録数が多い歌人、収録が集中している短歌作品との乖離が大きく、もはや「古典」の部類になっているのではないか、と思ってしまう。そして、いまの短歌ブームを支えている世代のあまりにも細部の気づきだったり、ただただ難解だったり、性愛にこだわっていたりする短歌に出会うと、私は、戸惑ってしまうことも多い。自分が詠んできた短歌って何だったのだろうと、脱力感が大きい昨今である。

 



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