小さな「博物館」だったけれど~身近な人々の戦時遺品が語る
開設して二年という佐倉市新臼井田の「平和博物館」を訪ねた。上田美毎・厚子夫妻が自宅近くの持ち家のリビングを展示室として開放している。美毎さんは1941年生まれ、父の辰右衛門さんは、生まれる直前に出征し、1944年8月16日、36歳で戦病死、父親の顔を知らない。1944年生まれの厚子さんの父、高三郎さんは1944年9月16日に28歳でビルマで戦病死した、とされるが、お二人の遺骨は戻ってこなかった。そこで、ご夫妻は、父親の戦地での足跡や最期を見届けたいと、遺品や資料を整理、戦友を訪ねたりしたという。さらに平和遺族会の活動を通じて、地元をはじめ各地から寄せられた遺品や資料を次世代につなげたいと公開することになったのが2023年9月だった。貴重な遺品や資料は紹介しきれないが、とくに印象に残った一部を紹介したい。

美毎さんの父辰右衛門さん出征の折の地元の俳句仲間から送られた日の丸。「白梨」の号を持ち、俳句をたしなんでいた。「身を忘れ心征野に駈廻る 紫水」「征途いま男の子にぞある夏の雨 花村」「つゆ晴れを召され征く身ぞかがやかさ ふみを」などとある。「祝」の文字が痛ましい。
左が「死亡通知書」と題され、昭和21年8月26日付で、辰右衛門さんは、昭和19年8月16日、西部ニューギニアの「サルミ」で戦病死されたことが記されている。あて先は、戸主の父親、田島與吉さん。右は「遺骨引渡案内書」で昭和21年9月13日付で、10月3日から増上寺で引き渡されるとの案内である。文書は「東京地方世話部長名」で、当時、「東京地方世話部」という部局があって陸軍人事資料を管理していたらしい。
ニューギニアで戦った部隊編成は、わたくしにはよくわからないけれども、「野戦高射砲五十三大隊本部編成表(昭和19年3月調整)によると、辰右衛門さんは「観測係」の「観視班」で三角△が付されているので、戦病死であったとされている。黒丸●が戦死・戦傷死、〇がその他で、無印が帰還された者とされている。千葉県佐倉で編成された歩兵第221連隊。西部ニューギニアで、総員3300人の9割が死亡。その大半は敵と戦うことなく、飢えや病で命を落とした。全体では、約20万人のかたがたがなくなっていることも初めて知った。(「西部ニューギニア 見捨てられた戦場~千葉県佐倉歩兵221連隊」『NHKシリーズ証言記録・兵士たちの戦争』)

一年志願制度において、青年学校修了者と師範学校卒業の教師は、半年を免除され、短期に除隊することができたとする。除隊記念のお盆には、「軽き身に重き務をつつがなく果して帰る今日の嬉しさ」(?)「國の光」と書かれている。除隊のうれしさがにじみ出ているではないか。「歩兵五十七連隊」は佐倉城址を駐屯地としていた。
美毎さんは東京豊島区千早町で、厚子さんは、渋谷で空襲の被害に遭っている。私の生家は池袋一丁目なのだが、私は母や次兄と千葉県佐原に疎開していたので、1945年4月13日夜から14日未明の城北大空襲は、直接には体験はしていない。父や長兄から、その様子を聞くのみだった。目の前で家は焼かれ、焼夷弾に追われるように、逃げ惑い、川越街道を知り合いの農家へとひたすら走ったという話は聞いている。父は、3月10日の東京大空襲の後も、池袋には立教大学があるから、絶対空襲にはならないだろうと、店を続けていた、というのである。私は、敗戦の翌年、疎開先の小学校に入学したが、間もなく、父が焼け跡にバラックを建てたというので、池袋の小学校に転校している。校舎は焼けてなく、川越街道沿いの重林寺の本堂が教室であった。
上田美毎さんの千早町の家は、物置だけが焼けて、家は焼け残ったから、何とか暮らしていけたとも語っていた。一つちがいの美毎さんとは、戦後間まもない池袋西口の闇市や駅前「へびや」や「のとや」などの共通の話題は尽きなかった。
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