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2025年10月27日 (月)

「黒川の女たち」、20席の小劇場で見る

 田端のシネマ・チュプキという、小さな劇場、予約しないと観られないという。駅からJR東日本の長いビルに沿って坂を下り、仲通り商店街を目指す。途中、通りがかりの方が、業務用スーパーの隣にありますよとの案内の通り、たしかにそれはあった。

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 たしかテレビ朝日の番組や新聞記事で、おおよそのことを知っていたつもりでいたが、映画は、太平洋戦争敗戦直前、関東軍敗走の地に取り残された満蒙開拓団の若き女性たちが背負った過酷な運命を、高齢になった当事者たちの証言や活動、それを支える人たちを丹念に追ったドキュメンタリーだった。

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 1939年11月、決して豊かとはいえなかった岐阜県加茂郡黒川村の人たちが、開拓団への分村を目指し、まず視察に赴き、以降1941年から44年にわたって、ハルピンの南、吉林省陶頼昭に入植、650人を超えた。開拓自体も青壮年層の男子は徴兵され、女性や高齢者による重労働を伴うものだった。ところが、敗戦直前、ソ連の参戦によって、ソ連軍は満州国に侵攻、黒川開拓村にも迫ると関東軍は、村民を置き去りに敗走した。中国人からの襲撃、近隣開拓民の集団自決がなされる中で、村民の安全と暮らし=食料確保のためということで、1945年9月、村民幹部は、ソ連軍への「性接待」を始めたのである。その犠牲になったのが、未婚の十代、18歳以上の女性たち15人であった。1946年5月ソ連軍撤退まで続き、15人の内4人は、現地で性病などにより命を落としたのであった。この事実は、敗戦後生還した451人の村民の間では隠蔽され、その上、犠牲となった女性たちには、こころない仕打ちがなされ、村を追われるように散り散りなっていった。

 1961年になって、現地で亡くなった開拓団員を偲んで、黒川村に「招魂碑」が建てられ、1981年、開拓団の体験記『ああ陶頼昭』が遺族会により刊行され、翌1982年には「乙女の碑」が黒川村に建てられたが、「性接待」の事実は公にされることはなかった。

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『告白 岐阜・黒川満蒙開拓団73年の記録』の年表より。

 女性たちの長い苦難の歴史が動きだしたのは、2013年、長野県下伊那郡阿智村に満蒙開拓平和記念館がオープンし、館主催の語り部の会で、佐藤ハルエさんと安江善子さんの二人が、犠牲の当事者として初めて、事実を語り始めたことだった。家族にも語ることをしなかった他の女性たちを含めて、連絡を取り合っていた絆は強く、二人の勇気ある告知に、語り始める人、そして彼女らを支える開拓団の女性たち、遺族会会長、さらには、彼女らの子どもや孫たちにも支えられ、語り継ぎ、書き継ぐことによってメディアにも注目され始めたのであった。そして、それらの活動の成果として、「乙女の碑」の傍らに長文の記録と証言によって構成された「碑文」が設置、除幕されたのが2018年11月18日だったのである。


 関東軍によって傀儡国家満州国が建設され、軍事拠点化を図るための食糧増産の目的で大量の開拓民を必要とされ、疲弊した農村救済のためと相俟って、500万人の開拓民が送られたていた。黒川開拓団もその一つであったのだが、敗戦間際、ソ連軍の侵攻が迫ると、関東軍は開拓民を守るどころか、従軍慰安婦とともに逃げ去ったという。それまで虐げられてきた中国人の報復と侵攻してきたソ連軍の間に孤立した開拓団幹部の生き残り策が、未婚女性による「性接待」であったという事実にも、いたたまれない思いがするのだが、日本に帰還後の彼女らのたどる長い苦しい過酷な道のりがあった。戦争の悪と女性蔑視という二重の犠牲を背負いながら、史実に立ち向かった勇気ある活動に敬意を表さずにはいられなかった。

 この映画が、テレビ朝日製作、プロデューサー江口英明・松原文枝、監督松原文枝ほか、50代から、より若いスタッフによって製作されていることを心強く思った次第である。

参考映像
NHKETV特集「満蒙開拓団の女たち」(2017年8月5日)【未見】
テレビ朝日報道ステーション特集「語り継ぐ戦争と性暴力『黒川開拓団の』女性たちの告白」(2019年8月16日)
テレビ朝日「史実を刻む―語り継ぐ戦争と性暴力」(2019年8月24日)

参考資料
川 恵美、NHKETV特集取材班『告白 岐阜・黒川 満蒙開拓団73年の記録』(かもがわ出版 (2020年3月31日)
『黒川の女たち』公式パンフレット(太秦KK 2025年7月12日)
松原文枝『刻印 黒川開拓団の女性たち』(KADOKAWA 2025年8月26日)【未見】

 

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2025年10月26日 (日)

「戦場のピアニスト」ふたたび

   初めて見るような「戦場のピアニスト」だった。2003年、封切り時に、地元の映画館で見たはずだった。今回NHKBSで見ることができた。

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 ドイツナチスのポーランド侵攻で廃墟となったワルシャワの街、崩れた建物に潜んでいたユダヤ人ピアニストの主人公がドイツ将校に見つかり、奇跡的に残されたピアノを弾く場面だけは、覚えていた。でも、イギリス軍やフランス軍の反撃が近いというニュースを聞くも、身に迫るナチスの脅威、残虐な仕打ちに対する両親、弟、妹たちの微妙に異なる恐怖心や心理状態が描かれていたことなどは、あらためて感じ入ったところだった。また、収容所送りとなった家族たちと引き裂かれた後、ピアニストは、ゲットーにピストルなどの秘密裏に持ち込むユダヤ人蜂起の準備にも加担、ゲットー脱出に成功、反ナチスの地下活動をする同志たちのさまざまな支援を受けながら、転々とした逃亡生活に入る。ゲットー蜂起も完全に鎮圧され、ナチスの殺戮を目の当たりにする。同志の支援も断たれ、飢餓に陥り、残骸の中をさまよう場面で、前述のドイツ将校に出遭う場面になるのだった。自らもピアノをたしなむ将校は、ピアニストの演奏に感服、その場を立ち去るが、その後、幾たびか、廃墟の隠れ家に食料を差し入れ、ワルシャワ解放のソ連軍もまじかと別れを告げに来る。

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 数年ぶりに、瓦礫の中のピアノに向かうシュピルマン。ピアノの左に置かれている缶詰は、瓦礫の中をさまよい、ある台所の戸棚に残っていた缶詰、缶切りがなく、開けられないまま抱え歩いてきたものだった。

  ソ連による解放後のポーランドで、ピアニストは音楽活動を続けるのだが、エンドロールで、ピアニストのシュピルマンが2000年に88歳で死去したこと、ドイツ人将校のホーゼンフェルトが1952年にソ連の強制収容所で死去したことが示されるのであった。
 監督のポランスキーは、「水の中のナイフ」で知られる奇才とされていたが、みずからもユダヤ系であり、ナチス占領下でゲットーでの過酷な暮らし、収容所行きを逃れたものの転々とし、母は収容所で殺された体験をしている。ピアニストを演じたアメリカの俳優エイドリアン・ブロディの父は、ポーランド系ユダヤ人で、ホロコーストで家族を失った身。母は少女時代、ハンガリー動乱によって、アメリカに逃れてきた難民だったという。フランス、イギリス、アメリカとドイツ、ポーランドの合作で、スタッフ・キャストらの熱量が感じられる作品に思えた。各場面で奏せられるショパンの曲は、音楽に疎い私には、どこかで聞いたような曲といったレベルで曲名も知らなかったのだが、作品を盛り上げていたと思う。

  ただ、ポランスキー監督は1977年の、アメリカでの少女強姦事件により、アメリカより逃亡中であって、アカデミー賞の授賞式には立つことができなかった、という。「戦場のピアニスト」の評価と彼の倫理観を考えると複雑なものがある。
 さらに、多くの犠牲者を出したユダヤ人によって建国されたイスラエルのガザへの容赦ない爆撃によって瓦礫の街となったリアルな映像とナチスによって廃墟と化したワルシャワの街のシーンは重なる。戦争による破壊と殺戮の絶えない世界で、日本が、自分たちがなすべきことの重要性が問われるのだった。

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2025年10月19日 (日)

思い出のキャンパス、学習院大学

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小雨のなか、左は輔仁会館、正面に西五号館を望む。2025年10月16日撮影。

 「貞明皇后と華族」展の開場は10時、目白には早めに着いたので、小雨の中、キャンパスの一部をまわった。私の最初の職場が目白の学習院大学だったのだ。卒業間際、学習院から非常勤で出講されていた先生と指導教授の勧めで、ようやくもらった内定を蹴って? 研究室勤務の「助手」になった。1964年の政経学部から法学部と経済学部への分立を目指しての「助手」の数合わせの一員ということで、5人が採用された。研究室の雑用係とでもいうか、お茶出し、電話取次、昼食の出前注文、複写、資料作り、校正手伝い・・・などなど。最初の一年は、著名な先生たちの研究室の暮らしに直に触れられるのが楽しかった。私たちの「共同研究室」北一号の2階からは、できたばかりのピラミッド校舎も見えた。北側には、木造の北別館が残っていて、アプローチの階段も木製で、靴の音が気になる、木の床が光っているような印象だった。新しい中央図書館もできたが、先生方が、実際によく利用されていたのは、北一号館の1階にあった政経学部の図書館だったと思う。かつての輔仁会館には簡単な食堂と蓁々会の売店があったか。1964年4月、政経学部から法学部が独立した。しかし、その仕事は一生続けられるものではないことはわかっていたのに「なぜ」の思いに苛まれ、新卒でもない女子の採用は難しく、公務員試験に備えるしかなかった。

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左、1964年5月撮影、新図書館屋上より今はなきピラミッド校舎を望む。右、1965年3月撮影、退職を控えて、北別館を望む。手前のスズカケは大正13年に植えたとのメモ書きが。

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在職していた頃の学習院年表、ミュージアムの常設展より。

 すっかり様変わりしていたキャンパスだった。北一号館こそ残っていたが、キャンパス内には、高層ビルが立ち並び、体育館も輔仁会館も新しくなっていて、食堂も広く、セブンイレブンも、紀伊国屋書店も入っていた。

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現在も60年以上前の面影を残す北一号館。2025年10月16日撮影。

 しかし、変わらなかったのは、西門から入ったところのグランドとテニスコート、山手線沿いに残る血洗いの池をめぐる緑地であった。かつては手入れも行き届かず、いまのような遊歩道も整備されていなかった。そして、キャンパスのあちこちには桜の木も多く、建物の間には、高木古木が残されていたことだった。守衛さんからもらったキャンパスマップによれば、都電荒川線学習院下に近い一番奥にある馬場やプールは、そのままのようだったし、職員宿舎の辺りはテニスコートになっているらしい。

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血洗いの池の遊歩道は整備されていたが、足元には銀杏や木の実がいっぱい。2025年10月16日撮影。

あらためて、もう一度、ゆっくり回りたいものだと思っている。

<おまけ、貴重な写真?>

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1964年2月、弓道場の前で、NHKドラマ「虹の設計」のロケで来ていた佐田啓二と。事務局の人も一緒に、撮ってもらった。「あなた方は、勤務時間中に何をしているのですか」と労働法のM先生にきつく叱られた思い出の一枚。

<おまけ、今も届けてけてくださる校友会雑誌、最新号の特集>

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2025年10月18日 (土)

「貞明皇后と華族」展へ~警備が厚かった学習院大学のミュージアム

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   10月16日、学習院大学のミュージアムで開催中の「貞明皇后と華族」展に出かけた。というのも、数年前に、ある論文集に「貞明皇后の短歌の国家的役割―ハンセン病者への「御歌碑」を手がかりに 」(2022年10月)を寄稿しており、近現代の皇室の歴史のなかで、「貞明皇后」(大正天皇皇后節子)への関心を寄せていたからでもある。

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下の写真の懐紙に書かれているのが、後述の千種任子に贈った歌「つたへきて直くたゞしくすぎのもりさかえはしるしよろづ世までも」である。

 小雨のなか、行き着いたミュージアムの入り口付近に、何やら、黒いスーツの男性たちが並んで立っている。入場の折には、リュックの中身を点検された。「どなたかいらっしゃるのですか」と行儀よく?尋ねると、「常陸宮妃殿下・・・」と小声で教えてくれた。ときをおかず、総勢15・6人の人たちに囲まれて、杖をついた華子さんの姿が見えた。狭い展示室は、その人たちでいっぱいになったが、締め出されることはなかった。といっても、なんとなく落ち着かず、正直なところ、好きなようにじっくりとは見ることができなかった。次の予定もあったので、ミュージアムを引きあげたのだった。

 展示は、大正天皇の書「寿」から始まり、天皇、皇后の肖像写真、貞明皇后の洋服や靴やバッグなど遺品と多くは明治神宮、霞会館、宮内庁宮内公文書館、個人が所蔵する「御歌」の短冊や色紙が多かった。「貞明皇后と華族」と銘打った展示だったが「華族」の影が薄い?展示や資料であった。
 私が興味深く思ったのは、明治天皇に仕えた権典侍(注)、側室の一人の千種任子(1855~1944)に貞明皇后が贈った歌であった。大正時代には、節子皇后に仕える女官になり、大正末期に退任した折に、贈った歌である。

・つたへきて直ぐたゞしくすぎのもりさかえはしるしよろづ世までも

   千種は、1925年12月8日退任後は曇華院(どんげいん)門跡に入るのである。創建は14世紀にさかのぼる臨済宗の尼寺で、代々の住持(住職)は皇女が務めた歴史もある、という。

注 大正天皇が一夫一妻制を実施したため、天皇の側室の役割を持つ権典侍、典侍の制度はなくなり、大正時代は事務女官としての典侍となった。さらに、昭和天皇は、女官制度を廃止したが、節子皇太后についてのみ女官制度を維持した。

 なお、主婦の友社からの『貞明皇后御歌集』には、「大正十四年」のなかに、千種任子に贈った歌としてつぎの一首だけが収められていた。

・わかみどり千年をまつ森山に高きみさをのいろは見えけり

 ところで、きょう、10月18日「朝日新聞」の「秋の京都非公開文化財特別公開」の記事に「継ぐ法灯 漂う宮廷の雅」として、大聖寺、光照院、曇華院の三尼門跡として、紹介されていた。曇華院は、竹御所として知られ、十一面観音や源氏物語の貝合わせなどが特別公開されるとあり、住職千種慈唱さんの名もあった。記事によれば、彼女の祖母の姉の千種任子が先々代の住職だったことになる。

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2025年10月18日朝日新聞(朝刊)より

 

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2025年10月11日 (土)

雑誌の廃刊が続く中で(4)『季論21』の廃刊

  『季論21』は、我が家ではどちらかといえばなじみのある雑誌だった。人文・社会科学系の幅広いテーマを扱っていたので、私は、文学、メディア関係の論説などは拾い読みしていた。まさか自分のところに依頼が来るとは思わなかった。編集長、新船海三郎さんから、新刊書、中村稔『高村光太郎の戦後』(青土社 2019年6月)の書評をとのことだった。私は、19年1月に『斎藤史<朱天>から<うたのゆくへ>の時代』を上梓したばかりで、戦時下の斎藤史と同時代に“活躍”した文学者たちのあり様にも関心があり、高村光太郎もその一人だった.。「光太郎の戦後はどうであったのか」を深く知りたいと思ったので、引き受けることにした。

  『高村光太郎の戦後』を読むほどに、調べるほどに、「書評」という範疇をはみ出してしまい、高村光太郎の戦中・戦後の様相を呈し、かなり長いものになってしまった。できるだけ、詩作品を引用して、具体的に示したつもりで、17頁にもなってしまった。編集長には、申し訳なく、ひたすら感謝するばかりであった。

 その内容は以下の通りとなった。

・「暗愚小伝」は「自省」となり得るのか――中村稔『高村光太郎の戦後』を手掛かりとして (『季論21』46号 2019年9月 本の泉社)
はじめに/蟄居山小屋生活の実態/『高村光太郎の戦後』にみる光太郎の「自省」とは/日本文学報国会の高村光太郎/戦時下の朗読運動の中の高村 光太郎/高村光太郎における試作品の隠ぺいや削除はあったのか / 付表・高村光太郎詩集・選集の出版概要一覧(1914~1966)

 この『季論21』は2008年夏号として創刊、2020年秋号50号をもって廃刊となってしまった。

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『季論21』46号(2019年9月)目次

  上記拙稿は、最初の原稿メモからは詩作品の引用を短くしたり、資料の図を削ったりしているので、発表後、そのメモ様のものを「内野光子のブログ」に何回かに分けて、気ままに余分なことも含めて、連載している。関心のある方はそちらを見ていただければありがたい。

・あらためて、高村光太郎を読んでみた1~9(『内野光子のブログ』2019年9月9日~9月25日)
1教科書の中の光太郎/2食へのこだわり/3「地理の書」の改作と削除/4光太郎の世界地図帳/5民族の「倫理」と「美」と/6戦争詩において天皇はどのようによまれたか/7敗戦後、天皇をどうよんだか/8晩年の「新しい天の火」/9芸術院会員辞退のこと

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佐倉の秋祭りの2日目の10月11日はあいにく肌寒い雨となった。山車もシートをかぶり、人間も雨合羽着用で、印半纏の若い女性に「ご苦労様です」と声を掛けると、「ホント、ヤバイっす、この雨」と顔をぬぐっていた。

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雑誌の廃刊が続く中で(3)『早稲田文学』【第十次】の休刊

  なにしろ、明治24年、1891年10月、東京専門学校(現早稲田大学)の坪内逍遥が主宰となって創刊した『早稲田文学』、伝統ある文芸雑誌である。2017年末、金井美恵子特集への執筆依頼にはいささか戸惑った。金井さんとは、寄稿した拙稿の冒頭にも書いたのだが、現代歌壇を「歌会始」を頂点とする「超大衆的な定型詩歌系巨大言語空間」となしたエッセイがきっかけで、わずかながらの交流があった。(以下敬称略)

  2012年、金井美恵子は「たとへば〈君〉、あるいは、告白、だから、というか、なので、『風流夢譚』で短歌を解毒する」(『深沢七郎 没後25年ちょっと一服、冥途の道草」『KAKADE道の手帖』2012年5月)という長い題名の文章を、深沢七郎特集のムックで発表した。その直後から歌壇時評などで少しざわつき始めていたので、私も読むに至り、歌会始の選者、岡井隆や永田和宏らが本流をなす現代歌壇、現代歌人への鋭い批判であることを知った。私が共感するところも多かったので、押しつけがましいとも思ったが、拙著『天皇の短歌は何を語るのか』を送ったのだった。すると、金井からは、思いがけず、拙著を好意的に紹介しているエッセイ集が届けられ、以降もささやかな交流を続けていたからだろうか、特集号への依頼につながったのだろう。

 私は、金井美恵子の短歌批判に対して、歌壇、歌人はどう対応したかを、文献でたどることにした。「自浄作用が働かない歌壇 金井美恵子の短歌批判に歌人どう応えたか」としてまとめた。『早稲田文学<金井美恵子なんかこわくない>』2018年春号(1027号)に掲載されたのであった。文末には、網羅的ではないけれど、歌壇の反応と思われる文献のリストも付した。

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続きは以下をご覧ください。
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    では、「風流夢譚」が『中央公論』(1960年12月)に発表された当時の歌壇の反応はどうであったのか。1961年2月号の『短歌』で「歌壇月評・問題点をさぐるとして」、近藤芳美『喚声』、上田三四二『金石淳彦論』、リカ・キヨシ『祖国・朝鮮』、深沢七郎「風流夢譚」を対象に、山本成雄、武川忠一、葛原繁、前登志夫の4人が一堂にそれぞれ評するという新しい企画で 、深沢の「風流夢譚」が俎上に上っていた。

    4人の評するところ、いま読んでも、私にはわかりにくいのだが、山本は「作者自身<夢譚>とことわっている通り、ことごとく意表をついた道化ぶりに、いっそうの生彩をあたえるものとして、<型>の文学ともいえる和歌を持ち出しているのであ」り、意図にかかわらず皮肉がただよっていて、短歌に対するパロディ」と評する。武川は、深沢にとって「<和歌>はこの素材以前のものだ。そのような意味での<型>として巧みに採用されているに過ぎない」とし、<和歌>の問題であるよりも「彼自身の和歌に対する認識」の方が興味の対象になる、としている。葛原は「革命、皇室、和歌、風流等に対する庶民の側からの皮肉や風刺を感じはするが、そうした問題提出の前提となる深沢の姿勢」がどうもつかめない、とし、「特に短歌の問題として真面目に『風流夢譚』を取り上げる必要もないし、必要性を僕は感じない」と。前は深沢が「風流と和歌を、皇室というものへ結びつけた発想は、常識的であっても、この着想に興味深いものがある。この小説は読んでいて実におかしかった」が、しかしそれだけだったと。前は「現代の短歌は、もっと風流があっていいと思い、和歌的領域こそ取り組むべきだ」とし、「深沢七郎さんよ、あんたももっともっと短歌を勉強して下さい」と結ぶのだった。
 

 詳しくは、以下のコピーをご覧ください。
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   どうだろう、深沢が意図したであろう「和歌」と「皇室」との関係への問題提起に、誰も応えていないように思えた。そういう意味では、金井への対応とどれほどの差があるのかは検討を要するだろう。

   あらためて、短歌と天皇制の問題となると、歌壇の反応の曖昧さ、鈍さは変わらないように思った。

『早稲田文学』【第十次】は、2007年5月にスタートして、2022年春号をもって休刊となった。戦中・戦後1934年から49年までの【第三次】以後は、休刊しては、復刊することを繰り返して来たので、今後も、近い将来【第十一次】が復刊されることを期待したい、部外者ながら思うのだった。

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佐倉の秋祭りは麻賀多神社の祭礼で、10月10日・11日・12日と続く。周辺24町の山車が出るらしい。

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10月10日の夕方、佐倉囃子の太鼓の音とともに、やって来た「野狐台」の山車。私たちの住まいの住所は鏑木町(かぶらぎまち)だが、野狐台町内会に属している。「やっこだいまち」と読む。

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「野狐台町」の「やっこ」の印半纏と狐のお面をつけての踊りが続く。

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夜には「栄町」の山車もやってきた。

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2025年10月 7日 (火)

雑誌の廃刊が続く中で(2)『朝日ジャーナル』・『週刊朝日』の廃刊

 『朝日ジャーナル』の創刊は、調べてみると、1959年3月とある。そうだったんだ、とあらためて思い起す。私の学生生活のスタートと重なる。 時を同じくして『少年マガジン』も創刊されている。

 59年3月28日には「安保改定阻止国民会議」が結成され、4月15日から第一次統一行動が始まっている。3月30日には、砂川事件における安保条約による米軍駐留を違憲として基地立ち入りの全員を無罪とする、東京地裁の「伊達判決」が出され、安保反対の集会やデモは勢いづいていた。私自身、大学自治会の呼びかけで集会やデモに参加するようになったのは、いつ頃からだったのだろう。キャンパスでは、『朝日ジャーナル』を小脇に抱えるのが一つのファッションでもあったらしいが、私も、ときどき買っては読んでいた記憶がある。ちなみに、その頃、私の家にはまだテレビはなく、4月10日皇太子明仁・美智子結婚パレードを、母と一緒に近くの知り合いの家へ見せてもらいに出かけている。かなりのノンポリだったんだな、と。

『朝日ジャーナル』は、1992年5月には廃刊になるが、その数年前、1988年12月に、学習院大学の坂本孝治郎さんによる『短歌と天皇制』の書評「<天皇家の私的儀礼>歌会始の政治性」が載った。『朝日新聞』はじめ、多くの新聞や雑誌での書評が歌人や小説家、評論家によるものが多かったことはたしかにありがたかったが、研究書として、批評の対象になったことは、やはりうれしかった。

『週刊朝日』は、2023年5月30日をもって終刊となった。1922年2月に創刊というから、100年も続いていた週刊誌だけに、2023年12月、廃刊の報道には驚いた。その矢先、『週刊朝日』からの取材申し込みがあったのである。記者は、私のブログの図書館関係の記事を読まれていて、シニアとしての図書館の利用について話を聞きたいということだった。

 私の場合は、地元の図書館が所蔵していない図書を、県内の他館から取り寄せてもらうことが多い。また、国立国会図書館や現代詩歌文学館などの遠隔複写サービスを利用して資料を入手する場合も多い。雑誌は、地元の図書館で閲覧する場合が多いが、最近は、予算の関係か、購入中止のケースが多く、残念でならない。とくにシニアの多様な関心や趣味に応えるため「紙」媒体の雑誌は、公共図書館において、もっと大切にしてほしい・・・、などと話したのだった。年が明けて、届いた『週刊朝日』1月25日号には「シニアのニーズに応えサービス多様化 いま図書館が面白い!」という3頁ほど記事となっていて、私の発言の一部も数行ながら収められていた。

 私は『週刊朝日』を購読したことはない。ただ、生家の薬局で、週刊誌のスタンドを置くようになって、1960年代から家を出るまで10年間ほど、週刊誌の返品前だったり、あるいは届いた直後だったり、そっと汚さないように、二十種類以上の週刊誌を「通覧」していた時期があった。スキャンダル、芸能人ゴシップ、皇室ネタにはかなり詳しくなってしまった。

上記『週刊朝日』の記事を読んだという、図書館時代の友人から電話があった。彼女は、家で『週刊朝日』を購読していたので、子どものころから読んでいて、現在までずっと購読していたというのだ。そのような愛読者がいたというのに。1958年には153万部、1977年には48万部、2022年には7.4万部になっていたというのだから、驚くとともに、仕方ないのかと。

『週刊朝日』とは最初で最後のかかわりであった。

<過去記事参照>
『週刊朝日』が5月に終刊、なんとこのタイミングで!(2023年1月19日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2023/01/post-86e7d6.html

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色づきはじめた柿、例年より早いの、遅いのか。各地の紅葉は例年より遅いとも聞くが。

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2025年10月 6日 (月)

雑誌の廃刊が続く中で、思い出すのは(1)『図書新聞』の廃刊

 今年の12月に『日本古書通信』が、来年2026年3月に、『図書新聞』が廃刊になるそうだ。小さな図書館ではあったが大学図書館勤務時代の20年間余、二つとも選書のツールであった。前者の古書店目録によって、古書を購入することはなかったが、新刊紹介や多岐にわたる文献目録が役に立っていた。
  また、「これから出る本」(日本書籍出版協会、月2回、1976年5月~)を見ながらの選書や店頭選書するのは楽しみでもあった。退職後は、本屋のレジ脇に置かれていた「これから出る本」をもらってきたものだが、近頃見かけないなと思ったら、2023年12月に終刊していたことを知った。すでに、新しい出版書誌データーBooks(出版書誌データベース)があって不便はないのだが。現役の時は、よく利用した『出版年鑑』も2018年版で終刊、『出版ユース』も2019年3月で終刊になっていること、今回知った。

 近年は〈紙〉による情報の衰退は著しく、出版業界、図書館業務の様変わりも甚だしいとはいえ、若干のご縁があった雑誌が、消えていくのは、やはり寂しい。

『図書新聞』

   先の『図書新聞』に何度か執筆の機会を得たことは、私にとっては貴重な体験であった。最初の執筆は『短歌と天皇制』(風媒社 1988年10月)出版直後の12月3日号「歌会始 投稿歌壇の最高位に目されるに至ったけれど」であった。12月17日号には、道浦母都子さんの『短歌と天皇制』の好意的な書評が載った。この書評は、彼女の歌集『無援の抒情』(岩波書店 1990年)のエッセイの部にも収録された。そのほぼ10年後の2000年1月から月一で「短歌クロニクル」という、いわば短歌時評の依頼があった。1年という長丁場に不安もあったが、ほんとうに自由に書かせてもらった。そして一番印象に残っているのは、10月21日号の「いつまで<全共闘>を売りにするのですか」であった。道浦母都子さんが1990年代に加速度的に保守化してきたことを事例を挙げて批判したものだった。 新聞の発売後しばらく経ったころ、当時の編集長?であった井出彰さんから電話があって、「件の時評を『よくぞ書いてくれた』という人があらわれて、新聞を購読してくれることになった」という主旨のお話で、恐れ入って伺った。これらの時評は『現代短歌と天皇制』(風媒社 2001年2月)にすべて収録している。

 そして、この本の出版直後、『図書新聞』は「インタビュー内野光子氏に聞く『現代短歌と天皇制』」(2001年3月17日)を3頁にわたって組んでくださった。かなり緊張をしていて、何ほどのことを話したのか、聞き手の米田綱路さんと佐藤美奈子さんが、うまくまとめてくださって、感謝するばかりであった。

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  その後は、三枝昂之『昭和短歌の再検討』(2001年9月8日)、田所泉『大正天皇の<文学>』(2003年5月24日)、『昭和天皇の<文学>』(2005年11月19日)、櫻本富雄『歌と戦争』(2005年11月19日)、江刺昭子『樺美智子聖少女伝説』(2010年7月31日)などの書評を執筆している。

 当時は、地域の500世帯余の地域の自治会の役員を何期か務め、自治会館建設反対、ディベロッパーによる隣接地の開発をめぐって、旧役員、業者や市役所との交渉、夏祭りや各種イベントなどで多忙を極めていた。いまから思えば、想像できないほど自治会活動は盛り上がり、私自身も多くの仲間と働いた時期でもあった。

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サンザシが実をつけ始めた。栄養価が高く、食べることができるなんて、知らなかった。  

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2025年10月 2日 (木)

ガブリエル・ズックマンって誰?~富裕層には、「富裕税」を!

    9月28日、「富裕税入門」出版記念集会~今こそ富裕税が必要だ!資産に課税せよ!!」の集会にでかけた。日頃、夫からは、「富裕税」導入についてのミニ・レクチャー?を聞いていたもので、どんなものかと参加してみた。会場は、四谷見付にも近い「日本司法書士会館」、その会館の立派なこと。ホールも100席以上はセットされていた。配られた資料は75頁にも及びその意気込みが感じられた。しかも、経団連から、若手の鈴木章弘さんという方が話をされるとのこと。これまで、私が参加してきた集会では、なかなかお目にかかることのなかった経団連からのゲストだった。

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  ところで、『富裕税入門』のオビにも登場し、巻頭に「刊行に寄せて」を執筆しているガブリエル・ズックマンという経済学者を初めて知った。後述のパネリストたちも、彼の富裕税への提言に言及している。 

【主催】公正な税制を求める市民連絡会
【内容】
第1部・ 執筆者自身による、本書の解説と今後の課題

   ・ 日本経団連からのコメント(日本経団連主幹補・鈴木章弘 氏)
第2部 パネルディスカッション
    <司会>
    三木義一 氏(弁護士、元青山学院大学学長)
    <パネリスト>
    宇都宮健児 氏(公正な税制を求める市民連絡会共同代表/元日弁連会長)
    鈴木章弘 氏(日本経団連主幹補)
             醍醐聰 氏(東京大学名誉教授・会計学者)
    近藤克彦 氏(税理士)
    合田寛 氏(政治経済研究所評議員)
    成田元男 氏(米国税理士)

 世の中には、とんでもない高額の不動産をあちこちに持っていたり、庶民には想像もつかないほどの不動産や金融資産を持っていたりする、超富裕層がいるらしい。

   2019年、日本では、食料品を除いて消費税が10%に引き上げられる日が迫っていた頃、アメリカの著名投資家やウォルト・ディズニーの孫やフェイスブック共同創設者など超富裕層19人が「アメリカには我々、超富裕層の資産にもっと課税する道徳的、倫理的、経済的責任がある」「これ以上の税収は中間所得層や低所得層からではなく、もっとも経済的に恵まれた人々に課すべきだ」と提唱したというニュースを聞いて驚いたことを思い出す。さらに、マイクロソフトの共同創業者で世界2位の富豪のビル・ゲイツは以前から、富裕層への課税強化を訴えていて、格差を是正するためには、ウルトラリッチと呼ばれる超富裕層の税率の引き上げが有効だとしている(Forbes Japan 2020年1月10日) 。日本ではどうなっているのか、日本でも富裕税があったらいいのにと思う。

    ところが、近年の日本の与・野党とも経済、税制政策おいて「増税」の話はむしろタブーのごとく、賃上げ・手取りを増やす、消費税減税・廃止、給付金の是非などに言及するばかりである。直近の自民党総裁選においても、「所得増」「物価高対策」を強調するが、その具体策はなかなか見えてこないし、この物価高は、加速的に実質的な所得減を招いているではないか。尊敬する人物が松下幸之助、二宮尊徳、高橋是清・・・ではね?

   今回のシンポジウムのパネリストたちは、経団連のゲストも含めて、温度差はあっても、富裕税導入を提唱する人たちである。ただ、司会の三木さんはどうなのかな?

 宇都宮(主催「公正な税制を求める市民連絡会」の共同代表):日本社会の貧困と格差拡大の要因は、①社会保障の貧困 ②労働の貧困 ③不公正な税制にあるとして、法人税・所得税・金融所得課税・消費税の不公正、富裕税導入の必要性という問題提起
鈴木(あくまでも個人的な意見として):現状認識として、①中間層の衰退、1994年と比較すると400万未満が増加 ②国際比較でも、所得の不平等を表すジニ係数が高い。
施策として、①税と社会保障との一体化、税による財源確保-応能負担・消費増税・企業の応分負担。逆進性対策の見直し。②格差是正に向けて富裕税を含む税制の再分配機能の強化(2024年12月経団連発表、将来ビジョン「AUTURE DESIGN 2024」参照)(表1)

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近藤:なぜ富裕税が必要なのか ①相続税では、小規模宅地の特例で時価の4割、建物は時価の7割評価されるが一過性でしかない ②所得税率を上げても、富裕層は資産管理会社で、所得を分散してしまう ③すべての財産の評価によって課税するのが富裕税だが、反対意見への反論への備えが必要
合田:富裕税課税は世界的潮流。①ガブリエル・ズックマン提言による2024年7月、G20財務相・中央銀行総裁会議「リオデジャネイロ宣言」で、富裕層を焦点に税制全体の構成か・透明化・累進化を図る。多国籍企業の租税回避を防ぐ国際的取り組み強化 ②租税協力に関する「国連ワク組み条約」への期待
成田:ガブリエル・ズックマン報告書を中心に、①富裕層程税率が低い現実 ②「超富裕層(ビリオネア)」の個人的所得税率オランダ0.0%、フランス2.0%、アメリカ9.0% ③対策の不備として、所得税の累進課税強化・相続税強化効果の不発、富自体の把握困難、という現実。新たな解決策として①超富裕層への2%以上の課税、国際協力による租税回避抑制、税の逆進性の是正
醍醐財政の現実として、①来年度予算における国債費(利払い・償還費)の占める割合が年々高くなり、税収の40%を超える現実 ②税収全体における各種税収の占める割合の推移、1988年と比べると個人所得課税が、法人所得課税は減り、消費課税が激増(表2) ③日本の政府債務残高が突出して高い(表3)

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  貧困・格差の要因(表4):①不動産、金融資産への課税が低い ②逆進的な所得税・・・格差を助長、とくに資産による格差が最大の要因。消費税が非課税世帯にも等しい税率で課され、金融所得が20%という低い税率で課されるのはG7のなかで日本だけ

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富裕税導入の根拠:①「応益説」にもとづき、富裕層の富が国からの特恵によって得られているのを根拠にその見返りとして社会への還元の必要性 ②ルソー、スミスらによる思想的な源流 ③資産が海外に流出するという不安については、国税庁による海外金融口座、海外送金、国外財産、財産債務調査の実施により海外資産把握が整備されつつある
MMTへの反論
*「独自通貨を持つ国は債務返済のための自国通貨発行額に制約を受けないため、借金をいくらしても財政破綻は起きないと説く経済理論」

 れいわ新撰組の山本太郎は「消費税を直ちにゼロ」、「一律10万円の給付」などを掲げ、消費を刺激、その財源は、「政府の借金は国民の資産」とばかりに国債増発によると唱えている。まさにMMT理論に則ったものである。しかしこの理論は、日本では、①国債費(利払い費+償還費)が膨張しても、償還リスクが見えてこなかったのは国策により60年償還ルールにより償還を先送りしてきた ②国債残高の長期累積、長期金利上昇の金利リスクを高め、国債費により予算は大きく制限を受ける ③将来不安が大きいので、国債増発による財政出動は消費刺激の効果は少ない ④多少手取りが増えたとしても多くは貯蓄に回ってしまうリスクが高い

  以上、わからないことも多かったのだが、私の理解の範囲でまとめてみた。富裕税導入はもはや世界的潮流であることも分かった。日本の財政基盤の危うさの中で、経団連すら、「税・社会保障一体改革」として、富裕層の応能負担の徹底、その補完として、消費増税、企業の応分負担増を検討していることも知った。

  詳しくは、ぜひ『富裕税入門』を。

 シンポジウムの会場からは、れいわ新撰組の関係者や自治体の議員、労組の活動家の方々の質問も出て、議論も活発ではあったが、参加者が少なかったことと、マイクの調整などが整わなかったことが残念に思われた。

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