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2025年12月28日 (日)

消防団はどこへゆく

 2025年12月14日、21日、朝日新聞は「フォーラム」欄で「消防団を考える」を2回にわたって特集した。その記事が載ると、私のブログの「消防団」関係の記事へのアクセスが少しばかり増えたのである。
  私は、20数年前、地域の自治会の役員をやり、その後、輪番制の班長をつとめたこともあって、自治会の他団体への寄付について、さまざまな疑問を持つようになった。
  社会福祉協議会や日本赤十字社への寄付、一世帯当たり500円を当たり前のように集金するのが班長の仕事であった。その件については、役員当時、寄付は強制されるものではなく、個人の自由であるという観点から、集金袋を回覧形式で各戸に手渡しするという方法が総会で認められ、その方法は定着し、現在に至っている。それとて、本来自由であるべき、募金・寄付が、自治会に投げられていること自体が問題なのであるが、それは解決していないままではある。
  そして、いつのまにか、私たちの自治会は、消防団への「協賛金」という名で、自治会財政から支出していることがわかった。消防団への寄付は、上記の社協や日赤への寄付とは、性格を異にする。

自治会等から消防団への「協賛金」「協力金」は「寄付」ではないか。

 消防団員は、現在の法律上、非常勤特別職の地方公務員なので、消防団への寄付は、公務員への寄付にあたり、これは完全にアウトではないのか。そんな思いから、佐倉市の自治推進課、危機管理課(消防班)とのやり取りをした。その顛末は、以下のブログの過去記事に詳しく書いているのでご参照ください。

消防団・社協・日赤などへの寄付を強制されていませんか~自治会の自治とは(1) (2)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/04/post-8f66.html
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/04/post-7804.html

消防団はどうなる、どうする(1)消防団への「お礼」って(20243 4日)
https://app.cocolog-nifty.com/cms/blogs/190233/entries/94722716

消防団はどうなる、どうする(2)各地の消防団で何が起きているのか(20243 5日 )
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2024/03/post-52ef54.html

  要するに、佐倉市は「消防団員は、非常勤地方公務員なので、消防団は寄付金を求めてはいけないが、協賛金、後援会費などは、自治会と消防団との間のことであり、佐倉市は関知しない」と繰り返した。一方で、毎年、市内の自治会長らを集めて配布される資料「自治会等役員の手引き」には、協賛金、後援会費などは「労をねぎらうために支援をされているもの」「消防団を支援しようという地域の厚意による任意のもの」との説明で、自治会等による寄付を容認している。この説明は現在も踏襲されている。以下の文章を拡大してお読みください。

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佐倉市の「令和7年度自治会等の役員の手引き(QandA)48頁より

 

 さらに、自分の自治会に問い合わせると、2万円の「協賛金」は、地域の商店会・自治会連合体共催の夏祭りの警備のための謝礼とわかった。地域には、自治会が20以上あるので、少なくとも40万円以上は、集まっているはずである。7月末に実施される2日間の夏祭りの警備のための費用に充てていることになる。また、この夏祭りの参加費として一世帯700円を、別途、自治会財政から、自治会連合体の下部組織の実行委員会あてに支出している。この夏祭りとて、当自治会世帯の高齢化が進み、祭りに出かけていた子供たちは、すでに家を離れてしまっている。自治会の世帯数は600を超えるので40万円以上になる。これについても、祭りとは無縁になった世帯にも一律というのはおかしいのではないか。せめて、総会を経たうえで、地域の付き合いというのならば、自治会として数万円に抑えることはできないかと要望書を出したことがある。前例踏襲、他の自治会との横並び意識から、一蹴された。しかし、現に、祭りの実行委員会に参加しない自治会も現れたのである。そういう選択も十分あり得るのではないか。

消防団員への報酬の不正使用の横行

 上記の当ブログの過去記事にも書いたのだが、本来、消防団員は、団員としての経験などによる階級に従って、自治体から報酬と出動手当などが支払われている。これまで、多くの自治体は消防団の分団あてに、まとめて支払うという慣例があって、団員の手に渡る前に、不正に使用される例が各地で横行していることは、新聞報道でもよく見かけた。2022年、消防庁の指導により、佐倉市は、団員の個人口座に振り込むようになったそうだ。消防団によっては、その先にも、親睦会費用を強制的に徴収したりする「上納」の例もあるという。

消防隊員の高齢化、団員の減少のなかで考えることは

 冒頭の朝日新聞の特集では、若い団員が増えないのは、また離れていく要因に、仕事との両立が難しいこと、操法大会などに向けての訓練がきついことなどがあるとする。取材記者は、「地域を思う気持ちが消防団を支えている」というが、マンションやアパートに住む人たち、戸建てに住む人たちであっても、自治会に加入していたとしても、隣に、どんな人が住んでいるのか、表札の情報しかないのが実態なのではないか。その表札さえ、掲げない住人もいる。個人情報保護法(2003年5月制定、2005年4月施行)により、自治会も名簿というものを作成しなくなったからなおさらである。そうした状況の中で、住民の絆、地域愛は生まれそうにもない。 
 住民の流動の激しい都市部はもちろん、郡部においては、住民の高齢化、限界集落化の著しいところでは、絆や地域愛によって、支えられる消防団などは望めなくなっているのではないか。

 消防団に代わるものはあるのだろうか。実現性を問われると心細く、話はつい大きくなるが、私の夢の欠片を拾ってみると・・・。
・消防署の消防隊員には専門知識と技術を持った消防事業と救急事業を担ってもらうことを前提として、指揮系統の明確化、待遇の改善を実施すること。⇒パワハラなどをなくし、モチベ―ションを高める。 

・防火・消火活動、防災・災害救助活動に特化したボランテイアの育成、ボランテイア団体の拡充 ⇒ 働き方改革により余暇を大幅に増やし、仕事と両立するようにして、非常勤ながら、相当の報酬を伴うようにする。欧米のようなボランテイア文化が根付くまでは時間がかかりそう。

・自衛隊を再編して、災害救助事業を拡充、あるいは名前を「災害救助隊」と改める。⇒ 防衛費を大幅に縮小して、その分を災害救助や災害復旧・復興のための人材と機材などの確保にあてる。「専守防衛」の名のもとに大国の軍拡競争に追随しても、対抗できるはずもなく、防衛の実効性は乏しいのだから。

 
 今年、転居したので、かつての住まいの自治会とは縁が切れた。転居先には入居者の代表による委員会があって、施設側へ質問したり、要望したりする会議は2カ月に1回開かれ、その報告や議事録も配られる。さらに、入居者と施設側とが対面して行う「懇談会」が2カ月に1回開催されている。
 住民としての安心材料の一つではある。募金関係は、募金箱が備えられ、自由意思による。ただ、秋祭りには、地域の自治会にはかなりの金一封?をしていて、山車は構内にも立ち寄り、踊りも披露してくれる。消防団との関係は、今の私にはわからない。いずれ聞いてみたい。じゃあ、今すぐにできることはといえば、施設の防火・防災体制を知ることと住民同士の情報交換や交流をすることではないか。それが火災や災害からの人命救助の要なのかもしれない。

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2025年12月28日、ホールでは餅つきが行われ、大根おろし、きな粉、粒あんの三種類をもらいました。写真の上は、マユミが可愛い花房をつけ、中庭にはツワブキが盛りでした。

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2025年12月21日 (日)

北村小夜さん100歳、マイク持って

 北村小夜さんが、11月に100歳になられたという。12月18日の朝日新聞「ひと」欄には、マイクを左手に持っている写真が載っていた。

https://www.asahi.com/articles/DA3S16366041.html?iref=pc_photo_gallery_bottom

 お元気に、障害の有無に関係なく一緒に教育が受けられるようにとの活動を続けていらっしゃる様子を伝えていた。旧著「一緒がいいならなぜ分けた」が増補新装版(現代書館 2025年11月)として復刻されたばかりである。

北村さんと初めてお会いしたのは、昨年8月31日だった。私が「即位・大嘗祭違憲訴訟の会」の集会で「短歌と勲章」について話をしたときに、会の事務局の桜井大子さんの紹介であった。数日前から、桜井さんから「北村さんがぜひ会いたい」とおっしゃっているとのことだったので、私は、緊張していた。北村さんの活動は、遠くから拝察するばかりであったが、当日の、固い握手をしたあとの三人の写真が残っている。1925年生まれの北村さんを真ん中に、右に1940年生まれの私、20年以上は若い桜井さんと三世代が並んだことになる。お二人の活動には及ばないが、並ぶことができて、とてもあったかい気持になったのだった。

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 先日、昨年まで住んでいた時の友人から、かわいいクリスマスツリーが届いた。その後、旧居を必要があって訪ねた時、庭のアジサイの枯れた花、千両の赤い実、ラベンダー紫の花など、その健気さに、思わず折って持ち帰った。ヤマボウシの実と枯葉が狭庭一面をうめていた。

 きょう、12月21日、少し早い、施設からのクリスマスプレゼントは、ミッシェル・藍さんのヴァイオリンと和泉たか子さんのコンサートだった。「アイネ クライネ ナハトムジーク」から始まり、チャイコフスキー「メロディ」、「ラ カンパネラ」などと続き「亜麻色の髪の乙女」はピアノ演奏、エディット・ピアフの「愛の讃歌」で終わった。ミッシェルさんは、「題名のない音楽会」の葉加瀬太郎塾の一期生だけあって、パフォーマンスも豊かだし、和泉さんは、各種学生音楽コンクールで入賞の実力者である。雨の午後のひとときを楽しんだ。

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2025年12月15日 (月)

映画「プラハの春」~NHKの人たちに見てもらいたい!

 封切りの「プラハの春」には「不屈のラジオ報道」との副題がついているが、原題は英語で言えば「Waves」とずいぶんとあっさりしたものだが、むしろ深いものが感じられる。洋画の邦題は、概して、力が入り過ぎたり、あまりにも情緒的であったりする場合が多い。それはともかく。

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 映画「プラハの春」は、チェコとスロバキアの合作の2024年の新作である。ソ連の共産主義支配下で市民の自由は多くを奪われる中、学生運動から始まる反体制運動は国中に広まり、大統領はノヴォトニーからドウプチェクに替わり、改革路線が進み、言論の自由、報道の自由も認められるようになった。市民たちは、いわゆる「プラハの春」の訪れを喜んでいた。

 しかし、国営ラジオ局へのモスクワからの圧力は強まり、虚偽のニュースの放送を迫られるが、國際情報部のスタッフたちは、部長ヴァイナーのもと、真実を伝えるべく、日夜奮闘し、抵抗をする。中央通信局のどちらかといえばノンポリの技術者だった主人公は、人事異動と称して、國際情報部に転任させられ、学生運動をしている弟を人質のようにして、情報提供、スパイを命じられる。ベテランの女性スタッフ、ヴェラと仕事をする中で、ソ連の統制の強化されるにつれて報道という仕事に目覚めるが、スパイであることに良心の呵責を感じ、その葛藤に悩む。

 1968年8月20日、ソ連軍はワルシャワ機構軍と共に、突如、チェコスロバキアに侵攻、プラハの街は戦車と銃の脅威に包まれ、各所で抵抗する市民たちの犠牲も出た。そしてラジオ局もソ連軍に破壊され、真実の報道は断たれたかに思われたが、国際報道部のスタッフは、散り散りになりながら、各所をつなぎながら、主人公もその通信技術を発揮して、軍事秘密基地などからの放送を続ける。しかし、ソ連軍の武力には勝てず、鎮圧され、隣国に亡命する人々が多い中、主人公と隣国に亡命をしていたはずの弟もプラハにとどまることを決意するところで終わる。
 主人公と弟はフィクションながら、登場人物の多くは、実在の人物を配し、事実に基づくストーリーである。国際情報部のヴァイナーは、1969年、病に倒れる。ヴェラは、1949年、国営ラジオに入社、ヨーロッパ、アフリカなどに赴任、アルジェリアから帰国後「プラハの春」に立ち会い、反ソ、不屈の報道に参加しているが、その後は放送に携わることなく、夫と共に翻訳者となり、2015年に亡くなっている。

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 チラシの一部

 どんな時代にあっても言論統制が強まる中、さまざまな選択を迫られることは多い。そんな中で、ごく普通の市民たちの微妙な葛藤を想起させ、どうあるべきかを問う映画であったと思う。そして、さらに報道機関に働く人々への問いかけは重い。NHKの職員に、ぜひ見てもらいたいものである。

 

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2025年12月10日 (水)

「千葉・美術・散歩」を散歩する。

 千葉市立美術館の開館30年周年展「千葉・美術・散歩」(2025年11月1日~2026年1月8日)に出かけた。また、田中一村にも会いたいと思った。2010年、やはり、この美術館で開催された田中一村展に出かけている。もう、15年前のことになる。数年前にも千葉市立美術館での一村展、昨年は都美術館での大掛かりな一村展が開催されていたが行きそびれていた。
 今回の美術展の構成は以下の通りである。余りの作品の多さに、今回は、第六章・第七章は素通りに近かった。

プロローグ 
第一章 千葉中に学ぶ /第二章川崎銀行千葉支店、立つ
第三章 無縁寺心澄が描いた千葉/第四章 田中一村が描いた千葉
第五章 焦土より/第六章 戦後美術界の復興
第七章 変わりゆく千葉市、千葉市を拠点とする作家たち

第三章の無縁寺心澄(1905~45)

初めて聞く名前だった。精力的に千葉の街の建物や風景を水彩やテンペラで描き続け、県内の美術振興にも寄与した画家であったという。千葉市が空襲で焦土と化す前の街の風景を留める貴重な資料にもなっている。とくに目に留まったのが「千葉中時計台」「都川曲水」「噴水と図書館」などだったが、それらの風景画の流れと違う作品「同志」「労働者」という大作が気になった。無縁寺は、制作年が明確でないものが多いので、これらの二作も、その背景もわからず、残念だった。また、展示ケースには、1930年頃の雑誌『童話の先生』の表紙も描いていたことがわかる。また同じ頃、山本鼎らと一緒に、『少年少女自習画帖』を作成し、「大正自由教育運動」にもかかわっていたこともわかった。

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「千葉中時計台」。校舎が新築されたのが1931年ということなので、その直後かと思われる旧制千葉中学校は、1896年生まれの父が在学していた。もちろん旧校舎であったが、授業中に父親の訃報が知らされたという話は、よく聞いていた。1910年ごろのことか。その後、薬専に進んで、中退?ともかく薬剤師の資格を得て朝鮮にわたり、そこで兵役をすませたという。その後、放浪?ジョホールのゴム園に就職したそうだ。千葉中と聴く・・・。

また、思いがけないことに、藤田嗣治の千葉ゆかりの「夏の漁村(房州太海)」(1937)という小品の展示もあった。

第四章 田中一村が描いた千葉

  田中一村(1908~1977)は、いわゆる「画壇」からは離れて、1938年から千葉市千葉寺に移り住んで、20年、千葉寺近辺の農村風景や木々や草花、多くはオナガ、トラツグミ、ウグイス、キツツキなどの小鳥や軍鶏など描き続けた。1958年50歳にして、新天地を求めて奄美大島に居を移す。多くの支援者がいたとはいえ、画業に専念することはできず、生業のための仕事をしている。南国の植物や小動物を描き、大胆な装飾的な構図の作品をも生み出しながら、生前は、日の目を見ず、1977年逝去する。

  私は「千葉県人」というわけではないが、千葉の佐倉市に長く暮らしており、千葉寺には、別の思い入れもあるので、一村の千葉時代の作品に愛着を覚えている。千葉寺に隣接する千葉市ハーモニ―プラザという複合施設があり、そこの女性センターで始められた短歌教室に月一ながら20年間通った。歌の仲間たちと千葉寺の大イチョウを仰ぎ、かつて畜産試験場だった、近くの「青葉の森」には、桜、紅葉、梅の見ごろだと言っては、教室を飛び出して吟行に出たのだった。

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右がチケットで、中央の額に収まっているのが「仁戸名蒼天」(1960年頃)である。現在の仁戸名は、千葉駅からバスで20分ほどだが、大きな病院が立ち並ぶ街でもある。左が「黄昏野梅」(1947年春頃)の絵はがきだが、右上方のサインは米邨で、まだ「一村」ではないことがわかる。

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前の「一村展」で見た「千葉寺 春」。今回、この作品は見当たらなかった。「黄昏野梅」と同じモチーフで描かれているようだ。こちらの近景には、馬と共に畑で農作業する人が描かれている。一村の描く、千葉寺周辺の田園風景には、そこで暮らし、働く人々や動物たちへ畏敬の念が溢れているで、心が和むのであった。二作品の杉林もすばらしい。

一村と小笠原登との出会い

 今回、このブログを書くにあたって、ネットで調べていると、知らなかった!一村は、奄美大島にわたって、人を介し、国立療養所奄美大島和光園に就任したばかりの医師小笠原登と出会う。和光園はハンセン病者の療養所であるが、一村は小笠原に和光園内に住まいを提供されながら、親しい交流が始まっていたのである。小笠原は、戦前からハンセン病は感染病ではなく、隔離の必要がないという医学的な根拠にもとづき主張したが、光田健輔などを中核とする学会からは追放された医師だった。戦前から、すでに治療薬のプロミンが開発されていたにもかかわらず、不治の病とされ続けていたのだ。しかし、隔離を基本としたらい予防法が廃止されたのは、なんと1996年だった。小笠原は、1970年に亡くなっている。一村も生前は、画壇からは遠く評価されることなく1977年に亡くなっている。今のような「一村ブーム」を目の当たりにしたら何と思うだろう。奄美大島での一村と小笠原は短い間ではあったが、一体何を語り合ったのだのだろうか。

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2025年12月 7日 (日)

政治家の言葉(4)~その指摘は当たらない?!

「その指摘は当たらない」

11月26日の党首討論で、立憲民主党の野田代表は、経済対策の裏付けとして編成される補正予算の規模が過大であり、金利高・債券安が進んでおり「今回の経済対策を含めて放漫財政に対する、私は警鐘ではないかと思います。このマーケットの警鐘について総理はどのように受け止めているか」と質問した。高市首相は「放漫財政というようなご指摘には、決して当たらない。そういう経済対策を組んだつもりでいる。」と答えている。出た!出た!なのである。
 安倍首相時代、菅官房長官の記者会見のとき、何を質問しようが、「その指摘は当たらない」としか、答えにならないような答弁で突っ放してしていたことは強烈な印象として残っていた。高市答弁にもついに現れたかの思いだった。菅官房長官のあのフレーズと表情はなかなか忘れられるものではない。当時、ネット上でも問題になっていたような気がするが、れいわの山本太郎が、参議院議長あてに以下の質問主意書を提出していたのは知らなかった。笑ってはいけない、大真面目だったのである。

<質問主意書>第193回国会(常会)質問第一三七号
菅内閣官房長官の「全く問題ない」、「批判は当たらない」などの答弁に関する質問主意書
国会法第七十四条によって提出する。平成二十九年六月十四日 山本 太郎
参議院議長 伊達 忠一 殿

 政府の立場や認識、行政に対する批判や指摘について記者から質問に「全く問題ない」、「批判は当たらない」あるいは「指摘は当たらない」との答弁の多用・頻用について質したものである。また、当時の東京新聞(2017年6月3日)でも取り上げられていて、「説明責任の放棄」「異論のシャットアウト」するもので、官房長官としての発言への批判が高まっていることを報じている。「指摘は当たらない」との答弁は無意味なばかりでなく、異論封じの傲慢さが体現しているフレーズではないか。

「前向きに検討する」
 つとに流布している「国会答弁」であるが、類似のフレーズに、「積極的に検討する」「速やかに検討する」「検討を加速する」「早急に検討する」などがあり、また、逆に後退した言い方に「慎重に検討する」「検討を進める」「検討を開始する」などがある。直近では、11月4日、衆議院代表質問において、立憲の野田代表の企業団体献金についての質問に、高市首相は「公平公正な仕組みとなるよう不断に検討していくことが重要だ」と答えている。ということは、「仕組みとなるよう」「検討していくこと」が「重要」と言っているにすぎず、まず「仕組み」を考えることを「検討していくこと」が「重要」だということで、二重、三重に「検討」から遠ざけているということだろう。

 「検討」とよくセットで使われるのが、「仕組み」であり「制度設計」という言葉である。この言葉が出たら、もはや、「検討」どころか、課題の解決からは遠のいたということだろう。

「大変お騒がせし、ご心配をかけて申し訳ありませんでした」
 政治家個人にスキャンダルや不祥事が発覚したときに発せられる言葉だが、支持者ならともかく、大方の国民は「心配」などしてないのにといつも思う。誤解を招いたり、軽率だったりを深く反省し、二度とこのようなことのないようにと頭を深く、長く下げるのがオチだ。

「冷静かつ毅然と対応してまいります」
 政府の失策や政策やある事案を強行しようとするとき、「粛々と進める」「法律に従って」「法の支配にもとづいて」などのフレーズと組み合わせて使用されることが多い。12月6日の沖縄南東公海上空で中国軍機の自衛隊へのレーダー照射事案について政府は中国側に強く抗議し、12月8日、木原官房長官は「冷静かつ毅然と対応する」とコメントし、中国側の「自衛隊機が飛行の安全を阻害した」という「指摘は当たらない」とも反論している。高市首相の「応急かつ拙速」な
「台湾有事」発言に端を発した中国側の反発はこれからも続くかもしれない状況だが、抗議や反論を繰り返すだけでなく、柔軟な対話による平和的な解決に踏み込んで欲しいのである。

 

 キリがないので、この辺でやめておくが、やはり気になるのは、いくら海外留学をしたからと言って、政治家がやたらに横文字、カタカナの用語を連発するのはいかがなものか。ある日の片山さつき財務大臣の記者会見で発せられた、コンセンサス、サステナビリテイ、ニュートラル、マーケットなどはまだしも、「フォワードルッキング」「スプリングレビュー」「ボイスフィッシング」など、なぜ日本語で語れないのか。
 「政治とカネ」の問題を「そんなこと」と言ってのけた首相に「政治への信頼回復」を語る資格はない。

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11月27日、ベランダ先の大イチョウ、今日、7日には、かなりの黄葉が降り積もっていた。

 

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