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2026年8月 7日 (金)

比屋根さんが亡くなられた、さびしいです。

  8月2日、比屋根照夫さんが亡くなられた。今朝の毎日新聞で知った。最後にお会いしたのが、2017年8月1日、松本三之介先生の『「利己」と他者のはざまで』(以文社)の出版を記念しての会だった。日付まで覚えているのは、長兄の命日でもあったからである。会は、生家にも近い池袋のお店だった。比屋根さんは、大田昌秀元知事の県民葬の準備で多忙の中、上京されたとのことであった。会は、先生の新著の合評会を兼ねて、参加するには必ずレポートするよう、世話役の友人から言われていたのだが、私には、かなりきつかった。あとは、先生と参加者の議論をひたすら聞くばかりだった。

参照「『「利己」と他者のはざまで』に触れて」(2017年8月 3日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/08/post-5537.html

  私は、大学では松本ゼミでもなかったのだが、卒業後、同期のゼミ生だった友人から声がかかって、ゼミ旅行や「飲み会」に誘っていただくことがあった。 比屋根さんとは同じ年のはずだが、大学でご一緒していたわけではない。琉球大学を卒業後、東京教育大学の大学院で松本先生の指導を受けられた後、琉球大学で教鞭をとられている。本土復帰前に日本に留学するには、入国審査が必要だったという話をされていた。「沖縄近現代思想史研究の第一人者」と紹介されることが多く、私も「伊波普猷」の名を初めて知ったのが比屋根さんの論文であったが、他の多くの著作を読んでいるわけではない。

 比屋根さんとは、もう一つの思いがけない“接点”があったのである。私は、少しばかり沖縄の歌人、沖縄の短歌、平成期の天皇夫妻が詠んだ沖縄の短歌について、調べていたことがあった。
 そこでなんと、比屋根さんの若き日の短歌に出会ったのである。1958年3月の『短歌研究』の〈沖縄の歌と現実〉特集は、吉田漱による沖縄の歴史・政治・経済の現状と歌壇についての丁寧な解説と作品集を収めていた。編集の杉山正樹は「ジャーナルの上でやや置去りにされがちな沖縄の諸問題を島民の切実な“地の声”を中核として」企画したと記しているのだが、その作品集の中に、つぎの一首を見出したのである。

・絶望に通ずる道を歩むに似たり一日一日のかなしきいとなみ
 比屋根照夫(「琉球(新報)歌壇」)

 『琉球新報』の「歌壇」に発表された年月日は、調べればわかるのかもしれない。そこまではしていないのだが、比屋根さんが18歳の頃の短歌であったろう。とうに短歌とは離れているそうだが、当時の沖縄の行く末を嘆いての一首である。詠まれた状況は、なんと昨今の沖縄のみならず、日本の行く末にも通じるものがあって、愕然とするのであった。

参照「沖縄とジャーナリズム(1)短歌ジャーナリズムはどう向き合ったか」(2015年6月29日 )
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/06/post-cfd1.html

「沖縄タイムス」(8月6日)は「沖縄近現代思想史研究の第一人者で沖縄の政治や社会状況に積極的な発言をした」と報じている。もう一度、電話ででも、今の沖縄について、短歌についての話をお聞きしたかった。
 ご冥福を祈ります。

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1974年8月、松本ゼミOB研修旅行、「自由民権の地 弾正が原」にて。碑に向かって中央左のシャツ姿の松本先生、その後ろに立つのが比屋根さん。山形で山形大学の二人と先着組に合流、蔵王温泉のこまくさ荘と白銀荘に各一泊、
観光のドライブの後は数人による研究発表が二日続いた。この旅行の予定にはなかったが、「斎藤茂吉記念館」にも、急遽立ち寄っていただく。三日目は、会津若松を経て、帰京組は郡山から特急に乗り、私には楽しい旅が終わった。

 

 

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