2018年10月11日 (木)

元号が変わるというけれど、―73年の意味(6)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(3)

『八雲』創刊号には、短歌の創作欄には、五島茂、佐藤佐太郎、鈴木英夫、香川進、坪野哲久、岩間正男、堀内通孝、岡野直七郎、長谷川銀作、橋本徳寿、山下陸奥、筏井嘉一、と12人の第一線の歌人の名が並ぶ。この辺が、編集陣の久保田、木俣修らの微妙なバランス感覚が働いているところだろう。それにしても女性が一人もいないと思ったのだが、この作品欄とは別に、「短歌ルポルタージュ」と冠した、挿絵入りで阿部静枝「進駐軍のゐる風景」10首が載っていた。その中に次のような3首があった。私自身が、その晩年に指導を受けた歌人でもある阿部静枝((18991974)は、戦前の無産運動で活動、弾圧で挫折、太平洋戦争下では翼賛に傾いた歌人だったので、3首目の決意は、おそらく本気であったのだろう。前の2首は、やや、明確さに欠けるきらいがある。「侘しむ民」の一人としての作者自身なのか、その心変わりをどう受け止めているのかなど、やや整理しかねているようにも思えた。しかし、「大内山」、「宮城」、「雲の上」という表現ではあるが、「天皇」を詠んだ作品として記憶されてもいいのではないか。

米軍ゐてともしかがよふ丸の内大内山のみ暗く侘しき
宮城の小暗く深きをたふとまず侘しむ民の心変わりや
雲の上に主権をおきてひれ伏せる暗愚の歴史閉ぢて起つべし
(阿部静枝)(八雲 創刊号 194612月)

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『八雲』 創刊号(1946年12月)より

 その後の『八雲』には、「天皇制」に言及する評論がしばしば登場する。たとえば、以下の3点をみてみよう。

①西郷信綱「日本文学における叙事詩の問題」
(八雲 19476月)
②岩上順一「歌誌批判・不二・民草について」
(八雲 19479月)
③渡辺順三「歌誌批判・納得できぬこと―短歌人・潮 音・橄欖について」
(八雲194711月)

 ①では、「和歌が一千年以上の時間の流れをくぐりぬけて存續し、今なおわれわれの意識を多少とも制約しているその契機が、天皇制を存續せしめたと構造的に同じ契機であることを私はひそかに信じている。すなわちその連續性は、日本の社會の停滞性の表現以外の何ものでもない」とした上で、「封建的幽暗さから解放されて近代的に組織化され、新しい秩序の到来を呼ぼうとして逃走している民衆の力」というものを素朴に是認しながら、「現代日本に新しい叙事詩の可能性を信じたい」としている。

 ②では、右翼の活動家として何回か投獄もされ、歌人でもあった影山正治(19101979)が、復員後『ひむがし』(194111月創刊)の後継誌として『不二』を創刊(19465月)、万葉浪漫主義を唱えていた影山銀四郎(19081978)が栃木県で『民草』を創刊した(194612月)。その熱烈な天皇制護持は、開戦も敗戦もすべての責任を「聖慮」「神慮」に帰することになり、天皇を苦しめ、人民の人権と相渉るのか、と憂慮している。

 ③は、太田水穂の『潮音』は、敗戦をはさみ、辛うじて休刊を免れ、斎藤瀏の『短歌人』は、19464月に、吉植庄亮の『橄欖』は194612月に復刊しているが、「戦争中は神がかりの祝詞のような文書を書き散らし、戦争に協力せぬものを国賊扱いにしながら、終戦後はまたケロリとして元の雑誌を復刊し、反省も自己批判もなく、歌壇に座を占めているなどは一體人間的な神経があるのかどうかさえ疑いたくなる」と糾弾する。

 西郷(1916-2008)は、斎藤茂吉に傾倒する、当時気鋭の古代文学専攻の研究者であり、岩上(1907-1958)は、戦前から活動する文芸評論家で、治安維持本で投獄されたこともあり、敗戦後は新日本文学会の創立にかかわり初代書記長となっている。渡辺(18941972)は、窪田空穂に師事、口語短歌『芸術と自由』の編集にもたずさわったが、無産者歌人連盟、プロレタリア歌人連盟を経て、一度ならず検挙されている。敗戦後19462月には新日本歌人協会を結成『人民短歌』を創刊している。

こうした論調に先立って、中野重治は、別のメディアにあって、もっと端的に、短歌の政治的利用について言及している。「政治的手段に藝術を用ゐるといふのは、日本の天皇政府がやってきたことで」、その最たるものが歌会始だといい、「天皇の宮中歌會からミラミッド形にさたつて来るあれほど短歌を政治的手段として悪用したものはほかにない」とも語っていた(「文学者の国民としての立場」『新生』19462月)。

また、作品面で、天皇制・天皇への批判がいささかでも垣間見られるものをあげてみよう。参考のため執筆者の生没年を記しておく。

敗戦の責めの所在を見きはめつつ君をうやまはずまた否定せず

神にあらず人にも似ざる旅を行き新しき代の感覚のずれ

(坪野哲久、19061988)(人民短歌194612月)

切羽つまりしわれらが今日のまなこもて天皇をみる遮ることなかれ

(坪野哲久)(短歌往来19482月)

天皇がただすなほに詫び宜らすことすらなしに何革まるべき  

(香川進、19101998)(人民短歌194612月)

奉安殿壊つ清しさや古きもの崩えゆく兆しまのあたり見つ

新憲法かにかく成れど「象徴」の模糊たる二字にわが怡しまず

(安藤佐貴子、 19101999)(短歌研究19473月)

とどろきに陛下応ふと傍観しこの日のさまを書きし記事あり

(宮柊二、19121986)(短歌往来194711月)

 しかし、その一方で、『日本短歌』194712合併号には、「歌会始―選ばれた十五首」と題した記事が載り、4月号には、5人(佐佐木ほか千葉胤明、斎藤茂吉、窪田空穂、鳥野幸次)の選者詠とともに、佐佐木信綱の「詠進歌を選して」を寄稿されている。斎藤・窪田・佐佐木という民間歌人が選者として初めて参加した「歌会始」であった。そこで、信綱は、19471223日、「御前に於いて」披講される感激を記した後、内容上の特色として、新憲法、祖国再建、復興など時代を反映した歌が多かったことと、仕事や職業についてなど生活を歌った歌が多かったことをあげている。

『八雲』の土岐善麿の五十首詠「初夏身辺抄」(19478月)には次のような歌が並ぶ。

たたかひをいかに苦しくおぼしけむ平和の民とともにいますべし

銀のナイフ銀のフオクのかがやくをもろ手にとりてつつましくをり

問はすことみな重要なる課題にしていみじきかな文化国家の元首

(土岐善麿、18851980)(八雲19478月)

 その後の『八雲』の「土岐善麿・木俣修対談・短歌の青春時代」において、「歌会始」ではないが、学士院賞受賞、御進講、御陪食のことを問われて、土岐はご馳走になった鯛の蒸焼き、大きなビフテキ、スープ、灘の生一本などの美味にまで及び、昭和天皇、高橋誠一郎文部大臣らと親しく話しあったこと、進講に対しては、天皇の質問も学者的で「科学者としての陛下のおきもちに皆動かされた」と、感激のほどを語っている(八雲 19481月)。

おほきみもたみくさともにたたかひのわざはいたへてすぐさせたまふ

ばくだんがこのくにつちをこなにすともきみとたみとをひきさくべしや

(金田一京助、18821971)(沃野19472月)

神にあらぬすめろぎなればわれ等また一布衣(ふい)としておんまえにゐむ
(吉井勇、18861960)(短歌往来19477月)

 

 

 こうしてみると、天皇制・天皇に批判的なグループの歌人は1910年前後の生まれで、人間宣言後も天皇、天皇制により一層傾斜してゆくグループは、19世紀生まれといってよく、世代的にも、阿部静枝、坪野哲久世代が中間にあたりで、その作品には、ややあいまいな姿勢、表現が見えるのも興味深い。

 これまでは、著名な歌人を中心に読んできたが、結社などに拠る、一般の歌人たちはどうであったのだろうか。当時、いまの私と同じような視点で作業を進めていた歌人がいる。柳田新太郎(19031948)は、著名歌人に限らないで、広く、結社誌の作品欄を渉猟し、天皇・天皇制について詠んだ歌を収集し、若干の解説を試みていた。以下の仕事も、『短歌往来』創刊時より「短歌紀要」という、いわば、歌誌展望のような仕事の一環であった。もともと、若くして、既成の短歌の革新を目指してプロレタリ短歌運動、新興短歌運動にかかわった。その後は『短歌月刊』を創刊、歌壇ジャーナリストとして活動していた。戦後は、この「短歌紀要」などを執筆していたが194811月、急逝している。柳田は、この記事の中で、資料探索の成果をそのまま提示することを自認していたが、無名有名を問わず、歌人たちが、素朴で迷妄な、「頑固な無条件的な天皇制支持者」となっていることについて「現役の、しかも代表的な歌人たちがああまで無批判的なうごき、今なほ時を得次第再び同じ動きを繰返さうとする気配が見える(これはどういふうことだらうか。歌人たちが終戦以来今日までおよそ三年、ほとんど作品の上に思想的甦へりの苦悶を示さないばかりか、苦悶らしい影さへも見せずにゐることが、外部にこのやうな形で反映しているのではないか。以下略)」とか、「歌人たちは数人をのぞいて知名の歌人の殆どが天皇制及び天皇についての作品を示してをらぬことだが、このことも一つの問題であらう」とか、かなり辛らつな批判もしていた(『短歌往来』19482月、44頁、46頁)。しかし、その一方で、さまざまな立場、さまざまな環境の中で、天皇制、天皇について詠まれた、一般歌人の多数の作品の中には、「歌の世界、歌によつて自己表白を遂げる人びとの意識も、無血革命の進行の度にともなつてそれはそれなりに、またそれが緩慢な速度であらうとも、徐々に移り変りを遂げてゆくのではなからうか」と、願望というか期待を持つて結んでいる(『短歌往来』19483月、47頁)。

柳田新太郎「天皇制および天皇と短歌」短歌往来19482
柳田新太郎「宮廷の歌と市民の歌」短歌往来19483

 柳田が、没後70年の現在の歌人たちの天皇制・天皇への姿勢を見たら、何を語るだろうか。(つづく)

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2018年10月 8日 (月)

元号が変わるというけれど、―73年の意味(5)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(2)

 

吾が大君大御民おぼし火の群が焼きし焦土を歩ませ給ふ

(佐佐木信綱)(19459月号)

大君の御楯と征きし兵士らが世界に憎まるる行ひをせり

(杉浦翠子)(194510月号)

かすかなる臣の一人とつつしみて御聲のまへに涙しながる

(佐藤佐太郎)(194510月号)

失ひしもののすべてにいやまさる玉のみ聲を聞きまつるかも

(五島美代子)(194510月号)

現つ神吾が大君の畏しや大御聲もて宣らせたまふ

(窪田空穂)(194511月号)

 

いずれも、『短歌研究』からの抜粋であり、以下は、815日直後の新聞に発表された作品である。

大君の宜りたまふべき御詔かは 然る 御詔を われ聴かむとす

(釈迢空)(朝日新聞1945816日)

聖断はくだりたまひてかしこくも畏くもあるか涙しながる

(斉藤茂吉)(朝日新聞1945820日)

 これらの抜粋の仕方に異議を唱える者もいるかもしれないが、私は、有力歌人たちのこうした作品が、ともかく敗戦後の短歌の出発点であったことには間違いない、と思っている。

1946年の歌会始、「御題」は「松上雪」で従来通りの形式で執り行われ、著名歌人たちが、この「御題」で詠んでいるのが、あちこちの雑誌で見受けられた。19461月より川田順は、皇太子(明仁)の作歌の指導にあったっているという記事が消息欄に記されている(短歌研究19464月)。

耐へ難きをたへて御旨にそふべしとなきの涙をかみてひれふす

(斎藤瀏)(短歌研究194612月)

天皇のとどまりたまふ東京をのがれて遠しつつましく住む

(村野次郎)(短歌研究19463月)

旗たてて天皇否定を叫びゐし口角の色蒼白かりき

(吉野鉦二)(短歌研究19463月)

萬世を貫きたまふすめろぎの宮居すらだに焼けたまひつる

(原田春乃)(短歌研究194678月)

 こんな歌も散見できるのだが、その一方で、歌壇への厳しい声も起こっていたのである。『人民短歌』のこと挙げの一つでもある、小田切秀雄「歌の条件」(『人民短歌』19463)であり、臼井吉見「展望(短歌決別論)」(『展望』19465月)などであり、とどめは、桑原武夫「第二芸術―現代俳句について」(『世界』194611月)であった。小田切は「戦時中、侵略権力の掲げた合言葉を三十一文字に翻訳したり、時局向けに自身の感情を綾づけて事足れりとした状態はもう存続する余地はない」「仲間ぼめと結社外での縄張り争いが支配的だった」歌壇や「趣味的な<作者>兼読者なぞといふものは、歌の世界から一掃した方」がよいとする。

臼井は、815日の玉音放送を詠んだ「 御聲のまへに涙しながる」、「玉のみ聲を聞きまつるかも」、「大御聲もて宣らせたまふ」などをあげ、「上句も作者も記すに及ばぬほどその発想の同一に一驚せざるを得ない」とした(本記事、冒頭の歌の下線部分を参照、佐太郎、美代子、空穂の作とわかる)。そして、1940128日を詠んだ歌、次のような歌を、作者名なしで引用し、「宣戦と降伏と、この二つの場合の詠出が、そつくり同一なのに一驚するにちがひない」として、「歌づくりにとつては表現的無力の問題でなく、実際に於て、上述の作に表れてゐる限りのものしか感じ得なかつたのではなからうか。恐らく短歌形式の貧困と狭隘を感ずるほどの複雑豊富な感動内容など持ち得なかつたにちがひない」として、「今こそ我々は短歌への去り難い愛着を決然として断ち切る時ではなからうか。これは単に短歌や文学の問題に止るものではない。民族の知性変革の問題である」と結ぶ。

一億の民ラジオの前にひれ伏して畏さきはまりただ聲を呑む 

*(金子薫園)(短歌研究19421月)

大詔いま下りぬみたみわれ感極まりて泣くべくおもほゆ

*(吉井勇)(短歌研究19421月)

 

  桑原は、現代を代表する俳人の十句と無名の人の五句を、作者名を消して並べたとき、その区別がつくか否かの問題提起をし、一句の芸術的価値判断は、困難であり、その作者の地位は芸術以外のところ―俗世界における地位すなわち「世間的勢力といったものに標準をおかざるを得なくなる」

として、俳句を「菊作り」にもたとえ、「芸術」というより「芸」というがよい、とする。「しいて芸術の名を要求するのならば<第二芸術>と呼んで、他と区別するがよいと思う」と「第二芸術」の由来を述べる。文章の末尾に、引用の十五句のうち十句とその作者、青畝、草田男、草城、風生、井泉水、蛇笏、たかし、亜浪、虚子、秋櫻子の名を明かしている。これは、俳壇のみならず、歌壇、歌人たちにもかなりの衝撃となった。

 ちょうど、「第二芸術」掲載の『世界』発売の直後、194612月、上記の小田切、臼井の短歌へ疑問を受けた形で、久保田正文は「歌人自身が、その使命と時代を自覚することのみが要求されてゐる」として短歌総合誌『八雲』を創刊するに至るのである(「歌壇展望」『八雲』194612月)。さらに、久保田は、その創刊号の「編集後記」では、つぎのように述べ、執筆者も歌人に限らず、有名・無名を問わない「五十首詠」を続け、いわば「読者吸収策」としての短歌投稿欄は設けない、と言った意欲的な編集を進めることになる。

「『八雲』は芸術的に失業した歌人の、救済機関として創刊されたものではない。それ故舊歌壇のギルド的な枠の中で、メッセンヂャアボウイの役をつとめることはしない代りに、短歌の運命を探求する公の機関たらしむことを念願する。短歌が眞に文学の一環としての生命を自覚し、芸術のきびしい途に繋がり得るか否かを實践的にこたへる試練の場を提供する使命を果たさむと志向する」(つづく)

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『世界』1946年11月号の桑原武夫「第二芸術」のGHQの検閲を受けた頁。導入部分で、国民学校の教科書に掲載されている三句の引用のうち、「元日や一系の天子不二の山 鳴雪」の一句が削除されている。残るのは「雪残る頂一の國さかひ 子規」「赤い椿白い椿と落ちにけり 碧梧桐」。ほか、後半部にも、「勝者より漲る春に在るを許せ 草田男」が削除され、関連の4行が削除されている。プランゲ文庫文書に残る削除部分が読みにくいので、『桑原武夫集2」(岩波書店 1980年5月)に収録のこの論文を確認すると、冒頭の鳴雪の俳句も、草田男の俳句及び関連の文章も削除されたままで、復元されてはいなかった。後者にあっては、削除部分に加えて、さらに数行が削除されていた。もちろん、GHQによる削除も、著作集に収録の際の削除についても一切注記はなかった。引用俳句の誤植の注記は、されていた。これはいったいどういうことなのだろうか。GHQによる削除を、容認したことになるのではないか、の疑問が残る。ちなみに、削除の理由として、二つの俳句の意味が不明確の上、後者草田男の句は、「Critical of US」であり、前者鳴雪の句は「Propaganda」となっていた。なお、この号の『世界』は、向坂逸郎「政治と経済」、恒藤恭「天皇の象徴的地位について(二)」、小林勇「三木清を憶ふ・孤独のひと」にも削除部分が記録されている

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2018年10月 7日 (日)

元号が変わるというけれど、―73年の意味(4)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(1)

 

大地のブロック縦横にかさなり

断層數知れず 絶えずうごき 絶えず震ひ

都會はたちまち灰燼となり

湖はふくれ津波(よだ)となる。

決してゆるさぬ天然の気魄は

ここに住むものをたたきあげ

危険は日常の糧となり 死はむしろ隣人である。
(高村光太郎「地理の書」より) 

 高村光太郎「地理の書」の一節である。1938年の作であるという。敗戦直後の19459月号の『短歌研究』の巻頭論文、中村武羅夫「我が國體と國土」に全編引用されていた。

懲りない面々の「どうしようもナイカク」第4次安倍内閣はスタートしたが、天皇の代替わりは来年に迫った。日本国憲法のもとでは、元号が変わっても、この区切りは、政治的には何の意味もない。しかし、政府は、国民の反応をみながら、その「代替わり」の利用価値を探っているように見える。国民にとっては、憲法上の<象徴>が代わるわけだが、実質的に暮らしには影響がない。ただ、日常的には、年号表示がややこしくなるのが予想できる。なんとしても西暦に統一しないと、すべての事務的処理も、少なくとも日本の近現代史は西暦でないと何年前の出来事かわからくなる。研究・教育に携わる人は、役所の人は、声を上げて欲しい。個人としては、元号が実働しないように身近なところから実践したい。

平成の天皇自身(サイド)は、平成最後の名のもとに、いわば駆け込み的に、いま、さまざまな行事をこなしている。被災地見舞いもその一つだが、私などは、夫妻の姿を見るにつけ、健康第一で、静養されるよう願うばかりなのだ。マス・メディアでは、「平成最後の~」「平成~」などの特集や記事を展開中であり、今後は、ますます拡散するだろう。短歌総合雑誌でもそんな記事をみかけるようになった。それで読者が増えるようには思わないのだが。

 最近、必要があって、敗戦直後の1945年~50年あたりまでの短歌総合雑誌のコピー類やプランゲ文庫のコピーを引っ張り出しては、読み直している。現在進めている作業とは直接関係のない記事や短歌作品にも、ついのめり込んで、立ち往生ということが何回もあった。占領期とも重なるこの時代、「新憲法」が少しづつ定着して行く過程で、「歌壇」や歌人たちは、「短歌と天皇制」をどのように考えていたのかが、気になりだした。これまで、短歌と天皇制をテーマにした旧拙著でも、「歌会始」に関連して触れていることはあったのだが、文献を中心にもう一度、少し立ち止まって、考えるチャンスではないかと思ったのである。

 

冒頭の詩を引用した「我が國體と國土」は、「日本の國體が比類なく神聖にして、尊嚴極まりないことは、わが國の歴史がこれを證明してゐるし、古来幾多の詩歌に依つて歌はれ、文章に綴られ、國民等しく知悉してゐるところである」で始まり、後半は「聯合軍司令部の命に依り以下一部削除」と記された後に、上記、高村光太郎「地理の書」を引用し、この詩こそ「わが本土に對する絶対的の愛敬と國體欽讃の聖なる所以を喝破してゐると言つてよからう」と結ぶ。GHQは検閲の痕跡を残さないのが原則だから、それを明記した文言を入れたまま発売に到っているのは、めずらしい例といえる。

ちなみに、9月号は、だいぶ遅れての発行であったらしい(国立国会図書館の受入印では「昭和201119日購入」となっている。10月号に、編集発行人木村捨録による記事によれば、30日遅れとある。また、その記事には、『日本短歌』9月号は発禁とあるが、16頁立てのものが国立国会図書館に納本されている)。

高村の「地理の書」の上記のような一節は、三陸の大津波や関東大震災を踏まえてのことで、80年前の地学には素人の詩人でも「日本列島」の成り立ちを知っていたのだから、東日本大震災の時に、「想定外の」とか「千年に一度の」などという言い訳は成り立たないはずであった。にもかかわらず、この日本列島は、50基以上の原発を擁していたのである。「ここに住むものをたたきあげ/危険は日常の糧となり 死はむしろ隣人である」というフレーズは、無策に近い、後追いのいまの政府の災害への姿勢であり、防災政策、対策の担当者や一部のマス・メデイアの謂いを代弁しているかのようでもある。

19459月以降、復刊、創刊されたさまざまな短歌雑誌には、疎開生活や空襲による自宅焼失、食糧難などを嘆く短歌とともに、占領軍(進駐軍)への批判や敗戦後の解放感などが歌われた短歌であふれる。GHQによる検閲は、とくに、占領軍の横暴に触れた作品・文章には神経をとがらせ、米兵の性風俗や「植民地化」という文言には、強く反応を示している。一字、あるいは上句、下句がそっくり削除され、空白にしたままの検閲の痕跡を残した短歌が、いろんな雑誌で、散見できる。検閲の対象は、地方のミニコミ誌にまで及ぶが、「痕跡を残さない」検閲がどれほど徹底していたか、は今後の課題かもしれない。

そんな中で、天皇を詠んだ短歌、天皇制に触れる論評は、決して多くはないが、見受けられるようになる。(つづく) 

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『短歌研究』1945年9月号の、中村武羅夫「わが國體と國土」から。上は、GHQの検閲で削除が命じられた箇所は黒塗りになっている。下が、実際に印刷・発売された雑誌の該当部分だが「聯合軍司令部の命に依り以下一部削除」と明記されている。
ちなみに削除された文章は以下の通り。「既に今度の戦争に至って、われわれは二十歳になるやならずの多くの若き武人たちが、天皇の御為に、皇国護持のために□□きながら神となつてゆく姿を、眼の当たり見てゐるのである。日本ならずして何處にこのやうな尊い事実を□□すべき國柄の國家があるであらうか。」とまで読める。

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2018年9月19日 (水)

「没後50年藤田嗣治展」へ出かけました~「戦争画」とは何だったのか(2)

戦争画への評価

藤田の戦争画は、もちろん体験に基づくものでもなく、写実でもなく、「想像」と多様な「技法」の産物であったことはどの評者も認めるところだが、その思想と鑑賞者の受け取り方については、大きく意見が分かれるところである。

その典型的な一つは、今回の藤田展の公式ウェブサイトに岸恵子が寄せている、つぎのような考え方であろう。小難しい言い回しはなく、実に簡明で分かりやすいのは確かだ。

「アッツ島玉砕」を戦争賛歌とし、藤田嗣治さんを去らしめた戦後日本を私は悲しいと思う。戦争悪を描いた傑作なのに。晩年の藤田さんに私は寂しい翳を見た。瞳の奥には希代の才能が生んだ作品群、特に巨大壁画「秋田の行事」の躍動する煌めきも感じた。欧州画壇の寵児ではあっても、日本国籍を離脱するのは辛かったのではないかと、私は想像する。」(岸惠子/女優)

  また、今回の藤田展の監修者でもあり、「作戦記録画」全14点を収録した『藤田嗣治画集』全三巻(小学館 2014年)をまとめた林洋子は、少し前のインタビューで次のように語っている(「『藤田嗣治画集』刊行 作戦記録画全点を初収録」『毎日新聞』夕刊 2014414日)。

「(作戦記録画が)ようやく、『歴史化』が可能になってきたと思います。藤田の作戦記録画をめぐる批判は『森を見て木を見ていない』という印象がありました。一点一点、違うことを冷静に見ていただきたい」「(この10年)絵画技法においては、もっとも研究が進んだ画家になりました」

前述の『朝日新聞』における、いくつかの藤田展紹介記事では、1920年代の「乳白色の裸婦」や敗戦後日本を去り、アメリカを経て、1950年から晩年までのフランスでの作品に焦点が当てられているもので、「作戦記録画」について触れたものは、②「激動の生 絵筆と歩む」のつぎの一カ所だけであった。会場のパネルの「年譜」を見ても、前述のように、やや不明点があるものの簡単な記述であった。

「軍部の要請で、戦意高揚を図るための<作戦記録画>を盛んに描くようになる。終戦後、戦中の国策協力を糾弾される中、49年春に日本を去った。それから二度と祖国に戻ることはなかった」 

藤田の戦争画をめぐっては、古くから、技法に優れ、描法の開拓を評価するが、芸術としての内容、内面的な深まりが見えない、表層的だとかいう指摘や「狂気」にのめり込んだとか、「狂気」を突き抜けたとか、鎮魂の宗教画だとか、さまざまな評価があるようだ。絵画を含め文芸において、技法はあくまでも手段であって、第一義的には、作品の主題、作者の思想の表出が問われるべきではないか。あの凄惨な戦争画が「鎮魂」とは言い難いのではないかと思っている。とくに、当時、藤田自身が新聞紙上で、つぎのようにも述べているところを見るとなおさらである(「戦争と絵画」『東京日日新聞』 1942122日)。

「かかる大戦争のときに現われものは現われ、自滅するものは自滅し、真に実力あり誠心誠意の人のみが活躍出来る。画家としてこの光栄ある時代にめぐりあった私は、しみじみ有難いと思う。(中略)今日の戦時美術はその技巧に於いて、諸種の材料に於いて正銘の日本美術であることは我々の喜びである」

 藤田は、陸軍省や海軍省から戦地へ派遣されるものの戦場に向かうわけではなく、絵具や画材は十分に与えられ、戦局の情報も知り得た制作環境のなかで、描きたいものを描く達成感が得られたのかもしれない。しかし、作品の多くが、現実に、戦意高揚、聖戦貫徹という役割を果たし、国民をミスリードしているという自覚は、なかったのだろうか。自分の戦争画が多くの鑑賞者を動員することを目の当たりにし、国家権力や大衆に迎合することによって、得られたものは、日本での名声であり、海外生活が長かった藤田にしては、「祖国愛」、「日本」への帰属意識だったのかもしれない。

そして、藤田は、敗戦後のGHQへの対応によって、多くの疑念を抱かせた。しかし、戦争画を描いたのは藤田ばかりではなかったのだが、日本の美術界は、画家たちと国家権力、戦時下の美術という基本的な問題を個人の「戦争責任」へと矮小化させ、曖昧なまま戦後を歩み始めたのであった。もちろん画家一人一人の戦争責任は、各人が、その後、戦時下の作品とどう向き合い、処理したのか、以後どんな作品を残したのか、どんな発言をし、どんな生き方をしたのかによって、問われなければならないと思っている。 

戦争画に対するマス・メディアの動向、過去そして現在

先の藤田研究の第一人者と言える林洋子は、作品一点一点の差異を冷静に見る必要を説き、「森を見て木を見ていない」という傾向を嘆くが、私には、藤田作品のテーマの推移、技法の変遷、その時代の言動というものをトータルに振り返る必要があるのではないかと思っている。むしろ「木を見て、森を見ない」、技法偏重の論評が多くなっていることがみてとれる。それが、大きな流れとなって「戦争画」評価の着地点をいささか緩慢に誤らせてしまっているような気がする。

さらに、敗戦後、73年を経て、戦争体験者、戦時下の暮しを知らない人々、戦後生まれがすでに83%を占めるに至り、美術史上、戦争画への評価は、大きく変わりつつあるのか、それとも、変わり得ない何かがあるのか。門外漢ながら、昨今の動きが、私には、とても気になっている。

今回の藤田展の主催者として、朝日新聞社とNHKが並んでいる。戦時下の朝日新聞社は、「戦争画」の展覧会を幾度となく主催している。この二つの事実は決して無関係なこととは思われないのだ。

<朝日新聞社主催の戦争画展>

19385月 東京朝日新聞創刊50周年戦争美術展(於東京府美術館、朝日新聞社主催)

19397月 第1回聖戦美術展(於東京府美術館、朝日新聞社・陸軍美術協会主催)

19417月 第2回聖戦美術展(於上野日本美術協会、朝日新聞社・陸軍美術協会主催)

19419月 第1回航空美術展(於日本橋高島屋、朝日新聞社・大日本航空美術協会主催)

19429月 第2回航空美術展(於日本橋高島屋、朝日新聞社・大日本航空美術協会・大日本飛行協会主催)

194212月 第1回大東亜戦争美術展(於東京府美術館、朝日新聞社主催)

19439月 第2回航空美術展(於日本橋高島屋、朝日新聞社・大日本航空美術協会・大日本飛行協会主催)

194312月 第2回大東亜戦争美術展(於東京府美術館、朝日新聞社主催)

19443月  陸軍美術展(於東京都美術館、朝日新聞社・陸軍美術協会主催)

19445 月 第8回海洋美術展(於東京都美術館、朝日新聞社・大日本海洋美術協会・海洋協会主催)

19454月 戦争記録画展(於東京都美術館、朝日新聞社・陸軍美術協会・日本美術報国会主催)

「戦争/美術 関連年表19361953」(長門佐季編)『戦争/美術19401950モダニズムの連鎖と変容(展覧会図録)』( 於神奈川県立美術館葉山 1913年)より作成 

なお、このほかにも、さまざまな戦争画展は開催されているが、突出しているのは朝日新聞社で、他の東京日日新聞、読売新聞などとの激しい競争と陸軍・海軍同士の確執も加わっての結果らしい(河田明久「作戦記録画をめぐる思惑のあれこれ」『戦争/美術19401950モダニズムの連鎖と変容(展覧会図録)』2013年)。さらに言えば、敗戦直後、藤田の戦争責任を糾弾する宮田重雄「美術家の節操」を掲載したのも『朝日新聞』(19451014日)であったのである。

 また、NHKには、戦争画周辺をテーマにした番組や藤田をテーマにした番組も多い。最近だけでも、私自身がみた番組を中心に、ネットでも確認できたものを加えるが、もちろん網羅性はないので、もっとあるのかもしれない。

<最近のNHK藤田嗣治関係番組>(  )内は出演者
1999923日「空白の自伝・藤田嗣治」NHKスペシャル(藤田君代、夏堀全弘)
2003127日「さまよえる戦争画~従軍画家の遺族たちの証言」NHKハイビジョンスペシャル(藤田嗣治、小磯良平、宮本三郎らの作品紹介と遺族たちと小川原脩の証言)
2006416日「藤田嗣治~ベールを脱いだ伝説の画家」NHK教育テレビ新日曜美術館(立花隆)
2012711日「極上美の饗宴 究極の戦争画 藤田嗣治」NHKBS(笹木繁雄、菊畑茂久馬、司修、アッツ島生存者、サイパン島住民生存者、東京国立近代美術館美術課長蔵屋美香)
2012826日「藤田嗣治―玉砕の戦争画」NHK日曜美術館(笹木繁雄、菊畑茂久馬、司修、野見山暁治)
20151217日「英雄たちの選択・アッツ島玉砕の真実」NHKBSプレミアム201898日「特集・よみがえる藤田嗣治―天才画家の素顔」NHK総合
201899日「知られざる藤田嗣治―天才画家の遺言」NHK日曜美術館

 こうしてみるとこの20年間に、再放送を含めると、20本近い関連番組が流れていることになる。NHKは、一人の画家についての取材を続け、繰り返し放送していたことになる。1999年「空白の自伝・藤田嗣治」、ハイビジョンスペシャル「画家藤田嗣治の二十世紀」(未見、未確認)の制作を担当した近藤文人は、『藤田嗣治<異邦人>の生涯』(講談社 2002年、2008年文庫化)という本まで著している。近藤は、先行研究に加えて、当時未刊だった夏堀全弘「藤田嗣治論」(『藤田嗣治芸術試論』三好企画 2004年公刊)、藤田の日記などの未公開資料を読み込み、藤田君代夫人(19112009)へのインタビューを重ねた上で、書き進めている。藤田自身の日記や夫人のインタビューに拠るところが多い部分は、どうしても身内の証言だけに、客観性、信ぴょう性に欠ける部分が出てくるだろうし、当時は存命だった夫人への配慮がある執筆部分も散見できる。その後の関連番組は、そのタイトルからも推測できるように、藤田のさまざまな側面から、その作品や生涯にアプローチしていることがわかる。戦争画への言及は、そのゲストの選択から見ても分かる通り、むしろ薄まってゆき、というより、再評価への道筋をつけている。この間、2006年には、NHKは「パリを魅了した異邦人 生誕120年藤田嗣治展」を東京国立近代美術館、日本経済新聞社と主催している。グローバルに、華やかな活躍をした<伝説>の画家としての部分がクローズアップされ、今回の没後50年の藤田展に繋がる軌跡をたどることができる。もはや「戦争責任」はそれとなくスルーしてもよいというムードさえ漂わせる論評も多くなったのではないか。上記に見るような、朝日新聞やNHKの番組で繰り返されるメッセージが、その手助けをしてはいないか、いささか恐ろしくなってくるのである。しかも、『朝日新聞』、NHKに限らないのだ。 

 網羅性はないが、私の「戦争と美術」のスクラップブックを繰り始めて、気が付いたことがある。2006年の生誕120年の藤田展に関して、北野輝「藤田嗣二と戦争責任」上下(『赤旗』2006912日・13日)において、この藤田展が藤田芸術の全貌に触れる機会になったことは歓迎するが、「藤田の再評価」「手放しの賛美」や戦争画の「意味を欠いた迫真的描写」の凄惨嗜好が玉砕美化への同調となり、現実の人間の命や死への無関心を助長しないかという問いかけがなされていた。それが、同じ『赤旗』における、今回の藤田展評は、「没後50年藤田嗣治展 多面的な画作の軌跡 漂泊の個人主義的コスモポリタン」(武居利史、201894日)と題して、作品の成り立ち、創意工夫に着目する。作戦記録画の出品は二点のみで「代わりに展示で充実するのは、戦後米国経由で渡仏して20年間の仕事だ」とした上で、「藤田の生き方は、国粋主義的ナショナリストというより、個人主義的コスモポリタンに近い。美術のグローバル化を先取りした画家といえよう」と締めくくる。 二人の執筆者は、ともに敗戦後設立された「日本美術会」に属し、美術の自立、美術界の民主化活動に励んでいる人たちである。執筆者の世代の相違なのか、その基調の変化にいささか驚いたが、共産党の昨今の動向からいえば、不思議はない。しかし、追悼50年の「大回顧展」なのだから、その作品を、生涯を、トータルに検証すべきではなかったのか。

こうした傾向については、何も美術界の傾向に限らず、他の文芸の世界でも、私が、その端っこに身を置く短歌の世界でも、同様なことが言える。いまさら「戦争責任」を持ち出すことは、まるで野暮なことのように、戦時下に活躍した著名歌人たち、自らの師匠筋にあたる歌人たちが、時代や時局に寄り添うことには寛容なのである。ということは、そうした歌人たち自身の国家や社会とのかかわりにおいても、抵抗というよりは、少しでも心地よい場所を探っていくことにもつながっているのではないか、と思うようになった。

なお、藤田に関わる資料をひっくり返しているなかで、ある写真集というか、訪問記を思い出した。それは、毎日新聞のカメラマンであった阿部徹雄の1952年のマティス ヴラマンクそしてフジタ』(阿部力編刊 2016年)であった。これは、ご子息がまとめ、解説も書いている。1952年の三人の画家の訪問記であった。精選された写真は、アトリエだったり、家族との団らんであったり、これまで、あまり見たことがなく、その日常が興味深く思えた。とくに、モンパルナスの藤田の住居兼アトリエ(カンパニュ・プルミエール通り23)、1952年と言えば日本を離れて間もない藤田65歳のころである。19521011日・14日・20日の三回訪問している。その取材ノートの部分には、藤田夫妻の日常と実に率直な感想が記されていた。日常の買い物などは藤田がこなしていることや夫人は「家の中ばかりいて、外の空気に触れない人らしい。藤田さんという人は本当に奥さん運のない人だ。気の毒な位芸術の面がそのことでスポイルされているように見えた。この人の芸術的センスに良妻を与えたいものだ」とのメモもある。 

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写真集の表紙(右)と裏表紙。チラシより

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チラシの裏

 

 藤田の没後、君代夫人については、藤田作品の公表・著作権、伝記、取材などをめぐる各方面とのトラブルが伝えられているが、当時も、その一端をのぞかせていたようで、かなり起伏の激しいことが伺われた。藤田夫妻のツーショット写真もあるが、「19521014日談笑する藤田さんと君代夫人。君代夫人は化粧をして、機嫌よい姿を見せてくれた。」との添え書きもある。

なお、カメラマンの阿部徹雄(1914‐2007)が、私がポトナム短歌会で師事した阿部静枝の夫阿部温知の甥にあたる人であることを知ったのは、ごく最近である。それというのも、静枝の遠縁にあたる仙台の方とブログを通じて知り合い、ご教示いただいた。この写真集も、彼女を通じて頂戴したものである。

なお、阿部徹雄の作品の一部は、毎日新聞社のフォト・バンクの「阿部徹雄コレクション」(戦時下を含め約900)に収められている。

https://photobank.mainichi.co.jp/php/KK_search.php

 

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2018年8月21日 (火)

元号が変わるというけれど、73年の意味(3)皇室とマス・メデイアとソーシャル・メディアと

 201688日、午後3時、天皇のビデオ・メッセージが、一斉に各テレビ局から流された。その内容も大きな問題を抱えているが、どのテレビ局を回しても同じ画像と声が流れている事態に、驚いたのである。まさにメディア・ジャックではないかと。713日夜7時のNHKテレビ、ニュース7のスクープなのか、リークなのか、いまだ判然とはしないのだけれど、「天皇の生前退位の意向」が報じられ、ことは、ここから始まったことになる。

 

 天皇のビデオ・メッセージは、「平成の玉音放送」ともいわれたそうだが、これが初めてではなかったことを知った。2011316日、午後435分から6分弱のビデオによる「おことば」が、在京テレビのどの局も、それぞれ組んでいた特別報道番組の中で流していたという。不覚にも、私にはその記憶がない。316日当時は、地震の被害、津波の被害、原発事故による被害の全貌がまだわらず、その惨状、広がり、死者の増加が刻々と報道されるなか、その衝撃の大きさもあって、天皇のビデオ・メッセージは、聞いていたかもしれないが、記憶にない。その内容は、下記の資料で見ていただくとわかるが、「見舞いと励まし」の域を出ず、印象が薄く、埋没してしまったのかもしれない。しかし、このときは、テレビ東京を除き、すべての在京テレビ局が放映したという。

 

・東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば(2011316日)(宮内庁) 

http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/okotoba/tohokujishin-h230316-mov.html

 (参考のため) 

・象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(201688日)(宮内庁) 

http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12 

 

  天皇のビデオ・メッセージが、このような形で、いわば非常時の「心構え」や天皇みずからの「個人的な意向」が国民に発せられるということは、憲法上、法律上可能なのだろうか。2011年の場合は、被災地や慰霊の旅、さまざまな行事での「おことば」の延長としての「公的行為」、実質的な効用を持たない「挨拶」のような役割しか果たさなかったと思うが、2016年の場合は、憲法第4条の内閣の助言と承認を必要とする「国事行為」の規定にも当てはまらないし、「摂政を拒む」という皇室典範を明らかに逸脱する意思表示でもあった。その「お気持ちがにじむメッセージ」は、通例の「おことば」でもない「記者会見」でもない方法で発信された。あのメッセージは、もちろん公文書となるわけだから、天皇一人で作成したとも考えられない。となると、宮内庁と官邸が関与して、違憲・違法行為をしていることになりはしないか。その不透明な点を厳しく指摘する論者は少ないが、以下はその一つだろう。
 

・「天皇ビデオメッセージ」15『アリの一言』(20168915) 

https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/e/ffac8315cb4322d232b9dc869befa2a6

 

 私も、当時、手探りながら若干言及しているので、下記のブログをご覧いただきたい。
 
・天皇の「生前退位」の行方~「天皇制」の本質については語られない12 

『内野光子のブログ』(2016112930) 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/11/post-dd45.html 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/11/post-e43f.html

 内容的にも、疑義があるわけだが、その伝達方法が、ビデオ・メッセージによる全テレビ局一斉放映という形、いったい、どこの誰が決めたことなのだろうか。 あの11分の間、テレビ局が他の情報を排除し、一斉放映することになった過程を知りたいと思った。各局、その指示を受け入れる判断をしたのは誰だったのか、どのテレビ局も一斉に放映したということが、私には恐ろしく思えたのである。その過程が曖昧なまま、国民は、有無を言わせず、ビデオだけを視聴させられたことになる。

 

一斉放映後のマス・メディアは、少しの戸惑いを見せながらも、高齢化した天皇の任務の重さを理解した心情的な記事が溢れ、国民の多くも同調するという流れができ、世論調査などにもその傾向は色濃く反映された。

 

この一連の流れを見ていると、かつての旧憲法下には「勅令」という法形式があった。今回のメッセージは、個人的な「お気持ち」というソフトな表現が使われた。しかし、その内実は、丁寧で、やさしい言葉と映像につつまれた超法規的な言説ではなかったのか。しかも、その伝達力の速さと広さは、かつての官報や新聞、ラジオ放送などとは比較にならないほどのものとなった。さらに、いつでもどこでもインターネット上では繰り返し視聴できる。それに加えて、多くのマス・メディアは、記事や番組において、法律家や歴史家、さまざまな論者が入れ替わり立ち代わり、慣れない敬語をもって、解説やコメントをしていたことは、記憶に新しい。その一方で、政府や国会は、メッセージに応えるべく「静かな環境」でという建前で、立法の準備を進め、結果的に、論者や政治家による検証や議論をけん制した。

 

現憲法下での天皇の在り方について活発な議論がなされるべき、絶好のチャンスのはずだった。野党もマス・メディアも、有識者会議での論点の限りの整理のみにとどまり、あるべきアジェンダの設定を怠ったと言わねばならない。

ただ、玉石混交、フェイク情報が前提とされるインターネット情報や週刊誌情報ではありながら、私が、かすかに期待をするのは、節度を持った情報交換や意見交換が活発になることであり、皇室・天皇への国民の関心が高まり、そこから課題が生まれることである。(つづく)

 

 

 

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2018年8月16日 (木)

元号が変わるというけれど、73年の意味(2)象徴としての天皇の仕事とは

天皇という一人の人間の死去によって、あるいは退位の意思表示によって、元号、時代表示が変わるということが、この現代の日本で、当たり前のように受け入れられようとしている。これは、いったい何を意味するのだろうか。

 

201688日、天皇は、象徴としての任務を全うすることが難しくなったとして生前退位の意思を固め、象徴天皇としての役割をきちんと受け継いで欲しいという「お気持ち」を発信した。あの日の午後3時、どのテレビ局も一斉に、11分弱のビデオ・メッセージを流したのである。これを聴いたとき、天皇も、身体的に限界を感じて「仕事」を辞めたいということであれば、だれも止めることはできないだろうし、私も、個人の尊厳にもかかわる問題という認識で、当然のことと受け流していた。

 

 
  しかし、よくよく考えてみると、憲法上の国事行為は、限りなく形式的な行為であって、天皇自らの意思に基づいてなされる行為ではない。そのルーティンワークも、考えてみれば、精神的には過酷な任務であろうと思う。しかし、それに加えて、法律上は何ら規定のない「公的行為」、宮内庁のホームページには、「ご公務など」とあえて曖昧な表現をとる「仕事」として、前記事で述べたように列挙されている。これらの中には、明治天皇以来、昭和天皇以来という伝統的、慣例的な行事も多い。その上、平成期の天皇は、「象徴としての天皇の仕事」には、積極的に取り組んできた自負を、あのメッセージに滲ませていた。
象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(201688日)(宮内庁)

 

http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12

 

たしかに、私たち国民の目に触れる天皇の言動は、純然たる国事行為や私的な活動に比べて、「象徴天皇としての仕事」が大部分ではなかったか。戦没者慰霊、国会開会式、被災地お見舞い、戦跡慰霊の旅、全国植樹祭、国民体育大会、全国豊かな海づくり大会、園遊会、外国の要人接待などの国際親善の場での姿や「おことば」であった。国民に寄り添いたい、国民に理解してほしいという天皇個人の気持ちや天皇夫妻のパーソナリティが表出されるのかもしれないが、そこには、それらのイベントには、膨大な政府の力、自治体の力、市民の力が拠出されていること、過剰なほどの労力や時間、予算がかけられていることはぬぐいようもない事実である。そして、その見返りとしての政治的利用を否定するわけにはいかないだろう。というより、天皇の政治利用を目論む権力が登場しても不思議はない。私たちは、歴史からそれを学んだはずである。

 

 
  実は、時の政府・省庁の選択による褒章制度、息のかかった選考委員による様々な顕彰制度、園遊会への招待にいたるまで、政治家や官僚、研究者や文芸に携わる人たち、ジャーナリストやスポーツ選手・芸人・タレントにいたるまで、政府批判はしない、明確な物言いや主張は避ける、政治的な発言はしない・・・、まさに権力は「刃物」を持たずして、メディアや職場や地域で、あるいは、それぞれの分野の「業界」で、自粛や自己規制の雰囲気を作り出すことができてしまっている。失うものがない、一般市民が頑張るしかないではないか。

 

これまで、私は、短歌という狭い世界から、皇室と現代歌人たちとの関係を「<選者>になりたい歌人たち」「祝歌を寄せたい歌人たち」(『現代短歌と天皇制』風媒社 2001年)、「勲章が欲しい歌人たち」「芸術選奨はどのように選ばれたのか」(『天皇の短歌は何を語るのか』御茶の水書房 2013年)などにおいて、検証してきたつもりである。天皇の代替わりを前に、元号が変わる前後に、現代歌人たちは、どんな短歌を詠み、何を語るのか、短歌メディアは、何を発信するのかを見届けたい。

 

 

 

 

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2018年8月 9日 (木)

「分断を越えて」とは―そこに生れる「分断」はないか~ある短歌雑誌の特集に寄せて

地域での市民活動や住民運動に目を向けてみると、目指すところが一致しながらも、ちょっとでも異論を唱える、うるさそうな?グループや人間には声をかけないということもある。「共闘」というとき、「排除」の論理も働いていることを忘れてはならないだろう。さらに、最近は「分断をこえて」などとの掛け声も聞こえ、小異を捨てて大同につけ、ということも言われ、一見、度量の広さやなごやかさが強調される。けれども、少し立ち止まって考えてみたい。

組織の大小にかかわらず、異論を無視したり、少数意見に耳を傾けようとしなかったりすることが続くと、言いたいこともひっこめてしまう自主規制が当たり前になってしまわないかの不安がよぎる。無視されたり、口封じをされたり、「される側」の人間の立場にならないと気付かないことは多い。疑問や自由な議論を経ないままの決まりごとや活動は、長続きも、広がりにも限界があり、やがて、その活動はしぼんでしまい、いつの間にか、権力や武力を持つ体制側に与せざるを得なくなっていくのではないか・・・と。ボランティアで支えられている住民自治会などで「ボランティアなんだから、手を抜いたりしたって文句を言われる筋合いはない」みたいな風潮もめずらしくない。多数側が、反対勢力の「分断」をはかるのは、常套手段でもある。

折しも、短歌という世界においても、考えさせられる一件があった。那覇市で、パネルディスカッション「分断をどうえるか~沖縄と短歌」(2018617日 現代短歌社主催)が開かれたという。その記録の一部が『現代短歌』8月号<沖縄のうた>特集に掲載されていた。基調講演は、吉川宏志「沖縄の短歌 その可能性」、パネリストは、名嘉真恵美子、平敷武蕉、屋良健一郎、司会は、吉川の四氏が登壇している。俳人でもあり幅広く文芸評論も手掛ける平敷以外は、みな歌人である。

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8月号には、ディスカッションの記録とパネリストが提出した「沖縄のうた十首」と参加者7人の「印象記」が掲載されているが、講演録と当日会場で配布された資料の掲載はない。ほかに吉川「六月十八日、辺野古」と平敷「危機の時代・文学の現在」などの文章は掲載されていた。

討論の中で、私が着目したのは、名嘉真は発言の冒頭に「沖縄の短歌における分断とは何というのがわからなかったので・・・」と『現代短歌』の編集・発行人に尋ねたとある。そして「沖縄の短歌の世界で分断はないというのが私の実感です」と明言していたことだ。「編集後記」では、特集の趣旨を「基地を容認するか反対するか。生活者としておのおの立場を異にするにしても、僕らの生命線である表現の自由を固守するには、立場を異にする者の歌をこそ受け容れねばなるまい。受け容れた上で批評する。・・・」と、しごく当然のことが述べられているが、ここには、越えるべき「分断」が何なのか見出しにくい。

現に、この特集のために寄せられた文章にも、執筆者が「分断」について、直接言及している部分は見当たらなかった。ただ、討論での平敷発言は「分断というとき、日本人あるいは本土人が沖縄人に比して当事者性を持たない、傍観しているということに加えて、沖縄人どうしのなかにも基地に賛成の人と反対の人がいる。誰がそうさせたかというと、時の権力者です。・・・」で始まり、その認識には共感を覚えるのだった。当日の資料ではない『南瞑』からの転載という「危機の時代・文学の現在」において、平敷は、全国の自治体やさまざまなメディアにも蔓延しつつある「自主規制・自粛」が、沖縄の短歌の世界にもあったことについて言及し、その危機を警告していた。また、参加者の久場勝治は「『分断』を越えることは『表現の自粛』に繋がらないか?」と題して、「本土と沖縄に分断があるとすれば、それは短歌を超えた問題で、沖縄の状況や歴史的文化的経緯に由来するものであろう。分断が越えがたいのは、それを生み出した沖縄社会の問題解決や日本における沖縄の役割再検討(今後も基地の島か)を必要とするからだと考える。」で始まり、「分断を越えることが『個性を薄めた全国規格への併合』でなければ良いのだが。」と結ぶ「印象記」を寄せていた。 


なお、『現代短歌』は、20183月号においても<分断はえられるか>という特集が組まれ、福島市で開催されたパネルディスカッション「分断をどうえるか~福島と短歌」(2018121日)が採録されている。このときの司会の太田美和が「分断と文学の可能性」、佐藤通雅が「リセットということ」、屋良健一郎が「分断をもたらすもの~沖縄の現在」を寄せている。この特集では、「越」と「超」が混在していて、特別意味がないのならば統一すべきではなかったか。仙台在住の佐藤の文章では、311体験から感得した二つの原点として、「生者と死者の境界の消滅」したこと、「つい先日まで人間の歴史と言われたもの、文化・倫理といわれたもの、それらすべてが一瞬にして解体され、リセット状態になった」ことを挙げていたが、「分断」の語やその認識は読み取れなかった。「編集後記」では、「佐藤通雅氏に『東北を分断するもの』をテーマに寄稿いただいた。津波に呑み込まれたあの地点に立ち戻れば、分断をリセットできる、とはなんとむごたらしく美しい認識だろう。僕はそう読んだがあなたはどう読むか」とあったが、やや、強引のような気もしたのだが。

ことさらに、「分断を越えて」ということを強調することは、あらたな「分断」や「自粛」を促しはしないか、の不安は去らない。

 

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「共闘」という幻想、から抜け出すために

これほどのマイナス要因がつぎつぎと暴かれる安倍政権、その弱者軽視政策、まるでアメリカ・ファーストであるかのような外交・防衛政策にあきれながらも、内閣支持率が劇的に下がることはない。この政府の犯罪的な行為やスキャンダルも、メディアは、たんなるスキャンダルとして、面白おかしく騒ぎたてるが、あくまでも一過性で、深く調査報道を試みることもなく、忘れ去ってしまったかのように、次のスキャンダルへと乗り換える。また、NHKのように、政治スキャンダルはそそくさと、国会報道は、与野党の争点を深めるのではなく常に<攻防>としかとらえず、災害やスポーツの専門チャンネルかと思うほどの時間を割いて、「政府広報」に徹するメディアもある。そして、政府は、不都合が生じれば、「大騒ぎすることもない」と、ひたすら嵐の過ぎるのを待って、いつまでも安泰なのである。もちろん、こうした政府にも無関心だったり、いや、このままの政権維持でもかまわないで、と深く考えなかったりする国民も、合わせれば三分の2くらいになることも確かなのだ。

 

では、この一強に抗議する市民たちは、「アベ政治を許さない」「9条を守れ」「原発再稼働反対」などと、いつも仲間内では盛り上がるが、その輪を広げることができない。後退する運動を「継続は力なり」とみずからを慰める。近年は、多弱の「共闘」が叫ばれ、その内実は、政党や会派間の攻防・調整に精力が注がれ、なかなか実を結ばない。というのも、みずからの政党・会派の議員当選、一票でも支持票をのばすことが目標になってしまうからだろう。特定の複数政党、政党色が濃いいくつかの「市民団体」などが主導する集会に参加してみると、「共闘」を目指す議員たちが入れ替わり、連帯の挨拶や報告はするけれども、自分の番が終わると、集会の成り行きを見守るわけでもなく、参加者の声に耳を傾けることもなく会場を後にする場合が多い。大きな集会だと壇上から各党代表がつないだ手を振り上げ、その後のデモ行進の先頭には立つが、いつの間にか姿を消していたりする。

私は、特定の政党に属したり、後援会というものにも入ったりしたことがない。詳細は分からないのだが、共闘を目指した集会などに参加して思うのは、参加した市民の熱気に反して、招かれて講演をしたり、スピーチをしたりする著名な「文化人」「学者」「ジャーナリスト」たちが、どうして、こうもいつも同じような顔ぶれで、同じような内容の話になるのだろう、ということなのだ。さまざまな市民団体が、競うように、そうした「著名人」を招いて、人集めに腐心しているかのような印象を受ける。現に、新しい情報も提案もなく、新聞・テレビ情報を繰り返し、アジテーションに終わることが多く、「またか」の徒労感がつきまとう。あるいは、かつて保守政党の「重鎮」が安倍政権批判をしたり、かつて憲法改正論を主張していた学者が、改憲批判をしたりしたからと言って、過去の言動との整合性が問われないままに、すぐに飛びついて講演依頼をしたり、執筆させたりして重用する。それだけならまだしも、少しでも、疑問を呈したり、批判したりする人物に反論するわけではなく、無視したり、排除したりすることが当たり前になっている。

それに、首長選挙で、共闘のもとに立てた統一候補者や当選者のスキャンダルが浮上したり、公約を守らなくなったりしたとき、共闘を組んだ政党や組織の対応が、あまりにも無責任なのも、納得できないことの一つなのだ。たとえば、まだ記憶に新しい、都知事選での鳥越候補、米山前新潟県知事、三反田鹿児島県知事などなど・・・。統一候補選択にあたって、知名度や人気が優先され、政治的信条の確認などがおろそかになっていたのではないか、など裏切られた思いがする。

「共闘」の成果が上がらないのは、既成の党や会派の方針からすこしでも外れると、そうした意見や活動を無視したり、排除したりするからではないか、との思いにもいたる。市民の一人一人の思いが、塊になって動き出し、政党を動かすというのが、市民運動の本来の姿にも思えるからである。 

私がつねづね思うのは、そもそも、主体的な疑問や怒りがあってこそ、なんとかしなくてはという思いにかられ、抗議や抵抗の形が決まってくるのではないかと。「なんか少しおかしくない?」という素朴な疑問が「ことの始まり」になるのが、私の場合だ。たしかに、活字や映像の情報がきっかけになることもある。後で、自分で、少し丹念に、新聞を読んでみたり、ネットで調べてみたりしていると、さらに、知りたくなるし、疑問も増えたりする。自分取り込んだ情報や知識、そして機会があって、たとえば、市民運動の現場に足を運び、当事者との交流で得た体験は、身に刻まれる。自分からも発信したくなるし、行動の起点にもなることが多い。 

著名人を追いかけたり、ひたすら署名活動に奔走したりする人たちには、どうしてもついていけない自分がいる。せめて、野次馬根性を失わず、体力だけは維持して、ということだろうか。

 

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2018年6月 9日 (土)

短歌における「改ざん」問題 ~斎藤史を通して考える  

 『梧葉』という季刊の短歌新聞の「視点論点」に以下を寄稿しました。

~~~~~~~~~~

短歌における「改ざん」問題

①國こぞり戦ひとほす意気かたし今撃たずして何日の日にまた
  

❶国こぞり戦ひとほす意気かたし今起たずして何日の日にまた

 

亡き友よ今ぞ見ませと申すらく君が死も又今日の日のため
 
➋亡き友よ今ぞ見ませと申すらく君が憂ひしとき至りたり 

  ①②は、斎藤史の初版『朱天』(一九四三年)八九頁の掲載作品だが、❶➋ は、後年の『斎藤史全歌集』(一九七七年、一九九七年)の収録作品である。初版では「天つ御業」の小題のもと、②には「すぐる二・二六事件の友に」という詞書を付す。『全歌集』での小題は「天雲」となり、傍線部分が改作されている。傍線部分を比べると、作者には、『全歌集』編集時に、歌の意味を大きく変更する意図があったことは明白である。ちなみに、①②は、『大東亜戦争歌集愛国篇』(一九四三年)『新日本頌』(一九四二年)にも収録されている。 
 

  また、斎藤史は、『全歌集』編集時に、『朱天』の冒頭に「はづかしきわが歌なれど隠さはずおのれが過ぎし生き態なれば昭52記」の一首を付記した。『全歌集』刊行時、この一首は、戦時下の自らの作品を隠そうとしなかった潔い宣言として、高く評価され、その後、しばしば引用されている。ところが、『全歌集』に収録された『朱天』は、初版の『朱天』から



(あき)つ神在(ゐ)ます皇国(みくに)を醜(しこ)の翼つらね来るとも何 かはせむや

 等を含む一七首が削除されていた。その上、『全歌集』の「後記」に「・・・多少の手直しはあるが、発表当初と大差はない。世渡り上手に生きるならば削ったであろう戦争時の歌もあえてそのまま入れたの・・・」とも記していた。
 隠さずに公表したと言いながら、あとから、改ざん、削除、隠蔽が徐々に明らかになってきた、公文書改ざんの一件の構図を思い起こす。文芸の世界でも、用字・用語等の修正はともかく、一度、世に問うた作品や歌集には、表現者としての責任が伴うはずである。斎藤史は一例に過ぎない。(『梧葉』2018年4月春号 所収)

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2018年6月 2日 (土)

この諦めと、閉塞感ただよう中で~森友・加計問題と報道萎縮について、記者たちは~

 きのう、61日、永田町の議員会館会議室で、小規模ながら熱気にあふれたやり取りが展開されていた。近年の報道統制や萎縮に危機を肌で感じている7人の研究者・弁護士たちが、第一線の大手メデイアやソーシャルメディアの記者たちに訴えていた。世の中の新聞・テレビは、日大アメフト部の悪質タックル問題と米朝首脳会談の「駆け引き」の報道とに大幅な紙面と時間を割いていた。その合間に、森友関係の財務省の文書改竄・隠ぺい問題、加計学園からの"虚偽"報告問題、申し訳程度に開会中の国会での質疑が足早に報道される。531日には、何と、森友問題関係の公文書偽造、虚偽記載、背任などで告訴されていた財務省の38人の不起訴決定が大阪地検から公表されていた。佐川前理財局長はじめ、あれだけ大量の公文書改ざん、隠ぺいが明らかになったにも関わらずである。そして、このドサクサにに、働き方が選べると標榜し、高プロ申告制による残業代ゼロにしての、経営者が喜ぶだけの「働き方改革」法案を強行採決しようとしている。大方の国民の無力感、脱力感は、計り知れない。これがまさに、いまの政府の思うツボかもしれない。

 

 そんな状況の中でも、研究者・弁護士によるアピールは「権力監視報道に立ち戻り、報道現場の萎縮報道克服を求めます」であった。そのきっかけというのは、329日の参院総務委員会であきらかになったNHK報道局上層部の強圧的な指示であり、NHK大阪放送局で、森友問題を精力的に取材、いくつかのスクープもとった敏腕記者を意に添わず記者職を外して閑職へ異動させるという露骨な動きが明らかになったからである。

 

 出席したのは、以下の7名だった。 

梓沢和幸(弁護士) 

 小林 緑(国立音楽大学名誉教授/元NHK経営委員) 

  澤藤統一郎(弁護士) 

  杉浦ひとみ(弁護士) 

  瀬地山角(東京大学大教授) 

醍醐 聰(東京大学名誉教授/NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ共同   代表)
  服部孝章(立教大学名誉教授)

 集まったメディア関係者1823名、スタッフ2名を含み、総勢32名となった。 

 前記、NHK上層部の報道現場、ニュース番組の編集責任者への具体的な指示というのは「森友問題をトップで伝えるな、どうしても伝える時は三分半以内、昭恵さんの映像を使うな、前川前文部次官の講演問題と連続して伝えるな」というものであった。大阪放送局の件も合わせて、50数名の研究者・弁護士の賛同者名簿を添付してNHK会長に申し入れをしようとするものだった。 

1 受信料で支えられる公共放送機関としてのNHKは、権力から独立して自主自律の放送を貫くなか、権力を監視し、国民の知る権利に応える放送を続けているという視聴者の信頼を得ていることが大前提です。NHKが日々の報道でも人事においても、こうした前提を自ら壊すような言動は視聴者への背信行為であり、厳に戒めること

2. NHK報道局の上層部は取材・番組制作の現場の職員を萎縮させるような人事権を含む権限の濫用を斥け、事柄の核心に迫ろうとする意欲的な取材、番組制作への職員のモチベーションを支え、高めるような役割と職責を果たすべきこと

3. 以上の趣旨と関連して、目下、伝えられているNHK大阪放送局の記者を異動させる人事につき、不当で不合理なおそれも強く、中止を含め根本的に再検討すること

 当日の質疑は、記者自身に関わる問題だけに、具体的かつ真剣であるように思えた。大阪放送局の人事に関しては、とくに、最初に報道した「日刊ゲンダイ」のIさんはじめ、「東京」のMさん、「朝日」の記者さんは、かなり突っ込んだ質問を投げかけていたが、記事にしてくれるのかどうか・・・。 

会場の手伝いとして参加した私だが、個人的なことを言えば、出席者の服部先生には、社会人入学した修士課程で指導を受け、瀬地山先生は、非常勤でいらしていたジェンダー論を聴講していたので、久しぶりにお目にかかれる機会となった。

 

 

 

 

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