2016年12月14日 (水)

吉川氏との<論争>その後

 はや12月、今年は、私にとってめったにない経験をさせてもらった。というのも、すでにこのブログでもお知らせしたように、私が会員となっている『ポトナム』(2016年7月号)での歌壇時評に、『うた新聞』紙上で、吉川氏は反論を書き(8月号)、それに私が答えたところ(9月号)、また吉川氏の反論が掲載された(10月号)。以下は、『うた新聞』11月号の私の答えである。同新聞の12月号には、その応答がない。

 そもそも、発端は、私が『ポトナム』の歌壇時評で、2015年、安保関連法案が強行採決された後、開催された二つのシンポジウム「時代の危機に抵抗する短歌」(京都)「時代の危機と向き合う短歌」について、主催者側の吉川宏志氏と三枝昂之氏が「時代の危機」というより、歌人は「言葉の危機」にどう向き合うか、という視点で総括されていたことに疑問を呈した、ことに始まる。吉川氏は、私の時評の、シンポジウム参加者の感想の引用部分を私の言葉として、それを前提に非難してきたので、そこを明確にしてほしいことと、私がこれまで、他の著作でも主張したことのない言説をもって難じていることに、いささか困惑したのである。私の第1回目の反論は、以下をご覧ください。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/10/89-e189.html

 

 さらに、吉川氏の反論は、私が時評や反論で言及していないことや他の雑誌の小文にまで及び、その主旨をねじまげ、自らの稿を進めたのである。私の2回目の反論は、末尾に再録した。

 二人のやり取りについては、あまり反響がないようなのだ。多くは当たらず触らず、ということなのだろう。今のところ、友人にご教示いただいた「歌壇時評・今問われているもの」(今井正和『くれない』2016年11月号)と「2016年評論展望」(屋良健一郎『(短歌研究)短歌年鑑』2016年12月)の中で言及されている。貴重な発言として受け止めたい。

 なお、直接ではないが、吉川・内野の双方に登場する『ユリイカ』の拙稿について、「歌壇時評・ぼくも行くかも」(斉藤斎藤『短歌人』2016年11月号)では、「歌会始の選者を引き受ける歌人を筆者は批判する気にはなれない」として、佐佐木幸綱のかつての言「俺は行かない」を模しての表題であった。「活躍」する歌人の「配慮」に充ちた発言としての典型なのかしらと思いつつ、やはり寂しかった。

 また、私が最初の時評で引用し、吉川氏が曲解したた岩田亨氏のブログでの発言であるが、その岩田氏が、『うた新聞』へ寄稿されると、自身のブログで公表された。さらに、上記『短歌年鑑』の屋良氏の「評論展望」への反論も『短歌研究』に書かれるそうである。その展開に期待したい。

 

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吉川氏「<いま>を読む」に再び、応える  

      

 前号の「<いま>を読む」は、私の九月号の反論であった。そこでは、私の『ポトナム』時評を八月号同様に「印象」をもって読み通すことに終始していた。「歌会始選者に安保法制について論じる資格がないというような言い方には無理があろう」、三枝氏の著書の「どこを読んだら、<戦中の歌人の戦争責任を不問に伏す>という言葉が出てくるのだろう」という二つの疑問が返ってきた。しかし、その疑問の設定自体が、私の二つの文章や表現(『ポトナム』七月号、『うた新聞』九月号)に即したものではなく、捻じ曲げられてしまっているのが残念だった。関連の質問もあるので、念のため答えておきたい。

「歌会始選者」と「集団的自衛権を強引に進める政権」への批判は矛盾しないのではないか、という。私は、シンポジウム登壇者に「歌会始選者」がいると気づいたという参加者の文章を引用はしたが、その評価にも、矛盾にも言及はしていない。

吉川氏は、『ユリイカ』八月号の小文を引用して、「歌会始選者」と「赤旗歌壇選者」の兼任についての私の疑問に触れ、氏は、両者の兼任は「交流する」ことによって「タブーでなくなったという意味」で評価をする。「タブー」であったという意味が不明だが、私は、特定の歌人による兼任だけを問題視したわけではない。『ユリイカ』で、私が言いたかったのは、ジャーナリズムや論壇において、基本的な核となる争点での対立を避け、「寛容」や「共存」へとなだれ込んでゆく現象を背景に、言論の自由・自立を脅かす異論の排除・無視という重苦しい潮流がある、ということであった。それを見据えずに政権批判や権力に抵抗することが、ますます困難になることへの不安であった。

三枝氏の『昭和短歌の精神史』について、私は、氏が「既存のフィルター」を排し、戦争期と占領期の作品に向かうことを提唱しながら、みずからも「<時局便乗批判>から歌人たちの戦中をもう少し自由にしたい」というフィルターに固執してしまっている、と評したことがある(『天皇の短歌は何を語るのか』八九~九〇頁)。今回、吉川氏が、私の引用した「戦争責任を不問に付す」という岩田亨氏の発言を私の発言にすり替えてしまうことに困惑している。岩田氏の言と私の上記の言に、重なる部分があるとしても、すり替えることは、読者に誤解を与え、岩田氏にとっても迷惑であったろう。

 なお、シンポの表題が、京都での「時代の危機に抵抗する短歌」が、東京では「時代の危機と向き合う短歌」に変わり、『記録集』の書名も後者になっていた。「時代の危機」「言葉の危機」と称される状況は、他ならない私たち自身が作り上げてしまった結果でもある。登壇者もパネリストたちも口にする「自主規制」や「自粛」、表現者一人一人の「自主規制」との内なる格闘こそが先決で、「向き合う」という着地では、どちらの「危機」も越えることはできないだろう。

(『うた新聞』201611月)

 

 

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2016年11月 4日 (金)

勲章が欲しい歌人たち、その後~岡井隆が文化功労者に

 「勲章が欲しい歌人たち」と題して、15年ほど前に、同人誌に書いたことがある。その後の新しいデータを踏まえ、補筆したものを、拙著『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房20138月)に再録した。「しつこいね」との声も聞こえないでもないが、やはり、伝え続けたいと思う。

 1028日、政府から、文化勲章の受章者と文化功労者の発表があった。叙勲もあった。ここ数年、学生時代のクラスメートや職場の後輩たちの名前を見出し、もうそんな年になったのかと愕然とする。とくに、付き合いの長い短歌の世界で、いずれも他人事として、聞き流せばいいのだけれど、少しばかり、つまらない情報を持ち合わせているから、「やっぱり」「まさか」の思いがよぎる。

 今年の文化功労者の中には、歌人岡井隆の名があった。岡井については、いろいろなところで書いているので、繰り返さないが(最近では、「タブーのない短歌の世界を~<歌会始>を通して考える」『ユリイカ』20168月号)、後掲の「日本芸術院会員歌人の褒章・栄典一覧」でも明らかなように、国家的な栄典制度を歌人にあてはめてみると、一つの方向性が見えてくると思う。

 文化勲章は、太平洋戦争下、広田弘毅首相時代の1937年に発足した。これまで、文化勲章を受章した歌人は、佐佐木信綱(1937年)、斎藤茂吉(1951)、土屋文明1986)の三人で、年金が伴う文化功労者になったのは、佐佐木(1951)、斎藤(1952)、土屋(1984を含め、窪田空穂(1958)、近藤芳美(1996)、岡野弘彦(2013)、そして今年の岡井隆(2016)となった。文化勲章は、1979年以降は、原則的に前年度までの文化功労者の中から選ばれることになっているので、岡野、岡井は、文化勲章の待機組ということになる。

 岡井隆(1928~)は、アララギ系の歌人で、塚本邦雄、寺山修司らと戦後の前衛短歌運動の推進者であったが、現在『未来』主宰、19932014年まで歌会始の選者を務め、その後、宮内庁御用掛となった。

では、文化功労者は、どのように選ばれ、さらに、文化勲章は、どのように決められるのだろうか。

 当ブログでは、すでに、岡野弘彦が文化功労者になった折、以下の記事を書いているので、合わせてお読みいただければと思う。

 

・文化功労者はどのように決まるのか~歌人岡野弘彦の受章に思う(20131027日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/10/post-5776.html

 

 まず、「文化功労者」は、文部科学大臣が文化庁に設置されている文化審議会の中の文化功労者選考分科会にその選考を諮問する。選考分科会の委員は、毎年9月に710人程度発令され、多分野から候補者15人程度を選考し、文科大臣に答申し、文科大臣が決定・発令という流れで決まる(文化功労者年金法)。 文化勲章は、文科大臣が、前年度までの文化功労者から選考し、内閣総理大臣に推薦する。総理大臣は、閣議決定を経て、天皇に上奏、天皇が裁可、発令となる(文化勲章受章候補者推薦要綱)。 決定するのが、文科大臣か内閣総理大臣かの違いを設け、文化勲章は、従来の「伝達式」は、1997年から、天皇から直接手渡される「親授式」に格上げされ、いっそう、その「重み」が加わったことになる。その様子は、昨日のニュース映像でも伝えられたとおりである。

 

 


文化勲章受章候補者推薦要綱  

平成2年12月12日 内閣総理大臣決定

平成2年12月14日 閣議報告 

平成12年12月28日    

 

 文化勲章の受章者の予定数は、毎年度おおむね5名とする。

 文部科学大臣は、文化の発達に関し勲績卓絶な者を文化功労者のうちから 選考し、当該年度の文化勲章受章候補者(以下「候補者」という。)として 内閣総理大臣に推薦するものとする。ただし、必要と認めるときは、その年 度の文化功労者発令予定者を候補者とすることができる。 

 文部科学大臣は、候補者の推薦に当たっては、学術及び芸術の特定の分野 に候補者が偏ることのないように努めるものとする。 

 2の推薦は、内閣府賞勲局長が指定する日までに、文書により行うものと する。

 

 


文化功労者年金法
              十六年四月三日法律第百二十五号

 最終改正:平成一一年七月一六日法律第一〇二号

(この法律の目的) 

第一条  この法律は、文化の向上発達に関し特に功績顕著な者(以下「文化功労者」という。)に年金を支給し、これを顕彰することを目的とする。 

(文化功労者の決定) 

第二条  文化功労者は、文部科学大臣が決定する。 

  文部科学大臣は、前項の規定により文化功労者を決定しようとするときは、候補者の選考を文化審議会に諮問し、その選考した者のうちからこれを決定しなければならない。(後略) 

 

それでは、文化功労者選考分科会の委員はどのように選ばれ、どういう人たちがなっているのだろうか。20人の文化審議会委員は、毎年2月に報道発表され、文科省のホームページにも掲載されるが、同じ文化審議会委員ながら、文化功労者選考分科会委員は、9月に報道発表されるものの、ホームページへの掲載はない。それを報道するメディアも少ないことから、あまり知られていない。文科省に問い合わせ、ファックスで送ってもらったのが以下の書類である。ホームページに掲載しないのは、情報公開は必要なので報道発表はするが、栄典に関することなので、ホームページに載せるようなことはしたくないという配慮らしい。

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 さて、そのメンバーだが、10人のうち、私が名前を知っていたのは、田中明彦、松浦寿輝の両名だったし、小説家「宮本正仁」って誰?と思って調べてみると「宮本輝」の本名だった。あとの委員は、武蔵野音大の人を除いては、すべて国立の研究機関や大学に属する人たちで、元文科省事務次官次だった官僚もいる。たしかに研究分野を異にする委員ではあるが、彼らの眼が各分野での「文化の向上発達」に「勳績卓越」「功績顕著」な人たちに届くとは思えない。若干の意見は聞き置かれようとも、おそらく他の省庁の「審議会」と同様、おおかたは、事務方の提案の了承機関になっているのではないか、と。今年の選考委員で、文学関係では、松浦と宮本の両委員ということになる。両名は、ともに、芸術選奨文科大臣賞(松浦2000年、宮本2004年)、紫綬褒章(松浦2012年、宮本2010年)を受けている仲である。こうしたな環境の中で選考され、歌人の文化功労者岡井隆が誕生した。

 世の中の様々な賞、歌壇における短歌雑誌や歌人団体、新聞社やNHKなど民間の組織が主催する賞についても様々な問題、例えば、選考委員の重複・集中、選考委員結社間での互酬性、受賞者の重複、各賞の特色の薄弱化など、これまで指摘してきたつもりである。政府が関与する各種の褒章・栄典制度において、とくに文藝にあって、政府の関与、情報の不透明性、選考委員・選者の常連化などによる権威性を伴う現実は、文芸の自律を脅かさないのか、権力からの独立性が保たれるのか、という危惧なのである。権力は、露骨に、あるときは巧妙な手口で、表現の自由や学問の自由をひたひたと侵害してくる現実に対して、あまりにも無防備なのではないか。私たちの抵抗の手段として何が有効なのか、歴史に学び、世界に学び、もっと賢くならなければの思い頻りである。

 

 以下、参考までに二つの一覧表を作成した。

・日本芸術院会員歌人褒章・栄典一覧

・歌会始選者を中心とした受賞栄典一覧

http://dmituko.cocolog-nifty.com/kajnnohosyoeiten.pdf

 

 

 

 

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2016年9月21日 (水)

[雑誌に見る占領期-福島鑄郎コレクションをひらく」展示会とシンポジウムに出かけました(2)

盛りだくさんだったシンポジウム、時間が足りなかったのでは!

シンポジウムは以下の通りだったが、どれも魅力的なテーマであったが、時間が足りなかったのでは。

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 記念シンポジウム日程:918() 午後13:0017:00

シンポジウム会場:3号館305号室

 司会:川崎賢子(日本映画大学)

 第一部:

①山本武利(早稲田大学名誉教授)「20世紀メディア研究所と占領期研究」

②ルイーズ・ヤング(ウィスコンシン大学)「新世紀における占領期再考」

 Rethinking Occupation History in the New Millennium

 通訳:鈴木貴宇(東邦大学)

③宗像和重(早稲田大学)「福島コレクションの由来」

 第二部:

④石川巧(立教大学) 「カストリ雑誌研究の現在」

⑤三谷薫(出版美術研究家)「占領期の少年少女雑誌:絵物語を中心に」

⑥土屋礼子(早稲田大学)「占領期の時局雑誌」

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 第一部の山本さんは、プランゲ文庫のデータベースの維持と有料による公開に至った理由について、縷々述べられていた。科研費による研究成果の活用が閉鎖的な学界の慣例を脱却して、公開して利用者に還元したいという思いが伝わってきた。
 
なお、会場には、福島鑄郎氏のご子息がいらしていて、写真の故福島氏の風貌そのままに、雑誌に囲まれた家族のエピソードや最近になって、お父様のやってこられた仕事が理解できるようになったことなどを話された。 

自国の研究者にも手厳しい「新世紀における占領期再考」

ルイーズ・ヤングさんの基調講演は、日本の占領期について研究史がテーマで、聞いているうちに、アメリカの研究者と日本の研究者の相違、そして変遷というものが、おぼろげながらわかってきたような気がした。日本における占領史研究については、竹前栄治「占領研究40年」(『現代法学』〈東京経済大学現代法学会〉8号 20051月)などで、おさらいをしていたつもりだったが、アメリカの研究者については、知日派、親日派と呼ばれながら、ライシャワーとジョン・ダワーでは、随分と違うんだな、くらいの関心しかなかったのが、正直なところであった。

アメリカ研究者による日本の占領期研究は、第二次世界大戦の戦中派であるライシャワーなどから始まり、アメリカによる占領の成功体験として語られ、冷戦下にあっては、リベラル知識人に繋がった。

1960年から数年間、続いた日米の研究者による、日本語による「箱根会議」に発展し、占領は、日本の近代化に大きく貢献し、「資本主義国における近代化と第三世界の発展モデルとしての日本」というのも、かなり偏向した結論で、日本人研究者の意見が傾聴された様子が見えにくかったという。私は、「箱根会議」のことは、耳にしたことはあったが、その実態はよく知らなかった。今回、アメリカの研究者のヤングさんよる、その手厳しい評価を、私ははじめて聞いた。

1970年に入ると、アメリカでもベトナム戦争へ反対運動とともに、アメリカの帝国主義的侵略に批判的な研究が高まり、新左翼的な史観による研究者たちは、占領が日本の自力による再生と社会的な改革を起こす可能性を抑制したものとして、アメリカ外交の身勝手さとアメリカの理想の実現という初期の信念を否定した、として「考え直すアジア研究者たちの学会」などの成果を示した。

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「考え直すアジア研究者たちの学会」の研究者による著作、Joe Moore,Japanese Workers and Struggle for  Power 1945-47(1983) Michael Schaller,The American Occupation of Japan(1985)など

ここで示された「New Left」(日本語のレジメでは「新左翼」との訳)の語は、日本でいう「新左翼」とはその意味するところが、若干異なるのではないかというのが素朴な疑問だった。

80年代から90年代にかけては、日米の研究者による共同研究、日本人研究者の著作の翻訳が活発化し、その研究対象は大衆文化、社会的な相互体験など多様化し、より精密な事例研究にも及ぶようになった、とする。

そうした研究動向の中で、プランゲ文庫の位置づけも大きく変容してきたことにも着目、興味深いものがあった。1950年、マッカーサーの直属のスタッフだったゴードン・プランゲが、アメリカに持ち帰った日本における占領軍による検閲資料群であった。その保管は、アメリカ議会図書館東洋部を経て、メリーランド大学に落ち着いたが、保存状態は決していいといえなかった。プランゲ自身も、当初は、軍事秘話的な関心で『ミッドウェーの奇跡』『我らが眠っていた夜明け』『トラトラトラ』などを刊行、講義もそれらが中心だったらしい。カタログ化は、遅れて1963年から着手されている。このコレクションの存在が日本に紹介され始めたのが、60年代末から70年代にかけてだったのだろう。80年代になると、まず日本で「検閲資料」への関心が高まり、研究も活発になり、それがアメリカに波及した。その研究対象は、政治や経済分野ばかりでなく、現在では、文学、大衆文化、地方紙、社会史などへの広がりを見せている。日本での紹介の嚆矢は、前掲『戦後雑誌発掘―焦土時代の精神』にも詳しいが、松浦総三『占領下の言論弾圧』(現代ジャーナリズム出版会 1969年)や慶応大学からの派遣職員の一人森園繁「アメリカ大学図書館での経験」(『Kulic219716月)らによるものだった。さらに、1980年代になって、江藤淳が『閉ざされた言語空間』と題して、雑誌『諸君』に19822月から19866月まで断続的に4回連載された。

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邦訳:1967年

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邦訳:1984年

なお、最後に、戦争の前後を貫く「貫戦期」のアジアを射程にした植民地、占領地の歴史研究の必要を強調された。

 さらに、アメリカにプランゲ文庫というアーカイブが存在するということは、戦勝国の戦利品であったということと、占領軍の検閲政策の産物であったという認識も必要であるとも話したのだが、会場からは、「プランゲ文庫のおかげで、占領期の出版物や検閲の実態が分かってきたのだから、そこまで断定できないのではないか。もし、日本に残していたら、おそらく焼却処分されて、闇に葬られたのではないか」との質問が出ていた。「発禁図書」の国立国会図書館への返却、戦争絵画の国立近代美術館への無償貸与という実績もある。プランゲ文庫が日本に返却されるという交渉はなり立たないのだろうかと、ふと頭をかすめるのだった。

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メリーランド大学プランゲ文庫入り口、写真はプランゲの肖像

私自身は、1970年代の初め、職場の労働組合主催の松浦氏の講演会(19731月)を聞いたりして、大いに刺激を受け、「占領期における言論統制―歌人は検閲をいかに受けとめたか」(『ポトナム』19739月、後『短歌と天皇制』風媒社 198810月に所収)を書き急いだことが思い出される。その当時は、ゴードン・プランゲ(GordonWPrange)という名前の読み方も、「プランジ」と表記されていて、私もそれに倣っていた。短歌の検閲はどうであったのか、かつての当事者は、当時、あまり語りたがらない状況の中、プランゲ文庫自体のマイクロも閲覧できない中、それまで、戦時下の言論弾圧の延長線上で収集していた敗戦直後の短歌雑誌や歌集、あるいは、少しづつ語り始めた編集者や歌人のエッセイ等から、断片的に、占領検閲の実態を探ったものである。その後、国立国会図書館憲政資料室でのマイクロや早稲田大学の「占領期雑誌目次データベース」のおかげで、関係コピーを入手することができた。占領軍の言論弾圧の方向性が明確になってきた。その後、若干の検証をしたものの、本格的な論考は先送りになっている。

 

占領期の「時局雑誌」は、現代の「週刊文春」や「週刊新潮」?

石川さんのカストリ雑誌についても、福島コレクションのそれを上回るほどの収集量らしいので、その発言には説得力がある。ともかく、福島コレクションのデータベース化を急いでほしいと力説されていた。三谷さんの話は、「絵物語」に対する情熱がビンビンと伝わってきたが、明治以降の「絵物語」にだいぶ時間を取られたので、占領期の少年少女の「絵物語」や紙芝居については、短時間となった。私にとっては、リアルタイムで体験している部分もあったので、もう少し詳しく知りたかった。

最後の土屋さんの「時局雑誌」の話も、自分のかすかな記憶とも重なり、雑誌『真相』の実態なども知り、興味深かった。また、「時局雑誌」の定義も難しいが、現代にあっては、暴露、内幕、スキャンダルなど『週刊文春』や『週刊新潮』が「時局雑誌」的な役割を果たしているのではないかとの仮説も、なるほどの思い、定刻を過ぎるのを忘れるほどだった。

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時局雑誌『真相』の特集<天皇は箒である>天皇の巡幸は、訪問先の各地をきれいに整備することになるので、「箒」と称したらしい。<天皇特集>と銘打てば、必ず売り上げが伸びたという時代

懇親会は失礼して、外に出ると、雨こそ降っていなかったが、あたりはすっかり暮れていた。

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2016年9月19日 (月)

「雑誌に見る占領期-福島鑄郎コレクションをひらく」展示会とシンポジウムに出かけました(1)

雨も心配された918日、表記の20世紀メディア研究会百回記念企画展とシンポジウムに出かけました。私は、この「20世紀メディア研究会」には、この数年の間に数回しか参加していないが100回を越えていたのである。

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これが大隈タワーでした

コレクションの多様さに驚く

展示会は、早稲田大学の大隈タワー125記念室(大隈タワー10F)で、シンポ当日は日曜でも開催ということで、会場はかなりのにぎわいであった。

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タワー入り口

福島コレクションのオーナーであった福島鑄郎氏(19362006)は、種々の職業を経たのち、1960年ころから警備員という仕事をしながら、その休日を利用して、私財をもって、敗戦直後の雑誌を収集、研究されたという在野の研究者である。私も、1965年、国立国会図書館で働くようになって、どこの図書館も所蔵しないような、敗戦直後に創刊、短期間で廃刊になったような雑誌の収集をされているということは、先輩から聞かされていたから、求めたのであろう。今、私の手元には、氏の編著になる『戦後雑誌発掘―焦土時代の精神』(日本エディタースクール出版部 1972831日発行)があり、オビには「毎日出版文化賞」と書かれ、日高六郎の「この本は、戦後日本の再出発の時の日本の知識人・民衆の思想と精神を知るためのこの上ない案内書である。・・・」というコメントが載っている。197741歳で退職、本格的な研究生活に入り、メリーランド大学のプランゲ文庫にも出かけ、多くの書誌や資料集、研究書をなした。2005年、『福島鑄郎所蔵占領期雑誌目録:19458月~19523月』(文生書院)を出版、2006年に逝去されている。その所蔵は、6000冊に及び、2007年には、早稲田大学に図書館に収蔵され、公開に向けての準備と整理が進められているという国立国会図書館も、プランゲ文庫も所蔵されていない雑誌の数々が日の目を見るのも近い。

プランゲ文庫を利用してみて

私自身、最近、主に歌人斎藤史と阿部静枝の戦前・戦中・戦後の著作を追跡しているが、プランゲ文庫からの収穫は大きかった。2011年までは、無料で文庫のデーターベースが検索でき、名寄せによるリストもプリントアウトできた。そこから国立国会図書館にコピーを依頼していたのである。今回の会場には、検索コーナーがあったので、早速検索してみると、その後の整理も進んでいたようで、新しい文献が発見できた。プランゲ文庫では、地方発行の雑誌や様々な業界雑誌なども対象になっているので、思いがけない活動や執筆を知ることができたのである。プランゲ文庫については、基調講演のルイーズ・ヤングさんの講演の時に触れたい。

これに福島コレクションが利用できるようになったら、さらに占領期研究は進むかもしれない。

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2016年6月 1日 (水)

フォーラム「電波はだれのものか」に出かけました

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すでに先週のことになるが、 東京でさえ、伊勢志摩サミットのため警備が厳しかった526日、私は、シンポジウム「電波はだれのものか」に参加した。主催は、雑誌『季論21』、会場は、後楽園ドームの斜め向かいの文京シビックセンター26階、横長のホールだった。開場前から行列もできて、連れ合いの知人や地元佐倉市の方も数人お見かけした。私からお誘いした方々の中で、連絡なしに参加されている方もいらした。

 シンポの表題にある「停波」とは、昨年1110日高市総務相が放送法に違反した放送事業者に、総務大臣が業務停止命令や無線局の運用停止命令を行うことができるとの規定を根拠に「番組準則は法規範性を有する」と表明したことを指す。その直後、ある視聴者団体が、報道番組の特定のキャスターを名指して「違法な報道を見逃さない」とした意見広告を何度か新聞にだしたこと、NHKの国策報道強化などを受けて、名指しされた岸井さんはじめ、青木さん、田原総一朗、金平茂紀、大谷昭宏、鳥越俊太郎、田勢康弘さんたち7人が、今年229日、メディアへの政治的介入に抗議声明を出したことは記憶に新しい。その7人のうちのお二人が、この日のパネリストとして登場したわけである。青木さんは「気に食わないものは封じる」安倍政権の一貫した政策を分析、批判する。岸井さんは、まさに「権力は暴走する」真只中での闘いを振り返った。

 視聴者コミュニティの醍醐共同代表からは、他のパネリストがジャーナリストなので、視聴者の立場からの問題提起をということで、報道の今日的状況として、安倍政権への支持率が上昇している現実を直視した上で、その支持を支えているのが第三者を標榜する「有識者」集団であり、政権浮揚を図る作為、失政を伝えない不作為による国策報道と調査報道の貧困が問題であると指摘、さらに報道を劣化させるものは政治介入と政治圧力による報道自体の自己検閲であると。

『琉球新報』の新垣さんは、最近東京支社勤務となった由、今回のアメリカ軍属による女性強姦殺人事件に触れて、米兵と米軍関係者による性犯罪の統計からみても、基地や海兵隊の存在自体がその温床になっていることを強調、あってはならないヘイトを、沖縄への差別を、政官民一体となってまかり通してしまう現状を語った。永田さんは、NHKOBだけあって、やはりNHKの現場への信頼は根強く、現実の視聴者の目線がなかなか理解しにくいようだった。

パネリストたちがバラエティに富んでいて、個性もあってなかなかおもしろかったのではないか。感想というか、私にはどうしてもと思う質問があったのだが、迷いつつ手を挙げそびれてしまった。新垣さんには、いま『琉球新報』『沖縄タイムス』は、全国紙と違って、権力のチェック、監視という役目を果たしていることに敬意を表するとともに、『琉球新報百年史』や『アメリカ占領時代沖縄言論統制史』(門奈直樹著)などを読んでいると、経営陣と報道の現場、記者たちとが対峙する場面が何度かあったようだ。現在はどうなのか、という質問だったのだ。また、永田さんには、視聴者からの激励の電話が10本も入れば、現場にとっては大きな励みになるというが、視聴者としては、現場の職員や経営者たちと直接、意見交換ができるシステムを構築してほしい、視聴者センターやメールでの意見や苦情はあくまでも一方通行で、週間・月間・年間でまとめられる「視聴者対応報告」は、そのまとめ方が非常に恣意的であって、視聴者の意向が反映されずにいることが続いていて、まったく改善されていない実態をご存じだろうかと。受信料で成り立つ公共放送なのだから、「視聴率」や「政府の声」を聴くのではなく、「視聴者の声」を真摯に受け止めるべく、先輩としても働きかけてほしいと。質問にも勇気が必要なことを知り、心残りではあった。 

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『季論21』フォーラム・電波はだれのものか

~「停波」発言と報道・メディア、言論・表現の自由を考える~

  2016526日(木) 午後215分~

  東京・文京シビックセンター スカイホール(26F

  パネリスト

  青木 理(ジャーナリスト)

  新垣 毅(「琉球新報」報道部長)

  永田浩三(メディア社会学、元NHKプロデューサー)

  岸井成格(毎日新聞特別編集委員)

  醍醐 聰(「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」共同代表)

  司会:新船海三郎(文芸評論家)

 

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2016年5月22日 (日)

白蓮年譜の空白~『塹壕の砂文字』献呈先から探る〜

(3月20日の本ブログ記事「〈短歌サロン九条〉(憲法九条を守る歌人の会)“柳原白蓮を語る”に参加しました ~「評伝」におけるオマージュについて」でも触れていましたが、『日本古書通信』に寄稿の「白蓮年譜の空白」を再録します。

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白蓮年譜の空白~『塹壕の砂文字』献呈先から探る〜

NHKの朝ドラ「花子とアン」で村岡花子と柳原白蓮をモデルとした人物の描き方が、あまりにも史実とかけ離れ、ひとり歩きしているのを知って、ブログで異議を唱えていた。そんな折、櫻本富雄氏から、文庫大の宮崎燁子(柳原白蓮)編『支那事変歌集 塹壕の砂文字』(協和書院 一九三八年九月)を頂いた。表題紙(遊び紙)に「昭和十三年十月 白蓮」のサインがあり、左上には「贈呈 松本恒子様」とある。その「松本恒子」が気にかかる旨の添え書きも一緒だった。

とりあえず、短歌史や女性史などの辞典や年表類を調べ、ネット検索もしてみたが、「松本恒子」のことは分からなかった。

二〇一五年一一月、東京池袋の西武で「愛に生きた歌人・柳原白蓮の生涯展」が開催された。早速出掛けたが、白蓮の出自、宮崎龍介との「出奔」前後の経緯や往復書簡、敗戦直前の長男の戦死の悲嘆からのめり込む平和運動などに焦点があてられていて、日中戦争下の展示や記述は極端に少なかった。

「生涯展」にはなかった白蓮の『支那事変歌集 塹壕の砂文字』とは、「あとがき」によれば、「東洋平和、亜細亜民族の福利」を目指し、前線と銃後の「双方を結びつける魂と魂の親交を願つて」編集されたアンソロジーで、募集した短歌と新聞歌壇などの作品を収録し、白蓮自身もつぎのような短歌十首を寄せている。このアンソロジーは前年一九三七年の日中全面戦争突入を受けて刊行された読売新聞社編『支那事変歌集』(三省堂)や大日本歌人協会編『支那事変歌集戦地篇』(改造社)(ともに一九三八年一二月)に先駆けるものであった。

・旗ふるよあれは誰が夫たれが子ぞ命をわすれ出征つますらを

・やがてきく東洋平和の鐘の音に君がいさをもなりひゞけとぞ

献呈された「松本恒子」がやはり気になり出し、ネット検索を再開すると、意外なことが浮上してきた。一つは「山ちゃん1952」というブログで、内務省警保局の資料に「生長の家現勢一覧表」として、総裁谷口雅春以下役職者の名前が並ぶなか、「婦人部長 松本恒子」の記載もあることが分かった。さらに、生長の家婦人部の雑誌『白鳩』創刊号(一九三六年三月)復刻版を知り、彼女は「白鳩会の生ひ立ち」「白鳩会の使命」を執筆、『生長の家三拾年史』はじめ『同四拾年史』、『同五十年史』にも登場し、生長の家初代の婦人部長、白鳩会初代会長で一九四四年まで務めていたことを確かめた。

そこで、手もとの白蓮の主な伝記(注1)や思想的な系譜をたどった文献(注2)などにもあたるが、「生長の家」への言及は見当たらなかった。さらに、白蓮自身が宗教について綴る『大法輪』『宗教公論』『心霊研究』などの文章も読んでみたが、その片鱗も伺えなかった。

国立国会図書館OPACで<生長の家/柳原白蓮>を検索、ヒットは「『白鳩』(一〇九号)」の一件であった。ようやくたどり着けるかと思ったが、白蓮は、読者歌壇「生活の歌」の選者だった。その後、白蓮の選は見えないが、エッセイの寄稿は確認できた。『白鳩』の読者歌壇は、欄名・選者を変え、一時中断もあったが、白鳩会三代目の会長でもある歌人日比野友子が永らく務め、一九五八年からは中河幹子が引き継いでいる(ちなみに二〇一二年七月からの選者は小島ゆかり)。

松本恒子と白蓮の直接の接点は、まだ見出せないが、生長の家の幹部と『白鳩』歌壇選者の白蓮との親交は推測できる。生長の家は、大本教の出口王仁三郎の側近だった谷口雅春が、一九二一年第一次大本教事件を契機に大本教を離れ、一九三〇年に開いた神仏混淆の新興宗教である。病苦や貧困の解決を説き、天皇信仰・大陸進出・聖戦完遂を推進していた。

ここで思い起こすのは、白蓮が宮崎龍介のもとに「出奔」した事件後、身をひそめていた住まいが、出口王仁三郎紹介による大本教信者中野岩太の京都府綾部の別荘であったこと、関東大震災後の龍介・白蓮の転居先も、東京の中野家の離れだったことだ。中野岩太は、王仁三郎のもとを離れ、浅野和三郎が立ち上げた心霊科学研究会のメンバーとなった人物である。大本教と白蓮の関係は確かだが、そこを離れた谷口雅春との関係は、不明である。

一九四〇年代に入って、白蓮は、『婦人倶楽部』<靖国の英霊に捧げまつる>特集(一九四〇年一〇月)に、読者歌壇の選者として、今井邦子、中河幹子らとともに、つぎのような歌を寄せている。

・征きてみ楯死にて護国の神となる男の中の男とぞおもふ

また、長谷川時雨を中心に相寄った女性作家たちが銃後支援をめざした「輝く会」主催の九段対面の日、遺児の日の白扇揮毫に参加、機関誌『輝ク』には、つぎの二首が見られ、佐佐木信綱編『新日本頌』(八雲書林 一九四二年一一月)には自選十六首を寄せている。

・天が下やがて治まり日の出ゆ東亜の空によき春来れ(九段対面の日)(一九四〇年四月)

・やがて鳴る東洋平和のかねの音に君がいさをもなりひびけとぞ(遺児の日)(一九四一年四月)

・大君のみことのまゝぞ生も死も我のものならずいざ子どもらよ(『新日本頌』)

『日本短歌』(一九四四年二月)の<皇軍将士におくる歌>女性歌人特集で、白蓮は「吾子は召されて」と題して寄稿、わが子に及んだ出征という事実の前に、気持ちは動揺したと思うが、つぎのような「祝出征」の作品が八首並ぶ。さらに、「一片の雲は南に急ぐなりけふのいくさの神集ひかも」などを加え、『皇道世界』(一九四四年二月)にも発表した。これらは、白蓮主宰の『ことたま』(同年一月)に発表済みの作品とも重複する。

・国をあげて極まるときし召されたり親をも家をも忘れて征けや

・日の丸の御旗を肩にかけて征くあれが我子よと見てたもれ人

・借りたるをかへすが如く有難く吾子をたたせて心すがしき 

 こうした作品群がまったくなかったように、後の作家たちは、昭和初期の白蓮事件から一挙に戦後に飛び、平和運動家になった白蓮を賛美する。歌人たちも、白蓮の日中戦争下の短歌を語ろうとしない。各種の年譜においても、日中戦争下の記述は白紙に近く(注1②③⑤⑥)、上記の『塹壕の砂文字』も登場しない。しかし、菅(注2②)は、このアンソロジーに寄せた白蓮の十首と小説『民族のともしび』(一九四三年 奥川書房)に着目、素朴な母子の愛情が国家によってどのように母性ファシズムへと変貌し、戦時下の人々を支配したのかを分析している。秋山(注2③)は、定義が不明なまま、「公の歌」と「私の歌」と称し、『塹壕の砂文字』の作品は「公の歌」とし、出征するわが子を見送る一連には両者が混在していると捉える。この二人の評者も、その他の日中戦争下の夥しい数の作品には触れない。

 今回、一冊のアンソロジーの献本先から、日中戦争下、積極的に戦争協力していた生長の家と白蓮の親密性、種々のメディアに発表した作品を読み込み、読者歌壇の選者としての足跡をたどり、まず、伝記や年譜の空白を埋めた上での柳原白蓮の検証や評価の必要性を痛感した。とともに、一冊の本が私の手元に届くまでの七八年間の道のりを思うと古書界の深さ、ものを書くという表現者の覚悟の重さを思うのであった。

1 ①宮崎龍介:柳原白蓮との半世紀 文芸春秋 一九六七年六月 ②永畑道子『恋の華・白蓮事件』 新評論 一九八二年一一月 ③野々宮三枝:柳原白蓮略年譜 短歌 19923月 ④林真理子『白蓮れんれん』 中央公論新社 一九九八年一〇月 ⑤馬場あき子ほか『流転の歌人・柳原白蓮』 NHK出版 二〇一四年八月 ⑥宮崎蕗苳監修『愛に生きた歌人・柳原白蓮』 河出書房新社 二〇一五年一一月

2 ①水野昌雄:白蓮―その思想遍歴 短歌 一九九二年三月 ②菅聡子:柳原白蓮の<昭和> お茶ノ水女子大学人文科学研究5 二〇〇九年三月 ③秋山佐和子:私の歌、公の歌― 柳原白蓮と戦争 短歌研究 二〇〇九年一一月 ④中西洋子:柳原白蓮における歌の変容と到達 目白大学人文学研究8 二〇一二年二月      (『日本古書通信』20164月)

 

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2015年12月25日 (金)

ことしのクリスマス・イブは~DHCスラップ訴訟控訴審(東京高裁)第1回口頭弁論傍聴と報告集会へ

日比谷公園のクリスマス市
知人ご夫妻からのお招きで、日比谷・松本楼でのランチを楽しんだあと、私たちは、東京高裁へと向かう。日比谷公園の噴水広場は、金色のツリーを前に、たくさんのテントがひしめいていた。日本ではあまり見かけないトンガリ帽子のような屋根のテントも多い。にぎわい始めた昼下りのクリスマスマーケット、聞くところによれば、すでに12月11日から始まっていたらしい。実行委員会形式で、ドイツ観光局とJR東日本も協賛していて、東京では、はじめてのイベントとも言う。ヨーロッパの街歩きで、朝市や金曜市も楽しいが、もう10年以上も前の11月下旬のウィーンで出会ったクリスマス市の独特の雰囲気は、忘れがたい。シェーンブルン宮殿前のクリスマス市は、すでに暮れていて、強烈なグリューワインに打ちのめされたこともあった。市庁舎前のクリスマス市は、家族連れでにぎわっていて、一回りすると暮らしの必需品が何でも揃ってしまいそうな店が並ぶ。ああ、もう一度出かけてみたい、そんなことを考えながら、東京高裁の822法廷へ。 

DHCスラップ訴訟控訴審第1回口頭弁論  
  すでに、9月のブログでも報告しているが、化粧品やサプリのDHC社長が「澤口統一郎の憲法日記」の記事が社長の名誉を棄損したとして、執筆の澤藤弁護士に6000万円の損害賠償を請求したという案件ある。9月2日の東京地裁判決は、もちろんそんな請求は棄却し、全面敗訴だった。にもかかわらず、社長側が控訴したので、この日の東京高裁での第1回口頭弁論となったわけである。

・DHCスラップ訴訟、澤藤弁護士勝利、東京地裁判決傍聴と報告集会に参加しました http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/09/dhc-30de.html(2015年9月4日)

  スラップ訴訟とは、言いがかりをつけて、相手の口封じや恫喝・弾圧のために、法外な損害賠償や刑罰を求めて提訴される訴訟をいう。DHC社長は、同様の提訴を10件も行っているとのこと、まさに言いがかり訴訟の際たるものではないか。  
  そもそも、上記「憲法日記」は、DHC社長が渡辺喜美への8億円の政治献金を明らかにしたことに端を発し、「政治とカネ」をテーマに糾弾したものである。東京地裁の判決は、「(本件ブログ記事は)いずれも意見ないし論評の表明であり、公共の利害に関する事実に係り、その目的がもっぱら公益を図ることにあって、その前提に事実の重要な部分について真実であることの証明がなされており、前提事実と意見ないし論評との間に論理的関連性も認められ、人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものということはできない」から違法性を欠くものとして不法行為の成立を否定した。社長側は、控訴理由書は提出しているが、きょうの法廷には、若い弁護士が二人ぽつんと座っているだけで、澤藤弁護士側には、全国の大勢の支援の弁護士がいるが、きょうの被告席側には10人以上の弁護士が並んでいた。もちろん傍聴席にもたくさんの弁護士がいらしたようだ。澤藤弁護士は「今日は、弁護士ではなくて、被告としてこの席に立ちます」と弁論が始まる。「自席でどうぞ」と裁判長の言葉で弁論が始まって、約15分。詳しくは、以下のブログの12月24日までの一連の記事を参照してほしい。

・「澤藤統一郎の憲法日記」http://article9.jp/wordpress/

   口頭弁論の最後に、澤藤弁護士は、本件のようなスラップ訴訟が乱発されると、社会的な強者が自分に対する批判を嫌って濫訴が横行し、市民の言論は萎縮し、権力者や経済的強者への断固たる批判の言論は、後退を余儀なくされ、言論自体が委縮し、政治批判の言論は成立しなくなる、と言う趣旨のことを述べた。また、「表現の自由、とりわけ、公共的事項に関する表現の自由は、特に重要な憲法上の権利として尊重されなければならないものであり、憲法21条1項の規定は、その核心においてかかる趣旨を含むものと解される」とした、北方ジャーナル事件の最高裁判決(1986年6月11日)を引用して締めくくられた。 社長がからの控訴理由書の口頭弁論はなく、裁判長は、来年1月28日の判決を伝え、閉廷した。

報告集会のあとで
  弁護士会館の会議室での報告集会は、イブということもあって、澤藤弁護士ご一家の心づくしのケーキと飲みものが供され、和やかな雰囲気のなかで進んだ。 幾つかの発言の中で、印象に残ったのは、中川弁護士による「健康食品の規制緩和と機能性表示食品の危険性」についてだった。これまでも、新聞や生活クラブ生協の機関誌などで、「機能性表示食品」が今年の4月から解禁となったこととその信頼ならぬことは認識し、もちろんその類の商品とは縁がないものと思っている。それにしても、新聞やテレビでの広告が半端でなく激増し、なかでも新聞折り込み、新聞全紙裏表の折り込みも、よく目にするようになり、驚いている。安倍内閣が、推進してきた、この分野での規制緩和ながら、内閣府食品安全委員会委員長といわゆる「健康食品」を検討するワーキンググループ座長の名で2015年12月8日には、「国民の皆様へ」として19のメッセージと21に及ぶQ&Aを発表した(注)。中川弁護士は、以下のようなメッセージを国民への警鐘ととらえ、片やアベノミクスの一環としての規制緩和、その結果としての機能性表示食品を含む「健康商品」の種々の危険性を消費者に訴えている矛盾を指摘した。食品安全委員会は、これだけのリスクを抱えた「健康食品」の拡大を止めることができなかったか、国民へのメッセージは、国民への責任転嫁とも捉えられても仕方ないようにも思えたのである。
  健康食品広告では「気をつけよう、体験談、学会発表、争点はずし!」という発言も澤藤弁護士からあった。体験談はでっち上げも可能、自前のわけのわからない学会だったり、動物実験結果だったりすることもある。「毎日にハリ、潤い!」「みなぎる活力を実感!」「栄養バランス抜群!」といわれても・・・、ということらしい。
  神原弁護士は、国会前の集会やデモ隊の最前線で、過剰警備から人々を守る若手で、政府に都合のいい人たちの人権は守られるけど、弱者側の人権は守られないことを嘆く。あの人権侵害も甚だしいヘイトスピーチへの対応を見てもわかり、ようやく法務省の「勧告」が出た程度なのである。

歳晩の覚悟
  日に日に、政治的な表現の自由、公共的な事項の表現の自由が狭まってきた現在、集会中、TBSニュース23のキャスター岸井成格糾弾の意見広告についての発言が出たとき、報道ステーションのキャスター古館伊知郎の降板もというニュースが会場の一人からもたらされた。古館については、噂でしょうとその場で聞き流された形だったが、なんと、帰宅後分かったのだが、やはり、午前中には、テレビ朝日から来年の3月をもって降板と発表され、本にの記者会見まで開かれていた。そして、これを書いている25日には、岸井の来年3月をもってニュース23からの降板も正式に発表された。なんというクリスマスであったのだろう。寒さがいささか緩んだクリスマスではあったが、「表現の自由」は、「報道の自由」は、確実に侵害され、後退した2015年、歳晩にして、凍りつくような風が体の中を吹き抜ける思いだった。 現在の安倍政権、そして取り巻くサイドのやりたい放題に、立ち向かえない私たち国民の力に絶望することは簡単だが、ともかく自らの抗う力を声にしたい、形にしたいと覚悟するのだった。

~~~~~~~健康食品を愛用の方、ぜひご参照ください ~~~~~~~~

       食するなら、自己責任ですよ、死ぬこともありますので・・・

(注)内閣府省区品安全委員会HP<健康食品」に関する情報> https://www.fsc.go.jp/osirase/kenkosyokuhin.html 平成27年12月8日作成

委員長、座長から国民の皆様へ[PDF:142KB]
  「若さと健康を願うあなたに」、「△△の健康のための○○」といったキャッチフレーズを、毎日たくさん見聞きします。そして、医薬品のようにカプセルや錠剤の形をしたサプリメント、「健康によい」成分を添加した飲料や食品など、さまざまな「健康食品」*が売られています。今や国民のおよそ半分の方々が、こうした「健康食品」を利用されているという調査もあり、「健康食品」市場が拡大しています。これは、健康で長生きしたいという古来変わらない人々の願望の表れでしょう。 (中略) 残念ながら、現代でも「これさえ摂れば、元気で長生きできる」という薬や食品はありません。それどころか逆に、「健康食品」で健康を害することもあります。しかも、そのような情報は皆様の目に触れにくいのが現状です。消費者は、「健康食品」のリスクについての情報を十分に得られないまま、効果への期待だけを大きくしやすい状態に置かれているといえます。 食品安全委員会ではこういった状況を憂い、幅広い専門家からなるワーキンググループを作り、「健康食品」の安全性について検討しました。まず「健康食品」から健康被害が起こる要因を挙げ、次にその要因ごとに、健康被害事例などを含めた文献などからの科学的事実を調べ、皆様に知っていただきたい要点として取りまとめました。そうして作成した報告書からさらに抜粋して、皆様に向けて19項目のメッセージをまとめました。これらには「健康食品」で健康被害が出ることをなくしたいという本委員会の願いを込めました。
いわゆる「健康食品」に関す検討ワーキンググループ座長  脇 昌子
食品安全委員会長                          佐藤 洋  
健康食品」とは、「健康への効果やダイエット効果をうたって販売されている食品」を言います。これには、特定保健用食品(トクホ)、栄養機能食品、機能性表示食品も含まれます。また、ここでは「サプリメント」とは、 カプセル・錠剤・粉末・顆粒形態の「健康食品」を言います。

関連情報
・「健康食品」に関するメッセージ[PDF:1,312KB]
・「健康食品」に関する報告書[PDF:817KB]
・「健康食品」に関する情報(Q&A)[PDF:292KB]                                                                                                             

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2015年11月10日 (火)

11月7日、NHK包囲行動、集会と渋谷デモに参加しました  

  前日からの偏頭痛が残っていたので、集会には遅れて参加した。地下鉄の代々木公園で下車、地上に出ると雨が降っているではないか。家を出るときは晴れていたのに、NHK西門前のコンビニの傘は売れてしまわないかな、と。 公園沿いに急いでいると、音楽を流しながら街宣車がやってくる。今日の集会のかしらと、車体の横断幕をみると「NHK職員の給料は、民間平均の4倍!」等の大きな文字が見える。これって今日の集会の横断幕ではないはず、ここまでえげつないことは言わないはず? その横断幕の下の端に「籾井会長頑張れ!」の小さなポスターがあった。そういえば、NHK近くで、田母神氏らの団体も集会を開いている由、聞いていた。彼らの言う、NHK職員の高給は知られるところで、平均1200万円(福利厚生費を入れると1700万を超える。 籾井会長は3000万)というから、私とても叫びたいところだ。籾井会長にはやめてもらいたいが、職員には「給料に見合う仕事をしてください。何しろ、その財源は受信料なのですから」と。
  集会中の列を縫って、 まず、傘を買おうと、コンビニに向かう途中で、佐倉の知り合いに出会った。傘なら、まとめ買いした一本が残っているからと、ビニール傘を差し出してくださった。カンパですよ、との言葉にありがたく頂戴した。知っているだけでも佐倉からは8人が参加していますよ、とのことだった。事前にチラシを配ってくださったMさん、メールで拡散してくださったSさんも。
   肝心の集会は、すでに終盤、リレートーク7人の最後は、沖縄辺野古で基地反対活動を撮り続けている映画監督の影山あさ子さんだった。前にもシンポジウムのパネリストとしての発言を聞いたことがある。沖縄の基地反対運動の実態を克明に撮影して来て見えること、ほとんどのメディアがその実態を伝えていないこと、とくにNHKは豊かな人材と機器を持ちながら、遠く離れた地点から、あるいは上空から取材するだけだという。しかも、ふだんの取材はなく、何か「ヤバイ」ことが起こりそうな時だけ、どういうわけか取材に現れるという不思議も語っていた。また、東京から派遣された機動隊員は、朝の30分で、座り込みの人たちを排除して、一泊1万円もするホテルに引き上げるという。ほかにする仕事はないらしい。「本工事に着工」と本土のメディアは報じるけれど、なにも始まってはいない。既成事実をつくるのに手を貸しているメディアが少なくない中で、零細の映画製作者の影山さんたちは、潜水をいとわない取材、そのためにはカヌーが欲しいという。皆さん一度辺野古に来てください、と締めくくった。メモを見るでもなく、堂々とした話しぶりだった。

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   NHK西門前からデモ出発点の宮下公園までは、歩道での移動であった。8月25日の第1回NHK 包囲行動の時の帰り道と同じコースである。週末だけあって、渋谷駅に近くなると、さすがに街はにぎやかでもあり、眩しいくらい華やかにも見えた。公園での小集会、一緒に歩いた知り合いの東京のSさんは、公園の隅に、大きなミカンの木と沢山の実をつけたキンカンの木を見つけた。よくも人知れずこんな街中の公園にと二人で感心したのだった。私は、出発までに、まだ実行委員の手元にたくさんあったデモコースが載るチラシと「NHKは政権の介入に屈するな!」「安倍政権はNO,報道への介入をやめろ!」などのプラスター、まだの人いませんか、お持ちでない人いませんかと配ってみた。
  いよいよ、デモの出発。NHK正門前の交差点では、「NHKをアベチャンネルにするな」「マイナーバーで受信料を徴収するな」「籾井会長やめろ」のコールも一段と盛り上がる。公園通りを渋谷駅に向かえば、歩行者は俄然多くなるが、このデモは?パレードは何?といった表情で、立ち止まる人、信号を待つ人も多いので、手元に残るチラシを撒くことにした。若いカップルはチラシになかなか手を出してはくれない。なかには「ゴメンね」とことわる高校生もいる。グループで歩いている人たちはおしゃべりに夢中だ。受け取ってくれるのは中高年の男性が多い。中年の女性に声を掛けたら、「バスが遅れて困っているのよ」と叱られてしまった。さまざまな反応を見るのが楽しみというのも、図々しくなった証拠、年の功?だったりして。
  偏頭痛は、すっかり消えていた。歩いたのがよかったのかもしれない。

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デモをする人々、沿道の人々・・・
11月9日のNHK世論調査報道によれば、安倍政権への支持率47%、不支持39%の由、8月の調査では、支持37%、不支持46%だった。この結果をどう見るのか。

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2015年11月 5日 (木)

いよいよ、11月7日、NHK包囲行動です。昼間なので、渋谷のデモに参加してみよう。

 土曜日は、天気もよさそう、雨は降らなさそうです。NHKをよく見る人、聴いている人、NHKを見たくない人、NHKに一言ある人、 ぜひ参加してみよう。

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NHK包囲行動『アベチャンネル』はゴメンだ!

怒りのNHK包囲行動

 日時: 2015117日(土)

  PM 1:302:45 集会:NHK(渋谷)西門前でリレートーク

  PM 2:453:15 宮下公園北側へ移動

  PM 3:153:30 デモコースの説明・諸注意、コールの練習

  PM 3:304:00 宮下公園北側からデモスタート、神宮通公園ゴール

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詳しくは、告知チラシPDFダウンロード 
    表http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/20151107/a117omotehoi.pdf 

   裏http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/20151107/a117urahoi.pdf

 なお、11月7日の東京でのNHK包囲活動に呼応して、現在のところ、つぎの10都市でも、各NHK支局へのアピール行動が行われます。詳細は、以下の「NHKを監視激励する視聴者コミュニティ」のHPをご覧ください。

 

水戸、名古屋、岐阜、京都、大津、奈良、大阪、神戸、広島、福岡のNHK放送局周辺「

http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/#_ga=1.98127647.1241685374.1352992517

 

 

 

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2015年11月 1日 (日)

ようやく、藤田嗣治の戦争画14点が公開~国立近代美術館<特集・藤田嗣治、全所蔵作品展示。>  

 これまで、GHQに接収された戦争画が返還(無期限貸与)された1970年以降も、決して全面公開しない国立近代美術館の方針は、理解に苦しむ。これまでも何度かそのことには触れてきた。*1 国立近代美術館が所蔵する153点の2・3点ずつを常設展の片隅で展示していたに過ぎなかった。あるいは、雑誌などの特集や特定画家の回顧展や種々の企画展などへ小出しに撮影されたり、貸出されたりした作品しか目にすることしかできなかった。このたび、「(接収)戦争画」の中でもっとも点数の多い藤田嗣治の14点すべてが初めて一度に展示されることになったのだ。出かけないわけにはいかない。私にとっては、下記の葉山での「戦争/美術」展で「ソロモン海域に於ける米兵の末路」(1943年、下記のリスト⑧*2)「ブキテマの夜戦」(1944年、⑩)、国立近代美術館「ゴーギャン展」の折の常設展で「血戦ガダルカナル」(1944年、⑦)に接したとき以来である。

*1今回のテーマに触れた主な当ブログ記事 
・藤田嗣治、ふたたび、その戦争画について(14/02/18)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/02/post-dd37.html

ようやくの葉山、「戦争/美術1940—1950―モダニズムの連鎖と変容」へ(13/09/27) http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/09/19401950-0aad.html

・緑陰の読書とはいかなかったが④断想「〈失われた時〉を見出すとき(102)(木下長宏) (12/09/21)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/09/102-0230.html

・国立近代美術館へ~ゴーギャン展と戦争画の行方(09/9/21)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/09/post-5b23.html

・ 上野の森美術館「レオナール・フジタ展」~<欠落年表>の不思議(08/12/13) http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2008/12/post-13fc.html

 今回の展示は、4階の第5室から3階の8室まで、14点の展示が続く。  <特集・藤田嗣治、全所蔵作品展示。>の概要については、以下を参照。 http://www.momat.go.jp/am/exhibition/permanent20150919/

  5室で最初に目に飛び込んでくるのが、①の192×518cmという大作だった。1943年7月18日、まるでグライダーのような小型機(九六式艦上爆撃機というらしい)が中国の南昌飛行場に強行着陸して奇襲した模様が描かれている。大作ではあるが、少年雑誌の挿絵のような趣であった。②③④⑤も他の作品と同じように、多くは報道写真などから構図を得て、描かれていたと思うが、画面のどこかで火の手が上がっていなければ、戦場とも前線とも思えない静寂さが漂うような雰囲気が、⑥「アッツ島玉砕」から一転して、目を凝らさないと重なり合う兵士たちの生死や表情が読み取れない暗さに覆われる。というより、すでに遺体と化した兵士たち、死に直面した女性たちの姿や表情を捉えている。にもかかわらず、日本の戦局の悪化を隠蔽し、「玉砕」「血戦」「神兵」「奮戦」「死闘」「臣節」などという字句により死の美化に貢献した藤田は、他の多くの画家たちと同じ道を歩んだといえる。

*2 今回展示の藤田嗣治の戦争画一覧
①南昌飛行場の焼打 1938-39
②武漢進撃 1938-40 無期限貸与
③哈爾哈(はるは)河畔之戦闘 1941
・(猫 1940 購入 )
④十二月八日の真珠湾 1942
⑤シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地) 1942
⑥アッツ島玉砕 1943
⑦血戦ガダルカナル 1944
・(藤田嗣治:「戦争画の写実とは?―現地で語る戦争画問題―」『旬刊美術新報』25号   1942年5月)
⑧ソロモン海域に於ける米兵の末路 1943
⑨神兵の救出到る 1944
⑩ブキテマの夜戦 1944
⑪大柿部隊の奮戦 1944
・( 藤田嗣治:「南方戦線の感激を山口蓬春藤田嗣両氏の消息に聴く」『旬刊美術新報』29号1942年7月)
・( 藤田嗣治:「戦争画制作の要点」『美術』第4号1944年5月)
⑫○○部隊の死闘−ニューギニア戦線 1943
⑬薫(かおる)空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す 1945
⑭サイパン島同胞臣節を全うす 1945  

  今回の展示室には、当時の雑誌などにおける藤田の発言の一部も紹介されている。広げられた頁をよく読むと、「戦争画の写実とは?」においては、軍服のボタンとか首筋の汗とかのディティールに及ぶ、主観を含めた客観描写の必要を説き、「主観によって誇張していいと思う」といい、「戦争画制作の要点」では、「忠誠の精神」と「体験と知識の必要性」を強調していたことがわかる。解説にはない文言だが、記憶にとどめておくべきだろう。  各作品の解説において、藤田の戦争画は、フランスで活躍中に学んだヨーロッパの名画を手本にして描いていることをかなり詳細に検証していることが特徴的だったと思われる。

  なお、今回の展示カタログが、800円ということで、入館後すぐに購入した。年譜も、作品解説もあるということなので、あまりメモを取らなかったところ、すべての作品解説が収録されているわけではなく、戦争画に関しては③⑥⑦⑭のみであったのは残念だった。それに、他の作品はあっても戦争画の絵葉書は販売されていなかった。 今回は藤田の作品だけだったが、戦争画153点の全面公開が待たれるのであった。 公開されてこそ、その評価も多様に展開されるだろう。過去と向き合うことの大切さは、戦後70年経た今日でも決して遅くはないはずだ。

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65歳以上は入館料が無料ということで、保険証で通過、入場券というものを頂かなかったので、宣伝チラシの片面を代わりに。左が「五人の裸婦」(1923年)、右が「アッツ島玉砕」(1943年)の一部が配されている。

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「南昌飛行場の焼討」(1938~39)

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「ソロモン海域に於ける米兵の末路」(1943年)。「ロストシップ」というジャンルがあるほど、難破船を題材にした名画は多いそうだ。解説によれば、ターナー「難破船」(1805年)、ドラクロワ「ダンテの小舟」(1822年)、ジェリコーの「メデューズ号の筏」(1891年)などの影響は大きく、似ている部分もあるという。(『展示カタログ』より)

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「サイパン島同胞臣節全うす」(1945年)(『画家たちの「戦争」』新潮社 2010年、より)
1944年7月7日、サイパン島守備隊全滅。製糖が盛んだったので、多くの日本人移民もいて、彼らを巻き込んだ。作品の右手には、崖から身を投げる女性たちが描かれている。約5000人が身を投げたマッピ岬を米軍は「バンザイ・クリフ」と呼んだ。右下の写真は、従軍先での左から藤田嗣治、小磯良平、宮本三郎。

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