2020年2月10日 (月)

東北へ~短い旅ながら(4)仙台文学館

 翌日の午前中、仙台文学館へでかけることにしていた。仙台駅西口に広がるデッキは、どこまで続くのか、幾通りにも分かれ、複雑だ。うっかり地上に降りてしまうと、横断ができないで、また、デッキに戻ったりする。バスターミナルの宮城交通②番乗り場から、北根2丁目(文学館前)下車、進行方向に向かって右側、入口への坂を上る。この文学館は、昨年で20周年を迎えた由、初代館長は井上ひさしだったが、現在の館長は、歌人の小池光である。

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台原森林公園の一角にある仙台文学館

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文庫版ほどのリーフレットと入場券

 

  20周年記念特別展「井上ひさしの劇列車Ⅱ」からまわる。井上ひさしの特別展は何度か開催されているらしい。今回は、井上の「評伝劇」と称される宮沢賢治、樋口一葉、太宰治、林芙美子、小林多喜二、魯迅、河竹黙阿弥、吉野作造、チェーホフをテーマにした劇の直筆原稿やメモ、書簡、参考資料などの展示とともに、一作ごとの意図や主人公・登場人物への井上の思いや評価を綴るエッセイからもたどる解説がなされていた。井上が取り上げる対象は、いずれも魅力的な人物には違いない。私自身も、一葉、芙美子、作造など深入りしそうになった人たちである。演劇自体も見ず、脚本自体も読まず、軽々には言えないのだが、今回の展示を見た限り、井上は、劇の主人公、登場人物には、親しみと敬意のまなざしをもって、惚れ込んでしまっている側面がみられた。たとえば多喜二を描いた「虐殺組曲」の特高刑事が多喜二を追っていくうちに感化されていく過程とか、林芙美子の戦前・戦後の 評価などには、「実は懸命に生きた、みんないい人」という楽観的な部分が気になった。

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「虐殺組曲」の解説、右がと二人の特高刑事への思い、左が社会運動にかかわった井上の父と多喜二を重ね合わせていたなど

 

 つぎに、「手を触れないでください」という和紙による壁のトンネルを通って、常設展に進んだ。その冒頭は、館長小池光の短歌が天井からの白い布いっぱいに並べられた展示だった。ここにも井上ひさしと仙台ゆかりの文学者、土井晩翠、島崎藤村、魯迅などのコーナーがある一方、佐伯一麦、恩田陸や伊坂幸太郎などの<平成>の作家たちの大きな写真パネルが目を引く。名前は聞くが、すでに知らない小説の世界である。仙台との縁を教えられる。

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館長小池光へのオマージュが強烈で、短歌講座なども定期的に開催されているらしい。こうした傾向は山梨県立文学館長の三枝昂之の場合も同様で、館長が前面に出る催事というのはいかがなものなのだろう。

 

 つぎの「震災と表現」のコーナーは、数年前、北上市の現代詩歌文学館での東日本大震災のコーナーと比べてのことなのだが、やや物足りなさを覚えたのも確かであるが、多くの震災関係の作品を残している佐藤通雅のパネルに出会って、歌われている背後の現実に思わず祈るような気持ちにさせられるのだった。

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 最後になったが、今回の文学館訪問の目的でもあった、朗読ライブラリーの「阿部静枝」のビデオを見ることになった。連れ合いはカフェで休んでいるという。阿部静枝<1899~1974)つながりの知人Sさんからも聞いていた、たった4分ほどの朗読ビデオだったが、その操作や、ストップをしての写真撮影に手間取った。このビデオは「コム・メディア」制作(朗読黒田弘子)となっていたが、12首ほどの選歌は、静枝の特徴を捉えたもので、なるほどと思わせるところがあった。

 

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生みし子は他人に任せて顔ぬぐひ世に生きゆくは復讐の如し(『霜の道』1950年)

 

 他にもつぎのような作品が朗読されていた。カッコ内は筆者が補記した。

 

・叶はざるねがひひそむ嫉みゆゑ強ひてもひとにさからはんとす(「秋草」1926年)

・憎まんとしてなみだ落つきみをおきなにを頼りてわが生くべしや(同上)

・ひたすらに堪へんと空をみつめゐる眼底いつか熱く濡れつつ(同上)

・ひとは遂にひとりとおもふおちつきをもちてしたしき山河のながめ〈同上)

・濃むらさきを好きなのは誰なりしかなあやめのおもひでひっつにあらず(『霜の道』1950年)

・暗き海の浪迫り寄れ死は想はず生き抜きて世を見かへさんとす(同上)

・せめてわが男の子を生みしありがたさわれに似る女を想ふは苦し(同上)

・忘却の救ひがあれば生きてゐよくちびるに歌のわく日も来なむ(『冬季』1956年)

・東西を分てる橋の切断面ぎざぎざの尖まで取り歩みゆく(『地中』1968年)

・断絶の壁ある下を掘りつらぬき人の想ひを通はせし地中(同上)

・生きものなどよせつけぬ様の星を知り地上のもろもろ更に美し(同上)

 

 仙台駅に戻って、荷物を預けたホテルへの道すがら、利久という店でランチを済ませた。みやげというものをほとんど買っていない。駅構内では、かまぼこ、牛タンの店がしのぎを削っているようだったが・・・。やはり疲れていたのだろう、帰りの新幹線「はやぶさ」では、しばらく眠り込んでしまったようだ。

 

 

 

 

 

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2020年1月16日 (木)

『季論21』46号に寄稿しました高村光太郎についての拙稿が一部閲覧できるようになりました

 昨年10月12日の本ブログでお知らせしましたように、『季論21』(2019年秋号)には、以下を寄稿していました。その一部がネット上で閲覧できるようになりました。「ピックアップ記事」の一つとして、途中までご覧になれます。なお、昨年9月には、当ブログにも「あらためて、高村光太郎を読んでみた1~9」として、以下の拙稿に書ききれなかったことも連載していますので、あわせて、お読みいただければ幸いです。

「「暗愚小傳」は「自省」となり得るのかー中村稔『高村光太郎の戦後』を手掛かりとして

http://www.kiron21.org/pickup.php?112

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季論21


「暗愚小傳」は「自省」となり得るのか

――中村稔『髙村光太郎の戦後』を手掛かりとして

内野光子



はじめに

中村稔は、二〇一八年に『髙村光太郎論』(青土社)を出版し、二〇一九年にも同社から『髙村光太郎の戦後』を出版した。新著では髙村光太郎と斎藤茂吉の評価を変えたという。髙村光太郎と斎藤茂吉の愛読者は多く、それぞれに、自認する研究者も数多い中で、二冊の大著によって、一九二七年生まれの著者は、どんなメッセージを届けたかったのだろう。

私は、二〇一九年一月に、『斎藤史《朱天》から《うたのゆくへ》の時代――「歌集」未収録作品から何を読みとるのか』(一葉社)を出版した。そこでは、斎藤史が、一九四三年に出版した歌集『朱天』を生前に自ら編集した『斎藤史全歌集』(大和書房 1977年、1997年)に収録する際に、削除と改作をおこなった点に着目、その背景と実態を分析した。さらに、二・二六事件に連座した父の斎藤瀏、処刑された幼馴染の将校にかかわり、昭和天皇へ募らせていた怨念は、大政翼賛へ、さらに晩年の親天皇へと変貌していく様相を、作品や発言からの検証も試みている。

私としては、斎藤茂吉や斎藤史をはじめ多くの歌人たちが、そして、髙村光太郎も、戦時下に依頼されるままに、あれだけの作品を大量生産して、マス・メデイアに重用されていたにもかかわらず、敗戦後、自ら「歌集」や「詩集」を編集する際に、さまざまな「ことわり」をしつつ、戦時下の作品を積み残した経緯がある。

今回は、まず、新著『髙村光太郎の戦後』の光太郎の部分を中心に、中村の光太郎像を検証したい。なお、私自身の関心から、日本文学報国会における髙村光太郎と戦時下の朗読運動渦中の光太郎にも触れることになるだろう。さらに、拙著『斎藤史《朱天》から《うたのゆくへ》の時代』にかかわり、髙村光太郎に、戦中・戦後の作品の削除や隠蔽はなかったのか、についても言及できればと思う。

蟄居山小屋生活の実態

中村の新著、第一章の冒頭では、光太郎の敗戦後の七年にわたる山小屋での蟄居生活、それにいたる経過がたどられる。一九四五年から山小屋を去る一九五二年一〇月まで、光太郎の日記と書簡などを通じて、その暮らしぶり、人の出で入り、執筆・講演などの活動も記録にとどめ、作者、中村の見解も付せられる。

それにしても、光太郎の日記には、地元の人々や知人、出版関係者たちから届けられた食品などが、一品も漏らさないという勢いで、誰から何をどれほどと克明に記録されている。中村も書くように、光太郎は「礼状の名手であった」のである(本書43頁)。

礼状には、贈り主への感謝の気持ちとどれほど役に立っているかなど率直な心情を吐露する内容が多い。戦前からの著名な詩人から、このような手紙をもらったら、舞い上がる人も多かったのではないか。同時に、日記には、到来もののほかに、自分が食したもの、菜園の種まきや収穫、作付け、施肥などの農作業についてもこと細かく記録にとどめている。「食」へのこだわりは執念にも似て、正岡子規の病床日記を思い起こさせる。

書簡の中で興味深かったのは、東京の椛澤ふみ子との文通の多さと両者の間には屈託のない和やかな雰囲気が漂っている点であった。彼女から日常的に届く新聞のバックナンバーの束など、光太郎にとっては、大事な情報源ではなかったのか。たまに、山小屋を訪ねることもあり、「小生の誕生日を祝つて下さる方は今日あなた位のものです」(1947年3月13日、79頁)とも綴る。なお、余談ながら、中村は、一九四八年五月の訪問の記述を受けて、当時二十代の椛澤と光太郎との関係を、父と娘のような清潔な交際だったように見える、と述べている(124頁)。

敗戦後の光太郎を語る吉本隆明は、上記の「食」への執念は「自分と、自然の整序があれば、その両者がスパークするとき美が成り立つという思想」に基づき、「美意識と生理機構の複合物としての食欲であった」(「戦後期」『吉本隆明全著作集8』勁草書房 1973年、183頁)とも分析しているが、私は、より単純に、光太郎の戦前の暮らしにおける西欧趣向やブランド信仰にも起因する飢餓感と自らの健康・体調への不安からという現実的な背景を思うのだった。

『髙村光太郎の戦後』にみる光太郎の「自省」とは

そうした暮らしの中から、敗戦後初めて刊行された詩集『典型』の冒頭は「雪白く積めり」であった。その静寂な世界は、一見、戦前の饒舌さが後退したかに思えたが、詩の後半に「わが詩の稜角いまだ成らざるを奈何にせん。」「敗れたるもの卻て心平らかにして……」などのフレーズをみると、大げさな身振りは変わっていないとも思った。

「雪白く積めり」

雪白く積めり。/雪林間の路をうづめて平らかなり。 /ふめば膝を沒して更にふかく/その雪うすら日をあび て燐光を發す。(後略)

(「雪白く積めり」1945年12月23日作『展望』1946年3月。『典型』収録)

  中村は、この「雪白く積めり」について、「さすがに高い格調の、精緻な叙景に高村光太郎の資質、非凡さを認めることができるとしても」いったい何を読者に伝えたいのかがわからない失敗作だとも断言している(46~47頁)。

  詩集『典型』に収録の「典型」と題する一篇の冒頭と末尾を記す。みずからの「愚直な」生を振り返るような作品である。中村は、前著の『髙村光太郎論』でも「光太郎の弁解の論理を肯定しないけれどもその思いの切実さを疑わない」としているが、新著ではさらに踏み込んで、最初に「典型」を読んだとき、作者が愚者を演じているようで反感を覚えたが、「弁解が多いにしても、『暗愚小傳』の諸作の結論として虚心にこの詩を読み返して、これが彼の本音だった、と考える。そう考えて読み直すと、深沈として痛切な声調と想念に心を揺すぶられる。この詩は決して貧しい作品ではない。詩人の晩年の代表作にふさわしい感動的な詩である」と絶賛する。さらに「これほど真摯に半生を回顧して、しみじみ私は愚昧の典型だと自省した文学者は他に私は知らない」との評価をする(160~161頁)。

「典型」

今日も愚直な雪がふり/小屋はつんぼのやうに黙りこむ。/小屋にゐるのは一つの典型、/一つの愚劣の典型だ。(中略)

典型を容れる山の小屋、/小屋を埋める愚直な雪、/雪は降らねばならぬやうに降り、/一切をかぶせて降りにふる。

(「典型」1950年2月27日作『改造』1950年4月。『典型』収録)

 しかし、敗戦後、疎開先の花巻から最初に発信された詩は、一九四五年八月一七日の『朝日新聞』に掲載された「一億の號泣」であった。「綸言一たび出でて一億號泣す。/昭和二十年八月十五日正午、/われ岩手花巻町の鎮守/……」で始まり、つぎのような段落がある。これは詩集『典型』に収録されることはなかった。その「序」で、光太郎は「戦時中の詩の延長に過ぎない」作品は省いたとある。こうした作品を指していたのだろう。
「一億の號泣」

(前略)天上はるかに流れ來る/玉音の低きとどろきに五体をうたる。/五体わななきとどめあへず。/玉音ひびき終りて又音なし。/この時無聲の號泣國土に起り、/普天の一億ひとしく/宸極に向つてひれ伏せるを知る。(後略)

(「一億の號泣」1945年8月16日作『朝日新聞』『岩手日報』1945年8月17日)

 

 また、中村が言及する「わが詩をよみて人死に就けり」も光太郎の敗戦後を語るには欠かせない作品であると、私も思う。

「わが詩をよみて人死に就けり」

爆弾は私の内の前後左右に落ちた。

電線に女の大腿がぶらさがつた。

死はいつでもそこにあつた。

死の恐怖から私自身を救ふために

「必死の時」を必死になつて私は書いた。

その詩を戦地の同胞がよんだ。

人はそれをよんで死に立ち向つた。

その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送つた

潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

 この九行の詩は、制作月日が不明だが、日記の一九四六年五月一一日には、「余の詩をよみて人死に赴けり」を書こうと思う、という記述があるが、この作品も詩集『典型』には収録されなかった。

(以下は本文をお読みください)

 

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2013年8月11日 (日)

『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房)刊行のご案内

猛暑お見舞い申し上げます。

このたび、『天皇の短歌は何を語るのか』が上梓の運びとなりました。『短歌と天皇制』(1988年)『現代短歌と天皇制』(2001年)につづくテーマですが、店頭で手に取ってご覧いただければうれしいです。じっくり読もうと、もし思われましたら、ご購入いただければありがたいですが、なにせ 高額なものですので、近くの図書館にリクエストしていただければ幸いです。

本書には、今回初めて、索引を付しました。人名索引だけですが、面倒な作業となりました。ミスなどないか心配です。

また、短歌総合誌などに寄せたエッセイなど幾つかを、コラムとして収録しました。相変わらずながら、多くの図表や年表を作成いたしましたので、本文の補足になれば何よりと思っています。

このような表紙のカバーとなりました。若生のり子さん、ありがとうございました。菊をテーマに、重くならず、「青い花火」のような涼しさも感じられますが。

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<御茶の水書房HP>よりNEW
『天皇の短歌は何を語るのか
―現代短歌と天皇制』

         著者:内野光子
    2013年8月刊行
       定価:3990円(本体3800円+税)
    ISBN:978-4-275-01044-5

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『天皇の短歌は何を語るのか―現代短歌と天皇制』 目次

Ⅰ.天皇の短歌は何を語るのか―その政治的メッセージ性

1.昭和天皇の短歌は何が変わったのか

.象徴天皇の短歌―皇統譜と護憲とのはざまで

3.天皇の短歌、福祉・環境・災害へのまなざし

4.天皇の短歌、平和への願いは届くのか 

Ⅱ.勲章が欲しい歌人たち―歌人にとって「歌会始」とは
1.勲章が欲しい歌人たち
2.芸術選奨はどのように選ばれたか
3.戦後64年、歌会始の現実
4.「歌会始」への無関心を標榜する歌人たち
.「歌会始」をめぐる安心、安全な歌人たち
6.東日本大震災後の歌会始
7.「社会詠」論議の行方                                                                     

Ⅲ.メディア・教科書の中の短歌
1.短歌の「朗読」、音声表現をめぐって 
2.竹山広短歌の核心とマス・メディアとの距離  
3.教科書の中の「万葉集」「短歌」  
.主題の発見―国家・政治・メディア
5.中学校国語教科書の中の現代歌人―しきりに回る「観覧車」

Ⅳ.『ポトナム』をさかのぼる
1.小島清、戦前・戦後を「節をまげざる」歌人
.『ポトナム』時代の坪野哲久 
.内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか―女性歌人起用の背景―  
4.醍醐志万子―戦中・戦後を一つくくりに
.『昭和萬葉集』に見る『ポトナム』の歌~第五巻・第六巻
  
(一九四〇~一九四五年)を中心に

コラム7件
図表・年表13件 

あとがき
人名索引

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家の前の駐車場側溝の根性スイカ、二つ目はかなり大きくなりそうです。三つ目がすでに向うがわに実り始めました。一つ目は、大きくならない前に、満身創痍、朽ちてしまいました。

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2010年9月20日 (月)

ある講演会のあとで~雁屋哲氏にお会いして

思いがけない展開で、「美味しんぼ」の原作者雁屋哲氏と数人の会食の席に、私もご一緒できることなった。

918日、調布(市文化会館たづくり)での安川寿之輔氏「日韓併合と福沢諭吉~坂の上の雲は明るい明治か~」の講演会にオーストラリアから帰国後間もない雁屋氏が参加された。講演会後の会が企画され、お誘いを受けた。もとはといえば、「坂の上の雲」批判つながり、福沢諭吉批判つながりで、安川氏と雁屋氏が最近知り合い、中塚明氏・安川氏と共著を刊行したばかりの連れ合いがその会に誘われ、安川氏がマンガ『日本人と天皇』の著もある雁屋氏に拙著『短歌と天皇制』『現代短歌と天皇制』を紹介されて、私もお誘いを受けたという次第だった。

雁屋氏の本は、マンガ『日本人と天皇』(いそっぷ社 2001年、のち講談社α文庫)刊行後間もなく入手、読んでいたくらいだった。大学サッカー部を舞台に、スポーツやその周辺にただよう「天皇制」の残滓をひとりの部員が理解者と共に払しょく、改革してゆき、チームとしても強くなってゆくストーリだった。よく調べてあるマンガだな、と思い、参考文献の多さにも驚いたことを思い出す。それでもグルメマンガぐらいにしか考えていなかった「美味しんぼ」、断片的に雁屋氏のことについては読んだことはあっても、「美味しんぼ」までにはいたらなかった。

お誘いを受けてから、文庫の「美味しんぼ」、新刊の「美味しんぼ」を書店で探したりした。そして、ブログ「美味しんぼ日記」にもたどりつき、氏の関心の広さと探求の深さにあらためて驚いた。20数年前、「美味しんぼ」が爆発的人気を得た直後、お子さんの教育を考えてオーストラリアに移住したこと、以来、仕事はシドニーで、年に数か月、日本に帰国して取材や資料収集などの仕事をこなすという。

会食は原宿の「S」という和食のお店。雁屋氏、安川氏、関係の新聞社、雑誌社、出版社の方々と私たち二人。談論風発ながら、日本の近現代史とくに、当日の安川氏の講演のテーマだった福沢諭吉から始まり、日朝関係、教育、戦争責任、天皇制、メディアの役割などをめぐって、雁屋氏の基本的な姿勢を伺う展開になった。雁屋氏は理系の出身で、論理的、実証的であることを旨とし、曖昧な、感情的な対応には手きびしい。例えば、福沢諭吉信奉者や擁護論者には、福沢の著作をしっかり読んではいないことが多い、日本の、天皇の戦争責任を断ずるためには、日本の旧植民地での暴虐や政策の実態を知ること、日本の識者の変わり身の早いことなどを強調される。近く、福沢諭吉についても書く構想があるそうだ。

そうした議論の合間に、運ばれてくる料理、一品一品にいたるコメントや給仕の方・料理人の方との素材や産地、料理法までのやり取りが聞いてとれるのだった。私にとっては初めてで、格別美味しかったのが、すっぽんのスープ、猪肉の角煮、ぎんなんのてんぷらの小どんぶり、パッションフルーツのゼリーなどだった。。雁屋氏の「美味しんぼ」105冊目の新作は、食の安全をテーマに10月に発売される。次には国家的な公害、ダムについても執筆の由、その創作・研究意欲とに大いに刺激を受けた一夜であった。

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2008年10月29日 (水)

短歌の「朗読」、音声表現をめぐって(8)戦時下の「短歌朗読」6

「愛国詩朗読」という番組では、野口米次郎、西條八十、堀口大学、村野四郎、安西冬衛ほか、下記の詩人たちのつぎのような作品が繰り返し放送されている。佐藤惣之助「殉国の歌」「海の神兵」高村光太郎「彼らを撃つ」「地理の書」「最低にして最高の道」尾崎喜八「此の糧」室生犀星「日本の歌」吉田絃二郎「戦捷の春」草野心平「帰還部隊」三好達治「おんたま故山に迎ふ」室生犀星「日本の朝」山本和夫「その母」百田宗治「わが子に」佐藤春夫「撃ちてし止まむ」島崎藤村「常磐樹」長田恒雄「声」など。朗読は、ときには自作朗読もあったが、大方は、和田信賢、館野守男、浅沼博アナウンサーらや丸山定夫、東山千栄子、中村伸郎、山村聡、汐見洋、三津田健、山本安英、石黒達也ら演劇人が動員されている。

詩や短歌の朗読については、「厚生娯楽的な意味も兼ねて」早朝、昼、夜間に、単独ないし総合番組のコーナーでも随時放送され、短歌では「斉藤茂吉、佐佐木信綱、北原白秋、土屋文明、吉植庄亮ら」が活躍したとある(前掲『日本放送史』下巻 五六〇頁)。

「番組確定表」には、詩については題名と作者名が記入されている場合が多いが、短歌は作者名だけでどんな作品が朗読されたかは不明だった。

 以上、戦時下の朗読用のテキスト類及び日本文学報国会の機関誌『文学報国』、『日本放送史』の三つの資料から短歌朗読の実態を探ってみた。もう一つの私の気がかりは、こうした短歌朗読を当時の国民は実際どのように受け止めていたのか、であるが、別稿に譲りたい。

『声に出して読みたい日本語』(斎藤孝 草思社 二〇〇一年)ブーム、今世紀に入っては川島隆太提唱の脳トレに有効という「音読ドリル」がにわかに脚光を浴びている。朗読の実用性と生理的カタルシスが、自らの健康法に留まるならば、それもいいだろう。しかし、選択された「美しい日本語」「名句・名文」の内容による教育的要素は大きく、影響力も無視できない。ちなみに、『声に出して読みたい日本語』は昨年までに5冊刊行されている(二〇〇八年一月、発行元の草思社倒産の報に接した)が、万葉集や百人一首に加えて、近現代の歌人では、正岡子規、石川啄木、釈迢空、坪野哲久、山崎方代、河野裕子、俵万智らの短歌作品が登場していることがわかった。

また、現代の歌壇において、冒頭にあげたように、岡井隆、福島泰樹などによるパフォーマンスの流行は、多分にその歌人の演技、タレント性が評価されているのだろうと思う。現に、岡井隆は、対談で朗読会のことを問われて「自分のことだから言いにくいのですが、どうも声の質、しゃべり方、作品のテーマ、ああ、おもしろいなと思わせるような、ちょっと小説的な構成のしかた、そういったものを含めて、自分は朗読向きの歌人の一人だと思う」という自負の裏側には、岡井自ら否定する「ナルシスト」ぶりを垣間見せていた(『短歌』20088月号)。

声楽家で、地域で音楽教室を開き、子供たちのミュージカルスや大人たちの朗読・ボイストレーニングなどの指導にもあたっている友人から、朗読の教材にと思うので「あなたの人生がたどれるような短歌作品を選んでほしい」との申し出があった。戸惑う私に「歌壇での流行は知らないが、私の試みの一つなのでお願いしたい」と一蹴された。それではと、まず、最近の短歌「朗読」事情と歴史を調べ始めたというわけである。(了)(『ポトナム』200810月号所収)

今回をもって短歌の「朗読」について、とくに戦時下の動向についてのレポートは一応終了します。来月から『ポトナム』誌上にて3回にわたって「竹山広短歌の核心とマス・メディアとの距離」を連載します。

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2008年9月 5日 (金)

短歌の「朗読」、音声表現をめぐって(7)戦時下の「短歌朗読」5 

   

紀元二六〇〇年、一九四〇年初頭より日本放送協会は各種の記念番組を編成、一一月一〇日には「宮城外苑」で紀元二六〇〇記念奉祝式典が開催され、北原白秋はつぎのような詩を作る。

紀元二千六百年頌(北原白秋)

 盛りあがる盛りあがる国民の意志と感動とを以て、盛りあがる盛りあがる民族の血と肉を以て、個の十の百の千の万の億の底力を以て、今だ今だ今こそ祝はう。紀元二千六百年ああ遂にこの日が来たのだ。

(中略)

ラジオは伝へる式殿の森厳を、目もあやなる幢幡銀の鉾、射光の珠を。嚠喨となりわたる君が代の喇叭。金屏の前に立たします。(後略)

  

一九四〇年一二月、内閣情報部が廃止され、情報局として強化され、放送番組の指導監督は逓信省からこの内閣情報局に移管されることになる。一九四一年二月「特別講演の時間」が「政府の時間」に、「戦況日報」が「戦時報道」になり、同年四月一日からは、「学校放送」を「国民学校放送」に、「子供の時間」を「少国民の時間」とそのネーミングを変えている。振り返れば、一九四一年一二月八日の三日前、同月五日に情報局により「国内放送非常時態勢要綱」が制定されていた。その一項目に「警戒管制中は放送番組は官庁公示事項、ニュース、レコード音楽に重点を置き、講演、演芸、音楽等一般放送は人心の安定と国民士気昂揚を中心とし積極的活用を図る」とある。(『日本放送史』上巻、以下同書、五〇一頁)また、また「番組確定表」でわからなかった部分を別の資料で補いつつたどってみると、いくつかの講話、開戦の臨時ニュース、経済市況、音楽(レコード)、君が代、時報の間を各種行進曲の吹奏楽が放送され、そのメインは正午から始まったとされる「詔書奉読」(中村茂代読)「大詔を拝し奉りて」(内閣総理大臣陸軍大将東条英機)であった。午後は大日本陸海軍発表、政府声明朗読、定時・臨時のニュースが続き、夕方からは吹奏楽に加えて、合唱や管弦楽が入る。この日に登場する歌人としては、合唱曲「敵性撃滅」(伊藤昇作曲)の作詞者としての土岐善麿の名であった。短歌だったのか、詩であったのか、その内容が分からない(『現代史資料四四マス・メデイア統制』みずず書房 一九七五年 三七一頁)。ただ、『短歌研究』一九四二年一月の「宣戦の詔勅を拝して」特集にて善麿は、「敵性撃滅」と題した五首を発表しているので、参考のため記しておこう。

・撃てと宣らす大詔遂に下れり撃ちてしやまむ海に陸にそらに

・悪辣なるかの敵性はわが眼にもしみたり撃たさら

・ルーズヴェルト大統領を新しき世界の面前で撃ちのめすべし

以降、番組の中核は、戦況ニュースを中心とした報道番組となった。放送現場でも番組検閲と国策への積極的な活用が喫緊の課題となった。

この時代の文学作品の朗読は、番組編成上は、教養・芸能・報道のくくり方で、「芸能」の中で扱われている。大江賢次の戦記もの、徳川夢声朗読による吉川英治「宮本武蔵」、富田常雄「姿三四郎」などが人気であったという(五四八頁)。開戦直後から企画された「愛国詩朗読」は、前述のように、大政翼賛会文化部の指導のもと詩人たちが活躍したのだが、その実際を「番組確定表」に登場する詩人やその作品を探ってみたい。(『ポトナム』20089月号所収)

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2008年7月31日 (木)

短歌の「朗読」、音声表現をめぐって(5)戦時下の「短歌朗読」3

さらに、『中等学生のための朗詠歌集』の編者小島清は、「特別の目的をもつて編纂したものでないから、愛国勤皇の歌ばかりをあつめてもゐない」と明言している点で、類書には例がないのではないか。現に、「現代篇・諸家作品」に登場する歌人の人選、選歌は、戦後の私たち世代一九五〇年代の中学・高校の『現代国語』で学んだ教科書の近代短歌と重なる作品が多いのであった。

これまで、当時の朗読用テキストを読んできた限りでは、詩の朗読運動が他に先んじて実施され、盛んであった。短歌が朗読の対象となることについては、一歩遅れたという認識が伺われる。

一九四二年五月に発足した日本文学報国会の機関紙『文学報国』(一九四三年八月一〇日創刊~一九四五年四月一〇日、四八号で終刊か)の朗読関係の記事を追ってゆくと当時の様子がわかって興味深い。

①真下五一「代用品文学の汚名―朗読文学について」5号(1943101日)                                    

②「朗読文学の夕」6号(一九四三年一〇月一〇日)

③寺崎浩「朗読文学委員から―真下五一氏に答ふ」8号(一九四三年一一月一日)

①は、当時なぜ「朗読文学」が提唱されだしたのか、その唯一の理由が「紙の払底」にあるということを誰もあやしまないばかりか、間に合わせ的、代用品的な押売り理由を作者や朗読者までが公言しているのを嘆いた文章である。文化においては、速急な事情的な理由よりももっと大切なものがあるのではないかとの警告めいた発言であった。これに対して、③は、久保田万太郎委員長のもと「朗読文学研究会」を数回開いているが、はかばかしい成果はない。が、放送局の協力、舞台・高座・町の辻々など場所を選ばない可能性、音楽との統合などさまざまな可能性を研究している、という主旨の小文であった。

④「聴覚に訴へる文学―新企画に放送局協力、『朗読文学』懇話会」30号(一九四四年七月十日)

この記事には、七月一一日、情報局放送課・文芸課の斡旋で日本放送協会と文学報

国会との懇談会が開かれ、文学報国会事務局長中村武羅夫はつぎのように語ったとあ

る。「朗読文学は単なる旧作の朗読等の安易な便宜主義は排し、あくまでも正しい日本語の純化を図り、世界に無類の美しい音を持つ国語を効果的に、聴覚を通して真に魂へ伝へ得る文学でありたい・・・」さらに、前年に設置した「朗読文学研究会」を運動強化を期して「朗読文学委員会」に改編する予定であると伝える。つぎの31号(1944720日)では、「特輯・ラジオと国民生活」が組まれ、川路柳虹が、ラジオにおける朗読について、「文学作品が印刷できない」状況を踏まえて、「間に合せの戦争ものなどより純粋な文芸作品が却つて望ましい。これも精神を高めるのに役立つ」としながら、「詩の朗読」についてはどうも板にのつていないとし、朗読する作品自体の詩人による自作朗読より俳優による朗読が望ましい、などの注文をつけている。

 一九四四年八月一六日、日本放送協会担当部局及び情報局放送課長らを交え臨時朗読文学委員会が開催され、「海の兎」(阿部知二作、八月五日放送済み)「微笑」(円地文子作、八月一九日放送予定)を女優たちに朗読させ、批判研究したと伝える。

この頃から、「報国」の一環としての短歌朗読(朗詠)の活動が具体化していったようである。八月一七日には、短歌部会朗詠研究準備委員会が開かれ、短歌朗詠法の再興と正統朗詠の基礎の確立を企図していた。(『ポトナム』2008年7月号所収)

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2008年7月28日 (月)

短歌の「朗読」、音声表現をめぐって(6)戦時下の短歌の「朗読」4

(マイリスト「短歌の森」にて、pdf版で読んでいただきましたが、今回からは本文にも掲載することにしました)             

日本文学報国会に、一九四四年八月一七日に設置された短歌部会朗詠研究準備委員会では、前田夕暮、頴田島一二郎、木俣修、山口茂吉、鹿児島寿蔵、松田常憲、大橋松平、中村正爾、長谷川銀作、早川幾忠の一〇人の委員が決められた(『文学報国』三四号、一九四四年九月一日)。九月一四日には第一回「短歌朗読研究会」を開催し、前田夕暮短歌部会幹事長によって「愛国百人一首」の朗読の試みが行われたとある。委員は、上記の松田、鹿児島、大橋、中村、早川と原三郎を現幹事とする記事もある(三六号、九月二〇日)。一一月二五日には、朗読文学研究会による第一回「朗読文学の夕」が開催され、前田夕暮の短歌朗詠、水原秋櫻子の俳句朗読、尾崎喜八の詩朗読、塩田良平の平家物語朗読、河竹繁俊の浄瑠璃脚本朗読、長谷川伸、船橋聖一の小説朗読がなされた、との記事もある(四〇号、一九四四年一一月一〇日)。記事の見出しには「決戦文学界に於ける新機軸」と題され、一二月開催予定の第二回「朗読文学の夕」も翌年に延期されたとある。また、同号・次号にわたって、富倉徳次郎「朗読古典への要望―朗読用古典の資料蒐集の報告上・下」が連載されている。「書物入手の困難」や「時間的余裕の無さ」を要因とする古典朗読の現実的な効用を否定しないところに戦時下の過酷さが滲み出ている。具体的には収集のため提出された古典のテキストや注解書などのリストが掲げられ、提出者には五味智英、志田延義、塩田良平、久松潜一らの名がみえる。また、河竹繁俊は、文学者の余技程度の朗読ではなく、朗読技法の研究の重要性を説き、放送の普及により「言葉による適正な芸術的発現が、いかに国民生活を浄化し、芸術化し、ひいては大和一致の精神の助長に資する」か、を強調し、「出版や発表の拘束打開」のためだけであってはならない、とする(「論説・朗読と技法」四一号、一九四四年一一月二〇日)。

一九四四年一二月一二日に開かれた「朗読短歌研究会」と短歌部会幹事会では「銀提供」に資する短歌を会員四三名に依頼したとある(四四号 一九四五年一月一〇日)。『文学報国』も遅刊が続き、一九四五年四月一〇日付け謄写印刷の四八号をもって途切れることになり、「主力を戦争への協力に」とする「二〇年度事業大綱決まる」の文字も復刻版では文字がつぶれて読みにくい。その一項目に「朗読文学運動」とあるのが判読できるのだが、もはや日本全体が力尽きた痛ましさが伝わってくる。

日本文学報国会の会報によって太平洋戦争下の文学朗読運動についてたどってみた。短歌朗読については、端緒についたばかりの感もある。

当時、国家の国民への広報戦略といえば、活字メディアが主力ではあったが、ラジオ、の普及は目覚しかった。一九三二年、聴取契約者数が、一〇〇万突破という中で、一九三七年九月、内閣情報委員会が廃され、内閣情報部が設置されると、政策放送の定例化が促進された。一九三八年一月からは、毎日一〇分間の「特別講演の時間」という重要政策発表の場を新設した。また、同年一二月には、全国的なラジオ普及運動を展開、陸海軍・内務・逓信四省連名の、ラジオ標語懸賞入選作一等「挙って国防揃ってラジオ」を配したポスターが作られ、私も放送博物館で現物を見ている。一九四〇年に入ると、契約者数が五〇〇万を越え、一世帯六人平均として三〇〇〇万人、内地人口の約四割以上の聴取が可能になったのである。

(『ポトナム』20088月号所収)

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2008年6月 5日 (木)

マイリスト「短歌の森」に「短歌の『朗読』、音声表現をめぐって―戦時下の短歌朗読2」を登載しました。

前回に続き、太平洋戦争下において、さまざまな形で出版された詩歌朗読用のテキストを紹介し、編者の意図や利用の実態について探ってみました。

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2008年5月 2日 (金)

マイリスト「短歌の森」に「短歌の<朗読>、音声表現をめぐって(3)戦時下の<短歌朗読>1」を登載しました。

戦時下の「短歌朗読」の実態を、当時大政翼賛会から刊行された短歌朗読のためのテキスト類から検証する。編者の意図はどこにあったのか、どんな作品が選ばれていたのか、どんな場面で利用されていたのか。また、1941年12月8日を境に、ラジオでの「詩歌」朗読が「愛国詩」朗読へと銘打たれたなかで、「短歌朗読」はどんな位置を占めのたかに言及する。

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