『吉野作造』(松本三之介著 東京大学出版会 2008年1月)を読む
五十年目の吉野作造・・・
私の「吉野作造」は、就職時に求めた『政治学辞典』(岩波書店 初版1954年、1963年10刷)以来、空白である。しかし、その後、短歌史や女性史を読み返すとき、「大正デモクラシー」という明るい響きとともに、吉野作造の名がいつも頭をかすめていた。
出版元のPR誌『UP』1月号に「五十年目の『吉野作造』」を寄せた著者は、自身が「『民本主義』の歴史的形成」を発表以来、吉野作造に取組んで五十年になり、2008年は吉野の生誕130年、没後75年の節目にあたると記している。また、哲学者、山田宗睦が同じく『UP』(2007年12月)に「五十年ぶりの『近代日本の思想家』完結―職業としての編集者・後遺」を執筆、編集者として企画・刊行したシリーズ第1冊目が、生松敬三『森鷗外』、1958年9月であり、50年ぶりに本書で完結したという感慨を記していた。
本書の著者は、「あとがき」において、次のように述べている。
「半世紀にわたる時間の経過は、学界での吉野研究を多方面にわたって前進さ
せ、そのデモクラシー論についてもその歴史的意義を積極的に評価する見方がほぼ定着したと言ってよい。たしかに、天皇制国家のきびしい状況のなかで、天皇主権との摩擦を避けつつ明治寡頭政に果敢に挑戦し、「外見的」立憲制の克服と「憲政の本義」の実現に向けて苦闘した吉野のデモクラシー論が、現実政治の視点から歴史的に正しく評価されるに至ったのは喜ばしいことであった。しかし同時にこれからの課題として、現代的な視点から吉野のデモクラシー論の持つ理論的な弱さや問題点を明確にしておくことも必要な作業ではないか。
吉野作造の思想形成―少しだけ近づく
本書は伝記的な記述はさほど多くはない。吉野の思想形成の背景と「民本主義」が同時代の知識人の思想的動向、国内の政情、外交、社会的な事件のなかでどのように修正や変遷を遂げてきたのかが丁寧に根気よく検証されていく。ときには、吉野自身の混乱ぶりを整理し、系統立てて提示してもくれる。今回、吉野の実像に少しだけ近づけたような気がしている。
大正デモクラシーを代表する思想とされる「民本主義」が、体系的、理論的に提示されたのが、吉野による「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」(『中央公論』1916年1月)であった。
以下、私の理解で大雑把ながら要約をしてみよう。デモクラシーの訳語としての「民本主義」に吉野は、つぎの二つの内容があると説く。①国家の主権は法理上人民にある②国家の主権の活動の基本的目標は政治上人民ある。①を民主主義、②を民本主義とし、②は一般民衆の利益幸福・意向に重きを置く政権運用上の方針であって、一般民衆は、賢明な少数の識見を持つ者が政策立案・法律制定・政権運用をする職業的政治家を観察・判定する「監督者」の役割に限って担うとしていた。少数の政治家選出の評価の基準は「政見」よりも「人格」の判断に重点を置く。しかし、2年後には、上記の政治の目的と方法との関係について、「民本主義」は二つの観念によって構成されるとし、結論的に「民主主義」との区別がないものとし、その目的は「一般民衆の利益幸福のため」から「個人的自由の尊重のため」と言い換えられている(「民本主義再論」『中央公論』1918年1月)。政治の方法は、上記、政治の目的よりも必要不可欠な「絶対的の原則」で、人民の行う政治でなければならないと主張している。具体的には政権運用に当たって民意の尊重、すなわち広く参政権を与えよという主張となり、民衆の力を無視してはいかなる政治理念も実現可能性がなく、国民という集団を基礎とする国民国家では各人が国家的責任を分担する、という根拠を挙げ、徳富蘇峰、上杉慎吉、山川均、北昤吉ら各様の批判も浴び、吉野は国家的組織と個人的自由の調和こそが団体生活の理想であり、政治の目的は国家を強くし、国民を安んずるところにある、と説いた。藩閥官僚勢力の非立憲性を追及しながらも、理論的な混迷を一掃できなかった。
当時の政局は、台頭する政党勢力と藩閥官僚勢力とが拮抗していたが、第一次世界大戦の緊張関係のなかで、山形有朋ら元老推薦で、官僚勢力と政党勢力(立憲同志会・加藤高明、中正会・尾崎行雄ら)を支柱とする大隈重信内閣が成立し、憲政擁護派の政友会を押さえ込もうとした。度重なる失政で大隈内閣総辞職の後は、1916年10月、山形ら元老の推す、政党主義に逆行する超然主義の寺内正毅内閣が成立していた。ロシアでの革命を期に、1918年8月にはシベリア出兵を宣言、国内では物価高騰、米騒動が拡大していた。こうした政情に、吉野は、国際的正義尊重と他国の国民に向けられたまなざしから、シベリア出兵には慎重論を、米騒動には、生活の圧迫に抗して起る民衆運動に理解を示しながら、その過激さには反省を求め、基本的には選挙権の拡大を説いた。さらに、『大阪朝日新聞』の言論弾圧事件に抗して「言論自由の社会的圧迫を排す」(『中央公論』1918年11月)を発表、翌月には、当時の革新的な知識人を結集した思想団体を目指して福田徳三らと「黎明会」を結成、デモクラシー思想の社会的志向性への動きを示した。
吉野自身の視野も、民衆の政治参加拡大による政治制度改革から「国民生活の安固充実」という民衆の実質的な生活問題解決へと広がった。1920年代に入ると、「国家はすべての個人・団体に優位した存在とし、社会と国家を同一視する」という考え方から、「概念的な区別をすることによって、国家の相対化が図られ、富国強兵型の国家から高尚な文化建設を理想とする国家へ」という国家観の転回を見せた。
以上が本書の序章から第3章までの概略なのだが、第4章新しい国際秩序に向けて、第5章政党内閣期の内政と外交、については通読の限りではあるものの、国際情勢の激動に伴う吉野の思想の揺らぎを的確に捉えて解明して見せる。
1915年1月、大隈内閣が中国の大総統袁世凱に21か条を要求した際、吉野は、日本が、中国の健全な自主独立の支援、列強との勢力範囲拡張競争への参加、というスタンスのもと、日本の侵略的態度には批判的でありながら、日本の要求内容を肯定した。中国における辛亥革命以来成長をつづけていた青年革命派に対する期待もあって、国防的見地のみの中国政策から経済的見地に立つ政策の重要性を強調するようになり、中国の反日的風潮につき日本側に反省すべき点を認めることになる。さらに、五四運動や万歳事件への対応では、吉野の中国留学時代などの人脈を中心とする「国民外交」的な努力がなされたのと同時に、国際社会は国力の強弱にかかわらず、自由平等原則によって規律されるという考え方に立脚し、国家を超えた普遍的正義や道徳の重要性を説いた。
その生涯に触れて・・・
吉野作造は1878年(明治11年)仙台の北45キロ、宿場町の古川で生まれる。環境にも恵まれ、読書好き、投稿好きの文学少年であった。第二高等学校を経て1900年東京帝大に入学、大学では政治学を小野塚喜平次に学び、思想的にはキリスト教牧師海老名弾正の影響を受けた。大学院で研究を続けたが、就職が思うようにならないまま1906年1月、袁世凱家の家庭教師として中国に渡り、袁世凱失脚までの3年間、中国の現状を目の当たりにした。その前途に失望しながらも、中国近代化の担い手としての民衆への期待が募り、後の彼の中国論の根底となる。帰国後、帝大助教授となった翌年1910年、在外研究を命ぜられ、ヨーロッパ、アメリカでの精力的な研鑽と体験をすることになる。
この時期、私にとって、とくに興味深かったのはつぎの点だった。吉野の在外研究期間、留守宅に残されたのは、妻とまだ幼い5人の娘たちだったという。家族への経済的支援は、海老名弾正の紹介による徳富蘇峰を通じ、当時、初代満鉄総裁を経て、第2次桂内閣の逓信大臣後藤新平が快諾したという。心置きなく、海外での語学習得はじめ、見聞と学識を重ねる日々、積極的に各国の市民や労働者の節度のある集会やデモ行進などに接し、とくに女性の社会や政治への関心と参加の姿に心動かされ、彼の思想形成に大きな影響を与えた点である。一方、後藤や徳富への尊敬の念は生涯続いたといい、ここに、彼の柔軟さや混迷の要素が一つ現れているように思えた。
1920年代半ば以降の足跡は、その生涯との関連で、私はつぎのように理解した。
1924年5月、いわゆる護憲三派が総選挙で大勝し、憲政会加藤高明による連立内閣は翌年治安維持法と普通選挙法を成立させた。この選挙制度は、選挙・被選挙権も男子のみとする不十分なものであったが、吉野は、政党勢力を基礎に、枢密院・貴族院・軍閥などの旧守勢力の干渉を排除していく自立的な成長を期待した。しかし、ここでも政権をめぐる抗争が繰り返されることを知る。当時結成された無産政党へも、従来からの「一般民衆は政策立案・実現は専門的政治家に委ね、監督者としての役割を果すべき」との持論をあてはめた。人道主義の立場から資本主義自体に反対し、労働階級の解放・独立に賛同するとし、無産政党のうち最も右派とされる社会民衆党(安部磯雄委員長)の誕生には一役買い、最初の普選法よる選挙結果については、情実にも負けない選挙民の道徳的覚醒による無産政党の成長に期待するほかない、との結論にいたる。
1924年2月、吉野は帝大教授の職を辞し、朝日新聞編集顧問兼論説委員として入社、早速時局問題の演説会を展開、『大阪朝日新聞』に連載した論説が検察当局により問題となり、その圧力によりわずか4か月で退社を余儀なくされている。彼の教職辞職の思惑と覚悟は何処にあったのだろうか。
後、帝大講師に復帰するが、以降、力を注いだのが、年来から取組んでいた明治文化研究であった。本書「補論・吉野作造と明治文化研究」によれば、すでに1921年から明治文化研究のための資料収集を始めていたが、その動機の一つは、明治維新の変革と明治国家による西洋文化、とくに近代立憲制の採用経過について事実に基づいた検証の必要性であったが、のち研究の対象は、洋学の発達、キリスト教の受容、近代化に貢献した外国人の紹介、知識人の役割、憲法制定経過など多分野にわたった。1924年に設立された明治文化研究会(石井研堂、尾佐竹猛、小野秀雄、宮武外骨、柳田泉、木村毅ら)を根拠地に、民間史家の力をも結集して、編集刊行した『明治文化全集』全24巻は、彼の晩年の貴重な仕事となった。この全集については、私が図書館司書として働き始めた頃、先輩から、明治期研究の基本的なレファレンスブックとして叩き込まれ、面白いように回答に導かれることがあったことを思い出す。
憲政会単独による第2次加藤高明内閣の幣原喜重郎外相の進めた中国政策は協調的な内政不干渉主義であったが、1920年代後半になると、日本の軍部の関心は満蒙の「特殊利益」に注がれ、中国軍閥間の内戦激化に乗じ、内政・武力干渉が進んだ。1928年にかけて、山東出兵、済南事件、関東軍による満州某重大事件を経て、中国の抗日・排日運動の激化、国内での世界恐慌の影響によるが打撃が深刻化する中、1931年9月18日柳条湖事件を口実に満州における関東軍の一斉攻撃が開始、十五年戦争へと突入する。吉野は、これを受けて「民族と階級と戦争」(『中央公論』1932年1月)では、満蒙における日本の既得権益は一端中国に返還の上、円満な交渉を通して合意を得るべきだとし、侵略行動を戒めたが、検閲による伏字が時代の厳しさを物語っていたが、翌1933年、50代の若さで生涯を閉じたのだった。
吉野のデモクラシー論への反論はたやすい。「天皇主権との原則的衝突を避けながら近代立憲主義への道を切り開こうとする」吉野の苦心を指摘する著者のメッセージが熱い。少なくとも当時よりは言論の自由を手にしている、現代の私たちが学ぶものは大きいのではないかと思う。
松本先生を囲んで・・・
本書の著者、松本三之介先生とは、大学でお会いして五十年になろうとしている。政治思想史関係の講義の多くは聴講していたもののゼミ生ではなかった。松本ゼミでは、出身の在京OBによって先生を囲む会が開かれていたらしい。このゼミ出身で研究職に就いている同期のWさんや退職後通った大学のIさんから声を掛けられて、近年、時々お邪魔するようになった。今年も、1月末、『吉野作造』を出されたばかりの先生を迎え、池袋に集まった。新著を読了していなかった私は、もっぱら、先生やOBの方々の話を拝聴することになった。まだ、若い頃、ゼミOBの東北研修旅行へも誘われるままに参加し、夜はメンバーの研究報告を聞かせてもらったり、予定になかった斎藤茂吉記念館をコースに入れてもらったりしたことなどを思い出す。浮田和民論を報告されたEさんとは今回30数年ぶりの再会であった。
松本先生は、お元気で「80歳を超えて新著を刊行したことに皆は驚かれるようだが、そうした反響に自身も励まされることが多い」と感慨深げだった。お一人暮らしになって長いながら、食事作りにも精を出されている由、その自立ぶりに感心してしまう。都心に出てデパ地下などを巡ると、すぐに一万歩になってしまうとも話されていた。その折、徳富蘇峰の研究書を持つWさんの感想に触れて、先生は「吉野作造も、もう少し長生きをしていたら、その思想が時代の流れに抗し切れたか、わからない」という趣旨のことをポツリもらされていたこと、原稿用紙に書けといわれたら新著の完成はなかっただろう、パソコンのおかげかも知れない、とのお話も、私には印象的であった。
今回、先生の著書を読みながらノートを取っていると、大学時代に戻ったような錯覚にとらわれた。なかなか進まなかったのだが、先生の新著をものにされた精神力に、少しはあやかりたいと、小文を綴ってみた。出来れば出版元あたりが中心に「吉野作造展」など企画できないものだろうか。優れた活動を展開している、生地、古川(宮城県大崎市)にある吉野作造記念館は、今の私にはやはり遠い。
吉野作造没後75年の命日の3月18日も近い。 (2008年3月14日)
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