2026年10月 3日 (土)

「高塚一成作品展」に行ってきました。

 知り合いの佐倉市にお住いの高塚一成さんの作品展に行ってきました。京成臼井駅から佐倉方面の線路に沿って約10分、高校時代、高塚さんに絵を習って美大に進んだ方のギャラリーで開催中。私は、野の花などを描いた作品が気に入っています。何点かの具象もあり、稚拙な鑑賞ながら、やさしいひとときを過ごすことができました。

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  こんな絵が描けたら、いいな、と思いつつ、思わず手にした絵葉書(「柿」)です。作品展の案内は、以下をご覧ください。
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https://gallery-and-kobo-m.jimdosite.com/

 10年ほど前に、高塚さん出身の行方の吉崎美術館で個展が開かれたとき、私が一番に気に入ったという絵(「夕暮れ」)をあしらってカレンダーにしてくださったことがあります。当時は、福島の原発事故による放射線量の高い地域とされた印旛沼畔を想起したのでした。

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 臼井駅からの道には、稲荷台と臼井田の境なのでしょうか、歩行者専用のこんな道もありました。千葉豪雨、台風25号の豪雨でこの辺りの用水路は無事だったのだろうかと。

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2026年9月28日 (月)

なつかしい山川惣治さん、高橋真琴さん、「昭和のメディアとひとびと」展へ

  佐倉市立美術館で開催中の「昭和のメディアとひとびと」、27日が最終日と知って、あわてて出かけた。展示内容が定かでなかったが、なつかしい山川惣治さんと高橋真琴さんに出会えればの思いだった。かなり昔、2009年に「山川惣治展」は見ているので、今回の展示はやはり寂しかったし、高橋真琴さんについてもそんな思いだった。
 晩年の山川さんが同じ町内に住んでいらしたこともあり、また、小学生時代に見た街頭紙芝居の思い出もある。参考として示した2009年の当ブログ記事にもあるように、つぎの葉書は、町内の空き店舗で開かれたミニ絵画展の案内である。立ち寄った会場では、おふたりにお話しするきっかけもなく、ただ絵を見入るばかりだった。山川さんはこの絵画展の数か月後に亡くなられている。戦時下には戦意高揚のための「勇犬軍人号』(1938年)『護れ軍艦旗』(1939年)などの紙芝居、『愛国絵話集』(1941年)『陸軍落下傘の神兵』(1941年)などの本が展示され、敗戦後も1946年には『白い牙』『十六に秘密』を出版、『少年ケニヤ』や『少年王者」などの冒険もの制作を始めている。戦時下の作品に対して、戦後どのように考えていたのか聞くすべもないが、絵物語本のブームが去ったのち、興した会社の破産、レストラン経営では詐欺にあって破産するなどの辛酸をなめている。住まいは転々とし、最期を佐倉市で迎えたことになる。

 

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「山川惣治展」行ってきました(2009年3月23日 )
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/03/post-9a68.html
 

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紙芝居『愛馬進軍歌』(1939年)

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ケースの中の『少年王者』第一集、復刻版(1977年)である。

 高橋さんの展示作品は、一切撮影は禁止となっていたので、いただいたことのある絵画展の案内状の一部を収めておきたい。2024年に亡くなられたときの当ブログ記事もあわせてお読みいただければと。

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いずれも、いまはなき「船橋西武百貨店」のギャラリーでの絵画展の案内葉書で、左が1993年、右上が1995年、右下が1996年のものである。

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いずれも「西武新宿PePe」のギャラリー「せ・らーる」で開催された折の案内状で、サインのある方が1994年2月、右が1995年3月に開催されているが、船橋の西武には、一・二度出かけた記憶があるが、新宿は失礼していると思う。

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京成電車で一駅の志津のお住まいの隣に開設された画廊の案内で、わたしがはじめて出かけた折に、いただいたと思う。

あの瞳が輝いている~高橋真琴さんが亡くなられた(2024年12月19日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2024/12/post-57b136.html

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6月19日撮影、住まいの敷地に隣接する「さくら庭園」のキンモクセイ、続く雨にもう花は落ちてしまったかもしれない。

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2026年5月27日 (水)

アンドリュース・ワイエス展、行ってきました。

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チラシの作品は「クリステイーナ・オルソン」(1947、マイロン・クニン・コレクション)。幾何学的にも思われる陰、黒いワンピースのクリステイーナの前面が浮き立つように見えた。

  上野の都美術館で開催中の「ワイエス展」に行ってきた。開館時刻に間に合うように家を出たが、上野駅公園口で下車すると、あちこちに修学旅行生が群れをなしていた。シーズンなんだなと。それに美術館手前の広場では、大陶器市の旗が林立するテントの下は大賑わいであった。

  都美術館は、都民でなくとも、シニア料金ということで、2300円のところ1600円。なんでも値上がりの昨今、2千円でおつりがくると用意していると、やはりシニアの女性の方が「もしよかったら、これをどうぞ、ムダになってしまうので」とチケットを差し出された。驚いたが「いいんですか、ありがとうございます」と利用させていただくことにした。その方はご夫婦でロッカーに荷物を預けていらしたのを見かけたので、もう一度お礼の言葉を掛けた。約束した友人の都合でもわるくなったのかな。得をしたというより、ちょっぴり幸せな気分であった。

 作品一覧をみると、前の記事でも触れた「丸沼芸術の森」所蔵の「オルソン・ハウス」一連の作品も多い。そのカタログでしか見ていない「オルソン・ハウス」の作品は、習作も多いが、現物にお目にかかれるのはうれしい。オルソン・ハウスの模型も作られていて、この窓の絵は、ここの窓、このドアからの眺めがはこちらの絵という図解まであった。窓からの光、その光が織りなす翳と風を描き切ったかのような作品には不思議な魅力があった。

 1974年のワイエス展の個々の作品の記憶はすでに薄れているが、当時のカタログを見ていて好きだった作品にも出会うことができた。

 今回の展示で、私には初めての作品も多かった。『冬の野』(1942年 ホイットニー美術館)、「ハリケーンの海」(1944、ボストン美術館)、横長の「粉ひき場」(1962、フィラデルフィア美術館)、猫が可愛い「うたた寝」(1963、ファーンズワース美術館)など、個人蔵のものを近年、寄贈されたという記述が目立つ。

 また、1974年のカタログではモノクロだった作品を鑑賞できた喜びは大きい。たとえば、以下の「洗濯物」「ゼラニウム」であった。撮影可の二階にあった「ゼラニウム」は人気らしく、若い人たちも入れ替わりでスマホに収めていた。

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「ゼラニウム」(1960年、ファーンズワース美術館)。窓を通して見える向こうの窓との間には、クリスティーナと思われる後姿とゼラニウムの鮮明な赤が描かれ、窓をめぐる板塀の質量感にも圧倒される。

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「洗濯物」(1961年 カマ―美術館)。日差しを浴びて海からの風にはためく洗濯物の下では、かごの横で気持ちよさそうに寝そべっている犬がいるではないか。

 なお、今回の展示には「丸沼芸術の森」、福島県立美術館所蔵のほかにも、国内の企業や愛知美術館、メナード美術館の作品もあったのだが、「ユニマットグループ」所蔵のものがかなり多かったのである。「ユニマットグループ」って?知らなかった!調べてみると、1968年、個人商店からスタートして、不動産、リゾート・オフィス、メンテナンス、インテリアから飲食、美容・健康、保育・教育事業など手広く展開する企業と知った。その内、メセナの一環で美術館でも建てるのかしらとも。

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「松ぼっくり男爵」(1976年、福島県立美術館)。松ぼっくりは、さかさになった鉄カブトに集められている。この鉄カブトは、ワイエスの隣人カーナー牧場の主が、第一次大戦に出征した折に使用していたものだという。

 最後の展示室を出たところでは、ワイエスの技法を解説した映像が流されていた。描く対象の色合いや材質感を作り出すための、気が遠くなるほどの積み重ねがなされれているのを知った。

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「薄氷」(1969年、三井住友銀行)を例にテンペラの画法を解説していた。

 なお、今回の展示では、オルソン・ハウスに住む姉弟の姉クリスティーナを描いた作品は少なかったし、晩年、その作品群が明らかになった「ヘルガ」一連の作品はなかった。ワイエス全体像を見るにはやや不足感を否めなかった。

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 以下の当ブログ記事も参照いただければ幸いです。
アメリカへ行ったことがないのに、アメリカの画家三人に魅了されて(1)ワイエス(2026年4月28日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2026/04/post-1885f0.html

アメリカへ行ったことがないのに、アメリカの画家三人に魅了されて(2)ワイエス(2026年5月 6日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2026/05/post-4532ad.html

 

 

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2026年5月20日 (水)

アメリカへ行ったことがないのに、アメリカの画家三人に魅了されて(4)ベン・シャーン

 ベン・シャーン(1898~1969)についても、すでに何回か当ブログでも書いている。彼は、リトアニア出身で、幼少期にロシア皇帝の独裁下から逃れ、一家で移民としてアメリカにたどり着き、苦労を重ねている。これまでのブログでは、私のベン・シャーンとの出会いにも触れてきた。つぎの二つの記事で、私の思いは言い尽くされているのだが、現在の、トランプ政権下のアメリカからの報道を見るにつけ、亡くなってから半世紀以上も経つというのに、この画家からのメッセージの力強さと新鮮さを思い知るのだった。彼が告発し続けた分断、差別、貧困、原爆、戦争という社会的なテーマは、現代のアメリカにおいて、そして現在の日本でも直面している問題であることがわかる。 

・葉山の「ベン・シャーン展~クロスメディア・アーティスト」へ行ってきました~はじめての神奈川近代美術館葉山館(1)2012年1月26日http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/01/1-1cf0.html

・葉山の「ベン・シャーン展~クロスメディア・アーティスト」へ行ってきました~はじめての神奈川近代美術館葉山館(2)2012年1月26日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/01/post-5478.html

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左が神奈川県立近代美術館葉山館のベン・シャーン展カタログ表紙。右は、葉山館所蔵の「麻生三郎コレクション」の版画集「リルケ「マルテの手記・一篇の詩の最初の言葉』」の絵はがき、ペンの力の強さを描いた普遍的なメッセージが伝わってくる一枚に思う。。

  上記事の葉山館での展示は、ベン・シャーンの画業のみならず、写真家としても、デザイナーとしても、ポスター、レコードジャケット、本の装丁、レタリングなど多岐にわたる。そして、これらの仕事の根底には、つねに社会的な弱者の味方として、社会の不条理にはきびしい批判や抵抗を示すという一貫した志が脈打っていることをあらためて知った。このカタログや数十年前の展覧会で購入した絵はがき、そして、古本で購入した、画家の没後、夫人の編集による“BEN SHAHN”(by Bernarda Bryson Shahn, H.N.Abrams New York 1972 ) などを眺めていると、初めて気づくことも多い。

 ベン・シャーンの絵には、「ベン・シャーン ペーパーズ」として見出された画家自らが収集していた写真や記事やメモをソースにした作品が多い。彼が初期に手掛けた「ザッコ・ヴァンゼティ」シリーズは、冤罪事件がテーマであった。1920年4月、二人の労働者は製靴工場の二人を射殺した強盗事件の容疑者として逮捕され、反政府運動に関与していたというだけで、明確な証拠がないまま死刑判決を受け、21年8月に処刑された。彼らの無実が公表されたのは1977年であったという。ベンは、1931ー32年、このシリーズを制作、33年にニューヨークで開催された個展は大きな反響を呼んでいる。

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「四人の検事」(1931-32)は、パンフレット「ザッコとヴァンゼティ事件の話し」1921年掲載の4人の刑事の写真をソースに描かれた。検事たちの表情は、神妙ではあるが、まるで容疑者のように見えてしまう。上記葉山館カタログ22頁より。

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 左「ザッコとヴァンゼッティ」(1931-32)、右「ザッコとヴァンゼッティの受難」(1931-32)。二人をつなぐ手錠と棺から受ける衝撃は大きい。前掲、1972年ニューヨークで出版された画集130,131頁より

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左は2006年9月集英社から出版された詩画集の表紙は「That Friday,YAIZU」の一部。右は「落下物」(1957)ベンは、1954年3月、焼津のマグロ漁船「第五福竜丸」が、ビキニ環礁付近のアメリカの水爆実験で被ばくした事件に強い関心を寄せ、「第五福竜丸」を「ラッキー・ドラゴン」と名付け、「ラッキー・ドラゴン」シリーズとして、1957年から65年にかけて描き続けている。アメリカの原子核物理学者ラルフ・E・ラップ経由の調査や写真が参照されているという(上記、葉山館展カタログ解説)。

 ベンは、1920年代と1960年の二度日本を訪れている。前者の詳細は不明という。1960年3月から4月にかけて、京都を中心に一カ月以上滞在している。日本への関心と取材は旺盛だったといい、聞きつけた日本の画家たちとの面会もなされている(藤慶之<抄録>「ヒューマニズムの画家ベン・シャーン」上記葉山館展のカタログ)。

 私が、今回、あらためて画集を見ていて気付いたのは、以下の絵が「ワルシャワ」と名付けられていることだった。そしてこの絵のソースは下段にあるデッサンと写真であった。              

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 さらに、この構図は、どこかで見たようなと、思い出すのは、つぎのハンブルグのニコライ教会で出会ったモニュメントだった。すでに当ブログでも触れているが、ナチスに抵抗した牧師のボンヘッファーの「試練」と題する言葉が刻まれている銘板の前で、頭を抱えるモニュメントは、2004年に制作されたらしい。あくまで、推測ではあるが、ベン・シャーンの先の絵が念頭にあったのではないか思うのだった。

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・なぜ、いま「ボンヘッファー」か~神を信じなくとも: 内野光子のブログ   (2025年11月30日)
・オランダとハンブルグへの旅は始まった(15)ハンブルグの交通路線図にようやく慣れて: 内野光子のブログ(2019年8月29日)

 ベン・シャーンの「ワルシャワ」と題する絵の構図は、さまざまな絵にも登場するが、その一つが、つぎの絵だった。

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「クラリネットとティン・ホルンのコンポジション」(1951)、1970年の「ベン・シャーン展」で求めた絵はがき。

 また、つぎの本のカバーが、どういう訳か、ファイルの中に紛れ込んでいた。どうして私の手元にあるのだろうか。いま、思い出せないでいる。友人の誰かが、私のベン・シャーン推し?を知ってカバーだけ譲ってくれたのだろうか。著者のプロフィルなのだろうか。ベンは、様々な人物の肖像画も描いている。オッペンハイマー、ハマショールド、そして第五福竜丸で被ばくした久保山さんの絵も。

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 以下は、1991年新宿の伊勢丹美術館でのチケットと気に入った「スーパーマーケット」(1957)と題する絵はがきだった。199120260516

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2026年5月10日 (日)

アメリカへ行ったことがないのに、アメリカの画家三人に魅了されて(3)モンドリアン

 モンドリアン(1872-1944)はアメリカの画家と言えないかもしれないが、最晩年をアメリカで過ごし、精力的に制作したことをもって、私は、勝手にそう呼んでいる。同じアメリカの画家と言っても、ワイエスとモンドリアンとの共通点は、何なのだろう。素人の私には、脈絡なく惹かれるものがあったのである。

 モンドリアンについては、このブログでも何度か触れたことがある。

・アンジェイ・ワイダの遺作『残像』を見て~ワイダと画家からのメッセージ
(2017年7月27日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/07/post-8567.html

・はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(9)デン・ハーグ市立美術館のモンドリアン(2019年8月13日 )
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/08/post-ab1282.html

 というのも、これらの記事で、私の第一歌集『冬の手紙』(1971年)の「あとがき」につぎのように書いていたからである。繰り返しになるが。

「モンドリアンの抽象に出遭ったとき、あの冷徹さに戸惑いながら惹かれていったのはなぜだろうかと考えています。そこには猥雑なものをいっさい拒否しようとする、ひとりの人間の生き方の美と思想があると思いました。この画家の幾何学的構成にいたる過程は、<樹木>連作が雄弁に語っています。さらに光と影から解放された垂直と水平の世界の展開を見せられたときの感動を忘れることができないでいます。主観的な表現を極度に排し、求めてやまなかったものはなんであったろう。・・・」

 

 2019年、出身のオランダのアムステルダムの王立美術館で出会ったモンドリアン、ハーグ市立美術館で、「モンドリアンコレクション」の<樹木>シリーズを目の当たりにしたときも、抽象への展開のナゾは解けたわけではないが、どちらの絵にも、短歌の精神と技法を見たような気がした。もちろん私は、抽象画への境地にはたどり着けない。映画やニュースで知る限りのニューヨークだが、その猥雑さと活力を色鮮やかな幾何学的構成もって描いた作品には不思議な魅力があったのである。

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モンドリアン展(西武美術館1987年)カタログより。右上段の絵は、叔父のフリッツ・モンドリアンの作品「小川の牛」。

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1987モンドリアン展のチラシより。

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2026年5月 6日 (水)

アメリカへ行ったことがないのに、アメリカの画家三人に魅了されて(2)ワイエス

 1990年、年頭の「ワイエス ヘルガ展」は、今はなつかしい、池袋のセゾン美術館(1975~1999)で見ている。残念ながら、カタログは買わずじまいだった。いま手元に残っているのは、チケットの半券と二枚の絵ハガキである。当時、ワイエスといえば、私は、メイン州のオルソン・ハウスとペンシルヴァニア州のチャッズ・フォードの住まいの周辺とそこに住む人々を丹念に、愛情をこめて描き続けていた、国民的人気も高い画家という印象が強かった。ところが、日本で「ワイエス ヘルガ展」が開かれる前から、1971から85年の15年間、隣家の農場で働く中年の女性ヘルガのヌードや肖像を、双方の家族にも知られず描き続けた未発表の作品群が公になったとの報道を聞くようになった。一つの対象を、一人のモデルを描き続けてきたワイエスなので、どんな作品なのだろうかと、興味津々だった。鉛筆によるデッサンや水彩画、テンペラ画と使い分けて、ヘルガを描き続ける執念は、胸に迫るものがあるが、ワイエスの妻も、ヘルガの夫も知らない間に二百数十点の作品が残されていたとは、驚異でもあり、そんなことってあるだろうかと不思議に思ったものである。少なくとも、ワイエスの妻は、気づいていたはずである、と下世話な推測もしているところである。

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上段は、「農道」(1979年)①、下段は「果樹園にて」(1982)②。

 いま改めて、1987年ニューヨークでに出版された画集“The Helga Pictures ”(Harry N.Abrahams,Inc.)の翻訳を見ている(「ワイエス画集Ⅲ」リブロポート 1987年5月)。この画集には、ヘルガシリーズコレクションのオーナーによる文章とナショナルギャラリー副館長の「アンドリュー・ワイエスの「ヘルガ組曲」」と題する、欧米美術史の中でのワイエスの位置づけと評価を丹念に追っている論文が付されている。画集は、裸の、戸外の、室内の眠っているヘルガなど、様々な季節、時間における30のポーズごとに関連する作品が集められている構成になっている。上記の副館長の論文の冒頭では「このシリーズ全体を通して明らかにされるのは、抑制と複雑さ、画面の質感と深い情感の表現に重要な焦点があてられていることだ」と評価している。

 例えば、上記の絵はがきとなっている「果樹園にて」のテーマのもとに、水彩画は1973年から85年まで10枚、鉛筆によるデッサンが1973年から1982年までの9枚の作品で編集されている。絵はがきの1982年の作品②が完成品というわけではなく、1985年にも季節が違う作品③が制作されている。デッサン④も、異なる構図で、長い年月にわたって描かれていることがわかる。同じモチーフで繰り返し、年月をかけて、さまざまな視角で対象を捉えていることになる。

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「果樹園にて」(1985)③

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「果樹園にて」(1973)④

 また、上記の絵はがき「農道」①と題される作品はこれ一作のみであった。また、ヌードの中には、「ネルと一緒に」(1979)⑤のような作品もあって、微笑ましくもなるのだった。

 今回のワイエス展が楽しみである。

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 「ネルと一緒に」(1979)⑤

 

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2026年4月28日 (火)

アメリカへ行ったことがないのに、アメリカの画家三人に魅了されて(1)ワイエス

 派手なネクタイで、カメラに向かってこぶしを上げたり、手を振ってみたりして登場するトランプ大統領が、ジェスチャーたっぷりで会見する映像を、毎日見せられると、もううんざりという感じの昨今である。そんなとき、ふと、ワイエスの『アメリカの詩情 オルソン・ハウスの物語』(丸沼芸術の森 2010年)をひらくと、そこには、あまりにも静寂な、海辺の一軒家にひっそりと暮らす姉弟の物語が繰り広げられる。アメリカ東部メイン州の海辺の丘の上のオルソン家の体が不自由だが自立心の高い姉と農業に勤しむ弟の暮らしを分け入るように子細に描き続けた画家の物語でもある。折しも4月28日から、上野の都美術館で開館100周年記念の「アンドリュー・ワイエス展」が開かれると知った。なんという偶然!

 アンドリュー・ワイエス(1917~2009)は、ペンシルヴァニア州のチャッズ・フォードに生まれ、著名な挿絵画家だった父親の教育もあって、幼少時から水彩画を描き始め、二十歳のころには、地元で個展を開くまでになっていた。1939年兵役に志願するが、身体虚弱で不合格になり、その翌年から、夏の間の避暑地であったメイン州のグッシングのオルソン家にアトリエを提供されるようになり、二拠点生活が始まり、姉弟が亡くなる1960年末まで続いたのである。

 姉弟を描くといっても、その姿が描かれるのは稀である。さまざまな視角でとらえられたオルソン家の全景と共に壁、屋根、窓であったり、納屋の中の農具や馬具であったり、収穫したトウモロコシを積んだ手押し車、ブルーべリーを運ぶバスケット、水を運ぶバケツなどをあるがままのその場所で克明に描いている。以下はいずれも、前掲「オルソン・ハウス物語」からのコピーである。この画集は、2010年9月から埼玉立近代美術館で開催された「丸沼芸術の森」所蔵の展覧会のカタログである。今回の都美術館の展示作品一覧によれば、「丸沼芸術の森」所蔵の作品もかなり多いようだ。直接、絵に出会えるのを楽しみにしている。

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「アメリカの詩情 オルソン物語」の表紙「オルソンの家」(1969)

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「干し草をかき集めるアルヴァロ」(1947)、右手遠くに家が見える。

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「玄関の前に座るアルヴァロ」(1942)、働きづめだったアルヴァロは、1967年12月24日に死去。

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「クリスティーナの世界」習作(1948)何枚もある中の1枚。

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「クリスティナーの世界」習作(1967)、クリスティーナは、弟の後を追うように1968年1月27日死去、最後の肖像画となった。

 ワイエスに私が初め出会ったのは、1974年、東京国立近代美術館での「アンドリュー・ワイエス展」であった。職場の近くでもあったので、土曜の午後にでも出かけたのではなかったか。当時は週休2日など夢の夢であった。
 あらためて、このワイエス展のカタログを取り出してみると、すっかり茶色になった新聞切り抜きが落ちてきた。こんな記事を読んで出かけてみる気になったのかもしれない。

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   上記左の朝日新聞の記事は、文面から74年5月と分かるのだが、日にちは不明、執筆は小川正隆。毎日新聞の方は74年4月19日(夕刊)、執筆は安井収蔵記者となっている。調べてみると、両者ともすでに故人となっているが、社内の美術担当から、美術評論家となり、大学教員や美術館館長になっていたことを知る。なにせ半世紀以上も前のことだったのだ。当時の薄れたメモによれば、衝撃を受けたのは「冬の蜂の巣」(1959)と下記の「卵の計り」(1959)のリアルさだった。さらに、つぎの2点の寡黙さに注目していたようだ。後から思えば、オルソン家の姉クリスティーナと弟アルヴァロの暮らし方や生き方を象徴しているような作品だったのである。姉弟の晩年と没後のオルソン家のたたずまいが伺われる。

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「風下」(1965)

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「アルヴァロとクリステイーナの家」(1968)

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チケットの作品は「遥か彼方に」(1952)だった。

  ワイエスは、アメリカでも国民的画家とも言われ、人気が高いそうだが、日本でも、その後、何回か展覧会が開催されている。渋谷のbunkamuraで1995年「アンドリュー・ワイエス展 アメリカの郷愁」、2008年「アンドリュー・ワイエス展 創造の道程」などが開催されている。この時にも、以下のような記事を書いていたのである。

ワイエス展、Bunkamuraへ(2008年11月28日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2008/11/bunkamura-7f3a.html

 私が次に出かけたのは、1990年、池袋のセゾン美術館で開催された「ワイエス展 静逸な生命の肖像 ヘルガ」であった。ワイエスの後半生の意外な展開に驚かされたのであったが。(つづく)

 

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2026年3月13日 (金)

広野多珂子の世界

 佐倉市立美術館の「広野多珂子 絵本原画展」に出かけた。私には初めて聞く名前だったが、佐倉市に20年以上も住んでいる画家とのこと、愛らしくどこかなつかしいチラシの絵を見て、ぜひと思っていた。会期の早めに出かけた連れ合いからも勧められていた。

 広野多珂子(1947~)は、夫とともにスペインで美術を学び、帰国後のスペインのオリーブ畑に囲まれた小さな村で暮らす少女スーザとおばあさんとロバたちが繰り広げる物語は「ねぼすけスーザシリーズ」として7冊を成している(1991~2014 福音館書店)。明るくて、やさしくて、善意の人たちとの触れ合いの中で進む話に癒される思いであった。

 スーザの両親はスペインの内乱で亡くなっており、おばあさんというのは血縁があるわけではなく、取り上げた助産婦さんだったという設定である。また、角野栄子「魔女の宅急便その2」(1993年 福音館書店)の絵も描いていることを知った。赤ちゃん絵本,科学絵本、児童書の挿絵など多分野で活動していることもわかる。残念ながら、私が娘と読んだ絵本や物語は、1970年代から80年代にかけてのところでストップしているから、新しい世界を知るのも楽しい。

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チケットの絵は、「ねぼすけスーザのおかいもの」の表紙。右は「寝坊助スーザのはるまつり」「絵本原画展のカタログから。原画で見ると、いずれも動物たちの表情がそれぞれ愛らしい。

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「ピーテル、はないちばへ」(2015年 福音館書店)、「絵本原画展」のカタログから。両親が育てた花市場に売りに出かけた後、忘れたお釣りの小銭を届ける少年の物語。迷路のような運河をちいさなんボートを漕いゆく。スペインにも運河が多いのだろうか。似ているなあ、アムステルダムの運河、大掛かりな花市場を思い出すのだった。

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「さんぽみちのオナモミ」(2016年 福音館書店)、「原画絵本展」カタログから。科学絵本の中の一冊。2003年年佐倉に転居、散歩の犬にも引っ付いてくるオナモミのなり立ちを精密なタッチで描く。右の絵は、京成臼井か佐倉への車窓から見える風景である。

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2024年7月29日 (月)

きのうのNHK「日曜美術館」は「香月泰男」だった

 日曜の朝、「日曜日美術館」をリアルタイムで見るのは久しぶり。「鎮魂 香月泰男の「シベリア・シリーズ」だった。2021年10月、葉山の神奈川県立近代美術館で見たはずの「シベリア・シリーズ」57点。番組では、その内の数点を香月自身の作品に付した言葉の朗読や「シベリア・シリーズ」を所蔵する山口県立美術館の学芸員などの解説を聴きながら、ゆったりと鑑賞することができた。葉山の展示は「生誕110年」だったが、今年は、没後50年記念の展覧会が山口県立美術館で開催している。もうかなうこともないだろう、香月の生家近くの「香月泰男美術館」にも出かけてみたいなとしきりに思う。

 香月泰男(1911~1974)は、1943年召集されるが、シベリアの抑留生活から1947年に復員、生涯描き続けたのが、シベリアでの過酷な体験であった。番組でも紹介された、私にとっての圧巻は、「朕」と「北へ西へ」だった。

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「朕」(1970年)は、1945年2月11日紀元節の営庭は零下30度あまり、雪が結晶のまま落ちてくる中、兵隊たちは、凍傷をおそれて、足踏みをしながら天皇のことばが終わるのを待ち、朕のために、国家のために多くの人間の命が奪われてきたことを描いたという。絵の中の白い点点はよく見ると雪の結晶である。また、中央の緑がかった二つ四角形は、広げた詔書を意味しているのが、何枚かの下書きからわかったという。

 

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 「北へ西へ」(1959年)、敗戦後、ソ連兵によって行き先を知らされないまま、「北へ西へ」と列車で運ばれ、日本からは離れてゆくことだけはわかり、帰国の望みは絶たれたという。

 

<当ブログの関連過去記事>

葉山から城ケ島へ~北原白秋と香月泰男(2021年11月5日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2021/11/post-e73a2a.html

 

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2023年6月14日 (水)

川村記念美術館「芸術家たちの南仏」へ

 梅雨入り直前の晴れ間、6月8日、佐倉市内の川村美術館に出かけた。企画展の「南仏」が気になったといっても、私たちは、かつて、エクス・アン・プロバンスから日帰りのニース、マルセイユを訪ねたというレベルのことである。先日のマティス展に続いて、マティスにも出会うことができるかもしれない。

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 カタログの表紙も、チラシもマティスの切り紙絵「ミモザ」(1947年)だった。入館料、シニアは200円引きの1600円であった。

  今回、はじめて、午後2時からの学芸員による常設展、企画展をふくめてのガイドツアーに参加した。常設展は、印象派のルノアールから20世紀のアメリカ美術に至るまで、バラエティに富んでいるが、ふだんなら、通り越してしまいそうなマーク・ロスコの壁画やフランク・ステラの部屋での解説を聞いて知ることも多かった。ロスコの壁画はニューヨークのレストランからの注文であったというが、彼は、その店の雰囲気が気にいらず、納めなかったものの一部が、川村美術館に収蔵されたというエピソードも興味深い。ステラの作品の自在さと多様性には驚きつつ、美術館入り口近くのモニュメント「リュネヴィル」(1994年)という彫刻?には、職人たちとの苦労が偲ばれるのであった。

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ステラ「リュネヴィル」(1994年)、八幡製鉄所の職人さんたちとの汗をも思う。

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セザンヌ「マルセイユ湾、レスタック近郊のサンタンリ村を望む(1877-78)

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アルベール・アンドレ「マルセイユのプティ・ニース」(1918年)。プティ・ニースは、1917年にできたばかりのレストランであったが、現在では高級ホテルとレストランとして健在である。アンドレは、上記のセザンヌとは親子ほど年も違うが、親しく交流し、多大な影響を受けた。1918年はセザンヌの没年でもあった。

 マティスやシャガールには癒される作品も多いのだが、ピカソの前では、どうしても構えてしまう。しかし、今回は、以下のようなわかりやすいメッセージ性の高いポスターや広告もあって、心和むのだった。

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ピカソ「平和のための世界青年学生祭典(東ベルリン)」(1951年)。こんなスカーフがあったとは。この祭典は、第1回が、1947年プラハで開催され、第3回が東ベルリンであった。以後、中断もあったが、共産圏の都市を巡回して開催され、ソ連崩壊後も続いている。

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ピカソ「リュマニティ(日曜版)挿絵」(1953年12月27日)。ピカソの「ゲルニカ」(1937年)は有名であるが、彼は、フランスがドイツナチスから解放された1944年に、フランス共産党に入党、1973年亡くなるまで党員だった。しかし、スターリンの死去の折、描いたスターリンの肖像画はソ連から拒否されている。1949年以来、鳩は何度か
描かれ、平和のシンボルとして、定着し、世界に広がっていった。

 ピカソの女性遍歴は目まぐるしいが、最近、愛人の一人フランソワーズ・ジローの訃報が、小さな記事となっていた。抽象画家として活躍、6月6日、101歳で、ニューヨークのでなくなっている。1943年、1881年生まれのピカソが、1921年生まれの画学生ジローと出会い、二児をもうけたが、1953年の破局後は、ピカソはかなり未練がましかったらしい。

 なお、これまでまったく知らなかった、ラルフ・デュフィの「花束」の里芋の葉がなぜ青なのか、気になる作品だったし、また、マティスやピカソ、ボナール、シャガールらの作品で飾られた「ヴェルヴ」(1937年12月~1960年)という文芸美術雑誌の表紙にも興味をそそられたのだった。

 川村記念美術館は、DIC(旧大日本インキ)が所蔵する美術品を中心に、1990年に開館、3万坪の庭園は、みごとに整備され、折々の自然を楽しめる。京成佐倉・JR佐倉を巡回する無料のシャトルバスがありがたい。

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美術館の渡り廊下から。

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ツツジ、藤の花の季節は終わってしまったが。

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藤棚から美術館を望む。

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いまは、アジサイが見ごろ、ガクアジサイの下にひそむカタツムリ。

 

 

 

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