2019年8月31日 (土)

はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(16)ハンブルグ市立美術館へ

 7月2日(火)風が強く、外へ出ると、寒い。まずは歩きで歴史博物館へと思う。まるで冬支度のコートとマフラーの出勤途上の女性もいれば、半そでの男性もいる。何度も往復したルーディング・エアハルト通りのビジネス街をミヒャエリス教会方面に向かって歩く。

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何度か渡った橋、ホテルゾフィテル方面を見る。

  途中、ミヒャエリス教会の右手の向い辺りにブラームス記念館があると入り込むのだが、旧市街の趣で、何度聞いてもたどり着かずに、ひとまず、歴史博物館に急ぐ。ところが、なんとこの週だけ月・火の連休とのことで、残念ながら、ハンブルグ最終日の明日に来ることにした。それでは、とうことで、辺りを見渡せば、広い植物園であって、博物館はその一画にあったのだ。道路を渡ってビスマルク公園に入ってしばらく歩くとなんと、巨大なモニュメント、カメラに納まりきれない石像が立つ。その土台には、街ではあまり見かけなかった「落書き」がすさまじかった。というわけで、午前中の収穫は少なかったのだけれど、交通のターミナルでもあるサンクト・パウリ駅U3→シュランプU2→中央駅北口から市立美術館へと歩く。

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広い植物園、ジョギングの人たちもちらほら、羨ましい。

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ビスマルク石像、大きさもさることながら、この落書きにも圧倒される。

 

ハンブルグ市立美術館に入館(14€)し、フロアガイドに沿いつつ歩き始めるが、広くて複雑そうなので、現代の部は省いて、まず3階の18世紀以降をと見始めた。小さい部屋続き、その横には大きな部屋が、全館であわせて60室以上あることになる。

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上が、市立美術館の全景、下が向かいの市民ホール。朝の涼しさはどこへやら。

 

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中央の絵葉書が、マックス・レーバーマン(1847~1935)で、ドイツ印象派の主要画家であった。チケットがマネの「ナナ」、下の横向きの絵葉書は、美術館の宣伝用らしく、カスパー・ダーヴィル・フリードリヒの「雲海の上の旅人」と題されている

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右がハンブルグ市立美術館の三か月の予定がびっしり書かれているリーフレットで、広げると新聞大のレンブラントの自画像(1630年)のポスターになる。左は、すでに終了した「ハンブルグ派」特別展のガイドであり、中央が開催中の北欧の特別展だったのだが、素通りしてしまったのか、気づかなかった。リーフレトによれば、デンマークのハンマースホイの作品もあったのである。私はいつから、この画家の、モノクロの静かな室内画の、淡い光と陰に魅せられたのだろう。来年1月から都美術館で、ハンマースホイ展が開催されるそうで、楽しみにしている。

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ドームと本館との渡り廊下を、行ったり来たりも・・・。

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いずれもフィリップ・オットー・ルンゲ(1777~1810)の作品、早世したが、ドイツロマン主義の代表的な画家。上段、左が自画像、右が両親を描いたものらしい。(17室)

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紛れ込んだ図書館だったが・・・。

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上段は、アドルフ・メンツェル(1815~1905)の「「ベルリン三月革命における棺の安置」?と題される作品(20室)、ほかに労働者を描いた作品が何点か見られた。下は、現物は見ていないが、夫のチケットで、アルブレヒト・デューラー「恋人」(1492-4)であった。

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階段室も豪華な。

 やはり、疲れ切って、途中で、CUBEといカフェで一服。レンブラントは6室と言われて、駆けつけると、たしかに2点あり、見落としていた。そんな名画はたくさんあったと思う。それでも、クールベやコロー、パウル・クレー、ムンク、ゴッホ、セザンヌ、シャガール、モネ・・・・、たしかに見た記憶がある。どんな絵だったか、思い出せないほうが多い。もう少し時間をかけて回りたかった。というより、体力の問題なのかもしれない、と思う今回の旅の美術館巡りだった。

 この日の夕食は、中央駅のフードコートで、焼きそば・春巻など軽いもので済ませ、ホテルで、たっぷり果物でも食べようということになった。明日の出発にそなえて、荷物の整理をしなければならないし、といっても、夫の荷物はとうとう戻らなかった。着替えや洗面道具は何とか調達したが、充電器や電子辞書、若干の土産・・・、いったいどうなるのだろう。10日も経って、自宅に荷物が届いていた、なんていう話も聞くが・・・。

 

 

 

 

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2019年8月21日 (水)

はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(12)ユダヤ歴史博物館へ

 ハーレムからアムステルダムに戻り、ユダヤ歴史博物館に向かうことにしていて、中央駅前の14番のトラムに乗る。地図を見れば先日、ガイドさんと回った市役所、ワーテルロー広場とそんなに離れてはいない。博物館の周辺は、かつてのユダヤ人街だった。ナチスの迫害が始まる前には、アムステルダムのユダヤ人人口は14万人だったのが、大戦後は3万人に激減したという。
夕食は、中央駅近くの中華料理屋さんで、海老の料理と焼きそばとチャーハンをシエアしたが、美味しかったのにやはり残してしてしまった。午前中のハーレム行きとあわせて、この日、2万814歩。

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案内書とユダヤ関係施設の共通チケット、ただ、私たちは、閉館時間のこともあって、ユダヤ歴史博物館の「1900年~現代」の部分とユダヤレジスタンス博物館を大急ぎでしか見ていない。どこも、かしこも時間不足なんだなあ、と。

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展示は、様々工夫されていて、各コーナーには、かつての写真や実写の動画が編集されていて、操作一つで見られるようになっている。比較的裕福なユダヤ人が多かったというアムステルダム、その日常生活が、突然中断されて、収容所での恐怖に直面する市民の姿が、強烈な印象となった。噴霧器の写真には、かつての敗戦直後の暮らしを思い出させられた。東京池袋で焼け跡のバラック店舗で暮らし始めた私たちは、こうした噴霧器でDDTをかけられた経験はなかったが、この噴霧器とアースの殺虫剤や平たい円形の容器をパクパクさせるDDTの粉の噴霧器、よく使いもしたし、実家は薬屋だったのだ、よく売れた商品だったのである。

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続くシナゴーグ、アムステルダムには、ユダヤ人だけを特定区域に集めたゲットーは設けられなかった、という。

 

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2019年8月17日 (土)

はじめてのオランダとハンブルグへのへ旅は始まった(11)ハーレムへ

  アムステルダム中央駅9時17分発、ハーグ行きでハーレムへ、途中のライデンでは、学生たちの乗降が多い。20分弱でハーレム着、ホームや駅前も何となく閑散としていた。

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ホームの階上には、木造の待合室か。


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地味なたたずまいのハーレム駅舎、駅前の花屋さんが店開き。

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新しそうな銅像だが、ガイドブックによれば、オランダ独立戦争、80年戦争(1568~1648年)時代、ハーレムの知事だったヴィッグボルト・リッペルダ男爵と防衛隊の女性の銅像だという。

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駅から、クライス通りを進んで、路地に入ると、ユダヤ人をかくまった町の時計屋さん、その隠れ家は、いまは、コリー・テンボーム博物館となって、公開されている。私たちが訪ねた時は、どうも閉館中らしく、ツアーの人たちがガイドさんの話を聞いているところだった。

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グローテ・マルクト広場と聖バッフォ教会、立派なパイプオルガンがあって、ヘンデルもモーツアルトも演奏したという。中も見学したいところだが、先を急ぐ。フランス・ハルス美術館もスルー。

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市庁舎の観光案内所で、1ユーロの地図を買い、テイラー博物館への道を教えてもらう。日本からですかと、歓迎される。

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広場の裏手はすぐ川になっていて、跳ね橋が見える。係員がひとりいて、通行人や自転車は、橋が上がると赤信号で待つ。

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垂直に立った橋、小さな船が過ぎてゆくのどかな風景。

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実は通り過ぎていた、目当てのテイラー博物館、右手中央の黒い建物だった入り口は狭いが、中の広さと豪華さに圧倒される。

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博物館のフロアガイドとハーレム、私たちが歩いたところ。↓下はテイラー博物館のホームページ・

https://www.teylersmuseum.nl/en/teylers-museum#/en/frontpage/walter-isaacson

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ここでもレンブラントの特別展が5月から開催中で、多くのデッサンが展示されていた。

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博物館のカフェのアップルケーキもおいしかった

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これは「デンハーグの花市」、ヨハネス・クリスティアーン・クリッケンベルグという画家の作品ということが、絵葉書で分かった。

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風車の変遷を示す展示も。

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コレクションの主、銀行家のテイラー(1702~1778)の肖像、絵画ばかりでなく、化石から始祖鳥、万物?の歴史をたどる展示物。とくに失われがちな古い道具や機械類の収集にも圧倒される。

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テイラー博物館からスパーネル川に沿って歩いていくと、大きな風車が見えてきたが、ここも博物館になっていて、見学には20分はかかるということで、パスすることに。途中にあった警察署に寄って駅までの道を尋ねると、川沿いの道から、線路沿いの道へ左折せよとのことで、人っ子一人通らない広い炎天下の道を歩きに歩いて、30分?ハレーム駅に着いた。アムステルダムに戻る予定が大幅に遅れてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2018年11月24日 (土)

もう一度、見ておきたい展示だったが、今日までだった~「開館70周年記念展示 本の玉手箱」

 調べ物のついでに、立ち寄ったのが、国立国会図書館新館の「開館70周年記念展示 本の玉手箱」という展示だった。もう一度時間をかけてみたいと思って、チラシを見ると、なんと東京での展示は今日1124日(土)までで、1130日からは関西館での開催となっていた。残念。

私が出かけたのは10月の中旬だったか。展示室は閑散としていて、入場者は23人、やはり年配の人が多い。1960年代後半から、たった11年間の在職だったが、めずらしい書籍や資料に出会えたのは、貴重な体験ではあった。浮世絵・錦絵をはじめ憲政資料室の明治の政治家の書簡、高橋由一の絵画だったり、イギリスの稀覯本、内務省のマル秘資料だったり・・・、当時はまだ非公開だった大量の児童図書などには目を瞠ったものである。しかし、今回の展示では、まさに「玉手箱」のように、こんなものが所蔵されていたのだとあらためて知ることにもなった。ほんの一部の紹介のはずなのだが。

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 展示カタログの表紙、右下、下から2段目に並ぶ、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』   (日本少国民文庫、新潮社 1949年)と、正岡子規「絶筆三句」(1902年)の散らし書きは、写しであったが、右から「をととひのへちまの水も取らざりき  糸瓜咲て痰のつまりし佛かな 痰一斗糸瓜の水も間にあはず」と読めた。1902年9月19日未明に亡くなっているので18日の昏睡に入る直前の筆になるらしい(上田三四二解説『病状六尺』岩波文庫)。

Img546展示カタログの裏表紙。中央の鳥の首の大きく曲がった内側にある、ハートが描かれている細長い変形本が、与謝野晶子『みだれ髪』(東京新詩社 1901年)。なんといっても懐かしいのが、鳥のくちばしの上にある、図書カードボックスである。かつての職場では、独自の参考図書のカードを逐次作成し、このカードボックスに収めたていた。一階ホールの分類、著者、書名、件名目録カードを何度も引きに出かけるのが仕事だった。これらのカードをたくみに使って、目的の本をみごとに探し出したり、さまざまな冊子の書誌類を使って、閲覧者が捜す文献を魔法のように見つけ出してくる先輩たちもいた。因みに、首を突き出している大きな鳥は、図書館が所蔵する一番大きな本103×68㎝の"The birds of Amerika"(1985年)の表紙を飾る鳥の図の一部であった。

Img547カタログの13頁、上段は、内務省発禁図書だった小林多喜二『蟹工船』(戦旗社 1929年)であり、下段は、「日本国憲法」が公布された1946年11月3日の官報号外の一部で、内閣総理大臣吉田茂の他、幣原喜重郎、木村篤太郎、金森徳次郎、芦田均、安倍能成らのサインが見える(入江俊郎文書)。



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2018年11月10日 (土)

千葉市立美術館「1968年激動の時代の芸術」へ

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千葉市の男女共同参画センターの午後からの歌会の前に、ということで、午前中、千葉市立美術館にまわった。同館では「1968年激動の時代の芸術」展が開催中と聞いて、ぜひと思っていた。昨秋、当ブログでもレポートした、佐倉市の国立歴史民俗博物館開催「1968年―無数の問いの噴出の時代」に連動した企画らしい。ちょうどこの日は「市民の日」ということで、思いがけず、千葉市民ではなくとも入場無料であった。ふつうは、入り口付近には何気なく積まれているチラシがないので、尋ねてみると、全部なくなりましたという。評判だったのかな、と思いきや、人はそれほど多くはなかった。A4 8頁、小さな活字びっしりの「出品リスト」は、ドンと積まれていた。作品、資料など約400点に及ぶ展示という。

プレスリリースによれば、「世界中で近代的な価値がゆらぎはじめ、各地で騒乱が頻発した1968年は、20世紀の転換点ともいうべき激動の年でした。 日本でも、全共闘運動やベトナム反戦運動などで社会が騒然とするなか、カウンターカルチャーやアングラのような過激で エキセントリックな動向が隆盛を極めました。」とある。

展示は、「1.激動の1968年」「2.1968年の現代美術」「3。領域を超える芸術」「4.新世代の台頭」という大きな4つの セクションに分かれていた。最初のコーナーでは、北井一夫(1944~)の写真集『バリケード』『三里塚』などの写真は、モノクロが多く、かえって迫力があり、新鮮にも思えた。北井自身が日大芸術学部写真学科中退ということもあって、日大闘争の学生たちが築いたバリケード内で起居を共にして、撮影したという作品のなかの、タオルや歯ブラシ、謄写版印刷機などは、当時の変哲もない日常生活の一端をのぞかせ、興味深い。また、橋本治(1948~)の東大駒場祭のポスター「とめてくれるなおっかさん (背中の銀杏が泣いている 男東大どこへ行く)」(1968年)というコピーと入れ墨をした背中を見せるイラストは有名で、当時は、学生にも人気が高かった、高倉健主演「日本侠客伝」シリーズなどを髣髴とさせるものだった。

思いがけない出会いだったのは、鶴岡政男(19071979)の「ライフルマン」(1968年)であった。鶴岡と言えば、十五年戦争下では、2度の召集を受け、闘病と共に、体制への抵抗的なスタンスをとり、1943年に麻生三郎、靉光、松本俊介らと「新人画会」を結成したことで知られる。戦前の作品は、東京大空襲でほとんど焼かれ、2008年の「新人画会展」(板橋区立美術館)でも、戦後の作品ばかりであったなかで、「重い手」(1949年)を見ることができたのだった。今回、初めて見る「ライフルマン」は、ご覧のようにカラフルで、ダイナミックなものであった。日本のサイケデリックな絵画のハシリのようにも思えた。

1968年と言えば、私は、すでに社会人になっていて、フォークソングよりはやや短歌にのめり込んでいた時期だったかもしれない。ポトナム短歌会の若手5人で1965年「グループ貌」を立ち上げ、1969年には、中堅と若手による「閃」という同人誌創刊に参加したりして、『ポトナム』という結社誌の中で少々波風を立てた程度のことではあった。それでも、新宿西口地下広場の「フォークゲリラ」の写真や、「帰ってきたヨッパライ」「受験生ブルース」などのレコードジャケットなどは懐かしかった。

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鶴岡政男「ライフルマン」(1968年)(広島県立美術館蔵)

 次のコーナーでは、堀浩哉らの「美共闘」、現代思潮社企画の「美学校」という存在も知った。美学校の講師は、「模型千円札裁判」の赤瀬川原平ら多士多才なメンバーで、19694月開校の生徒募集のポスターには、「硬筆画・劇画」担当として山川惣治の名前もあったのが意外でもあった。

 2025年の万博、大阪への誘致がどうなるのかは、1123日の国際博覧会事務局による総会とのことだ。前回の1970年開催に向けては、多くの美術家たちが協力した「EXPO’70」のポスターが街にあふれた一方で、さまざまな反対運動が盛んになったのは、1968年前後であった。「万博破壊」「万博粉砕」「反博」を冠したパフォーマンスが繰り広げられていたらしい。「万博破壊共闘派」などの運動を概観することにもなった。それに比べ、いわゆるアンダーグラウンド演劇の寺山修司の「天井桟敷」、唐十郎の「状況劇場/紅テント」などの情報は、若干持ち合わせていたので、親近感はあった。しかし、いつも、どこかスキャンダラスな要素がつきまとっていたのが印象に残っている。ただ、寺山の活動のスタートは俳句や短歌だったので、いつも気になる存在ではあった。いま、神奈川県立近代文学館で開催中の「寺山修司展」には、ぜひ出かけてみたいのだが。

 展示の後半は、「イラストレーションの氾濫」のコーナーの宇野亜喜良、横尾忠則くらいまでは、何となく目にもしていたし、ついていけるのだが、「漫画と芸術」のつげ義春、タイガー立石、林静一となると名前くらいしか知らない。さらに、196811月に創刊された写真同人誌「プロヴォーグ―思想のための挑発的資料」に寄った中平卓馬、高梨豊、多木浩二、岡田隆彦そして森山大道らの作品は、『アサヒカメラ』『カメラ毎日』『朝日ジャーナル』『現代の眼』等などで見かけたようにも思う。彼らは、政治・思想状況の閉塞感を写真を通じて破壊しようという流れを作り出したのではないか。その足跡は『まずたしからしさの世界をすてろ』(田畑書店1970年)として総括されている。森山(1938~)はモノクロによる、これまでむしろ失敗作として捨てられたような「アレ・ブレ・ボケ」たフィルムの作品化を試みた。写真集『写真よさようなら』(1972年)もまさに挑戦であったのだろう。時間さえあればもう少しゆっくり見たかったなと思う。

また、「もの派」と名づけ、いわゆる「もの」たる石、木、紙、綿、鉄板など、それ自体ないしは組み合わせによる作品は、それまでの「前衛美術」の主流であった反芸術的な傾向に反発した成果であったという。

 今回も、私には未知の世界に等しい展示も多かったが、当時の体制への「芸術による抵抗」は、先鋭的で過激な作品群には、現代では、すっかり見失ってしまったメッセージが溢れていたようにも思う。

1968年、短歌の世界では何があっただろうか。岩田正の1960年代の評論をまとめた『抵抗的無抵抗の系譜』(新読書社)が出版された程度であったか。「隣の芝生が青く見えている」だけとも思えなく、歌壇は実に安穏であったように思う。

あれから50年、「明治150年」、「平成最後の・・・」と意味ありげに、こと挙げする人たちへの、まともな反論も抵抗も忘れたかのように、天皇の代替わりを迎え、オリンピックを迎え、万博の夢をもう一度などとやり過ごすのだろうか。そんな気持ちにさせられた展示会ではあった。

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<参考>

鶴岡政男については、以下の当ブログ記事を、ご参考までに

「新人画会展~戦時下の画家たち」(板橋区立美術館)(2008年12月28日 (日))

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2008/12/post-d70f.html

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鶴岡政男「重い手」(1949)。上記「新人画会」展のカタログより

 

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2018年9月20日 (木)

「没後50年藤田嗣治展」へ出かけました~「戦争画」とは何だったのか(2)

戦争画への評価

藤田の戦争画は、もちろん体験に基づくものでもなく、写実でもなく、「想像」と多様な「技法」の産物であったことはどの評者も認めるところだが、その思想と鑑賞者の受け取り方については、大きく意見が分かれるところである。

その典型的な一つは、今回の藤田展の公式ウェブサイトに岸恵子が寄せている、つぎのような考え方であろう。小難しい言い回しはなく、実に簡明で分かりやすいのは確かだ。

「アッツ島玉砕」を戦争賛歌とし、藤田嗣治さんを去らしめた戦後日本を私は悲しいと思う。戦争悪を描いた傑作なのに。晩年の藤田さんに私は寂しい翳を見た。瞳の奥には希代の才能が生んだ作品群、特に巨大壁画「秋田の行事」の躍動する煌めきも感じた。欧州画壇の寵児ではあっても、日本国籍を離脱するのは辛かったのではないかと、私は想像する。」(岸惠子/女優)

  また、今回の藤田展の監修者でもあり、「作戦記録画」全14点を収録した『藤田嗣治画集』全三巻(小学館 2014年)をまとめた林洋子は、少し前のインタビューで次のように語っている(「『藤田嗣治画集』刊行 作戦記録画全点を初収録」『毎日新聞』夕刊 2014414日)。

「(作戦記録画が)ようやく、『歴史化』が可能になってきたと思います。藤田の作戦記録画をめぐる批判は『森を見て木を見ていない』という印象がありました。一点一点、違うことを冷静に見ていただきたい」「(この10年)絵画技法においては、もっとも研究が進んだ画家になりました」

前述の『朝日新聞』における、いくつかの藤田展紹介記事では、1920年代の「乳白色の裸婦」や敗戦後日本を去り、アメリカを経て、1950年から晩年までのフランスでの作品に焦点が当てられているもので、「作戦記録画」について触れたものは、②「激動の生 絵筆と歩む」のつぎの一カ所だけであった。会場のパネルの「年譜」を見ても、前述のように、やや不明点があるものの簡単な記述であった。

「軍部の要請で、戦意高揚を図るための<作戦記録画>を盛んに描くようになる。終戦後、戦中の国策協力を糾弾される中、49年春に日本を去った。それから二度と祖国に戻ることはなかった」 

藤田の戦争画をめぐっては、古くから、技法に優れ、描法の開拓を評価するが、芸術としての内容、内面的な深まりが見えない、表層的だとかいう指摘や「狂気」にのめり込んだとか、「狂気」を突き抜けたとか、鎮魂の宗教画だとか、さまざまな評価があるようだ。絵画を含め文芸において、技法はあくまでも手段であって、第一義的には、作品の主題、作者の思想の表出が問われるべきではないか。あの凄惨な戦争画が「鎮魂」とは言い難いのではないかと思っている。とくに、当時、藤田自身が新聞紙上で、つぎのようにも述べているところを見るとなおさらである(「戦争と絵画」『東京日日新聞』 1942122日)。

「かかる大戦争のときに現われものは現われ、自滅するものは自滅し、真に実力あり誠心誠意の人のみが活躍出来る。画家としてこの光栄ある時代にめぐりあった私は、しみじみ有難いと思う。(中略)今日の戦時美術はその技巧に於いて、諸種の材料に於いて正銘の日本美術であることは我々の喜びである」

 藤田は、陸軍省や海軍省から戦地へ派遣されるものの戦場に向かうわけではなく、絵具や画材は十分に与えられ、戦局の情報も知り得た制作環境のなかで、描きたいものを描く達成感が得られたのかもしれない。しかし、作品の多くが、現実に、戦意高揚、聖戦貫徹という役割を果たし、国民をミスリードしているという自覚は、なかったのだろうか。自分の戦争画が多くの鑑賞者を動員することを目の当たりにし、国家権力や大衆に迎合することによって、得られたものは、日本での名声であり、海外生活が長かった藤田にしては、「祖国愛」、「日本」への帰属意識だったのかもしれない。

そして、藤田は、敗戦後のGHQへの対応によって、多くの疑念を抱かせた。しかし、戦争画を描いたのは藤田ばかりではなかったのだが、日本の美術界は、画家たちと国家権力、戦時下の美術という基本的な問題を個人の「戦争責任」へと矮小化させ、曖昧なまま戦後を歩み始めたのであった。もちろん画家一人一人の戦争責任は、各人が、その後、戦時下の作品とどう向き合い、処理したのか、以後どんな作品を残したのか、どんな発言をし、どんな生き方をしたのかによって、問われなければならないと思っている。 

戦争画に対するマス・メディアの動向、過去そして現在

先の藤田研究の第一人者と言える林洋子は、作品一点一点の差異を冷静に見る必要を説き、「森を見て木を見ていない」という傾向を嘆くが、私には、藤田作品のテーマの推移、技法の変遷、その時代の言動というものをトータルに振り返る必要があるのではないかと思っている。むしろ「木を見て、森を見ない」、技法偏重の論評が多くなっていることがみてとれる。それが、大きな流れとなって「戦争画」評価の着地点をいささか緩慢に誤らせてしまっているような気がする。

さらに、敗戦後、73年を経て、戦争体験者、戦時下の暮しを知らない人々、戦後生まれがすでに83%を占めるに至り、美術史上、戦争画への評価は、大きく変わりつつあるのか、それとも、変わり得ない何かがあるのか。門外漢ながら、昨今の動きが、私には、とても気になっている。

今回の藤田展の主催者として、朝日新聞社とNHKが並んでいる。戦時下の朝日新聞社は、「戦争画」の展覧会を幾度となく主催している。この二つの事実は決して無関係なこととは思われないのだ。

<朝日新聞社主催の戦争画展>

19385月 東京朝日新聞創刊50周年戦争美術展(於東京府美術館、朝日新聞社主催)

19397月 第1回聖戦美術展(於東京府美術館、朝日新聞社・陸軍美術協会主催)

19417月 第2回聖戦美術展(於上野日本美術協会、朝日新聞社・陸軍美術協会主催)

19419月 第1回航空美術展(於日本橋高島屋、朝日新聞社・大日本航空美術協会主催)

19429月 第2回航空美術展(於日本橋高島屋、朝日新聞社・大日本航空美術協会・大日本飛行協会主催)

194212月 第1回大東亜戦争美術展(於東京府美術館、朝日新聞社主催)

19439月 第2回航空美術展(於日本橋高島屋、朝日新聞社・大日本航空美術協会・大日本飛行協会主催)

194312月 第2回大東亜戦争美術展(於東京府美術館、朝日新聞社主催)

19443月  陸軍美術展(於東京都美術館、朝日新聞社・陸軍美術協会主催)

19445 月 第8回海洋美術展(於東京都美術館、朝日新聞社・大日本海洋美術協会・海洋協会主催)

19454月 戦争記録画展(於東京都美術館、朝日新聞社・陸軍美術協会・日本美術報国会主催)

「戦争/美術 関連年表19361953」(長門佐季編)『戦争/美術19401950モダニズムの連鎖と変容(展覧会図録)』( 於神奈川県立美術館葉山 1913年)より作成 

なお、このほかにも、さまざまな戦争画展は開催されているが、突出しているのは朝日新聞社で、他の東京日日新聞、読売新聞などとの激しい競争と陸軍・海軍同士の確執も加わっての結果らしい(河田明久「作戦記録画をめぐる思惑のあれこれ」『戦争/美術19401950モダニズムの連鎖と変容(展覧会図録)』2013年)。さらに言えば、敗戦直後、藤田の戦争責任を糾弾する宮田重雄「美術家の節操」を掲載したのも『朝日新聞』(19451014日)であったのである。

 また、NHKには、戦争画周辺をテーマにした番組や藤田をテーマにした番組も多い。最近だけでも、私自身がみた番組を中心に、ネットでも確認できたものを加えるが、もちろん網羅性はないので、もっとあるのかもしれない。

<最近のNHK藤田嗣治関係番組>(  )内は出演者
1999923日「空白の自伝・藤田嗣治」NHKスペシャル(藤田君代、夏堀全弘)
2003127日「さまよえる戦争画~従軍画家の遺族たちの証言」NHKハイビジョンスペシャル(藤田嗣治、小磯良平、宮本三郎らの作品紹介と遺族たちと小川原脩の証言)
2006416日「藤田嗣治~ベールを脱いだ伝説の画家」NHK教育テレビ新日曜美術館(立花隆)
2012711日「極上美の饗宴 究極の戦争画 藤田嗣治」NHKBS(笹木繁雄、菊畑茂久馬、司修、アッツ島生存者、サイパン島住民生存者、東京国立近代美術館美術課長蔵屋美香)
2012826日「藤田嗣治―玉砕の戦争画」NHK日曜美術館(笹木繁雄、菊畑茂久馬、司修、野見山暁治)
20151217日「英雄たちの選択・アッツ島玉砕の真実」NHKBSプレミアム201898日「特集・よみがえる藤田嗣治―天才画家の素顔」NHK総合
201899日「知られざる藤田嗣治―天才画家の遺言」NHK日曜美術館

 こうしてみるとこの20年間に、再放送を含めると、20本近い関連番組が流れていることになる。NHKは、一人の画家についての取材を続け、繰り返し放送していたことになる。1999年「空白の自伝・藤田嗣治」、ハイビジョンスペシャル「画家藤田嗣治の二十世紀」(未見、未確認)の制作を担当した近藤文人は、『藤田嗣治<異邦人>の生涯』(講談社 2002年、2008年文庫化)という本まで著している。近藤は、先行研究に加えて、当時未刊だった夏堀全弘「藤田嗣治論」(『藤田嗣治芸術試論』三好企画 2004年公刊)、藤田の日記などの未公開資料を読み込み、藤田君代夫人(19112009)へのインタビューを重ねた上で、書き進めている。藤田自身の日記や夫人のインタビューに拠るところが多い部分は、どうしても身内の証言だけに、客観性、信ぴょう性に欠ける部分が出てくるだろうし、当時は存命だった夫人への配慮がある執筆部分も散見できる。その後の関連番組は、そのタイトルからも推測できるように、藤田のさまざまな側面から、その作品や生涯にアプローチしていることがわかる。戦争画への言及は、そのゲストの選択から見ても分かる通り、むしろ薄まってゆき、というより、再評価への道筋をつけている。この間、2006年には、NHKは「パリを魅了した異邦人 生誕120年藤田嗣治展」を東京国立近代美術館、日本経済新聞社と主催している。グローバルに、華やかな活躍をした<伝説>の画家としての部分がクローズアップされ、今回の没後50年の藤田展に繋がる軌跡をたどることができる。もはや「戦争責任」はそれとなくスルーしてもよいというムードさえ漂わせる論評も多くなったのではないか。上記に見るような、朝日新聞やNHKの番組で繰り返されるメッセージが、その手助けをしてはいないか、いささか恐ろしくなってくるのである。しかも、『朝日新聞』、NHKに限らないのだ。 

 網羅性はないが、私の「戦争と美術」のスクラップブックを繰り始めて、気が付いたことがある。2006年の生誕120年の藤田展に関して、北野輝「藤田嗣二と戦争責任」上下(『赤旗』2006912日・13日)において、この藤田展が藤田芸術の全貌に触れる機会になったことは歓迎するが、「藤田の再評価」「手放しの賛美」や戦争画の「意味を欠いた迫真的描写」の凄惨嗜好が玉砕美化への同調となり、現実の人間の命や死への無関心を助長しないかという問いかけがなされていた。それが、同じ『赤旗』における、今回の藤田展評は、「没後50年藤田嗣治展 多面的な画作の軌跡 漂泊の個人主義的コスモポリタン」(武居利史、201894日)と題して、作品の成り立ち、創意工夫に着目する。作戦記録画の出品は二点のみで「代わりに展示で充実するのは、戦後米国経由で渡仏して20年間の仕事だ」とした上で、「藤田の生き方は、国粋主義的ナショナリストというより、個人主義的コスモポリタンに近い。美術のグローバル化を先取りした画家といえよう」と締めくくる。 二人の執筆者は、ともに敗戦後設立された「日本美術会」に属し、美術の自立、美術界の民主化活動に励んでいる人たちである。執筆者の世代の相違なのか、その基調の変化にいささか驚いたが、共産党の昨今の動向からいえば、不思議はない。しかし、追悼50年の「大回顧展」なのだから、その作品を、生涯を、トータルに検証すべきではなかったのか。

こうした傾向については、何も美術界の傾向に限らず、他の文芸の世界でも、私が、その端っこに身を置く短歌の世界でも、同様なことが言える。いまさら「戦争責任」を持ち出すことは、まるで野暮なことのように、戦時下に活躍した著名歌人たち、自らの師匠筋にあたる歌人たちが、時代や時局に寄り添うことには寛容なのである。ということは、そうした歌人たち自身の国家や社会とのかかわりにおいても、抵抗というよりは、少しでも心地よい場所を探っていくことにもつながっているのではないか、と思うようになった。

なお、藤田に関わる資料をひっくり返しているなかで、ある写真集というか、訪問記を思い出した。それは、毎日新聞のカメラマンであった阿部徹雄の1952年のマティス ヴラマンクそしてフジタ』(阿部力編刊 2016年)であった。これは、ご子息がまとめ、解説も書いている。1952年の三人の画家の訪問記であった。精選された写真は、アトリエだったり、家族との団らんであったり、これまで、あまり見たことがなく、その日常が興味深く思えた。とくに、モンパルナスの藤田の住居兼アトリエ(カンパニュ・プルミエール通り23)、1952年と言えば日本を離れて間もない藤田65歳のころである。19521011日・14日・20日の三回訪問している。その取材ノートの部分には、藤田夫妻の日常と実に率直な感想が記されていた。日常の買い物などは藤田がこなしていることや夫人は「家の中ばかりいて、外の空気に触れない人らしい。藤田さんという人は本当に奥さん運のない人だ。気の毒な位芸術の面がそのことでスポイルされているように見えた。この人の芸術的センスに良妻を与えたいものだ」とのメモもある。 

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写真集の表紙(右)と裏表紙。チラシより

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チラシの裏

 

 藤田の没後、君代夫人については、藤田作品の公表・著作権、伝記、取材などをめぐる各方面とのトラブルが伝えられているが、当時も、その一端をのぞかせていたようで、かなり起伏の激しいことが伺われた。藤田夫妻のツーショット写真もあるが、「19521014日談笑する藤田さんと君代夫人。君代夫人は化粧をして、機嫌よい姿を見せてくれた。」との添え書きもある。

なお、カメラマンの阿部徹雄(1914‐2007)が、私がポトナム短歌会で師事した阿部静枝の夫阿部温知の甥にあたる人であることを知ったのは、ごく最近である。それというのも、静枝の遠縁にあたる仙台の方とブログを通じて知り合い、ご教示いただいた。この写真集も、彼女を通じて頂戴したものである。

なお、阿部徹雄の作品の一部は、毎日新聞社のフォト・バンクの「阿部徹雄コレクション」(戦時下を含め約900)に収められている。

https://photobank.mainichi.co.jp/php/KK_search.php

 

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2018年9月19日 (水)

「没後50年藤田嗣治展」へ出かけました~「戦争画」とは何だったのか(1)(2)

「藤田嗣治展」へ出かけました~「戦争画」とは何だったのか(1)

 

今回の藤田展のコンセプト

今回の展覧会(2018731日~108日、都美術館)は、東京都美術館・朝日新聞・NHKの三者が主催であったためか、『朝日新聞』での広報が熱かった。NHKの特別番組(「よみがえる藤田嗣治~天才画家の素顔~」201898() 17:10 18:00 総合テレビ)は、見損なってしまったが、主催者としての、都美術館の公式サイトによると、「藤田の画業の全貌を解き明かす大回顧展」と題して、つぎのように記している。

 「明治半ばの日本で生まれ、80年を超える人生の約半分をフランスで暮らし、晩年にはフランス国籍を取得して欧州の土となった画家・藤田嗣治(レオナール・フジタ、1886-1968)2018年は、エコール・ド・パリの寵児のひとりであり、太平洋戦争期の作戦記録画でも知られる藤田が世を去って50年目にあたります。この節目に、日本はもとよりフランスを中心とした欧米の主要な美術館の協力を得て、画業の全貌を展覧する大回顧展を開催します。本展覧会は、「風景画」「肖像画」「裸婦」「宗教画」などのテーマを設けて、最新の研究成果も盛り込みながら、藤田芸術をとらえ直そうとする試みです。」 

http://foujita2018.jp/highlight.html

 一方、私が読んだ、朝日の記事は五つほどで、①「動から静へ 重なる人生の軌跡」(夕刊714日)、②「激動の生 絵筆と歩む」(伊藤綾記者 816日)③「藤田嗣治 魂の跡形をたどる」(大西若人編集委員 821日)④「溢れる自信 どこから<自画像>」(828日夕刊)、⑤多文化な人生と絵画世界」(記念号外、大西若人編集委員)で、⑤は、展覧会場に置かれていた全紙別刷り特集の裏表であった。どれも、「見出し」に見るように、代表作を通じて、藤田の全貌が捉えられる画期的な展覧会であることが語られている。三者の紹介の論調は、チラシにもあった、藤田のエッセイ集の中の言葉「私は世界に日本人としていきたいと願う」(『随筆集地を泳ぐ』1942年)に集約されるのだろう。

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<参照> 過去の当ブログ記事
今回もカタログは買っていないので、これまで当ブログに書いてきた何回かの関連記事に示した情報と合わせてのレポートに過ぎない。その主なものは以下の通りである。

・上野の森美術館「没後40年 レオナール・フジタ展」~<欠落年表>の不思議(08 /12/ 13

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2008/12/post-13fc.html

・ようやくの葉山、「戦争/美術19401950―モダニズムの連鎖と変容」へ(13/09/27

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/09/19401950-0aad.html

・藤田嗣治、ふたたび、その戦争画について~

「嗣治から来た手紙~画家は、なぜ戦争を描いたのか」(211日、テレビ朝日、1030分~1125分)を見て(14/2/18)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/02/post-dd37.html

・ようやく、藤田嗣治の戦争画14点が公開~国立近代美術館<特集・藤田嗣治、全所蔵作品展示。>  

15/11/01

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/11/14-962c.html

今回の藤田展での「戦争画」の位置

 会場での展示は、次の八つの時代に分かれていた。主催者側の意図とは異なるのだが、私が関心を持ったのは、むしろ、初期の「Ⅰ原風景―家族と風景」「Ⅱはじまりのパリ―第一次世界大戦をはさんで」と「Ⅳ‐2<歴史>に直面する―作戦記録画」の時代であった。 

Ⅰ原風景―家族と風景  

 はじまりのパリ―第一次世界大戦をはさんで 

1920 年代の自画像と肖像―「時代」をまとうひとの姿 

 「乳白色の裸婦」の時代 

1930 年代・旅する画家―北米・中南米・アジア 

-1 「歴史」に直面する―二度の「大戦」との遭遇 

-2 「歴史」に直面する―作戦記録画へ 

 戦後の20 年―東京・ニューヨーク・パリ
 
 カトリックへの道行き

 

 []には、藤田(18861968)が、渡仏前に朝鮮総督府医院長だった軍医の父親を訪ねたときの作品「朝鮮風景」(1913年)があった。[Ⅱ]には、パリの“何気ない”と思わせる街角の風景を描いた作品に、私は惹かれた。「雪のパリの街並み」(1917年)「ドランブル街の中庭、雪の印象」(1918年)「パリ風景」(1918年)などである。1929年一度帰国するが、一年で戻り、1933年の帰国以降、日本での製作が始まるが、私が、もっとも着目したのは[Ⅵ-2]の時代であった。藤田の「作戦記録画」(以下「戦争画」と記す)は、東京国立近代美術館にアメリカから返還(1970年無期限貸与)された中の14点から2点だけが、今回は展示されている。

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「雪のパリの街並み」(1917)

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「パリ風景」(1918)、真ん中あたりの歩道を登って行く小さな人影、手前の手押し車を押す老女が坂を下ってくる姿がとてもわびしい。その後の藤田の華やかな技法の転換を見るなかで、こうした初期の作品には虚飾がないように思えた。

 

 

 

 その二作とは、「アッツ島玉砕」(1943年)と「サイパン島同胞臣節を全うす」(1945年)の大作である。この部屋の解説には、西洋美術史上の戦争をテーマにした絵画の研究に励んだとして「戦争を見ずとも、これまでの経験と古今東西の戦争図像の参照によって空前絶後の人体の肉弾戦を中心とした茶褐色の<玉砕画>への陶酔を深めていきました」とあった。藤田の戦争画については、これまでも何度か触れているが、今回の、の展覧会の「年表」には、これらの戦争画を制作した時代がどのように記されているかが、私の眼目でもあった。「年譜」は、[Ⅲ]と[Ⅳ]の間の通路に展示されていた。ちょうど10年前に上野の森美術館での「没後40年」の展覧会のときのような、年表の「空白」はなく、全時代にわたって記されていた。簡単なものだが、太平洋戦争前後から拾ってみよう。  

 

1940523日 パリを発ち、526日マルセイユより伏見丸乗船、77日に神戸着。丸刈りとなる。9月~10月 ノモンハン取材。 

194110月~12月 仏領インドシナへ帝国芸術院と国際文化振興会の文化使節として渡り、途上真珠湾攻撃を知り、1218日帰国。 

194212月 第1回大東亜戦争美術展覧会「十二月八日の真珠湾」出品 

19431月「シンガポール最後の日」などにより朝日賞受賞、9月 国民総力戦美術展「アッツ島玉砕」出品。

19449月 神奈川県、藤野に疎開。

19454月 陸軍美術展「サイパン島同胞臣節を全うす」出品、415日麹町の自宅焼出、12月戦争画説明などのため、GHQの嘱託となる。

19464月 日本美術会による戦争責任問題起こる。 GHQ収集の戦争画は、一時東京都美術館に保管、1951年にアメリカへ送付。

19472月 GHQ作成の戦争犯罪人名簿に藤田の名前はなく、戦犯の疑いが晴れる。 

1949310日 離日、アメリカへ。 

19502月 フランス入国。

 

  若干補えば、193810月、海軍省嘱託として、藤島武二、石井白亭、中村研一らあわせて6人が上海、九江を経て漢口攻略戦に派遣される。394月、陸軍美術協会に藤島らと参加直後、突然の渡仏、その意味が問われながら、一年足らずで、ヨーロッパの戦局が急を告げる中、帰国の途に就く。417月帝国芸術院会員となり、同月第2回聖戦美術展に出品したのが「哈爾哈(はるは)河畔之戦闘」(1941年)だが、もう一枚のノモンハン日本軍敗退の残酷図を描いた作品の存在を語る証言もある。424月陸軍省からシンガポールへ、5月海軍省から東南アジア各地へ、7月満州国へと派遣される。194312月の第2回大東亜戦争美術展覧会には、「ソロモン海域に於ける米兵の末路」が出品されている。 

 

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2017年6月 4日 (日)

どうしても、見ておきたかった、ムハの「スラヴ叙事詩」(2)(3)

どうしても、見ておきたかった、ムハの「スラヴ叙事詩」(2)

スラヴ叙事詩」からのメッセージ 

ミュシャ展は65日までの最終盤に入っていたので、覚悟はしていたが、まずは、チケット売り場で並ばねばならなかった。チケットを求めても、入場するまでには60分から70分はかかると、係員は声を掛けて回っている。私たちも、入場の行列の最後尾を見つけるのも容易でなかった。会場は2階だが、その行列は、館外でも2回ほど蛇行し、館内に入っては幾重にも曲がりくねっていた。ようやくエスカレーターにたどりついても、小刻みに入場制限がされるというありさまだった。それでも、ともかく、45分ほどで、入場できた。

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45分並んで、たどり着いた展示会場入り口 、5月31日

会場はやはり大変な混雑だった。20点からなる「スラヴ叙事詩」は、3部屋に分かれていた。どの作品も、巨大で、見上げても全貌がつかめないし、眼前は入場者の頭でいっぱいとい状況だった。大きいものは610×810との表示もある。ともかく離れたり、近づいたりしながら、出品リストと突き合わせるという「鑑賞」しかできなかった。世界史の授業でのかすかな記憶、ヤン・フスの名前。チェコの旅では、カトリックと闘い、火刑に処せられた、チェコの英雄と知るにおよび、ヤン・フスが登場する作品には、一種の親しみさえ覚えるのだが、スラヴ民族史や宗教史自体にも疎いので、理解が及ばないものもある。(以下の作品の説明は、主にミュシャ展公式ホームページの作品解説に拠った)

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プラハ旧市街広場のヤン・フスと戦士たちの群像。この日もイベントの用意が始まっていた。正面の赤い屋根がの建物がゴルツ・キンスキー宮殿、道をはさんで左が聖ミクラーシュ教会、右がテイーン教会、2003年9月

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N0.9 ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス師(1916年)
15世紀に始まった宗教改革の指導者ヤン・フスが左上で、身を乗り出して説教している様子が描かれる。聴衆には、弟子のみならず、国王ヴァーツラフ4世の妻、王妃ゾフィーさえもプロテスタント運動の先駆者フスの言葉に耳を傾けている。カトリック教会はフスを異端として141576日火あぶりの刑に処した

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NO10.クジーシュキでの集会(2016年)
ヤン・フスが火刑に処せられた後、チェコ改革派の指導者となったピルゼンの改革派司祭ヴァーツラフ・コランダがクジーシュキで説教をする場面(1419930日)。信仰を守るためには武器も必要と説き、フス派改革運動からフス戦争へと移行していった。左側には、枯れ木に白い旗が、右側には高い松の木とそれにくくりつけられた赤い旗が掲げられていて、白は戦争と死を、赤はチェコの生命力と希望を表しているとのこと。左下には火刑の様子が描かれている

今回の「スラヴ叙事詩」からのムハのメッセージの中で、とくに強烈であったのは、人間の歴史にとっての言語、暮らしのなかでの言葉の持つ重さであり、ムハの母国語チェコ語への思い入れの深さでもある。

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NO3 スラヴ式典礼の導入(1912年)
東ローマ帝国勅使が、ヴェレフラード城の中庭で、王に宗教儀式でスラヴ語の使用を認可する教皇勅書が読み上げられる場面(9世紀)。スラヴ式典礼を導入し正教会へ傾倒することで、スラヴ人はローマ教皇や神聖ローマ皇帝の支配を逃れることができた。左手前の青年は左手の拳で団結を訴え右手にはスラヴ民族の統一を象徴する輪を握っている

 

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.ブルガリア皇帝シメオン1世(1923年)
ブルガリアおよびギリシャの皇帝シメオン1世(在位888-927)はスラヴ文学の創始者とされている。高名な学者を集め、ビザンティンの文献をスラヴ語に翻訳させた。 

 

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NO15.イヴァンチツェの兄弟団学校(1914年)
ムハの生地モラヴィア地方イヴァンチツェでは、領主ジェロティーン公により15世紀半ば、初のモラヴィア兄弟団が設立され、クラリツェ聖書がチェコ語に翻訳、印刷された。紙を運ぶ青年、印刷物を整理する少年たち、聖書を盲人の老人に読み聞かせている青年の表情は引き締まり、ことのほか明るいように思えた

 

 

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 こんな混み具合のなかの撮影許可ゾーン、5月31日

 

どうしても、見ておきたかった、ムハの「スラヴ叙事詩」(3)

市民会館のムハ

プラハには、ムハの足跡がほかにもあったらしい。2003年の東欧の旅で、プラハに着いた翌日の市内めぐり後の夜は、スメタナ・ホールでのコンサートに出かけた。ホールのあるの市民会館は、アール・ヌーヴォー建物の代表的なもので、私の写真では、その辺の華やかさは今一つである。会館内にも、ムハの作品が様々な形で残されているそうなのだが、館内ツアーには参加できなかった。壁画であり、天井画にありで、華やかさは格別だろう。下の天井画は、中央に鳩があしらわれ、民族の平和を描いているという。コンサート開演前には、会館内のレストランでの食事の折は、お客も少なかったためか、そして、日本人は私たち二人だけというのに、日本の曲を、主に童謡のメドレーで何度か弾いてくれるピアニストがいて、その気づかいに心和んだ思い出もある。肝心のコンサートはヴィヴァルディ・オーケストラであったが、「四季」の演奏はあったのだろうけれど覚えてはいない。アルバムの間から、はらりと落ちて来た、チケットと座席表である。

もし、もう一度、プラハに行けるとしたら、ムハ美術館の再訪と市民会館見学ツアーに参加を実現したい。プラハ城もカフカとミレナが歩いたであろう街も、シナゴーグにも再訪したいが、かなううだろうか。

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市民会館の正面とレストランのカード、2003年9月

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会館内の見学ツアーまで気が回らなくて・・・ここでのムハを見ることができなかった

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スメタナホールの座席表とチケット、2003年9月

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スメタナ・ホール正面のパイプオルガン、2003年9月

 

 

 

 

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どうしても、見ておきたかった、ムハの「スラヴ叙事詩」(1)

プラハ、ムハとの出会い 

3月から、新国立美術館で開催中のミュシャ展(チェコ語ではムハと呼ぶらしい)では、彼の後半生の大作「スラヴ叙事詩」が一挙公開されているという。私がこのブログを始めたのが2006年だから、その前のもう十数年前のこと、東欧を旅したとき、プラハでのムハとの出会いには忘れがたいものがあった。

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通り過ぎてしまいそうな

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展示会場入り口 2003年9月

  ウィーンでチロリアン航空に乗り換え、プラハに着いたのが夕方、翌日から、精力的に市内めぐりを始めた。といっても、地図が頼りの心もとない街歩きだが、旧市街広場を何度も行き来するという、気ままさもあった。街なかの、ちょっと通り過ぎてしまいそうな入口の、ムハ美術館(1998年開館)ではあったが、会場では、優美な衣装をまとい、華麗な草花に彩られた女性が描かれた絵とポスターに圧倒された。入場者もまばらで、静かなゆったりした時間を過ごした後、出口近くで出会った一枚のポスター、その中の少女のまなざしに、思わず足をとめた。鉛筆を手に、決意を秘めた、鋭い眼差しの少女が立っていた。「鉛筆を持った少女」と題され、それは、日本では「南西モラヴィア挙国一致宝くじ」(1912年)のポスターと呼ばれているらしい。「挙国一致」というより「連合」とか「連帯」との意味合いなのではないか。当時、モラヴィアはオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあり、教育はドイツ語で行われていた。民族語のチェコ語を教えるための資金確保のための宝くじだったわけで、チェコ語を学ぼうとする少女の引き締まった表情には、ムハ自身の意思も込められていたのだろう。この眼差しは、今回の「スラヴ叙事詩」の巨大な作品の各所にくり返し立ち現れているのではないか。「母国語」を奪うということは、日本の植民地政策の柱でもあった。その過酷さを知らなければならないだろう。朝鮮でも台湾でもそして東南アジアにおいての「国語教育」を思い起こさせるのだった。

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ポスター上部は「南西モラヴィア挙国一致宝くじ」の主旨らしい
Lottery Of The Union Of South Western Moravia(1912)との英訳が・・

 ムハ(18601939)はモラヴィア出身だが、ウィーン、ミュンヘンを経てパリで絵を学び、女優サラ・ベルナール主演の舞台のポスターを手掛けたことから、独特の華やかな画風で一躍有名となった。1910年、50歳で故国チェコに戻り、チェコ語やスラヴ民族の苦難の歴史にこだわり、ズビロフ城に籠って制作し続けたのが「スラヴ叙事詩」であった。最晩年は、チェコに侵攻したナチスに捕らえられ、収容所生活を余儀なくされた直後に病に倒れた。

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チケットもリーフレットもバレエ「ヒヤシンス姫」のポスター(1911年)が用いられていた。左側の「日本語版ガイド」は折りたたみ式で、裏側は、伸ばすと40センチほどの長い絵で、「サラ・ベルナール」の舞台のポスターであった

 

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2017年3月15日 (水)

今年の「建国記念日」は、甲府へ、石橋湛山記念館、山梨県立文学館と美術館と(2)

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文学館でも時間が足りない

 しっかりと時間もとって、ゆっくり見学するつもりであった。最初に入った文学館ではボランティアの説明の申し出があった。常設展の深沢七郎コーナーで、夫が「笛吹川論争って何ですか」と質問をしたところ、別の人に交代した。彼女は、熱心なあまりついに大きな声になってしまったのか、係員が飛んでくることもあった。途中で、2代目紅野敏郎館長の功績を讃えていたので、いまの三枝館長はどうですか、と思わず尋ねると「天皇家にも出入りしていて、近寄りがたいのですが、でも気さくな方ですよ、著書にも気軽にサインしてくれました」とのこと。

深沢七郎の「風流夢譚」が引き起こした出来事をどのように、説明・展示がなされているかが知りたかった。常設展示のカタログはないということであった。2011年の企画展「深沢七郎の文学<楢山節考>ギターの調べとともに」というガイドブックでは、「笛吹川論争」も「風流夢譚」もつぎのような説明であった。戦前のギタリストとして活動、「楢山節考」以後の小説家としての活動、「風流夢譚」以降のいわば身を隠すような暮らし、日本には本当に表現の自由を支えるベースがなかったことを表す一連の出来事、その後の執筆の傍ら農場や市井での暮らしに、ほっとする一面もあった。

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  なお、このハンドブックから、ハンセン病の医師、『小島の春』の小川正子の生家が春日居(現笛吹市)にあり、生家の近くには資料室や歌碑が何基かあるということをも知った。彼女は、光田健輔弟子であったが、1943年にっは結核で没している。光田は戦後もハンセン病患者の強制隔離を主張して、ハンセン病史に大きな汚点を残している。皇室とハンセン病のことを調べ、沖縄愛楽園を訪ね、ハンセン病のことを少しばかり知っただけに、今度は、訪ねたいと思った。

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 常設展の中では、飯田蛇笏・龍太、山崎方代などもゆっくり見たかったのだが、美術館のロビーコンサートもあるということで、だいぶ端折ってしまったのが残念だった。「新収蔵品展―直筆に見る作家のリアル」も開催されていて、ゆかりのある文学者の手紙や短冊が多かったなかで、新宿ハモニカ横丁“伝説の”文壇バー「みちくさ」関係の出品が多く、戦後まもないの文士たちの一面が見えてきて、興味深いものがあった。また、甲州市出身という竹内勇太郎の「赤胴鈴之助」や「三匹の侍」などの台本もかつてを思い出させる品々であった。

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文學館の窓から美術館と甲斐駒ケ岳を望む

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美術館入り口、企画展大きな看板

美術館へ 

美術館のレストランで昼食をとり、見学し始めたのだが、思いのほか時間がかかり、甲府の乗車予定を大幅に繰り下げた。ミレー館のミレーはやはり心落ち着くコーナーである。私は、バルビゾン派と言われる画家たちが描く、さまざまな「空」に引き込まれてしまう。ミレーの「空を見上げる羊飼いの少女」、トロワイヨンの「近づく嵐」の暗雲が迫るもと牛と牛を追う親子ののどかさ、テオドール・ルソーのフォンテンブローの森の空、ドービニーのオワーズ河の朝焼けの河面と空・・・。クールベは、その生き方も含めて、興味をそそられる画家の一人だが、ここでの「嵐の海」の印象はむしろ“激しさ”は感じられなかった。何年前か、オルセー美術館の入り口に陣取っていたクールベの「世界の起源」に衝撃を受けたことを思い出す。

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ミレー「空を見上げる羊飼いの少女」。リーフレット下段左がコロー「大農園」
右がルソー「フォンテンブローの森のはずれ」

 企画展の「没後100年野口小蘋」、野口小蘋(18471917)の名前は初めて聞いた。明治の女性南画家として、著名とのことであった。幼少より、四条派の絵画などを学んでいたが、父亡きあと19歳のとき、すでに絵を描くことを生業としており、上京後は、官命により皇后陛下御寝殿に草花図を八枚を描き、皇室にかかわる仕事が増し、華族女学校の嘱託教師も務めている。1907年には、女性で初の帝室技芸員に任命され、宮廷では絵画や装飾、調度品なども手掛け、優雅で、こまやかな作品を残す。その技法も確かな写生力がベースにあり、展示の鉛筆書きのスケッチや草花、昆虫などの写生帖には、説得力があった。

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「写生帖」より

 一泊の旅で、見残しが悔やまれる旅でもあったが、元気でありさえすれば、また出かけられると思うことにした。帰途の車中、長い笹子トンネルを通過するとき、昨年の小学校のクラス会で、担任のO先生から聞いた話を思い出していた。小学5年の遠足は昇仙峡だったという話で盛り上がったとき、先生は「トンネルに差し掛かると、あなたがね、このトンネルの長さは何メートルか、しきりに尋ねて来るんだよ」と話された。そういえば、小学校の高学年になったころ、私は、毎日、厚い『少年朝日年鑑』を風呂敷に包んで通学していたことを思い出していた。あまり夢のない「愛読書」だったわけである。作文は大嫌いだったが、壁新聞や夏休みの課題で模造紙に図表や年表を書いたりするのが好きだったなあ。そんなことを思い出していると、いつの間にか眠ってしまったようだった。

 帰宅後、「笹子トンネル」を調べてみると、このトンネルは、新旧2本あり、旧トンネルは 1902年に開通し、全長 4656m、下り線に使用され、上り線の新トンネルは1966年開通、全長 4670m、であることが分かった。遠足時には、まだ旧トンネル一本の時代だった。

 

 

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