2017年3月15日 (水)

今年の「建国記念日」は、甲府へ、石橋湛山記念館、山梨県立文学館と美術館と(2)

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文学館でも時間が足りない

 しっかりと時間もとって、ゆっくり見学するつもりであった。最初に入った文学館ではボランティアの説明の申し出があった。常設展の深沢七郎コーナーで、夫が「笛吹川論争って何ですか」と質問をしたところ、別の人に交代した。彼女は、熱心なあまりついに大きな声になってしまったのか、係員が飛んでくることもあった。途中で、2代目紅野敏郎館長の功績を讃えていたので、いまの三枝館長はどうですか、と思わず尋ねると「天皇家にも出入りしていて、近寄りがたいのですが、でも気さくな方ですよ、著書にも気軽にサインしてくれました」とのこと。

深沢七郎の「風流夢譚」が引き起こした出来事をどのように、説明・展示がなされているかが知りたかった。常設展示のカタログはないということであった。2011年の企画展「深沢七郎の文学<楢山節考>ギターの調べとともに」というガイドブックでは、「笛吹川論争」も「風流夢譚」もつぎのような説明であった。戦前のギタリストとして活動、「楢山節考」以後の小説家としての活動、「風流夢譚」以降のいわば身を隠すような暮らし、日本には本当に表現の自由を支えるベースがなかったことを表す一連の出来事、その後の執筆の傍ら農場や市井での暮らしに、ほっとする一面もあった。

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  なお、このハンドブックから、ハンセン病の医師、『小島の春』の小川正子の生家が春日居(現笛吹市)にあり、生家の近くには資料室や歌碑が何基かあるということをも知った。彼女は、光田健輔弟子であったが、1943年にっは結核で没している。光田は戦後もハンセン病患者の強制隔離を主張して、ハンセン病史に大きな汚点を残している。皇室とハンセン病のことを調べ、沖縄愛楽園を訪ね、ハンセン病のことを少しばかり知っただけに、今度は、訪ねたいと思った。

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 常設展の中では、飯田蛇笏・龍太、山崎方代などもゆっくり見たかったのだが、美術館のロビーコンサートもあるということで、だいぶ端折ってしまったのが残念だった。「新収蔵品展―直筆に見る作家のリアル」も開催されていて、ゆかりのある文学者の手紙や短冊が多かったなかで、新宿ハモニカ横丁“伝説の”文壇バー「みちくさ」関係の出品が多く、戦後まもないの文士たちの一面が見えてきて、興味深いものがあった。また、甲州市出身という竹内勇太郎の「赤胴鈴之助」や「三匹の侍」などの台本もかつてを思い出させる品々であった。

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文學館の窓から美術館と甲斐駒ケ岳を望む

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美術館入り口、企画展大きな看板

美術館へ 

美術館のレストランで昼食をとり、見学し始めたのだが、思いのほか時間がかかり、甲府の乗車予定を大幅に繰り下げた。ミレー館のミレーはやはり心落ち着くコーナーである。私は、バルビゾン派と言われる画家たちが描く、さまざまな「空」に引き込まれてしまう。ミレーの「空を見上げる羊飼いの少女」、トロワイヨンの「近づく嵐」の暗雲が迫るもと牛と牛を追う親子ののどかさ、テオドール・ルソーのフォンテンブローの森の空、ドービニーのオワーズ河の朝焼けの河面と空・・・。クールベは、その生き方も含めて、興味をそそられる画家の一人だが、ここでの「嵐の海」の印象はむしろ“激しさ”は感じられなかった。何年前か、オルセー美術館の入り口に陣取っていたクールベの「世界の起源」に衝撃を受けたことを思い出す。

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ミレー「空を見上げる羊飼いの少女」。リーフレット下段左がコロー「大農園」
右がルソー「フォンテンブローの森のはずれ」

 企画展の「没後100年野口小蘋」、野口小蘋(18471917)の名前は初めて聞いた。明治の女性南画家として、著名とのことであった。幼少より、四条派の絵画などを学んでいたが、父亡きあと19歳のとき、すでに絵を描くことを生業としており、上京後は、官命により皇后陛下御寝殿に草花図を八枚を描き、皇室にかかわる仕事が増し、華族女学校の嘱託教師も務めている。1907年には、女性で初の帝室技芸員に任命され、宮廷では絵画や装飾、調度品なども手掛け、優雅で、こまやかな作品を残す。その技法も確かな写生力がベースにあり、展示の鉛筆書きのスケッチや草花、昆虫などの写生帖には、説得力があった。

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「写生帖」より

 一泊の旅で、見残しが悔やまれる旅でもあったが、元気でありさえすれば、また出かけられると思うことにした。帰途の車中、長い笹子トンネルを通過するとき、昨年の小学校のクラス会で、担任のO先生から聞いた話を思い出していた。小学5年の遠足は昇仙峡だったという話で盛り上がったとき、先生は「トンネルに差し掛かると、あなたがね、このトンネルの長さは何メートルか、しきりに尋ねて来るんだよ」と話された。そういえば、小学校の高学年になったころ、私は、毎日、厚い『少年朝日年鑑』を風呂敷に包んで通学していたことを思い出していた。あまり夢のない「愛読書」だったわけである。作文は大嫌いだったが、壁新聞や夏休みの課題で模造紙に図表や年表を書いたりするのが好きだったなあ。そんなことを思い出していると、いつの間にか眠ってしまったようだった。

 帰宅後、「笹子トンネル」を調べてみると、このトンネルは、新旧2本あり、旧トンネルは 1902年に開通し、全長 4656m、下り線に使用され、上り線の新トンネルは1966年開通、全長 4670m、であることが分かった。遠足時には、まだ旧トンネル一本の時代だった。

 

 

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2017年3月14日 (火)

今年の「建国記念日」は、甲府へ〰石橋湛山記念館、山梨県立文学館と美術館と(1)

 やや旧聞に属するが、211日午後、夫が甲府での集会で話をするというので、ついていくことにした。一泊して、久しぶりに山梨県立文学館と美術館を訪ねようという計画もまとまった。

 

石橋湛山記念館

家を出るときも寒かったが、八王子を過ぎたあたりから、沿線の斜面や林に少し雪が残り、笹子トンネルを抜けるとブドウ棚がびっしりと続いていた。甲府駅には、今日の集会「歴史に学び平和を考える・211山梨県民集会」実行委員会のお世話役の浅川保さんが迎えてくださった。浅川さんは、高校の先生の在職中から甲府一高出身の石橋湛山研究に打ち込むと同時に、地元の平和運動の活動に取り組み、2007年からは、山梨平和ミュージアム・石橋湛山記念館の理事長をされている。集会の前後にわたって、ミュージアムを案内していただく。丹念に収集した湛山関係の資料と県下の空襲関係の資料が充実していた。ご自身も、山梨ふるさと文庫、山梨日日新聞社などから歴史書や湛山の評伝を刊行されている。近著に『地域に根差し、平和の風を』(平原社2015年)がある。

私は、湛山の政治家としての活動もさることながら、ジャーナリストとして『東洋経済新報』で健筆をふるっていた活動に関心があった。なお、昨年、1960年湛山から岸首相あての書簡が見つかったという。その内容は衝撃的なものだった。同時に、さもありなん、といった内容でもあったのだ。すなわち、湛山は、首相時代のある出来事を振り返って、1960年、岸信介にあてた書簡は次のような内容であった。昨年10月の『サンダー毎日』スクープ記事でもあったのだが、湛山が「ある一人の人」に閣僚名簿を提示したところ、「かの人」は、名簿にある「岸信介は、先般の戦争の責任としては東条英機よりも重大である」と述べたあと、岸首相の「安保問題」の対応に対して「これ以上、あの人に心配を掛けぬよう」という趣旨の文面であった。「ある人」とは、ほかでもない昭和天皇であったという考証であった

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 石橋湛山の展示は、いくつものコーナーに分かれていた

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甲府空襲コーナーにて

 

昔の職場の友人との出会い

 集会での演題は「今、問われるメディアの姿勢と役割~理性を育むNHKを目指した」という長さで欲張っていたのだが、南スーダンの治安状況などを例に、テレビの報道番組、NHKと民放との比較などを交えながら、公共放送のあるべき姿と現況、制度を中心にした話となった。

 会場は立派な総合市民会館の一室で、参加者は約100人とのこと。なんと会場には、かつての職場のSさんらしい姿を発見、部局が違っていたので直接話をするようなことはなかったのだが、奥さんとは同期で、課も同じフロアであった。Sさんは、1982年に、甲府市内の大学に転出されて、すでに退職、地元では、専門分野での活躍とともに、九条の会の世話人もされているようだった。何しろ、40年ぶりにもなろうか。集会の途中からは、思いがけず奥さんも駆けつけてくれて、終了後のお茶の会では、席の隅で、私たち3人の話は弾んだ。夫も、かつて同じ審議会メンバーで、役人とやりあった仲だった元主婦連のKさんとの出会いも十数年ぶりだったということであった。

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2016年5月 8日 (日)

連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(2)

岩手県立美術館へ~モランディと松本竣介  

  4月27日、ホテルの窓の左手には、ゆったりした北上川が朝日に輝いていた。昨夕の北上川とは、また風情が違う。朝食前に歩いてみると、すぐそこには旭橋、川沿いの遊歩道があるらしいが、どういうわけかどこも立ち入り禁止、よく見れば、「木伏緑地工事中」の看板。「木伏」は「きっぷし」と読むと、きのう、 地元の案内の方に教えてもらったばかりである。「材木町」といい、盛岡は山林と北上川の恩恵にあずかる林業の町であったことがわかる。「木伏」は、山から降ろしてきた木材を、しばらくの間、水につけて置く貯木場であった。東京でいう「木場」だったのかもしれない。 立派な「開運橋」は通勤の人波であふれていた。のんびりカメラなどもった観光客は見当たらない。橋上からの岩手山は、意外と近くに見え、壮観でもあった。もう一つ先の橋が「不来方橋」らしいが、花盛りの対岸の遊歩道を旭橋に戻った。

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岩手山は、もっと近くに見えたはず

  お天気には恵まれたが、今日は少し欲張ったスケジュールである。まず、岩手県立美術館の「ジョルジョ・モランディ展」にむかう。少し前まで東京ステーションギャラリーで開催中だった。これまで知らなかった画家の名だった。現代イタリア画家(1890~1964)で、ひたすらアトリエにこもっては、首の長いビンや円筒、直方体、逆さ漏斗などとっかえひっかえ、並べ直しては描き続けていたという、地味と言えば地味な作家だと知った。その描くところ、地元でご一緒している9条の会の代表を務める画家の高塚一成さんの画風にも似ていて、東京で見ていた高塚さんに勧められていた「モランディ展」だった。美術館は、盛岡駅を挟んで、反対側の雫石川を渡るとすぐの中央公園の一画にあった。弧を描き、2階建ての白いシンプルな外観、近づくと、コンクリート打ちっぱなしの外壁だった。2001年オープンとのこと、常設展の郷土の作家たち萬鐵五郎、松本竣介、舟越保武も期待されるのだった。 モランディは後にも先にも、入場者は私たち二人のみ、会場のスタッフは各室ごとに一人だから10人以上がいらっしゃったはず。東京の美術展では考えられない鑑賞環境ではある。明けても暮れても、“still life”を描き続けていながら、各室の展示は、時代を少しずつ重ねながら、晩年に向かう。第ⅹ室「風景の量感」では、一転してすべてが風景画となり、一気に解放された感がした。その風景とて「フォンダッツァ通りの中庭」(1958年)など、アトリエの窓からの光景だというが、窓もない方形の壁の平面だけで構成されている。絵の真ん中に描かれた階段や小さなドアには人間が通った形跡が見えない無機質さである。それでも、私にとって、閉塞感から少しでも突き抜けられた、というのが、全体の印象ではあった。

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展示会チラシ裏、こんな絵ばかりが100点近く・・・

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私が気に入った一点

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ようやく出会った風景画

  そして、常設展は、カメラも自由ですよということだった。萬鐵五郎(1885~1927)に墨絵のような屏風絵があるのをはじめて知り、さまざまな手法を試みていたことがわかった。どちらかと言えばタッチの荒々しいフォービズムかキュービスムの影響を受けたイメージが強かっただけに意外だった。松本竣介(1912~1948)は、これまでも、「新人画会展」(練馬美術館)、「戦争と美術」(神奈川県立美術館葉山館)などで見かけた「Y市の橋」(1942)、また、「有楽町駅付近」(1936)「議事堂のある風景」(1942)など、都市の建築物をしきりに描いていた時期、油の乗り切っていた時期ではなかったか。1948年の早世が惜しまれてならない。「盛岡の冬」(1931)は十代の作品なのに、やさしさのあふれるいい作品だったなあ、と。そして、彼と盛岡中学校同期の舟越保武(1912~2002)の作品も多く収蔵され、キリスト教・キリスト教受難を題材とするに作品が目立った。 また、この常設展では、深沢省三・紅子も盛岡出身と知った。二人の絵は、数年前か、国際こども図書館での「童画の世界」展で、『コドモノクニ』『子供の友』誌上で活躍していた頃の作品を、また紅子は野の花を好んで描いていたことなども思い出す。盛岡には深沢紅子の野花美術館もあるそうだ。原敬記念館もあるというのに。 時間が足りないなあ。 今回啄木は、素通りである。


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萬鉄五郎、自画像二点

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盛岡の冬(1931年)、竣介十代の作品

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Y市の橋

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議事堂のある風景

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舟越保武常設展示室

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ながい廊下の窓からも見える岩手山

  つぎに向かったのが、美術館の隣にある、盛岡市先人記念館も立派な和風の建物、予備知識なく入館、受付近くに陣取っていたボランティアの方に、ここでの予定時間を問われた。30分ほどいう時間に合わせての説明となった。新渡戸稲造、米内光政、金田一京助の各室をまさに大急ぎであり、2階には130人ほど顕彰されているんですよ、と残念そうだった。米内光政が昭和天皇からの信頼がいかに厚かったか、「賜った硯を見てください、墨を磨った跡が見える、直前まで使用されていた、大事なものだったのでしょう」とボランティアの方は力説した。それに「米内さんは、昭和天皇と一緒の平和論者で、アメリカとの戦争はしたくなかったんですよ」という説明、しかし、こんな風な昭和史だけが、後世に伝えられてしまっていいのかの疑問も去らない。なお、庭園には、盛岡駅構内にあった、金田一京助の筆になる啄木の歌碑がここに移築されていた。写真を撮ろうとしたところ、これも「資料」なので、学芸員の許可と立ち合いが必要である、とのことで、閲覧申請後、ようやく近づくことができた次第であった。
 中央公園のしだれ桜満開の一画では、結婚式場を飛び出してきたカップルと家族たちだろうか、記念撮影の真っ只中、お幸せに。 

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「ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな」が萬葉仮名交じりで
彫られていた。碑面は凹凸があって読みにくい

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盛岡市先人記念館

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連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(1)

 連休中にもかかわらず、当ブログにお訪ねくださった方も多く、恐縮しています。時節柄、多くは、自治会会費や社協・日赤関係記事へのアクセスですが、熊本地震への義捐金にかかわってのアクセスも混じっていたと思います。続く余震の中、被災者の方々には、ただただお見舞いの言葉しか申し上げられず、むなしさが募っています。  一か月以上も、長い間、ブログへの投稿が途切れてしまいました。ともかく、目の前の仕事に追われ、その途中、かねてからの予定通り、連休前に、東北旅行に出ました。4月29日に帰宅した折には、わが家の垣根は、テッセンの花盛りになっていました。  

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北海道新幹線「函館北斗行き・はやぶさ・こまち」に乗って  

   4月26日午後、連れ合いが、盛岡で、岩手県生協関係団体のTPP学習会で報告をするというので、便乗してついて行くことにしていた。はらずも、開業間もない「はやぶさ」10時24分発に乗ることになり、指定も7割くらいは埋まっていたか。盛岡には12時半過ぎには到着。ホテルに荷物を預け、学習会会場へ。「TPP合意の内容、くらしへの影響」と題された話、端々には聞いてはいるものの、まともに客席で聴いたのは久しぶりである。国会審議最中に明らかになった西川公也『TPPの真実』の内容、結局出版取りやめになったものの、ゲラ刷りが出回って、交渉過程は秘密と言いながら、結構踏み込んで書かれているという。熊本地震対応もあって、結局批准は先送りになった。問題は山積みで、この日は、TPPは、定着しかけてきた「地産地消」を侵害し、高額医療・薬価高止まりを助長し、国民の命が危なくなるという話は身につまされた。ご苦労様でした。  

高松の池、平和の像は桜吹雪くなか   

    生協、農協関係の二方のご案内で、桜の名所でもあるという「高松の池」まで。「先週末が最後の見ごろ」ということだったが、遊歩道は、ジョガーが行き交い、散った桜が薄紅のじゅうたんを敷いたようでもあった。ここには、二つの平和の像があるという。最初に案内してもらったのは、岩手県生協連と婦人団体、青年団体、原爆被害団体協議会4つの市民団体の提唱・賛同により、1995年に建立された、郷土の彫刻家、舟越保武とその弟子による家族の群像「望み」だった。もう一つは、池のちょうど対岸に位置する、自身もシベリア抑留体験者であった佐藤忠良による「ひまわり」、とてもかわいらしい少女像である。少し風が冷たくなり、池の端の桜並木から、目を空に転じると、雪を頂いた岩手山が望めるのだった。

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高松の池、平和記念像「望み」舟越保武他制作

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高松の池から岩手山を望む

    そして次にと案内いただいたのは、材木町の「光原社」だった。材木町の「いはーとぶアベニュー」と名付けられた商店街は、なかなか雰囲気のある通りで、その真ん中あたり、生前の宮沢賢治が出版した唯一の童話集「注文の多い料理店」、その印刷・出版をしたのが友人の経営になる「光原社」だったらしい。通りから一歩、店の中庭に踏み入れると、大正の香がする、独特の世界が展開する。喫茶室も資料室もあり、中庭を突き抜けると、北上川に直面する。通りの向かいには、民芸店があり、陶器、鉄器、笊、織物からアクセサリーまで有り、時間が許すなら、ゆっくりしたいところであった。  夜は、生協連の方々との会食となり、さまざまはお話を伺うことになった。ありがとうございました。

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光原社中庭

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光原社、中庭から望む北上川
かつては松尾鉱山から流れる汚水で川は赤かったそうだ

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2015年11月 1日 (日)

ようやく、藤田嗣治の戦争画14点が公開~国立近代美術館<特集・藤田嗣治、全所蔵作品展示。>  

 これまで、GHQに接収された戦争画が返還(無期限貸与)された1970年以降も、決して全面公開しない国立近代美術館の方針は、理解に苦しむ。これまでも何度かそのことには触れてきた。*1 国立近代美術館が所蔵する153点の2・3点ずつを常設展の片隅で展示していたに過ぎなかった。あるいは、雑誌などの特集や特定画家の回顧展や種々の企画展などへ小出しに撮影されたり、貸出されたりした作品しか目にすることしかできなかった。このたび、「(接収)戦争画」の中でもっとも点数の多い藤田嗣治の14点すべてが初めて一度に展示されることになったのだ。出かけないわけにはいかない。私にとっては、下記の葉山での「戦争/美術」展で「ソロモン海域に於ける米兵の末路」(1943年、下記のリスト⑧*2)「ブキテマの夜戦」(1944年、⑩)、国立近代美術館「ゴーギャン展」の折の常設展で「血戦ガダルカナル」(1944年、⑦)に接したとき以来である。

*1今回のテーマに触れた主な当ブログ記事 
・藤田嗣治、ふたたび、その戦争画について(14/02/18)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/02/post-dd37.html

ようやくの葉山、「戦争/美術1940—1950―モダニズムの連鎖と変容」へ(13/09/27) http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/09/19401950-0aad.html

・緑陰の読書とはいかなかったが④断想「〈失われた時〉を見出すとき(102)(木下長宏) (12/09/21)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/09/102-0230.html

・国立近代美術館へ~ゴーギャン展と戦争画の行方(09/9/21)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/09/post-5b23.html

・ 上野の森美術館「レオナール・フジタ展」~<欠落年表>の不思議(08/12/13) http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2008/12/post-13fc.html

 今回の展示は、4階の第5室から3階の8室まで、14点の展示が続く。  <特集・藤田嗣治、全所蔵作品展示。>の概要については、以下を参照。 http://www.momat.go.jp/am/exhibition/permanent20150919/

  5室で最初に目に飛び込んでくるのが、①の192×518cmという大作だった。1943年7月18日、まるでグライダーのような小型機(九六式艦上爆撃機というらしい)が中国の南昌飛行場に強行着陸して奇襲した模様が描かれている。大作ではあるが、少年雑誌の挿絵のような趣であった。②③④⑤も他の作品と同じように、多くは報道写真などから構図を得て、描かれていたと思うが、画面のどこかで火の手が上がっていなければ、戦場とも前線とも思えない静寂さが漂うような雰囲気が、⑥「アッツ島玉砕」から一転して、目を凝らさないと重なり合う兵士たちの生死や表情が読み取れない暗さに覆われる。というより、すでに遺体と化した兵士たち、死に直面した女性たちの姿や表情を捉えている。にもかかわらず、日本の戦局の悪化を隠蔽し、「玉砕」「血戦」「神兵」「奮戦」「死闘」「臣節」などという字句により死の美化に貢献した藤田は、他の多くの画家たちと同じ道を歩んだといえる。

*2 今回展示の藤田嗣治の戦争画一覧
①南昌飛行場の焼打 1938-39
②武漢進撃 1938-40 無期限貸与
③哈爾哈(はるは)河畔之戦闘 1941
・(猫 1940 購入 )
④十二月八日の真珠湾 1942
⑤シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地) 1942
⑥アッツ島玉砕 1943
⑦血戦ガダルカナル 1944
・(藤田嗣治:「戦争画の写実とは?―現地で語る戦争画問題―」『旬刊美術新報』25号   1942年5月)
⑧ソロモン海域に於ける米兵の末路 1943
⑨神兵の救出到る 1944
⑩ブキテマの夜戦 1944
⑪大柿部隊の奮戦 1944
・( 藤田嗣治:「南方戦線の感激を山口蓬春藤田嗣両氏の消息に聴く」『旬刊美術新報』29号1942年7月)
・( 藤田嗣治:「戦争画制作の要点」『美術』第4号1944年5月)
⑫○○部隊の死闘−ニューギニア戦線 1943
⑬薫(かおる)空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す 1945
⑭サイパン島同胞臣節を全うす 1945  

  今回の展示室には、当時の雑誌などにおける藤田の発言の一部も紹介されている。広げられた頁をよく読むと、「戦争画の写実とは?」においては、軍服のボタンとか首筋の汗とかのディティールに及ぶ、主観を含めた客観描写の必要を説き、「主観によって誇張していいと思う」といい、「戦争画制作の要点」では、「忠誠の精神」と「体験と知識の必要性」を強調していたことがわかる。解説にはない文言だが、記憶にとどめておくべきだろう。  各作品の解説において、藤田の戦争画は、フランスで活躍中に学んだヨーロッパの名画を手本にして描いていることをかなり詳細に検証していることが特徴的だったと思われる。

  なお、今回の展示カタログが、800円ということで、入館後すぐに購入した。年譜も、作品解説もあるということなので、あまりメモを取らなかったところ、すべての作品解説が収録されているわけではなく、戦争画に関しては③⑥⑦⑭のみであったのは残念だった。それに、他の作品はあっても戦争画の絵葉書は販売されていなかった。 今回は藤田の作品だけだったが、戦争画153点の全面公開が待たれるのであった。 公開されてこそ、その評価も多様に展開されるだろう。過去と向き合うことの大切さは、戦後70年経た今日でも決して遅くはないはずだ。

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65歳以上は入館料が無料ということで、保険証で通過、入場券というものを頂かなかったので、宣伝チラシの片面を代わりに。左が「五人の裸婦」(1923年)、右が「アッツ島玉砕」(1943年)の一部が配されている。

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「南昌飛行場の焼討」(1938~39)

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「ソロモン海域に於ける米兵の末路」(1943年)。「ロストシップ」というジャンルがあるほど、難破船を題材にした名画は多いそうだ。解説によれば、ターナー「難破船」(1805年)、ドラクロワ「ダンテの小舟」(1822年)、ジェリコーの「メデューズ号の筏」(1891年)などの影響は大きく、似ている部分もあるという。(『展示カタログ』より)

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「サイパン島同胞臣節全うす」(1945年)(『画家たちの「戦争」』新潮社 2010年、より)
1944年7月7日、サイパン島守備隊全滅。製糖が盛んだったので、多くの日本人移民もいて、彼らを巻き込んだ。作品の右手には、崖から身を投げる女性たちが描かれている。約5000人が身を投げたマッピ岬を米軍は「バンザイ・クリフ」と呼んだ。右下の写真は、従軍先での左から藤田嗣治、小磯良平、宮本三郎。

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2015年10月13日 (火)

雨の霞ヶ浦~吉崎美術館の高塚一成個展と予科練平和記念館と(1)

水郷大橋を渡る

 地元の「さくら・志津憲法9条をまもりたい会」の代表である高塚一成さんの油彩展(2015102日~113日)が茨城県行方(なめがた)市の吉崎美術館で開催中である。今月の第2日曜の「まもりたい会」例会は、その美術館で開こう?ということで、久しぶりの遠出となった。高塚夫妻の先頭車両に続き、3台に分乗した11人、私たちの車は運転のMさんと3人、女性ばかりのおしゃべりで盛り上がる道中だった。あいにくの雨ながら、佐倉、成田を抜け51号線に入り、北上するが、渋滞もなく、水郷大橋を渡れば茨城県潮来。小降りになったところで、北利根橋を渡って永山交差点で左に折れて355号線に入った。

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北利根橋を渡ると

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355号線に入った

 私の知っている水郷大橋は、佐原での2年以上の疎開生活で、毎日遠くから眺めていた長い頑強そうな鉄橋であった。母の生家が佐原の岩﨑で、まずは小学生だった次兄が縁故疎開で、つぎに母と私が身を寄せ、池袋の家が1945413日夜の空襲で焼け出されてからは、薬局を営んでいた父と薬学校に通っていた長兄も加わり、一家5人の疎開生活が始まっている。当時、幼い私が眺めていた鉄橋とポプラが群れ立つ風景は、衣食住がままならず、街の和菓子屋さんの芋羊羹がのどから手が出る程欲しかった、そんな過酷な暮らしのなかで、どこか憧憬にも似た、やさしさを漂わせていた。あの橋は、1936年に完成したもので、1977年に300mほど上流に架けられた現在の水郷大橋ができて、その役目を終えたという。その後、佐原には何度か来ているが、新しい水郷大橋を渡るのは、この日が初めてだった。
 355号線を進むと右側に、小さな吉崎美術館の案内板が見えてきて、曲がるとすぐに一乗寺という寺の山門だけがまるで道端に転がるように建っていた。さらに、山道を進むと、とんがり屋根の赤い壁の瀟洒な建物が見えてきた。車を下りれば雨も上がり、あたりの緑に、庭の柿の赤い実が際立っていた。

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吉崎美術館に向かう

具象画を前に、麻生高校美術部の伝説の人!

 美術館のオーナーの吉崎才兵衛さんは行方(なめがた)の出身の画家、高塚さんは、潮来(いたこ)出身で東京芸術大学に進んで、活躍する画家だ。このたび、昨年4月にオープンしたばかりの吉崎美術館で個展の運びとなったという。館内は、木の香がただよう明るい雰囲気で、吉崎さんご自身の作品とコレクションの一部が展示されている部屋と企画展の部屋に分かれ、それに大きなテーブルがデンと控えた、おしゃべりをしたりお茶の接待まで受けたりしたスペースがあった。連休初日のこの日は、高塚さんの地元のお知り合いが何人も訪れていて、その対応にも忙しそうだった。「私の絵は、具象なので、ともかく自由に見てください」と言いながらも、忙しい合い間を縫って、私たちにはみずからの作品の解説をしてくださった。

 たしかに写実ではないので、鑑賞する人の想像力、いや創造力が掻き立てられるのだが、話を聞いていても、狭まることなく、その世界が広がるから不思議である。「鎮魂―四つの最後の歌より」と題する大作は、題とはかけ離れ、実に明るい色調のなかに捕えられた鳩が自ら解き放たれようとしているようなメッセージが伺われたが、その作品の意図を聞きもらしてしまった。また正反対の「沼―凍てつくような寒い朝」と題された作品は、完成までに4年を要したという大作だった。私の貧しい経験からは、佐倉が、福島原発事故の放射線量がかなり高いホットスポットと言われていた時期、一度ならず放射線量を調べ、測定に従いて回ったときの、印旛沼を思い出していた。今回の、16点のなかで、私がもっとも心ひかれたのは、「夕暮れ」と題する小品だった。どこの水辺とも分からない、河なのか沼なのか静かな水面の対岸とその空が描かれているが、ほとんどモノクロに近い、淡い色調に奥行きが思われ、茜や朱はどこにもあらわれない意外性にも納得するのだった。

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中央が「沼」

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「夕暮れ」

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 展示室を出たところの掲示版に、今回の個展のポスターがあるのに気が付いた。「麻生高校美術部 伝説の人」との添え書きがしてあった。吉崎さんが問わず語りに、話されたのは、美術部の部室には高塚さんのデッサンが掲げられ、後輩たちの憧れでもあり、目標にもなっていたという。今回の個展にも多くの後輩たちが駆けつけているとのこと。高塚さんの人柄を彷彿とさせるエピソードであった。
 吉崎さんご自身の作品や同郷の村山密の作品にも初めて接しすることができ、ホッコリする気分にもなったのである。そして、潮来の牛堀は、早世したので、私は会うことがなかったのだが、私の父の父、祖父の出身地でもあり、私も、幼いころ、父に連れられて、一度だけ同姓の遠縁のお米屋さんを訪ねたことがある。ダットサン?に乗ってお墓参りをした記憶もよみがえる。お米屋さんはいまでもあるのだろうかと、吉崎さんにたずねてみたところ「そうそう、そのあたりに詳しいのが来ているよ」と、お客さんの一人を手招きしてくださった。町役場に永く勤めていたという方だった。「同姓の家は結構あるが、40町歩の〇さん?それとも、米屋となると、あそこかも知れない。もう米屋はやめて、新しい事業をしているが・・」とのことで、「もっと早くに来れば、年寄りに遇えたかもしれん・・」と残念がってくださった。

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美術館オーナーの吉崎才兵衛さんの作品

北利根、川辺のレストラン「蔵」にて
 今回の霞ヶ浦行きの、もう一つの楽しみは、地元の牛堀で高塚さんの親せきの方がなさっているイタリアン・レストランでのランチだった。北利根の船着き場のお米の倉庫だった蔵を改造しての作りで、なかなかの風情があるものだった。目の前には釣り人がちらほら、ときどきすごい音と水しぶきを上げて駆け抜けるモーターボート、天気さえよければ右手には筑波山が見えるという。葛飾北斎の富嶽三十六景に「常州牛堀」があって、富士山も見えるとのことだった。店内は、意外と広く、一枚ものの分厚い木のテーブルがあって、詰めれば156人は座れそうで、他にテーブル席もあり、カラオケもライブもできるらしい。私は、茄子のミートソースのパスタとサラダ、それにケーキをおいしくいただいた。おしゃべりに夢中で、「9条まもりたい会」の例会はどこへやら・・・。でも、午後からは、「まもりたい会」の恒例でもある戦跡めぐりで、阿見町の予科練平和記念館に向かうことになっている。

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2015年3月26日 (木)

春の六本木~白日会展とルーヴル美術展へ

開花宣言も聞かれる東京に出たが、323日、用事が済んで向かったのは、国立新美術館。恩師の乙黒久先生が属されている「白日会展」へ。沢山の力作の中をめぐって、先生の「夕装」という題の山の絵の大作も見つけることができた。池袋三越の閉店と共に乙黒先生の個展が開かれなくなり、「白日会展」も私には、久しぶりだった。米寿も近く、ご健筆ぶりにただただ脱帽の思いである。会場は、心洗われるような風景画と共に若い女性を描いた人物画が多く、なかでも美しさや愛らしさを超えたところの志や意思を秘めた表情に惹かれるものが多かった。先生、ご招待状、ありがとうございました。

同じ美術館では、「ルーヴル美術館展」が開かれているのを知った。そう、フェルメールの「天文学者」が来ているというのが話題になっていたのを思い出した。「日常を描く―風俗画にみるヨーロッパ絵画の真髄」の副題がある美術展だった。中世の宗教画は苦手だけれども、16世紀から19世紀まで、この時代の風俗画は、農民や職人、商人たちの暮らしや家族や階層の関係が分かって興味深い。83点ほどの作品は以下の構成による展示だった。

プロローグⅠ 「すでに、古代において…」風俗画の起源  

プロローグⅡ 絵画のジャンル  

第Ⅰ章 「労働と日々」―商人、働く人々、農民  

第Ⅱ章 日常生活の寓意―風俗描写を超えて  

第Ⅲ章 雅なる情景―日常生活における恋愛遊戯  

第Ⅳ章 日常生活における自然―田園的・牧歌的風景と風俗的情景  

第Ⅴ章 室内の女性―日常生活における女性  

第Ⅵ章 アトリエの芸術家  

鳩売りや抜歯屋という商売もあったことや画家たちが占い師や物乞いの人たちにもクールながらときにはあたたかい眼差しをもって描いていることも知らせてくれる。プロローグⅡにあったル・ナン兄弟の「農民の食事」(1642年)という、テーブルを囲み、ワインとパンだけのような食事をする男たち、彼らを巡る家族たち、加えて左端には画家を見つめる子犬を配したかなりの大作である。日常のなかの家族のやすらぎと生活のきびしさが感じられる一場面のように思えた。2009年の国立西洋美術館のルーヴル展でも、同じル・ナン兄弟の「農民の家族」にも犬がいたのではなかったか、思い出すのだった。

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ル・ナン兄弟「農民の食事」

コローの作品は何点かあったが、第ⅴ章にあった「身づくろいする若い娘」と「コローのアトリエ」のマンドリンを右手に持ったまま、キャンバスの書きかけの絵に見入っている若い女性の絵が印象的だった。この絵とほぼ同じ構図の作品もあるそうなので、愛着の深かったテーマだったのでは。また、第Ⅵ章は画家の内面を見るような楽しみもあった。

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コロー「コローのアトリエ」

今回のシャルダンは、「買い物帰りの召使い」が、なんとなく物憂い感じが出ていて、袋をはみ出す品は何だろうと親しみを覚えるのだった。

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 シャルダン「買い物帰りの召使い」

フェルメールの「天文学者」は、チケットやチラシにもレイアウトされていて、その展示も、ほぼ一部屋が当てられ、別格扱いであったが、想像よりもむしろ小さな作品だった。2009年の「ルーヴル展」では「レースを編む女」はさらに小品であったことも思い起こす。昨年11月の旅先で、フランクフルトのシュテーデル美術館では貸し出し中で見ることができなかった「地理学者」、今回は、そんな「地理学者」のコピーとの対比で解説がされていたのも興味深いものがあった。 

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    フェルメール「天文学者」

美術展のハシゴは、やはり疲れました!

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2015年3月11日 (水)

桜は、まだ、かたい蕾の上野公園、「新印象派展」へ行ってきました

  久し振りの精養軒でランチを済ませ、連れ合いは、東京駅近くでの約束があるということで、韻松亭の前で別れ、私は、新聞の販売店から抽選で?頂戴した招待券で、「新印象派展」へ行ってきた。「新」がつく「印象派」、ピサロ、スーラ、シニャックらの点描派を指すらしい、というくらいの知識での入館、それほど混むこともなく、ゆっくり回ることができた。

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チケットの作品は、スーラ「セーヌ川、クールブヴォワにて」(1885)

1874年の第1回以来、8回の印象派展すべてに参加したピサロは、早くからスーラ(185991)、シニャック(18631935)らの新しい技法の可能性を認め、1885年頃には自らも点描技法を用いたとのこと。ピサロ(18301903 )は、スーラ、シニャックに、1886年に開催される最後の印象派展に参加するよう勧め、3人の運命的な出会いの場にもなったのがセーヌ川の中州「グランド・ジャット島」の由、スーラの代表作「グランド・ジャット島の日曜日の午後」の習作4作品(188486)が展示されている。この島は住宅街になっているそうだが、ゆったりとくつろぐ家族連れ、カップル、犬などを配した川岸の光景が描かれていた。

点描派と言えば、水面や空に映る光と影を微妙な色合いと筆致で描くやさしく穏やかな作品が多いといった先入観があった。

今回、私は、これまで、まったく気づかなかった一人の画家マクシミラン・リュス(18581941)と新印象派を理論的に支えたフェネオンという批評家の名前を知ることになった。とくにフェネオンについては、西洋美術史上では、新印象派の命名者であり、擁護者であった批評家、編集者、晩年は画商として著名で、何人かの研究者が言及する人物であった。

リュスの作品で、この日、見ることができたのは、つぎの11点ほどだ。

①モンマルトルからのパリの眺め(1887

②ルーブルとカルーゼル橋、夜の効果(1890

③若い女性と花束(1890

④城塞の丘、サン・トロペ (1892

⑤サン・トロペの港(1893

⑥墓地への道、サン・トロペ(1892)

⑦カマレの埠頭、フィニステール県(1894)

⑧海の岩(1893

⑨工場の煙突(189899

⑩シャルルロワの高炉(1896

⑪シャルルロワの工場(1903

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⑦カマレの埠頭

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⑩シャルルロワの高炉

①②は、パリ散策の思い出の地でもあり、そんな俗な関心もあったが、同じ点描でも、他の画家に比べて、荒々しさと力強さが感じられた。サン・トロペでの作品は、南仏サン・トロペに魅せられて移り住んだシニャックに招ばれた頃の作品である。⑦の岸に寄せられた幾隻かの小さな帆船の内外に動く人々のシルエットには、思わず引き寄せられた。フィニステール県は、フランスのブルターニュ半島の先端に位置し、その漁港でもあるのだろう。また、⑨以降は、ベルギー南部の工業都市シャルルロワの工場とそこに働く人々が描かれていて、その題材は、私には、想定外であり、いささか驚いたのである。さらに、リュスは、ピサロから親しく点描主義を学ぶのだが、会場の年表によって18944月、リュスは、フェネオンとともに、アナーキスト三十人事件で逮捕拘留されていたことを知る。リュスが、その後、工場や労働者を盛んに描いたのもうなづけることだった。フェネオン(18611944)の名は、今回の展覧会の「チラシ」の冒頭にも登場していた。

 「美術批評家フェリックス・フォネオンが「新印象派」と名付けたのは1886年のことです。この年の5月、最後となる印象派展が開催され、ここでジョルジュ・スーラ、ポール・シニャックらによって色彩を小さな点に分割する新しい技法の作品が初めて発表されました。観る人の目の中で混ざるように置かれた小さな点は、色彩の輝きと光の効果を高めるものでした。新印象派の作品は、翌18872月にはベルギーに出品され、すぐに国際的な広まりを見せます。」

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展示されていたシニャックのパレット

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2014年12月13日 (土)

心なごむ絵とのひとときも束の間 ~「夢見るフランス絵画」展へ

 新聞の販売所から抽選でもらった招待券があったので、ぜひと思っている間に、12月に入ってしまった。出かけるなら晴れた日にと思い切って家を出た。 Bunkamuraへは渋谷の地下通路3aの出口からだと近いことが分かった。すっかり“おのぼりさん”である。渋谷も遠くなりにけり、というところだ。

 「知られざる日本人のコレクション」との宣伝文句であるが、どれもなじみのある、ポピュラーな画家の作品ばかりなのがうれしい。しかし、業界のルールは不案内ながら、同一コレクターからの出品展でも、その所蔵者の名前を明かさないこともあるのだろうか。各作品のキャプションや章ごとの解説も読まず、出品数も71点ほどだったので、焦ることもなく、ゆったりと気ままに回ることができた。まったくの好みながら、いまの私には、人物・静物画より風景画に引き寄せられる。2回ほどのフランス旅行ながら、目にした光景を思い起こさせ、親しみやすかったということもある。

セザンヌ(18391906)「大きな松と赤い大地」(1885年):アヴィニヨンに泊まっていた折、エクサン・プロヴァンス発の「セザンヌの旅」に参加し、サント・ヴィクトワールの周辺をバスで巡ったりしていたからかもしれない。英語コースだったので、聞き取れないことも多かったが、セザンヌが好んで描いた風景を目の当たりした昂奮は忘れがたかった。

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「大きな松と赤い大地」


  モネ(
18401926年)「小さな積わら」(1894年):モネは積わらをテーマに多数描いていて、私も何度か異なるものを見ていると思うのだが、たいていは、もっとどっしりとしていた積わらだった。これは、まだ積み重ねる前の幾つものわらの束を描いているのだろう、空模様や時刻もあまりはっきりせず、陰影が明確ではない。私には、農作業が一区切りついてホッとした人々のおだやかな姿を彷彿とさせる光景に思えた。

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チケットと「小さな積わら」

ユトリロ(18831955年)の描くモンマルトルは、いまでいうストリートビューによる街歩きの感があるほど網羅的にも思える。モンマルトルを訪ねたのは、10年も前のことだが、私が、いま思い起こすのは、坂道の先に急に展けたブドウ畑、家並みの間の細い空間に現れる白亜のサクレ・クール寺院の屋根、テアトル広場のにぎわい、モン・スニ通りの階段、、一休みするにはやや落ち着かない高い椅子のカフェ・・・。今回のユトリロは、合わせて11点、すべてがモンマルトルではなかったが、その街並みを構成する壁面の表情が豊かで、とくに「サクレ・クール寺院の丸屋根とサン・ピエール教会の鐘楼」(1926)は、ユトリロの印象が一変するほどの明確さがあるのに驚いた。

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「サクレ・クール寺院の丸屋根とサン・ピエール教会の鐘楼」

 ブラマンク(18761958年)は、もちろん没後だけれど、気になる存在だったらしく、私は、1966年銀座日動画廊での「フランス野獣派の巨匠ブラマンク展」に出かけている。1989年、名古屋から佐倉市に転居してまもなく、日本橋三越での「没後30年フランス野獣派の旗手ブラマンク展」では、何枚かの絵葉書きを買っていた。今回の11点の作品でも言えることだったが、私は、筆致の力強さとその描く雲に魅せられていたらしい。生誕120年(BUNKAMURA1997年)、没後50年(損保ジャパン美術館、2008年)というのもあったのだが、見逃していることがわかった。
 
ルノワール、ゴッホ、マリー・ローランサン、モディリアニ、シャガールなどは軽く通り過ぎ、そして、立ち止まったのは、藤田嗣治(18861968年)の沖縄の家並みと海を描いた「北那覇」(1938年)であった。先月、沖縄に行ってきたこともあったからだろうか。藤田は19384月から5月にかけて沖縄に滞在するのだが、この後、戦争画の大作を書き続けることになる。現在、日仏合作で藤田の伝記映画が製作中であるという(小栗康平監督 オダギリジョー主演)。いったいどんな風に描かれるのだろう。日仏の架け橋的存在が強調され、戦争画を描いた「純粋な動機」などが忖度され、「芸術家の苦悩」が描かれるのだろうか。

*当ブログの以下の記事もお読みいただければと思います。

・藤田嗣治、ふたたび、戦争画について(2014218日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/02/post-dd37.html

・上野の森美術館「レオナール・フジタ展」~<欠落年表の>の不思議(20081213日)

http://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=55522523&blog_id=190233

 

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2014年11月17日 (月)

ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20~28(9)

ベルリン3日目、冬時間へ

私たちが日本を発ってすぐに小渕・松島両大臣が辞任したことは、ホテルの新聞で知った。その後の娘からのメールでは、後任の両大臣にも、つぎつぎとボロが噴出しているとのことであった。こちらではテレビを見るゆとりもなく、天気予報を見るくらいだった。青空を見ることは少なかったが、傘をさして歩いたのは、フランクフルトの2日目の夕方だけだったように思う。

1026日(日)、いよいよベルリンも3日目となった。朝6時、早すぎるかなと思いながら、旅のメモでも取っておこうと、ふたたび枕元の時計を見ると、?まだ5時?ホテルの時計が止まっている!と夫に告げると、「そう、きょうからだったのかな、冬時間に切り替わったかもしれない。旅行社のMさんが言っていた」とのこと。この時期に影響の少ない日曜日に夏時間から冬時間に切り替わるらしい。少し得をした気分ではあった。ほんとうにドイツの朝は、明るくなるのが遅く、7時になっても真っ暗だった。早めの食事を済ませ、夫は、きょうの目的地、ザクセンハウゼン強制収容所への予習に余念がない。そして、きのう、私が「なんか気持ちの重くなる所ばかりをまわてきたので、コンサートにでも行きたいね」と口走ったばかりに、夫は、昨晩のうちに、今夜ベルリン・フィルハーモニーでドイツ・シンフォニー・オーケストラのコンサートがあることをホテルで確認、予約を依頼したが、当日売りで入手してくれとのことだった。その方もやや気がかりではあった。

ザクセンハウゼン強制収容所へ

Sバーンでベルリン中央駅に出て、RB(Regional Bahn)5で強制収容所の最寄駅Oranienburgオラニエンブルクに向かう。944分発、約30分。駅からは歩いて20分というが、804系バスには、学生だろうか、日本の若い女性3人組と一緒に乗った。終点バス停の前で、帰りのバスを確かめ、1時間に一本なので午後19分とした。厚いコンクリートの壁の切れ目から入場、収容所の入り口は、長い石の塀に沿った一本道、いわゆる「収容所通り」を進んだところらしい。その途中の塀には、強制収容所での出来事が大きな写真で展示され、その役割を強く印象づけられる。ナチス解体後は、ソ連、東独の特設収容所となっていたのである。入口の正面にはレーニンの顔写真が掲げられている写真もあった。

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バス停を降りると、こんな壁の間を縫って

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 収容所通りには黄葉が舞う

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目を覆いたくなるような展示が続く

以下は、入り口で購入したコピーの日本語案内(50セント)による。19333月、ナチ突撃隊によってオラ二エンブルク市の中心部に開設された収容所は、一時3000人以上の人が収容されていたが、19347月に親衛隊に引き継がれ閉鎖している。1936年現在の地に、収容所建築のモデルとなるべく、親衛隊により設計されたのがザクセンハウゼン強制収容所だった。1938年にはドイツ支配下のすべての強制収容所の管理本部の役割を果たしていた。以降194542223日、ソ連とポーランドの軍隊ににより解放されるまで20万人以上の人が収容され、飢え、病気、強制労働、虐待、さらには「死の行進」などにより多数の犠牲を出した。当初は政治犯が主だったが、後は人種による収容が多くなった。19458月からは、ソ連の特設収容所として、ナチス政権下の役人や政治犯らで、その数6万人、少なくとも12000人が病気や栄養失調で犠牲になっている。1961年以降は、ソ連軍東独軍の施設として利用されていたが、1961年に国立警告・記念施設としてスタートした。1993年以降東西ドイツの統一により、国と州に拠る財団で管理され、「悲しみと追憶の場所としての博物館」となり、残存物の重要性が見直され、構想・修復されて現在に至っている。

案内所では、オーディオガイドも借りられるが、日本語はなくて、上記のA420数頁のコピーによる案内だけが用意されていた。収容所は、見取り図でもわかるように、正三角形からなり、その一辺の真ん中が入り口となっており、その鉄格子の扉の「ARBEIT MCHT FREI」(労働すれば自由になる)の文字は、アウシュヴィッツ収容所の入り口のアーチに掲げられている文言と一緒である。その一辺を底辺とすれば頂点に近い位置に、東独時代の石の記念碑が立っている。入り口近くに扇型の点呼広場⑫を中心として、バラックと呼ばれる収容棟が放射線状に68棟建てられていたことがわかる。各棟敷地跡には区切られ、砂利が敷き詰められていて、いまは広場から一望できる。最も管理がしやすい形だったのだろうか。

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入口から正面のオベリスクは高さ40mあるという

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”ARBEIT MACHT FREI”の文字が見える

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③ 収容所通り ⑩ 入り口 ⑫ 点呼広場

 まず、博物館で、予備知識をと思い入館した。収容所の変遷が分かるように、展示・映像・音声装置などにも様々な工夫がなされていたが、見学者は極単に少ない。ここでは、やはり、フイルムと写真という映像の記録の迫力をまざまざと見せつけられた。さらに、現存の収容棟の一つには、ユダヤ人収容者の歴史が個人的なデータを含めて展示され、べつの収容棟には収容者の日常生活が分かるような展示がなされていた。結局、2時間余りでは、全部は回り切れず、いわば、本部に当たる監査棟、病理棟、強制労働がなされた工場棟、犠牲者の墓地など大半を見残している。が、総じて、権力を持った人間が持つ狂気、それに押しつぶされる人間の良心と抵抗の力をも、あらためて知ることになるのだった。

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博物館、ある画家の残したエッチングなど

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博物館、流れる映像と鉄条網の束

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バラック38は、収容棟博物館になっている

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遠くの施設には足を運べなかった

当日券でコンサートへ
 オラニエンブルクからポツダム広場に直行、きのうも出かけた「文化フォーラム」の一画にある「フィルハーモニー」のコンサート会場には3時過ぎに着いたのだが、夜8時からの開演で、当日券は630分から発売とのことだった。それではと、近くの新国立美術館に入ってみることにしたが、これまた、まさにドイツの現代美術展であって、抽象画や奇妙なオブジェも多く、正直なところ馴染めないまま、一回りだけはしたのだった。この間にとソニー・センターの2階のレストランで夕食となり、少しゆっくりしたのだった。きょうも結構歩いたなと、万歩計をのぞけば、13000歩、ドイツに来てからは、130002万歩で、日常的には多くて5000から6000歩なのだから、いつもの3倍は歩いていることになる。頑張っているではないかと自分をほめたい?感じ。
 ようやく当日券入手、迷いはしたが、座席はFブロックで32€(プログラム2€)、7時には開場とのことだったが、だいぶ遅れた。大ホールは、複雑な重層的な構造で、F席は3階のようである。この会場では、まだ先のようであるが、内田光子や辻井伸行のリサイタルも開催されるらしい。開演間際になると、AB席はほぼ満席、F席は67割か、まるで空席のブロックもあり、全体として45割程度なのかもしれない。ワグナーの「ジークフリート牧歌」とバルトークの「弦楽器と打楽器、チェレスタのための音楽」で休憩に入るので、そこで失礼することにした。ワグナーは、やさしい子守唄を聞いているようであったし、バルトークは、チェレスタ・ピアノ・木琴をはじめ打楽器が多彩で、ピアノの連弾もあって、たのしく聴くことができた。ベルリン最後の日も長い一日となった。

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チケットと大ホールの見取り図

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大ホールをF席から見ると

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