2023年5月14日 (日)

マチス展へ~思い出いろいろ・・・

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  私には、なんとなく、なつかしくも、親しくもあるマチス、5月11日、都美術館開催中の「マティス展 The Parth to Color」に出かけた。予約制なので、並ぶこともなかったが、やはり、かなりの入場者ではあった。上記のチラシの眠る女性の絵には見覚えがあったので、手元のファイルを繰っていたら、1996年の「身体と表現1920ー1980 ポンピドゥーセンター所蔵作品」(国立近代美術館)のチラシにもあった「夢」(1935年)と題する作品だった。          

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 そして、2004 年秋のマチス展(国立西洋美術館)、この年は、やたらと忙しがっていた時期で、11月22日の日記では、「マチス展時間切れ、残念」との記述があって、出かけてはいない。ただ、記念のパスネットが残っていた。栞の2点はどこで入手したものかは分からないが、どちらも有名な切り絵のようである。

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パスネットの絵は「夢」(1940年)、中央はジャズシリーズの「イカロス」(1947年)、 左は「アンフォロとザクロの女」(1953年)。アンフォロとは、柄のついた深い壺のことを言うらしい。

 

 今回のマチス展は、つぎのような時系列の構成になっていて、とくに、私には苦手な彫刻の作品も多く展示されていたのも特徴だろうか。鑑賞の仕方がわかるといいのだが、多くは素通りしてしまった。

1. フォーヴィスムに向かって 1895─1909
2. ラディカルな探求の時代 1914─18
3. 並行する探求―彫刻と絵画 1913─30
4. 人物と室内 1918─29
5. 広がりと実験 1930─37
6. ニースからヴァンスへ 1938─48
7. 切り紙絵と最晩年の作品 1931─54
8. ヴァンス・ロザリオ礼拝堂 1948─51

 私が、気になったのは、第一次世界大戦期に重なる「ラディカルな探求の時代」のつぎのような作品だった。

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左「コリウーのフランス窓」(1914年)右「窓辺のヴァイオリン奏者」(1918年)。コリウールはスペイン国境に近い地中海に面した小さな港町で、マチスやピカソをはじめ多くの芸術家たちが愛した、美しい村というが、この黒い外の光景は、何を意味しているのだろうか。ヴァイオリン奏者のモデルは、息子のピエールかとも解説にあったが、誰とも分からない存在を強調しながら、窓の外には白い雲が立ちのぼっているのは、「コリウールのフランス窓」とは対照的だが、決して晴れてはいないことにも注目した次第。

 晩年の切り絵については、ニースのマチス美術館を訪れたときのことを思い出す。2004年9月末からのフランス旅行の折、アヴィニヨンに4泊して、エクサンプロバンスからの「セザンヌの旅」ツアーに参加したりしたが、大した前準備もなく、ニースへ、そしてマチス美術館にも行ってみたいと思い立ち、日帰りを強行した。ヴァカンスの季節はとうに終わったニースの街と海、バスでマチス美術館近くに下車したつもりだったが、なかなか見つからなかった。まさか、古代ローマの遺跡に隣接していようとは思っても見なかったのである。

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2005年10月1日、たどり着いたマチス美術館

 

 マチスは、金魚の絵を多く描いているようで、2005年秋の「プーシキン美術館展」(都立美術館)に出かけた折の「金魚」(1912年)の絵葉書が残っていたが、今回のマチス展では、「金魚鉢のある室内」(1914年)を見ることができた。1912年の作品はとてつもなく明るいのだが、1914年の作品には、シテ島近くのサン・ミッシェル河岸の住まいの窓から見下ろすサン・ミッシェル橋も描かれているが、全体的にブルーの暗い色調である。また、近くのノートルダム寺院も様々に描いているが、炎上を知ったら、何を思っただろうか。

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左「金魚」(1912年)プーシキン美術館蔵。 右「金魚鉢のある室内」(1914年)ポンピドゥーセンター国立近代美術館蔵

*日本語の表示は「マティス」が適切なのかもしれないが、私は、「マチス」として親しんできたので、そちらで統一した。

 

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2022年7月 2日 (土)

「スコットランド国立美術館展」へ

 こともあろうに、猛暑日の続く6月末日、連れ合いの誘いで、久しぶりの展覧会である。スコットランドは、私には、初めての海外旅行で出かけた地、家族三人の旅行でもあっただけに、思い入れも深い。何せ1996年のことだから、四半世紀以上も前のことである。エディンバラ城へ登っていく途中で、ナショナルギャラリーの前を通り過ぎた記憶がかすかにあるものの、入館することはなかった。
 なので、今回は是非と思ったが、前準備がないままで掛けた。私は、下調べもさることながら、音声ガイドというのもあまり好きではない。ふらっと、気の向くままに観賞する方が性に合っているのかもしれない。だから、帰って来てから、え?そんな著名な絵もあったんだと気づかないこともあったりして、もったいない気もしないではないが。
 入館時にチラシがもらえず、作品一覧を頼りにまわった。大きく、ルネサンス/バロック/グランド・ツアー/19世紀の開拓者たちといった時代区分であった。 
 宗教画が多いルネサンスの部屋で目を引いたエル・グレコの「祝福するキリスト」(1600年頃)は、端正な青年の趣をもつキリスト像で、宗教画らしくないとも思った。バロックの部屋では、かなりの大作のベラスケス「卵を料理する老婆」(1618年)のリアルな描写の迫力に引き寄せられた。キャプションによれば、ベラスケス十代の作であるという。ベラスケスといえば、ウィーン美術史美術館で見たスペイン王家のマルガリータ王女(後、ハプスブルク家のレオポルドⅠ世と結婚)の愛らしい肖像画を思い出す。宮廷画家の印象が深かっただけに、思いがけないことだった。そして、帰りがけに手にした本展覧会のチラシにも、この「卵を料理する老婆」が載っていたのである。

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どんな卵料理かも気になるところだが、卵を油で揚げているらしい。少年が持つのは南瓜と何のビン?二人の深刻にも見える表情は何を語っているのか。

 この部屋のオランダの画家ヤン・ステーン「村の結婚式」(1655~60年頃)は、相変わらず騒々しくも陽気な村人たちの暮らしが息づいているかのようだった。レンブラントの「ベッドの中の女性」(1647年)は、説明によれば、おそろしい物語が秘められているのを知るが、不安げな表情の女性のモデルは、レンブラントと長い間暮らした女性だという。
19世紀の部屋になると、コロー、モネ、ルノアール、ドガらが登場し、親しみ深いものがあった。シスレー、ターナー、スーラの絵にはいつも癒される。

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ランドシーアという画家の「荒野の地代集金日」(1855~68頃)、ノートを持つ集金人と交渉する人、待つ人、それに、絵の左右には、二頭の犬も描かれている。左手前の犬は待ちくたびれたと寝そべっているが、右側の犬は、小作人の飼い犬だろうか、不安そうな表情が絆を思わせる。他にも牛や馬が登場する絵は数点あったが、労働をともにするという思いがにじみ出ている作品だった。

 館内の精養軒でのランチは、久しぶりの外食、ほとんどが中高年の女性たちだった。コロナは収まってくれるのだろうかの不安がよぎる中、昼下がりの上野の暑熱は、記録的だったかも知れない。

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 古いアルバムを繰ってみても、当時の旅行写真は極端に数が少ない。エデインバラには二泊していた。お城の夕景のパノラマの絵葉書と、城内でのスナップ(1996年8月31日撮影)である。

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古いアルバムの案内パンフレットから、はらりと落ちてきた押し花である。エディンバラの前日はヨークに一泊、その散歩中に摘んだ野の花だろうか。いまとなっては、花の色も枯葉色で、その名の検索のしようがない。

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2021年11月10日 (水)

葉山から城ケ島へ~香月泰男と北原白秋(3)

10月28日、山口蓬春記念館を後にして、三ヶ丘でバスに乗車、葉山、長井をへて三崎口駅まで乗り継いだ。長井を出て、横須賀市民病院を過ぎると、さすがに軍港、横須賀自衛隊基地の関連施設が続き、停留所の三つ分くらいありそうだ。高等工科学校、海自横須賀教育隊、陸自武山自衛隊隊・・・。そして、道の反対側には、野菜畑が続き、小泉進次郎のポスターがやけに目に付く。調べてみると、横須賀市の面積の3.3%が米軍基地関係、3%が自衛隊関係施設で占められているそうだ。下の地図で赤色が米軍、青色が自衛隊施設という。

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横須賀市HPより

 三崎口駅舎は、京急の終点駅かと思うほど簡易なものに見えた。城ケ島大橋を渡って、昼食は、城ケ島商店街?の中ほど「かねあ」でシラス・マグロ丼を堪能、もったいないことに大盛だったご飯を残してしまう。

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 さらに、海の方に進むと、右側には城ケ島灯台への急な階段があり、草も絡まり、ハイヒールはご注意との看板もあった。なるほど足元はよくないが、階段を上がるごとに海が開けてゆく。1870年に点灯、関東大震災で全壊、1926年に再建されたものである。1991年に無人化されている。灯台から、元の道をさらに下って海岸に出ると長津呂の浜、絶好の釣り場らしい。この浜の右手には、かつて城ケ島京急ホテルがあったというが、今は廃業。その後の再開発には、ヒューリックが乗り出しているとか。今日の宿の観潮荘近くの油壷マリンパークも、ことし9月に閉館。コロナの影響もあったのか。

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城ケ島の燈明台にぶん廻す落日避雷針に貫かれけるかも 白秋
(
「城ケ島の落日」『雲母集』)

 いよいよ、城ケ島、県立公園めぐりと三浦市内めぐりなのだが、ここは、奮発して京急の貸切タクシーをお願いした。会社勤めの定年後、運転手を務めているとのこと、地元出身だけに、そのガイドも懇切だった。

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 城ケ島から城ケ島大橋をのぞむ。長さも600m近く、高さも20mを超えると。開通は1960年4月、小田原が地元の河野一郎の一声で建設が決まったとか。このふもとに、北原白秋の「城ケ島の雨」(1913年作)の詩碑が1949年7月に建立されている。近くに白秋記念館があるが、年配の女性一人が管理しているようで、入り口にある資料は、持って帰っていいですよ、とのことだったので、新しそうな『コスモス』を2冊頂戴した。

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白秋記念館から詩碑をのぞむ。三崎港の赤い船は、観光船だそうで、船底から海の魚が見えるようになっているけど、餌付けをしているんですよ、とはは運転手さんの話。

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 三崎港接岸の白い船はプロのマグロ船、出航すると一年は戻らないそうだ。脇の船は、県立海洋科学高校の実習船で、こちらは2~3カ月の遠洋航海で、高校のHPによれば、11月3日に出港、帰港は年末とのことだ。

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展望台から、ピクニック広場をのぞむ。湾に突き出ている白い塔のようなものが、古い安房埼灯台の跡ということだった。

 県立城ケ島公園は、散策路も、芝生も、樹木も手入れが行き届いていて、天気にも恵まれた。ただ、低空飛行のトンビが、人間の手にする食べ物を背後から狙うそうだ、というのはガイドさんの注意であった。途中に、平成の天皇の成婚記念の松があったりして、60年以上も前のことになるから、けっこう管理が大変なんだろうなと思う。黒松は、潮風で皆傾いている。途中、角川源義の句碑があったり、柊二の歌碑があったりする。目指すは、遠くに見えていた、あたらしい安房埼灯台である。昨年、デザインも公募、三浦半島名産の青首大根を逆さにしたような灯台となっている。

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野上飛雲『北原白秋 その三崎時代』(三崎白秋会 1994年)より。

 白秋が三崎にきて最初に住んだのが向ヶ崎の異人館だった。今は向ヶ崎公園になっているそうだが、今回は寄れなかった。その住まいの向かいが「通り矢」で、白秋が「城ケ島の雨」で「舟はゆくゆく通り矢のはなを」と詠んだところで、今は、関東大震災や埋め立てのため「通り矢のはな」はなくなって、バス停として残るのみという。城ケ島大橋は、この地図でいえば、鎌倉時代「椿の御所」と呼ばれた「大椿寺」の右手から、白秋の詩碑の右手を結んでいる。その後、「桃の御所」と呼ばれた「見桃寺」に寄宿することになるが、今回下車することができなかった。そもそも、白秋が三浦三崎に来たのは、最初の歌集『桐の花』(1913年)や第二歌集『雲母集』(1915年)の作品群からも明らかなように、1912年、医師の妻俊子との姦通罪で、夫から告訴され、未決囚として二週間ほど投獄され、後和解するも傷心のまま、1913年、「都落ち」するような形であった。同年5月には、あきらめきれず俊子との同居が始まり、翌年小笠原の父島に転地療養するまでの短期間ながら、多くの短歌を残している。以下、『雲母集』から、気になった短歌を拾ってみる。1914年7月、俊子は実家に帰り、白秋は離別状を書いて離別。1916年5月には詩人の江口章子と結婚、千葉県市川真間に住む。1920年には離別。1921年には佐藤菊子と結婚、翌年長男隆太郎誕生と目まぐるしい。軽いといえば軽いが、寂しさは人一倍なのだろう。ちなみに、高野公彦さんの『北原白秋の百首』(ふらんす堂 2018年)では、『雲母集』から14首が選ばれているが、重なるのは「煌々と」「大きなる足」「はるばると」「見桃寺の」の4首であった。

・煌々と光りて動く山ひとつ押し傾けて来る力はも(「力」)、
・寂しさに浜へ出て見れば波ばかりうねりくねれりあきらめられず(「二町谷」)
・夕されば涙こぼるる城ケ島人間ひとり居らざりにけり(「城ケ島」)
・舟とめてひそかにも出す闇の中深海底の響ききこゆる(「海光」)
・二方になりてわかるるあま小舟澪も二手にわかれけるかも(「澪の雨」)
・薔薇の木に薔薇の花咲くあなかしこなんの不思議もないけれどなも(「薔薇静観」)
・大きなる足が地面を踏みつけゆく力あふるる人間の足が(「地面と野菜」)

・さ緑のキャベツの玉葉いく層光る内より弾けたりけり(「地面と野菜」)
・遠丘の向うに光る秋の海そこにくつきり人鍬をうつ(「銀ながし」)
・油壷から諸磯見ればまんまろな赤い夕日がいま落つるとこ(「油壷晩景」)
・はるばると金柑の木にたどりつき巡礼草鞋をはきかへにけり(「金柑の木 その一 巡礼」)
・ここに来て梁塵秘抄を読むときは金色光のさす心地する(「金柑の木 その四 静坐抄」)
・燃えあがる落日の欅あちこちに天を焦がすこと苦しかりけれ(「田舎道」)
・馬頭観音立てるところに馬居りて下を見て居り冬の光に(「田舎道」)
・見桃寺の鶏長鳴けりはろばろそれにこたふるはいづこの鶏か(「雪後」)
・相模のや三浦三崎はありがたく一年あまりも吾が居しところ(「三崎遺抄」)

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北原白秋を継いで、戦後『コスモス』を創刊した宮柊二の歌碑「先生のうたひたまへる通り矢のはなのさざなみひかる雲母のごとく」が木漏れ日を浴びていた。

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福寺本堂前にて。

 城ケ島大橋をあとにして、県立公園に向かう折、三崎湾越しに「あの白い建物の奥に、大きな屋根が少し見えるでしょう、三浦洸一さんの実家のお寺さんなんです」のガイドの一言に、三浦ファン自認の夫が、ぜひ訪ねてみたい、とお願いしたのが最福寺だった。二基の風車が見えた宮川公園を素通りして、車一台が通れる細い道や坂を上がったり下ったりしてたどり着いた。今の住職さんは、洸一のお兄さんの息子、甥にあたるとのこと。93歳の三浦さんご自身は、東京で元気にされているとのことであった。

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 福寺から三崎湾を見下ろしたところにあるのが、三崎最大の商業施設「うらり」で、おみやげ品がそろうかもしれませんと、車を止めてくれた。やはり、朝から乗ったり歩いたりで、疲れてしまっていたので、その日の宿、油壷京急ホテル観潮荘の野天風呂にほっと一息ついたのだった。

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2021年11月 6日 (土)

葉山から城ケ島へ~香月泰男と北原白秋(2)

 葉山美術館で、ゆっくりできたが、道を挟んでの山口蓬春記念館は、3時半で閉館ということで、間に合いそうにもなく、明日の一番で出向くことにした。それではと、隣の葉山御用邸付属施設跡地のしおさい公園に回ることにした。

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葉山美術館の野外の彫刻などをめぐる散策路を進むと、車一台がようやく通れそうな、こんな小径に出た。このまま下ると海に出るのだろう。散策路の通用門の向かいは、土日限定開門のしおさい公園への小さな出入口となっていた。

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 御用邸の付属施設跡地だけを葉山町が譲り受けたものなのだろうか。公園入口までの石塀も長かったが、庭園も立派なもので、池あり、滝あり、黒松林あり、相模湾をのぞむ借景ありで、建物としては車寄せの部分が残され、中は海洋博物館になっていた。昭和天皇の”研究”の足跡まで展示されていた。今も使用されている葉山御用邸は、大正天皇が亡くなった場所なので、昭和天皇皇位継承の場でもあるということらしい。下の写真の「今上天皇」は昭和天皇である。池の緋鯉は、一幅の日本画のようでもあった。

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 10月27日、その日の宿は私学共済「相洋閣」であった。東京、名古屋、千葉と大学はかわったが、20年にわたる私大勤めではあった。部屋から夕焼けと翌日の富士山である。

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 10月28日、10時の開館を待っての入館だった。三ヶ岡緑地の斜面を利用した庭園と吉田八十八設計の蓬春旧居である。皇居宮殿の杉戸絵の完成に至るまでの取材や下絵、その過程がわかるような展示となっていた。写真は、別館のアトリエである。

 現在の葉山御用邸の内部は知る由もないが、1971年本邸は放火のため全焼、1981年に再建されている。下山川が敷地内を流れ、いま県立葉山公園になっているのかつては御用邸内の馬場であったというが、塀の長さは半端ではない。日本画の重鎮山口蓬春の記念館の世界といい、香月泰男の「シベリア・シリーズ」の世界との落差に思いをはせながら葉山を後にした。

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2021年11月 5日 (金)

葉山から城ケ島へ~香月泰男と北原白秋

 コロナに加えて腰痛と足の不調で、すっかり出不精になっていたのだが、10月27日、夫の言い出しっぺで、神奈川県立葉山美術館と城ケ島めぐりをすることになった。美術館のお目当ては「香月泰男展」であった。JR逗子駅を降りると思いがけず雨、バスを待たず、タクシーに乗車、しばらくすると、長いトンネルに入った。
 私は、二度ほど、美術館に来ているはずなのだが、たしか京急の新逗子駅からバスで、海岸線沿いに「日影茶屋」を通過して「三ヶ丘」へ向かった記憶がある。逗子駅でもらった観光地図には、その新逗子駅がない!逗子・葉山駅?ならある。後でわかったことだが、昨2020年、京急の開業120周年で、駅名変更になったとか。駅名はやたらに変えるものではないし、地名を二つ並べた駅名なんて紛らわしいし、センスもないではないか。

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 葉山美術館では、少し早めにレストランで昼食をとった。魚のコースのメインはクロダイのムニエルだったか。雨はすっかり上がっていた。まだ床が濡れているテラスから、眼下の波打ち際を撮ろうとするとシャッターが動かない。なんと充電が切れていたのだ。大失敗、私のカメラは使い物にならず、これからの画像は、すべて夫の撮影か、スキャンしたものとなる。

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まだ、レストランのテラスは濡れていたが

 美術館前では、イサム・ノグチの「こけし」が出迎えてくれる。これは、2016年、鎌倉館の閉館に伴い移設されたものであった。

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 香月泰男の「シベリア・シリーズ」は、『香月泰男』(別冊『太陽』2011年9月)で、おおよそは知っていたつもりだったが、実物を見るのは初めてだ。今回の展示は、生誕110年記念ということもあって「シベリア・シリーズ」全57点が見られるという。
 香月泰男(1911~74)の全画業をⅠ.1931~49、Ⅱ.1950~58、Ⅲ.1959~68、Ⅳ.1969~74に分けている。いわゆる「シベリア・シリーズ」は、シベリヤの収容所から復員後十年の沈黙破って描き続けた作品群である。 1943年1月入隊、満州国のハイラル市で野戦貨物廠営繕掛に配属①1945年6月吉林省鄭家屯に移動②、ソ連侵攻に伴い奉天へ③、朝鮮に南下中8月15日敗戦を知る。安東まで後退④、ふたたび奉天より⑤アムール川を渡りソ連に入ったが西に向かい、セーヤ収容所⑥、コムナール収容所⑦、チェルノゴスク第一収容所⑧を転々1947年4月帰国が決まり、ナホトカから⑨、引き揚げ船により舞鶴⑩に到着したのが1947年5月21日だった。

 

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 小さくてやや見づらいが、1943年1月入隊。後、ハイラル市に配属後、軍隊生活の様子を、下関の妻や子供たちに、600通余りの軍事郵便を送ったというが、到着したのは360通余りだった。家族を思い、ことのほか大切にしていたのがわかる。

 こうして、香月の入隊から復員までの動きを地図で追ってみると、極寒のシベリアの収容所で、森林伐採や収容所建設にという過酷な労働を強いられていたのは1945年11月から47年4月ごろまでと思うが、敗戦後のソ連兵監視のもとに長距離の移動がまた悲惨なものであったことが、彼の作品でわかってくる。
 シベリア・シリーズの特徴としては、黒一色で覆われたキャンバスから、人間一人一人の顔といっても、目鼻と口元だけを浮かび上がらせ、同時に、必死に何かをつかみ取ろうと掌の骨格だけが突き出されているといったイメージが強い。

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北へ西へ」(1959年)、敗戦後、ソ連兵によって行き先を知らされないまま、「北へ西へ」と列車で運ばれ、日本からは離れてゆくことだけはわかり、帰国の望みは絶たれたという。

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「1945」(1959年)、奉天から北上する列車内から、線路わきに放置されている幾多の屍体の光景を描いたという。1970

「朕」(1970年)、1945年2月11日紀元節の営庭は零下30度あまり、雪が結晶のまま落ちてくる中、兵隊たちは、凍傷をおそれて、足踏みをしながら天皇のことばが終わるのを待つ。朕のために、国家のために多くの人間の命が奪われてきた。中央の二つ四角形は、広げた詔書を意味しているのが、何枚かの下書きからわかる。

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「点呼」(1971年)、左右二枚からなる大作である(各73×117)。ソ連兵による最後の点呼であり、1947年5月17日、ダモイの文字が読め

 今回の展示で、「シベリア・シリーズ」以外では、藤島武治に師事した東京芸大の卒業制作の「二人座像」はじめ、好んで描いている水辺の少年たちの何点かにも着目した。

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「二人座像」(1936年)

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「水浴」(1949年)

 また、動物たちを描いたつぎのような作品にも惹かれるものがあった。

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「雨(牛)」(1947年)モンゴルの大草原、ホロンバイルの雨上がりのわずかな水たまりが見える。「シベリア・シリーズ」の第1作とも位置付けられている。

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絵葉書より。上「山羊」(1955年)、下「散歩」(1952年)

 なお、今回はわずかな展示ではあったが、1966年代後半から晩年にかけて、アメリカ、ヨーロッパなどへの旅行を重ね、いわば、黒から解放されたかのように、鮮やかな色彩の自在な作品を残していて、ほっとしたような思いに浸るのだった。

 

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2020年5月 1日 (金)

18年前の旅日記~スイスからウィーンへ(4)

20021123日~ウイーン、クリスマス市の初日に
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 アルプスの山並みを越え、やがてウイーンへ、ふたたび

 ウイーン空港からカールスプラッツまでの道順は、リピーターの余裕?で、リムジンバスと地下鉄一本を乗り継いでスムーズにこなせた。ジュネーブと同じブリストル・ホテルでも、その雰囲気はだいぶ違い、部屋は一段と狭い。ホテル前のケルントナー通りを隔てて、オペラ座、昨年の宿ザハ、そしてアストリアホテルと大きい建物が並ぶ。前回は行けなかったシェーンブルン宮殿へ行くことにしていた。何しろウイーンのガイドブックを家に忘れてきてしまったので、ホテルと航空会社からもらった地図しかない。
 地下鉄U4でシェーンブルン駅下車、人の流れにそって進むと、広場の前は大変な人出で、さまざまな露店が出ているではないか。正面には大きなクリスマス・ツリー、小さな舞台で演奏もやっている。これがクリスマス市なのか。なんと土曜の今日が初日だったのである。クリスマスまでちょうど一か月、食品、洋品、おもちゃ、飾り物など、何でも揃いそうである。ところどころに立っている丸い小さなテーブルを囲んで、カップルや家族連れが立ち飲み、立ち食いもしているのだ。さまざまな着ぐるみ、竹馬に乗った足長ピエロの行列や風船配りとぶつかりそうになる。子供たちがほんとうにうれしそう。また大人たちが、実においしそうにマグカップで飲んでいるホットドリンク、夫は気になってしかたないらしく、手に入れてきた。プンシュというものらしく、ジュースとワインを混ぜたようなソフトドリンクらしい。飲み干したカップを返すとお釣りが戻るという。夫は、最初の一口を飲むなりむせてしまい、咳き込むばかり。私も、一口恐る恐る飲んでみたが、相当に強いアルコールで、それ以上は飲めなかった。しばらくチビチビ飲んでいた夫も、観念したのか、さりげなく広場の側溝に流し込んでいた。

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上2枚:シェーブルン宮殿前のクリスマス市、下:翌日の市庁舎前のクリスマス市

 そんなことをしていて、宮殿に入場するのがだいぶ遅くなってしまった。日本語のオーデイオ・ガイドに飛びついて、宮殿の各室を回る。急いで通り過ぎたい部屋もあるが、どうも加減ができないらしい。それにしても、ハプスブルグ家の歴史を聞かされると、その華やかさの割には誰もが幸せとはいえない生涯を送ったのではないか、とそんな庶民の思いはつのるばかりだ。外へ出た頃は、すっかり日は暮れて庭園はすでに闇の中だった。シェーンブルンの庭園には今回も縁がなかったことになる。夜7時半からは楽友協会のコンサートなので、その前に食事もしておかなければならない。それならばと、ケルントナー通りの「ノルトゼー」にむかう。「北海」「北洋」とでも訳すのか、魚料理を食べさせる大衆的なチェーン店である。ケースの中の料理が選べるのが何より便利で、安い。
  ホテルからも近い楽友協会は、ウイーンフィルのニューイヤーコンサートの会場としても知られるが、入るのははじめてだ。ブラームスのドイツレクイエム、ミュンヘンの交響楽団の演奏と重厚な合唱に魅せられた一時間半、聴衆の大部分が地元のシニアだったのもなんとなく落ち着ける雰囲気だ。が、ホテルに着いても入浴する元気がない。一日中の移動を思えば無理もない。疲れがどっと出たのかもしれない。

 20021124日~ハイリゲンシュタットのホイリゲで
 今日は、まず前回見落としていたウイーン美術史美術館のブリューゲルを見る予定だ。歩いてもたいした距離ではないが、開館には間がある。昨日買った一日乗車券で、旧市街を囲むリンク通りをトラムで回ることにした。前回の旅で、この辺で迷ったね、初めて昼食をとったのがこの路地のカフェだった、と懐かしくも、あっという間の一回りだった。まず、議事堂にも敬意を表して下車したところ、震えるほど寒い。広い階段を上がったところで、一人の日本人男性と遭い、寒くないですか、とセーター姿の夫は同情されていた。階段の下では、なにやら、テレビカメラがまわり、議事堂を見上げるようなアングルで、記者が実況放送のようなことをやっている。これは、後でわかったことなのだが、11月24日はオーストリーの総選挙で、極右との連立政権の成り行きが注目を浴びていたらしいのだ。街中にポスターがあるわけでもなく、気づかず、そんな雰囲気がまるで感じられなかった。議事堂に続く広場には、昨日のシェーンブルン広場の規模を上回るクリスマス市が立っている。地図でみれば市役所である。結構出入りのある市民ホールの重いドアを開けてみると、そこは、子供たちがいっぱい。子供たちのためのワークショップ、仕切られた部屋でハンドクラフトの講習会がひらかれていたのである。学童期前の幼い子供たちがエプロンをして、クッキーを焼いたり、クリスマスカードやローソクを作ったり、土を捏ねたりしているのだ。廊下では、中に入れない親たちが見守っているという、ほほえましい光景を目の当りにすることができた。こんなふうにして、ウイーンの市民たちはクリスマスを迎える準備に取り掛かるのだ、と感慨深いものがあった。自分たちの住む千葉県の新興住宅地で、庭木の電飾だけが妙に狂おしく、競うように点滅している歳末風景にうんざりしていただけに、あたたかいものが感じられるのであった。

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上2枚:市庁舎前クリスマス市の催しものなのか、ホール内では、子ども向けのワークショップたけなわ。下:議事堂前では、総選挙当日のテレビ中継番組の収録中で、そのスタッフたちがいずれもしっかりと防寒の重装備のなか・・・

  名残惜しいような感じで、クリスマス市をあとにして、新しくできたミューゼアム・クオーターの一画、レオポルド美術館にも寄ることにした。ここはエゴン・シーレのコレクションとクリムト、ココシュカなどの作品で知られる。そういえば、クリムトの風景画だけを集めた展覧会が、ベルベデーレ宮殿の美術館で開催中らしいのだ。いまは時間がない。レオポルドに並ぶ現代美術館は、巨大な黒いボックスのような建物で、中に入ると、まだ工事中のようなリフトがあって、入場者もまばら、閉まっているフロアも多い。入場料がもったいなかったと嘆きつつ、美術史美術館へと急ぎ、中のレストランで遅い昼食をとる。目当てのピーテル・ブリューゲルの部屋、二階Ⅹ室へ直行する。ここのブリューゲルは、私が旅の直前に出かけた東京芸大の展覧会でもみかけなかったし、1984年日本で開催した「ウイーン美術史美術館展」でも、門外不出ということで一点も来なかったそうだ(芸術新潮 1984年10月)。所蔵点数一二点、世界で一番多いという。「バベルの塔」をはじめ、「雪中の狩人」、「子供の遊び」、「農民の婚宴」などはじめて見るというのになつかしい、という思いがぴったりなのだ。農民や兵士の日常生活がその背景とともに丹念に、克明に描かれ、その一人一人の表情が実にいきいきしているからだろうか。宗教や歴史に取材していても決して叙事的ではないのだ。せっかくの機会なので、周辺の部屋にはヨルダンス、ファン・ダイクがあり、そしてここでも大量の作品を残すルーベンス、前回見ているはずなのに記憶はすでに薄い。

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レオポルド美術館のリーフレットより、クリムトとエゴンシーレ

  少し欲張って、夕飯は郊外のホイリゲでとることにした。ホイリゲといえば、前回は、グリンツインからバスに乗り換えてカーレンベルクまで行ったが、今回は、ホテルで勧められたハイリゲンシュタットのMayerという店を目指す。地下鉄のハイリゲンシュタットからバスで二、三駅と教えられ、降りたところは静かな住宅街だが、まず国旗を掲げた、ベートーベンが遺書を書いたという家に行き当たる。木戸を押すと、小さな中庭、入り口の二階のドアは閉まっているが、脇のドアをノックすると、年配の女性が受付をしてくれる。オリジナルな資料は少ないが、しばらくベートーベンの世界に浸る。ここハイリゲンシュタットでの足跡が分かるようになっていた。すぐ隣りの新しい建物は、シニア専用のマンションらしかった。少し戻ると、分かりにくいが木戸の脇にMayerの文字が読める。そーっと開けてみると、意外に広い庭をめぐる古い建物。いくつもの入り口をのぞいていると、ドアを大きく開いて迎えてくれた。もうこの季節では、中庭にテーブルを出すこともないのだろう。薄暗い中には、すでに何組かのお客さんがつめていた。まずは白ワインを注文すると料理は向かいの建物で買ってきてください、ということだった。ワインは溢れんばかりの小ジョッキで運ばれてきた。中庭を抜けた調理場近くのケースの中にはさまざまな料理が山と積まれている。好きなものを選べるのがありがたい。どれも期待を裏切るものではなかったが、ただ一つ、チーズをスライスした茸で巻いたようなものだけは、残してしまった。お客さんは増えるが、席を立つものがいない。これ以上ワインをのめる体力もなくMayerをあとにした。あたりはすでに暮れかけていたが、Mayerの隣りには聖ヤコブ教会が建っていたのに気づく。 
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ホイリゲ、Mayerの入り口の上に飾られているのは、松の枝の飾りで、新酒の解禁日に掲げられるそうだ。この辺りは11月の第3週という

  帰路、もらったパンフをよく読むと、Mayer家がこの地に葡萄園を開いたのは一七世紀後半、1817年、ベートーベンはこのホイリゲに滞在して「第九」を作曲した、とある。ホイリゲの横を北に進むといわゆるベートーベンの散歩道に出るらしい。いつの日かの再訪を期してホテルに戻れば、今日もまた、ベッドになだれ込む疲れようだった。荷造りは、明日にまわして、おやすみなさい。(了)

 

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18年前の旅日記~スイスからウイーンへ(3)

20021122日~世界遺産の街、ベルンへ
 あと一日となったジュネーブ、お天気が定かでないので、丸一日かかるモンブラン観光
よりベルンまでの遠出を勧められていた。夫は市内観光をほとんどしてないわけだが、レマン湖畔、鉄道の旅もよいのではということで、スイス国鉄SSBのIC(インターシティ)一等車に乗る。車窓に雨滴が流れるほどの雨であったが、少しずつ明るくなって、湖面越し見える、雪渓をいただいたやまなみが目に沁みる。 鉄路が何本となく広がり、ローザンヌ駅に近づく。列車は湖面よりだいぶ高いところを走る。湖面までの斜面に広がるローザンヌの町、列車がカーブを切る度に、湖岸線や街の展望ががらりと変わる。思わず席をたって車窓からの眺めに釘づけになる。ローザンヌからはモントルーに向かう線とは分かれ、列車はレマン湖を離れ、北上する。雪渓の山々が迫ってくるようだ。

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 ベルンの旧市街は、アーレ川の蛇行に囲まれている

   ジュネーブから1時間45分、ベルンはスイスの首都ながら、人口13万、4番目の都市で、街全体が世界遺産に登録されているそうだ。地図を見れば、旧市街は、大きく蛇行したアーレ川に三方囲まれている。駅にも近い、官庁街、裁判所、郵便局、警察署と並んでいるベルン美術館にまず入る。ベルン近郊で生まれたパウル・クレーのコレクションが有名だが、常設だけでもかなりの部屋数である。彼の抽象にいたる過程が興味深かった。ピカソ、ブラック、カンジンスキーら同時代のキュービスムとも若干異なるその「やさしさ」が私には魅力的だったのだ。ジュネーブでその名を知ったベルン生まれのホドラーの作品も多い。印象派の作品も少数ながら捨てがたく、入館者も稀で、のんびりした時間に身を置いていると、異国にいることを忘れてしまうほどだ。

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車窓からのアルプスの山並み、そのままに、ジュネーブからの乗車券にはアルプスの絵が描かれていた。左、旧市街の時計塔が見える

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雨上がりのベルン市立美術館正面とパウルクレーコレクションから

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パウルクレー、1932年の作品、私が訪ねた2002年当時のベルン市立美術館の案内パンフの表紙になっていた。2005年、ベルン郊外にパウルクレーセンターが開館、クレーコレクションは、そちらに移された。立派な斬新な建物らしいが、クレーファンにとって、その展示には不満があるらしい

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ベルン生まれのホドラー(1853~1918)の作品も多い。「オイリュトミー」(1895年)、彼の表現の特徴でもある「パラレリズム(平行主義)による作品で、こうした構図の作品は多く、一昨年2018年ミュンヘンのノイエビテナコークで見た「生に疲れる人々」(1892年)を思い出した

  メインストリートには、いろいろな由来のある像をあしらった噴水が立ち、牢獄塔を正面に右手に入ると連邦議会議事堂が長々と続く。裏手に回るとアーレ川が川幅を広くしてゆったりと流れる。雨上がりの寒さもさることながら、また昼食が心配な時間となる。お目当ての「コルンハウスケラー」は、地下の穀物倉庫をレストランに改造したというが、階段を下りて開けたドアの先の、その広さに驚く。最初は穴倉に入った感じだったが、かまぼこ型の天井には、みごとな絵が淡い灯りに映し出されている。中央の長いテーブルも、夜には賑わうのかもしれないが、今は壁際のテーブルに何組かが散らばっている程度だ。周辺の雰囲気はワインだが、ビールにとどめ、ビュッフェ式の料理とベルンの家庭料理といわれている、ベルナー・プラッテ(野菜とソーセージ、ベーコンを煮込んだポトフ風の料理)を頼んでみる。テーブルの鍋に火をつけてくれる、この煮込み料理は、冷え切った体には最適だった。ジャガイモもソーセージもよかったが、たっぷりと盛られた干しインゲンも残さずいただく。街では、小物や民芸品、チョコレートやケーキがいっぱいのショウ・ウインドウに目移りがし、もう少しゆっくりできたらな、という思いが募る。
  そんな商店街の真中に、アインシュタインが下宿していた家があったりする。 アインシュタインといえば、物理学者で歌人の石原純が、日本への紹介者として有名である。その石原純は、留学中、1913年、チューリヒ工科大学でアインシュタインの指導を受け、「名に慕へる相対論の創始者に、/われいま見(まみ)ゆる。/こころうれしみ。」(『靉日』1922年)と詠んでいる。
  歩道からいちだんと低い、半地下のようなところから、車道に向かって斜めに入り口が開いている、こんなお店が続くのも珍しい。老舗という「チレン」では、チョコレートの詰め合わせと自家用にも小袋をいくつか買ってみる。

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  すぐにたどりつけると思った駅にぶつからず、予定の列車の発車時刻も近い。通行人から教えてもらい、歩道から直接ホームに通じる階段を二人は夢中で駆け下りた。そんな風に駆け込み乗車をしたものの、十数分走ったところで、列車は止まってしまったのだ。時折、車内放送が流れるのだが、まずドイツ語で、つぎにフランス語でというわけで、さっぱり分からない。ジュネーブ空港行き列車だというのに、周辺の乗客はみな慌てず、本を読んだり、パソコンに向かったりしている。三〇分ほどしてようやく動き出して、最初に停車したのがフリブールという駅だった。日没近くになって空は晴れ、車窓からの雪渓やローザンヌの展望も行きにもましてすばらしいものとなった。
  そして、今晩の食事は、駐在員の二人のお勧めでもあった、もう一軒の和食の店にゆく。コルナバン駅のすぐ近く、小料理やふうの店で、ご夫婦でのもてなしに心も和んだジュネーブ最後の夜となった。

  突然ながら、1924 年、斎藤茂吉はパリからヨーロッパの旅に出て、スイスのベルンにも立ち寄っている。齊藤茂吉「ベルン、九月廿八日」(『遍歴』)においてつぎのように詠んでいた。

・ベルンなる小公園にあららぎの実を啄みに来ることりあり(一九二四)

・この町に一夜やどりてHodler(ホドラー)とSegantini(セガンチニー)をこもごも見たり

 

20021123日~ジュネーブ空港で呼び出し放送をされて
 朝は、ジュネーブのホテル前のローヌ川を渡ってすぐのデパート、8時には開店というグローブスに向かう。夫は、きのう目星をつけておいたスイスワインの別送を頼むと、三、四週間はかかりますよ、とのことであった。戻ったモンブラン通りではクリスマス・ツリーなどを積んだトラックが幾台も入り、大掛かりな飾り付けが始まっていた。ウイーン行きの便は10時55分発、空港には少し早めに着いた。免税店で、いま愛用しているスイス製の水溶性クレヨン10色がだいぶ減って来たので、15色を見つけて買えたのが何よりのお土産になりそうだ。丸善ではだいぶ高いはずだ。さらに民芸品などを見ていると、夫は、いま呼ばれなかったか、という。呼び出し放送で、自分の名前が呼ばれたというのである。時計を見れば、離陸まで17、8分しかない。慌ててゲイトへと急ぐが、この通路が長い。動く歩道を走るようにして、駆け込みで搭乗すると、離陸の5分前で、冷たい視線を向けられたような気がした。席を探すにも、天井に頭を何回かぶつける小型機だし、ステュワーデスの制服も、あの真紅のオーストリア航空のものではない。一瞬間違ったかと思ったが、オーストリア航空グループのチロリアン航空だったのだ。大型機が安心というわけではないが、七〇人乗りぐらいだろうか。しばらくレマン湖上空を飛んでいたが、山岳地帯に入ると、その壮大な雪景色は初めて経験するものだった。画面での高度表示もないのだが、かなり低いのではないか。山間の集落、白い川の流れ、点在する小さな湖、どこまでも続く雪の山脈。ウイーンまでの一時間余、飽きることがなかった。 

  • あまそそるアルプスの峰に入り日さし白雲のくづれおもむろにくだる(一九二三)                       大塚金之助『アララギ』一九二三年三月

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最近は、あまりスケッチもしなくなってしまったが、それでも、よく使う緑や黒、茶色は短くなっているし、折れている色もある

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2020年4月30日 (木)

18年前の旅日記~スイスからウィーンへ(1)

 もう整理のつかないCDの山から、乱雑なメモを頼りに昔の原稿を探していたところ、思いがけず、かつて、短歌の同人誌に載せてもらっていた旅行記をみつけた(『風景』106・107号 2004年9月・11月)。拙ブログを始める前のことである。私にとっては、まだ、海外旅行を始めてまもないころの文章であり、なにぶんにも冗長で、ひとり昂ぶっている感、満載なのだが、ともかく、このブログにも記録として残しておきたい衝動にかられた。ところが写真のCDが見つからないので、アルバムからスキャンしたものであるが、これはというものを撮ってないこともわかった。拙文とともにお目障りを承知しながら。

20021119日~レマン湖畔のホテルへ
 今回の旅は、あまりにも唐突であった。ベルギー・フランスの旅から帰って、3週間も経っていないある日、夫は、「ジュネーブの国際会議に参加するけど、一緒に行かないか」という。私は、前回の海外旅行の疲れがようやく抜けたばかりだったし、犬二匹の世話もある。留守番を決め込んでいたが、会議の後はウイーンに回ってもいい、との一言に決心したのだった。昨秋訪れたウイーンには機会があれば、もう一度訪ねたいと思っていたからだ。
 出発まであと3週間しかない。夫は総務省関係の仕事や原稿の締め切りを控え、私は自治会関係の厄介な問題を抱えていたし、自分の仕事もあった。夫はともかくホテルと飛行機をおさえ、ウイーンのコンサートを予約したという。私も、図書館や書店を回って本を探したり、東京芸大の美術館で開催中だった「ウイーン美術史美術館展」へも出かけたりした。

 結局、成田を発つ前の晩は、夫も私も3時間ぐらいしか眠っていなかったので、機内では、私は眠り込んでしまったが、夫は英語での報告ということもあって、その準備で、眠れなかったらしい。ジュネーブへの直行便がないので、フランクフルトの空港で1時間余過ごしたが、あまりにも閑散としているので気味が悪いくらいだった。夕刻の4時半というのに、あたりは真っ暗。月が出ているので、天気が悪いというわけではないらしい。ジュネーブまでもう一時間、空港からは、もう夜だし、ホテルまでタクシーにしようと決めていたが、国際会議担当の駐在員の二人が迎えに来てくれていた。お二人ともジュネーブ着任1年半、三十歳過ぎたばかりの国家公務員である。外交特権があるので空港内まで入れるのだそうだ。疲れている私たちにはありがたいことだった。ベンツに乗って夜のジュネーブの街へと走る。7時過ぎにホテルに着いたが、夫は、出迎えの二人と明日からの会議の打合せでロビーへと降りてゆく。ブリストル・ホテルはレマン湖畔に建っているはずだが、窓の下は、木立やベンチが街灯に映し出されている、静かな中庭、いやモンブラン広場だった。一人になると、慌てて家を出たとき、冷ましておいた犬のえさのタッパーを冷蔵庫にしまい忘れたことを思い出す。週末に帰省する娘の手間を省こうとしたのに、また文句のひとつも言われそうだ。
 打ち合せが済んだ夫とモンブラン通りからシャントブレ通りに入った和食の店を目指す。初日から和食とはだらしない話、五組ほどの客で賑わってはいるものの、古普請だからか階段や床が改装中みたいに埃っぽくも思え、早くひと風呂浴びたいの一心でホテルに戻る。

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ホテルの部屋から中庭にもなっているモンブラン広場、紅葉が見事だった

 

20021120日~美術歴史博物館の開館を待ちながら
 9時半から会議のある夫なので、早めに朝食をと思って、早起きをしたつもりだったが、7時を過ぎている。でも、窓の外は暗く、白みかけたのは、私たちが朝食のため部屋を出た8時近くだった。食後、向かいのモンブラン橋を渡って、イギリス公園まで出かけてみる。帰りはローヌ川の中ノ島になっているルソー島に寄って戻るという寒い朝の散歩であった。国連ヨーロッパ本部近くの会場に向かう夫を見送り、さあ、私一人の自由時間、昨日の駐在員の二人には市内の観光バスはいかがですかと勧められたが、それは午後から一便しかない。ジュネーブの観光シーズンは、10月でほとんどが終る。レマン湖めぐりの観光船も、あの有名なジェット噴水も夏だけの風物らしい。通年では、丸一日かかるモンブラン観光が唯一らしい。私は再び橋を渡り、イギリス公園の花時計の前を過ぎ、まずは旧市街へと急ぐ。たいした距離はなく、10時開館という美術歴史博物館には九時半に着いてしまう。  

 高台にある博物館だが、前の公園(オブセルバトワール公園)からリブ広場、レマン湖への道が一望できる。スケッチの一枚でも描いて置こうとベンチにすわる。じっとしているとかなり寒い。公園では、犬を遊ばせる人たちが集まってきた。なんと犬の糞を始末する小さいビニール袋が自由に引き出せる箱が設置されている。その下には専用のゴミ箱が置いてある。犬専用のゴミ箱はロンドンの公園でも見かけたことがあったが、袋まで用意してあるとは。公園の周囲は立体交差となっていて、すぐ左手には、紅い蔦が絡まるカレッジがあり、裁判所がある。荒いスケッチが出来上がり、体もかなり冷え切った頃、博物館はようやく開いた。入場してすぐ左手の古武器室では、講座が開かれているらしく、すでに20人近くの市民が話を聞いていた。二階に上がって、いきなり、モネ、シスレー、セザンヌ、ピサロ、クールベ、ルノアールなどが並ぶ一室がある。絵についてのキャプションは何一つない。ただ、壁に絵が並べてあるだけなのだ。画風でだいたいの見当はつくものの、絵の中のサインや額縁の記述を読んで確かめるしかない。入館は無料だし、実にラフな展示に驚きもしたが、これが本来の美術鑑賞なのかもしれないと妙に納得してしまう。どの部屋でも入館者に出会うのは稀で、実にゆったりと絵に向き合えるのがありがたかった。 

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ジュネーブ美術歴史博物館の案内のリーフレットがなかなかおしゃれであった

 12、3点はあろうかと思われるコロー・コレクションの部屋では、ここも講習会の準備なのだろうか、コローの一点をイーゼルに立てかけ、囲むように椅子が並べられてゆく。職員の出入りが多いなか、つぎの部屋へと急ぐ。ジュネーブゆかりの画家、フェルディナント・ホドラーのユングフラウを描いた作品、何枚かの青衣女性立像などが印象に残る。そういえば市内にはホドラーのフルネームが付けられた通りがあったはずだ。*注

 すでに12時近いが、近くのプチ・パレ美術館にまわってみたところ、ドアは閉まっていたので、ジュネーブ大学まで足をのばす。ルソー記念館があるはずなのだが、ここも昼休みなのだろうか。大学前の公園(バスティヨン公園)には壮大な100メートルにも及ぶ宗教改革記念碑が広がる。世界史では「カルヴィン派」と習ったが、「カルバン」生誕四〇〇年記念のこの碑の前のベンチで、私は、昨日のフランクフルトからの機内では食べられなかったサンドイッチとミネラル・ウォターという、みすぼらしい昼食となった。記念碑の裏側の広い道(クロワ・ルージュ通り)の後方が旧市街地のはずである。公園の端に、数面ある路上チェスでは、まさに多国籍の人たちがせわしく大きなコマを動かしている。

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上が「宗教改革記念碑」、下が広場のチェスに興じる人たちである

 トレイユ通りという坂を上がりきると、そこは見晴しのいい公園になっていて、世界一長いという木製のベンチがひたすら続く。石畳の路地に入ると、すぐに旧武器庫に突き当たり、その向かいが市役所である。ルソーの生家があるという通りを歩いてみるが、見つからなかった。そのうち、サン・ピエール寺院にぶつかるが、どこが入り口かわからないまま、一段と低い公園に紛れ込み、そのまま回り続けると、狭い広場に出る。メリーゴーランドがしつらえられ、テントの土産ものやが2、3軒並んでいる。人影はまばらで、なんとなくうらぶれた風情を横目に通り過ぎて、にぎやかなリブ通りに出たが、少し戻ったところのカフェで一休み。街は、すでにクリスマス気分で、ローヌ通りのブランド店のショーウィンドウもその飾り付けにさまざまな工夫が凝らされ、見て回るのは楽しい。しかし、見知らぬ街の一人歩きに疲れたのだろうか。早いがひとまずホテル戻ってみる。

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左が、サン・ピエール大聖堂。右、博物館の正面から大聖堂の尖塔が見える

  夫が帰るまでは、まだだいぶ時間がある。少し元気を取り戻して、再び街に出る。最寄りの鉄道ターミナル、コルナバンまでたいした距離ではないはずだ。ホテルの近くにはイギリス教会の石壁が柵も何もないまま、道行く人々の影を映している。その後ろが、バスターミナルになっている。モンブラン通りを進んでみる。この地の土産といえば、チョコレート、チーズ、時計、ナイフ、オルゴール、刺繍製品などらしい。急いで歩いたら5、6分の駅界隈は、さすがに人出も多い。雑多なビルが並ぶ駅前にはノートルダム教会がひっそりと建っている。
 夕食は、民族音楽の生演奏もあるという「エーデルワイス」というホテル内の店に決めていた。湖岸通りから入るのだが、一歩路地に入ると人通りがなく、二人連れでもなんとなく物騒な雰囲気が気になった。駐在員の一人Tさんが「ジュネーブの物価は高いが、治安はいい」と言っていたので、地図を頼りに進む。あちこちで工事現場に突き当たってしまって実にわかりにくかったが、ようやくたどり着いた店では、若くはない二人のミュージシャンが山岳地帯の民族楽器を使っての歌や演奏が始まっていた。夫は、明日の会議が控えていることもあり、ビールだけにとどめ、ワインは、明日の夜までお預けとする。明日の夕食は、Tさんたち二人と会食することにもなっていたからだ。

*注 すでに記憶が薄れていいるが、つぎのような作品だったろうと思う。

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上「無限のまなざし」1913~15年、下「恍惚とした女」1911年

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「白鳥のいるレマン湖からみたモンブラン」1918年、最晩年の作で、ガイドブックの表紙にもなっていた

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2020年4月29日 (水)

18年前の旅日記~スイスからウィーンへ(2)

20021121日~ナシオンから歩けば迷子になって
 夫が参加している会議の会場は、国連ヨーロッパ本部の近くでもあるので、朝は車に同乗し、報告をする夫には「がんばってね」とITUビルの前で別れる。国連の周囲は、何重もの移動用の鉄柵で囲まれているのが目立つ。正門からのぞくと、びっしりと加盟国国旗のポールが並ぶ。夫は昨日の昼休みに、中まで案内してもらったそうだ。観光客用の一時間ツアーもあるらしいが、先を急ぐことにする。振り返ると前の広場の巨大な椅子が目を引く。よく見ると、四本足の一本が途中で折られたというか、壊れたというか、そんな異様な姿で立っている椅子である。これは後からの話だが、あの椅子は戦争によって負傷した者を象徴しているといい、平和へのメッセージが込められているそうだ。が、それだけの説得力があるかどうかは、現在の国連のあり方にもかかっていよう。国連の建物はパレ・デ・ナシオンと呼ばれ、広いアリアナ公園に接している。

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正面が国際連合ヨーロッパ本部(パレ・デ・ナシオン)、加盟国の旗が林立する

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あまりうまく撮れていないが、中央の車の上に見えるのが、一本足を失った巨大な「壊れたイス」

  アリアナ公園に入ると、人影はほとんどなく、黄葉を樹下一面に敷き詰めている大木がまず目に入る。珍しく赤く紅葉している巨樹にも出会う。その木の間に現れたのが、ドームを持ち、外壁に朱鷺色のレリーフをめぐらしている瀟洒な建物、アリアナ美術館である。開館一〇時までには時間がある。ここにはベンチもないが、スケッチをはじめる。時折、目前の柳の枝は揺れ、昨夜の雨滴を振り落とし、今朝の冷え込みが一段と身に沁みる。がまんも限界かと思われた頃、開館と同時に入館する。見上げた吹き抜けの天井の豪華さと回廊に目を見張る。ドイツのマイセン、フランスのセーブルくらいは分かるのだが、中国、朝鮮をはじめ日本の伊万里、柿右衛門、スイスのニヨンなど世界各地の陶磁器が時代順に展示されている。知識のない者でも、その量と種類の多さに圧倒されるのだった。

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アリアナ美術館のうち・そと

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こんなものも出てきたので。アリアナ美術館の開館を待っている間、寒い中でのスケッチ?小学生並みのといっては、小学生に叱られるかも・・・

 せっかくジュネーブを訪ねたのだから、赤十字社にも敬意を表しておきたい。アリアナ公園の向かいとなる赤十字博物館では、日本語のオーディオ・ガイドを借りる。新しい展示技術を駆使し、音と光、映像による演出は、若者向けなのかもしれない。1863年、アンリ・デュナンにはじまる赤十字の活動が曲線をなす壁に、長い年表として現れる。そして、私がもっとも貴重なものに思えたのは、展示場の中央、天井にまで届く棚が続き、ぎっしり収納されている、第一次世界大戦時、三八の交戦国の捕虜収容所に拘束されていた200万人の700万枚に及ぶ調査カードのファイルである。どこの国の高校生たちか、ここで何を学んで帰って行くのだろう。クロークに山盛りになったダウンジャケットやコートは彼らのものにちがいない。

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 国際赤十字社博物館の案内リーフレットから

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国際赤十字博物館の全景

 コルナバン駅までだったら歩いて一五分はかからないはずだ。国連を背に、大通りを歩き始めたが、歩いても、歩いても、駅らしきものが見えない。30分も経つと不安になった。ビルばかりで人の気配がない街、地図を頼りに方向を変えて歩き出してみるが、今度は大きなマンションが続く住宅街に入ってしまう。歩いている人に、中学生程度の英語でコルナバン駅を聞くのだが、なかなか通じない。英語は話せないと断わるひと、ただ首をふるひと、肩をすぼめて腕を広げるひと・・・。そして出遭った、買い物帰りの年配の女性、歩いて行くなら途中まで一緒に、と言ってくれる。中国から来たのか、いつ来たのか、色々尋ねられ、話しかけられるのだが、残念なことに私にはほとんどが聞き取れない。にぎやかな商店街に出て、この道をどこまでも下っていくと、線路に突き当たるから、左に曲がれ、と。何度もお礼を言って別れた後は、びっしょりかいた汗が急に冷たくなる。10分以上歩いて、高架の線路が見えたときのうれしさといったらなかった。15分で着くところを1時間半は歩いていたことになる。

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ビルのてっぺんに、「OMPI」「WIP O」の文字が見えるが、上がフランス語、下が英語で、「世界知的所有権機構」を示す。このあたりで、駅に向かう道を間違えたらしい

 午後からは、ジュネーブ市内の南、カルージュに行きたいと思っていたのだが、コルナバン駅前から出る市バス13番の自動販売機の前で切符の買い方が分からず、まごまごしていて、バスを逃してしまう情けなさ。カルージュは時計職人をはじめ、工芸品、民芸品を作って売る店も多い町ということだったが、残念。午前中の迷子ですっかり自信を失った私は、計画を変えて、より確かな鉄道で、レマン湖沿いの隣町二ヨンへ行くことにする。二ヨンは特急IR(インターレギオ)で16分、アリアナ美術館にも収蔵されていた二ヨン焼きで有名らしい。ジュネーブで働く人々のベットタウンにもなっているという。案内書によれば二ヨン城は2005年まで工事中とのことだった。二ヨン駅も工事中で、間違って山側へ少し歩いてしまったが、静かな住宅街のあちこちでマンション建設が進んでいた。ガードをくぐってレマン湖へくだる街は、古いながら季節はずれの避暑地といったたたずまいである。昼下がりのこともあって、駅周辺は下校の高校生がたむろしている。小さなデパートも、スーパーもある。土産ものやも並ぶが、ドアを開けてみるには勇気が要りそうな雰囲気である。ひっそりと陶器を扱う店もあったが、右手に工事中の二ヨン城を見れば、すぐにアルプス湖岸通りに行き着く近さだ。湖を背に城を見上げると左手の高台には、ローマ時代の遺跡、神殿の柱塔が見える。石段を振り返り、振り返り登って行くと、また市庁舎前の広場に出る。回るといっても、駅を降りてからわずか一時間余りの滞在時間だった。帰りの列車の車窓には、すでに収穫を終えた葡萄畑が湖岸へと斜面いっぱいに広がっている光景が続いていた。
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ニヨンの街からニヨン城をのぞむ、四景

 夜にはとうとう冷たい雨が降りだしたが、会議を終えた夫とTさんたち二人との食事が予定されていた。スイス料理を食べさせてくれる店ということで、着いた先は、おととい私が一人で歩いた旧市街、その中心ともいえる市役所近くのレストラン「レ・ザミュール」である。二人の話だとジュネーブでもっとも古く、クリントン大統領も寄った店とのことだ。注文は、ほとんど二人にお任せで、ボトルの白ワイン、ムール貝の蒸しもの、ハーブ入りチーズ・フォンデユー。ビールはフォンデユーには合わず、おなかをこわす人がいるとのこと、つめたい水も飲まない方がいいですよ、とのことで、ワインをいつになく杯を重ねる。フォンデューは、パンをちぎって、チーズをつけるという単純なものだった。レマン湖でとれたわかさぎのような小魚の皿もあった。デザートは、今夜のお勧めというアイスクリームの上にカラメルソースをかけて焦がしたという、熱くてやがて冷たいという珍しいものだった。昼の会議の話も続いていたが、お子さんの話にも熱が入る。少し先輩の方のTさんは、娘さんは地元小学校の二年生だが、土曜日には日本の補習学校に通っているという。国際的な学校社会のなかで日本を代表しているという自負を身につけさせたいと語る。若い方のTさんの娘さんは一歳半、夫人が画家で託児所に預けているが、言葉が少し遅れていると心配していた。日本語とフランス語の混乱もあるけれど、不安は無用と医師にいわれているそうだ。バイリンガルな子供が育っていくのだろう。羨ましい話だ。私がニヨンまで出かけた話から、いまジュネーブ駐在員の奥さんたちの間で、ニヨン焼き教室が人気だという話になった。それというのも、継承する者が少ないニヨン焼き復活を目指す地元から日本人の器用さが期待されているのだそうだ。そろそろワインがまわってきた。夫とTさんとだいぶ押し問答をしていたが、当然のことながらお礼ということで夫が支払うことになった。雨はまだやまない。ライトアップされたサン・ピエトロ寺院の尖塔を見上げながら、旧市街を駐車場まで歩く。ジュネーブの雨は土砂降りが少なく、傘をさして歩くことは稀だともいう。車での移動が多いのだろう。それにしても、飲酒運転には寛大な国なのかな、と小さな疑問が頭をかすめるが、ホテルまで送っていただいたのはありがたい限りであった

 

 

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2020年4月 5日 (日)

もう一度見たかったハマスホイ~都美術館の展覧会は中止になった

 もう十年以上も前に、当時はハンマースホイと表記されていたと思うが、国立西洋美術館での展覧会(「ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情」2008年9月30日~12月7日)は見逃しながらも、デンマークの、この画家の室内画に、どこか心惹かれるものがあった。そして、たまたま、2009年8月、連れ合いとの海外旅行が北欧になり、一泊ながらデンマークに寄ることができた。コペンハーゲンでは、さっそく国立美術館に出かけて、大急ぎで、見て回った。

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デンマーク国立美術館 2009年8月26日

 

当時のスナップには、こんな絵が残されていた。

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右手の中央が「古いストーブのある室内」(1888)

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央が「自画像」(1911)、右が「ティーカップを持つ画家の妻」(1907)

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この裸婦の絵の前で映してもらった写真もあるのだが

 新型ウイルス感染予防のため会期の途中で中止となった「ハマスホイとデンマーク絵画」では、どんな作品が見られたのだろう。展覧会の公式ホームページの出品目録によれば、40点ほどの作品のうち、デンマーク国立美術館所蔵は10点ほどだろうか。すでに記憶が薄れてしまっただけに、あらためて見てみたかった

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「ピアノを弾く妻イーダのいる室内(1910)、国立西洋美術館蔵

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「陽光習作」(1906)デーヴィズコレクション。こんな絵を見たかった

 

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 4月5日、東京都のあらたな感染者が143人になったという。今朝、雨上がりのイチジクのえさ台にやってきたヒヨドリ、ガラス戸のカーテンを開けようが、戸を開けようが、背を見せてミカンをついばみ、シャターの音を聞きつけてか、キッと横を向いたのには、こちらが驚く。

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