2023年1月30日 (月)

1月27日は「ホロコーストの日」だった(2)反省と責任のとり方

  2008年8月、初めてドイツを訪ねた折、観光客でにぎわうブランデンブルグ門のすぐ近くに、灰色のさまざまな大きさの四角いコンクリートブロックが幾千と続き、中は迷路のようになっている記念碑に出会った。これが、「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」であったのである。その広さと言い、モニュメントとしての着想と言い、それらに圧倒された。東西ドイツが統一する前の1988年からこの記念碑建設計画が始まったというが、追悼するのはユダヤ人だけなのか、そのモニュメントのデザインなど、いろいろな問題が噴出したが1999年、ユダヤ人に限定しての追悼碑に決まり、2005年5月に完成、公開の運びとなったという。さらに、驚いたのが、この追悼碑に隣接したところに国会議事堂があったのである。日本でいえば国会議事堂前と皇居のお堀の間の公園や尾崎記念公園辺りにあたるところだろう。また、ベルリンの繁華街、デパートKaDeWe近くのカイザー・ウィルヘルム教会の尖塔が焼け残りまま、戦跡として残されていた。その後の旅行では、ベルリンのドイツ歴史博物館、ドイツ抵抗博物館、焚書記念碑、グリューネヴァルト17番線ホーム、ライプチヒの歴史博物館、ルンデ・エッケ記念博物館、ミュンヘンのユダヤ歴史博物館、ドレスデンのフラウエン教会、ハンブルグの歴史博物館、ニコライ教会戦跡・追悼碑などの見学によって、近現代の歴史に重点を置いた戦跡、資料、展示物や映像に目を見張った。とくにナチスのユダヤ人迫害の歴史と検証・反省・継承に努力していることを肌で感じることができた。

 また、私たちが訪ねたドイツ以外のワルシャワ、ウィーン、オスロ、ベルゲンなどの都市に限っても、歴史博物館やユダヤ人犠牲者追悼碑などによる戦争の惨禍と反省を継承し、戦跡を守ろうとする意識が定着していることがわかるのであった。

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ベルリン「ホロコーストの碑」前方のドームの屋根が国会議事堂(2008年9月25日)

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国会議事堂の敷地に接した場所にある「国家社会主義の下で殺害されたシンチ・ロマの記念碑」前の池の周りの敷石には犠牲者の名前が彫られている。2012年10月に建てられたばかりだった(2014年10月25日)

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ベルリン郊外グリューネヴァルト駅17番線ホーム。貨物専用のホームであったが、ナチスにより連行されたユダヤ人がこのホームから各地の収容所に送られた。上は、ホームの端に並ぶ鉄の銘板の一枚、1942年1月25日、1014人のユダヤ人がベルリンからリガに送られたことを示している。これらの銘板がどこまでも続く。私たちが訪ねた日は、数日前に行われた記念式典の名残の献花があちこちに見られた。(2014年10月25日)

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ワルシャワゲットー記念碑から歴史博物館をのぞむ(2018年5月13日)

 昨年末には、「元ナチス女性秘書に有罪判決 97歳、執行猶予」のニュースに驚かされた。ニュース(jijicom 2022年12月22日)によれば、
 判決は20日、ドイツ北部のイツェホーの法廷で、ナチス・ドイツの収容所で秘書だった97歳の女性に執行猶予付き禁錮2年の判決を言い渡した。女性は、ナチス占領下のポーランドにあったシュツットホーフ強制収容所で1943~45年、勤務していた。「ユダヤ人、ポーランド人、そしてソ連人」(検察)ら6万5000人が犠牲になったと推定され、うち1万人以上の死について共犯と見なされた。 法廷で被告は「起きたことすべてに謝罪する」と述べた。ただ、昨年9月の開廷時には老人ホームから逃亡し、近くのハンブルクで逮捕されという経緯もあったらしい。

 ナチスへの断罪は今も続いている。日本における、朝鮮、中国はじめアジア諸国で犯した日本の戦争責任はどうなってしまったのか。昭和天皇は延命し、平成の天皇は、激戦地で追悼するが、誰を追悼しているのか。日本の戦後政治は、さまざまな分野の「戦犯」をやすやすと復帰させた。慰安婦、徴用工問題で、いまだに責任を取ろうとしない。慰安婦の少女像ですら、まともに展示できないというありさまである。細々と守り続けてきた戦跡を残す手立てを考えない国、自国民に対しては、被爆者への補償は極力抑制し、空襲被害者へ補償はいまだ皆無なのである。国内外の遺骨収集は進まず、遺骨の混じる土が沖縄の新基地造成に使われようとしている。挙句の果ての防衛力増強なのである。
 日本人は、忘却、過去を水に流すことが得意なのか、抵抗や抗議する人々を支えることもしない人々のなんと多いことか、情けない・・・。

 

 

 

 

 

 

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2023年1月29日 (日)

1月27日は、「ホロコーストの日」だった(1)三か所の強制収容所をめぐって

 127日は、「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」だった。ポーランド、クラクフ郊外にあるナチス・ドイツによるアウシュビッツ強制収容所が旧ソ連軍によって解放された日だったのである。
 昨年224日からのロシアのウクライナ侵攻は、ウクライナをナチスから解放するという名目だったのであるが、それは、まぎれもないウクライナへの侵略だったのである。

 私は、2000年以降、夫とともに何回かヨーロッパに出かけている。その折、アウシュビッツ、ザクセンハウゼン、ダッハウ、三か所の強制収容所を訪ねることができた。そのたびに、戦争の残虐、ナチスの狂気を目の当たりしたと同時に、その戦争責任の取り方、とくにドイツと日本の違いは何なのか、なぜなのかを考えさせられたのである。
 三か所の強制収容所の訪問については、すでに以下のブログに記しているが、「ホロコーストの日」にあたって、わずかな体験ながら、それぞれの収容所の成り立ちの違いや戦跡保存の仕方の違いなどあらためて思い起し、考えてみたい。

2010年5月31日「ポーランドとウイーンの旅(2)古都クラクフとアウシュビッツ」
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/05/post-f56e.html

2014年11月17日「ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチヒ・ベルリン~2014.10.20~28(9)」http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/11/20141020289-91f.html

2018年5月20日「 ミュンヘンとワルシャワ、気まま旅(2)」
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/05/post-22eb.html

アウシュビッツ強制収容所

 アウシュビッツ強制収容所は、ソ連邦の一つだったポーランドが、1940年政治犯収容のために建てたが、ドイツ軍に占領された国々のユダヤ人がここに集められるようになった。近くのビルケナウ、モノビッツェにも増設、収容された130万人の内ユダヤ人110万人、ポーランド人14、15万人とされ、犠牲者はユダヤ人100万、ポーランド人7万人以上に及んだという。1942年からナチス・ドイツがユダヤ人の絶滅計画が立てられ、実施に移された。175ヘクタール(53万坪)に300棟以上のバラックが建設されたが、今残るのは45棟のレンガ造りと22棟の木造の囚人棟だけで、19448月には約10万人が収容されていたという。ソ連軍による解放・侵攻を目前に、証拠隠滅のためドイツ軍が破壊・解体しきれなかった施設や遺品が、いまの博物館の核になっている。
 見学に訪れる日本人も多く、日本人の公式ガイド中谷剛さんもいるが、予約が大変らしい。2010517日、見学ツアーに参加し、語学別に分けられ、私たち夫婦は英語によるガイドに従った。
 最初に入館した4号館・5号館では、関係書類や資料、写真の間を通り抜けて、目にしたのは、ガラス越しのいくつもの展示室に積まれた、毛髪、それによって編まれた絨毯、眼鏡、靴、トランク、鍋・釜・スプーン、義足・義肢・松葉づえ、歯ブラシ・・・。その量とそれらを身に着けていた一人一人を思うと、いたたまれず、展示に目を背けることもあった。解放当時の残された衣服だけでも、男・女・子供用衣服は併せて120万着に及んだという。
 6号館では、収容所生活の実態が分かるような展示が続き、廊下には収容者の登録時の写真がびっしりと並ぶ。正面・横顔・着帽の三枚で、残されたものは初期のポーランド人のもので、ユダヤ人は写真も撮られなかったという。収容者の多くが、シャワー室ならぬガス室に送られたのである。

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収用列車は、ここで行きどまりになった。

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雨の中、いよいよ見学コースに入る。遠くに、”ARBEIT MACHT FREI”のアーチの一部が見える。

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棟と棟の間にも有刺鉄線が。

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雨は止まず、泥濘は続く。翌日は大雨に見舞われたそうだ。

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「死の壁」と呼ばれる処刑場だった。

 

ザクセンハウゼン強制収容所

 2014年1026日、ベルリン中央駅から、RB(Regional Bahn)5で約30分という、強制収容所の最寄駅Oranienburgオラニエンブルクに向かった。さらに、歩けば20分ほどだというが、1時間に1本のバスに乗る。バス停からも長い道路の石塀沿いには、大きな写真のパネルが並び、この収容所は、ドイツ・ナチスからの解放後は、ソ連・東独の特設収容所として使われていたという沿革がわかるようになっている。
 19333月、ナチ突撃隊によって開設された収容所は、一時3000人以上の人が収容されていたが、19347月に親衛隊に引き継がれ、1936年現在の地に、収容所建築のモデルとなるべく、設計されたのが、このザクセンハウゼン強制収容所だった。1938年にはドイツ支配下のすべての強制収容所の管理本部の役割を果たしていた。
 194542223日、ソ連とポーランドの軍隊により解放されるまで20万人以上の人が収容され、飢え、病気、強制労働、虐待、さらには「死の行進」などにより多数の犠牲を出した。19458月からは、ソ連の特設収容所として、ナチス政権下の役人や政治犯らで、その数6万人、少なくとも12000人が病気や栄養失調で犠牲になっている。1961年以降は、国立警告・記念施設としてスタートした。1993年以降東西ドイツの統一により、国と州に拠る財団で管理され、「悲しみと追憶の場所としての博物館」となり、残存物の重要性が見直され、構想・修復されて現在に至っている。

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 収容所は、見取り図でもわかるように、正三角形からなり、その一辺の真ん中が入り口となっており、その鉄格子の扉の「ARBEIT MCHT FREI」(労働すれば自由になる)の文字が、ここにも掲げられている。入り口近くに扇型の点呼広場を中心として、バラックと呼ばれる収容棟が放射線状に68棟建てられていたことがわかる。各棟敷地跡には区切られ、砂利が敷き詰められていて、いまは広場から一望できる。最も管理がしやすい形だったのだろうか。
 博物館では、収容所の変遷が分かるように、展示・映像・音声装置などにも様々な工夫がなされていたが、見学者は極単に少ない。ここでは、やはり、フイルムと写真という映像の記録の迫力をまざまざと見せつけられた。さらに、現存の収容棟の一つには、ユダヤ人収容者の歴史が個人的なデータを含めて展示され、べつの収容棟には収容者の日常生活が分かるような展示がなされていた。結局、2時間余りでは、全部は回りきれずに、見残している。

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バス停を下りるとこんなモニュメントが。

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収容所通りは、長い黄葉の道だった。

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ここの門扉にも、”ARBEIT  MACHT FREI”の文字が。

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手前が収容棟Barackeの跡地、後ろが博物館。

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こうしたバラック跡地に小石が敷き詰められ、68棟が続く、この広さである。

 

ダッハウ強制収容所

 ミュンヘン中央駅からSバーン2でダッハウに向かう。ミュンヘン在住48年というガイドさんと一緒である。ダッハウ収容所の公式ガイドの資格を持つ。収容所行きバスの乗り場は、若い人たちでごった返していた。学校単位なのか、グループなのか、みんなリゾート地のようなラフな服装で、行き先が収容所とはとても思えない賑やかさである。バスは満員で、次を待つ。学校では強制収容所学習が義務付けられているという。
 1933年、ヒトラーは首相になって開設したダッハウ強制収容所は政治犯のための強制収容所であり、他の強制収容所の先駆けとなりモデルにもなり、親衛隊SSの養成所にもなった。ミュンヘン近辺の140カ所の支所たる収容所のセンターでもあった。ドイツのユダヤ人のみならず、ポーランド、ソ連などの人々も収容した。ユダヤ人だけで死者32000人以上を数え、1945429日のアメリカ軍による解放まで、のべ約20万人の人々が収容され、ここからアウシュビッツなどの絶滅強制収容所に送られた人々も多い。また特徴としては、聖職者も多く専用棟があり、医学実験(超高温、超低温実験)と称して、人体実験が数多く実施されたことでも知られている。(つづく)

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ここの門扉にも

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ガス室を出た、若い見学者たち。

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何基もの焼却炉が続く。

 

 

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2022年3月 8日 (火)

責任のとり方~ドイツと日本と

                                                                                                                                                                                                                                                                         

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 やや旧聞に属するが、1月27日、ドイツ連邦議会主催の「ナチ犠牲者のための追悼式典」が行われたという。なぜ1月27日かというと、ポーランドのクラクフ郊外にある、ナチが作った最大の絶滅収容所、アウシュヴィッツ強制収容所が、1945年1月27日に旧ソ連軍に解放された日だったからである。ナチによるユダヤ人大量虐殺がなされた象徴的な場所にもなっているからだという。
 追悼式典のことは、「ベルリン通信」の池田記代美さんの「連邦議会で行われたナチ犠牲者のための追悼式典」というレポートによって知った。
(『みどりの1kWh』https://midori1kwh.de/2022/02/13/13180 2022年2月13日)
 
1996年、「想起に終わりがあってはならない」と当時のロマン•ヘルツォーク大統領(在任期間1994-1999) が、犠牲者を追悼する記念日の制定を提案してから始まったというから、そんなに古いことではない。以来、ドイツでは官庁が半旗を掲げ、各地のナチの加害の歴史を継承する記念館、記念碑を中心にさまざまな行事が行われる。

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 2021年1月27日、アウシュヴィッツ強制収容所跡地で開催された追悼式典は、コロナ禍のためオンラインで開催された。

 一方、国連は、ホロコーストには、国や民族、宗教をこえて全人類に普遍的な教訓があると宣言し、教育の場でとりあげていこうと加盟国によびかけ(第60回国連総会決議 2005 年11月1日)、アウシュヴィッツが解放された1月27日を「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」に定めている。そして各国、各地で、追悼行事が行われるようになった。
 UNIC国際連合広報センター
https://www.unic.or.jp/news_press/info/11945/

 日本ではというと、この日に何かなされているのか、その報道というのにもあまり接したことがなかった。この日の追悼行事というのではなく、以下のような関連施設で、ナチによる差別や大量虐殺の暴挙を後世に伝えるべく、さまざまな展示や行事がなされていることがわかった。

ホロコースト記念館(広島県福山市聖イエス会御倖教会内、1995年6月~)
=HOME= of HEC (hecjpn.org)

アンネ・フランク資料館(兵庫県西宮市アンネのバラの教会内、1980年~)
http://www.annesrose.com/

NPO法人ホロコースト教育資料センター(東京都品川区、1998年~、2003資料館閉館移設)
https://www.npokokoro.com/https://www.npokokoro.com/

杉原千畝記念館・人道の丘(岐阜県八百津町、2001年3月~)
http://www.sugihara-museum.jp/

人道の港敦賀ムゼウム(福井県敦賀市、2008年3月~、2020年移設リニューアル)
https://tsuruga-museum.jp/

 しかし、私は、ドイツでは、連邦議会において追悼式典が続いていることに驚いた。冒頭の池永さんのレポートによれば、今年の式典では二人の来賓がスピーチをしている。
 一人は、幼少時からナチによるさまざまな迫害を体験し、チェコのテレージエンシュタット強制収容所から生還し、アメリカに渡った女性アウアーバッハーさん(87歳)で、ナチに殺害された150万人の子どもたちのことを忘れないで欲しいと訴えている。もう一人は、イスラエル議会の議長ミッキー・レヴィさんで、ナチ時代の帝国議会が1934年3月「全権委任法」を採択し、自ら立法権を内閣に手渡し、ナチの独裁政治を可能にした歴史を振り返って、600万人というホロコーストの犠牲者を数字で理解するのではなく600万の命と物語があったことを思い起して欲しいと訴えた。このように、生き延びた体験者の話を聞くことを議会自らがしているところに、ドイツと日本の大きな違いをまざまざと見せられる思いであった。

 日本の国内外における戦争犯罪に対する責任追及は、自らの手でなされることがなかったことが、アメリカ従属の、今に至る日本の戦後史を決定的なものにしてしまったのではないか。昭和天皇の責任論や退位論が活発になされていた敗戦後を思い起すべきではないか。事件や不正が発生して、閣僚や官僚がようやくその職を辞任しても、罪に問われることはなく、どこかで生き延びている。会社の幹部がそろって頭を下げて、一件落着といったケースがあまりにも多すぎる無責任体制が怖い。

 今のプーチンとその指令に従う人々の責任はどうなるのだろう。考えることをやめてしまう恐ろしさ、いわゆる「凡庸なる悪」という「言葉」に逃げ込んではならないと思う。

*************

 私たちがワルシャワとクラクフを訪ねたのは、2010年5月であった。その年、ワルシャワは、ショパン生誕200年ということで盛り上がっていた一方、「カチンの森」事件から70年ということで、さまざまな行事が企画され、街角にもあちこちに追悼の写真とメッセージが展示がなされていて、いささか驚いたことを思い出す。

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ワルシャワ空港の歓迎パネル

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上記は、一日中雨のアウシュヴィッツ強制収容所跡、昼食をとることも忘れて。

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クラクフ城の入り口にも「カチンの森」のパネルが。

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ワルシャワからウイーンに移動し、近郊のホイリゲを訪ねると、こんなパネルも。

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2019年8月31日 (土)

はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(17)ハンブルグ歴史博物館を最後に、旅も終わる

午後にハンブルグを発って、ドゴール空港乗り換えで、帰国する日がとうとうやって来た。午前中に、きのう休館で見学しそこなった歴史博物館は見ておこう、と今日ばかりは、少し遠回りだが、市庁舎広場を通り越して、jungfernstiegからU2でシュランプ乗り換えでサンクト・パウリへと行く。博物館の中は、私たちにはやはりわかりにくいが、貿易により大発展を遂げた海運都市時代の展示も、ゆっくり見たら面白いのだろうけれど、ともかく現代を中心にということで、大急ぎの見学になった。

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ガイドブック。

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博物館中庭。

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館内から ドームを見上げる

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ナチスの時代。

 見学もそこそこに、はやめにハンブルグ空港に向かい、念のため、荷物がどうなっているか、訪ねてみることにした。そして、係員と一緒に案内されたのが、バッゲジ・トレース・センター、到着時にロスト・バゲッジを申し出たところだ。すると、一緒に探しにということで、ターンベルトの横に置き去りになっている、いくつかの塊の中に、ないかという。え?こんなところにまだほっとかれているの?そしてさらに、そうした荷物が、床いっぱいに置かれている部屋3つくらいまわっても、もちろん見つからない。そして、4つ目ほどの部屋だったろうか、夫が探し出したのである。ナンバーを照合して、落着。何のことはない、ずっとこんな具合に、ほっと置かれたのである。腹立たしいKLMの対応に、怒りが収まらない。ともかく見つかったのだから、良しとしようか。いろいろあったけれど、無事に帰れそうではあった。(了)

 

 

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はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(16)ハンブルグ市立美術館へ

 7月2日(火)風が強く、外へ出ると、寒い。まずは歩きで歴史博物館へと思う。まるで冬支度のコートとマフラーの出勤途上の女性もいれば、半そでの男性もいる。何度も往復したルーディング・エアハルト通りのビジネス街をミヒャエリス教会方面に向かって歩く。

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何度か渡った橋、ホテルゾフィテル方面を見る。

  途中、ミヒャエリス教会の右手の向い辺りにブラームス記念館があると入り込むのだが、旧市街の趣で、何度聞いてもたどり着かずに、ひとまず、歴史博物館に急ぐ。ところが、なんとこの週だけ月・火の連休とのことで、残念ながら、ハンブルグ最終日の明日に来ることにした。それでは、とうことで、辺りを見渡せば、広い植物園であって、博物館はその一画にあったのだ。道路を渡ってビスマルク公園に入ってしばらく歩くとなんと、巨大なモニュメント、カメラに納まりきれない石像が立つ。その土台には、街ではあまり見かけなかった「落書き」がすさまじかった。というわけで、午前中の収穫は少なかったのだけれど、交通のターミナルでもあるサンクト・パウリ駅U3→シュランプU2→中央駅北口から市立美術館へと歩く。

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広い植物園、ジョギングの人たちもちらほら、羨ましい。

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ビスマルク石像、大きさもさることながら、この落書きにも圧倒される。

 

ハンブルグ市立美術館に入館(14€)し、フロアガイドに沿いつつ歩き始めるが、広くて複雑そうなので、現代の部は省いて、まず3階の18世紀以降をと見始めた。小さい部屋続き、その横には大きな部屋が、全館であわせて60室以上あることになる。

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上が、市立美術館の全景、下が向かいの市民ホール。朝の涼しさはどこへやら。

 

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中央の絵葉書が、マックス・レーバーマン(1847~1935)で、ドイツ印象派の主要画家であった。チケットがマネの「ナナ」、下の横向きの絵葉書は、美術館の宣伝用らしく、カスパー・ダーヴィル・フリードリヒの「雲海の上の旅人」と題されている

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右がハンブルグ市立美術館の三か月の予定がびっしり書かれているリーフレットで、広げると新聞大のレンブラントの自画像(1630年)のポスターになる。左は、すでに終了した「ハンブルグ派」特別展のガイドであり、中央が開催中の北欧の特別展だったのだが、素通りしてしまったのか、気づかなかった。リーフレトによれば、デンマークのハンマースホイの作品もあったのである。私はいつから、この画家の、モノクロの静かな室内画の、淡い光と陰に魅せられたのだろう。来年1月から都美術館で、ハンマースホイ展が開催されるそうで、楽しみにしている。

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ドームと本館との渡り廊下を、行ったり来たりも・・・。

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いずれもフィリップ・オットー・ルンゲ(1777~1810)の作品、早世したが、ドイツロマン主義の代表的な画家。上段、左が自画像、右が両親を描いたものらしい。(17室)

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紛れ込んだ図書館だったが・・・。

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上段は、アドルフ・メンツェル(1815~1905)の「「ベルリン三月革命における棺の安置」?と題される作品(20室)、ほかに労働者を描いた作品が何点か見られた。下は、現物は見ていないが、夫のチケットで、アルブレヒト・デューラー「恋人」(1492-4)であった。

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階段室も豪華な。

 やはり、疲れ切って、途中で、CUBEといカフェで一服。レンブラントは6室と言われて、駆けつけると、たしかに2点あり、見落としていた。そんな名画はたくさんあったと思う。それでも、クールベやコロー、パウル・クレー、ムンク、ゴッホ、セザンヌ、シャガール、モネ・・・・、たしかに見た記憶がある。どんな絵だったか、思い出せないほうが多い。もう少し時間をかけて回りたかった。というより、体力の問題なのかもしれない、と思う今回の旅の美術館巡りだった。

 この日の夕食は、中央駅のフードコートで、焼きそば・春巻など軽いもので済ませ、ホテルで、たっぷり果物でも食べようということになった。明日の出発にそなえて、荷物の整理をしなければならないし、といっても、夫の荷物はとうとう戻らなかった。着替えや洗面道具は何とか調達したが、充電器や電子辞書、若干の土産・・・、いったいどうなるのだろう。10日も経って、自宅に荷物が届いていた、なんていう話も聞くが・・・。

 

 

 

 

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2019年8月29日 (木)

オランダとハンブルグへの旅は始まった(15)ハンブルグの交通路線図にようやく慣れて

 7月1日、やや涼しい朝となった。この日も朝食前の散策にと7時前にホテルを出る。夫にとっては、家にいる時はまるっきり違う生活のサイクルではある。空襲の当時のまま残されているという、茶色い黒焦げた尖塔、ニコライ教会跡に向かう。

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ホテルの玄関前のラベンダーが真っ盛り、よく手入れをしているのを見かけた。

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ホテル最寄りのU3の駅Rodingsmarktの線路の下をくぐって交差路の左手ウィリー・ブラント通りを進むとすぐ左に、あの尖塔が大きく見えてくる。

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車の往来は激しいが、人影のない教会の廃墟の前庭に立つ。147mの尖塔は、ハンブルグ空襲の標準点になり、いまは残骸をさらす。昼間は、75mまでの展望台へのリフトが動き、地下の展示室も見学できるという。1842年の大火後はネオ・ゴシック様式の美しい教会だったろう。見えにくいが、向かって左に「地上の天使」像が立つ。

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「試練」と題されるモニュメントは、比較的新しく2004年に建てられたらしい。銘板には、ハンブルグ郊外の北ドイツ最大のNeuengammeノイエンガメ強制収容所から送られてきた収容者1万人が、Sandbostelで死に至ったことが書かれていたが、この像の下には「真実を変えることは世界中の誰もできない。真実を求め、それを発見し、それを受け止めることはできる・・・」とでも訳すのだろうか。

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 朝の散策のおかげで朝食も進む。TVのニュースでは、米朝会談の映像が流れ、いつのこと?とびっくりする。日本KLMと電話が通じ、荷物の行方を尋ねれば、ハンブルグ空港には着いているはずだから、今日中に届くだろうとの情報にホッとして、ホテルを出る。いわば山手線のような環状線のU3で、中央駅を通り越して、いくつ目かのmundsburgという駅に向かう。駅前のロータリーに、この地の空襲の犠牲者の慰霊碑があるというのだ。往来の激しい交差点の分離帯の中にひっそりとあった。

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インパクトのあるモニュメントであった。「1943年7月30日夜、空襲で370人が亡くなった。彼らの死を忘れるな。二度とファシズムを台頭させるな。二度と戦争を起こしてはならない」と記されていた。カールシュタットデパートの地下防空壕で、亡くなった人々である。

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駅の反対側の公園の奥には教会があったが、そこまでは足が延ばせなかった。 

ムンズブルグ駅から、ふたたびU3で中央駅とは反対方向にぐるっとまわって、schulumpシュランプで、U2に乗り換え、北上すると、Hagenbecks Tierpark動物園駅というのがある。

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動物園駅を降りて道を渡ると、一見、え!と驚くのだが、キリンもその背中の少年もモニュメントとわかる。

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中国風の動物園入り口。

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「案内図」とチケット(20€)、かなりの迷路で、回り切れないところも・・・。園内には、突然、中国やタイ風の建物、そして日本の鳥居、トーテムポールなどが現れて、創立者のハーゲンベックさんの意図がわかりかねることもあったが、とにかく、動物とはなるべく触れ合える工夫が様々になされていたので、見ているだけでも楽しかった。

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アルパカの親子かな

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にぎやかな一団、先生も一苦労か・・・。

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大人も、子どもも楽しそうな。
 

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何を考えているのか。

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動物園駅から、U2で、市庁舎にも近い、アルスター湖が目の前のjungfernstieg駅に降りてみる。いくつもの路線が交差するターミナルで、辺りは若者たちが多く活気に満ちていた。下は、アルスターアーケードだが、今日はその先にテントが見える。

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念願かなって、オールド・コマーシャル・ルームでの夕食。なかなか雰囲気のある店で、個室ではないが、三方が壁で囲まれる。壁いっぱいに、来店の著名人の写真が並ぶ、だいぶ古い人もいるが、大方は分からずじまい。注文は隣席に座りこんで、いろいろ相談に?のってくれる。夫は、シュニツエル、私は白身の魚のソテー。今日だけは私もビールを。


 今日も1万7512歩。そして、夜、バゲッジが届けられたのである。どうしたことか、私のだけで、夫のは今夜も届かずじまい、いったい?!

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2019年8月27日 (火)

はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(14)ハンブルグ、フィッシュマルクト、市庁舎見学

 日曜日、この日も暑そうだったが、7時前、フィッシュマルクトに出かけることにした。ホテル最寄りの地下鉄駅からは一つ先のバウムヴァルで、その先は工事中で、一駅歩くことになる。人の流れについて歩いてゆくが結構な距離、川沿いのコンクリートの道は、かなり暑い。ようやく、市場の賑わいが見えてきた。大変な人出。野菜のスライサーのデモには、かなりの人だかりができるのは日本でもおなじみの光景か。何でもそろいそうで、いろいろな店が次々と現れる。連れ合いは、戻らぬバゲッジの着替えの代りにと、所狭しとぶら下がるTシャツの値札を覗くと、46€!少し高すぎない?と見送る。私たちは、ホテルで夜にでもとイチゴを2€ほどで買うが、なんと果物かごいっぱい、スイカ、リンゴ、バナナ、プラム、ブドウ、見たこともない果物・・・もちろんイチゴも山ほど盛り合わせたものが15€で、威勢のいい掛け声とともに売られてゆく。別の店では、大きな紙袋に、大盛りの果物が、10€、バナナの一房はおまけと、さらに積み上げる。ああ、買って帰りたいが。大型車の日陰で、若い女性のグループ56人、観光客なのか、その大盛りの果物を、楽しそうに分け合って食べているではないか。ああなるほど。もちろん、魚の大きな切り身、丸ごとだったり、フィッシュバーガーだったり、買って帰ることもならず。少し歩き疲れ、帰ろうとした矢先、一台のタクシーのドライバーが何やら口に頬ばりながら、叫んでいる。ホテルまでと頼むと、シェアのお客がいるということで、地元の男性のお年寄りと同乗し、無事7€でホテルに到着した。やや遅い朝食となった。

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 朝食後、一休みしてから、市庁舎のガイドツアーに参加しようと出かける。11時からの英語コース、156人で、ガイドさんにどこからかと問われて、国を名乗らされる。アメリカ、カナダ、フランス・・・。市役所として、州議会議場として現役ながら、豪華な部屋が幾室も続く。ガイドさんの英語が半分でも聞き取れたならの思いしきりだったが、ちょうど一時間で終了、それでもなかなか楽しいコースだった。

 

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中庭の噴水には、ギリシャ神話の健康と衛生の女神、1897年コレラの大流行で市内で8000人も亡くなった由、市民の衛生意識を高めるためにもと設置されたらしい。

 

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州議会の議場に繋がる階段は赤じゅうたんである。下は州議会議場。

 

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豪華なシャンデリア、絵画にも囲まれる部屋、部屋、部屋・・・。

 

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掲げられているのは、"Concordia res parvae crescunt Discncordia maxiae dilabuntur"と読めるのだが?後で調べてみると、「小さなものでも調和によって成長する、最も大きなもので不調和によってバラバラになってしまう」とか。

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市長室だそうだ。

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途中通路には、ビスマルク(1815~1898)の胸像も。後日、見上げる、ビスマルク公園の巨大なビスマルク石像の汚れ様はすさまじかった。

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 市庁舎内のレストランも日曜で閉まっているし、近くの商業施設ヨーロッパ・パサージュへ出かけてみるがここもほとんどが閉店、「働き方改革」が徹底しているのは、日本と大違い。開いていたスタバで、ベ-グルのサンドイッチを買い込んで、ホテルで済ます。朝からのフィッシュマルクト、市庁舎ツアーは、やはり私たちにはきつかったのか、横になると、結構な昼寝をしてしまった。荷物は届かないが、思い直して、ミヒャエリス教会近くの、きのうのガイドさんもお勧めだったオールド・コマーシャル・ルームというレストランに行ってみることにした。残念ながら、予約制ということで、明日ということになった。ホテルまでの、休日のビジネス街を往復したことになる。夕食は、ホテルのレストランでとることにした。値段も手ごろのようで、宿泊客というよりは、女性一人だったり、家族連れだったり、男性同士の飲み会?だったりのお客さんが多いようだった。お料理もおいしくいただき、よく歩いた一日が終わった。この日、1万7418歩。

 

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展望台からの眺めは満喫したが、教会内の見学は、6時ですでに閉館。周りは閑散としていた。

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上段が昨日のミヒャエリス教会見学チケット、下段がこの日の市庁舎見学のチケット。

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明日の夕食を楽しみに。ラプスカウスという料理が有名だそうだ。 

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きのうもガイドさんに案内してもらっていた、レモン売りのおばさんの像で、左手の人差し指に触れると運が訪れる?とかで、やけに光っていた。彼女(1841~1916)は晩年の20年間は街でレモンを売っていたそうだが、なぜ像になるほど?聞きそびれてしまった。

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スープもおいしかったです。どちらが私のか。

 

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2019年8月26日 (月)

はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(13)ハンブルグへ、旅のつまづき

 旅も後半、アムステルダムからハンブルグへ飛ぶので、その日の朝、娘にメールをすると、大阪のG20の報道が、やかましい、ホテルがどうの、夕食のメニューがどうのと、中身のないことばかり・・・、との返信。私たちもホテルで現地のテレビのニュースを見ていたが、G20関係は数十秒の世界で、安倍首相の姿が映ったと思ったらすぐ消えた、程度のことだった。

 早めにスキポール空港に着いて、少しばかりの買い物を済ませた。10時45分には離陸、地上は、しばらく、細長い白いビニールハウスが目立っていたが、やがて細長い畑のモザイクに変わっていった。うとうとしているうちに、ハンブルグ空港に着いた。ところで、ここで、思わぬトラブルにふたたび遭遇することになった。

 ふたたび?というのは、思い出すのもイヤで書かなかったのだが、実は前日、ユダヤ歴史博物館に向かう途中で、私が、自転車道と歩道の境目に躓いて、派手に転倒してしまったのだ。ズボンの膝は破れ、手にしていたカメラが遠くに飛んで行ってしまったのである。前後に歩いていた人が寄ってきて気遣いの言葉をかけてくれるし、日本語とは違うアクセントで「マッサージ、いいよ、マッサージ!」といって通り過ぎる女性もいた。ともかく幸いにも、膝は、冷房用に着けていたズボン下と、ひざ痛の貼り薬のおかげで、傷はなかった。ただ飛んで行ったカメラの調子が悪くなって、望遠のまま動かなくなってしまったのである。これからは、妙な望遠での写真か、夫のカメラから頂戴した写真となる。

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これは転んだ日の写真ではないけれど、自転車道と歩道との境はこんな風で、微妙な段差がある。自転車道の往来は一方通行で、かなりのスピードを出しているので、気をつけてはいるのだが、少しはみ出して、後ろから大声で叱られることもあった。

 ハンブルグ空港では、予定通り12時前には手続きが終わったのだが、指定のベルトで荷物を待っていても、いっこうに、私たちの荷物が回って来ない。同じ便の客たちはとっくにいなくなっていた。こんなことは初めてのことで、近くの係員に訊くと、次の便になった、ともいう。途方に暮れて、バゲッジのトレースセンターに並び、事情を話せば、こともなげに、運がよかったら、今晩か明日にはホテルに届くはずだと、日常茶飯のような対応だった。そんなことにも手間取って、一度ホテルに入ってから出かけるつもりだった、午後2時から、市内ガイドの方との待ち合わせに遅れてしまった。かなり重い手荷物を持ったまま、約束の市庁舎前まで、たどり着く。幸いホテルは、近くのゾフィテルだったので、まず手荷物のザックはホテルに置いていきましょう、というガイドのYさんの勧めで、チェックインをした。やはりここも、シャワーだけでバスタブがないのはいささかがっかりしたものだが、荷物は最小限度にして部屋を出た。Yさんは、フロントで、今晩にも届くかもしれないバゲッジのことをしっかりと確認してくれていた。

 だいぶ遅れたが、市内のウオークツアーでは、予定通りのコースとはいかなかったけれど、市庁舎→ミヒャエル教会→旧商工組合福祉住宅→エルベトンネル入り口→船でフィルハーモニー→市庁舎、ということにだった。ちょうどこの日は、オートバイの日とかで、ドイツの各地から、自慢の愛車で走りまわっているので、道路を渡るときは気を付けてくださいと、Yさんおことばだった。荷物の心配もあり、なんと昼食抜きのどこか落ち着かない一日だったが、聖ミヒャエリス教会展望台からの眺めは素晴らしかった。この日、1万2009歩。

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1897年に完成した市庁舎は今でも使用している。647室もあってバッキンガム宮殿を凌ぐというが、地盤は決し堅固な土地ではないので、土台には4000本の樫の杭が打たれているそうだ。外壁の窓の上の飾りには、貿易で繁栄した自由都市らしく、市民の職業にまつわるものや相手の国の象徴のようなものが彫られていて、豚の頭だったり、ケーキだったり、ちなみに日本は、菊の紋章が彫られている由。高くてよく見えなかったが。また、正面のバルコニーには、ラテン語で「先人たちの勝ちとった自由を後世の人々が厳粛に守らんことを」が掲げられているという。

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ホールまでは誰でも入れる。正面に市長の部屋に通じる階段で、さまざまな客を迎えるが「私は誰にも膝まづかない」といういうのが引き継がれているとも。翌日の市庁舎ガイドツアーに参加することにした。

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市庁舎の近くの路上にあった「stolper stein つまづきの石」と呼ばれるもので、この場所近くに住んでいたユダヤ人がナチスに連れ去られ、亡くなった人の名前と日付などが彫られた銅板が敷石の間にはめ込まれ、それを後の人も記憶に留め、追悼しようとすものである。そういえば、、ベルリンン国会議事堂の横の広場にも少数民族のシンチ・ロマのナチス時代の犠牲者追悼記念碑に囲まれた丸い池の周辺の敷石には、犠牲者の名前が記されたこと、ホロコーストの追悼施設が議事堂ブランデンブルグ門の間に置かれていたことなどを思い出していた。日本人の歴史認識と、これほどまで違うのはなぜなのか。

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上の三葉は、ミヒャエル教会の展望台からエルベ川を望む。

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展望台から市街地の方を望む。中央の高い尖塔がニコライ教会跡。その右手がカタリーナ教会、左手の市庁舎の先の聖ペトリ教会と聖ヤコビ教会と思われる。ニコライ教会跡は、ホテルからも近いので、後日、朝食前の散歩で出かけた。

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木組みの旧商工組合福祉住宅に挟まれた路地、17世紀、1676年に当時の商工組合員の未亡人のために建てられた住宅だった。日本はまさに江戸時代の初期、「福祉」などという発想があっただろうか。1863年から100年ほどは市の老人ホームだったのを、1970年代には改修の上、博物館と店が入ったそうで、レストランも来られるといいですよ、とYさんもお勧めだったし、いろいろな楽しそうなお店もあったので、ぜひと思っていたが、再訪は果たせなかった。

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トンネルまでは、大型のエレベーターで降りる。1911年完成当時、車も乗れる巨大なエレベーターが何基も備えられ、驚異の的だったらしい。現在は車のほとんどが1975年完成の新エルベトンネルを走る。

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派手な黄色い船がHVV運営のれっきとした公共交通機関の定期船で、上の白いのが遊覧船であった。定期船は、地下鉄などと共通の一日乗車券で乗れる。

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甲板はまるで遊覧船の気分である。

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右の奇妙な建物が、2016年完成した、エルプフィルハーモニーの建物で、完成までには、工費の拡大で、すったもんだがあったらしい。

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私たちは、たった10分にも満たない船の旅だったが、川風に汗も一時引っ込んだようだった。

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ホテルにも近い、運河沿いのアルスターアーケードのレストランでの夕食となりました。

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2018年6月 3日 (日)

ミュンヘン、ワルシャワ、気まま旅(14) まだあれこれと

 私たちの拙い旅、私の気ままなつぶやきにお付き合いいただきありがとうございます。まだまだ、書き足りないことばかりのような気がしています。

 ワルシャワでは、帰る日の午前中、ホテルの周辺、大学の周辺を、もう一度まわってみました。その一部と短い旅を振り返って、気になるスナップの一部をお伝えして終わりたいと思います。

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ザヘンダ国立美術館、入館のチャンスがなかった

Dscn1841無名戦士の墓の真向いのピウツスキ―元帥像、この人への評価が変わって、現在は多くの人から顕彰され、ベルベデーレ宮殿前にも立派な立像があった

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聖十字架教会、再訪、ショパンの心臓が収められているという。教会近くのショパンのベンチ、ゆかりの場所でゆかりの曲が、playのボタンを押すと聴ける。ワジェンキ公園のショパン像の近くにもあった

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Dscn2078ワルシャワ大学正門、正面が旧大学図書館、下は、図書館の入り口

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Dscn2101昨日の賑わいとうってかわって静かな大統領官邸

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少し早めに、ワルシャワ空港に向かったが、ルフトハンザ1349便(フランクフルト行き)の14時40分の離陸時刻が近づいてもなかなかゲイトが開かない。1時間ほどの遅れでようやく離陸、午前中の疲れが出たのか二人ともうとうと。フランクフルト発の羽田行きの搭乗時刻が過ぎている。走りに走って、出国手続きをしようとすると、ここは、フランクフルトではない!デュッセルドルフだというのだ。エッ?キツネにつままれたみたいで、何で?と思う。調べてもらうと、フランクフルトが悪天候のため、デュッセルドルフ着陸に変更されたのだという。ANAが代わりの便を手配しているから、少し待てということだった。それにしてもなんということだろう。機内で、そんなアナウンスがされていたのだろうか。たしかに、たびたびアナウンスは聞こえていたようなのだが、気にも留めていなかったし、他の乗客も特別な反応がなかったような気がした。出国の窓口近くで待機すること30分ほどがなんと長く感じただろうか。荷物はここで受け取って、ANAの窓口へと出国窓口の警官は、丁寧に案内してくれた。ピストルを持った警官に、従って歩く二人だったが、どんなふうに映ったかは別として心強かった。 夜の8時発の成田行きの便に搭乗、ようやく落ち着き、どっと疲れが出た感じであった。

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ミュンヘン、ワルシャワ、気まま旅(13)

 はや、翌日は、もうワルシャワを発たねばならない。ワルシャワの最後の一日、自由に使える日なのだが、どうしても行っておきたいところがあった。ガイドのAさんからお聞きしたワジェンキ公園のショパンコンサートである。5月中旬から9月いっぱい、毎年、日曜日に公園のショパン像の前で、ショパンピアノコンサートが開催されていて、その初日が今日だというのだ。「ぜひ、出かけてみてください、野外だし、何しろ無料ですから」という。前回は、たしかにショパン像までは来ているはずだが、時間もなく直ぐ引き返していた。今日は、少しゆっくりしたい。12時と4時からの2回の演奏というから、12時には間に合わせたい。 

公園には、116番か180番系のバスですよと、ガイドさんから念を押されていた。公園の塀に沿っては、いろいろな看板が立てられていた。少し早めに着いた公園、ショパン像の横のテントの下では、すでにピアノの調律が行われていた。演奏が始まる前に、水上宮殿に向かった。雲一つない、すでに真夏の日差しだったが、木陰の風は心地よかった。

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自転車専用道路が整備されていて、歩道をはみ出し、このコースにうっかり入ってしまったとき、自転車の人に大声で叱られてしまった

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ワジェンキ公園の柵にはさまざまな立看板、この国でも人気のスポーツなのか、サッカーチームの選手一人一人の紹介のパネルが続く

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少々ドキッとした看板だったが、数日後から公園内で開催予定の浮世展のポスターだった

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水上宮殿への道

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マロニエの花筏のよう


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野外劇場から水上宮殿を望む、真夏の日差しがきつい

演奏会場に戻ってみると、かなりの聴衆が集まり始めていた。と言っても野外なので、池をはさんでのピアノに近い芝生、ベンチが並ぶスペース、それを取り囲む木陰のベンチには、すでに着席している人も多い。夫は、最前列のベンチに、私は、ピアノからはだいぶ離れるが、リストの胸像の後ろのベンチで待つことにした。目の前の散策路には様々な人が行き来するし、すでに立ち見の人も重なるように列をなす。隣に座っていた、地元の年配の人からは、英語で話しかけられるのだが、情けないながら、聞き取れない。ここは恥をかいてもと、きのうガイドさんにこの演奏会のことを聞いてやってきた、大変な人出なのですね、ワルシャワの最初の夜は、フィルハーモニーにも出かけたこと、前回ワルシャワに来た8年前は、ショパン生誕200年だったけれども、コンサートには縁がなかった・・・などと話すと、にこやかに返事を返してくれるのだが、それ以上の質問もできない・・・。いよいよ演奏が始まった。聞き覚えのある楽曲も中にはあったのだが、野外コンサート自体の聴衆の自在な雰囲気がすばらしく思えた。ピアニストのインゴルフ・ヴンダー(Ingolf Wunder1985 )は、ウィーン国立音楽大学出身で、数々のコンクールに入賞、2010年のショパン国際ピアノコンクール2位入賞者とのことであった。

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ショパンコンサートの9月までのプログラムを知らせる看板

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ショパン像の脇のテントではピアノの調律中。その前の丸い池は、前回のときは水が抜かれていて、孔雀が見事な羽根を広げていたっけ・・・

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聴衆はどんどん増えて・・・

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私は、この立ち見の人たちの後ろの木陰のベンチで聴いた。リストの胸像の陰におさまっている少年は何をしているのかな

 つぎに向かったのは、バスを乗り継いで、111番の終点、エストニアで下車。運転手さんにユダヤ人墓地を教えてもらうが、レンガの塀が続くばかりで、どこから入るのか迷っていると、ひょっこり小さな戸が開いて、ようやく判明したのだった。ここも中は広く、私たちはほんの入り口付近をめぐっただけだった。

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このユダヤ人墓地の森は、広大なものだった

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延々と続くレンガの塀だったが、ここからひょいと人が出てきて、出入り口と知った

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コルチャック先生がうつむく子供たちを連れて向かった先は強制収容所だった

 

 つぎは、ワルシャワ・ゲットー記念広場に向かうのだが、すぐ近くのつもりが、なかなかたどり着かない。通りすがりの人に尋ねるとあと500m、あと5分と言われつつ、歩き続けた。前回来たときは、記念碑の前面は博物館の建設中であったが、その博物館が、2014年、ポーランドのユダヤ人歴史博物館としてオープンしたという。この博物館も、その展示や構造そのものが、緊迫感に溢れ、圧倒されるばかりであった。ここも時間が足りず、途中で閉館が告げられた。

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2010年には工事中だったが2014年にオープン

 

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工夫が凝らされた様々な展示

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さまざまなメッセージが壁から聞こえるようだ

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外はまだ明るいのに、閉館時間だった

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ワルシャワ・ゲットー記念碑裏からみた博物館

 外は、まだ夕方とは言えない日差しであったが、夜には、イベントでもあるのだろうか「かがり火」に点火しているところだった。もう、足は棒のようで、早くホテルに帰りたい、休みたいの思いで、ホテルに急ぐ。一休みして、ワルシャワ最後の夕食をと、お目当ての店を探すが、なかなか見つからず、どこでもいいよ、ということで、賑わう店に入ってみる。

  料理の注文も少し慣れてきた感じだったが、ビールが届いてからが長かった。隣のテーブルの中年カップルのピエロギとパスタはかなり早いね、などとちらちら眺めたりしていた。ようやく届いた料理をいただき始めたころ、お隣の二人が席を立ったと思ったら、男性の方に「ワルシャワはいかがですか、存分に楽しんでください」と、日本語で声をかけられたのだ。とっさに「日本語が上手ですね」と返せば「大阪から久しぶりに帰国したんです。また1週間ほどで大阪です。大阪には仕事で10年になります」とのことで、「こちらの方もですか」と女性に問えば、違いますとのこと。このハプニングにはいささか驚かされた。私たちの話が男性にはぜんぶ聞かれていたかもしれないのだ。なんか不都合なことは話してはいないかったかと心配にもなったが・・・。

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「カイザー」というお店のできごとだった

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