2019年8月31日 (土)

はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(17)ハンブルグ歴史博物館を最後に、旅も終わる

午後にハンブルグを発って、ドゴール空港乗り換えで、帰国する日がとうとうやって来た。午前中に、きのう休館で見学しそこなった歴史博物館は見ておこう、と今日ばかりは、少し遠回りだが、市庁舎広場を通り越して、jungfernstiegからU2でシュランプ乗り換えでサンクト・パウリへと行く。博物館の中は、私たちにはやはりわかりにくいが、貿易により大発展を遂げた海運都市時代の展示も、ゆっくり見たら面白いのだろうけれど、ともかく現代を中心にということで、大急ぎの見学になった。

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ガイドブック。

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博物館中庭。

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館内から ドームを見上げる

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ナチスの時代。

 見学もそこそこに、はやめにハンブルグ空港に向かい、念のため、荷物がどうなっているか、訪ねてみることにした。そして、係員と一緒に案内されたのが、バッゲジ・トレース・センター、到着時にロスト・バゲッジを申し出たところだ。すると、一緒に探しにということで、ターンベルトの横に置き去りになっている、いくつかの塊の中に、ないかという。え?こんなところにまだほっとかれているの?そしてさらに、そうした荷物が、床いっぱいに置かれている部屋3つくらいまわっても、もちろん見つからない。そして、4つ目ほどの部屋だったろうか、夫が探し出したのである。ナンバーを照合して、落着。何のことはない、ずっとこんな具合に、ほっと置かれたのである。腹立たしいKLMの対応に、怒りが収まらない。ともかく見つかったのだから、良しとしようか。いろいろあったけれど、無事に帰れそうではあった。(了)

 

 

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はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(16)ハンブルグ市立美術館へ

 7月2日(火)風が強く、外へ出ると、寒い。まずは歩きで歴史博物館へと思う。まるで冬支度のコートとマフラーの出勤途上の女性もいれば、半そでの男性もいる。何度も往復したルーディング・エアハルト通りのビジネス街をミヒャエリス教会方面に向かって歩く。

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何度か渡った橋、ホテルゾフィテル方面を見る。

  途中、ミヒャエリス教会の右手の向い辺りにブラームス記念館があると入り込むのだが、旧市街の趣で、何度聞いてもたどり着かずに、ひとまず、歴史博物館に急ぐ。ところが、なんとこの週だけ月・火の連休とのことで、残念ながら、ハンブルグ最終日の明日に来ることにした。それでは、とうことで、辺りを見渡せば、広い植物園であって、博物館はその一画にあったのだ。道路を渡ってビスマルク公園に入ってしばらく歩くとなんと、巨大なモニュメント、カメラに納まりきれない石像が立つ。その土台には、街ではあまり見かけなかった「落書き」がすさまじかった。というわけで、午前中の収穫は少なかったのだけれど、交通のターミナルでもあるサンクト・パウリ駅U3→シュランプU2→中央駅北口から市立美術館へと歩く。

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広い植物園、ジョギングの人たちもちらほら、羨ましい。

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ビスマルク石像、大きさもさることながら、この落書きにも圧倒される。

 

ハンブルグ市立美術館に入館(14€)し、フロアガイドに沿いつつ歩き始めるが、広くて複雑そうなので、現代の部は省いて、まず3階の18世紀以降をと見始めた。小さい部屋続き、その横には大きな部屋が、全館であわせて60室以上あることになる。

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上が、市立美術館の全景、下が向かいの市民ホール。朝の涼しさはどこへやら。

 

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中央の絵葉書が、マックス・レーバーマン(1847~1935)で、ドイツ印象派の主要画家であった。チケットがマネの「ナナ」、下の横向きの絵葉書は、美術館の宣伝用らしく、カスパー・ダーヴィル・フリードリヒの「雲海の上の旅人」と題されている

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右がハンブルグ市立美術館の三か月の予定がびっしり書かれているリーフレットで、広げると新聞大のレンブラントの自画像(1630年)のポスターになる。左は、すでに終了した「ハンブルグ派」特別展のガイドであり、中央が開催中の北欧の特別展だったのだが、素通りしてしまったのか、気づかなかった。リーフレトによれば、デンマークのハンマースホイの作品もあったのである。私はいつから、この画家の、モノクロの静かな室内画の、淡い光と陰に魅せられたのだろう。来年1月から都美術館で、ハンマースホイ展が開催されるそうで、楽しみにしている。

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ドームと本館との渡り廊下を、行ったり来たりも・・・。

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いずれもフィリップ・オットー・ルンゲ(1777~1810)の作品、早世したが、ドイツロマン主義の代表的な画家。上段、左が自画像、右が両親を描いたものらしい。(17室)

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紛れ込んだ図書館だったが・・・。

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上段は、アドルフ・メンツェル(1815~1905)の「「ベルリン三月革命における棺の安置」?と題される作品(20室)、ほかに労働者を描いた作品が何点か見られた。下は、現物は見ていないが、夫のチケットで、アルブレヒト・デューラー「恋人」(1492-4)であった。

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階段室も豪華な。

 やはり、疲れ切って、途中で、CUBEといカフェで一服。レンブラントは6室と言われて、駆けつけると、たしかに2点あり、見落としていた。そんな名画はたくさんあったと思う。それでも、クールベやコロー、パウル・クレー、ムンク、ゴッホ、セザンヌ、シャガール、モネ・・・・、たしかに見た記憶がある。どんな絵だったか、思い出せないほうが多い。もう少し時間をかけて回りたかった。というより、体力の問題なのかもしれない、と思う今回の旅の美術館巡りだった。

 この日の夕食は、中央駅のフードコートで、焼きそば・春巻など軽いもので済ませ、ホテルで、たっぷり果物でも食べようということになった。明日の出発にそなえて、荷物の整理をしなければならないし、といっても、夫の荷物はとうとう戻らなかった。着替えや洗面道具は何とか調達したが、充電器や電子辞書、若干の土産・・・、いったいどうなるのだろう。10日も経って、自宅に荷物が届いていた、なんていう話も聞くが・・・。

 

 

 

 

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2019年8月29日 (木)

オランダとハンブルグへの旅は始まった(15)ハンブルグの交通路線図にようやく慣れて

 7月1日、やや涼しい朝となった。この日も朝食前の散策にと7時前にホテルを出る。夫にとっては、家にいる時はまるっきり違う生活のサイクルではある。空襲の当時のまま残されているという、茶色い黒焦げた尖塔、ニコライ教会跡に向かう。

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ホテルの玄関前のラベンダーが真っ盛り、よく手入れをしているのを見かけた。

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ホテル最寄りのU3の駅Rodingsmarktの線路の下をくぐって交差路の左手ウィリー・ブラント通りを進むとすぐ左に、あの尖塔が大きく見えてくる。

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車の往来は激しいが、人影のない教会の廃墟の前庭に立つ。147mの尖塔は、ハンブルグ空襲の標準点になり、いまは残骸をさらす。昼間は、75mまでの展望台へのリフトが動き、地下の展示室も見学できるという。1842年の大火後はネオ・ゴシック様式の美しい教会だったろう。見えにくいが、向かって左に「地上の天使」像が立つ。

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「試練」と題されるモニュメントは、比較的新しく2004年に建てられたらしい。銘板には、ハンブルグ郊外の北ドイツ最大のNeuengammeノイエンガメ強制収容所から送られてきた収容者1万人が、Sandbostelで死に至ったことが書かれていたが、この像の下には「真実を変えることは世界中の誰もできない。真実を求め、それを発見し、それを受け止めることはできる・・・」とでも訳すのだろうか。

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 朝の散策のおかげで朝食も進む。TVのニュースでは、米朝会談の映像が流れ、いつのこと?とびっくりする。日本KLMと電話が通じ、荷物の行方を尋ねれば、ハンブルグ空港には着いているはずだから、今日中に届くだろうとの情報にホッとして、ホテルを出る。いわば山手線のような環状線のU3で、中央駅を通り越して、いくつ目かのmundsburgという駅に向かう。駅前のロータリーに、この地の空襲の犠牲者の慰霊碑があるというのだ。往来の激しい交差点の分離帯の中にひっそりとあった。

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インパクトのあるモニュメントであった。「1943年7月30日夜、空襲で370人が亡くなった。彼らの死を忘れるな。二度とファシズムを台頭させるな。二度と戦争を起こしてはならない」と記されていた。カールシュタットデパートの地下防空壕で、亡くなった人々である。

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駅の反対側の公園の奥には教会があったが、そこまでは足が延ばせなかった。 

ムンズブルグ駅から、ふたたびU3で中央駅とは反対方向にぐるっとまわって、schulumpシュランプで、U2に乗り換え、北上すると、Hagenbecks Tierpark動物園駅というのがある。

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動物園駅を降りて道を渡ると、一見、え!と驚くのだが、キリンもその背中の少年もモニュメントとわかる。

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中国風の動物園入り口。

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「案内図」とチケット(20€)、かなりの迷路で、回り切れないところも・・・。園内には、突然、中国やタイ風の建物、そして日本の鳥居、トーテムポールなどが現れて、創立者のハーゲンベックさんの意図がわかりかねることもあったが、とにかく、動物とはなるべく触れ合える工夫が様々になされていたので、見ているだけでも楽しかった。

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アルパカの親子かな

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にぎやかな一団、先生も一苦労か・・・。

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大人も、子どもも楽しそうな。
 

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何を考えているのか。

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動物園駅から、U2で、市庁舎にも近い、アルスター湖が目の前のjungfernstieg駅に降りてみる。いくつもの路線が交差するターミナルで、辺りは若者たちが多く活気に満ちていた。下は、アルスターアーケードだが、今日はその先にテントが見える。

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念願かなって、オールド・コマーシャル・ルームでの夕食。なかなか雰囲気のある店で、個室ではないが、三方が壁で囲まれる。壁いっぱいに、来店の著名人の写真が並ぶ、だいぶ古い人もいるが、大方は分からずじまい。注文は隣席に座りこんで、いろいろ相談に?のってくれる。夫は、シュニツエル、私は白身の魚のソテー。今日だけは私もビールを。


 今日も1万7512歩。そして、夜、バゲッジが届けられたのである。どうしたことか、私のだけで、夫のは今夜も届かずじまい、いったい?!

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2019年8月27日 (火)

はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(14)ハンブルグ、フィッシュマルクト、市庁舎見学

 日曜日、この日も暑そうだったが、7時前、フィッシュマルクトに出かけることにした。ホテル最寄りの地下鉄駅からは一つ先のバウムヴァルで、その先は工事中で、一駅歩くことになる。人の流れについて歩いてゆくが結構な距離、川沿いのコンクリートの道は、かなり暑い。ようやく、市場の賑わいが見えてきた。大変な人出。野菜のスライサーのデモには、かなりの人だかりができるのは日本でもおなじみの光景か。何でもそろいそうで、いろいろな店が次々と現れる。連れ合いは、戻らぬバゲッジの着替えの代りにと、所狭しとぶら下がるTシャツの値札を覗くと、46€!少し高すぎない?と見送る。私たちは、ホテルで夜にでもとイチゴを2€ほどで買うが、なんと果物かごいっぱい、スイカ、リンゴ、バナナ、プラム、ブドウ、見たこともない果物・・・もちろんイチゴも山ほど盛り合わせたものが15€で、威勢のいい掛け声とともに売られてゆく。別の店では、大きな紙袋に、大盛りの果物が、10€、バナナの一房はおまけと、さらに積み上げる。ああ、買って帰りたいが。大型車の日陰で、若い女性のグループ56人、観光客なのか、その大盛りの果物を、楽しそうに分け合って食べているではないか。ああなるほど。もちろん、魚の大きな切り身、丸ごとだったり、フィッシュバーガーだったり、買って帰ることもならず。少し歩き疲れ、帰ろうとした矢先、一台のタクシーのドライバーが何やら口に頬ばりながら、叫んでいる。ホテルまでと頼むと、シェアのお客がいるということで、地元の男性のお年寄りと同乗し、無事7€でホテルに到着した。やや遅い朝食となった。

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 朝食後、一休みしてから、市庁舎のガイドツアーに参加しようと出かける。11時からの英語コース、156人で、ガイドさんにどこからかと問われて、国を名乗らされる。アメリカ、カナダ、フランス・・・。市役所として、州議会議場として現役ながら、豪華な部屋が幾室も続く。ガイドさんの英語が半分でも聞き取れたならの思いしきりだったが、ちょうど一時間で終了、それでもなかなか楽しいコースだった。

 

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中庭の噴水には、ギリシャ神話の健康と衛生の女神、1897年コレラの大流行で市内で8000人も亡くなった由、市民の衛生意識を高めるためにもと設置されたらしい。

 

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州議会の議場に繋がる階段は赤じゅうたんである。下は州議会議場。

 

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豪華なシャンデリア、絵画にも囲まれる部屋、部屋、部屋・・・。

 

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掲げられているのは、"Concordia res parvae crescunt Discncordia maxiae dilabuntur"と読めるのだが?後で調べてみると、「小さなものでも調和によって成長する、最も大きなもので不調和によってバラバラになってしまう」とか。

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市長室だそうだ。

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途中通路には、ビスマルク(1815~1898)の胸像も。後日、見上げる、ビスマルク公園の巨大なビスマルク石像の汚れ様はすさまじかった。

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 市庁舎内のレストランも日曜で閉まっているし、近くの商業施設ヨーロッパ・パサージュへ出かけてみるがここもほとんどが閉店、「働き方改革」が徹底しているのは、日本と大違い。開いていたスタバで、ベ-グルのサンドイッチを買い込んで、ホテルで済ます。朝からのフィッシュマルクト、市庁舎ツアーは、やはり私たちにはきつかったのか、横になると、結構な昼寝をしてしまった。荷物は届かないが、思い直して、ミヒャエリス教会近くの、きのうのガイドさんもお勧めだったオールド・コマーシャル・ルームというレストランに行ってみることにした。残念ながら、予約制ということで、明日ということになった。ホテルまでの、休日のビジネス街を往復したことになる。夕食は、ホテルのレストランでとることにした。値段も手ごろのようで、宿泊客というよりは、女性一人だったり、家族連れだったり、男性同士の飲み会?だったりのお客さんが多いようだった。お料理もおいしくいただき、よく歩いた一日が終わった。この日、1万7418歩。

 

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展望台からの眺めは満喫したが、教会内の見学は、6時ですでに閉館。周りは閑散としていた。

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上段が昨日のミヒャエリス教会見学チケット、下段がこの日の市庁舎見学のチケット。

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明日の夕食を楽しみに。ラプスカウスという料理が有名だそうだ。 

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きのうもガイドさんに案内してもらっていた、レモン売りのおばさんの像で、左手の人差し指に触れると運が訪れる?とかで、やけに光っていた。彼女(1841~1916)は晩年の20年間は街でレモンを売っていたそうだが、なぜ像になるほど?聞きそびれてしまった。

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スープもおいしかったです。どちらが私のか。

 

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2019年8月26日 (月)

はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(13)ハンブルグへ、旅のつまづき

 旅も後半、アムステルダムからハンブルグへ飛ぶので、その日の朝、娘にメールをすると、大阪のG20の報道が、やかましい、ホテルがどうの、夕食のメニューがどうのと、中身のないことばかり・・・、との返信。私たちもホテルで現地のテレビのニュースを見ていたが、G20関係は数十秒の世界で、安倍首相の姿が映ったと思ったらすぐ消えた、程度のことだった。

 早めにスキポール空港に着いて、少しばかりの買い物を済ませた。10時45分には離陸、地上は、しばらく、細長い白いビニールハウスが目立っていたが、やがて細長い畑のモザイクに変わっていった。うとうとしているうちに、ハンブルグ空港に着いた。ところで、ここで、思わぬトラブルにふたたび遭遇することになった。

 ふたたび?というのは、思い出すのもイヤで書かなかったのだが、実は前日、ユダヤ歴史博物館に向かう途中で、私が、自転車道と歩道の境目に躓いて、派手に転倒してしまったのだ。ズボンの膝は破れ、手にしていたカメラが遠くに飛んで行ってしまったのである。前後に歩いていた人が寄ってきて気遣いの言葉をかけてくれるし、日本語とは違うアクセントで「マッサージ、いいよ、マッサージ!」といって通り過ぎる女性もいた。ともかく幸いにも、膝は、冷房用に着けていたズボン下と、ひざ痛の貼り薬のおかげで、傷はなかった。ただ飛んで行ったカメラの調子が悪くなって、望遠のまま動かなくなってしまったのである。これからは、妙な望遠での写真か、夫のカメラから頂戴した写真となる。

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これは転んだ日の写真ではないけれど、自転車道と歩道との境はこんな風で、微妙な段差がある。自転車道の往来は一方通行で、かなりのスピードを出しているので、気をつけてはいるのだが、少しはみ出して、後ろから大声で叱られることもあった。

 ハンブルグ空港では、予定通り12時前には手続きが終わったのだが、指定のベルトで荷物を待っていても、いっこうに、私たちの荷物が回って来ない。同じ便の客たちはとっくにいなくなっていた。こんなことは初めてのことで、近くの係員に訊くと、次の便になった、ともいう。途方に暮れて、バゲッジのトレースセンターに並び、事情を話せば、こともなげに、運がよかったら、今晩か明日にはホテルに届くはずだと、日常茶飯のような対応だった。そんなことにも手間取って、一度ホテルに入ってから出かけるつもりだった、午後2時から、市内ガイドの方との待ち合わせに遅れてしまった。かなり重い手荷物を持ったまま、約束の市庁舎前まで、たどり着く。幸いホテルは、近くのゾフィテルだったので、まず手荷物のザックはホテルに置いていきましょう、というガイドのYさんの勧めで、チェックインをした。やはりここも、シャワーだけでバスタブがないのはいささかがっかりしたものだが、荷物は最小限度にして部屋を出た。Yさんは、フロントで、今晩にも届くかもしれないバゲッジのことをしっかりと確認してくれていた。

 だいぶ遅れたが、市内のウオークツアーでは、予定通りのコースとはいかなかったけれど、市庁舎→ミヒャエル教会→旧商工組合福祉住宅→エルベトンネル入り口→船でフィルハーモニー→市庁舎、ということにだった。ちょうどこの日は、オートバイの日とかで、ドイツの各地から、自慢の愛車で走りまわっているので、道路を渡るときは気を付けてくださいと、Yさんおことばだった。荷物の心配もあり、なんと昼食抜きのどこか落ち着かない一日だったが、聖ミヒャエリス教会展望台からの眺めは素晴らしかった。この日、1万2009歩。

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1897年に完成した市庁舎は今でも使用している。647室もあってバッキンガム宮殿を凌ぐというが、地盤は決し堅固な土地ではないので、土台には4000本の樫の杭が打たれているそうだ。外壁の窓の上の飾りには、貿易で繁栄した自由都市らしく、市民の職業にまつわるものや相手の国の象徴のようなものが彫られていて、豚の頭だったり、ケーキだったり、ちなみに日本は、菊の紋章が彫られている由。高くてよく見えなかったが。また、正面のバルコニーには、ラテン語で「先人たちの勝ちとった自由を後世の人々が厳粛に守らんことを」が掲げられているという。

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ホールまでは誰でも入れる。正面に市長の部屋に通じる階段で、さまざまな客を迎えるが「私は誰にも膝まづかない」といういうのが引き継がれているとも。翌日の市庁舎ガイドツアーに参加することにした。

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市庁舎の近くの路上にあった「stolper stein つまづきの石」と呼ばれるもので、この場所近くに住んでいたユダヤ人がナチスに連れ去られ、亡くなった人の名前と日付などが彫られた銅板が敷石の間にはめ込まれ、それを後の人も記憶に留め、追悼しようとすものである。そういえば、、ベルリンン国会議事堂の横の広場にも少数民族のシンチ・ロマのナチス時代の犠牲者追悼記念碑に囲まれた丸い池の周辺の敷石には、犠牲者の名前が記されたこと、ホロコーストの追悼施設が議事堂ブランデンブルグ門の間に置かれていたことなどを思い出していた。日本人の歴史認識と、これほどまで違うのはなぜなのか。

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上の三葉は、ミヒャエル教会の展望台からエルベ川を望む。

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展望台から市街地の方を望む。中央の高い尖塔がニコライ教会跡。その右手がカタリーナ教会、左手の市庁舎の先の聖ペトリ教会と聖ヤコビ教会と思われる。ニコライ教会跡は、ホテルからも近いので、後日、朝食前の散歩で出かけた。

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木組みの旧商工組合福祉住宅に挟まれた路地、17世紀、1676年に当時の商工組合員の未亡人のために建てられた住宅だった。日本はまさに江戸時代の初期、「福祉」などという発想があっただろうか。1863年から100年ほどは市の老人ホームだったのを、1970年代には改修の上、博物館と店が入ったそうで、レストランも来られるといいですよ、とYさんもお勧めだったし、いろいろな楽しそうなお店もあったので、ぜひと思っていたが、再訪は果たせなかった。

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トンネルまでは、大型のエレベーターで降りる。1911年完成当時、車も乗れる巨大なエレベーターが何基も備えられ、驚異の的だったらしい。現在は車のほとんどが1975年完成の新エルベトンネルを走る。

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派手な黄色い船がHVV運営のれっきとした公共交通機関の定期船で、上の白いのが遊覧船であった。定期船は、地下鉄などと共通の一日乗車券で乗れる。

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甲板はまるで遊覧船の気分である。

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右の奇妙な建物が、2016年完成した、エルプフィルハーモニーの建物で、完成までには、工費の拡大で、すったもんだがあったらしい。

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私たちは、たった10分にも満たない船の旅だったが、川風に汗も一時引っ込んだようだった。

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ホテルにも近い、運河沿いのアルスターアーケードのレストランでの夕食となりました。

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2018年6月 3日 (日)

ミュンヘン、ワルシャワ、気まま旅(14) まだあれこれと

 私たちの拙い旅、私の気ままなつぶやきにお付き合いいただきありがとうございます。まだまだ、書き足りないことばかりのような気がしています。

 ワルシャワでは、帰る日の午前中、ホテルの周辺、大学の周辺を、もう一度まわってみました。その一部と短い旅を振り返って、気になるスナップの一部をお伝えして終わりたいと思います。

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ザヘンダ国立美術館、入館のチャンスがなかった

Dscn1841無名戦士の墓の真向いのピウツスキ―元帥像、この人への評価が変わって、現在は多くの人から顕彰され、ベルベデーレ宮殿前にも立派な立像があった

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聖十字架教会、再訪、ショパンの心臓が収められているという。教会近くのショパンのベンチ、ゆかりの場所でゆかりの曲が、playのボタンを押すと聴ける。ワジェンキ公園のショパン像の近くにもあった

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Dscn2078ワルシャワ大学正門、正面が旧大学図書館、下は、図書館の入り口

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Dscn2101昨日の賑わいとうってかわって静かな大統領官邸

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少し早めに、ワルシャワ空港に向かったが、ルフトハンザ1349便(フランクフルト行き)の14時40分の離陸時刻が近づいてもなかなかゲイトが開かない。1時間ほどの遅れでようやく離陸、午前中の疲れが出たのか二人ともうとうと。フランクフルト発の羽田行きの搭乗時刻が過ぎている。走りに走って、出国手続きをしようとすると、ここは、フランクフルトではない!デュッセルドルフだというのだ。エッ?キツネにつままれたみたいで、何で?と思う。調べてもらうと、フランクフルトが悪天候のため、デュッセルドルフ着陸に変更されたのだという。ANAが代わりの便を手配しているから、少し待てということだった。それにしてもなんということだろう。機内で、そんなアナウンスがされていたのだろうか。たしかに、たびたびアナウンスは聞こえていたようなのだが、気にも留めていなかったし、他の乗客も特別な反応がなかったような気がした。出国の窓口近くで待機すること30分ほどがなんと長く感じただろうか。荷物はここで受け取って、ANAの窓口へと出国窓口の警官は、丁寧に案内してくれた。ピストルを持った警官に、従って歩く二人だったが、どんなふうに映ったかは別として心強かった。 夜の8時発の成田行きの便に搭乗、ようやく落ち着き、どっと疲れが出た感じであった。

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ミュンヘン、ワルシャワ、気まま旅(13)

 はや、翌日は、もうワルシャワを発たねばならない。ワルシャワの最後の一日、自由に使える日なのだが、どうしても行っておきたいところがあった。ガイドのAさんからお聞きしたワジェンキ公園のショパンコンサートである。5月中旬から9月いっぱい、毎年、日曜日に公園のショパン像の前で、ショパンピアノコンサートが開催されていて、その初日が今日だというのだ。「ぜひ、出かけてみてください、野外だし、何しろ無料ですから」という。前回は、たしかにショパン像までは来ているはずだが、時間もなく直ぐ引き返していた。今日は、少しゆっくりしたい。12時と4時からの2回の演奏というから、12時には間に合わせたい。 

公園には、116番か180番系のバスですよと、ガイドさんから念を押されていた。公園の塀に沿っては、いろいろな看板が立てられていた。少し早めに着いた公園、ショパン像の横のテントの下では、すでにピアノの調律が行われていた。演奏が始まる前に、水上宮殿に向かった。雲一つない、すでに真夏の日差しだったが、木陰の風は心地よかった。

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自転車専用道路が整備されていて、歩道をはみ出し、このコースにうっかり入ってしまったとき、自転車の人に大声で叱られてしまった

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ワジェンキ公園の柵にはさまざまな立看板、この国でも人気のスポーツなのか、サッカーチームの選手一人一人の紹介のパネルが続く

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少々ドキッとした看板だったが、数日後から公園内で開催予定の浮世展のポスターだった

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水上宮殿への道

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マロニエの花筏のよう


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野外劇場から水上宮殿を望む、真夏の日差しがきつい

演奏会場に戻ってみると、かなりの聴衆が集まり始めていた。と言っても野外なので、池をはさんでのピアノに近い芝生、ベンチが並ぶスペース、それを取り囲む木陰のベンチには、すでに着席している人も多い。夫は、最前列のベンチに、私は、ピアノからはだいぶ離れるが、リストの胸像の後ろのベンチで待つことにした。目の前の散策路には様々な人が行き来するし、すでに立ち見の人も重なるように列をなす。隣に座っていた、地元の年配の人からは、英語で話しかけられるのだが、情けないながら、聞き取れない。ここは恥をかいてもと、きのうガイドさんにこの演奏会のことを聞いてやってきた、大変な人出なのですね、ワルシャワの最初の夜は、フィルハーモニーにも出かけたこと、前回ワルシャワに来た8年前は、ショパン生誕200年だったけれども、コンサートには縁がなかった・・・などと話すと、にこやかに返事を返してくれるのだが、それ以上の質問もできない・・・。いよいよ演奏が始まった。聞き覚えのある楽曲も中にはあったのだが、野外コンサート自体の聴衆の自在な雰囲気がすばらしく思えた。ピアニストのインゴルフ・ヴンダー(Ingolf Wunder1985 )は、ウィーン国立音楽大学出身で、数々のコンクールに入賞、2010年のショパン国際ピアノコンクール2位入賞者とのことであった。

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ショパンコンサートの9月までのプログラムを知らせる看板

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ショパン像の脇のテントではピアノの調律中。その前の丸い池は、前回のときは水が抜かれていて、孔雀が見事な羽根を広げていたっけ・・・

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聴衆はどんどん増えて・・・

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私は、この立ち見の人たちの後ろの木陰のベンチで聴いた。リストの胸像の陰におさまっている少年は何をしているのかな

 つぎに向かったのは、バスを乗り継いで、111番の終点、エストニアで下車。運転手さんにユダヤ人墓地を教えてもらうが、レンガの塀が続くばかりで、どこから入るのか迷っていると、ひょっこり小さな戸が開いて、ようやく判明したのだった。ここも中は広く、私たちはほんの入り口付近をめぐっただけだった。

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このユダヤ人墓地の森は、広大なものだった

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延々と続くレンガの塀だったが、ここからひょいと人が出てきて、出入り口と知った

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コルチャック先生がうつむく子供たちを連れて向かった先は強制収容所だった

 

 つぎは、ワルシャワ・ゲットー記念広場に向かうのだが、すぐ近くのつもりが、なかなかたどり着かない。通りすがりの人に尋ねるとあと500m、あと5分と言われつつ、歩き続けた。前回来たときは、記念碑の前面は博物館の建設中であったが、その博物館が、2014年、ポーランドのユダヤ人歴史博物館としてオープンしたという。この博物館も、その展示や構造そのものが、緊迫感に溢れ、圧倒されるばかりであった。ここも時間が足りず、途中で閉館が告げられた。

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2010年には工事中だったが2014年にオープン

 

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工夫が凝らされた様々な展示

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さまざまなメッセージが壁から聞こえるようだ

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外はまだ明るいのに、閉館時間だった

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ワルシャワ・ゲットー記念碑裏からみた博物館

 外は、まだ夕方とは言えない日差しであったが、夜には、イベントでもあるのだろうか「かがり火」に点火しているところだった。もう、足は棒のようで、早くホテルに帰りたい、休みたいの思いで、ホテルに急ぐ。一休みして、ワルシャワ最後の夕食をと、お目当ての店を探すが、なかなか見つからず、どこでもいいよ、ということで、賑わう店に入ってみる。

  料理の注文も少し慣れてきた感じだったが、ビールが届いてからが長かった。隣のテーブルの中年カップルのピエロギとパスタはかなり早いね、などとちらちら眺めたりしていた。ようやく届いた料理をいただき始めたころ、お隣の二人が席を立ったと思ったら、男性の方に「ワルシャワはいかがですか、存分に楽しんでください」と、日本語で声をかけられたのだ。とっさに「日本語が上手ですね」と返せば「大阪から久しぶりに帰国したんです。また1週間ほどで大阪です。大阪には仕事で10年になります」とのことで、「こちらの方もですか」と女性に問えば、違いますとのこと。このハプニングにはいささか驚かされた。私たちの話が男性にはぜんぶ聞かれていたかもしれないのだ。なんか不都合なことは話してはいないかったかと心配にもなったが・・・。

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「カイザー」というお店のできごとだった

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2018年6月 2日 (土)

ミュンヘン、ワルシャワ、気まま旅(12)

5月12日(土)、ワルシャワは、何の日?<自由の行進>と歩む

 ポーランド料理のランチを終えて、次に向かうのはワルシャワ博物館だったが、旧市街への道はロイヤルロードとも呼ばれ,、王宮広場に続く。

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静かな週末のコペルニクス像周辺の光景に思えたが・・・

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上の2枚は、いずれも、ヴェネチア出身の画家カナレット(ベルナルド・ベロット、1721~80年、G.A.カナレットの甥で、ワルシャワではカナレットと呼ばれている由)が、ワルシャワでの宮廷画家として、都市景観を描き続けた作品と当時を再現した現在を同時に見ることがとができるように、こんな光景があちこちに見られる。現在残されている作品(26枚?)は、一時ナチス軍に渡ったが、今は王宮に戻され、壊滅状態だったワルシャワ再興の資料になったそうだ

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三輪車のタクシーらしい。車の横にtaxiの文字が見える。後から分かったのだが、よく見ると奥には<自由の行進>の立て看板があった

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静かな街に、赤い街宣車と、旗などを掲げた人々の列が現れた

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これは何のデモ?パレード?

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EUの旗や風船も、家族れや若い人も・・・

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警官もリラックスして・・・。案内のAさんの話では、れっきとした反政府運動の一環だそうで、街宣車の文字のMARSZはマーチ、「自由の行進」ということであった

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王宮広場がデモの解散会場なのか、大きな舞台が設置されていた

  現在のポーランドは、10年前、カチンの森の追悼式典参加のためロシアに向かう飛行機が墜落、大統領を含む96人の政府関係者が死亡したときの大統領の双子の弟が、大統領を務めている。保守与党の「法と正義」が最高裁判事の総入れ替えという暴挙に司法の独立性が侵害されたとして、欧州委員会から制裁を受けている。野党の「市民プラットフォーム」が中心になって「自由と尊厳、民主主義を、欧州の中のポーランドをのために」と訴える<自由の行進>であった。EUの旗が多くみられるのは欧州委員会を支持、大統領のEU離脱をめざす政策への抗議を意味するのだろう。Aさんよれば、政府によるメディア統制も目立つそうだ。現大統領寄りの番組が増えていて、前大統領の追悼番組などは繰り返し流されているとのこと。そういえば、ワルシャワ最初の日のホテルで、夜、テレビをつけると、まさに、その追悼番組の再放送を流していたのだ。

  どこかの国でも同じようなことが起きている。しかし、こうした、さまざまな世代による、幅広い人々が、思い思いのプラカードや旗を掲げて、いわば、一見無秩序に、一つの同じ思いをもって行進できるなんて、うらやましいな、と思う。印刷された画一的なプラスターをかかげるわけでもない、歩いてシュプレヒコールを繰り返すわけでもない、車道も広い歩道も、自在に歩けるデモなんて・・・。おまけに、コースのロイヤルロードの沿道の各所にはスローガンを掲げた、幾つもの柱状の大きな櫓風の立て看板が設置されていた。旅先で、思いがけず、<自由の行進>と共に街歩きができたことは貴重な体験だった。

ワルシャワ博物館とワルシャワ蜂起博物館へ

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旧市街市場広場と人魚像

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旧市街市場広場の一角にあるワルシャワ博物館、もともとは「ワルシャワ歴史的博物館」という名前だったが、長い改修工事を経て 2017年5月末に「ワルシャワ博物館」として再開した

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展示はさまざまな図表などが用いられ、工夫されていた。上記は、ワルシャワの宗教別人口が年代別にしめされていた。拡大してみるとわかるのだが、1810年、1897年、1931
年、2011年、左端のカソリックが73-58-67-75%との推移にくらべて、ユダヤ教は、18-35-30ー1%以下という推移が見て取れる

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描かれたワルシャワ・・・

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ワルシャワのシンボルでもある人魚像、人魚のバストの大小、その描き方が政治論議にもなったそうだ

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  去年リニューアルしたばかりで上のワルシャワ博物館のガイドリーフレット通り見学するには一日かかりそうにも思えた。また、次のワルシャワ蜂起博物館は、全館照明がかなり落としてあり、細い路地や迷路のような順路の壁には溢れるような情報、展示、頭上から覆いかぶさるような壁の展示には臨場感や緊張感が高まるのだった。多くの記録や手記の抜粋が壁から語り掛けてくるようだった。閉館時刻も迫り、先を急ぎ、撮った写真は、ボケたり、手振れがあったりで、使用できないものばかりになってしまって。Dscn1917
この石畳が、疲れた足には、結構きつかった

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ワルシャワ蜂起とは、1944年夏、ナチスドイツ軍の占領下のワルシャワで、複雑な国際情勢の中、ポ―ランド独立のために戦った市民たちの運動をいう。短期間で敗退するが、戦後は、ソ連の支配下の共産主義政権下においても、ポーランドへの抑圧は続く


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館内には、市民の抵抗組織の居場所にもなった地下水道が、きれいに再現されていた

ここから、館作成の映像が見られます
⇒Learn more about Warsaw Rising 1944
(館のウェブサイトから)

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2018年5月30日 (水)

ミュンヘン、ワルシャワ、気まま旅(11)

 5月12日(土)、ショパン博物館へ

   この日は、現地のガイドさんと共に市内めぐりを予定していた。私たちにとって二度目のワルシャワではあったが、前回、閉館などで訪ね損ねた、ショパン記念館、ワルシャワ歴史博物館、ワルシャワ蜂起博物館の案内をお願いしていた。Aさんはホテルまで迎えに来てくださり、自己紹介もそこそこに、歩き始めた。Aさんは、黒いTシャツに淡い空色のロングスカートをなびかせ、さっそくツバ広帽子を取り出すほどの日差しであった。 

 まず、旧市街に出て、聖十字架教会、ワルシャワ大学へと立ち寄った。Aさんが出身の東洋学部日本語学科の様子をお聞きしながら、図書館、ショパンが幼少期一家で住んでいた建物などの説明を受けた。大学の日本語学科の入学者は少なくはないが、修了するのは3割程度とのことで、かなり難しいとも語っていた。さらに、今は、日本語ができるということだけでは、就職が難しく、語学のほかに専門を持つ必要があるとも話された。聖十字架教会と大学へは、翌日、もう一度訪ねることになるのだが。

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ワルシャワは、朝からかなりの暑さだったのだろう。聖十字架教会前には、給水車が出ていて、誰でも水が飲めた。犬のための器まで用意され、黒い犬も音を立て飲んでいた

 そしてまず訪ねたのが、ショパン記念館、週末で混むといけないということで、予約をしておいてくれた由、館内の展示には、実にさまざまな工夫が凝らされているのに驚いた。各室のコーナーやブースで、ショパンの曲を選んで聴けるようになっていた。ショパン好きには、一日いても飽きないことだろう。Aさんの説明に聞き入っているとき、若い女性スタッフから、日本語で声をかけられた。ワルシャワ大学日本語科のAさんの後輩だそうで、日本人の見学者には日本語で案内しているという貴重なスタッフだったのである。

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ショパン記念館全景

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短い生涯ながら、ヨーロッパ各地での足跡をたどることができる

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記念館の窓から、遠くに見えるショパンを描いた壁画が、いま人気なんだそうだ

  すでに遅めの昼食だったが、Aさんの案内でやってきたのはポーランド料理ザピェツェクというお店だった。チェーン店らしく、市内に何軒かあるらしいがどこの店だったのか。料理の写真をと思っていたが、はしたない?とも思って、メニューだけとなった。注文はお任せしたのだが、甘い具の入った餃子風のピエロギだけは、以前失敗しているの遠慮した。不思議な味のスープ、三種盛り合わせのピエロギ、ジャガイモのパンケーキなどであったが、どれもおいしくいただいた。「甘い」とえいば、ポーランドでは、ご飯に砂糖をかけたりして食すとも。 新世界通り(ノヴィ・シフィア通り)に近い店だったかもしれない。

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民族衣装の店員さんとメニューだけをそっと撮りました

 

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2018年5月29日 (火)

ミュンヘン、ワルシャワ、気まま旅(10)

ワルシャワ動物園とフィルハーモニー

 今日は、ワルシャワへの移動日で、ルフトハンザ1612便でミュンヘン発1240に搭乗、約一時間半、途中で、サンドイッチ(チーズかチキン)の軽食が出る。空港のシャトルバスで30分ほどで、(ワルシャワ)大学前下車、Sofitel Victoriaは、どこの都市にでもありそうな、細長い大きなビルのホテルで、なんと無名戦士の墓の広場に面していた。ピウツキー元帥の立像も右手にあるはずだ。前回、20105月の宿は、中央駅近くだったが、この広場も8年ぶりである。

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無名戦士の墓からホテル全景

 

  予定通り、車で、あの動物園へむかう。初めてながら、「あの」というも、今年の初めにこのブログでも紹介した「ユダヤ人を救った動物園」の動物園だったからである。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/01/post-5a36.html201811日)

 

 ヴィスワ川にかかる美しいつり橋様の橋、右手に赤い外壁とポール状のものを巡らしたスタジアムを見て渡り、しばらく川に沿って走ったところが入り口となっていた。

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これは、動物園からの帰り、車で橋を渡った時のスナップです

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行きの橋の右手に見えたのがサッカー専用のスタジアム(2012年オープン)なのだが、写真がとれず、うまく表現できないので、ネットから拝借した

 まずは、動物園の広いメインストリートの奥が深いのに驚く。地図を見ながら、夫は、とりあえずの目標を、一番奥になるライオン、トラと決める。広い道を挟んで左右には緑地や林が続き、一見、どこに動物がいるのかわからない。檻というもの見当たらず、草地や砂地、池などの遠くに姿を見せる生き物がいる。見物の私たちとの境は、鉄柵だったり生け垣だったり、あるいは掘割だったりする。そうかと思えば、鉄柵を隔てながら、まじかに顔を合わせられる動物もいる。また、数々の樹木や植物にも、手入れは行き届いていて、あちこちで自動の散水機が動いていて、思わず飛沫を浴びることもあった。ライオンは、最初どこにいるかわからなかったが、岩山の蔭から悠然と現れたときは、思わず声を上げた。その後は、メスの方が、数人の見物客のためを思ってか、コンクリートの塀の上を行ったり来たりのパフォーマンスを見せてくれた。 

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あちこちで自動散水機が動いていた

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遠くに寝そべっているのはなに?

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普通の馬ではないような・・・

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点にしか見えないが・・・、現れたライオン

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このブロックの上を行ったり来たり、まるでモデルのように・・・

 
 週日のためかお客さんは少ないのだろうが、家族連れの人もちらほら、子どもたちは、動物を見るというよりは、広い公園を走り回ったり、お父さんに肩車をしてもらったり、自分が乗っていた乳母車を押したり、ソフトクリームを食べたりして楽しんでいるようだった。私たちも、別のわき道に入って戻りかけたが、こちらも奥が深い。そんなとき、白い瀟洒な建物が見えてきた。その近くに、何やら、地面にガラスに覆われたものが見えた。説明によれば、トンネル、あの映画でも見た、園長夫妻がユダヤ人たちをかくまう時に使った地下室に連なるトンネルの出入り口だという。白い建物には、当時をしのぶ資料が保管されているというが、見学には予約が必要であって、開館日も限られているらしい。3時間に満たない入園だったが、街中にあったベルリンの動物園とも違った外国の動物園体験をすることができた。

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ユダヤ人をかくまうのに使用したトンネルという

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動物園歴史とユダヤ人をかくまった経緯を記した資料を公開しているというが、予約制とのことだった


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動物園園長夫妻の功績を顕彰するパネル


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きょうばかりは乳母車をひいて・・・



 今晩は、7時半からのフィルハーモニーでのコンサートを予約していたのである。一度、ホテルに戻って、ホテルから10分ほどだという会場に向かった。が、これまた、迷いかけたところで、通りがけの年配の男性に尋ねてみると、自分も向かうところだといい、「コンバンワ」とも。仕事で日本に一度だけ行ったことがあるそうだ。ロビーまで、一緒だったが、友人と待ち合わせのようだった。座席は自由ということであったが、どんどんと聴衆は増えていき、はなやかな女性たちの姿も目立っていた。ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団、ヤツェク・カスプシク指揮による以下の曲目だった。指揮者は2013年からワルシャワフィルの音楽総監督の由、今年の1月には来日、ファンを喜ばせた由、現地で聴けるのは幸運かもしれない。クラシックに詳しくないながら、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲はなじみもあり、真っ赤なドレスのリザ・フェルシュトマンさんの情熱的な演奏はすてきだった。ブラームスのセレナーデも、躍動的な若々しさに惹かれつつ聴き入った。

Koncert symfoniczny

   

Wykonawcy
Program

Felix   Mendelssohn

- Uwertura koncertowa Hebrydy op. 26 [10’]

Felix   Mendelssohn

- Koncert skrzypcowy e-moll op. 64 [26']
Przerwa [20']

Johannes Brahms

- Serenada nr 1 D-dur op. 11 [49’]

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開演前の会場ホールと終了直後のフィルハーモニー

  9時半を過ぎ、帰り道は、さすがに人通りは少なくなっていた。さて、とり損なっていた夕食だったが、ホテルのレストランでのポーランド語のメニューを思うと気が重くなりそうということで、クラブサンドイッチとドリンクのルームサービスを頼むことにした。少し、無駄遣いかなとも思いながらの夜食だったが、「おいしゅうございました」。

 

 

 

 

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