2017年3月30日 (木)

二つのドキュメンタリーを見た、アウシュビッツと沖縄と(1)

「ただ涙を流すのではなく“分断する世界”とアウシュビッツ」(NHK-BS1226日)

旧聞に属するが、226日、国会や報道では、森友学園問題で大揺れであったが、夜は、NHK-BS1スペシャル「ただ涙を流すのではなく“分断する世界”とアウシュビッツ」を見ていた。番組予告では、「100万人を超えるユダヤ人が虐殺されたアウシュビッツ強制収容所。その悲劇を伝え続けているのが、世界各国出身のガイドたちだ。今、ガイドたちは、大きな危機感を抱いている。移民や難民をめぐり広がる排斥の声。世界が分断を深める中で、自分たちは何を伝えるべきなのか。ただひとりの日本人ガイド・中谷剛さんも語るべき言葉に悩んでいる。揺れるアウシュビッツのひと冬を追った。」とあった。

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 NHK-BS1、2017年226日午後8時~

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 NHK番組紹介ホームページより

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構内の収容所バラックのすぐ近くに、収容所長の住宅があり、家族とともに住んでいた。そこには平安な日常生活が営まれていたのだろう。私たちが見学した折は気づかなかった。NHK番組紹介ホームページより

2010年5月、私たち夫婦は、ポーランドのクラクフに2泊した折、アウシュビッツビルケナウ強制収容所見学のバスツアーに参加した。雨の朝、ホテルを出て、あちこちで道路工事の真っ只中の街に迷いながら、バスの発つマテイコ広場までたどり着くのに苦労した。ともかく、「英語コース」のバスに乗り、現地でも英語のガイドによる案内で、心細い思いをした。ただ一人の日本人ガイド、中谷剛さんとの縁はなかったけれども、この番組は逃してはならないと思った。

中谷さんは、1966年生まれ、1991年からポーランドに住み、猛烈な勉強をして、1997年アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所博物館の公式ガイドの資格をとり、ポーランドの女性と結婚されて、今もガイドの仕事を続けている。

日本から来た若い見学者のグループを伴い収容所構内や幾つもの展示室を案内するとき、ドイツナチス時代に、なぜこうした民族差別による大虐殺がなされたのかを、言葉を選びながら説明し、見学者が自ら考えるように、という思いを伝える。中谷さんは、偉そうには解説はできないと、丁寧で慎重な姿勢を崩さず、見学者に接しているようだった。同時に、ポーランド人、ドイツ人のガイドたちの悩みも語られてゆく。決して声高ではないけれど、力強く訴えるものがあった。ただ、ドイツ国民が、なぜナチスに雪崩れ打って、ここまでの虐殺がなされ得たのか、と、そこでなされた残虐の限りの実態を、そのファクトを検証する場でもある、アウシュビッツで起きたことをもっとストレートに語ってもよかったかと思った。

 私のわずかな経験からも、目の前に示される歴史上のファクトには、筆舌を超えるものがあり、それを次代に継承すること自体が、過去への反省と責任を伴って初めて成り立つことだと思えたからである。加害国のドイツ国内においてもかつての強制収容所跡を残し、ベルリンの中心部、国会議事堂直近の場所に、ホロコーストの碑を建設、様々な歴史博物館において国家としての反省の意思を示したドイツを思う。それに比べて、「自虐史観」と称して歴史教科書において、日本の侵略戦争の事実を少しでも薄めたい政府、民間人の集団自決に軍の関与がなかったような、曖昧な展示しかできない国立博物館、原発事故の原因究明がなされないまま、被災者切り捨て、原発再稼働を進める政府、教育勅語礼賛の安倍首相夫妻・・・を思うと、その格差に愕然とする。話はどこまでも拡散してしまうのだが、以下の、かつての旅行の記事も参照していただければ幸いである。

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展示室より

<当ブログ参考記事>

◇ポーランド、ウィーンの旅(2)古都クラクフとアウシュビッツ

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/05/post-f56e.html

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◇ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20289)(ザクセンハウゼン強制収容所ほか)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/11/20141020289-91f.html

20141117 ()

 

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2015年11月25日 (水)

「マイナンバー制度」は、日本だけ!? 先進国の失敗からなぜ学ばないのか

日本のマイナンバー制度は、国民の利便性や行政の効率化を考えてのことなのか

「マイナンバーのお知らせ」、 皆さんのお手元に届いただろうか。私の家には11 22日に届いた。全国から簡易書留の配達ミスや自治体の窓口での交付ミスが連日続いていて、関係者があちこちで頭を下げている映像を目にする。とくに千葉県内の件数が多いとか。情報漏えいについては万全を期しているという法律ながら、スタートの時点でなんとも基本的なミスが続くではないか。他人のマイナンバーがいとも簡単に知られてしまうリスク、その無防備さが露呈した。

マイナンバー制度について、内閣官房は「マイナンバー 社会保障・税番号制度 国民生活を支える社会的基盤として、社会保障・税番号制度を導入します。」、総務省は「マイナンバー制度は行政の効率化、国民の利便性の向上、公平・公正な社会の実現のための社会基盤です。」と、そのホームページのトップで説明する。果たして、ほんとうなのだろうか。

マイナンバー法とは「行政手続における特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律」の略称で200頁以上にも及ぶ。関連法合わせて四法を指すこともあり、すでに2013531日に公布され、来年20161月から運用が開始される。さらに、今年、201593日には、マイナンバーの利用範囲を預金口座や特定健康診査(メタボ健診)、予防接種にも拡大する改正法が成立した。日本年金機構の個人情報流出問題を受け、マイナンバーと基礎年金番号の連結は延期した。預金口座へのマイナンバー登録は、いまは、預金者の任意としているが、義務化が検討されている。義務化により、税務当局や自治体は、脱税や生活保護の不正受給を減らせると見込んでいるがほんとうにそうなのか。それより先にやることがあるのではないか。

どの先進国も、進めている「マイナンバー制度」というが、その実態は

10月の終わりに、テレビ朝日の玉川さんの「そもそも総研」で、一部外国での「マイナーバー」実施状況を知った。私も、ネット検索などで調べていくと、いろいろなことがわかってきた。いわゆる「先進国」で、日本のような、「マイナンバー制度」(国民共通番号制度)を採用している国は、見当たらないのだ。国民共通番号制を採用したが撤廃したイギリス、社会保障番号の民間利用を拡大したため「なりすまし被害対策」に必死のアメリカ、納税者IDカードとして税務以外の利用は一切禁止するドイツ、税と健康保険に留まるフランス・・・。いったいどうなっているのか。資料もいろいろ出てきたが、以下のようにまとめてみた。とくに、経過と課題の欄に注目してほしい。日本における、やがて連結される年金情報、健康保険情報などが民間にも開放されたとすると、保険会社や製薬会社などにとっては、格別の情報になってしまうのではないか。

 

諸外国の個人識別番号の現況           

 国名 

人口

 導入状況 

導入時期・対象 

 経緯と課題 
 アメリカ 

3億人

 

社会保障番号 

1936 

任意・民間へ拡大

 

大不況後の対策として社会保障番号制度(年金など)を導入、本人の申請による 

公的医療保険制度はなく、識別番号制度は保険提供者・保険者・雇用主に導入、患者にはない 

民間への利用を拡大したため、なりすまし被害が激増中 

ドイツ 

8000万人

 

納税者ID番号 

2009 

民間禁止

ナチスの体験から、番号を付することが人権侵害で憲法違反とし、情報管理の一元化・データ保護に非常に敏感 

2003~課税の公平性のため税識別番号導入へ(自治体ごと)

フランス 

6500万人

 

健康保険番号 

1998 

任意

1973~紙媒体から電子化、1978~税徴収のみに利用 

1998~健康保険IDカード、医療情報の制限 

日常生活カード、国家身分証明カードは未実施 

イタリア 

6000万人

 
 納税者番号 

民間一部利用

 
 2000~納税はすべて電子申告、現在は社会保障番号としても利用 

本人確認番号として利用拡大 

イギリス 

6300万人

 

国民保険番号 

1948~

 

2006~テロ対策として国民IDカード法成立 

2007 2500万人分のデータROMを紛失 

2010~に保守党に政権交代、国民IDカード法、すべてのカード情報を廃棄 

カナダ 

3000万人

 
 社会保険番号 

1964 

任意 

民間一部利用 

 社会保険料の徴収・受給者管理・給付。身分証明番号として利用 

データ保護意識高い 

オースト 

ラリア 

2150万人

 

納税者番号 

1989~ 

任意

 

1984~税方式による公的医療保障制度、1989~納税者番号取得は任意、カードの発行はない 

2010~保健医療識別番号導入、2012~患者・医療提供者の自主的参加、患者の情報選択が可 

デンマーク 

560万人

 

住民登録番号 

1964 

民間有料で可 

住所・氏名限定

 1968~住民登録制度による税・社会福祉など全行政サービスに利用される個人識別番号制度へ 

1990年代~家庭医登録制度、医療機関相互による効率化へ 

日常的な利用拡大 

日本 

12000万人

 

マイナンバー 

2016 

住民票への番号自動的付与 

民間へ随時拡大 

 基礎年金番号、健康保険被保険者番号、パスポートの番号、納税者の整理番号(旧、法源番号)、運転免許証番号、住民票コード、雇用保険被保険者番号などの一元化へ 

住民票に、氏名・住所・生年月日・性別・個人番号付与。カード配布申請任意  

  (末尾資料により、内野光子作成。201511月現在、未完)

 上記の表は、以下のPDFでもご覧になれます。
http://dmituko.cocolog-nifty.com/syogaikokunokojinsikibetu.pdf

 なぜ「マイナンバー制度」の導入を急いだのか
20161月から運用開始といい、当初は、法律をところどころ、また解説などを読んでいくと、マイナンバーが「行政の効率化、国民の利便性、公平公正な社会」のためにというけれど、今までの役所の縦割り、役所の杓子定規による市民の不便さ、生活保護費の不正受給、富裕層や法人への税優遇が、一挙に解決するとも思われない。相変わらずの役所仕事は続くだろう。ともかく番号一つで国民の個人情報をたばねて、何にでも運用し、国民のひとりひとりの人権に踏み入ろうという狙いは明らかだ。情報漏れに関しては、だれが責任をとることもなく、第三者機関による調査と再発防止をうたって、管理職が頭を下げれば、一件落着である。さらにいえば、役所や法人からのマイナンバー事業の委託や管理事業という、巨大な利権が動く。いわば「コンクリート」公共事業の頭打ちのあおりをIT産業に振り向けるための政策であったのである。 

生活保護費の不正受給や医療費の不正請求を取り締まることは、今のシステムだってできるはずで、やらなかっただけではないのか?軽減税率をどの範囲に決めるか?などはいわば、財政上から見ればむしろ些末的な案件であって、それよりも、法人税率を1%でも下げないこと、所得の分離課税から総合課税へ、 逆進性の税制を改めること、内部留保税の新設・・・など、「決める政治」ですぐにでもできる財源確保ではないか。それらを財源に、福祉予算の大幅増額によって、貧困、病苦、非正規雇用、少子などの悪循環を止めることができるのではないか。政府雇いの有識者からは、そんな意見がさっぱり聞こえてこない。

安保法制によって得をするのは誰なのか、危険にさらされるのは誰なのか。防衛予算や基地の増強は誰のためなのか。原発再稼働によって得をするのは誰なのか。安心安全な暮らしを奪われるのは誰なのか。同じような構図が見えてくる。

この1週間、一日2・3回、マイナンバーの問い合わせ番号0120950178に電話しているが、通じない。もうそれだけでも、私などは、先行きの不安を覚える。たださえ、高齢者をターゲットにさまざまなサギが横行する昨今、民間への利用を推進しようとする「マイナンバー」が、まるで、怪獣のように私たちに襲いかかってくるような恐怖を感じてしまうのだ。

<参考文献>
・「マイナンバー制度」が利権の温床に「IT公共事業」に群がる白アリども『選択』20133
・巨額血税「浪費」のマイナンバー大手IT企業が「談合」でぼろ儲け『選択』20155
・近藤倫子「医療情報の利活用をめぐる現状と課題」『情報通信をめぐる諸課題』国立国会図書館 2014

・黒田充(自治体情報政策研究所のブログ)
「先進国は全てマイナンバーのような制度を入れている」のウソ (1)http://blog.jjseisakuken.jp/blog/2015/04/post-d673.html
「先進国は全てマイナンバーのような制度を入れている」のウソ (2)
http://blog.jjseisakuken.jp/blog/2015/04/post-5cda.html
・玉川徹ほか「そもそもマイナンバー制度は海外ではうまくいっているの?」(約
17分)『そもそも総研』(テレビ朝日、20151029日)
http://www.at-douga.com/?p=14841
・猪狩典子(
GLOCOM国際大学グローバルコミュニケーションセンターのHM)「ICT利用先進国デンマーク」
http://www.glocom.ac.jp/column/denmark/igari_1_1.html
・高山憲之「フランスの社会保障番号制度について」(
200711月)http://cis.ier.hit-u.ac.jp/Common/pdf/dp/2007/dp344.pdf#search='%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9+%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%BF%9D%E9%9A%9C%E7%95%AA%E5%8F%B7'
・「国家情報システム(国民ID)に関する調査研究報告書―英国、フランス、イタリアなどにおける番号制度の現状」(国際社会経済研究所 20113月)http://www.i-ise.com/jp/report/pdf/rep_it_201010.pdf#search='%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2+%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%BF%9D%E9%9A%9C%E7%95%AA%E5%8F%B7'
・「諸外国における国民ID制度の現状等に関する調査研究報告書」(国際大学グローバルコミュニケーションセンター 20124月)http://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/linkdata/h24_04_houkoku.pdf#search='%E3%83%BB%E3%80%8C%E8%AB%B8%E5%A4%96%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%9B%BD%E6%B0%91%EF%BC%A9%EF%BC%A4%E5%88%B6%E5%BA%A6%E3%81%AE%E7%8F%BE%E7%8A%B6%E7%AD%89%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E7%A0%94%E7%A9%B6%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8%E3%80%8D%EF%BC%88%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC+2012%E5%B9%B44%E6%9C%88%EF%BC%89'

 

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2015年11月 3日 (火)

「ヒトラーの暗殺、13分間の誤算」(2015年)を見て

藤田嗣治の展覧会の後、夫と日比谷で待ち合わせ、映画を見てきた。今回の映画の主人公、ゲオルク・エルザーは、昨年のドイツ旅行の折、ベルリンの抵抗運動記念館で、初めて知った名前だった。下記の当ブログにも、つぎのように記していた。

ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.2028(7)20141115日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/11/2014102028-d8b1.html

「第7室は、たった一人での暗殺計画で1939118日に逮捕されたミュンヘンの家具職人ゲオルグ・エルザーについてで、彼の生い立ちから始まって、アウシュヴィッツ強制収容所を経て、19454月ダッハウ強制収容所で殺害されるまでの足跡を克明に追跡した記録が展示されていた。」

(一部訂正済み)

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ドイツ抵抗運動記念館第7室のエルザーのパネル(リーフレットより)

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ドイツ抵抗運動記念館第7室入口(2014年10月撮影)

 この映画の主人公がエルザーと知ったとき、見逃してはならないと思った。実話に基づいた映画を見、その後調べてみると、上記の私の記事には、間違いがあることがわかった。抵抗運動記念館の展示の解説の肝心のところが読み取れていなかった。エルザーが生まれたのは、ミュンヘンの北西ケーニヒスブロンという町であり、ミュンヘンは、ヒトラーの演説中の暗殺計画が未遂に終わった事件の現場、ビヤホールがあった都市である。なお、アウシュヴィッツに送られたかは、今回確かめられなかった。映画でも、「5年後」のダッハウ収容所で解放直前の194549日に銃殺されたことはわかったが、途中が定かではない。ただ、調べてみると、やはり昨年訪ねたベルリン北部のオラニエンブルク市のザクセンハウゼン強制収容所に、かなりの期間収容されていることもわかってきた。収容所の資料館でもエルザーに関する展示があったのを思い出す。こうなるともう語学の問題で、情けないながら、資料の前を素通りしていたのだ。それはさておき、映画に移ろう。

 ミュンヘンのビヤホールの柱に、暗がりの中、時限爆弾を仕掛けている男がいた。ミュンヘン一揆を記念して、毎年開かれるヒトラーの演説会の壇上の柱にである。1939年11月8日、ヒトラーは、演説中に、天候の不順で飛行機が飛ばなくなったことが知らされる。ちょうどその頃、爆弾を仕掛けていた男エルザーは、仕掛けた時刻が迫るのを気にしながら、スイスとの国境を超えようとしていたところを不審者として捕えられた。ヒトラーが会場を後にした直後、ビヤホールは爆破し、8人の犠牲者を出し、ヒトラー暗殺は未遂に終わった。13分早く、演説を切り上げたためだった。エルザーが所持していた設計図などから実行犯と目されるのだが、名前や生年月日さえ明かさない。さまざまな拷問の末、元婚約者まで動員して、ついに自供させる。その取調べの過酷さの合間に、田舎の、気のいい家具職人の青年エルザーが、なぜ、暗殺を計画するまでに至ったのかが、丁寧に描かれる。取調べにあたったのは、親衛隊組織の両翼をなす保安警察(ジポ)と秩序警察(オルポ)の保安警察、その保安警察の中の、いわゆるゲシュタポ(秘密警察局)の局長ハインリヒ・ミュラー、刑事警察局長アルトゥール・ネーベという超大物で、ヒトラー自身の指示であったという。ヒトラーは、エルザーの単独犯行が信じられず、必ず共犯者や黒幕がいるとの見立てで、拷問に続く拷問で自供を迫れとの指示を出す。飲んだくれの父や貧困との葛藤、夫からの暴力被害にさらされている女性との恋、特定の政党に属するわけでもなかったが、地域の有力者や子どもたちまでが、ナチスのプロパガンダにはまってゆくことに危機を感じていた。共産党員の友人やユダヤ人と付き合っていただけの幼馴染の女性が捕えられ、自らの自由も日毎に狭められていく息苦しさと正義感から思い詰めたエルザーは、綿密な計画により決行に到る。

 ミュラーとネーベの取調べの手法は対照的で、ミュラーが強権的で、ネーベはやや温情的な側面を見せる。事務的で冷やかな女性書記も、ときには、ひそかに頼みごとを聞いてくれることもある。しかし、エルザーの信念と単独決行は揺るぎないままであったようだ。映画では、その後、彼は収容所に送られ、処刑されないまま5年を経、ダッハウ強制収容所の特別囚として過ごしていたことが伝えられる。19452月半ばのドレスデン爆撃、ナチスの崩壊が確実となった194549日、突然、処刑ではなく、テロによる殺人ということにして、銃殺される。それに先立つ、3月には、かつて取調べにあたったネーベは、その後、ヒトラー暗殺計画に関与したとして絞首刑に処されるのである。 映画は、このネーベとエルザーの死で終る。エルザーの婚約者だった女性は、1994年に亡くなるが、波乱の人生だったようである。

 戦後70年、ドイツでの、いまだこうしたレジスタンス映画を通じて、ナチスの歴史の真相に迫ろうとする姿勢や動向を、つい、いまの日本と比べてしまう。ナチス時代のドイツは決してヒトラー一色ではなかった証として、ヒトラー暗殺事件は、40件にも及んでいた、という指摘もうなずける。いまの日本は、歴史の不都合を消し去ろう、消し去ろうとする勢力が、暗雲のように頭上を覆う時代、この現実をしかと記憶に留め、異議を唱え、過去とは真摯に向き合いたいと思う。

 もっとも、戦後の東ドイツと西ドイツにおいても、エルザーにまつわる史実は、長い間封印されていた。なぜかと言えば、映画のプログラムでは、つぎのように語られている。「西ドイツでは、共産主義者の偏屈なドイツ人とみなされ」、「東ドイツでは、ドイツを解放したのはソ連赤軍だとして」、エルザーのような存在は無視され続けた(鳥飼行博「ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺計画」)と。エルザーの復権署名運動は1993年に始まり、ミュンヘンには、「ゲオルク・エルザー広場」があり、爆弾が仕掛けられたビヤホールには、記念碑がつくられ、切手まで発売されるようになった。

 なお、ゲオルク・エルザーが、未遂とはいえ暗殺事件の実行犯であったのにもかかわらず、すぐに処刑されなかったことには、諸説があるらしい。イギリスの謀略による暗殺事件だと内外に公表しているので、将来、エルザーはその証人となる大事な要員であったからとか、ヒトラーがエルザーの暗殺を免れたのは「神の摂理」であるということが喧伝されたので、暗殺未遂は、ヒトラーサイドによる自作自演の要員として利用したからとか・・・。エルザーが収容されていたダッハウは、他と比べて、政治家や聖職者、文化人などが多い収容所であり、処遇の定まらない要人も多かったらしい。

 また、エルザーの取調べにあたった、ネーベは、意外な展開で処刑されるに至るのだが、過去にはさまざまな大量処刑の指揮を執った軍人であった。ミュラーは、ヒトラーの最期に立ち会った人物ながら、その後、行方不明となり、海外に逃亡して生き延びているという噂も飛び交った。しかし最近になって、ドイツ抵抗運動記念館の調査により、すでに19458月、ベルリンで遺体となって発見された後、ユダヤ人墓地に埋葬されていたことが確認されたという。

 できるなら、ドイツ再訪の折は、一度、ミュンヘンには立ち寄りたいと思っている。かつて、このブログの記事にもした映画「白バラの祈り ソフィー・ショル、最後の日々」(2005年) の舞台もミュンヘンだったのだ。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/07/post-6185.html2013715日)

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映画のスタッフについて(プログラムより)

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エルザーが一時収容されていたザクセンハウゼン強制収容所跡(2014年10月撮影)



 

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2014年11月17日 (月)

ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20~28(10)

ベルリン最後の日、動物園をめぐる

1027日、さすがにきのうは疲れたのか起床は9時近く。あわてて朝食に向かう。むしろこんな時間の方が混んでいるのがわかった。テーゲル空港午後257分発なので、午前中はのんびり動物園でも回ろうということになった。いつも遠くから眺めていたカイザー・ウィルヘルム教会にも寄ってみるが、ここも改装中であった。動物園の入り口には、週日というのに、かなりの行列ができていた。家族連れも多い。何しろ広くて、緑と黄葉が青空に映えていた。夫のお目当てはトラなのだが、角々の案内板を確かめながら歩く。多くは、囲いや濠をめぐらされた中での放し飼い、鳥たちは自由に飛びかい、水どりは道端に休んでいた。猛獣はさすがに獣舎の檻の中だったが、トラはお休み中か、見当たらず、ライオンのカップルが堂々としながらも、ときどきのしぐさに子どもたちは歓声を上げていた。噴水近くのベンチでおやつを広げ、私は今回の旅で初めてスケッチブックを開いた。少し早めだが、ホテルで荷を受け取り、Zoo駅近くからの空港バスに乗る。お土産は一切買っていないこともあって、空港で少し時間をとりたかった。ところが、テーゲル空港の乗り場などを確かめているうちに、というより、華々しい土産店は見当たらず、そのままフランクフルト行きに乗ることになってしまった。乗換のフランクフルト空港にはさすがに様々な店が並ぶが、もうどうでもよくなってしまって、必要最小限度にとどめた。娘からは「これぞドイツというチョコレートを買って来てね」とのリクエスト。前回は、ビルケンシュトックの靴を頼まれ、苦労したのを思い出す。

ドイツにはもう一度来れるだろうか、ミュンヘンやハンブルグも訪ねたい、ライプチッヒやベルリンは、もう一度訪ねたい街だ。

25年前の1989119日はベルリンの壁崩壊の日、その後の東西ドイツ統一から四半世紀ということで、さまざまな催しや回顧、見直しの動きもあるドイツの街に、短期間ながら居合わすことになった今回の旅、収穫は大きかったと思う。これから、ドイツに学ぶことも多いのではないか。日本の選択、ドイツの選択についてゆっくり考えてみたい。

11月半ばの4日間、沖縄知事選、那覇市長選が終盤戦にかかったころ、私たちは沖縄を訪れていた。そのさなか、あれよあれよという間に意味不明の国会解散風が吹きだした。勝算ありと見たのか、ご乱心か、消費税増税見送りをもって、 国民の意思を問うのが民主主義とか言い出す安倍首相。閣僚人事の失敗、10%への消費税増税の見込み違いや外交の手詰まり感が蔓延するなか、原発再稼働、集団的自衛権行使容認、TPP参加などについては、まったく民意に耳を傾けない安倍政権。「地方創生」と言いながら、沖縄の基地は国家の安全保障政策の問題、辺野古移設はすでに過去のこと、一地方の沖縄の民意には左右されない!というのが安倍政権のスタンスなのだ。

つぎは、沖縄旅行のレポートとしたい。

Gedc4030ベルリン動物園1

Gedc4025ベルリン動物園2

Gedc4031ベルリン動物園3

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これが、探していた議事堂近接フェンスに掲げられた、東西分断の壁を越えようとして犠牲になった人々の追悼パネル。路線バスの窓から見つけて、あわてて途中下車し、手を合わせた

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ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20~28(9)

ベルリン3日目、冬時間へ

私たちが日本を発ってすぐに小渕・松島両大臣が辞任したことは、ホテルの新聞で知った。その後の娘からのメールでは、後任の両大臣にも、つぎつぎとボロが噴出しているとのことであった。こちらではテレビを見るゆとりもなく、天気予報を見るくらいだった。青空を見ることは少なかったが、傘をさして歩いたのは、フランクフルトの2日目の夕方だけだったように思う。

1026日(日)、いよいよベルリンも3日目となった。朝6時、早すぎるかなと思いながら、旅のメモでも取っておこうと、ふたたび枕元の時計を見ると、?まだ5時?ホテルの時計が止まっている!と夫に告げると、「そう、きょうからだったのかな、冬時間に切り替わったかもしれない。旅行社のMさんが言っていた」とのこと。この時期に影響の少ない日曜日に夏時間から冬時間に切り替わるらしい。少し得をした気分ではあった。ほんとうにドイツの朝は、明るくなるのが遅く、7時になっても真っ暗だった。早めの食事を済ませ、夫は、きょうの目的地、ザクセンハウゼン強制収容所への予習に余念がない。そして、きのう、私が「なんか気持ちの重くなる所ばかりをまわてきたので、コンサートにでも行きたいね」と口走ったばかりに、夫は、昨晩のうちに、今夜ベルリン・フィルハーモニーでドイツ・シンフォニー・オーケストラのコンサートがあることをホテルで確認、予約を依頼したが、当日売りで入手してくれとのことだった。その方もやや気がかりではあった。

ザクセンハウゼン強制収容所へ

Sバーンでベルリン中央駅に出て、RB(Regional Bahn)5で強制収容所の最寄駅Oranienburgオラニエンブルクに向かう。944分発、約30分。駅からは歩いて20分というが、804系バスには、学生だろうか、日本の若い女性3人組と一緒に乗った。終点バス停の前で、帰りのバスを確かめ、1時間に一本なので午後19分とした。厚いコンクリートの壁の切れ目から入場、収容所の入り口は、長い石の塀に沿った一本道、いわゆる「収容所通り」を進んだところらしい。その途中の塀には、強制収容所での出来事が大きな写真で展示され、その役割を強く印象づけられる。ナチス解体後は、ソ連、東独の特設収容所となっていたのである。入口の正面にはレーニンの顔写真が掲げられている写真もあった。

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バス停を降りると、こんな壁の間を縫って

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 収容所通りには黄葉が舞う

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目を覆いたくなるような展示が続く

以下は、入り口で購入したコピーの日本語案内(50セント)による。19333月、ナチ突撃隊によってオラ二エンブルク市の中心部に開設された収容所は、一時3000人以上の人が収容されていたが、19347月に親衛隊に引き継がれ閉鎖している。1936年現在の地に、収容所建築のモデルとなるべく、親衛隊により設計されたのがザクセンハウゼン強制収容所だった。1938年にはドイツ支配下のすべての強制収容所の管理本部の役割を果たしていた。以降194542223日、ソ連とポーランドの軍隊ににより解放されるまで20万人以上の人が収容され、飢え、病気、強制労働、虐待、さらには「死の行進」などにより多数の犠牲を出した。当初は政治犯が主だったが、後は人種による収容が多くなった。19458月からは、ソ連の特設収容所として、ナチス政権下の役人や政治犯らで、その数6万人、少なくとも12000人が病気や栄養失調で犠牲になっている。1961年以降は、ソ連軍東独軍の施設として利用されていたが、1961年に国立警告・記念施設としてスタートした。1993年以降東西ドイツの統一により、国と州に拠る財団で管理され、「悲しみと追憶の場所としての博物館」となり、残存物の重要性が見直され、構想・修復されて現在に至っている。

案内所では、オーディオガイドも借りられるが、日本語はなくて、上記のA420数頁のコピーによる案内だけが用意されていた。収容所は、見取り図でもわかるように、正三角形からなり、その一辺の真ん中が入り口となっており、その鉄格子の扉の「ARBEIT MCHT FREI」(労働すれば自由になる)の文字は、アウシュヴィッツ収容所の入り口のアーチに掲げられている文言と一緒である。その一辺を底辺とすれば頂点に近い位置に、東独時代の石の記念碑が立っている。入り口近くに扇型の点呼広場⑫を中心として、バラックと呼ばれる収容棟が放射線状に68棟建てられていたことがわかる。各棟敷地跡には区切られ、砂利が敷き詰められていて、いまは広場から一望できる。最も管理がしやすい形だったのだろうか。

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入口から正面のオベリスクは高さ40mあるという

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”ARBEIT MACHT FREI”の文字が見える

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③ 収容所通り ⑩ 入り口 ⑫ 点呼広場

 まず、博物館で、予備知識をと思い入館した。収容所の変遷が分かるように、展示・映像・音声装置などにも様々な工夫がなされていたが、見学者は極単に少ない。ここでは、やはり、フイルムと写真という映像の記録の迫力をまざまざと見せつけられた。さらに、現存の収容棟の一つには、ユダヤ人収容者の歴史が個人的なデータを含めて展示され、べつの収容棟には収容者の日常生活が分かるような展示がなされていた。結局、2時間余りでは、全部は回り切れず、いわば、本部に当たる監査棟、病理棟、強制労働がなされた工場棟、犠牲者の墓地など大半を見残している。が、総じて、権力を持った人間が持つ狂気、それに押しつぶされる人間の良心と抵抗の力をも、あらためて知ることになるのだった。

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博物館、ある画家の残したエッチングなど

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博物館、流れる映像と鉄条網の束

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バラック38は、収容棟博物館になっている

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遠くの施設には足を運べなかった

当日券でコンサートへ
 オラニエンブルクからポツダム広場に直行、きのうも出かけた「文化フォーラム」の一画にある「フィルハーモニー」のコンサート会場には3時過ぎに着いたのだが、夜8時からの開演で、当日券は630分から発売とのことだった。それではと、近くの新国立美術館に入ってみることにしたが、これまた、まさにドイツの現代美術展であって、抽象画や奇妙なオブジェも多く、正直なところ馴染めないまま、一回りだけはしたのだった。この間にとソニー・センターの2階のレストランで夕食となり、少しゆっくりしたのだった。きょうも結構歩いたなと、万歩計をのぞけば、13000歩、ドイツに来てからは、130002万歩で、日常的には多くて5000から6000歩なのだから、いつもの3倍は歩いていることになる。頑張っているではないかと自分をほめたい?感じ。
 ようやく当日券入手、迷いはしたが、座席はFブロックで32€(プログラム2€)、7時には開場とのことだったが、だいぶ遅れた。大ホールは、複雑な重層的な構造で、F席は3階のようである。この会場では、まだ先のようであるが、内田光子や辻井伸行のリサイタルも開催されるらしい。開演間際になると、AB席はほぼ満席、F席は67割か、まるで空席のブロックもあり、全体として45割程度なのかもしれない。ワグナーの「ジークフリート牧歌」とバルトークの「弦楽器と打楽器、チェレスタのための音楽」で休憩に入るので、そこで失礼することにした。ワグナーは、やさしい子守唄を聞いているようであったし、バルトークは、チェレスタ・ピアノ・木琴をはじめ打楽器が多彩で、ピアノの連弾もあって、たのしく聴くことができた。ベルリン最後の日も長い一日となった。

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チケットと大ホールの見取り図

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大ホールをF席から見ると

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2014年11月16日 (日)

ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20~28(8)

この辺り一帯をベンドラー・ブロックと呼ぶらしい

 未消化ながら、その抵抗精神を貫いた人々の足跡に圧倒されながら、抵抗運動記念博物館を後にしたわけだが、外に出てみると、Polizeiの文字の車が並び、点々と警官が立っている。何ごとかと思えば、絵画館前辺りで、気勢をあげている一団、せいぜい20 人くらいの人たちが、遠目で分からないのだが旗を振りながらシュプレヒコールをしているのを、多くの警官が囲んでいるではないか。ネオ・ナチ?詳細が分からないまま、私たちは反対側の歩道を進んだ。この辺り一帯は、都市計画の設計者にちなんでベンドラー・ブロックと呼ばれているらしい。さまざまな公的な文化施設が立ち並んでいて、「文化フォーラム」と名付けられている。その一角に、翌日再び来ることになるコンサートホールの「フィルハーモニー」もあったのである。

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「文化フォーラム」翌日訪ねたフィルハーモニーも、新国立美術館もこの一角にあった

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近づくのが憚られ、遠景になった

 つぎは、ポツダム広場を経て、ブランデンブルグまで、歩くことになった。広場では、残された「壁」の付近を写真におさめた後、広大なティーア・ガルテンを左にしながら、黄葉の並木道を歩くのは苦にならなかった。2008年の際は、あのブランデンブルグ門わき、いわば都心の一等地に建設されたホロコースト追悼モニュメント、方形の、高さの異なるコンクリート塊による“巨大迷路”のような建造物に圧倒されたのを思い出す。「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のために」2005年5月に完成して、3年目であったのだ。議事堂をもまじかに控えたこの地に、ドイツが、こうしたモニュメントを建設したこと自体、日本という国の在り方、歴史認識の違いを目の当たりにして驚いたのであった。きょうは、ウンター・デン・リンデン通りを進み、博物館島あたりまで歩いてみようということになった。かつては素通りしてしまったカフェ・アインシュタインにも立ち寄りたいと連れ合いはいう。また、その前に、たしか議事堂脇の道端にあった、ブランデンブルグの東西分断の壁越えをしようとして犠牲になった人たち、多くは若者たちを追悼する碑をもう一度訪ねたいというのが連れ合いの希望だったが、どうしても見つからなかった。

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ホロコースト碑、19073平方メートルに2711基の石によるオブジェだが、墓石のようにも、石棺のようにも・・・

シンティ・ロマ族追悼記念碑

 そこで、迷い込んだ?のが、新しいアクリル板の長いモニュメントに囲まれ、円形の池を擁する一画であった。パネルの説明と出口で手にしたリーフレットによれば、ナチス時代のシンティ・ロマ族のジェノサイドによる犠牲者の追悼記念碑であった。荘厳な音楽が辺りに流れ、池の周囲には、真新しい花束がいくつか供えられていた。よく見ると、1024日に式典が行われているらしかった。ジプシーであった少数民族シンティ・ロマ族は、ドイツ民族の純潔を汚すとして、1933年から迫害が始まり、絶滅政策の犠牲になった。ユダヤ民族への迫害・絶滅については、多くの記録が残され、語り継がれているが、シンティ・ロマ族に関しては、知られることが少なかったという。この記念碑建設までには、その立地、解説文などを巡って、多くの歳月を要し、201210月に完成している。私も無知に等しかったが、ドイツやナチスの歴史には、わずかながらページを割き、書かれていたのをあとで知った次第である。今回は素通りの国会議事堂の、まさに足もとにこうした追悼記念碑が建設されたことに、先のホローコスト追悼記念碑の建設と同様な感慨を覚えるのであった。

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石畳のところどころに、犠牲者の名前が彫られていた

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リーフレットの一部(1)

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リーフレットの一部(2)

ブランデンブルグ、その周辺
 一帯は、相変わらず観光客が引きも切らず賑わっていたが、門の正面には、たしか以前にはなかった、一風変わったモニュメントがあるのに気付いた。ポーランド絶滅戦争についてのメッセージが込められているのだろうか、金網で囲われた厚い壁のような柱状の中に人間の顔ほどの大きさの石が積まれているのだ。側面には、その歴史を語る写真と解説パネルが貼られていた。「ここにも・・・」の思いが去らない。なお、もう少し進むと右手の大きなビルには、ホテル・アドロンの表示があった。ここは、かつて三国同盟時代の松岡洋右外相が泊ったホテルであったが、ベルリン市街戦下では野戦病院にもなったといい、1945年3月には焼け落ちている。ホテル再開は1997年で、いまはケンピンスキー系列の五つ星のホテルになっている。オバマ大統領も泊ったそうだ。ホテルを右に折れる街路は、ナチス時代の各省が並んでいた官庁街、現在は、ホテルと街路をはさんでは警察本部が、ホテルの並びにはイギリス大使館などが並んでいた。

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「ポーランドにおける絶滅の戦争」(?)名付けられていた

 さらに進むと、向かいのスタバの前を、絵画館前にいた一団が警官に守られながら?行進をしているのに再会する。そちら側に渡ってしばらくすると、ブラント元首相の資料館があった。連れ合いは、寄ってみたいが時間が気になると、まずはカフェに急ぐ。アインシュタインの店内は満席に近く、ようやく見つけた相席で、頼んだラテ・コーヒーとバニラクリームつきのケーキは格別だった。よく考えてみると、結局昼食抜きで4時過ぎまで歩いていたのだが、ケーキは二人で一つを分け合って正解だった。その大きかったこと。一息ついて、はや暮れかかった通りを進めば、巨大なフリードリヒ大王の騎馬像が目に入る。ただ、いまだ再開発の工事だろうか、これも背が高いクレーンが、頭上高くコンクリート塊を挟んだまま止まっているのは恐ろしかった。まずフンボルト大学の門をくぐり、建物に入ればエントランスホールは、明るくにぎやかだった。前庭の様々な銅像のいわれを知りたいが、先を急がねば。振り返れば、大学の建物は少し前にライトアップされたようだった。

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ごちそうさまでした 

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フンボルト大学のライトアップ

 道路を挟んだベーベル広場には、今日の目的でもあるナチス時代の焚書の記念モニュメントがあるはずである。この広場の左手は国立歌劇場だが、大改修工事中らしい。かつての国立図書館に面したベーベル広場は焚書広場とも呼ばれているのに、見渡しても、そのモニュメントらしきものがない。「焚書」を象徴する「空っぽの図書館」があるはずなのだが・・・。すると、すでに薄暗くなった広場の工事中の板塀付近に人だかりがしているので、近づいてみると、ありました!足もとの石畳が大きく繰りぬかれ、ガラス張りの下には真っ白な書棚だけが見え、みんなが覗いていたのである。地上には、板塀に、その表示があるだけだった。それだけのことだったのだが、「焚書」という歴史的事実を忘れないためのモニュメントとして、地下からの白い光の束は、やはり衝撃的であった。

 

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工事中の板塀に、こんな表示だけがあった。1933年5月10日、ナチスによりハイネ、ブレヒト、ツヴァイク、マルクス、ケストナーらの本が焼き払われた

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深さ5mというが、空洞で、焼かれた2万5000冊の本が収まる空っぽの本棚

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抵抗運動記念博物館に展示されていた「焚書」時の写真

 すっかり暮れてしまい、昼食抜きで歩いたためか、疲れもピークか、ここからバスの100系でZoo中央駅に引き返すのだが、初めてバスの2階席に上がってみた。かなりの大回りながら、街の夜景が眩しかった。明日は、少し遠出の予定である。レストランに行くのが面倒と、ホテルでのテイクアウトの夕食とあいなった。

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2014年11月15日 (土)

ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20~28(7)

国立図書館で遊ぶ?

1025日(土)の午後は、グリューネヴァルトからポツダム広場へ直行、そこから遠くはないはずの「ドイツ抵抗運動博物館」(Gedenkstatte Deutscher Widerstand/ドイツレジスタンスメモリアルセンター)をめざす。ポツダム通りを道なりに行けばいいはず。その途中で外壁には足場が組まれている建物に、Staats Bibiliothek、国立図書館の文字が見える。元図書館員としては寄らないわけにはいかないだろう。中に入ると広いホール、カウンタはずーっと奥で、その手前には、人間の背丈ほどもありそうなロッカーが並ぶコーナー、パソコンの検索機が並び、展示パネルも並ぶ。そして、当然のことながら、奥のトイレ近くに、カードボックスが追いやられていた。展示は、図書館の沿革がわかりすく解説されていた。 ちなみにと、検索機で、私たち二人の著書を検索してみたが、見つからずじまい。それならば、「森鷗外」「村上春樹」とで検索してみると、百件単位で出てくるのだから、検索が間違ってはいないのだろう。そんないたずらをしたあとは、ホールのベンチで一休みし、目的地に向かう。

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外壁工事が続く、国立図書館 

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 図書館ホール

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 カードボックスは、ホールの片隅に

 

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 十数分野に分かれたリーフレットのガイド

  
ドイツ抵抗運動博物館
 図書館の向かいのマタイ教会と新ナショナルギャラリーの間の道を進むと、それはあった。入口は狭いが、中庭は広い。ここはかつての陸軍最高司令部で、ヒトラー暗殺計画に関与した軍人たちが銃殺されたという惨劇の広場でもあり、その追悼碑と中央には男性立像がある。二の腕を胸につけて突き出した拳の両手を直角に組んでいるのは、その抵抗の意思の強さを示すのだろうか。

 そして、中に入って、また驚いた。ガイドのリーフレットに拠れば、テーマや事件、活動主体ごとに18室に分かれている。どこを重点的に見ればいいのか。リーフレットにも英文が併記されているので、それを頼りに、展示室を進む。受付で尋ねたところ、日本語のカタログはないが、英語ならありますと、あちこちの棚から選んで持ってこられた。比較的薄い冊子を購入することにした。展示室は、たとえばワイマール共和国時代から国家社会主義の台頭、労働者、芸術家、文学者、クリスチャン、赤いオーケストラ、白バラ、移民、ユダヤ、シンティ・ロマなどをテーマにまとめられている。とくに、200人以上が逮捕され、その中心的リーダーたちがここの広場で銃殺された、1944720日ヒトラー暗殺計画事件については幾室にもわたって詳しく展示・解説されていた。また、第7室は、たった一人でヒトラー暗殺事件を計画、未遂に終わり、1939118日に逮捕された家具職人ゲオルグ・エルザーについてで、彼の生い立ちから始まって、ザクセンハウゼン強制収容所を経て、19454月9日ダッハウ強制収容所で銃殺されるまでの足跡を克明に追跡した記録が展示されていた。第15室は、映画「白バラの祈り」で、私も初めて知った、ミュンヘン大学の女子学生ゾフィー・ショルと兄や仲間たちとの抵抗運動についてまとめられていた。どの室の展示もさまざまな工夫が凝らされ、弾圧と抵抗の詳細が分かるようになっていた。しかし、写真からのメッセージはインパクトはあるが、解説を即座に理解するのは至難の業で、眺めて、通りすぎる程度であった。小ホールでは、見学の生徒たちが館員から説明を受けているようであった。丁寧に見ていたら一日はかかりそうな、といっても、言葉の壁はもはや苦痛だろう。帰国後、たとえば、クライザウ・サークル(KreisauCircle)とかジプシーSintiRomaについて初めて知ることも多かった。

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ドイツ抵抗運動博物館の入り口に、その沿革が。英訳も付されているが

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ヒトラー暗殺計画の軍人たちが銃殺された中庭、中央に男性立像の追悼モニュメントが見えるだろうか

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処刑者の追悼碑

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ドイツ抵抗運動博物館リーフレット

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第7室 ゲオルグ・エルザーの生涯

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処刑されたゾフィー・ショル(右)とミュンヘン大学、白バラの学生たち、左隣がショルの兄

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2014年11月 7日 (金)

ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20~28(6)

家庭的なレストラン、Heisingで  
   10月24日(金) 午後、ベルリン中央駅を経て、定刻の15:08分には、Zoo中央駅に着いた。ホテルSoftilは、カイザー・ウィルヘルム教会の通りを越えた、6・7分ほどの角。 7階、室内は、現代の抽象画で統一されていた。また、バスタブは、シャワー室ともトイレとも仕切られていて、なんとなく落ち着く空間になりそうだった。まだ、夕方までには時間がありそうなので、どこかへ出かけようなどと話してはいたが、私は、車中で分けてもらった缶ビールの酔いが回ってきたのか、疲れと睡魔に襲われ、ベットで一休みとなだれ込んだ。そして、なんと起こされたのが6時半、2時間は眠っていたことになる。ここから遠くないところで、行ってみたい、評判のレストランがあるからというので、出かけてみることになった。歩き出すと、どうも右足が少し痛い。踏み出すとき、踵が痛む。予約はしてなかったのだが、入口に近い席でよかったらとその一つに案内するのは、年配の紳士で、片言の日本語で迎えてくれた。オーナー夫婦のご主人らしかった。三品のコースを頼んで、連れ合いは赤ワインを、私は情けないがソフトドリンクとした。メインは仔牛のステーキだった。店内の壁や調度品などには年代が伺われ、落ち着いた雰囲気であった。空いていた2つのテーブルも埋まり、続く来店客は何組か断られていた。ときどきワインを注ぎに来るご主人に、連れ合いは、突然、日本語で「オゲンキデスカ」とか問われて、戸惑っていたのがおかしかった。私は、いささか元気を取り戻して、ホテルでは洗濯をしたのだが、どうも足が痛むので、やたらと湿布とバンテリン軟膏をぬって、休むことにした。あしたは、最悪の場合、私はホテルに残ってとも考えていた。

  鎮魂の17番線ホーム
  10月25日(土)、なんとか足の痛みもひいたので、一緒に出掛けることができた。駅でベルリンカード(3日間)を購入、グリューネヴァルトの「17番線ホーム」をめざす。この「17番線ホーム」のことを最初に知ったのは、歌人正古誠子さんのエッセイだった(「ベルリンを歩く」1~2『言葉』20~21号2008~2009年)だった。もしベルリンにもう一度来ることができたら、ぜひと思っていた。ポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所を訪ねたのは2008年だったが、ベルリンのユダヤ人の多くが、このグリューネヴァルトの「17番線ホーム」から、アウシュヴィッツやテレジン、リガの強制収容所などへと送られていたのである。そして、その記録が、いまは使用されていない、貨物列車専用ホーム17番線に刻まれているという。 
  下車したのは、何の変哲もないグリューネヴァルト駅、幅広いホームには乗客の姿もなく、無人駅にも思え、地下通路へ降りると”GLEIS 17”の看板が見えるだけである。さっそく階段を上ると落葉が降り積もるホームがどこまでも続いているかと思うほど長い。その線路側には、白いバラの切り花が延々と続く。そして、足下は、錆びた鉄の格子状の板が敷き詰められている。が、よく見ると、その白バラの下に"25.1.1942/1014/JUDEN /BERLIN-RIGA"といった文字が刻まれている。「1942年1月25日に1014人のユダヤ人がベルリンからリガへこのホームから発った」ことが刻まれているのだ。駅には、1941年10月18日から1945年3月27日まで、183枚のこのプレートが敷きつけられ、その人数は1万7000人 に及ぶという。見た感じでは、テレジン行きが一番多いように思われた。
  ホームには、時折、ジョギングの青年や犬を連れた家族連れなど地元の方々が、すれ違い、通り過ぎてゆく。辺り一帯は、昔も今も、高級住宅地でもあるという。靴底から伝わってくる鉄と落葉の感触とかすかな音のみの世界、すっかり黄色に染まった木々の葉は、ときには私たちの肩にも触れて、ホームの白バラの上に落ちる。その下に刻まれた文字が示す、遠い過去の戦慄の事実に、身も心もなえてしまう。人々は、こんな季節にも、列車に押し込まれ、この地を離れて行った。そのときの心を思うと、いまの私は何をしたらいいのか、立ち尽くすばかりだった。

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"25.1.1942/1014/JUDEN /BERLIN-RIGA"の文字が読める

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この駅にある店は、花屋とパン屋さんだけだった

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この駅舎からは、想像もできない事実を秘めている

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駅の外からも、このホームに登れるようになっている

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日常的に供えられている花なのだろうか。だいぶ雨に打たれているようでもあった。
帰国後、今年は10月15日に73年目の追悼式が行われたことを知った

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帰国後、持ち帰った資料の中から出てきた、10月15日追悼式のプログラムとその表紙

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忘れないために。17番線ホームの外からの上り口に、コンクリートに彫られた追悼碑は、ポーランドの彫刻家の手によるという。女性や子どもとわかる姿も刻まれている

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語り継ぐために。駅前にあったブック・ボックス<17番線ホーム文庫>

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帰りの地下通路で、こんなポスターを見かけた

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2014年11月 6日 (木)

ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20~28(5)

マルクト広場に金曜の市場が

 1024()、今日の午前中で、ライプチッヒを離れる。まず、マルクト広場を経て、元国家保安省にあるルンデ・エッケ記念博物館に行ってみることになった。今朝のマルクト広場は、乗り入れの車とテント、市場の準備に実ににぎやかで、すでに買い物を始めている人もいる。

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金曜朝のマルクト市場、かぼちゃもごろごろ・・・。

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”kaki"は、平たいものでなく、筆柿を大きくしたような形で、甘かったので、今回、2度ほど買い込んだ

 

ルンデ・エッケ記念博物館~まーるい角の国家保安省跡に
 ルンデ・エッケ記念館というのは、ナチス時代、東独時代における国家保安省の建物に、当時の国民監視・弾圧の実態を詳細に、その実際の手口などが紹介されているという程度の前知識である。ちょっと想像もつかなかったのだけれど、トーマス教会前のマルティン・ルター・リングを、昨日と反対の東に折れて広い公園の緑地に沿ってしばらく歩く。もうこの辺なのにと思い、通行の男性に尋ねると、やはり近かった。大きな垂れ幕のある円形の建物が見えてきた。1010分前、開館を待つ23人が見えた。今日はスムーズにたどり着けたぞ、の思い。ここも、入場無料。入り口正面の階段上には、「この建物は政府と国民会議によって建てられた?」の垂れ幕が。1989年までは、国家保安省としての機能を果たしていた場所に、なるほど、案内にあったように、14室と狭い廊下には、壁の展示と展示物でいっぱいであった。展示は、写真や図表が多いので、私にはわかりやすい部分もあった。1989124日、ライプチィヒ地区の秘密警察本部はデモ隊により占拠され、平和革命の象徴的な出来事だったという。「ルンデ・エッケ」とは、丸い角とよばれた国家保安省の建物を指している。ナチス時代、青少年や女性の教育、組織にいかに力を入れたか。そしてスポーツ、マスゲームなどを通じて、統制を強めて行ったかなど、数々の写真が示していた。それは東独時代も同様であった。さらに、信書や電話の秘密がいかに侵されていたか、住居や会議がいかに監視されていたかなどが、具体的にどんな組織や機器で実施していたかが説明されている。現在の中国・北朝鮮・ロシア、アメリカのCIAなどにおいても、その技術こそ進化しているけれど、似たようなことをしているに違いない。日本におけるかつての特別高等警察いわゆる「特高」やアメリカの占領軍が、その手口をこれほどまで克明に明かしているだろうか。「ナチスを真似れば」の発言で物議をかもした閣僚もいる日本である。やはり不安を禁じ得なかった。

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ルンデ・エッケ記念博物館の10時の開館を待つ

Gedc3861「子どもとスポーツ」とあり、見出しは、すべて段ボールをちぎって、凹凸のある裏側に手書きされていた

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通信・電話の秘密?(盗聴の仕組み)

ようやくのメンデルスゾーン・ハウス

 重い気分で出たルンデ・エッケだったが、あらためて、メンデルスゾーン・ハウスに再挑戦した。近くまで来ているはずなのだがと、乳母車を押す若い女性に尋ねてはみるが分からなっかった。さらに少し歩いたところで、今度は、年配のご夫婦づれに尋ねると、「こんにちは」と日本語が返ってきた。「このすぐ先です」とのこと。聞けば、大阪に仕事で住んでいたことがあるということだった。もっとお話ししたい気持ちだったが、ライプチッヒを離れる時も迫っているので、「ありがとう、さよなら」と先を急いだ。通り過ぎてしまいそうな入り口であった。この博物館は、若死にしたメンデルスゾーン(18091847年)が最晩年1845年から住んでいた家で、丁寧に修復された後、1997年にオープンしている。そんな昔のことではないことが分かった。日本語のオーディオ解説が聞けるというのでお借りした。係員は、その機器の使い方と館内の回り方を案内してくれる。ほんとうは、ゆっくり説明を聞きながら、回りたかったけれど、3040分ほどで切り上げたのが残念だった。メンデルスゾーンの早くよりその才能に着目した父親による英才教育、メンデルスゾーン自身はイギリスはじめ各国の演奏旅行をしながら多くの文化人と交流をし、作曲家としても注目された様子が伺われた。また、バッハ音楽復興にも尽力している。ユダヤ系の一族は、迫害を受けていたが、ナチス時代には、彼の曲の演奏まで禁じられた。ゲバント・ハウス前の記念像は1936年撤去され、トーマス教会前の公園で、バッハ像と向かい合っているように思えたメンデルススゾーン像は、比較的最近の2008年に、再建されたものだという。

ライプチッヒ中央駅1453分発、ベルリンに向かう。

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建物は大きいのだが、入り口は、うっかりすると通り過ぎてしまいそうなメンデルスゾーン・ハウス

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 書斎

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 中庭、正面のバラに囲まれた胸像と白いベンチが眩しい

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メンデルスゾーン・ハウスのガイドとチケット

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 このタワービルを目印に、道を教えてくれたのだが 

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 ライプチッヒ中央駅、さようなら

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ドイツ鉄道の駅のホームは、どこも広く、日本の倍以上はありそうだ。
ホーム・線路改修工事に働く人々。駅に改札というものはないが、長距離の場合は、
必ず車掌の検札がまわってくる

 

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2014年11月 5日 (水)

ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20~28(4)

ゲーテとバッハに近づく 

 1023日、昨夜、雨の中、車で駆けつけた店はマルクト広場から入った路地だったが、けさのマルクト広場は、雨は上がりの静かな佇まいだった。旧市庁舎内のインフォーも歴史博物館も10時からである。広場から、アーチをくぐって裏に回ると、力強さが伝わる若き日のゲーテ像、その後ろが金の装飾が輝く旧証券取引所だった。横に回ると、旧市庁舎とトラムの走る道路を挟んで建物を結ぶような空中回廊、その下をくぐって進むと、トーマス教会。トーマス教会は12世紀からの歴史を刻む。バッハの墓所であることでも知られているが、ここに移されたのは1950年と、その歴史は浅いことがわかった。今あるオルガンは、2000年に設置されたもので、それから、いくつかの公的助成と寄付による本格的な大改修の道が開けたという。塔の高さ68m、屋根は63度とかなりの傾斜だそうだ。教会前の緑地では、メンデルスゾーンの記念碑とバッハの屋根つき?の胸像に出会った。今日は、ゲバントハウスとメンデルスゾーンハウスを経て、午後には、旧市庁舎に戻って歴史博物館の見学という予定をたてていた。

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旧市庁舎全景

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旧市庁舎横

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ゲーテ像の後ろが旧証券取引所

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トーマス教会全景

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トーマス教会内、バッハ墓所

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メンデルスゾーンの記念碑と向かい合っている

バッハ像

ライプチッヒ大学図書館へも

大通りを西に進むと青銅のドームを持つ大きな建物が見えてきた。後で調べたところ連邦行政裁判所だったのだが、その手前の十字路には新市庁舎があった。ライプチッヒ大学もこの辺りではないか、寄ってみようと地図を確かめていると、買い物の袋を下げた年配の女性からは“Can you speak English? と問われ、あの裁判所を曲がったところだと教えてくれた。建物に沿って、自転車がずらりと並び、なるほどキャンパスの一画に入った感じであった。事実、学生の出入りする、建物の一つに、ライプチッヒ大学図書館の看板があった。学生と一緒に中に入ると、ホールが吹き抜けになっていて正面には広い階段が続く。上がっていいものかどうか戸惑っていると、受付の男性が近づいて、どうぞ、どうぞ、という具合。私たちは2階に上がり、吹き抜けを囲む形の回廊を一巡りして、一つの重いドアを引くと、そこには書庫と閲覧室が広がっていた。分野別に部屋が別れているようであった。 ついでに、トイレも拝借してホールに戻ると、受付の紳士が図書館ガイドのリーフレットを持ってこられた。ホールでは、何かの催事があるらしく、照明器具が運び込まれている最中だったし、歌声もどこからか聞こえてくる。 

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ライプチッヒ大学へ

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ライプチッヒ大学図書館

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ライプチッヒ大学図書館配置図

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閲覧室を覗く


ライプチッヒの迷路~思いがけず滝廉太郎記念碑に

ゆっくりもしていられず、メンデルスゾーンハウスに向かおうとするが、ベートベンシュトラッセ、モーツアルトシュトラッセ・・・、もう大学ではないらしく、さてどちらに進めばいいのか地図を見ていると、赤いジャケットの女性が寄ってこられ、地図をのぞき込む。その地図を見て、ここはどこと尋ねると、もうこの地図からはみ出した所を指すではないか。大通りに戻れということであった。お礼を言って別れると、向かいの店から飛び出してきた男性が手招きをしてくれるので行ってみると、外壁の工事で足場が組まれている壁を指す。近づいてみると、なんと「滝廉太郎」の下宿跡の記念碑が建っていて、日本語も併記されている。そういえば、滝廉太郎のことは、何かの案内書で読んだことがあったが、ここだったのである。訪ねる予定もなかったのだが、思いがけないことだった。そのレストランで、一休みをして、もう一度先の店のオーナーらしい男性にメンデルスゾーンハウスへの行き方を訪ねていると、お客の青年のひとりが近づいて来て教えてくれた。 

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碑の後ろのレストランのオーナーが教えてくれた滝廉太郎の碑


ドイツの歴史認識の深さに圧倒される

ともかく、その方向に歩き出すと、新市庁舎まで、戻ることができた。歴史博物館見学もあるので、マルクト広場に戻ろうと、賑やかそうな大通りを進むと、そこがペーター通りで、ファッションの店が多く、パサージュの商店街にもつながる華やかな通りだった。旧市庁舎が見えてきたところのビルの壁に、「'89」と大きく書かれた写真と地図つきのパネル板が埋め込まれていた。よく見ると、1989年のベルリンの壁崩壊の時期に繰り広げられた市民への弾圧や抵抗活動のなされた場所としてのモニュメントであった。そのパネルに拠れば、ライプチッヒ市街の20数か所に同様のパネル板が建てられているようだった。そして、歴史博物館に入場、私たちは、近現代のブロックに限ったが、ライプチッヒ、ドイツのナチス時代、1945年以降の東独時代の記録が所狭しと掲げられ、そのメッセージが熱い。連れ合いは、30€もする厚い英文併記のカタログを購入していた。そして旧市庁舎内のレストランで遅い昼食となった。さらに、周辺の例のパネルの記念碑の数か所を見て回った。街行く人は、どれほどの関心を寄せているのだろうか。時折、立ち止まって読んでいる人にも出会ったが、地元の人か来訪者かは分からなかった。また、朝から気になっていた、1989年からドイツ再統一10周年記念に建てられていた記念塔がニコライ教会のすぐそばに立っていたのだ。

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 歴史博物館、ルターから始まるライプチッヒの近現代史

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 歴史博物館の館内案内

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ライプチッヒは「本のまち」を象徴的に表現したという部屋一杯の白い本
シッカリ固められていて、頁はめくれませんでした

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ペーター通りの花屋さん、チェーン店らしい。これはコキア?

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もう街はクリスマス気分・・・

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通り抜けしてみたい・・・

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正面にマルクト広場の旧市庁舎が見える、こんな街角にも、1989年の記念碑が

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夕方になって、ようやく見つけた、1999年に建てられた、1989年からの10周年記念塔。今年は25周年記念にあたる。ニコライ教会では、1982年から毎週月曜日に、平和への祈りの集会が開かれ、民主化の抵抗運動の拠点となっていた。1989年10月9日、ニコライ教会前広場の7万人集会が、”FriedlicheRebolution”平和革命の始まりだった。東独全域に広がり11月9日のベルリンの壁崩壊につながった。以下のパンフレット参照ください。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/panhuomote.jpg

http://dmituko.cocolog-nifty.com/panhunaka.jpg

 昼食も遅かったので、夕食は軽いものでと、中央駅、駅なかのアジア系の店で、それぞれ、焼きそば、カレーライスで済ませたが、決しておいしいものではなかったと・・・。所期の目的を達せられなかった一日だったけれど、別の収穫はあったねと私は棒になった足を引きづりホテルに帰ったのだった。

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