2020年3月 3日 (火)

歌壇における女性歌人の過去と現在

 今日は「ひな祭り」なのだが、おひな様を出さなくなって久しい。花より団子で、私の好物の穴子を散らしたお寿司とヒラマサのお刺身、ポテトサラダという妙な献立で、二人だけで祝った?のだった。生活クラブのはまぐりは、娘が帰省していた折、すでにお吸い物にしてしまっていた。

 ひな祭りと言えば、『短歌研究』という雑誌は、三月号は、毎年女性歌人特集をするのが恒例であった。1960年前後から、時折、女性作品特集が組まれていたが、定例化したのは1969年以降で、ほぼ例外なく踏襲されてきたし、1980年代からは五月号の男性歌人特集もセットになった。ところが、今年の三月号には、どうだろう、その女性歌人特集が消えていた。節句にちなむ特集などよく続いたものだとむしろ感心もしていた。私などもちろん縁がなかったのだが、三月号の特集が、女性歌人へのせめてものサービス、量的にも質的にも勝っている女性歌人への「ガス抜き」の様相を呈していたので、どこかすっきりした感じがしないでもない。五月号の男性歌人踏襲もなくなるのだろう。これからの歌壇において女性歌人が、どういう評価をされていくのか、注視していきたいところである。

 今年の1月中旬締め切りで、同人になっている『ポトナム』誌の「歌壇時評」に以下を寄稿した。同じようなテーマで、すでに昨12月の当ブログでも記事にしているので、併せてご覧いただけたら幸いである。

・歌壇、この一年を振り返る季節(2)歌人によるパワハラ?セクハラ?~見え隠れする性差(2019年12月22日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/12/post-b5862e.html

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  昨年、「阿部静枝の戦後」について調べ、作成中の静枝の「著作・関連文献年表」を眺めていると、精力的なまでに、多くの短歌作品と短歌評論を残していたことを改めて知るのだった。しかし、アンソロジーや短歌史に、その名を見いだすことがまれなのはなぜかの思いにもいたったのである。短歌以外の新聞や雑誌、女性、教育雑誌をはじめ、政治から料理までという広い分野のメディアにも頻繁に登場し、座談会や人生相談にまで応じていた。
  静枝(一八九九~一九七四)の敗戦後の短歌評論や発言は、二〇代から、夫、温知とともに無産運動の活動家としての経験――婦人参政権獲得、女子労働・母性保護、母子扶助運動の実践―などを踏まえ、やや生硬な表現を伴いながらも、率直かつ厳しいもので、多くの男性歌人や女性歌人にとっても、耳の痛いことが多かったのではないか。
  静枝の没後から四五年も過ぎた今日にあっても、社会や歌壇における女性差別は改まらない。そんなことを考えていた矢先、歌壇において、男性歌人による「ミューズ発言」が、問題になっていることを知った。一昨年六月、名古屋での「ニューウェーブ三〇年」というシンポジウムで「ニューウェーブに女性歌人はいないのか」との会場からの質問に、パネリストの加藤治郎はみずから「加藤、荻原裕幸、西田政史、穂村弘の四人だけがニューウェーブだ」と断定したという。さらに、昨年二月、加藤が「ニューウェーブに女性歌人はいないのか」の題で「水原紫苑は、ニューウェーブのミューズだった。・・・」とツイートしたことが、短歌雑誌やネット上の歌壇時評で批判されることになった。
  短歌史上、「ニューウェーブ」の明確な定義は見当たらないが、私は、一九八〇年代後半、俵万智『サラダ記念日』出版以降、いわゆるライトヴァースの延長線上の若い歌人たちによる口語的発想で、日常の些細なことがらや微妙な違和感などを軽妙に歌い、ときには現代文明批判めいた作品に仕上げる傾向の短歌というくらいの認識であった。私には意味不明な歌が、もてはやされたりして戸惑ったりしたが、その担い手を、なぜ特定の男性歌人四人に限るのかは理解できない。さらに、ミューズ発言の前後には、女性差別以外にも差別表現があったというが、現在、そのツイートは削除されている。
   このあたりの顛末は、高島裕「これ以上ニューウェーブを語らないために」(『未来』二〇一九年二月)、川野芽生「うつくしい顔」(『現代短歌』同四月)、中西亮太「川野芽生『うつくしい顔』について」(ブログ「和爾、ネコ、ウタ」同三月一七日)、中島裕介「ニューウェーブと『ミューズ』」(『短歌研究』同四月)などで知ることができる。さらに、中島は、自らのツイッターや「note」において、加藤発言を追跡、批判を発信し続け、加藤も、反省、謝罪、画策、反論などを繰り返している。その過程で、決着の糸口になるのかどうか、加藤・中島が属する未来短歌会の理事会は、一選者のハラスメントについての事実確認と検討委員会設置などの協議を始める旨を決めたらしい(「未来短歌会」ホームページ二〇一九年一一月三〇日)。
   政治や企業の世界だけでなく、人権にかかわるハラスメントが、文芸やスポーツの世界、そして家族間においてまで、顕在化してきたことの現れでもあろう。しかし、最新の二つの『短歌年鑑』では、これらの動向についてだれも触れようとしなかった。かつて、〈女流歌壇〉と括ることにさえ疑問を呈しながら、女性歌人が低位に置かれている実態に抗議していた阿部静枝の声(「女流歌壇展望」『短歌声調』一九五〇年一月)が聞こえてくるようだ。(『ポトナム』2020年3月号所収)

 

 

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2019年9月 9日 (月)

あらためて、髙村光太郎を読んでみた(1)教科書の中の光太郎

 機会があって、髙村光太郎の詩作品を通して読むことになった。とくに戦時下と敗戦直後の作品を「歌集」や『髙村光太郎全詩集』(北村太一編 新潮社 1966年)とをあわせて読んでみた。「道程」や「レモン哀歌」のイメージが大きく崩れたのは言うまでもないが、さらには、高校の修学旅行で訪ねた十和田湖畔の「乙女の像」へのあまやかな記憶も遠のいていった。これまでも、たしかに、「地理の書」や「一億の號泣」を読み、その戦争責任論への言及にも触れてはいたが、この時代のおびただしい数の「戦争詩」の全貌を知らなかった。若い時の海外での暮らしや智恵子との出会いと死別、そして、敗戦後の岩手県の山小屋蟄居生活を詳しく知ろうとも思わなかった。何をいまさらと思うかもしれないが、年をとっても知らないことが多すぎると思う昨今なのである。

 新しくは、中村稔の『髙村光太郎論』(2018年)『髙村光太郎の戦後』(2019年)、古くは吉本隆明の「髙村光太郎論」(『吉本隆明著作集8』勁草書房 1973年)などを読むことにもなった。

教科書の中の光太郎 

 大方の人の光太郎との出会いや認識はといえば、やはり教科書ではないかと思う。少し古いが、『朝日新聞』週末の付録「be」のランキングシリーズに「教科書に載っている好きな詩」(2014年8月2日)というアンケートがあった。対象は、朝日新聞デジタル会員1600人余に約80篇の日本の詩から選んだという結果なので、対象に若年層は少ないかもしれない。一位「雨ニモマケズ」(宮沢賢治)に続くのは「道程」(髙村光太郎)、「君死にたまふ勿れ」(与謝野晶子)、「椰子の実」(北原白秋)、「初恋」(島崎藤村)であり、さらに、「小諸なる古城のほとり」(島崎藤村)、「てのひらに太陽を」(やなせたかし)と続く。十二位に光太郎「あどけない話」が登場する。

「道程」

僕の前に道はない

僕の後ろに道はできる

ああ、自然よ

父よ(後略)

 冒頭のこのフレーズさえ、私が覚えていたのは「僕の前には道がない 僕の前には道がある・・・」であって、不正確なのがわかった。また、「智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ。」で始まるのは「あどけない話」、「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。」のリフレインがあったのは「樹下の二人」という題の詩であったことも思い出せないほどであった。さらに、「あなたのきれいな歯がかりりと嚙んだ」の「かりりと」が新鮮に思えたころは、レモンなど街の八百屋や果物店で見ることがなかったし、食卓にのぼることもない時代であった。いま「レモンをかりりと嚙め」と言われたら、まず、国産か輸入物か、農薬やワックスがかかってはいないかの不安がよぎるにちがいない。

 ところで、若い世代の光太郎の接点については、とりあえず、最近の中・高等学校の教科書を調べてみた。中学校の国語教科書、国語の五社(学校図書・教育出版・三省堂・東京書籍・光村図書)十五冊のうち、教育出版の一年用に「道程」と「智恵子抄」、二年用に「レモン哀歌」。東京書籍の三年用「レモン哀歌」が採用されている。高校では、現代文B・国語総合・国語表現の教科書十社五十四冊のうち、「樹下の二人」が教育出版、三省堂、筑摩書房各一冊、大修館書店二冊、計五冊に採用され、「冬が来た」が教育出版一冊、東京書籍二冊の計三冊に、「道程」が第一学習社二冊に、「あどけない話」が大修館書店に採用され、十社のうち六社で採用されていることになる(中・高等学校「(平成30年度)新潮文庫国語教科書採用作品一覧」新潮社)。ちなみに宮沢賢治の「永訣の朝」は、高校の教科書十社五十四冊のうち、九社二十二冊で採用されている。なお、人気の高い「雨ニモマケズ」は、詩作品そのものが教科書に採用されるというよりは、長い間、宮沢賢治の伝記教材などで扱われることが多い(葛西まり子:「国語科教科書の中の宮沢賢治―〈伝記教材〉を視点として」)『(慶應義塾大学)芸文研究』88号 2005年6月)ことが、「永訣の朝」より「雨ニモマケズ」の分かりやすさが、人気の秘密なのかもしれない。未見ながら、最近『宮沢賢治はなぜ教科書に掲載され続けるのか』(構大樹著 大修館書店)という本も出たらしい。

光太郎は、今日においても、「冬が来た」(1913年12月)、「道程」(1914年2月)や「樹下の二人」(1923年3月)、「あどけない話」(1928年5月)、「レモン哀歌」(1939年2月)などにより、一定の国民的な人気を維持している詩人ではあるが、これらの作品は、いずれも一九一〇年から一九三〇年までの作品で、かれこれ百年前の「現代詩」ということにもなる。

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「教科書に載っている好きな詩」『朝日新聞』(2014年8月2日)

 

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2018年11月24日 (土)

二つの「男女共同参画」“まつり”に参加して

 

 

 臆面もなく「一億総活躍社会」とか「すべての女性が輝く政策」とかの看板を掲げながら、現実には、その真逆のことをやっていた安倍政権には、あきれ果てて、言葉もない。内閣府が出している広報誌『共同参画』には、片山さつき大臣の「ご挨拶」が載っている。「地方創生」と「男女共同参画・女性活躍」」担当大臣の兼務による「シナジー効果」も生かしたいと決意を述べていたが、もはや絶望的でしかない。その「ご挨拶」に付せられた顔写真は、何十年前の写真と思われるような首をかしげているブロマイド風。現在の国会での答弁中の様子と比べると、見るに堪えないほどの情けなさである。

 「男女共同参画」なる言葉は、1999年「男女共同参画基本法」施行の辺りから、頻繁に使われるようにはなったか。しかし、巷でも、身近な自治体でも、定着したとは言い難い。私自身も「男女平等」の方が分かりやすいのにと思いながら過ごしてきた。そんな中で、この秋、二つの「男女共同参画」事業に参加した。

 

東京ウィメンズプラザフォーラム~「音を紡ぐ女たち」コンサート

  1028日、あたたかな日差しの中、表参道を東京ウィメンズプラザへと急いでいた。ハロウィンが近いためか、妙な扮装の若者たちをチラホラと見かける。プラザ・ホールでの「第4回音を紡ぐ女たち―女性作曲家を知り、聴く」のコンサートにやってきた。主催団体の小林緑さんからのお誘いもあって、毎年楽しませていただいている。現代では、顧みられることの少ない女性作曲家に目を向けて、広めていこうとするのがコンサートの目的でもある。 

 今回は、19世紀半ばから20世紀にかけての女性作曲家によるピアノ曲ばかりのコンサートであった。コンサートの前半は、まず、昨年生誕150年を迎えた、アメリカのエイミー・ビーチ(18671944)作曲の「夏の夢」全6曲で、身近に潜む「妖精」や小動物をテーマにした小品からなり、正住真知子さんと弘中佑子さんの連弾は、楽しくゆったりとした気分にさせられた。つぎは同じくビーチの作品のエミイ・トドロキ・シュワルツさんの独奏、セシル・シャミナード作品の山口裕子さんのダイナミックな演奏がつづく。また、ベネズエラ出身のテレサ・カレーニョの曲は、同じく山口さんの独奏だった。テレサは、小林緑さんの解説によれば、作曲や演奏活動をつづけながら、結婚や離婚を繰り返し、生活や育児に追われ、演奏旅行中病に倒れたという。首都カラカスには、「テレサ・カレーニョ劇場」といのもあるし、チャベス大統領時代の福祉政策の一つのオーケストラ運動においては、テレサの名を冠したオーケストラも誕生しているという。チャベス大統領の別の一面を知っていささか驚いたのであった。

 後半のポーランドのマリヤ・シマノフスカ(17891831)だけが、ショパンの先輩にあたり、ゲーテとも親交があったという、少し古い世代の作曲家であり、ピアニストである。日本でいえば江戸時代のことだ。三手の連弾によるワルツであった。さらに、マリー・ジャエル(18461925)は四手による連弾曲で、最後は、なんと再びシャミナードの「銀婚式」という曲は、その日のピアニスト全員による4人八手の連弾で、壮観?でもあり、私には初めてのことであった。

 ウィメンズプラザフォーラムは、2日間のいわばお祭りで、いろいろなイベントが目白押しではあったが、会場近くのマルシェ、青空市の方も気になって、早々に会場を出た。 

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ウィメンズプラザと言えば東京女性財団の「民間活動支援事業」の一環で、『扉を開く女たちジェンダーから見た短歌史1945-53』(砂小屋書房 2001年)の出版助成を受けるために、共著者の阿木津英さんと小林とし子さんの三人で、審査のための面接を受けに来たのを思い出す。想定問答を試みたり、受験生のように緊張したものだが、100万円近くの実費助成を頂くことができた。当時の石原都政は、この2000年度を最後に支援事業を打ち切ったという。

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千葉市男女共同参画センターまつり~「短歌ハーモニー」歌会

  青葉の森公園近くの千葉市ハーモニープラザで、私たちのグループ「短歌ハーモニー」は2002年から月一度の歌会を続けている。これまでもセンターまつりに参加して、公開歌会や短歌作品の展示などを行ってきた。昨年までは、12月上旬の週末2日間に実施されてきたのだが、今年は、約1カ月の間に参加グループが都合の良い日程を組めるようになったという。参加するグループが年々減少しているらしく、今年は、企画を大きく変え、会場費も無料にするので、ぜひ参加をとの呼びかけが、私たちの会のお世話役に何度も届いたそうだ。

 11月の第181回歌会は、曜日を変えて1118日に開き、参加することになった。公開歌会になるので、お誘いのチラシを作り、男女共同参画センタ―によって、市内の各所に配置してもらい、当日はまつりの来場者が参加しやすいようにと、みなで入り口付近の飾りつけをした。この16年間に発行した合同歌集『青葉の森へ』3冊やこれまでの教材や歌会のプリントのファイル、私の歌集や著書まで展示することになった。覗いてくださる参加者がいるだろうか、何人くらい参加してくれるだろうか、毎年ながら、いささか不安もよぎる。こうした歌会に参加して会員になられた方も多い。さらに、かつて会員だった方がひょっこりと現れたり、私の地元の佐倉市から駆け付けてくれたりした方もいらした。一昨年は、Jコムのカメラやインタビューが入って、翌週放映されたということもあったし、短歌雑誌や地域新聞に紹介されたこともあった。

 今回は、結局、3人の方が参加、お一人は、短歌も用意されていた。総勢12人の歌会となった。ふだんは各人2首づつ提出、相互批評をする。今月は年3回の、名歌鑑賞の月にもあたるので、あらかじめ用意した教材の中から各人が選歌した2首を鑑賞することになっていた。 

 会員の入れ替わりはあるけれど、この16年間よくここまで続けてこられたな、と感慨深い。というのも当初からの会員のMさんや早くからの会員の皆さんの熱意あふれるお世話があってのことだと思い、感謝の気持ちでいっぱいになる。

 それにしても、私たちも、当日参加の方たちも「男女共同参画」といった意識で「歌会」に臨んでいるわけではないような気がしてる。ごく自然なかたちで、短歌を作ることが何となく楽しみとなり、名歌や仲間の短歌を読むことで何かを得られることを知って、続けてきたのではないかと思う。「自己表現」の一つの形ではあるけれど、大上段に構えず、これからも、語り合い、楽しんでゆくことができたらと、あらためて思うのだった。

 

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このチラシの裏面には、ある日の歌会からと、会員の短歌が1首づつ披露されている。定例歌会は、毎月第三木曜日1時から。

 

 

 

 

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2016年2月17日 (水)

ふたたび、阿部静枝について、報告しました

 213日、ある研究会で「阿部静枝の歌集『霜の道』と戦後の短歌評論活動は、短歌史上どう位置づけられたか」を報告した。準備を進めていた矢先、1月下旬、インフルエンザにかかってしまった。いまだに咳が抜けきらないでいる。言い訳にはならないけれど、添付のようなレジメは作成したが、後半部分が駆け足になってしまった。当日配布した図表は省略している。前回のレポートほか、関連の過去記事は本稿の末尾の通り。

報告の前半は、阿部静枝の第一歌集『秋草』(1926)から長い年月を隔て、敗戦後に出版された第二歌集『霜の道』(1950)についてとなった。出版当時、そのフィクション性をめぐって、歌壇の注目を集め、議論の的となったが、私は、『霜の道』において、なぜ戦時下の大政翼賛的な作品が多く省略されたか、にも着目、静枝自身にとってどういう意味があったのかについても、合わせて検証したいと思った。

報告の中心は、短歌ジャーナリズムにおいて女性歌人がいかに進出してきたか、その中で阿部静枝がどんな役割を果たしてきたのか、『女人短歌』の中心的な人物であったにもかかわらず、短歌ジャーナリズムへの登場が少なくなる1960年以降、そして1974年没後、今日に至るまで、各種のアンソロジーにも収録されず、短歌史上も頁を割かれることがなく、ほとんど注目されることのない、女性歌人となった。齊藤史、葛原妙子、森岡貞香、中城ふみ子、山中智恵子などが、その名を留め、いまの若い人からも鑑賞や評論の対象となっていることに比べるとその感が強い。あらためて、その足跡をたどれればと思っての報告であった。

報告概要
http://dmituko.cocolog-nifty.com/abesizuerejime.pdf

 

 

なお、昨年の12月、私の阿部静枝に関するブログ記事がきっかけで、思いがけない情報が飛び込んできたことも、お知らせしたいと思う。「内野光子のブログ」の阿部静枝関係の一つの記事に、仙台に住む女性からコメントがついた。ご自分の祖父の妻は、阿部静枝の夫、阿部温知の姉であり、母方の祖父が静枝の母ときょうだいという方が現れたのである。それから、メールでの交信が始まり、その方は、お仕事の傍ら、知る限りの親せきに問い合わせを始められたようだった。いろいろな情報を集められ、自作の家系図やこれまで見たことがなかった静枝と温知と一緒に写っている写真などのコピーが送信されてきた。その中で、阿部温知の兄の子、静枝の甥にあたる阿部徹雄氏の名を知ることになる。毎日新聞(東京日日新聞)のカメラマンであったが、没後、毎日新聞社にその作品が寄贈されたことも教えていただいた。外部の者もアクセスできる「フォトバンク」に収められていて、静枝の写真も何枚か見ることができた。徹雄氏は、戦場カメラマンとしての活動も顕著であったが、戦後は、アジア・ヨーロッパ・アメリカを訪ね、各国の美術紀行や写真集など数冊を刊行、その確かな技術と観賞眼は高く評価されている。評伝「写真に生きる」(玉川選書、2002年)もある。ご遺族も、祖父が阿部温知の兄であり、温知が、子を宿していた静枝と結婚したことは聞いているが、それ以上のことは不明の由、ということであった。その後も、仙台の方からは、家系図の訂正版やあらたに見つかった写真などの送信が続いている。思いがけないうれしい出会いであった。ブログ記事が取りもってくれたご縁の一つ、いつか、友愛労働歴史館の静枝コーナーの前で、お目にかかれたらなあ、と楽しみも増えたのである。

 

(参考過去記事)

ある研究会での報告~阿部静枝歌集『秋草』から『霜の道』へ、その空白

20121211

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/12/post-d675.html

・阿部静枝の若き日の肖像画に出会う~初めての友愛労働歴史館にて
 
201474

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/07/post-927a.html

・再び友愛労働歴史館へ~阿部静枝コーナーの展示が始まった

2014911

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/09/post-501c.html

 

 

 

 

 

 

 

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2015年1月13日 (火)

「自由と平等を求めた女性作曲家たち~ル・ボーとアンドレーを中心に」 (1月9日、19時~、津田ホール)を聴きに

   風は冷たく、体調は万全ではなかったけれど、思い切って、上記のコンサートに出かけた。そんなわけで、コンサートに先だって開催された、企画者である小林緑さんの講演を聴くことができなかったのが残念だった。 会場の津田ホールには、数回しか入ったことはないが、千駄ヶ谷駅前という便利さが何よりも魅力だった。しかし、この3月に、専門家たちからも惜しまれながら閉鎖される。津田塾大学のキャンパスとして、再開発されるということではあるが、やはり残念に思えた。「津田ホールで聴く女性作曲家たち」(知られざる作品を広める会主催)というシリーズも今日の5回で最終回ということだった。 ル・ボーもアンドレーもまったくなじみのない名前であったが、プログラムにクララ・シューマンの名があって、正直、ほっとしたのであった。

●エレーヌ・ド・モンジェルー(1764-1836):
「ピアノ教育大全」より練習曲集」99番,106番,66番,111番〔ピアノ独奏〕
●ルイーゼ・アドルファ・ル・ボー(1850-1927):
ヴァイオリン・ソナタ ハ短調(op.10), エレジー ト短調(op.44 )〔ヴァイオリンとピアノ〕
●クララ・ヴィーク〔=シューマン〕(1819-1896):
ピアノ協奏曲イ短調ロマンツェ(op.7) 第2楽章〔チェロとピアノ〕
●マリー・ヴィーク(1832-1916):
スカンジナヴィア民謡による幻想曲〔チェロとピアノ〕
●エルフリーダ・アンドレー(1841-1929):
ピアノ三重奏曲 ト短調〔ピアノとチェロとヴァイオリン〕

遠藤香奈子(ヴァイオリン)江口心一(チェロ)宮崎貴子(ピアノ)
企画・構成・講演:小林 緑(国立音楽大学名誉教授)

    エレーヌの練習曲には、それぞれ練習目的と解説が記されているそうで総数114曲に及ぶ。フランスのリヨンに生まれ、12歳よりピアノを学びはじめ、モンジェルー侯爵と結婚、1793年、革命政府からの排斥を逃れ、夫妻で国外脱出を図るも捕えられ、夫は獄中死し、彼女は辛うじて救われるが、パリに帰還後再び逮捕、その折、国歌の「ラ・マルセイユ」の即興変奏を繰り広げ免罪になったという。1795年創設のパリ音楽院ピアノ科の女性唯一人の正教授となったが、指導方針の違いからか辞職、作曲活動と共に「ピアノ教育大全」を出版。結婚生活も波乱に満ちているが、フィレンツェで死去。今回の演奏には、革命の激動とロマンティズムが感じられる曲もあって、頷けるものがあった。
  ルイーゼは教育熱心だった父親を持ち、ヴァイオリン、ピアノ、作曲を学びはじめ、ドイツロマン派最高の女性作曲家と目されるようになる。1893年ベルリン王立音楽院の教授職招聘が撤回されるなどの屈辱を味わう。1910年自伝『ある女性作曲家の生涯の思い出』を出版。ドイツや日本でもほとんど演奏されることがなく、「エレジー  ト短調」は、日本での初演ではないか、とのことである。
  クララ・シューマンは、ライプチヒに生まれ、父親ヴィークの教育もあり、9歳でピアニスト・デビュー。演奏曲は、なんと16歳の時の完成作品で、1835年11月には、クララ自身、メンデルスゾーンの指揮のもとゲヴァントハウスで初演を果たしたという。父親の反対を押し切り、父親の弟子でもあったロベルト・シューマンと1840年に結婚するが、その生活は、自身の活動より夫のそれを優先しなければならず、自由がなく、1854年シューマンが自殺を図った以後の療養中は、7人の子どもの養育とコンサートをこなし生計を立てていた。甘美でゆったりしたメロデイが魅力的だった。
   つぎのマリー・ヴィークは、クララの父親ヴィークの再婚後の娘で、クララの義妹に当たる。ピアニスト、声楽家として名高く、ヨーロッパ各地の演奏旅行先での民謡にも深い関心を寄せ、この日の幻想曲も、聞き覚えのあるメロディがテーマの一つになっていた。
   エルフリーダー・アンドレーは、スウェーデンの初の大聖堂オルガニストとしての地位を築いた。医者の父親から周到な音楽教育を受けるチャンスを与えられ、作曲、指揮などに多彩な能力を発揮し、 女性解放運動にも参画している。  

   音楽には、素人ながら、この日は若い3人の演奏者にも恵まれ、戦いながら、自らの才能を信じた女性作曲者たちを思い起こしながら、充実した時間を過ごすことができた。

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写真の上段がルイーゼ・アドルファ・ル・ボー、下段がエルフリーダ・アンドレーです。

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2014年5月13日 (火)

「これでいいのか、NHK~元経営委員小林緑さんが語る」、会場の熱気につつまれて

 一つ前の当ブログ記事でも紹介しましたが、私が参加している地元の9条の会主催の講演会(5月10日午後1時30分~佐倉市ミレニアムセンター)は大盛況のうちに、終了しました。受付を始めたときは、どれほどの方が参加されるか心細かったのですが、開会の時刻が迫る頃には行列ができましたし、足りなくなった資料もあって大慌てしたほどです。100名定員の佐倉市ミレニアムセンターホールは、満席となり、20席近い補助席を設置しました。受付で記名をしてくださったのが110余名。5月8日東京新聞(千葉中央版)に詳しい記事として掲載され、それを見たという方も多かったと思います。

 これまで、NHKに対してくすぶっていた視聴者の不満は、125日の籾井会長の就任員記者会見直後、いっきに火が付いた形です。その後も「やってくれるじゃないの」というほど、会長に加えて、新任の百田尚樹、長谷川三千子経営委員の言動もひどいものでした。その言動が、民主主義を根底から覆すものであり、あからさまに安倍政権の応援団を自称してはばからず、加えて、その語り口は、三人とも品格が問われるものでした。

 放送法によって、経営委員会から任命されるNHK会長は、当然のことながら、高い資質が要請されています。「放送法順守」をお題目のように繰り返す会長ですが、放送法第1条に大きく外れた資質は、その資格がないでしょう。経営委員も、何を勘違いしているのか、個人の思想の自由を楯に暴言を繰り返すことが、放送法、服務基準に違反していることは明らかです(末尾の資料参照)。

 こんな人物に、会長は年俸3092万円、非常勤の経営委員で495万円(平成25年度、月2回の会議日の日当約20万以上)が受信料から支払われることになるのですから、視聴者にしてみたらやりきれません。政府広報のようなニュース番組、お笑いや歌い手等のタレントが司会をしたり、コメンテイターになったりという民放のそっくり番組を見せ続けられたら・・・。 

  小林緑さんは、ご自分の経営委員の就任の経緯から、音楽史専攻の研究者として音楽とジェンダーの視点などから、NHKとN響の実態、ETV番組改変問題などを通じ、NHK改革の発言や行動への道筋を示されました。とくに、クラシック音楽の世界に埋もれている女性作曲家の話は、多くの参加者にとっては印象深いものでした。小林さんの講演のあとは、地元のNHKを監視・激励する視聴者コミュニティの醍醐聰共同代表が聞き手となって、さらに現在のNHK問題の核心を探りました。

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 会場からは、現在のNHK改革のためには、視聴者として何ができるかについての質問や提案が相次ぎました。NHKへの意見や抗議の仕方、署名や受信料の凍結について、さらにNHK職員・労働組合との共闘の限界などにも及びました。視聴者の手で、会長はじめ二人の経営委員を辞めさせ、政権寄りの放送内容を改めさせるための手段として、コールセンターへの抗議や受信料凍結運動の展開によって、視聴者の声を届けようということになりました。

 

佐倉市内からの参加者が多かったですが、近隣の千葉市、船橋、習志野、八千代、成田はじめ各市からの参加が多いのもうれしいことでした。20近くの人が、小林さんを囲んでの二次会に参加、大いに語り合いました。なお、小林さんが遠慮がちに配られた、流山市男女共同参画室主催の小林さん解説による演奏会の案内がありました。ノルウェーのグレンダールはじめ19世紀に凛として輝いた女性作曲家たちの作品の若い女性演奏家たちによるコンサートです。そのチラシの問い合わせが数件ありましたので、以下をご覧ください。

 

http://www.na-shimin.org/pdf/forame.pdf#search='%E6%B5%81%E5%B1%B1%E5%B8%82%E7%94%B7%E5%A5%B3%E5%85%B1%E5%90%8C%E5%8F%82%E7%94%BB%E5%AE%A4+%E5%B0%8F%E6%9E%97%E7%B7%91'

  

 

 なお、小林さんの企画によるコンサート「吉田隆子の世界」に私が出かけたときの記事は、以下をご覧ください。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/04/post-79ba.html2013411日)

<参考資料 >

放送法

(目的)

第1条 この法律は、次に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。

一 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。

二 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。

三 放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。

(委員の任命)

31条 委員は、公共の福祉に関し公正な判断をすることができ、広い経験と知識を有する者のうちから、両議院の同意を得て、内閣総理大臣が任命する。この場合において、その選任については、教育、文化、科学、産業その他の各分野及び全国各地方が公平に代表されることを考慮しなければならない。(委員の権限等)

経営委員会委員の服務に関する準則

総則)

 第1条 この準則は、放送法第62条に基づき、日本放送協会の経営委員会委員が、公共放送の使命と社会的責任を深く自覚し、高い倫理観を持って職務を適切に執行するために必要な服務に関する事項を定めたものである。

(服務基準)

 第2条 経営委員会委員は、放送が公正、不偏不党な立場に立って国民文化の向上と健全な民主主義の発達に資するとともに、国民に最大の効用と福祉とをもたらすべき使命を負うものであることを自覚して、誠実にその職責を果たさなければならない。

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2013年2月10日 (日)

ETV特集「吉田隆子を知っていますか―戦争・音楽・女性」(2013年2月2日再放送)

  昨年9月に見損ねていた。わずかながらに知っていた吉田隆子(19101956年)、番組にも登場された小林緑さんの編著書『女性作曲家列伝』(平凡社1999年)であった。その著書を知ったのが2008年で、その中で、取り上げられていた一人、エセル・スマイスついての講演と演奏会に出かけた折の報告は、このブログでも書いた。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2008/12/post-da49.html 

 また、上記の本には番組にも登場した辻浩美さんが、日本の女性作曲家の一人として、吉田隆子について書いていた。最近、『作曲家吉田隆子・書いて、恋して、闊歩して』(教育史料出版会 2011年)を刊行したが、 まだ見ていない。2010年には、吉田隆子生誕100年記念のコンサートも開催されたというが、行かずじまいであった。今回、ようやく再放送を見ることができた。番組を振返ってみたい。 

 父親が軍人であったが、厳しく育てられ、女性の自立を説き、大正時代の自由な気風を備えた母親の影響で幼児より琴、12歳よりピアノに励んだ。父親の反対で音楽学校にも進学できなかったが、作曲を学び、「シンプルな素材をシンプルに」をモットーに、虐げられた人々に寄り添い、日本プロレタリア音楽同盟(PM)(19281934年)の活動に参加、1932年の発表会での歌曲「鍬」(一田アキ=中野鈴子、中野重治の妹、作詞)の作曲は高く評価された。アテネフランセなどにも学び、多くの芸術家たちに出会っていた。1933年小林多喜二の獄死直後には「小林多喜二追悼の歌」(佐野嶽夫作詞)、8月には拘留される。弾圧によるPM解散後、1935年には楽団「創生」を結成、民衆のための音楽運動をめざし、啄木の短歌に曲を付けたりする。人形劇団プークの舞台や新協劇団の久保栄「火山灰地」など現代劇の舞台に音楽を取り入れるという仕事をする中で久保栄と結婚、二人の住いの自由が丘の家は常に特高警察の監視下に置かれ、隆子もいくたびも拘留されたが、1940年、半年にも及ぶ投獄で病に倒れ、自宅に帰された後は、寝たきりの闘病生活が続く。その生活は悲惨ではあったが、日記だけは書き続けていて、没後そのままになっていた自由が丘の家から最近見つかったという。 

 敗戦後は奇跡的に病も癒えて、音楽活動を再開し、世界に通用する音楽をめざして、作曲、評論などに精力的に立ち向かう。与謝野晶子の「君死にたまうなかれ」をオペラ化した作曲台本を書き、「バイオリンソナタ二調」の初演にも漕ぎつける。しかし、1956年、ガンに冒され、46歳の若さで他界、久保栄も2年後に後を追うように亡くなった。 

 私は、正直、作曲した作品の評価は分からないが、小林緑さんが話すように、音楽界においても女性の役割分担はきつく、女性の作曲家をまともに認めようとしなかった歴史、ついこの間までのこととして、苦労が多かったことは、多分野と同様であったと理解ができた。今回の番組で、一番印象的だったのは、自由が丘の旧居が、二人の住人が世を去って、半世紀以上も経っているのに、当時のままの佇まいが残っていたことだ。311の大震災で、本棚が傾き、書籍が散乱したままになっている光景もうなづけた。遺品や資料管理をしていた久保栄の助手も亡くなったそうだ。そこから発見された日記は、特高に押収されて他の人に迷惑を掛けてはと、人名などの固有名詞が消されていた。 

 いま手元にある、先の辻さんの隆子の記述や『日本流行歌史』(社会思想社1970年)、『近代日本女性人名事典』(ドメス出版 2001年)などをひっぱり出してきて、参考にしながら、若干補ったところもある。辻さんの記述によれば、久保栄というパートナーを得るまでには、男女間の波乱もあったらしいことが書かれている。隆子は、親の決めた結婚を拒み、恋愛を貫いて結婚したものの病気と貧困等から破局していたという経緯もあり、画家三岸好太郎との関係も妻の三岸節子を悩ませたこともあったらしい。2005年には、北海道立三岸好太郎美術館で吉田隆子をテーマにコンサートが開かれて、つぎのように紹介されていた。

 

   〔〈オーケストラ〉のひと-吉田隆子の曲〕吉田隆子は、北海道出身の画家・三岸好太郎に大きな影響を与えた女性作曲家です。三岸は、〈黄服少女〉〈少女の首〉などで吉田隆子をモデルにするとともに、さまざまな音楽的知見を彼女から得て、後年の、音楽と美術を結びつけた独特の画論を形成する契機とします。また、同時に、彼女と一緒に聴きに行った新交響楽団コンサートから、傑作〈オーケストラ〉の着想を得たとされています。 

*出演者*渡辺ちか(ソプラノ)、則竹正人(バリトン)、浅井智子(ピアノ) 

 *曲 目*吉田隆子「カノーネ」「君死にたもうことなかれ」ほか

 

1934年、31歳で急逝した三岸だが、「オーケストラ」が制作されたのは1932年、ピアノの鍵盤に手を触れて立つ隆子を描いた「黄服少女」が1930年、「少女の首」が1932年の制作だった。 このあたりのことにはまったく触れないのが、NHK的なのかな。 

これまでのいくつかの女性史関係の年表には、まったくと言っていいほど「吉田隆子」は登場していない。上記のドメス「近代日本女性人名事典」にその名を見出し、なぜかほっとしたのだった。久保栄との関係でも「夫婦の絆」「同志の絆」が強調され、反戦、抵抗の作曲家であったことは、たしかであった。が、演劇史研究の井上理恵さんは、ブログ上で、吉田隆子が作曲家として現代劇に音楽を取り入れたことは、演劇史上画期的なことであったが、今回の番組には、そうした視点がなかったことを指摘していた。 

410日には、東京で「吉田隆子の世界」のコンサートが開かれるという。ぜひ出かけてみたいと思っている。

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佐倉市の井野の辻切り、井野本村への8か所の出入り口に、魔よけと豊穣を祈って

掲げられたワラの大蛇、大辻といわれる。毎年1月25日新しいものに替えられる。

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村の各戸の門周辺に掲げるワラの蛇、小辻と呼ばれる

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2012年7月25日 (水)

新刊『<3・11フクシマ>以後のフェミニズム』(御茶ノ水書房)合評会に参加しました

 一つは・・・
 私も執筆した上記『<311フクシマ>以後のフェミニズム』が刊行されて3週間が経つ。714日(土)には、企画編集の新フェミニズム批評の会による、いわば身内の合評会が開かれた。この会の例会は毎月第2土曜日の午後、午前中には欠かさず地域の会議があるので、なかなか参加できない。日常的に優良な会員ではないのだが、今回の執筆に参加、合評会にも参加した。
 出版元や事務局の方は、いま献本事務に忙しくされているなか、私もしっかり読み込まねばと、全部で25本のエッセイ、レポート、論文を通読した。執筆者たちの原発事故体験、フクシマ体験は、まさに各人各様で、こころの底から、身の奥深くから、絞り出すような言葉、息づかいが感じられた。私にはあまりなじみのなかった文献や小説・映画などが、ポンポン飛び出してくる。複数の執筆者が重ねて触れている小説や論文などもあったので、自分の頭の整理と思って、各執筆者の著作で論じられている小説・映画・論文・文献などの一覧表を作ってみた。参加者にも配布すると、これは便利と喜んでくれる人もいらした。自分が対象にしている文献が漏れているなどの注文もついた。私は「未完ですので」と必死に叫ぶ。高良留美子さん、渡辺みえこさんのように詩を寄せている人もいる。岩井俊二『friends after 311』、タルコフスキー『ストーカー』、鎌仲ひとみ『六か所村ラプソデー』マリアン・デレオ『チェルノイブリ・ハート』などの映画、星新一、津島佑子、林京子、大庭みな子、金原ひとみ、川上弘美、吉村昭などの創作、大江健三郎、石牟礼道子、小出裕章ら多くの人らの発言が紹介・検証されていた。執筆者の半分以上の方々が参加されているので、それは賑やかなことだった。大塚の会場近くの2次会も、結構な盛り上りだった。

もう一つは・・・ 

724日(火)は、出版元の御茶ノ水書房の橋本社長が主催する「わが著書を語る」シリーズの会だった。この本の著者は25人、そのうち、この日参加したのは、総勢8人だった。 自分の執筆分について、約78分で語るのだが、難しい。私は、以下のような構成の一文を執筆している。

 

311は、ニュースを変えたか 

―NHK総合テレビ「ニュース7」を中心に(2011213日~412日)」

はじめに 

一.311までのNHK総合テレビ「ニュース7」 

二.311直後のNHK総合テレビ「ニュース7」の震災報道 

12011313日(日「)ニュース7拡大版」(7時~830分) 

三.当時の放送内容の問題点 

①「計画停電」の発表報道をめぐって 

②福島原発事故取材の限界と姿勢 

③福島原発事故鎮静化の強調と健康被害軽視への加担 

④記録と資料の重要性への警鐘 

⑤明るいトッピクス偏重について 

2:「ニュース7」上位項目と所要時間(201139日~412日) 

四.公共放送NHKニュース番組としての「ニュース7」などの課題 

①経営基盤の受信料依拠の意義 

②調査報道への期待 

③専門家への起用とその選定について 

④「ニュース7」と他の番組との整合性について 

おわりに 

 

内容に触れると、とんでもなく長引いてしまいそうなので、なぜ、このテーマでまとめたか、動機を述べた。私にはマス・メデイアへの関心、期待と裏腹に、不信感があった。とくに公共放送NHKへの不信感が募っていた。 

1.調査の動機 

1)NHKetv特集「国際女性法廷」番組への政治介入裁判における終盤、バウネット支援をし、受信料支払い停止運動などにかかわった。 

2)2008910日「ニュース7」は、1時間に延長して自民党総裁選にかかる報道を45分間放映した。この政治的偏向に対して、視聴者センターに抗議すると「あれは自民党のPR。国民の関心があるからやるんで、そんなこともわからない?あはは」という応対だったので、その晩のうちに、ブログに書いた。直後よりネット上のアクセスは急増し、11万件の日もあったほど。ネット上の盛況を憂慮してか、NHKの視聴者センター担当者が数人で自宅近くまで謝罪にきた。担当者が失礼したのを謝罪し、近く処分の上配置換えをするという成り行きとなった。私としては、NHKに、ニュース編成の偏向や報道番組の在り方を見直してほしかったのだが、思わぬ結着となり、その顛末は新聞報道された。 

3)その後は、番組担当者とのふれあいミーティング、経営委員と語る会などにも参加、意見を述べ続けている。 

4)地域の憲法9条の会で、20112月、近頃のテレビニュース、番組っておかしくないか、大事なことは伝えず、どうでもいい芸能ネタやスポーツネタの比重が大きくない?という素朴な疑問から、会員が手分けしてとりあえず「ニュース7」の記録をとってみることにした。調査を開始して、その途中で、311を迎え、ニュース番組は、否応なしに変わった。どう変わったのか、変わらなかったのかのテーマがのしかかった。 

2.調査・レポートの特色と限界 

311の直後から震災報道・原発事項報道への注目度が増し、類似の調査や検証作業が公表されるようになった。* そうした中で、私の調査・レポートについて、以下の点を述べた。

 

1)調査の期間が偶然にも、311を挟んで2か月間にわたった。調査実数は14日分だが、311以後は、「ニュース7」は時間延長が続いた。 

2)大震災・原発事故関連が報道内容の大方を占めたが、その他のニュース項目についても記録を取り、相対的な分析ができた。 

3)個人の記録作業によったので、量的に限界があった。 

4)「ニュース7」という番組一つに特定して、継続的に作業を進めた。 

5)他局の報道番組、番組全体の中での番組の位置づけなどの比較に欠けた。

 

<注> 

*類似の調査レポートの主なものに以下がある。その他は、本文を参照してください。 

311震災直後・原発爆発直後の10分間、2時間の各局報道(NHK放送文化研究所『放送研究と調査』20115月~6月) 

20114月の各局報道(NHKOBによる放送を語る会、「マスコミ市民」) 

31117日の原発事故報道(早稲田大学の伊藤守:『ドキュメントテレビは原発事故をどう伝えたか』平凡社新書 20123月) 

201235日~15日各局ニュース番組における原発関連報道(「あれから1年 テレビはフクシマをどうつたえたか」放送を語る会発表 20126月) 

⑤「徹底検証テレビは原発事故をどう伝えたか」(白石草ほかour planet tv 201246日放映)

 

 執筆者の8人以外の参加者は、研究者や一般市民の方々だったのだろうか、いろいろな意見や感想が出た。そのなかのお二人は、福島県、宮城県出身の方で、親類縁者の深刻な状況や自身が遠く離れて東京にいることによる、さまざまな軋轢も語られた。南相馬市の方は、核の平和利用という名のもとに原発がたどって来た道をあまりにも知らなかったこと、チェルノブイリという負の歴史に学ばなかったことが語られ、塩釜市の方は、いまはひたすら本当のことを知りたいと思っていること、家族や家族の絆が強調されるけれども、家族を持たない多くの人々はどうするのだろう、全体を把握してからでないと動けないというより自分から発信して、動き出さなければ、という重い発言は、身に沁みた。

 

 会場の近くの「さくら水産」での2次会となった。隣席の御茶の水書房の橋本社長とはなんと同窓、卒業年次もかなり近い?60年安保世代と分かる。また、前の席の渡辺澄子先生は、編集委員でお世話になった。いつもお元気で圧倒される。その隣の漆田和代さんともほとんど同世代、彼女は出版社勤務を経て、道玄坂で居酒屋を開いていたという経歴の持ち主、多くの研究者や文化人のたまり場でもあったらしい。共通の知人の話で盛り上がるが、だいぶ遅くなって、一足先に失礼したのだった。

 

 

 

 

 

 

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2011年8月18日 (木)

書評・阿木津英著『二十世紀短歌と女の歌』

著者の阿木津さんとは、10年ほど前に、『扉を開く女たち―ジェンダーから見た短歌史

<1945―1953>』(砂子屋書房 2001年)の共著がある。その時の執筆論文が本著にも収録されている。当時の研究会のことや助成金申請のために東京女性財団の面接を受けたりしたことなどが思い出される。結局、共著は、財団最後となった出版助成金を得ることができたのはありがたかった。その後、阿木津さんは、歌集や数冊の評論集を出している活躍ぶりである。彼女の新著『二十世紀短歌と女の歌』(学芸書林 2011年4月)の機会を与えられ、かなり真面目に読んでみたのだが。

             

冒頭の「『サラダ記念日』―消費社会に馴致された感性」では、歌集としては珍しく出版戦略に従い、二百万部を超えるベストセラーとなる経緯が、新たな取材も加え、より鮮明にされてゆく。商品名が頻繁に登場する俵万智作品における「幸福感や恋の哀歓をかきたてる」商品・イメージに取り囲まれた生活に馴らされてゆく「感性」と「保守性」を看過できないとする問題提起が重い。

本書は、逆年順に、Ⅰ一九七〇年前後から八〇年代後半~女歌論議の時代、Ⅱ一九五〇年前後~女性解放の時代、Ⅲ大正末期から昭和初期~「母性」誕生の時代、Ⅳ明治末期から大正中期~「新しい女」の時代、Ⅴ明治中期、二十世紀初頭代~初期「明星」の時代、に分けて、一九九七年以降発表の論文を収録する。行間からは「女の歌は女が論ずるしかない」との気概が滲み出ている。

Ⅲの「『母性』再考―翻訳語の『母性』『母性愛』の生成過程と定着まで」において、著者は、従来の短歌史の記述や女性歌人の作品評にも多用されてきた「母性」という言葉に着目する。翻訳語としての受容から、批判語としての使用を経て、優生学思想からは保護の対象とされる「母性」、やがては「国家の母」「軍国の母」であることへと変容する意味をたどり、男性に絡めとられていく過程でもあったことを示唆する。

続く「五島美代子―その近代母性」では、与謝野晶子はじめ三ヶ島葭子、若山喜志子ら多くの女性歌人たちが「母であること」の束縛、そして葛藤を必死に歌っている中で、五島美代子の第一歌集『暖流』に、「母であること」に充足と幸福を感じ取る「母性」と平等概念を併せ持つ「近代母性」を発見する。その背景には、美代子自身の母親との軋轢、プロレタリア短歌運動の経験を見据える。さらに、敗戦後の新憲法下では長女とともに大学で学ぶという母子密着の実生活の中で、突然長女を自死で失うという不幸に見舞われ、母としての慟哭と長女への追慕が次女に深い影を落とし、一転「母性喪失」という歪んだ関係へと向かう現実、をも直視する。さらにその後、美代子は歌会始選者への道をたどるのだが、皇室への傾斜をどう評価するのかもあわせて触れて欲しかったと思う。

これまで、短歌史や歌壇では「点景」としてしか語られなかった女性歌人、いまでは顧みられなくなった女性歌人、一九四九年に発足した「女人短歌会」に拠った女性歌人群像に光をあてた功績は大きい。各論考の分析の緻密さと重厚さは、従来の些末に陥りがちな評伝や印象批評が多い作品研究に一石を投じよう。

なお、論考により年代表記が不統一なのがやや気になった。明治・大正・昭和という元号を使用する「便利さ」は、若い読者にはなじまず、混乱を招きかねないのではないか。「二十世紀短歌」という視野が継承されるためにも、と思う。

(『短歌研究』2011年8月号所収)

                       

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2011年7月 4日 (月)

中学校教科書の中の短歌と昭和天皇と(1)晶子から俵万智まで、女性歌人が優勢になったが

628日、検定済教科書展示会に行くことになった。佐倉市中央公民館での展示が6月いっぱいということで、友人のお誘いもあってやって来た。たまたま最近、私自身や娘、昭和一ケタの次兄の教科書まで、物置にあるのを発見、その時のことは本ブログにも書いた。http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/09/1945-da7f.html

今どきの教科書は、どうなっているのか。それにかつて「あたらしい歴史教科書をつくる会」による扶桑社版の教科書問題が、いまは、内輪もめを経て新たな火種になっている。今回は時間もないので、自分の関心事である、中学校の国語教科書に「近・現代短歌」がどう扱われているか、歴史・公民教科書に「昭和天皇」がどんなふうに登場するのか、だけでも知りたかった。それにしても、時間がない。節電で暗い展示コーナーは、そっけなく、「今使われている教科書」「これから使われる教科書」の仕切りがあるだけの机上に無造作に立てられ、並んでいた。コピーでもとれると、まだよかったのだが、尋ねたところ、「県や市に問い合わせてから」とラチがあかない。何のことはない、写真を撮っているのは、いろんなブログでも見ていたのだから、撮ればよかったのだが、気が付くのが遅かった。

感想を書くには、材料が少ない。いずれにしても、教科書研究センターや国際子ども図書館にでもいかなければならない。とりあえず、短時間で、自分が見たことだけをお知らせしておこうと思う。

1.教科書の中の短歌・晶子から俵万智まで~女性歌人は優勢なのだが

近代・現代短歌に、比較的頁をさいていると聞いたことのある「教育出版」の中学校国語「伝え合う言葉」1・2・3を大急ぎで見てみた。

「伝え合う言葉 中学国語」(教育出版)1・2・3

平成18年度版「1学年」に俵万智「私の好きな春の言葉」「3学年」に、穂村弘「それはトンボの頭だった」というエッセイが載っていた。近・現代の短歌のメインは「2学年」で、「近代の短歌」と題して、茂吉・母の歌、啄木・ふるさとの歌・、牧水・旅の歌、晶子・恋の歌のあわせて9首が載っている。

平成24年度版「1学年」変わらず。「2学年」も歌人も作品も変わらないのだが、トップが茂吉から啄木に替っていた。「3学年」に佐佐木幸綱の書下ろしの鑑賞「古典の歌、現代の歌」が入って、「現代の歌」として栗木京子、俵万智、竹山広、正田篠枝の作品が掲げられていた。竹山、正田の長崎、広島の原爆作品を扱っているのは、中学生へのメッセージとして重要だと思った。近年竹山は亡くなったが、俵ともども佐佐木氏率いる『心の花』の同人というのはいささか気のし過ぎか。

以下は、帰宅後、いずれも平成18年度版をネット上で調べてみたのだが、参考のためメモしておこうと思う。

「現代の国語」(三省堂)「2学年」:「短歌の世界」として、子規、赤彦、晶子、茂吉、白秋、牧水、啄木の近代歌人と寺山修司、栗木京子、近藤芳美、馬場あき子、李正子、俵万智の作品が登場する。

「中学校国語」(学校図書)「2学年」:「短歌十五首」として、子規、啄木、迢空、善麿、茂吉の近代歌人のほか、道浦母都子、河野裕子、永井陽子、平井弘、栗木、寺山、荻原裕幸、岡井隆、佐佐木幸綱の現代歌人と草地宇山という旧軍人(辺見じゅん『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』収録)の作品が収録されている。導入部分に佐藤正午による俵の「この味がいいね・・・」の鑑賞がある。

「国語」(光村)「2学年」玉城徹書下ろしの「短歌を味わう」においては北原白秋、正岡子規、石川啄木の1首ずつ挙げる鑑賞である。さらに「十二首」として、伊藤左千夫、赤彦、晶子、長塚節、茂吉、前田夕暮、牧水、佐藤佐太郎、宮柊二、塚本邦雄、栗木、俵の作品が掲載されている。

「新しい国語」(東京書籍)「2学年」道浦母都子の鑑賞文「言葉でパチリ」では、俵、大口玲子、永井陽子と中学2年生の作品を鑑賞し、短歌五首、晶子、茂吉、啄木、寺山修司、俵万智が掲載されている。

5社の国語教科書の近代・現代の短歌教材をざっと目を通したことになる。次の2首の採録が際立っていた。

・死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる(斎藤茂吉)                          (『赤光』) 教育出版・学校図書・光村・東京書籍 

・観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生(栗木京子)
(『水惑星』1984年)   三省堂、学校図書、光村 

茂吉は、私たちの教科書にもあったような気がする。受験教材にはあったろう。大人になって、身近な人の死を経験すると理解も深まる。中学生にわかるかなあ、とも思う。栗木京子の作品には私が好きな歌もあるのだけれど、この歌はどうしても抵抗がある。リズムもいい、リフレインや対比という手法も取り入れられている、内容も一見わかりやすい。しかし、こんな歌が独り歩きして、中学生の男女に刷り込まれていくと、ジェンダーの観点からみると、どうだろう、と思ってしまう。男子というより男性が喜びそうな歌ではないか。 

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