2025年8月13日 (水)

『神近市子の猛進』を読む、神近は短歌も詠んでいた(2)神近市子、波乱の生涯

   神近市子は、長崎県出身、父と兄を幼少時に亡くし、姉二人との母子家庭で貧しかったが、読書する文学少女で,活水女学校を経て、津田梅子の女子英学塾で学ぶ。在学中に『青鞜』に参加、1913年女子英学塾卒業後、弘前の県立高等女学校の教師になるが、『青鞜』への参加がばれて一学期で退職。東京に戻り、尾竹一枝(後の富本紅吉)、伊藤野枝とも知り合い、小野賢一郎(1888~1943,俳号は蕪子)の紹介で東京日日新聞の記者となる。東京日日新聞の高木信威(1872~1935)との不倫関係にあって女児を出産、生家に預け、記者活動を続けていたことが、上記事件の公判中に明らかになった。

 1915年大杉と知り合い、16年上記の事件に至り、東京日々新聞社を退社。1919年服役後からは小説、翻訳、評論など多角的な文筆生活に入り、20年に鈴木厚と結婚、一男二女をもうけるが、39年に離婚。その間、プロレタリア文学運動にもかかわるが、28年長谷川時雨の『女人芸術』創刊より参加、その廃刊を継ぐような形で、34年には自ら『婦人文芸』を創刊する。当時の執筆メデイアは、新聞、総合雑誌、婦人雑誌、文芸雑誌、時局雑誌等多岐にわたる。人脈も広めてゆく。39年の離婚前後から、3人の子どもとの生計も神近の双肩にかかってきたためか、執筆量も多く、大手出版社による『中央公論』(中央公論社)『雄弁』(講談社)『現地報告』(文芸春秋社)『新女苑』(実業之日本社)などへの寄稿も増した。日本文学報国会の会員ではあったが、彼女の論稿の基調は、戦時下の女性労働者の重要性とその権利保護にあって、意識的に、戦意高揚に直接的につなげることを避けたきらいがある。また、とくに太平洋戦争開戦前後からは、語学力を生かして、1940年『トルキスタンの旅』『動物と人と神々』『アメリカ史物語』、1941年『アメリカ成年期に達す』、1942年『新疆紀行』、1943年『船と航海の歴史』などの翻訳が多いのが、他の評論家に見ない特色と言えるのではないか。

 近年よく使われるようになった、内閣情報局の内部資料『最近における婦人執筆者に関する調査』(1941年7月)は、婦人雑誌八誌を対象に、婦人執筆者の執筆頻度、その内容種別などを、1940年5月号から翌年の4月号までを調査、各人、各文献の解説、出版社の評価など「量的」「質的」分析がなされている資料である。今回、神近市子を調べてみると、「純粋評論家」として3点が挙げられ、決して多い方ではないが、「彼女の婦人解放の思想は此の意味に於て依然として、社会組織に於ける不合理の状態の廃止を目指して社会を変化せんとするあの社会主義的態度を思はせるものがある」などと評されている。

 『神近市子の猛進』の著者石田は、戦時下における神近の文筆活動について、つぎのように述べている。
「そこに女性の戦争協力を先導するような言説はなく、運動として表舞台に立つこともなく、街頭に進出することもなかった。戦争を奇貨とする点では同じであったが、女性の国民化という大衆運動を展開し、公職追放となる市川房枝のように、戦争協力が問われることになる女性指導者たちとは、その点で一線を画していた。」(200頁)

 戦後は、その参議院議員市川房枝らとともに、神近は売春廃止の法案を何度も国会に提出するが廃案になっていたが、さまざまな曲折を経て、不備が指摘される中、t956年5月24日公布に至り、施行させた彼女たちの功績ははかりしれないものがある。 

 私は、短歌の師であった阿部静枝が、上記の資料で「純粋評論家」として、多くの婦人雑誌に重用された実態について触れたことがある。夫、阿部温知とともに無産政党の党員としての活動の過去がありながら、戦時下において、評論家としての執筆や活動を拡大してきたのは、かつての活動で得た知見や執筆・弁舌能力と社会性を備えていたからであり、歌人という肩書も加わって、翼賛へと傾いていった過程をたどったことがある。また、彼女には、結婚前に、男児を出産し、隠すように他人に預けて活動してきた経緯があり、夫と死別してからは、子供を引き取ったことによる経済的な必要と体制やメディアから「期待」される蜜の味も手離したくなかったため執筆活動に励んだ一面もあったと推測される。そして、戦後は、社会党から分かれた民社党の党員となり、豊島区区議会議員を三期務めたことを思うと、神近市子ほどの革新性や話題性はないが、一人の女性の歩みとして、似たような軌跡ではなかったかと、あらためて感慨深いものがあった。

参考:「内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか 女性歌人起用の背景」『ポトナム』2006年1月~2月。『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房 2013年8月)所収

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下段は「量的考察」の「純粋評論家」の図表の一部。氏名の五十音順で、阿部静枝は11点で座談会が多いのが目立つ。後のページで、トップは宮本百合子の22点、次が羽仁もと子の19点が突出している。

 

 

 

 

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2025年8月12日 (火)

『神近市子の猛進』を読んだ、神近は短歌も詠んでいた(1)神近市子の短歌

・ひとり居て思うことあり 嬉しきは孤独に生きる力もつこと

  神近市子が、このような短歌を詠んでいることを、石田あゆう『神近市子の猛進 婦人運動家の隘路』(創元社 2025年3月)で知った。なるほど、神近らしい、と思った。

 神近市子(1888~1981)といえば、なんといっても、アナーキストで自由恋愛を主張する大杉栄と恋愛関係にあったが、妻堀保子と愛人伊藤野枝(辻潤の妻)の四人の複雑な関係と確執から、1916年11月9日、葉山の日蔭茶屋で大杉を刺傷したという事件が有名で、裁判を経て、17年10月から2年間服役している。当時は、神近の嫉妬による犯行であるといったスキャンダルめいた報道が多かったようである。今ならば、有名人のW不倫以上の複雑な関係が取り沙汰されるに違いない事件だった。
  私は、神近市子の「社会党左派」の議員であった、もう一つの顔の方が身近だった。私の若いころ、生家のあった地元池袋を含む当時の中選挙区「東京5区」選出の政治家としての姿が印象に残っている。母と出かけた演説会や選挙ポスターから受ける印象はやはり、「闘士」の面影が色濃かった。1953年、吉田茂首相の「バカヤロー解散」後の選挙で 初当選、65歳であった。ちなみに、そのときの東京都の当選者は以下の図表の通りで、なんとなつかしい名前ばかりである。

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1953年4月衆議員選挙東京都当選者。5区に鈴木仙八、神近市子、河野密、中村梅吉の名前が見える。淡い空色が社会党左派で原彪、鈴木茂三郎、帆足計、島上善五郎、山花秀雄。ブルーが浅沼稲次郎、加藤勘十、三輪寿壮、菊川忠雄、山口シズエ、中村高一。社会党が強かった!

 

  この後も、神近は、60年11月の一度の落選を挟んで、55年1月、58年5月、63年11月、67年1月の選挙で当選、5期を務め、81歳で政界を引退している。

 1919年の出獄後から1953年衆議院選挙で初当選するまでの間の活動は、断片的に垣間見ることはあったが、『神近市子の猛進』で初めて知ることも多かった。

 その一つが、神近と短歌の出会いであった。(66頁)出典は、神近の長男鈴木黎児編集による『神近市子文集(三)』(武州工房 1987年11月)であった。さいわいにも、国立国会図書館でデジタル化されており、しかも個人送信により入手することができた。そこには、二本の短歌関係の随筆が収められていた。それらの文献によれば、神近が鈴木厚との結婚時に「(淀橋区)下落合」に住んでいたのは、半田良平宅の道路を隔てた向かいであり、その後も近くに家を建てたらしい。半田良平夫妻、子どもたちと家族ぐるみの交流があったことと、今井邦子の『明日香』には、気ままに投稿する仲だったことが書かれている。

 北海道に遊説で道南を回った折にはつぎの歌を含む五首を書き留めている。
・見はるかす札幌のかた夕陽はえて ポプラの並木赤くもえたつ(月寒の丘にて)

・開拓の長き苦難をかたるかに 古きサイロ山合にみゆ(倶知安にて)

 衆議院の法務委員会で、岐阜・愛知へ視察に出かけたとき、岐阜の宿で、請われて色紙に書いたのは、東海道での光景を詠んだつぎの歌だった。同行の議員たちも、その光景を見ていたので、喝さいを浴びたという。
・白鷺はおもしろきかな畔にいて 田植える人を眺めて立てり

  当時の「心境にはつぎの歌がもっともピッタリとくる」として、エッセイを閉じている。
・つれづれを史記よみてあり愛しきは 夏殷周の興亡のあと

 (以上「歌と詩と――半田氏の自称弟子」『随筆サンケイ』1961年3月。『神近市子文集(三)』所収)

 

 さらに、もう一本のエッセイ「私の短歌」では、今井邦子との出会いに始まり、自分の勉学の道をひらいてくれた家族やふるさとの大村藩という経済的に豊かだった背景にも及んでつぎのような短歌が記されている。
・ふるさとは友ありてよしこの宵を 心ゆくまでかたりあかして

  1958年7月のソ連視察時、公務が終わっての自由行動の折、トルストイの生地行きを提案、一同向かい、トルストイの墓を訪ねる。彼の墓はトルストイ一族の立派な墓ではなく、樹木の下にひっそりと石一つがあるのを目の当たりにして「何だか悲しかった」としながら、詠んだのがつぎの二首である。
・大樹の下に長方形の石一つ 墓をたずぬる人絶えまなし

・妻や子とは離れて眠るトルストイ 墓をたずぬる人絶えまなし

 二通りの表現を試みて、「主観と客観の違いだけで、どちらに重点をおいたわけでもない」と歌作にも余裕が感じられる一場面である。

 また、1959年、北欧諸国の福祉施設の視察で回ったときに「こんな一首がひょいと頭に浮かんだ」とある。
・北海の波分けてくる船ひとつ 我に希望もたらすがごと

 さらに、このエッセイの終わり近くには、「こうして原稿を書いていると、自分の生涯のことが次々に追憶され、私の生涯が成功と失敗の連続だったことが思い出されて来る」として、冒頭の一首が挙げられている。
・ひとり居て思うことあり 嬉しきは孤独に生きる力もつこと

  「孤独は自分でつくりだせることを知らなくてはならない。周囲に人なく物なくそれを孤独と考えるのは外形的なもので、外に求め、あこがれる場合は孤独ではない。求めず、あこがれぬ心境こそ孤独というものだろう。」「(芸術の)作者の側にも世俗に惑わされず、真実をあくなく追及してそれを表現する努力につとむべきだろう。」と。
(以上「私の短歌」『朝日新聞』1975年8月。『神近市子文集(三)』所収)

  なお、この『神近市子文集(一)(二)(三)』を編集した鈴木黎児は、神近と鈴木厚の長男で、離婚の際には神近に引き取られたのだが、苦労も多かったようだ。それでも、母の書き残したものを、自分なりの眼で収集しての私家版であったようだ。『神近市子著作集』全六巻(日本図書センター 2008年)が刊行される20年以上も前のことになる。さらに、鈴木黎児は、各文章の末尾に、解説を付し、執筆の背景や鈴木自身の率直な感想や批判もしているのである。その収集の努力と遺族による顕彰のみに陥りやすさを抑制している営為には敬意を表したい気持ちである。

  なお、今井邦子との関係ついて、神近の以下の文章がある。
「最後に会った今井さん」『明日香』今井邦子追悼号 13巻8号 1948年11月
「最後の会見」(今井邦子追悼講演録)『明日香路』1巻4・5合併号 1949年5月

  また、堀江玲子『今井邦子の短歌と生涯』(短歌新聞社 1998年1月)にも、邦子が鶴川村への疎開を紹介されたこと、再疎開した下諏訪の生家に、神近が4・5回訪ねていること、亡くなる年1948年2月にも見舞っていることなどが記されていた。

 半田良平については、さきの『文集』にも何度か出て来るが、「隣人としての半田先生(一)(二)」(『沃野』31~32号 1949年10月=11月)に詳しい。

*引用の短歌は、原文では二行の分かち書きになっているが、ここでは一字アキで示した。

(つづく)

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2024年5月19日 (日)

皇族たちの”公務”って~愛子さん、佳子さんの”働き”を通じて

愛子さんの「夢“みる光源氏」見学が「公務」ですか

 愛子さんの日赤就職のニュースとともに、4月1日からの勤務と成人皇族としての活動の両立をはかるとの報道がなされた。さらに、5月11日には「 初めての単独公務で平安文学に関する特別展」に出かけたことが報じられていた。

「平安文学に関する特別展」とは、東京の国立公文書館で3月から開催中の「夢みる光源氏‐公文書館で平安文学ナナメ読み!‐」で、5月12日が最終日だったのである。この特別展は、今年のNHK大河ドラマ「光る君へ」と連動しての企画であったのだろう。

なぜこれが「公務」なのか?違和感があったので、宮内庁のホームページで4月以降の愛子さんの単独での活動を調べてみた。

4月10日 明治神宮参拝(昭憲皇太后110年祭)
4月11日 仙洞御所(上皇・上皇后)訪問(大学卒業・就職の挨拶)
4月14日 雅楽鑑賞
4月25日 武蔵野陵・東陵参拝(昭和天皇・皇后陵)(大学卒業・就職の報告)
5月11日 国立公文書館訪問(特別展「夢みる光源氏‐公文書館で平安文学ナナメ読み!」見学)

 こうしてみると、5月11日前の4つの事案は当然のことながら、公務とはいえず、私的行為である。祖父母への大学卒業・就職の挨拶、昭和天皇墓前への報告はもちろん、神社参拝という宗教的な行為は、公的行為ではあり得ない。とすると、雅楽鑑賞が私的行為という位置づけになるが、上記特別展見学とは何が異なり、「公務」になったのかが不明である。一つ思い当たることと言えば、「主催者の願い出」により訪問したという報道であったが、「願い出」に応じると公務?というのもおかしな論理である。

天皇の「国事行為」については憲法上の定めがあるが、「国事行為」以外の天皇はじめ他の皇族たちについての行為や活動についての法令上の規定はない。宮内庁のホームページには、天皇の「宮中でのご公務など」として、以下のように例示し、あわせて、「行幸啓(国内のお出まし)」と「国際親善」が挙げられている。

新年祝賀・一般参賀/天皇誕生日祝賀・一般参賀/親任式/認証官任命式/勲章親授式/信任状捧呈式/ご会見・ご引見など/拝謁・お茶・ご会釈など/午餐・晩餐園遊会/宮中祭祀

 これらの行為は、法令に基づかない行為ながら、天皇以外の皇族をも含めて、純然たる私的行為と区別して、慣例として行われてきたにすぎない。いわゆる「公的行為」として、実施されてきた行為・活動であった。

 とくに、平成期における天皇・皇后は、災害被災者・被災地訪問、戦地慰霊の旅、福祉施設などの訪問、全国的な行事―植樹祭・国民体育大会・豊かな海づくり大会・国民文化祭・歌会始への参加、全国的な各種団体の美術展・コンサート鑑賞などの文化的な行為に積極的に取り組んできたことは確かである。「国民とふれあい、国民に寄り添う」と喧伝されて、結果的にどんどん拡大してきた「公的行為」であったとも言える。それに重なる宮中祭祀の負担も大きく、背負いきれなくなって、平成の天皇は生前退位に至ったと言えよう。

 令和期は、コロナ禍に見舞われ、活動全体が縮小したが、天皇皇后は、平成期の在り様を目指しながら、戸惑っているようにも見える。そうした中で、宮内庁サイドの広報強化策によって、愛子さんの「公務」は、どのように演出されていくのだろうか。

 佳子さんのギリシャ訪問が「公務」ですか

  佳子さんについても、宮内庁のホームページで、4月以降の単独での活動を調べてみると、4月1日全国高等学校女子硬式野球選抜大会観戦、4月12日林野庁長官の説明(森と花の祭典参加準備)、5月10日伝統工芸染色展・陶芸展見学以外は、5月25日から6月1日の日程でのギリシャ訪問関連の事案で、ギリシャ事情に詳しい専門家の進講4回受けている。他に、このギリシャ訪問を昭和天皇陵に報告し、5月16日には、ギリシャ代理大使による昼食会に招かれている。ギリシャと日本との外交関係樹立から125年を迎えるにあたり、招待されたものであるという。

 今回、進講が重ねられているには、訳があるらしい。昨年11月のペルー訪問の際、その先々での発言というか、随行記者に問われての感想がお座なりだったり、案内人への質問が的外れだったりして、ネット上での批判が多かったということである。私が知らなかったことなど以下の記事に詳しい。

「佳子さま ギリシャご訪問に“観光旅行”と批判再燃の懸念…前回ペルーでは「語彙力がない」と批判噴出」(『女性自身』2024年05月15日 )
https://jisin.jp/koushitsu/2324605/

  そこで今回のギリシャ訪問に際しては入念な事前準備がなされたのではないか。「公式訪問」と銘打たれた国際親善も、いわゆる「公的行為」、「公務」とみなされているのが現状である。

そもそも皇族の「公務」は必要だったのか

 天皇の国事行為と純然たる私的行為の間の広く曖昧な部分を公的行為として「公務」とみなし続けてきた慣例、その公務を拡大してきた経緯を見直すことなく、公務を担う皇族が減ってしまったから、何とかその担い手を確保したくて、出てきたのが有識者会議での一案、女性皇族が結婚しても皇族に残るとする案であった。共産党、れいわが反対をしている。他の党は大筋で認めているが、その細部については不透明で、今国会で協議が始まったものの、どこに着地するかは分からないのが現況である。
 「公務」の担い手を増やすより、とりあえず「公務」を縮小することをなぜ考えないのだろう。公務が減っても、国民生活に何の支障もきたさない。困るのは、宮内庁なのではないか。皇族たちが「国民とふれあい、国民に寄り添う」機会が減少して、メディアへの登場も減り、皇室自体への関心が薄れることを一番おそれているはずである。同時に、これまで、天皇はじめ皇族たちの「公務」によって、さまざまな恩恵を受けてきた政権にとっても、その縮小は不都合なのではないか。戦死者慰霊や被災地訪問、施設訪問などに見るように、政権の不始末や失政を補完したり、国民の目を反らさせたりしてきたからである。

 そんなことを考えているときに、若い弁護士の堀新さんつぎのような文献を見つけて意を強くした次第なのだ。

「すべての公務を廃止しても問題はない」皇族に残る佳子さまのために考えるべきこと「皇室の存在意義」はどこにあるのか
PRESIDENT Online 2021年11月2日
https://president.jp/articles/-/51456?page=1

そして行き着くのは、皇室自体、天皇制自体の存在意義なのである。

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2階のベランダに洗濯物を干しに出たら、ヤマボウシが一気に白い十字の苞を開き、花のようであった。

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2024年4月24日 (水)

苗字を持たない人たちの人権はどうなるのか、しかし、その前に

  先に、安定的な皇位継承の在り方についての有識者会議報告書をめぐる各党、メディアの対応を当ブログ記事にまとめた。そのあと、断捨離の一環で、袋詰めの資料を整理していたが、皇室関係の切り抜きの一袋を開いたところ、つぎの記事の見出しが飛び込んできた。「うーん、これって、いったい、いつのこと?」と読んでみると、自民党が「女性天皇」と「自らの退位可能」=生前退位を認める方針を固め、皇室典範改正の検討を開始した、というのである。2001年5月9日の読売新聞だった。20年以上前、そういえば小泉首相の時代だったかも。紙もだいぶ劣化しているので、背景処理してコピーしたものだ。

 先週4月23日には、春の園遊会が開かれた。最近のメディアは、もっぱら愛子さんにスポットを当てているのを見ていると、世論調査の結果や今回の女性皇族は結婚しても皇族として残る案への傾斜を示しているように思われた。

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自民党が皇室典範改正の検討を早めたのには、前年の2000年に皇太子妃の雅子さんが流産したことがきっかけになったと思われる。

  今般、4月19日、皇位継承に関する自民党の懇談会では、2021年にまとめた有識者会議の二案 ①皇族女子が結婚後も皇族に残る ②旧皇族男子との養子縁組による皇籍復帰できる、の両案を妥当とするものだった。これまで、自民党の態度が決まらなかったのは、①案が女系天皇・女性天皇につながりかねないという懸念からだった。しかし、20年以上前は、「女性天皇」を認める方針だったことになる。
 おおよそ時代ごとになっている袋を開いていくと、皇位継承をめぐる記事がいくつか出てきて、その経緯を、あらためて知ることになった。こうしてみると、皇族たちは、なんと時の政府に翻弄されてきたことかがよくわかる。

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 2001年5月には、雅子さんの懐妊が発表され、12月に愛子さんが誕生する。2005年11月、小泉首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」の報告書は、女性天皇、女系天皇を容認するものだったが、 2006年2月秋篠宮の紀子さんの懐妊の発表、9月に男子悠仁さんを出産すると、即日、皇室典範改正は見送りとなった。つぎの安倍首相はもともと男系維持論者であったため、以降、皇室典範改正は棚上げされた。

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現行の皇室典範によれば、当時の徳仁皇太子から文仁秋篠宮、悠仁さんへと皇位は継承される。もし、皇室典範改正されて、第一子優先の女系天皇・女性天皇が実現されていたら、徳仁、愛子、文仁、眞子、佳子、悠仁さんの順位となるはずであった。

  2009年9月、政権交代で民主党鳩山内閣に続いて、11年、野田内閣のもと、女性宮家創設を検討し始めた。小泉時代の「皇室典範に関する有識者会議」の報告書を下敷きに、「女性宮家」は一代限りの皇族となることを前提で、子どもが生まれても皇位継承権はないというものだった。しかし、2012年12月、第二次安倍政権が発足すると、「女性宮家」は、検討対象とはしない方針を固めている。安倍首相は自らの持論も踏まえ、自民党内保守派の男系維持論に与したことになる。

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  そして、2016年8月、明仁天皇の生前退位の意向表明がなされたのを機に、2017年6月には、生前退位特例法成立、2019年5月1日に徳仁皇太子が天皇になり令和期に入る。

その後も、皇位を継げる男子皇族は秋篠宮文仁、悠仁さんの二人であることには変わりがなく、「安定的」な皇位継承対策は、重要課題となっていて、2021年11月の有識者会議報告書の二案に至ったわけである。
 しかし、その内容は、当ブログ記事にも書いたように、何ともお粗末な、時代離れしたもので、二案とて、「安定的」な皇位継続が見通せるものではない。

 現在の皇室典範自体が憲法に定める人権に抵触しているし、二案による改正がなされれば、天皇家の人々、皇族の人たちの人権はむしろ広く縛られることになるのではないか。そうまでして皇位を継承して、天皇制を維持しようとする人たちは、皇族たちをなんとか利用しようと企んでいるようにも思えてくる。国民の多くは、特に若年層にとっては無関心、あるいは週刊誌的興味からながめているのではないか。

 皇位継承問題が浮上した今こそ、私たちは、憲法の基本原則と両立しがたい「第一章天皇」を持っていることを、真剣に考えなければならない時だと思う

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2023年11月20日 (月)

<座談会>、かなり緊張したのですが。

 11月18日、土曜の午後、G—W—G (minus) 同人の方からのご依頼で座談会に参加しました。同人の三方、位田将司さん、立尾真士さん、宮沢隆義さん、どなたも近代文学の若い研究者で、G—W—G (minus) のバックナンバーを一部拝読、これは手ごわいぞ、の第一印象でした。座談会に至るまでは、進行や資料など丁寧に対応していただき、1週間前にはzoomの打ち合わせもしていただきました。

 会場は、私の住まいの近くの古民家カフェ「入母屋珈琲」の2階の広々とした会議室、入るなり、中央のテーブルにはなんと、写真のように、私のこれまでの著作、収録された論文集、雑誌のコピーまでが、積まれているのを目にして驚き、もはや感動に近いものがありました。私も、拙著の一部や1960年代の雑誌などを持参しましたが、机上のこれらの資料から突っ込まれると、かなりの覚悟が・・・、などと思ったのですが、話が始まると、三人は各様に、私の4冊の歌集や拙著を読まれていて、おぼつかない私の話をうまく掬い取ってくださりで、あっという間の4時間!でした。多くの刺激をいただきました。

 当日の夕方には、以下のツイートにも。 

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本日、歌人の内野光子さんと座談会をおこないました。短歌と天皇制の関係を中心に、「60年安保」及び「68年」と短歌、阿部静枝と『女人短歌』、齋藤史と『万葉集』、前衛短歌、そして「歌会始」の問題を大いに議論しました。2024年5月刊行予定の『G-W-G(minus)』08号に掲載予定です。乞うご期待! pic.twitter.com/7y1qnDWvmx

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2023年9月21日 (木)

歌壇におけるパワハラ、セクハラ問題について、いま一度

 2019年末から翌年に下記の当ブログ記事において、短歌結社雑誌『未来』の選者の一人のパワハラ、セクハラ問題について触れていた。そんなこともあって、短歌史や資料の件で何かとご教示いただいている中西亮太さんとのご縁で、上記パワハラ、セクハラ問題ついて、当事者の加藤治郎氏とのツイートやnoteで追及されている中島裕介さんに中西さんと二人でお話を伺う機会があった。

・歌壇、この一年を振り返る季節(2)歌人によるパワハラ?セクハラ?~見え隠れする性差(2019年12月22日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/12/post-b5862e.html

・歌壇における女性歌人の過去と現在(2020年3月 3日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/03/post-d8f3d9.html

  インターネット上で、加藤・中島間のやり取りを見ていると、論理的な中島さんに感情的に答える場面も多いのだが、やはり、それだけでは、何が真実か、どの情報を信頼すべきか、正直、迷うこともあった。今回、私たち二人の疑問にもていねいに応える中島さんの話のなかで、わずかに伝えられた被害者の方々からの情報を間接的ながら知ることによっても、その全容が少し見えてきたように思う。

 『未来』のホームページによれば、2019年11月30日、理事会報告で 理事1人から提出されたハラスメントの事実確認をすることとハラスメントに関する委員会、相談会設置することなどを表明して以来、2020年1月19日に、ハラスメント相談窓口設置発表、2022年7月21日、「ハラスメント防止ガイドライン」「ハラスメント相談窓口フロー」を発表するにとどまり、表だった動きが見えない。『未来』の会員にも、公式には、これ以上の報告はないようである。『未来』会員の中島さんからに限らず、名指しされている選者の一人のセクハラ問題なのである。ハラスメント委員会はこれまでの間、どのような活動をしてきたのだろうか。理事(=選者)会には、女性も多いのに、何とか解決の糸口はなかったのだろうか。できれば表ざたになるようなことはしたくないという結社自体の保身、そして、理事たちの保身がこうした結果をもたらしているようにしか思えない。男女各1名のハラスメント相談窓口を開設以来、相談件数はゼロであったという、大辻隆弘理事長からの報告もある。結社内の人間が担当したのでは、非常にハードルが高く、機能は果たし得ないのではないか。

 また、短歌関係メディアは、「噂」としては知っていた、あるいは、少なくともネット上の情報で知り得ていた情報の真偽を確かめようとなかったのだろう。なぜ、そのまま放置して、当事者の起用を続けているのだろう。現に、起用を控えているメディアもあることは、誌面によりうかがい知ることもできる。決して、一結社の問題ではないはずである。

 ハラスメントを、セクハラを受けた側から考えれば、加害者の名前を見るのも、画像を見るのもいたたまれないのではないか、メディアはそうした想像力を働かせてほしい。ジャニーズ問題は、どんな組織にも起こり得た問題だったのである。

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2020年3月 3日 (火)

歌壇における女性歌人の過去と現在

 今日は「ひな祭り」なのだが、おひな様を出さなくなって久しい。花より団子で、私の好物の穴子を散らしたお寿司とヒラマサのお刺身、ポテトサラダという妙な献立で、二人だけで祝った?のだった。生活クラブのはまぐりは、娘が帰省していた折、すでにお吸い物にしてしまっていた。

 ひな祭りと言えば、『短歌研究』という雑誌は、三月号は、毎年女性歌人特集をするのが恒例であった。1960年前後から、時折、女性作品特集が組まれていたが、定例化したのは1969年以降で、ほぼ例外なく踏襲されてきたし、1980年代からは五月号の男性歌人特集もセットになった。ところが、今年の三月号には、どうだろう、その女性歌人特集が消えていた。節句にちなむ特集などよく続いたものだとむしろ感心もしていた。私などもちろん縁がなかったのだが、三月号の特集が、女性歌人へのせめてものサービス、量的にも質的にも勝っている女性歌人への「ガス抜き」の様相を呈していたので、どこかすっきりした感じがしないでもない。五月号の男性歌人踏襲もなくなるのだろう。これからの歌壇において女性歌人が、どういう評価をされていくのか、注視していきたいところである。

 今年の1月中旬締め切りで、同人になっている『ポトナム』誌の「歌壇時評」に以下を寄稿した。同じようなテーマで、すでに昨12月の当ブログでも記事にしているので、併せてご覧いただけたら幸いである。

・歌壇、この一年を振り返る季節(2)歌人によるパワハラ?セクハラ?~見え隠れする性差(2019年12月22日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/12/post-b5862e.html

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  昨年、「阿部静枝の戦後」について調べ、作成中の静枝の「著作・関連文献年表」を眺めていると、精力的なまでに、多くの短歌作品と短歌評論を残していたことを改めて知るのだった。しかし、アンソロジーや短歌史に、その名を見いだすことがまれなのはなぜかの思いにもいたったのである。短歌以外の新聞や雑誌、女性、教育雑誌をはじめ、政治から料理までという広い分野のメディアにも頻繁に登場し、座談会や人生相談にまで応じていた。
  静枝(一八九九~一九七四)の敗戦後の短歌評論や発言は、二〇代から、夫、温知とともに無産運動の活動家としての経験――婦人参政権獲得、女子労働・母性保護、母子扶助運動の実践―などを踏まえ、やや生硬な表現を伴いながらも、率直かつ厳しいもので、多くの男性歌人や女性歌人にとっても、耳の痛いことが多かったのではないか。
  静枝の没後から四五年も過ぎた今日にあっても、社会や歌壇における女性差別は改まらない。そんなことを考えていた矢先、歌壇において、男性歌人による「ミューズ発言」が、問題になっていることを知った。一昨年六月、名古屋での「ニューウェーブ三〇年」というシンポジウムで「ニューウェーブに女性歌人はいないのか」との会場からの質問に、パネリストの加藤治郎はみずから「加藤、荻原裕幸、西田政史、穂村弘の四人だけがニューウェーブだ」と断定したという。さらに、昨年二月、加藤が「ニューウェーブに女性歌人はいないのか」の題で「水原紫苑は、ニューウェーブのミューズだった。・・・」とツイートしたことが、短歌雑誌やネット上の歌壇時評で批判されることになった。
  短歌史上、「ニューウェーブ」の明確な定義は見当たらないが、私は、一九八〇年代後半、俵万智『サラダ記念日』出版以降、いわゆるライトヴァースの延長線上の若い歌人たちによる口語的発想で、日常の些細なことがらや微妙な違和感などを軽妙に歌い、ときには現代文明批判めいた作品に仕上げる傾向の短歌というくらいの認識であった。私には意味不明な歌が、もてはやされたりして戸惑ったりしたが、その担い手を、なぜ特定の男性歌人四人に限るのかは理解できない。さらに、ミューズ発言の前後には、女性差別以外にも差別表現があったというが、現在、そのツイートは削除されている。
   このあたりの顛末は、高島裕「これ以上ニューウェーブを語らないために」(『未来』二〇一九年二月)、川野芽生「うつくしい顔」(『現代短歌』同四月)、中西亮太「川野芽生『うつくしい顔』について」(ブログ「和爾、ネコ、ウタ」同三月一七日)、中島裕介「ニューウェーブと『ミューズ』」(『短歌研究』同四月)などで知ることができる。さらに、中島は、自らのツイッターや「note」において、加藤発言を追跡、批判を発信し続け、加藤も、反省、謝罪、画策、反論などを繰り返している。その過程で、決着の糸口になるのかどうか、加藤・中島が属する未来短歌会の理事会は、一選者のハラスメントについての事実確認と検討委員会設置などの協議を始める旨を決めたらしい(「未来短歌会」ホームページ二〇一九年一一月三〇日)。
   政治や企業の世界だけでなく、人権にかかわるハラスメントが、文芸やスポーツの世界、そして家族間においてまで、顕在化してきたことの現れでもあろう。しかし、最新の二つの『短歌年鑑』では、これらの動向についてだれも触れようとしなかった。かつて、〈女流歌壇〉と括ることにさえ疑問を呈しながら、女性歌人が低位に置かれている実態に抗議していた阿部静枝の声(「女流歌壇展望」『短歌声調』一九五〇年一月)が聞こえてくるようだ。(『ポトナム』2020年3月号所収)

 

 

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2019年9月 9日 (月)

あらためて、髙村光太郎を読んでみた(1)教科書の中の光太郎

 機会があって、髙村光太郎の詩作品を通して読むことになった。とくに戦時下と敗戦直後の作品を「歌集」や『髙村光太郎全詩集』(北村太一編 新潮社 1966年)とをあわせて読んでみた。「道程」や「レモン哀歌」のイメージが大きく崩れたのは言うまでもないが、さらには、高校の修学旅行で訪ねた十和田湖畔の「乙女の像」へのあまやかな記憶も遠のいていった。これまでも、たしかに、「地理の書」や「一億の號泣」を読み、その戦争責任論への言及にも触れてはいたが、この時代のおびただしい数の「戦争詩」の全貌を知らなかった。若い時の海外での暮らしや智恵子との出会いと死別、そして、敗戦後の岩手県の山小屋蟄居生活を詳しく知ろうとも思わなかった。何をいまさらと思うかもしれないが、年をとっても知らないことが多すぎると思う昨今なのである。

 新しくは、中村稔の『髙村光太郎論』(2018年)『髙村光太郎の戦後』(2019年)、古くは吉本隆明の「髙村光太郎論」(『吉本隆明著作集8』勁草書房 1973年)などを読むことにもなった。

教科書の中の光太郎 

 大方の人の光太郎との出会いや認識はといえば、やはり教科書ではないかと思う。少し古いが、『朝日新聞』週末の付録「be」のランキングシリーズに「教科書に載っている好きな詩」(2014年8月2日)というアンケートがあった。対象は、朝日新聞デジタル会員1600人余に約80篇の日本の詩から選んだという結果なので、対象に若年層は少ないかもしれない。一位「雨ニモマケズ」(宮沢賢治)に続くのは「道程」(髙村光太郎)、「君死にたまふ勿れ」(与謝野晶子)、「椰子の実」(北原白秋)、「初恋」(島崎藤村)であり、さらに、「小諸なる古城のほとり」(島崎藤村)、「てのひらに太陽を」(やなせたかし)と続く。十二位に光太郎「あどけない話」が登場する。

「道程」

僕の前に道はない

僕の後ろに道はできる

ああ、自然よ

父よ(後略)

 冒頭のこのフレーズさえ、私が覚えていたのは「僕の前には道がない 僕の前には道がある・・・」であって、不正確なのがわかった。また、「智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ。」で始まるのは「あどけない話」、「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。」のリフレインがあったのは「樹下の二人」という題の詩であったことも思い出せないほどであった。さらに、「あなたのきれいな歯がかりりと嚙んだ」の「かりりと」が新鮮に思えたころは、レモンなど街の八百屋や果物店で見ることがなかったし、食卓にのぼることもない時代であった。いま「レモンをかりりと嚙め」と言われたら、まず、国産か輸入物か、農薬やワックスがかかってはいないかの不安がよぎるにちがいない。

 ところで、若い世代の光太郎の接点については、とりあえず、最近の中・高等学校の教科書を調べてみた。中学校の国語教科書、国語の五社(学校図書・教育出版・三省堂・東京書籍・光村図書)十五冊のうち、教育出版の一年用に「道程」と「智恵子抄」、二年用に「レモン哀歌」。東京書籍の三年用「レモン哀歌」が採用されている。高校では、現代文B・国語総合・国語表現の教科書十社五十四冊のうち、「樹下の二人」が教育出版、三省堂、筑摩書房各一冊、大修館書店二冊、計五冊に採用され、「冬が来た」が教育出版一冊、東京書籍二冊の計三冊に、「道程」が第一学習社二冊に、「あどけない話」が大修館書店に採用され、十社のうち六社で採用されていることになる(中・高等学校「(平成30年度)新潮文庫国語教科書採用作品一覧」新潮社)。ちなみに宮沢賢治の「永訣の朝」は、高校の教科書十社五十四冊のうち、九社二十二冊で採用されている。なお、人気の高い「雨ニモマケズ」は、詩作品そのものが教科書に採用されるというよりは、長い間、宮沢賢治の伝記教材などで扱われることが多い(葛西まり子:「国語科教科書の中の宮沢賢治―〈伝記教材〉を視点として」)『(慶應義塾大学)芸文研究』88号 2005年6月)ことが、「永訣の朝」より「雨ニモマケズ」の分かりやすさが、人気の秘密なのかもしれない。未見ながら、最近『宮沢賢治はなぜ教科書に掲載され続けるのか』(構大樹著 大修館書店)という本も出たらしい。

光太郎は、今日においても、「冬が来た」(1913年12月)、「道程」(1914年2月)や「樹下の二人」(1923年3月)、「あどけない話」(1928年5月)、「レモン哀歌」(1939年2月)などにより、一定の国民的な人気を維持している詩人ではあるが、これらの作品は、いずれも一九一〇年から一九三〇年までの作品で、かれこれ百年前の「現代詩」ということにもなる。

Be

「教科書に載っている好きな詩」『朝日新聞』(2014年8月2日)

 

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2018年11月24日 (土)

二つの「男女共同参画」“まつり”に参加して

 

 

 臆面もなく「一億総活躍社会」とか「すべての女性が輝く政策」とかの看板を掲げながら、現実には、その真逆のことをやっていた安倍政権には、あきれ果てて、言葉もない。内閣府が出している広報誌『共同参画』には、片山さつき大臣の「ご挨拶」が載っている。「地方創生」と「男女共同参画・女性活躍」」担当大臣の兼務による「シナジー効果」も生かしたいと決意を述べていたが、もはや絶望的でしかない。その「ご挨拶」に付せられた顔写真は、何十年前の写真と思われるような首をかしげているブロマイド風。現在の国会での答弁中の様子と比べると、見るに堪えないほどの情けなさである。

 「男女共同参画」なる言葉は、1999年「男女共同参画基本法」施行の辺りから、頻繁に使われるようにはなったか。しかし、巷でも、身近な自治体でも、定着したとは言い難い。私自身も「男女平等」の方が分かりやすいのにと思いながら過ごしてきた。そんな中で、この秋、二つの「男女共同参画」事業に参加した。

 

東京ウィメンズプラザフォーラム~「音を紡ぐ女たち」コンサート

  1028日、あたたかな日差しの中、表参道を東京ウィメンズプラザへと急いでいた。ハロウィンが近いためか、妙な扮装の若者たちをチラホラと見かける。プラザ・ホールでの「第4回音を紡ぐ女たち―女性作曲家を知り、聴く」のコンサートにやってきた。主催団体の小林緑さんからのお誘いもあって、毎年楽しませていただいている。現代では、顧みられることの少ない女性作曲家に目を向けて、広めていこうとするのがコンサートの目的でもある。 

 今回は、19世紀半ばから20世紀にかけての女性作曲家によるピアノ曲ばかりのコンサートであった。コンサートの前半は、まず、昨年生誕150年を迎えた、アメリカのエイミー・ビーチ(18671944)作曲の「夏の夢」全6曲で、身近に潜む「妖精」や小動物をテーマにした小品からなり、正住真知子さんと弘中佑子さんの連弾は、楽しくゆったりとした気分にさせられた。つぎは同じくビーチの作品のエミイ・トドロキ・シュワルツさんの独奏、セシル・シャミナード作品の山口裕子さんのダイナミックな演奏がつづく。また、ベネズエラ出身のテレサ・カレーニョの曲は、同じく山口さんの独奏だった。テレサは、小林緑さんの解説によれば、作曲や演奏活動をつづけながら、結婚や離婚を繰り返し、生活や育児に追われ、演奏旅行中病に倒れたという。首都カラカスには、「テレサ・カレーニョ劇場」といのもあるし、チャベス大統領時代の福祉政策の一つのオーケストラ運動においては、テレサの名を冠したオーケストラも誕生しているという。チャベス大統領の別の一面を知っていささか驚いたのであった。

 後半のポーランドのマリヤ・シマノフスカ(17891831)だけが、ショパンの先輩にあたり、ゲーテとも親交があったという、少し古い世代の作曲家であり、ピアニストである。日本でいえば江戸時代のことだ。三手の連弾によるワルツであった。さらに、マリー・ジャエル(18461925)は四手による連弾曲で、最後は、なんと再びシャミナードの「銀婚式」という曲は、その日のピアニスト全員による4人八手の連弾で、壮観?でもあり、私には初めてのことであった。

 ウィメンズプラザフォーラムは、2日間のいわばお祭りで、いろいろなイベントが目白押しではあったが、会場近くのマルシェ、青空市の方も気になって、早々に会場を出た。 

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ウィメンズプラザと言えば東京女性財団の「民間活動支援事業」の一環で、『扉を開く女たちジェンダーから見た短歌史1945-53』(砂小屋書房 2001年)の出版助成を受けるために、共著者の阿木津英さんと小林とし子さんの三人で、審査のための面接を受けに来たのを思い出す。想定問答を試みたり、受験生のように緊張したものだが、100万円近くの実費助成を頂くことができた。当時の石原都政は、この2000年度を最後に支援事業を打ち切ったという。

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千葉市男女共同参画センターまつり~「短歌ハーモニー」歌会

  青葉の森公園近くの千葉市ハーモニープラザで、私たちのグループ「短歌ハーモニー」は2002年から月一度の歌会を続けている。これまでもセンターまつりに参加して、公開歌会や短歌作品の展示などを行ってきた。昨年までは、12月上旬の週末2日間に実施されてきたのだが、今年は、約1カ月の間に参加グループが都合の良い日程を組めるようになったという。参加するグループが年々減少しているらしく、今年は、企画を大きく変え、会場費も無料にするので、ぜひ参加をとの呼びかけが、私たちの会のお世話役に何度も届いたそうだ。

 11月の第181回歌会は、曜日を変えて1118日に開き、参加することになった。公開歌会になるので、お誘いのチラシを作り、男女共同参画センタ―によって、市内の各所に配置してもらい、当日はまつりの来場者が参加しやすいようにと、みなで入り口付近の飾りつけをした。この16年間に発行した合同歌集『青葉の森へ』3冊やこれまでの教材や歌会のプリントのファイル、私の歌集や著書まで展示することになった。覗いてくださる参加者がいるだろうか、何人くらい参加してくれるだろうか、毎年ながら、いささか不安もよぎる。こうした歌会に参加して会員になられた方も多い。さらに、かつて会員だった方がひょっこりと現れたり、私の地元の佐倉市から駆け付けてくれたりした方もいらした。一昨年は、Jコムのカメラやインタビューが入って、翌週放映されたということもあったし、短歌雑誌や地域新聞に紹介されたこともあった。

 今回は、結局、3人の方が参加、お一人は、短歌も用意されていた。総勢12人の歌会となった。ふだんは各人2首づつ提出、相互批評をする。今月は年3回の、名歌鑑賞の月にもあたるので、あらかじめ用意した教材の中から各人が選歌した2首を鑑賞することになっていた。 

 会員の入れ替わりはあるけれど、この16年間よくここまで続けてこられたな、と感慨深い。というのも当初からの会員のMさんや早くからの会員の皆さんの熱意あふれるお世話があってのことだと思い、感謝の気持ちでいっぱいになる。

 それにしても、私たちも、当日参加の方たちも「男女共同参画」といった意識で「歌会」に臨んでいるわけではないような気がしてる。ごく自然なかたちで、短歌を作ることが何となく楽しみとなり、名歌や仲間の短歌を読むことで何かを得られることを知って、続けてきたのではないかと思う。「自己表現」の一つの形ではあるけれど、大上段に構えず、これからも、語り合い、楽しんでゆくことができたらと、あらためて思うのだった。

 

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このチラシの裏面には、ある日の歌会からと、会員の短歌が1首づつ披露されている。定例歌会は、毎月第三木曜日1時から。

 

 

 

 

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2016年2月17日 (水)

ふたたび、阿部静枝について、報告しました

 213日、ある研究会で「阿部静枝の歌集『霜の道』と戦後の短歌評論活動は、短歌史上どう位置づけられたか」を報告した。準備を進めていた矢先、1月下旬、インフルエンザにかかってしまった。いまだに咳が抜けきらないでいる。言い訳にはならないけれど、添付のようなレジメは作成したが、後半部分が駆け足になってしまった。当日配布した図表は省略している。前回のレポートほか、関連の過去記事は本稿の末尾の通り。

報告の前半は、阿部静枝の第一歌集『秋草』(1926)から長い年月を隔て、敗戦後に出版された第二歌集『霜の道』(1950)についてとなった。出版当時、そのフィクション性をめぐって、歌壇の注目を集め、議論の的となったが、私は、『霜の道』において、なぜ戦時下の大政翼賛的な作品が多く省略されたか、にも着目、静枝自身にとってどういう意味があったのかについても、合わせて検証したいと思った。

報告の中心は、短歌ジャーナリズムにおいて女性歌人がいかに進出してきたか、その中で阿部静枝がどんな役割を果たしてきたのか、『女人短歌』の中心的な人物であったにもかかわらず、短歌ジャーナリズムへの登場が少なくなる1960年以降、そして1974年没後、今日に至るまで、各種のアンソロジーにも収録されず、短歌史上も頁を割かれることがなく、ほとんど注目されることのない、女性歌人となった。齊藤史、葛原妙子、森岡貞香、中城ふみ子、山中智恵子などが、その名を留め、いまの若い人からも鑑賞や評論の対象となっていることに比べるとその感が強い。あらためて、その足跡をたどれればと思っての報告であった。

報告概要
http://dmituko.cocolog-nifty.com/abesizuerejime.pdf

 

 

なお、昨年の12月、私の阿部静枝に関するブログ記事がきっかけで、思いがけない情報が飛び込んできたことも、お知らせしたいと思う。「内野光子のブログ」の阿部静枝関係の一つの記事に、仙台に住む女性からコメントがついた。ご自分の祖父の妻は、阿部静枝の夫、阿部温知の姉であり、母方の祖父が静枝の母ときょうだいという方が現れたのである。それから、メールでの交信が始まり、その方は、お仕事の傍ら、知る限りの親せきに問い合わせを始められたようだった。いろいろな情報を集められ、自作の家系図やこれまで見たことがなかった静枝と温知と一緒に写っている写真などのコピーが送信されてきた。その中で、阿部温知の兄の子、静枝の甥にあたる阿部徹雄氏の名を知ることになる。毎日新聞(東京日日新聞)のカメラマンであったが、没後、毎日新聞社にその作品が寄贈されたことも教えていただいた。外部の者もアクセスできる「フォトバンク」に収められていて、静枝の写真も何枚か見ることができた。徹雄氏は、戦場カメラマンとしての活動も顕著であったが、戦後は、アジア・ヨーロッパ・アメリカを訪ね、各国の美術紀行や写真集など数冊を刊行、その確かな技術と観賞眼は高く評価されている。評伝「写真に生きる」(玉川選書、2002年)もある。ご遺族も、祖父が阿部温知の兄であり、温知が、子を宿していた静枝と結婚したことは聞いているが、それ以上のことは不明の由、ということであった。その後も、仙台の方からは、家系図の訂正版やあらたに見つかった写真などの送信が続いている。思いがけないうれしい出会いであった。ブログ記事が取りもってくれたご縁の一つ、いつか、友愛労働歴史館の静枝コーナーの前で、お目にかかれたらなあ、と楽しみも増えたのである。

 

(参考過去記事)

ある研究会での報告~阿部静枝歌集『秋草』から『霜の道』へ、その空白

20121211

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/12/post-d675.html

・阿部静枝の若き日の肖像画に出会う~初めての友愛労働歴史館にて
 
201474

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/07/post-927a.html

・再び友愛労働歴史館へ~阿部静枝コーナーの展示が始まった

2014911

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/09/post-501c.html

 

 

 

 

 

 

 

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