2018年11月 5日 (月)

元号が変わるというけれど、―73年の意味(8)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(5)

東京裁判はどう歌われたか

 

七名の日本人の死にゆかむ日は年内に迫り来なむか  

(宮柊二「猫じゃらしの穂」12 短歌研究 19491月)

裁かれし二十五名の断罪に耳かたむけてゐたるときの間
おごそかに歴史の上にしるされて永遠に消えざる今日の重大
(吉野鉦二「断罪」12 短歌研究19492月)

断罪の一人の友の夫がラジオにて知るその絞首刑(板垣喜久子夫人に)
洋裁店場末の町にひらきしも戦犯家族の生きてゆく道
(尾崎孝子 「十二首」12 短歌研究492

判決のラジオの聲を耳にして自由が丘の街なかに立つ
(片山廣子「秋日」7 日本短歌 19492月)

七人の處刑をはりし夜の闇のまぼろしに来て迫る何ゆゑ
薤の上の露ひとときのはかなごと同罪の吾をせめつつゐたり
断罪を軽しとしつつ傳へ来る福音はなほ吾に遠くして
(山本友一「冬蟄吟」12 短歌研究 19494月) 

断罪の一人の如く醒めし吾ま夜の井に来て水のみにけり
(青木政雄 短歌人 19491011月)

これらは、極東軍事裁判、いわゆる東京裁判のA級戦犯として東条英機ら七人が処刑された19481223日(皇太子誕生日)の前後に詠まれた短歌である。1946429日、(昭和天皇誕生日)に東条英機らを起訴し、53日にスタートした東京裁判だったが、19481112日には死刑の判決が宣告されていたものだ。『昭和萬葉集』巻八にも、この死刑執行について詠んだ短歌がかなり収録されているが、私は、あえて、初出の雑誌で発表した作品に限って、あげてみた。手元で確認できるものだけなのだが、ほぼリアルタイムで詠まれた短歌と言ってよいだろう。後、歌集に収録されたものには、改作されることもあり得るから、引用には、やや慎重にならざるを得ない。尾崎孝子の短歌は、七人のうちの一人、板垣征四郎の喜久子夫人を歌ったものである。夫人は、阿部静枝とお茶の水女高師の同期生で、古くからの『ポトナム』同人であった。『ポトナム』に復帰された1960年代からの東京ポトナムの歌会で何度かお目にかかったことがある。作品は、私など及びもつかない、骨格のしっかりしたものであり、苦労はされたとは思うが、やさしく、穏やかな面差しが印象に残っている。 

 A級戦犯処刑の日から2カ月もたたない1949215日に発売された、巣鴨拘置所で死刑囚の教誨師を務めた花山信勝『平和の発見―巣鴨の生と死の記録』は、たちまちに15万部以上のベストセラーとなったという。それを受けて、杉浦明平は、死刑囚の辞世と花山の<説教>、著名・無名にかかわらず歌人の受け止め方を、雑誌に発表された作品を例に挙げながら、辛口というか、かなり挑戦的な口調で、批判を続け、つぎのような結論へと導く(杉浦明平「新七刑囚物語―極東裁判の短歌について」『短歌研究』19497月)。

歌人たちは<世紀の裁判>とか何とか新聞の見出しだけを覚えて復唱するだけ で、この戦犯裁判と処刑との意味するものを深くとらえていない。従つてそれを文学化せずにおられぬまでに強い抒情をなし得ず、まれになしても非文学的な三十一文字しかつくれない。それはちようど聖戦をあのように姦しくさえずり回りわめき立てたことと表裏の関係に立つ。すなわち、歌人が、従つてそのいとなむ短歌もまた、近代化の方向に向いていないし、近代化への切実な要求ももつていないことの一つのあらわれにほかならない。」

 そんな中でも、杉浦は、井上健太郎(『国民文学』)のつぎのような、いまだ生硬ながら、「自覚的」な短歌として期待を寄せていた。 

・死によりて償はるるとなす彼の思想を何が何がかへるのか 

・千数百すでに縊られたるありて七囚をのみなげく何もなし 

・縊られし者ら以上に生きながら永き苦悩をつづけてゆくべし

  極東軍事裁判の開廷中をふくめ、天皇の戦争責任論にかかわり、天皇退位論議は、マス・メディアを舞台にかなり活発になされていた。今からは想像がつかないほどで、例えば、大手全国紙は、世論調査を実施するとともに、194510月から翌年にかけては、社説でも、天皇の退位時の対応策などが論じられ、19464月、南原繁東大総長は道義的退位論を表明している。新憲法施行後も、司法の場からは、19484月、三淵忠彦最高裁長官により、8月には、横田喜三郎東大教授による退位論が表明されている。裁判の終盤、19471231日、東条英機が天皇に開戦責任ありと証言した一週間後の年明けには、天皇に開戦責任なしと証言を覆した場面もあった。開廷中のキーナン首席検事が天皇訴追せずのメッセージは幾度か出してはいたが、そもそも、アメリカ本国では、1941年日米開戦直後から、日本占領後の「象徴天皇制利用構想」が打ち出されていたという(加藤哲郎『象徴天皇制の起源』平凡社 2005年)。日本の情報機関は知るすべもなかったのだろう。 

 杉浦明平も指摘するように、東条英機が戦争責任を一人背負ったような、いわば<浪花節的>な展開に、多くの国民の「男らしさ」や「可哀想だ」という情緒的な反応が、「事物の本質を見失わせ」、「戦争責任の問題およびこれと関連するこの荒廃せる祖国復興の問題をば傍き道に逸らせるのにもつぱら寄与していると言つていい」の言には、耳を傾けてもいいかもしれない。(つづく)

| | コメント (0)

2018年10月29日 (月)

元号が変わるというけれど、―73年の意味(7)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(4)

 プランゲ文庫の検閲文書から見えてくる<短歌と天皇制>

 なお、同じころのGHQの検閲過程で『アララギ』1947年新年号において、興味深い一件を垣間見ることができる。

Img526

プランゲ文庫に残る『アララギ』1947年1年号の表紙。47年2月4日の日付とY.Sakaiのサインがある。「20000」というのは、発行部数のようである。当時、『人民短歌』12000部の記録もあった。

  雑誌などの検閲は、まずExaminerによって、目次がすべて英訳された上で、全頁、点検の上、「注視すべき」作品や文章と作者名が英訳され、その理由が<note>として記される。タイプの場合もあるし、手書きの場合もある。『アララギ』新年号においては、ExaminerM.Ohta のサインのもと8カ所が対象となっていた。さらに、おそらく、別人によるチェックが入り、結論がタイプ打ちされ、結果的には、二首が削除され発行されていた。一つは、13頁の五味保義の八首中の一首で、乱暴に墨塗りで消されているので、「棒立ちて日本人を入◇◇◇◇疎林◇ホテルボーイ下り◇◇」しか読み取れない。穴埋めのクイズのようでもあるが、つぎのように英訳されている。削除の理由は、<causes resentment>となっていた。

 There stand a notice-board of “No admittance to Japanese “ in a grove , and page is seen coming down out the hotel.) causes resentment

  もう一カ所は、37頁の丸田良次の一首が削除されて発行されている。実は、37頁には、つぎのもう一首、天皇に触れている作品が対象となっていたのだが、最終的には削除を免れている。<note>をみると、その削除理由が、一首目が、「国家主義的」で、二首目が「超国家主義的」と記されているが、もはや検閲者のサジ加減一つということにも思える。その検閲者の日本人が、英語が堪能なだけだったのか、文学や短歌の基礎知識を持ち合わせていたのか、などにもよるのだろう。
・天皇のために死なむと汝(なれ)がいまは打倒をとなふるかなし(大分 菅沢弘子)

How pitiful is it to hear that you, who once revealed to gladly die for the Emperor, are now advancing up knocking down.)<nationalistic>

 ・戦死せざりし事が悔しく熱の如時たまにして吾を襲ふなり(佐賀 丸田良次)
The chagrin for my not having died in the battle often assail me like  a fever.ultra-nationalistic

Img525_2
『アララギ』1947年1月号、「一月集 其二」は、結城哀草果、高田浪吉、鹿児島寿蔵、廣野三郎、五味保義、吉田正俊・・・と続く。ちなみに「一月集 其一」は、岡麓、斎藤茂吉、土屋文明であった。五味作品の削除は、見せしめ的な要素もあったのかもしれない。

Img528
『アララギ』1947年1月号、土屋文明選「一月集 其三」、一人一首の選歌欄なので、作者にしては、その大事な1首が削除されてしまっている。

Img524

Img529
上は、最終の報告文書のようであり、下は、<note>の一部で、まるで、殴り書きのようだ。

プランゲ文庫に残された検閲文書を見ていくと、戦勝国による検閲と日本の近代における、とくに、戦時下の国家による検閲とには、一見、明らかな違いがあるようにも見えた。GHQには、被占領下の国民には検閲の事実が知られないように、検閲の痕跡を残さないようにというのが原則であった。日本では、天皇や政府、軍部に対する批判は、見せしめのような、発禁や伏字という形で許さず、その上、出版社や執筆者は、治安維持法による編集者・執筆者の拘束、用紙配給の停止などにより、国策に加担すべく「懇談」「指導」を繰り返した。

GHQも、原爆への言及や報道、作品と占領軍・米兵の犯罪報道への検閲は、とくに厳しかったが、永井隆『長崎の鐘』(1949年)の出版などは、アメリカの占領軍の露骨な戦略の一つでもあった。長崎への原爆投下は「神の摂理」であったとするその内容とともに、7割近くの頁を連合軍総司令部諜報課提供の日本軍のマニラにおけるキリスト教徒虐殺の記録「マニラの悲劇」を付録とすることを条件に30000部の用紙が調達されたのである。日本軍のマニラのキリスト教徒殺害行為を公にすることによって浦上カトリック教徒への原爆投下を正当化しようとする意図は明白だった。「用紙」を管理することによって、プロパガンダに加担させ、公職追放によって言動を封じる手段は共通であったと思う。

 占領軍は、内務省下の発禁図書も、収集させた戦争記録画、占領下の検閲関係文書もアメリカに接収、運ばれた。そして、それらは、保管され、時間は要したが、結果的に、返却・無償貸与・公開という形で、日本でも知り得る情報となった。日本国内では、敗戦直後、軍部や官庁、企業などでは、戦時下の書類など焼却され続けたという。そして、多くの事実の隠滅、隠ぺいが図られた。

 そして、この体質こそが、今日の自衛隊や省庁、企業での隠蔽や改ざんが後を絶たず、政治が自国民の命と財産すら、守り切れていない現況を作り出しているのではないかと思う。そして、個人レベルでも、多くの表現者たちが、この占領期の検閲について語ろうとしないで現在に至っている。歌人も決して例外ではなかったことも知らねばならない。

| | コメント (0)

2018年10月11日 (木)

元号が変わるというけれど、―73年の意味(6)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(3)

『八雲』創刊号には、短歌の創作欄には、五島茂、佐藤佐太郎、鈴木英夫、香川進、坪野哲久、岩間正男、堀内通孝、岡野直七郎、長谷川銀作、橋本徳寿、山下陸奥、筏井嘉一、と12人の第一線の歌人の名が並ぶ。この辺が、編集陣の久保田、木俣修らの微妙なバランス感覚が働いているところだろう。それにしても女性が一人もいないと思ったのだが、この作品欄とは別に、「短歌ルポルタージュ」と冠した、挿絵入りで阿部静枝「進駐軍のゐる風景」10首が載っていた。その中に次のような3首があった。私自身が、その晩年に指導を受けた歌人でもある阿部静枝((18991974)は、戦前の無産運動で活動、弾圧で挫折、太平洋戦争下では翼賛に傾いた歌人だったので、3首目の決意は、おそらく本気であったのだろう。前の2首は、やや、明確さに欠けるきらいがある。「侘しむ民」の一人としての作者自身なのか、その心変わりをどう受け止めているのかなど、やや整理しかねているようにも思えた。しかし、「大内山」、「宮城」、「雲の上」という表現ではあるが、「天皇」を詠んだ作品として記憶されてもいいのではないか。

米軍ゐてともしかがよふ丸の内大内山のみ暗く侘しき
宮城の小暗く深きをたふとまず侘しむ民の心変わりや
雲の上に主権をおきてひれ伏せる暗愚の歴史閉ぢて起つべし
(阿部静枝)(八雲 創刊号 194612月)

Img517
『八雲』 創刊号(1946年12月)より

 その後の『八雲』には、「天皇制」に言及する評論がしばしば登場する。たとえば、以下の3点をみてみよう。

①西郷信綱「日本文学における叙事詩の問題」
(八雲 19476月)
②岩上順一「歌誌批判・不二・民草について」
(八雲 19479月)
③渡辺順三「歌誌批判・納得できぬこと―短歌人・潮 音・橄欖について」
(八雲194711月)

 ①では、「和歌が一千年以上の時間の流れをくぐりぬけて存續し、今なおわれわれの意識を多少とも制約しているその契機が、天皇制を存續せしめたと構造的に同じ契機であることを私はひそかに信じている。すなわちその連續性は、日本の社會の停滞性の表現以外の何ものでもない」とした上で、「封建的幽暗さから解放されて近代的に組織化され、新しい秩序の到来を呼ぼうとして逃走している民衆の力」というものを素朴に是認しながら、「現代日本に新しい叙事詩の可能性を信じたい」としている。

 ②では、右翼の活動家として何回か投獄もされ、歌人でもあった影山正治(19101979)が、復員後『ひむがし』(194111月創刊)の後継誌として『不二』を創刊(19465月)、万葉浪漫主義を唱えていた影山銀四郎(19081978)が栃木県で『民草』を創刊した(194612月)。その熱烈な天皇制護持は、開戦も敗戦もすべての責任を「聖慮」「神慮」に帰することになり、天皇を苦しめ、人民の人権と相渉るのか、と憂慮している。

 ③は、太田水穂の『潮音』は、敗戦をはさみ、辛うじて休刊を免れ、斎藤瀏の『短歌人』は、19464月に、吉植庄亮の『橄欖』は194612月に復刊しているが、「戦争中は神がかりの祝詞のような文書を書き散らし、戦争に協力せぬものを国賊扱いにしながら、終戦後はまたケロリとして元の雑誌を復刊し、反省も自己批判もなく、歌壇に座を占めているなどは一體人間的な神経があるのかどうかさえ疑いたくなる」と糾弾する。

 西郷(1916-2008)は、斎藤茂吉に傾倒する、当時気鋭の古代文学専攻の研究者であり、岩上(1907-1958)は、戦前から活動する文芸評論家で、治安維持本で投獄されたこともあり、敗戦後は新日本文学会の創立にかかわり初代書記長となっている。渡辺(18941972)は、窪田空穂に師事、口語短歌『芸術と自由』の編集にもたずさわったが、無産者歌人連盟、プロレタリア歌人連盟を経て、一度ならず検挙されている。敗戦後19462月には新日本歌人協会を結成『人民短歌』を創刊している。

こうした論調に先立って、中野重治は、別のメディアにあって、もっと端的に、短歌の政治的利用について言及している。「政治的手段に藝術を用ゐるといふのは、日本の天皇政府がやってきたことで」、その最たるものが歌会始だといい、「天皇の宮中歌會からミラミッド形にさたつて来るあれほど短歌を政治的手段として悪用したものはほかにない」とも語っていた(「文学者の国民としての立場」『新生』19462月)。

また、作品面で、天皇制・天皇への批判がいささかでも垣間見られるものをあげてみよう。参考のため執筆者の生没年を記しておく。

敗戦の責めの所在を見きはめつつ君をうやまはずまた否定せず

神にあらず人にも似ざる旅を行き新しき代の感覚のずれ

(坪野哲久、19061988)(人民短歌194612月)

切羽つまりしわれらが今日のまなこもて天皇をみる遮ることなかれ

(坪野哲久)(短歌往来19482月)

天皇がただすなほに詫び宜らすことすらなしに何革まるべき  

(香川進、19101998)(人民短歌194612月)

奉安殿壊つ清しさや古きもの崩えゆく兆しまのあたり見つ

新憲法かにかく成れど「象徴」の模糊たる二字にわが怡しまず

(安藤佐貴子、 19101999)(短歌研究19473月)

とどろきに陛下応ふと傍観しこの日のさまを書きし記事あり

(宮柊二、19121986)(短歌往来194711月)

 しかし、その一方で、『日本短歌』194712合併号には、「歌会始―選ばれた十五首」と題した記事が載り、4月号には、5人(佐佐木ほか千葉胤明、斎藤茂吉、窪田空穂、鳥野幸次)の選者詠とともに、佐佐木信綱の「詠進歌を選して」を寄稿されている。斎藤・窪田・佐佐木という民間歌人が選者として初めて参加した「歌会始」であった。そこで、信綱は、19471223日、「御前に於いて」披講される感激を記した後、内容上の特色として、新憲法、祖国再建、復興など時代を反映した歌が多かったことと、仕事や職業についてなど生活を歌った歌が多かったことをあげている。

『八雲』の土岐善麿の五十首詠「初夏身辺抄」(19478月)には次のような歌が並ぶ。

たたかひをいかに苦しくおぼしけむ平和の民とともにいますべし

銀のナイフ銀のフオクのかがやくをもろ手にとりてつつましくをり

問はすことみな重要なる課題にしていみじきかな文化国家の元首

(土岐善麿、18851980)(八雲19478月)

 その後の『八雲』の「土岐善麿・木俣修対談・短歌の青春時代」において、「歌会始」ではないが、学士院賞受賞、御進講、御陪食のことを問われて、土岐はご馳走になった鯛の蒸焼き、大きなビフテキ、スープ、灘の生一本などの美味にまで及び、昭和天皇、高橋誠一郎文部大臣らと親しく話しあったこと、進講に対しては、天皇の質問も学者的で「科学者としての陛下のおきもちに皆動かされた」と、感激のほどを語っている(八雲 19481月)。

おほきみもたみくさともにたたかひのわざはいたへてすぐさせたまふ

ばくだんがこのくにつちをこなにすともきみとたみとをひきさくべしや

(金田一京助、18821971)(沃野19472月)

神にあらぬすめろぎなればわれ等また一布衣(ふい)としておんまえにゐむ
(吉井勇、18861960)(短歌往来19477月)

 

 

 こうしてみると、天皇制・天皇に批判的なグループの歌人は1910年前後の生まれで、人間宣言後も天皇、天皇制により一層傾斜してゆくグループは、19世紀生まれといってよく、世代的にも、阿部静枝、坪野哲久世代が中間にあたりで、その作品には、ややあいまいな姿勢、表現が見えるのも興味深い。

 これまでは、著名な歌人を中心に読んできたが、結社などに拠る、一般の歌人たちはどうであったのだろうか。当時、いまの私と同じような視点で作業を進めていた歌人がいる。柳田新太郎(19031948)は、著名歌人に限らないで、広く、結社誌の作品欄を渉猟し、天皇・天皇制について詠んだ歌を収集し、若干の解説を試みていた。以下の仕事も、『短歌往来』創刊時より「短歌紀要」という、いわば、歌誌展望のような仕事の一環であった。もともと、若くして、既成の短歌の革新を目指してプロレタリ短歌運動、新興短歌運動にかかわった。その後は『短歌月刊』を創刊、歌壇ジャーナリストとして活動していた。戦後は、この「短歌紀要」などを執筆していたが194811月、急逝している。柳田は、この記事の中で、資料探索の成果をそのまま提示することを自認していたが、無名有名を問わず、歌人たちが、素朴で迷妄な、「頑固な無条件的な天皇制支持者」となっていることについて「現役の、しかも代表的な歌人たちがああまで無批判的なうごき、今なほ時を得次第再び同じ動きを繰返さうとする気配が見える(これはどういふうことだらうか。歌人たちが終戦以来今日までおよそ三年、ほとんど作品の上に思想的甦へりの苦悶を示さないばかりか、苦悶らしい影さへも見せずにゐることが、外部にこのやうな形で反映しているのではないか。以下略)」とか、「歌人たちは数人をのぞいて知名の歌人の殆どが天皇制及び天皇についての作品を示してをらぬことだが、このことも一つの問題であらう」とか、かなり辛らつな批判もしていた(『短歌往来』19482月、44頁、46頁)。しかし、その一方で、さまざまな立場、さまざまな環境の中で、天皇制、天皇について詠まれた、一般歌人の多数の作品の中には、「歌の世界、歌によつて自己表白を遂げる人びとの意識も、無血革命の進行の度にともなつてそれはそれなりに、またそれが緩慢な速度であらうとも、徐々に移り変りを遂げてゆくのではなからうか」と、願望というか期待を持つて結んでいる(『短歌往来』19483月、47頁)。

柳田新太郎「天皇制および天皇と短歌」短歌往来19482
柳田新太郎「宮廷の歌と市民の歌」短歌往来19483

 柳田が、没後70年の現在の歌人たちの天皇制・天皇への姿勢を見たら、何を語るだろうか。(つづく)

| | コメント (0)

2018年10月 8日 (月)

元号が変わるというけれど、―73年の意味(5)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(2)

 

吾が大君大御民おぼし火の群が焼きし焦土を歩ませ給ふ

(佐佐木信綱)(19459月号)

大君の御楯と征きし兵士らが世界に憎まるる行ひをせり

(杉浦翠子)(194510月号)

かすかなる臣の一人とつつしみて御聲のまへに涙しながる

(佐藤佐太郎)(194510月号)

失ひしもののすべてにいやまさる玉のみ聲を聞きまつるかも

(五島美代子)(194510月号)

現つ神吾が大君の畏しや大御聲もて宣らせたまふ

(窪田空穂)(194511月号)

 

いずれも、『短歌研究』からの抜粋であり、以下は、815日直後の新聞に発表された作品である。

大君の宜りたまふべき御詔かは 然る 御詔を われ聴かむとす

(釈迢空)(朝日新聞1945816日)

聖断はくだりたまひてかしこくも畏くもあるか涙しながる

(斉藤茂吉)(朝日新聞1945820日)

 これらの抜粋の仕方に異議を唱える者もいるかもしれないが、私は、有力歌人たちのこうした作品が、ともかく敗戦後の短歌の出発点であったことには間違いない、と思っている。

1946年の歌会始、「御題」は「松上雪」で従来通りの形式で執り行われ、著名歌人たちが、この「御題」で詠んでいるのが、あちこちの雑誌で見受けられた。19461月より川田順は、皇太子(明仁)の作歌の指導にあったっているという記事が消息欄に記されている(短歌研究19464月)。

耐へ難きをたへて御旨にそふべしとなきの涙をかみてひれふす

(斎藤瀏)(短歌研究194612月)

天皇のとどまりたまふ東京をのがれて遠しつつましく住む

(村野次郎)(短歌研究19463月)

旗たてて天皇否定を叫びゐし口角の色蒼白かりき

(吉野鉦二)(短歌研究19463月)

萬世を貫きたまふすめろぎの宮居すらだに焼けたまひつる

(原田春乃)(短歌研究194678月)

 こんな歌も散見できるのだが、その一方で、歌壇への厳しい声も起こっていたのである。『人民短歌』のこと挙げの一つでもある、小田切秀雄「歌の条件」(『人民短歌』19463)であり、臼井吉見「展望(短歌決別論)」(『展望』19465月)などであり、とどめは、桑原武夫「第二芸術―現代俳句について」(『世界』194611月)であった。小田切は「戦時中、侵略権力の掲げた合言葉を三十一文字に翻訳したり、時局向けに自身の感情を綾づけて事足れりとした状態はもう存続する余地はない」「仲間ぼめと結社外での縄張り争いが支配的だった」歌壇や「趣味的な<作者>兼読者なぞといふものは、歌の世界から一掃した方」がよいとする。

臼井は、815日の玉音放送を詠んだ「 御聲のまへに涙しながる」、「玉のみ聲を聞きまつるかも」、「大御聲もて宣らせたまふ」などをあげ、「上句も作者も記すに及ばぬほどその発想の同一に一驚せざるを得ない」とした(本記事、冒頭の歌の下線部分を参照、佐太郎、美代子、空穂の作とわかる)。そして、1940128日を詠んだ歌、次のような歌を、作者名なしで引用し、「宣戦と降伏と、この二つの場合の詠出が、そつくり同一なのに一驚するにちがひない」として、「歌づくりにとつては表現的無力の問題でなく、実際に於て、上述の作に表れてゐる限りのものしか感じ得なかつたのではなからうか。恐らく短歌形式の貧困と狭隘を感ずるほどの複雑豊富な感動内容など持ち得なかつたにちがひない」として、「今こそ我々は短歌への去り難い愛着を決然として断ち切る時ではなからうか。これは単に短歌や文学の問題に止るものではない。民族の知性変革の問題である」と結ぶ。

一億の民ラジオの前にひれ伏して畏さきはまりただ聲を呑む 

*(金子薫園)(短歌研究19421月)

大詔いま下りぬみたみわれ感極まりて泣くべくおもほゆ

*(吉井勇)(短歌研究19421月)

 

  桑原は、現代を代表する俳人の十句と無名の人の五句を、作者名を消して並べたとき、その区別がつくか否かの問題提起をし、一句の芸術的価値判断は、困難であり、その作者の地位は芸術以外のところ―俗世界における地位すなわち「世間的勢力といったものに標準をおかざるを得なくなる」

として、俳句を「菊作り」にもたとえ、「芸術」というより「芸」というがよい、とする。「しいて芸術の名を要求するのならば<第二芸術>と呼んで、他と区別するがよいと思う」と「第二芸術」の由来を述べる。文章の末尾に、引用の十五句のうち十句とその作者、青畝、草田男、草城、風生、井泉水、蛇笏、たかし、亜浪、虚子、秋櫻子の名を明かしている。これは、俳壇のみならず、歌壇、歌人たちにもかなりの衝撃となった。

 ちょうど、「第二芸術」掲載の『世界』発売の直後、194612月、上記の小田切、臼井の短歌へ疑問を受けた形で、久保田正文は「歌人自身が、その使命と時代を自覚することのみが要求されてゐる」として短歌総合誌『八雲』を創刊するに至るのである(「歌壇展望」『八雲』194612月)。さらに、久保田は、その創刊号の「編集後記」では、つぎのように述べ、執筆者も歌人に限らず、有名・無名を問わない「五十首詠」を続け、いわば「読者吸収策」としての短歌投稿欄は設けない、と言った意欲的な編集を進めることになる。

「『八雲』は芸術的に失業した歌人の、救済機関として創刊されたものではない。それ故舊歌壇のギルド的な枠の中で、メッセンヂャアボウイの役をつとめることはしない代りに、短歌の運命を探求する公の機関たらしむことを念願する。短歌が眞に文学の一環としての生命を自覚し、芸術のきびしい途に繋がり得るか否かを實践的にこたへる試練の場を提供する使命を果たさむと志向する」(つづく)

Img521
『世界』1946年11月号の桑原武夫「第二芸術」のGHQの検閲を受けた頁。導入部分で、国民学校の教科書に掲載されている三句の引用のうち、「元日や一系の天子不二の山 鳴雪」の一句が削除されている。残るのは「雪残る頂一の國さかひ 子規」「赤い椿白い椿と落ちにけり 碧梧桐」。ほか、後半部にも、「勝者より漲る春に在るを許せ 草田男」が削除され、関連の4行が削除されている。プランゲ文庫文書に残る削除部分が読みにくいので、『桑原武夫集2」(岩波書店 1980年5月)に収録のこの論文を確認すると、冒頭の鳴雪の俳句も、草田男の俳句及び関連の文章も削除されたままで、復元されてはいなかった。後者にあっては、削除部分に加えて、さらに数行が削除されていた。もちろん、GHQによる削除も、著作集に収録の際の削除についても一切注記はなかった。引用俳句の誤植の注記は、されていた。これはいったいどういうことなのだろうか。GHQによる削除を、容認したことになるのではないか、の疑問が残る。ちなみに、削除の理由として、二つの俳句の意味が不明確の上、後者草田男の句は、「Critical of US」であり、前者鳴雪の句は「Propaganda」となっていた。なお、この号の『世界』は、向坂逸郎「政治と経済」、恒藤恭「天皇の象徴的地位について(二)」、小林勇「三木清を憶ふ・孤独のひと」にも削除部分が記録されている

| | コメント (0)

2018年10月 7日 (日)

元号が変わるというけれど、―73年の意味(4)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(1)

 

大地のブロック縦横にかさなり

断層數知れず 絶えずうごき 絶えず震ひ

都會はたちまち灰燼となり

湖はふくれ津波(よだ)となる。

決してゆるさぬ天然の気魄は

ここに住むものをたたきあげ

危険は日常の糧となり 死はむしろ隣人である。
(高村光太郎「地理の書」より) 

 高村光太郎「地理の書」の一節である。1938年の作であるという。敗戦直後の19459月号の『短歌研究』の巻頭論文、中村武羅夫「我が國體と國土」に全編引用されていた。

懲りない面々の「どうしようもナイカク」第4次安倍内閣はスタートしたが、天皇の代替わりは来年に迫った。日本国憲法のもとでは、元号が変わっても、この区切りは、政治的には何の意味もない。しかし、政府は、国民の反応をみながら、その「代替わり」の利用価値を探っているように見える。国民にとっては、憲法上の<象徴>が代わるわけだが、実質的に暮らしには影響がない。ただ、日常的には、年号表示がややこしくなるのが予想できる。なんとしても西暦に統一しないと、すべての事務的処理も、少なくとも日本の近現代史は西暦でないと何年前の出来事かわからくなる。研究・教育に携わる人は、役所の人は、声を上げて欲しい。個人としては、元号が実働しないように身近なところから実践したい。

平成の天皇自身(サイド)は、平成最後の名のもとに、いわば駆け込み的に、いま、さまざまな行事をこなしている。被災地見舞いもその一つだが、私などは、夫妻の姿を見るにつけ、健康第一で、静養されるよう願うばかりなのだ。マス・メディアでは、「平成最後の~」「平成~」などの特集や記事を展開中であり、今後は、ますます拡散するだろう。短歌総合雑誌でもそんな記事をみかけるようになった。それで読者が増えるようには思わないのだが。

 最近、必要があって、敗戦直後の1945年~50年あたりまでの短歌総合雑誌のコピー類やプランゲ文庫のコピーを引っ張り出しては、読み直している。現在進めている作業とは直接関係のない記事や短歌作品にも、ついのめり込んで、立ち往生ということが何回もあった。占領期とも重なるこの時代、「新憲法」が少しづつ定着して行く過程で、「歌壇」や歌人たちは、「短歌と天皇制」をどのように考えていたのかが、気になりだした。これまで、短歌と天皇制をテーマにした旧拙著でも、「歌会始」に関連して触れていることはあったのだが、文献を中心にもう一度、少し立ち止まって、考えるチャンスではないかと思ったのである。

 

冒頭の詩を引用した「我が國體と國土」は、「日本の國體が比類なく神聖にして、尊嚴極まりないことは、わが國の歴史がこれを證明してゐるし、古来幾多の詩歌に依つて歌はれ、文章に綴られ、國民等しく知悉してゐるところである」で始まり、後半は「聯合軍司令部の命に依り以下一部削除」と記された後に、上記、高村光太郎「地理の書」を引用し、この詩こそ「わが本土に對する絶対的の愛敬と國體欽讃の聖なる所以を喝破してゐると言つてよからう」と結ぶ。GHQは検閲の痕跡を残さないのが原則だから、それを明記した文言を入れたまま発売に到っているのは、めずらしい例といえる。

ちなみに、9月号は、だいぶ遅れての発行であったらしい(国立国会図書館の受入印では「昭和201119日購入」となっている。10月号に、編集発行人木村捨録による記事によれば、30日遅れとある。また、その記事には、『日本短歌』9月号は発禁とあるが、16頁立てのものが国立国会図書館に納本されている)。

高村の「地理の書」の上記のような一節は、三陸の大津波や関東大震災を踏まえてのことで、80年前の地学には素人の詩人でも「日本列島」の成り立ちを知っていたのだから、東日本大震災の時に、「想定外の」とか「千年に一度の」などという言い訳は成り立たないはずであった。にもかかわらず、この日本列島は、50基以上の原発を擁していたのである。「ここに住むものをたたきあげ/危険は日常の糧となり 死はむしろ隣人である」というフレーズは、無策に近い、後追いのいまの政府の災害への姿勢であり、防災政策、対策の担当者や一部のマス・メデイアの謂いを代弁しているかのようでもある。

19459月以降、復刊、創刊されたさまざまな短歌雑誌には、疎開生活や空襲による自宅焼失、食糧難などを嘆く短歌とともに、占領軍(進駐軍)への批判や敗戦後の解放感などが歌われた短歌であふれる。GHQによる検閲は、とくに、占領軍の横暴に触れた作品・文章には神経をとがらせ、米兵の性風俗や「植民地化」という文言には、強く反応を示している。一字、あるいは上句、下句がそっくり削除され、空白にしたままの検閲の痕跡を残した短歌が、いろんな雑誌で、散見できる。検閲の対象は、地方のミニコミ誌にまで及ぶが、「痕跡を残さない」検閲がどれほど徹底していたか、は今後の課題かもしれない。

そんな中で、天皇を詠んだ短歌、天皇制に触れる論評は、決して多くはないが、見受けられるようになる。(つづく) 

Img518_2

Img520
『短歌研究』1945年9月号の、中村武羅夫「わが國體と國土」から。上は、GHQの検閲で削除が命じられた箇所は黒塗りになっている。下が、実際に印刷・発売された雑誌の該当部分だが「聯合軍司令部の命に依り以下一部削除」と明記されている。
ちなみに削除された文章は以下の通り。「既に今度の戦争に至って、われわれは二十歳になるやならずの多くの若き武人たちが、天皇の御為に、皇国護持のために□□きながら神となつてゆく姿を、眼の当たり見てゐるのである。日本ならずして何處にこのやうな尊い事実を□□すべき國柄の國家があるであらうか。」とまで読める。

| | コメント (1)

2018年9月30日 (日)

校正の合間に~満身創痍の1949年の『短歌研究』前後

いま、新著の校正に奮闘中なのだが、確認のため敗戦直後の古い『短歌研究』『日本短歌』のコピーを引きずり出している。1949年分の『短歌研究』の原本だけは手元にあるので、助かっている。必要個所だけのコピーではなく、一冊丸ごと読めるはありがたい。しかし、不急不要な文章や作品に引き込まれることもしばしばなのだ。もっとも、国立国会図書館に行けば、デジタル資料で頁を繰ることはできるのだけれど、臨場感が違う?と思うのは、昔の図書館員の感傷か。

亡兄の職場の廃棄本にしていまここに在り役立ちており

仙花紙の雑誌はらはら崩れ落ちパソコンのキイボードをよごす

冷めやらぬ「第二芸術論争」読み差して雑誌の補修に手を初めにけり

 

Img512_2
『短歌研究』1949年1月号、裏表紙が欠けている。満身創痍。亡き次兄が、初めての赴任先の都下の中学校で、図書館の先生が廃棄するのを頂戴してきたもの。1950年代後半だろうか。最終頁に蔵書印らしきものが見える。

Img514
『短歌研究』1949年9月号。巻頭論文は、伊藤信吉「現代史における<美>意識」、土岐善麿、松村英一、柴生田稔が編輯部が選んだ坪野哲久、近藤芳美、山本友一、香川進の最近作5首を評する「作品合評」がきびしい。11・12合併号では、坪野・近藤・山本が7月号の土岐・松村・柴生田の作品を評して切り返すという企画が面白い。


ついでに、

 P9300859
ゴミ類の整理に勝手口を出ると、キンモクセイすでに花をつけ始めていた

P9300860
庭のキンモクセイの下には、いまだ、主亡き犬小屋がそのままになっている。この間まで、辺りはヤマボウシの赤い実がいっぱい落ちていた。この犬小屋には、なつかしい思い出がある。連れ合いが、後から我が家にやってきた犬のため、玄関先で、二つ目の犬小屋を組み立てているのを、二匹はじっと見守っていた。そして、さあ、完成と、連れ合いが立ち上がったとたん、その新しい小屋に、前からの姉犬が、さっと入り込んで占拠した。あっけにとられてしまうという顛末があった。姉犬が新しい小屋を使い、妹犬は、相変わらず玄関先で過ごしていた。

| | コメント (1)

2018年3月12日 (月)

近頃の短歌メディア~どこへ行く?変わるのか、変わらないのか

いわゆる短歌総合雑誌や新聞はいくつあるのだろうか。私は、歌壇との縁も薄いし、寄稿などで登場することもめったにない。全部を購読する金銭的な負担や保存・整理する物理的な負担、何よりも全部を読み切れるかという不安もあって、恣意的な選択をしているのが実情である。しばらくあの雑誌を見ないな、と気付いたら半年も前に購読料が途切れていた、なんていうことがよくある。熱心な読者でないことは確かなのだが、そんな読者でも、最近の短歌総合雑誌の一部が、大きく様変わりしているようなのだ。表紙やレイアウトだけなのか。内容はどうなのだろう。私自身は、思想的にも日常生活においても変わることを好まない、というより変わることができない性格と思っているのだが、少しはまじめに雑誌を読んで、その行方を見極めたいと思う。 

ネットの時代、今どきの大学生の本離れ、新聞も雑誌も読まない、テレビも見ないらしい。全国大学生協連による「第53回学生生活実態調査」によれば、1日の平均読書時間が23.6分、一日の読書時間ゼロが53%に及び、初めて50%を越えたという。そんな状況の中で、近年、徐々に増えたという若者の短歌人口を取り込もうとする変化なのだろうか。 

 

Img375

『現代短歌』は1977年7月、短歌新聞社(石黒清介)から創刊、2013年8月終刊。短歌新聞社から引き継いだ現代短歌社は、2013年9月『現代短歌』(道具武志編集・発行)を創刊し、表紙は、上記のような地味なものが長いあいだ続いていた。右が『短歌現代』2011年1月号、左が『現代短歌』2016年1月号。

Img380
『現代短歌』2016年11月号とは一変した12月号(道具武志発行、真野少編集)。同年4月号からは編集・発行人が真野少となり、現在に至っている。この間の<沖縄を詠む>特集(2017年2月)や<震災二〇〇〇日>特集(2017年4月)、<「テロ等準備罪」を詠む>(2018年8月)など意欲的な特集が組まれている。2018年からは、さらに写真による表紙のレイアウトに変った。

 

 私は、1960年、「ポトナム短歌会」に入会、阿部静枝の選歌を受けていた。1974年、静枝の没後は、編集部に送稿していた。その間、結社内の若手グループや東京歌会を通じてできた同人誌、『ポトナム』を離れたものが主宰する雑誌にも参加したが、『ポトナム』には60年近く、作品や文章を発表し続けていることになる。これでよかったのかな、と思うこともあるが、気ままに作歌やブログなどの執筆が続けられればいいと思っている。

   短歌の愛好者には、短歌を作り、それを何らかの形で発表し、お互いに読み合い、楽しむ人々、また、自分では作歌をするわけではないが、新聞歌壇や雑誌を読んでは楽しむ人々、その中間に、ときどき新聞や雑誌、ネット上の歌壇などに投稿しては、その入選や選歌などに楽しみを見出している人々・・・などさまざまな形があるだろう。かつて、作歌の初心者は、老若を問わず、短歌結社誌に属して、特定の歌人に師事して添削を受け、歌会などを通じて研鑽していくというスタイルが大半であった。197080年代頃からは、カルチャー教室や短歌講座の講師や様々な投稿歌壇の選者を通じて結社誌で本格的に作歌を始めるというコースも増えた。現代の若年層は、「短歌」で有名になるのも悪くはないという動機やサークル活動のノリで、とくに結社やグループに属することもなく、ネット上を含めさまざまな「歌壇」に投稿を続け、いわゆる常連になって、短歌メディアがスポンサーの各種の新人賞の入選や候補になって、歌壇にデビューする例も多い。大学歌人会や同人誌などを根拠地として、文学フリマや書店での広報活動を楽しみながら、「有名歌人」になる日を夢見ている人たちも多いのではないか。私にはそんな風な光景にも見える。

 私の知る限りながら、現に、さまざまな発表のメディアやチャンスをすでに持っている人たち、初心者ともいえない人たちが、新聞歌壇の常連になっている例もある。「もういいではないか」と思う人たちを、選者たちも選び続けている。常連の中には、自らのブログやツイッターで、今週は、幾つの歌壇を制覇したとか、短歌メディアへの掲載予告やメディアで取り上げられたことの報告に終始する場合もある。上昇志向というのか自己顕示というのか、その手段として「短歌」が利用されているようにも見受けられるのだ。若年層ばかりでなく、高齢者も多いはずである。かつて、私は、『朝日(新聞)歌壇』における小・中学生の大量入選、固定化について疑問を呈したことがある。新聞歌壇がいささかでも話題性を求めて、購読者をつなぎとめる役割を果たしているのかもしれないが、選歌はあくまでも「作品本位」であってほしい。死刑囚やホームレスの入選が続いて話題になったこともある。新聞歌壇に限らず、短歌メディアにおいても、同様に「話題性」に重きを置いて新人を押し上げたりする。「NHK歌壇」では、視聴率を意識してのことか、選者になる歌人と司会者やゲストにタレントや他分野の著名人を招いたりする。本当に短歌の普及や作歌の向上につながることになるのかしら、と戸惑うこともある。

Img377_4
『短歌研究』は 1932年10月創刊、発行は改造社、日本短歌社、短歌研究社、講談社傘下の』短歌研究社と変遷したが、昨年2017年8月、1000号を迎えた。今年2018年1月には「新春誌面一新特別号」と銘打って、表紙はレイアウトを変えた。中身をみると、1月号の<現代歌人百人一首>、3月号の<現代代表女性歌人作品集>など恒例の特集が続くようだ。登場する歌人たちの既視感は、他の短歌雑誌と同様ではないか。

Img378

短歌』は、角川書店から1954年4月創刊されたが、ことしの1月号から、やはり、その表紙のレイアウトを大きく変えた。中身としては、昭和の歌人たちが相次いで他界し、その追悼号特集がたびたび組まれ、こうした傾向は続くだろう。初心者向けの短歌入門や作歌法などの特集も繰り返される。これは他の雑誌にも共通するが、子規、晶子、啄木、牧水、茂吉などポピュラーな歌人の生誕ないし没年記念特集なども定番の特集で、困ったときの企画と思われるほどである。

Img379


Img381

『短歌往来』は1989年6月、ながらみ書房より創刊以来、編集・発行人は及川隆彦。最近の表紙は、左上の1月号のスタイルが多いが、特定の歌人の特集となると10月号や11月号のようになる。取り上げる歌人は、ポピュラーなというよりやや”専門歌人”向けと言ってもよいかもしれない。一方、「歌人回想録」は、連載も長く、個性的な、マイナーな歌人の評伝を残し、俳人や詩人を動員した「題詠による詩歌句の試み」も恒例となった。

385_p3_2
『歌壇』は、本阿弥書店から、1987年6月創刊、季節の写真をあしらったオーソドックスな表紙に大きな変化はみられない。内容にもバランス感覚が見られる。

 

| | コメント (0)

2018年1月24日 (水)

2018年、今年の歌会始、その行方は

  112日、平成時代の歌会始は、来年が最後となるが、それ以降の明仁上皇、美智子上皇后の作品はどうなるのだろうと、要らぬ心配もしながら、NHKの中継を見ていた。改元後、夫妻は歌会始に出席するのか、短歌は詠み続けられると思うが、発表の機会はあるのか、などなど・・・。岡井隆の選者就任の折の発言、たんなる「短歌コンクールの一種」との位置づけは、現実とは明らかに異なる性格、様相を呈している中で、天皇に「詠進」するという形式をとっている以上、上皇夫妻は、他の皇族と同じ扱いになるのかしら・・・。皇室行事には一切かかわらないことになるのか。それに、戦時を体験した者として、少しでも役立つのなら天皇にお仕えしたい、と言っていた、御用掛の岡井隆はどうするのかしら・・・。 

 

それはともかく、今年の歌会始の映像を見ていて、一番に目立ったのは、皇族方の出席者の少なさであった。男性では、皇太子と秋篠宮の二人であった。これが皇室の現実である。一方、陪聴者は、いつになく男性が多いように思った。陪聴者の待合室は、かなり混み合っていて、男性優先になったのだろう。

「語」の作品群を読んでいて、もっとも気になったのは、皇后のつぎの一首だった。 

 

・語るなく重きを負ひし君が肩に早春の日差し静かにそそぐ 

 

 平成の時代に、天皇はいくたびか、やや政治的事象に踏み込んだ「おことば」を発信することもあった。「生前退位」表明もその一つといえるが、時の政府に“苦い”思いをさせてきた経緯は確かだと思う。もっと語りたいこともあったろうに、黙して裡に背負ったまま、天皇は、語らなかったと、皇后は詠んだ。 

 

小学校入学以来、あたらしい憲法を当然のこととして過ごしてきた私などは、日本国憲法における象徴天皇制という前提が、不思議な存在であった。一人の人間を「象徴」とすること自体の曖昧性と非人間性、日本国憲法の根幹である民主主義と平等の精神との矛盾を擁する制度が、論議されなければならないはずだったのに、七〇余年が過ぎてしまったという思いがある。 

ふつうの歌詠みならば、「自注自解」の機会もあるが、皇后が自らの短歌を自解したり、自注したりするとどうなるのか。どういうわけか、二〇〇四年、平成一六年を期して、宮内庁のホームページには、各年の歌会始「御製御歌及び詠進歌」一覧に加えて皇族方すべての短歌に解説が付せられるようになった。その執筆者は不明で、宮内庁の担当者なのか、御用掛なのか、選者の一人なのか・・・。いわば、かつての「謹解」と呼ばれる作業でもある。大方のメディアの歌会始報道記事において、これらの「謹解」がそのまま使用がされているところから、メディア向けといってもいいのかもしれない。宮内庁記者クラブの記者たちは、短歌の読解力不足と思われたのか、面倒なので宮内庁に解説を依頼したのか、は不明だが、「官製」「お墨付き」の解説や鑑賞がなされるなどという文芸はあり得ないだろう。作者の手を離れた一首は、本来、読み手の自由・自在があってこそ、文学となり得るのではないか、と思うのだが。

 

今年の皇后の短歌についてはつぎのような解説がなされている。  

「天皇陛下は、長い年月、ひたすら象徴としてのあるべき姿を求めて歩まれ、そのご重責を、多くを語られることなく、静かに果たしていらっしゃいました。この御歌は、そのような陛下のこれまでの歩みをお思いになりつつ、早春の穏やかな日差しの中にいらっしゃる陛下をお見上げになった折のことをお詠みになっていらっしゃいます。」

 

「重き」には、昭和天皇の昭和前期の戦争責任や占領期の沖縄への対応という負の遺産、平成期の平和からの後退、数々の災害に見舞われた日本の歩みを読み取ることもできよう。

 

なお、今年の「選歌」入選者の男女比や年齢構成をみると、ここ数年の動きに大きな変化はみられない。ちなみに平成年間の応募者数、入選者10人の男女比を一覧してみた。応募者は、2万人前後を推移するが、今世紀初めの数年は、2.5万人前後を推移し、2005年の2.8万をピークに下降する。応募者の男女比は発表されていない。なお、新聞報道によれば、入選者の年齢構成は、10代を12名入れるのが恒例となり、20代~50代が少なく、60代以上が圧倒的に多い。  

こうした状況の中で、来年、改元される。「歌会始」どうなっていくのか。短歌愛好者たちの中で、応募者が「歌会始」にどんなところに魅力を感じているのか、皇室や天皇がどれほどの求心力を持つのかにかかっているのではないかと思う。「皇室」の権威付けが若干強化されようとも、「皇室」への親和性が補完されようとも、いまさら、国民の関心や求心力が増幅されるとは、考えにくい。改元後、「歌会始」が劇的に活況を呈するということはまずない、と思われる。  

しかし、歌壇の中での「歌会始」ワールドの在りようは、持続するだろう。歌壇やいわゆるネット歌壇なるものとの境界線を微妙に維持しつつ、選者というステイタスは手放しがたいものとなり、第二の岡野弘彦、岡井隆を生むだろう。そんな予兆の中で、当ブログの「201811日の歌人たち」(111日)の繰り返しになるが、「来年に迫った生前退位を前に、様々な形での<平成回顧>報道は激しさを増すだろう。そして、天皇夫妻の短歌の登場の場も増えるだろう。いま、<生前退位>という日本近代史初の体験」を目前に、右翼ならずとも、保守もリベラルも、何の躊躇もなく<尊王>や<親天皇>を口にするようになってきた。  

すでに、『東京新聞』(夕)では、「歌会始」選者である永田和宏による「象徴のうた 平成という時代」の連載が始まった(2018115日、122日~)。歌会始の選者今野寿美が新聞『赤旗』の選者にもなったことは、このブログでも言及したが、今年の1月には交代し、務めたのは2年間であった。

 

 

<参考> 

歌会始応募者数一覧(1991~2018) 

http://www.kunaicho.go.jp/culture/utakai/eishinkasu.html 

有効応募歌数は、これより数百首下回る。

*当初の記事において皇后の作品「負ひ」の部分を「背負ひ」としておりました。訂正し、お詫びします。

 

 

 

 

| | コメント (0)

2018年1月11日 (木)

「女流」は、いつから「女性」になったのか―短歌メディアにおける女性歌人

 『ポトナム』の「歌壇時評」に書きました。

 歌壇における女性の活躍はたしかに目覚ましいものがある。だから、いまさら男だ女だとか目くじらを立てて、云々するのは野暮なことのように言う人もいる。しかし家庭や職場、地域で、あるいは政治の世界で、実際のところ、男女平等はどこまで進んだのか。差別をされている側、格差に耐えている側からの声は届きにくい。とるに足らないことなのか。今一度考えてみたいと思った。

***************************

いま、『女人短歌』の創刊号から通覧しているが、創刊の一九四九年から六〇年代の誌面からは、女性歌人たちの気負いや息遣いが立ち上ってくる。阿部静枝を筆頭に、君島夜詩、森岡貞香、芝谷幸子をはじめ多くのポトナム人の活躍も見逃せない。『女人短歌』の発行・編集を担った「女人短歌会」は、「女歌の発展を期して、流派をこえた女流集団として発足し」たが、一九九七年、「当初の使命を果たしたことを確認」(森岡貞香「女人短歌」「女人短歌会」『現代短歌大事典』)し、『女人短歌』は終刊に到った。たしかに、「女人」という表現は、古めかしかった。

公的な組織や施設名も「婦人」を「女性」と看板を付け替えたのが一九九〇年代で、一九七八年創刊の「婦人白書」は、九二年「女性白書」、九七年「男女共同参画白書」となる。一九七七年開館の「国立婦人教育会館」が「国立女性教育会館」となったのが二〇〇五年。一九八五年男女雇用機会均等法、九九年男女共同参画社会基本法、二〇一六年女性活躍推進法が施行されるが、あくまでも官製のロードマップに過ぎない。現実の日本社会の男女格差は、一四四ヵ国の中、一一四位という結果である(「世界経済フォーラム報告書」二〇一七年一一月二日公表)。

『女人短歌』の創刊当初、不参加の歌人もいたし、短歌メディアや男性歌人の反応も好意的なものは少なかった。しかし、短歌人口は、圧倒的に女性が多くなり、作歌・評論の実力も高まり、各種の短歌賞や結社の指導者に女性歌人の登場が顕著になった。『短歌研究』の編集人中井英夫は、「乳房喪失」を第1回新人賞として中城ふみ子を送り出し(一九五四年四月)、杉山正樹は<現代女流特集>を組み、三〇人弱を出詠させた(一九五八年三月)。同号は「五島美代子・生方たつゑ読売文学賞受賞記念」でもあった。一九六九年から、節句に因む三月号を<女性歌人特集>とするのが恒例となった。「現代代表女流歌人作品集」という特集名が定着したのが一九七八年で、二〇一一年まで続く。二〇一二年に「現代代表女性歌人作品集」となり、三〇年余を経て、「女流」が「女性」となった。一方、五月号の<男性歌人特集>は一九七二年に「現代代表歌人特集」としてスタートする。その後、「全国主要歌人」「全国重要歌人」「現代第一線歌人」などの変遷を経て、一九八一年から、現在も続く「現代の○○人」に定着した。五月号の特集名になぜ「男性」が入らないのか。七〇年代後半から、三月号の女性歌人の数は増加する一方、一九八〇年代の五月号は「現代の66人」「現代の88人」という形で人数を固定化、女性が男性の倍を上回ることもあった。二〇〇五年、三月一六三人、五月八八人をピークに、女性が徐々に減り、男性が一〇〇人を超えるようになり、現在は、その差が縮まっているのは、男性歌人の<実力>の向上を示すものではなく、あくまでも、編集方針によるものだろう。日常的な『短歌研究』登場の男女比は、短歌・散文のいずれも男性の方が多い。三月号だけの大盤振る舞いだったのか。編集人が長い間女性だったということも逆に何らかの影響があったのだろうか。文芸の世界で、「ポジティブ・アクション(ある程度の強制を伴う実質的な機会平等確保計画)」という考え方はなじまないだろう。しかし、メディアは、率先して、歌人の実態や実力を反映するような誌面作りに努力して欲しい。最近、松村正直は、ある時評で「歌壇に男性中心の構造がある」として、この『短歌研究』の特集の名づけの差異に言及していた。男性歌人からの発言として貴重ではないか(『毎日新聞』二〇一七年一〇月二二日)。

(『ポトナム』2018年1月号、所収)

| | コメント (0)

2018年1月 3日 (水)

2018年1月1日の歌人たち

今年の1月1日の新聞に登場した「短歌」について、記録にとどめておきたい。もちろん、私の知る範囲のことで、他のメディアの様子はわからない。 

どこの新聞もほぼ同じなのだが、毎年1月1日に宮内庁から発表される、天皇・皇后の短歌である。どういうわけか、天皇5首、皇后3首が定着していて、この5首、3首の差はどうしたわけなのだろう、夫婦茶わんや夫婦箸の感覚なのだろうか。天皇の短歌は、例年、全国植樹祭、国民体育大会、全国豊かな海づくり大会の式典に出席して、その開催県に贈ることになっている作品で、昨年は以下の富山、愛媛、福岡県であった。他は、ベトナム国訪問、タイ国前国王弔問の2首が加わる。今年が最後の三式典出席となるはずである。

 

(第六十八回全国植樹祭) 

・無花粉のたてやますぎ植ゑにけり患ふ人のなきを願ひて

 

(ベトナム国訪問) 

戦(いくさ)の日々人らはいかに過ごせしか思ひつつ訪(と)ふべくベトナムの国

(

 また皇后の短歌から2首をあげておこう。

 (旅)
・「父の国」と日本を語る人ら住む遠きベトナムを訪(おとな)ひ来たり

(

(名)
野蒜(のびる)とふ愛(いと)しき地名あるを知る被災地なるを深く覚えむ

 

(

 来年に迫った生前退位を前に、様々な形での「平成回顧」報道は激しさを増すだろう。そして、天皇夫妻の短歌の登場の場も増えるだろう。いま、「生前退位」という日本近代史初の体験をするわけだが、平成晩年に至って、「右翼」ならずとも、保守は「尊王」を、リベラル派と言われる人たちも天皇期待論を、躊躇なく口にするようになった。これからは、天皇夫妻が、戦死者や遺族、被災者はじめ国民に寄り添い、平和を願い、祈り続けるメッセージを短歌に読み取り、思いを寄せ、期待する歌人や論者が続出するだろう。 

11日の『朝日新聞』は、朝日歌壇・俳壇の選者の新春詠を掲載した。馬場あき子、佐佐木幸綱、高野公彦、永田和宏の4人が2首づつ発表しているので、その1首目を記す。


・柊(ひひらぎ)に花咲きからたちも実りたりはるかなる齢(よはひ)にわれは入りたり(馬場)

(

・戌年の初日の出なり多摩川の霜の河原に犬と見ている(佐佐木)
・長城も長江も見て島国に戻り、みそひと文字を愛せり(高野)
・鶴見俊輔二年参りを教えくれき火を囲み人ら年を迎ふる(永田)
 

また「歌会始の選者」を持ち出すとは、とクレームがつきそうだが、永田は、歌会始の選者だ。ほかの三人は、オファーはあったと思うが、踏みとどまっている歌人たちではないか、と私は推測している。ちなみに、永田の2首目は、以下の通りであった。

・媚びることなさず生き来し七十年おのづから敵も多くつくりて

 11日の『赤旗』の「文化学問」欄は一面全部を使って、詩人・俳人・歌人・画家の作品が並んだ。歌人は、何と穂村弘の「ゆで卵」と題する5首で、そのうちの2首を記す。 

・食べようよ塩を振ってと誘われてシロツメクサにきらきら座る 

・正午なり 財布は空でSUICAには12150

 

穂村は1962年生まれだから、50代後半だろう。いまや「歌壇」をけん引する歌人でもある。ナンセンスにも近い印象が先に立ち、私は、短歌としての魅力を感じないのだが、エッセイやトークでの出番が多いらしい。三枝昂之とともに『日本経済新聞』の「歌壇」の選者も務める。穂村の起用で、『赤旗』が若い読者を増やせるとも思えない。短歌に限らず、最近の『赤旗』の「有名人縋りつき作戦」には、いささかゲンナリしている。

 

 

 

 

 

 

 

| | コメント (1)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

CIA | NHK | TPP | すてきなあなたへ | アメリカ | イギリス | インターネット | ウェブログ・ココログ関連 | オリンピック | オーストリア | ジェンダー | ソ連邦・ロシア | チェコ | デンマーク | ドイツ | ニュース | ノルウェー | パソコン・インターネット | フェルメール | フランス | ベルギー | ボランティア | ポーランド | マイナンバー制度 | マス・メディア | マンション紛争 | ミニコミ誌 | ラジオ・テレビ放送 | 世論調査 | 住民自治会 | 佐倉市 | 千葉市 | 千葉県 | 原発事故 | 台湾 | 台湾万葉集 | 吉野作造 | 喫茶店 | 図書館 | 国民投票法案 | 土地区画整理事業 | 地方自治 | 地震_ | 大店法 | 天皇制 | 女性史 | 寄付・募金 | 年金制度 | 憲法 | 憲法9条 | 成田市 | 戦争 | 戦後短歌 | 教科書 | 教育 | 文化・芸術 | 旅行・地域 | 旅行・文化 | 日本の近現代史 | 日記・コラム・つぶやき | 映画 | 映画・テレビ | 書籍・雑誌 | 朗読 | 東京大空襲 | 横浜 | 歌会始 | 池袋 | 沖縄 | 消費税 | 災害 | 特定秘密保護法 | 環境問題_ | 生協活動 | 短歌 | 社会福祉協議会 | 社会詠 | 福祉 | 租税 | 紙芝居 | 経済・政治・国際 | 美術 | 美術展 | 航空機騒音 | 薬品・薬局 | 表現の自由 | 規制緩和 | 趣味 | 近代文学 | 道路行政 | 都市計画 | 集団的自衛権 | 韓国・朝鮮 | 音楽