2017年3月24日 (金)

「歌会始」を通して考える「天皇制」

「歌会始」を通して考える「天皇制」

 

以下の文章は、昨年の7月下旬に発売された雑誌『ユリイカ』(20168月号)に寄稿したものである。以降、天皇をめぐってのさまざまな環境も変化した。私自身の周辺でも、以下の文章をめぐって、いくつかの批判も公にされたし、論争の的にもなった。その一方で、いささかの励ましもいただいた。『ユリイカ』を読む機会が少ない当ブログの読者や歌人の方にも是非お読みいただければと、掲載することにした。「歌会始」は、憲法上規定のある天皇の「国事行為」でもなければ、「私的行為」でもない「公的行為」とされているが、憲法上にも皇室典範上にも規定があるわけではない。

 

◇◇◇◇◇

 

タブーのない短歌の世界を―「歌会始」を通して考える

今回の特集の企画書によれば、筆者は、まさにアウェイの感を免れない。あえて飛びこんだのは、現代短歌は、歌会始・天皇・天皇制を看過できないはずとの思いからである。

 

「歌会始」、無関心を標榜する歌人たち

岡野弘彦や岡井隆の世代はもちろんのこと、穂村弘、さらに山田航の世代に至るまで、無関心であろうはずがなく、必ずや少なくとも、歌会始の現況を見極めているはずである。和歌御用掛り、選者、召人となった歌人自身が、そのことを世間にあらわにして、その地位を誇らしげに語るのは、岡野・岡井どまりで、以降、多くの歌人は、選者、召人になったり、陪聴者になったりしたことすらも、身内や仲間内ではともかく、自ら世間には公けにせず、語らないのが流儀のようなのである。「歌壇」を構成する歌人たちといえば、まったく無関心のふりをしながらも、横目で一瞥していることは確かであろう。天皇や天皇制について考えるのは面倒な上、いつか自分が招ばれる日が来るかもしれないと、静かに控えている歌人は多いにちがいない。

 

①ゴージャスな背もたれから背を数センチ浮かせ続ける天皇陛下(穂村弘)

(『短歌往来』20102月)

②天皇は死んでゆきたりさいごまで贔屓の力士をあかすことなく(穂村弘)

(『短歌研究』200610月)

 

穂村弘は、①について「これは、歌会始での天皇陛下の様子なんです。歌会始に招待されるシステムみたいなのがあって、毎年いろんな人が呼ばれていますが、それに行ったことがあって、わりと近くで天皇がいらして・・・これはわりと、リアルな歌で、現在の天皇のことです」と自作を語り、平成に入って、歌会始の陪聴者になったことをさりげなく明かしている(『世界中が夕焼け 穂村弘の短歌の秘密』新潮社 二〇一二年、178 )。また、同書の山田航の解説によれば、①は、岡井隆、石井辰彦らと朝日カルチャーセンターの朗読会(二〇〇九年九月六日)の「皇居を詠む」のテーマで朗読した作品だったという。続けて、山田は、①について、穂村は、ある時期「天皇であるということは尋常ではないほど厳しい自己規律が必要なのだと気づき、そこに激しい他者性を見て」「時代と自己との関係性を見つめなおすようになった」として、②では、平成の天皇には「昭和天皇に見出している人間くささとはまったく異なっている」ものを見て取る(177p)。

穂村の「歌会始に招待されるシステムみたいなのがあって、毎年いろんな人が呼ばれていますが」の書きぶりからは、あえて深く考えないポーズをとる。山田は、「他者性」「関係性」といった用語を使用するが、近頃のテレビタレントのキャスターでさえ好んで口にする、一種の流行語にも思え、内容的には何も踏み込んで語っていないことになる。

世代的には確かにバランスをとっている現在の歌会始選者、篠弘から三枝昂之、永田和宏、内藤明、今野寿美の五人に至るまでの曲折や現状について触れる時評や論評は極端に少ない。選者の出自や師系をたどると、篠(まひる野)、三枝(かりん⇒りとむ)、永田(塔)、 今野(まひる野⇒かりん⇒りとむ、三枝の妻)、内藤(まひる野⇒音)ということになり、アララギ系の高安国世創刊の「塔」の永田を除いて他の四人は、すべて窪田空穂・窪田章一郎系にたどり着く。かつては、いいも悪いも偏らない配慮がなされていた。現在にあっては、多くの歌人が、所属結社の主張、師の系統による特色を厳密に受け継いでいるとはいいがたく、薄らいでいるとは言うものの、いかにも偏向のそしりは免れないだろう。

かつて、岡野・上田三四二の戦中派が選者入りした一九七九年、そして、天皇の代替わり後の岡井隆が選者になった一九九三年のときには、歌壇の反応は熱く、持続していた。さらには、敗戦直後の論争にもさかのぼることができる。

 

戦後短歌史における「歌会始」

戦後短歌史における短歌と天皇制の問題は、具体的には「歌会始」の問題に集約されるだろう。詳細は、拙著『短歌と天皇制』(一九八八年)『現代短歌と天皇制』(二〇〇一年、ともに風媒社)『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房 二〇一三年)にゆずるが、ここで、要点をさらっておけば、つぎのようになる。

一九四七年からの“新生”歌会始は、宮内省の御歌所の旧寄人二人と佐佐木信綱、斉藤茂吉、窪田空穂のいわゆる民間歌人三人を選者としてスタートした。御歌所主事を経て、当時は歌詠課課長、その後長い間侍従長を務める入江相政が実務を取り仕切っていたことは『入江相政日記』に詳しい。天皇制自体、天皇の戦争責任論、退位論などが取りざたされる存亡の危機に瀕した激動の時期であり、昭和天皇の歌会始以外の短歌を一般の雑誌や新聞にリークするなど、現在では考えられないほど、その政治的利用も活発であった。

一九五〇年六月に始まった朝鮮戦争による日本は特需景気を経て、一九五二年四月のサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約発効により独立することになるが、同時に、沖縄はアメリカの軍政が固定化し、日本の各地での米軍基地は強化されていった。さらに、日本遺族会設立、軍人恩給復活、自衛隊法成立、小学校に「道徳」復活など「逆コース」をたどる。一九五八年皇太子の婚約が決まると、皇室ブームを週刊誌ブームが支えることになる。歌会始の選者も、木俣修や五島美代子の起用によって、四賀光子と女性二人の時代がしばらく続くことになる。一九六〇年新安保条約成立後は、安保反対の国民運動も後退し、経済高度成長期を迎える、そのころの岡井といえば、現代歌人協会が歌会始入選者の祝賀会を開催したことについて、かなりのハイテンションで、つぎのように述べていた。

 

「(宮中の)の一行事に文学の仮面をかぶせた歌人たちは、その仮面性を知っている以上、腹であれらの歌の形をしたものどもをわらっているか、否定している筈である。あるいは仮面でも詐称でもないという人がいるかもしれない。その人には、あの皇室関係者の御歌を一つ一つ自己の文学観に照らして価値づけてもらわねばならない」

「この歌会始の儀につながる一切事は、旧支配者に対する民衆の残忍な戯れなのであろうか。尊王の至誠が、皇室の民主化の至情が、とにかくそうした熱情のたぐいをすっかり凍結しつくしたところに生まれる非情な遊びなのだろうか。しかし、そこには美がない。この非情な穢醜を、私を肯定することができない」

(「非情の魅力について」『現代歌人』創刊号一九六〇年五月 4748頁)。

 

一九七九年いわゆる「戦中派」の中核でもあった上田三四二(一九二三年生)と岡野弘彦(一九二四年生)が佐藤佐太郎と宮柊二に代わって、歌会始の選者になったとき、一九六〇年代には角川『短歌』の編集にも携わった同世代の片山貞美は、つぎのように批判した。

 

「事は天皇・皇族の参加する宮廷行事である。当然のことに参加する者の意識は改って、天皇を頂点とする制度の秩序のなかに整然と組み入れられることをあらわにする。(中略)つまり詠進歌の行事は今日では短歌の文学的問題をほとんど含まず、政治的問題が主だと見なければならないのだ。だから選者は選歌を通して天皇制支持という姿勢をあらわにすると見なければなるまい」

(「二人の戦中派」(角川)『短歌年鑑一九七九年版』)

 

さらに、天皇制は家父長制とともにわたしたちの生活の根にかかわる問題で、「戦中派はそうした問題に一九四〇年代の戦争体験によって最も鋭く迫った人びとのはずである」から、選者になることは許せないと言い切った。しかし、一九七九年六月元号法が施行され、『短歌』は、一九八四年から、翌年の「宮中歌会始詠進要領」の掲載を開始する。短歌総合雑誌が「要領」を掲載、選者の一人岡野弘彦の詠進の勧めともいうべきエッセイや宮内庁での歌会始のプロモーターである入江相政のエッセイなどが続く時代の始まりとなった。戦後の短歌史上、短歌総合誌が、国の皇室行事に加担するというエポックをなした。さらに菱川善夫の『短歌』論文削除事件などが明らかになるのもこの時期であり(菱川善夫「変化と病―昭和五十年代の時代状況」『短歌現代』一九八五年二月)。歌壇全体が自粛ムードのなかで推移することになったことは、ある年代以上の歌人には覚えがあるのではないか。

一九九年の歌会始選者に岡井隆が就任することが公になった一九九二年秋、歌壇の様相は少し違っていた。「前衛歌人」の岡井が選者になったことの衝撃は少なからずあった。詳しくは筆者作成の「岡井隆歌会始選者就任関係書誌(一九九二~二〇〇〇)」(前掲『現代短歌と天皇制』所収)を見ていただけばわかるように、全国紙から同人誌に至るまで、必ずしも網羅的ではないにしても、その反響は数年にも及び、八〇点近く、アンケートなどを含めればその発言者は一〇〇人に達するだろう。岡井自身の発言も7点ほど含んでいる。岡井が、繰り返し主張し続けたのは、「歌会始は、だれもが参加できる奔放最大の、知名度の高い短歌コンクールで、国家や皇室との関係はいまや薄くなってきた。これからの歌会始は、参加する多くの応募歌人により、反権力を歌ってきた歌人らが選者になることによって、イメージは変わる」ということだったのだろうか。座談会やインタビュー記事からだけでは不明確な点が多い。さりとて、岡井自身の執筆になる、たとえば、「あるニヒリストの演舌―歌会始の件につき」(『未来』一九九三年一月)、「歌会始の選者として」(『短歌往来』一九九三年二月)などを読んでも、独特の言い回しではぐらかされた感じがしないでもない。代表的な反響として、上記『短歌往来』の一五名による「アンケート・岡井隆氏が歌会始の選者を引き受けられました。そのことにつき率直な意見を述べてください」の回答が、温度差はあるものの、裏切り、嫌悪、遺憾、不可解、失望、好ましくない、納得できない、天皇との距離を保つ、などが一〇名、一方、騒ぐこともない、興味がない、ぴんと来ない、驚くこともない、今後に注目したいという五名だったというのも興味深い。当時、『未来』で岡井隆の選歌から離れた会員、『未来』から離れた会員もいたという。

 近年の岡井隆は、歌会始の選者はやめたが、和歌御用掛として、皇居に通っているし、メディアへの露出度は高く、その発信力は衰えてはないようで、むしろ焦りさえもかんじさせる。昨年から今年にかけて、短歌誌ばかりでなく、つぎのような一般メディアにも登場する。

『朝日新聞』(夕刊)「人生の贈りもの」(二〇一五年二月)という一〇回のインタビュー記事では、

「かつてのマルキストが、歌会始の選者を引き受けたのはなぜか」の質問に、一九七〇年に蒸発して九州へ行った後で考え方を変え、五〇歳前後で思想転向したとして、つぎのように続ける。

 

「ぼくみたいに若いころ天皇制を否定していた左翼の人間が転向したわけです。日本の文化人って、転向しても理由を述べない人が多いねえ。あれはやっぱり書くべきだと思います。説明責任があります。僕はその理由をいろんな機会に『自分が若いころには分かっていなかった』とちゃんと書きましたよ。それを経たあとは、ずーっと揺るがない。その一つの表れとしての歌会始です」(『朝日新聞』二〇一五年二月二六日付夕刊)

 

ここでは、明確に「転向」に言及し、何度も「説明責任」を果たしてきたというが「若気の至り」

では、説明したことにはならない。現に、二〇〇八年の段階では、これも、小高賢との対談で「岡井さんの選者就任で一番足りないのは、ご自身の論理的説明ではなかったか」の質問につぎのように答えていた。

 

「振り返って客観的に眺めてみると、やっぱり僕は転向したのだと思う(中略)。自分自身のためだけでもいいから、きちっとあきらかにしておく必要があったかなあと思う。ただなにか書こうとすると、みんな、大島史洋君もそうだったけれど、『岡井さん、もうやめなさい。何を言ったって、全部、言い訳に取られるから、何も言わない方がいいですよ』というから、そう思っちゃった」

(『私の戦後史』角川書店 二〇〇九年 二九六頁)

 

私の検索の限りでは、以後も論理的に説明している発言が見当たらない。岡井は、さらに「宮内庁和歌御用掛が明かす 佳子さまの和歌の素養」(『文藝春秋』二〇一五年六月)においても、歌会始を「国民参加型の文化行事」と位置づけ、最近体調を崩した折に(和歌御用掛の)後継者を探したが「適任者が見つかりませんでした」と記す。しかも、天皇・皇后は平和への特別な想いを持っているので「お歌に助言をさせていただく人間として戦争体験者の私がお役にたてるのではないかと、考えるようになり」、「両陛下がご公務に頑張っておられるわけですから、私も頑張らねばいけません。体力が続く限り、御用掛を続けさせていただこうかと思っております。」と結ぶ。

二〇一六年に入って、『朝日新聞』の「はじめての歌会始~皇室と国民 同じお題で心詠む」(「文化の扉」一月一〇日)にも登場、「2万人以上の人が一つのお題で定型の詩を作りあうのは、他国にはない」「歌会始は、日本の伝統が脈々と続いていることを世界に知らせる良い機会なのです」と述べている。はたして「日本の伝統が脈々と続いている」歌会始なのかは、明治以降の歌会始のありようを見ても、そんな素朴なことではなく、戦略的な結果が今に至っていることを承知の上、見て見ぬふりをしていることではないか。

現在五〇代以下の歌人たちは、先にも述べたような歌人への言論統制・圧力について、今の世の中においては、なおさらそれはありえない、自分はそんな目には合ってはいないと、楽観している向きも多いかもしれない。しかし、現在にあっても、天皇・歌会始のことに言及するとき、選者と師弟関係・友好関係があったり、自分に目をかけてくれる選者であったりすると、たとえ異議があっても、急に言葉を改め、敬語が増えたり、慎重な言い回しになるか、無関心・無言をつらぬくことが多いと、私は見ている。自覚的、無自覚的を問わず、すでに自粛や萎縮にもつながっていることを指摘しておきたい。

 

聖域やタブーをつくらない議論の場を

こうした歌壇の大きな流れのなかで、私は、最近、一つの事件に遭遇した。それに連なるもろもろのことに共通して見えてくるものは、やはり国家権力の文芸への介入を受忍する、民主主義の衰退であった。

二〇一五年一二月、現在の歌会始選者の一人今野寿美が二〇一六年から『赤旗』の歌壇選者になるという記事であった(『赤旗』1228日)。今野寿美の思想の自由、『赤旗』の編集の自由だといって、片づけられる問題なのだろうか。今野の選者としての歌会始の自身の作品と『赤旗』歌壇の選歌の結果を比べてみてほしい。明らかにダブルスタンダード的な要素が伺える。『赤旗』歌壇の選者を務めたことのある歌人の「なんかおかしい、今野さんの選歌は、明らかに『赤旗』におもねすぎている」との感想は聞いていたが、この件についての論評は、今のところ見当たらない。だが、これには、前触れがあった。一九四七年以来、七〇年近きにわたって、「玉座」から天皇の「おことば」が述べられている国会開会式には参加していなかった日本共産党が、二〇一五年のクリスマス・イブに、二〇一六年の通常国会から出席すると発表したのだった。そのために開かれた記者会見の模様を、『赤旗』より詳しく報道したのが『産経新聞』であった(一二月二五日)。「共産党、国会開会式に出席へ 天皇陛下御臨席に反対方針を転換「アレルギー」払拭へ」の見出しで、共産党は安全保障関連法の廃止を求める野党連立政権「国民連合政府」構想を提案しており、従来の対応を変えることで他党に根強い「共産党アレルギー」を払拭する狙いがあるとみられる、と報じた。ちなみに、「朝日新聞デジタル(12241249分)」では、「共産党が通常国会開会式へ 党として初、野党と同調」の見出しで、これまで天皇陛下の出席を理由に欠席してきたが、方針を転換した。開会式に出ている他の野党と足並みをそろえることで、来夏の参院選での共闘へ環境を整える狙いがある、とした。

さらにさかのぼれば、二〇〇四年の新綱領、昨二〇一五年一〇月の「日米安保条約廃案一時凍結」の発表で、野党共闘、アレルギー払拭をめざし、一枚一枚、たけのこのように、皮をはいで行って、残るものは何なのだろう。そういう流れのなかで、一見、寛容で、ウイングを広げたかのような『赤旗』紙面への著名歌人の登場、歌会始選者の『赤旗』歌壇への起用であったのである。だが、一方、歌人に限らず、いささかでも異を唱える者の排除や無視という非民主的な要素、開かれた議論の場を想定しがたい状況が、蔓延しているのではないかが懸念される。思想の自由、表現の自由を守ることの難しさを痛感するのである。

歌壇に限って言えば、そんな風潮を早くよりキャッチし、警鐘を鳴らし続けている歌人もいる。そして、二〇一六年の年末になって、佐藤通雅は、拙著3冊をあげて「果敢にタブーに踏み込んだこれだけの作業を、見て見ぬふりをいいのかと義憤の念にかられて、私はいくつかの文章を書いてきた」との論考が発表された。拙著で述べた「天皇・皇后の被災地訪問は、政府や企業あるいは自治体の被災地・被災者対策の不備を補完する役割」とすることについて、佐藤は、「補完の域を脱した、内部からの抵抗を感じることが何度もある」「為政者への無言の異議申し立て」であると、私の考えとの違いをも踏まえ、「いずれにしても、選者になったとたん黙して語らないのも、周りが見て見ぬふりをするのも不健全にはかわりはない。タブーはもう脱ぎ捨てて、さまざまな角度から意見を出し合い、問題を共有していくことを私は望んでいる」と結論付けた(「歌の遠近術12短歌と天皇制への視点」『短歌往来』二〇一五年一二月)。

しがらみのない、インターネットの世界から巣立つ歌人たちにも、ぜひ、歴史から学び、聖域やタブーをつくらない議論の場を構築し、こまやかな感性とゆたかな感情を大切にしてほしい、と願う。

 

 

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2016年8月29日 (月)

残暑お見舞い申し上げます~沖縄に関連するテーマで書きました

 私にとっては、少々きつい夏だったのですが、次の論稿が活字になりましたので、おついでの折、ご覧いただければ幸いです。①は、依頼があり、寄稿したものです。「特集 震災後の文学は可能か」とは、若干離れた感があるテーマでしたが、私の中ではつながっている課題でもありました。年表も大部分は省くことになってしまったのですが、編集部にはお世話をかけました。②③については、いずれ、ブログに転載させていただこうと思っています。ご参考までに、その目次(一部)の画像を添付しました。

「沖縄における天皇の短歌は何を語るのか」付<年表・沖縄の戦後短歌―本土短歌ジャーナリズムと天皇の沖縄訪問1944~(中略)~2016)> 『社会文学』4420168pp6580

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②夏の課題図書「『沖縄文学全集第三巻・短歌』その声を聴く」 『現代短歌』9月号(夏休みの宿題「戦争と短歌」特集)20169月 pp4849

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「沖縄にも天皇歌碑があった(その三つを訪ねて)『新日本歌人』9月号(新日本歌人協会七十周年記念)20169月 Pp2223

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2016年7月28日 (木)

『ユリイカ』8月号、<特集・新しい短歌、ここにあります>に寄稿しました。

 私は、つぎの題で書いています。

◇三十一文字のポエティック

タブーのない短歌の世界を―「歌会始」を通して考える

以下の目次を見ると、拙稿は、場違い?アウェー?の感を免れませんが、いろいろ頁を繰っていると、思いがけない”歌人”にも出会えますし、これから短歌を始めたい人も、短歌を詠み始めて久しい人も、たかが短歌と思っている人も、新しい発見があるかもしれません。

目次は以下をご覧ください。

http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=2962

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2016年6月27日 (月)

「沖縄における天皇の短歌は何を語るのか」を報告しました

 偶然にも、沖縄に出かける日の前日、619日、上記の表題で、「思想史の会」にて報告する機会をいただいた。大学同期の政治思想史専攻の友人和田守さんたちにより丸山真男が亡くなった年に立ち上げられた研究会の由、今年で20年になり、この日は第70回目の研究会だという。和田さんの紹介なので、やや緊張するが、会員の大半は研究者で、企業のOBでその後大学に関係している方もいらっしゃるようだ。少々心細かったのだが、短歌という切り口で、天皇制を見てもらえればと思い、お引き受けすることにした。会場は、法政大学のボアソナードタワーの一室、参加者20人ほどであった。コメンテイターとして原武史さんが参加される由、聞いていたので、久しぶりにお目にかかれるのも楽しみだった。原さんとは、かつて立教大学の五十嵐暁郎さんたちの象徴天皇制研究会で、短期間ながらご一緒した時期があった。

 私の報告では、皇太子時代に5回、即位後5回、沖縄を訪問している、こうした天皇・皇后の沖縄への思い入れは、何に拠っているのか、そこで詠まれた短歌・琉歌(合わせると30首前後になろうか)、そして、沖縄に関する「おことば」を通して検証することにした。天皇(夫妻)はどういう時期に何を目的に沖縄を訪問し、そこで詠まれた短歌や「おことば」という形でのメッセージは、現実にはどういう役割を担ったのか、についても触れた。一方、保守派に限らず、いわゆるリベラル派と称される人々からも、天皇夫妻の短歌をはじめとする様々な発言や振る舞いに、敬意と称賛の声が上がっている事実とその危うさについても指摘した。

 さらに、天皇のこれらのメッセージに沖縄の歌人たちはどう応えたか、については、沖縄からの歌会始への応募・入選の状況と沖縄の歌人たちが天皇(夫妻)を詠んだ短歌を収集、その意味を探った。

 次に本土の歌人たちが、沖縄を、沖縄の歌人たちの短歌をどのように受け止めたかを、渡英子、小高賢、松村正直の批判から探ってみた。また、沖縄の歌人たちは、それらをどのように受容したのか、しなかったのか、屋良健一郎、名嘉真恵美子、玉城洋子らの発言から検証してみた。

原さんからは、貞明皇后の御歌集には何種類かあって、その作歌経過がわかるものがあり、いまの天皇・皇后の短歌も、公表される前の作歌過程があるに違いないので、そのあたりが解明される必要があるのではないか、とのコメントをいただいた。

 

なお、もう一人の報告者、飯沼良祐さんの「明仁天皇と昭和天皇」は、元東洋経済新報社のジャーナリストらしい視点からのお話だった。『昭和天皇実録』の読み方や昭和天皇とキリスト教との関係など興味深いものがあった。質疑にあっては、天皇家の行く末について盛り上がっていた。

この日、619日は、那覇市では米軍属による女性暴行殺害事件抗議のための県民集会が開かれていた。翌日、沖縄へ発つことになっていたので、市ヶ谷での二次会も、早々に失礼したのだった。

 

 詳細は、近く、発行予定の『社会文学』44号に寄稿しているので、機会があればご覧いただきたい。

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2016年5月10日 (火)

連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(3) はじめての「日本現代詩歌文学館」 ~「塚本邦雄展」開催中

   翌4月27日訪れた、北上市にある「日本現代詩歌文学館」(1990年~)は、数十年来、一度は訪ねてみたいと思っていた。私にとっては今回の旅の目的の一つでもあった。盛岡からの道順はいたって簡単、東北本線50分ちょっとで北上駅で下車、車で5分のところだ。新幹線も停るが、その必要もない。前夜の夕食時、農協関係の方に、翌日の文学館行きの話をしたところ、北上は地元だけど「知らない、知らない!」といいながら、スマホで調べて「エエッー、母校だよ、私の母校の跡地ですよ。知らなかった!」と声を上げる。地元での知名度がこれほどとは、少し驚いたりもした。ラグビーで有名な黒沢尻工業が移転したのは、1980年代らしかった。辺りは、芝生の広場で、その一画には、たしかに「塚本邦雄展」の看板が見えるが、文学館前の庭園の池では、何組かの親子連れが遊んでいた。

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   入館後、連れ合いは、閲覧室で、東日本震災関係の詩歌集、とくに詩集や体験集などのコーナーに張り付いていた。いま執筆中の原発関係のものに関連? 私は、ともかく企画展「塚本邦雄展」に入場(300円)したが、ここも、入場者は、2・3人のグループの姿を見かけただけで、閑散としたものだった。受付で、どちらからかと問われて答えれば、「遠くからご苦労様です」とねぎらわれた。一通り回ったところで、「動画のコーナーをぜひ見て行ってください。塚本さんの肉声も聞けますよ」とおっしゃって、スクリーンの前に座らされたのには参った。「歌人朗読集成」の声と何かの受賞記念会の挨拶の映像が流れていた。早々にそこは退散、もう一度会場を回る。塚本は、私の短歌の世界とは別世界ながら、その歌稿の几帳面な筆跡には感心させられた。ワープロやパソコンを利用した形跡は展示にも年譜にも見当たらなかったが、晩年、ゼミの学生とのやり取りは「ファクシミリ」が活用されたという(森井マスミ「「塚本邦雄展」カタログ2016年3月81頁)。展示に見える、その華麗な人脈にも、やはりさもありなんと思いつつめぐった。寺山修司が、歌集の題名を塚本に選んでもらいたい旨の依頼をして、催促したりしている手紙もあって、どこか「甘えて」いるような雰囲気があって、興味深かった。私の塚本への関心は、天皇制との「距離感」にあった。

・われの戦後の伴侶の一つ陰険に内部にしづくする蝙蝠傘も(「悪」『短歌』1956年1月)
・日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも(「貝殻追放」『短歌研究』1956年6月)
・冬の河口 乏しき水が泡だちて落つる日本の外へ必死に(同上)

  五十代で他界した、晩年の私の母が購読していた短歌雑誌を、ときどき取り出して読むが、塚本にこんな作品が散見できる。時代は下って、1990年紫綬褒章を、1997年勲四等旭日小綬章を受章したときに、歌壇でも、若干批判的な論評もあったが(拙著「勲章が欲しい歌人たち」『天皇の短歌は何を語るのか』御茶の水書房 2013年8月 72~75頁)、現在は、誰が受章してもでお祝いの記事しか目にしなくなった。

 

  あれはいつのことだったか、書肆季節社の政田岑生(~1994)氏から、「塚本が、『短歌と天皇制』(風媒社 1988年10月)を読みたいと申しているので、余部があれば分けていただけないか」と代金のことまで書かれた、丁寧な手紙をもらったことがある。出版直後ではなく、しばらく経ってからのことだったと思う。出版元で品切れになった頃だろうか、私は、手元の拙著を差し上げたところ、礼状と『玲瓏』の最新のバックナンバー3冊分が送られてきた。政田氏の訃報を聞いたのは、それから1・2年してからのことだったか。読みたいと言っていたご本人からの音沙汰はもちろんなかったが、政田氏の手紙を保管しておけばよかったと今にして思う。

  再び閲覧室に戻って、私が所属している『ポトナム』、すでに終刊の『風景』の所蔵状況を調べてみた。他にも、いま私の手元にある雑誌類で、ここに寄贈して役に立つものはないだろうか、そんな思いもあった。自宅からも検索できるので、本気で考えようと思った。ただ、一巡しての感想を言えば、ここで刊行している『詩歌の森』という広報誌にしても、案内のリーフレットにしても、どこかよそよそしいのはなぜかなと思う。地元の人にどれほどアピールしているのか、あるいは、全国の詩歌愛好者にどれほど認知されているのか、もう少しリサーチした方がいいのでは、とも思ったものである。短歌に限っていえば、企画や姿勢が中央の短歌総合誌に傾斜するよりは、まず保存図書館としての使命を全うした上で、つぎの一歩を考えるという役割分担をしたらどうだろうか。

 同じ詩歌の森公園内の山口青邨旧居が移築されているので、立ち寄ってみた。昭和の一軒家のたたずまいの色濃いものだった。

  この後、その日の宿泊地、石巻に向かう。15時49分発一の関行き、小牛田乗継ぎ、途中、高校生や地元の人たちの乗降が多い。ドアの開閉は、自分でボタンを押さねばならないらしい。停車時間のエアコン管理のためなのだろう。6時11分石巻着。東京・盛岡間より時間がかかったことになる。

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2016年3月20日 (日)

「短歌サロン九条」(憲法九条を守る歌人の会)“柳原白蓮を語る”に参加しました ~「評伝」におけるオマージュについて

 会員ではないけれど、いつも会報『歌のひびき』を頂いていて、319日の例会で、中西洋子さんの柳原白蓮についてのレポートがあることを知った。今回ばかりは、ぜひお聞きしたい報告であった。私は、2年ほど前に、白蓮が編集した『塹壕の砂文字』(1938年)という短歌のアンソロジーを入手していた。その表題紙に近い遊び紙に、白蓮の手になるサインと献呈先が書かれていて、その献呈先の名前が気になっていた。その名前の検索に端を発して、白蓮のことを調べ始め、その顛末をある雑誌に寄稿したばかりだったのだ。まだ、調査の途上だったからである。 

 会場は、八丁堀の喫茶店貸切りで、24名の参加者であった。中西さんの報告は「柳原白蓮と戦後の活動」と題されていたが、やはり、1945年以前の話が中心となった。白蓮や宮崎龍介の出自にもわたり、歌集の作品に添った鑑賞もあり、とても分かりやすかった。私も時代、時代の初出作品はなるべく読むようにしてきたが、「歌集」として読み通すことはなかったので、その変化などに言及された点が興味深く思われた。さらに、これまでの中西さんの論考では、触れていなかった上記『塹壕の砂文字』の編集については、前線や銃後の人々という弱者への配慮が行き届いている点を強調された。また、これまで触れることのなかった『皇道世界』(19442月)に発表された「吾子は召されて」の作品もレジュメに記載されていたことだった。  

レポート終了後、私は、初めての参加ながら、少し図々しかったかもしれないが、つぎの2点を確かめておきたいと質問した。私自身は、関心のある歌人に向き合うとき、日中戦争下、表現者としてどんな作品を発表し、どんな行動をしたか、それを戦後どのように考え、歌人としての活動をどのように続けたか、に着目することにしている。したがって、一つは、白蓮についても、『塹壕の砂文字』に寄稿している十首、長男が学徒出陣で出征したときに繰り返し寄稿していた作品群と戦後の作品とのギャップというか整合性についてどう考えるか、であり、一つは、上記の『塹壕の砂文字』の献呈先から、行き着いた生長の家、当時の大陸侵攻、天皇崇拝、聖戦完遂を積極的に推進していた生長の家との関係についてであった。中西さんは、白蓮は、時代と素直に向き合っていたことはたしかで、何が本心だったのか、分かりません、とも答えられ、また、白蓮の宗教観は、仏教はじめ大本教や天理教などの宗教に対しては、広く関心を示し、招ばれれば、どこへでも出かけて行って、講演などいとわなかった、との話をされた。 

その後、この会の恒例ということで、参加者全員の感想が述べられた。多くの方は、白蓮の華やかな、あるいはスキャンダラスな面しか知らなかったので、今回全体像を知ることができた、勉強できたというものだった。戦時下の作品や言動については、当時は、誰もが権力者に逆らうことができなかった、あるいはマインドコントロール下にあったが、長男の戦死によって、目が覚めて戦後の活動に繋がったことがわかった・・・との発言、「あの白蓮さえも、戦後は平和運動に命をかけたのだ」という思想の変遷、弱い者へのまなざしは自分の出自や社会運動家となった宮崎龍介の影響もある、などといった感想や応答を聞いていて、思うことは多々あった。 

一人の人間の生涯を見つめるとき、その足跡の意外性や物語性に目を奪われて、たとえばその思想の変容の軌跡を、他愛なく許容してしまってはいないか。実は、その底に流れているものを見過ごしてはいないかが、私には重要な課題である。ちょうど、『短歌研究』4月号の特集「評伝を考える」が興味深かった。評伝のスタートは、「一次資料」であって、家族や遺族に依拠する資料や証言は、執筆者にとっては、補充資料だろう。関係者への配慮があると、ほんとうの評伝は書けず、たんなるオマージュになる可能性が高くなるのではないか、と思っていた矢先であった。評伝にかぎらず、近頃のマス・メディアの識者のコメントや登場人物の傾向を見ていると、その人の過去の言動には、目もくれず、現在の、そのメディアの都合の良いことばだけがピックアップされ、中身というより、現在の肩書にものを言わせるような流れが出来上がってしまっていないか。肩書信仰、学歴信仰が蔓延している、そんなところに、今、話題にもなっている「学歴詐称」問題も浮上したのだと思う。 

 私は、二次会に参加できなかったのだが、会終了後、参加者との立ち話ができたのが収穫でもあった。何人かの方に、声をかけていただいたが、拙ブログの「ことしのクリスマス・イブは(4)~歌会始選者の今野寿美が赤旗<歌壇>選者に」(20151229)を読んだ方もいらっしゃって、「今野さんという選者選びがおかしい」「編集部から、これまでの赤旗の選者たちには全く相談がなかったらしいです」と、党機関紙の姿勢に疑問を投げる人もいた。そう、きょうの参加者の中には、現役、過去も含めて赤旗歌壇選者が数名いらっしゃったのである。「今野さんの歌会始の短歌、ひどいですよね」「赤旗歌壇の今野さんの選が、あまりにもおもねているので、驚いちゃった」といった声もあったのだ。

 雨が上がった週末の広尾界隈、初めて通る道もあった。

 

追記:なお、冒頭の白蓮についての拙文は、『日本古書通信』4月号(415日発売)に掲載予定です。

 

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2016年2月17日 (水)

ふたたび、阿部静枝について、報告しました

 213日、ある研究会で「阿部静枝の歌集『霜の道』と戦後の短歌評論活動は、短歌史上どう位置づけられたか」を報告した。準備を進めていた矢先、1月下旬、インフルエンザにかかってしまった。いまだに咳が抜けきらないでいる。言い訳にはならないけれど、添付のようなレジメは作成したが、後半部分が駆け足になってしまった。当日配布した図表は省略している。前回のレポートほか、関連の過去記事は本稿の末尾の通り。

報告の前半は、阿部静枝の第一歌集『秋草』(1926)から長い年月を隔て、敗戦後に出版された第二歌集『霜の道』(1950)についてとなった。出版当時、そのフィクション性をめぐって、歌壇の注目を集め、議論の的となったが、私は、『霜の道』において、なぜ戦時下の大政翼賛的な作品が多く省略されたか、にも着目、静枝自身にとってどういう意味があったのかについても、合わせて検証したいと思った。

報告の中心は、短歌ジャーナリズムにおいて女性歌人がいかに進出してきたか、その中で阿部静枝がどんな役割を果たしてきたのか、『女人短歌』の中心的な人物であったにもかかわらず、短歌ジャーナリズムへの登場が少なくなる1960年以降、そして1974年没後、今日に至るまで、各種のアンソロジーにも収録されず、短歌史上も頁を割かれることがなく、ほとんど注目されることのない、女性歌人となった。齊藤史、葛原妙子、森岡貞香、中城ふみ子、山中智恵子などが、その名を留め、いまの若い人からも鑑賞や評論の対象となっていることに比べるとその感が強い。あらためて、その足跡をたどれればと思っての報告であった。

報告概要
http://dmituko.cocolog-nifty.com/abesizuerejime.pdf

なお、昨年の12月、私の阿部静枝に関するブログ記事がきっかけで、思いがけない情報が飛び込んできたことも、お知らせしたいと思う。「内野光子のブログ」の阿部静枝関係の一つの記事に、仙台に住む女性からコメントがついた。ご自分の祖父の妻は、阿部静枝の夫、阿部温知の姉であり、母方の祖父が静枝の母ときょうだいという方が現れたのである。それから、メールでの交信が始まり、その方は、お仕事の傍ら、知る限りの親せきに問い合わせを始められたようだった。いろいろな情報を集められ、自作の家系図やこれまで見たことがなかった静枝と温知と一緒に写っている写真などのコピーが送信されてきた。その中で、阿部温知の兄の子、静枝の甥にあたる阿部徹雄氏の名を知ることになる。毎日新聞(東京日日新聞)のカメラマンであったが、没後、毎日新聞社にその作品が寄贈されたことも教えていただいた。外部の者もアクセスできる「フォトバンク」に収められていて、静枝の写真も何枚か見ることができた。徹雄氏は、戦場カメラマンとしての活動も顕著であったが、戦後は、アジア・ヨーロッパ・アメリカを訪ね、各国の美術紀行や写真集など数冊を刊行、その確かな技術と観賞眼は高く評価されている。評伝「写真に生きる」(玉川選書、2002年)もある。ご遺族も、祖父が阿部温知の兄であり、温知が、子を宿していた静枝と結婚したことは聞いているが、それ以上のことは不明の由、ということであった。その後も、仙台の方からは、家系図の訂正版やあらたに見つかった写真などの送信が続いている。思いがけないうれしい出会いであった。ブログ記事が取りもってくれたご縁の一つ、いつか、友愛労働歴史館の静枝コーナーの前で、お目にかかれたらなあ、と楽しみも増えたのである。

 

 

(参考過去記事)

ある研究会での報告~阿部静枝歌集『秋草』から『霜の道』へ、その空白

20121211

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/12/post-d675.html

 

・阿部静枝の若き日の肖像画に出会う~初めての友愛労働歴史館にて
 
201474

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/07/post-927a.html

 

・再び友愛労働歴史館へ~阿部静枝コーナーの展示が始まった

2014911

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/09/post-501c.html

 

 

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2015年9月18日 (金)

短歌ジャーナリズムでも、戦後七十年特集は各誌紙で組まれた ~私のささやかな提言「一歩を踏み出す」~

 『現代短歌』9月号の〈提言・2015年夏・今歌人として考えること〉は、必ずしも「戦後七十年」特集とは言えないかもしれないが、私にも寄稿のチャンスをいただいた。また、『短歌往来』10月号「評論月評」においては、岩内敏行氏より、上記拙稿について、過分のご紹介をいただいた。歌壇とは縁が薄く、このブログの短歌関係記事を含め、いつも心細い思いをしながら執筆しているだけに、ありがたいことだった。  とりあえず、拙稿をここに収録し、あわせて、末尾に、短歌ジャーナリズムの戦後七十年特集をピックアップしておいたので、参照されたい。

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               一歩を踏み出す

   この七月一二日、シンポジウム「沖縄戦後七〇年・基地問題とジャーナリズム」が東京で開かれた。パネリスト、テレビキャスターの金平茂紀氏は、沖縄慰霊の日の安倍首相の挨拶への野次に触れ、野次のみを消したかのような、その日のNHK報道は、「政治部」記者の「自発的隷属」に起因するとした。辺野古基地建設に抵抗する人々を撮り続けている影山あい子氏は、海上保安庁による暴力的制圧のすさまじさを映像で伝えた。『沖縄タイムス』東京支社の宮城栄作氏からは、これまでの沖縄二紙への政府の懐柔策や圧力、昨年の石垣市長選の折の防衛大臣による新聞協会と『琉球新報』への露骨な報道規制が詳細に語られた。
    戦後短歌史の出発時において、歌人たちは、自らの戦争責任について、明確には克服できないまま、一九六〇年、一九七〇年をむかえた。高度経済成長と情報化社会の波に乗り、「前衛歌人」や「反体制歌人」も輩出されたが、作歌を止めたり、歌壇から消えたりした歌人もいたなかで、前衛でも反体制でもない、たんなる「有名歌人」として生き延びた歌人が大方であった。短歌ジャーナリズムは、発行者や編集方針が変わると、急速に保守化していった。さらに、マス・メディアは、短歌の文学性より、歌人や短歌愛好者の消費行動に着目、新聞社やNHKは「歌壇」を拡充し、カルチャーセンターには短歌講座が増えた。出版社は、短歌紙誌を発行し、自費出版の歌集が氾濫した。歌人団体や政府・自治体もイベントや賞を通じて短歌の普及と大衆化を進めた。しかし、それは、同時に、公権力による歌会始や褒章という制度によって権威づけが図られ、国家権力の文芸への介入を容易にし、無意識のうちに自粛や萎縮が助長されるようにもなった。現在は、短歌人口の高齢化にともない、短歌結社の後継者や若手歌人を育てることを急ぐあまり、主題の在り方や感性の細やかさよりも思いつきや表現技術の微細への評価が先行する傾向にある。  
     そして迎えた戦後七〇年、政権は、さまざまな破綻を抱えながら、さらにそれを増幅し、大きく国のありようを変えようとしている。歌人や歌壇、短歌ジャーナリズムの概ねは、四年半を経た東日本大震災に対しては、やや情緒的な側面を見せながらも、原発事故を含めた被災地と被災者からの発信を促し続けてきた。一方、昨年の沖縄県知事選挙、総選挙の結果を踏まえ、沖縄からの発信は、にわかに注目されるところとなったが、この七〇年間、歌人や短歌ジャーナリズムは沖縄とどう向き合ってきただろうか。
   一九八九年創刊の『短歌往来』は、一九九九年七月〈オキナワの歌〉、二〇〇六年七月〈沖縄のアイデンティティ~辺境からの闘い〉、二〇一三年八月〈歌の力 沖縄の声〉、二〇一四年八月〈沖縄の食と風物〉という特集で、沖縄在住歌人の作品を中心に、沖縄の声と現況を伝えた。日常的にも「沖縄の文化を辿る」(平山良明)の長期連載や沖縄在住歌人の歌集なども積極的に取り上げた。一九八七年創刊の『歌壇』は、二〇〇〇年四月〈沖縄歌人作品〉、同年八月〈戦後55年を詠う新たな出発として~六月の譜〉、今年六月〈戦後七十年 沖縄の歌~六月の譜〉の特集を組む。二誌のこれらの発信は、重く、貴重なものだった。
   一方、『短歌研究』『短歌』の沖縄への関心をたどれば、一九五〇年代にさかのぼる。一九五四年四月創刊の『短歌』は、中野菊夫の「祖国の声」(一九五五年四月)、「沖縄の歌」(一九五六年一二月)を載せた。それに先立つ一九五三年『沖縄タイムス』は「九年母短歌会」同人たちの作品を数か月にわたって紹介したが、本土には届かない沖縄の声であった。さらに、『短歌』では、一九六〇年九月〈オキナワと沖縄の短歌〉特集を組む。一九五七年八月『短歌研究』の〈日本の傷痕〉特集の「基地・沖縄の傷痕」では、知念光男が基地一二年の「これ以上耐え忍ぶことのできない、ぎりぎりの生活の底からのうめき声」としての短歌を伝えた。一九五八年三月〈沖縄の歌と現実〉特集は、吉田漱による沖縄の歴史・政治・経済の現状と歌壇についての丁寧な解説と作品集を収めた。当時の編集人の杉山正樹は、「ジャーナルの上でやや置去りにされがちな沖縄の諸問題を島民の切実な“地の声”を中核として」企画したと記している。短歌紙誌にあっては、一九七二年の復帰まで、あくまでも「海外」扱いの沖縄であった。それ以降も、「沖縄県」は都道府県の一つとしての扱いが続いた。
   戦後七〇年にあって、「本土」の人々、「本土」の歌人の反応はどうであったろうか。「沖縄」を見つめることは、「日本」の近代と向き合うことでもある。沖縄本来の姿を取り戻すことが日本の国の行方を質すことにもなる。短歌を詠み、短歌を読むとき、みずからの「内なる沖縄」を問い続け、具体的な一歩を踏み出さなければならない。「辺野古を守れば日本が変わる」とは、冒頭のパネリストの一人、影山氏の言であった。(『現代短歌』2015年9月号収録)

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<短歌雑誌・新聞の戦後70年の特集>展望  
  とりあえず私の目に触れた範囲ながら、列挙してみると以下の通りである。それぞれ特色はあるが、そのテーマと執筆者の選択が興味深い。

『短歌』8月号
特別企画・戦争の肉声~若き歌人に伝えたい戦争/インタビュー岩田正(聞き手永井祐) 『短歌研究』8月号
戦後七十年をふりかえる
戦後短歌を支えた名歌(篠弘)「短歌研究」戦後復刊号を読む(三枝昂之)七十年の孤独(川野里子)  「女人短歌」ののこしたもの(花山多佳子)青年歌人会議のころ(森山晴美)私と「ジュルナール 律」(村木道彦)まぼろしの「極」二号を復元する(島内景二)寺山修司のいる風景(福島泰樹)短歌に刻印された安保闘争(道浦母都子)文化的想像力いま何処(来嶋靖生)『サラダ記念日』を めぐって(荻原裕幸)象徴としての終焉(大辻隆弘)「阪神淡路大震災」をうたうこと(尾崎まゆみ)シンポジウム「いま、社会詠は」をめぐって(松村正直)短歌の「リアル」とはなにか(石川美南)「原発詠」のわたそ(高木佳子)「復帰」への想い(屋良健一郎)戦後七十年年表(大井学)巻末付録「短歌研究」昭和20年9月号
『うた新聞』8月10日号
短歌で問う<日本の戦後>
戦後七十年の短歌(水野昌雄)真の<戦後元年>に向けて(木村雅子)沖縄(玉城洋子)朝鮮戦争(花山多佳子)自衛隊(菊池東太郎)第五福竜丸(曽根耕一)原発h・核開発(杜沢光一郎) 日米安保条約(日米地位協定)(久々湊盈子)ベトナム戦争(大林明彦)三島事件(一ノ関忠人) 湾岸戦争(尾崎まゆみ)イラク戦争(川本千栄)
『現代短歌新聞』8月9日号  
わたしの八月十五日
五首とエッセイ(青木ゆかりほか計37名)
『歌壇』8月号 
戦後七十年、被爆と被曝を考える  
見返すまなざし(吉川宏志)かく立てられる強烈なイメージ(相原由美)いく筋の「とこしへの川」(大石直孝)いま、だれが問われているか(加藤英彦)ほか、西田郁人、前川明人、三原豪之、山本  光珠、馬場昭徳、立花正人、波汐国芳、三原由紀子のエッセイ
『歌壇』9月号
戦後七十年、私の八月十五日
エッセイ(穴沢芳江、井上美地、尾崎左永子、上川原紀人、来嶋靖生、木下孝一、久保田幸枝、椎名恒治、永田典子、橋本喜典、藤井治、結城文、四元仰)
『現代短歌』9月号
二〇一五年夏 今歌人として考えること  
「中途半端な田舎」にて(今井恵子)一歩を踏み出す(内野光子)キマイラ文語(川本千栄)荒廃の夏―70年目の夏に思うこと(三枝浩樹)道を歩き、月を眺める(坂井修一)七月十五日前後に考えたこと(澤村斉美)添削再考(真野少)この夏に思うこと(道浦母都子)里山林とドングリ(森垣岳)   

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2015年8月 2日 (日)

見回せば、「岡井隆」はどこにでもいる~2015年8月に

象徴天皇制の憲法下で、天皇・皇后が、老いと病を抱えながら、慰霊の旅や被災地訪問を続けている映像を見るに忍びなく、静養に専念してほしいと思ってしまう。夫妻の個人としての心情や姿勢に理解は及ぶとしても、天皇・皇后としては、そうした公務から退いてもいいのではないかと思う。わずかなチャンネルながら、自らの思いを発信しようとしている天皇・皇后と自分の不甲斐なさを、吉川宏志はつぎのような一首となした。

・天皇が原発をやめよと言い給う日を思いおり思いて恥じぬ

(吉川宏志『燕麦』二〇一三年)

民主主義と天皇制という矛盾に満ちた法制を抱え込んだ日本国憲法下で、ある一部の歌人たちが果たしている役割をしっかりと見つめ直さなければならない時期が来ている。これは、喜々として宮廷にはせ参じている歌人たちの検証と同時に、彼らを取り巻き、さらに控えている歌人たちが、無関心を標榜し、あるいは忌避したまま、通り過ぎようとしている歌人たちにも及ぼう。一方、わずかな接点を見出しては、ウィングの広さと仲の良さを旨とし、すり寄り、利用しながら親密性を誇示する歌人、集団、政党さえ現れはじめた。対立や頑迷がいいというのではない。柔軟性を発揮すべきところと筋を通すべきところをはき違えないでほしいのだ。

そんなことを考えているとき、「宮内庁和歌御用掛が明かす 佳子さまの和歌の素養」(岡井隆)なる記事に出会った(『文藝春秋』二〇一五年六月)。「佳子さまブーム」はここにまでと読み進めると、執筆者の「老い」と「権威主義」の翳は拭いきれないものであった。「ただ、多少自信があるとすれば、歌を作る能力とか、歌について人に意見を申し上げる能力に関しては誰にも負けないとは思っています。」とか、最近体調を崩した折に後継者を探したが「適任者が見つかりませんでした」とか臆面もなく記す。さらに、「佳子さま」にも、親しく「助言」し、他の皇族方の「和歌」がいかに素晴らしいかの報告が続く。しかも、天皇・皇后は平和への特別な想いを持っているので「お歌に助言をさせていただく人間として戦争体験者の私がお役にたてるのではないかと、考えるようになり」、「両陛下がご公務に頑張っておられるわけですから、私も頑張らねばいけません。体力が続く限り、御用掛を続けさせていただこうかと思っております。」と結ぶ。しがみついて守るものは短歌と無縁と言えよう。

岡井は、今年の歌会始の「御製」に呼応して「術後八日、両陛下にご進講申し上げた、仕事始。」の詞書のもとにつぎの一首がある。

・水稲と陸稲で鎌の刃の切れが違ふとぞ陛下説きたまひたる

(『短歌』二〇一五年一月)

また、詞書に代えて「身をかはし身をかはしつつ生き行くに言葉は痣の如く残らむ(芳美)」という近藤芳美の作品をあげての一首。 

・さういへば「身をかはす」術を知つてゐた師だつたと今ごろ気付く(『短歌研究』二〇一三年九月)

近藤芳美だって「身をかわし」たではないかと言わんばかりの自己正当化が透けて見えてくる。つぎの一首で、「師弟関係」にある加藤治郎に釘をさすところが、近年の弱気の現れでもあるのか。

・芳美対わたしのやうな棘はなくしかしはつきりとぼくとは異質(『短歌現代』二〇一三年九月)

見回せば、「岡井隆」はどこにでもいる。

(『ポトナム』20158月号 所収)

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2015年7月29日 (水)

田中綾著『書棚から歌を』(深夜叢書社 2015年6月)を読んで

 著者がまだ院生の頃、師の菱川善夫氏とご一緒で、札幌でお会いしたときの印象が色濃く、新進の学究と思っていたが、「親子ほど年の離れた学生と接し・・・」と「あとがき」にあり、愕然としたのは私の方だった。また、「〈明治〉〈大正〉〈昭和〉〈GHQ占領期〉をまとめて〈昔〉の一語で片付ける彼/彼女らに、近代と、私たちの〈今〉とは地続きであることを伝えなければ・・・」ともあり、切迫した想いが執筆の動機とある。しかし、『北海道新聞』に連載中のコラム(今回の収録は、200911月~20151月)でもあるので、講義のような堅苦しさはなく、読みやすく、何よりも対象の書物の幅が広い。歌人ではない著名人のあるいは無名の人たちの短歌も拾い上げられ、その作品と作者の物語性や意外性が、なんとも興味深い。

 初回が、斎藤慎爾『ひばり伝』(講談社 2009年)から、美空ひばりが小林旭との祝宴の折に発表された「我が胸に人の知らざる泉あり つぶてをなげて乱したる君」の1首が表題となり、その背景が語られる。2回目が、太宰治『斜陽』のために自らの日記を提供した太田静子(19131982)が、結婚前の若いころ、口語による、定型にこだわらない「新短歌」にのめり込んだ時代の1首「樹液の流れに 上衣が失はれはじめた いま動けば 美しい攪乱がくる」を引く。これは、著者の「新短歌」史・逗子八郎研究の余滴でもあったのではないか。

 土岐善麿「十五単位司書の資格をとりしこともわが生涯の何の契機か」は、犬伏春美・犬伏節子『土岐善麿と図書館』(新典社 2011年)から引いた1首。東京都立日比谷図書館長(19511955)を務めた善麿の社会的活動の一部を伝える。図書館法によれば、1968年までは、司書資格取得に15単位が必要であった。私が、名古屋の愛知学院大学司書講習会で参考業務演習を担当していた時代(19771988年)は19単位だった。1単位のために、1週間余を通しての演習はきつかったが、それが1か月以上続く受講生はその比ではなかったはずだ。それでも、その資格を活かして、正規の図書館館員として就職する人はかぞえるほどだった。その後、資格取得には、1998年からは生涯学習論や児童サービス論が加わり、2011年からは大幅に再編され、情報サービス演習、情報資料組織論演習が加わり、24単位になったそうだ。IT時代に入ったのだから、図書館サービスの様変わりは当然のことだろう。ただ、大学図書館での非正規職員、公共図書館での外部委託・指定管理者制度の問題は、今後の図書館サービスの質的な向上に深刻な問題を投げかけているのはたしかである。そんな思いをも立ちあがらせる1首であった。

 林うた「教ふるに故なく笑ふこと多き此の少女等とはへだたりとほき」の「林うた」は、東京の女子高等師範学校を出て、郷里の高等女学校で教鞭をとっていた頃の歌人、阿部静枝のペンネームである。無産婦人運動の活動家であって、後、評論家、政治家としても活動した。50数年前に、私が短歌の手ほどきを受けた師でもある。同郷の菅原千代による『林うた歌集さいはひ』(左右社 2012年)から引いている。

 朝日歌壇に入選が続いたホームレス歌人公田耕人、獄中歌人郷隼人も登場し、小林多喜二や山本周五郎、出口王仁三郎の短歌も登場する。

短歌を詠む人、短歌を語る人はもちろん、これまで短歌に縁がなかった人でも、どの頁から読み始めても、十分楽しめる一冊ではないか。

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装画は池澤賢「熔鉱爐」(1949年)

 

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