2023年12月28日 (木)

『クロール』は突如、消えてしまったが~児玉暁の遺したもの

 細々と資料の整理はつづけているものの、処分するもの、古書店に引き取ってもらえそうなもの、やっぱり手離せないものと仕分けるのだが、なかなか踏ん切りがつかずに困っている。12月には、少し大掛かりに、短歌関係雑誌を捨てた。そんな作業の中で、佐藤通雅の個人誌『路上』が途切れ、途切れに出てきた。 

 その中の一冊97号(2003年12月)の表紙に「児玉暁ノート」とあるのが目に留まった。加藤英彦さんが、ともに属していた『氷原』時代から、文学を語り、短歌を語り、飲み明かしながらも、妻子、家庭を大事にしていた児玉暁さんの様子と突然の訃報に接した顛末が書かれていた。私にも、児玉暁さんとの少しばかりの接点があったのを思い起すのだった。(以下敬称略)

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創刊号の表紙と最終刊と思われる18号の奥付

 児玉の個人誌『クロール』の創刊は1995年12月1日、B5版16頁のワープロによる手作りの冊子であった。非売品となっていて、たぶん、送ってくださったのだと思う。私の手元には、18号(2000年6月1日)まではそろっていて、創刊号だけは水色の用紙を使用している。挟まれていた「送り状」には、時候の挨拶に続いて「さて、このたび不肖、長年所属しておりました「氷原」を離れ、個人誌「クロール」を創刊することに意を決しました」の一文がある。この個人誌の圧巻は、毎号の30首と「第二芸術論異聞―戦中から戦後、その活断層地帯」の連載であった。「第二芸術論異聞」の第1回で、戦中から戦後の短歌史を深く険しく切断しているのは「活断層地帯」があるからとの見立てにより、次のように述べる。

「歴史的事実を改竄することなく、隠蔽することなく、有耶無耶に放置することなく正当に埋め込む作業を施すこと、言葉を換えて言えば、戦中と戦後の流れを合流させて一本の太い近代短歌史を築き直すことが急務だと思われてならない」(1号 1995年12月)

 このスタンスは全編に貫かれている。例えば、佐佐木信綱『黎明』(1945年11月)について、小田切秀雄「文学における戦争責任の追(ママ」)」(『新日本文学』1946年6月)、木俣修『昭和短歌史』(明治書院 1964年10月)、篠弘『現代短歌史Ⅰ戦後短歌の運動』(短歌研究社 1983年7月)、佐佐木幸綱編『鑑賞日本現代文学 32巻 現代短歌』(角川書店1983年8月)においても言及がないことを指摘した上、戦時下の作品が『佐佐木信綱全集9佐佐木信綱歌集』(竹柏会 1956年1月)にも収録されてないこと、に疑問を呈している(2号 1996年2月)。さらに、佐佐木信綱、窪田空穂、太田水穂、前田夕暮、川田順らの名をあげ、次のように、明快に断じるくだりもある。

「歌人には生前であれば、全歌集や全集を自選できる権利がある。今ではそうともいえないが、文学者の全集といえば、彼の死後、遺族の許諾を得て編集委員の尽力で組まれるのが通例のようだ。それはともかく、自らの総作品を自選できる権利とそのすべてを明らかに示す義務と比べてみるとどちらを上位に置くべきだろうか。私は後者を支持する」(9号 1997年11月) 

 これらの論考は、その後、私が「斎藤史―戦時・占領下の作品を中心に1~10」(『風景』1998年7月~2001年3月)を書き始めようとしていた動機とまさにつながるものであった。この拙稿を、のち大幅に補充し、まとめたのが『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代―「歌集」未収録作品から何を読みとるのか』(一葉社 2019年1月)であった。

 児玉のプロフィル的なものはいっさい知らなかったのだが、『クロール』の毎号の「編集後記」によって、その一部を知ることになる。休日を利用して、目黒の近代文学館や都立中央図書館で資料検索やコピーをとっていたが、卒業生なら書庫に入れる早稲田大学図書館を知り、近代文学館では一枚100円のコピーが、早稲田では千円のカードで105枚とれることになってワクワクする様子、1996年12月の5号では、パソコンを購入、利用し始めるが覚束ない様子、やがて、藤原龍一郎たちと「サイバー歌仙」をまき、住まい近くの江戸川河川敷のウォーキングや週2回の1500メートルの水泳によって健康管理をしていることなど、いきいきと綴っている。1999年5月の15号では、ホームページを立ち上げたことも報じている。なお、祖父は、沖縄で財を成し、父親が沖縄生まれであり、児玉自身の生まれは鹿児島県で、小学校高学年から大学進学で東京に出るまでは佐賀県唐津で暮らしていたことも書かれていた。 

 1998年8月の12号に、斎藤史の『朱天』が登場し、『現代短歌全集第9巻』(筑摩書房 1981年1月)に、『朱天』の収録を許諾した斎藤史を、隠蔽することなく、潔いと評価している部分があった。『風景』で連載中の上記、斎藤史に関する拙稿では、1977年12月、最初の『斎藤史全歌集』(大和書房)に『朱天』を収録した折、「はづかしきわが歌なれど隠さはずおのれが過ぎし生き態なれば」の一首を添えて、戦時下の歌集も隠蔽しないことを強調していた。そのことをもって、歌壇では、潔い態度と称賛しきりだったのである。ところが、初版の『朱天』(甲鳥書林1943年7月)から17首の削除と数首の改作を、その拙稿で指摘していたこともあって、コピーを送ったのだと思う。児玉からは「平成10年12月25日」付で丁寧な礼状をいただいていた。その手紙は今でも手元にあるのだが、端正な楷書で、便箋4枚に認められている。拙稿の指摘について、『朱天』については初版に当たらなかったことを反省するとの一文があり、「あの当時の短歌史の空白には是非とも書き込みが必要です」とし、「本来ならば近藤芳美氏など「新歌人集団」の人々がきちんと整理しておくべき問題だったと思います」とも書かれていた。 その手紙の後だったのだろう、今では、その用向きを思い出せないのだが、江戸川区の自宅に電話をしたことがあった。すると、夫人らしい方の声で「児玉はここにはいません」と電話を切られたのである。ちょうど手紙から一年後、1999年11月の16号の「第二芸術論異聞(第15回)」と「編集後記」で、単身で唐津に暮らし始めたことを告げている。一年弱の間に、何が彼を変えたのか。転居後の巻頭の30首の中には、つぎのような短歌が掲載されるものの「編集後記」では、『クロール』発行への意欲を語り、「第二芸術論異聞」の連載も、マラソンに例えれば30キロ地点に達した、とも記している。

・荒亡の幾日か過ぎ碧緑海ほどよき平を泳ぐクロール(16号(1999年11月)

・棄京とは人生謀反 文学の言葉をわれの生の帆と張れ(同上)

・高層のビルの上なる寒月光われを導く縄文の世へ(17号 2000年2月)

・三途の川の渡し守なる父が居て紅涙ながしつつ舟漕ぎはじむ(同上)

・みどり豊かな欅の大樹さながらに心の木の葉言の葉かがやけ(同上)

・人の生は一冊の本さなりされど付箋幾枚あっても足らぬ(18号 2000年6月)

・歴史には世紀末ありわが身には最期が待ち居り自ら決むべし(同上)

・残る月三日月消えて太陽が昇りくる此処も原郷ならず(同上)

 寂しい歌や悲壮感漂う歌が多い中、「生の帆と張れ」「言の葉かがやけ」のような歌を見出し、ほっとしたものだったが、その後、人づてに、児玉の自死を知るのだった。なお、冒頭の加藤英彦の一文には、その死は「1999年12月」だったとするが、これは明らかな間違いである。『クロール』18号は2000年6月に発行されている。親しかった友に、数年も経たないうちに、間違われてしまうとは、寂しいことではあった。

 篠弘の戦時下における土岐善麿、北原白秋への擁護論、木俣修、三枝昂之の昭和短歌史論などについても、大いに語り合いたかった。斎藤史の件に限らず、高村光太郎の「暗愚小伝」、山小屋生活、芸術院会員固辞などによる「自己糾弾」、金子光晴の戦争詩を書かなかったが傍観者だったという「自戒」を高く評価していた児玉、近年になって、両者への反証にたどり着いた私だが、意見を聞きたかったし、議論をしてみたかったと切に思うのだった。

 

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2023年11月20日 (月)

<座談会>、かなり緊張したのですが。

 11月18日、土曜の午後、G—W—G (minus) 同人の方からのご依頼で座談会に参加しました。同人の三方、位田将司さん、立尾真士さん、宮沢隆義さん、どなたも近代文学の若い研究者で、G—W—G (minus) のバックナンバーを一部拝読、これは手ごわいぞ、の第一印象でした。座談会に至るまでは、進行や資料など丁寧に対応していただき、1週間前にはzoomの打ち合わせもしていただきました。

 会場は、私の住まいの近くの古民家カフェ「入母屋珈琲」の2階の広々とした会議室、入るなり、中央のテーブルにはなんと、写真のように、私のこれまでの著作、収録された論文集、雑誌のコピーまでが、積まれているのを目にして驚き、もはや感動に近いものがありました。私も、拙著の一部や1960年代の雑誌などを持参しましたが、机上のこれらの資料から突っ込まれると、かなりの覚悟が・・・、などと思ったのですが、話が始まると、三人は各様に、私の4冊の歌集や拙著を読まれていて、おぼつかない私の話をうまく掬い取ってくださりで、あっという間の4時間!でした。多くの刺激をいただきました。

 当日の夕方には、以下のツイートにも。 

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本日、歌人の内野光子さんと座談会をおこないました。短歌と天皇制の関係を中心に、「60年安保」及び「68年」と短歌、阿部静枝と『女人短歌』、齋藤史と『万葉集』、前衛短歌、そして「歌会始」の問題を大いに議論しました。2024年5月刊行予定の『G-W-G(minus)』08号に掲載予定です。乞うご期待! pic.twitter.com/7y1qnDWvmx

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2023年11月11日 (土)

紫綬褒章の受章者はどのようにして決まるのか

「またまた、もういい加減にして」の声も聞こえるが、やはり、書きとどめておきたい。
 俵万智(六〇)が二〇二三年秋の紫綬褒章を受章した。多くのマス・メディアには、彼女のよろこびの言葉が報じられていた。短歌関係の雑誌は、どう扱うだろうか。

 紫綬褒章は、内閣府によれば、「科学技術分野における発明・発見や、学術及びスポーツ・芸術文化分野における優れた業績を挙げた方」に与えられるとある。
 1955年に新設された紫綬褒章は、これまでも多くの歌人たちが受章している。近年では、2014年栗木京子、2017年小島ゆかり、今年の俵万智と女性が続いたが、1994年の馬場あき子以来女性は見当たらず、1996年岡井隆、1999年篠弘、2002年佐佐木幸綱、2004年高野公彦、2009年永田和宏、2011年三枝昂之、2013年小池光と男性だった。女性が続いて、歌壇の現状がようやく反映されるようになったとよろこんはでいけない。
 そもそも、受章者はいったい誰が決めるのだろうか。当ブログでも、「文化勲章は誰が決めるのか」の記事を何度か書いてきた。さて、紫綬褒章はどうなのか。

 「褒章受章者の選考手続について(平成15年5月20日)(閣議了解)」によれば、根拠法は、なんと「 褒章条例(明治14年太政官布告第63号)」であって、「明治」なのである。 褒章の種類は、紅綬、緑綬、黄綬、紫綬及び藍綬で、受章者の予定者数は、毎回おおむね800名とし、春は4月29日に、秋は11月3日に発令する、とある。
 「議院議長、参議院議長、国立国会図書館長、最高裁判所長官、内閣総理大臣、各省大臣、会計検査院長、人事院総裁、宮内庁長官及び内閣府に置かれる外局の長は、春秋褒章候補者を内閣総理大臣に推薦し、文書により、あらかじめ、文書により内閣府賞勲局に協議する。内閣総理大臣は、推薦された候補者について審査を行い、褒章の授与について閣議の決定を求める」となっている。

 4月19日は、かつては「天皇誕生日」という祝日で、昭和天皇の誕生日であった。すでに知らない世代も多いのかもしれない。11月3日は、「明治節」、明治天皇の誕生日という祝日であった。 

 なお、内閣府の「栄典の手続き」によれば、その手続きは、以下のようになる。要するに、各自治体及び関係団体、各省庁、内閣賞勲局の間で行ったり来たりしながら、内示の段階でほぼ確定ということになる。つまりは、役人が選考しているので、「文書」にいくつもの押印はあったとしても責任は不問に近い。なお、「栄典に関する有識者」の会議の委員は3年任期で、年に1・2度開催して、栄典の在り方を大所高所からの意見を内閣総理大臣に届けるらしい。その委員たちは、大学教授だったり、会社の社長だったり、他の審議会にも掛け持ちのような「常連」が多い。中には、元内閣官房副長官杉田和弘の名もあった。

 以下、直近の受章者数、その中の紫綬褒章受章者、女性の割合を示し、選考過程の流れを図解してみた。

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 その点、少なくとも民間の、雑誌社やいろんな団体から、歌人に与えらる賞は、選者や選考委員が明確ではある。その先のことは知らないが。

 私は、かねてより、あたらしい憲法のもとでは、国家による勲章や褒章の制度を批判してきたし、結論的には不要と思っている。というより、法の下の平等に反するし、差別――人間のランキングを助長する害悪とも思っている。さらに、選考過程をみると、役人サイドで、綿密に審査がなされているらしいことがわかる。役人たちが、この人なら、「ハメ」を外さない、「安心安全な歌人」として、褒賞されるとみてよい。岸田内閣のような、閣僚、政務官選びの杜撰さとはわけが違うようなのだ。

 

 

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2023年6月30日 (金)

 梅雨空の下諏訪~今井邦子という歌人

  国家公務員共済の宿「諏訪湖荘」のビーナスラインの観光バスと北八ヶ岳ロープウェイを乗り継ぎ、坪庭一周という企画を楽しみにしていたが、あいにくの霧と雨に見舞われた。足に自信がなかったので、私は坪庭はあきらめ、ロープウェイ山頂駅のやたらと広い無料休憩所で、お弁当を一足先に失礼し、スケッチをしてると、40分ほどで一行は戻ってきた。足元がかなり悪かったらしい。観光バスの窓は拭ってもぬぐってもすぐ曇り、百人乗りも可というロープウェイの窓は、往復とも雨滴が流れるほどで、眺望どころではなかった。

 とはいうものの、前日は、夫とともに、下諏訪の今井邦子文学館とハーモ美術館を訪ねることができたし、翌日は雨もやみ、原田泰治美術館に寄り、館内のカフェでのゆったりとランチを楽しむこともできた。鈍色の湖面には水鳥が遊び、対岸の岡谷の町は遠く霞んでいた。諏訪湖一周は16キロあるとのこと、再訪が叶えば、内回り、外回りの路線バスを利用して美術館巡りをしてみたいとも。

 今井邦子文学館は、ところどころ、宿場町の面影を残す中山道沿いの茶屋「松屋」の二階であった。邦子(1890~1948)は、幼少時よりこの家の祖父母に育てられ、『女子文壇』の投稿などを経て、文学を志し、上京し、暮らしが苦しい中、ともかく『中央新聞』社の記者となったが、1911年、同僚の今井健彦(1883~1966。衆議院議員1924~1946年、後公職追放)と結婚、出産、16年に「アララギ」入会、同郷の島木赤彦に師事、短歌をはじめ創作に励むも、自らの病、育児、夫との関係にも苦しみ、一時「一灯園」に拠ったこともあった。困難な時代に女性の自立を目指し、1936年、「アララギ」を離れ、女性だけの短歌結社「明日香」社を創立、1943年には、『朝日新聞』短歌欄の選者を務める。戦時下は、萬葉集『主婦の友』と発行部数を競った『婦人倶楽部』の短歌欄選者をローテーションで務めいる。1944年、親交のあった神近市子の紹介による都下の鶴川村への疎開を経て、1945年4月には、下諏訪の家に疎開したが、1948年7月、心臓麻痺により急逝している。58歳だった。 

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  今井邦子への関心は、かつて『扉を開く女たち―ジェンダーからみた短歌史 1945ー1953』(阿木津英・小林とし子・内野光子著 砂小屋書房 2001年9月)をまとめる過程で、敗戦前後の女性歌人の雑誌執筆頻度を調べた頃に始まる。20年以上前のことだったので検索の手段はアナグロの時代であって、決して網羅的ではないが、今井邦子の登場頻度が高かったことを思い出す。最近では、邦子が、つぎのような歌を『婦選』創刊号(1927年1月)に山田邦子の名で寄せていることを知って、紹介したことがある(『女性展望』市川房枝記念会女性と政治センター編刊 2023年1・2月号)。

・をみな子の生命(いのち)の道にかゝはりある國の會(つど)ひにまいらんものを

 1924年5月の総選挙で、夫、今井健彦が千葉県二区から衆議院議員に当選している。18歳歳以上の男女に選挙権をという普選運動は、1925年3月が普通選挙法が成立、1928年3月の総選挙で初めて実施されたのだが、婦人参政権獲得運動の願いもむなしく、女性は取り残されたまま、そんな中で、久布白落実、市川房枝らによって創刊されたのが『婦選』であった。邦子が寄せた歌にもその口惜しさがにじみ出ているのだった。

  今井邦子文学館は1995年、松屋跡地に復元再建して開館、二階が展示室になっているだけだった。展示目録もなかったようだし、当方のわずかな写真とメモだけで語るのはもどかしい。それでも、斎藤茂吉や島木赤彦からの直筆の手紙、邦子から茂吉のへ手紙など、活字に起こされていて、生々しい一面も伺われて興味深かった。

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展示室の冒頭、詩などを投稿していた『女子文壇』と姉との写真が目を引いた。転任の多かった父の仕事の関係で、邦子は、姉はな子とともに、祖父母に預けられ、育てられ、両親との確執は続く。その姉との絆は強かったが、若くして死別する。

 1911年の結婚、翌年の長女出産を経てまとめた歌文集『姿見日記』(1912年)には相聞歌も見られるが、出産を機に、つぎのような歌が第一歌集『片々』(1915年)には溢れだすのである。

・月光を素肌にあびつ蒼く白く湯気あげつゝも我人を思ひぬ『姿見日記』
・暗き家淋しき母を持てる児がかぶりし青き夏帽子は」『片々』 
・物言はで十日すぎける此男女(ふたり)けものゝ如く荒みはてける
・入日入日まつ赤な入日何か言へ一言言ひて落ちもゆけかし

 1916年アララギ入会、島木赤彦に師事、1917年長男妊娠中にリューマチを患い、治療はかどらず、以降足が不自由な身となる。1924年夫の政界進出、1926年島木赤彦の死をへて1931年に出版した『紫草』では、赤彦の影響は色濃く、作風の変化がみてとれる。「あとがき」によれば「大正五年から昭和三年(1916~1928年)まで」の3000余首から781首を収めた歌集だった。私にとって、気になる歌は数えきれないほどであったが・・・。子供、夫との関係がより鮮明に表れ、思い煩い、嘆き、心が晴れることがなく、一種の諦観へとなだれていくようにも読める。身近に自分を支えてくれた人たち、その別れにも直面する時期に重なる。以下『紫草』より。

・眠りたる労働者の前をいく群の人汗を垂り行きにけるかも(砲兵工廠前)(「しぶき」大正五年)
・青草の土手の下なる四谷駅夜ふけの露に甃石(いし)は濡れ見ゆ(「夜更け」大正六年)
・病身のわれが為めとて蓬風呂焚き給ふ姉は烟にむせつ(「帰郷雑詠」大正六年)
・三年(みととせ)ぶり杖つかず来て程近き郵便箱に手紙入れけり(「荒土」大正八年)
・もの書かむ幾日のおもひつまりたる心は苦し居ねむりつつ(「さつき」大正九年)
・争ひとなりたる言葉思ひかへしくりかへし吾が嘆く夜ふけぬ(「なげき」大正十年)
・つくづくとたけのびし子等やうつし世におのれの事はあきらめてをり(「梅雨のころ」大正十二年)
・土の上にはじめてい寝てあやしかも人間性来の安らけさあり(「関東震災」大正十二年)
・夫に恋ひ慕ひかしづく古り妻の君が心の常あたらしき(「喜志子様に」大正十三年)
・真木ふかき谿よりいづる山水の常あたらしき命(いのち)あらしめ(「山水」大正十四年)
・うつし世に大き命をとげましてなほ成就(とげ)まさむ深きみこころ(「赤彦先生」大正十五年)
・みからだをとりかこみ居るもろ人に加はれる身のかしこさ(「赤彦先生」大正十五年)
・嘆きゐて月日はすぎぬかにかくに耐ふる心に吾はなりなむ(「梅雨くさ」昭和二年)  
・姉上の野辺のおくりにふみしだく山草にまじる空穂の花は(「片羽集二」)
・ありなれて優しき仕へせざりしをかへりみる頃と日はたちにけり(夫に)(「萩花」昭和三年)

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展示会で見た時は、気が付かなかったが、よく見ると謹呈先が「山田邦子様」となっているではないか。今井邦子が旧姓にちなむ、かつてのペンネームであった「山田邦子」あてなのである。かつての自分への「ごほうび」?「おつかれさま」?なのか、ユーモアなのか。

 1935年にはアララギを離れ、翌年には『明日香』(1936年5月~2016年12月)創刊し、みずからも萬葉集などの古典を学び、後進の指導にもあたる。女性歌人の第一人者として、歌壇ばかりでなく、一般メディアへの登場も著しい。その一例として、つぎの調査結果を見てみたい。戦時下の内閣情報局による『最近に於ける婦人執筆者に関する調査』(1941年7月)という部外秘の資料からは、当時の八つの婦人雑誌への女性歌人の執筆頻度がわかる。期間は1940年5月号から1941年4月号までの一年間の執筆件数ではあるが、今井邦子は、他を引きはなし、婦女界5、婦人公論2,婦人朝日2、婦人画報1、新女苑1で計11件、五島美代子4件、茅野雅子3件、柳原白蓮3件であった。さらに2件以下として四賀光子、杉浦翠子、中河幹子、築地藤子、北見志保子、若山喜志子が続いている。いわゆる、当時は「名流夫人」として、名をはせた歌人たちであった。今井健彦、五島茂、茅野蕭々、宮崎龍介夫人であったのである。

 また、短歌雑誌ではどうだろうか。かつて、敗戦前後の女性歌人たちの執筆頻度を調べたことがある(前掲『扉を開く女たち』)今回、若干手直ししてみると、次のようになった。もし、邦子が敗戦後も活動できていたら、どんな歌を残していたか、どんなメッセージを発信していたのか、興味深いところである。

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上記の表から、今井邦子と四賀光子は、敗戦を挟んで激減し、阿部静枝と杉浦翠子は、増加している。生方、水町、中河は変わりなく、一番若かった斎藤史は倍増していることがわかる。

 なお、1942年11月、日本文学報国会の選定、内閣情報局によって発表された「愛国百人一首」について、「一つ残念な事があります」として、声を上げていたのである(「婦人と愛国百人一首」『日本短歌』1944年1月)。選定された百首のうち女性歌人の作が「わづか四人であるといふ、驚くべき結果を示されて居ります。現在の短歌の流行を考へ合わせると、そこにもだし難き不思議ななりゆきを感ずる訳であります」と訴えている。小倉百人一首には女性歌人が二十人選定されている一方、昭和の時代の選定に四人だけということを「長い長い歴史に於て真面目に婦人として考へて見なければならぬ事ではありますまいか」と婦人の無気力を反省しながらも、それはそれとして「女の心は女こそ知る、女も一人でも二人でもその片はしなりと相談にあづかるべきではなかつたらうかと、今も口惜く思ふ次第であります」と、12人の選定委員に女性がひとりもいなかったことにも抗議していた。「愛国百人一首」が国民にどれほど浸透していたかは疑問ながら、こうした発言すら、当時としてはかなりの勇気を要したのではなかったかという点で、注目したのだった。

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戦時下、雑誌統合により休刊となった『明日香』は、1945年10月には、謄写版が出され、その熱意が伝わってくる。1946年2月、邦子の下諏訪の家を発行所として復刊号が出されている。扉の一首「雨やみし故郷の家に居て見れば街道が白くかはきて通る」。

 また、『明日香』は、邦子の没後、姉の娘岩波香代子、川合千鶴子らによって続けられたが、2016年終刊に至る。

 

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2023年2月 3日 (金)

「短歌ブーム」というけれど

 『ポトナム』1月号に寄稿した「短歌時評」です。『短歌往来』「今月の視点」一部重なりますが、「短歌ブーム」と言われているけれど、これでいいのだろうかと、少し考え込んでいるところです。

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「歌壇」というものがあるとしても、私には、遠い存在でしかない。未練がましく短歌総合誌を二誌ほど購読し、短歌との付き合いは長いので、新聞の投稿歌壇や短歌時評などには、自然に目が向く。そして、ときどき、テレビの短歌番組を覗いてみたりする。いま、一種の「短歌ブーム」のさなかにいるらしいことがわかる。昨年は『文学界』が五月号で「幻想の短歌」を、『短歌研究』八月号ではズバリ「短歌ブーム」の特集が組まれていた。そして、数年前には、『ユリイカ』(二〇一六年八月)の「あたらしい短歌、ここにあります」の特集が話題となったこともある。 最近のブームについての情報やその実態もわかりにくいが、意外にも若い世代の人たちがブームを支え、短歌メディアもここぞと盛り上げようとしているのが見えてくる。

NHKも短歌番組に力を入れているが、テレビでは、私など、名前も知らない若いタレントをゲストに、四週で一回りする四人の選者と司会者が何やらゲームのようなコーナーで作歌を競わせたりする。若い選者の中で奮闘する栗木京子の週でも、芸人やタレントの短歌を一刀両断、プレバトの俳人夏井いつきを目指しているのか、どこか無理をしているようにも見えて、騒々しい番組になってしまった。毎年実施されるNHK全国短歌大会も、テレビを見る限り、ものものしく、近年は、「歌会始」の応募歌数が一万四〇〇〇首台であるのに比べると、この大会の方が上回っている。選者の数の多さと多様さがその一因と思われる。ジュニア部門として、切り分けているところが新聞歌壇にない特徴と言えようか。

 また、昨年、一一月三日、NHKの「第一二回牧水・短歌甲子園(宮崎県日向市主催)~三十一文字にかけた青春」をたまたま見たのだが、選者の紅白の旗の上げ下ろしで勝負が決まっていく様子をスポーツ実況さながらに報じていたのである。もっと淡々と高校生の短歌を伝えて欲しいと思った。と同時に、短歌ってこんな風に競うものだったのか、とあらためて思う。

 NHKは、ラジオでも、短歌に力を入れている。昨年の七月から九月、今野寿美による「危機の時代の歌ごころ」が放送されていた。そのテキストを読むかぎり、人選や歴史認識に違和感もあったが、戦争や災害、ハンセン病やコロナ禍、差別と闘ってきた多くの女性歌人、与謝野晶子から川野芽生までの作品を中心とするミニ短歌史ともいえる内容であった。また『ラジオ深夜便』一一月号によれば、月一回で、穂村弘による「ほむほむのふむふむ」、佐佐木幸綱による「おとなの教養講座~初めての万葉集」、「新・介護百人一首」の欄もあり、リスナーの世代的な配慮も欠かさないようである。

 敗戦直後、一九四六年一二月、『八雲』が創刊された折、久保田正文は、その「編集後記」において、「第二芸術論」を念頭に置いてのことと思うが、つぎのようにいう。「短歌が真に文学の一環としての生命を自覚し、芸術にきびしい途に繋がり得るか否か」に応えるには、その一つとして、「読者吸収策」の「短歌投稿欄」を設けないとも宣言していた。読者獲得のための営業政策には加担しないジャーナルを目指したのである。「読者歌壇」を持たない短歌総合誌が、現在も、たしかに、健在であることは知られている。

販売部数や視聴率は、送り手にとって大事にはちがいない。その ためにも、雑誌・番組の中身の編集・編成の工夫と執筆者・出演者の文学的資質によって、受け手のリテラシーも向上するという好循環を期待したいのである。(『ポトナム』2023年1月)

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2022年8月26日 (金)

『論潮』15号に寄稿しました~GHQの検閲下の短歌雑誌に見る<天皇><天皇制>

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 一昨年、岡村知子さんから『杉原一司歌集』を送っていただいたご縁で、日本近代文学の女性研究者を支援する同人誌『論潮』を知った。八月発行の15号に、お誘いいただき、ゲストとして、かなり長文の拙稿を掲載していただいた。これまで、雑誌やブログに断片的に書いてきたものだが、何とか、まとめることができたのは、ありがたいことだった。

<内容>
研究ノート・GHQの検閲下の短歌雑誌に見る<天皇><天皇制>90~128頁

はじめに
一 『短歌研究』一九四五年九月号に見る敗戦
二 天皇の「声」はどう詠まれたか
三 検閲下の「第二芸術論」
四 『アララギ』一九四七年一月号に見る「天皇」と「天皇制」
五 『八雲』登場
六 語りたがらない歌人たち
  内務省の検閲とGHQの検閲
  歌人はGHQの検閲をどう受け止めていたのか
  語り出す歌人たち

<関連拙著>
・「占領期における言論統制――歌人は検閲をいかに受けとめたか」

・『ポトナム』19739月、『短歌と天皇制』風媒社198810月、所収。

・「被占領下における短歌の検閲」『短歌往来』18873月、『現代短歌と天皇制』風媒社 20012月、所収

・元号が変わるというけれど、―73年の意味()~(9)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(1)~(5
  2018年107日~115

https://app.cocolog-nifty.com/cms/blogs/190233/entries/90067631

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/10/7352-e1cf.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/10/736-7809.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/10/73-4720.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/11/735-edf2.html

・「占領軍による検閲の痕跡」『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』 一葉社 2019年1月

・『プレス・コードの影』(中根誠著)書評「警鐘の書」『歌壇』20217

・『プレス・コードの影』(中根誠著)書評「表現の自由とは」『うた新聞』20218

 

 

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2022年6月26日 (日)

忘れてはいけない、覚えているうちに(1)「戦後短歌史とジェンダーを研究する会」の最後の会計係

 あまり好きな言葉ではないが、「断捨離」のさなか、身辺整理を始めてはいるが、なかなか片付かない。この間は、台所の食器類を整理した。まるで使ってないワイングラスのセットやコーヒーカップ、菓子皿や茶たくなどを取り出してみた。近くの散歩コースにある高齢者施設には、いきなり声をかけさせてもらった。若い施設長がやって来て、「ほんとに欲しいものだけでいいんですか」「これはお客さん用に」「花びんはありがたいです。季節の花は、皆さんよろこばれますから」と段ボール一杯ほどだが引き取ってくださった。雑誌や本、ノート、コピーした資料、手紙などになるとそう簡単にはいかない。

 古いファイルの一つを開いてみると、「戦後短歌史とジェンダーを研究会 会計ノート」と会場借用料の領収書が出てきた。記帳によると、2002年11月30日から2009年11月20日までで、残高2805円とあり、現金が入った封筒が挟まれていた。ノートによれば、私が、2009年6月から会計係を務めていたらしい。

 この会のあらましは、『扉を開いた女たち―ジェンダーからみた短歌史』(砂小屋書房 2002年3月)の「あとがき」にも記しているが、1995年秋、阿木津英の呼びかけで、1996年1月、銀座の「滝沢」で8名の女性歌人によって立ち上げられた。当初は、ほぼ2カ月おきに、戦後の短歌雑誌を、ひとまず1953年まで読み込んでみようということで、交代のレポートをもとに検証を進めた。そして、その成果は、最後まで残った阿木津、小林とし子と私の3人の共著『扉を開いた女たち』となった。この書は、東京女性財団の出版助成100万円を受けたことも忘れ難い。当時の石原都知事は、2001年度をもって、この事業を廃止してしまったのである。

 その出版を受けて、あたらしいメンバーで、再スタートした痕跡が、上記ノートに残されていた。2002年11月、銀座ルノアールで、上記の阿木津、小林、内野に、森山晴美、藤木直実、佐竹游が参加、その後は、空室を求めて中央区の区民館―銀座、人形町、新場、久松町、堀留町、京橋・・・と転々とした。途中、浜田美枝子も参加したが、去るメンバーもあって、2010年9月7日、銀座ルノアールの会で、研究会は中止となった。その成果を会として、まとめられなかったのは残念な思いもするが、その後は、各自が、ここに挙げるまでもなく、自らの研究成果や歌集を出版され、活躍されているのは、かつての、あの熱量を懐かしむとともに、心強くも思う昨今である。

 残高は、私がいつも古切手をお送りしている、かにた婦人の村「かにた後援会」(千葉県館山市大賀594)にカンパさせてもらうつもりなのだが、それでよろしいものか。

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先日、シルバーサービスのK
さんたち二人にお願いして、ドクダミほかの草引きをしていただいた。二年半ぶりなので、今度は早めにと言われてしまった。7月初めには、庭木の剪定もお願いしているが、スケジュールが込んでいるそうだ。写真左、数年前、移植したあじさいも今年は咲いてくれそう。

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2021年7月15日 (木)

代替わりに見る天皇の短歌と歌人たち―平成期を中心に(2)平成期における明仁天皇・皇后の短歌の果たした役割

 天皇夫妻の短歌と国民とのパイプ役をなすとされる歌会始はじめ、新聞・テレビなどへの登場、夫妻の歌集・鑑賞の書物の出版などが盛んになり、皇室行事、被災地訪問、慰霊の旅などを通して短歌の登場頻度が高くなり、歌碑などの形での接点も多くなった。 

<天皇・皇后の短歌と国民との接点>
a 1月1日の新聞:1年を振り返っての短歌、天皇(5首)、皇后(3首)の公表(天皇家の写真とのセットで)
b 1月中旬の歌会始:天皇・皇后はじめ皇族、選者、召人、入選者10人の歌とともに披講。NHKテレビの中継/当日の新聞夕刊と翌日の朝刊での発表/宮内庁HPでの登載
c 歌会始の詠進(応募)の勧め、入門書・鑑賞書などへ収録、出版
d 天皇の歌集、皇后との合同歌集での出版および鑑賞書の出版など
e 在位〇年、死去、代替わりの節目の図書の出版、新聞・雑誌など記事、特集、展示など
f 歌碑など

 平成期の天皇夫妻の短歌の特色として以下の三点があげられる。まず、短歌一覧をご覧ください。

資料 明仁天皇・美智子皇后の短歌一覧 

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1)平和祈念・慰霊のメッセージ

 「平和祈念・慰霊」のための短歌を多く詠んでいるが、その一部⑮~㉔を資料に収めた。 天皇の短歌は、おおらかで、大局的、儀礼的だが、皇后の短歌は、人間や自然観察が細やかで、情緒的であると言われている。天皇の短歌には、明治天皇や昭和天皇の作かと思われるような⑮⑯のような短歌もある。

⑮ 波立たぬ世を願ひつつ新しき年の始めを迎へ祝はむ(天皇)(1994年 歌会始 「波」)
 国のため尽くさむとして戦ひに傷つきし人のうへを忘れず(天皇)(1998年 日本傷痍軍人会創立四十五周年にあたり)

 慰霊の旅で詠まれた、夫妻の短歌を見てみよう。

 精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき(天皇)(1994 硫黄島)(終戦50年)
 慰霊地は今安らかに 水をたたふ如何ばかり 君ら水を欲りけむ(皇后)(1994 硫黄島)

 ⑱について、大岡信は、「立場上の儀礼的な歌ではない。・・・気品のある詠風だが、抑制された端正な歌から、情愛深く、また哀愁にうるおう歌の数々まで、往古の宮廷女流の誰彼を思わせる(「折々のうた」(『朝日新聞』1997年7月23日)と記す。
 原爆のまがを患ふ人々の五十年の日々いかにありけむ(天皇)(1995年 原子爆弾投下されてより五十年経ちて)
 被爆五十年 広島の地に静かにも雨降り注ぐ雨の香のして(皇后)(1995年 広島)
     20191022090349ab0      

      2005年、サイパン、バンザイクリフにて

㉑ サイパンに戦ひし人 その様を浜辺に伏して我らに語りき(天皇)(2005年 サイパン島訪問)
㉒ いまはとて 島果ての崖踏みけりし をみなの足裏思へばかなし(皇后)(2005年 サイパン島)

 ㉒は、歌人たちの間でも評判になった歌で、たとえば、歌会始の選者である永田さんは、つぎのように話す。「日本女性が崖から飛び降りた景を思い出して、詠まれたものと思われます。崖を踏み蹴って、海へ身を投げた女性の「足裏」を思っておられるところに、繊細な感性を感じとることができます。悲しく、しみじみと身に沁みる歌であります。このような国内外の慰霊の旅が、平和を希求される両陛下の強い思いから出ていることは言うまでもありません。平成という時代は、近代日本の歴史のなかで、唯一戦争のなかった幸せな時代でした。その大切さを誰よりも強く感じて来られたのが両陛下であったのかもしれません。」(「両陛下の歌に見る『象徴』の意味」『視点・論点』2019年03月06日 NHK放送)

 また、皇后の次のような短歌には、海外の戦争や内乱における加害・被害の認識について、やや屈折した思いを詠んだものある。

㉓ 慰霊碑は白夜に立てり君が花 抗議者の花 ともに置かれて(皇后)(2000年 オランダ訪問の折りに)
㉔ 知らずしてわれも撃ちしや春闌くるバーミアンの野にみ仏在(ま)さず(皇后)(2001年 野)

 ㉔について、安野光雅さんは「文化の違うところに立つ自分自身をかえりみて、何もできなかった自分もまた、「知らずして」「(相対的に)弾を撃つ立場にいたのではないか、かなしまれるおもいは、痛切である」(『皇后美智子さまのうた』朝日文庫 2016年10月)とやさしいスケッチとともに語っている。

 こうして、天皇夫妻が発するメッセージは、国民にどう届いているのか。少なくとも、ジャーナリストや史家、歌人たちの鑑賞や解説では、一様にというか、判で押したように「国民に寄り添い、平和を願い、護憲を貫く」メッセージとして、高く評価されています。さらに、2015年、戦後七〇年の「安倍談話」と8月15日全国戦没者追悼式における天皇の「おことば」とを比較し、天皇の言葉には「反省」の思いがあり、当時の安倍政権への抵抗さえ感じさせるという声も少なくなかった。
 このようにして、平和や慰霊をテーマにした短歌に限らず、災害や福祉、環境などをテーマにした短歌を詠み続け、国民に発信することによって、ときどきの政治・経済政策の欠陥を厚く補完し、国民の視点をそらす役割すら担ってしまう事実を無視できないと思っている。 

2)沖縄へのこだわり  

 昭和天皇の負の遺産―本土決戦の防波堤として沖縄地上戦の強行、米軍による占領・基地化の長期・固定化という「後ろめたさ」を挽回するために、11回の訪問、おことば、短歌による慰霊・慰撫のみが続けられた。天皇は、5・7・5・7・7の短歌ではなく、8・8・8・6という沖縄に伝わる「琉歌」まで作っている。上記、短歌一覧の㉕から㊾までご覧ください。天皇夫妻の個人的な思いはともかく、日本政府のアメリカ追従策に対して、何の解決にも寄与していなかった。 

資料 明仁天皇・美智子皇后沖縄訪問一覧(ダウンロード済↓)e5b9b3e68890e5a4a9e79a87e383bbe7be8ee699bae5ad90e79a87e5908ee6b296e7b884e8a8aae5958fe4b880e8a6a7.pdf

  <明仁天皇・美智子皇后の沖縄を詠んだ短歌> ㉕~㊾  *琉歌
㉕いつの日か訪ひませといふ島の子ら文はニライの海を越え来し
(美智子皇太子妃)(1971年 島)
㉖黒潮の低きとよみに新世の島なりと告ぐ霧笛鳴りしと(皇太子妃)(1972年 五月十五日沖縄復帰す)
㉗雨激しくそそぐ摩文仁の岡の辺に傷つきしものあまりに多く(皇太子妃)(1972年 五月十五日沖縄復帰す)
㉘この夜半を子らの眠りも運びつつデイゴ咲きつぐ島還り来ぬ(皇太子妃)(1972年 五月十五日沖縄復帰す)
㉙戦ひに幾多の命を奪ひたる井戸への道に木木生ひ茂る(明仁皇太子)(1975年 沖縄県摩文仁)
㉚ふさ(フサケユル)かいゆる木(キ)草(クサ)めぐる(ミグル)戦跡(イクサアト)くり返し返し(クリカイシガイシ)思(ウムイ)ひかけて(カキテイ)*(皇太子)(1975年 沖縄県摩文仁)
㉛今帰仁(ナキジン)の(ヌ)城門(グスイジョオ)の(ヌ)内(ウチ) 入れば(イレバ)、咲き(サチ)やる(ヤル)桜花(サクラバナ)紅(ビンニ)に染めて(スミテイ) 
(皇太子)(1975年 今帰仁城跡)

㉜みそとせの歴史流れたり摩文仁(まぶに)の坂平らけき世に思ふ命たふとし(皇太子)(1976年 歌会始「坂」)
㉝いたみつつなほ優しくも人ら住むゆうな咲く島の坂のぼりゆく(皇太子妃)(1976年 歌会始「坂」)
㉞広がゆる畑 立ちゅる城山 肝ぬ忍ばらぬ世ぬ事 *(皇太子)(1976年 伊江島の琉歌歌碑)
㉟四年にもはや近づきぬ今帰仁(なきじん)のあかき桜の花を見しより(皇太子)(1980年 歌会始「桜」)
㊱種々(くさぐさ)の生命(いのち)いのち守り来し西表(いりおもて)の島は緑に満ちて立ちたり(皇太子)(1984年 歌会始「緑」)
㊲激しかりし戦場(いくさば)の跡眺むれば平けき海その果てに見ゆ(天皇)(1993年 沖縄平和祈念堂前)
㊳弥勒(ミルク)世(ユ)よ(ユ)願(ニガ)て(ティ)揃(スリ)りたる(タル)人(フィトゥ)た(タ)と(トゥ)戦場(イクサバ)の跡(アトゥ)に(ニ)松(マトゥ)よ(ユ)植(ウイ)ゑたん(タン) (天皇)(1993年 沖縄県植樹祭)
㊴波なぎしこの平らぎの礎と君らしづもる若夏(うりずん)の島(皇后)(1994年 歌会始「波」)
㊵沖縄のいくさに失せし人の名をあまねく刻み碑は並み立てり(天皇)(1995年 平和の礎)
㊶クファデーサーの苗木添ひ立つ幾千の礎(いしじ)は重く死者の名を負ふ(皇后)(1995年 礎)
㊷疎開児の命いだきて沈みたる船深海に見出だされにけり(天皇)(1997年 対馬丸見出さる)
㊸時じくのゆうなの蕾活けられて南静園の昼の穏しさ(皇后)(2004年 南静園に入所者を訪ふ)
㊹弾を避けあだんの陰にかくれしとふ戦(いくさ)の日々思ひ島の道行く(天皇)(2012年 元旦発表、沖縄県訪問)
㊺工場の門の柱も対をなすシーサーを置きてここは沖縄(ウチナー)(皇后)(旅先にて)
㊻万座毛に昔をしのび巡り行けば彼方(あがた)恩納岳さやに立ちたり(天皇)(2013年 歌会始「立」)

㊼我もまた近き齢にありしかば沁みてかなしく対馬丸思ふ(皇后)(2014年 学童疎開船対馬丸)
㊽あまたなる人ら集ひてちやうちんを共にふりあふ沖縄の夜(天皇)(2018年 沖縄県訪問)
㊾与那国の旅し恋ほしも果ての地に巨きかじきも野馬も見たる
(皇后)(2018年 与那国島)

 3)美智子皇后の短歌の突出していたこと

  それでは、平成期に入って、天皇・皇后の短歌は、マス・メディアにどう扱われたかを見ていきたい。下記の文献一覧によれば、美智子皇后の短歌に特化した記事や図書が多数あり、昭和天皇への関心が維持されていることもわかる。美智子皇后には、皇太子妃時代の皇太子との合同歌集『ともしび』(1986)、単独歌集『瀬音』(1997)、NHK出版からの、在位10年、20年、30年記念の3回『道』には、天皇の歌とともに皇后の歌が収録されているが、ほかにも様々な執筆者により、美智子皇后の短歌の解説書や鑑賞の書が出版されていることがわかる。皇后の短歌は、観察・表現の繊細さに加えて、メデイア・世論への目配りが功を奏し、保守層からも、リベラル派からの支持を得、国民への影響力も大きいと言えよう。もっとも、明治天皇の昭憲皇太后、大正天皇の貞明皇后も、賢い皇后として、その足跡、短歌が残されているが、旧憲法下では限界があり、美智子皇后の積極性にはかなわず、歴代天皇の皇后にはなかった現象であった。

資料 天皇の短歌関係文献一覧(2000 ~)

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 4)「歌会始」と歌人たち、歌壇の反応
 選者の変遷の推移は、御歌所 ⇒民間歌人・女性歌人の登用 ⇒戦中派 ⇒「前衛歌人 ⇒戦後生まれ・人気歌人へとたどり、現代短歌との融合と選者任用が他の国家的褒章制度とのリンクが顕著となってきている。歌会始の選者になることが歌人としての一つのステイタスとなり、国家的褒章制度に組み込まれ、その出発点や通過点となったり、到達点になったりしている構図が見える。例外としての、馬場あき子、佐佐木幸綱さんには事情があるようで・・・。
 

資料 歌会始の推移

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 <歌会始選者たちの国家的褒章の受章歴>

木俣修(1906~1983): 歌会始選者1959 → 紫綬褒章1973 → 芸術選奨文部大臣賞1974→ 日本芸術院賞恩賜賞1983
岡野弘彦(1924~): 歌会始選者・芸術選奨文科大臣賞1979 → 御用掛1983~2007→ 

紫綬褒章1988 → 芸術院賞・芸術院会員・勲三等瑞宝章1998 → 文化功労者2013
岡井隆(1928~2020: 歌会始選者1993 → 紫綬褒章1996 → 御用掛2007~2018→

 芸術院会員2009 →  文化功労者2016 → 旭日中綬章追贈2020死去
篠弘(1933 ~):紫綬褒章1999 → 旭日小綬賞2005 → 歌会始選者2006 →御用掛2018~
三枝昂之(1944~):芸術選奨文科大臣賞2006 → 歌会始選者2008 →紫綬褒章2011
永田和宏(1947~):歌会始選者2004 → 紫綬褒章2009 →瑞宝中綬章2019 →?

 (参考)
栗木京子(1954~):芸術選奨文科大臣賞2007 → 紫綬褒章2014 → 歌会始召人控2020 →?
 現代歌人協会理事長(女性初)2019
馬場あき子(1928~):紫綬褒章1994 →芸術院賞2002 →芸術院会員2003 →文化功労者2019
佐佐木幸綱(1938~):芸術選奨文部大臣賞2000 → 紫綬褒章2002 → 芸術院会員2008

 5)明仁天皇の生前退位時前後の天皇制の行方~リベラル派、護憲派の天皇制への傾斜

リベラルな人たちの天皇制への傾斜、たとえば・・・・

矢部宏治(1960~):「初回訪問時の約束通り、長い年月をかけて心を寄せ続けた沖縄は、象徴天皇という時代の「天皇のかたち」を探し求める明仁天皇の原点となっていったのです」(『戦争をしない国―明仁天皇メッセージ』小学館 2015年)。著書に『日本は、なぜ基地や原発を止められないのか』(集英社インターナショナル 2014年)。
金子兜太(1919年~2018年):俳人。 金子兜太選「老陛下平和を願い幾旅路」(伊藤貴代美 七四才 東京都)選評、「天皇ご夫妻には頭が下がる。戦争責任を御身をもって償おうとして、南方の激戦地への訪問を繰り返しておられる。好戦派、恥を知れ」(「平和の俳句」『東京新聞』2016年4月29日)。「アベ政治を許さない」のプラカード揮毫者。
金子勝(1952~):マルクス経済学者。「【沖縄に寄り添う】天皇陛下は記者会見で、沖縄のくだりで声を震わせて「沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました」「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」と語る。アベは聞いているのか?」(2018年12月23日ツイート✔ @masaru_kaneko)。
白井聡(1977~):「今上天皇はお言葉の中でも強調していたように、「象徴としての役割」を果たすことに全力を尽くしてきたと思います。ここで言う象徴とは、「国民統合の象徴」を意味します。天皇は何度も沖縄を訪問していますが、それは沖縄が国民統合が最も脆弱化している場所であり、永続敗戦レジームによる国民統合の矛盾を押しつけられた場所だからでしょう。天皇はこうした状況全般に対する強い危機感を抱き、この危機を乗り越えるべく闘ってきた。そうした姿に共感と敬意を私は覚えます。天皇が人間として立派なことをやり、考え抜かれた言葉を投げ掛けた。1人の人間がこれだけ頑張っているのに、誰もそれに応えないというのではあまりにも気の毒です。」という主旨のことを述べています。(「天皇のお言葉に秘められた<烈しさ>を読む 東洋経済新報オンライン 2018年8月2日、国分功一郎との対談)。『永続敗戦論―戦後日本の核心』(太田出版 2013年)の著者。
内田樹(1950~):「天皇の第一義的な役割が祖霊の祭祀と国民の安寧と幸福を祈願すること、天皇は祈ってさえいればよい、という形でその本義を語りました。これは古代から変りません。陛下はその伝統に則った上でさらに一歩を進め、象徴天皇の本務は死者たちの鎮魂と苦しむ者の慰藉であるという「新解釈」を付け加えられた。これを明言したのは天皇制史上初めてのことです。現代における天皇制の本義をこれほどはっきりと示した言葉はないと思います。(「私の天皇論」『月刊日本』2019年1月)
永田和宏(1947~):歌人、歌会始選者。「戦争の苛烈な記憶から、初めは天皇家に対して複雑な思いを抱いていた沖縄の人々でしたが、両陛下の沖縄への変わらぬ、そして真摯な思いは、沖縄の人々の心を確実に変えていったように思えます。両陛下のご訪問は、いつまでも自分たちの個々の悲劇を忘れないで、それを国民に示してくださる大きなと希望になっているのではないでしょうか」(『宮中歌会始全歌集』東京書籍 2019年)。安保法制の反対、学術会議の会員任命問題でも異議を唱えている。
望月衣塑子(1975~):東京新聞記者。。コロナの時こそ、天皇や皇后のメッセージが欲しいと天皇・皇后へ賛美と期待を示す(作家の島田雅彦との対談、「皇后陛下が立ち上がる時」(『波』新潮社2020年5月)。
落合恵子(1945~):新天皇の大嘗祭での「おことば」を「お二人に願うことは、お言葉で繰り返された平和を、ずっと希求される<象徴>であって」(「両陛下へ」『沖縄タイムズ』2019年11月12日)

 美智子皇后との交流を重ねて語る石牟礼道子、安保法制に反対を表明した憲法学者の長谷部恭男は天皇制は憲法の「番外地」といい、木村草太は天皇の人権の重要性を説く。政治学者の加藤陽子は、半藤たちとご進講を務める。著書『それでも、日本人は『戦争』を選んだ』(朝日出版社 2009年)、半藤・保阪との共著『太平洋戦争への道1931-1941』NHK出版 2021年)
 リベラル、革新政党の天皇制への傾斜と同時に、安保法制反対、学術会議任命問題に異議を表明する歴史家や歌人たちが親天皇制を表明し、天皇夫妻の言動や短歌を高く評価する傾向が顕著になった。中堅、若手の歌人たちも「歌会始」への抵抗感も薄れている。こうした状況の中で、民主主義の根幹である「平等」に相反する天皇制を廃するにはどうしたらよいのか、現在の憲法のもとでできることは何か。
 私としては、天皇制廃止への志は忘れずにいたい。現制度の下で、できること、願うことといえば、天皇夫妻はじめ、皇族たちには、ひそかに、しずかに、質素に暮らしてもらうしかないのではないか。なるべく、国民の前に現れないように、そして、メディアも追いかけることはしないでほしい。天皇たちの人権を言うならば、天皇制が、さまざまな差別や格差の助長の根源であったことを思い返してほしい。一人の人間が、国民の「象徴」であること自体、「統合」であるとする「擬制」自体が、基本的人権に反するのではないか、といった趣旨で、締めくくった。下記のような感想や質問が出された。

・反戦主義者と思っていた半藤一利さんが意外であった。
・まず、男女平等の観点から「皇室典範」で女性天皇を認めるべきではないか。
・日本人には、古くから、短歌という文学形式が深く身についているから、短歌による発信が浸透するのではないか。
・宮中祭祀における、いわゆる「秘儀」に皇后たちは、苦悩したに違いない。その実態が明らかになっていないのが問題ではないか。
・黙っていて、というのは、天皇夫妻にも表現の自由があるのだから、酷ではないか。
・退位後、ネット上の美智子皇后へのバッシングがひどいのは、どうしたわけか。
・落合恵子さんは共和制を主張している人だが、天皇制を支持するとは、信じられないのだが。

  短歌が、国民に根付いた文学形式といっても、文学史上、多くの国民が短歌による発信ができるようになるのは、たかだか、近代以降で、それ以前の「和歌」は、一部の国民の発信ツールに過ぎなかったのではないか。美智子皇后へのネット上のバッシングというのは、私は詳しく知らないが、昭和・平成期にも潜在的にあったし、それを煽るようなメディアもあったと思う。「宮中」に入るからには、美智子皇后、雅子皇后にしても、当然覚悟していたことだと思う。いじめやバッシングは、法的な措置も辞さず、それによって、宮中内の実態も明らかになってゆくだろう。
  また、いわゆるリベラル派による天皇夫妻への敬意や積極的にも思える天皇制維持の発言は、これからも、噴出、拡大していくのではないか。それは、革新政党の、ウイングを広げようとして「寛大さ」や「柔軟性」を掲げ、民主主義の根幹を忘れるという退廃と、その一方での若年層の、天皇や天皇制への無関心が相俟って、この国の進む方向には、不安は募るばかりである。
 質疑も含めて二時間弱、オンラインに慣れない私は、もうぐったりしてしまった。対面での研究会や集会が待たれるのであった。

 

 

 

 

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2021年3月 2日 (火)

「諜報研究会」は初めてかも、占領下の短歌雑誌の検閲、日本人検閲官をめぐって(2)

 山本さんの新著『検察官―発見されたGHQ名簿』(新潮社)は、新聞広告を見て、近くの書店に注文したら、発売は来月ですと言われ、入荷の知らせをもらったまま、取りに行けず、この研究会に参加する羽目になった。今は、手元に置いているので、それを踏まえて、研究会の様子をお伝えしたい。
 
今回の「秘密機関CCDの正体追究―日本人検閲官はどう利用されたか」と題されたレジメの冒頭には、つぎのように記されている。
 「検閲で動員されるのは英語リテラシーのあるインテリであった。彼らは飢餓からのがれるためにCCDに検閲官として雇用され、旧敵国のために自国民の秘密を暴く役割を演じた。発見された彼らのリストと葛藤の事例を紹介しながら、CCDのインテリジェンス工作の実態に迫る。」

 長い間、CCD民間検閲局で、検閲の実務にあたっていた、検閲官の実態は謎のままであった。私も、プランゲ文庫の文書の検閲者の名前が気になっていた。文書には、検閲者の姓名や姓がローマ字で記されていて、多くは日本人とみられる名前だったのである。いったいどういう人たちがどんなところで、検閲にあたっていたのだろうかが疑問ではあった。
 山本さんは、2013年に、国立国会図書館のCCD資料の中から名簿の一部を発見し、以降わかった名簿は、インテリジェンス研究所のデータベースに収められている。CCDの職員はピーク時には8700人にも達し、東京を中心とする東日本地区、大阪を中心とする関西地区、中国九州地区で、おおよそ2万人ちかくの検察官が働いていたと推測している。しかし、その職を担ったのは、当時、まず、英語を得意とする人たちであったことは当然で、日系二世はじめ、日本人の学生からエリートにまで及んだが、その実態は明らかになっていなかった。
 そのような検閲者となった人たちは、敗戦後日本の「民主化」のためとはいえ、GHQによる「検閲」という言論統制に加担したことへの後ろめたさと葛藤があったにちがいなく、口を閉ざし、あえて名乗り出る人たちもなかったなか、時を経て、断片的ながら、さまざまな形で語り始める人たちも出てきた。甲斐弦『GHQ検閲官』(葦書房 1995年)の出版は、検閲の体験者としての貴重な記録となった。そうした検閲者たちの証言を、山本さんは、無名、有名をとわず、丹念に探索し、検閲の実態を解明しているのが、冒頭に紹介した新著であった。例えば、梅崎春生の兄の梅崎光生、ハンセン病者の光岡良二、言語学者の河野六郎、歌人の岡野直七郎、小説家の鮎川哲也、ロシア文学者の工藤幸雄、のちの国会議員の楢崎弥之助、久保田早苗らについて検証する。岡野らのように、実業界、金融業界からも、かなり多くの人たちが動員され、東大、東京女子大、津田塾らの学生らも大量に動員され、その一部の人たちの証言もたどる。
 
今回の山本さんのレポートの前半は、検閲者名簿の「Kinoshita Junji」(以下キノシタ)に着目、あの「夕鶴」で有名な劇作家の木下順二ではないかの仮説のもとに、さまざまな文献や直接間接の証言を収集、分析の結果、キノシタは木下順二との確信を得る過程を、詳しく話された。まるで、ミステリーの謎解きのような感想さえ持った。
 
木下順二(1914~2006)は1939年東大文学部英文学科卒業後、大学院に進み、中野好夫の指導を受けていた。法政大学で時間講師を務めるが、敵性言語の授業は無くなり失業、敗戦後は明治大学で講師を務めていたが、山本安英のぶどうの会との演劇活動も開始している。
 
一方、キノシタは、氏名で検索すると1946年11月4日に登場するが、49年9月26日付で病気を理由に退職している。この間、ハガキや手紙郵便物の検閲を行う通信部の監督官を務め、1948年にCCD内部で実施した2回の英語の試験で好成績をおさめている。かつて未来社の編集者として、多くの木下順二の著作出版にかかわった松本昌次(1927~2019)の証言や養女木下とみ子の証言で、確信を得たという。
 
山本さんは、新著の中で、木下順二が英語力に秀でていたこと、敗戦後の演劇活動には資金が必要であったこと、その活動が活発化したころに、CCDを退職していること、木下の著作には、アメリカへの批判が極端に少ないことなども、いわば状況証拠的な事実もあげている。
 
レポートの後半は、郵便物の検閲が実際どのようになされていたか、東京中央郵便局を例に、詳しく話された。いわゆる重要人物のウォッチリストの郵便物のチェックはきびしく、限られた場所で秘密裏に行われていたという。実際どんな場所で検閲が行われたかについてもリストがあり、東京では、中央郵便局のほかに、電信局、電話局、内務省、市政会館、松竹倉庫、東京放送会館などが明らかになっている。大阪でも同様、大阪中央郵便局、電信局、電話局、大阪放送局、朝日新聞社などで行われていた。しかし、大阪に関しては、関係資料がほとんど残されておらず、焼却されたとされている。
 
内務省やNHK、朝日新聞社などが、場所を提供していたばかりでなく、人材や情報なども提供していたと思われるが、年史や社史にも一切、記録されていないことであった。

 以上が私のまとめとはいうものの、大いなる聞き漏らしもあるかもしれない。 
 また、報告後の質疑で、興味深かったのは、『木下順二の世界』の著書もある演劇史研究の井上理恵さんが「木下順二とKinoshita Junjiが同一人物とは信じがたい。木下は、出身からしても困窮していたとは考えにくいし、CCDにつとめていたとされる頃は、演劇活動や翻訳で忙しかったはずだ」と驚きを隠せなかったようで、今後も調べたい、と発言があったことだった。また、立教大学の武田珂代子さんが、占領期の通訳や検察官におけるキリスト教系人脈はあったのか、朝鮮のソウルでのGHQの検閲の実態、検閲官として、朝鮮人がいたのか、などの質問から意見が交わされた。

 私は、あまりにも基本的な疑問で、しそびれてしまったのだが、GHQの検閲の処分理由に「天皇賛美や天皇神格化」があげられる一方で、天皇制維持や象徴天皇制へと落着することとの整合性がいつも気になっており、アメリカの占領統治の便宜だけだったのかについて、司会の加藤哲郎さんにもお聞きしたかったのだが、気後れしてしまった。

 なお、岡野直七郎についてははじめて知ったので、調べてみたいと思った。1945年12月10日採用となっているから、かなり早い採用だったと思われる。

 

 

 

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2021年2月28日 (日)

「諜報研究会」は、初めてかも~占領下の短歌雑誌検閲、日本人検閲官をめぐって(1)

 

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第34回諜報研究会(2021年2月27日(土))
ZOOMを利用してオンラインで開催

報告者:中根 誠(短歌雑誌「まひる野」運営・編集委員)
「GHQの短歌雑誌検閲」
報告者:山本 武利(インテリジェンス研究所理事長、早稲田大学・一橋大学名誉教授)
「秘密機関CCDの正体追究―日本人検閲官はどう利用されたか」  
資料
司会:加藤 哲郎(インテリジェンス研究所理事、一橋大学名誉教授)

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  今回、インテリジェンス研究所から、上のようなテーマでの研究会のお知らせが届いていた。ズームでの開催ということで、なんとなく億劫にしていたが、テーマがテーマだけにと、参加した。これまで、早稲田大学20世紀メデイア研究所の研究会には何度か参加したことはあるが、第34回という「諜報研究会」は、はじめての参加であった。

 中根誠さんの「GHQの短歌雑誌検閲」は、すでに、『プレス・コードの影~GHQの短歌雑誌検閲の実態』(短歌研究社 2020年12月)を頂戴していたので、ぜひと思っていた。
 著書は、メリーランド大学プランゲ文庫所蔵資料をもとに作成した奥泉栄三郎編『占領郡検閲雑誌目録・解題』(雄松堂書店 1982年)により国立国会図書館のマイクロフィルムを利用して、短歌雑誌111誌、331冊を対象とした論考である。GHQの検閲局に提出された短歌雑誌のゲラ刷ないし出版物の検閲過程がわかる文書の復刻と英文の部分の和訳をし、その検閲過程を解明し、解説をしている。検閲官による短歌の英訳、プレス・コードのどれに抵触するのか、その理由やコメント部分も丹念な和訳を試みている。文書は、タイプ刷りもあり、手書き文書もあり、判読が困難な個所も多いので、その作業には、苦労も多かったと思う。本書は短歌雑誌の検閲状況の全容解明への貴重な一書となるだろう。

 研究会での報告は、『短歌長崎』『短歌芸術』を例に、編集者と検察局との間でどういう文書が交わされたかを時系列で追い、出版に至るまでを検証する。国粋主義的な『言霊』を通じては、発行から事後検閲処分の遅れなどにも着目し、事後検閲の目的はどこにあったのかなどにも言及する。また国粋主義的な『不二』と『人民短歌』を例に、どんな理由で「削除」や「不許可」なったのかを量的に分析し、『不二』の違反数が圧倒的に多く、事後検閲に移行するこことがなかったのに比べ、『人民短歌』は、検閲者が一度違反と判断しても、のちに上司が「OK」に変更される例も多いことがわかったという。「レフト」(左翼)より「ライト」(右翼)にはきびしい実態を浮き彫りにする。
 各雑誌自体の編集方針の基準として、レフトとライトの間には、センター、コンサーバティブ、リベラル、ラディカル、といった仕訳がされ、文書には付記されていたことにも驚く。

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 中根さんは、事前検閲から事後検閲への移行の基準など明確に読み取れなかったことや、検閲が厳しい場合とそうでない、かなり杜撰な場合とがあることも指摘されていた。中根さんの報告の後、短歌関係なのでと、突然発言を求められ、驚いてしまったのだが、つぎのような感想しか述べられなかった。
 「一昨年、斉藤史という歌人の評伝を出版、その執筆過程で、気が付いたことなのだが、検閲の対象になった「短歌」ということになると、中央、地方の「短歌雑誌」だけでなく、さまざまなメディア、総合雑誌や文芸誌、婦人雑誌、新聞なども対象にしなければならないのではないか。斎藤史という歌人の周辺におけるGHQの検閲を調べてみると、斎藤史は、父親の歌人斎藤瀏と長野に疎開し、敗戦を迎える。地方の名士ということだろうか、斎藤史は、国鉄労組の長野支部の雑誌『原始林』(48年7月)に短歌7首を寄稿しているが、1首が削除されている。斎藤瀏は、『短歌人』という雑誌で何度か検閲処分を受けているが、宮城刑務所の文芸誌『あをば』(46年9月)に8首が掲載されていて、1首にレ点がついていた。だが、この8首は、『短歌人』(46年4月)からの転載だったので、すでに検閲済みで、1首が削除されての8首だった。二重のチェックを受けていることになるが、『あをば』1首には、「OK」の文字も見えて削除はされなかった。こんなことも起こり得るのかなと。そういうことで、プランゲ文庫の執筆者索引のありがたさや大事なことを痛感した。」
 発言では触れることができなかったのだが、史の作品の次の1首が「ナショナリズム」と「アンチ・デモクラシー」を理由に削除されている。史の『全歌集』には、収録されていない。
・この國の思想いく度變轉せしいづれも外より押されてのちに
 また、斎藤瀏のレ点のついたのはつぎの1首だった。
・皇國小さくなりたり小さけれど澄み徹りたる魂に輝け

 これまでも、私自身、旧著において、以下のようなテーマでGHQの検閲に言及してきたものの、断片的だったので、今回の中根さんの労作には、敬意を表してやまない。
①「占領期における言論統制~歌人は検閲をいかに受けとめたか」『短歌と天皇制』(風媒社 1988年10月)
②「被占領下における短歌の検閲」『現代短歌と天皇制』(風媒社 2001年2月)
③「占領軍による検閲の痕跡」『斎藤史―『朱天』から『うたのゆくへ』への時代』(一葉社 2019年1月)

 ①では、『短歌研究』1945年9月号の一部削除、『日本短歌』1945年9月号の発禁、斎藤茂吉歌集『つゆじも』、斎藤茂吉随筆集『文学直路』、原爆歌集『さんげ』などについて書いている。
 ②では、占領下の検閲についての先行研究に触れながら、検閲の対象、検閲の手続き、検閲を担当した日本人、検閲処分を受けた著者・編集者・出版社の対応について、今後の課題を提示した。とくに、桑原武夫「第二芸術論」が、彼の著作集の編集にあたっては復元することもなく、削除処分後の文章が載り、検閲についての注記もなかったことに象徴されるような潮流にも触れた。
 
③では、発言でも触れたことと、検閲を受けた歌人たちの対応について言及し、『占領期雑誌資料体系・文学編』(岩波書店 2010年)の第Ⅴ巻「短詩型文学」において、齋藤慎爾の解説「検閲に言及することは、自らの戦前、戦中の<戦争責任>の問題も絡んでくる。古傷が疼くことにあえて触れることもあるまい。時代の混乱を幸いとばかりに沈黙を決め込んだというのが実情ではないか」との指摘に共感したのだった。

山本武利先生の報告は次回で。(続く)

 

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