2020年7月13日 (月)

岡井隆死去報道に接して~亡くなると<旗手>になったり、<巨人>や<巨星>になったり・・・

 7月10日、岡井隆が92歳で亡くなった。7月12日の朝刊で知った。いくつかの新聞記事を読んで、やっぱりな、と思う。岡井が1993年、歌会始の選者になったことをどう伝えるかに、私の関心はあった。
 『朝日新聞』は社会面で「岡井隆さん死去 歌人 現代歌壇を牽引」との見出しで伝えた。同日の「天声人語」にも登場した。そこでは、「破格、破調の堂々たる生き方であった」と締めくくっていた。社会面の記事では「92~2014年に宮中歌会始の選者。かつてマルクス主義者を自称した歌人だっただけに選者を引き受けた時は一部から批判が上がり、話題となった(赤字の92は93が正しい)。07年から18年には当時の天皇、皇后両陛下や皇族の和歌御用掛も務めた」と記す。前日7月11日のデジタル版(14時14分)の見出しは若干ニュアンスが異なり「文化功労者の歌人 岡井隆さん死去 皇族の和歌の相談役」となっていた。

 『東京新聞』は「岡井隆さん死去 前衛短歌運動の旗手」と一面で伝えた。その末尾に「九三年から宮中歌会始の選者、二〇〇七年には皇族に和歌を指導する宮内庁御用掛になった。社会派として活動してきた歌人が宮中行事に参加することは大きな議論を呼んだ」とある。また社会面では、「戦後短歌の歴史体現 時代捉え作風変遷」との記事とともに、東京新聞歌壇選者の東直子と現代歌人協会理事長の栗木京子のコメントがつく。コメントの二人は、それぞれ自身との交流に触れつつ「常に新しいものを取り入れようとしていた」、「新しい潮流にいち早く身を投じて自分の栄養にする」と語っていた。

 『毎日新聞』は、「岡井さん死去 前衛短歌、戦後歌壇けん引」とあり、その冒頭には「前衛短歌運動の旗手として戦後歌壇をリードし、皇室の和歌の指導役も務めた歌人で文化功労者の岡井隆さん・・・」とあり、その末尾でも「宮中歌会始選者を歴任。07年から18年まで宮内庁御用掛を務めた」とあった。日本現代詩歌文学館前館長篠弘と馬場あき子のコメントを付していた。

 『産経新聞』電子版(2020.7.11 13:29)でも「歌人の岡井隆さん死去 前衛短歌運動の旗手」で、「昭和期の前衛短歌運動を牽引(けんいん)し、宮中歌会始選者も務めた歌人で文化功労者の岡井隆さん・・・」で始まり、末尾に「(平成)19年から天皇陛下や皇族方の和歌の相談役として宮内庁御用掛を務めた」とある。

 『日本経済新聞』電子版(2020/7/11 15:15)では「岡井隆さん死去 92歳、戦後短歌界けん引した歌人 」とあり、同紙「カバーストーリー」では「安住と闘った戦後短歌の巨人」とあった。

 『産経スポーツ』(7月11日19時20分)では、東直子と伊藤一彦が、それぞれに「若い人にフラットで穏やかに接してくれた」、「戦後歌壇において塚本邦雄と並ぶ巨星で、包容力があり、話していると本当に心地よい」などとコメントしていた。

 総じて「前衛短歌(運動)の旗手」であり、「歌壇を牽引」したというのが、岡井へのほぼ定まった評価なのだろうか。「前衛短歌の旗手」であった歌人と皇室との濃厚な接触関係については、「話題となった」「議論を呼んだ」と素通りするか、むしろ、それを功績として評価するような書きぶりに思えた。また、「歌壇を牽引」「短歌界を牽引」というのは、ある意味、実情に近いのかもしれない。牽引したのは「短歌」ではなく「歌壇」であったと思われるからである。さまざまな形で、とくに後進の歌人たちへの指導力や政治力を発揮しながら、歌壇での地位を不動のものとしてきたのではないか。また、亡くなった人が、その世界、業界の<巨星>や<巨人>になったりするのはよく見聞きする。著名人の訃報や追悼記事に贈られる定番の賛辞でもある。そして、多くの人たちが、競うように、岡井と自分との出会いや交流を語り、オマージュが氾濫するにちがいない。 
 今後しばらくは、<歌壇>では岡井隆追悼記事が目白押しになるだろう。これまで、岡井隆の皇室への接近とそれをめぐる歌壇の状況について、幾度か言及してきた私としては、当分、目が離せない。

 岡井さん、お疲れさまでした。追悼特集では、だれが、どんな発言をするのか、ゆっくりと楽しまれることでしょう。

 ご参考までに、以下が関連する主な拙稿です。
「歌会始選者の系譜」『短歌と天皇制』(風媒社 1988年10月)
「歌壇に”最高実力者“はいらない」『現代短歌と天皇制』(風媒社 2001年2月)
「<歌会始>をめぐる安心、安全な歌人たち」『天皇の短歌はなにを語るのか』(御茶の水書房 2013年8月)
「タブーのない短歌の世界を <歌会始>を通して考える」(『ユリイカ』2016年8月)

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2020年4月 7日 (火)

「阿部静枝の戦後」が友愛労働歴史館のHPに紹介されました。

 4月1日の記事にあります拙著「阿部静枝の戦後ー歌集『霜の道』と評論活動をめぐって」(『昭和後期女性文学論』所収)が「友愛労働歴史館」のHPに紹介されました。論文集の表紙と阿部静枝の若き日の肖像画とともに掲載されていました。 

 紹介記事の後には、筆者の第一歌集『冬の手紙』の批評会(1971年)の折のスナップを掲載しました。

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『昭和後期女性文学論』の論文「阿部静枝の戦後」(内野光子著)を読む!

この程、翰林書房から『昭和後期女性文学論』(新・フェミニズム批評の会)が出版されました。同書には友愛労働歴史館ゆかりの阿部静枝を取り上げた論文「阿部静枝の戦後―歌集『霜の道』と評論活動をめぐって」(内野光子著)が掲載されています。著者の内野光子氏は阿部静枝のお弟子さんで、歌人・評論家。

阿部静枝(写真)は歌人(ポトナム同人)、評論家であると同時に社会運動家で、民社党やその前身である社会民衆党(大正15年に安部磯雄や片山哲らが結党)を代表する戦前・戦後の婦人運動家。同志に赤松常子(労働運動家、参議院議員)や赤松明子(吉野作造二女)らがいました。

友愛労働歴史館は2014年に開催した企画展「同盟結成から50年、その今日的意義を探る」(2014.9.82015.2.28)の中で阿部静枝を取り上げ、紹介しています。その折の解説スライド「阿部静枝―歌人・評論家・社会運動家」をPDFデータで送付いたしますので、希望者は友愛労働歴史館までご連絡ください。

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« 友愛労働歴史館は3月30日(月)から5月6日(水)まで臨時休館いたします!

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私の第一歌集『冬の手紙』批評会の折の阿部静枝、玉城徹の両氏です(1971年)

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私の手元に、唯一あった色紙だったが、友愛労働歴史館に寄贈しました

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2020年3月 3日 (火)

歌壇における女性歌人の過去と現在

 今日は「ひな祭り」なのだが、おひな様を出さなくなって久しい。花より団子で、私の好物の穴子を散らしたお寿司とヒラマサのお刺身、ポテトサラダという妙な献立で、二人だけで祝った?のだった。生活クラブのはまぐりは、娘が帰省していた折、すでにお吸い物にしてしまっていた。

 ひな祭りと言えば、『短歌研究』という雑誌は、三月号は、毎年女性歌人特集をするのが恒例であった。1960年前後から、時折、女性作品特集が組まれていたが、定例化したのは1969年以降で、ほぼ例外なく踏襲されてきたし、1980年代からは五月号の男性歌人特集もセットになった。ところが、今年の三月号には、どうだろう、その女性歌人特集が消えていた。節句にちなむ特集などよく続いたものだとむしろ感心もしていた。私などもちろん縁がなかったのだが、三月号の特集が、女性歌人へのせめてものサービス、量的にも質的にも勝っている女性歌人への「ガス抜き」の様相を呈していたので、どこかすっきりした感じがしないでもない。五月号の男性歌人踏襲もなくなるのだろう。これからの歌壇において女性歌人が、どういう評価をされていくのか、注視していきたいところである。

 今年の1月中旬締め切りで、同人になっている『ポトナム』誌の「歌壇時評」に以下を寄稿した。同じようなテーマで、すでに昨12月の当ブログでも記事にしているので、併せてご覧いただけたら幸いである。

・歌壇、この一年を振り返る季節(2)歌人によるパワハラ?セクハラ?~見え隠れする性差(2019年12月22日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/12/post-b5862e.html

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  昨年、「阿部静枝の戦後」について調べ、作成中の静枝の「著作・関連文献年表」を眺めていると、精力的なまでに、多くの短歌作品と短歌評論を残していたことを改めて知るのだった。しかし、アンソロジーや短歌史に、その名を見いだすことがまれなのはなぜかの思いにもいたったのである。短歌以外の新聞や雑誌、女性、教育雑誌をはじめ、政治から料理までという広い分野のメディアにも頻繁に登場し、座談会や人生相談にまで応じていた。
  静枝(一八九九~一九七四)の敗戦後の短歌評論や発言は、二〇代から、夫、温知とともに無産運動の活動家としての経験――婦人参政権獲得、女子労働・母性保護、母子扶助運動の実践―などを踏まえ、やや生硬な表現を伴いながらも、率直かつ厳しいもので、多くの男性歌人や女性歌人にとっても、耳の痛いことが多かったのではないか。
  静枝の没後から四五年も過ぎた今日にあっても、社会や歌壇における女性差別は改まらない。そんなことを考えていた矢先、歌壇において、男性歌人による「ミューズ発言」が、問題になっていることを知った。一昨年六月、名古屋での「ニューウェーブ三〇年」というシンポジウムで「ニューウェーブに女性歌人はいないのか」との会場からの質問に、パネリストの加藤治郎はみずから「加藤、荻原裕幸、西田政史、穂村弘の四人だけがニューウェーブだ」と断定したという。さらに、昨年二月、加藤が「ニューウェーブに女性歌人はいないのか」の題で「水原紫苑は、ニューウェーブのミューズだった。・・・」とツイートしたことが、短歌雑誌やネット上の歌壇時評で批判されることになった。
  短歌史上、「ニューウェーブ」の明確な定義は見当たらないが、私は、一九八〇年代後半、俵万智『サラダ記念日』出版以降、いわゆるライトヴァースの延長線上の若い歌人たちによる口語的発想で、日常の些細なことがらや微妙な違和感などを軽妙に歌い、ときには現代文明批判めいた作品に仕上げる傾向の短歌というくらいの認識であった。私には意味不明な歌が、もてはやされたりして戸惑ったりしたが、その担い手を、なぜ特定の男性歌人四人に限るのかは理解できない。さらに、ミューズ発言の前後には、女性差別以外にも差別表現があったというが、現在、そのツイートは削除されている。
   このあたりの顛末は、高島裕「これ以上ニューウェーブを語らないために」(『未来』二〇一九年二月)、川野芽生「うつくしい顔」(『現代短歌』同四月)、中西亮太「川野芽生『うつくしい顔』について」(ブログ「和爾、ネコ、ウタ」同三月一七日)、中島裕介「ニューウェーブと『ミューズ』」(『短歌研究』同四月)などで知ることができる。さらに、中島は、自らのツイッターや「note」において、加藤発言を追跡、批判を発信し続け、加藤も、反省、謝罪、画策、反論などを繰り返している。その過程で、決着の糸口になるのかどうか、加藤・中島が属する未来短歌会の理事会は、一選者のハラスメントについての事実確認と検討委員会設置などの協議を始める旨を決めたらしい(「未来短歌会」ホームページ二〇一九年一一月三〇日)。
   政治や企業の世界だけでなく、人権にかかわるハラスメントが、文芸やスポーツの世界、そして家族間においてまで、顕在化してきたことの現れでもあろう。しかし、最新の二つの『短歌年鑑』では、これらの動向についてだれも触れようとしなかった。かつて、〈女流歌壇〉と括ることにさえ疑問を呈しながら、女性歌人が低位に置かれている実態に抗議していた阿部静枝の声(「女流歌壇展望」『短歌声調』一九五〇年一月)が聞こえてくるようだ。(『ポトナム』2020年3月号所収)

 

 

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2020年2月13日 (木)

何度でも、くどいようですが、歌壇と天皇制

 私が会員になっている『ポトナム』の歌壇時評に、1月号に引き続き、寄稿しました。くどいようですが、また、短歌と天皇制の問題です。改元を機会に、歌壇での事実を確認、整理し、手立てを考えなければと思っています。記事の末尾に、関連の最近の当ブログ記事をまとめておきました。重なる部分も多いかと思いますが、ご覧いただければ幸いです。

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 昨年のマス・メディアは、改元で新しい時代が来るかのような政府広報に加担した。そして、「象徴」を全うしたとして平成の天皇を称揚した。歌壇では、『短歌研究』一月号は、特集〈平成の大御歌と御歌〉を、角川『短歌年鑑』は、特別企画「歌会始の三十年」を組んだ。

 これらの動向に最も早い反応を示したのは、若い世代の瀬戸夏子(一九八五生)で、『短歌研究』特集について「戦後短歌は終わったのかもしれない、と思った。」という発言だった。「ここでは短歌は天皇制ときれいに順接であった。」と批判した(「白手紙紀行⑽」『現代短歌』二〇一九年二月)。続いて、大辻隆弘(一九六〇生)は、『朝日新聞』の「歌壇時評」(「短歌と天皇制」二〇一九年二月一七日)において、「以前なら厳しい批判に曝されたであろうこの特集に対して歌壇は無反応だった」ことを挙げ、「天皇制アレルギー」はもはや薄らいだとし、批判をけん制するかのような発言をした。二〇代の廣野翔一(一九九一生)は、その特集に触れて、拙著の「どんな言い訳をしようと、国家権力に最も近い短歌の場所が歌会始ではないか。短歌の文学としての自立は、国家からの自立にほかならない」(「戦後六十四年、歌会始の現実」『天皇の短歌は何を語るのか』二〇一三年)を引用し、「これは正論である。正論ではあるけれど・・・」としながら、「とりあえず今は歌会始があるという現実」を、「短歌が権力に近すぎる場所にある現実」を、自分の中で受け止めて「歌会始というものに対して私たちは寛容に接すべきだ」と結論づけた(「歌壇時評・平成の終わりに」『短歌』二〇一九年六月)。彼は、自身のツイッターで「読み返すとこの人歯切れ悪くて苦しそう、という感想しかない」(二〇一九年六月二一日)と自虐的に綴っている。斎藤寛(一九五二生)は、「老舗の短歌総合誌は皇室の広報誌に転じてしまったのかと思うような誌面であった。」とし、天皇制自体に関しては「天皇の人権不在という問題」が厳しく問われないまま、「天皇制アレルギー」が薄れ、あるいは終息したという捉え方には「天皇制に対する赤子のような信仰が復活した」という意を含むとも指摘し、厳しく追及した(「『大御歌』『御歌』の位相―短歌と天皇制再考」『短歌人』二〇一九年七月)。いずれにしても、大辻のいう「無反応」という見立ては崩れたのである。

 敗戦前の「歌会始」は、一般歌人の立ち入れない世界であった。新憲法下の「象徴天皇制」は、占領軍と日本政府による「政治利用」をするための「遺制」であり、“新生”「歌会始」も“民間”歌人を引き入れて、利用価値を高めるためであったろう。「歌会始」の選者永田和宏による新聞連載の平成の天皇夫妻、皇族たちの短歌の<鑑賞>が『象徴のうた』(文芸春秋 二〇一九年六月)として出版された。まさに、現代の“御製御歌謹解書”ともいえよう。一方、『短歌研究年鑑』(二〇二〇年版)恒例の座談会では、古典・万葉集ブームは語られるが、件の特集や企画、書物には、だれもが言及しなかった。今や歌壇の主流は、天皇の短歌や歌会始について、その意義を称揚するか、触れずに沈黙を通すかのいずれかになってしまった。異論を唱えて突出することを控えてしまうのは「同調圧力」の所為でもある。それはやがて、天皇(制)への傾斜を助長し、異論を無視し、「聖域」を形成してしまうことにつながる。現に、リベラル政党も、リベラル派と称される論者も、かつての主張を微妙にシフトしながら、即位礼や大嘗祭などへの祝意を示し、メディアに重用される昨今である。「天皇陛下万歳」の誘導に声を上げ、配られた日の丸の小旗や提灯を揺らしている人々は、私の隣人たちでもある。(『ポトナム』2020年2月)

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歌壇、この一年を振り返る季節〈1〉短歌と天皇制 (2019年12月18日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/12/post-ac9040.html

「短歌と天皇制」(2月17日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(4)「無反応」だったのか (2019年3月 5日 )
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/03/217-0117.html

「短歌と天皇制」(2月17 日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(1)「その反省から出発した戦後短歌」って、ホント?(2019年2月25日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/02/210-9ef9.html

「短歌と天皇制」(2月17日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(2)「戦後短歌は皇室との関係を結ぶことに慎重だった」のか (2019年3月 1日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/03/210-80d0.html

「短歌と天皇制」(2月17日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(3)「天皇制アレルギー」って?(2019年3月 5日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/03/post-d222.html

 

 

 

 

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2020年2月10日 (月)

東北へ~短い旅ながら(4)仙台文学館

 翌日の午前中、仙台文学館へでかけることにしていた。仙台駅西口に広がるデッキは、どこまで続くのか、幾通りにも分かれ、複雑だ。うっかり地上に降りてしまうと、横断ができないで、また、デッキに戻ったりする。バスターミナルの宮城交通②番乗り場から、北根2丁目(文学館前)下車、進行方向に向かって右側、入口への坂を上る。この文学館は、昨年で20周年を迎えた由、初代館長は井上ひさしだったが、現在の館長は、歌人の小池光である。

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台原森林公園の一角にある仙台文学館

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文庫版ほどのリーフレットと入場券

 

  20周年記念特別展「井上ひさしの劇列車Ⅱ」からまわる。井上ひさしの特別展は何度か開催されているらしい。今回は、井上の「評伝劇」と称される宮沢賢治、樋口一葉、太宰治、林芙美子、小林多喜二、魯迅、河竹黙阿弥、吉野作造、チェーホフをテーマにした劇の直筆原稿やメモ、書簡、参考資料などの展示とともに、一作ごとの意図や主人公・登場人物への井上の思いや評価を綴るエッセイからもたどる解説がなされていた。井上が取り上げる対象は、いずれも魅力的な人物には違いない。私自身も、一葉、芙美子、作造など深入りしそうになった人たちである。演劇自体も見ず、脚本自体も読まず、軽々には言えないのだが、今回の展示を見た限り、井上は、劇の主人公、登場人物には、親しみと敬意のまなざしをもって、惚れ込んでしまっている側面がみられた。たとえば多喜二を描いた「虐殺組曲」の特高刑事が多喜二を追っていくうちに感化されていく過程とか、林芙美子の戦前・戦後の 評価などには、「実は懸命に生きた、みんないい人」という楽観的な部分が気になった。

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「虐殺組曲」の解説、右がと二人の特高刑事への思い、左が社会運動にかかわった井上の父と多喜二を重ね合わせていたなど

 

 つぎに、「手を触れないでください」という和紙による壁のトンネルを通って、常設展に進んだ。その冒頭は、館長小池光の短歌が天井からの白い布いっぱいに並べられた展示だった。ここにも井上ひさしと仙台ゆかりの文学者、土井晩翠、島崎藤村、魯迅などのコーナーがある一方、佐伯一麦、恩田陸や伊坂幸太郎などの<平成>の作家たちの大きな写真パネルが目を引く。名前は聞くが、すでに知らない小説の世界である。仙台との縁を教えられる。

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館長小池光へのオマージュが強烈で、短歌講座なども定期的に開催されているらしい。こうした傾向は山梨県立文学館長の三枝昂之の場合も同様で、館長が前面に出る催事というのはいかがなものなのだろう。

 

 つぎの「震災と表現」のコーナーは、数年前、北上市の現代詩歌文学館での東日本大震災のコーナーと比べてのことなのだが、やや物足りなさを覚えたのも確かであるが、多くの震災関係の作品を残している佐藤通雅のパネルに出会って、歌われている背後の現実に思わず祈るような気持ちにさせられるのだった。

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 最後になったが、今回の文学館訪問の目的でもあった、朗読ライブラリーの「阿部静枝」のビデオを見ることになった。連れ合いはカフェで休んでいるという。阿部静枝<1899~1974)つながりの知人Sさんからも聞いていた、たった4分ほどの朗読ビデオだったが、その操作や、ストップをしての写真撮影に手間取った。このビデオは「コム・メディア」制作(朗読黒田弘子)となっていたが、12首ほどの選歌は、静枝の特徴を捉えたもので、なるほどと思わせるところがあった。

 

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生みし子は他人に任せて顔ぬぐひ世に生きゆくは復讐の如し(『霜の道』1950年)

 

 他にもつぎのような作品が朗読されていた。カッコ内は筆者が補記した。

 

・叶はざるねがひひそむ嫉みゆゑ強ひてもひとにさからはんとす(「秋草」1926年)

・憎まんとしてなみだ落つきみをおきなにを頼りてわが生くべしや(同上)

・ひたすらに堪へんと空をみつめゐる眼底いつか熱く濡れつつ(同上)

・ひとは遂にひとりとおもふおちつきをもちてしたしき山河のながめ〈同上)

・濃むらさきを好きなのは誰なりしかなあやめのおもひでひっつにあらず(『霜の道』1950年)

・暗き海の浪迫り寄れ死は想はず生き抜きて世を見かへさんとす(同上)

・せめてわが男の子を生みしありがたさわれに似る女を想ふは苦し(同上)

・忘却の救ひがあれば生きてゐよくちびるに歌のわく日も来なむ(『冬季』1956年)

・東西を分てる橋の切断面ぎざぎざの尖まで取り歩みゆく(『地中』1968年)

・断絶の壁ある下を掘りつらぬき人の想ひを通はせし地中(同上)

・生きものなどよせつけぬ様の星を知り地上のもろもろ更に美し(同上)

 

 仙台駅に戻って、荷物を預けたホテルへの道すがら、利久という店でランチを済ませた。みやげというものをほとんど買っていない。駅構内では、かまぼこ、牛タンの店がしのぎを削っているようだったが・・・。やはり疲れていたのだろう、帰りの新幹線「はやぶさ」では、しばらく眠り込んでしまったようだ。

 

 

 

 

 

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2020年1月25日 (土)

60年前の1960年、50年前の1970年、いま何が変わったのか(1)私の1960年

 今年に入って、60年前の1960年が、回顧される特集記事などをときどき見かけるようになった。日米安保条約調印が、60年前の1月18日であったからだ。私は前年の1959年12月に母を亡くしたばかりの大学生だった。調印時の記憶は定かではないのだが、6月19日の自然承認に至るまでの、半年間の記憶は、ところどころ鮮明に思い起こすことができる。これまでも、その頃のことを何回か、このブログでも書いている。年寄りの繰り言になってしまうのだが。

6月15日で、思い起こすこと(2019年6月16日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/06/post-fd0e28.html

 通っていた大学の自治会は、いわゆる全学連反主流派、共産党系に属していた。私は当時の全学連の勢力地図にもあまり関心がないまま、当然のように学内での安保反対の集会や国会周辺への“請願”デモには、ときどき参加していたように思う。勉強したいと思っていた法律関係の科目より、他の教養科目の方が面白く、やたらと聴講していたし、受験時代には我慢していた映画もよく見に行った。最初の夏休みには区役所が開いた映写技術講習会や大学が開いた書道講習に通ったりした。高校で「書」を選択した時の上条信山先生はじめ、豊道春海、熊谷恒子らそうそうたるメンバーの実技に接したりした。映画好きが高じて、1960年4月から、霞町にあったシナリオ研究所の夜間講座に通うというダブルスクールもやっていたので、ともかく忙しかった。自宅通学の私は、当時アルバイトをすることもなかったが、下宿や寮に住む友人たちは、家庭教師などのアルバイトで忙しそうだった。それでも、自宅のある池袋から、地下鉄の丸ノ内線の定期で、昼夜の通学、国会議事堂へも通えたのはありがたかった。友人とあるいは一人で集会やデモに参加すると、衆・参両議院の面会所前の歩道や車道はいつも人や隊列でごった返していた。車道では、全学連主流派の学生たちが勢いよくジグザグデモを繰り返しているのによく出会った。

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道路いっぱいに広がったフランスデモ、見ず知らずの人たちと手をつなぎ、スクラムを組んでいた。

 5月19日夜、衆院安保特別委で、新安保条約・日米協定を自民党が単独採決、19日12時直前に、警官隊を導入して、清瀬一郎衆院議長は会期延長を宣言、十数分後の20日午前0時6分に単独強行採決をしている。アイゼンハワー大統領の訪日予定が6月19日だったから、それまでには、なんとか新安保を承認させる必要があったのだ。

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1960年5月20日午前零時過ぎ清瀬二郎衆議院議長。議会への警官隊導入を最後まで反対したのが、鈴木隆夫衆議院事務総長だったそうだが、のちに、私が就職した国立国会図書館の館長になっていた。しかし、数週間後には辞任、参議院事務総長だった河野義克が着任、衆参の事務総長が交代で館長職に就くという悪弊を知るにいたった。

 6月10日、アメリカ大統領の新聞担当秘書官のハガチーが、アイク訪日の下検分のため来日、羽田空港からの車で移動中、私たち学生のデモ隊がそれを包囲した。車のボンネット上で叫ぶ学生もいた。座って待機していた私たちは、ただあとずさりするだけで、何が起こっているかわからなかったが、やがて、巨大なヘリコプターが爆風を巻き起こして着陸したかと思うと、時を置かずに周辺の草をなぎ倒し飛び立っていった。私たちも一斉に風にあおられて地面に倒れ込んでしまった。一瞬、どうなるかと思ったのだが、私も肘を擦りむいた程度で、済んだのだが、あの一機のヘリが引き起こす爆風の恐ろしさは、今も忘れることができない。

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羽田空港から都心に向かう道路のどのあたりだったのか。ハガチーは、ヘリコプターで「救出」された。

 いわゆる、このハガチー脱出事件について、学生たちの「暴力デモ」は「日本の恥」をさらし、「国際儀礼」に反すると、マスコミは、一方的に非難した。一部の地方紙を除いて、アイク訪日は政治とは無関係の親善を目的とするものだから歓迎すべきとの論が大勢を占めていた。

 自然承認の日とアイク訪問が、数日後に迫っていた6月15日の夜、樺さんの事件は起きた。私が、この報道に接したのは、デモを抜け出してシナリオ研究所の講義に出た後、青山一丁目のたしか「砂場」というおソバ屋さんのテレビであった。帰宅すると、私の整理ダンスは乱れていた。まだ樺さんの身元がわからず、着衣が報じられたときに、父や兄は、やみくもに、ヒックリ返したらしい。あの夜、私はどんな服装だったのか、いまは忘れてしまっているが、家族は、とっさに不安に駆られてそんなことをしたらしい。

 6月15日、学生が南通用門から国会構内に突入した直前、新劇人や文化人によるデモが右翼に襲撃され、負傷者が続出していたにもかかわらず、警官隊が傍観していたことが、学生の突入の引き金になっていたことを報じるテレビやラジオもあった。その衝撃が収まらない中、6月17日には、在京新聞社の七社共同宣言が発表されたときのショックは忘れ難い。政権批判らしきことも少々ちらつかせていた大手マスコミには、もはや完全に裏切られたという思いが強かった。そして、自然承認が迫る6月18日は、やはり、どうしていいかわからないまま、私は、大学の自治会の隊列の中にいた。夕方になって、国会周辺は、人で埋まり、議事堂は完全に包囲されていた。私たちは議事堂からは遠く離れた、皇居前広場近くで、身動きできない状況だったと思う。その数、33万人を超えたと後の報道で知った。夜になって、念のため買って持っていた菓子パンを隣の友人と分け合って食べた記憶がある。その辺に、スーパーやコンビニもない時代だから、ペットボトルもない。のどの渇きも我慢していたし、繰り返されるシュプレヒコールに声をからしていた。夜半近くなると、ただ座っているだけという焦燥感、無力感が募るなか、ドイツのナチス時代、国会議事堂放火事件を丁寧に聞かせてくれる友人もいた。家に門限はなかったが、地下鉄が動いている時間にと12時前に帰宅するのに、隊列から抜けるのが後ろめたかったことを覚えている。そして19日午前0時に新安保条約は自然承認され、アメリカと批准書交換を完了した岸信介首相は6月23日に辞意を表明、7月15日に総辞職している。
 大学では、夏休みを経て、少しは普通の生活に戻ったのではなかったか。私は、大学の短歌研究会に入っていたので、週に1回集まっては、ささやかな歌会、といっても持ち寄った短歌をそれぞれ黒板に書いて、なにやら、批評し合う会を持っていたし、何カ月かに1回は、風前の灯だった都内の大学歌人会の歌会も開かれていた。会場は、大学の持ち回りだったり、新宿や渋谷の喫茶店だったりということもあった。そんな中で、国学院の岸上大作さんにも一度ならず同席しているはずなのだが、年末になって、下宿で自死したという知らせを聞かされたときは、「なぜ」とその衝撃は大きかった。後になって、いろいろな事情が伝わってくることになるのだが、その死は、私には、母の死から一年後、1960年最後の事件として、忘れることができない。Img344
私のアルバムに残る、当時の大学歌人会が阿部正路、清水二三恵の歌集出版記念会として開いた「明日を展く会」(1959年6月27日、「大都会」)の集合写真。会の案内によると、会費200円となっていた。前列右から、林安一、岸上大作、高瀬隆和。二列目には、二人の著者を中央に、藤田武、篠弘、宮城謙一らが並び、後方には、馬場あき子、北沢郁子、ポトナムの先輩の只野幸雄、増田文子の姿も見える。最後の列の中ほどには、私も教育大勢の前川博、森山晴美に挟まれおさまっていた。敬称略)

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『意志表示』(白玉書房 1961年6月20日)には、高瀬隆和編「年譜」、西村尚執筆「後記」がある。オビは無残な姿で本にはさまっている。窪田章一郎、近藤芳美、吉本隆明の推薦文があった。『岸上大作全集』(思潮社 1970年12月5日)は没後10年の命日が発行日になっていた。高瀬編の「年譜」、富士田元彦「解説=六〇年に賭けた詩と死」が付されている。

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1999年10~11月、姫路文学館で開催の「岸上大作展」には、関西の所用のついでもあって、初日の10月8日に出かけている。展示は、充実したものであって、資料的にも力のこもったカタログが出来上がっていた。高瀬隆和さんと文学館のスタッフの苦労を察した。胸が詰まる思いで見入ってしまったのは、国学院に入学後の「出納簿」と母親から届く仕送りの現金封筒の束だった。12円の牛乳と15円食パンで27円の昼食、ハガキ4枚10円切手3枚50円、映画55円、電話10円、バス15円に至るまでの記帳、母へのハガキには、ときには40円のラーメンが食べたくなるとも。
上段はチラシ、中断はカタログの表紙。

 下段は、カタログの巻末近くの61首の挽歌集である。高瀬隆和さんからは事前に挽歌の寄稿依頼があって、私も送っていたのだが、作者のアイウエオ順だから岩田正と岡井隆に挟まれた格好のなんともはずかしい一首。

・議事堂にむかわむ列は異にすもひととき大学歌人会に集いき 内野光子

 さらに展示の中に、「ノート大学歌人会」NO.1(1959年11月28日)があって、岸上大作は「十月の理由」5首を寄せ、私の三首が掲載されている頁も開かれていた。同じ頁に佐佐木幸綱の作品があったからだろう。このガリ版刷の資料は手元にもなかったし、すっかり忘れていた作品だっただけに驚いたのだった。

・貨車の吐く黒き煙は万国旗揺るる屋上庭園越えゆけり

・信号が確かにとぎらす人の列風強き屋上に見下ろせり

 見学当日、会場で、高瀬さんに挨拶と思ったのだが不在であった。後から、丁寧なハガキを頂戴し、恐縮したのだが、そこには以下のような文面も見られた。高瀬さんも鬼籍に入られたので、断りもなく引用させていただき、ごめんなさい。

「先日、馬場あき子さんと電話で話した時、歌壇の右傾化?を嘆かれていました。また非常な危機意識をもっておられました。ものがいいにくくなるような状況が社会全体に広がりつつあるのではと恐ろしくなります」

 また、カタログ巻末の高瀬隆和「岸上大作展よせて」によれば、つぎの一首が故郷兵庫県福崎町田原の墓碑に刻まれ、

・意志表示せまり声なきこえを背にただ掌の中にマッチするのみ 

 母校の福崎高校には、つぎの一首を刻む歌碑があるそうだ。

・かがまりてコンロの赤き火をおこす母と二人の夢作るため 

 存命ならば、傘寿を迎えた岸上大作は、どんな歌人になっていただろうか。

 

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2019年12月22日 (日)

歌壇、この一年を振り返る季節(2)歌人によるパワハラ?セクハラ?~見え隠れする性差

 歌壇の内情に疎い私には、今年「未来」という短歌結社の選者の一人である加藤治郎の発言やツイートによる発信が物議をかもしていることを最近知った。加藤が、2018年2月から『短歌往来』に「ニューウェーブ歌人メモワール」という1頁ものを連載しているのは承知していた。自分に関する記録はかなり丹念に残している人だな、というのはわかったが、岡井隆との縁から始まり、なんか“きらびやかな”過去を自慢したい年齢になったのかの思いで読んでいた。今も続いている。

 昨年6月、名古屋で「ニューウェーブ30年」というシンポジウムにおいて、「ニューウェーブに女性歌人はいないのか」という会場からの質問に、パネリストの一人荻原裕幸は回答をスルーし、同じくパネリストの加藤はみずから「加藤、荻原、西田政史、穂村弘の4人だけがニューウェーブだ」と断定したという。
 短歌史における「ニューウェーブ」という定義はあるのかないのか。1980年代、俵万智『サラダ記念日』がベストセラーになったころと前後して、いわゆる「前衛短歌」を継承する一つの潮流として、口語的、風俗的、軽妙でもあり、ときには現代の文明批判?にもなっていると持ち上げられることもあった作品の総称くらいに、私は思っていた。男性4人に限定する意図はどこにあるのだろう。なんか、おもちゃを独占したい子供みたいな、と一笑に付したいところだった。

 ところが、その加藤が、今年の2月「ニューウェーブに女性歌人はいないのか」の題で「水原紫苑は、ニューウェーブのミューズだった。・・・」というツイッター上での発信があったらしい。今は消去されているが、その辺の事情は、高島裕「これ以上ニューウェーブを語らないために」(『未来』2019年2月)、中島裕介「ニューウェーブと『ミューズ』」(『短歌研究』2019年4月)、川野芽生「うつくしい顔」(『現代短歌』2019年4月)で知ることができる。さらに、中島は、自らのツイッターと“note “において、この問題から端を発したもろもろの出来事を追跡、加藤批判を緩めず、糾弾を続けている。加藤も、反省したり、謝ったり、画策したり、反論を繰り返している。その中で、歌壇における女性歌人の位置づけから、短歌結社内の選者による権力によるハラスメントやセクシャル・ハラスメントの問題にもなっている。
 ここでは詳しく述べないが、加藤が選者を務める『未来』(1951年近藤芳美を発行人として創刊、岡井隆の編集復帰で、近藤没後は岡井が理事長を務めている)のホームページ上の理事会報告(11月30日開催)の討議・決定事項の一つに、以下が掲載されていた。
「当会一選者のハラスメントに関わる事案が理事の一人から提議されました。事実確認の方法を模索しているところですが、協議の結果、今後ハラスメントに関する委員会、相談会等を設置するべく検討し、防止に努めることとしました。」

 当日出席の理事は、さいとうなおこ、佐伯裕子、池田はるみ、道浦母都子、山田富士郎、 加藤治郎、大辻隆弘、笹公人、黒瀬珂瀾、中川佐和子 の10人で、欠席が理事長の岡井隆、副理事長の大島史洋、との記録がある。たんなるお家騒動、結社内の内紛としてではなく、真剣に取り組んでほしいと思った。 

 昨年から、今年にかけて、重大な問題提起がなされたにもかかわらず、その後の時評や二つの年鑑の年間回顧などでの言及が見当たらなかった。『短歌研究年鑑』の座談会では、「『ジェンダー』をめぐる問題意識」の小題で、折口信夫や菱川善夫にまでさかのぼりながら、佐佐木幸綱は「ジェンダーという問題意識は新しいから、まだ検証中」だという主旨の発言をし、穂村弘も将来の大きな課題との認識を示すのみで、語りたがらない「判断留保」の感があった。また、『歌壇』2019年12月号の歌壇一年の動向をまとめたとする奥田亡羊「穂村弘と新しい世代」においても、三上春海「『極』/現在」(『現代短歌』〈2019年5月〉)の「運動体」までには至らなかったとする「瀬戸夏子、服部真理子、大森静佳、川野芽生らの〈性〉と〈暴力〉をめぐる積極的な論作」を固有の運動性を有しながらの「流動体」として評価をするにとどまった。

 この間、高松霞「短歌・俳句・連句会での、セクハラ体験談をお寄せください」というサイトまで現れ、第一・第二集が公開されている(https://note.com/kasumitkmt)。併せて以下のネット上「詩客」の時評も参照ください。 

・短歌時評alpha(1) 言葉を読むことと、心を読むことのむずかしさ 玲 はる名(2019-05-03 07:17:15) 

・ 短歌時評alpha(2) 氷山の一角、だからこそ。 濱松 哲朗2019-04-22 03:25:51)

・短歌時評alpha(3) 権威主義的な詩客 中島 裕介(2019-04-22 02:23:43) 

  それにしても、大昔?渦中の加藤治郎と歌会始選者の三枝昂之と私の三人による「時代と短歌~社会詠の意義」と題する座談会の企画があった(『歌壇』1995年10月)。いったい三人は何をしゃべったのか。私といえば、ひがむこともなく?いまだに相変わらず、同じことを言いつづけているんだなと、つくづく思ってしまう昨今である。

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2019年10月 4日 (金)

『象徴のうた』(永田和宏著)の書評を書きました

 先月号の『現代短歌新聞』に掲載されたものです。『象徴のうた』は、昨年1月から今年3月まで、週一で63回にわたって『東京新聞』に連載された記事をまとめたものです。平成の天皇夫妻の短歌を中心に、鑑賞・解説をしていますが、共同通信配信のシリーズでしたから、各地の新聞での読者も多かったと思います。著者は、2004年から歌会始ん選者を務めています。それだけに、時代背景や天皇家の内情などを交えながら、天皇夫妻はじめ皇族方の短歌の意を丁寧に読み解き、鑑賞がなされています。そのスタンスは、おのずから明確で、国民に寄り添おうとする「お気持ちの最も大切な部分」が「お二人のお歌、短歌にこそ籠められている」というものです。しかし、短歌や「おことば」などとして発信されるメッセージは、そんなに単純なものとは思われないというのが私の感想でした。あまりにも過剰な思い入れは、かえって、読者の鑑賞を損なってしまうのではないかとさえ思えたのです。まだ、お読みでない方は、一度、近くの図書館で、ご覧になるとよいと思います。

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『現代短歌新聞』2019年9月1日号より。

ダウンロード - gyosei.pdf

 

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2019年6月21日 (金)

いまの歌壇はどうなっているのか~1960年前後の短歌・歌人たちを振り返る(4)1960年

 

 1960年、多くの国民の支持を得た、いわば反政府運動の高揚と挫折を情緒的に振り返ろうというわけではない。あの当時から、私自身が関心を持ち始めた「短歌」を通して、歌壇の状況、歌人たちの作品や発言の断片から、1960年とやがて60年になろうとしている今日を探ってみたいという試みにすぎない。たまたま、手元にある『短歌研究』のバックナンバーやコピー資料からたどってみようというわけなのだが、あくまでも気の向くままの、独断と偏見によるスケッチ、ノートとでもいうのかもしれない。

 1960年は、『短歌研究』にとっては、ひとつの大きな曲がり角となった。1月号の奥付から「編集者 杉山正樹」が消え、「発行者 木村捨録」と印刷者の名前が並ぶだけとなった。「読者への手紙」という編集後記では、その末尾に「一月から編集陣に移動がありましたのを機会に、今年は、幅広い柔軟な目を養いながら、短歌を愛好される方々に、緊密な問題をとりあげてゆきたいと考えます。・・・」と記す。 後任の編集者の名も、この編集者交代の背景を知るすべを、今の私は知らないのだが、前々記事に登場の中井英夫(1922~1993)の『増補・黒衣の短歌史』(潮出版社 1975年)を中心に、時系列でたどってみたい(「二人のいた時代年表」『短歌研究』<中城ふみ子と中井英夫のいた時代>特集 2014年8月、「短歌年表Ⅰ~Ⅲ」『短歌研究』2017年7月~8月、『現代短歌大辞典』普及版 三省堂  2004年、参照)。 

1960年前後の短歌雑誌の編集者の推移(内野光子作成)

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 こうしてみると、1950年代から60年代前半にかけての短歌ジャーナリズムは、編集者に恵まれた、特異な貴重な時代ではなかったか、とも思われる。現代の短歌通史は、いくつかあるが、短歌ジャーナリズムの歴史といえば、参考にもした中井英夫の『黒衣の短歌史』や及川隆彦の『編集者の短歌史』(はる書房 2018年)を思いつくくらいで、雑誌の変遷や作品・記事と編集者・読者にも言及する客観的な通史が出ていないような気がする。ジャーナルとかかわりの深い歌人や編集者であった当事者の回顧も、もちろん大事なのだが、客観的な記録や分析も欲しいと切実に思う。資料の散逸や関係者が亡くなられていくことを目の当たりにして、いっそうその思いが募るのだった。

 1960年1月12日開催の歌会始、「光」への詠進歌が2万3363首に及び、戦後最多を記録した。皇太子婚約・結婚による皇室ブームが最大の理由だったと思うが、選者が吉井勇、土屋文明、四賀光子、松村英一に加えて、前年から五島美代子(1898~1978)と木俣修(1906~1983)が加わり、女性が四賀・五島の二人体制になったこと、木俣の参加で若返ったことなどが重なったからとも考えられる。当日は、入選者、選者、宮内庁からは入江相政詠進歌委員らが参加した祝賀会も催され(『短歌研究』1960年2月)、定着するかに見えた。

 戦後、国民に開かれ歌会始、“民間”歌人の選者起用をめぐって、選者らのレポートや歓迎の反応も多くみられたが、1950年代後半から、前々の当ブログ記事に紹介したように、批判的な論評が活発になった。『短歌研究』での「歌会始は誰のものか」というアンケートをまとめた記事(1959年3月)や水野昌雄、秋村功、吉田漱らによる論考だった。1960年に入ると、石井勉次郎「張りぼてのヒューマニズム―「形成」をめぐる独白」(『短歌研究』1960年2月)の「ヒューマニズムの終着駅が宮中歌会始か」という木俣修批判であった。翌月、吉野昌夫(1922~2012)「もっとまじめに考えたい―石井勉次郎の井戸端公開状に答う」(『短歌研究』3月)という木俣門下からの反論があったが、同門からという限界をぬぐい切れなかった。

また、前述のアンケートでも、歌会始と現代歌人協会の対応について糾弾していた岡井隆は、現代歌人協会の機関誌において、さらに鋭く批判を展開している(「非情の魅力について」『現代短歌』創刊号 1960年5月)。ところが、皮肉にも、岡井は、1993年以来、長い間、歌会始選者や御用掛を務めることになるのであるが、天皇制が変った、天皇が代わった、歌会始が変ったからというが、一番変わったのは岡井本人ではなかったのか。

「宮中歌会始とか召人とか参列者とかいうものが一種権威化(オオソライズ)され得るのは、実はマスメデイアの権威によるので、皇威によるものではない。この狼と狐の二重構造に一切腐敗の原因がある。この行事がマスコミのとりあげる所とならず、草深い皇居に破れ蚊帳がかかっているとしたら、現代歌人の誰が選者になりたがるか」

「それとも――それとも、この歌会始の儀につながる一切事は、旧支配者に対する民衆の残忍な戯れなのであろうか。尊王の至誠か、皇室民主化の至情か、とにかくそうした熱情の類をすっかり凍結したところに生れる非情な遊びなのだろうか。しかし、そこには美がない。この非情な穢醜を、わたしは肯定することが出来ない」

 言葉だけが激しい、品格がある文章にも思えず、引用するのもはばかられるが、その糾弾の矛先は、現代歌人協会の面々、「身近な」として土屋文明、柴生田稔、近藤芳美にも及び、『人民短歌』系の渡辺順三、坪野哲久、山田あき、という名も登場する。表現はともかく、歌会始入選者の祝賀会が、現代歌人協会、日本歌人クラブ、女人短歌会共催、歌壇挙げて、10年来続いていることへの素朴な疑問や違和感は、少なからずあったことは、前述の歌会始への異議にも伺われる。しかし、選者たちへの反発はあっても、歌人団体の対応自体への批判は、その後も聞こえてはこないまま、現在に至っている。この辺りにも、団体のメンバーの多くは、わが身に引き寄せ、考えての躊躇いというか、事は荒立てないという保身があったのかもしれない。

 編集陣が後退したのは前述の通りだが、例えば特集と思われるものを拾ってみると、以下のようになる。
1月自然詠、3月生活短歌、4月女流特集、5月新人作品・評論特集、6月沖縄特集、7月宗教と短歌、8月日本の苦悩に目をそらすな/今こそ短歌の良心を敲く(レポート・6・15を経て>の島田修二、大西民子、上月昭雄、生野俊子、小野茂樹、武川忠一によるエッセイ)、9月新人賞発表。
 また、「名作50首と解説」というシリーズが始まり、茂吉・八一、良平・左千夫、牧水・白秋、啄木・迢空、夕暮・賢治、純・節、赤彦・明星派五人、千樫・利玄、鉄幹・広子といった組み合わせで連載された。書き手を歌人に限定しない工夫も見られたが、短歌初心者向けの案内ともいえよう。
 ちなみ、実質的な編集者に富士田元彦を迎えた角川書店の『短歌』の特集を見てみるとつぎのようになり、『短歌研究』と比べると、その方向性が際立ってくるだろう。
 1月短歌作風変遷史、2月茂吉/評論(芸術性・政治性、フィクション・ノンフィクション、リアリズム・アンチリアリズム、文語定型・口語自由律)、執筆:菱川善夫・秋村功・深作光貞・上田三四二 3月夭折歌人、4月“現代の青春”と短歌、5月安保改訂を歌う作品集、6月安保改訂の歌をめぐって、8月(戦後短歌)あの頃こと/明日の短歌を展く新鋭作品集、9月再論・社会詠の方向について/作品特集安保改訂をうたう/沖縄と沖縄の短歌、10月戦後作家論集、11月祖国(朝鮮)をうたう。

つぎに、当時の作品に即して考えてみたい。(つづく)

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2019年6月12日 (水)

いまの歌壇はどうなっているのか~1960年前後の短歌・歌人たちを振り返る(3)1959年(続)

短歌研究1959年6月号/7月号/8月号/9月号                  

社会問題、天皇制からの切り口へ
 1959年の後半も「主題制作」と「長期連作」の企画は続き、「連載短歌」は吉井勇、生方たつゑ、塚本邦雄に代わって、5月号からは、佐藤佐太郎「北の海」「佛桑華」「雨季」、斎藤史「密閉部落Ⅰ~Ⅲ」が始まっていた。また、6月号からは、<未発表歌集シリーズ>という新企画が始まる。第一弾が木俣修青春歌集「市路の果」152首(1928年3月~1931年6月)は、北原白秋系の『香蘭』時代の作品が中心で、木俣は、1935年6月には白秋創刊『多磨』に参加している。8月号は、前川佐美雄青春歌集「”春の日”以前」150首(1920~1925年)であった。

・教室をおはれし友はつひにまた會ふはなからむと重々といふ
・とめどなく思ひまよふ十行に足らぬ履歴を紙にしるして
(木俣修「市路の果」『短歌研究』1959年6月)

・野の駅に汽車待ちをれば少女子が和えに雨に濡れ来て川をたためり
・俄雨に合歓の花散る草山をから傘すぼめてわれら行くなる
(前川佐美雄「”春の日”以前」『短歌研究』1959年8月

・落人は笛の音のごとく痩せながら空よるべなくさまよひにけり
・とほき歴史のかたより落つ聲かともはるかにたかし 天上の雁
(斎藤史「密閉部落Ⅱ」『短歌研究』1959年6月)

 また、6月号で目についたのは、竹山広(1920~2010)の作品だった。
・ものかげに潜みて燠を吹くごときくるしき愛をわれら遂げきつ
・朝来てなほ生ける脈しるしゆく残るくるしみをはかり見むため
(竹山広「ルルドの水」『短歌研究』1959年6月)  

 竹山の『心の花』に復帰直後の発表作で、長崎で結核療養中に被爆、兄を失い、長い空白の後、被爆体験の作品を出版したのは、1981年、第一歌集『とこしへの川』であったのである。 

 7月号・8月号には、「短歌による社会時評」があり、7月号の吉田漱「皇室ブーム」、井伊文子「今日の沖縄」、君島夜詩「北鮮帰還」は、歌人による時評であった。8月号のそれは、勤評闘争のさなかの教師の短歌、少年院や女子刑務所の入所者の短歌、ハンセン病者の短歌、労働者の短歌を現場に近い歌人が紹介する形をとる。私が注目したのは、吉田による、皇太子結婚への慶祝短歌の背景を分析したもので、大きく皇室への関心層と無関心層に分け、前者には、もっとも時流に敏感で、警職法反対と奉祝歌が同居できる「率先型」から懐疑型、傍観型、憧れ型、天皇制自体には決定的な意見を持たない良心型、天皇制廃止の抵抗型などに分けているのが辛辣であった。つぎのような結語部分は重大な指摘であったと、いまさら思う。
「天皇制、皇室、国家、これらの、ふりかえりが、本当にまだ各々のうちで、不十分なところに、実は問題があるので、その大きな大衆層は、いつたいどういうものかの分析、「保守的ムード」の検討、マスメデアに対する考察、ひいては世界の機構、国家の位置に目がとどかぬかぎり、今回のようなブームはきわめて容易におこる」

 前後するが、前記事の5月号の秋村功「道化師を操るもの」の反響として、6月号の「読者の批評」欄には、2件の投稿があった。秋村・吉田のいう「皇室ブーム」について共感し、皇室ブームへの疑問や違和感を持つ人たちが、声を上げていたことの証ではないか。その一つは、秋村の「皇室のプライベートな慶事がそのまま庶民のめでたさに通じるかのごとく錯覚させるむなしい報道」や「日本文学の源泉である短歌」と、歌会始にのぞむ選者たちは「誰かが作りあげた筋書きの上で踊つている悲しい道化であるかもしれない」とする主旨に対して、重要な問題を投げかけているとして、「文学の将来を左右するような切実な問題に、目を蔽って見すごすことは、とりも直さず“戦前“の愚を再びおかそうとする危険なしとしないからだ」「伝統があるから尊いのではなく、その発展を求めてこそ伝統は生き継がれるので、未来に通(じ)る詩でなくては伝統も死に絶えて終う」と訴えていたことも目に留まった。寄稿は、「大阪市 片山碩」となっていた。『覇王樹』の1960年代の同人だったらしい。
 皇太子の結婚をきっかけとしたミッチーブーム、皇室ブームへの歌壇の反応は、天皇制自体への疑問と危機感を率直に吐露している編集者、執筆者も、読者も、実に健全であったことを示しているのではないか。現在の天皇の代替わりをきっかけに、当然論議されるべきであった課題を、野党もメディアも歌人も、スルーして、奉祝ムードになだれ込んでいる実態を目の当たりにして、いっそうその感を強くした。
 また、歌人であり、琉球王家、尚家出身の井伊文子(1917~2004)の「今日の沖縄」は、当時、沖縄の情報が少ないなか、貴重なレポートであったと思う。中野菊夫や吉田漱らとともに、短歌を通じて沖縄と本土と数少ないパイプの役割を果たしたことは見逃せない。
 さらに、8月号の斉木創(香川県青松歌人会、1914~1995)による「H氏病者の現状」は、ハンセン病者の短歌が盛んになった昭和初期、「療園と皇室との紐帯は周知のように、極めて厳密な格別の庇護のもとにあり」、数知れないご慈悲に守られ、“聖恩感謝”の思想」は、病者にとっては血肉化された金科玉条であった、と書き起こされる。斉木は、自作「厳かしき世代におはし来て天皇は癩の上にすらやさしかりける」を引いて、昭和天皇の1950年、四国視察の際の「あな悲し病忘れて旗をふる人の心のいかにと思へば」に応えた過去のさまざまな呪縛から放たれ、意識変革をもたらしたのは民主憲法であったと述べながらも、現実の厳しさ、レプラ・コンプレックスを取り払う道を探ろうとする。斉木は、らい予防法が撤廃される1996年を目前に亡くなっている。
 なお、9月号の五十首詠では、特選は、山口雅子「春の風車」、石井利明「座棺土葬」であったが推薦作3人の内の一人に新井節子「流離の島」があったことにも着目したい。新井は、沖縄県屋我地島の国立療養所沖縄愛楽園に暮らすハンセン病者であり、その作品は、つぎのようなものだった。
・離れ島の中また隔つ境界の並木に日暮れの風こもり鳴る
・爆撃に皹破れし窓揺さぶりて北風酷薄の日を育ち来ぬ

(新井節子「流離の島」『短歌研究』1959年9月)

 なお、この年の5月号にさかのぼるのだが、中野菊夫「署名簿」(20首)は、私が近年知ることになる、ハンセン病者とされて、殺人事件の容疑者(熊本県の菊池恵楓園入所者)が最高裁まで争った「菊池事件」を詠んだ連作である。死刑が確定したのが1957年9月、直後に「救う会」が発足し、再審、助命嘆願、特赦など様々な運動を展開したが、1962年9月には、死刑が執行されたのである。中野は、事件自体にも冤罪ではないかという疑問、裁判制度への怒りをあらわにして、死刑確定後の被告にも面会し、恩赦申請の署名活動を進めていた。中野は、前述のように、早くより、ハンセン病者の短歌指導も積極的に行っていた。作品にある「隔離裁判」とは、感染などを理由に、ハンセン病者が裁判所以外の「特別法廷」でなされた裁判のことで、最高裁は、2016年になって、その特別法廷は法の下の平等な裁判を受ける権利を侵して違法であることを認め、謝罪している。1996年「らい予防法」の廃止後も、ハンセン病者や家族への差別は依然と根強く、「菊池事件」の再びの再審請求もいまだ続いている。現代においても、皇族のハンセン病者に「寄り添う」姿が、ことさら強調されるということは、何を意味しているのだろうか。
・隔離裁判なしたる狭き法廷に椅子ありうすく埃かぶりて
・ライを忌み親しきすら詳言をなさざりき偏見は今も變らず
・無力にして皇太子結婚をいまは待つ君の恩赦をたのめるがため
(中野菊夫「署名簿」『短歌研究』1959年5月)

 なお、8月号には、1956年の五十首詠特選となった小崎碇之介(『ポトナム』同人、1918~1995)が、「焱と死者の街」(53首)を発表している。小崎は、船員で、公務のため門司に赴く途中、広島駅近くの壕で仮眠中に被爆するが、助かった直後に綴った作品で、14年間、筐底に秘めていたという。GHQの占領下では、原爆に言及する出版物には極めて厳しい検閲がなされていたので、その後も、多くの歌人たちは出版には慎重だった時期でもある。
・まなぶたを刺す閃光にまどろみの覚めき砂零る壕におびえて
・雨昏く火の街にふり死者へふり生者をうちて心狂はしむ
(小崎碇之介「焱と死者の街」『短歌研究』1959年8月)

短歌研究1959年10月号/11月号

<未刊歌集>という方法

 10月号の未刊歌集は、斎藤史の「杳かなる湖」(87首、1943~45年、1946年)であった。1946年分は、歌文集『やまぐに』(臼井書房 1947年7月)に収めたと、「あとがき」には記している。また「総数百首」とも書く(うーん、簡単な足し算のはずだが)。この「杳かなる湖」の成り立ちと『斎藤史全歌集』への収録状況などは、拙著『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』でも触れている(表5「『全歌集』に収録された敗戦前後の「歌集」と初版『歌集』の歌数などの比較」)。史は、この未刊歌集をもって、「昭和三年から頃から今日までのものを、どこかに一応整理したことになるのだろうが、年月の風化の中に、どれほどとどまるものやら・・・」とも述べている。
・からからと子の乳母車押しながら風に逆らひゆく夕昏れを
・我は今かく渇(かは)けるをいづ方に夕凪美(は)しき湖(うみ)はありなむ
・東京に居らざる我をおとしむることば伝へて来し秋だより
(斎藤史「杳かなる湖」『短歌研究』1959年10月

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拙著『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』から

 新しい企画が重層的に展開するのはめまぐるしくもあるが、書き手の意欲もそそり、雑誌全体から躍動感が伝わり、読者の期待感も大きかったことだろう。しかし、主題制作や連作については、加藤克己、高尾亮一や当時の若い論者、菱川善夫、秋村功らによる厳しい批判も現れていた。たとえば、小崎の五十首詠特選(8月号)について、「私の五選」10月号で、高尾は「異常な体験の作品としては叙述的にすぎている」、加藤は「一首一首の終着の常識性、報道性のため主題を貫く思想が寸断される」、秋村は「被爆当時の死や実体として捉えず、その後の観念化された視点からしか捉えられていないのが惜しい」と。斎藤の「密閉部落」についても、秋村は「あらかじめ予定された視点から、悲劇の観念が事実との遭遇により、形を持つたまでであ」り、「”部落“を支える深部を抉り出すようにつとめてこそ、通俗ロマン主義的傾向から脱しうる道なのだ」とする。
 また、10月号で岡井隆「暦表(カレンダア)組曲」が3回で完結するのだが、加藤は、9月号の「私の五選」で、岡井の生活批評として注目するが、「持前の生への傲慢と不逞の変形として、もつときびしい深傷の感覚をふまえた上での、現実へのもうひとつ痛烈な風刺のコトバがほしい」と評している。同号では、9月号の五十首詠について、前身の編集部選から1958年選考委員方式になって2年目、初めて特選となった山口雅子「春の風車」、石井利明「座棺土葬」の批評もあり、なかなか手厳しいものであった。
 11月号の<未刊歌集>は近藤芳美の未発表歌集「大地の河」(120首、1940年9月~1941年末)であった。『早春歌』前の召集兵として戦地から妻への軍事郵便で送付した短歌がノートにまとめられていたのを忘れかけていたが、今回、若干手直しをしてをまとめたと「あとがき」に記している。
・前線に夜半発ち行くトラックか塀の銃眼をてらしつづけり
(敵前上陸の訓練をうく。暁舞台と呼ばれる)
・死せる兵運ばれて去り夜具一つたたまれており朝明くる窓
(軍医に胸を病んでいることを告げられ、そのまま内科病棟に移された)
・白衣着て佇つ身にまぶし夏となる大地の河の黄なるみなぎり
(朝鮮人娼婦らの一団に見送られて病院船に乗る)

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『短歌研究』1959年10月号、11月号より

 また、11月号では、三大連載と銘打った、山本健吉「人麻呂私抄」が11回、木俣修「昭和短歌史」が24回、柴生田稔「斎藤茂吉・その歌と生涯」11回と佳境に入っていた。そして、現在から振り返ってみれば、毎号、一冊、一冊に意欲的な作品や論文が多く、歌人研究や短歌史における資料的な価値が高い。現在の短歌総合誌の大方の「軽さ」からは想像もつかない。

 

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