2023年6月30日 (金)

 梅雨空の下諏訪~今井邦子という歌人

  国家公務員共済の宿「諏訪湖荘」のビーナスラインの観光バスと北八ヶ岳ロープウェイを乗り継ぎ、坪庭一周という企画を楽しみにしていたが、あいにくの霧と雨に見舞われた。足に自信がなかったので、私は坪庭はあきらめ、ロープウェイ山頂駅のやたらと広い無料休憩所で、お弁当を一足先に失礼し、スケッチをしてると、40分ほどで一行は戻ってきた。足元がかなり悪かったらしい。観光バスの窓は拭ってもぬぐってもすぐ曇り、百人乗りも可というロープウェイの窓は、往復とも雨滴が流れるほどで、眺望どころではなかった。

 とはいうものの、前日は、夫とともに、下諏訪の今井邦子文学館とハーモ美術館を訪ねることができたし、翌日は雨もやみ、原田泰治美術館に寄り、館内のカフェでのゆったりとランチを楽しむこともできた。鈍色の湖面には水鳥が遊び、対岸の岡谷の町は遠く霞んでいた。諏訪湖一周は16キロあるとのこと、再訪が叶えば、内回り、外回りの路線バスを利用して美術館巡りをしてみたいとも。

 今井邦子文学館は、ところどころ、宿場町の面影を残す中山道沿いの茶屋「松屋」の二階であった。邦子(1890~1948)は、幼少時よりこの家の祖父母に育てられ、『女子文壇』の投稿などを経て、文学を志し、上京し、暮らしが苦しい中、ともかく『中央新聞』社の記者となったが、1911年、同僚の今井健彦(1883~1966。衆議院議員1924~1946年、後公職追放)と結婚、出産、16年に「アララギ」入会、同郷の島木赤彦に師事、短歌をはじめ創作に励むも、自らの病、育児、夫との関係にも苦しみ、一時「一灯園」に拠ったこともあった。困難な時代に女性の自立を目指し、1936年、「アララギ」を離れ、女性だけの短歌結社「明日香」社を創立、1943年には、『朝日新聞』短歌欄の選者を務める。戦時下は、萬葉集『主婦の友』と発行部数を競った『婦人倶楽部』の短歌欄選者をローテーションで務めいる。1944年、親交のあった神近市子の紹介による都下の鶴川村への疎開を経て、1945年4月には、下諏訪の家に疎開したが、1948年7月、心臓麻痺により急逝している。58歳だった。 

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  今井邦子への関心は、かつて『扉を開く女たち―ジェンダーからみた短歌史 1945ー1953』(阿木津英・小林とし子・内野光子著 砂小屋書房 2001年9月)をまとめる過程で、敗戦前後の女性歌人の雑誌執筆頻度を調べた頃に始まる。20年以上前のことだったので検索の手段はアナグロの時代であって、決して網羅的ではないが、今井邦子の登場頻度が高かったことを思い出す。最近では、邦子が、つぎのような歌を『婦選』創刊号(1927年1月)に山田邦子の名で寄せていることを知って、紹介したことがある(『女性展望』市川房枝記念会女性と政治センター編刊 2023年1・2月号)。

・をみな子の生命(いのち)の道にかゝはりある國の會(つど)ひにまいらんものを

 1924年5月の総選挙で、夫、今井健彦が千葉県二区から衆議院議員に当選している。18歳歳以上の男女に選挙権をという普選運動は、1925年3月が普通選挙法が成立、1928年3月の総選挙で初めて実施されたのだが、婦人参政権獲得運動の願いもむなしく、女性は取り残されたまま、そんな中で、久布白落実、市川房枝らによって創刊されたのが『婦選』であった。邦子が寄せた歌にもその口惜しさがにじみ出ているのだった。

  今井邦子文学館は1995年、松屋跡地に復元再建して開館、二階が展示室になっているだけだった。展示目録もなかったようだし、当方のわずかな写真とメモだけで語るのはもどかしい。それでも、斎藤茂吉や島木赤彦からの直筆の手紙、邦子から茂吉のへ手紙など、活字に起こされていて、生々しい一面も伺われて興味深かった。

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展示室の冒頭、詩などを投稿していた『女子文壇』と姉との写真が目を引いた。転任の多かった父の仕事の関係で、邦子は、姉はな子とともに、祖父母に預けられ、育てられ、両親との確執は続く。その姉との絆は強かったが、若くして死別する。

 1911年の結婚、翌年の長女出産を経てまとめた歌文集『姿見日記』(1912年)には相聞歌も見られるが、出産を機に、つぎのような歌が第一歌集『片々』(1915年)には溢れだすのである。

・月光を素肌にあびつ蒼く白く湯気あげつゝも我人を思ひぬ『姿見日記』
・暗き家淋しき母を持てる児がかぶりし青き夏帽子は」『片々』 
・物言はで十日すぎける此男女(ふたり)けものゝ如く荒みはてける
・入日入日まつ赤な入日何か言へ一言言ひて落ちもゆけかし

 1916年アララギ入会、島木赤彦に師事、1917年長男妊娠中にリューマチを患い、治療はかどらず、以降足が不自由な身となる。1924年夫の政界進出、1926年島木赤彦の死をへて1931年に出版した『紫草』では、赤彦の影響は色濃く、作風の変化がみてとれる。「あとがき」によれば「大正五年から昭和三年(1916~1928年)まで」の3000余首から781首を収めた歌集だった。私にとって、気になる歌は数えきれないほどであったが・・・。子供、夫との関係がより鮮明に表れ、思い煩い、嘆き、心が晴れることがなく、一種の諦観へとなだれていくようにも読める。身近に自分を支えてくれた人たち、その別れにも直面する時期に重なる。以下『紫草』より。

・眠りたる労働者の前をいく群の人汗を垂り行きにけるかも(砲兵工廠前)(「しぶき」大正五年)
・青草の土手の下なる四谷駅夜ふけの露に甃石(いし)は濡れ見ゆ(「夜更け」大正六年)
・病身のわれが為めとて蓬風呂焚き給ふ姉は烟にむせつ(「帰郷雑詠」大正六年)
・三年(みととせ)ぶり杖つかず来て程近き郵便箱に手紙入れけり(「荒土」大正八年)
・もの書かむ幾日のおもひつまりたる心は苦し居ねむりつつ(「さつき」大正九年)
・争ひとなりたる言葉思ひかへしくりかへし吾が嘆く夜ふけぬ(「なげき」大正十年)
・つくづくとたけのびし子等やうつし世におのれの事はあきらめてをり(「梅雨のころ」大正十二年)
・土の上にはじめてい寝てあやしかも人間性来の安らけさあり(「関東震災」大正十二年)
・夫に恋ひ慕ひかしづく古り妻の君が心の常あたらしき(「喜志子様に」大正十三年)
・真木ふかき谿よりいづる山水の常あたらしき命(いのち)あらしめ(「山水」大正十四年)
・うつし世に大き命をとげましてなほ成就(とげ)まさむ深きみこころ(「赤彦先生」大正十五年)
・みからだをとりかこみ居るもろ人に加はれる身のかしこさ(「赤彦先生」大正十五年)
・嘆きゐて月日はすぎぬかにかくに耐ふる心に吾はなりなむ(「梅雨くさ」昭和二年)  
・姉上の野辺のおくりにふみしだく山草にまじる空穂の花は(「片羽集二」)
・ありなれて優しき仕へせざりしをかへりみる頃と日はたちにけり(夫に)(「萩花」昭和三年)

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展示会で見た時は、気が付かなかったが、よく見ると謹呈先が「山田邦子様」となっているではないか。今井邦子が旧姓にちなむ、かつてのペンネームであった「山田邦子」あてなのである。かつての自分への「ごほうび」?「おつかれさま」?なのか、ユーモアなのか。

 1935年にはアララギを離れ、翌年には『明日香』(1936年5月~2016年12月)創刊し、みずからも萬葉集などの古典を学び、後進の指導にもあたる。女性歌人の第一人者として、歌壇ばかりでなく、一般メディアへの登場も著しい。その一例として、つぎの調査結果を見てみたい。戦時下の内閣情報局による『最近に於ける婦人執筆者に関する調査』(1941年7月)という部外秘の資料からは、当時の八つの婦人雑誌への女性歌人の執筆頻度がわかる。期間は1940年5月号から1941年4月号までの一年間の執筆件数ではあるが、今井邦子は、他を引きはなし、婦女界5、婦人公論2,婦人朝日2、婦人画報1、新女苑1で計11件、五島美代子4件、茅野雅子3件、柳原白蓮3件であった。さらに2件以下として四賀光子、杉浦翠子、中河幹子、築地藤子、北見志保子、若山喜志子が続いている。いわゆる、当時は「名流夫人」として、名をはせた歌人たちであった。今井健彦、五島茂、茅野蕭々、宮崎龍介夫人であったのである。

 また、短歌雑誌ではどうだろうか。かつて、敗戦前後の女性歌人たちの執筆頻度を調べたことがある(前掲『扉を開く女たち』)今回、若干手直ししてみると、次のようになった。もし、邦子が敗戦後も活動できていたら、どんな歌を残していたか、どんなメッセージを発信していたのか、興味深いところである。

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上記の表から、今井邦子と四賀光子は、敗戦を挟んで激減し、阿部静枝と杉浦翠子は、増加している。生方、水町、中河は変わりなく、一番若かった斎藤史は倍増していることがわかる。

 なお、1942年11月、日本文学報国会の選定、内閣情報局によって発表された「愛国百人一首」について、「一つ残念な事があります」として、声を上げていたのである(「婦人と愛国百人一首」『日本短歌』1944年1月)。選定された百首のうち女性歌人の作が「わづか四人であるといふ、驚くべき結果を示されて居ります。現在の短歌の流行を考へ合わせると、そこにもだし難き不思議ななりゆきを感ずる訳であります」と訴えている。小倉百人一首には女性歌人が二十人選定されている一方、昭和の時代の選定に四人だけということを「長い長い歴史に於て真面目に婦人として考へて見なければならぬ事ではありますまいか」と婦人の無気力を反省しながらも、それはそれとして「女の心は女こそ知る、女も一人でも二人でもその片はしなりと相談にあづかるべきではなかつたらうかと、今も口惜く思ふ次第であります」と、12人の選定委員に女性がひとりもいなかったことにも抗議していた。「愛国百人一首」が国民にどれほど浸透していたかは疑問ながら、こうした発言すら、当時としてはかなりの勇気を要したのではなかったかという点で、注目したのだった。

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戦時下、雑誌統合により休刊となった『明日香』は、1945年10月には、謄写版が出され、その熱意が伝わってくる。1946年2月、邦子の下諏訪の家を発行所として復刊号が出されている。扉の一首「雨やみし故郷の家に居て見れば街道が白くかはきて通る」。

 また、『明日香』は、邦子の没後、姉の娘岩波香代子、川合千鶴子らによって続けられたが、2016年終刊に至る。

 

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2023年2月 3日 (金)

「短歌ブーム」というけれど

 『ポトナム』1月号に寄稿した「短歌時評」です。『短歌往来』「今月の視点」一部重なりますが、「短歌ブーム」と言われているけれど、これでいいのだろうかと、少し考え込んでいるところです。

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「歌壇」というものがあるとしても、私には、遠い存在でしかない。未練がましく短歌総合誌を二誌ほど購読し、短歌との付き合いは長いので、新聞の投稿歌壇や短歌時評などには、自然に目が向く。そして、ときどき、テレビの短歌番組を覗いてみたりする。いま、一種の「短歌ブーム」のさなかにいるらしいことがわかる。昨年は『文学界』が五月号で「幻想の短歌」を、『短歌研究』八月号ではズバリ「短歌ブーム」の特集が組まれていた。そして、数年前には、『ユリイカ』(二〇一六年八月)の「あたらしい短歌、ここにあります」の特集が話題となったこともある。 最近のブームについての情報やその実態もわかりにくいが、意外にも若い世代の人たちがブームを支え、短歌メディアもここぞと盛り上げようとしているのが見えてくる。

NHKも短歌番組に力を入れているが、テレビでは、私など、名前も知らない若いタレントをゲストに、四週で一回りする四人の選者と司会者が何やらゲームのようなコーナーで作歌を競わせたりする。若い選者の中で奮闘する栗木京子の週でも、芸人やタレントの短歌を一刀両断、プレバトの俳人夏井いつきを目指しているのか、どこか無理をしているようにも見えて、騒々しい番組になってしまった。毎年実施されるNHK全国短歌大会も、テレビを見る限り、ものものしく、近年は、「歌会始」の応募歌数が一万四〇〇〇首台であるのに比べると、この大会の方が上回っている。選者の数の多さと多様さがその一因と思われる。ジュニア部門として、切り分けているところが新聞歌壇にない特徴と言えようか。

 また、昨年、一一月三日、NHKの「第一二回牧水・短歌甲子園(宮崎県日向市主催)~三十一文字にかけた青春」をたまたま見たのだが、選者の紅白の旗の上げ下ろしで勝負が決まっていく様子をスポーツ実況さながらに報じていたのである。もっと淡々と高校生の短歌を伝えて欲しいと思った。と同時に、短歌ってこんな風に競うものだったのか、とあらためて思う。

 NHKは、ラジオでも、短歌に力を入れている。昨年の七月から九月、今野寿美による「危機の時代の歌ごころ」が放送されていた。そのテキストを読むかぎり、人選や歴史認識に違和感もあったが、戦争や災害、ハンセン病やコロナ禍、差別と闘ってきた多くの女性歌人、与謝野晶子から川野芽生までの作品を中心とするミニ短歌史ともいえる内容であった。また『ラジオ深夜便』一一月号によれば、月一回で、穂村弘による「ほむほむのふむふむ」、佐佐木幸綱による「おとなの教養講座~初めての万葉集」、「新・介護百人一首」の欄もあり、リスナーの世代的な配慮も欠かさないようである。

 敗戦直後、一九四六年一二月、『八雲』が創刊された折、久保田正文は、その「編集後記」において、「第二芸術論」を念頭に置いてのことと思うが、つぎのようにいう。「短歌が真に文学の一環としての生命を自覚し、芸術にきびしい途に繋がり得るか否か」に応えるには、その一つとして、「読者吸収策」の「短歌投稿欄」を設けないとも宣言していた。読者獲得のための営業政策には加担しないジャーナルを目指したのである。「読者歌壇」を持たない短歌総合誌が、現在も、たしかに、健在であることは知られている。

販売部数や視聴率は、送り手にとって大事にはちがいない。その ためにも、雑誌・番組の中身の編集・編成の工夫と執筆者・出演者の文学的資質によって、受け手のリテラシーも向上するという好循環を期待したいのである。(『ポトナム』2023年1月)

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2022年8月26日 (金)

『論潮』15号に寄稿しました~GHQの検閲下の短歌雑誌に見る<天皇><天皇制>

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 一昨年、岡村知子さんから『杉原一司歌集』を送っていただいたご縁で、日本近代文学の女性研究者を支援する同人誌『論潮』を知った。八月発行の15号に、お誘いいただき、ゲストとして、かなり長文の拙稿を掲載していただいた。これまで、雑誌やブログに断片的に書いてきたものだが、何とか、まとめることができたのは、ありがたいことだった。

<内容>
研究ノート・GHQの検閲下の短歌雑誌に見る<天皇><天皇制>90~128頁

はじめに
一 『短歌研究』一九四五年九月号に見る敗戦
二 天皇の「声」はどう詠まれたか
三 検閲下の「第二芸術論」
四 『アララギ』一九四七年一月号に見る「天皇」と「天皇制」
五 『八雲』登場
六 語りたがらない歌人たち
  内務省の検閲とGHQの検閲
  歌人はGHQの検閲をどう受け止めていたのか
  語り出す歌人たち

<関連拙著>
・「占領期における言論統制――歌人は検閲をいかに受けとめたか」

・『ポトナム』19739月、『短歌と天皇制』風媒社198810月、所収。

・「被占領下における短歌の検閲」『短歌往来』18873月、『現代短歌と天皇制』風媒社 20012月、所収

・元号が変わるというけれど、―73年の意味()~(9)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(1)~(5
  2018年107日~115

https://app.cocolog-nifty.com/cms/blogs/190233/entries/90067631

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/10/7352-e1cf.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/10/736-7809.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/10/73-4720.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/11/735-edf2.html

・「占領軍による検閲の痕跡」『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』 一葉社 2019年1月

・『プレス・コードの影』(中根誠著)書評「警鐘の書」『歌壇』20217

・『プレス・コードの影』(中根誠著)書評「表現の自由とは」『うた新聞』20218

 

 

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2022年6月26日 (日)

忘れてはいけない、覚えているうちに(1)「戦後短歌史とジェンダーを研究する会」の最後の会計係

 あまり好きな言葉ではないが、「断捨離」のさなか、身辺整理を始めてはいるが、なかなか片付かない。この間は、台所の食器類を整理した。まるで使ってないワイングラスのセットやコーヒーカップ、菓子皿や茶たくなどを取り出してみた。近くの散歩コースにある高齢者施設には、いきなり声をかけさせてもらった。若い施設長がやって来て、「ほんとに欲しいものだけでいいんですか」「これはお客さん用に」「花びんはありがたいです。季節の花は、皆さんよろこばれますから」と段ボール一杯ほどだが引き取ってくださった。雑誌や本、ノート、コピーした資料、手紙などになるとそう簡単にはいかない。

 古いファイルの一つを開いてみると、「戦後短歌史とジェンダーを研究会 会計ノート」と会場借用料の領収書が出てきた。記帳によると、2002年11月30日から2009年11月20日までで、残高2805円とあり、現金が入った封筒が挟まれていた。ノートによれば、私が、2009年6月から会計係を務めていたらしい。

 この会のあらましは、『扉を開いた女たち―ジェンダーからみた短歌史』(砂小屋書房 2002年3月)の「あとがき」にも記しているが、1995年秋、阿木津英の呼びかけで、1996年1月、銀座の「滝沢」で8名の女性歌人によって立ち上げられた。当初は、ほぼ2カ月おきに、戦後の短歌雑誌を、ひとまず1953年まで読み込んでみようということで、交代のレポートをもとに検証を進めた。そして、その成果は、最後まで残った阿木津、小林とし子と私の3人の共著『扉を開いた女たち』となった。この書は、東京女性財団の出版助成100万円を受けたことも忘れ難い。当時の石原都知事は、2001年度をもって、この事業を廃止してしまったのである。

 その出版を受けて、あたらしいメンバーで、再スタートした痕跡が、上記ノートに残されていた。2002年11月、銀座ルノアールで、上記の阿木津、小林、内野に、森山晴美、藤木直実、佐竹游が参加、その後は、空室を求めて中央区の区民館―銀座、人形町、新場、久松町、堀留町、京橋・・・と転々とした。途中、浜田美枝子も参加したが、去るメンバーもあって、2010年9月7日、銀座ルノアールの会で、研究会は中止となった。その成果を会として、まとめられなかったのは残念な思いもするが、その後は、各自が、ここに挙げるまでもなく、自らの研究成果や歌集を出版され、活躍されているのは、かつての、あの熱量を懐かしむとともに、心強くも思う昨今である。

 残高は、私がいつも古切手をお送りしている、かにた婦人の村「かにた後援会」(千葉県館山市大賀594)にカンパさせてもらうつもりなのだが、それでよろしいものか。

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先日、シルバーサービスのK
さんたち二人にお願いして、ドクダミほかの草引きをしていただいた。二年半ぶりなので、今度は早めにと言われてしまった。7月初めには、庭木の剪定もお願いしているが、スケジュールが込んでいるそうだ。写真左、数年前、移植したあじさいも今年は咲いてくれそう。

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2021年7月15日 (木)

代替わりに見る天皇の短歌と歌人たち―平成期を中心に(2)平成期における明仁天皇・皇后の短歌の果たした役割

 天皇夫妻の短歌と国民とのパイプ役をなすとされる歌会始はじめ、新聞・テレビなどへの登場、夫妻の歌集・鑑賞の書物の出版などが盛んになり、皇室行事、被災地訪問、慰霊の旅などを通して短歌の登場頻度が高くなり、歌碑などの形での接点も多くなった。 

<天皇・皇后の短歌と国民との接点>
a 1月1日の新聞:1年を振り返っての短歌、天皇(5首)、皇后(3首)の公表(天皇家の写真とのセットで)
b 1月中旬の歌会始:天皇・皇后はじめ皇族、選者、召人、入選者10人の歌とともに披講。NHKテレビの中継/当日の新聞夕刊と翌日の朝刊での発表/宮内庁HPでの登載
c 歌会始の詠進(応募)の勧め、入門書・鑑賞書などへ収録、出版
d 天皇の歌集、皇后との合同歌集での出版および鑑賞書の出版など
e 在位〇年、死去、代替わりの節目の図書の出版、新聞・雑誌など記事、特集、展示など
f 歌碑など

 平成期の天皇夫妻の短歌の特色として以下の三点があげられる。まず、短歌一覧をご覧ください。

資料 明仁天皇・美智子皇后の短歌一覧 

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1)平和祈念・慰霊のメッセージ

 「平和祈念・慰霊」のための短歌を多く詠んでいるが、その一部⑮~㉔を資料に収めた。 天皇の短歌は、おおらかで、大局的、儀礼的だが、皇后の短歌は、人間や自然観察が細やかで、情緒的であると言われている。天皇の短歌には、明治天皇や昭和天皇の作かと思われるような⑮⑯のような短歌もある。

⑮ 波立たぬ世を願ひつつ新しき年の始めを迎へ祝はむ(天皇)(1994年 歌会始 「波」)
 国のため尽くさむとして戦ひに傷つきし人のうへを忘れず(天皇)(1998年 日本傷痍軍人会創立四十五周年にあたり)

 慰霊の旅で詠まれた、夫妻の短歌を見てみよう。

 精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき(天皇)(1994 硫黄島)(終戦50年)
 慰霊地は今安らかに 水をたたふ如何ばかり 君ら水を欲りけむ(皇后)(1994 硫黄島)

 ⑱について、大岡信は、「立場上の儀礼的な歌ではない。・・・気品のある詠風だが、抑制された端正な歌から、情愛深く、また哀愁にうるおう歌の数々まで、往古の宮廷女流の誰彼を思わせる(「折々のうた」(『朝日新聞』1997年7月23日)と記す。
 原爆のまがを患ふ人々の五十年の日々いかにありけむ(天皇)(1995年 原子爆弾投下されてより五十年経ちて)
 被爆五十年 広島の地に静かにも雨降り注ぐ雨の香のして(皇后)(1995年 広島)
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      2005年、サイパン、バンザイクリフにて

㉑ サイパンに戦ひし人 その様を浜辺に伏して我らに語りき(天皇)(2005年 サイパン島訪問)
㉒ いまはとて 島果ての崖踏みけりし をみなの足裏思へばかなし(皇后)(2005年 サイパン島)

 ㉒は、歌人たちの間でも評判になった歌で、たとえば、歌会始の選者である永田さんは、つぎのように話す。「日本女性が崖から飛び降りた景を思い出して、詠まれたものと思われます。崖を踏み蹴って、海へ身を投げた女性の「足裏」を思っておられるところに、繊細な感性を感じとることができます。悲しく、しみじみと身に沁みる歌であります。このような国内外の慰霊の旅が、平和を希求される両陛下の強い思いから出ていることは言うまでもありません。平成という時代は、近代日本の歴史のなかで、唯一戦争のなかった幸せな時代でした。その大切さを誰よりも強く感じて来られたのが両陛下であったのかもしれません。」(「両陛下の歌に見る『象徴』の意味」『視点・論点』2019年03月06日 NHK放送)

 また、皇后の次のような短歌には、海外の戦争や内乱における加害・被害の認識について、やや屈折した思いを詠んだものある。

㉓ 慰霊碑は白夜に立てり君が花 抗議者の花 ともに置かれて(皇后)(2000年 オランダ訪問の折りに)
㉔ 知らずしてわれも撃ちしや春闌くるバーミアンの野にみ仏在(ま)さず(皇后)(2001年 野)

 ㉔について、安野光雅さんは「文化の違うところに立つ自分自身をかえりみて、何もできなかった自分もまた、「知らずして」「(相対的に)弾を撃つ立場にいたのではないか、かなしまれるおもいは、痛切である」(『皇后美智子さまのうた』朝日文庫 2016年10月)とやさしいスケッチとともに語っている。

 こうして、天皇夫妻が発するメッセージは、国民にどう届いているのか。少なくとも、ジャーナリストや史家、歌人たちの鑑賞や解説では、一様にというか、判で押したように「国民に寄り添い、平和を願い、護憲を貫く」メッセージとして、高く評価されています。さらに、2015年、戦後七〇年の「安倍談話」と8月15日全国戦没者追悼式における天皇の「おことば」とを比較し、天皇の言葉には「反省」の思いがあり、当時の安倍政権への抵抗さえ感じさせるという声も少なくなかった。
 このようにして、平和や慰霊をテーマにした短歌に限らず、災害や福祉、環境などをテーマにした短歌を詠み続け、国民に発信することによって、ときどきの政治・経済政策の欠陥を厚く補完し、国民の視点をそらす役割すら担ってしまう事実を無視できないと思っている。 

2)沖縄へのこだわり  

 昭和天皇の負の遺産―本土決戦の防波堤として沖縄地上戦の強行、米軍による占領・基地化の長期・固定化という「後ろめたさ」を挽回するために、11回の訪問、おことば、短歌による慰霊・慰撫のみが続けられた。天皇は、5・7・5・7・7の短歌ではなく、8・8・8・6という沖縄に伝わる「琉歌」まで作っている。上記、短歌一覧の㉕から㊾までご覧ください。天皇夫妻の個人的な思いはともかく、日本政府のアメリカ追従策に対して、何の解決にも寄与していなかった。 

資料 明仁天皇・美智子皇后沖縄訪問一覧(ダウンロード済↓)e5b9b3e68890e5a4a9e79a87e383bbe7be8ee699bae5ad90e79a87e5908ee6b296e7b884e8a8aae5958fe4b880e8a6a7.pdf

  <明仁天皇・美智子皇后の沖縄を詠んだ短歌> ㉕~㊾  *琉歌
㉕いつの日か訪ひませといふ島の子ら文はニライの海を越え来し
(美智子皇太子妃)(1971年 島)
㉖黒潮の低きとよみに新世の島なりと告ぐ霧笛鳴りしと(皇太子妃)(1972年 五月十五日沖縄復帰す)
㉗雨激しくそそぐ摩文仁の岡の辺に傷つきしものあまりに多く(皇太子妃)(1972年 五月十五日沖縄復帰す)
㉘この夜半を子らの眠りも運びつつデイゴ咲きつぐ島還り来ぬ(皇太子妃)(1972年 五月十五日沖縄復帰す)
㉙戦ひに幾多の命を奪ひたる井戸への道に木木生ひ茂る(明仁皇太子)(1975年 沖縄県摩文仁)
㉚ふさ(フサケユル)かいゆる木(キ)草(クサ)めぐる(ミグル)戦跡(イクサアト)くり返し返し(クリカイシガイシ)思(ウムイ)ひかけて(カキテイ)*(皇太子)(1975年 沖縄県摩文仁)
㉛今帰仁(ナキジン)の(ヌ)城門(グスイジョオ)の(ヌ)内(ウチ) 入れば(イレバ)、咲き(サチ)やる(ヤル)桜花(サクラバナ)紅(ビンニ)に染めて(スミテイ) 
(皇太子)(1975年 今帰仁城跡)

㉜みそとせの歴史流れたり摩文仁(まぶに)の坂平らけき世に思ふ命たふとし(皇太子)(1976年 歌会始「坂」)
㉝いたみつつなほ優しくも人ら住むゆうな咲く島の坂のぼりゆく(皇太子妃)(1976年 歌会始「坂」)
㉞広がゆる畑 立ちゅる城山 肝ぬ忍ばらぬ世ぬ事 *(皇太子)(1976年 伊江島の琉歌歌碑)
㉟四年にもはや近づきぬ今帰仁(なきじん)のあかき桜の花を見しより(皇太子)(1980年 歌会始「桜」)
㊱種々(くさぐさ)の生命(いのち)いのち守り来し西表(いりおもて)の島は緑に満ちて立ちたり(皇太子)(1984年 歌会始「緑」)
㊲激しかりし戦場(いくさば)の跡眺むれば平けき海その果てに見ゆ(天皇)(1993年 沖縄平和祈念堂前)
㊳弥勒(ミルク)世(ユ)よ(ユ)願(ニガ)て(ティ)揃(スリ)りたる(タル)人(フィトゥ)た(タ)と(トゥ)戦場(イクサバ)の跡(アトゥ)に(ニ)松(マトゥ)よ(ユ)植(ウイ)ゑたん(タン) (天皇)(1993年 沖縄県植樹祭)
㊴波なぎしこの平らぎの礎と君らしづもる若夏(うりずん)の島(皇后)(1994年 歌会始「波」)
㊵沖縄のいくさに失せし人の名をあまねく刻み碑は並み立てり(天皇)(1995年 平和の礎)
㊶クファデーサーの苗木添ひ立つ幾千の礎(いしじ)は重く死者の名を負ふ(皇后)(1995年 礎)
㊷疎開児の命いだきて沈みたる船深海に見出だされにけり(天皇)(1997年 対馬丸見出さる)
㊸時じくのゆうなの蕾活けられて南静園の昼の穏しさ(皇后)(2004年 南静園に入所者を訪ふ)
㊹弾を避けあだんの陰にかくれしとふ戦(いくさ)の日々思ひ島の道行く(天皇)(2012年 元旦発表、沖縄県訪問)
㊺工場の門の柱も対をなすシーサーを置きてここは沖縄(ウチナー)(皇后)(旅先にて)
㊻万座毛に昔をしのび巡り行けば彼方(あがた)恩納岳さやに立ちたり(天皇)(2013年 歌会始「立」)

㊼我もまた近き齢にありしかば沁みてかなしく対馬丸思ふ(皇后)(2014年 学童疎開船対馬丸)
㊽あまたなる人ら集ひてちやうちんを共にふりあふ沖縄の夜(天皇)(2018年 沖縄県訪問)
㊾与那国の旅し恋ほしも果ての地に巨きかじきも野馬も見たる
(皇后)(2018年 与那国島)

 3)美智子皇后の短歌の突出していたこと

  それでは、平成期に入って、天皇・皇后の短歌は、マス・メディアにどう扱われたかを見ていきたい。下記の文献一覧によれば、美智子皇后の短歌に特化した記事や図書が多数あり、昭和天皇への関心が維持されていることもわかる。美智子皇后には、皇太子妃時代の皇太子との合同歌集『ともしび』(1986)、単独歌集『瀬音』(1997)、NHK出版からの、在位10年、20年、30年記念の3回『道』には、天皇の歌とともに皇后の歌が収録されているが、ほかにも様々な執筆者により、美智子皇后の短歌の解説書や鑑賞の書が出版されていることがわかる。皇后の短歌は、観察・表現の繊細さに加えて、メデイア・世論への目配りが功を奏し、保守層からも、リベラル派からの支持を得、国民への影響力も大きいと言えよう。もっとも、明治天皇の昭憲皇太后、大正天皇の貞明皇后も、賢い皇后として、その足跡、短歌が残されているが、旧憲法下では限界があり、美智子皇后の積極性にはかなわず、歴代天皇の皇后にはなかった現象であった。

資料 天皇の短歌関係文献一覧(2000 ~)

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 4)「歌会始」と歌人たち、歌壇の反応
 選者の変遷の推移は、御歌所 ⇒民間歌人・女性歌人の登用 ⇒戦中派 ⇒「前衛歌人 ⇒戦後生まれ・人気歌人へとたどり、現代短歌との融合と選者任用が他の国家的褒章制度とのリンクが顕著となってきている。歌会始の選者になることが歌人としての一つのステイタスとなり、国家的褒章制度に組み込まれ、その出発点や通過点となったり、到達点になったりしている構図が見える。例外としての、馬場あき子、佐佐木幸綱さんには事情があるようで・・・。
 

資料 歌会始の推移

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 <歌会始選者たちの国家的褒章の受章歴>

木俣修(1906~1983): 歌会始選者1959 → 紫綬褒章1973 → 芸術選奨文部大臣賞1974→ 日本芸術院賞恩賜賞1983
岡野弘彦(1924~): 歌会始選者・芸術選奨文科大臣賞1979 → 御用掛1983~2007→ 

紫綬褒章1988 → 芸術院賞・芸術院会員・勲三等瑞宝章1998 → 文化功労者2013
岡井隆(1928~2020: 歌会始選者1993 → 紫綬褒章1996 → 御用掛2007~2018→

 芸術院会員2009 →  文化功労者2016 → 旭日中綬章追贈2020死去
篠弘(1933 ~):紫綬褒章1999 → 旭日小綬賞2005 → 歌会始選者2006 →御用掛2018~
三枝昂之(1944~):芸術選奨文科大臣賞2006 → 歌会始選者2008 →紫綬褒章2011
永田和宏(1947~):歌会始選者2004 → 紫綬褒章2009 →瑞宝中綬章2019 →?

 (参考)
栗木京子(1954~):芸術選奨文科大臣賞2007 → 紫綬褒章2014 → 歌会始召人控2020 →?
 現代歌人協会理事長(女性初)2019
馬場あき子(1928~):紫綬褒章1994 →芸術院賞2002 →芸術院会員2003 →文化功労者2019
佐佐木幸綱(1938~):芸術選奨文部大臣賞2000 → 紫綬褒章2002 → 芸術院会員2008

 5)明仁天皇の生前退位時前後の天皇制の行方~リベラル派、護憲派の天皇制への傾斜

リベラルな人たちの天皇制への傾斜、たとえば・・・・

矢部宏治(1960~):「初回訪問時の約束通り、長い年月をかけて心を寄せ続けた沖縄は、象徴天皇という時代の「天皇のかたち」を探し求める明仁天皇の原点となっていったのです」(『戦争をしない国―明仁天皇メッセージ』小学館 2015年)。著書に『日本は、なぜ基地や原発を止められないのか』(集英社インターナショナル 2014年)。
金子兜太(1919年~2018年):俳人。 金子兜太選「老陛下平和を願い幾旅路」(伊藤貴代美 七四才 東京都)選評、「天皇ご夫妻には頭が下がる。戦争責任を御身をもって償おうとして、南方の激戦地への訪問を繰り返しておられる。好戦派、恥を知れ」(「平和の俳句」『東京新聞』2016年4月29日)。「アベ政治を許さない」のプラカード揮毫者。
金子勝(1952~):マルクス経済学者。「【沖縄に寄り添う】天皇陛下は記者会見で、沖縄のくだりで声を震わせて「沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました」「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」と語る。アベは聞いているのか?」(2018年12月23日ツイート✔ @masaru_kaneko)。
白井聡(1977~):「今上天皇はお言葉の中でも強調していたように、「象徴としての役割」を果たすことに全力を尽くしてきたと思います。ここで言う象徴とは、「国民統合の象徴」を意味します。天皇は何度も沖縄を訪問していますが、それは沖縄が国民統合が最も脆弱化している場所であり、永続敗戦レジームによる国民統合の矛盾を押しつけられた場所だからでしょう。天皇はこうした状況全般に対する強い危機感を抱き、この危機を乗り越えるべく闘ってきた。そうした姿に共感と敬意を私は覚えます。天皇が人間として立派なことをやり、考え抜かれた言葉を投げ掛けた。1人の人間がこれだけ頑張っているのに、誰もそれに応えないというのではあまりにも気の毒です。」という主旨のことを述べています。(「天皇のお言葉に秘められた<烈しさ>を読む 東洋経済新報オンライン 2018年8月2日、国分功一郎との対談)。『永続敗戦論―戦後日本の核心』(太田出版 2013年)の著者。
内田樹(1950~):「天皇の第一義的な役割が祖霊の祭祀と国民の安寧と幸福を祈願すること、天皇は祈ってさえいればよい、という形でその本義を語りました。これは古代から変りません。陛下はその伝統に則った上でさらに一歩を進め、象徴天皇の本務は死者たちの鎮魂と苦しむ者の慰藉であるという「新解釈」を付け加えられた。これを明言したのは天皇制史上初めてのことです。現代における天皇制の本義をこれほどはっきりと示した言葉はないと思います。(「私の天皇論」『月刊日本』2019年1月)
永田和宏(1947~):歌人、歌会始選者。「戦争の苛烈な記憶から、初めは天皇家に対して複雑な思いを抱いていた沖縄の人々でしたが、両陛下の沖縄への変わらぬ、そして真摯な思いは、沖縄の人々の心を確実に変えていったように思えます。両陛下のご訪問は、いつまでも自分たちの個々の悲劇を忘れないで、それを国民に示してくださる大きなと希望になっているのではないでしょうか」(『宮中歌会始全歌集』東京書籍 2019年)。安保法制の反対、学術会議の会員任命問題でも異議を唱えている。
望月衣塑子(1975~):東京新聞記者。。コロナの時こそ、天皇や皇后のメッセージが欲しいと天皇・皇后へ賛美と期待を示す(作家の島田雅彦との対談、「皇后陛下が立ち上がる時」(『波』新潮社2020年5月)。
落合恵子(1945~):新天皇の大嘗祭での「おことば」を「お二人に願うことは、お言葉で繰り返された平和を、ずっと希求される<象徴>であって」(「両陛下へ」『沖縄タイムズ』2019年11月12日)

 美智子皇后との交流を重ねて語る石牟礼道子、安保法制に反対を表明した憲法学者の長谷部恭男は天皇制は憲法の「番外地」といい、木村草太は天皇の人権の重要性を説く。政治学者の加藤陽子は、半藤たちとご進講を務める。著書『それでも、日本人は『戦争』を選んだ』(朝日出版社 2009年)、半藤・保阪との共著『太平洋戦争への道1931-1941』NHK出版 2021年)
 リベラル、革新政党の天皇制への傾斜と同時に、安保法制反対、学術会議任命問題に異議を表明する歴史家や歌人たちが親天皇制を表明し、天皇夫妻の言動や短歌を高く評価する傾向が顕著になった。中堅、若手の歌人たちも「歌会始」への抵抗感も薄れている。こうした状況の中で、民主主義の根幹である「平等」に相反する天皇制を廃するにはどうしたらよいのか、現在の憲法のもとでできることは何か。
 私としては、天皇制廃止への志は忘れずにいたい。現制度の下で、できること、願うことといえば、天皇夫妻はじめ、皇族たちには、ひそかに、しずかに、質素に暮らしてもらうしかないのではないか。なるべく、国民の前に現れないように、そして、メディアも追いかけることはしないでほしい。天皇たちの人権を言うならば、天皇制が、さまざまな差別や格差の助長の根源であったことを思い返してほしい。一人の人間が、国民の「象徴」であること自体、「統合」であるとする「擬制」自体が、基本的人権に反するのではないか、といった趣旨で、締めくくった。下記のような感想や質問が出された。

・反戦主義者と思っていた半藤一利さんが意外であった。
・まず、男女平等の観点から「皇室典範」で女性天皇を認めるべきではないか。
・日本人には、古くから、短歌という文学形式が深く身についているから、短歌による発信が浸透するのではないか。
・宮中祭祀における、いわゆる「秘儀」に皇后たちは、苦悩したに違いない。その実態が明らかになっていないのが問題ではないか。
・黙っていて、というのは、天皇夫妻にも表現の自由があるのだから、酷ではないか。
・退位後、ネット上の美智子皇后へのバッシングがひどいのは、どうしたわけか。
・落合恵子さんは共和制を主張している人だが、天皇制を支持するとは、信じられないのだが。

  短歌が、国民に根付いた文学形式といっても、文学史上、多くの国民が短歌による発信ができるようになるのは、たかだか、近代以降で、それ以前の「和歌」は、一部の国民の発信ツールに過ぎなかったのではないか。美智子皇后へのネット上のバッシングというのは、私は詳しく知らないが、昭和・平成期にも潜在的にあったし、それを煽るようなメディアもあったと思う。「宮中」に入るからには、美智子皇后、雅子皇后にしても、当然覚悟していたことだと思う。いじめやバッシングは、法的な措置も辞さず、それによって、宮中内の実態も明らかになってゆくだろう。
  また、いわゆるリベラル派による天皇夫妻への敬意や積極的にも思える天皇制維持の発言は、これからも、噴出、拡大していくのではないか。それは、革新政党の、ウイングを広げようとして「寛大さ」や「柔軟性」を掲げ、民主主義の根幹を忘れるという退廃と、その一方での若年層の、天皇や天皇制への無関心が相俟って、この国の進む方向には、不安は募るばかりである。
 質疑も含めて二時間弱、オンラインに慣れない私は、もうぐったりしてしまった。対面での研究会や集会が待たれるのであった。

 

 

 

 

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2021年3月 2日 (火)

「諜報研究会」は初めてかも、占領下の短歌雑誌の検閲、日本人検閲官をめぐって(2)

 山本さんの新著『検察官―発見されたGHQ名簿』(新潮社)は、新聞広告を見て、近くの書店に注文したら、発売は来月ですと言われ、入荷の知らせをもらったまま、取りに行けず、この研究会に参加する羽目になった。今は、手元に置いているので、それを踏まえて、研究会の様子をお伝えしたい。
 
今回の「秘密機関CCDの正体追究―日本人検閲官はどう利用されたか」と題されたレジメの冒頭には、つぎのように記されている。
 「検閲で動員されるのは英語リテラシーのあるインテリであった。彼らは飢餓からのがれるためにCCDに検閲官として雇用され、旧敵国のために自国民の秘密を暴く役割を演じた。発見された彼らのリストと葛藤の事例を紹介しながら、CCDのインテリジェンス工作の実態に迫る。」

 長い間、CCD民間検閲局で、検閲の実務にあたっていた、検閲官の実態は謎のままであった。私も、プランゲ文庫の文書の検閲者の名前が気になっていた。文書には、検閲者の姓名や姓がローマ字で記されていて、多くは日本人とみられる名前だったのである。いったいどういう人たちがどんなところで、検閲にあたっていたのだろうかが疑問ではあった。
 山本さんは、2013年に、国立国会図書館のCCD資料の中から名簿の一部を発見し、以降わかった名簿は、インテリジェンス研究所のデータベースに収められている。CCDの職員はピーク時には8700人にも達し、東京を中心とする東日本地区、大阪を中心とする関西地区、中国九州地区で、おおよそ2万人ちかくの検察官が働いていたと推測している。しかし、その職を担ったのは、当時、まず、英語を得意とする人たちであったことは当然で、日系二世はじめ、日本人の学生からエリートにまで及んだが、その実態は明らかになっていなかった。
 そのような検閲者となった人たちは、敗戦後日本の「民主化」のためとはいえ、GHQによる「検閲」という言論統制に加担したことへの後ろめたさと葛藤があったにちがいなく、口を閉ざし、あえて名乗り出る人たちもなかったなか、時を経て、断片的ながら、さまざまな形で語り始める人たちも出てきた。甲斐弦『GHQ検閲官』(葦書房 1995年)の出版は、検閲の体験者としての貴重な記録となった。そうした検閲者たちの証言を、山本さんは、無名、有名をとわず、丹念に探索し、検閲の実態を解明しているのが、冒頭に紹介した新著であった。例えば、梅崎春生の兄の梅崎光生、ハンセン病者の光岡良二、言語学者の河野六郎、歌人の岡野直七郎、小説家の鮎川哲也、ロシア文学者の工藤幸雄、のちの国会議員の楢崎弥之助、久保田早苗らについて検証する。岡野らのように、実業界、金融業界からも、かなり多くの人たちが動員され、東大、東京女子大、津田塾らの学生らも大量に動員され、その一部の人たちの証言もたどる。
 
今回の山本さんのレポートの前半は、検閲者名簿の「Kinoshita Junji」(以下キノシタ)に着目、あの「夕鶴」で有名な劇作家の木下順二ではないかの仮説のもとに、さまざまな文献や直接間接の証言を収集、分析の結果、キノシタは木下順二との確信を得る過程を、詳しく話された。まるで、ミステリーの謎解きのような感想さえ持った。
 
木下順二(1914~2006)は1939年東大文学部英文学科卒業後、大学院に進み、中野好夫の指導を受けていた。法政大学で時間講師を務めるが、敵性言語の授業は無くなり失業、敗戦後は明治大学で講師を務めていたが、山本安英のぶどうの会との演劇活動も開始している。
 
一方、キノシタは、氏名で検索すると1946年11月4日に登場するが、49年9月26日付で病気を理由に退職している。この間、ハガキや手紙郵便物の検閲を行う通信部の監督官を務め、1948年にCCD内部で実施した2回の英語の試験で好成績をおさめている。かつて未来社の編集者として、多くの木下順二の著作出版にかかわった松本昌次(1927~2019)の証言や養女木下とみ子の証言で、確信を得たという。
 
山本さんは、新著の中で、木下順二が英語力に秀でていたこと、敗戦後の演劇活動には資金が必要であったこと、その活動が活発化したころに、CCDを退職していること、木下の著作には、アメリカへの批判が極端に少ないことなども、いわば状況証拠的な事実もあげている。
 
レポートの後半は、郵便物の検閲が実際どのようになされていたか、東京中央郵便局を例に、詳しく話された。いわゆる重要人物のウォッチリストの郵便物のチェックはきびしく、限られた場所で秘密裏に行われていたという。実際どんな場所で検閲が行われたかについてもリストがあり、東京では、中央郵便局のほかに、電信局、電話局、内務省、市政会館、松竹倉庫、東京放送会館などが明らかになっている。大阪でも同様、大阪中央郵便局、電信局、電話局、大阪放送局、朝日新聞社などで行われていた。しかし、大阪に関しては、関係資料がほとんど残されておらず、焼却されたとされている。
 
内務省やNHK、朝日新聞社などが、場所を提供していたばかりでなく、人材や情報なども提供していたと思われるが、年史や社史にも一切、記録されていないことであった。

 以上が私のまとめとはいうものの、大いなる聞き漏らしもあるかもしれない。 
 また、報告後の質疑で、興味深かったのは、『木下順二の世界』の著書もある演劇史研究の井上理恵さんが「木下順二とKinoshita Junjiが同一人物とは信じがたい。木下は、出身からしても困窮していたとは考えにくいし、CCDにつとめていたとされる頃は、演劇活動や翻訳で忙しかったはずだ」と驚きを隠せなかったようで、今後も調べたい、と発言があったことだった。また、立教大学の武田珂代子さんが、占領期の通訳や検察官におけるキリスト教系人脈はあったのか、朝鮮のソウルでのGHQの検閲の実態、検閲官として、朝鮮人がいたのか、などの質問から意見が交わされた。

 私は、あまりにも基本的な疑問で、しそびれてしまったのだが、GHQの検閲の処分理由に「天皇賛美や天皇神格化」があげられる一方で、天皇制維持や象徴天皇制へと落着することとの整合性がいつも気になっており、アメリカの占領統治の便宜だけだったのかについて、司会の加藤哲郎さんにもお聞きしたかったのだが、気後れしてしまった。

 なお、岡野直七郎についてははじめて知ったので、調べてみたいと思った。1945年12月10日採用となっているから、かなり早い採用だったと思われる。

 

 

 

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2021年2月28日 (日)

「諜報研究会」は、初めてかも~占領下の短歌雑誌検閲、日本人検閲官をめぐって(1)

 

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第34回諜報研究会(2021年2月27日(土))
ZOOMを利用してオンラインで開催

報告者:中根 誠(短歌雑誌「まひる野」運営・編集委員)
「GHQの短歌雑誌検閲」
報告者:山本 武利(インテリジェンス研究所理事長、早稲田大学・一橋大学名誉教授)
「秘密機関CCDの正体追究―日本人検閲官はどう利用されたか」  
資料
司会:加藤 哲郎(インテリジェンス研究所理事、一橋大学名誉教授)

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  今回、インテリジェンス研究所から、上のようなテーマでの研究会のお知らせが届いていた。ズームでの開催ということで、なんとなく億劫にしていたが、テーマがテーマだけにと、参加した。これまで、早稲田大学20世紀メデイア研究所の研究会には何度か参加したことはあるが、第34回という「諜報研究会」は、はじめての参加であった。

 中根誠さんの「GHQの短歌雑誌検閲」は、すでに、『プレス・コードの影~GHQの短歌雑誌検閲の実態』(短歌研究社 2020年12月)を頂戴していたので、ぜひと思っていた。
 著書は、メリーランド大学プランゲ文庫所蔵資料をもとに作成した奥泉栄三郎編『占領郡検閲雑誌目録・解題』(雄松堂書店 1982年)により国立国会図書館のマイクロフィルムを利用して、短歌雑誌111誌、331冊を対象とした論考である。GHQの検閲局に提出された短歌雑誌のゲラ刷ないし出版物の検閲過程がわかる文書の復刻と英文の部分の和訳をし、その検閲過程を解明し、解説をしている。検閲官による短歌の英訳、プレス・コードのどれに抵触するのか、その理由やコメント部分も丹念な和訳を試みている。文書は、タイプ刷りもあり、手書き文書もあり、判読が困難な個所も多いので、その作業には、苦労も多かったと思う。本書は短歌雑誌の検閲状況の全容解明への貴重な一書となるだろう。

 研究会での報告は、『短歌長崎』『短歌芸術』を例に、編集者と検察局との間でどういう文書が交わされたかを時系列で追い、出版に至るまでを検証する。国粋主義的な『言霊』を通じては、発行から事後検閲処分の遅れなどにも着目し、事後検閲の目的はどこにあったのかなどにも言及する。また国粋主義的な『不二』と『人民短歌』を例に、どんな理由で「削除」や「不許可」なったのかを量的に分析し、『不二』の違反数が圧倒的に多く、事後検閲に移行するこことがなかったのに比べ、『人民短歌』は、検閲者が一度違反と判断しても、のちに上司が「OK」に変更される例も多いことがわかったという。「レフト」(左翼)より「ライト」(右翼)にはきびしい実態を浮き彫りにする。
 各雑誌自体の編集方針の基準として、レフトとライトの間には、センター、コンサーバティブ、リベラル、ラディカル、といった仕訳がされ、文書には付記されていたことにも驚く。

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 中根さんは、事前検閲から事後検閲への移行の基準など明確に読み取れなかったことや、検閲が厳しい場合とそうでない、かなり杜撰な場合とがあることも指摘されていた。中根さんの報告の後、短歌関係なのでと、突然発言を求められ、驚いてしまったのだが、つぎのような感想しか述べられなかった。
 「一昨年、斉藤史という歌人の評伝を出版、その執筆過程で、気が付いたことなのだが、検閲の対象になった「短歌」ということになると、中央、地方の「短歌雑誌」だけでなく、さまざまなメディア、総合雑誌や文芸誌、婦人雑誌、新聞なども対象にしなければならないのではないか。斎藤史という歌人の周辺におけるGHQの検閲を調べてみると、斎藤史は、父親の歌人斎藤瀏と長野に疎開し、敗戦を迎える。地方の名士ということだろうか、斎藤史は、国鉄労組の長野支部の雑誌『原始林』(48年7月)に短歌7首を寄稿しているが、1首が削除されている。斎藤瀏は、『短歌人』という雑誌で何度か検閲処分を受けているが、宮城刑務所の文芸誌『あをば』(46年9月)に8首が掲載されていて、1首にレ点がついていた。だが、この8首は、『短歌人』(46年4月)からの転載だったので、すでに検閲済みで、1首が削除されての8首だった。二重のチェックを受けていることになるが、『あをば』1首には、「OK」の文字も見えて削除はされなかった。こんなことも起こり得るのかなと。そういうことで、プランゲ文庫の執筆者索引のありがたさや大事なことを痛感した。」
 発言では触れることができなかったのだが、史の作品の次の1首が「ナショナリズム」と「アンチ・デモクラシー」を理由に削除されている。史の『全歌集』には、収録されていない。
・この國の思想いく度變轉せしいづれも外より押されてのちに
 また、斎藤瀏のレ点のついたのはつぎの1首だった。
・皇國小さくなりたり小さけれど澄み徹りたる魂に輝け

 これまでも、私自身、旧著において、以下のようなテーマでGHQの検閲に言及してきたものの、断片的だったので、今回の中根さんの労作には、敬意を表してやまない。
①「占領期における言論統制~歌人は検閲をいかに受けとめたか」『短歌と天皇制』(風媒社 1988年10月)
②「被占領下における短歌の検閲」『現代短歌と天皇制』(風媒社 2001年2月)
③「占領軍による検閲の痕跡」『斎藤史―『朱天』から『うたのゆくへ』への時代』(一葉社 2019年1月)

 ①では、『短歌研究』1945年9月号の一部削除、『日本短歌』1945年9月号の発禁、斎藤茂吉歌集『つゆじも』、斎藤茂吉随筆集『文学直路』、原爆歌集『さんげ』などについて書いている。
 ②では、占領下の検閲についての先行研究に触れながら、検閲の対象、検閲の手続き、検閲を担当した日本人、検閲処分を受けた著者・編集者・出版社の対応について、今後の課題を提示した。とくに、桑原武夫「第二芸術論」が、彼の著作集の編集にあたっては復元することもなく、削除処分後の文章が載り、検閲についての注記もなかったことに象徴されるような潮流にも触れた。
 
③では、発言でも触れたことと、検閲を受けた歌人たちの対応について言及し、『占領期雑誌資料体系・文学編』(岩波書店 2010年)の第Ⅴ巻「短詩型文学」において、齋藤慎爾の解説「検閲に言及することは、自らの戦前、戦中の<戦争責任>の問題も絡んでくる。古傷が疼くことにあえて触れることもあるまい。時代の混乱を幸いとばかりに沈黙を決め込んだというのが実情ではないか」との指摘に共感したのだった。

山本武利先生の報告は次回で。(続く)

 

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2021年2月26日 (金)

2月23日「<歌会始>と天皇制」について、報告しました(2)

 4.昭和天皇は、敗戦後、どんな短歌を詠んできたか

 さきに、昭和天皇の太平洋戦争開戦時と「終戦」時の二つの「聖断」にかかる短歌を紹介しました。「身はいかになるとも」の思いで終戦の決断を下したと言いますが、こうした短歌は、あまりにも自己弁護的すぎて、当時発表されることが憚れたのでしょうか。1968年に出版された木下道雄『宮中見聞録』により公けになります。年表「天皇退位問題と極東軍事裁判の動向略年表(1945~1948)」に見るように、学者や大手新聞社の社説などでも天皇退位論議が盛んでしたし、東条英機らが逮捕され、極東軍事裁判が始まろうとし、憲法改正論議の行方も不透明でした。ただ、この時期に、つぎの2首が公表されています

⑥ 海の外の陸に小島にのこる民のうへ安かれとただいのるなり
(1946年1月1日、新聞発表)

⑦ ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松ぞををしき人もかくあれ(1946年1月22日 歌会始「松上雪」)

 昭和天皇は、1946年1月1日の年頭詔書でいわゆる「人間宣言」をしていますが、「五か条御誓文」をもって、民主主義の根本とし、神の国を否定したものでもなく、天皇の神格を明確に否定したものではなく、自分が現人神ではないことを述べるにとどまるものでした。
 ⑥は、雪の降るきびしい冬の寒さに耐えて、いつも青々と成長する松のように、人々も雄々しくかくありたいとの解釈ができますが、アメリカのジョン・ダワーという歴史家は『敗北を抱きしめて』において、「忍耐の美しい姿を表す古典的なイメージ」を作り上げ、「(天皇の)反抗の意を絶妙に表現したものである」とした、うがった解釈をしています。しかし、その頃の天皇は、実に不安定な場にあって「抵抗」どころかではなかったのではないかと推察されます。
 敗戦の翌年46年2月からは地方巡幸を開始します。その頃の短歌に、以下があります。

⑧ わざはひをわすれてわれを出むかふる民の心をうれしとぞ思ふ(1946年10月30日宮内省発表)

⑨ たのもしく夜はあけそめぬ水戸の町うつ槌の音も高くきこえて(1947年歌会始「あけぼの」)

⑩ ああ広島平和の鐘も鳴りはじめたちなほる見えてうれしかりけり(1947年12月広島・中国地方視察)

 出迎えてくれて嬉しい、復興が進んで頼もしい、と詠んでいますが、当時、小学生だった私の体験からも、一般の人々の暮らしの実態を知ろうともしなかったのではないかと思います。1946年5月には食糧メーデーも起きています。 
 ⑩の広島訪問の歌は、被爆の実態を知らず、被爆者の思いには至らない、まるで明るく、軽快な「流行歌」のようにも思えます。後年の記者会見で「原爆は仕方なかった」と述べたことにも通ずるところがあります。

 それでも、さまざまな行事や訪問先で、儀礼的に挨拶のような戦没者追悼や戦争追想のようなつぎのような短歌を詠み続けていました。
⑪ 年あまたへにけるけふものこされしうから思へばむねせまりくる(1962年日本遺族会創立十五周年)

⑫ 年あまたへにけるけふも国のため手きずおひたるますらを思ふ( 1962年 傷痍軍人うへを思ひて)

⑬ 戦をとどめえざりしくちをしさななそぢになる今もなほおもふ(1971年伊勢神宮参拝)ヨーロッパ旅行を前に旅な安全を祈りに

⑭ 戦果ててみそとせ近きになほうらむ人あるをわれはおもひかなしむ(1971年イギリス)

⑮ さはあれど多くの人はあたたかくむかへくれしをうれしと思ふ(1971年イギリス)

⑯ 戦にいたでをうけし諸人のうらむをおもひ深くつつしむ(1971年オランダ)

 ⑪⑫ 同じ年に、軍人遺族と傷痍軍人たちに向けて詠んだものですが、「年あまたへにけるけふも」と同じ上の句で始まる歌であったとは、まさに「ごあいさつ」にも思えてしまいます。「むねせまりくる」も、昭和天皇の常套句です。イギリスやオランダでは、かつて日本の捕虜になった人々やその遺族から、激しい抗議を受け、イギリスでは植樹した木を抜かれたり、オランダでは、卵を投げつけられたりしたとも報道されています。「おもひかなしむ」「深くつつしむ」と詠みながら、⑮のように、あたたかく迎えられ、厚く迎えてくれる人がいたからと、すぐに立ち直る軽さと無神経さに驚きもします。 

 昭和天皇の短歌が平和への願いや戦争への思いを込めたものとして強調され、繰り返されることは、すでに戦争を知らない世代をはじめ、天皇や天皇の短歌、短歌そのものへの関心がない人々にもたらされる効果は微々たるものかもしれませんが、皇室イベントの折々に、種々のメディアにより繰り返されることによるアナウンス効果は無視できないのではないか、と思われます。その意味で、メディアの果たす役割は大きいと言わざるを得ません。

5.昭和天皇に戦争責任はなかったのか 
 短歌からは少し離れますが、そもそも、昭和天皇には、大日本帝国憲法下においては、第3条天皇は神聖にして侵すべからず、とあるのだから、どんな責任をも負う必要がない、あるいは、天皇は、軍部からの正確な情報が届いておらず、軍部に利用されていたにすぎないから戦争責任はないという俗説も流布されていますが、それらの説に、従来から実証的に反論する研究者は、決して少なくはありません。
 たとえば、山田朗は、旧憲法11条天皇は陸海軍を統帥する、とあって制度的に「大元帥」であって、軍部の言いなりになっていたわけではなく、軍事の知識も東郷平八郎仕込みで豊かであったし、数々の具体的な作戦計画や内容に深く介入、関与していたと、数々の例で実証しています。
 
私たちにもわかりやすい例でいえば、つぎのいずれの場合も、天皇の意思であったことはすでに認知されていることだと思います。
・1936年 2・26事件では、反乱軍の鎮圧と軍事裁判による処刑
・1945年3月以降の沖縄戦における地上戦とその続行

 また、死去報道の折、敗戦と終戦の二つの聖断をもって、昭和天皇は平和主義者だったというイメージが醸成されましたが、「戦争責任がない」という証として、いくつかの方法がとられていることもわかってきました。
 一つは、次のようなエピソードが繰り返されてきたことです。
・太平洋戦争直前の1941年9月6日の御前会議でつぎのような明治天皇の御製「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風立 ちさわぐらむ」を読み上げた
・1945年敗戦直後、昭和天皇が、疎開地の明仁皇太子にあてた手紙に「日本が負けたのは軍人が跋扈したからで、終戦を決断したのは三種の神器をまもり、国民を守るため」との主旨を綴っていた

 また、つぎのような、天皇の身近な人物の日記やメモの公開により、戦争への反省や退位の意向を漏らしていたことをもって、免責を示唆するようなこともあります。しかし、それはあくまでも個人の日記であり、メモのであって、しかも天皇の発言は「伝聞」であり、記録者の「恣意」も働いていることを前提にしなければならないのではないでしょうか。

・1937年近衛内閣時代の閣僚、敗戦時は内大臣だった、天皇の側近中の側近だった木戸幸一による『木戸幸一日記』(東大出版会 1966年)
・外交官から政治家となり、リベラルと称せられ、敗戦後片山哲内閣の後を継いで首相となった芦田均の『芦田均日記』(岩波書店 1986年)
・初代宮内庁長官田島道治の「拝謁記」(毎日新聞2019年8月19日ほか)
・マッカーサーと昭和天皇との会談通訳の人たちの日記(朝日新聞2002年8月5日)

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 そして、昭和天皇は、結局、結果的には、退位もしませんでしたし、戦争責任発言もありませんでした。のちの記者会見で、戦争責任問題を「文学上の言葉のアヤ」と称して、スルーし、原爆投下は「仕方なかった」とさえ語っていました。
 それでは、なぜそのようなことが可能であったかといえば、GHQは、天皇の戦争責任を問うよりは、当初の方針通り、天皇の敗戦後の処遇については作戦が練られていて、象徴天皇制の構想、天皇を中心とする傀儡政権構想などのもと、「退位」より「在位」をとり、スムーズな統治を狙い、極東軍事裁判で、無罪潔白を確定する必要があると考えたのだと思います。こうしたGHQの方針と天皇制を残したい日本の思惑が一致して、昭和天皇の戦争責任を曖昧にすることによって、国家の戦争責任をも曖昧にし、歴史認識をゆがめてきたことになるのではないでしょうか。

「天皇退位問題・憲法問題・極東軍事裁判の動向略年表」
ダウンロード - e5b9b4e8a1a8efbc91.pdf

 

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2021年2月25日 (木)

2月23日「<歌会始>と天皇制」について、報告しました(1)

 2月19日の当ブログに書きましたように、「女たちの戦争と平和資料館」(wam)主催の<天皇制を考える>シリーズの三回目として、西早稲田のAVACO教会の一室で開催されました。予約制で定員40人ほどの方が参加してくださいました。参加の皆さんはそれぞれの分野で活動されている方々なので緊張しました。事前には、wamの担当のYさんにはいろいろご教示いただきながら、なんとか当日を迎えました。資料などの準備で、明治以降の歴代の天皇・皇后の短歌から、報告に必要な短歌の80余首を選びました。歌会始に関するデータを表にしたり、年表を作成したりは、これまでの拙著出版にあたってもやってきた作業ではありましたが、いま、また、新しいデータを補い、あらためて新しい事実を知ることも多々あって、厄介ではありましたが、楽しい一面もありました。

 また、代替わりこそなかったのですが、1945年敗戦前後の明治・大正・昭和天皇及び各皇后の短歌の在り様をたどり、昭和から平成、平成から令和という代替わりを目の当たりにした者として、マス・メディア、現代の短歌ジャーナリズムや現代歌人の対応を振り返ることにもなり、新聞や雑誌の記事のファイルを持ち出しては、話の内容をまとめるのに苦労をしました。配布したい資料はどんどん増え、読み上げ原稿もなかなか削れませんでした。
 予定の90分に収まるか、どうか。コロナ対策で、間に休憩をとるということで、どの辺で区切るのか、気はもめましたが、何とか、時間的には収まりました。
 さて、その中身はとなると、個人的には、短歌からは、なるべく離れないようにしながら、レジメのなかの「おわりに~”リベラル派”識者の護憲と天皇制」の問題について、参加者の声も聴きたいなと思っていたのですが、思うように時間が取れませんでした。以下、私の話の一部ながら、どうしても伝えたかったいくつかを、書き留めておきたいと思います。当日のレジメの順序とは若干異なっています。

1.この30年の歌壇と天皇制

 まず冒頭で、次の雑誌の特集と図書をあげて、この30年間の歌壇の基盤にほとんど変革がみられなかったこと、そして、あたらしい元号「令和」が萬葉集から採られ、大いに盛り上がっていたことなどを指摘しました。

1989年1月『短歌』臨時増刊「天皇陛下と昭和」
2019年1月『短歌研究』「平成の大御歌と御歌」
2919年3月『象徴のうた』永田和宏 文芸春秋

2.昭和天皇は平和主義者だったか  
 昭和天皇の死去報道の中で、例えば、つぎのがさまざまなメディアで取り上げられ、太平洋戦争「開戦」には慎重であったことが、繰り返されました。同時に、をもって「終戦」の決断をしたということが強調され、昭和天皇は平和主義者だったとのイメージが増幅されました。

① 峰つづきおほふむら雲ふく風のはやくはらへとただいのるなり
(1942年歌会始「連峰雲」)

② 爆撃にたふれゆく民の上おもひいくさとめけり身はいかならむとも
(木下道雄『宮中見聞録』1968年で公開)

  ①についてその典型的な解説といえば、
岡野弘彦:長い間、歌会始の選者と御用掛を務めた歌人
「太平洋戦争がはじまり、戦時中の昭和十七年のお題<連峰雲>の御製では、戦争が早く終わって平和になるようにとお望みになっていた」「しかし時勢は陛下のお気持ちとは逆の方向に進み、十二月一日には内閣と統帥部との一致した結論として陛下も開戦やむを得ないとなさった」(昭和天皇歌集『おほうなばら』解題 1990)

下馬郁郎(=半藤一利):昭和史研究、元『文芸春秋』編集長
「沈痛きわまりない感情の表白というべきか。そして陛下が、あの激越な戦争中、ただ祈りつづけてこられたことに気付かせられる。陛下にとっての「昭和史」とは、ことごとに志に反し、ひたすら祈念の時代であったということなのだろうか」(「御製にみる陛下の“平和への祈り”」『文芸春秋』1989年3月号)

 また昭和十年代の昭和天皇の短歌を評して
保阪正康:「昭和十年代の天皇の祈りの歌から、平和主義者であったことは一目瞭然です。天皇は相手により言葉を使い分けますが、歌の中ではほんとうの気持ちを詠まれているということです」
(『よみがえる昭和天皇 御製で読み解く87年』(辺見じゅんとの対談) 文春新書 2012年2月)

  昭和史の第一人者と言われる半藤、保阪の二人が「御製」で歴史を語っていることに、あらためて驚きました。

3.昭和、平成の天皇が詠んだ沖縄  
 また、昭和天皇晩年の歌で、つぎの一首がよく引用されます。1987年10月、沖縄での国民体育大会に病気のため出かけられなくなったことを歌い、皇太子夫妻が代わりに参加し、「おことば」を代読しています。そして、この歌も「昭和天皇は、沖縄訪問の責任が果たせなかったという特別の思いを持ち、沖縄の人々への思いやり」を示した歌だと、保阪正康も先の本で語っていますが、この「思いやり」の部分を平成の天皇夫妻が受け継いだと思われます。
③ 思はざる病となりぬ沖縄をたづね果たむつとめありしを(1987年)

 しかし、昭和天皇には、沖縄についての重大な二つの「負の遺産」もありました。すなわち、
・1945年3~6月まで、本土決戦の前提として、沖縄地上戦を続行させた、多大な犠牲者、県民の4人に一人、20万人の犠牲者を出したこと
・1947年9月、御用掛、寺崎英成を通じて、GHQに琉球諸島の占領継続を長期租借の二国間条約によるという内容の文書(「天皇メッセージ」「沖縄メッセージ」)を渡していたこと(進藤栄一の論文で明るみに。『世界』41979年月号)

 そこで、平成の天皇夫妻は、皇太子時代5回、天皇時代6回、合わせた11回訪問し、その都度、短歌を詠み、「おことば」を残しています。他の都道府県訪問に比して突出している数字です。沖縄訪問一覧をご覧ください。
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 なぜこれほどまでに沖縄にこだわるのかといえば、上記、昭和天皇の負の遺産を、少しでも減らしていきたいという思いがあったことは確かですが、沖縄の基地に対する政府の対応は、県民にとっては屈辱の連鎖でしたし、民意に反して、固定化し、強化されているのが現状です。平成の天皇夫妻の短歌や「おことば」では、犠牲者への慰霊や鎮魂が繰り返されますが、それは、夫妻の個人的な心情があったとしても、沖縄県民への慰撫や懐柔の役割を果たし、政府の沖縄への対応の欠陥を補完していると思えるのです。
 平成の天皇と皇后の沖縄を詠んだ短歌を多く残しています。国立戦没者墓苑、平和の礎、平和祈念堂には幾度も、福祉施設などを訪ねていますが、その中の2首だけについて、その背景を伝えておきたいと思います。

④ 広がゆる畑 立ちゅる城山 肝ぬ忍ばらぬ 戦世ぬ事 
(ファルガルユチタキ タチュルグスィクヤマ チムヌシヌバラヌ イクサユヌタトゥ)
(皇太子)(1976年 伊江島の琉歌歌碑)

⑤ 時じくのゆうなの蕾活けられて南静園の昼の穏しさ
(皇后)(2004年 南静園に入所者を訪ふ)

 ④は、1975年7月、皇太子夫妻は、海洋博のため、はじめて沖縄を訪ねますが、その時に、本島の本部港から船で30分ほどの伊江島に立ち寄っています。 
 伊江島は45年4月16日、米軍が上陸し、島民の二人に一人が亡くなるという激戦地で、敗戦後は、最も早く、まさに銃剣とブルドーザーで島民は追い払われ、島の60%が米軍の軍用地となり、現在も35%が基地となっている島で、オスプレイの訓練などに使用しています。この歌は57577の短歌ではなく、沖縄特有の8886を基調とする歌、天皇が一人で学んだという琉歌です。島の中央にあるグスクヤマの中腹に、「御來村記念碑」とこの琉歌の歌碑が並んで、76年に建てられています。しかし、私たちが出かけたときは、島の生まれだという、案内の運転手さんは、「天皇の歌碑なんて、あったかね」とそっけなく、「ああ、あった、これですかね」という反応でした。いまはリゾートの島、百合の島、人口よりも牛の数の方が多い伊江牛の島として有名だとのことでした。
 ⑤は、2004年1月、宮古島の南静園という国立ハンセン病療養所を訪ねたときの皇后の歌です。沖縄には、もう一つ本島の北部に屋我地島、今では橋でつながっていますが、沖縄愛楽園という国立ハンセン病療養所があります。皇后がここに訪ねた折も、療養中の人々と親しく懇談したり、握手をしたりして、歓迎され、沖縄の民謡を歌って見送ってくれたという一連の動向が美しい物語として報じられていました。 戦前に建てられた、全国で13ある国立ハンセン病療養所の二つが沖縄にあるわけですから、米軍基地を押し付けられている構造にも共通するところです。私たちが愛楽園を訪ねたとき、構内の案内図には、「御歌碑」が示されているのですが、なかなか見つかりません。戦前に、貞明皇后が、全国の療養所に、下賜金とともに送った「つれづれの友となりても慰めよいくことかたきわれにかはりて」という歌は、ハンセン病者の強制隔離政策のプロパガンダとして、「皇恩」の象徴でもあったのです。「御歌碑」をあきらめて、広い構内を見学しているうちに、運動場のような草原につきあたった、その広場の隅に、何かが見えると、近づいてみると、破れかかった青いビニールシートに覆われた、大きな横長の岩があったのです。透けたシートの間から、なんと「つれづれ・・・」の文字が読め、横倒しになった「御歌碑」とわかりました。私には衝撃的な一瞬でした。資料室の展示で、敗戦直後、「御歌碑」は海に投げ込まれたとはありましたから、1970年代、再建された歌碑のはずです。シートの破れ具合から、こうした状況になってかなり年月が経っているようにも見え、私たちが訪ねた2017年2月、一つ現実を目の当たりにした思いでした。(続く)

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2021年2月19日 (金)

" "御製”で読み解く”歴史”の危うさ

 別紙のような企画で、「歌会始と天皇制」について、話すことになりました。その準備の過程で、あらためて、天皇の短歌が、歴史の前面に立ち現れて、歴史が語られることに、危惧を感じています。

 大日本帝国憲法のもとで、明治天皇や歴代の天皇の短歌が持ち出されて、歴史が語られていた時代はともかく、現代にあっても、天皇の短歌で綴られてゆく、昭和史や平成史が一部でまかり通っていることの危うさを感じないわけにはいきません。天皇や皇后の短歌や天皇の「おことば」に平和や慰霊への思い、国民に寄り添う気持ちをことさら高く評価したり、政権への批判や抵抗をも読みとろうとする、<リベラル派>の論者やそれを好んでもてはやすマス・メディアにも、一種の圧力のようなものを感じている昨今です。

 どんな報告ができるか不安ではありますが、報告概要とチラシは以下の通りです。

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