2019年10月 4日 (金)

『象徴のうた』(永田和宏著)の書評を書きました

 先月号の『現代短歌新聞』に掲載されたものです。『象徴のうた』は、昨年1月から今年3月まで、週一で63回にわたって『東京新聞』に連載された記事をまとめたものです。平成の天皇夫妻の短歌を中心に、鑑賞・解説をしていますが、共同通信配信のシリーズでしたから、各地の新聞での読者も多かったと思います。著者は、2004年から歌会始ん選者を務めています。それだけに、時代背景や天皇家の内情などを交えながら、天皇夫妻はじめ皇族方の短歌の意を丁寧に読み解き、鑑賞がなされています。そのスタンスは、おのずから明確で、国民に寄り添おうとする「お気持ちの最も大切な部分」が「お二人のお歌、短歌にこそ籠められている」というものです。しかし、短歌や「おことば」などとして発信されるメッセージは、そんなに単純なものとは思われないというのが私の感想でした。あまりにも過剰な思い入れは、かえって、読者の鑑賞を損なってしまうのではないかとさえ思えたのです。まだ、お読みでない方は、一度、近くの図書館で、ご覧になるとよいと思います。

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『現代短歌新聞』2019年9月1日号より。

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2019年6月21日 (金)

いまの歌壇はどうなっているのか~1960年前後の短歌・歌人たちを振り返る(4)1960年

 

 1960年、多くの国民の支持を得た、いわば反政府運動の高揚と挫折を情緒的に振り返ろうというわけではない。あの当時から、私自身が関心を持ち始めた「短歌」を通して、歌壇の状況、歌人たちの作品や発言の断片から、1960年とやがて60年になろうとしている今日を探ってみたいという試みにすぎない。たまたま、手元にある『短歌研究』のバックナンバーやコピー資料からたどってみようというわけなのだが、あくまでも気の向くままの、独断と偏見によるスケッチ、ノートとでもいうのかもしれない。

 1960年は、『短歌研究』にとっては、ひとつの大きな曲がり角となった。1月号の奥付から「編集者 杉山正樹」が消え、「発行者 木村捨録」と印刷者の名前が並ぶだけとなった。「読者への手紙」という編集後記では、その末尾に「一月から編集陣に移動がありましたのを機会に、今年は、幅広い柔軟な目を養いながら、短歌を愛好される方々に、緊密な問題をとりあげてゆきたいと考えます。・・・」と記す。 後任の編集者の名も、この編集者交代の背景を知るすべを、今の私は知らないのだが、前々記事に登場の中井英夫(1922~1993)の『増補・黒衣の短歌史』(潮出版社 1975年)を中心に、時系列でたどってみたい(「二人のいた時代年表」『短歌研究』<中城ふみ子と中井英夫のいた時代>特集 2014年8月、「短歌年表Ⅰ~Ⅲ」『短歌研究』2017年7月~8月、『現代短歌大辞典』普及版 三省堂  2004年、参照)。 

1960年前後の短歌雑誌の編集者の推移(内野光子作成)

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 こうしてみると、1950年代から60年代前半にかけての短歌ジャーナリズムは、編集者に恵まれた、特異な貴重な時代ではなかったか、とも思われる。現代の短歌通史は、いくつかあるが、短歌ジャーナリズムの歴史といえば、参考にもした中井英夫の『黒衣の短歌史』や及川隆彦の『編集者の短歌史』(はる書房 2018年)を思いつくくらいで、雑誌の変遷や作品・記事と編集者・読者にも言及する客観的な通史が出ていないような気がする。ジャーナルとかかわりの深い歌人や編集者であった当事者の回顧も、もちろん大事なのだが、客観的な記録や分析も欲しいと切実に思う。資料の散逸や関係者が亡くなられていくことを目の当たりにして、いっそうその思いが募るのだった。

 1960年1月12日開催の歌会始、「光」への詠進歌が2万3363首に及び、戦後最多を記録した。皇太子婚約・結婚による皇室ブームが最大の理由だったと思うが、選者が吉井勇、土屋文明、四賀光子、松村英一に加えて、前年から五島美代子(1898~1978)と木俣修(1906~1983)が加わり、女性が四賀・五島の二人体制になったこと、木俣の参加で若返ったことなどが重なったからとも考えられる。当日は、入選者、選者、宮内庁からは入江相政詠進歌委員らが参加した祝賀会も催され(『短歌研究』1960年2月)、定着するかに見えた。

 戦後、国民に開かれ歌会始、“民間”歌人の選者起用をめぐって、選者らのレポートや歓迎の反応も多くみられたが、1950年代後半から、前々の当ブログ記事に紹介したように、批判的な論評が活発になった。『短歌研究』での「歌会始は誰のものか」というアンケートをまとめた記事(1959年3月)や水野昌雄、秋村功、吉田漱らによる論考だった。1960年に入ると、石井勉次郎「張りぼてのヒューマニズム―「形成」をめぐる独白」(『短歌研究』1960年2月)の「ヒューマニズムの終着駅が宮中歌会始か」という木俣修批判であった。翌月、吉野昌夫(1922~2012)「もっとまじめに考えたい―石井勉次郎の井戸端公開状に答う」(『短歌研究』3月)という木俣門下からの反論があったが、同門からという限界をぬぐい切れなかった。

また、前述のアンケートでも、歌会始と現代歌人協会の対応について糾弾していた岡井隆は、現代歌人協会の機関誌において、さらに鋭く批判を展開している(「非情の魅力について」『現代短歌』創刊号 1960年5月)。ところが、皮肉にも、岡井は、1993年以来、長い間、歌会始選者や御用掛を務めることになるのであるが、天皇制が変った、天皇が代わった、歌会始が変ったからというが、一番変わったのは岡井本人ではなかったのか。

「宮中歌会始とか召人とか参列者とかいうものが一種権威化(オオソライズ)され得るのは、実はマスメデイアの権威によるので、皇威によるものではない。この狼と狐の二重構造に一切腐敗の原因がある。この行事がマスコミのとりあげる所とならず、草深い皇居に破れ蚊帳がかかっているとしたら、現代歌人の誰が選者になりたがるか」

「それとも――それとも、この歌会始の儀につながる一切事は、旧支配者に対する民衆の残忍な戯れなのであろうか。尊王の至誠か、皇室民主化の至情か、とにかくそうした熱情の類をすっかり凍結したところに生れる非情な遊びなのだろうか。しかし、そこには美がない。この非情な穢醜を、わたしは肯定することが出来ない」

 言葉だけが激しい、品格がある文章にも思えず、引用するのもはばかられるが、その糾弾の矛先は、現代歌人協会の面々、「身近な」として土屋文明、柴生田稔、近藤芳美にも及び、『人民短歌』系の渡辺順三、坪野哲久、山田あき、という名も登場する。表現はともかく、歌会始入選者の祝賀会が、現代歌人協会、日本歌人クラブ、女人短歌会共催、歌壇挙げて、10年来続いていることへの素朴な疑問や違和感は、少なからずあったことは、前述の歌会始への異議にも伺われる。しかし、選者たちへの反発はあっても、歌人団体の対応自体への批判は、その後も聞こえてはこないまま、現在に至っている。この辺りにも、団体のメンバーの多くは、わが身に引き寄せ、考えての躊躇いというか、事は荒立てないという保身があったのかもしれない。

 編集陣が後退したのは前述の通りだが、例えば特集と思われるものを拾ってみると、以下のようになる。
1月自然詠、3月生活短歌、4月女流特集、5月新人作品・評論特集、6月沖縄特集、7月宗教と短歌、8月日本の苦悩に目をそらすな/今こそ短歌の良心を敲く(レポート・6・15を経て>の島田修二、大西民子、上月昭雄、生野俊子、小野茂樹、武川忠一によるエッセイ)、9月新人賞発表。
 また、「名作50首と解説」というシリーズが始まり、茂吉・八一、良平・左千夫、牧水・白秋、啄木・迢空、夕暮・賢治、純・節、赤彦・明星派五人、千樫・利玄、鉄幹・広子といった組み合わせで連載された。書き手を歌人に限定しない工夫も見られたが、短歌初心者向けの案内ともいえよう。
 ちなみ、実質的な編集者に富士田元彦を迎えた角川書店の『短歌』の特集を見てみるとつぎのようになり、『短歌研究』と比べると、その方向性が際立ってくるだろう。
 1月短歌作風変遷史、2月茂吉/評論(芸術性・政治性、フィクション・ノンフィクション、リアリズム・アンチリアリズム、文語定型・口語自由律)、執筆:菱川善夫・秋村功・深作光貞・上田三四二 3月夭折歌人、4月“現代の青春”と短歌、5月安保改訂を歌う作品集、6月安保改訂の歌をめぐって、8月(戦後短歌)あの頃こと/明日の短歌を展く新鋭作品集、9月再論・社会詠の方向について/作品特集安保改訂をうたう/沖縄と沖縄の短歌、10月戦後作家論集、11月祖国(朝鮮)をうたう。

つぎに、当時の作品に即して考えてみたい。(つづく)

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2019年6月12日 (水)

いまの歌壇はどうなっているのか~1960年前後の短歌・歌人たちを振り返る(3)1959年(続)

短歌研究1959年6月号/7月号/8月号/9月号                  

社会問題、天皇制からの切り口へ
 1959年の後半も「主題制作」と「長期連作」の企画は続き、「連載短歌」は吉井勇、生方たつゑ、塚本邦雄に代わって、5月号からは、佐藤佐太郎「北の海」「佛桑華」「雨季」、斎藤史「密閉部落Ⅰ~Ⅲ」が始まっていた。また、6月号からは、<未発表歌集シリーズ>という新企画が始まる。第一弾が木俣修青春歌集「市路の果」152首(1928年3月~1931年6月)は、北原白秋系の『香蘭』時代の作品が中心で、木俣は、1935年6月には白秋創刊『多磨』に参加している。8月号は、前川佐美雄青春歌集「”春の日”以前」150首(1920~1925年)であった。

・教室をおはれし友はつひにまた會ふはなからむと重々といふ
・とめどなく思ひまよふ十行に足らぬ履歴を紙にしるして
(木俣修「市路の果」『短歌研究』1959年6月)

・野の駅に汽車待ちをれば少女子が和えに雨に濡れ来て川をたためり
・俄雨に合歓の花散る草山をから傘すぼめてわれら行くなる
(前川佐美雄「”春の日”以前」『短歌研究』1959年8月

・落人は笛の音のごとく痩せながら空よるべなくさまよひにけり
・とほき歴史のかたより落つ聲かともはるかにたかし 天上の雁
(斎藤史「密閉部落Ⅱ」『短歌研究』1959年6月)

 また、6月号で目についたのは、竹山広(1920~2010)の作品だった。
・ものかげに潜みて燠を吹くごときくるしき愛をわれら遂げきつ
・朝来てなほ生ける脈しるしゆく残るくるしみをはかり見むため
(竹山広「ルルドの水」『短歌研究』1959年6月)  

 竹山の『心の花』に復帰直後の発表作で、長崎で結核療養中に被爆、兄を失い、長い空白の後、被爆体験の作品を出版したのは、1981年、第一歌集『とこしへの川』であったのである。 

 7月号・8月号には、「短歌による社会時評」があり、7月号の吉田漱「皇室ブーム」、井伊文子「今日の沖縄」、君島夜詩「北鮮帰還」は、歌人による時評であった。8月号のそれは、勤評闘争のさなかの教師の短歌、少年院や女子刑務所の入所者の短歌、ハンセン病者の短歌、労働者の短歌を現場に近い歌人が紹介する形をとる。私が注目したのは、吉田による、皇太子結婚への慶祝短歌の背景を分析したもので、大きく皇室への関心層と無関心層に分け、前者には、もっとも時流に敏感で、警職法反対と奉祝歌が同居できる「率先型」から懐疑型、傍観型、憧れ型、天皇制自体には決定的な意見を持たない良心型、天皇制廃止の抵抗型などに分けているのが辛辣であった。つぎのような結語部分は重大な指摘であったと、いまさら思う。
「天皇制、皇室、国家、これらの、ふりかえりが、本当にまだ各々のうちで、不十分なところに、実は問題があるので、その大きな大衆層は、いつたいどういうものかの分析、「保守的ムード」の検討、マスメデアに対する考察、ひいては世界の機構、国家の位置に目がとどかぬかぎり、今回のようなブームはきわめて容易におこる」

 前後するが、前記事の5月号の秋村功「道化師を操るもの」の反響として、6月号の「読者の批評」欄には、2件の投稿があった。秋村・吉田のいう「皇室ブーム」について共感し、皇室ブームへの疑問や違和感を持つ人たちが、声を上げていたことの証ではないか。その一つは、秋村の「皇室のプライベートな慶事がそのまま庶民のめでたさに通じるかのごとく錯覚させるむなしい報道」や「日本文学の源泉である短歌」と、歌会始にのぞむ選者たちは「誰かが作りあげた筋書きの上で踊つている悲しい道化であるかもしれない」とする主旨に対して、重要な問題を投げかけているとして、「文学の将来を左右するような切実な問題に、目を蔽って見すごすことは、とりも直さず“戦前“の愚を再びおかそうとする危険なしとしないからだ」「伝統があるから尊いのではなく、その発展を求めてこそ伝統は生き継がれるので、未来に通(じ)る詩でなくては伝統も死に絶えて終う」と訴えていたことも目に留まった。寄稿は、「大阪市 片山碩」となっていた。『覇王樹』の1960年代の同人だったらしい。
 皇太子の結婚をきっかけとしたミッチーブーム、皇室ブームへの歌壇の反応は、天皇制自体への疑問と危機感を率直に吐露している編集者、執筆者も、読者も、実に健全であったことを示しているのではないか。現在の天皇の代替わりをきっかけに、当然論議されるべきであった課題を、野党もメディアも歌人も、スルーして、奉祝ムードになだれ込んでいる実態を目の当たりにして、いっそうその感を強くした。
 また、歌人であり、琉球王家、尚家出身の井伊文子(1917~2004)の「今日の沖縄」は、当時、沖縄の情報が少ないなか、貴重なレポートであったと思う。中野菊夫や吉田漱らとともに、短歌を通じて沖縄と本土と数少ないパイプの役割を果たしたことは見逃せない。
 さらに、8月号の斉木創(香川県青松歌人会、1914~1995)による「H氏病者の現状」は、ハンセン病者の短歌が盛んになった昭和初期、「療園と皇室との紐帯は周知のように、極めて厳密な格別の庇護のもとにあり」、数知れないご慈悲に守られ、“聖恩感謝”の思想」は、病者にとっては血肉化された金科玉条であった、と書き起こされる。斉木は、自作「厳かしき世代におはし来て天皇は癩の上にすらやさしかりける」を引いて、昭和天皇の1950年、四国視察の際の「あな悲し病忘れて旗をふる人の心のいかにと思へば」に応えた過去のさまざまな呪縛から放たれ、意識変革をもたらしたのは民主憲法であったと述べながらも、現実の厳しさ、レプラ・コンプレックスを取り払う道を探ろうとする。斉木は、らい予防法が撤廃される1996年を目前に亡くなっている。
 なお、9月号の五十首詠では、特選は、山口雅子「春の風車」、石井利明「座棺土葬」であったが推薦作3人の内の一人に新井節子「流離の島」があったことにも着目したい。新井は、沖縄県屋我地島の国立療養所沖縄愛楽園に暮らすハンセン病者であり、その作品は、つぎのようなものだった。
・離れ島の中また隔つ境界の並木に日暮れの風こもり鳴る
・爆撃に皹破れし窓揺さぶりて北風酷薄の日を育ち来ぬ

(新井節子「流離の島」『短歌研究』1959年9月)

 なお、この年の5月号にさかのぼるのだが、中野菊夫「署名簿」(20首)は、私が近年知ることになる、ハンセン病者とされて、殺人事件の容疑者(熊本県の菊池恵楓園入所者)が最高裁まで争った「菊池事件」を詠んだ連作である。死刑が確定したのが1957年9月、直後に「救う会」が発足し、再審、助命嘆願、特赦など様々な運動を展開したが、1962年9月には、死刑が執行されたのである。中野は、事件自体にも冤罪ではないかという疑問、裁判制度への怒りをあらわにして、死刑確定後の被告にも面会し、恩赦申請の署名活動を進めていた。中野は、前述のように、早くより、ハンセン病者の短歌指導も積極的に行っていた。作品にある「隔離裁判」とは、感染などを理由に、ハンセン病者が裁判所以外の「特別法廷」でなされた裁判のことで、最高裁は、2016年になって、その特別法廷は法の下の平等な裁判を受ける権利を侵して違法であることを認め、謝罪している。1996年「らい予防法」の廃止後も、ハンセン病者や家族への差別は依然と根強く、「菊池事件」の再びの再審請求もいまだ続いている。現代においても、皇族のハンセン病者に「寄り添う」姿が、ことさら強調されるということは、何を意味しているのだろうか。
・隔離裁判なしたる狭き法廷に椅子ありうすく埃かぶりて
・ライを忌み親しきすら詳言をなさざりき偏見は今も變らず
・無力にして皇太子結婚をいまは待つ君の恩赦をたのめるがため
(中野菊夫「署名簿」『短歌研究』1959年5月)

 なお、8月号には、1956年の五十首詠特選となった小崎碇之介(『ポトナム』同人、1918~1995)が、「焱と死者の街」(53首)を発表している。小崎は、船員で、公務のため門司に赴く途中、広島駅近くの壕で仮眠中に被爆するが、助かった直後に綴った作品で、14年間、筐底に秘めていたという。GHQの占領下では、原爆に言及する出版物には極めて厳しい検閲がなされていたので、その後も、多くの歌人たちは出版には慎重だった時期でもある。
・まなぶたを刺す閃光にまどろみの覚めき砂零る壕におびえて
・雨昏く火の街にふり死者へふり生者をうちて心狂はしむ
(小崎碇之介「焱と死者の街」『短歌研究』1959年8月)

短歌研究1959年10月号/11月号

<未刊歌集>という方法

 10月号の未刊歌集は、斎藤史の「杳かなる湖」(87首、1943~45年、1946年)であった。1946年分は、歌文集『やまぐに』(臼井書房 1947年7月)に収めたと、「あとがき」には記している。また「総数百首」とも書く(うーん、簡単な足し算のはずだが)。この「杳かなる湖」の成り立ちと『斎藤史全歌集』への収録状況などは、拙著『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』でも触れている(表5「『全歌集』に収録された敗戦前後の「歌集」と初版『歌集』の歌数などの比較」)。史は、この未刊歌集をもって、「昭和三年から頃から今日までのものを、どこかに一応整理したことになるのだろうが、年月の風化の中に、どれほどとどまるものやら・・・」とも述べている。
・からからと子の乳母車押しながら風に逆らひゆく夕昏れを
・我は今かく渇(かは)けるをいづ方に夕凪美(は)しき湖(うみ)はありなむ
・東京に居らざる我をおとしむることば伝へて来し秋だより
(斎藤史「杳かなる湖」『短歌研究』1959年10月

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拙著『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』から

 新しい企画が重層的に展開するのはめまぐるしくもあるが、書き手の意欲もそそり、雑誌全体から躍動感が伝わり、読者の期待感も大きかったことだろう。しかし、主題制作や連作については、加藤克己、高尾亮一や当時の若い論者、菱川善夫、秋村功らによる厳しい批判も現れていた。たとえば、小崎の五十首詠特選(8月号)について、「私の五選」10月号で、高尾は「異常な体験の作品としては叙述的にすぎている」、加藤は「一首一首の終着の常識性、報道性のため主題を貫く思想が寸断される」、秋村は「被爆当時の死や実体として捉えず、その後の観念化された視点からしか捉えられていないのが惜しい」と。斎藤の「密閉部落」についても、秋村は「あらかじめ予定された視点から、悲劇の観念が事実との遭遇により、形を持つたまでであ」り、「”部落“を支える深部を抉り出すようにつとめてこそ、通俗ロマン主義的傾向から脱しうる道なのだ」とする。
 また、10月号で岡井隆「暦表(カレンダア)組曲」が3回で完結するのだが、加藤は、9月号の「私の五選」で、岡井の生活批評として注目するが、「持前の生への傲慢と不逞の変形として、もつときびしい深傷の感覚をふまえた上での、現実へのもうひとつ痛烈な風刺のコトバがほしい」と評している。同号では、9月号の五十首詠について、前身の編集部選から1958年選考委員方式になって2年目、初めて特選となった山口雅子「春の風車」、石井利明「座棺土葬」の批評もあり、なかなか手厳しいものであった。
 11月号の<未刊歌集>は近藤芳美の未発表歌集「大地の河」(120首、1940年9月~1941年末)であった。『早春歌』前の召集兵として戦地から妻への軍事郵便で送付した短歌がノートにまとめられていたのを忘れかけていたが、今回、若干手直しをしてをまとめたと「あとがき」に記している。
・前線に夜半発ち行くトラックか塀の銃眼をてらしつづけり
(敵前上陸の訓練をうく。暁舞台と呼ばれる)
・死せる兵運ばれて去り夜具一つたたまれており朝明くる窓
(軍医に胸を病んでいることを告げられ、そのまま内科病棟に移された)
・白衣着て佇つ身にまぶし夏となる大地の河の黄なるみなぎり
(朝鮮人娼婦らの一団に見送られて病院船に乗る)

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『短歌研究』1959年10月号、11月号より

 また、11月号では、三大連載と銘打った、山本健吉「人麻呂私抄」が11回、木俣修「昭和短歌史」が24回、柴生田稔「斎藤茂吉・その歌と生涯」11回と佳境に入っていた。そして、現在から振り返ってみれば、毎号、一冊、一冊に意欲的な作品や論文が多く、歌人研究や短歌史における資料的な価値が高い。現在の短歌総合誌の大方の「軽さ」からは想像もつかない。

 

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2019年6月 7日 (金)

いまの歌壇はどうなっているのか~1960年前後の短歌・歌人を振り返る(2)1959年

 当ブログは、2006年1月に開きましたが、今回の記事がちょうど1000件目にあたります。雑多で、つたない発信ですが、楽しいときもあり、苦しいときもありました。お訪ねくださる皆さまに支えられ、続けることができました。予想外の反響に励まされ、思いがけない出会いや情報交換のチャンスにも恵まれました。ありがとうございます。そして、リンクをしてくださっている方々には重ねてお礼を申し上げます。更新は、遅々たるものですが、ときどきの思いを綴っていきたいと思っています。今後ともよろしくお願いいたします。

 

~主題制作と長期連作の試み~

『短歌研究』1959年1月号/2月号

 現在の短歌総合雑誌の新年号といえば、若干の違いはあるものの、老若男女の著名歌人総出のアンソロジーだったり、老大家を前面に押し出したり、中堅層を集めたりと、やはり「おめでたい」感がぬぐえない。今年の『短歌研究』1月号は、なんと総力特集「平成の大御歌と御歌」であった。
 1959年、杉山正樹は、1月号の編集後記に「<新春作品特集>は、旧来の総花式なアンソロジイを排して短歌の可能性を探る試みを開始しました」として、「主題制作・生きている”戦後“日本人の心の記録」のもとに、近藤芳美・宮柊二・木俣修にはじまり、岡井隆・田谷鋭・葛原妙子・寺山修司と続き、福田栄一・坪野哲久・斎藤史の『新風十人』メンバーの作品が奈良原一高の写真とともに30・14首の交互で並ぶ。ベテランの佐藤佐太郎・吉野秀雄、新人の山崎芳江・小崎碇之介・山下富美の30首も配するが、この新年号のもう一つの試みというのが50首に近い大作の「連載短歌」で、吉井勇「人の一生」、生方たつゑ「火の系譜」、塚本邦雄「水銀傳説」である。座談会「日本の詩と若い世代」(大江健三郎・江藤淳・岡井隆・寺山修司・嶋岡晨・堂本正樹)がもっとも新年号らしいといえば言えるかもしれない。

・靴音の近付き聞こえ闇に消ゆ心よぎりし何の恐怖か
(近藤「五八年冬」)

・たたかひの後を生きつつ身に疼くくらき痛みを語りあへなく
(柊二「おもい光」)

・壓を加へんとするものはことば柔らかにわが書きものを閲(けみ)しゆきたり(修「黄の鎮み」)

・尾行(つけ)られていると信じ初めしより昂然と雷雨の街を歩めり(隆「少年行」)

・揉みあひて階のぼる群を狭(せば)めつつコンクリートの壁(へき)ありと見つ(鋭「野の靄」)

・窓に碍子(がいし)黒き夜 星黒き夜 われはなにゆゑに群(むれ)、を怖れし(妙子「風 衝」)

・一本の樫の木やさしそのなかに血は立つたまま眠れるものを
(修司「洪水以前」)

・せばめられてゆく自由われも守りたしわれの守られゆく背後なく
(栄一「一枚の罪」)

・拳銃を斜に帯びて移動する道化の一群 制服の青
(哲久「水甕交響」)

・云ひ立てて無實叫ばぬ白鳥を撃つ たはむれに基地の兵の銃丸
(史「流木」)

 

 この作者たちの思想・信条は異なりながら、共通するのは、直接的には、教員の勤務評定反対闘争、警職法改正反対闘争などで国民的な盛り上がりは見せたものの、教員の管理強化、小中学校における「道徳」の導入など国家権力による統制強化、1960年に向けて、日米間安保条約改定交渉が開始されることなどによるじわじわと締め付けられるような危機感であり、閉塞感ではなかったか。
 さらに、編集後記で、杉山は「短歌が日本人の心の記録という意味を持つとすれば憲法改定への暗い動きが底に流れる今日、戦後の心象を刻みつけたこの企劃も、ひとつの意味をもつかと思われます」とも記している、その時代背景へのスタンスも留意すべきだろう。

 翌2月号では、この企画の反響を、批評特集「現代短歌の突破口」としてまとめている。魚返善雄・大岡信・楠本憲吉と歌人6人の反応は各様だが、企画自体を評価する大方の中で、やはり、その中身、短歌作品や写真とのコラボに疑義、言及する評者も多い。「連載短歌」の吉井勇、生方たつゑ、塚本邦雄の連作は続く一方で、<新・戦後派作品特集(30首+作者のノート>(我妻泰・石川不二子・杜沢光一郎・小野茂樹ら7人)、<新鋭作品集(15首)>(石牟礼道子・水落博・中井正義ら7人)が組まれている。

・墓碑銘のなき死つぎつぎよみがえる海へきざはしふかき月かげ
(石牟礼道子「母たちの海」)

 この記事を書いているさなか、6月5日の毎日新聞(『石牟礼文学の原点発見 本紙熊本版に短歌21首投稿』)を目にする。記事によると、石牟礼の短歌のスタートは毎日新聞熊本版「熊本歌壇」(蒲池正紀選)の1952年11月11日~53年5月31日までの21首の入選作だという。その記事には、当時の「熊本歌壇」欄の2首が載っていた。

・舞ひ下りてふはりと羽をとざしたる秋の揚羽はしずかなるもの
(毎日新聞「熊本歌壇」1952年12月28日)

 かつて、私は、石牟礼道子(1927~2018)が短歌にかかわっていた時期は決して短くはなかったことを知って、「短歌に出会った女たち」の一人として、彼女の短歌との出会いと別れをたどったことがある(「石牟礼道子『苦海浄土』にたどりつくまで」『短歌に出会った女たち』三一書房 1996年)。彼女が短歌を作り始めたのは、10代の戦前までさかのぼることがわかっている。そして、『短歌研究』でのデビューはと遡ってみると、手元の資料から2件見出すことができた。バックナンバーの現物が以下の画像である。

・傷つきしけものも花も距りぬ変身の刻近づく暗さ
(「変身の刻」『短歌研究』1956年9月)

・岩礁のさけめよりしばし浮揚する藻と生々しわれの変身
(『海女の笛』『短歌研究』1956年11月)

 1首目は、五十首詠特選1人と推薦4人に続く入選者15人の一人として14首掲載されたのだが、そのうちの1首であり、2首目は、9月号で五十首詠<特選>であった小崎碇之介とともに入選8人の入選後第一作20首詠のなかにある。当時、すでに、水俣病は工業廃水が原因であるとする漁民や患者たちと認めようとしない日本チッソと闘争は激化していた。石牟礼が水俣病にかかる文章を発表しはじめるのは、少し後の1963年以降で、1970年『苦海浄土 わが水俣病』(講談社)の第1回大宅壮一ノンフィクション賞を辞退した石牟礼だったが、その後の歩みや曲折は別稿に譲りたい。

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石牟礼道子「変身の刻」1959年9月号

 

~「歌会始」が問われ始めたが~

『短歌研究』1959年3月号/4月号/5月号                  

 前年、1958年11月27日の明仁皇太子の婚約報道以降、いわゆるミッチーブームのさなか、1959年の「歌会始」は、1月12日に開催されている。「窓」の題のもと選者は、吉井勇・土屋文明・四賀光子・松村英一・五島美代子・木俣修、陪聴者には、久保田万太郎・芹沢光治良・高見順らがいたと伝え、続けて、現代歌人協会・日本歌人クラブ・女人短歌会の共催で、預選者を祝って、選者、入江相政侍従ら宮内庁詠進歌委員など90名が参加して、預選者を祝ったと報じている(『短歌研究』1959年2月号)。そして、選者に新しく、若い木俣と女性二人目として五島が加わったことが影響したことになるのか、戦後最高の応募歌数2万2400首を越えたことが注目された。

 そして、4月10日の皇太子結婚を控えた、このタイミングで、『短歌研究』3月号では、「編集部S」の名で、「歌会始はだれのものか?歌壇から選者を送って十二年 もはや遠い儀式ではない」<特別記事>が掲載された。「歌会始」が選者に民間歌人を加えて10年余を経、「現代短歌の飾窓」として、その短歌は誰の目にも止まる存在になったことで、歌会始が現代短歌と無縁な別世界の出来事ではなくなった。それを受けて、編集部は、各世代の歌人30人、短歌に関心のある文学者10余人にアンケートをとったという。質問も、回答の全容も不明ながら、当時の儀式「歌会始」の実態とその様式が定まったのは明治期に入ってからの第二期であると歴史をたどった上で、「あれはあくまで尊重すべき儀式である」とした回答が最も多かったと報告している。新しい選者の木俣のように、新聞や雑誌の短歌コンクールと同様に選歌し、よりよいものにしていけばよい、とする考え方と現代短歌と歌会始が近づいたということは、現代短歌の文学的な堕落を意味する(杉浦明平)、「(短歌)が文学であるならば、天皇制と結びついて国家権力に守られたくない。現代短歌のためにはこのままでおくべきでない」(岡井隆)という意見、選者も召人も断り続けていた土岐善麿の「われわれが歌を作るのとはモチーフが違うもので、自由自在な表現が可能かも疑問だ」との意見も紹介されている。ではどうすればいいのか、おそらく執筆者であろう杉山はつぎのような文章で締めくくっている。
 「あの第二芸術論や短歌滅亡論が、宣戦の詔勅にも終戦の詔勅にもひとしなみに感動した歌人の姿勢にはっしたことをおもいあわせれば、近く迫つた皇太子の御成婚式も短歌にとつては危険な瞬間かもしれないといえる。その意味からも、今こそ、広い眼で現代短歌の置かれている状況を見つめるべきではないだろうか」(『短歌研究』1959年3月)

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「歌会始は誰のものか」『短歌研究』1959年3月号

 また、翌月4月号で、水野昌雄は「敗北の記録を超えるために」において、歌会始の根本的矛盾は選者たちがすぐれた歌を選ぼうとするほど、天皇制のために役立つことによつて非文学化せざるを得ないとの指摘をしている。さらに、5月号では、秋村功が「道化師を操るもの」を寄せ、1月1日の新聞に(昭和)天皇の「御製」が掲げられているの目の当たりにして、暗い回想、悲観的な行方、現状への激しい憤懣という複雑な気分に包まれたという。「皇室のプライベートな慶事がそのまま庶民のめでたさに通じるかのごとく錯覚させるむなしい報道」によって、「現在の天皇には親近感に似た尊敬の念さえもつ」という庶民像が形成されてゆく。そんな中で「年に一度、天皇が主催する文学の祭典に、日本の文学の源泉である短歌をもつて」のぞむとする選者の木俣に限らず、選者たちは「誰かが作りあげた筋書きの上で踊つている悲しい道化であるかもしれない」とする。では、どうすればいいのかについて、歌会始に応募する2万人以上含む日本人の精神構造を、より合理的でより自主的な判断力をもつものへと変容させる重要性を指摘する。

 さらに、5月号の編集後記「読者への手紙」では、つぎのように記す。
「祝婚歌が巷にみちみちたあとにくる季節こそ、本当は注目すべきなのかもしれません。(中略)祭式の合唱隊と化したマス・メディアが合言葉をくりかえし告げているうちに、たれもが同じ受身の姿勢で無邪気に合言葉をかわしはじめる危険なムードが、戦後これくらいありありと感じられることはなかつた」(『短歌研究』1959年5月)

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「読者への手紙」と奥付『短歌研究』1959年5月号

 1959年、あれから、まさに60年後の今、私たちが経験している「天皇代替わり」における時代の空気を予想しているかのように思われた。私たちは、マス・メディアは、そして歌人たちは、過去に学ぶということを忘れたしまったのではないか。
 また、5月号の「歌人の日記」において、我妻泰はつぎのようにも書いていた。現在、こんな趣旨の発言ができる歌人は存在するだろうか。
「一九五九年冬 *月*日 俺の中で天皇及び皇太子は絞殺しなければならぬ制度として俺の一部分とともにのたうつているのに、日本中は皇太子妃で他愛なくにやついている。まるでシンバッドに出てくるビニールフィルムに隔てられた一眼人のように、見えていながら俺たちは手も足も出ないのか・・・・」(「九年間の状況」『短歌研究』1959年5月)

 

 

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2019年5月31日 (金)

いまの歌壇はどうなっているのか~1960年前後の短歌・歌人たちを振り返る、1958年

 ネット上で知り合い、メールでのやり取りはありながら、遠隔なので、お目にかかってはいない知人から思いがけず、1959年から60年にかけての『短歌研究』の数冊をいただいた。近年、私は、斎藤史、阿部静枝の著作年表を作成し、一部を論稿の資料として活字にしてきた。資料環境が進展し、検索やコピーが容易になったとはいえ、歌人研究には基本的な資料である『短歌研究』の原本はありがたい。デジタル資料、とくに遠隔で、目次を頼りに検索・複写をしている限り、多くの見落としもあるし、目的以外の資料はスルーしがちである。原本を閲覧することにすぐるものはなく、思いがけない作品や文章に出会い、一冊、一冊が、その時代の雰囲気を伝えてくれる。

 この1960年前後は、敗戦直後は別にして、私の体験した日本の戦後史では、まれに見る激動の時代であった。そして、自身にとっては、母を亡くした、学生時代の前期にあたる。 

 いま、手元にあるのは、晩年の母が購入していた『短歌』や『短歌研究』の端本、私が後に図書館で複写した目次や記事と今回いただいた『短歌研究』である。何から書き出すべきか、迷うところでもある。

『短歌研究』1958年1月号(編集者杉山正樹/日本短歌社):

 <新年作品特集>佐藤佐太郎・五島美代子・宮柊二・生方たつゑ・木俣修らと塚本邦雄、田谷鋭・寺山修司の30首前後の作品が並ぶ。<新鋭女流作品集>も組み、石川不二子・大西民子…北沢郁子・清原令子・冨小路禎子ら10人の作品が並び、菱川善夫の「新世代の旗手」が始まり、第1回は中城ふみ子である。前年からの近藤芳美「或る青春と歌12」、木俣修「昭和短歌史10」、高安國世「イタリー紀行7」の連載では、近藤のひたすら甘く抒情的な文章にはいささか戸惑い、高安のヨーロッパ旅行に憧れたことなど、かすかな記憶がよみがえる。

・明治六年若き天皇皇后と一夏駐輦と記録に残れり(四賀光子「箱根遊草」)
・戦後うやむやに終りて水無月の道黒く市電の内部につづく(塚本邦雄「出日本記」)

 

『短歌研究』1958年3月号(編集者杉山正樹/日本短歌社)

 <現代女流歌集>の冒頭は読売文学賞第一作として生方たつゑ(「苛斂の土」40首)、五島美代子(「原野の犂」30首)野二人の作品が並ぶ。「女歌の行方」として男性の論者5人が生方・五島を語り、女歌を論じている。そして、阿部静枝らのベテラン7人と、斎藤史、葛原妙子、森岡貞香の3人が別枠で並ぶ。そしてもう一つの特集が<沖縄の歌と現実>であった。吉田漱「“二つの日本”を訴える」、霜多正次「沖縄島の哀歓」と、吉田の編集による「沖縄作品集」からなる。吉田は、沖縄の歴史と当時置かれている政治、経済、社会の実情を丁寧に具体的に報告し、沖縄の歌壇にも言及する。沖縄の戦後の短歌は、ハンセン病療養所の「愛楽園短歌会」に始まり、本土のアララギ同人の呉我春男の尽力で「九年母」が1953年3月に結成、翌年会誌が創刊されたが、沖縄では発表できない作品が本土の『アララギ』『未来』『樹木』などに掲載されるという時代であった。

・墓石の片がはにいま陽が匂ひ子の名一つがくきやかに見ゆ
(五島美代子)
・遺りゐる礎石配置に日のうすき斑があり人間の悲話よみがへる
(生方たつゑ)
・絶望に通ずる道を歩むに似たり一日一日の悲しきいとなみ
(比屋根照夫)
・憚らず土地を接収せしされつ米琉親善をいふ双方の高官
(天久佐信)

 杉山正樹によると思われる編集後記「読者への手紙」では、<現代女流特集>について「雛祭りや才女時代に因んだわけではありませんが」の前書きがあって、文学賞受賞の五島・生方と各世代の俊秀の力作を自負していた。三月号の女性歌人特集が定例化するのは、1969年31人でスタート、1974年に123人、さらに人数はふくれ上がり現在に至っている。一方、ちなみに、5月号の男性歌人特集は、1972年、70人でスタートしている。

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『短歌研究』1958年1月号目次

 

 なお、沖縄特集の文中で出会った比屋根作品にはいささか驚いた。後に、大学のOB会で知ることになる比屋根さん、政治思想史の研究者なのだが、若いときには『琉球新報』の「歌壇」に投稿されていたという。OB会で上京された折や電話で、現在の沖縄を深く憂い、ときには、短歌論や拙著への感想などを聞かせてもらうこともある。

『短歌研究』1958年10月号(編集者杉山正樹/日本短歌社):

福田栄一「夜の谺(44首)」
ししが谷法然院の河骨の黄の花硬しこころやむわれ
争ひしあとさき先生と飲まざりしふたたび叱りてくるる人なし
死にて亡き先生に逢ひポトナムの友には逢はず争はなく
金閣寺裏山ときき先生の死にしところより寂しき金閣

 この号の第一特集は「アララギの五十年」であり、この結社の「内側の声」五味保儀ほか「外側の声」前田透ほか各数人が語り、アララギの中堅・若手、宮地伸一・我妻泰らの作品を掲載する。もう一つが「異郷に歌う(海外日本人の短歌)」で、ハワイ、ブラジル、北米の移民歌人たちの現状と作品を紹介する。木村捨録「歌壇交流記4」は大日本歌人協会の出発と解散の経過が語られている。もう、リアルタイムで当時を知る歌壇人はいないだけに興味深い。
 冒頭の福田(1909~1975)の4首は一連の中ほどにある作だが、『ポトナム』を創刊し、主宰であった小泉苳三(1894~1956)の追悼歌である。福田は、『ポトナム』の若手メンバーとともに「思索的抒情」を掲げ、1946年10月『古今』を創刊・主宰している。小泉との確執があったと思われるが、その自死の後の墓参の折の複雑な心境を歌っている。法然院には、小泉の墓と歌碑がある。私は、この『ポトナム』に1960年に入会することになる。

 

『短歌』1958年12月号(編集発行人角川源義/角川書店):

 <アンケート特集>と銘打って、一つは、「警職法改正案と中河発言をめぐって」であり、一つは「現代短歌の問題点―推進すべき方向と作品(87氏回答)」である。前者は、58年10月、岸信介内閣は、警察官の職務権限の拡大を主眼とする警察官職務執行法改正案を国会に提出し、日本社会党はじめ総評、文化団体など幅広い反対運動が展開していた時期、衆議院地方行政委員会公聴会で中河幹子が歌人の肩書で改正案賛成の意見を述べたことに由来する。しかも、その意見があまりにも俗っぽく、雑駁だったことから、多くの批判を浴びることになった。注*『短歌』編集部は、中河公述人の意見と山田あきの反対意見を載せ、20人の歌人にアンケートをとった結果をまとめている。回答があった17人は、結論的には全員反対との回答を寄せている。回答がなかったのは、土岐善麿、岡山巌、大野誠夫とわかる。問題の公聴会は、11月3日に開催、11月5日アンケート発信、12月号に掲載というスピード感と緊張感がある編集になっている。当時の実質的な編集者であった中井英夫の名で、特集末尾の「特集に添えて」において、
「歌人代表の意でないことは当然だが、これを歌人一般とはつゆさら関係ないとして楽観できるほど、『歌人という存在』に信用があるかどうかが、これが意見の岐れ目であろう。」
 さらに続けて、「このことはしかし、もう我々がタンスの奥深くに樟脳を―『戦争になれば国民として協力するのが当然』という、あの樟脳をつけて手軽にしまい込んだ戦争責任の問題を引張り出さなければ解決はつかない―」と特集の意図を記している。

 国民的な反対運動により、1958年11月22日、岸首相は、警職法改正案の提案を断念した。戦後政治史にあって、国民的な反対運動が実った稀有な出来事となった。                                            

注*以下の議事録によれば、この11月3日の公聴会公述人には、「歌人 中河幹子」「作家 高見順」が並び、東京大学教授鵜飼信成、総評事務局長岩井章らがいた。
第30国会衆議院地方行政委員会公聴会議事録(1958年11月3日)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/030/0342/03011030342001.pdf

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『短歌』1958年12月号<警職法改正案と中河発言をめぐって>アンケート回答。

 もう一つの特集のアンケートは、「現代短歌の問題点」についてのアンケート回答を、編集部がテーマごとに仕分けをしてまとめたという。その回答は、実に多岐にわたるが、みな真面目であった。その一端をのぞいてみると・・・。

三国玲子「単なる当込」:「最近、台頭してきた一部の新人達の実験的な作品には興味を持っているが、その多くは生活実体から遊離した官製の遊戯であったり西欧詩他のジャンルに於て試みられている方法論を、短歌という土壌に機械的に移植したに過ぎないように思える。言葉やポーズのきらびやかさ、華々しさに反して内容空疎主体性を欠いているから単なる当込という印象を免れないのだ。実験と当込とは自ら峻別すべきであろう・・・」。(「非写実を排す」)

玉城徹「<彫り>の深さ」:「(前略)私は古典的な方法も前衛的な方法も、または口語歌も、いずれもあつてよいと思う。しかし、そのいずれにしても、もっと<彫り>ふかく、スケッチ歌体を脱却すべきだ。これが、昭和の、特に戦後歌風の一ばんの病弊なのだ。・・・」(「深みへ降りる」)

春日井建「美の呪縛」:「皮相な日常詠やスローガンの素描から抜けだして美の深さを測ることはもつと怖れないで試みられていいことのひとつであろう。美だけに賭けることは退嬰であり徒労であるかも知れない。しかし本来抒情詩である短歌を純化するための逞しい勇気であるには違いない。・・・」(「若い世代の声」)

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5月31日のアジサイ、ドクダミの繁殖力に脱帽、さてどうしたものか。勝手口近くのフキは、湯がいて煮て、お昼にいただきました。

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2019年3月12日 (火)

改元奉祝のなかで、「天皇依存」の系譜(2)そして、歌人たち

天皇が原発をやめよと言い給う日を思いおり思いて恥じぬ(吉川宏志)
 『短歌』201110月 『燕麦』2012年所収)

   東日本大震災による原発事故の直後に、吉川宏志が発表した作品である。当時、結句の「恥じぬ」の解釈をめぐって、若干の論議が交わされた。「ぬ」は完了なのか、「打消し」なのか、つまり「恥じた」のか「恥じない」のかどちらなのかと。私は、それまでの吉川の作品や発言から当然、「恥じた」として読んだ。「打消し」なら「恥じず」とするのが自然だからとも思った。作者は、もちろん「完了」の方だと明言し、近年の平井弘とのインタビューの中で、吉川自身、この一首について、つぎのようにも語っている。

「天皇に『原発をやめよ』と言ってもらおう、という発想自体に、天皇を利用しようという心根があるわけでしょう。それが恥ずかしい、という歌なんですよ。ただ、今の状勢を見てたら、天皇が言ってもだめかもしれないですね。今の政権は、天皇の意志なんてまったく無視しているわけでしょう。」(特集 平井弘インタビュー「恥ずかしさの文体」(後編)『塔』2017年4月) 

   また別の場所で、吉川は、国旗国歌法(1999813日に公布・施行)が成立したころは「〈天皇制〉を厳しく否定する論調が、歌壇では特に強かった」という認識で、当時の歌壇、時代の空気を思い起こしながら、つぎのように記す。 

 戦争体験などをして、非常に嫌悪感をもっている人たちが存在することもよく理解している。そういった人たちが、反対するのもよくわかる気がする。けれども、「君が代を歌わない権利」がある一方、「君が代を歌う権利」があることも明らかだろう。だから、卒業式などで歌うことを強制することには反対だけれど、逆にあまりに過剰に君が代を否定することにも違和感をもつ。君が代をたまに歌ったくらいで、異常な国家主義者になるわけでもない。君が代を肯定する善男善女は、世の中に無数にいるだろう。現在では、非常に激しく君が代を非難する態度も、社会的にあまり共感されないのではないだろうか。

 左翼的な人々(の一部)は、現実の天皇制を廃止すれば良いのだ、と考えた。しかし、そうではなくて、権力と責任の存在が曖昧なシステムそれ自体に、危険性は存在していた。おそらく、現実の天皇制を批判しても、何も変わらない。
 
むしろ、今年の天皇陛下の年頭のお言葉「東日本大震災から2度目の冬が巡ってきました。放射能汚染によりかつて住んでいた地域に戻れない人々や,仮設住宅で厳しい冬を過ごさざるを得ない人々など,年頭に当たって,被災者のことが,改めて深く案じられます。」
 
を聞くと、原発事故を忘れてしまったかのような、現在の首相や政府の発言よりも、ずっと心に沁みてくる。
 
 いろいろな意見はあると思うが、私は、単純に天皇制は悪だとは考えない立場である。
 (①②とも「短歌と天皇制について」『シュガークイン日録3』20130122日) 

  「国旗国歌法」の条文には、強制、義務化の文言はない。当時の小渕首相はじめ、議会の質疑でも、強制・義務化はない、としてスタートした。その後の経緯は、どうだろう。教育現場では、学習指導要領で縛り、職務命令という形で、「君が代」斉唱時の不起立、ピアノ伴奏拒否などにより受けた処分や不利益は、教師たちの思想信条の自由を侵すものではないか、との訴訟で各所でなされた。管理者の裁量の範囲内であり違憲とは言えない、という判断が定着しつつある中、処分が重すぎるという判決もあったが、まだ係争中のケースもある。吉川は、①において、「強制することには反対だけれど」などと、天皇みたいなことを言う。「君が代をたまに歌ったくらいで、異常な国家主義者になるわけでもない。君が代を肯定する善男善女は、世の中に無数にいるだろう。」とは、どういうことか。統制や弾圧は、些細なことから始まり、それによる萎縮や自主規制が強まり、息苦しくなって、気づいたときは、すでに抵抗の手段を奪われていたという歴史を、私たちは教えられたり、学んできたりしたと思う。

 

 政治の世界に限らず、時代はすでに、数の力で、少数派や異論を無視し、排除する構図が出来上がりつつある。「寛容」や「多様性」の旗を掲げるならば、日常的な談論風発、百家争鳴、混沌こそが、民主主義の基本ではなかったか、とも思う。自分と異なる意見が多数を占め、数の力が及ばないとき、「面従腹背」と言ってしまうのか。吉川のように「天皇を利用しようとする心根」を「恥じた」のならば、いまは“リベラルで、いい人”の天皇を持ち出すのは、フェアでない。②で言うように「権力と責任の存在が曖昧なシステムそれ自体に、危険性は存在していた。」とするならば、その「曖昧なシステム」に「天皇制」が寄与していなかったかを検証する必要もあるだろう。

 「単純に天皇制は悪だとは考えない立場」をとるのは自由だが、その「危険性」に本気で向き合おうとするとき、「現実の天皇制を批判しても、何も変わらない。」とするのは、いささか「単純」すぎないか。

  たまたま、吉川は、自分の意見を表明しているが、天皇依存の歌人も多いのではないか。逆に、天皇の短歌や「おことば」が、過大に評価され、利用されているのを憂慮している歌人もいるのではないか。いまこそ、この「改元」の奉祝ムードの只中でこそ、大いに声を上げるべきだろう。

24img111 レイアウトは異なるが、2019年2月24日朝刊各紙に掲載された政府広報

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商魂たくましい、広告の数々・・・。上が「朝日新聞」2月24日朝刊、下が同紙2月25日朝刊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年3月11日 (月)

改元奉祝のなかで、「天皇依存」の系譜(1)<リベラル>な人々

  大辻隆弘の「短歌と天皇制」(217日『朝日新聞』)について書くにあたって、自著と手元の本や新聞・雑誌のスクラップなどを読み返してみた。大辻が、「リベラル派」というわけではないが、「リベラル派」の「天皇依存症」について考えてみたい。

「天皇」への依存ぶりがよくわかるのは、多くの場合、安倍政権への反発や非難が根底にあって、天皇の「おことば」や「祈り」に行きつき、よほどまともなことをと相対的に評価するというパターンである。

 

<リベラル>な人々が

  まず思い起こすのが、かつて、当ブログにも書いたことある金子兜太(19192018)の発言であった。当時の『東京新聞』が連載していた「平和の俳句」で、選者の金子が、「老陛下平和を願い幾旅路」の句を選んだ短評で「天皇ご夫妻には頭が下がる。戦争責任を御身をもって償おうとして、南方の激戦地への訪問を繰り返しておられる。好戦派、恥を知れ。」(2016429日)と記していたことに、いささか驚いたのである。太平洋戦争下においては、海軍主計中尉として戦地体験を持ち、トラック島を離れるに際して、「水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置いて去る」と詠んだ代表作もあり、戦後の社会性俳句、前衛俳句運動のリーダーでもあった金子であった。近年、安倍政権批判の市民運動でのシンボリックなプラカードとなった「アベ政治を許さない」を揮毫したことでも知られていた。

<参考>
 
「平和の俳句・老陛下平和を願い幾旅路」(『東京新聞』2016429日) (『内野光子のブログ』2016517日)
 
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/05/2016429-463d.html

 

  また最近では、マルクス経済学者として知られる金子勝(1952~)は、昨年の天皇誕生日の記者会見後、つぎのようにツイートしていた(7:53- 2018年12月23)。 

【沖縄に寄り添う】天皇陛下は記者会見で、沖縄のくだりで声を震わせて「沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました」「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」と語る。アベは聞いているのか? @masaru_kaneko

 

日本共産党では
  これらの断片的な発言では、天皇制への言及はないものの、「安倍憎し」の思いからの、平成の天皇への活動や「おことば」への心情的な共感であった。さらに、近年、日本共産党が、天皇制、天皇へのスタンスを大きく「右」に舵を切った。そのきっかけは、20147月の安保関連法閣議決定に危機感を感じてのことであったのだろうか。何とか支持者を増やしたい、嫌悪感を払拭したいとでも思ったのか、201512月には、当ブログの下記の2件で触れているが、一つは、国会開会式への出席を表明したことである。議場の「玉座」から天皇が開会の言葉を述べる、あの開会式に、新憲法以来、出席を拒否してきた日本共産党が、天皇の言葉に政治的な発言がなくなったので、出席するといい出した。私は支持者でもないが、ちょっと理解に苦しみ、ネットで「綱領」を調べてみて、やはり疑問は去らなかったので、中央委員会に電話もしてみた。関心のある方は、そのやり取りを見てほしい。
 「綱領」(2004年)には「党は、一人の個人が世襲(せしゆう)で「国民統合」の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫(しゆびいつかん)した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃(そんぱい)は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである。」とある。たしかに天皇の制度の存廃は、国民の総意によって解決されるべきものであろう。しかし、法律や制度が、つねにすべて合憲というわけではないからこそ、その改廃や運用が議会や司法に問われるのではないか。前段では、現在の天皇の制度は、民主主義と両立するものでないことを明言しているからこそ、それまでずっと、その制度の運用の一環として望ましくないとして開会式を拒んできたはずである。環境に大きな変化があったわけでもない、天皇の言葉が劇的に変わったというタイミングでもない。変えた要因は不明のまま、マス・メディアが報ずるように、「共産党アレルギー」を払拭したかったのか、あるいは、共産党の「国民の声」係が電話口で答えるように、「開会式に出席したって『べつに、イイじゃん』っていう国民がほとんどでしょう、いまは安保関連法阻止の方が重要な課題なのを理解しないあなたの方がオカシイ」ということだったのか。

  環境の激変というのであれば、翌年20168月の天皇の生前退位表明であったかもしれない。ここでも、共産党は、その中身が、違憲の可能性がある退位特例法にも「静かな環境」での論議の末、全党一致で賛成した。 

<参考>
今年のクリスマスイブは(2)なんといってもそのサプライズは、国会開会式出席表明の共産党だった(1)(20151227日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/post-6623.html

 

 

若い<論客>たち

 こうした流れの中で、安保関連法反対、憲法9条改変反対、原発再稼働反対というその一点で共通する著名人となると、保守政治家や研究者、文学者、ジャーナリストやタレントなど、過去の活動や発言などはお構いなしに、集会や講演会などに登場するという現象が蔓延する。最初は、その意外性と物珍しさもあるのだろうが、繰り返されると、多くは、準備の足りない、アジテーションで終わり、いわゆる肩書や名前への「依存度」は増す。
なお、最近、共産党の広報の一つ「生放送!とことん共産党」という動画が配信されていることを知った。そこに登場する“若き論客”の白井聡や中島岳志の天皇観というのも気になったのである。それぞれ1時間前後の小池晃との対談の動画だけからでは明確ではない。  

白井は、その動画で、日本は、戦前の天皇に代り、敗戦後は、アメリカがその地位を引き継ぎ、天皇制国家は、対米従属国家となったことを強調していた。アメリカの同盟国の中でも日本は、類を見ない屈辱的な関係を維持しているが、アメリカとしては冷戦崩壊以降、とくにトランプ政権以降は、同盟国としての存在価値は下がっていることに気づかねばいけないと。別のところでは、その属国意識が、政治も官僚もメディアも劣化させ、考えることができない人間が増やしてしまい。安倍政権の「やってる感」に国民は騙されている(「戦後体制の根幹を崩す安倍政権」『マスコミ市民』20193月)。また、昨年の新著『国体論』(文芸春秋)では、つぎのような主旨の構想を展開する。すなわち、平成の天皇は「国民統合」を志向するがゆえに、親米保守の政権が日本社会を荒廃させている現状に危機意識をもって「本来ならば国体の中心にいると観念されてきた存在=天皇が、その流れに待ったをかける行為に出たのである」とした。その決断に対する「共感と敬意」の意思を国民が受け止めることで真の民主主義への可能性を探ることができるのではないか、ということらしい。

    天皇の決断を介して、真の民主主義の可能性を探るというのも、大いなる天皇依存であって、まさに国民一人一人が考えて行動すべき本来の民主主義から大きく外れることになるのではないか、と私には思えたのである。

 また中島は、先の「とことん共産党」の対談では、苦難の中で「ブレない共産党」に敬意を表していたが、まず、天皇制に関しては曲折があったことは確かだろう。その辺をどう受け止めているのかは、どこかで語っているのだろうか、図書館にかけ込まねばならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年3月 5日 (火)

「短歌と天皇制」(2月17日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(4)

「無反応」だったのか

 なお、前々回の記事で触れた子安宣邦の大辻時評にかかるツイートの「平成という時代が天皇制国家日本の強みを再確認しながら終わろうとするようなことをだれが予想しただろうか。今日の「朝日歌壇」の時評で歌人大辻隆弘が書いている。・・・」の主旨がややつかみにくいのだが、この冒頭の一文がまず気になった。子安にして「天皇制国家日本の『強み』を再確認」する時代を予想できなかったというのも疑問だったが、「強み」というのも、どういう意味なのか、分かりにくかった私には、さらなる説明をブログなどで展開してほしいと思った。ツイートやフェイスブックでの発言は、私にはどうも苦手だというのがよく分かった次第。
 それはともかく、大辻は、前記時評で「『短歌研究』1月号の<平成の大御歌と御歌>の特集に対して無反応だった」というが、彼が引用している瀬戸夏子の「白手紙紀行」(『現代短歌』20192月)は、「苛立っている」「慨嘆する」というレベルより、立派な批判的な反応ではなかったのか。そこを、軽くスルーしていることも気になっている。
 彼女は、『短歌研究』の総力特集を読んで「戦後短歌は終わったのかもしれない、と思った」と書き出す。昨年12月の天皇の誕生日記者会見における言葉を全文引用し、その上で、リベラルの多数派をよろこばせるだろうせる内容だが、「だからといって歓迎ばかりしていられないだろう。もし明仁天皇が逆のことをおっしゃられたらどうつもりなのか。」と(こうした敬語が自然に出てくるのがいささか驚きではあったが)。瀬戸は、まさに、「天皇依存症」のリベラル派の痛いところを突く。

さらに、後半で、「短歌においては御製がヒエラルキーの最上位である、という価値観、これまで戦後歌人がその矛盾に苦しんできながらもがいてきたはずのその現実『短歌研究』一月号はなんの臆面もなくさらけ出してしまった。『短歌研究』はもう戦後文学としての短歌の顔を捨てるつもりなのだろうか?」と疑問を呈している。
 末尾では、「ざっと<うた>の歴史を約一三〇〇年と仮定して考えるなら、むしろ戦後短歌の約七〇年が例外状態だったといえるのかもしれない」さらに、最後尾で、「短歌において差し迫った問題として、勅撰、あるいは勅撰時代の『うた』の気配が短歌の世界に到来することを考えなければならないのかもしれない。それは『和歌』と『短歌』を必ずしもはっきり区別して扱わず、一三〇〇年の伝統というおいしいところどりをしてきたつけを払わされるような、事態であるかもしれない。わたし自身もふくめた話ではあるが、もう少しちゃんと考えておいた方がいい。」と結ぶ。(下線部は、原文では傍点)

『短歌研究』の特集への反応が鈍い中で、ストレートな異議申し立て、反論は貴重なものであった。私が、このブログ記事(1)(2)で述べてきたように、そもそも、戦後短歌の出発において、彼女の言葉で言えば、短歌は、「和歌」と「シームレスに接続」、天皇制と「順接」していたことを検証してきたつもりなのだが、うまく伝えることができただろうか。また、私もこのブログの以下で、歌壇における「平成」との向き合い方に触れている。『ポトナム』2月号の時評の転載である。

なぜ元号にこだわるのか~元号を使わないワケ(201925日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/02/post-3b72.html

 


 さらに、大辻が「天皇制との関係は、文学としての短歌の『原罪』であると同時に、文芸としての短歌の『強味』でもあるのだ」と、かっこよく言ってのけたが、その内実は、瀬戸のいう「伝統のおいしいところどり」であり、私に言わせれば、短歌や歌人の権威づけに「皇室」を利用しているのではないか、としか思えないのである。
 なお、大辻は、この4月からNHK短歌の選者になるそうだ。

2019年2月17日『朝日新聞』↓

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「短歌と天皇制」(2月17日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(3)

「天皇制アレルギー」って?

 

 大辻のいう「天皇制に対するアレルギー」とは、何を意味しているのか、が分かりにくい。書き出しの一文からは、まず、戦後短歌の出発当初の「天皇制に対する拒否反応」が、「現在は薄らいでいる」という風に読みとることができる。その例証として、『短歌研究』1月号の特集「平成の大御歌と御歌」に、「以前なら厳しい批判に曝されたであろうこの特集に対して歌壇は無反応だった」ことを挙げている。 

 また、短歌雑誌による天皇夫妻の短歌関連記事に対する歌壇の無反応をもってして「天皇制へのアレルギー」が薄らいだという見立てから察するに、平成の天皇夫妻、生身の「天皇(夫妻)への歌人たちの感情ないし意識」の変化を指しているようにも考えられる。 

 「歌壇」において、前者のような「天皇制に対する拒否反応」があったのかといえば、当ブログの直前の記事でも述べているように、少なくとも「天皇に忠誠を表す形で戦争協力歌が量産された」ことについての反省から戦後短歌が出発した、という実態は見受けられなかったことと、短歌史の執筆者たちの共通認識の双方からも反省から出発としたとは考えにくかった。

 また、敗戦直後の社会状況に立ち戻って、歌人たちが「天皇制」とどう向き合ってきたかを、当時の短歌雑誌などを材料に検証してきたつもりである。さらに、その対象を歌人以外にも広げてみも、そこから見えるものは、戦前の天皇制とのギャップに戸惑いながらも、天皇制への関心は強く、GHQの占領政策、東京裁判、日本国憲法制定過程を背景に、天皇制打倒、天皇の戦争責任論、天皇退位論が政界やマス・メディア、世論にあっても、今では想像もつかないくらい活発に議論されていたことを知ることになる。 

同時に、19462月から始まった昭和天皇の「巡幸」において、迎える国民の対応には、熱烈なものがあり、ぎごちなく手を振る姿や視察先での「あっ、そう」という対応が、逆に親しみを感じさせたのだろうか。我が家では父も薬専の学生だった長兄も入隊せずに、家族に戦死者が出なかったためなのか、50才を過ぎたばかりの父や周りの男性の大人たちが気軽に「天ちゃん、テンちゃん」と呼ぶのを耳にしていたことが思い出される。配給の食糧では間に合うはずもなく、子ども三人の家族五人のためヤミ米を手に入れるため苦労していた母、毎夜のように停電が続いていた時代の光景の一つでもあった。また、19465月の皇居前広場の食糧メーデーには25万人もの人が集まったといい、その1週間前のデモ隊の一部が、皇居内の厨房までなだれ込んだという話もあるくらいである。

 日本は、日米安全保障条約と引き換えに独立をしたが、各地で基地闘争も展開された。時代は下って、皇太子結婚前後のミッチーブームをへて、東京オリンピック、東海道新幹線開通、大阪万博というイベントなどを通じて、日本経済は高度成長が続いたとされる中、全国で公害問題も表面化する。そして、この間、19612月、深沢七郎の「風流夢譚」掲載の『中央公論』発行の中央公論社社長宅襲撃事件をきっかけに、日本の言論の自由は転換期を迎え、とくに天皇に関する言動を自主規制する風潮が高まった。1964年生前叙勲の復活、1968年明治百年記念式典、天皇在位50年、60年記念式典、元号法公布などを経て、昭和天皇の闘病・死去に至って、その自主規制は、一般国民の「自粛」という社会現象にまで達した。昭和天皇死去報道の前後のマス・メディアにおいては、たしかに天皇・皇室情報の絶対量は増えたかもしれない。しかしその内容は、あくまでも、上記の「自主規制」の範囲内での盛り上がりであったといってもいいだろう。天皇・天皇制批判の書籍が書店の店頭から消えた時期でもあった。

 また、たとえば、1979年、進藤栄一によって、天皇が琉球諸島をアメリカの長期軍事占領することを希望していることを示す、いわゆる「天皇メッセージ」なる外交文書(対日政治顧問のWJシーボルトのマッカーサ―元帥のための覚書)をアメリカ国立公文書館で発見、発表(『世界』19794月)され、20083月には、同館からその文書の公開があり、確認され、沖縄の人々や本土の一部の人たちには衝撃を与えた。しかし、それにはことさら触れず、大方のマス・メディアは、昭和天皇の最晩年の短歌「思はざる病となりぬ沖縄を たづねて果さむつとめありしを」の思いを引き継いだとする平成天皇(夫妻)の11回に及ぶ沖縄の戦争犠牲者慰霊の旅をことごとしく報道し、「平和への願い」を表明し続ける天皇像を発信し続けている。

「平成」の時代になって、天皇・皇室情報は、宮内庁のホームページなどから入手しやすくなった。テレビ・新聞の天皇・皇室情報は、現在も変わることなく、宮内庁の記者クラブ「宮内記者会」を通しての取材によるものである。雑誌、とくに週刊誌などの取材にも、便宜を図るようにはなったというが、独自の報道内容には、宮内庁からはたびたびクレームをつけられているのも、ホームページから伺い知ることができる。そういう意味で、少しは開放的になったかに思われる。とくに、天皇夫妻は、公的行為として、積極的に、戦没者慰霊の旅や被災地慰問の旅を重ね、伝統的・文化的な行事にも出向いたり、招待したりして、社会への露出度は、高くはなった。さらに、「天皇家」にかかわる様々な情報、プライベートに属する情報も、従来の映像・活字メディアに限らないネット社会でも行き交うようになった。 

加えて、昭和天皇の側近たちの日記などが、公刊されるようになったことも見逃せない。藤田尚徳『侍従長の回想』(講談社1961)に始まり、東京裁判において天皇の戦争責任免責の一部を担ったという『木戸幸一日記』(東京大学出版会1966)、『宮中見聞録』(1968)などで知られていた木下道雄『側近日誌』(文芸春秋 1990)、『昭和天皇独白録 寺崎英成御用掛日記』(文芸春秋 1991)、『入江相政日記』(朝日新聞社 199091)、『卜部亮吾侍従日記』(朝日新聞社 2007)、『関屋貞三郎日記』第1巻(国書刊行会 2018)などが出版され、富田朝彦元宮内庁長官や小林忍元侍従次長らのメモが発見されたなどの報道も続く。 

こうした情報によって、これまで、知りえなかった天皇周辺の状況が明らかになる部分は格段に広がったかに見える。大量の資料の公刊、発掘も、大辻のいうように、歌壇に限らず「天皇制アレルギー」は、一見「薄らいでいる」ように見えるかもしれない。いわゆる「タブー」が解かれたかにも受け取れる。しかし、ここで、もう一度、これらの内容にたちいってみたい。大きな皇室イベントのたびごとに、そして、とくに815日前後になると、新資料発見・発掘が頻出したり、似たような特集記事や特集番組が続出したりする。そこで、語られるのは、多く昭和天皇の苦悩であったり、平和への思いであったりする。また、平成の天皇は、象徴天皇として、国民に寄り添う、世界平和を願う発言や活動だったりする。その底流としての、天皇家の夫婦像や家族愛、絆が強調されるのも定番である。

だが、それ以上の情報は出てこない。とくに代替わりが迫った昨年から今年にかけて、そしてこれからも、新旧天皇の称揚情報は続き、象徴天皇制が民主主義と共存するものなのかどうかの議論は消し去られていく。
 

そして、いわゆる「リベラル」と称されていた人々や革新政党までが、平成天皇、象徴天皇制へとなだれ込んでいるのを目の当たりにする。 

そのあたりの状況を、二人の研究者は次のように分析している(朝日新聞付録「GLOBE2019111日)
 

原武史(1962~)は、「世襲の君主制は、潜在的に民主主義と矛盾する要素をはらんでいる。」として、次のように語る。

https://globe.asahi.com/article/12061627
 
 「天皇が内閣や議会を媒介せず、国民一人ひとりと結びつくことで、今の政治に対する「アンチ」につながっている側面もある。本来は野党が政権へのアンチにならなければいけないのに、そうならないで、天皇・皇后を理想化して、すがっている。政党政治が空洞化するという点で、超国家主義が台頭した昭和初期に通じるものがある。いまでも天皇に対する批判はタブーだ。20168月、現天皇がビデオメッセージで「退位」の意向をにじませた際も、もっと議論があると思っていたが、多くの憲法学者や政治学者がすんなり認めた。天皇が「おことば」を発するや、それが絶対になる、ということは本来おかしい。」
 
 
 また、河西秀哉(1977~)も、
「天皇制が、ある意味で民主主義の枠外にあることは間違いない」として次のように語る。https://globe.asahi.com/article/12061618
 
「これまで私たちは、そうした矛盾を考えないできた。その間にも、特にいまの天皇皇后両陛下は、被災地訪問や慰霊の旅を精力的に進めて、それこそが象徴としての役割だという概念を定着させてきた。(中略)高度成長が終わり、社会の分断がいわれるようになると、天皇は国民の「再統合」という役回りをより積極的に果たすようになる。
 
それが政治の不作為を埋める。沖縄でも被災地でも、本来なら政治が解決しなければいけない問題だが、天皇が行くことで、不満が顕在化するのを抑えてしまう。いわゆるリベラルの人たちも、本来は自分たちが語らなければならないこと、しなければならないことを、天皇に仮託してしまっている。ねじれのような状況だが、戦後70年にわたって天皇制についてきちんと考えてこなかったツケのようなものかもしれない。」

  本来、国民の一人一人が考えて、行動しなければならないはずのことを、原が「天皇にすがっている」、河西が「天皇に仮託してしまっている」と表現しているように、いわば「天皇依存症」に冒されているとする指摘は重要である。私も、これまで、こうした天皇の役回りは、まさに政治の弱点を補完しているにすぎないと述べてきた。それに甘んじていれば、一種の思考停止にも似て「楽」でもあるが、本来の機能を果たさない政治体制への抵抗の力を損ない、結果的に体制維持や支持につながってしまっていることが、現在の政治状況にいたらしめたと考えている。


 
 天皇家から発信される短歌というメッセージを過大評価するのも、同じような役割を期待しているからなのではないか。(つづく)

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2019年3月 3日 (日)

歌人の顕彰とは

 以下は、一昨日、届いた『ポトナム』誌上の「歌壇時評」である。担当の時評が終わってホッとしている。近くの小学校の裏の梅が満開であった。

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 亡くなった歌人の顕彰には、追悼会、墓前祭、雑誌の追悼号や周年記念特集などの企画、研究会の立ち上げ、歌碑の建立、記念館の建設、その歌人の名を冠した短歌コンクールや賞の設置など、さまざまな形が考えられよう。しかしこれらはいずれも、遺族や継承者や敬慕する人々の高齢化や消長に左右されやすい。記念館や歌碑は、公的な支援や財政基盤のある運営団体の関与がないと継続性の担保は難しいだろう。歌人の名を冠したコンクールや賞は、自治体や観光協会の「まちおこし」の一環として開催されることも多くなった。が、 顕彰として最もふさわしいのは、やはり、遺歌集の刊行や全歌集・著作集の出版ではないかと思う。しかも、本人の意思や取捨選択が関わらない形での編集が望ましく、可能な限り全作品、全著作を収録するならば、その資料的価値は一段と高まるに違いない。とくに、今回、拙著『齋藤史≪朱天』から≪うたのゆくへ≫の時代―「歌集」未収録作品から何を読みとるのか』の資料検索・収集、執筆にあたって痛感したのだった。生前に、歌人自らが取捨選択、編集した作品や著作だけでは、その歌人の全容は把握しにくい。その歌人の評価にあたっては、トータルな著作や業績、活動を知る努力が不可欠と思われた。

  なお、歌碑について、私にはいくつかの体験があった。すでに十数年前のことだが、軽井沢の別荘地に迷い込んだ折、そこで、出会った五島茂・美代子夫妻の歌碑の光景だった。木の枝や雑草に覆われた歌碑は、わずかな姿を見せていたが、足の踏み入れようもない有様だった。現在はどうなっているだろうか。

  私が初めて沖縄へ行ったとき、伊江島に渡り、地元のタクシー運転手に案内を頼んだ。行き先の一つに城山の「天皇の歌碑」も、と伝えると、そんなものあったかな、とそっけない反応であった。平成の天皇が皇太子時代、海洋博のため初めて沖縄訪問の際詠んだ「琉歌」が刻まれている碑である。城山の中腹に、それは確かにあったが、周辺の観光客は見向きもしていなかった。伊江島といえば、敗戦時、米軍が、いわゆる「銃剣とブルドーザー」で、生き残った住民たちを追い出して、土地収用がなされた島でもある。

 また、二〇一七年二月、沖縄屋我地島の国立療養所沖縄愛楽園を訪ねたときのことだった。全国の国立ハンセン病療養所に、一九三二年、貞明皇后が詠んだ短歌「つれづれの友となりても慰めよ行くことかたきわれにかはりて」が贈られ、つぎつぎとたてられた歌碑がそこにあるはずだった。その歌碑の顛末は、昨年のこの時評でもふれたが、広場の片隅に、土台ごと倒され、青いビニールシートで覆われていたのだ。この「御歌碑(みうたひ)」こそがハンセン病者の強制隔離政策を正当化し、さまざまな差別を受容させる役割を果たしたことの象徴でもあった。敗戦直後は、海に投げ込まれたという。私が見たのは復帰後に再建された歌碑だったのだろう。一九三一年制定の「癩予防法」、それを引き継いだ「らい予防法」が廃止されたの一九九六年、その間の苦しみ、その後も続く差別に耐えた、現在の入居者やそこに働く人々の複雑な思いが反映されている光景に思われた。こんな運命をたどる歌碑もある。(『ポトナム』2019年3月号、所収)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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