2019年3月12日 (火)

改元奉祝のなかで、「天皇依存」の系譜(2)そして、歌人たち

天皇が原発をやめよと言い給う日を思いおり思いて恥じぬ(吉川宏志)
 『短歌』201110月 『燕麦』2012年所収)

   東日本大震災による原発事故の直後に、吉川宏志が発表した作品である。当時、結句の「恥じぬ」の解釈をめぐって、若干の論議が交わされた。「ぬ」は完了なのか、「打消し」なのか、つまり「恥じた」のか「恥じない」のかどちらなのかと。私は、それまでの吉川の作品や発言から当然、「恥じた」として読んだ。「打消し」なら「恥じず」とするのが自然だからとも思った。作者は、もちろん「完了」の方だと明言し、近年の平井弘とのインタビューの中で、吉川自身、この一首について、つぎのようにも語っている。

「天皇に『原発をやめよ』と言ってもらおう、という発想自体に、天皇を利用しようという心根があるわけでしょう。それが恥ずかしい、という歌なんですよ。ただ、今の状勢を見てたら、天皇が言ってもだめかもしれないですね。今の政権は、天皇の意志なんてまったく無視しているわけでしょう。」(特集 平井弘インタビュー「恥ずかしさの文体」(後編)『塔』2017年4月) 

   また別の場所で、吉川は、国旗国歌法(1999813日に公布・施行)が成立したころは「〈天皇制〉を厳しく否定する論調が、歌壇では特に強かった」という認識で、当時の歌壇、時代の空気を思い起こしながら、つぎのように記す。 

 戦争体験などをして、非常に嫌悪感をもっている人たちが存在することもよく理解している。そういった人たちが、反対するのもよくわかる気がする。けれども、「君が代を歌わない権利」がある一方、「君が代を歌う権利」があることも明らかだろう。だから、卒業式などで歌うことを強制することには反対だけれど、逆にあまりに過剰に君が代を否定することにも違和感をもつ。君が代をたまに歌ったくらいで、異常な国家主義者になるわけでもない。君が代を肯定する善男善女は、世の中に無数にいるだろう。現在では、非常に激しく君が代を非難する態度も、社会的にあまり共感されないのではないだろうか。

 左翼的な人々(の一部)は、現実の天皇制を廃止すれば良いのだ、と考えた。しかし、そうではなくて、権力と責任の存在が曖昧なシステムそれ自体に、危険性は存在していた。おそらく、現実の天皇制を批判しても、何も変わらない。
 
むしろ、今年の天皇陛下の年頭のお言葉「東日本大震災から2度目の冬が巡ってきました。放射能汚染によりかつて住んでいた地域に戻れない人々や,仮設住宅で厳しい冬を過ごさざるを得ない人々など,年頭に当たって,被災者のことが,改めて深く案じられます。」
 
を聞くと、原発事故を忘れてしまったかのような、現在の首相や政府の発言よりも、ずっと心に沁みてくる。
 
 いろいろな意見はあると思うが、私は、単純に天皇制は悪だとは考えない立場である。
 (①②とも「短歌と天皇制について」『シュガークイン日録3』20130122日) 

  「国旗国歌法」の条文には、強制、義務化の文言はない。当時の小渕首相はじめ、議会の質疑でも、強制・義務化はない、としてスタートした。その後の経緯は、どうだろう。教育現場では、学習指導要領で縛り、職務命令という形で、「君が代」斉唱時の不起立、ピアノ伴奏拒否などにより受けた処分や不利益は、教師たちの思想信条の自由を侵すものではないか、との訴訟で各所でなされた。管理者の裁量の範囲内であり違憲とは言えない、という判断が定着しつつある中、処分が重すぎるという判決もあったが、まだ係争中のケースもある。吉川は、①において、「強制することには反対だけれど」などと、天皇みたいなことを言う。「君が代をたまに歌ったくらいで、異常な国家主義者になるわけでもない。君が代を肯定する善男善女は、世の中に無数にいるだろう。」とは、どういうことか。統制や弾圧は、些細なことから始まり、それによる萎縮や自主規制が強まり、息苦しくなって、気づいたときは、すでに抵抗の手段を奪われていたという歴史を、私たちは教えられたり、学んできたりしたと思う。

 

 政治の世界に限らず、時代はすでに、数の力で、少数派や異論を無視し、排除する構図が出来上がりつつある。「寛容」や「多様性」の旗を掲げるならば、日常的な談論風発、百家争鳴、混沌こそが、民主主義の基本ではなかったか、とも思う。自分と異なる意見が多数を占め、数の力が及ばないとき、「面従腹背」と言ってしまうのか。吉川のように「天皇を利用しようとする心根」を「恥じた」のならば、いまは“リベラルで、いい人”の天皇を持ち出すのは、フェアでない。②で言うように「権力と責任の存在が曖昧なシステムそれ自体に、危険性は存在していた。」とするならば、その「曖昧なシステム」に「天皇制」が寄与していなかったかを検証する必要もあるだろう。

 「単純に天皇制は悪だとは考えない立場」をとるのは自由だが、その「危険性」に本気で向き合おうとするとき、「現実の天皇制を批判しても、何も変わらない。」とするのは、いささか「単純」すぎないか。

  たまたま、吉川は、自分の意見を表明しているが、天皇依存の歌人も多いのではないか。逆に、天皇の短歌や「おことば」が、過大に評価され、利用されているのを憂慮している歌人もいるのではないか。いまこそ、この「改元」の奉祝ムードの只中でこそ、大いに声を上げるべきだろう。

24img111 レイアウトは異なるが、2019年2月24日朝刊各紙に掲載された政府広報

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商魂たくましい、広告の数々・・・。上が「朝日新聞」2月24日朝刊、下が同紙2月25日朝刊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年3月11日 (月)

改元奉祝のなかで、「天皇依存」の系譜(1)<リベラル>な人々

  大辻隆弘の「短歌と天皇制」(217日『朝日新聞』)について書くにあたって、自著と手元の本や新聞・雑誌のスクラップなどを読み返してみた。大辻が、「リベラル派」というわけではないが、「リベラル派」の「天皇依存症」について考えてみたい。

「天皇」への依存ぶりがよくわかるのは、多くの場合、安倍政権への反発や非難が根底にあって、天皇の「おことば」や「祈り」に行きつき、よほどまともなことをと相対的に評価するというパターンである。

 

<リベラル>な人々が

  まず思い起こすのが、かつて、当ブログにも書いたことある金子兜太(19192018)の発言であった。当時の『東京新聞』が連載していた「平和の俳句」で、選者の金子が、「老陛下平和を願い幾旅路」の句を選んだ短評で「天皇ご夫妻には頭が下がる。戦争責任を御身をもって償おうとして、南方の激戦地への訪問を繰り返しておられる。好戦派、恥を知れ。」(2016429日)と記していたことに、いささか驚いたのである。太平洋戦争下においては、海軍主計中尉として戦地体験を持ち、トラック島を離れるに際して、「水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置いて去る」と詠んだ代表作もあり、戦後の社会性俳句、前衛俳句運動のリーダーでもあった金子であった。近年、安倍政権批判の市民運動でのシンボリックなプラカードとなった「アベ政治を許さない」を揮毫したことでも知られていた。

<参考>
 
「平和の俳句・老陛下平和を願い幾旅路」(『東京新聞』2016429日) (『内野光子のブログ』2016517日)
 
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/05/2016429-463d.html

 

  また最近では、マルクス経済学者として知られる金子勝(1952~)は、昨年の天皇誕生日の記者会見後、つぎのようにツイートしていた(7:53- 2018年12月23)。 

【沖縄に寄り添う】天皇陛下は記者会見で、沖縄のくだりで声を震わせて「沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました」「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」と語る。アベは聞いているのか? @masaru_kaneko

 

日本共産党では
  これらの断片的な発言では、天皇制への言及はないものの、「安倍憎し」の思いからの、平成の天皇への活動や「おことば」への心情的な共感であった。さらに、近年、日本共産党が、天皇制、天皇へのスタンスを大きく「右」に舵を切った。そのきっかけは、20147月の安保関連法閣議決定に危機感を感じてのことであったのだろうか。何とか支持者を増やしたい、嫌悪感を払拭したいとでも思ったのか、201512月には、当ブログの下記の2件で触れているが、一つは、国会開会式への出席を表明したことである。議場の「玉座」から天皇が開会の言葉を述べる、あの開会式に、新憲法以来、出席を拒否してきた日本共産党が、天皇の言葉に政治的な発言がなくなったので、出席するといい出した。私は支持者でもないが、ちょっと理解に苦しみ、ネットで「綱領」を調べてみて、やはり疑問は去らなかったので、中央委員会に電話もしてみた。関心のある方は、そのやり取りを見てほしい。
 「綱領」(2004年)には「党は、一人の個人が世襲(せしゆう)で「国民統合」の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫(しゆびいつかん)した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃(そんぱい)は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである。」とある。たしかに天皇の制度の存廃は、国民の総意によって解決されるべきものであろう。しかし、法律や制度が、つねにすべて合憲というわけではないからこそ、その改廃や運用が議会や司法に問われるのではないか。前段では、現在の天皇の制度は、民主主義と両立するものでないことを明言しているからこそ、それまでずっと、その制度の運用の一環として望ましくないとして開会式を拒んできたはずである。環境に大きな変化があったわけでもない、天皇の言葉が劇的に変わったというタイミングでもない。変えた要因は不明のまま、マス・メディアが報ずるように、「共産党アレルギー」を払拭したかったのか、あるいは、共産党の「国民の声」係が電話口で答えるように、「開会式に出席したって『べつに、イイじゃん』っていう国民がほとんどでしょう、いまは安保関連法阻止の方が重要な課題なのを理解しないあなたの方がオカシイ」ということだったのか。

  環境の激変というのであれば、翌年20168月の天皇の生前退位表明であったかもしれない。ここでも、共産党は、その中身が、違憲の可能性がある退位特例法にも「静かな環境」での論議の末、全党一致で賛成した。 

<参考>
今年のクリスマスイブは(2)なんといってもそのサプライズは、国会開会式出席表明の共産党だった(1)(20151227日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/post-6623.html

 

 

若い<論客>たち

 こうした流れの中で、安保関連法反対、憲法9条改変反対、原発再稼働反対というその一点で共通する著名人となると、保守政治家や研究者、文学者、ジャーナリストやタレントなど、過去の活動や発言などはお構いなしに、集会や講演会などに登場するという現象が蔓延する。最初は、その意外性と物珍しさもあるのだろうが、繰り返されると、多くは、準備の足りない、アジテーションで終わり、いわゆる肩書や名前への「依存度」は増す。
なお、最近、共産党の広報の一つ「生放送!とことん共産党」という動画が配信されていることを知った。そこに登場する“若き論客”の白井聡や中島岳志の天皇観というのも気になったのである。それぞれ1時間前後の小池晃との対談の動画だけからでは明確ではない。  

白井は、その動画で、日本は、戦前の天皇に代り、敗戦後は、アメリカがその地位を引き継ぎ、天皇制国家は、対米従属国家となったことを強調していた。アメリカの同盟国の中でも日本は、類を見ない屈辱的な関係を維持しているが、アメリカとしては冷戦崩壊以降、とくにトランプ政権以降は、同盟国としての存在価値は下がっていることに気づかねばいけないと。別のところでは、その属国意識が、政治も官僚もメディアも劣化させ、考えることができない人間が増やしてしまい。安倍政権の「やってる感」に国民は騙されている(「戦後体制の根幹を崩す安倍政権」『マスコミ市民』20193月)。また、昨年の新著『国体論』(文芸春秋)では、つぎのような主旨の構想を展開する。すなわち、平成の天皇は「国民統合」を志向するがゆえに、親米保守の政権が日本社会を荒廃させている現状に危機意識をもって「本来ならば国体の中心にいると観念されてきた存在=天皇が、その流れに待ったをかける行為に出たのである」とした。その決断に対する「共感と敬意」の意思を国民が受け止めることで真の民主主義への可能性を探ることができるのではないか、ということらしい。

    天皇の決断を介して、真の民主主義の可能性を探るというのも、大いなる天皇依存であって、まさに国民一人一人が考えて行動すべき本来の民主主義から大きく外れることになるのではないか、と私には思えたのである。

 また中島は、先の「とことん共産党」の対談では、苦難の中で「ブレない共産党」に敬意を表していたが、まず、天皇制に関しては曲折があったことは確かだろう。その辺をどう受け止めているのかは、どこかで語っているのだろうか、図書館にかけ込まねばならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年3月 5日 (火)

「短歌と天皇制」(2月17日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(4)

「無反応」だったのか

 なお、前々回の記事で触れた子安宣邦の大辻時評にかかるツイートの「平成という時代が天皇制国家日本の強みを再確認しながら終わろうとするようなことをだれが予想しただろうか。今日の「朝日歌壇」の時評で歌人大辻隆弘が書いている。・・・」の主旨がややつかみにくいのだが、この冒頭の一文がまず気になった。子安にして「天皇制国家日本の『強み』を再確認」する時代を予想できなかったというのも疑問だったが、「強み」というのも、どういう意味なのか、分かりにくかった私には、さらなる説明をブログなどで展開してほしいと思った。ツイートやフェイスブックでの発言は、私にはどうも苦手だというのがよく分かった次第。
 それはともかく、大辻は、前記時評で「『短歌研究』1月号の<平成の大御歌と御歌>の特集に対して無反応だった」というが、彼が引用している瀬戸夏子の「白手紙紀行」(『現代短歌』20192月)は、「苛立っている」「慨嘆する」というレベルより、立派な批判的な反応ではなかったのか。そこを、軽くスルーしていることも気になっている。
 彼女は、『短歌研究』の総力特集を読んで「戦後短歌は終わったのかもしれない、と思った」と書き出す。昨年12月の天皇の誕生日記者会見における言葉を全文引用し、その上で、リベラルの多数派をよろこばせるだろうせる内容だが、「だからといって歓迎ばかりしていられないだろう。もし明仁天皇が逆のことをおっしゃられたらどうつもりなのか。」と(こうした敬語が自然に出てくるのがいささか驚きではあったが)。瀬戸は、まさに、「天皇依存症」のリベラル派の痛いところを突く。

さらに、後半で、「短歌においては御製がヒエラルキーの最上位である、という価値観、これまで戦後歌人がその矛盾に苦しんできながらもがいてきたはずのその現実『短歌研究』一月号はなんの臆面もなくさらけ出してしまった。『短歌研究』はもう戦後文学としての短歌の顔を捨てるつもりなのだろうか?」と疑問を呈している。
 末尾では、「ざっと<うた>の歴史を約一三〇〇年と仮定して考えるなら、むしろ戦後短歌の約七〇年が例外状態だったといえるのかもしれない」さらに、最後尾で、「短歌において差し迫った問題として、勅撰、あるいは勅撰時代の『うた』の気配が短歌の世界に到来することを考えなければならないのかもしれない。それは『和歌』と『短歌』を必ずしもはっきり区別して扱わず、一三〇〇年の伝統というおいしいところどりをしてきたつけを払わされるような、事態であるかもしれない。わたし自身もふくめた話ではあるが、もう少しちゃんと考えておいた方がいい。」と結ぶ。(下線部は、原文では傍点)

『短歌研究』の特集への反応が鈍い中で、ストレートな異議申し立て、反論は貴重なものであった。私が、このブログ記事(1)(2)で述べてきたように、そもそも、戦後短歌の出発において、彼女の言葉で言えば、短歌は、「和歌」と「シームレスに接続」、天皇制と「順接」していたことを検証してきたつもりなのだが、うまく伝えることができただろうか。また、私もこのブログの以下で、歌壇における「平成」との向き合い方に触れている。『ポトナム』2月号の時評の転載である。

なぜ元号にこだわるのか~元号を使わないワケ(201925日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/02/post-3b72.html

 


 さらに、大辻が「天皇制との関係は、文学としての短歌の『原罪』であると同時に、文芸としての短歌の『強味』でもあるのだ」と、かっこよく言ってのけたが、その内実は、瀬戸のいう「伝統のおいしいところどり」であり、私に言わせれば、短歌や歌人の権威づけに「皇室」を利用しているのではないか、としか思えないのである。
 なお、大辻は、この4月からNHK短歌の選者になるそうだ。

2019年2月17日『朝日新聞』↓

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「短歌と天皇制」(2月17日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(3)

「天皇制アレルギー」って?

 

 大辻のいう「天皇制に対するアレルギー」とは、何を意味しているのか、が分かりにくい。書き出しの一文からは、まず、戦後短歌の出発当初の「天皇制に対する拒否反応」が、「現在は薄らいでいる」という風に読みとることができる。その例証として、『短歌研究』1月号の特集「平成の大御歌と御歌」に、「以前なら厳しい批判に曝されたであろうこの特集に対して歌壇は無反応だった」ことを挙げている。 

 また、短歌雑誌による天皇夫妻の短歌関連記事に対する歌壇の無反応をもってして「天皇制へのアレルギー」が薄らいだという見立てから察するに、平成の天皇夫妻、生身の「天皇(夫妻)への歌人たちの感情ないし意識」の変化を指しているようにも考えられる。 

 「歌壇」において、前者のような「天皇制に対する拒否反応」があったのかといえば、当ブログの直前の記事でも述べているように、少なくとも「天皇に忠誠を表す形で戦争協力歌が量産された」ことについての反省から戦後短歌が出発した、という実態は見受けられなかったことと、短歌史の執筆者たちの共通認識の双方からも反省から出発としたとは考えにくかった。

 また、敗戦直後の社会状況に立ち戻って、歌人たちが「天皇制」とどう向き合ってきたかを、当時の短歌雑誌などを材料に検証してきたつもりである。さらに、その対象を歌人以外にも広げてみも、そこから見えるものは、戦前の天皇制とのギャップに戸惑いながらも、天皇制への関心は強く、GHQの占領政策、東京裁判、日本国憲法制定過程を背景に、天皇制打倒、天皇の戦争責任論、天皇退位論が政界やマス・メディア、世論にあっても、今では想像もつかないくらい活発に議論されていたことを知ることになる。 

同時に、19462月から始まった昭和天皇の「巡幸」において、迎える国民の対応には、熱烈なものがあり、ぎごちなく手を振る姿や視察先での「あっ、そう」という対応が、逆に親しみを感じさせたのだろうか。我が家では父も薬専の学生だった長兄も入隊せずに、家族に戦死者が出なかったためなのか、50才を過ぎたばかりの父や周りの男性の大人たちが気軽に「天ちゃん、テンちゃん」と呼ぶのを耳にしていたことが思い出される。配給の食糧では間に合うはずもなく、子ども三人の家族五人のためヤミ米を手に入れるため苦労していた母、毎夜のように停電が続いていた時代の光景の一つでもあった。また、19465月の皇居前広場の食糧メーデーには25万人もの人が集まったといい、その1週間前のデモ隊の一部が、皇居内の厨房までなだれ込んだという話もあるくらいである。

 日本は、日米安全保障条約と引き換えに独立をしたが、各地で基地闘争も展開された。時代は下って、皇太子結婚前後のミッチーブームをへて、東京オリンピック、東海道新幹線開通、大阪万博というイベントなどを通じて、日本経済は高度成長が続いたとされる中、全国で公害問題も表面化する。そして、この間、19612月、深沢七郎の「風流夢譚」掲載の『中央公論』発行の中央公論社社長宅襲撃事件をきっかけに、日本の言論の自由は転換期を迎え、とくに天皇に関する言動を自主規制する風潮が高まった。1964年生前叙勲の復活、1968年明治百年記念式典、天皇在位50年、60年記念式典、元号法公布などを経て、昭和天皇の闘病・死去に至って、その自主規制は、一般国民の「自粛」という社会現象にまで達した。昭和天皇死去報道の前後のマス・メディアにおいては、たしかに天皇・皇室情報の絶対量は増えたかもしれない。しかしその内容は、あくまでも、上記の「自主規制」の範囲内での盛り上がりであったといってもいいだろう。天皇・天皇制批判の書籍が書店の店頭から消えた時期でもあった。

 また、たとえば、1979年、進藤栄一によって、天皇が琉球諸島をアメリカの長期軍事占領することを希望していることを示す、いわゆる「天皇メッセージ」なる外交文書(対日政治顧問のWJシーボルトのマッカーサ―元帥のための覚書)をアメリカ国立公文書館で発見、発表(『世界』19794月)され、20083月には、同館からその文書の公開があり、確認され、沖縄の人々や本土の一部の人たちには衝撃を与えた。しかし、それにはことさら触れず、大方のマス・メディアは、昭和天皇の最晩年の短歌「思はざる病となりぬ沖縄を たづねて果さむつとめありしを」の思いを引き継いだとする平成天皇(夫妻)の11回に及ぶ沖縄の戦争犠牲者慰霊の旅をことごとしく報道し、「平和への願い」を表明し続ける天皇像を発信し続けている。

「平成」の時代になって、天皇・皇室情報は、宮内庁のホームページなどから入手しやすくなった。テレビ・新聞の天皇・皇室情報は、現在も変わることなく、宮内庁の記者クラブ「宮内記者会」を通しての取材によるものである。雑誌、とくに週刊誌などの取材にも、便宜を図るようにはなったというが、独自の報道内容には、宮内庁からはたびたびクレームをつけられているのも、ホームページから伺い知ることができる。そういう意味で、少しは開放的になったかに思われる。とくに、天皇夫妻は、公的行為として、積極的に、戦没者慰霊の旅や被災地慰問の旅を重ね、伝統的・文化的な行事にも出向いたり、招待したりして、社会への露出度は、高くはなった。さらに、「天皇家」にかかわる様々な情報、プライベートに属する情報も、従来の映像・活字メディアに限らないネット社会でも行き交うようになった。 

加えて、昭和天皇の側近たちの日記などが、公刊されるようになったことも見逃せない。藤田尚徳『侍従長の回想』(講談社1961)に始まり、東京裁判において天皇の戦争責任免責の一部を担ったという『木戸幸一日記』(東京大学出版会1966)、『宮中見聞録』(1968)などで知られていた木下道雄『側近日誌』(文芸春秋 1990)、『昭和天皇独白録 寺崎英成御用掛日記』(文芸春秋 1991)、『入江相政日記』(朝日新聞社 199091)、『卜部亮吾侍従日記』(朝日新聞社 2007)、『関屋貞三郎日記』第1巻(国書刊行会 2018)などが出版され、富田朝彦元宮内庁長官や小林忍元侍従次長らのメモが発見されたなどの報道も続く。 

こうした情報によって、これまで、知りえなかった天皇周辺の状況が明らかになる部分は格段に広がったかに見える。大量の資料の公刊、発掘も、大辻のいうように、歌壇に限らず「天皇制アレルギー」は、一見「薄らいでいる」ように見えるかもしれない。いわゆる「タブー」が解かれたかにも受け取れる。しかし、ここで、もう一度、これらの内容にたちいってみたい。大きな皇室イベントのたびごとに、そして、とくに815日前後になると、新資料発見・発掘が頻出したり、似たような特集記事や特集番組が続出したりする。そこで、語られるのは、多く昭和天皇の苦悩であったり、平和への思いであったりする。また、平成の天皇は、象徴天皇として、国民に寄り添う、世界平和を願う発言や活動だったりする。その底流としての、天皇家の夫婦像や家族愛、絆が強調されるのも定番である。

だが、それ以上の情報は出てこない。とくに代替わりが迫った昨年から今年にかけて、そしてこれからも、新旧天皇の称揚情報は続き、象徴天皇制が民主主義と共存するものなのかどうかの議論は消し去られていく。
 

そして、いわゆる「リベラル」と称されていた人々や革新政党までが、平成天皇、象徴天皇制へとなだれ込んでいるのを目の当たりにする。 

そのあたりの状況を、二人の研究者は次のように分析している(朝日新聞付録「GLOBE2019111日)
 

原武史(1962~)は、「世襲の君主制は、潜在的に民主主義と矛盾する要素をはらんでいる。」として、次のように語る。

https://globe.asahi.com/article/12061627
 
 「天皇が内閣や議会を媒介せず、国民一人ひとりと結びつくことで、今の政治に対する「アンチ」につながっている側面もある。本来は野党が政権へのアンチにならなければいけないのに、そうならないで、天皇・皇后を理想化して、すがっている。政党政治が空洞化するという点で、超国家主義が台頭した昭和初期に通じるものがある。いまでも天皇に対する批判はタブーだ。20168月、現天皇がビデオメッセージで「退位」の意向をにじませた際も、もっと議論があると思っていたが、多くの憲法学者や政治学者がすんなり認めた。天皇が「おことば」を発するや、それが絶対になる、ということは本来おかしい。」
 
 
 また、河西秀哉(1977~)も、
「天皇制が、ある意味で民主主義の枠外にあることは間違いない」として次のように語る。https://globe.asahi.com/article/12061618
 
「これまで私たちは、そうした矛盾を考えないできた。その間にも、特にいまの天皇皇后両陛下は、被災地訪問や慰霊の旅を精力的に進めて、それこそが象徴としての役割だという概念を定着させてきた。(中略)高度成長が終わり、社会の分断がいわれるようになると、天皇は国民の「再統合」という役回りをより積極的に果たすようになる。
 
それが政治の不作為を埋める。沖縄でも被災地でも、本来なら政治が解決しなければいけない問題だが、天皇が行くことで、不満が顕在化するのを抑えてしまう。いわゆるリベラルの人たちも、本来は自分たちが語らなければならないこと、しなければならないことを、天皇に仮託してしまっている。ねじれのような状況だが、戦後70年にわたって天皇制についてきちんと考えてこなかったツケのようなものかもしれない。」

  本来、国民の一人一人が考えて、行動しなければならないはずのことを、原が「天皇にすがっている」、河西が「天皇に仮託してしまっている」と表現しているように、いわば「天皇依存症」に冒されているとする指摘は重要である。私も、これまで、こうした天皇の役回りは、まさに政治の弱点を補完しているにすぎないと述べてきた。それに甘んじていれば、一種の思考停止にも似て「楽」でもあるが、本来の機能を果たさない政治体制への抵抗の力を損ない、結果的に体制維持や支持につながってしまっていることが、現在の政治状況にいたらしめたと考えている。


 
 天皇家から発信される短歌というメッセージを過大評価するのも、同じような役割を期待しているからなのではないか。(つづく)

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2019年3月 3日 (日)

歌人の顕彰とは

 以下は、一昨日、届いた『ポトナム』誌上の「歌壇時評」である。担当の時評が終わってホッとしている。近くの小学校の裏の梅が満開であった。

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 亡くなった歌人の顕彰には、追悼会、墓前祭、雑誌の追悼号や周年記念特集などの企画、研究会の立ち上げ、歌碑の建立、記念館の建設、その歌人の名を冠した短歌コンクールや賞の設置など、さまざまな形が考えられよう。しかしこれらはいずれも、遺族や継承者や敬慕する人々の高齢化や消長に左右されやすい。記念館や歌碑は、公的な支援や財政基盤のある運営団体の関与がないと継続性の担保は難しいだろう。歌人の名を冠したコンクールや賞は、自治体や観光協会の「まちおこし」の一環として開催されることも多くなった。が、 顕彰として最もふさわしいのは、やはり、遺歌集の刊行や全歌集・著作集の出版ではないかと思う。しかも、本人の意思や取捨選択が関わらない形での編集が望ましく、可能な限り全作品、全著作を収録するならば、その資料的価値は一段と高まるに違いない。とくに、今回、拙著『齋藤史≪朱天』から≪うたのゆくへ≫の時代―「歌集」未収録作品から何を読みとるのか』の資料検索・収集、執筆にあたって痛感したのだった。生前に、歌人自らが取捨選択、編集した作品や著作だけでは、その歌人の全容は把握しにくい。その歌人の評価にあたっては、トータルな著作や業績、活動を知る努力が不可欠と思われた。

  なお、歌碑について、私にはいくつかの体験があった。すでに十数年前のことだが、軽井沢の別荘地に迷い込んだ折、そこで、出会った五島茂・美代子夫妻の歌碑の光景だった。木の枝や雑草に覆われた歌碑は、わずかな姿を見せていたが、足の踏み入れようもない有様だった。現在はどうなっているだろうか。

  私が初めて沖縄へ行ったとき、伊江島に渡り、地元のタクシー運転手に案内を頼んだ。行き先の一つに城山の「天皇の歌碑」も、と伝えると、そんなものあったかな、とそっけない反応であった。平成の天皇が皇太子時代、海洋博のため初めて沖縄訪問の際詠んだ「琉歌」が刻まれている碑である。城山の中腹に、それは確かにあったが、周辺の観光客は見向きもしていなかった。伊江島といえば、敗戦時、米軍が、いわゆる「銃剣とブルドーザー」で、生き残った住民たちを追い出して、土地収用がなされた島でもある。

 また、二〇一七年二月、沖縄屋我地島の国立療養所沖縄愛楽園を訪ねたときのことだった。全国の国立ハンセン病療養所に、一九三二年、貞明皇后が詠んだ短歌「つれづれの友となりても慰めよ行くことかたきわれにかはりて」が贈られ、つぎつぎとたてられた歌碑がそこにあるはずだった。その歌碑の顛末は、昨年のこの時評でもふれたが、広場の片隅に、土台ごと倒され、青いビニールシートで覆われていたのだ。この「御歌碑(みうたひ)」こそがハンセン病者の強制隔離政策を正当化し、さまざまな差別を受容させる役割を果たしたことの象徴でもあった。敗戦直後は、海に投げ込まれたという。私が見たのは復帰後に再建された歌碑だったのだろう。一九三一年制定の「癩予防法」、それを引き継いだ「らい予防法」が廃止されたの一九九六年、その間の苦しみ、その後も続く差別に耐えた、現在の入居者やそこに働く人々の複雑な思いが反映されている光景に思われた。こんな運命をたどる歌碑もある。(『ポトナム』2019年3月号、所収)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年3月 1日 (金)

「短歌と天皇制」(2月17日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(2)

 

 戦後短歌は皇室との関係を結ぶことに慎重だった」のか
 

大辻の冒頭の一文を繰り返せば、「太平洋戦争中、短歌は戦意高揚の具であった。天皇に忠誠を表す形で戦争協力歌が量産された。その反省から出発した戦後短歌は、皇室と関係を結ぶことに慎重だった。」とある。この時評の前提になっているので、やはり、こだわらざるを得ない。私は、すでに、「歌人は敗戦をどう受けとめたか」(『現代短歌と天皇制』風媒社 2001年)において、第二芸術論出現以前の論調を中心に分析を試みている。また、それと重なる部分もあるが、昨年の10月に当ブログで以下のテーマで連載をしている。下記の3件だけでも、見ていただきたい。ここでは、重複する部分もあるが、当時の短歌作品や歌人の執筆した文章をたどりたい。  

 元号が変わるというけれど、―73年の意味()敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(2)(201810 8)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/10/7352-e1cf.html

  元号が変わるというけれど、―73年の意味()―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制> (3) 2018/(20181011)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/10/736-7809.html

  元号が変わるというけれど、―73年の意味(8)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(4)20181029日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/10/73-4720.html

 

  たとえば、1945815日直後の『朝日新聞』には「大君の宜りたまふべき御詔かは 然る 御詔を われ聴かむとす(釈迢空)」(816日)「聖断はくだりたまひてかしこくも畏くもあるか涙しながる(斎藤茂吉)」(820日)などが大家たちの作品が発表されている。のちの「第二芸術論」において、1941128日の開戦を受けての作品とどこが違うのかと、批判の対象にもなる種類の作品であった。ちなみに、髙村光太郎の「一億の号泣」が同じようなコラムで発表されたのが817日であった。 

また、つぎの短歌は、いずれも、194510月号の『短歌研究』に発表されたものだが、まだ、GHQの検閲も軌道には乗っていなかった時期でもあったのだろう。続く、11月号では、翌年の歌会始の「勅題」は「松上雪」と発表されたことを報じている。  

・天皇ぞわれにまします天つ日ぞわれを照らさすこの和ぎを(吉植庄亮)
・大君のみためぞ吾ら生ける身もはてなむ身も捧げまつるらむ(高田浪吉)
・ひたふるに胸肝あつき詔やうつつの御声ききたてまつる(佐藤佐太郎)

 翌年、1946年になると、GHQの検閲が始まったことを、つぎのように伝える。 

「聯合軍最高司令部の事前検閲に就いて」と題して、歌集歌書短歌雑誌等一切の出版物は印刷前にゲラ刷りを日本放送協会内の聯合軍最高司令部検閲部宛に提出し検閲を受けることになった、旨の記事がある(「歌界記事」『短歌研究』194612月)。その後の天皇制にかかる作品の検閲状況は、上記の記事③を見ていただければわかるだろう。
 
1947123日開催の「歌会始」に際して、御歌所の千葉胤明、鳥野幸次に加えて、民間歌人として、斎藤茂吉と窪田空穂とともに選者となった佐佐木信綱は、『日本短歌』194611月号に「詠進歌に就いて」、19474月には「詠進歌を選して」を寄せ、後者では、「十五名の豫選歌が、御前に於いて、崇厳なる御式のもとに披講せられるのを承ってまことに感激に堪へなかつた次第である」として、時代を反映した、新憲法、祖国の再建、戦災地の復興について、生活を歌った作品の多かったことを特色としてあげている。

 

民間歌人が、歌会始の選者になったことに対しては、つぎのように評価も分かれていること自体、「短歌が皇室と関係を結ぶことに慎重であった」とはいえない例証ではないか。むしろ、皇室との積極的な関与を歓迎する考え方がかなり蔓延していたことにもなるだろう。 

岡野直七郎(18961986)は、「ひとたび聖断が下った以上、押しなべての国民は、今までの緊張がにわかに弛んで涙を流しつつ大詔を奉承したのである。(中略)国民詩である短歌の作者が、この日の感動を詠嘆したことは、極めて自然の勢であつた」と冒頭部分で述べた後、末尾では、川田順の皇太子殿下の作歌指導役に就いたこと、翌年1947年の歌会始の選者に、御歌所の歌人に佐佐木信綱、斎藤茂吉、窪田空穂が加えられたことを「特筆すべきとして、歌界の範囲が如何に広いかを示唆するものである」と結んでいる(「(昭和二十一年における短歌)終戦一年間の展開」『短歌研究』194612月)。

  

新短歌運動の推進者であったが、当時は、短歌ジャーナリストとして活動していた柳田新太郎(19031948) は、「御題『あけぼの』歌会始(一月二十三日)の詠進歌一三八二六首、選歌『天地にひかりみなぎりあけてゆくこのあけぼのの大きしづけさ(塩沢定)』一五首。今年から民間歌人三名(信綱、茂吉、空穂)が選者に加つたその結果に一応の期待がつながれたが、蓋を開けてみれば相も変らぬ御歌所短歌。在米羅府の高柳勝平(橄欖同人高柳沙水)の『あけぼのの大地しつかと踏みしめて遠くわれは呼ぶ祖国よ起てと』だけが異色、述べている(「短歌紀要」『短歌往来』19474月創刊号)。 

 窪田空穂(18771967)は、後に、つぎのような三一首の連作を寄稿している(「吹上御苑を拝観して」『短歌研究』194878月合併)。皇室と距離を置くどころではない。

 

御研究室に通はせたまふ路と聞き心ただならず踏みゆく朽葉 

見るはただ薄原なり焼け残る小き御文庫ぞ御住まひどころ 

吹上の御苑拝せしこの方や偲ぶに畏くわがこころ重し

 川田順は、1946年年頭より皇太子の作歌指導にあたり(「歌界記事」『短歌研究』19464月)、吉井勇は「すめろぎ」と題して5首を寄せている(『短歌往来』19477月)。 

おのづから胸ぬち熱し親しげに若き侍従の仕ふる見れば 

浪速津の市井のことも逡巡はずもうしてかしこすめろぎのまへ 

神にあらぬすめろぎたればわれ等また一布衣として御前にゐむ

 吉井、川田は、谷崎潤一郎と新村出とともに、天皇に招かれ文芸について語っているし(「座談会・天皇陛下の御前に文芸を語る」『小説新潮』19479(創刊号)、二人はともども1948年に「歌会始」選者になっている。吉井は1960年までつとめ、木俣修に譲ったかたちである。川田は「老いらくの恋」事件で、一年で降板するのだが。

 1951年の「歌会始」の豫選者 の中には、春日井瀇、五島茂、高尾亮一、中西悟堂という、すでに歌人としてメディアで活躍している著名人たちもいた。これも、中堅の歌人たちを含めて、皇室との関係を持ちたいとする願望の強いことの証ということができよう。 

 その後の、歌人と皇室との関係については、これまでの拙著で繰り返し述べていることなのだが、ざっくり言えば、「短歌が皇室と関係を結ぶことに慎重であった」というより、歌人たちは、むしろ、積極的な皇室へのアプローチを躊躇しなかったともいえる。

 なぜ、「天皇に忠誠を表す形で戦争協力歌が量産された。その反省」もないままに、皇室との関係を深めようとした歌人たち、彼らにも寛容であり、抵抗なく受容した歌人たち、そして、今、現在の歌人たちにも、そのまま引き継がれ、さらにその関係は強化されようとしている、真っ只中にいる。

 その要因は、直接的には、各歌人たちが天皇とつながりたいという名誉欲や自己顕示欲につながるのだが、大局的にとらえると、GHQが日本の占領政策のために編み出された「象徴天皇制」というかたちで天皇制を残したこと、日本政府はつねに天皇、皇室を政治的に利用しようと目論んでいること、天皇及び周辺も象徴天皇制のもとで天皇家の繁栄持続を願い続けていたことを、マス・メディアが全面的に支えることによって、天皇制は「天皇家の物語」として深く、国民の間に浸透していた、考えられる。

うした流れの中で、たしかに、1960年前後、岡井隆による「歌会始」批判などが歌壇をにぎわしたこともあったが、それも一過性で、その岡井も1993年から2014年まで選者、その後は御用掛を務めるに至った。その間には、1979年には、いわゆる「戦中派」と称される世代の岡野弘彦(1924~)と上田三四二(19231989)がそろって選者入りしたときも、その意外性を指摘する声もあったが、岡野は、2008年まで務め、その後は御用掛を務めていたが、今は、篠弘に譲ったようである。 

本記事の前半のような作業の中では、戦後短歌のスタートにおいて「短歌が皇室と関係を結ぶことに慎重であった」という事実は見出しがたかった。

昭和天皇の時代が終わり、平成に入ってからの「短歌と天皇制」、いかなる変貌遂げたのか、遂げなかったのか、について報告できればと思う。

 

私は、ツイッターというのは苦手で、参加?はしていないのだけれど、大辻の、この「時評」には、子安宣邦が直後に反応して、それをめぐってにぎわっているのを知った。その件とあわせて、つぎは、「天皇制アレルギー」について触れたい。(つづく)

 

 
 

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2019年2月25日 (月)

「短歌と天皇制」(2月17 日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(1)

 

「その反省から出発した戦後短歌」って、ホント?

 

すでに、1週間以上も経ってしまったのだが、217日『朝日新聞』の「歌壇時評」の見出しは「短歌と天皇制」であった。皇室情報がメディアにあふれ出ているこの時期に、埋もれそうな見出しであった。しかし、見出しと同じ書名の著書(『短歌と天皇制』 風媒社 1988)を持ち、そのテーマで書き続けている私としては、ほっとくわけにもいかず、読んでみた。執筆者の大辻隆弘(1960~)は、未来短歌会の選者でもあり、評論もこなす歌人である。しかし、その内容は、やはりというか、自身の「結論」に導く強引な論法には、かなりの問題があることがわかった。その文章は次のように始まる。 

「太平洋戦争中、短歌は戦意高揚の具であった。天皇に忠誠を表す形で戦争協力歌が量産された。その反省から出発した戦後短歌は、皇室と関係を結ぶことに慎重だった。戦後短歌には天皇制に対するアレルギーがあったのだ。が、今、そのアレルギーは薄らいでいるように見える。・・・」

 まず、「その反省から出発した戦後短歌」という認識は、かなり「美化した」というより、当時の短歌状況を歪めていることにならないか、と思ったのである。もちろん私にしても、当時の歌壇や歌人の状況をリアルタイムでは知りようがない。戦後生まれの大辻は、何を根拠にしているのだろうか。いくつかの戦後短歌史は、敗戦直後の短歌状況をつぎのように述べている。 

「短歌は、戦意昂揚に踊らされていたために、衰弱がひどくて真の文学的立ち直りを見ることができなかった。戦後の虚脱状態がしばらくつづくのである」(木俣修『昭和短歌史』明治書院 1966年再版 571頁)

「終戦直後の内部的な混乱、また第二芸術論による外部からの追討ちにもかかわらず、このころ歌壇はもうこういう「年齢的、歌歴順の秩序」をすっかり回復している。割切っていえば――ということは、一時期における左翼『人民短歌』運動の強勢と、若手「新歌人集団」グループの急激な進出を別にすれば、歌壇は、敗戦によって格別の変化を蒙ることがなかったといっていい。とは言え、戦後はすべての歌人にとって再出発だった」として、歌人によっては、解放であり、試練であり、喪失であり、それが創作活動の刺激となり「戦後短歌の多彩な収穫を約束した」とする(上田三四二『戦後短歌史』 三一書房 1974年 89頁)

「この人たち(茂吉、文明、空穂、善麿、夕暮など近代短歌の大家)にとって国家からの桎梏から解放されるということは、悲しみに富んだ悔しみにほかならなかったのである」とし、この「悲傷の極限」から始まる戦後は、戦時中の弾圧から解放された歌人たち「渡辺順三らが『人民短歌』誌上で、いくぶん戦争責任の問題を取り上げたが、みずからの禍根を払っての公式的な攻撃であったきらいもあって、ついに歌壇の一般問題にならなかったのである」(篠弘『現代短歌史Ⅰ』短歌研究社 1983年、22頁)

 これらの「短歌史」に「反省」という言葉が出てこない。だが、その一事をもって、断ずることはできないし、これらの執筆者の言は当然検証されなければならない。私も、必要に迫られて、限られた範囲ながら、敗戦直後の主な短歌総合雑誌や復刊間もない結社雑誌に目を通し、当時の短歌や歌人たちの文章をたどるだけでも、「戦後短歌の出発」にあたって「短歌は戦意高揚の具であった」こと、「天皇に忠誠を表す形で戦争協力歌が量産された」ことへの反省があったとは受け取りがたかった。逆に、GHQの検閲文書を収録したプランゲ文庫により短歌雑誌の検閲記録には、天皇制賛美を理由として削除された短歌や文章も決して少なくないことも知るようになった。


 
 上記の上田三四二の文中にある、歌壇における「年齢的、歌歴順の秩序」とは、1949年から50年代にかけて、10年余を短歌ジャーナリズムに身を置いた中井英夫が、敗戦後も変わることのない歌壇の状況を端的に表した言葉だが、「昭和二十年~二十三年」の歌壇の状況についても言及している。俳句に向けられた第二芸術論の余波で歌壇も大揺れに揺れたことに触れて、「大部分の歌人の胸中に深く巣食っていたのは、戦争中に戦争協力の歌を作るのはまったく当たり前のことではないかという、当時の日本人は考えて怪しまず、そのまま今日まで持ち越されてしまった手前勝手な論理であった」(中井英夫『増補黒衣の短歌史』潮出版社 19751920頁)と述べ、その典型として、佐藤佐太郎の一文(『アララギ』19461月)をあげるのである。

 

 戦後短歌の出発を語るからには、せめて、これらの短歌史をひも解く謙虚さが必要ではなかったか。

 

 

 

 

 

 

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2018年11月 5日 (月)

元号が変わるというけれど、―73年の意味(9)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(5)

東京裁判はどう歌われたか

 

七名の日本人の死にゆかむ日は年内に迫り来なむか  

(宮柊二「猫じゃらしの穂」12 短歌研究 19491月)

裁かれし二十五名の断罪に耳かたむけてゐたるときの間
おごそかに歴史の上にしるされて永遠に消えざる今日の重大
(吉野鉦二「断罪」12 短歌研究19492月)

断罪の一人の友の夫がラジオにて知るその絞首刑(板垣喜久子夫人に)
洋裁店場末の町にひらきしも戦犯家族の生きてゆく道
(尾崎孝子 「十二首」12 短歌研究492

判決のラジオの聲を耳にして自由が丘の街なかに立つ
(片山廣子「秋日」7 日本短歌 19492月)

七人の處刑をはりし夜の闇のまぼろしに来て迫る何ゆゑ
薤の上の露ひとときのはかなごと同罪の吾をせめつつゐたり
断罪を軽しとしつつ傳へ来る福音はなほ吾に遠くして
(山本友一「冬蟄吟」12 短歌研究 19494月) 

断罪の一人の如く醒めし吾ま夜の井に来て水のみにけり
(青木政雄 短歌人 19491011月)

これらは、極東軍事裁判、いわゆる東京裁判のA級戦犯として東条英機ら七人が処刑された19481223日(皇太子誕生日)の前後に詠まれた短歌である。1946429日、(昭和天皇誕生日)に東条英機らを起訴し、53日にスタートした東京裁判だったが、19481112日には死刑の判決が宣告されていたものだ。『昭和萬葉集』巻八にも、この死刑執行について詠んだ短歌がかなり収録されているが、私は、あえて、初出の雑誌で発表した作品に限って、あげてみた。手元で確認できるものだけなのだが、ほぼリアルタイムで詠まれた短歌と言ってよいだろう。後、歌集に収録されたものには、改作されることもあり得るから、引用には、やや慎重にならざるを得ない。尾崎孝子の短歌は、七人のうちの一人、板垣征四郎の喜久子夫人を歌ったものである。夫人は、阿部静枝とお茶の水女高師の同期生で、古くからの『ポトナム』同人であった。『ポトナム』に復帰された1960年代からの東京ポトナムの歌会で何度かお目にかかったことがある。作品は、私など及びもつかない、骨格のしっかりしたものであり、苦労はされたとは思うが、やさしく、穏やかな面差しが印象に残っている。 

 A級戦犯処刑の日から2カ月もたたない1949215日に発売された、巣鴨拘置所で死刑囚の教誨師を務めた花山信勝『平和の発見―巣鴨の生と死の記録』は、たちまちに15万部以上のベストセラーとなったという。それを受けて、杉浦明平は、死刑囚の辞世と花山の<説教>、著名・無名にかかわらず歌人の受け止め方を、雑誌に発表された作品を例に挙げながら、辛口というか、かなり挑戦的な口調で、批判を続け、つぎのような結論へと導く(杉浦明平「新七刑囚物語―極東裁判の短歌について」『短歌研究』19497月)。

歌人たちは<世紀の裁判>とか何とか新聞の見出しだけを覚えて復唱するだけ で、この戦犯裁判と処刑との意味するものを深くとらえていない。従つてそれを文学化せずにおられぬまでに強い抒情をなし得ず、まれになしても非文学的な三十一文字しかつくれない。それはちようど聖戦をあのように姦しくさえずり回りわめき立てたことと表裏の関係に立つ。すなわち、歌人が、従つてそのいとなむ短歌もまた、近代化の方向に向いていないし、近代化への切実な要求ももつていないことの一つのあらわれにほかならない。」

 そんな中でも、杉浦は、井上健太郎(『国民文学』)のつぎのような、いまだ生硬ながら、「自覚的」な短歌として期待を寄せていた。 

・死によりて償はるるとなす彼の思想を何が何がかへるのか 

・千数百すでに縊られたるありて七囚をのみなげく何もなし 

・縊られし者ら以上に生きながら永き苦悩をつづけてゆくべし

  極東軍事裁判の開廷中をふくめ、天皇の戦争責任論にかかわり、天皇退位論議は、マス・メディアを舞台にかなり活発になされていた。今からは想像がつかないほどで、例えば、大手全国紙は、世論調査を実施するとともに、194510月から翌年にかけては、社説でも、天皇の退位時の対応策などが論じられ、19464月、南原繁東大総長は道義的退位論を表明している。新憲法施行後も、司法の場からは、19484月、三淵忠彦最高裁長官により、8月には、横田喜三郎東大教授による退位論が表明されている。裁判の終盤、19471231日、東条英機が天皇に開戦責任ありと証言した一週間後の年明けには、天皇に開戦責任なしと証言を覆した場面もあった。開廷中のキーナン首席検事が天皇訴追せずのメッセージは幾度か出してはいたが、そもそも、アメリカ本国では、1941年日米開戦直後から、日本占領後の「象徴天皇制利用構想」が打ち出されていたという(加藤哲郎『象徴天皇制の起源』平凡社 2005年)。日本の情報機関は知るすべもなかったのだろう。 

 杉浦明平も指摘するように、東条英機が戦争責任を一人背負ったような、いわば<浪花節的>な展開に、多くの国民の「男らしさ」や「可哀想だ」という情緒的な反応が、「事物の本質を見失わせ」、「戦争責任の問題およびこれと関連するこの荒廃せる祖国復興の問題をば傍き道に逸らせるのにもつぱら寄与していると言つていい」の言には、耳を傾けてもいいかもしれない。(つづく)

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2018年10月29日 (月)

元号が変わるというけれど、―73年の意味(8)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(4)

 プランゲ文庫の検閲文書から見えてくる<短歌と天皇制>

 なお、同じころのGHQの検閲過程で『アララギ』1947年新年号において、興味深い一件を垣間見ることができる。

Img526

プランゲ文庫に残る『アララギ』1947年1年号の表紙。47年2月4日の日付とY.Sakaiのサインがある。「20000」というのは、発行部数のようである。当時、『人民短歌』12000部の記録もあった。

  雑誌などの検閲は、まずExaminerによって、目次がすべて英訳された上で、全頁、点検の上、「注視すべき」作品や文章と作者名が英訳され、その理由が<note>として記される。タイプの場合もあるし、手書きの場合もある。『アララギ』新年号においては、ExaminerM.Ohta のサインのもと8カ所が対象となっていた。さらに、おそらく、別人によるチェックが入り、結論がタイプ打ちされ、結果的には、二首が削除され発行されていた。一つは、13頁の五味保義の八首中の一首で、乱暴に墨塗りで消されているので、「棒立ちて日本人を入◇◇◇◇疎林◇ホテルボーイ下り◇◇」しか読み取れない。穴埋めのクイズのようでもあるが、つぎのように英訳されている。削除の理由は、<causes resentment>となっていた。

 There stand a notice-board of “No admittance to Japanese “ in a grove , and page is seen coming down out the hotel.) causes resentment

  もう一カ所は、37頁の丸田良次の一首が削除されて発行されている。実は、37頁には、つぎのもう一首、天皇に触れている作品が対象となっていたのだが、最終的には削除を免れている。<note>をみると、その削除理由が、一首目が、「国家主義的」で、二首目が「超国家主義的」と記されているが、もはや検閲者のサジ加減一つということにも思える。その検閲者の日本人が、英語が堪能なだけだったのか、文学や短歌の基礎知識を持ち合わせていたのか、などにもよるのだろう。
・天皇のために死なむと汝(なれ)がいまは打倒をとなふるかなし(大分 菅沢弘子)

How pitiful is it to hear that you, who once revealed to gladly die for the Emperor, are now advancing up knocking down.)<nationalistic>

 ・戦死せざりし事が悔しく熱の如時たまにして吾を襲ふなり(佐賀 丸田良次)
The chagrin for my not having died in the battle often assail me like  a fever.ultra-nationalistic

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『アララギ』1947年1月号、「一月集 其二」は、結城哀草果、高田浪吉、鹿児島寿蔵、廣野三郎、五味保義、吉田正俊・・・と続く。ちなみに「一月集 其一」は、岡麓、斎藤茂吉、土屋文明であった。五味作品の削除は、見せしめ的な要素もあったのかもしれない。

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『アララギ』1947年1月号、土屋文明選「一月集 其三」、一人一首の選歌欄なので、作者にしては、その大事な1首が削除されてしまっている。

Img524

Img529
上は、最終の報告文書のようであり、下は、<note>の一部で、まるで、殴り書きのようだ。

プランゲ文庫に残された検閲文書を見ていくと、戦勝国による検閲と日本の近代における、とくに、戦時下の国家による検閲とには、一見、明らかな違いがあるようにも見えた。GHQには、被占領下の国民には検閲の事実が知られないように、検閲の痕跡を残さないようにというのが原則であった。日本では、天皇や政府、軍部に対する批判は、見せしめのような、発禁や伏字という形で許さず、その上、出版社や執筆者は、治安維持法による編集者・執筆者の拘束、用紙配給の停止などにより、国策に加担すべく「懇談」「指導」を繰り返した。

GHQも、原爆への言及や報道、作品と占領軍・米兵の犯罪報道への検閲は、とくに厳しかったが、永井隆『長崎の鐘』(1949年)の出版などは、アメリカの占領軍の露骨な戦略の一つでもあった。長崎への原爆投下は「神の摂理」であったとするその内容とともに、7割近くの頁を連合軍総司令部諜報課提供の日本軍のマニラにおけるキリスト教徒虐殺の記録「マニラの悲劇」を付録とすることを条件に30000部の用紙が調達されたのである。日本軍のマニラのキリスト教徒殺害行為を公にすることによって浦上カトリック教徒への原爆投下を正当化しようとする意図は明白だった。「用紙」を管理することによって、プロパガンダに加担させ、公職追放によって言動を封じる手段は共通であったと思う。

 占領軍は、内務省下の発禁図書も、収集させた戦争記録画、占領下の検閲関係文書もアメリカに接収、運ばれた。そして、それらは、保管され、時間は要したが、結果的に、返却・無償貸与・公開という形で、日本でも知り得る情報となった。日本国内では、敗戦直後、軍部や官庁、企業などでは、戦時下の書類など焼却され続けたという。そして、多くの事実の隠滅、隠ぺいが図られた。

 そして、この体質こそが、今日の自衛隊や省庁、企業での隠蔽や改ざんが後を絶たず、政治が自国民の命と財産すら、守り切れていない現況を作り出しているのではないかと思う。そして、個人レベルでも、多くの表現者たちが、この占領期の検閲について語ろうとしないで現在に至っている。歌人も決して例外ではなかったことも知らねばならない。

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2018年10月11日 (木)

元号が変わるというけれど、―73年の意味(7)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(3)

『八雲』創刊号には、短歌の創作欄には、五島茂、佐藤佐太郎、鈴木英夫、香川進、坪野哲久、岩間正男、堀内通孝、岡野直七郎、長谷川銀作、橋本徳寿、山下陸奥、筏井嘉一、と12人の第一線の歌人の名が並ぶ。この辺が、編集陣の久保田、木俣修らの微妙なバランス感覚が働いているところだろう。それにしても女性が一人もいないと思ったのだが、この作品欄とは別に、「短歌ルポルタージュ」と冠した、挿絵入りで阿部静枝「進駐軍のゐる風景」10首が載っていた。その中に次のような3首があった。私自身が、その晩年に指導を受けた歌人でもある阿部静枝((18991974)は、戦前の無産運動で活動、弾圧で挫折、太平洋戦争下では翼賛に傾いた歌人だったので、3首目の決意は、おそらく本気であったのだろう。前の2首は、やや、明確さに欠けるきらいがある。「侘しむ民」の一人としての作者自身なのか、その心変わりをどう受け止めているのかなど、やや整理しかねているようにも思えた。しかし、「大内山」、「宮城」、「雲の上」という表現ではあるが、「天皇」を詠んだ作品として記憶されてもいいのではないか。

米軍ゐてともしかがよふ丸の内大内山のみ暗く侘しき
宮城の小暗く深きをたふとまず侘しむ民の心変わりや
雲の上に主権をおきてひれ伏せる暗愚の歴史閉ぢて起つべし
(阿部静枝)(八雲 創刊号 194612月)

Img517
『八雲』 創刊号(1946年12月)より

 その後の『八雲』には、「天皇制」に言及する評論がしばしば登場する。たとえば、以下の3点をみてみよう。

①西郷信綱「日本文学における叙事詩の問題」
(八雲 19476月)
②岩上順一「歌誌批判・不二・民草について」
(八雲 19479月)
③渡辺順三「歌誌批判・納得できぬこと―短歌人・潮 音・橄欖について」
(八雲194711月)

 ①では、「和歌が一千年以上の時間の流れをくぐりぬけて存續し、今なおわれわれの意識を多少とも制約しているその契機が、天皇制を存續せしめたと構造的に同じ契機であることを私はひそかに信じている。すなわちその連續性は、日本の社會の停滞性の表現以外の何ものでもない」とした上で、「封建的幽暗さから解放されて近代的に組織化され、新しい秩序の到来を呼ぼうとして逃走している民衆の力」というものを素朴に是認しながら、「現代日本に新しい叙事詩の可能性を信じたい」としている。

 ②では、右翼の活動家として何回か投獄もされ、歌人でもあった影山正治(19101979)が、復員後『ひむがし』(194111月創刊)の後継誌として『不二』を創刊(19465月)、万葉浪漫主義を唱えていた影山銀四郎(19081978)が栃木県で『民草』を創刊した(194612月)。その熱烈な天皇制護持は、開戦も敗戦もすべての責任を「聖慮」「神慮」に帰することになり、天皇を苦しめ、人民の人権と相渉るのか、と憂慮している。

 ③は、太田水穂の『潮音』は、敗戦をはさみ、辛うじて休刊を免れ、斎藤瀏の『短歌人』は、19464月に、吉植庄亮の『橄欖』は194612月に復刊しているが、「戦争中は神がかりの祝詞のような文書を書き散らし、戦争に協力せぬものを国賊扱いにしながら、終戦後はまたケロリとして元の雑誌を復刊し、反省も自己批判もなく、歌壇に座を占めているなどは一體人間的な神経があるのかどうかさえ疑いたくなる」と糾弾する。

 西郷(1916-2008)は、斎藤茂吉に傾倒する、当時気鋭の古代文学専攻の研究者であり、岩上(1907-1958)は、戦前から活動する文芸評論家で、治安維持本で投獄されたこともあり、敗戦後は新日本文学会の創立にかかわり初代書記長となっている。渡辺(18941972)は、窪田空穂に師事、口語短歌『芸術と自由』の編集にもたずさわったが、無産者歌人連盟、プロレタリア歌人連盟を経て、一度ならず検挙されている。敗戦後19462月には新日本歌人協会を結成『人民短歌』を創刊している。

こうした論調に先立って、中野重治は、別のメディアにあって、もっと端的に、短歌の政治的利用について言及している。「政治的手段に藝術を用ゐるといふのは、日本の天皇政府がやってきたことで」、その最たるものが歌会始だといい、「天皇の宮中歌會からミラミッド形にさたつて来るあれほど短歌を政治的手段として悪用したものはほかにない」とも語っていた(「文学者の国民としての立場」『新生』19462月)。

また、作品面で、天皇制・天皇への批判がいささかでも垣間見られるものをあげてみよう。参考のため執筆者の生没年を記しておく。

敗戦の責めの所在を見きはめつつ君をうやまはずまた否定せず

神にあらず人にも似ざる旅を行き新しき代の感覚のずれ

(坪野哲久、19061988)(人民短歌194612月)

切羽つまりしわれらが今日のまなこもて天皇をみる遮ることなかれ

(坪野哲久)(短歌往来19482月)

天皇がただすなほに詫び宜らすことすらなしに何革まるべき  

(香川進、19101998)(人民短歌194612月)

奉安殿壊つ清しさや古きもの崩えゆく兆しまのあたり見つ

新憲法かにかく成れど「象徴」の模糊たる二字にわが怡しまず

(安藤佐貴子、 19101999)(短歌研究19473月)

とどろきに陛下応ふと傍観しこの日のさまを書きし記事あり

(宮柊二、19121986)(短歌往来194711月)

 しかし、その一方で、『日本短歌』194712合併号には、「歌会始―選ばれた十五首」と題した記事が載り、4月号には、5人(佐佐木ほか千葉胤明、斎藤茂吉、窪田空穂、鳥野幸次)の選者詠とともに、佐佐木信綱の「詠進歌を選して」を寄稿されている。斎藤・窪田・佐佐木という民間歌人が選者として初めて参加した「歌会始」であった。そこで、信綱は、19471223日、「御前に於いて」披講される感激を記した後、内容上の特色として、新憲法、祖国再建、復興など時代を反映した歌が多かったことと、仕事や職業についてなど生活を歌った歌が多かったことをあげている。

『八雲』の土岐善麿の五十首詠「初夏身辺抄」(19478月)には次のような歌が並ぶ。

たたかひをいかに苦しくおぼしけむ平和の民とともにいますべし

銀のナイフ銀のフオクのかがやくをもろ手にとりてつつましくをり

問はすことみな重要なる課題にしていみじきかな文化国家の元首

(土岐善麿、18851980)(八雲19478月)

 その後の『八雲』の「土岐善麿・木俣修対談・短歌の青春時代」において、「歌会始」ではないが、学士院賞受賞、御進講、御陪食のことを問われて、土岐はご馳走になった鯛の蒸焼き、大きなビフテキ、スープ、灘の生一本などの美味にまで及び、昭和天皇、高橋誠一郎文部大臣らと親しく話しあったこと、進講に対しては、天皇の質問も学者的で「科学者としての陛下のおきもちに皆動かされた」と、感激のほどを語っている(八雲 19481月)。

おほきみもたみくさともにたたかひのわざはいたへてすぐさせたまふ

ばくだんがこのくにつちをこなにすともきみとたみとをひきさくべしや

(金田一京助、18821971)(沃野19472月)

神にあらぬすめろぎなればわれ等また一布衣(ふい)としておんまえにゐむ
(吉井勇、18861960)(短歌往来19477月)

 

 

 こうしてみると、天皇制・天皇に批判的なグループの歌人は1910年前後の生まれで、人間宣言後も天皇、天皇制により一層傾斜してゆくグループは、19世紀生まれといってよく、世代的にも、阿部静枝、坪野哲久世代が中間にあたりで、その作品には、ややあいまいな姿勢、表現が見えるのも興味深い。

 これまでは、著名な歌人を中心に読んできたが、結社などに拠る、一般の歌人たちはどうであったのだろうか。当時、いまの私と同じような視点で作業を進めていた歌人がいる。柳田新太郎(19031948)は、著名歌人に限らないで、広く、結社誌の作品欄を渉猟し、天皇・天皇制について詠んだ歌を収集し、若干の解説を試みていた。以下の仕事も、『短歌往来』創刊時より「短歌紀要」という、いわば、歌誌展望のような仕事の一環であった。もともと、若くして、既成の短歌の革新を目指してプロレタリ短歌運動、新興短歌運動にかかわった。その後は『短歌月刊』を創刊、歌壇ジャーナリストとして活動していた。戦後は、この「短歌紀要」などを執筆していたが194811月、急逝している。柳田は、この記事の中で、資料探索の成果をそのまま提示することを自認していたが、無名有名を問わず、歌人たちが、素朴で迷妄な、「頑固な無条件的な天皇制支持者」となっていることについて「現役の、しかも代表的な歌人たちがああまで無批判的なうごき、今なほ時を得次第再び同じ動きを繰返さうとする気配が見える(これはどういふうことだらうか。歌人たちが終戦以来今日までおよそ三年、ほとんど作品の上に思想的甦へりの苦悶を示さないばかりか、苦悶らしい影さへも見せずにゐることが、外部にこのやうな形で反映しているのではないか。以下略)」とか、「歌人たちは数人をのぞいて知名の歌人の殆どが天皇制及び天皇についての作品を示してをらぬことだが、このことも一つの問題であらう」とか、かなり辛らつな批判もしていた(『短歌往来』19482月、44頁、46頁)。しかし、その一方で、さまざまな立場、さまざまな環境の中で、天皇制、天皇について詠まれた、一般歌人の多数の作品の中には、「歌の世界、歌によつて自己表白を遂げる人びとの意識も、無血革命の進行の度にともなつてそれはそれなりに、またそれが緩慢な速度であらうとも、徐々に移り変りを遂げてゆくのではなからうか」と、願望というか期待を持つて結んでいる(『短歌往来』19483月、47頁)。

柳田新太郎「天皇制および天皇と短歌」短歌往来19482
柳田新太郎「宮廷の歌と市民の歌」短歌往来19483

 柳田が、没後70年の現在の歌人たちの天皇制・天皇への姿勢を見たら、何を語るだろうか。(つづく)

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