2010年9月16日 (木)

書庫の片隅から見つけた、私の昭和(5)1945年前後の教科書の中の「万葉集」「短歌」

 春以来、書庫(物置?)の資料の整理が頓挫してしまった。古本屋さん数店に7~8個の段ボールを送った。着払いだったり、宅急便代がこちら持ちだったりしたが、買上げ価格が情けないほどの額だったことが、整理の意欲を失わせたのかもしれない。「遺品整理」で家族に迷惑がかからないように「老前整理」の大切さをわかっているのだけれど、進まない。涼しくなったらまた考えよう(本稿を書き始めたころは、例年にない猛暑だったのに、すでに秋はそこまで?)

 捨てかねているものに、「教科書」がある。1940年代生まれの私の、1970年代生まれの長女の教科書がバラバラと出てくるわ、出てくるわ・・・、しかし、教科別に並べてみると、もちろん網羅的ではない。どういうわけか、1933年生まれの次兄の教科書まで現れた。実家を建てなおすとき、長兄から「要るものがあったら、持って行って」といわれ、そのドサクサにごっそりと我が家に運び込んだものだろう。その兄たちもすでにいない。すでに家を出ている長女は、「とって置いて」というばかりで見向きさえしない。「送りつけるぞ」と脅かすのだが。

 捨てる前に、社会科では近現代の戦争・憲法・天皇、国語では万葉集・短歌の扱い、音楽などなどが気になるところだった。手元の資料でどれほどたどれるものかどうか、ほそぼそながら作業を開始してみた。裏付けをとらねばならないのだが、ひとまずの報告としたい。まずは国語の教科書の「万葉集」「短歌」から見てみよう。

*旧仮名はそのままに、漢字は使用のPCで変換できる限り旧字としたが、大方は新字という半端な表記にとどまった。

1.1945年敗戦直後の中学校の国語教科書

①中等國文一 著作兼発行者:文部省 昭和181214日発行 191210日修正発行  90頁(36銭)35

②中等國文二 著作兼発行者:文部省 昭和19822日発行 83頁(34銭)35

③中等國文三 著作兼発行者:文部省 昭和181231日発行 191215日修正

発行 108頁(40銭)

1933年生まれの次兄が使用したと思われる。1945年疎開先の千葉県佐原中学校(現香取市)に入学、19467月、21学期に東京池袋の焼跡のバラックに一家で戻り、次兄は、私立中学校に編入したはずだ。①の裏表紙には佐原中学校名・学年・クラスと名前が次兄の筆跡で書かれ、②の裏表紙の記名には編入先の私立中学校名が書かれている。価格については、カッコ内が奥付に刷り込まれたものだが、新価格はゴム印で押されていた。③の裏表紙には、どういうわけか、佐原中学校名・学年・クラスと次兄より2歳年長の従兄の名前が書かれていた。物不足の折、次兄は従兄の教科書を譲り受けたのではなかったか。ゴム印の価格表示は見られなかった。その従兄は、最後の旧制中学校の名残だったのか、たしか中学4年修了で東京の大学に進学したのではなかったか。

2.教科書の中の短歌教材

上記3冊における万葉集ならびに短歌が教材になっている部分を拾い、若干のコメントを付してみた。

中等國文一(「目録」では1~12章に分かれている)

一 富士の高嶺 萬葉集:

山部赤人による富士山を詠んだ長歌とつぎの反歌のみ記される。

・田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける

十一 朝のこヽろ 橘曙覧:

・神國の神のをしへを千よろづの國にほどこせ神の國人

・天地も広さくはヽるこヽちしてまづ仰がるヽ青雲のそら

・すくすくと生ひたつ麦に腹すりて燕飛び来る春の山はた

                     (春よみける歌の中に)

・日の光いたらぬ山の洞のうち火ともし入りてかね堀りいだす

 (人あまたありてかね掘るわざものしをるところ見めぐりありきて)

・赤裸の男子むれゐてあらがねのまろがり砕く槌うちふりて(同上)

・黒けぶりむらがりたヽせ手もすまに吹きとろかせばなだれ落つる

などを含む11首が並ぶ。

 

なお、「六 戦國の武士 常山紀談」の題名は読めるが、2532頁、「九 武士気質 藩翰譜」の冒頭2頁と末尾の1頁を除く5772頁の2か所が、手でちぎったと思われる痕跡がある。どういう経緯なのか、今はわからないが、いわゆる「墨塗り」の替わりに教師が切り取らせたものだろうか。ちなみに、「戦国の武士」は「人間五十年」の小題を付し「永禄三年五月、今川義元大軍を率ゐ、織田信長を討つ」の文章で始まっている。「九 武士気質」は、伊達政宗の上杉討伐時のエピソードで始まる。

万葉集からは、有名な赤人の長歌と短歌のみが収録されていた。橘曙覧(18121868)には歌集『志濃夫廼舎歌集』があるが、山村での質素な暮らしの中で国学と作歌に専念する。短歌への信念は「いつはりの巧みを言ふな誠だにさぐれば歌はやすからむもの」の1首にも集約され、「たのしみは・・・○○のとき」という「独楽吟」の50首余は平明で、親しみやすい。教科書収録の短歌は、時局がら偏った選択であることが明白であるが、上記の後半3首は、越前の銀山に出かけた折の連作のなかの3首であって銀山で働く男たちの様をよく観察している作品に思えたが、時の政府や教師たちは、ここで労働や生産の大切さを学ばせようとしたのだろうか。

中等國文二111章に分かれている)

一 わたつみ 萬葉集:

・わたつみの豊旗雲に入日さしこよひの月夜あきらけくこそ(中大兄皇子)

・熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今ごぎ出でな(額田王)

のほか、柿本人麻呂、高市黒人、大伴家持ら覉旅の歌とともに、作者不詳の次の

ような歌を含め9首が並ぶ。

・大海に島もあらなくに海原のたゆたふ浪に立てるしら雲

(筑紫に遺さるヽ防人の歌)

四 すヽきの穂:

・秋の日に光かヽやくすヽきの穂こヽの高屋にのぼりて見れば(良寛)

・ふく風に動く菜の花おともなく岡べに静けき朝ぼらけかな(大隈言道)

・えみしらを討ち平げて勝鬨の声あげそむ春は来にけり(平賀元義)

近世の歌人3人の各数首づつあわせて11首が並ぶ。

 この学年では、万葉集のポピュラーな旅の歌と近世短歌の平明な歌が並ぶ。想像に反して、防人の歌が前面に出ることも、国を思う歌が並ぶこともなかった。上記元義の歌の詞書に「嘉永七年正月一日この春は亜墨利加の賊来るよし女童どものいひ騒ぐをきヽて」とあるのが時局を反映しているかに思えた程度であった。「平家物語」「太平記」「駿台雑話」「蘭学事始」などの古典とともに徳富健次郎「一門の花」、久保田俊彦「湖畔の冬」、中谷宇吉郎「馴鹿橇」、富田高慶「尊徳先生の幼時」という散文、河合又平「眞賢木」という詩も、いずれも墨塗りないし削除の対象にはならなかったようである。

中等國文三112章に分かれている)

一 宇智の大野 萬葉集:

中皇命による長歌とつぎの反歌が1頁に収められている。

・たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその深草野

六 磯もとどろに(源実朝)

・五月雨に水まさるらし菖蒲草うれ葉かくれて刈る人ぞなき(菖蒲)

・木の葉散り秋も暮にしかた岡のさびしき森に冬は来にけり(秋の歌)

・大海の磯もとどろに寄する波われてくだけてさけて散るかも

              (あら磯に波の寄るを見てよめる)

・山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも

(太上天皇御書を下し預りけるときの歌)

を含む10首が並ぶ。

十二 明治天皇御製:

・國といふくにのかがみとなるばかりみがけますらを大和だましひ(鏡)

・暑しともいはれざり戦の場にあけくれ立つひとおもへば
(をりにふれて 明治三十八年)

・とつくにの人もよりきてかちいくさことほぐ世こそうれしかりけれ(同上)

・えぞのおく南の島のはてまでもおひしげらせよわがをしへ草(同上)

・外國にかばねさらしヽますらをの魂も都にけふかへるらむ(凱旋の時)

・ますらをも涙をのみて國のためたふれし人のうへをかたりつ

                  (をりにふれて 明治三十九年)

・ひろくなり狭くなりつヽ神代よりたえせぬものは敷島の道(道)

を含めた15首は読めるが、この章に全体で何首収録されているかは不明である。

目録(目次)によれば、手元の教科書は、「十 心の小径」途中95頁から、「十一 学者の苦心」全部と「十二 明治天皇御製」の途中104頁までが、例によって切り取られている。明治天皇の御製は105頁から最終頁の108頁に収められた15首が読める。

3.切り取られた明治天皇の短歌

「中等國文三」には、「明治天皇御製」の章がある御。明治天皇は生涯で10万首に近い短歌を作ったとされる。これまで歌集や鑑賞の書は幾度か公刊されてきた。歌集としては、教科書編纂時までには、天皇没後11年、『明治天皇御集』(入江為守他編 文部省 1922年)が刊行され、編纂過程で、総歌数93032首とされ、その内、1687首が収録された。つぎに、『明治天皇御製集 昭憲皇太后御歌集』(『現代短歌全集』別巻)(佐々木信綱編 改造社1929年)がある。ちなみに、1945年以降では、つぎの二歌集がある。『新輯明治天皇御集』(甘露寺受長、入江相政・木俣修他編 明治神宮1964年、 明治天皇8936首収録)、『新抄 明治天皇御集 昭憲皇太后御集』(甘露寺受長他編、角川書店 1967年、明治天皇1404首収録)が刊行されている。(木俣修「明治天皇―作歌十万首の歌人」『評論明治対象の歌人たち』明治書院 1971年、『田所泉『歌くらべ明治天皇と昭和天皇』創樹社 1999年、参照)生涯に詠んだ歌の数からしても類歌が多い。私が読んだものに限っても、「いくさ」や「外国」というより「海外領土」について歌ったものが多く、木俣や田所が引く歌の中でも日露戦争における戦況、軍人や兵を歌うことも多くなる。上記中等教科書「三」における日露戦争時の歌やつぎのような韓国併合や清国末期の歌と日本政府の外交・軍事政策の歌との違和感は拭いようもない。

・へだてなくしたしむ世こそうれしけれとなりのくにもことあらずして

(隣 一九〇七年)

・おもふことなるにつけてもしのぶかなもとゐさだめしひとのいさをを

(をりにふれたる 一九一〇年)

 ・おのづからおのがこころもやすからず隣の國のさわがしき世は

                         (をりにふれたる 一九一二年)

上記二首目は、安重根に撃たれた伊藤博文を偲んだものとされる。

切り取られた部分に収録された明治天皇の「御製」はどんな歌が何首あったのかは、いずれ、図書館などで削除されていない教科書を閲覧しなければと思う。いまでこそ、歴史を一通り学び、明治天皇の短歌を客観的に読めば、「よく言うよ」のような感想が述べられるけれども、当時の教師は、これを教材に何を教えていたのかを思うと、思想や教育の自由がない恐ろしさが迫って来る。そして、敗戦後は一転してGHQの指令により、墨塗りをさせたり、破り捨てさせたりした教師の戸惑いと心情はいかなるものであったろうか。現代にあっても、検定教科書、指導要領、一片の通達による管理体制などの実態を知ると、決して過去の問題ではないはずであることも分かって来る。

4.教科書の中の「万葉集」

「中等國文」の各巻、いずれも巻頭に万葉集が配されていることは、戦後教育を受けた私たちの感覚からすると、国語教科書としてはかなり特異に思えた。が、収録の作品は、いわゆる「名歌」とされる作品でもあり、なじみのある作者でもあり、あまり突出したようには感じられなかった。

教科書に限らず、近代日本において「人々に『国民』という意識を喚起する必要」から、数ある古典群の中から、「当初から至宝の地位を与えられ、やがて広範な愛着を集めることになった」として、万葉集がいかに重用されてきたかについては、だいぶ前に『万葉集の発明』(品田悦一著 新曜社 2001年)で読んだ記憶がある。万葉集が「国民歌集」として、現代に至るまで永らえているのはなぜかについてつぎのように分析する。一つは「古代の国民の声があらゆる階層にわたって汲みあげられている」というもので、私たちも作者が「天皇から防人まで」広汎であり、歌風も「素朴で、力強い」などと習った。この点が、「昭和の戦時翼賛体制下では、この側面に内在する政治性が極端に強調され、忠君愛国の象徴としての万葉像が国を挙げて喧伝された」(同書312頁)という。さらに「貴族の歌々と民衆の歌々が同一の民族的文化基盤に根ざしている」と強調されたことをあげる。明治時代の国文学者や歌人、大正・昭和時代の出版文化が支え、同時に教科書・教育現場による支持が厚かったからだろう。

また、植民地、とくに台湾における「国語(日本語)教育」のなかでの万葉集の位置づけは、後の『台湾萬葉集』などとも関連し、私は深い関心を寄せている(拙著「植民地における短歌とは―『台湾万葉集』を手掛かりに」『現代短歌と天皇制』風媒社 2001年)。同じ著者の最近刊『斎藤茂吉』(ミネルヴァ書房 2010年)でも、茂吉を語る上で、近現代における万葉集受容の変容が大きなテーマになっていた。なかでも茂吉の『万葉秀歌』が戦時下のベストセラーとなってゆく秘密を探っていたのが興味深く思われた。学徒出陣世代の恩師から『万葉秀歌』を戦地にまで携えて行ったことを聞いたことがある。

  『万葉集の発明』の著者は、さらに、戦後の国語教育においても「もっぱら文化的に表象される万葉像を取り込み、ナショナル・アイデンティティの再建に利用し」て、万葉集の「二つの側面を使い分けながら時流に対応し、本質的には無傷のまま現在まで生き残ってきたのだった」と結論付ける。戦後については、後日、私との長女の国語教科書を使って、「万葉集」の在りようを検証してみたいと思っている。

 

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2009年7月22日 (水)

NHKスペシャル「ジャパンデビュー第1回~アジアの“一等国”」をめぐって(1)

この記事の(1)(2)の掲載日時が逆となりましたが、順にお読みください。

1.いま、ふたたび『台湾万葉集』

718日夜、NHK20周年ベストコレクションシリーズの一つとして「素晴らしき地球の旅・台湾万葉集~命のかぎり詠みゆかむ」(1995430日放送、約90分、語り平田満、短歌朗読広瀬修子)が再放送された。あらたに今回、映画評論家佐藤忠男、元担当ディレクターを務めた玄真行のゲストが参加して、番組への感想などが語られた。

折しも、いま、NHKは、「台湾」をめぐり、重大な問題に直面している。 200945日(日)に放送されたNHKスペシャル「ジャパンデビュー第1回~アジアの“一等国”」をめぐり、日本の自虐史観に貫かれ、台湾の親日的な人々を傷つける「偏向」番組であると抗議を受け、訴訟を起こされている。番組は、日本の最初の植民地、台湾における統治政策の歴史をたどるもので、「台湾総督府文書」、統治時代を知る人々の証言、研究者への取材などで綴られたものであった。その詳細については、稿を改めて後述したい。いま、この時期に上記番組が再放送された意味は大きいと思う。私は、1995年放送当時は見逃し、今回初めてだったのである。

2.なぜ、『台湾万葉集』か

『台湾万葉集』は、私が台湾への関心を持ち始めるきっかけにもなった歌集であった。

もう15年以上も前のことになるが、1895年~1945年、50年間の日本統治下の台湾で日本語教育を受けた人々が、短歌を詠み続けていて、編著者の孤蓬万里氏が『台湾万葉集』(1993年)というアンソロジーをまとめ、出版した。それが大岡信「折々のうた」(『朝日新聞』19935月)に連続して何首か紹介され、一躍注目を浴びたことがあった。岩波書店や集英社からの関連出版が相次いだ。歌集の編著者、孤蓬万里氏(本名呉建堂、19261998年、以下敬称略)と歌集は1996年度の菊池寛賞を受賞する。1993年初頭、私などにも、台北の呉建堂という方から突然『台湾万葉集』が届いて驚いたものであった。太平洋戦争が終わって50年経た後も、母国語を奪われ、植民地教育の一環として日本語教育を受けた人々が日本語で短歌を作っていること自体をなかなか理解できなかった。大岡信は「大変素朴で日本の歌壇や歌人が忘れているようなナイーブな短歌を引き継いでいるのが日本語人である台湾の方の短歌ではないか」と紹介していた。以来、私は、日本語で短歌を読み続ける台湾の人たちは、どのような教育を受けたのだろうか、どのような言語生活を送ってきたのか、ということが頭から離れず、台湾の歴史をひも解くことになった。そんな折、1994815日の「815日を語る歌人の集い(第4回)」で、ひとまず「植民地における短歌とは―『台湾万葉集』を手掛かりに」という報告をする機会があった(『八月十五日その時私は19911995』短歌新聞社 19968月、所収)。

・すめらぎと曾て崇めし老人の葬儀のテレビにまぶたしめらす「自序」『台湾万葉集』

・萬葉の流れこの地に留めむと生命のかぎり短歌詠みゆかむ  同上

 と歌った呉建堂は、1首目の自註において「日本の戦後は一段落がついた。(中略)大陸寄りになつた日本に見捨てられ、大陸同胞にも見放された台湾島民には、戦後は未だ終つて居ない」と嘆く。1968年より「台北歌壇」という短歌結社を起こし、雑誌や年間歌集を発行し続け、アンソロジー『花をこぼして』(1981年)『台湾万葉集中巻』(1988年)に続く上記『台湾万葉集(下巻)』をもって3部作を完成させたのだった。一方、19961月、歌会始陪聴者として招かれ、次のような短歌も詠んでいる。

・宮中の歌会始に招かれて日本皇室の重さを想ふ『孤蓬万里半世紀』(集英社1997年)

・国おもひ背の君想ふ皇后の御歌に深く心打たるる 同上

この歌会始の直後、病に倒れ、1998年に他界する。晩年、医師としても多忙のなか、私の便りやぶしつけな質問にも、多くは簡易封筒であるいは薄い便せんに、丁寧にびっしりと書かれた説明やときには叱責を何度かいただいた。また最晩年には、弟の呉建民氏からの書状をいただくなど、短歌への熱情とその人柄の誠実さは忘れがたいものとなった。その手紙でも、自らの天皇・皇室観に及ぶことが多く、私のそれとは隔たりがあったのは確かだったのだが。

3.番組のあらまし

 番組は、『台湾万葉集』に短歌を寄せた何人かの、自らの民族の言語を奪われながら、日本語を、短歌を愛している人々を訪ね、その日本語習得過程を、自分史を、家族史を丹念に聞き出し、彼らにとって、「日本、日本人、日本語、短歌とは」を探りながら、日本と台湾の歴史に重ね合わせるという方法を採っていた。我が家のテレビでは録画が取れず、メモによるが、( )内は、『台湾万葉集』『台湾万葉集続編』(集英社 1995年)などで補った。登場した156人の方々の中から数人の方のコメントの一部を紹介しておきたい。短歌作品はいずれも番組の中で朗読されたものである。

傅彩澄:(1921年生まれ。新聞記者から製薬会社員など経る。1984年~コスモス会員)日本語と中国語の間にあって、日本に対してはウラミ・ツラミとあこがれが半々のような気持だった。台湾人の小学校にあたる公学校では台湾語は禁止で、日本語をもっぱら暗唱させられた。

・悲しかり化外の民の如き身を異国の短歌に憑かれて詠むは

・ハナ、ハタと始めて習ひし日本語の今もなつかしは公学校は

・靴穿きて学校に行く日本人を跣足のわれら羨しみ見たりき

黄得龍(1927年生まれ。師範学校中退後、立法商学院卒業後中学校教員定年まで勤務。1990年代より朝日歌壇ほか入選多数回、「新日本歌人」会員)師範学校時代、一所懸命日本人になろうとしているのに、「皇民化教育」と称してことあるごとにビンタをくらわす日本人に憤りを感じ、「あきらめ」もした。短歌は日本から受けた心の傷を癒してくれるのではないかと思っている。

・白墨の粉を吸ひ吸ひ四十年白髪になれど肺異常なし

・何でまた異国の歌を詠むのかと自問自答し辞書をひもとく

巫永福(1913年、台中の山岳地帯の霧社生まれ。中学校より日本に移り、明治大学在学中台湾芸術研究会結成『フォルモサ』創刊、卒業帰台後、新聞記者時代には『台湾文学』創刊、特高警察の監視下にあった。戦後は実業界に転じた)

・霧社桜今年も咲けり無念呑み花岡一郎、二郎は逝けど

 1930年、原住民の高砂族が日本の圧政に堪えかねて霧社の小学校の運動会で蜂起したいわゆる「霧社事件」で、高砂族で日本語教育を受け、改姓した花岡兄弟は地元の警官となっていたが、事件の責任を取らされ自殺している。作者は弟の二郎とは小学校同級であった。番組では、二郎の未亡人花岡初子が登場し、当時の模様を日本語で語りながら、息子や孫たちは北京語を話し、自分は原住民の言葉タイヤル語か日本語しか話せず、疎外感を味わっている家族だんらん風景が映し出される。それでも初子が原住民の言葉を孫に教えている懸命な姿を映す場面もあった。

蕭翔文(1928年生まれ。小学校時代から懸賞文などに応募入選。1943年日本映画「阿片戦争」を見て、日本人になって中国から英国を追い出すためにも、特別幹部候補生にならねばと志願、日本で訓練を受け、19453月特攻基地知覧で援護任務に就いた。短歌は常に死と直面す日々にあって始めた。戦後、師範学校卒業後は中学・高校で地理を教えた。退職後も若者に短歌を教え、中国語で短歌を詠むことをも試みている)

・愚かにも大東亜共栄圏の夢信じ祖国救ふと「特幹」志願す

・椰子の蔭円座を組みて生徒らと今昔語る兵たりし吾は

 番組の後半は、蕭翔文に焦点を合わせ、戦後の台湾の歴史にも言及しながら、なぜ短歌を詠むのかという台湾の人たちの気持ちを解明していく。戦後は蒋介石率いる中国国民軍による「白色テロ」の恐怖に直面、蕭も捕えられ入獄したとき、中断していた短歌を再び作るようになったのはなぜかを自問する。明日の命がわからないような極限の気持ちになったとき、文章では表現できず、短歌に託すことが多い、と。

番組は、学齢時に不幸な形で出会った日本語・短歌だが、その後のさまざまな境遇の中で、短歌を詠むことによって、怒りや悲しみを乗り越えてきたことが語られることが多かった。かつての日本が植民地政策の一環としての公教育において、母国語を奪って日本語を強制した事実自体、強制されたことによる精神的・文化的苦痛や傷痕について、各人の紹介の中で断片的に言及されるのだが、制度的な強制力や時代による推移が分かりにくい。

 たとえば、放送でも出てきた「ハタ、ハナ」の教科書、国語普及の歌、国語の家などの制度上の位置づけと実態、「万葉集」はどの学年でどんなふうに教えられたのだろうか、教師の側の裁量があったのだろうか、などを番組としても日本語教育の方針と実態を系統的に展開するコーナーがあったら、よかったと思った。

 少なくとも明治以降、1895年からの日本統治下の台湾における政策の変遷、太平洋戦争後の日本と台湾との関係において、1947228事件への日本の対応、1972年の日中国交正常化が台湾にもたらしたものなど100年以上にわたる関係をトータルに見ていくことも重要なのではないか。日本人自身が植民地でしてきたことへの反省なくして、「短歌」という形で日本語への親しみを持続しているという一点で、台湾の人たちの親日性を、有頂天になって受け入れてしまっていないか。当時そんなことを考えていたと思う。

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NHKスペシャル「ジャパンデビュー第1回~アジアの“一等国”」をめぐって(2)

1.番組をめぐる動向

200945日(日)に放送された上記テレビ番組は、日本の最初の植民地、台湾における統治政策の歴史をたどるもので、「台湾総督府文書」、統治時代を知る人々の証言、研究者への取材などで綴られたものであった。とくに、台北第1中学校卒業者などの証言内容が、反日的なもので、統治政策のマイナス面のみが強調され、日本の統治によるインフラ整備などを評価しない上、親日的な台湾の人々を傷つける恣意的な編集や内容になっているという「偏向」を指摘し、NHKへの抗議や訴訟、署名運動が展開されている。

 これらの運動は、個々のNHK視聴者の声が盛り上がってという経緯ではなく、「日本李登輝友の会」「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」「桜チャンネル」などが中心となって進められているようである。NHKは、放送に登場した証言者から直接の抗議を受けていないこと、放送内容・コメントも資料に基づいたものであることなどを回答している。一方、各地の市民団体が共同で立ち上げた「開かれたNHKをめざす全国連絡会」は、NHKに対して、外部の圧力には毅然とした態度で対処するよう要請している。

2.どんな番組だったのか   

番組を見た当時、よく調査されているとは思ったが、私は、1895年から1945年までの50年間の日本による統治時代を、植民地台湾および総督の位置づけの変化、統治政策―産業・政治・軍事・教育・文化政策の推移から、通史的に概観する場面がなく、断片的、各論的な構成で進行したので、やや戸惑った。「資料」「証言」「研究者の分析」という手法の中で、視聴者には分かりやすい「証言」が多用され、前面に押し出された印象が強かった。また、海外の研究者によるコメントは、よりグローバルな番組企画の姿勢を見せたかったのかもしれないが、日本の研究者のコメントも聞きたかったのでやや残念にも思った。台湾統治政策における近年の後藤新平再評価への姿勢、同化政策における天皇制の役割、日本の研究者の見解の対立点などへの言及も欲しかったが、時間的に無理だったのだろうか。

3.ドキュメンタリーの手法          

歴史もののドキュメンタリー一般に共通することだが、資料や研究者による検証ばかりでは、番組の構成として硬いものになりがちだ。しかし、イメージ映像や再現(ドラマ)がやたらと挿入されると、私などはまず興味は半減し、安っぽく思えてしまうのだ。体験者の「証言」を取り入れることは、たしかに、わかりやすさ、親しみやすさの点で魅力的ではあるが、生身の人間の発言は、時期(時代)、場所、相手など環境により流動的である上、番組ではさらに制作者の編集がなされることは加味されなければならない。発言のみが決定的な「証言」となりにくいことは、私たちは、様々な場面で経験することである。それでもテレビは「証言者」の発言内容と同時に環境、声調、表情までをも伝達してくれるので、視聴者は、トータルな情報として受取ることができる一方、断片的な「証言」に多くを依存することのリスクも承知しておくことが必要になるかと思う。

4.「台湾のマス・メディアの形成と天皇制」を読み直しながら

 前述のように『台湾万葉集』がきっかけになり、私は、台湾の日本統治時代のことを本格的に勉強したくて、30年来の仕事を離れ、大学院に進学することにした。これまでのテーマであった「短歌と天皇制」と「メディア」への関心から、この時代における台湾の研究を始めることになった。その過程で『台湾万葉集』の水脈もたどれるかもしれない。1998年に提出した修士論文「日本統治下の台湾におけるマス・メディアの形成と天皇制」の一部は、今回のNHK番組とかかわる部分もありそうである。もう一度読み直すことを思い立った。今から思えば、内容も盛りだくさんだったし、方法論も行き届かないところが多いが、章立ては以下の通りで、第Ⅰ部第4章あたりを中心に、今回の番組と照合しながら、進めたい。なお、第Ⅲ部は、その簡略版を日本統治下における台湾のラジオ・映画の動向と天皇制」として、『立教大学社会学研究科論集』第5号(19983月)に収録している。(続く)

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はじめに:主題と動機/先行研究/構成

第Ⅰ部 日本統治下の台湾におけるマス・メディアの形成

  第1章 日清戦争前後における日本の情報環境

2章 日清戦争はどのように報道されたか            

3章 台湾における新聞の出現と統合

4章 台湾統治政策の推移と日本語教育の歴史

第Ⅱ部 一国二制度から内地延長主義への移行過程における天皇制とメディア 

1章 台湾における”天皇”の浸透

2章 三一法~特別統治時代のメディアの動向            

3章 1923年皇太子行啓とマス・メディア          

第Ⅲ部 台湾統治政策転換期におけるマス・メディア―放送・映画を中心に            

1章 台湾におけるラジオ放送

2章 日本統治下における映画の動向

おわりに:結語/今後の課題

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