2011年1月16日 (日)

クローズアップ現代「ウーマノミクスが日本を変える」(NHK総合1月11日)を見て~基本的になすべきことより「ことば」が先行する不安~

 「ウーマノミクス」とは、ウーマンとエコノミクスからなる造語らしい。いつもの倍以上の時間をかけた拡大版の番組(73分)を見終わって、そんな新語をことさら持ち出さなくとも、従来から主張されている女性の社会参加の必然性を十分語ることができるのに、と思ったのが正直な感想だ。1986年施行の男女雇用機会均等法は改正を重ねつつ、不備が指摘されるものの、せめてこの法律の実効性が高まれば、女性の職場環境は格段の進展が期待されるはずなのに、と思うからだ。「ウーマノミクス」などという「ことば」を持ち出す前に、「日本を変える」ことはできるはずではないか、と思ったのだ。

 番組冒頭では、企業の取締役の40%以上を女性が占めるようになったノルウェーの実態が紹介され、それに比べ日本では、課長級:4.6%、部長級:2.8%、役員級:1.2%という惨憺たる数値も提示された。

 ゲストは、2003年労働省官僚から転身した岩田喜美枝資生堂副社長、福祉が専門の宮本太郎北海道大学教授の二人であった。岩田氏は、労働省時代、男女雇用機会均等法の制定に貢献したというが、この法律制定の経過やその後の動向については、とくにコメントはなかった。また、資生堂でどういう取り組みをしたのかは番組では不明だったし、番組で彼女は、ぼそっとノルウェーのような「クオータ制には経済的合理性がない」と漏らしていたのが記憶に残った。資生堂での彼女の登用も、派手なCMが際立つ資生堂の広報戦略の延長線上にあるのではないかの思いがしないでもない。またノルウェーのクオータ制については本ブログでも若干触れたことがある。 

参照:http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/04/post-c1a4.html

NHKも番組の冒頭で、肯定的に紹介するからには、『ノルウェーを変えた髭のノラ~男女平等社会はこうしてできた』の著者でもある三井マリ子氏を迎えるなどして、クオータ制の意義をきちんと検証すべきではなかったのか。

参照:http://www009.upp.so-net.ne.jp/mariko-m/(三井マリ子の世界、112日の記事)

 また番組では、キリンでノンアルコールビール開発に貢献した女性社員、緩衝材プチプチの活用を広げた女性社員の実例もヒット商品開発の女性版“プロジェクトX”の様相だし、両氏はこれまでもメデイアへの露出度は高く、私みたいなものでも、どこかで見たような女性たちで、新鮮味に欠けたし、働く女性一般への普遍性がどれほどかも考えさせられた。むしろ、保育環境の充実や退職社員の再雇用、労働時間の短縮などをもっときめ細かく、多角的に紹介した方が経営者や使用者の意識改革に役立つのではないかと思った。

 さらに、一部の時間帯のコメンテイターとして参加した、女性企業家支援会社の女性社長、ライフ重視・ワーク重視のコースを社員のライフサイクルに合わせて選択できるシステムを採用する会社の紹介があったが、前者の起業者の将来性や後者の賃金体系など気になるところだったが、持続性はあるのだろうか、も不安材料の一つだった。

 なお、もう一人のゲストコメンテイター宮本氏の一番言いたいことはなんだったのか、やや不鮮明ながら、女性労働者の110万、130万の税制上の壁を払う税制改革、保育サービスの充実などをあげる一方、会社や家族の物語に終わらせてはならない、という趣旨のことを述べていた。保育サービスの重要なことはもちろんであるが、より具体的な提言はできなかったのだろうか。

 もっとも岩田、宮本の両氏はともに、内閣府「男女共同参画会議」のメンバーであり、宮本氏は「社会保障改革に関する有識者検討会」のメンバーでもある。一つの方向性を持った人選に偏りはなかったか。NHKにとっては、いわば“安心・安全な”コメンテイターであったのだろうが、論点は論点として示してほしかった。

 最後に、ノルウェーの紹介の中で、大学への進学は女性が上回り、授業料は無料なのだから、女性への投資を回収しないことには国家的な損失でもある、といった趣旨の解説がなされていたが、この「効率性」を突き詰めていくと、社会保障制度との整合性が危うくなるのではないか、の思いもよぎるのであった。

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2010年4月30日 (金)

ノルウェーとデンマーク、日本との違いは何か(1)三井マリ子さんの講演会

 当初は、ノルウェーとデンマーク、フィンランド、スウェーデンなどの位置関係など曖昧で、ノルウェーとデンマークをよく取り違えていた私だったが、昨年、ノルウェーとデンマークの急ぎ旅をして以来、少しずつだが、関心を持つようになった。急ぎ旅の顛末は本ブログにも登載した。最近、関連の二つの講演会に出かけたので、報告してみたい。

1.三井マリ子さんの出版記念講演会

4月27日(火)夜7時から、南麻布のノルウェー大使館で開催されたのは、「ノルウェーを変えた髭のノラ―男女平等社会はこうしてできた」という三井マリ子さんの講演だった。

最近、ある集会で三井さんと知り合ったつれあいが、講演のタイトルとなった本(明石書店 20104月)の出版記念の講演とレセプションに大使館から招かれた。テーマがテーマなので、私もどうかと誘われ、二人で出掛けた。

 三井さんといえば、高校の先生から都議会議員を務められ、その後は女性問題について研究されている人という認識であった。私たちは、去年の夏、ノルウェーからの帰国後、ノルウェー大使館のホームページ上で、三井さんがノルウェーの政治や女性問題について幾つかのレポートをされているのを知って、私のブログでも紹介させていただいた。もう少し早くから読んでおけば、ノルウェーの旅もいささか趣が変わったかもしれなかった。女性の政治参加、女性の社会的進出は日本の比ではないことを知って、驚いたのである。

 三井さんはすでにノルウェーに関する本も何冊か書かれているが、今回は昨年9月の秋の選挙結果などをも踏まえての啓蒙書といえようか。講演を聞き、本を読んで、初めて知ることも多く、ノルウェーへの認識を新たにしたのだった。

三井さんは、講演の冒頭で、ノルウェーでは、3歳以下の子どもがいる母親の就労率は75%、日本の女性就労者は第1子が生まれると70%が仕事を辞める、という現実を指摘しながら、現代のノルウェー人の考え方の根底にある、インターネットのフル活用、ポストの代理や代行を促進するシステム、環境への柔軟性にまず言及された。

 続いて、女性の社会進出には「クオータ」制の重要性を説いた。つい最近までは日本の女性が置かれている状況と変わりがなかったのに、1970年から急速にノルウェーを変えたのは「クオータ」制であったと。そして、駆け足とはなったが、1970年代は各政党内での候補者数において4050%の女性を、1980年代は雇用において40%の女性を、1990年代は男性の育児休暇取得を90%に、2000年に入って会社の取締役に40%以上の女性をという流れで進んできた歴史を語る。そして、2009年の国政選挙では7人の党首の内4人が女性で、169議席のうち66議席を女性が占める(39.1%)結果を招来するに至ったと。さらには、1879年イプセンが「人形の家」を発表した時代まで遡り、1913年女性が参政権を獲得、1978年中絶決定権を女性が獲得して行った過程が語られた。

 また、あとで、今回の本『髭のノラ』にあたってみると、現在の日本で議論されている、夫婦別姓については1964年に、1990年には、王位継承権が女性にも認められているのを知り、興味深いものがあった。この本の分かりやすさは、先駆的な女性への著者自らのインタビューを通して、男女平等への歴史や女性政策が綴られているからではないかと思う。ノルウェー最初の女性首相ブルントラント、当時の民主社会党で、党内の決定機関は50%を女性にすること、クオータ制を初めて導入した党首ベリオット・オース、女性初の南極点単独踏破の探検家リブ・アーネセンらの体験が歴史となっていく行程を解き明かす。また、著者のたゆまない行動力にも感服、とくに最終章「100年遅れを挽回するには」では、三井さん自身の教師、都議会議員時代の体験や実践には説得力があった。1980年代後半から90年代にかけてのことである。

 最近の三井さんには、もう一つの大仕事が続いている。今年の330日、大阪高裁で、「豊中市男女共同参画推進センターすてっぷ館館長だった三井さんの雇い止め」による人格権侵害が認められた逆転判決が出たばかりだったのだ。判決は「20009月から20042月まで館長を務めた三井さんを排除しようとする一部勢力に行政が屈した」とし、原告三井さんへの人格侵害による賠償の支払いを命じた。被告は上告したので、今後は最高裁で争われることになり、法廷闘争は、当分続くことになったのだ。

 講演の日、受付に立つ三井さんは、参加者の「逆転判決、よかったですね」のねぎらいの言葉に、ガッツポーズで応えていた。「きょうは、その件については一言も触れはしないけれど、ありがとう」と笑顔はさわやかだったのを思い出す。

(追記)

この日の様子は、たくさんのスナップと共に、以下の三井さんご自身のブログ(5月29日)に詳しい。

50%プラス:lykkeilig.exblog.jp

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2009年12月10日 (木)

「すてきなあなたへ」58号をマイリスト「すてきなあなたへ」に掲載しました。

画面左側で号数をクリックしてください。

(目次)
佐倉市のムダ遣いは議長専用車ばかりではない
ロコモティブシンドローム(運動器症候群)を知ってますか~健康寿命を延ばすために鍛えよう!
ノルウェーの女性たち~政治参加への道―ムンクもフィヨルドもよかったけれど―*
菅沼正子の映画招待席『カティンの森』―真実を知らなければならない―
編集後記

*ノルウェーの選挙事情については、ノルウェー大使館のオフィシャルサイトをみると三井マリ子さん執筆の詳しいレポートがあります。写真もいろいろあって、日本では考えられないようなことも実践されています。関心がある方はぜひご覧ください。

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2009年11月14日 (土)

美術館とカフェと~ノルウェー、デンマーク早歩き<9>ノルウェーの女たち、総選挙に垣間見る

ノルウェー旅行中の8月下旬、ベルゲンで出遭った街頭演説会が気になっていた。ちょうどホテルの前の広場で、多くの聴衆を集め、力強く語っていた女性政治家は誰だったのか。914日がノルウェーの総選挙だったことは後で知った。最近、ノルウェーのオフィシャルサイトで、この国政選挙のレポートを見つけた。書き手は、かつて東京都議会議員をされていたノルウェーに詳しい三井マリ子さん。国会議員の約4割を女性が占めるようになったノルウェーの政治に、ジェンダーの研究者として切り込んでいるレポートだった。選挙制度、国と地方の関係など、日本とは随分と違い、とても興味深いものがあった。また、JANJANニュースにも同様の記事がある。関心のある方は、是非これらのサイトをご覧になってください。

私たちがベルゲンで見た演説中の政治家は、その風貌から、今回の選挙で労働党、中央党とともに連立政権を組むことになった左派社会党党首のクリスティン・ハルヴォシェンだったらしい。

選挙結果が判明した914日の深夜、記者会見に臨む七大党首が並んだ写真が出ている。最大与党の労働党は男性だが、左派社会党と中央党はともに女性党首だ。大きな伸びを見せた野党の進歩党と保守党の党首も女性で、7人中4人が女性である。スウェーデン、デンマーク、フィンランドのように保守中道が政権奪取するのではないかとの予想に反して、連立による社会民主政権が続投になり、連立が2期連続というのはまれなことらしい。投票率75.4%、169議席のなか連立与党で86議席(労働党64、左派社会党11、中央党11)というぎりぎりの過半数であった。169議席の中、女性66人(39%)、3688人の立候補者の中、女性が1557人(42%)であった。労働党に次いで41議席を獲得した進歩党の女性党首シーブ・ヤンセンは、イギリスのサッチャーを尊敬するといい、減税・移民排斥・民営化を主張して、TV討論をリード、次期首相候補と目されていたという。今回の選挙の争点の一つに男女賃金格差(男性100に対して女性85)があった。ちなみに日本での比は10066なのだ。女性の男女社会進出が最も進んだ国、福祉が進んでいる国として際立っているが、福祉の民営化が問題になっていることも知った。

ノルウェーの選挙は比例代表制、19県選挙区で支持する政党を選ぶ。選挙権も被選挙権も18歳で与えられる。ちなみに女性の参政権が認められたのは1913年とかなり早い。今回の選挙には23の政党が名乗りを上げた。政党や政治団体は、各県の選挙管理委員会に立候補者リストと党規約を届け、既成政党は、全国で5000票、当該選挙区で500票以上獲得しているのが条件で、新規の場合は当該選挙区の住民500名の署名を付すればよい。さらに各政党は、投票日の約半年前の3月末日までに各選挙区の定数以上の立候補者リストを提出しなければならない。ただ、候補者リスト登載には本人の承諾は不要で、むしろ断わってはならないらしいのだ。当然ながら、現実には、事前の合意がなされているというのだが、立候補者数が多いのもそれで頷ける。選挙運動の期間の定めやその方法にも制限はないという。

20099月国政選挙 政党別得票率及び女性議員数・割合

政党

得票率

女性議員数(総数)

女性比率

労働党

35.4

3264)    

50.0

左派社会党

6.2

  311

27.3

中央党

6.2

 711

63.6

保守党

17.2

 930

30.0

キリスト教民主党

5.6

 410

40.0

自由党

3.9

22

100

進歩党

22.9%       

 941

22.0

赤色選挙同盟

 1.3

合計

66169) 

39.1

(三井レポートの表と記事から作成)

なお、私が気になったのは、政治と王室の関係だった。1905年、ノルウェーはスウェーデンから独立、デンマーク出身のホーコン7世が国王となった。20055月には国交樹立100周年で日本から天皇夫妻が訪問している。国王と王室は政治的実権を持たず、象徴的な存在で、国民に親しまれているという。一方、国王は週1回の閣議に参加するというのだ。また、王室の開放的なことは、2001年皇太子が長い恋愛期間を経て、シングルマザーと結婚したというニュースで私たちにも伝えられている。1991年即位した現国王ハーラル5世がオスロのデパート経営者の娘と結婚したのが1968年だったという。なお、1990年の憲法改正で女子の王位継承も可能になった。日本の皇室との違いや共通点、今後の天皇制を考える上でも参考になりそうだ。

 

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2009年11月 6日 (金)

美術館とカフェと~ノルウェー、デンマーク早歩き<8> グリーグの家へ

郵便局が見つからない

 今朝のベルゲンは風が強く、公園の落ち葉は舞い、通学・通勤の人々は足早に歩いている。フロムで若干買い込んだ土産や旅の前半の荷物を送り返しておこうと、朝一番で宿にも近い郵便局に出かけた。ところが、地図で示されているあたりを何度回ってみても見当たらず、女子学生に尋ねたところ、従いてきて、との言葉に追いかけると、ビルの小さな入り口を示して、入れという。彼女はすでに先を急いで去って行った。ともかくそこは、どの店もまだ、開店準備に忙しい小規模のショッピングモールだった。エスカレーター脇の案内板にはたしかに郵便局〒のマークがあった。2階に上がってみれば、あったあった、9時オープンという。送料込みの日本行きのダンボール箱を買って、ホテルに戻った。ようやく、発送のひと仕事?を終えて、きょうは何が何でもグリーグの家を目指す。

歩けども、歩けども

案内書によれば、20233050系のバスであればよいという。下車駅Hopsbroenへは20分足らずで着いた。降りる客もなく、運転手のいう道を歩き出す。時々車や自転車とは遭うものの、歩いている人はいない。何の変哲もない田舎道をひたすら歩くが、“グリーグ”の文字はどこにもない。停まっていたトラックの運転手に、ガレージに車を入れる女性に、疾走する自転車を留めてまで尋ねてみるが、方向としては間違ってはいないらしい。途中、大きな立体交差のロータリーも見える。20分以上歩いたところで、ようやくGrieg Museumの看板があって、並木道をしばらく行ったところに人影と建物が見え、ほっとするのだった。1995年オープンの博物館にはいろいろな工夫もしてあって、外国人の私たちにも親しみやすい。私の好きな?年表の壁の前で、写真に収まる。グリーグの住まいには、ゆかりの家具や食器や写真などが展示されていた。

グリーグ(18431907年)は、ライプツィヒ音楽院では伝統的な作曲家はもちろん新しい作曲家についても学んだが、ノルウェーらしさを目指し、コペンハーゲンでは多くの作曲家やアンデルセンにも出会い、生涯の伴侶ニーナにもめぐりあう。後、クリスチャニア(現在のオスロ)に居を移し、ピアノ教師の傍ら数々の名曲を残す。「ペール・ギュント」はじめ、イプセンとの仕事も代表的な作品となっている。1885年、ニーナとともにベルゲンから約8キロのこの地に新居を構え、トロルハウゲン(妖精の丘)と名付けたという。晩年もチャイコフスキー、ブラームス、リスト、サンサーンスら、多くの作曲家と交流を深め、バルトーク、ラヴェル、ドビッシーなどには大きな影響を与えたという。

博物館には、イプセンの肖像画も描いているE.Wereckioldの作品やダール、クロ-グの絵も飾られていたので、学生らしい案内ボランティアに、画家たちとの交流について質問すると、「あなた方はアーティストか」と逆に尋ねられてしまう。湖の方に下っていくと、途中にコンサートホールがあり、その先に作曲小屋があった。若い女性から遠慮がちに写真を撮ってくれますかとデジカメを渡される。それならばと私たちも撮ってもらい、尋ねたところアメリカからとのことだった。カフェでの食事の間、ずいぶんと迷っていたようだが、連れ合いは昼のコンサートを聴いていきたいといい、博物館入館とコンサートチケットとのセットに交換してくる。それぞれリンゴケーキとワッフルとお茶で軽く済まし、先ほどのホールに入って、階段状の客席から見ると、舞台の奥の窓には、湖水と山が一枚の絵のようにおさまり、グランドピアノのシルエットが素晴らしかった。30人ほどの聴衆のなかには、作曲小屋で出会った女性もいた。今日のピアニストはRune Alverさんでやさしい声のおしゃべりも心地よく?癒しのひとときではあった。

帰りは、余裕のウォーキング気分で、バス停まで苦にならなかった。

Photo
















 

 ベルゲン大学とスーパー総菜売り場

夕方の5時過ぎにはホテルに帰り、夕食まではと散歩に出た。ホテルの横の大通りを上ると国民劇場にぶつかる。気ままに歩いているといつの間にかベルゲン大学のキャンパスに入ったらしい。街との境などないかのようだ。ヨハネス教会と向かい合っているベルゲン(文化歴史)博物館はもう閉館、ここではベルゲン鉄道開通100年記念展が開催中ではあったが、もう明日はベルゲンを発つ。

ベルゲン最後の夜は、気楽にビールと惣菜を持ち込み、ホテルで済まそうということになった。なにしろ、レストランではその支払い額の25%が消費税なのだ。近くのスーパーは大変な混雑ではあった。欲しいものをかごに入れてゆくのだが、スモークサーモンと白身のお寿司、すり身の揚げ物、マスカット、プラムにビールとミネラルウオーター・・・と、ややわびしい品選びではあった。それでも、食品は14%、ビールは25%の消費税を払ったことになる。ともども、満足の末、ひと眠り、荷物整理はまた後回しになってしまった。

明日は、最後の宿泊地コペンハーゲンへ飛ぶ。

(順序が逆になりましたが、続きをお読みの方は、<1><2>にお戻りいただければ幸いです)

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2009年11月 5日 (木)

美術館とカフェと~ノルウェー、デンマーク早歩き<7> フィヨルドヘ

ベルゲン鉄道からフロム鉄道へ

西向きのホテルの部屋から見たベルゲンの日没は9時、街のざわめきは深夜に及んだが、朝は意外と早いのに驚く。私たちは、大きな荷物はホテルに預けて、ベルゲン中央駅に早めに向かう。日本の旅行社で用意したフィヨルド周遊券のバリデ-ションという点検の手続きを経なければならない。結構行列ができていたが、このオフィスのパンフレットで、ベルゲン鉄道が今年11月で開通100年になると知った。記念の絵ハガキも何枚かゲットして、840分ミュルダルに向かう。約2時間、列車は、Daleダーレ、 Bolstadoyriボルスターオイリ、 Evangerエヴァンゲルとフィヨルドの谷や湖水に迫ったり離れたりしながら進む。どの駅も似たようなオレンジ色の小さな駅舎、ヴォスVossから乗り込む観光客も多く、以後は各駅停車となり、長いトンネル(Gravhals)を抜けるとミュルダルだった。雪渓が残る峰々を見上げながら、数分の待ち合わせでフロム鉄道に乗り換えた。深緑の斜面が窓に迫り、眼下の湖水に安らげば、突然岩山が現れ、遠い連山には雪が光る、といった沿線の展望はめまぐるしい。赤い実をびっしりつけた木はなんというのだろう。しばらくして、列車は突然停まって、乗客が降り始めるではないか。背の高い車掌が降りた客を誘導しているので、私たちも木製のホームを進んでゆくと、そこには思いがけず、目の前にすごい水量の滝がしぶきを上げていた。展望台の先まで進むとしぶきはもう雨のようで、床はびしょぬれで滑りそうでもあった。何段にもなった瀑布の右手にはかつての水力発電所の建物が見え、その先の崖の上では、薄物をまとった女性が踊っているような・・・、観光のために仕組んだことらしいが、これは少しやり過ぎでは?車掌の合図で乗客たちは再び列車に乗り込んだ。滝の段差は94mの由。あっという間の50分でフロムに到着した。幾筋かの細い滝を擁した山を背景に赤や朱の家が点在する集落こそ、フロム鉄道の終着駅。人口400人、年間の観光客3万人という村でもある。早めのチェックインをしたのは、正面のガラス張りの窓が目立つホテル・フレットハイムだった。波止場には大きな客船が停泊、すぐにフィヨルド観光に出かける人たちもいる。ホテルで一休みした後、昼食をと辺りをめぐり、結局バイキング方式のレストランに入った。あったかい紅茶がありがたかった。ホテルの夕食での日本人客は私たちのほか、やはり熟年のご夫婦だった。白ワインがほどよくまわった私の夜は早かった。

そしてフィヨルドへ      

周遊券の日程では、午後にフロムを発つ予定であったが、これ以上留まることもないね、と朝一番の遊覧船に乗ることにした。セーターは着込んだものの、薄い上着でもなお寒い。乗船前にお土産屋さんをひとめぐり、どうも気になったのが鉄道博物館であったが、もちろんまだ開館していないので、窓から覗いて鉄道100年の歴史に思いを馳せた。

争うようにして乗船した連れ合いは、甲板の先に席を取って手招きしているではないか。フィヨルドの谷の空気はめっぽう冷たい。留守をするので声をかけた隣家の奥さんが、2年前の北欧旅行の体験から厚手の上着は持って行った方がいいですよ、の言葉を思い出す。いっそう船室に入りたいくらいだったが、熱い缶コーヒーで陣取っていた。連れ合いは席のあたたまる間もなく、撮影に忙しい。地図で見るとノルウェーの西海岸からは一番長いソグネフィヨルドの、一番奥まったアウルランフィヨルドからナーロイフィヨルドへと船は進んでいる。迫る斜面、絶壁の岩、重なる山々を背景に、湖水のような静かな水面を滑るように船は進む。左右には、時折、頂き付近からのジグザグの滝、直接に水面に落下する滝、急斜面から岸にかけて家が点在する集落が見えたりする。集落の真ん中に教会と墓地が見てとれるところもあれば、船着き場付近に数軒の家しか見えないこともある。道路がない集落、夏季しか人が住まない農場もあり、村びとたちの営みを思うと気が遠くなりそうな世界だった。1時間余のクルーズを終えて降りたグドヴァンゲンではようやく日が射してきてホッとする。

 グドヴァンゲンは、フィヨルド観光船の寄港地、今はバスでナーロイ渓谷沿いにスタールヘイムに向かう出発点である。1140分発、乗客は156人、急こう配のジグザグを登り切ったところでバスは停まり、乗客らは、赤茶色の建物になだれ込む。ホテルの売店を突っ切ったところの展望台に案内される。眼下の渓谷と集落、ま向かいの山並みを堪能させてもらったサプライズだった。案内書によれば、これも観光客へのお決まりのサービスらしい。ドイツや北欧の王族たちに愛されたリゾート地だったという。

思いがけずヴォスの展望台にて

再び国道13号線をひた走り、オッペンハイム湖や幾つかの湖水を左右に、草原やスキー場らしい斜面が続く。正面の峰々の尾根には雪渓が光る。フロムを早く発った分、ヴォスで数時間過ごせそうだ。ロッカーに荷物を預け、まず昼食をと思うが、店がない。ホテルという気にもなれず、結局駅構内のカフェで済ますことになった。駅のホームの端にある陸橋には、ケーブルカーの矢印がある。階段も手すりもすっかりさびているわびしい橋を渡ると、傾斜地に点在する住宅、どの家も色とりどりの花を咲かせ、庭には、大きなパラソルを逆さにしたような放射線状の物干しに洗濯物がいっぱいであった。斜面の上の家々のメールボックスは、坂の上り口にまとめて設置されているから、郵便物はここまでしか配達しないのだろう。眼下には、線路と国道と雄大な山並みと湖水が見下ろせる。ケーブルの駅にはそれでも人はいた。56人も乗ればいっぱいのケーブルカーは無人運転で急傾斜に差し掛かると、大きく揺れておそろしい。山頂駅に着けば係員がドアを開けてくれて、なぜかホッとする。発着所付近には羊が放牧されているが、足元の大きな糞には要注意ながら、目の前に展けたパノラマには息をのむ。先ほど訪ねた教会が小さく見える。駅の周辺にわずかに続くヴォスの家並み、湖畔からゆったりした草原には何の競技場だろうか、土色のグラウンドが幾つも点在しているのがわかる。展望台でぼんやりしていると、何本かのケーブルカーをやり過ごしようやく下山、それでも、ひと電車早くベルゲンに帰れそうである。

(フィヨルド遊覧船から)

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(ヴォス、ケーブル山頂駅展望台から)

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2009年11月 2日 (月)

美術館とカフェと~ノルウェー、デンマーク早歩き<6> ベルゲン美術館

1035分発のオスロからベルゲンへのSAS便は、搭乗ゲイトが変更になり、離陸が大幅に遅れたにもかかわらず、ほぼ予定通りベルゲン空港に着く。小雨のなか、乗り込んだバスの運転手にはまずホテル名を告げた。降ろされた広場前では、人群れとマイクの声に驚いたが、演説をしているのは女性党首という雰囲気で、正面の大きな画面にも映し出されていた。これは後で知ったことだが国政選挙が間近いのだった。いったい誰だったのだろう。そういえば、日本の選挙はどうなっているのか。娘からのメールによれば、麻生首相がまた失言をしたらしい。それに、家の近くの京成の駅前にまで演説に行ったらしいよ、と。当選危うしの2代目議員が招んだのでは。

ホテル前のフェスト広場に接した大きな池の端に3棟のベルゲン美術館が続いている。やや遅い昼食は、迷わず美術館カフェに決めた。窓から望める池の水面を打つ雨脚はまた強くなってきた。テーブルのセッティングがユニークで、空いているテーブルには、フォークとスプーンが羽を広げたようにセットされ、グラスの鳥が今にも飛び立とうしているようであった。 

ベルゲン美術館は、大きな三つのコレクションから成り立っているらしい。一つは中世のヨーロッパ美術が中心のThe city art collectionであり、一つは、R.ステナーセン(Rorf Stenersen,18991978)コレクションで、ミロ、ピカソ、パウル・クレーから現代に至るまでのインターナショナルなフロアとダールを核にしたフロアなどに分かれて展示がなされている。タワーのある、この美術館は今回大急ぎでしか見られなかった。比較的時間をかけて私たちが見たのは、もう一つのコレクションで、実業家R.メイヤー(Rasmus Meyer18581916)963点にも及ぶコレクションの一部だった。美術館自体もこの地に建造し、1924年にオープンしている。ノルウェーの絵画の歴史がたどれるような展示であり、各部屋には解説のプリントがノルウェー語と英語版の2種が用意されているが、その場で読める量ではなく、部屋によっては英語版がなくなっていることもあった。1階は、1819世紀のインテリアや家具が展示されている部屋も多く、ダール、グード、エッカーズベルクらのノルウェーの風景や暮らしを描いた作品が続く。2階に上がった踊り場には、イプセンの大きな肖像画(1896 年、Evik Werenskiold)が掲げられていた。17室には、先にもふれたH.BackerとクローグC.krohgの作品が集められていた。ここには、オスロの美術館では撮影できなかったクローグの“The Fight for Survival”1890)の異なったバージョンだろうか、もう一度出会うことができた。また、ムンクの前半期の絵画や版画が2021室に集められていた。初期の作品、Girl sitting on a bed(Morning,1884)  Inger on the beach(Summer night,1889) Sick girl(1892)など家族の死や病をモチーフとするものが多い。1890年に入り、パリモネやゴッホの印象派に出会い、スーラーやゴーガンにも影響を受けたらしく、Spring day on Karl Johan (1891)などはまさに点描だし、セーヌ川をスーラー風に描いた作品を先のムンク美術館で見てもいる。さまざまな手法を取り入れてノルウェー絵画からの脱却を試みていた時代という。このころ、マドンナも幾度となく描かれ、Woman in three stages (1894)Four age in life(1902)では、3世代―青年期・熟年期・老年期の女性、4世代―さらに幼年期の少女を一枚の絵に描く手法がとられている。これらの絵がどんなメッセージを発信しているのか、私にはやや不明確ながら、ムンクとも親しかったイプセンは男性や家庭から解放された「新しい強い女性」を描いていた時代でもあった。1900年代に入ると、しばしば滞在していたオスロの南東にあたる海辺の村、オースカーストランドでは、カラフルな衣装をまとった少女たちが、また橋の上の少女たちが描かれ始める。神経症を病み、療養しながらの後半期の制作も多くこの時期までのモチーフに拠るのではないか。

ベルゲン美術館にもまだまだ見残した名画は多い。
 いつまでも昼下がりのような夕方は、ここは見逃せないと、ベルゲン港の北側に沿ったブリッゲン地区へと出かけた。中世のハンザ同盟の隆盛を今に伝える木造の家並みは、奥行きも深い。様々な店や工房がどこまでも続く趣が魅力的だった。とある店で、私にしてはかなり思い切った値の毛糸のマフラーを買ってしまったのだ。

明日は、ベルゲンを離れて、フィヨルド観光のためフロム一泊の小旅行となる。

(上)クローク:The fight for survival

(下)ムンク:Four age  in life

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2009年10月 6日 (火)

美術館とカフェと~ノルウェー、デンマーク早歩き<5>ノルウェー抵抗博物館

ノルウェー抵抗運動博物館へ

ムンク美術館からホテル近くに戻ったが、アーケル・ブリッゲの夕食には早い。まだ、まだ、日差しも残るなか、カール・ヨハン通りを横切って、アーケシュフース(Akershus)城へ向かった。昨夜雨の中で見上げた城壁の上へと登っていることになる。ノルウェー抵抗運動博物館があるはず。もっとも閉館時刻は過ぎていた。ドイツナチス軍に占領された時のレジスタンス運動に関する資料が展示してあるはずである。城内へと入る手前には、立派な厩舎があって、何頭かの馬が放たれていた。残る城壁に沿って登ると、博物館はあった。銃眼を持つ城壁にしっかりと囲まれた感じで、一つの門をくぐるとそこからは、オスロフィヨルドの港が一望できる。こんな観光地に抵抗運動博物館があるなんて、と思う一方、ナチスの残した傷跡も抵抗もノルウェー国民には深く刻まれているのだろう。中を見られず残念なことだった。昨夜雨の中、その前を行き来した市庁舎とオスロ平和センターが並ぶ。大きな客船や観光船がゆったりと出入りする。私たちがしきりにカメラのシャッターを押していると、地元のカップルの「撮ってあげましょう」との申し出にややテレながら並ぶのだった。連れ合いとの二人の写真というのは貴重なのだ。城壁のてっぺんの緩やかな坂を下ると、市庁舎前の広場に出る。まだ明るい夕方の8時近くだ。今日の抵抗運動博物館も、歴史博物館も入館はかなわなかったのが心残りではあった。明日はベルゲンに飛ぶ。

(ノルウェー抵抗運動博物館)

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美術館とカフェと~ノルウェー、デンマーク早歩き<4>ムンク美術館

オスロ、ムンク美術館へ  

 オスロの国立美術館で、もうムンクは堪能したような気分ではあったが、ここまで来て、省くわけにはいかない。ホテル近くに戻り、地下鉄で二駅目テイエン下車、細い道を3・4分だろうか。広い芝生の原っぱを前にしたカフェがまず目に入る。 エントランスがガラス張りで明るく、開放的な印象であった。美術館の創設は、1944年死去したムンクの遺言により大量の作品群がオスロ市に遺贈されたことに端を発し、長い年月がかかって1963年にオープンしている。しかし、絵画盗難のニュースは一度ならず私たちにも届いた。なかでも有名な「叫び」(1893年)と「マドンナ」(1893~94年)が盗まれたと聞いて驚いたものである(2004年8月)。ただちに、セキュリティを徹底する大改修がなされる一方、懸命な捜査の結果、2年後には盗難の上記2作品も戻ったという。
 ムンクは、1863年生まれの長男だが、父親は軍医だった。母親は5人の子を残し結核で亡くなる。ムンク5歳の時だった。その9年後には、長姉も結核で他界する。この二つの死はムンクの生涯に、画業に、大きな影響を与えた。当初、父の勧めで工業高等学校に進んだが、1980年には画家になる決意で、工芸学校にかわり、さらに、クローグの指導を受けたり、クリスティニア・ボヘミアに参加したりしながら、1889年、オスロで個展を開いく。これを機にパリで学ぶ機会も得て、ヨーロッパを転々とする暮らしも始まり、その多忙さから神経症にかかるが、母や姉の病や死を繰り返し描いた。この間、女性との出会いも実らないまま、制作と静養の日々が続き、ヨーロッパ各地で開かれる美術展では多くの栄誉が与えられ、1916年には、オスロ郊外エーケリに居を定めている。1940年、ノルウェーがドイツ、ナチス軍に侵攻されると、彼は、ドイツ人やナチスとの接触を拒否して抵抗したとされる。1944年1月肺炎により死去する。

 ムンクの中でも好きな絵は

ムンクの絵で、実に特徴的なのは、人物像の「目」ではないかと思うようになった。とくに初期の1890年代までに描かれた、病、死、そして愛をテーマにした作品の人物の目には影があり、暗く哀愁に満ち、時には病的でもある。しかし、生涯に何枚も描かれている自画像の目は、いつでも、どれでも、私が見た晩年のほんの1・2枚を除いては、明確であって、鋭いように思えた。表情はもちろん背景や着衣にも意思やメッセージが明白にあらわれ、どれも自分に「正直」でとても魅力的に思えた。けっして衰えていない創作への意欲が感じられるからだ。

①女の仮面の下の自画像(1891~92年)
②筆 をもった自画像(1904年)
③ワインボトルのある自画像(1906年)
④ベルゲンの自画像(1916年)
⑤眠れない夜/混乱の自画像(1919)
⑥画家とモデル/寝室1(1919~21年)
⑦自画像・夜の徘徊人(1923~24年)
⑧窓辺の自画像(1940年ころ)
⑨時計とベッドの間の自画像(1940~42年)
  

 不覚にも自画像の絵葉書をすべて買ってはいないし、記憶とカタログなどにしか頼らざるを得ないのだが、たまたまカメラに収めた作品や手元にある絵葉書、栞から②⑤を選らんでみた。また、「妖精の森へ向かう子供たち」(1903年)、「橋に立つ少女たち」(1927年ころ)「橋に立つ婦人たち」(1935年ころ)など、ドイツの若手画家たちの影響を受けたというカラフルな作品にも心惹かれるものがあった。「叫び」ばかりが目立って取り上げられることにはどこか違和感が伴う。苦しい孤独との戦いの軌跡でもある自画像、晩年の色使いに私は着目したいと思った。

ノルウェーのムンクの旅はこれでおしまいではなかった。

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②筆を持った自画像(マグネット付き栞)

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2009年9月15日 (火)

美術館とカフェと~ノルウェー、デンマーク早歩き<3>オスロ国立美術館

<1><2>は、日程的には逆の掲載の形となってしまった。資料の小包も届いたので、最初の目的地オスロから始めたい。

 

オスロ、桟橋通りへ

私には初めてのSAS便(コペンハーゲン行)だったが、成田の離陸がだいぶ遅れた。9時間余の機内は、エコノミー・エクストラの席を、思いがけずビジネスに変更してくれるということでだいぶ得をした気分だった。当初は寒くて毛布を首からかぶっていたがひっきりなしのドリンクなどのサービスを受け、どうやらうとうとしたようであった。コペンハーゲン空港へと近づくと、海上に風車が連なり弧を描いていた。空港は、降りるとチョコレート色の木目の床板に迎えられ、そのシックなセンスをさすがと思ったものだ。それにしても、オスロ行きの出発ゲイトまで、免税店が並ぶ通路の長さは格別で、不安になるほどであった。1時間ほどで、最初の目的地オスロに到着、ここは、オーク色の床板で、これも森の国ノルウェーにふさわしく落ち着いた雰囲気、空港エキスプレスでオスロ中央駅に到着、当初、沿線の落書が少ない街かなと思いきや、やはり市内に近づくと目立ち始めるのだった。ホテルは中央駅前といってもよい。ロビーで目に入った催し物の受付けがあって、“Mr.Gay Europe 2009 23.august 2009”と、ポスターにはあり、さすが「ホクオウ!」と感心する。私たちの宿泊とすれ違いの日程ではある。 部屋に囲まれた中庭全体がレストランになっていて、どの階の廊下からも見下ろせて、並ぶバイキングのご馳走には食欲をそそられる。

目の前のショッピングモールのオスロシティをひと回りした後、夕食の店を探すことになった。雨も降り出し、折畳み傘では肩が濡れるほどで、見つけた目当ての「ガムレ・ラドフス」は、予約がないのでと断られた。店の名でもわかるように、17世紀に建てられた旧市庁舎を利用して18世紀に開店したという。黄色い壁のこの地ではどこにもありそうな建物に思えた。海岸への路地は水たまりが多く歩きにくいのだが、雨に煙るアーケル・ブリッゲはまだ観光客で賑わっていた。大聖堂に面するカール・ヨハンス通りに戻って1階は居酒屋のように賑わう店の地下で夕食を済ます。花や光る輪を持った外国の女性たちが通りかかる人に寄っては声をかけている。何となくあやしげではあるが、人通りは絶えそうにもない。ホテルに着いたのは、11時すぎだった。

 

オスロ大学から国立美術館へ

オスロで丸一日使えるのは今日だけである。連れ合いが20年近く使っていた旅行鞄のとっ手が切れた。カバン屋を探すはめになるが、意外と近くに専門店があったので、ひとまわり小ぶりのサイズを求め、ホテルに引き返す。

朝のカール・ヨハンス通りを王宮に向かうが、急な坂をのぼり切らねばならない。その坂道はまるで駐車場で、車は斜面に這いつくばるように並んでいた。朝から若者の往来が多いと思ったら、右手はオスロ大学だった。左手が国民劇場で、イプセンの銅像があるのだが、やや戯画化された立像ではあった。王宮の三角広場の砂は昨夜の雨に流れ出している。王宮自体は黄色の質素なたたずまいながら、要所要所、衛兵が見守るなかを一回りする。朝の10時、衛兵の交代がはじまった。若い衛兵がかわいらしい、と思う年になってしまったのか。裏手の庭園の木々は雨上がりに映え、木の間からは街の往来が見下ろせる。今度はオスロ大学の裏手を下ると国立美術館である。その手前が歴史博物館らしいが、美術館に直行する。

 

館内は撮影が一切禁止の上、手荷物の大きさもチェックされる。案内書を頼りに、展示室への階段を上る。左手正面の衝撃的な大作は、雪に覆われた街のあるドアの間から突き出されたひとかたまりのパンに多くの女たちと子どもたちが手を伸ばして群がっている、という絵だ。英訳で“The Fight for Survival”と題されたクローグ(Cristian Krohg1852 ~1925)の作品である。私には初めて聞く名前だった。が、15~41室までまんべんなく鑑賞するには時間がないだろう。せっかくなのでノルウェー画家たちを優先してみることにするが、どうしても気になるのが、ムンクはともかく、さきのクローグであり、数少ない女性のHarriet Backer(1845~1932)であり、「ノルウェー絵画の父」とされるダール(J.C.Dahl1788 ~1857)の風景画であった。以下、画家についての説明は、後述のベルゲン美術館で入手した解説シート(英語版)に拠ることがほとんどだが、おぼつかない部分も多い。

 

ダールは、ベルゲン生まれだが、コペンハーゲンで本格的な教育を受けた最初のノルウェー画家で、数年後にはドレスデン・アカデミーに移って、1820年には教授になり、多くのノルウェーの画家たちを育てている。彼の描くノルウェーの風景画は、17世紀後半のオランダのRuisdael やその影響を受けたEverdingenから多くを学んでいて、自然の中にみるヒューマンな特徴は典型的なロマンティックな傾向を示しているという。フィヨルドに点在する村々の自然や暮らしが描かれている作品が多かった。

クローグの作品は多くの展示室に点在していたが、部屋に入ると、真っ先に目に入ってくる特徴的な作品が多い。作品に描かれる人々は、社会の底辺で働く人々であり、多くの肖像画にもその人の暮らしや生い立ちを十分に描き込んだ、動きのあるものが多かった。

彼は、オスロ大学で法律を学んだあと、1870年代、おもにドイツで絵画教育を受け、1880年代前半パリで活動した。写実主義画家としての活動とともに作家やジャーナリストとしても活躍したという。妻オーダ(Oda Krohg1860~1935)も画家で、彼の作品にもしばしば登場する。朱色のブラウスと同色の帽子をつけて腰に両手をあてた、自信に満ちあふれた妻の笑顔を正面から描いているKrohgの絵(1888)は、当時の二人の関係を象徴的に語っているかのようだ。とはいうものの、クローグは、当時、美術界で悪評高かったムンクを幾度となく擁護した師であったのだが、ムンクは師の妻オーダとの三角関係に悩んでいた時期もあったというのだ(『ムンク オスロムンク博物館(日本語版)』19983948p)。

 

Backerの作品は、もっぱらインテリアをモチーフとするものがほとんどで、教会内の情景であっても、農家の室内を描いたものであっても、そこに描かれた何の変哲もない家具やドアたちが不思議に存在感をもって迫ってくるような印象なのだ。ハンマースホイの室内画とはちがって、暮らしや人間の息遣いが伝わってくるといってもいいのだろうか。

 

ムンクは、24室にまとめられて、19点が展示されていた。別室にも何点か見受けられた。いまでは国民的にも、世界的にも人気の高い画家となったが、曲折があったらしい。後のムンク美術館で触れたい。

 

ヨーロッパの著名な画家たち、ルノアール、マネ、モネ、ドガ、セザンヌはじめ、マチス、ピカソ、ゴッホ、ゴーガンなどは、広い37室にまとめられての展示であった。一点、一点をもう少し丁寧に見られる時間があったらなあ、と思うことしきりであった。

コバルトブルーの壁に囲まれたカフェ、遅い昼食となったが、一服もつかの間、つぎには、ムンク美術館が控えている。

 

上:ホテルのレストラン、ここで朝食をとる

下:カール・ヨハンス通り、クローグ像の裏に回ると絵筆立てもある

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