2018年5月24日 (木)

ミュンヘンとワルシャワ、気まま旅(6)

歩き疲れた、市内巡り
 

 59日、午後からは、きのうのダッハウに続きKさんの案内で、市内をめぐった。この日の待ち合わせ場所のマリエン広場は、びっくりするほどの賑わいで、新市庁舎の前には、舞台が設置され、周辺で踊る人たちもいる。舞台には”europa tag"との看板があり、EUの旗や風船があちこちで揺れている。いくつかのテントも張られていた。EUの広報活動の一環らしいのだが、そこで配布されていた絵本のようなパンフレットによれば、5月9日は、なんとEUにとって記念すべき日だったのだ。

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足元のプレートをたどってゆくと・・・

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イギリスのチャーチルの欧州合衆国構想を踏まえ1949年欧州評議会が発足、その翌年1950年5月9日にフランスの外相ロベール・シューマンがヨーロッパの石炭と鉄鋼産業を統合する共同体の設立を趣旨とする、シューマン宣言がなされた日だということらしい


 お任せながら、Kさんから提案いただいたのが、以下のようなコースだった。入場した施設での解説には熱が入る。その上、歩いている途中でのさまざまな説明やミュンヘン市民の暮らしぶりに触れての話は、楽しい一方、考えさせられることも多かった。何しろ準備不足がたたって、お話を十分理解できない個所もあったが、私がとくに印象に残ったところをたどっておきたい。
 

アザム教会―シナゴーグ・市立博物館・ヤコブ教会―ヴィクトアリエン市場―ホーフブロイハウス―マックス・ヨーゼフ広場―ミュンヘン州立歌劇場―レジデンツ(クヴィリエ劇場)―オデオン広場・テアティーナ教会―(バス移動)―アルテピナコテーク (太字が入場した場所)

  アザム教会に向かう道すがらは、私たちが昼食をとった百貨店のガレリア・カウトホーフほか、Kさんは、ブランドや買い物情報に疎い私たちに、文具専門店のカウト・ブリンガーですよ、CAKonenは衣料専門店です、などと教えてくれる。

 

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 街角に、新聞の自動販売機をときどき見かける。日本の新聞は、駅などの売店や本屋にもほとんどみかけない。『朝日新聞』を一度だけ買ってみたが、日本からのニュースは精神衛生上よくない?と、知る気にもならなかった

 最初に訪ねたアザム教会は、間口9m、奥行き28mというウナギの寝床のような教会で、建築家であり画家でもあったアザム兄弟が、18世紀の半ば、自分の家の隣に私財を投じて造った教会だそうで、聖人ネポムクをまつっているという。プラハのカレル橋に数ある聖人像のなか、触ると幸運を招くという立像を覚えていませんか、と問われて思い出す。その聖人こそがネポムク、ネポムツキーで、14世紀後半に実在したプラハの司教総代理で、当時暴君だったボヘミア王に抵抗したところ、この橋からモルダウ川に投げ込まれたという。思わぬところでつながる話も興味深い。ヨーロッパでは、橋の守り神として、まつられることが多いそうだ。アザム教会の天井、壁、祭壇など、きらびやかで贅を尽くした感があり、死神と天使まで登場する彫刻も施されている。

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 ユダヤ地区に入り、そこには、「嘆きの壁」を模したような、シナゴーグがあり、ヤコブ教会があり、歴史博物館がある。遠くはないところに、長いガラス張りの建物が見えてきた。むかし、生鮮食品の市場あったところで、現在は、
eatとイタリアをかけて「eatalyというイタリア関連の大型商業施設になっている。素通りに近いが、珍しい食材にも目を瞠る。パスタの種類も半端ではない。施設俯瞰は、ネット上の写真から拝借した。

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かぼちゃの花も食べられるそうだ。詰めものをして、揚げたり、焼いたりして食するらしい

 大きな家具屋さんの脇を通って、王立ビール醸造所が開いたホーフブロイ、ミュンヘンでも有名なビヤホールと聞いていたが、その店の中を、中庭を道路のように通り抜けたのである。

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顔の大きさほどのプレッツェルを民族衣装で売り歩いていた。ホテルの朝食やビヤホールでもよく出されるプレッツェル、あの塩を払って食すというものの、私には塩からすぎて食べられなかった


 レジデンツのクヴィリエ劇場の入り口も分かりにくい。Kさんについてゆくばかりだ。入れば豪華な劇場で、ちょうどリハーサル中でもあった。明日の晩は、レンジデンツでのセレナードコンサートに来るつもりなので、その場所も確認しておきたい、ということで確かめたのだが、これもなかなかわかりにくい。

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中央の2階席は、王の観覧席だったそうだ

 オデオン広場に向かう道では、レジデンツを守る4匹のライオンに出会うが、その2番目のライオンの鼻先をなでると幸運を呼ぶとかで、通りすがりの人々は、みな素直になでてゆく。必ずしも観光客だけでなく地元の人も。ところが、このライオンの向かいの路地の敷石の一部が金色に蛇行している。これがなんと、ナチの親衛隊が市民を選別して、ダッハウ行きを決めると、その道を歩かせたそうだ。Kさんからそんな話を聞きながら、オデオン広場に出て、17世紀半ば建てられたテアティーナ教会に入る。外は黄色の壁の明るいバロック中期の建造だが、中に入ると、そこには重々しい、真黒い祭壇が設けられていた。オデオン広場には、翌日もう一度訪ねることになる。

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2018年5月22日 (火)

ミュンヘンとワルシャワ、気まま旅(5)

59日、朝のキャンパス、英国庭園

 この日は、午後から、Kさんに案内していただくことになっていて、午前中は、そのコースにはないミュンヘン大学と英国庭園へと出かけた。ミュンヘン大学(ルートヴィヒ・マクシミリアン大学と呼ぶらしい)は、かつて見た、実話でもあるレジスタンス映画「白ばらの祈り」の舞台にもなっていた。大学にも英国庭園にも近いUniversitat駅までは、中央駅からはU6でもU3でも行けることがわかった。下車して地上に出て、目の前に大きな門がそびえているのに驚いた。ガイドブックにあった「勝利の門」である。バイエルン解放戦争でのナポレオン軍に勝利した記念という。19世紀初頭のことだ。門のてっぺん、ここにも4匹のライオンが女神を守っている。門をくぐって振り返ると地図にある教会も見える。しかし、この文字のモニュメントは何なのだろう。並木道を進むと学生たちの行き来も多くなり、途中で、路上で店開きするらしい古本屋さんにも出会う。さらに進んで、学生の列に誘われるように、キャンパスの中に入って、学部の図書館を覗いたりする。どこまでキャンパスは続くのか、Uバーンの一駅を歩いたらしい。

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犬の散歩にはよく出会うが、初めてのポインセッター


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ここにも4匹のライオンが女神を守る

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教科書や参考書の古本でも売るのだろうか


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haus1 の図書館らしいが、図書館と名の付く所に入ってみたい・・・

さらに進んで、学生の列に誘われるように、キャンパスの中に入って、学部の図書館を覗いたりする。どこまでキャンパスは続くのか、Uバーンの一駅を歩いたらしい。Lutwig通り渡って、英国庭園への道をたどれば、さらにKonign通りを過ぎて、新緑に包まれた道を進む。 

 サイクリングの人たちがひっきりなしに過ぎてゆく。自転車も悪くないなあ、うらやましいことこの上ない。小さな橋を渡るとそこは芝生の広場であった。周辺には、マロニエをはじめ、さまざまな木の花も咲いている。広場からの道は、幾通りもあって、案内図の前で迷っていると、”May I help you?”とまた声を掛けられる。たった三日目ながら散歩中の人、ジョギングの人、学生らしい人たちから、これまでも何度声をかけられたことか。よほど困っているアジア系のシニア二人連れと思われたのだろうか。皆さんの親切が身にしみる、今回の旅でもあった。ガイドブックでも見かける中国の塔というのがとりあえずの目標だ。何しろこの庭園は375ヘクタールとのこと、115ヘクタールという皇居と比べてもその広さが想像できよう。ちなみに東京ドームは4.67ヘクタールなのだが。

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ここでもマロニエの高木も低木も花盛りであった。足元のこの花は何だろう

 ようやく、中国の塔が見えてきた、周辺のビヤガーデンは、まだ掃除中で、長いテーブルとイスは、モップ?で洗われているさなかだった。イザール河畔まではかなりの距離があるとのこと、売店の人は力説していたので、降りたUの駅まで戻ることにした。

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 Kさんとは、マリエン広場で1時に待ち合わせである。その前に、広場近くのデパート、ガラリエ・カウフホーフのレストランで昼食を済ませておくことになった。

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文房具のコーナーなど廻って最上階へ

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ここのレストランはバイキング方式だったので、メニューと格闘することもなくほっとする。サラダのコーナーとケーキのコーナー

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なんとカラフルなランドセルだろう。日本の小学生は、いまだに革製のカッチリした高価なものだし、中学生は、さまざまなデザインのリュックサックを背負うのが主流になったようだが

 

 

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2018年5月21日 (月)

ミュンヘンとワルシャワ、気まま旅(4)

585時、マリエン広場で

 

 ダッハウ強制収容所からマリエン広場に戻り、Kさんは別れ際に、ランチは青空市場でいかがですか、と勧めてくださった。それから「新市庁舎の仕掛け時計は5時ですよ」とも。マリエン広場の賑わいは、なるほどインターナショナルな気配であったが、新市庁舎は「新」とは思えない風情でそびえていた。日本の明治時代、19世紀後半からルートヴィヒ1世の命で建てられたネオ・ゴッシク様式という。その新市庁舎の地下にあるレストラン、ラートケラーで、かなり遅いランチとなった。店内は、幾つものスペースが迷路のように広がっていた。すこし奥まったところに座り、夫がかねてから調べていた?というメニューと首っ引きで頼んだのが、ご覧のごちそうである。かなりのボリュームだったが、どれもおいしくいただいたものの、ソーセージの盛り合わせを残してしまったのが残念だった。

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新市庁舎地下のレストラン、ラートケラーの入口

 

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テーブルからもはみ出しそうな。手前がシュニッツェル、レモンは包んであるので絞りやすい。盛り合わせの右肩のカップには、味のない大根の千切り?とからしマヨネーズ?手前のグラスにはサラミと筒状に包まれたバターが立っている。もう一皿はホワイトアスパラガスの束?にポテトの付け合わせでした

 広場を囲むように、新市庁舎を左に、正面にアーチのある旧市庁舎(庁舎内におもちゃ博物館がある由)と聖霊教会、右にミュンヘンでもっとも古いペーター教会ということになる。中央の高い聖マリア像はバイエルンの守護神としてライオンや怪獣に守られているようだ。

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 旧市庁舎の脇の花屋さんもみごとな花ばかりだったが、お勧めの青空市、ヴィクトアリエンマルクトに入ると目をみはるばかりの物量と豊かさである。あれもこれも、珍しく、買って帰りたくなるものばかりだったが、ともかく、今晩ホテルでと、イチゴ、プラム、葡萄を買い込んだ。

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トウガラシやニンニクまではわかるが・・・、乾物屋さん?


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生活と密着しているハーブなのだろう。その種類と量が半端ではない。ダッハウ強制収容所でもハーブの畑があって、そこでの労働も強いられたという

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見慣れた果物も多かった.。イチゴは、日本で2パックくらいあって、600円くらいだったか

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ジャガイモだけでもこの種類!

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市場か中央のポールは、3年に一度ほど絵柄を変えるそうで、この5月に新しくなったばかりだそうだ。いわれや物語が込められているとも

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ミュンヘンは、どこでも、ちょうどマロニエの花盛りで、この木陰でのビヤガーデンは大賑わいであった

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ピクルスの種類にも驚きながら・・・


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そしてチーズも

 市場をひと巡りした後は、ペーター教会、少し離れた二つのドームを持つフラウエン教会、ちょうど工事中であったが、見て回って、5時少し前にマリエン広場に戻った。大変な人出、ドイツでは一番という仕掛け時計がお目当てだ。私たちも少し疲れたね、と時計塔の真ん前のカフェで、5時を待った。5時ちょうどに鐘は鳴ったのだが、人形がなかなか動き出さない。みんなカメラを構えて見上げていた。そして動き出したときは、どこからもなく「オー」という声が上がった。まだ、陽は高いが、Uバーンでホテルに帰った。市場で、買ったイチゴは新鮮でおいしく、二人でかなりを平らげた。

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2018年5月20日 (日)

ミュンヘンとワルシャワ、気まま旅(3)

Img407_3「見取り図」再掲

ゲオルク・エルザ―の独房に遭う

 展示室③を出ると、1997年に設置されたという、ダッハウの犠牲者慰霊碑④が目に入る。高圧電流の通る有刺鉄線を越えようとして、命果てた人々を表現したという。

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 収容者の点呼がなされた広場⑤の先のポプラの並木道路⑨の左右には合わせて30棟近い収容棟が並んでいたが、今は、左右一棟づつ再建され、当時の様子を再現している。

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この広場が、点呼の場所であった

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三段ベッド、トイレ、洗面所、ロッカーなどが並ぶ中を若い見学者が続く。所々で案内人の説明を聞いているグループに出会う


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1939年11月、ミュンヘンのビアホールBurgerbraukellerでのヒトラーの演説をねらって、たった一人でヒトラーの暗殺を計画、未遂に終わり、逮捕された家具職人ゲオルグ・エルザ―の独房である。「13分間の誤算」という映画にもなって、このブログでも紹介したことがあるエルザ―は、当局からは単独犯とは信じられず、きびしい追及が続けられていた。ベルリン郊外のザクセンハウゼン強制収容所を経て、ここダッハウに収容され、いわば解放直前の1945年4月9日に銃殺されている

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並木道路を奥に進み、再建バラックを振り返る

「想像してみよ、その死を」と問いかけられて

 半日のダッハウ強制収容所の見学ツアーは、火葬場⑪の際に立つ碑の警告を胸に終わることになる。Kさんとは、マリエン広場まで戻り、別れた。時間は予定よりもはるかに越えてしまったのだが、明日も、午後の半日、市内を案内していただくことになった。

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死者が出ると、火葬場があるエリアへと、この水路⑧を渡って、バラック”X”へ。収容所当初はミュンヘン市内の火葬場に運ばれたが、死者が続出すると、このエリアに火葬場を設置した 

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 「火葬場 考えて見よ、ここで、どんなふうに死んでいったのか」と

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シャワー室⑩を模したガス室 、この収容所では使用されなかったと言われるが

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ガス室前で、説明を聴く若い見学者たち 

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ユダヤ人は、土葬が常で、火葬は禁忌であったという

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 かつては、聖職者の収容棟や医学実験棟などがあった跡地。実験棟とは言うが、人体実験(人体が気圧の高低、気温の高低にどこまで耐えうるか)などが、実施されていたことが判明している


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 車体には、ダッハウ収容所のシンボルでもある慰霊碑が描かれているが、ほかにも城も教会もある街でもあります、とのメッセージか。半日の収容所見学の旅は終わる

 

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ミュンヘンとワルシャワ、気まま旅(2)

58日、ダッハウ収容所へ、大勢の若い見学者たちに圧倒される
 

9時に中央駅構内のスタバでガイドのKさんと待ち合わせ、一日乗車券を手渡された。列車Sバーン2Erding行きと反対方向に乗ればよく、ダッハウ駅の先で二手に分かれるらしい。 

Kさんは、ミュンヘン在住48年という主婦で、若いとき、日本での高校教師を経て、海外青年協力隊で、しばらくインドにいらしたという国際的な方だ。娘さん3人、お孫さん4人、現在は夫婦二人暮らしとのこと。ミュンヘンの観光ガイドとダッハウ収容所ガイドという二つの資格を持つベテランで、後者の資格を持つ日本人はしばらくの間、一人だったが、最近50代の方が加わり、二人になったそうだ。座席にカードとティッシュを配っている女性がやって来た。「あれは物乞いなんですよ、触らずに放っておいてください」ということだった。知らない間に、そのティッシュは回収されていた。そんな話を伺っている間に、ダッハウに到着、収容所行きバスの乗り場は、若い人たちでごった返していた。学校単位なのか、グループなのか、みんなリゾート地のようなラフな服装で、行き先が収容所とはとても思えない賑やかさである。バスは満員で、次を待つ。学校では強制収容所学習が義務付けられていて、バスで直接見学に来ることも多いらしい。

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 ダッハウ強制収容所も、かつて見学したポーランドのアウシュビッツやベルリン郊外のザクセンハウゼン強制収容所の外観や概要は似ているようにも思ったのだが、Kさんの話を聞いたり、後で資料を調べてみたりして、その成り立ちや性格が少しづつ異なるのがわかった。 

<私のこれまでの強制収容所見学記録は、以下のブログを参照いただければと思います>

2010531日「ポーランドとウイーンの旅(2)古都クラクフとアウシュビッツ」

   http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/05/post-f56e.html

20141117日「ドイツ産都市の現代史に触れて フランクフルト・ライプッチヒ・ベルリン20141020日~28日」

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/11/20141020289-91f.html

 

  1933年、ヒトラーは首相になって開設したダッハウ強制収容所は政治犯のための強制収容所であり、他の強制収容所の先駆けとなりモデルにもなり、親衛隊SSの養成所にもなった。ミュンヘン近辺の140カ所の支所たる収容所のセンターでもあった。警察組織と親衛隊組織を統合した権力のトップにたったヒムラーが統括し、アイケが所長となっている。ここは、ドイツのユダヤ人のみならず、ポーランド、ソ連などの人々も収容した。ユダヤ人だけで死者32000人以上を数え、1945年4月29日のアメリカ軍による解放まで、のべ約20万人の人々が収容され、ここからアウシュビッツなどの絶滅強制収容所に送られた人々も多い。また特徴としては、聖職者も多く専用棟があり、医学実験と称して、人体実験(人体は気圧の高低、気温の高低のどこまで耐えうるかなど)が数多く実施されたことでも知られている。のちに述べるように、バラッ”X”と称される建物には、シャワー室を模したガス室が残っており、その近くには4基の焼却炉を持つ火葬場がある。ただ、このガス室は、使用された形跡がないともいわれている。 

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KZはKonzentrationslagernor強制収容所の略で、その記念地ダッハウとある

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ARBEIT MACHT FREIの文字が読める

入り口②には、例の「働けば自由になる」(”ARBEIT MACHT FREI”)の文字がある門扉をくぐり、まず映画を見ましょうと、かつての管理棟、「見取り図」③の中央の映写室に入るが、第1回の英語バージョンは終り、オランダ語になっていた。Kさんが、後ろの座席から、画面の説明をしてくれるが、目を背けたくなるような映像が続く。上映が終わると、幾組かの中高生のグループが立ち上がり、オランダからの見学者なのかしらとも思う。この映画は、各国語の解説付きで、20分ほどの上映らしい。ドイツ語と英語は一日に5回、フランス語とオランダ語が各1回となっていて、日本語はない。

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英語版のリーフレットの一部

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公式のガイドブックの英語版の表紙

 公開されている強制収容所跡は、以下の1945年現在の平面図の中の右下の長方形の部分と火葬場のあった部分であり、その拡大図が次の「見取り図」である。この敷地は、収容所の前は火薬工場があったところで、現在公開されていないエリアは、警察機動隊が使用しているということだ。公開エリアに関してもバイエルン州には、当初別の再開発計画があったそうだが、多くの関係者の要望で、今のような形で残されることになった。ここが、日本の、多くの日本人の歴史認識と異なるところだろう。

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"MUNICH 1933-1945"の末尾の4頁がダッハウ強制収容所の説明と写真が収められている

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「見取り図」、前掲リーフレットから

 細長いコの字型の建物③の屋根には、かつては写真のように、スローガンのようなものが書かれていた。いまは、十数室の展示棟になっていて、1933年から時代順にこの収容所の歴史をたどることができている。様々な工夫がされている展示だが、丹念に見ていたら、半日以上はかかりそうだ。

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これは1938年11月の収容者点呼の様子を描いたもので、残された貴重な資料の一つ。隊列の最後尾には遺体が並べられている。D.L.Bloshブロッホが、のち上海に逃れた1940年に描かれた

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罰則のムチの刑がなされた台という。SSによる収容者への制裁は、食事抜き、70㎝四方の直立不動、強制労働などと並ぶムチ刑で、30回近く続いたという

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こうした写真も数多く展示されているので、よほどの覚悟も必要である

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1945年ナチスドイツの敗退直前、4月26日から始まった、ダッハウからテーゲル湖への収容者7000人の移動は、「死の行進」と呼ばれ、犠牲者は多数に及んだ。今ではその沿道に、慰霊の彫像が数多く設置されているという

 

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2018年5月19日 (土)

ミュンヘンとワルシャワ、気まま旅(1)

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今年のモクレンとツツジは開花が早かった

4年ぶりのドイツ

 

訪ねたい町は数ある中で、迷いに迷ってミュンヘンとワルシャワ再訪という希望が二人で一致した。私には、ミュンヘンは初めてである。数か月前から、57日出発、15日帰国のホテルと航空機の予約を代理店にお願いしていたが、夫が準備のための情報収集を始めたのは2週間ほど前だったか。私の方は、あちこちの体の不調が続いていて、病院通いをしていた。もしかしたら最後の海外旅行になるかもしれない、との思いだった。しかし、今回の旅程の数週間後にパスポートが切れるので、念のため更新に出かけた。迷ったが10年の申請をしてきたと告げたところ、体調が悪いと言いながら、やることが違うではないかと笑われた。私は病院の待合室で、ガイドブックを読む程度の準備しかできなかった。

 

今回は、少しゆったりした気持ちで街歩きをしたいとの思いから、ミュンヘンで一日半、ワルシャワでは一日、現地でのガイドさんをお願いすることにしていた。

 

天気予報によれば、ミュンヘンは、千葉県よりやや低めの気温ながら、天気はまずまず、後半が崩れるかなというところだった。傘は持って行った方が安心か。航空機は、ANAとルフトハンザの共同運航便羽田1235発ミュンヘン行きであった。ミュンヘンは中国語で「慕尼黒」と書くらしい?とも気づいた。

 

57日、ミュンヘン、ホテルのアジサイ

 

20分遅れの離陸、11時間弱の飛行、かつてはおいしいと思った機内食(朝食・夕食・軽食)だったが、この頃はあまり食欲をそそらない。映画は、公開当時見てみたいと思っていた「めぐり合う時間たち」を選んだ。原題は「Hours」とそっけない。数年前の作品と思っていたが、なんと2002年のアメリカ作品だった。バージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』(1925年)をめぐって、生きる時代を異にする3人の女性の物語である。1923年からロンドン郊外に転居して、自殺に至るまでの晩年のウルフ自身(ニコール・キッドマン)、1950年代ロサンンゼルスの一見幸福そうな主婦(ジュリアン・ムーア)、現代のニューヨークに生きる作家(メリル・ストリープ)の生と死をめぐるストーリーが同時進行しているらしい。やや複雑な構成だが、見ているうちにひきこまれていくような作品だったが、旅の道中には、重すぎたテーマだったかもしれない。

 

ミュンヘン空港ターミイナルⅡ着が夕方の540分だったが、夏のような日差しがまぶしい。預けた荷物を受け取るのに、長いエスカレーター、動く歩道、構内の電車に乗って移動し、市内へのシャトルバスは、610分発(11€)、中央駅前下車、目の前のホテル、エデン・ヴォルフには730分にチェックイン、予想よりかなり時間がかかったことになる。半袖で十分な気温、日没は、8時半過ぎという。

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バスは、空港の幾つものターミナルをぐるぐる回っていた。市内に入っても、渋滞気味だった。前席には、留学している学生の息子さんが両親を迎えたかのような日本人の家族が乗っていた。

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空港シャトルバスのテーブル席、新聞や雑誌も提供されているらしい

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 ホテルのロビーにはあちこちにアジサイが

 部屋は広めで、木製の壁や家具はシンプルで落ち着いた雰囲気に和む。入浴後、夕食は、ホテル内のレストランで済ます。野菜サラダ、ホワイトアスパラのスープ、シュニッツェル、トマト・ナスのソースのパスタとすべて一皿づつ、シェアすることに。それでもパスタは残してしまった。夫は細長いグラスの白ビール。私はしばしアルコールを控えることに。静かな雰囲気のレストランでも、大きなジョッキを前に仕事帰りの男性たちがあちこちのテーブルで話し込んでいた。ホテルのロビーやレストランには、しっかり花をつけたアジサイがあちこちに置かれていた。出がけの我が家のアジサイは、まだまだだったが、テッセンは散ってしまっていた。 

食後、明日、ガイドKさんと待ち合わせ場所のミュンヘン中央駅構内のスタバを確認、売店は10時で店じまい、あわてて水を買って置く。駅構内警備の警官は2人で巡回、2階の通路から見渡している警官もいる。かなり物騒なのかな、とも思う。外気は、だいぶ涼しくなっていた。戻った部屋では、湯沸かしポットの備えがなかったので、持参の湯沸かしで日本茶を入れ、一服、ほっとするまもなく、どっと疲れも出てきた。

 

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2018年1月 1日 (月)

新春

新年のご挨拶申し上げます。 

当ブログをお訪ねくださりありがとうございます。 

おかげさまで、なんとかほそぼそ書き続けています。 

続けて調べ、続きを書かねばと思うテーマを幾つかかかえ、 

もどかしさを感じながら過ごしています。 

昨年は、国の内外で受け止めがたいできごとが続きました。2月には、沖縄に出かけました。今回は、屋我地島の沖縄愛楽園と渡嘉敷島の戦跡を訪ねることができました。多くを知らずに過ごしていたことを知る旅でもありました。 

来年となる天皇代替わりに向けての時代や人々の動向を見届けなければの思いです。 

今年もいろいろご教示いただければ幸いです。

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「ユダヤ人を救った動物園」を見てきました。

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 映画評論家の友人から、「ポーランド映画祭2017」と「ユダヤ人を救った動物園」の案内をもらっていた。ポーランド映画祭は、残念ながら出かけられなかったが、暮れに「ユダヤ人を救った動物園」を見に行った。

 

 ナチス・ドイツへの抵抗映画というか、ナチスと戦った様々な人々のさまざまな抵抗を本や展示で知ることはつらいけれども、やはり必要なことと思っている。さらに映画やドキュメント映像となると、より衝撃的な場面に遭遇することが多い。

  そんな中で、今回の映画は、チェコ・イギリス・アメリカの合作ともいうべき映画で、主役の動物園長夫人アントニーナをアメリカのジェシカ・チャスティンが演じ、夫のヤンはアイルランドの俳優が、夫妻にからむドイツ・ナチス軍の獣医へックをスペインの俳優が演ずる。最近の映画事情はさっぱり分からないので、白紙で見られるのがかえっていいのかもしれない。

 1939年、ポーランド・ワルシャワ。ヨーロッパ最大の規模を誇るワルシャワ動物園を営んでいたヤンとアントニーナ夫妻の実話をもとにした物語である。映画は、毎朝、園内を自転車で巡り動物たちに声をかけるアントニーナの日課から始まる。我が家のベッドで我が子同様に育てられることもある動物たち、その命の危機とも向き合いながら、アントニーナの献身に支えられる動物園でもあった。ところが、その年の9月には、ドイツがポーランドに侵攻し、親友のユダヤ人夫妻も捕らえられ、ユダヤ人たちが次々とゲットーに収容されてゆく。動物園の動物たちも殺処分されてゆくことになる。そんな中、夫ヤンから「この動物園をユダヤ人たちの隠れ家にする」との提案がなされ、夫妻の奮闘が始まる。まず、園内一部を養豚場とし、その餌として、ゲットーの生ごみをもらい受けるというものだ。きびしい監視のもとに、生ごみを車で運び出す折に、何とそのゴミの下にユダヤ人たちを一人、二人と隠して脱出させるのだ。そして、動物園内の地下室の檻の中に彼らをかくまい、食料を分け合う。ゲットーと動物園のドイツ軍による監視は、ますます強化される中、夫妻は共にさまざまな危険を冒しながら、ユダヤ人の救出に命を賭ける。かねてより、アントニーナに好意を持っていたドイツ軍の獣医へック、自分の地位を利用して思いを遂げようとする彼と夫妻の関係も重くのしかかる。

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国内軍兵士による動物の殺処分が始まる

ワルシャワへの空襲も始まり、ゲットーも焼き尽くされる。19438月、ポーランド国内軍と市民によるワルシャワ蜂起にヤンも加わり、行方も分からなくなる。ワルシャワ市民の激しい抵抗も、近郊まで侵攻してきたソ連軍の支援もないまま、ドイツ軍の軍事力により壊滅的な打撃を受け、市民20万人以上の犠牲者を出すにいたる。

 

生れたばかりの長女を人に託し、幼い長男とワルシャワを脱出する。そして映画は、19445月、ドイツが連合軍に無条件降伏後の、ワルシャワと飛び、再開を目指す動物園で、園長夫妻家族4人の暮らしが始まるところで終わる。たしかにホっとするラストではあった。しかも、かくまったユダヤ人は300人にも及び、母娘の二人が移動先でユダヤ人とわかって殺害された以外は無事であったとのテロップが流れた。 

 

「敵役」であるドイツ軍の獣医へックも、実在の人物で、ベルリン動物園の園長を務めたことのあるとのこと、動物に希少種復元に熱心な研究者であったらしい。映画のラスト近くで、夫妻の監視にたびたびやってくるヘック、長男の少年が「ヒットラーを倒せ」と叫んだとして、捕らえられ、銃を構えるヘックにアントニーナが命乞いをし、思わぬ展開で少年が解放される場面、また、ユダヤ人たちがかくまわれていた動物園の地下室に立ち入ったヘックが、壁一面に描かれた彼らの絵やメッセージを前に立ち尽くす場面に、わずかな良心を垣間見るのだったが、かつて見た「戦場のピアニスト」にも通じるものがあった。どうもこのあたりが、アメリカの映画色を垣間見る思いがしたのだが。

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 地下室で息を凝らすユダヤ人たちとアントニーナと息子、パンフレットより

 20105月に、ワルシャワとクラクフを訪ねている。この動物園のことは知らず、キューリー夫妻の記念館を見学、休館で見学しそこなった歴史博物館の辺りを歩いている。近くを流れるヴィスワ川の対岸一帯が動物園だったのだ。1928年開設、40ヘクタールもあるという。もしチャンスがあれば寄ってみたい。 

 

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2017年7月27日 (木)

アンジェイ・ワイダの遺作『残像』を見て~ワイダと画家からのメッセージ

 友人の映画評論家の菅沼正子さんから、早くよりお勧めのあった映画『残像』を見に、岩波ホールまで出かけた。昨年、90歳で亡くなったワイダ(19262016)の遺作である。ワイダの作品『カティンの森』と『大理石の男』を見たのが2009年だから、久しぶりのことである。このブログにも、つぎのようなレポートを書いている。

◆『カティンの森』『大理石の男』、ワイダの新旧二作品を見る

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http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/12/post-9c03.html

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プログラムの表紙から

640_2 画家のアトリエは正面のアパートの階上の一室、ある日突然スターリンの垂れ幕が下ろされ、窓からの光は断たれた。 画家は、自らの松葉づえで、それを引き裂くのだった。写真はいづれもプログラムから
         


 今回の『残像』は、ポーランドの実在の抽象画家、ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ(18931952)が、社会主義政権下の最も弾圧の厳しかった中で、自らの芸術的信条を曲げずに貫いた晩年の4年間を描いたもの。私は、この画家の名前は初めて聞くが、ポーランドを代表する芸術家の一人で、両世界大戦間期に国際的な前衛美術運動に大きな役割を果たした画家であり、理論家であったという。1931年には、妻の彫刻家コブロとともに、ポーランド中部、ワルシャワとクラクフの中間に位置する都市ウッチに美術館も設立している。映画は、そのウッチを舞台に、造形大学の教授として、学生たちからも絶大な信頼を得ていた教育者でもあった彼が、社会主義リアリズムこそが、政治と一体化するという文化政策に抵抗したとして、さまざまな迫害を受け、職も奪われ、絵具も食料も入手できない状況に追い込まれ、病に倒れるまでがリアルに描かれる。プライベートでは、宗教の違いなどから別れた妻と娘ニカはともに暮らしているが、病弱の母親の介護と第一次大戦の戦傷で手足が不自由な一人暮らしの父親を気に掛けて、両親のもとを行き来する一人娘との葛藤をも丁寧にたどられる。

官憲による弾圧・迫害は、徐々に過酷なものとなる。大学での講義が、文化大臣の演説で中断され、その会場で自説を述べれば、以降一方的に休講とされ、馘首される。美術館の展示室から彼の作品は倉庫入りとなり、彼の学生たちの作品展の作品はすべて打ち砕かれ、造形芸術家協会からは除名されてしまう。悩む学長、美術館長も体制にのまれてゆく。それでも、古くからの友人の詩人ユリアン、慕う学生たちの陰ながらの支援で得た生活のための仕事も、密告のため失ってしまう。また、画家を慕い、アトリエでの口述筆記に通う、教え子の女性すらも拘束される事態となるなか、映画には一度も姿を見せない元妻の様子は、娘を通してのみ語られるが、画家には知らされないまま病死する。それしかない赤いコートのまま、母の棺に従うのは、ニカの一人だけという墓地の場面、行き倒れのような形で救急車で運ばれた病院から抜け出した画家が、そのコブロの墓に青い花を捧げる場面、やがて、画家が仕事先のマネキンが並ぶショーウインドウのなかで壮絶な死を遂げるが、通行人の一人にも気づかれないという場面の寂寞と荒涼は、胸に迫るものがあった。

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自宅のアパートのアトリエに集う学生たち
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職を失った画家の仕事先の似顔書きの工房を訪ねる娘のニカ

監督のワレサは、クラクフの美術大学を中退して、ウッチの映画大学を卒業したという。生前の画家との出会いはないが、この映画に寄せたメッセージの末尾でつぎのように述べている。

「私は、人々の生活のあらゆる面を支配しようと目論む全体主義国家と、一人の権威ある人間との闘いを描きたかったのです。一人の人間がどのように国家機構に抵抗するのか。表現の自由を得るために、どれだけの対価を払わなければならないのか。全体主義国家で個人はどのような選択を迫られるのか。これは過去の問題と思われていましたが、いまもゆっくりと私たちを苦しめは始めています。どのような答えをだすべきか、私たちはすでに知っている。そのことを忘れてはならないのです」

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自らの病をおして元妻の墓を訪ねる

 

 また、映画で語られる画家のセリフのなから、断片的に飛び込んでくるいくつかの言葉があった。同じく抽象絵画を目指したカンディンスキー(18661944)やモンドリアン(18721944)の名前も飛び出し、「彼らは、自分の模倣を続けている」と学生たちに語り、公安当局に呼ばれて、大事な分かれ道、体制に従うのか従わないのか、どちらの側につくのか、と選択を迫られたとき、「私の側だ」と立ち去る場面が印象的だった。

モンドリアンといえば、昔のことになるが、私の第一歌集『冬の手紙』(1971年)の「あとがき」の冒頭で、つぎのように書いているのを思い出した。合評会で、この「あとがき」に言及される方はいなかったが、立ち話で、玉城徹さんが「モンドリアンとはねェ・・・」と苦笑されていたのも思い出の一つである。

「モンドリアンの抽象に出遭ったとき、あの冷徹さに戸惑いながら惹かれていったのはなぜだろうかと考えています。そこには猥雑なものをいっさい拒否しようとする、ひとりの人間の生き方の美と思想があると思いました。この画家の幾何学的な構成にいたる過程は、<樹木>連作が雄弁に語っています。さらに光と影から解放された垂直と水平の世界の展開を見せられたときの感動を忘れることができないでいます。主観的な表現を極度に排し、求めてやまなかったものはなんであったろうか・・・・」

恥ずかしいけれど、歌集の最終章には、こんな歌も残していた。

・描かれたる<樹木>連作たどるとき闇に熱き思いを放つ

・老画家のひとりの冬の死のまぎわコンポジションの原色冷ゆる

 ところで、映画では、ストゥシェミンスキの絵画作品を正面から映し出すことはしていなかった。美術館での展示室での作品群、コラージュ帖やアトリエで制作中の絵としては、何度か映される程度だった。ネット上で検索しても、すぐには出てこない。どんな作品を残していたのか。一度ゆっくり鑑賞したいと思っている。

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2017年3月30日 (木)

二つのドキュメンタリーを見た、アウシュビッツと沖縄と(1)

「ただ涙を流すのではなく“分断する世界”とアウシュビッツ」(NHK-BS1226日)

旧聞に属するが、226日、国会や報道では、森友学園問題で大揺れであったが、夜は、NHK-BS1スペシャル「ただ涙を流すのではなく“分断する世界”とアウシュビッツ」を見ていた。番組予告では、「100万人を超えるユダヤ人が虐殺されたアウシュビッツ強制収容所。その悲劇を伝え続けているのが、世界各国出身のガイドたちだ。今、ガイドたちは、大きな危機感を抱いている。移民や難民をめぐり広がる排斥の声。世界が分断を深める中で、自分たちは何を伝えるべきなのか。ただひとりの日本人ガイド・中谷剛さんも語るべき言葉に悩んでいる。揺れるアウシュビッツのひと冬を追った。」とあった。

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 NHK-BS1、2017年226日午後8時~

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 NHK番組紹介ホームページより

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構内の収容所バラックのすぐ近くに、収容所長の住宅があり、家族とともに住んでいた。そこには平安な日常生活が営まれていたのだろう。私たちが見学した折は気づかなかった。NHK番組紹介ホームページより

2010年5月、私たち夫婦は、ポーランドのクラクフに2泊した折、アウシュビッツビルケナウ強制収容所見学のバスツアーに参加した。雨の朝、ホテルを出て、あちこちで道路工事の真っ只中の街に迷いながら、バスの発つマテイコ広場までたどり着くのに苦労した。ともかく、「英語コース」のバスに乗り、現地でも英語のガイドによる案内で、心細い思いをした。ただ一人の日本人ガイド、中谷剛さんとの縁はなかったけれども、この番組は逃してはならないと思った。

中谷さんは、1966年生まれ、1991年からポーランドに住み、猛烈な勉強をして、1997年アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所博物館の公式ガイドの資格をとり、ポーランドの女性と結婚されて、今もガイドの仕事を続けている。

日本から来た若い見学者のグループを伴い収容所構内や幾つもの展示室を案内するとき、ドイツナチス時代に、なぜこうした民族差別による大虐殺がなされたのかを、言葉を選びながら説明し、見学者が自ら考えるように、という思いを伝える。中谷さんは、偉そうには解説はできないと、丁寧で慎重な姿勢を崩さず、見学者に接しているようだった。同時に、ポーランド人、ドイツ人のガイドたちの悩みも語られてゆく。決して声高ではないけれど、力強く訴えるものがあった。ただ、ドイツ国民が、なぜナチスに雪崩れ打って、ここまでの虐殺がなされ得たのか、と、そこでなされた残虐の限りの実態を、そのファクトを検証する場でもある、アウシュビッツで起きたことをもっとストレートに語ってもよかったかと思った。

 私のわずかな経験からも、目の前に示される歴史上のファクトには、筆舌を超えるものがあり、それを次代に継承すること自体が、過去への反省と責任を伴って初めて成り立つことだと思えたからである。加害国のドイツ国内においてもかつての強制収容所跡を残し、ベルリンの中心部、国会議事堂直近の場所に、ホロコーストの碑を建設、様々な歴史博物館において国家としての反省の意思を示したドイツを思う。それに比べて、「自虐史観」と称して歴史教科書において、日本の侵略戦争の事実を少しでも薄めたい政府、民間人の集団自決に軍の関与がなかったような、曖昧な展示しかできない国立博物館、原発事故の原因究明がなされないまま、被災者切り捨て、原発再稼働を進める政府、教育勅語礼賛の安倍首相夫妻・・・を思うと、その格差に愕然とする。話はどこまでも拡散してしまうのだが、以下の、かつての旅行の記事も参照していただければ幸いである。

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展示室より

<当ブログ参考記事>

◇ポーランド、ウィーンの旅(2)古都クラクフとアウシュビッツ

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/05/post-f56e.html

2010531 ()

◇ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20289)(ザクセンハウゼン強制収容所ほか)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/11/20141020289-91f.html

20141117 ()

 

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2010年8月31日 (火)

『すてきなあなたへ』60号をマイリストに登載しました

残暑お見舞い申し上げます。

ひと並みに熱中症らしきものにもかかりましたが、1日中ひたすら眠って、風邪薬をのみましたら、平熱に戻り、ホッとしました。お出かけの人も多かったと思いますが、当方では犬もかなりのまいりようで、ともども、冷房の部屋を出たり入ったり、じっとしていました。

まだ残暑もきびしいとのこと、くれぐれもお大事になさってください。
ブログ更新は止まってしまいましたが、なんとか乗り切れそうです。

「すてきなあなたへ60号」 ⇒ 左手のマイリスト「すてきなあなたへ」をクリックしてください

(目次)
アウシュビッツの雨にうたれて
福祉コーナー: デイサービス、ご近所にオープン 
 ①ぬくもり日和(佐倉市宮ノ台3丁目)
 ②元気庵ユーカリが丘店(ユーカリが丘1丁目)
 コラム:デイサービスいろいろ・・・
菅沼正子の映画招待席:セラフィーヌの庭―天才と狂気は紙一重というが・・・

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