2022年11月28日 (月)

ポーランド映画祭~見逃した「EO」と「赤い闇」

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 11月22日から始まった、11回目を迎えたというポーランド映画祭、パンフの解説を頼りに、26日「ショパン」「EO(イオ)」、27日「赤い闇と「パンと塩」に出かける予定にしていた。26日の朝は雨、寝不足もあって、11時には間に合いそうにもない。13時30分からのポーランドの巨匠とも言えそうなイエジー・スコリモフスキ監督の新作「EO」(2022年)だけでもと出かけたのだが、なんとチケットは午前中に売り切れていた。この監督は、若干24歳でポランスキーの「水の中のナイフ」(1962年)のシナリオを手掛けている。目当ての「EO」は、動物愛護グループにサーカス団から連れ去られたロバのイオが主人公というのである。イオの目を通してみた現代のポーランドの人間模様・・・。残念ではあったが、それではと、気を取り直して、2時間待ちながら15時30分開演の同じ監督の「イレブン・ミニッツ」(2016年)を見ることにした。隣の会場での星野道夫の写真展もにぎわっていたが、恵比寿のガーデンプレイスを巡ってみることにした。週末だけあって、家族連れやカップルの往来をコヒー店の窓から眺めたり、行列ができているパン屋さんで食パンを買ってみたり、真っ白いテントが並んでいるので何かと思えば、「婚活フェア」だったり・・・。

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 そして「イレブン・ミニッツ」は、夕方5時から11分間の出来事を同時多発、同時進行の形でまとめているという解説だったが、画面のテンポについてゆけず、私には、もう容赦なく目まぐるしいばかりで、最初は理解不能の世界だった。進むにしたがって分かりかけてきたものの、舞台がワルシャワの街中なのに、観光客が巡るような場所はいっさい出てこない。さもありなんという、さまざまな夫婦やカップル、家族が交差しながらの分刻みでの展開である。その核になるのが、ホテルの一室での男女―映画監督と女優という設定で、抜擢を条件に関係を迫るという、いわば映画界の内輪話というのが、私には少し安易すぎると思った。もっとも、日本の映画界でも、パワハラ、セクハラが表ざたになって問題視されるようになっているのだから、ポーランドでも、よくある話なのだろうか。ホテルの部屋を突き止めた女優の夫、出所したばかりの屋台のホットドック屋、息子と分かるバイク便の配達夫、元カレから犬を渡され、ホットドックを買いに来る若い女、強盗に入った店のオーナーが首をつっているのに出くわして、慌てて逃げる若い男・・・、まだまだいろんな人物が登場する。そして最後に、登場人物たちの想像を絶する衝撃的な死の連鎖で幕を閉じるのだが、エンドロールの前には、画面いっぱいに小さい画面が並び、そのコマは際限なく無数となったところで、画面は真っ暗になるという仕掛けである。

 制作の意図はわからないではないが、私の体調もあってか、“疲労困憊”の一語に尽きるのだった。恵比寿駅への長い、長い動く歩道、乗換駅を乗り過ごさないように必死であった。電車のなかでは、ワルシャワの高層ビルの間を巨大な航空機が低空飛行をする、9・11を想起するような画面が何度か現れたのは、なんの暗喩なのか・・・を考えたりしていたら眠らずに済んだ。

 そして、見逃した「赤い闇」は、一足先の11月24日に見ていた連れ合いから、話を聞いてはいた。1933年、世界恐慌の中で、なぜソ連だけが繁栄しているのかを謎に思ったイギリスの若いジャーナリストが、モスクワへ、そしてウクライナへと向かって目にしたのは、スターリンによる人工的大量餓死の悲惨な姿であったのである。まさに、いまのウクライナとプーチンを想起するではないか。くすしくも、11月26日は、ホロドモールの追悼の日であった。

 そして、“体力の限界”を感じて、翌日の二本は、あきらめたのである。

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2018年11月19日 (月)

はじめて、ポーランド映画祭へ

 旧友、映画評論家の菅沼正子さんから「ポーランド映画祭」の案内をいただいていた。昨年もいただきながら、行くことができなかった。彼女からは、これまでも、封切りの「カティンの森」「残像」「ユダヤ人を救った動物園」などを勧められては、見に出かけ、ポーランドへ二度ほど出かけるきっかけの一つにもなっていた。今年のポーランド映画祭(1110日~23日、東京写真美術館ホール)にも見たい映画がたくさん並んでいる。

 なにしろ2週間、14本のスケジュールで、短編も含め、24本の映画が上映されるというイベントである。2度上映される作品もある。夫の都合もあって、1115日の「大理石の男」「灰とダイヤモンド」「リベリオン ワルシャワ大攻防戦」の三本を見るという欲張った計画で、家を早く出た。私は、「大理石の男」(1976年)はテレビで、「灰とダイヤモンド」(1958年)は、公開当時というよりは、あとになって、名画座のようなところで見た記憶がある。どれも、印象深い感動作であったが、記憶はすでに薄れているので、もう一度見てもいいな、のつもりだった。

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はじめての東京都写真美術館でもあった。

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映画祭プログラムから

 「大理石の男」のあらすじとなると、なかなかまとめにくい。上記の過去記事も参照していただければと思う。1970年代、女子学生が映画の卒業制作として選んだのが、かつてレンガ工として労働者の英雄にまで仕立て上げられ、大理石像にまでなった青年、いまでは、美術館の地下倉庫に横倒しになっている、その大理石像の男の人生をたどることだった。スターリン体制下のポーランドで、レンガ工が、その熟練ぶりを各地の建設現場で披露し、高く評価されてゆくなかで、高熱のレンガを渡され、重傷を負った事件をきっかけに、組織や職場の仲間たち、家族からも疎まれ、失墜してゆくさまを、学生は、関係者を訪ね歩き、口の重い人々から聞き出し、テレビ局に残る過去のニュース映像などを交え、次第に真実が明らかにしてゆく。その過程で、党組織やメディアのなかで、優柔不断に、立ちまわる人物にも幾度か遭遇するし、あからさまな取材の妨害も受ける。

 それにしても、2時間40分、取材を進める学生とその協力者たち、取材を受けるさまざまな人物の現在と過去、回想場面や実写映像による過去が複雑に入り組んでの展開に戸惑うことも多い。“巨匠”、アンジェイ・ワイダ監督に、あえて言うとすれば、あまり欲張らないで、サイドストーリーをもう少し整理して欲しかったな、と思ったものだ。伝えたいことがたくさんあるのはわかるのだけれど・・・。ワイダの、スターリン体制への鋭い批判の眼は揺るがず、制作から40年近くたっている現代にあっても、日本のみならず、世界各国にも共通する問題提起をしている作品の数々には脱帽する。

 「大理石の男」については、当ブログの以下の記事参照

『カティンの森』『大理石の男』、ワイダの新旧二作品を見る20091226 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/12/post-9c03.html

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真実の解明に、果敢に挑むアグニェシュカ。

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労働者の英雄に仕立て上げられる煉瓦工のマテウシュ・ビルクート。

 

私たちは、2010年と今年5月にポーランドに出かけている。「大理石の男」の映画で見る、1950年代のクラクフ郊外のノヴァフタの製鉄所建設や住宅建設の規模のすさまじさと労働環境の劣悪さ、1970年代のクラクフやワルシャワの復興状況からは、想像できないほど、どちらの都市も、緑豊かな落ち着いた街並みになっているとも思えたが、今年の旅行中には、ワルシャワでは大規模な反政府デモにも出会い、現在のポーランドが必ずしも安定した政治状況ではなかったのを知ることになったのだった。

二本目の「灰とダイヤモンド」は、アンジェイ・ワイダの初期の作品だ。ある町の中央から派遣されている県委員会の書記、いわば市長を狙うテロリストの青年が主人公である。待ち伏せを市長が乗る車を狙撃したところ、別人で、二人の犠牲者を出すところから映画は始まる。その日は、ドイツ軍が降伏した194558日、町は、花火を上げて祝い、人々は解放を喜び、市長が主催する盛大なパーティーも開かれようとしている。青年は、さらに市長を狙うべく、準備を整えるが、パーティー会場のホテルのバーで働く女性に恋し、語らうようにもなり、市長暗殺から手を引きたいとも考えるようになるがそれもかなわないまま、市長暗殺を最後に、女性との生活をも夢見るが、暗殺に失敗、翌朝には軍に射殺されるという、たった一日の出来事を描いた映画である。広大なごみ集積所のゴミにみまみれて息絶えるというラストシーンの壮絶さが、当時の体制側からは、政府への抵抗の無意味さを強調したとして評価され、検閲を逃れたという。

 この映画でも、体制への屈折した心情や不満を持つ市長秘書や老新聞記者、反体制運動で捕まる市長の息子などが登場するのだが、やはり、私には煩雑に思えたのは、理解不足もあるのだろう。

 つねにサングラスをかけ、冷徹なテロリストとナイーブな青年をも演じた俳優は、ジェームス・ディーンをも想起させるが、ポーランドでは人気のさなかの39歳の若さで、鉄道事故で亡くなるとい悲劇の主人公でもあったらしい。

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有名なラストシーンだが、当時のポーランドの観客は、どう見ていたのか。

 

 三本目のリベリオンは、比較的最近の作品であるし、三人の若者を通して描かれるワルシャワ蜂起、そして現代にその意味を問うという映画、見たかったのだが、どうも、私の体調も眼も限界だった。もともと、二本を見て、別の用事に向かうという夫と一緒に会場を出たのだった。

 

 恵比寿ガーデンガーデンプレスの遊歩道を秋の日差しを浴びながら帰路につく。あらためて辺りを見まわせば、こんな恵比寿を見るのは初めてであった。振り返れば、ガーデンプレスのタワービルの横には、白い三日月が出ていた。地下鉄までの長い長い「動く歩道」に、疲れ切った身を任せて・・・。映画祭開催中に、もう一度出かけたいの思い頻りだった。

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振り返ればタワービル、写真では三日月が消えてしまったのだが。

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会場で配られたポーランド映画人協会出版のパンフレット。ここには、バルトシュ・ジュラヴィエツキーの執筆による、灰とダイヤモンド、約束の土地、夜と昼、大理石の男、戦場のピアニスト、リベリオン、ヴォウィンという7本の解説が収録されている。私はこのうち、「戦場のピアニスト」を含め、3本しか見ていないことになる。

 

 

 

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2018年6月 3日 (日)

ミュンヘン、ワルシャワ、気まま旅(14) まだあれこれと

 私たちの拙い旅、私の気ままなつぶやきにお付き合いいただきありがとうございます。まだまだ、書き足りないことばかりのような気がしています。

 ワルシャワでは、帰る日の午前中、ホテルの周辺、大学の周辺を、もう一度まわってみました。その一部と短い旅を振り返って、気になるスナップの一部をお伝えして終わりたいと思います。

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ザヘンダ国立美術館、入館のチャンスがなかった

Dscn1841無名戦士の墓の真向いのピウツスキ―元帥像、この人への評価が変わって、現在は多くの人から顕彰され、ベルベデーレ宮殿前にも立派な立像があった

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聖十字架教会、再訪、ショパンの心臓が収められているという。教会近くのショパンのベンチ、ゆかりの場所でゆかりの曲が、playのボタンを押すと聴ける。ワジェンキ公園のショパン像の近くにもあった

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Dscn2078ワルシャワ大学正門、正面が旧大学図書館、下は、図書館の入り口

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Dscn2101昨日の賑わいとうってかわって静かな大統領官邸

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少し早めに、ワルシャワ空港に向かったが、ルフトハンザ1349便(フランクフルト行き)の14時40分の離陸時刻が近づいてもなかなかゲイトが開かない。1時間ほどの遅れでようやく離陸、午前中の疲れが出たのか二人ともうとうと。フランクフルト発の羽田行きの搭乗時刻が過ぎている。走りに走って、出国手続きをしようとすると、ここは、フランクフルトではない!デュッセルドルフだというのだ。エッ?キツネにつままれたみたいで、何で?と思う。調べてもらうと、フランクフルトが悪天候のため、デュッセルドルフ着陸に変更されたのだという。ANAが代わりの便を手配しているから、少し待てということだった。それにしてもなんということだろう。機内で、そんなアナウンスがされていたのだろうか。たしかに、たびたびアナウンスは聞こえていたようなのだが、気にも留めていなかったし、他の乗客も特別な反応がなかったような気がした。出国の窓口近くで待機すること30分ほどがなんと長く感じただろうか。荷物はここで受け取って、ANAの窓口へと出国窓口の警官は、丁寧に案内してくれた。ピストルを持った警官に、従って歩く二人だったが、どんなふうに映ったかは別として心強かった。 夜の8時発の成田行きの便に搭乗、ようやく落ち着き、どっと疲れが出た感じであった。

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ミュンヘン、ワルシャワ、気まま旅(13)

 はや、翌日は、もうワルシャワを発たねばならない。ワルシャワの最後の一日、自由に使える日なのだが、どうしても行っておきたいところがあった。ガイドのAさんからお聞きしたワジェンキ公園のショパンコンサートである。5月中旬から9月いっぱい、毎年、日曜日に公園のショパン像の前で、ショパンピアノコンサートが開催されていて、その初日が今日だというのだ。「ぜひ、出かけてみてください、野外だし、何しろ無料ですから」という。前回は、たしかにショパン像までは来ているはずだが、時間もなく直ぐ引き返していた。今日は、少しゆっくりしたい。12時と4時からの2回の演奏というから、12時には間に合わせたい。 

公園には、116番か180番系のバスですよと、ガイドさんから念を押されていた。公園の塀に沿っては、いろいろな看板が立てられていた。少し早めに着いた公園、ショパン像の横のテントの下では、すでにピアノの調律が行われていた。演奏が始まる前に、水上宮殿に向かった。雲一つない、すでに真夏の日差しだったが、木陰の風は心地よかった。

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自転車専用道路が整備されていて、歩道をはみ出し、このコースにうっかり入ってしまったとき、自転車の人に大声で叱られてしまった

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ワジェンキ公園の柵にはさまざまな立看板、この国でも人気のスポーツなのか、サッカーチームの選手一人一人の紹介のパネルが続く

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少々ドキッとした看板だったが、数日後から公園内で開催予定の浮世展のポスターだった

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水上宮殿への道

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マロニエの花筏のよう


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野外劇場から水上宮殿を望む、真夏の日差しがきつい

演奏会場に戻ってみると、かなりの聴衆が集まり始めていた。と言っても野外なので、池をはさんでのピアノに近い芝生、ベンチが並ぶスペース、それを取り囲む木陰のベンチには、すでに着席している人も多い。夫は、最前列のベンチに、私は、ピアノからはだいぶ離れるが、リストの胸像の後ろのベンチで待つことにした。目の前の散策路には様々な人が行き来するし、すでに立ち見の人も重なるように列をなす。隣に座っていた、地元の年配の人からは、英語で話しかけられるのだが、情けないながら、聞き取れない。ここは恥をかいてもと、きのうガイドさんにこの演奏会のことを聞いてやってきた、大変な人出なのですね、ワルシャワの最初の夜は、フィルハーモニーにも出かけたこと、前回ワルシャワに来た8年前は、ショパン生誕200年だったけれども、コンサートには縁がなかった・・・などと話すと、にこやかに返事を返してくれるのだが、それ以上の質問もできない・・・。いよいよ演奏が始まった。聞き覚えのある楽曲も中にはあったのだが、野外コンサート自体の聴衆の自在な雰囲気がすばらしく思えた。ピアニストのインゴルフ・ヴンダー(Ingolf Wunder1985 )は、ウィーン国立音楽大学出身で、数々のコンクールに入賞、2010年のショパン国際ピアノコンクール2位入賞者とのことであった。

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ショパンコンサートの9月までのプログラムを知らせる看板

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ショパン像の脇のテントではピアノの調律中。その前の丸い池は、前回のときは水が抜かれていて、孔雀が見事な羽根を広げていたっけ・・・

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聴衆はどんどん増えて・・・

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私は、この立ち見の人たちの後ろの木陰のベンチで聴いた。リストの胸像の陰におさまっている少年は何をしているのかな

 つぎに向かったのは、バスを乗り継いで、111番の終点、エストニアで下車。運転手さんにユダヤ人墓地を教えてもらうが、レンガの塀が続くばかりで、どこから入るのか迷っていると、ひょっこり小さな戸が開いて、ようやく判明したのだった。ここも中は広く、私たちはほんの入り口付近をめぐっただけだった。

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このユダヤ人墓地の森は、広大なものだった

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延々と続くレンガの塀だったが、ここからひょいと人が出てきて、出入り口と知った

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コルチャック先生がうつむく子供たちを連れて向かった先は強制収容所だった

 

 つぎは、ワルシャワ・ゲットー記念広場に向かうのだが、すぐ近くのつもりが、なかなかたどり着かない。通りすがりの人に尋ねるとあと500m、あと5分と言われつつ、歩き続けた。前回来たときは、記念碑の前面は博物館の建設中であったが、その博物館が、2014年、ポーランドのユダヤ人歴史博物館としてオープンしたという。この博物館も、その展示や構造そのものが、緊迫感に溢れ、圧倒されるばかりであった。ここも時間が足りず、途中で閉館が告げられた。

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2010年には工事中だったが2014年にオープン

 

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工夫が凝らされた様々な展示

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さまざまなメッセージが壁から聞こえるようだ

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外はまだ明るいのに、閉館時間だった

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ワルシャワ・ゲットー記念碑裏からみた博物館

 外は、まだ夕方とは言えない日差しであったが、夜には、イベントでもあるのだろうか「かがり火」に点火しているところだった。もう、足は棒のようで、早くホテルに帰りたい、休みたいの思いで、ホテルに急ぐ。一休みして、ワルシャワ最後の夕食をと、お目当ての店を探すが、なかなか見つからず、どこでもいいよ、ということで、賑わう店に入ってみる。

  料理の注文も少し慣れてきた感じだったが、ビールが届いてからが長かった。隣のテーブルの中年カップルのピエロギとパスタはかなり早いね、などとちらちら眺めたりしていた。ようやく届いた料理をいただき始めたころ、お隣の二人が席を立ったと思ったら、男性の方に「ワルシャワはいかがですか、存分に楽しんでください」と、日本語で声をかけられたのだ。とっさに「日本語が上手ですね」と返せば「大阪から久しぶりに帰国したんです。また1週間ほどで大阪です。大阪には仕事で10年になります」とのことで、「こちらの方もですか」と女性に問えば、違いますとのこと。このハプニングにはいささか驚かされた。私たちの話が男性にはぜんぶ聞かれていたかもしれないのだ。なんか不都合なことは話してはいないかったかと心配にもなったが・・・。

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「カイザー」というお店のできごとだった

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2018年6月 2日 (土)

ミュンヘン、ワルシャワ、気まま旅(12)

5月12日(土)、ワルシャワは、何の日?<自由の行進>と歩む

 ポーランド料理のランチを終えて、次に向かうのはワルシャワ博物館だったが、旧市街への道はロイヤルロードとも呼ばれ,、王宮広場に続く。

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静かな週末のコペルニクス像周辺の光景に思えたが・・・

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上の2枚は、いずれも、ヴェネチア出身の画家カナレット(ベルナルド・ベロット、1721~80年、G.A.カナレットの甥で、ワルシャワではカナレットと呼ばれている由)が、ワルシャワでの宮廷画家として、都市景観を描き続けた作品と当時を再現した現在を同時に見ることがとができるように、こんな光景があちこちに見られる。現在残されている作品(26枚?)は、一時ナチス軍に渡ったが、今は王宮に戻され、壊滅状態だったワルシャワ再興の資料になったそうだ

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三輪車のタクシーらしい。車の横にtaxiの文字が見える。後から分かったのだが、よく見ると奥には<自由の行進>の立て看板があった

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静かな街に、赤い街宣車と、旗などを掲げた人々の列が現れた

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これは何のデモ?パレード?

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EUの旗や風船も、家族れや若い人も・・・

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警官もリラックスして・・・。案内のAさんの話では、れっきとした反政府運動の一環だそうで、街宣車の文字のMARSZはマーチ、「自由の行進」ということであった

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王宮広場がデモの解散会場なのか、大きな舞台が設置されていた

  現在のポーランドは、10年前、カチンの森の追悼式典参加のためロシアに向かう飛行機が墜落、大統領を含む96人の政府関係者が死亡したときの大統領の双子の弟が、大統領を務めている。保守与党の「法と正義」が最高裁判事の総入れ替えという暴挙に司法の独立性が侵害されたとして、欧州委員会から制裁を受けている。野党の「市民プラットフォーム」が中心になって「自由と尊厳、民主主義を、欧州の中のポーランドをのために」と訴える<自由の行進>であった。EUの旗が多くみられるのは欧州委員会を支持、大統領のEU離脱をめざす政策への抗議を意味するのだろう。Aさんよれば、政府によるメディア統制も目立つそうだ。現大統領寄りの番組が増えていて、前大統領の追悼番組などは繰り返し流されているとのこと。そういえば、ワルシャワ最初の日のホテルで、夜、テレビをつけると、まさに、その追悼番組の再放送を流していたのだ。

  どこかの国でも同じようなことが起きている。しかし、こうした、さまざまな世代による、幅広い人々が、思い思いのプラカードや旗を掲げて、いわば、一見無秩序に、一つの同じ思いをもって行進できるなんて、うらやましいな、と思う。印刷された画一的なプラスターをかかげるわけでもない、歩いてシュプレヒコールを繰り返すわけでもない、車道も広い歩道も、自在に歩けるデモなんて・・・。おまけに、コースのロイヤルロードの沿道の各所にはスローガンを掲げた、幾つもの柱状の大きな櫓風の立て看板が設置されていた。旅先で、思いがけず、<自由の行進>と共に街歩きができたことは貴重な体験だった。

ワルシャワ博物館とワルシャワ蜂起博物館へ

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旧市街市場広場と人魚像

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旧市街市場広場の一角にあるワルシャワ博物館、もともとは「ワルシャワ歴史的博物館」という名前だったが、長い改修工事を経て 2017年5月末に「ワルシャワ博物館」として再開した

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展示はさまざまな図表などが用いられ、工夫されていた。上記は、ワルシャワの宗教別人口が年代別にしめされていた。拡大してみるとわかるのだが、1810年、1897年、1931
年、2011年、左端のカソリックが73-58-67-75%との推移にくらべて、ユダヤ教は、18-35-30ー1%以下という推移が見て取れる

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描かれたワルシャワ・・・

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ワルシャワのシンボルでもある人魚像、人魚のバストの大小、その描き方が政治論議にもなったそうだ

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  去年リニューアルしたばかりで上のワルシャワ博物館のガイドリーフレット通り見学するには一日かかりそうにも思えた。また、次のワルシャワ蜂起博物館は、全館照明がかなり落としてあり、細い路地や迷路のような順路の壁には溢れるような情報、展示、頭上から覆いかぶさるような壁の展示には臨場感や緊張感が高まるのだった。多くの記録や手記の抜粋が壁から語り掛けてくるようだった。閉館時刻も迫り、先を急ぎ、撮った写真は、ボケたり、手振れがあったりで、使用できないものばかりになってしまって。Dscn1917
この石畳が、疲れた足には、結構きつかった

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ワルシャワ蜂起とは、1944年夏、ナチスドイツ軍の占領下のワルシャワで、複雑な国際情勢の中、ポ―ランド独立のために戦った市民たちの運動をいう。短期間で敗退するが、戦後は、ソ連の支配下の共産主義政権下においても、ポーランドへの抑圧は続く


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館内には、市民の抵抗組織の居場所にもなった地下水道が、きれいに再現されていた

ここから、館作成の映像が見られます
⇒Learn more about Warsaw Rising 1944
(館のウェブサイトから)

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2018年5月30日 (水)

ミュンヘン、ワルシャワ、気まま旅(11)

 5月12日(土)、ショパン博物館へ

   この日は、現地のガイドさんと共に市内めぐりを予定していた。私たちにとって二度目のワルシャワではあったが、前回、閉館などで訪ね損ねた、ショパン記念館、ワルシャワ歴史博物館、ワルシャワ蜂起博物館の案内をお願いしていた。Aさんはホテルまで迎えに来てくださり、自己紹介もそこそこに、歩き始めた。Aさんは、黒いTシャツに淡い空色のロングスカートをなびかせ、さっそくツバ広帽子を取り出すほどの日差しであった。 

 まず、旧市街に出て、聖十字架教会、ワルシャワ大学へと立ち寄った。Aさんが出身の東洋学部日本語学科の様子をお聞きしながら、図書館、ショパンが幼少期一家で住んでいた建物などの説明を受けた。大学の日本語学科の入学者は少なくはないが、修了するのは3割程度とのことで、かなり難しいとも語っていた。さらに、今は、日本語ができるということだけでは、就職が難しく、語学のほかに専門を持つ必要があるとも話された。聖十字架教会と大学へは、翌日、もう一度訪ねることになるのだが。

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ワルシャワは、朝からかなりの暑さだったのだろう。聖十字架教会前には、給水車が出ていて、誰でも水が飲めた。犬のための器まで用意され、黒い犬も音を立て飲んでいた

 そしてまず訪ねたのが、ショパン記念館、週末で混むといけないということで、予約をしておいてくれた由、館内の展示には、実にさまざまな工夫が凝らされているのに驚いた。各室のコーナーやブースで、ショパンの曲を選んで聴けるようになっていた。ショパン好きには、一日いても飽きないことだろう。Aさんの説明に聞き入っているとき、若い女性スタッフから、日本語で声をかけられた。ワルシャワ大学日本語科のAさんの後輩だそうで、日本人の見学者には日本語で案内しているという貴重なスタッフだったのである。

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ショパン記念館全景

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短い生涯ながら、ヨーロッパ各地での足跡をたどることができる

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記念館の窓から、遠くに見えるショパンを描いた壁画が、いま人気なんだそうだ

  すでに遅めの昼食だったが、Aさんの案内でやってきたのはポーランド料理ザピェツェクというお店だった。チェーン店らしく、市内に何軒かあるらしいがどこの店だったのか。料理の写真をと思っていたが、はしたない?とも思って、メニューだけとなった。注文はお任せしたのだが、甘い具の入った餃子風のピエロギだけは、以前失敗しているの遠慮した。不思議な味のスープ、三種盛り合わせのピエロギ、ジャガイモのパンケーキなどであったが、どれもおいしくいただいた。「甘い」とえいば、ポーランドでは、ご飯に砂糖をかけたりして食すとも。 新世界通り(ノヴィ・シフィア通り)に近い店だったかもしれない。

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民族衣装の店員さんとメニューだけをそっと撮りました

 

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2018年5月29日 (火)

ミュンヘン、ワルシャワ、気まま旅(10)

ワルシャワ動物園とフィルハーモニー

 今日は、ワルシャワへの移動日で、ルフトハンザ1612便でミュンヘン発1240に搭乗、約一時間半、途中で、サンドイッチ(チーズかチキン)の軽食が出る。空港のシャトルバスで30分ほどで、(ワルシャワ)大学前下車、Sofitel Victoriaは、どこの都市にでもありそうな、細長い大きなビルのホテルで、なんと無名戦士の墓の広場に面していた。ピウツキー元帥の立像も右手にあるはずだ。前回、20105月の宿は、中央駅近くだったが、この広場も8年ぶりである。

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無名戦士の墓からホテル全景

 

  予定通り、車で、あの動物園へむかう。初めてながら、「あの」というも、今年の初めにこのブログでも紹介した「ユダヤ人を救った動物園」の動物園だったからである。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/01/post-5a36.html201811日)

 

 ヴィスワ川にかかる美しいつり橋様の橋、右手に赤い外壁とポール状のものを巡らしたスタジアムを見て渡り、しばらく川に沿って走ったところが入り口となっていた。

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これは、動物園からの帰り、車で橋を渡った時のスナップです

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行きの橋の右手に見えたのがサッカー専用のスタジアム(2012年オープン)なのだが、写真がとれず、うまく表現できないので、ネットから拝借した

 まずは、動物園の広いメインストリートの奥が深いのに驚く。地図を見ながら、夫は、とりあえずの目標を、一番奥になるライオン、トラと決める。広い道を挟んで左右には緑地や林が続き、一見、どこに動物がいるのかわからない。檻というもの見当たらず、草地や砂地、池などの遠くに姿を見せる生き物がいる。見物の私たちとの境は、鉄柵だったり生け垣だったり、あるいは掘割だったりする。そうかと思えば、鉄柵を隔てながら、まじかに顔を合わせられる動物もいる。また、数々の樹木や植物にも、手入れは行き届いていて、あちこちで自動の散水機が動いていて、思わず飛沫を浴びることもあった。ライオンは、最初どこにいるかわからなかったが、岩山の蔭から悠然と現れたときは、思わず声を上げた。その後は、メスの方が、数人の見物客のためを思ってか、コンクリートの塀の上を行ったり来たりのパフォーマンスを見せてくれた。 

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あちこちで自動散水機が動いていた

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遠くに寝そべっているのはなに?

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普通の馬ではないような・・・

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点にしか見えないが・・・、現れたライオン

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このブロックの上を行ったり来たり、まるでモデルのように・・・

 
 週日のためかお客さんは少ないのだろうが、家族連れの人もちらほら、子どもたちは、動物を見るというよりは、広い公園を走り回ったり、お父さんに肩車をしてもらったり、自分が乗っていた乳母車を押したり、ソフトクリームを食べたりして楽しんでいるようだった。私たちも、別のわき道に入って戻りかけたが、こちらも奥が深い。そんなとき、白い瀟洒な建物が見えてきた。その近くに、何やら、地面にガラスに覆われたものが見えた。説明によれば、トンネル、あの映画でも見た、園長夫妻がユダヤ人たちをかくまう時に使った地下室に連なるトンネルの出入り口だという。白い建物には、当時をしのぶ資料が保管されているというが、見学には予約が必要であって、開館日も限られているらしい。3時間に満たない入園だったが、街中にあったベルリンの動物園とも違った外国の動物園体験をすることができた。

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ユダヤ人をかくまうのに使用したトンネルという

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動物園歴史とユダヤ人をかくまった経緯を記した資料を公開しているというが、予約制とのことだった


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動物園園長夫妻の功績を顕彰するパネル


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きょうばかりは乳母車をひいて・・・



 今晩は、7時半からのフィルハーモニーでのコンサートを予約していたのである。一度、ホテルに戻って、ホテルから10分ほどだという会場に向かった。が、これまた、迷いかけたところで、通りがけの年配の男性に尋ねてみると、自分も向かうところだといい、「コンバンワ」とも。仕事で日本に一度だけ行ったことがあるそうだ。ロビーまで、一緒だったが、友人と待ち合わせのようだった。座席は自由ということであったが、どんどんと聴衆は増えていき、はなやかな女性たちの姿も目立っていた。ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団、ヤツェク・カスプシク指揮による以下の曲目だった。指揮者は2013年からワルシャワフィルの音楽総監督の由、今年の1月には来日、ファンを喜ばせた由、現地で聴けるのは幸運かもしれない。クラシックに詳しくないながら、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲はなじみもあり、真っ赤なドレスのリザ・フェルシュトマンさんの情熱的な演奏はすてきだった。ブラームスのセレナーデも、躍動的な若々しさに惹かれつつ聴き入った。

Koncert symfoniczny

   

Wykonawcy
Program

Felix   Mendelssohn

- Uwertura koncertowa Hebrydy op. 26 [10’]

Felix   Mendelssohn

- Koncert skrzypcowy e-moll op. 64 [26']
Przerwa [20']

Johannes Brahms

- Serenada nr 1 D-dur op. 11 [49’]

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開演前の会場ホールと終了直後のフィルハーモニー

  9時半を過ぎ、帰り道は、さすがに人通りは少なくなっていた。さて、とり損なっていた夕食だったが、ホテルのレストランでのポーランド語のメニューを思うと気が重くなりそうということで、クラブサンドイッチとドリンクのルームサービスを頼むことにした。少し、無駄遣いかなとも思いながらの夜食だったが、「おいしゅうございました」。

 

 

 

 

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2018年5月26日 (土)

ミュンヘン、ワルシャワ、気まま旅(9)

5月10日、ミュンヘンでは、大きな集会・デモがあった

 ノイエピナコテークの美術館を後に、マリエン広場に向かい、予定通り、前日、通り過ぎただけのユダヤ地区のミュンヘン市立博物館へ入った。ミュンヘンにおけるナチスの時代について知りたいと伝えると、、別室の”national-sosialism in Munich"を教えてもらった。ここだけでも数時間はかかりそうなところを、大急ぎで見ることになった。

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この2枚のポスターを見ていて、思い起こすのは、働き方を自分で選ぶとか、大学生の就職率が98%となどと言って、「働き方改革」?法案を成立させようとしている日本政府のことだった。データを捏造したり、統計のマジックによって正当化しようとしているではないか。「働けば自由になる」というナチスのスローガンをも思い起こす

 

 つぎに入ったのが、隣接するユダヤ歴史博物館であった。これまた入り口が分かりづらかったのだが、カフェやブックショップの中にチケット売り場があった。常設展、ミュンヘンのユダヤ人の歴史が年表や写真で概観できるのだが、意外とあっさりしたものだった。

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シナゴーグと正面がユダヤ歴史博物館

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ユダヤ歴史博物館1階、カフェとブックショップのガラスの壁にシナゴーグとヤコブ教会が映っている


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企画展は、現代を戯画化したマンガの展示で、その中の一枚、コミュニケーションの手段が、まるで煙のような”tweet"でよいのか、と問いかけているようなのだが・・・。


 
マリエン広場に戻って、レジデンツのあるオデオン広場まで一駅だけUバーンに乗ったのだが、マリエン広場とオデオン広場の地下の駅構内は、集団の警官たちがあちこちで、警備にあたっていた。今朝の中央駅でも、警官が目立っていた。治安が悪くなっているのかなぁ、とも思い、スリに気を付けねばなどと思ったのだった。しかし、オデオン広場に出てみて驚いた。レジデンツに沿ってポリツァイの車が連なり、警官がやたらと多い。広場ではまさに集会が行われていたのだ。なんの集会?、とっさに分からなかったのだが、警察への抗議?・・・。そして、後で分かったのだが、ミュンヘンの日本総領事館から下記のような警告が出ていたのである。

5月10日(木)13時からミュンヘン市街地で大規模デモが行われる。 デモ主催者は、幅広い政党、連盟組織、労働組合等からなる「No PAG」という連合組織で、バイエルン州の警察法(PAG)改正に反対している。 当日は、少なくとも7千人の参加が見込まれている。
 
 デモ・コースは、Marienplatzから、TalAltstadtringStaatskanzleiを経由し、Odeonsplatzまでとのこと。

 

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オデオン広場の駅構内・・・

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オデオン広場はデモの解散地であり、さっきまで集会が開かれていたようだ。きのうは、静かな広場だったが・・・

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オデオン広場の集会は解散のさなかだたらしい

 なお、翌日の新聞には、きのうのデモのことが大きく報じられていた。”Suddeutsche Zeitung"(南ドイツ新聞)のミュンヘン版はつぎのようにあった。マリエン広場で、午後1時から、私たちが美術館のレストランでのんびりしていた頃、なんと3万人規模の集会が行われていたのである。その見出しによればは「自由への不安 新しいPolizeiaufgabengesetz(PAG警察職務法)に反対して」とある。バイエルン州による、この法改正が基本的人権を侵害するとして、幅広い反対勢力が結集したらしい。1・2時間の差で、マリエン広場での集会やデモに居合わせることができたのにと、残念なことだった。3万に規模の集会なんて、大都市東京でもめったにないことなのに。ミュンヘン市街のデモコースも合わせて発表されていた。

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 また、ネットのオンラインニュース(Merukur.de)でも、くわしい記事を見つけた。その見出しには、つぎのようにあった。この大規模なデモには、特別の監視体制がとられていたようなのだ。
Riesige PAG-Demo im Ticker: Das bereitete der Polizei besondere Sorgen

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Demonstration gegen das neue bayerische Polizeiaufgabengesetz.

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Der Protestzug erreicht den Odeonsplatz.

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昨日5月9日の静かなオデオン広場


  なお、レジデンツの閉館時刻5時に1・2分遅れて入館できなくなってしまったので、6時半のコンサートまで、オペラ座前のマックス・ヨーゼフ広場での合唱のフェスタや集会帰りの人の流れを眺めて過ごした。合唱のイベントもなかなかの盛況で、出演者も観客も一体となって楽しんでいる様子が見て取れた。この二つのイベントに参加していた人々の気持ちや考え方に少しでも触れることができたらなぁ、とも思う。そして、ミュンヘン最後の夜のコンサートに集う人々とも・・・。

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 コンサートのチケットと簡素なプログラム、地元の人も観光客も、小さな宮殿の一室でバイオリン、フルート、チェロのアンサンブルを堪能した

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2018年5月25日 (金)

ミュンヘン、ワルシャワ、気まま旅(8)

510日、自由に使える一日、さて

 大まかな予定としては、夜は、レジデンツでのコンサート、それまでに、まずはノイエ・ピナコテーク、午後からは、きのうは素通りだった市立博物館、ユダヤ歴史博物館はまわろうということになった。ノイエは10時開館ながら、少し早めに出た。きのう、中央駅で乗車券を買うのに迷った。どこでもチケットの自動販売機は見かけるのだが、どうもよくわからないまま、結局チケット売り場の対面で、3日間のグループ乗車券を購入していた。U2therensienstr.駅下車で一直線のはずのノイエ・ピナコテーク、曲がる道を間違えたのか手間取ったのだ。

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 思いがけずさまざまな作品に出会えて、短時間ながら楽しいひとときであった。駆け足ではあるが、思いがけず出会えた作品、私の好きな作品を中心に、紹介して行きたい。

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ハンプトンコートへの道(1874):シスレー(1839~1898)
   

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ゴッホの部屋の正面の作品が次の「織工」だった

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織工(1884):ゴッホ(1853~1890)、ゴッホにもこんな作品があったことを知る

 モネ、マネ、セザンヌ、ルノアールからクリムトまで、魅力的なのだが、私が立ち止まったのは、スイス、ベルン生まれのホドラーの風景画をはじめとする何点かであった。数年前、見逃したのが西洋美術館でのホドラー展だったからだ。

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Genfer湖の風景(1904年):F・ホドラー(1852=1918)、この絵と一緒に写真も撮りました

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水浴びをする少年たち(1904):ホドラー

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生に疲れた人々(1892):ホドラー、上記2枚は、ホドラーが主唱するパラレリズムに基づく構成がとられている

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お土産に買ったコースターなのだが、右は、ボート(1914):マネが描いたクロード・モネ夫妻の絵とのこと、マネは、しばしばボートをアトリエにして絵を描いていたそうだ。左は、シスレーと思って買ったのだが、ただいま確認中

 ランチは、美術館のレストランで、夫は焼き飯、私はボンゴレのパスタ、と飲み物で済ませた。車の往来を遠くに、池を前にして、ゆったりと過ごした時間だった。

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ミュンヘン、ワルシャワ、気まま旅(7)

アルテ・ピナコテーク、もう少しゆっくりできたら

 朝、晴れていたので、傘を持たずにホテルを出たのだが、予報通り、4時近くになってポツポツ降ってきた。Kさんは、心配し、ホテルまで傘を取りに行きましょう、という。日本だとコンビニなどで透明な傘でも買って済ますところだろう。しかし、コンビニのような店は、まずは見当たらないので、バスで一緒に中央駅前のホテルまで戻るというハプニングもあった。アルテ・ピナコテークは1836年、14~18世紀のバイエルン王家のコレクションを中心にルートヴィヒ一世により開設された。館内の撮影は、フラッシュさえなければ可能なのだが、なかなかタイミングが合わなかったので、以下は絵葉書なども利用して、印象に残った作品の一部を紹介したい。順路は、ドイツから始まる。

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入場券と手首に巻くテープが手渡される

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四人の使徒(1526):A・デューラー(1471~1528)晩年の作品、宗教画が多い中で、自画像(1500)にも多くのメッセージが込められているようだ

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自画像(1629):レンブラント(1606~1669)、ハガキ大の小品ながら、若い青年の志が伝わるってくるような

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生徒たちのグループも静かに鑑賞している

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聖母子(1473):レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1520)

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テンピの聖母(1508 );ラファエロ(1483~1520 )

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メロンとぶどうを食べる子供たち(1645・46):ムリーリョ(1617~82)、プラド美術館には多く収蔵されている画家で、こんな写実的な絵もあった

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説教するキリストのいる港(1598):ヤン・ブリューゲル(1617~82)。説教を聞いている人々と手前の漁港に暮らす人々の生活感がにじみ出ている描写の対比が興味深い

 この日も、Kさんとの約束の時間をだいぶオーバーしてしまったようで、マリエン広場で別れた。合わせて一日ほどお付き合いいただき、ありがとうございました。Kさんは、明日、朝早くから、ノイシュヴァンシュタイン城ツアーの仕事が入っているそうだ。お元気だなぁ。夕食は、昼に案内していただいたホーフブロイでと思って、ふたたび出かけたところ、なんと満席で、入店を断られてしまった。それではということで、昼に店の前を通った、ホテルプラツイの向かいのアウグスティーナのビヤガーデンでは、ようやく若いカップルとの相席が見つかった。取りに戻った傘は、不要となって、夕方からすっかり晴れわたった。よくも歩きました。夫の白ビールが羨ましいが、私は、レモネードでのどを潤した。この時点で18000歩を越えていた。

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これは昼間、通り過ぎたときに写したもので、夕方は外も混んでいた

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右がアウグスティーナ、左がホテル・エデンのレストランのコースターでした




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