2010年8月31日 (火)

『すてきなあなたへ』60号をマイリストに登載しました

残暑お見舞い申し上げます。

ひと並みに熱中症らしきものにもかかりましたが、1日中ひたすら眠って、風邪薬をのみましたら、平熱に戻り、ホッとしました。お出かけの人も多かったと思いますが、当方では犬もかなりのまいりようで、ともども、冷房の部屋を出たり入ったり、じっとしていました。

まだ残暑もきびしいとのこと、くれぐれもお大事になさってください。
ブログ更新は止まってしまいましたが、なんとか乗り切れそうです。

「すてきなあなたへ60号」 ⇒ 左手のマイリスト「すてきなあなたへ」をクリックしてください

(目次)
アウシュビッツの雨にうたれて
福祉コーナー: デイサービス、ご近所にオープン 
 ①ぬくもり日和(佐倉市宮ノ台3丁目)
 ②元気庵ユーカリが丘店(ユーカリが丘1丁目)
 コラム:デイサービスいろいろ・・・
菅沼正子の映画招待席:セラフィーヌの庭―天才と狂気は紙一重というが・・・

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2010年6月 3日 (木)

ポーランド、ウィーンの旅(3)クラクフを歩く

515日(土)

パウロⅡ世

今日は、丸一日を市内巡りにあてることにしていた。まずは、ヴァヴェル城だろうということで、中央広場を抜けて歩き始めてすぐに、クラクフ出身のヨハネ・パウロⅡ世の像がある教会があるはずと見回す。見覚えのあるパウロⅡ世の写真など見え隠れするアーチをくぐると、手入れの行き届いた中庭には、パウロⅡ世の写真などを掲げるパネル展示が続いていた。よく見ると、パウロⅡ世の生涯(19202005.4.2)がたどれるような展示で、スキーや山歩きが好きだった青年時代、この大司教宮殿での大司教時代、バチカンへの赴任、ローマ法王への道が示されていた。そして、中庭の中央には、手を広げたパウロⅡ世像が立っていた。クラクフ市民の95%がカトリックであり、その人気は絶大だったらしい。この教会は、クラクフ教会区の管轄本部で正式には「クラクフ大司教座宮殿」というらしい。人の出入りはなく、パウロⅡ世像の前には大小の花環が供えられていた。アーチの下では、パウロⅡ世のコインが自動販売機で買えるようになっていた。

聖ペテロ聖パウロ教会

 やがて小さな広場を越えた、少しにぎやかな通りに教会が続く。いちばん手前の大きな教会は聖ペテロ聖パウロ教会、表の立て看板によれば毎晩コンサートを開催しているらしい。なかに入ると、真ん中ほどの席でチケットを売っていた。8時からというので、早めに夕飯を済ませて出かけてみよう。渡されたリーフレットによれば、クラクフ室内楽団による、モーツアルトの小夜曲、ショパンのノクターン、ヴィヴァルデイの四季・春などポピュラーな曲ばかり、観光客相手なのかもしれないが、気軽に楽しむのも悪くない。すぐ隣の教会への門をくぐると、そこでは、カメラワークの研修会でもやっているのだろうか、十数人の若者たちは本格的なカメラを携え、石積みの塀に這うつる草にレンズを向けていた。講師の助手だろうか、携帯用の丸い銀色の反射板のようなものを、広げたり、閉じたり、傾けたりと余念がない。私もデジカメで撮ってみたが。

ヴァヴェル城とカティンの森事件追悼

 ヴァヴェル城が迫り、観光客でにぎわう交差点に出る。その一角に、ワルシャワで見たようなパネル展示が屏風のように並んでいた。やはりカティンの森事件の追悼記念の展示であった。ワルシャワの展示とは写真の選択が異なり、その編集も若干異なっていたが、その発するメッセージは同様に強烈だった。さすが、ここでは立ちどまって見入る人たちもいる。また、この小さな広場の一角には、数メートルもある十字架が立てられ、「1940 KTYN 1990」とあるから20年前に建てられたものだろう。気付きもせずに通り過ぎる人たちが多い。そういえば、このヴァヴェル城大聖堂の地下には歴代の王が眠るが、先日の航空機事故で亡くなったカチンスキ大統領夫妻が葬られたのは異例であったという。前述のように、ワルシャワ、ピウスツキ元帥広場での国葬が10万人規模になったこととあいまって、それまでカチンスキ大統領へのさまざまな批判や疑問も吹っ飛んでしまったという見方もある(宮崎悠「『カチンの森』再現図る熟達」毎日新聞2010421日)

 私たちはゆるい坂道の方をのぼって、城内に入る。幾つかの青銅色のドームの中で金色のドームが一つ際立っている。ジグムント・チャペルは、ポーランドのルネッサンス建築の傑作とのことだ。きょうは、夏のような暑さで、上着が邪魔なくらいだ。人の流れに沿って城内をめぐり、どこの博物館の入り口にもは列ができているので、旧王宮の中庭のベンチで一休みする。展望台からはヴィスワ川が一望できた。円筒の監視塔直下にあるレストランで、私はスケッチブックを広げるゆとりができ、ともどもようやく念願のカツレツを待つことになった。

ヴィスワ川を渡る

 城の坂道を降りて、川まで歩く。さて、これからどうしようか。対岸にあるのが、日本美術、浮世絵などのコレクションを持つ「マンガ館」だ。映画監督アンジェイ・ワイダらの尽力もあって、死蔵に近かったコレクションが磯崎新設計のこの美術館で日の目を見ることになったという。大きな橋を渡って土手道から美術館に近づいてみる。屋根が緩やかな波型をした長い建物だった。入り口周辺が込み合っている。学会のような雰囲気を漂わすコーヒーブレイクであったらしい。迷いながら展示館に入ってみると、柱が見当たらない曲線の壁から成り立つ展示空間がユニークだが、今は「日本刀剣展」だけで、期待していた浮世絵は広重だけでも2000点以上あるというのに、見られなかったのが残念であった。クラクフと京都が姉妹都市であることから、両国の協力により1994年オープンに至った。ちなみに「マンガ」は、旧コレクターが「北斎漫画」の「マンガ」をミドルネームとして使っていたことに由来するという。平成になっての天皇夫妻訪問記念の書が飾ってあるではないか。川を挟んで見るヴァヴェル城の全貌は、まるで絵はがきの世界で、足を伸ばした甲斐があったと、川風も心地よかった。

(ヴァヴェル城からヴィスワ川を望む)

Vaverujo

カジミエーシュ地区へ

 ふたたび橋を渡って、大きな通りを道なりに進むと右手はカジミエーシュ地区、いまでもシナゴーグが点在するユダヤ人が多く住んでいる街となる。シナゴーグが近くなると、必ず警備が厳しくなる。街かどにたつ警官ががぜん多くなるのが、ヨーロッパの都市の通例である。ポーランド最古のシナゴーグ(ユダヤ教会)は現在博物館にもなっているが、土曜日はすでに早めに閉館になっていた。近くの広場では、並ぶテントの店がしまいかけていた。ユダヤ文化センターでも毎晩コンサートはやっているらしい。辺りは「シンドラーのリスト」の舞台にもなったという場所だ。その映画は見てはいないが、シンドラーの工場は、川向うだったらしい。

(カジミエーシュ地区の水たまり)

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(ユダヤ博物館はもう閉まっていた)

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 ヤギェウォ大学へ
 つれあいは、仕事柄、旅先では、よくその地の大学を訪ねるという。今回も、散策する程度なのだがキャンパスにもいろいろな発見があるという。地図を見ながら、川岸の道から市街地に入り、公園やサッカーグランドなどを見やりながら、大学公園に入ったらしい。学生の出入りがある建物に入ると、そこには大学グッズが並ぶ売店があったのだが、きょうは休みらしい。階段下では、扮装した学生たちがたむろし、にぎやかにしていた。中央広場の例の舞台の控室のような様相であった。開学が14世紀という古い大学で、ヨハネ・パウロⅡやコペルニクスもここに学んでいる。コペルニクスに敬意を表し、近くにあったコペルニクス像の前で写真におさまる。まだまだ奥があるようなのだが、「中央広場へ」の標識をみると、私の方が急に疲れが出てしまって、帰路についた。そして中央広場の大学フェスティバルは相変わらずにぎやかで、例の「日の丸」を掲げているテントの前を通ると、浴衣を着ている女子学生がすわっているではないか。さっそく尋ねてみると、ヤギェウォ大学日本学科の学生たちだった。訪れる人たちに、日本語のひらがなを教えてますと、ひらがなの五十音のカードを作っていた。また、箸の持ち方も教えています、と割り箸と塗り箸が置いてあった。日本には来たことがありますか、といえば誰もがありませんと首を振っていた。日の丸のわけがようやくわかり、「頑張ってね」と久しぶりに?日本語が話せて心和むのであった。

 夕食は、中央広場から少し入ったROSAホテルのイタリアンの店にした。今までにないおしゃれなレストランで、テーブルセッテイングの花やピアノ演奏も、パンや器のセンスも格別で、料理にも満足し、まだまだ暮れなそうもない広場や街をコンサート会場へと急ぐのだった。 

5月16日(日)

Only Pray

この日は朝から本降りながら、ポーランドのお土産とて空港だけでというのはさびしいので、少し見て回ろうかと思い、中央広場に出てみるが、開店はほとんどが10時なのだ。午後には、クラクフの空港を発つ。大きな本屋さんも、チョコレート屋さんも、そして博物館などの施設も10時なので、それまでの時間の活用がむずかしい。雨の広場が広く思えると思ったら、きのうまであった大学フェスティバルのテントが全部撤収されていた。広場に面した、大きな教会、聖マリア教会の小さな入り口に吸い込まれるように人が入っていく。私たちも、傘の雨滴を払って入ってみると、すでに通路まで人がいっぱいで、ミサが執り行われていた。今日は日曜でもある。中は広く、奥行きも深い。今朝、ホテルのテレビでも、こうしたミサの中継がされていた。厳粛な祈りや聖歌の合い間に家族連れやお年寄り夫婦、若い人たちもどんどん増えてゆく。私たちにとってもなんとなく心地よい雰囲気ではあったが、そっと抜け出して、入り口を振り返ると“only pray”の看板が掲げてあった。

クラクフからウィーンへ飛ぶ

 雨の中を、少々の土産を買って、軽い昼食を済ませ、車で空港に向かう。市街地を出ると雨はますます激しくなり、路面が未整備のためか、車は2mくらいの水しぶきを両側にはねあげて走る。もちろん反対車線の車からはそれだけの水しぶきをばさばさと受ける。クラクフの街を走る車が、なんとなくすすけているな、と思ってはいたが、これでようやく訳がわかった。洗車したところで、すぐに汚れてしまうからなのだろう。空港のカフェのミルクティをのみながら、人々の往来や周辺の席の人たちを眺めているのもなかなか楽しい。

ウィーンのホテルに着いたら、今夜は、ホイリゲへのツアーに参加の予定なのでで、忙しい。

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2010年5月31日 (月)

ポーランド、ウィーンの旅(2)古都クラクフとアウシュビッツ

 5月上旬、我が家の垣根のテッセンが蕾のまま、なかなか開いてくれなかったのだが、520日帰宅してみると、いつになく大輪の、やや、その紫は薄かったが、たくさん咲いていた。すでに花弁を落としているものもあった。当地は、19日夜からの雨以外はほとんど降らなかったらしい。留守番の飼い犬のお世話をお願いしていた方によれば、犬は玄関先で夜を過ごしたということだった。まとめて届けてもらった新聞を繰っていると、私たちがクラクフを発った後、大雨に見舞われ、アウシュビッツ・ビルケナウ収容所博物館は洪水の恐れにより閉鎖されたという記事を見出した。あらためて、アウシュビッツでの雨の冷たさと衝撃を思い起こすのだった。

513日(木)

古都の宮廷コンサート

物価も安いことだし、今回は、あまり無理をせずに車を使うことにしていた。なのに、クラクフ駅からホテルのある旧市街まで、意外に手間取ってしまった。若い運転手は、途中何度もこちらの持っていた地図を見直し、迷っているようだった。クラクフは、17世紀初頭までポーランド王国の首都であった。あとで旧市街の広場に出てみてわかるのだが、ホテルグランドは、広場に通ずる路地の一本を50mほど入ったところだった。戦災を免れた建物が多いので、ホテルの入り口も小さく、よほど注意しないと通り過ぎてしまうほどだ。泊った部屋は、少しカギ形になっている分だけゆったりした感じだった。まずは、ひと風呂浴びて街に出てみる。旧市街広場は、大がかりな工事の真っ最中の織物会館が大きく二分するが、旧市庁舎側には、店というより、同じ大きさの白いテントが軒を連ねて並んでいる。テントの内外では、ものを売るというのでなく、若者たちが立ち働き、よくみると地元のヤギェオ大学の名をはじめ学部名、サークル名らしき看板があげられている。旧市庁舎をバックに舞台もしつらえてあって、そこには、ユニバーシティ、フェスティバルなどと読める横断幕が掲げられ、歌や踊り、さまざまなパフォーマンスが繰り広げられていた。正面に日の丸らしきものが貼ってあるテントも見えた。のぞいてみたが、今は人がいない。広場近くの旅行案内所に入って目に着いたのが、宮殿コンサートのパンフレットだった。聴いてみようかと、当日券を買い置き、近くだという会場の下見にも行ってみる。これが宮殿?広場に面した入り口の右はレストランだし、反対側に小さなカウンターがあって、そこでも当日券を売っていたのでここらしい。7時開演だから、夕食はあまりゆっくりしていられない。近くの「1516」という店に入った。奥が深く、中庭なのだろうか、あずまや風のものがいくつも建っている。つれあいは、カツレツを食べたいというが、どうも「コトレット」(?)はなく、ビフテキを一人前注文、それにサラダで、クラクフ第一夜をワインで乾杯となった。コンサートは、まだ学生のような女性ピアニストのショパンで、1時間余り。70席ほどの部屋はほぼ満席、旅行者が多い。ノクターンにはことさら眠りを誘われたのだろう、つれあいはいつ起こそうかとハラハラしていたという。

5月14日(金)

アウシュビッツの雨

翌朝は予報通りの雨だった。それに寒い。申し込んであったアウシュビッツ・ビルケナウ収容所博物館のツアーである。集合場所は、旧市街の北、クラクフ生まれの国民的画家に由来するマテイコ広場、歩いて10分もかからない距離のはずだ。折りたたみの傘では少し頼りない本格的な降りである。大がかりな道路工事があちこちにあるので、迷うことしきり、20分近く歩くが広場にたどりつかない。街角には、雨でも透けたビニールの覆いの中でプレッツェルやベーグル様のパンを商う人がいる。そのお年寄りにも尋ねてみると、すぐ近くらしいが、わからずじまい。今度はビジネスマン風の男性に聞いてみると、曲がる次の路地まで案内してくださり、朝の出勤時というのにありがたいことだった。集合時間ぎりぎりに着いたマテイコ広場、中央には大きなモニュメントと、ショパンが幼少時使ったという可愛いピアノのレプリカがあり、ツアーバスの停留所にはなるほど多くの客が待っていた。大きなバス、小さなバスが次々発車して行くが、私たちのバスではないらしい。ガイドさんが大きな声を張り上げてチケットを確認しながらお客さんを拾っていく。いよいよ車上の人となる。アウシュビッツ・ビルケナウツアーの英語コースの始まりだ。オルビスホテルでだいぶ乗り込んできて大型バスはほぼ満席、9時55分から、話に聞いていた見学先についての映画が始まった。英語版だし、小さな画面だし、集中はできなかった。まじめに観ているのは、やはり年配の人々だ。斜め後ろの若いカップルなどはしっかりと眠っていた。1時間近い映画が終わり、15分ほどでアウシュビッツに到着、バスでのガイドさんから収容所博物館の女性ガイドに引き継がれた。とても落ち着いた、知的な雰囲気の人だった。この博物館ガイドの中には、日本の男性が一人いらして、使命感から困難なガイド資格を取得、15年近く続けられている人の新聞記事を読んだことがある。その方だったらありがたかったのに、ともかく、数時間、英語のシャワーを浴びることになる。なかなか聴きとれず、若い時の不勉強がたたることになる。それでも、写真や現物を見、説明を読み、とてつもなく衝撃的な遺構や遺品、その数や量に圧倒されることにはかわりがない。もはや、言葉を超える事実が目の前にあった。

収容所の全貌と博物館

私たちは、まず、鉄製の広い門をくぐるのだが、その上部には例の「働けば自由になる」(ARBEIT MACHT FREI)という欺瞞に満ちた言葉が掲げられている。行き止まりの鉄路、高い有刺鉄線、監視塔の列、ぬかるみの先には左右にレンガの2階建てが続く。その内の一部が今回見ることができた展示館になっている。最初に入った4ブロック展示館では、アウシュビッツの収容所跡の全貌と「国立オシフィエンチウム博物館・アウシュヴィッツ・ビルケナウ」の概要が示されていた。この地のかつての収容所は、まず、1940年ポーランドの政治犯収容のためにアウシュビッツに建てられたが、やがてドイツならびにドイツ軍によって占領された国々のユダヤ人がここに集められるようになり(1.2万~2万人収容) 1942年、3km離れたビルケナウに大規模なアウシュビッツ2号(1944年には9万人以上収容)が建設された。6km離れたモノビッツェに3号が建設され、囚人を労働力とする工場などが置かれた。その地に住んでいた人々は強制退去させられた。地図によれば、鉄道は収容所近くになるとこの13号に向かう3本に枝分かれする。第4ブロックの展示資料によれば、あくまで推定だが、ここに収容されたのは約130万人、その内110万人がユダヤ人で、次に多いのがポーランド人1415万人で、ジプシー、ソ連軍捕虜と続き、いちばん少ないノルウェー人が690人という数字もあった。その内の犠牲者はユダヤ人100万、ポーランド人は7万~75万人に及んだ。日本語版の「案内書」によれば、不完全な数字として「約150万人が殺害された」とも記される。1944年に送られてきたハンガリーのユダヤ人たちの到着、労働の可不可の選別など、記録写真でたどる。このブロックで、最初の衝撃は、家一軒分くらいの広さの部屋いっぱいの毛髪の山(2トン)だった。女性の遺体から切られた毛髪が廊下側のガラスに傾れるように迫って展示されている。その傍らには、それらを原料に織られた絨毯であり、服地であった。話には聞いていたが、すばやく通り過ぎたい所であった。

死の壁

Sinokabe

 

目を覆ってはいけない

館内の廊下が行き違うのがやっとくらいの幅なので、ガイドの説明はほとんど、屋外で傘をさして行われていた。足元はぬかるみ、うっかりすると水たまりにはまってしまうこともあった。以下のブロックでの主な遺品展示や遺構は次のようであった。

5ブロック:眼鏡、靴(80000足)、義足・義肢・松葉づえ(460本)、鍋・釜(12000個)等の調理用具、かばん・トランク(3800個)、手袋・シャツ・セーター、ブラシ類、チクロの空き缶など

7ブロック:藁だけが敷かれた三段ベッド、トイレ・洗面所つき居室など。廊下には収容時の登録写真と個人データ。

11ブロック:死の壁、集団虐殺実験室、立ち牢、集団絞首台、点呼広場、焼却炉、ガス室など

5ブロックの展示は廊下の両側はガラスで、各室は、人間の営みに最低限度必要な品々が、その営みの痕跡を残し、圧倒的な物量で見学者の身に迫って来るような展示になっている。第7ブロックでは、収容所の日常の過酷さが、第11ブロックでは、まさに絶滅センターとしてのアウシュビッツの恐怖と狂気が立ちあがって来る場所である。

収容時の個人登録票は国別展示となっているという。顔写真はどれも正面・横・着帽斜めの3枚で、たまたま、メモした表には「32629 Fuks Mosze Drybylur(?) 7.12.1923 24.4.1941 3.7.1942」とあった。「登録番号・名前・地名・生年月日・収容年月日・死亡年月日」と思われる。当時27歳の青年で、収容から1年数か月後に殺害(死亡)にいたる記録である。ほんの一部なのだろうが、そのような票が廊下の両側の壁いっぱいに貼られていた。点呼広場では、女性ガイドは声を低めて、このような雨の日も、長い時は19時間もの間、立ちづくめで点呼を受けていたと説明していた。シャワーを浴びることができると信じて真裸で、ガス室に入って行った人々を思うと、その暗いガス室に入る壁の間で、私は立ちつくすしかなかった。

私たちのツアーでは、バスで56分のところにあるアウシュビッツ2号ビルケナウの収容所跡の正門前で降ろされた。175ヘクタール(53万坪)に300棟以上のバラックが建設されたが、今残るのは45棟のレンガ造りと22棟の木造の囚人棟だけという。19448月には約10万人が収容されていたという。ソ連軍による解放・侵攻を目前に、証拠隠滅のためドイツ軍が破壊・解体しきれなかった施設や遺品がこの博物館の核である。いまは、レンガ造りの煙突だけが残る荒涼とした光景が広がる。私たちは、1棟のバラックに案内された。52頭用の馬小屋に4001000人の囚人が収容されていたという。13kmに及ぶという有刺鉄線、監視塔の列のほんの端っこに立ったとき、雨や寒さもあったのか、しばらく胸が締めつけられるような思いであった。

1947年に設立、1979年にはユネスコの世界遺産になっている。1979年、81年にここを訪ねた早乙女勝元氏が編んだ『母と子でみるアウシュビッツ』(草土文化 1983年)を見ると、樹木や雑草に覆われた当時の収容所跡の写真がある。また、今回のツアーのコースでは見なかった、より残酷な写真も収録されていた。博物館として年々整備されて来て、現在があるのだろう。年間約100万人の見学者があり、日本人も8000人近く訪れるそうだ。今回の見学は数時間ではあったが、私もこの記憶はやはり記録に留め、人に伝えなければならない思い切であった。

アウシュビッツ2号ビルケナウ

Birukenau

 

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2010年5月24日 (月)

ポーランド、ウィーンの旅(1)ワルシャワ、夏時間の夜

5月、この時期に海外に出るのは初めてだった。日本の天候はいつになく不順だったが、東欧は過ごしやすい季節のはずだった。今回は、これまでの最長、8泊の行程だが、クラクフ3泊をメインにアウシュビッツ収容所跡の博物館をはじめ、第2次大戦の戦跡を訪ねるという一応の目的を定めていた。

5月11日(火)

ショパンに迎えられたワルシャワ

乗り換えのウィーン空港には30分以上早く着いたので、ワルシャワ行きのB30ゲイトで待つこと1時間、搭乗時のボディチェックは厳しかった。服み忘れないようにとポケットに入れて置いた降圧薬の錠剤のアルミ箔が反応したためか、別途、椅子に座らされ、靴の裏まで入念に調べられた。ワルシャワ空港、正式にはショパン・フレデリック空港、夕方7時着、2010年はショパンの生誕200年に当るということで、ショパンの大きな看板に迎えられる。東京との時差は夏時間で7時間(4月~10月)、まだ明るい。宿泊は、ワルシャワ中央駅前のマリオット34階、夕食は、手近なホテル内のイタリアレストランで済ませた。サラダとパスタと定番ながら、私があったかいものが欲しいと頼んだスープが、赤ワインのような色で、妙に甘いので残してしまった。あとで調べると赤カブのスープだったらしい。日没は8時半くらいだったのだろうか、部屋の窓からは、右手の超高層ビルのてっぺんにSHARPの文字が見え、眼下の二本の大通りの車の灯がまぶしかった。

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5月12日(水)

突然視力が落ちる、遠くが見えない!?

朝起きて、こともあろうに、眼鏡をかけても右目が見えない、ぼんやりしか見えない。目薬をさしても、洗ってもさっぱり変わらない。旅の初めに大変なことになったと妙な予感がよぎる。今回は持って出た携帯用の血圧計で計ると、いつもより高い。読書用だといつものように見えるのだが、不安が募り、定期検診を受けている東邦大病院まで電話をしてしまった。「視野が欠けてはいませんか」「いえ」・・・、「ご心配なら、クリニックに行かれたらどうですか」と看護師は言うが、簡単なことではない・・・。ん?足元の床に鈍く光るものが、レンズだったのだ。つれあいには「しっかりしてよ」と笑われる。きょうはいちばんにメガネ屋さんを探さねばならない。

カチンの森の展示パネル

ホテルから南に、ショパン像のあるワジェンキ公園を目指す。それにしても、緑の多い街だ。まず、ウジャドフスキ公園を左に見て、立体交差路を越えるとワジェンキ公園が始まる。右側には、EUの紺色の旗と赤白のポーランド国旗を掲げる建物や大使館らしい建物が見えてくる。そして、公園の始まる道路際の緑地に、いくつものパネルが立っていた。近づいてみると、「KATYN」とあり、1940年、ソ連のカチンでポーランド将校2万人が虐殺されたという「カチンの森」事件の全容を伝えるパネルであった。1940年以降、1989年までゴルバチョフがソ連軍のやったことだと認めるまでは、ドイツ軍の仕業と言い通していた事件である。今年、事件より70年を迎え、4月10日、記念追悼行事に参加しようとカチンに向かったポーランドカチンスキ大統領をはじめとする政府要人を乗せた航空機が墜落するという事故があった。プーチン元大統領と事故死した反ロシア派のポーランド大統領との確執があったことを知ると、事故にロシアがかかわっていなかったか、などの憶測が私の頭によぎるのだが。昨年末、アンジェイ・ワイダ監督の映画『カチンの森』を観ていなかったら、通り過ぎる展示だったかもしれない。

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ショパン像の足元に

ワジェンキ公園には、ワルシャワ大学の大規模な植物園もあるようだ。さらに公園内を進むと広場に出て、遠足の小学生たちが中央のショパン像の台座によじ登っていた。多くの子どもたちはデジカメを持っていて驚いた。大きな池は工事中で水はなく、映像や写真でみるショパン像の風景とはやや違っていたが、私たちもショパン像の足元で写真を撮り合った。まだまだ、奥が深いワジェンキ公園だったが、バス116番で旧市街に向かうことにした。

「ピエロギ」って

ブリストルホテル前で降りて、サスキ公園に入り、このあたりで昼食と思うが、ふと見かけた、ポーランド風の餃子ピエロギの小さな店があり、地元の人たちのテイクアウトで結構にぎわっていた。当地の名物とも聞いているので、私たちも、公園のベンチでピエロギでも食べて昼は済まそうと、2種類ほど温めてもらい、ホテルの朝食時に“頂戴”したリンゴとオレンジと一緒に食べ始めた。しかし、買った種類が口に合わなかったのか、決して美味とは言えなかったのである。

きょう、5月12日は、何の日

気を取り直して、公園の木立を抜けて、無一物に思えるコンクリートの広場に出てみると、大きな十字架が一つ目につく。その対面に、無名戦士の墓があって、国旗が翻るアーチ様の建物のなかで兵士に見守られていた。見学者というか、参拝者は子どもから年配者まで途絶えることがなく、広場には何組かの団体客が群れをなしていた。この広場には、先の航空機事故で亡くなったカチンスキ大統領(1949~2910、ワレサ元大統領らの「連帯」幹部から政治家に転身、ワルシャワ市長など歴任)の追悼式典に10万人の人々が集まったという。その広場を横切って道を隔てた向かいに、急に人が集まり出したので、私たちも近づいてみる。国旗の色のタスキを掛けた人たちや制服の人々に見守られながら、銅像へ花環を献ずる人たちがいる。荘厳なアナウンスがあたりに流れ、献花のたびに鼓笛隊の太鼓が打ち鳴らされている。追悼セレモニーのようでもあるが、軍服の銅像は誰なのかわからないまま、つれあいは参列者の間や背後に迫って盛んに写真を撮っていたのでハラハラしたが、あちこちに立っている警官に咎められることもなかった。ガイドブックによれば、銅像はピウスツキ元帥であり、あの広場はピウスツキ元帥広場と名付けられていた。夜、持参の『ポーランドを知るための60章』(渡辺克義編 明石書店2001年)にあたると、なるほど、きょうは、ピウスツキ元帥の命日であった。他国に翻弄されやすかったポーランドで、ロシア流刑、逮捕、精神病院収容などを経ながら、一時独裁政権をとったこともあったが、ポーランド建国の父といわれている軍人・政治家であった。ユダヤ民族に対しても寛容であった彼は、国民的人気が高い軍人であり、政治家だったのである。そういえば、少年少女や髪を編み込んだ黒人青年も花を供えていたが、今のポーランドの政情のなかで、この銅像の元帥はどんな位置づけなのか、もう少し調べてみる必要があるかもしれない。

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ようやく、眼鏡がなおって、歴史博物館へ

旧市街に向かう右手に、写真で見覚えのあるモニュメントが現れる。ワルシャワ蜂起記念碑、実物は見上げるほど巨大で、戦う市民の、苦しみと覚悟をリアルに表現した群像が周囲から迫って来る勢いである。1944年8月1日、解放間近いと見た市民たちがドイツ軍に対して一斉に蜂起した。ヴィスワ川対岸にまできているソ連の援軍を期待したが、ついに来らず、ドイツ軍に制圧された。市街のほとんどが破壊され、2ヶ月後の降伏時に死者20万人に達したという。東京空襲での死者が10万人というから、その市街戦の規模は私には想像がつかない。1989年8月、45年を経て、この記念碑が建てられ、博物館も2004年に開設されている。先を急ぎ、入館することができなかったのが残念だった。 さらに旧市街へと進む中、ようやくメガネ屋さんが目に入り、飛び込んだ。眼鏡が壊れましてと、外れたレンズを差し出すと、女性店員はにこやかに「ちょっと待って」と奥に引っ込み、ものの数十秒?で修理、レンズも磨いてくれた。料金を尋ねると断られ、”have a nice day”と見送られたのだった。そして、旧市街広場に面してあるはずの歴史博物館が見あたらない。ガイドブックには入り口は小さいが中は広いとある。工事現場の隣にスタッフオンリーのほんとに小さな入り口を見つけたので、奥をのぞくと、今日と明日はショパンのイベントがあって休館だと、係員は説明する。

自転車で新婚旅行に出たキューリー夫人

がっかりして、砦、バルバカンの周辺をめぐり、川岸から離れ、キューリー夫人博物館へと向かう。キューリー夫人(1867~1934)の生家がそのまま博物館になっている。フランスに渡る1891年までここで暮らしたという。生誕100年を記念して1967年博物館として開放されている。多くの写真や資料とともに書斎が復元されていて、当時の雰囲気や彼女の全生涯がわかるようになっている。むかし、娘と一緒に読んだキューリー夫人の伝記で、彼女たちの新婚旅行は自転車の旅だったことを思い出し、探して見ると「あった!」、だいぶ高いところに、夫妻が、2台の自転車でまさに出かけようとしているスナップが飾られていた。帰りには、その写真が絵ハガキになっていたのでさっそく買ってしまった。 また、サスキ公園を経て、今度は、ワルシャワ・ゲットー記念広場へと向かう。分かってしまえば近い距離なのだが、地図を頼りようやくたどり着く。周辺は、工事中で、ユダヤ博物館が建設されるらしい。今は大きな英雄記念碑の前で、オジサンが一人、絵ハガキや関係資料を広げて売っていた。急に空が暗くなったと思ったら、すごい降りとなり、私たちは大きな街路樹の下でしばらく雨宿りとなった。傘を持たない通りすがりの人たちもしばし同じ木のもとで雨をやり過ごすのだった。10分もしないうちに雨は上がり、ひとまず帰ることにした。だいぶ歩きまわったので、ひと風呂浴びてから夕食に出ようということになった。また、横断歩道のところで地図を手に迷っていると、中国系のビジネスマン風の男性が声をかけてくれ、中央駅まではバスで二駅、歩いても20分あれば着きますよ、の言葉に歩き始めたのだが、結構きつかった。いったん止んだ雨が本降りとなってしまった。

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Gettokinenhi

ふたたび旧市街へ、本格的なポーランド料理とは

今回の旅行では、簡易な湯沸かしを持参していたので、宿の水を沸かせば、いつでも熱い日本茶が飲めたのはありがたかった。入浴後一息入れて、今度は車で、旧市街の「フキエル」へ行って本格的なポーランド料理?を食べてみようということになった。タクシーも乗降場までしか行かず、運転手は路地を入ってすぐのように教えてくれるが、結構探すのに苦労する。入り口が花や植木に囲まれている店だった。結局注文して、出てきた料理、私のスープは、アスパラの白とグリーンのポタージュ風、メインは鮭のフィレ、人参とカブの甘酢漬け風のサラダと白ワインであった。白アスパラは、メインの付け合わせにも登場したが、スープは格別だった。夕闇の王宮広場は、まだまだ、人の群れが途絶えていなかった。眼鏡騒動で始まった一日、長い一日が終わろうとしていた。この日の万歩計、33700歩。

5月13日(木)

聖十字架教会のミサ

はっきりしない空模様ではあったが、10時には開館するショパン博物館へ直行し、きのうはバスで素通りしたワルシャワ大学へ行ってみることにした。ホテルから乗った車の運転手は、しきりにショパン博物館はクローズしているというのだが、ともかく10時には開くのでと、降ろしてもらう。周辺は大掛かりな工事中で、大回りをして、近くの音楽学校のピアノ練習の音を聞きつつ、博物館らしい建物を見つける。だが、あたりは閑散として、幾つかのドアも閉まっている。大通りに面した入り口には、12時オープンの事務的な張り紙のみで、ガイドブックの記載と違う。運転手はこのことを言っていたのだろうか。たしかに3月末までは工事で閉館していたらしいが、今年は生誕200年でもあることだし、せめて通常の開館時間に戻してほしかった。今日は、中央駅1時24分発の列車でクラクフに向かわねばならないのだ。ともかくワルシャワ大学へと向かう。まず、右手にコペルニクス像が現れ、やがて左手に十字架を背負ったキリスト像が見えてきた。聖十字架教会のはずだ。階段を上がり、重い扉をそっと開けてみる。朝のミサのさなからしい。高い天井、正面の奥深くには、黄金の祭壇、祈りと聖歌が交互に続き、聖歌の歌詞は左手のスクリーンに映し出される。聖歌は、祭壇に歌い手がいるらしく、低く、やさしく魅力的な声で、荘厳に堂内に響き渡る。人々は共に歌い、立ちあがったり、膝まづいたり、一斉に祈ったりし、ときに周囲人々に握手を求めたりする。私もあわてて近くの青年と握手をする羽目となる。これがカトリックのミサなのかなと、キリスト教的素養のない私は妙に緊張する。後方の左手には、ショパンの心臓が埋められてあるという柱があり、国旗のテープが掛けられていた。観光客はむしろ少なく、地元の家族連れや老若男女がしきりに入って来るのだが、いつ果てるともない祈り、20分くらいいただろうか、表に出た。向かいの大学の正門を入ると、キャンパスの野外では、ミーテイングかゼミをやっているらしい幾組かのグループに出会う。1816年開学のこの大学ではショパンも学び、構内の宮殿にはショパン一家が住んでいた部屋もあるそうだ。ある建物では、ショパン展もやっていて、ワルシャワの歴史、ショパンの生涯が模型や図面、パネルや絵画などをふんだんに使っての展示だった。ゆっくりしたいところだったが、つれあいが、もう一度ピウスツキ元帥像を、人に邪魔されないでカメラに収めたいというので、出かけてみる。ピウスツキ元帥広場は相変わらずの人出であったが、元帥像付近は閑散としていた。

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発車ホームは何番?クラクフへ

ホテルに戻る途中、中央駅に着いたときから気になっていたのは、高い寺院風の塔と高層ビル、文化科学宮殿と呼ばれているもので、さまざまな施設が入居しているという。この巨大な建物は、1956年に完成したスターリンからの贈り物で、ガイドブックに拠れば、ワルシャワ市民にはすこぶる評判が悪いらしい。かつてはたくさんの観光客も来たのかもしれない。これまた巨大な駐車場ビルが今にも傾きそうな風情で建っていた。チェックアウト後、バゲッジを引きずり、中央駅構内で、昼食になりそうなものを物色、鳥のソテーとサラダを一皿ようやく買い込んだ。ビールを探すが、どこにも置いてないようなのだ。それに、クラクフ行きの発車ホームを探すが、ボードにはなかなか表示が出ないのであわててしまう。5分ほど前にようやく表示が出、結局いちばんにぎわっているホームだったことがわかった。コンパートメントに落着き、相席の男性には申しわけなかったが、これまた、ホテルから“頂戴”したパンと果物も取り出した。つれあいによれば、車内の売店にもビールはなかったそうだ。4時には、クラクフに着く列車の旅、眠りに落ちるまではと、メモの整理を始めるのだった。列車への乗り際、駅の案内所でもらった日本語の「ワルシャワの簡単な紹介」(ワルシャワ観光案内所 2008年)という135頁の小冊子が、日本から持ってきたどのガイドブックよりも詳しく、史料的にはいちばん役に立った。到着時に入手していればと、あとのまつりの悔しさを味わった。ただ、目的別・ルート別になっているので、同じ施設が何か所にも出てくる、索引でもあればな、と贅沢言いたくなるのだった(続く)

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2009年12月26日 (土)

『カティンの森』『大理石の男』、ワイダの新旧二作品を見る

 『灰とダイヤモンド』のラストシーン

アンジェイ・ワイダ(1926~)作品との最初の出会いは、『灰とダイヤモンド』(1958年)のはずだ。日本公開から数十年後のテレビ放映ながら、反政府ゲリラの暗殺者の青年がもんどりうって倒れても、なお執拗に銃で撃たれるラストシーンの衝撃は忘れ難い。暗殺の「仕事」はこれが最後だと、恋人を振り切ってきたばかりの主人公の死であった。この作品は、19455月、ドイツ降伏前後のポーランドの数日間の出来事という設定だった。ソ連を後ろ盾にしたポーランド政府への抵抗映画に思えたのだが、制作された当時の共産党体制下のポーランドでは、ラストシーンの青年の死は、体制への抵抗の空しさと仕打ちを表現したものと評価されたという。

 『大理石の男』を追う、若い女性の執念

そして、この12月に入って、『大理石の男』(1977年)のテレビ放映を見ることができた。あらかじめ少しばかりネット検索はしたものの、どうもイメージがつかめなかった。当初、テンポが速く、過去と現在が入り混じっていて、ついていけない感じもあったが、見ているうちに思わず引き込まれた、2時間40分の大作であった。

ポーランドの映画大学の卒業制作では、テレビ局の機材とスタッフが利用できるらしい。1952年生まれという設定の女子学生は、博物館の金網で囲われた倉庫に放置された若い労働者の大理石像を見つけた。彼女は、その若い労働者がなぜ大理石像にまでなって讃えられ、そして、なぜいま埃をかぶって倉庫に横倒しになっているのかを、卒業制作のテーマにすることにした。博物館では撮影を断られ、大学の指導者はなぜか、そのテーマに難色を示す。テレビ局の古い記録フィルムやスタッフの話で、大理石像になった青年はビルクートといい、1950年代後半、コンビナート建設が盛んな時代に、8時間通してレンガを積み続ける優秀なレンガ工として有名になり、「労働英雄」として称賛されていたのだ。だが、彼を讃える肖像画も引きずり降ろされる記録フィルムも出てきた。現在、その彼の行方は杳として知れない。女子学生が取材に訪れた関係者は誰もが口を閉ざし、触れたがらない。そんな中、「あのヤケド事件」がカギではないかとの情報を得る。

その証言と再現によれば、ビルクートが仲間と一緒に各地の工事現場に招かれ、模範実技を披露する日々が続く。そんなある日、工事現場の労働者の観衆の前で、実演のさなか、一つのレンガが手渡された後、彼はその場に倒れ込む。高度に熱せられた1個のレンガが彼に手渡され、両手に酷いヤケドを負ったのだった。以降、レンガ工として再起できなくなってしまう。なぜそんなことが起きたのか。仲間のやっかみなのか、もっと組織的な事件だったのか、見ている方も不安になる。女子学生はかつての記録映画の監督で、いまをときめく人物への突撃取材で、さらに真相に近づくことになる。最も信頼していたレンガ工仲間の裏切りが示唆されたり、その仲間の弁護をしようとすれば遠ざけられたり、いろいろな曲折を経て、元の職場の組合幹部に迎えられようともする。ビルクート自身はひたすら真相を知りたいと思うが、その壁は厚い。家族とも遠ざけられた彼が、ようやく会えた妻に裏切られていたことを知る。そこまでのいきさつを知った女子学生は、さらに、彼の息子の消息を知り、働く造船所の前で待ち伏せし、聞かされたのは父ビルクートの死であった。彼女は、その息子を連れて、意気揚々とテレビ局に向かうのだった。何か明るい展開がありそうなラストシーンではあった。

女子学生の取材と周辺人物の証言の積み重ねで、徐々に真相が明らかになっていく。市民が時の政府や党の都合でいかに翻弄されていくのかを、丹念に解き明かしていく手法はさすがと思った。

テレビでは、放映前に、82歳になるワイダ監督への取材フィルムが流されていた。この映画の構想はすでに1963年には出来上がっていたが、なかなか映画制作の許可が下りなかったといい、13年後の1970年代後半、当時、ようやく許可した文化大臣は、この映画の件で辞任させられたという。

こんな緊張感のある映画製作過程が、映画の中で<大理石の男>のドキュメンタリー制作に挑む女子学生にもそのまま投影されている作品になっていた。

『カティンの森』をどう伝えるか

映画評論家の友人、菅沼正子さんの推奨作品、アンジェイ・ワイダの最新作『カティンの森』(2007年)が岩波ホールで公開されている。本ブログのマイリスト登載の地域ミニコミ誌『すてきなあなたへ』58号には、菅沼さんの映画評があるので、そちらもご覧いただきたい。クリスマスも近いある日、岩波ホールへと出かけた。週日ながらほぼ満席で、やはりシルバー組が多い。

<カティンの森>とは何があったのか。「カティン」といわれて、私は正直なところ、ソ連のフルシチョフ時代、大統領が「カティンでのポーランド将校らの大量虐殺はソ連の手でなされたことを認めた」という報道がされたのを思い起こすくらいであった。すでに、多くの新聞の映画欄に登場しているので、ここでは簡単に紹介しておきたい。

1939年、ドイツとソ連がポーランド不可侵条約を結んだ直後、91日ドイツ軍が、917日ソ連軍もポーランドに侵攻する。クラクフからポーランド東部まで、将校である夫を追ってきた妻アンナと娘。ブク川の橋は、ドイツ軍に追われ、身一つで逃げてきた人々であふれる。橋の反対側からはソ連軍に追われてきたという人々。「クラクフ第8槍騎兵隊はどこか」と尋ねるアンナ、途中の教会は野戦病院となり、近くの駅から、ソ連軍の捕虜となったポーランド将校たちが列車に乗せられようとしていた。夫、アンジェイの姿を見出したアンナ、一瞬の逢瀬に、脱出を勧めるアンナ、軍への誓いを説くアンジェイ、ふたりはソ連軍兵士に引き裂かれ、アンジェイらを乗せた軍用列車は去ってゆく。一方、アンジェイの父、クラクフ大学教授のヤンは、大学に一堂に集められた同僚たちと共に「反独宣伝の拠点だった大学閉鎖」を告げられ、突然収容所送りのトラックに乗せられるのだった。ここから、アンナとヤン夫人の夫の帰りを待つ「闘い」が始まるのだ。

アンジェイは収容所での過酷な暮らしの中で、不安を抱きながらも手帳に記録を残す。これによって、家族らに真実の一端が知らされることになるのだ。ふたりの妻の話を核に、夫や兄がカティンの森の犠牲者となった、大将夫人ルジャと娘、アンナの兄の妻と息子、中尉の妹たちも、受け入れがたい事実の真相を探ろうとするなか、ドイツ軍とソ連軍に翻弄されつつも様々な抵抗をこころみる勇気とプライドが胸を打つ。

そして、行方不明になった15000人ともいわれるポーランドの将校たちは、当初ソ連軍によりドイツ軍に虐殺されたと宣伝され、ドイツ軍はソ連軍による虐殺だと断定する。長い間、ポーランドにおいてすらタブーとされていたカティンでの虐殺は、1940年当時、ソ連領だったカティンで、スターリンの命令によるソ連軍の手になる大量虐殺であったことが明らかとなり、フルシチョフはそれを認めて謝罪している。

父親をカティンで虐殺されたアンジェイ・ワイダは、今回の映画で、ソ連軍による虐殺の実態を執拗なまでに再現し、その残酷さと虚しさを訴えている。ラストに近い、そのシーンは何分ほど続いただろうか。目をそらしてはいけないのだというメッセージは重い。

数あるワイダの作品の中から私が見ている、わずか3作品に触れたが、これらに共通しているのは、戦争や暴力が生み出す狂信の愚かさ、残酷さと虚しさではないかと思う。そこには愛の絆も強調されるが、同時に見逃してはならないことは、体制や時代、状況にあわせて生き延びたり、いい思いをしたりしている人々への視線ではなかったか。必ずそういう人物を複数登場させて、声高に責めることはしないが、見る者の喚起を促し、考えさせる点が優れていると思う。『大理石の男』の映画監督やコンビナート建造現場の監督となっている主人公が信頼していた同僚、『カティンの森』の、市長夫人となった大将一家の家政婦、アンジェイの親友イジェ(苦悩の末、自殺するのだが)などであった。

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