~最近のおたよりから~
島根県「静窟詩社」と中島雷太郎・ミヨ子歌集『径づれ』のこと
戦時下の歌人の記事に、「私は<静窟詩社>の中島雷太郎の息子です」というおたよりをいただいた。<静窟詩社>は、私が初めて知る、地方の文芸活動の一つだった。以下は、おたよりに付された中島雷太郎さん、中島ミヨ子さんがそれぞれ執筆された「自分史」による。
雷太郎(1912~2000、島根県静間村生)は、銀行(本店は松江市の八束銀行)勤めの傍ら、村内青年団の仲間でガリ版雑誌を発行したりしたが、1935年(昭和5年)12月、「静窟(しずがいわや)詩社」を結成して文芸誌『静窟』を創刊(1937年5月『山陰詩脈』と改名)した。満州事変前夜、無産派文芸台頭の時代でもあったが、警察からは、同人の思想調査や印刷物への手入れがあったりして、その介入により、『山陰詩脈詩歌集』(1933年)、中島雷太郎単著の詩集『磯松』(1935年)などを残し、『山陰詩脈』も廃刊、静窟詩社は、5年の活動に終止符を打った。仲間の紹介で、1936年、ミヨ子(1914~2013)と結婚した。1940年、地元出身の実業家、奉天の田原組に招ばれ、渡満した。
敗戦までの夫妻の足跡は、ミヨ子の自分史につぎのような略年表であらわされているが、その一行、一行は重い。
昭和一二年一〇月長女出生一一月死亡。
昭和一三年一二月次女出生。
昭和一五年九月次女を連れ渡満する。
昭和一六年一一月三女出生。
昭和一七年一二月姑死亡。
昭和一八年五月三女死亡。
昭和一八年一二月長男出生。
昭和二〇年七月夫召集にて入営。
昭和二〇年八月敗戦。
昭和二〇年九月夫抑留。
昭和二〇年一二月四女出生。
雷太郎は、『満州日日新聞』の投稿欄に短歌を寄せていた時期もあったというが、敗戦後は、イルクーツクのマリタ収容所に始まるシベリア抑留生活は、1945年12月から1948年12月までに及んだ。その過酷な体験を、細部に至るまで、時の感情を交えながらも冷静なタッチで記録されている部分が、自分史の中での圧巻であり、読者には衝撃となる。
時代は下って、1990年、雷太郎78歳、夫妻の金婚式を記念して、友人・知人・親類に配られたという夫妻の合同歌集『径づれ』(私家版)があるという。これは国立国会図書館には所蔵されていないようだ。このたびメールをくださった子息の中島さんが戦前を中心に再編集された『径づれ』のなかから、一部を紹介してみたい。
中島雷太郎
(終戦直前直後)
○やがてまた逢へる気のして妻子らへ手を振りつつも涙は出でず(奉天駅)
○輜重兵のわれらに馬なく車なく蛸壺掘るを日課となせる
○営庭に蛸壺掘るを日課とし、敵機は今日も見えず暮れゆく(海城輜重隊)
○箱型の爆弾抱き敵戦車めがけ飛び込む任務なりとふ
(シベリア抑留)
○重大放送を営庭に並び聞きおれど古きラジオの音声みだる
○曳けど押せど橇は動かずアムールの氷上に捕虜のわれら声無し
○冴えざえとつきに照らされ収容所の望楼に歩哨の動くが見ゆる
○零下五十度寒さ肌刺す庭に立ち虱の検査に上衣脱がさる
○日本の元旦のならひ偲びつつ一切れのパン噛みしむる今朝
○在満の子らの年令を数へつつ元旦の今朝も作業に出でたつ
○餓じさとノルマに力尽き果てて戦友あまたシベリアに死す
○凍土を砕きて屍を埋めたりき冬回るたびに戦友の偲ばゆ
○シベリアゆ白鳥今年も飛来せり埋もれしままに戦友は帰らず。
○シベリアに消ゆべき生命守りきて平成元年喜寿を迎ふる
○港湾の工事場のブル音止みて終戦記念日のサイレン響く
○引き揚げに子ら幾人を喪いぬ遺影幼きまま五〇年
中島ミヨ子
(終戦直前直後)
○二重窓を越して黄砂の降れる日は幾度も畳拭きし奉天
○ライラック杏柳と一刻に萌えて花咲く満州の春
○手引く子も背の子も吾もベール被り目鼻覆いて市場に通ふ
○冷蔵庫に残されしごと敗戦の冬のアパートに母子四人は
○断水にベランダの雪掘りとりて炊けど飯にはならぬ日ありき
○銃釼もつソ連兵来て靴のまま畳に突立つ母子の部屋に
○夫の行方不明と聞けど三人の子に支えられて度胸を据えつ
○子連れ吾に太く握りし飯を賜ぶ引き揚げ船の飯炊きの老
○夫拉致され後に生まれし幼児は父にまみゆる日の遂になく
○児を胸にくくりて重きリュック背に引き揚げしこと忘れ難しも
○既に亡き吾が児の五人がいまあらばと孤児のニュースに涙新たなり
○老祖母を訪ねて幼き遺児二人引き揚げしとふ友の悲話聴く
○機銃掃射に高梁畑で母を失ふ孤児の語るは敗戦の悪夢
○残留孤児人ごとならず吾児二人同時に喪ひしわが逃避行に
○引き揚げし病院の窓に隈なかりし名月が今も愁に沈ます
○体温計一ぱいに上がる高熱も医薬なければ只病児抱く
○飢えに堪え病に堪えて命の灯暫し灯しぬ四才と二才
○命の灯消えゆく見つつかの日より不可抗力という事を知る
○十年経て尚癒えやらぬ創跡は一人耐えつつ生くべきものぞ
今回のことがきっかけで、これまで、私が「シベリア抑留」についてあまりにも知らなかったことに愕然とする。これまでといえば、香月泰男(1911~1974)の「シベリア・シリーズ」、高杉一郎(1908~2008)の『極光のかげに』などを知るくらいだった。近年公刊された沢山の体験記があることも知った。私が参加している『ポトナム』短歌会の古くからの同人であった板垣喜久子さん(板垣征四郎夫人)次男板垣正さんもシベリアに抑留されていて、帰国後の去就、その後の政治活動なども後から知ったことだった。
「シベリア抑留」の実態は、いまだに不明な点が多く、日本人抑留者の数、死亡者数などですら諸説があったが、日本政府は、約57万5000人の抑留者の中、死亡が確認された方々が5万5000人との推定を発表し続けていた。1991年には、ロシアから4万1000人の死亡者名簿が提出され、2009年にはロシア国立軍事公文書館で旧ソ連に抑留された日本人の記録カードが最大で76万人分発見されたというニュースも流れた(『東京新聞』2009年7月24日)。なぜこれほどの多くの人々が抑留されることになったのか。
ここでは詳しく述べないが、敗戦直後の関東軍で何が起きていたか。ソ連で何が起きていたか。シベリア抑留に際して登場する朝枝繁春参謀の内地への報告書などから、敗戦直後、捕虜の扱いを超えた「抑留」という名のソ連による労働力確保策と日本の自国民放棄にも似た放置策が相まっての結果だということもわかってきた。さらに、現在に至るまで、日本政府や官僚たちは実態調査を怠り、抑留者の法的、経済的救済を求めた裁判も原告敗訴の最高裁判決で司法的な決着(1999年4月、2004年1月)がつけられた形だった。民主党政権下、「戦後強制抑留者特別措置法(シベリア特措法)」は、いろいろな課題や不備を持ちながらも、自民党と公明党の欠席のもと、ともかく可決されたのは2010年6月16日だった。これまでの年月は何であったのだろう。そして、「国土と国民を守る」「国益を守る」と胸を張る安倍政権のいう「国土」「国民」「国益」って、何なのだろう。いざとなったら、「国民」を切捨てることを何とも思わない「国」を、歴史はもの語っているのではないか。
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中島ミヨ子さんは、5月8日に99歳でお亡くなりになりました由、中島康信さんが私へのブログにおたよりくださった直後のことでした。ご冥福を祈ります。
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2013年 5月 30日追記:
折しも新聞でつぎのような記事を見つけた。
国際シンポ「シベリア抑留の実態解明へ―求められる国際交流と官民協力」
(毎日新聞2013年5月29日夕刊)
なお、シンポの案内チラシは、下記に掲載されている。
http://www.seikei.ac.jp/university//caps/japanese/06event_information/sympo-first.pdf#search='%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99%E3%81%AE%E5%AE%9F%E6%85%8B%E8%A7%A3%E6%98%8E%E3%81%B8+%E6%88%90%E8%B9%8A%E5%A4%A7%E5%AD%A6'
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