2014年11月 6日 (木)

ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20~28(5)

マルクト広場に金曜の市場が

 1024()、今日の午前中で、ライプチッヒを離れる。まず、マルクト広場を経て、元国家保安省にあるルンデ・エッケ記念博物館に行ってみることになった。今朝のマルクト広場は、乗り入れの車とテント、市場の準備に実ににぎやかで、すでに買い物を始めている人もいる。

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金曜朝のマルクト市場、かぼちゃもごろごろ・・・。

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”kaki"は、平たいものでなく、筆柿を大きくしたような形で、甘かったので、今回、2度ほど買い込んだ

 

ルンデ・エッケ記念博物館~まーるい角の国家保安省跡に
 ルンデ・エッケ記念館というのは、ナチス時代、東独時代における国家保安省の建物に、当時の国民監視・弾圧の実態を詳細に、その実際の手口などが紹介されているという程度の前知識である。ちょっと想像もつかなかったのだけれど、トーマス教会前のマルティン・ルター・リングを、昨日と反対の東に折れて広い公園の緑地に沿ってしばらく歩く。もうこの辺なのにと思い、通行の男性に尋ねると、やはり近かった。大きな垂れ幕のある円形の建物が見えてきた。1010分前、開館を待つ23人が見えた。今日はスムーズにたどり着けたぞ、の思い。ここも、入場無料。入り口正面の階段上には、「この建物は政府と国民会議によって建てられた?」の垂れ幕が。1989年までは、国家保安省としての機能を果たしていた場所に、なるほど、案内にあったように、14室と狭い廊下には、壁の展示と展示物でいっぱいであった。展示は、写真や図表が多いので、私にはわかりやすい部分もあった。1989124日、ライプチィヒ地区の秘密警察本部はデモ隊により占拠され、平和革命の象徴的な出来事だったという。「ルンデ・エッケ」とは、丸い角とよばれた国家保安省の建物を指している。ナチス時代、青少年や女性の教育、組織にいかに力を入れたか。そしてスポーツ、マスゲームなどを通じて、統制を強めて行ったかなど、数々の写真が示していた。それは東独時代も同様であった。さらに、信書や電話の秘密がいかに侵されていたか、住居や会議がいかに監視されていたかなどが、具体的にどんな組織や機器で実施していたかが説明されている。現在の中国・北朝鮮・ロシア、アメリカのCIAなどにおいても、その技術こそ進化しているけれど、似たようなことをしているに違いない。日本におけるかつての特別高等警察いわゆる「特高」やアメリカの占領軍が、その手口をこれほどまで克明に明かしているだろうか。「ナチスを真似れば」の発言で物議をかもした閣僚もいる日本である。やはり不安を禁じ得なかった。

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ルンデ・エッケ記念博物館の10時の開館を待つ

Gedc3861「子どもとスポーツ」とあり、見出しは、すべて段ボールをちぎって、凹凸のある裏側に手書きされていた

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通信・電話の秘密?(盗聴の仕組み)

ようやくのメンデルスゾーン・ハウス

 重い気分で出たルンデ・エッケだったが、あらためて、メンデルスゾーン・ハウスに再挑戦した。近くまで来ているはずなのだがと、乳母車を押す若い女性に尋ねてはみるが分からなっかった。さらに少し歩いたところで、今度は、年配のご夫婦づれに尋ねると、「こんにちは」と日本語が返ってきた。「このすぐ先です」とのこと。聞けば、大阪に仕事で住んでいたことがあるということだった。もっとお話ししたい気持ちだったが、ライプチッヒを離れる時も迫っているので、「ありがとう、さよなら」と先を急いだ。通り過ぎてしまいそうな入り口であった。この博物館は、若死にしたメンデルスゾーン(18091847年)が最晩年1845年から住んでいた家で、丁寧に修復された後、1997年にオープンしている。そんな昔のことではないことが分かった。日本語のオーディオ解説が聞けるというのでお借りした。係員は、その機器の使い方と館内の回り方を案内してくれる。ほんとうは、ゆっくり説明を聞きながら、回りたかったけれど、3040分ほどで切り上げたのが残念だった。メンデルスゾーンの早くよりその才能に着目した父親による英才教育、メンデルスゾーン自身はイギリスはじめ各国の演奏旅行をしながら多くの文化人と交流をし、作曲家としても注目された様子が伺われた。また、バッハ音楽復興にも尽力している。ユダヤ系の一族は、迫害を受けていたが、ナチス時代には、彼の曲の演奏まで禁じられた。ゲバント・ハウス前の記念像は1936年撤去され、トーマス教会前の公園で、バッハ像と向かい合っているように思えたメンデルススゾーン像は、比較的最近の2008年に、再建されたものだという。

ライプチッヒ中央駅1453分発、ベルリンに向かう。

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建物は大きいのだが、入り口は、うっかりすると通り過ぎてしまいそうなメンデルスゾーン・ハウス

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 書斎

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 中庭、正面のバラに囲まれた胸像と白いベンチが眩しい

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メンデルスゾーン・ハウスのガイドとチケット

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 このタワービルを目印に、道を教えてくれたのだが 

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 ライプチッヒ中央駅、さようなら

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ドイツ鉄道の駅のホームは、どこも広く、日本の倍以上はありそうだ。
ホーム・線路改修工事に働く人々。駅に改札というものはないが、長距離の場合は、
必ず車掌の検札がまわってくる

 

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2013年5月24日 (金)

ブログ開設、8年目に(2)解明いまだ、シベリア抑留

~最近のおたよりから~

島根県「静窟詩社」と中島雷太郎・ミヨ子歌集『径づれ』のこと 

 戦時下の歌人の記事に、「私は<静窟詩社>の中島雷太郎の息子です」というおたよりをいただいた。<静窟詩社>は、私が初めて知る、地方の文芸活動の一つだった。以下は、おたよりに付された中島雷太郎さん、中島ミヨ子さんがそれぞれ執筆された「自分史」による。

 

雷太郎(19122000、島根県静間村生)は、銀行(本店は松江市の八束銀行)勤めの傍ら、村内青年団の仲間でガリ版雑誌を発行したりしたが、1935年(昭和5年)12月、「静窟(しずがいわや)詩社」を結成して文芸誌『静窟』を創刊(19375月『山陰詩脈』と改名)した。満州事変前夜、無産派文芸台頭の時代でもあったが、警察からは、同人の思想調査や印刷物への手入れがあったりして、その介入により、『山陰詩脈詩歌集』(1933年)、中島雷太郎単著の詩集『磯松』(1935年)などを残し、『山陰詩脈』も廃刊、静窟詩社は、5年の活動に終止符を打った。仲間の紹介で、1936年、ミヨ子(19142013)と結婚した。1940年、地元出身の実業家、奉天の田原組に招ばれ、渡満した。 

敗戦までの夫妻の足跡は、ミヨ子の自分史につぎのような略年表であらわされているが、その一行、一行は重い。

 

 昭和一二年一〇月長女出生一一月死亡。 

 昭和一三年一二月次女出生。 

 昭和一五年九月次女を連れ渡満する。 

 昭和一六年一一月三女出生。 

 昭和一七年一二月姑死亡。 

 昭和一八年五月三女死亡。 

 昭和一八年一二月長男出生。 

 昭和二〇年七月夫召集にて入営。 

 昭和二〇年八月敗戦。 

 昭和二〇年九月夫抑留。 

 昭和二〇年一二月四女出生。

 

 雷太郎は、『満州日日新聞』の投稿欄に短歌を寄せていた時期もあったというが、敗戦後は、イルクーツクのマリタ収容所に始まるシベリア抑留生活は、194512月から194812月までに及んだ。その過酷な体験を、細部に至るまで、時の感情を交えながらも冷静なタッチで記録されている部分が、自分史の中での圧巻であり、読者には衝撃となる。 

時代は下って、1990年、雷太郎78歳、夫妻の金婚式を記念して、友人・知人・親類に配られたという夫妻の合同歌集『径づれ』(私家版)があるという。これは国立国会図書館には所蔵されていないようだ。このたびメールをくださった子息の中島さんが戦前を中心に再編集された『径づれ』のなかから、一部を紹介してみたい。

 

中島雷太郎 

(終戦直前直後) 

○やがてまた逢へる気のして妻子らへ手を振りつつも涙は出でず(奉天駅) 

○輜重兵のわれらに馬なく車なく蛸壺掘るを日課となせる 

○営庭に蛸壺掘るを日課とし、敵機は今日も見えず暮れゆく(海城輜重隊) 

○箱型の爆弾抱き敵戦車めがけ飛び込む任務なりとふ 

 (シベリア抑留) 

○重大放送を営庭に並び聞きおれど古きラジオの音声みだる 

○曳けど押せど橇は動かずアムールの氷上に捕虜のわれら声無し 

○冴えざえとつきに照らされ収容所の望楼に歩哨の動くが見ゆる 

○零下五十度寒さ肌刺す庭に立ち虱の検査に上衣脱がさる 

○日本の元旦のならひ偲びつつ一切れのパン噛みしむる今朝 

○在満の子らの年令を数へつつ元旦の今朝も作業に出でたつ 

○餓じさとノルマに力尽き果てて戦友あまたシベリアに死す 

○凍土を砕きて屍を埋めたりき冬回るたびに戦友の偲ばゆ 

○シベリアゆ白鳥今年も飛来せり埋もれしままに戦友は帰らず。 

○シベリアに消ゆべき生命守りきて平成元年喜寿を迎ふる 

○港湾の工事場のブル音止みて終戦記念日のサイレン響く 

○引き揚げに子ら幾人を喪いぬ遺影幼きまま五〇年

 

中島ミヨ子 

(終戦直前直後) 

○二重窓を越して黄砂の降れる日は幾度も畳拭きし奉天 

○ライラック杏柳と一刻に萌えて花咲く満州の春 

○手引く子も背の子も吾もベール被り目鼻覆いて市場に通ふ 

○冷蔵庫に残されしごと敗戦の冬のアパートに母子四人は 

○断水にベランダの雪掘りとりて炊けど飯にはならぬ日ありき 

○銃釼もつソ連兵来て靴のまま畳に突立つ母子の部屋に 

○夫の行方不明と聞けど三人の子に支えられて度胸を据えつ 

○子連れ吾に太く握りし飯を賜ぶ引き揚げ船の飯炊きの老 

○夫拉致され後に生まれし幼児は父にまみゆる日の遂になく 

○児を胸にくくりて重きリュック背に引き揚げしこと忘れ難しも 

○既に亡き吾が児の五人がいまあらばと孤児のニュースに涙新たなり 

○老祖母を訪ねて幼き遺児二人引き揚げしとふ友の悲話聴く 

○機銃掃射に高梁畑で母を失ふ孤児の語るは敗戦の悪夢 

○残留孤児人ごとならず吾児二人同時に喪ひしわが逃避行に 

○引き揚げし病院の窓に隈なかりし名月が今も愁に沈ます 

○体温計一ぱいに上がる高熱も医薬なければ只病児抱く 

○飢えに堪え病に堪えて命の灯暫し灯しぬ四才と二才 

○命の灯消えゆく見つつかの日より不可抗力という事を知る 

○十年経て尚癒えやらぬ創跡は一人耐えつつ生くべきものぞ

 

 今回のことがきっかけで、これまで、私が「シベリア抑留」についてあまりにも知らなかったことに愕然とする。これまでといえば、香月泰男(19111974)の「シベリア・シリーズ」、高杉一郎(19082008)の『極光のかげに』などを知るくらいだった。近年公刊された沢山の体験記があることも知った。私が参加している『ポトナム』短歌会の古くからの同人であった板垣喜久子さん(板垣征四郎夫人)次男板垣正さんもシベリアに抑留されていて、帰国後の去就、その後の政治活動なども後から知ったことだった。

 

 「シベリア抑留」の実態は、いまだに不明な点が多く、日本人抑留者の数、死亡者数などですら諸説があったが、日本政府は、約575000人の抑留者の中、死亡が確認された方々が55000人との推定を発表し続けていた。1991年には、ロシアから41000人の死亡者名簿が提出され、2009年にはロシア国立軍事公文書館で旧ソ連に抑留された日本人の記録カードが最大で76万人分発見されたというニュースも流れた(『東京新聞』2009724日)。なぜこれほどの多くの人々が抑留されることになったのか。 

 ここでは詳しく述べないが、敗戦直後の関東軍で何が起きていたか。ソ連で何が起きていたか。シベリア抑留に際して登場する朝枝繁春参謀の内地への報告書などから、敗戦直後、捕虜の扱いを超えた「抑留」という名のソ連による労働力確保策と日本の自国民放棄にも似た放置策が相まっての結果だということもわかってきた。さらに、現在に至るまで、日本政府や官僚たちは実態調査を怠り、抑留者の法的、経済的救済を求めた裁判も原告敗訴の最高裁判決で司法的な決着(19994月、20041月)がつけられた形だった。民主党政権下、「戦後強制抑留者特別措置法(シベリア特措法)」は、いろいろな課題や不備を持ちながらも、自民党と公明党の欠席のもと、ともかく可決されたのは2010616日だった。これまでの年月は何であったのだろう。そして、「国土と国民を守る」「国益を守る」と胸を張る安倍政権のいう「国土」「国民」「国益」って、何なのだろう。いざとなったら、「国民」を切捨てることを何とも思わない「国」を、歴史はもの語っているのではないか。

 

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島ミヨ子さんは、5月8日に99歳でお亡くなりになりました由、中島康信さんが私へのブログにおたよりくださった直後のことでした。ご冥福を祈ります。

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2013年 5月 30日追記:

折しも新聞でつぎのような記事を見つけた。

国際シンポ「シベリア抑留の実態解明へ―求められる国際交流と官民協力」

(毎日新聞2013年5月29日夕刊)

なお、シンポの案内チラシは、下記に掲載されている。

http://www.seikei.ac.jp/university//caps/japanese/06event_information/sympo-first.pdf#search='%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99%E3%81%AE%E5%AE%9F%E6%85%8B%E8%A7%A3%E6%98%8E%E3%81%B8+%E6%88%90%E8%B9%8A%E5%A4%A7%E5%AD%A6'

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2013年5月30日 鉢から植え替えて数年、ことしも開き始めたアマリリス


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2011年5月 7日 (土)

緊急シンポジウム「原発事故とメディア」に出かけました

     緊急シンポジウム「原発事故とメディア」

日時:2011430日(土)午後130分~430

場所:新宿歴史博物館

プログラム

基調講演:「福島第一原発事故に関するメディア報道の検証」

講師:広河隆一(フォトジャーナリスト)

ディスカッション「原発事故とメディア」:

     パネリスト:後藤政志( 元東芝原子炉設計技術者)

           渡辺実(防災・危機管理ジャーナリスト)

           寺尾克彦(福島放送労働組合)

     コーディネーター:砂川浩慶(立教大学准教授)      

主催:メディア総合研究所・開かれたNHKをめざす全国連絡会

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左より講演中の広河氏、パネリストの渡辺氏、後藤氏、寺尾氏

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 会場には、40分以上も前に着いたのに、あたりは大変な混雑で、行列ができていた。講堂には椅子だけが並べられていて、100席はあるように思えたが、壁際や通路、入り口付近にも人が一杯になった。

 広河さんは、トレードマークらしい野球帽をかぶったまま、最初に話し始めたのは、312日午後336分の1号機の水素爆発を受けた、夕方からの原子力安全・保安院の会見後、「直ちに住民の健康に影響を与えるものではない」という文言が、NHKのアナウンサーと記者の言葉として語られたことの重大性だった。アナの「危険が高まったという段階ではないですね」の質問に、記者は「(原発事故の状況は)すぐさま、人体に影響を与えるものではない」と、メディアが原発の安全性をオーソライズ、追認する形が出来上がったと、指摘した。また、事故後25年になるチェルノブイリには50回以上通っているということで、原発施設の労働者や周辺住民、研究者など、個人に寄り添った取材が伝わってきた。当然、次に取材に行ったときは亡くなられていたというケースもある。報道管制下の当時のソ連の事故対策と福島の場合を比べていく中で、日本の政府や企業の事故の重大性をチェルノブイリの「10分の1にすぎないからまだ安全」という過小評価をつねにマス・メディアが追認している構造を告発していた。分かりやすくいえば、10分の1ということは、広島の原爆の50個分を意味し、大気中に流れた空間線量のみを問題にしているにすぎないという。ともかく、原発はいったん停止して、考えよう、というのが締めくくりだった。

 後藤さんは、1989年来、10数年間、東芝で原子プラント設計に携わってこられた技術者である。今回の事故では悔しさと怒りで、やむにやまれず警告を発している一人である。津波で非常用のディーゼルが止まったことに端を発する事故であるが、「止める・冷やす・閉じ込める」という原則が、核反応制御の失敗、炉心損傷、圧力容器損傷、格納容器損傷というシビアな事故に成果が上がらず、水素爆発・水蒸気爆発・再臨界を防げなかったという。その原因は、地震・津波がきっかけではあるが、機器のトラブルと人為的ミスが重なり、そもそも自然環境条件の設計ミスとプラントの原子炉の集中立地に問題があった、という。まだ、収束していない福島原発の事故では、炉心の冷却、使用済燃料プールの冷却、格納容器の損傷確認と注水など重要である、ということが分かった。

 寺尾さんは、現在は福島放送の営業部であるが、大震災の取材の応援に駆り出されたアナウンサーでもあった。地元メディアの、被災地・被災者と東京のキー局とのはざまでの苦悩もあったという。福島原発事故報道では、かなりの報道陣が決死の思いで取材にあたっていたかのような印象受けていた。しかし、寺尾さんの話によれば、放送局と社員、放送局と労組の間では、局によりその範囲はまちまちであったが、10キロ範囲には絶対入るな、なかには40キロ範囲に社員は入れるな、という取材制限がかなり厳密に実施されているという。そして「直ちに健康に影響を与えるものではない」という政府広報を繰り返していたメディアの実態をどうとらえるべきか。あえて危険を冒せとは言わないが、危ない取材は、ここでもフリーランスのジャーナリストたちなのだろうか。

 渡辺さんの話は、地震直後日本テレビ局で缶詰めになったこと、原発事故の行方が分からずシナリオが描けない・・・など、だいぶ緩いコメンテーター振りで、会場からのブーイングもあった。

 

 311日、山手線車内で地震に遭遇、帰宅困難者となったこともあって、東京へ出るのが億劫になっている昨今、広河さんや後藤さんの話が聞けてよかったと思っている。ただ、参加者との質疑の時間が取れなかったのは残念だった。同じ佐倉から参加していた友人は、「あれでおしまい?もっと先が聞きたい」との感想を漏らしていた。

 「震災報道とNHKニュース7」の後半をまとめるつもりが、取り急いでの報告と相成った次第である。

 

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2010年4月16日 (金)

書庫の隅から見つけた、私の昭和(2)昭和40年代のソ連映画

書棚の端の埃だらけのマチのある封筒から出てきたのは、『キネマ旬報』数冊と横長の薄いパンフレットが10冊近く。パンフには「ソビエト映画祭」とあり、並べてみると、第2回(1964年)から第12回(1974年)分までそろう。その体裁は、よくみるとA4、B5の横長、B5の縦長とめまぐるしくかわる。そういえば、このころだったのか、毎年秋になると、新聞などに発表される日程を見て、ソ連大使館に往復はがきを出しては、入場券をゲットしていたことを思い出す。まだ、映画青年のはしくれのつもりで、映画とは縁が切れていなかったわけだ。劇場で映画を見ることはめっきり少なくなっていた一方で、職場に、文学座の友の会?の友人がいてチケットを買わされたり、民芸や俳優座養成学校の卒業公演などを見に行ったりしたのもこのころだったか。

ソビエト映画祭のパンフをながめると、見ているはずの映画の題名すらも覚束ない。全国で23か所を巡回して短編も含めて36編が上映されるのが恒例であった。東京会場は、有楽町の読売ホールだったり、サンケイ会館、虎ノ門ホールだったりしている。全編を見たくて2日間通ったこともある。なにがそんなに魅力的だったのか、と思い返す。私のソ連映画体験の最初は“総天然色映画”『石の花』」(1946年製作、アレクサンドル・プトゥシュ監督、日本公開1947年)ではなかったかと思う。小学校から映画館に出かけて鑑賞した記憶があるのだが、何年生の時だったか、これもはっきりしない。高校以後の学生時代に見たソ連映画はプロパガンダ映画とばかりとの思い込みがあったが、『誓いの休暇』(1959年製作、グリゴリー・チュフライ監督、日本公開1960年)あたりから、なにか違う風を感じるようになったのも確かである。映像理論の教科書ともいわれる『戦艦ポチョムキン』(1926年製作、日本公開1959年)は、多分、ソビエト映画祭とは別に開催されてた国立近代美術館フィルムライブラリー主催「ソ連映画の歩み」(1966715~821日、16本上映)という上映会で見たかと思う(そのプログラムも今回再発見)。『戦艦ポチョムキン』のオデッサ海岸の階段シーン、転げ落ちる乳母車に向かって発砲する場面は、やはり今でも忘れ難い。19056月、実際に起こった戦艦ポチョムキンの水兵たちのツアーリズムへの反乱が主題で、水兵たちとオデッサ市民、鎮圧に来た黒船艦隊との連帯がうたわれる群衆劇である。しかし、その後の水兵たちは指導者を失い、食糧もつき、ルーマニア政府に投降、多くはルーマニアに定住、ロシアにもどった兵たちは死刑ほか強制労働に課せられたという後日談がある。

ソビエト映画祭で見た映画の詳細は、ほんとうに嘘のように記憶から消えている。わずかな記憶をたどってのことであるが、当時、私がなぜソ連映画にこだわっていたかといえば、ソ連への言い知れぬ不安や不信感があったからではないかと思う。しかし、1964年第2回ソビエト映画祭で出会った『私はモスクワを歩く』(1963年モスフィルム、ゲオルキー・シバリコフ監督)は、モスクワの街を舞台に若者たちの1日を追い、青春の普遍性をやわらかな、やさしいタッチで淡々と描いていて、夢を将来につなげそうな気がしたのを覚えている。モスクワやレニングラードで製作されるトルストイ、チェーホフなどの文芸大作や革命もの、レーニンの伝記映画の類は、私には苦手だった。しかし、映画祭で上映される作品の中には、多くの連邦共和国の作品が「紛れ込んで」いた。そうした映画への期待が毎年足を運ばせたのではないかと思っている。そこには、美しい風景とヒューマンな人々の息づかいが描かれ、社会主義体制の官僚主義に堕した組織や政策への批判や抵抗も垣間見ることができたからではないかと思う。ラトビア共和国『ふたり』(1965年、ミハイル・ボーギン監督、第3回映画祭)は、音楽院生徒の少年とサーカス学校生徒の聾唖の少女との恋を描いていた。グルジア共和国『戦火を越えて』(1964年製作、レヴァース・チヘイゼ監督、第3回映画祭)は、グルジアの農夫がドイツと闘って負傷したという息子を追い、苦労してようやく会えたのは市街戦のビルで戦闘中の息子だった。二人はビルの1階と3階で積もる話をかわすなか、息子は敵弾に倒れるというラストだった。トゥルクメン共和国『うちの嫁さん』(1972年製作、ホジャクーリ・ナルリーエフ監督、第10回映画祭)、カザフ共和国『灰色の狼』(1973年製作、トロムーン・オケエフ監督、第12回映画祭)などが、プログラムの解説や写真によってかすかによみがえるものがある程度である。

ソビエト映画祭は、1963年に始まり1979年まで続いたという。私は、1976年に東京を離れ、仕事と子育ての時代に入り、映画自体とはほぼ縁が切れたことになるのだった。

今回の資料の中には、『キネマ旬報』の「ソビエト映画の全貌(ソビエト革命50周年記念特集)」(196711月下旬号)、「1970年代のソビエト映画展望(ソビエト社会主義共和国連邦成立50周年記念)」(19721130日号増刊)も入っており、これは私が購入したと思われるが、一緒にあった『フランス映画大鑑』(増刊1954120日号増刊)、『イタリア映画大鑑』(増刊195545日号)は古書店で入手したのか、兄の持ち物だったのか、定かではない。いずれにしても、しばし「懐かしの映画」に浸ったのだった。

しかし、ソ連邦解体後の元の共和国、東欧諸国と現在のロシア政府との関係を思うと、その紛争・緊張関係、最近では、たとえばカチンの森虐殺事件追悼式典のロシアの対応等は依然として暗い影をよみがえらせるのだった。

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