2024年7月29日 (月)

きのうのNHK「日曜美術館」は「香月泰男」だった

 日曜の朝、「日曜日美術館」をリアルタイムで見るのは久しぶり。「鎮魂 香月泰男の「シベリア・シリーズ」だった。2021年10月、葉山の神奈川県立近代美術館で見たはずの「シベリア・シリーズ」57点。番組では、その内の数点を香月自身の作品に付した言葉の朗読や「シベリア・シリーズ」を所蔵する山口県立美術館の学芸員などの解説を聴きながら、ゆったりと鑑賞することができた。葉山の展示は「生誕110年」だったが、今年は、没後50年記念の展覧会が山口県立美術館で開催している。もうかなうこともないだろう、香月の生家近くの「香月泰男美術館」にも出かけてみたいなとしきりに思う。

 香月泰男(1911~1974)は、1943年召集されるが、シベリアの抑留生活から1947年に復員、生涯描き続けたのが、シベリアでの過酷な体験であった。番組でも紹介された、私にとっての圧巻は、「朕」と「北へ西へ」だった。

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「朕」(1970年)は、1945211日紀元節の営庭は零下30度あまり、雪が結晶のまま落ちてくる中、兵隊たちは、凍傷をおそれて、足踏みをしながら天皇のことばが終わるのを待ち、朕のために、国家のために多くの人間の命が奪われてきたことを描いたという。絵の中の白い点点はよく見ると雪の結晶である。また、中央の緑がかった二つ四角形は、広げた詔書を意味しているのが、何枚かの下書きからわかったという。

 

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 「北へ西へ」(1959年)、敗戦後、ソ連兵によって行き先を知らされないまま、「北へ西へ」と列車で運ばれ、日本からは離れてゆくことだけはわかり、帰国の望みは絶たれたという。

 

<当ブログの関連過去記事>

葉山から城ケ島へ~北原白秋と香月泰男(2021年11月5日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2021/11/post-e73a2a.html

 

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2022年12月 7日 (水)

1960~70年代の<ソビエト映画祭>を振り返る~ロシア映画は、今

なぜ、ソ連映画だったのか
 10年以上前にも、当ブログで触れているのだが、私が通っていた頃のソビエト映画祭のプログラムやキネ旬の特集などが、「日本におけるソビエト文化の受容」の研究を進めている知人からもどってきた。ロシアのウクライナ侵攻以来、当時見ていたソ連映画はどんなだったのだろうという思いに駆られていたので、さっそく読み返している。かなりは、忘却のかなたであるが、あれほど熱心に毎年ソビエト映画祭(在日ソ連大使館主催)に通ったのはなぜだったのか。

書庫の隅から見つけた、私の昭和(2)昭和40年代のソ連映画(2010年4月16日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/04/40-7f18.html

 60年安保反対運動のさなか、通っていた大学の自治会は、「全学連反主流派」が主導していた。1960年6月15日樺美智子の死、その年末に、大学歌人会で、一・二度顔を合わせたことのある岸上大作の自死に直面した。たしかに情緒的な反応をしていた時期もあったが、既存の革新政党への疑問が去らなかった。職場では、70年安保を体験することになり、大学の二部に通う同僚職員が、いわゆる「過激派」のデモに参加して逮捕されたときの職員組合の冷たい対応が、余りにもセクト的であったことを、苦々しく思い出す。
 何で知ったのか、1964年の秋、初めて、第二回ソビエト映画祭(10月26~28日 有楽町読売ホール、新潟巡回)に出かけている。プログラムには、「ソビエト映画・一九六四年―誕生四十五周年を迎えて」の解説が付されている。上映は「アパショナータ」「怒りと響きの戦場」「白いキャラバン」(グルジアフィルム)「私はモスクワを歩く」「ハムレット」(1964年)だった。「白いキャラバン」以外はモスフィルム撮影所製作であり、新作の「ハムレット」を除きいずれも1963年作であった。何を観たのか定かでないなか、「私はモスクワを歩く」だけが印象に残っている。偶然出会った男性3人、女性1人という4人の青年たちのモスクワの街での一日のできごとを描いた作品で、けれんみのない、清新な青春群像にどこかほっとした思いがしたのである。監督のゲオルギー・ダネリヤ(1930~2019)は、ソビエト、ロシア時代を通じて、さまざまなヒット作を生むが、検閲との折り合いをつけてきたらしい。この「私はモスクワを歩く」にも、ロケ地やセリフにまでチェックが及んだという。脚本・テーマソングの作詞のゲンナヂ・シュバリコ(1937~1974)は、この作品の10年後に自死したということである。つぎの上段の写真で、左で首をかしげている「モスクワっ子」を演じたニキータ・ミハルコ(1945~)は、俳優から監督も手掛けるようになるのだが、現在は、プーチンを支持し、ウクライナ戦線に送られた囚人の兵士を英雄視する発言などで、ウクライナの裁判所からは「領土保全の侵害」の疑いで逮捕状が出ているという。
 ソ連映画といえば、「歴史・革命もの」や「レーニンもの」などの個人崇拝的なプロパガンダ映画が多く、その種の映画を見るときは、どこか不信感を拭えず、冷めた目になってしまうのだった。

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「私はモスクワを歩く」には、スチールにしたい場面が数多い。上は、グム百貨店内のレコード店で店員のアリョーナと青年たちが出会う場面。レコードというのも懐かしいが、古めかしいレジスターも。真ん中の青年には何かともめているらしいが婚約者がいる。左右の青年と店員と関係が微妙なことになる。下のシーンは、主人公たちとは関係ない?カップルで、濡れながら裸足で踊る恋人を自転車で追い巡る青年との場面、ポリスボックスから警笛がしきりに聞こえてくる。「警笛」がほかのいろんな場面でも鳴り続けるのも興味深い。それにしても、今、ユーチューブで見られる字幕なしでも十分楽しめるが、会話が分かったらどんなにかと。https://www.youtube.com/watch?v=vbjs5zfxDMs&t=2829s

  1965年、第三回も10月下旬(虎の門ホール 大阪・広島巡回)で、短編を含むと7本を上映、もちろん全部を観てはいないが、今でも思い出すのが、短編ながら、ラトビアのリガを舞台にした「ふたり」(リガ・フィルム製作 1965年)である。音楽大学に通う青年が美しい女性に出会うが、彼女は幼時に爆撃で聴覚を失い、言葉が不自由であった。彼女は音のない音楽の世界へと導かれ、青年は彼女の書く文章によって、愛は深まっていくという展開だったと思うが、ラトビアの過酷な歴史を忘れるほど、港町リガの街並みに魅せられた。監督ミハイル・ボーギンの映画大学卒業制作であったという。間違いなく私も若かったのだなと思う。「戦火を越えて」(1965年)は、戦地で負傷した息子と彼を訪ね巡る一徹な父親との物語であるが、グルジアフィルムの製作であった。
  1966年、第四回の長編「ポーランドのレーニン」(1965年)はモスフィルムとポーランドの合作であり、「忘れられた祖先の影」(1964年)はウクライナのキエフ撮影所製作であって、各民族共和国製作の映画が日本でも多く紹介されるようになった頃だった。
 1967年第五回は<ソ連50周年記念>として、「ジャーナリスト」(ゴーリキイ撮影所製作 1967年)、アルメニアの「密使」(アルメンフィルム製作 1965年)、ゴーリキイ撮影所とポーランドとの合作「ゾージャ」(1967年)の長編が上映された。「ゾージャ」は、女性の名前で、ボーギンの長編第一作。プログラムの解説によれば、1944年のポーランドの小さな村で、戦火の合間、再編を待つ部隊の兵士とゾージャ、村人たちとの愛と信頼を描くが、私には、ラストの、ふたたび、ドイツ軍との戦闘へと向かう兵士との別離の画面だけがかすかに甦るのである。

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パンフの装丁は、なかなか定まらなかったようで、A4の横組みで始まるが、B5の横組みになり、B5の縦組みに落ち着く。 

日本でのソビエト映画
 ソビエト映画の国際的な進出は著しく様々な国の映画コンクールで受賞が続いている。日本では、1966年7月~8月に国立近代美術館において「ソ連映画の歩み」と題して、1924年~1961年製作の16本を上映している。手元のパフレット「ソ連映画の歩み」(山田和夫ほか編 フィルムライブラリー助成協議会)によれば、私は、ここでエイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」やグリゴーリ・チュフライの「誓いの休暇」を観ていたらしい。翌年の秋にも同美術館で「ソ連映画祭の回顧上映」が開催されているが、私が出かけた形跡はない。

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「ソ連映画の歴史(1)誕生から大祖国戦争まで」を岩崎昶 , 「同(2)大祖国戦争から今日まで」を山田和夫が、「ソ連の撮影所」を牛原虚彦が書いている。ソ連全土で撮影所は41を数える。山田和夫は、フルシチョフの政治路線は「矛盾と破綻をむき出しにした」との評価であったが。表紙絵のドームの中は「戦艦ポチョムキン」のオデッサの階段のシーンのようだ。

 また、『キネマ旬報』も1967年11月下旬号で<ソビエト革命五十周年記念特集 ソビエト映画の全貌>と題して、かなり多角的な特集を組んでいて、これは購入していたものと思われる。1967年前後には、革命50年周年を記念するか革命や歴史をテーマとする作品が目白押しの中、文芸大作「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」、「カラマーゾフの兄弟」なども一般上映されている。
 当時のソビエトは、1953年のスターリン没後、1956年、フルシチョフによるスターリン批判―個人崇拝と粛清排除によって、大きな転換期を迎え、1964年10月にはフルシチョフが失脚するという微妙な時期でもあった。革命や「大祖国戦争」のリアリズムによる伝達、いわばプロパガンダの要素が高い作品より、現代の都市や農村の生活、家族や個人の内面に目を向けた作品が好んで製作され、歓迎されるようになったのではないか。そうした映画の端々には、公式的な官僚主義の体制をそれとなく批判するセリフや映像が散見できるのであった。
  映画祭のパンフには、必ず駐日ソビエ大使の挨拶が巻頭に掲載されていて、1967年4月にウラジミール・ヴィノグラードフ
からオレグ・トロノヤスキーへと交代している。本国では、1972年8月、国家閣僚会議映画委員会議長(映画大臣)アレクセイ・ロマノフが解任され、フィリップ・イェルマッシュが就任している。その背景について、私の古い雑誌のコピーには、つぎのように書かれていた。

(更迭の直後の)『プラウダ』が「新しい課題にこたえる映画の製作に望む」とい論文を掲載し、「社会主義リアリズムと無縁な外国映画の無批判な模倣をやめよ」「社会的関心のないの代りに共産主義思想に一身を捧げる主人公を登場させよ」「革命精神をもって青少年を教育する作品を作れ」などとアピールしたことを合わせると、やはり映画大臣の更迭は政府の映画sで遺作の大幅な変更のあらわれだと見るのが至当であろう。(「ロマノフ更迭で路線変更ー引き締めに向かうソ連映画」『朝日ジャーナル』1972年10月6日、末尾にPANとの署名がある)

 記事は続けて、ロマノフは、党幹部出身ながら、自由主義的な思想の持ち主で、チュフライやタルコフスキーなどの「芸術派」の輩出を可能にしたのではないか、としていた。

 私が観た映画で、かすかに記憶があるのは・・・。 

1968年第六回「月曜今でお元気で」(ゴーリキ撮影所 1968年)
1969年第七回「夜ごとのかたらい」(モスフィルム撮影所 ?年)
1971年第九回「デビュー」(レン<レニングラード>フィルム 1970年)
「白ロシア駅」(モスフィルム 1971年)
1972年第十回「うちの嫁さん」(トウルクメンフィルム 1972年)
1973年第十一回「おかあさん」(モスフィルム ?年)
 「ルカじいさんと苗木」(グルジヤフィルム?)
1974年第十二回「モノローグ」(レンフィルム1973年)

 第十回の出品作品は、上記以外の「先駆者の道」(モスフィルム 1972年)は、宇宙開発の先駆者の半生を描き、「ルスランとリュドミーラ」(モスフィルム 1972年)はプーシキン原作、古代キエフ公国の人びとを異民族の襲撃から守った英雄のファンタジックな児童向けの作品という。そのパンフに挟まっていた新聞切り抜きには、当時のソ連映画について、端的につぎのように報じていた。

「ここ数年ソビエト映画はやわらかくなりつつある。本国では「社会主義リアリズムに忠実ではない」と、当中央委から大目玉をくったというが、日本ではむしろこの軟化がソビエト映画のファンをつくっている。」(毎日新聞 1972年10月17日)

 いまから思えば、プーシキンの原作の児童向け物語ではウクライナのキエフはどう位置づけられていたのだろうか。独り身の気ままな私のソ連映画祭通いは、1974年で終わる。

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その後の、ソビエト・ロシア映画祭は
 ソビエト映画祭は、1991年第二十三回まで開催されたようであるが、その後は、「ロシア・ソビエト映画祭」として、実行委員会形式で散発的に開催されていたらしい。2006年には、日ロ国交回復50年を記念し、「ロシア文化フェスティバル」の一環として、東京国立近代美術館フィルムセンター、ロシア・ソビエト映画祭実行委員会の共催で「ロシア・ソビエト映画祭」が開催されている。12年間の空白を経て、「日本におけるロシア年 2018年 ロシア・ソビエト映画祭」として、国立映画アーカイブが引き継いでいるが、定期的に開かれているわけではないようだ。

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上記は、ネットから拝借した1989年のプログラム。1991年まで続いているが、どんな映画が上映されていたのだろう。「秋のマラソン」はゲオルギ—・ダネリアの監督作品である。

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2022年3月10日 (木)

あの遠い赤い空~東京大空襲とウクライナと

 池袋の生家が空襲で焼け出されたのは、1945年3月10日の「東京大空襲」ではなく、4月13日から14日未明にかけての「城北大空襲」であった。私は、母の実家があった千葉県の佐原に母と次兄の三人で疎開をしていた。池袋では、父が薬屋を続けていたし、長兄は、薬専を1945年9月の繰り上げ卒業と召集を前に「軍事教練」のために通学していたはずである。 
 私には、母に抱かれながら「東京の空が赤い」と指さされた夜のかすかな記憶がある。それが、3月10日であったのか、4月の城北大空襲の遠い炎であったのか、尋ねた記憶もない。

 そして、4月の大空襲の数日後だったのだろう、父と長兄を、佐原駅頭で迎えたときの記憶がかすかによぎる。後で聞かされた話と重ねてのことなのだが、私は父に、東京からの土産をねだったそうだ。それまで、父がたまに疎開先を訪ねてきたときの森永キャラメルだったり、ビスケットだったり、なにがしかの土産を楽しみにしていたらしい。父は、隅に焼け焦げの残った、小さな肩掛けかばんを指して、逃げるのが精一杯で、何もないんだよ、諭したそうだ。
 家は燃え、防空壕の周りも火の海で、父と長兄は、手拭いで手をつなぎ、焼夷弾が燃え盛る中を、川越街道をひたすら走り、板橋の知り合いの農家に駆け込んだという。

 かすかながら、私にはもう一つの記憶がある。まだ、疎開前だったから、1944年のことだと思う。やはり空襲警報が鳴り、家族で防空壕に逃げようとしたとき、ちょうど風邪でもひいていていたのだろうか、母は、家の中の床下の暗い物入の中で、布団にくるまっていた。私たちに早く防空壕へ「逃げて」という声と顔がよみがえるのである。そして、これは母から何度か聞いた話なのだが、やはり、真夜中に空襲警報が鳴り、寝ている私をたたき起こすものの、くずっている私に、母は、防空壕に逃げないと死んじゃうよ、と必死だったらしい。そのとき、「シンデモイイ」と泣き叫んだそうだ。

 いずれもどこかで、すでに書いたりしているかもしれないが、やはり今日という日に、書きとどめておきたい。いま、ロシアのウクライナ侵攻の爆撃や避難する市民たちの映像と重なる。
いま、いったい私に何ができるのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

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2022年3月 3日 (木)

ロシアのウクライナ侵攻への抗議、何ができるのか

 毎日、ロシア国防省の侵攻映像や各国メディアによるその被害状況やウクライナ市民の声に接するたびに、心が痛み、いったい私は何をすればいいのだろう、と<重い腰>を上げられないでいる。実際、私はいま、整形外科のリハビリで通院している身でもある。

  かつて、映画館に行くたびに見たい映画の前の「ニュース映画」での朝鮮戦争、写真や映画で知るベトナム戦争の戦闘や悲惨な場面を思い出してしまう。いまは、茶の間にいても、痛ましい情報が目に飛び込んでくる。

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キエフ市ネイのテレビ塔爆破される(ウクライナ内務省フェイスブックより、3月1日)

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キエフに次ぐ第二の都市、ハリコフ市庁舎前(AFPbbbewsより、3月1日)

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キエフ北部、壊された橋を渡る市民たち(AFPbbnewsより、3月1日)

  友人からは、change.orgによるウクライナ侵攻反対署名の呼びかけがもある。しかし、change.orgの署名画面を見ていて、いま誰が署名したか、署名総数が刻々と報じられる仕組み、そして、この署名は、いつ、どこで、だれに、どうやって届けられるのかが分からない。開設者にもその全貌が把握できないばかりか、一人が何度でも署名が可能であり、その個人情報の行方も不安である。その署名の数に焦って、署名し、そこでの達成感はあるかもしれないが、そこで終わってしまうのではないか・・・。  紙の署名もネット署名も、明確な主題と主催者、期限、あて名が肝心である。そして次の行動につなげてゆくことも重要な目的にならなければならない。いつか、どこかで、すでに署名したかもしれない署名を迫られることもしばしばであった。コロナ禍にあって、集会やデモもままならないなか、ズームでは、なかなか盛り上がらない昨今ではある。

  しかし、しかし、今回の各国の抗議デモの報道写真を見る限り、場所を埋め尽くす、その数の多さに驚くのである。そのメッセージの多様さにも。とくに、その場所が、かつて訪ねた街の、あの通あったり、広場だったりすると、私はといえば、単純ながらも そこに参加しているような気分になるのだった。プラハだったり、パリやニースだったり・・・。日本政府はもちろん、自戒込めて言うならば、私たち日本人の行動は、どれほど有効なのだろうか。自己満足と言われるかもしれないが、今の私は、一人ででも、家からでも、ロシア侵攻反対とウクライナ復興支援の意思表示を発信していきたい。

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ロンドン、ロシア大使館前(2月24日)

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ベルリン、ブランデンブルグ門前(2月24日)

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ウイーン(2月26日)
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渋谷駅前(2月26日)
フォト特集】「戦争反対」世界に広がる ウクライナ侵攻に抗議 ...
ワシントン、ホワイトハウス前(3月2日)、ワシントンには出かけたことはないのですが。

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モスクワ、プーシキン広場をブロックする装甲車(2月24日)、こんな光景は、日本でも、国会議事堂付近ではよく見かけます。

(上記いずれもAFPbbnewsより)

 それにしても、私は、ウクライナの歴史についてあまりにも知らなすぎた。教科書に登場するクリミア戦争とナイチンゲール、穀倉地帯のイメージ、映画史には必ず登場するオデッサの階段シーン、ソ連邦下のウクライナ。映画やニュースで知るナチス占領下のウクライナ、オレンジ革命と女性闘士、そして、近年のユシチェンコ大統領の暗殺未遂事件、ロシアのクリミア併合、コメディアンの大統領誕生など、実に断片的な情報でしかなかった。その現代史はつねにソ連やロシアの脅威と隣り合わせだったことは知りながらも、点と点、そのつながりや間の出来事には無関心に近かった。

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2018年11月19日 (月)

はじめて、ポーランド映画祭へ

 旧友、映画評論家の菅沼正子さんから「ポーランド映画祭」の案内をいただいていた。昨年もいただきながら、行くことができなかった。彼女からは、これまでも、封切りの「カティンの森」「残像」「ユダヤ人を救った動物園」などを勧められては、見に出かけ、ポーランドへ二度ほど出かけるきっかけの一つにもなっていた。今年のポーランド映画祭(1110日~23日、東京写真美術館ホール)にも見たい映画がたくさん並んでいる。

 なにしろ2週間、14本のスケジュールで、短編も含め、24本の映画が上映されるというイベントである。2度上映される作品もある。夫の都合もあって、1115日の「大理石の男」「灰とダイヤモンド」「リベリオン ワルシャワ大攻防戦」の三本を見るという欲張った計画で、家を早く出た。私は、「大理石の男」(1976年)はテレビで、「灰とダイヤモンド」(1958年)は、公開当時というよりは、あとになって、名画座のようなところで見た記憶がある。どれも、印象深い感動作であったが、記憶はすでに薄れているので、もう一度見てもいいな、のつもりだった。

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はじめての東京都写真美術館でもあった。

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映画祭プログラムから

 「大理石の男」のあらすじとなると、なかなかまとめにくい。上記の過去記事も参照していただければと思う。1970年代、女子学生が映画の卒業制作として選んだのが、かつてレンガ工として労働者の英雄にまで仕立て上げられ、大理石像にまでなった青年、いまでは、美術館の地下倉庫に横倒しになっている、その大理石像の男の人生をたどることだった。スターリン体制下のポーランドで、レンガ工が、その熟練ぶりを各地の建設現場で披露し、高く評価されてゆくなかで、高熱のレンガを渡され、重傷を負った事件をきっかけに、組織や職場の仲間たち、家族からも疎まれ、失墜してゆくさまを、学生は、関係者を訪ね歩き、口の重い人々から聞き出し、テレビ局に残る過去のニュース映像などを交え、次第に真実が明らかにしてゆく。その過程で、党組織やメディアのなかで、優柔不断に、立ちまわる人物にも幾度か遭遇するし、あからさまな取材の妨害も受ける。

 それにしても、2時間40分、取材を進める学生とその協力者たち、取材を受けるさまざまな人物の現在と過去、回想場面や実写映像による過去が複雑に入り組んでの展開に戸惑うことも多い。“巨匠”、アンジェイ・ワイダ監督に、あえて言うとすれば、あまり欲張らないで、サイドストーリーをもう少し整理して欲しかったな、と思ったものだ。伝えたいことがたくさんあるのはわかるのだけれど・・・。ワイダの、スターリン体制への鋭い批判の眼は揺るがず、制作から40年近くたっている現代にあっても、日本のみならず、世界各国にも共通する問題提起をしている作品の数々には脱帽する。

 「大理石の男」については、当ブログの以下の記事参照

『カティンの森』『大理石の男』、ワイダの新旧二作品を見る20091226 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/12/post-9c03.html

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真実の解明に、果敢に挑むアグニェシュカ。

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労働者の英雄に仕立て上げられる煉瓦工のマテウシュ・ビルクート。

 

私たちは、2010年と今年5月にポーランドに出かけている。「大理石の男」の映画で見る、1950年代のクラクフ郊外のノヴァフタの製鉄所建設や住宅建設の規模のすさまじさと労働環境の劣悪さ、1970年代のクラクフやワルシャワの復興状況からは、想像できないほど、どちらの都市も、緑豊かな落ち着いた街並みになっているとも思えたが、今年の旅行中には、ワルシャワでは大規模な反政府デモにも出会い、現在のポーランドが必ずしも安定した政治状況ではなかったのを知ることになったのだった。

二本目の「灰とダイヤモンド」は、アンジェイ・ワイダの初期の作品だ。ある町の中央から派遣されている県委員会の書記、いわば市長を狙うテロリストの青年が主人公である。待ち伏せを市長が乗る車を狙撃したところ、別人で、二人の犠牲者を出すところから映画は始まる。その日は、ドイツ軍が降伏した194558日、町は、花火を上げて祝い、人々は解放を喜び、市長が主催する盛大なパーティーも開かれようとしている。青年は、さらに市長を狙うべく、準備を整えるが、パーティー会場のホテルのバーで働く女性に恋し、語らうようにもなり、市長暗殺から手を引きたいとも考えるようになるがそれもかなわないまま、市長暗殺を最後に、女性との生活をも夢見るが、暗殺に失敗、翌朝には軍に射殺されるという、たった一日の出来事を描いた映画である。広大なごみ集積所のゴミにみまみれて息絶えるというラストシーンの壮絶さが、当時の体制側からは、政府への抵抗の無意味さを強調したとして評価され、検閲を逃れたという。

 この映画でも、体制への屈折した心情や不満を持つ市長秘書や老新聞記者、反体制運動で捕まる市長の息子などが登場するのだが、やはり、私には煩雑に思えたのは、理解不足もあるのだろう。

 つねにサングラスをかけ、冷徹なテロリストとナイーブな青年をも演じた俳優は、ジェームス・ディーンをも想起させるが、ポーランドでは人気のさなかの39歳の若さで、鉄道事故で亡くなるとい悲劇の主人公でもあったらしい。

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有名なラストシーンだが、当時のポーランドの観客は、どう見ていたのか。

 

 三本目のリベリオンは、比較的最近の作品であるし、三人の若者を通して描かれるワルシャワ蜂起、そして現代にその意味を問うという映画、見たかったのだが、どうも、私の体調も眼も限界だった。もともと、二本を見て、別の用事に向かうという夫と一緒に会場を出たのだった。

 

 恵比寿ガーデンガーデンプレスの遊歩道を秋の日差しを浴びながら帰路につく。あらためて辺りを見まわせば、こんな恵比寿を見るのは初めてであった。振り返れば、ガーデンプレスのタワービルの横には、白い三日月が出ていた。地下鉄までの長い長い「動く歩道」に、疲れ切った身を任せて・・・。映画祭開催中に、もう一度出かけたいの思い頻りだった。

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振り返ればタワービル、写真では三日月が消えてしまったのだが。

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会場で配られたポーランド映画人協会出版のパンフレット。ここには、バルトシュ・ジュラヴィエツキーの執筆による、灰とダイヤモンド、約束の土地、夜と昼、大理石の男、戦場のピアニスト、リベリオン、ヴォウィンという7本の解説が収録されている。私はこのうち、「戦場のピアニスト」を含め、3本しか見ていないことになる。

 

 

 

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2014年11月 6日 (木)

ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20~28(5)

マルクト広場に金曜の市場が

 1024()、今日の午前中で、ライプチッヒを離れる。まず、マルクト広場を経て、元国家保安省にあるルンデ・エッケ記念博物館に行ってみることになった。今朝のマルクト広場は、乗り入れの車とテント、市場の準備に実ににぎやかで、すでに買い物を始めている人もいる。

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金曜朝のマルクト市場、かぼちゃもごろごろ・・・。

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”kaki"は、平たいものでなく、筆柿を大きくしたような形で、甘かったので、今回、2度ほど買い込んだ

 

ルンデ・エッケ記念博物館~まーるい角の国家保安省跡に
 ルンデ・エッケ記念館というのは、ナチス時代、東独時代における国家保安省の建物に、当時の国民監視・弾圧の実態を詳細に、その実際の手口などが紹介されているという程度の前知識である。ちょっと想像もつかなかったのだけれど、トーマス教会前のマルティン・ルター・リングを、昨日と反対の東に折れて広い公園の緑地に沿ってしばらく歩く。もうこの辺なのにと思い、通行の男性に尋ねると、やはり近かった。大きな垂れ幕のある円形の建物が見えてきた。1010分前、開館を待つ23人が見えた。今日はスムーズにたどり着けたぞ、の思い。ここも、入場無料。入り口正面の階段上には、「この建物は政府と国民会議によって建てられた?」の垂れ幕が。1989年までは、国家保安省としての機能を果たしていた場所に、なるほど、案内にあったように、14室と狭い廊下には、壁の展示と展示物でいっぱいであった。展示は、写真や図表が多いので、私にはわかりやすい部分もあった。1989124日、ライプチィヒ地区の秘密警察本部はデモ隊により占拠され、平和革命の象徴的な出来事だったという。「ルンデ・エッケ」とは、丸い角とよばれた国家保安省の建物を指している。ナチス時代、青少年や女性の教育、組織にいかに力を入れたか。そしてスポーツ、マスゲームなどを通じて、統制を強めて行ったかなど、数々の写真が示していた。それは東独時代も同様であった。さらに、信書や電話の秘密がいかに侵されていたか、住居や会議がいかに監視されていたかなどが、具体的にどんな組織や機器で実施していたかが説明されている。現在の中国・北朝鮮・ロシア、アメリカのCIAなどにおいても、その技術こそ進化しているけれど、似たようなことをしているに違いない。日本におけるかつての特別高等警察いわゆる「特高」やアメリカの占領軍が、その手口をこれほどまで克明に明かしているだろうか。「ナチスを真似れば」の発言で物議をかもした閣僚もいる日本である。やはり不安を禁じ得なかった。

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ルンデ・エッケ記念博物館の10時の開館を待つ

Gedc3861「子どもとスポーツ」とあり、見出しは、すべて段ボールをちぎって、凹凸のある裏側に手書きされていた

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通信・電話の秘密?(盗聴の仕組み)

ようやくのメンデルスゾーン・ハウス

 重い気分で出たルンデ・エッケだったが、あらためて、メンデルスゾーン・ハウスに再挑戦した。近くまで来ているはずなのだがと、乳母車を押す若い女性に尋ねてはみるが分からなっかった。さらに少し歩いたところで、今度は、年配のご夫婦づれに尋ねると、「こんにちは」と日本語が返ってきた。「このすぐ先です」とのこと。聞けば、大阪に仕事で住んでいたことがあるということだった。もっとお話ししたい気持ちだったが、ライプチッヒを離れる時も迫っているので、「ありがとう、さよなら」と先を急いだ。通り過ぎてしまいそうな入り口であった。この博物館は、若死にしたメンデルスゾーン(18091847年)が最晩年1845年から住んでいた家で、丁寧に修復された後、1997年にオープンしている。そんな昔のことではないことが分かった。日本語のオーディオ解説が聞けるというのでお借りした。係員は、その機器の使い方と館内の回り方を案内してくれる。ほんとうは、ゆっくり説明を聞きながら、回りたかったけれど、3040分ほどで切り上げたのが残念だった。メンデルスゾーンの早くよりその才能に着目した父親による英才教育、メンデルスゾーン自身はイギリスはじめ各国の演奏旅行をしながら多くの文化人と交流をし、作曲家としても注目された様子が伺われた。また、バッハ音楽復興にも尽力している。ユダヤ系の一族は、迫害を受けていたが、ナチス時代には、彼の曲の演奏まで禁じられた。ゲバント・ハウス前の記念像は1936年撤去され、トーマス教会前の公園で、バッハ像と向かい合っているように思えたメンデルススゾーン像は、比較的最近の2008年に、再建されたものだという。

ライプチッヒ中央駅1453分発、ベルリンに向かう。

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建物は大きいのだが、入り口は、うっかりすると通り過ぎてしまいそうなメンデルスゾーン・ハウス

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 書斎

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 中庭、正面のバラに囲まれた胸像と白いベンチが眩しい

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メンデルスゾーン・ハウスのガイドとチケット

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 このタワービルを目印に、道を教えてくれたのだが 

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 ライプチッヒ中央駅、さようなら

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ドイツ鉄道の駅のホームは、どこも広く、日本の倍以上はありそうだ。
ホーム・線路改修工事に働く人々。駅に改札というものはないが、長距離の場合は、
必ず車掌の検札がまわってくる

 

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2013年5月24日 (金)

ブログ開設、8年目に(2)解明いまだ、シベリア抑留

~最近のおたよりから~

島根県「静窟詩社」と中島雷太郎・ミヨ子歌集『径づれ』のこと 

 戦時下の歌人の記事に、「私は<静窟詩社>の中島雷太郎の息子です」というおたよりをいただいた。<静窟詩社>は、私が初めて知る、地方の文芸活動の一つだった。以下は、おたよりに付された中島雷太郎さん、中島ミヨ子さんがそれぞれ執筆された「自分史」による。

 

雷太郎(19122000、島根県静間村生)は、銀行(本店は松江市の八束銀行)勤めの傍ら、村内青年団の仲間でガリ版雑誌を発行したりしたが、1935年(昭和5年)12月、「静窟(しずがいわや)詩社」を結成して文芸誌『静窟』を創刊(19375月『山陰詩脈』と改名)した。満州事変前夜、無産派文芸台頭の時代でもあったが、警察からは、同人の思想調査や印刷物への手入れがあったりして、その介入により、『山陰詩脈詩歌集』(1933年)、中島雷太郎単著の詩集『磯松』(1935年)などを残し、『山陰詩脈』も廃刊、静窟詩社は、5年の活動に終止符を打った。仲間の紹介で、1936年、ミヨ子(19142013)と結婚した。1940年、地元出身の実業家、奉天の田原組に招ばれ、渡満した。 

敗戦までの夫妻の足跡は、ミヨ子の自分史につぎのような略年表であらわされているが、その一行、一行は重い。

 

 昭和一二年一〇月長女出生一一月死亡。 

 昭和一三年一二月次女出生。 

 昭和一五年九月次女を連れ渡満する。 

 昭和一六年一一月三女出生。 

 昭和一七年一二月姑死亡。 

 昭和一八年五月三女死亡。 

 昭和一八年一二月長男出生。 

 昭和二〇年七月夫召集にて入営。 

 昭和二〇年八月敗戦。 

 昭和二〇年九月夫抑留。 

 昭和二〇年一二月四女出生。

 

 雷太郎は、『満州日日新聞』の投稿欄に短歌を寄せていた時期もあったというが、敗戦後は、イルクーツクのマリタ収容所に始まるシベリア抑留生活は、194512月から194812月までに及んだ。その過酷な体験を、細部に至るまで、時の感情を交えながらも冷静なタッチで記録されている部分が、自分史の中での圧巻であり、読者には衝撃となる。 

時代は下って、1990年、雷太郎78歳、夫妻の金婚式を記念して、友人・知人・親類に配られたという夫妻の合同歌集『径づれ』(私家版)があるという。これは国立国会図書館には所蔵されていないようだ。このたびメールをくださった子息の中島さんが戦前を中心に再編集された『径づれ』のなかから、一部を紹介してみたい。

 

中島雷太郎 

(終戦直前直後) 

○やがてまた逢へる気のして妻子らへ手を振りつつも涙は出でず(奉天駅) 

○輜重兵のわれらに馬なく車なく蛸壺掘るを日課となせる 

○営庭に蛸壺掘るを日課とし、敵機は今日も見えず暮れゆく(海城輜重隊) 

○箱型の爆弾抱き敵戦車めがけ飛び込む任務なりとふ 

 (シベリア抑留) 

○重大放送を営庭に並び聞きおれど古きラジオの音声みだる 

○曳けど押せど橇は動かずアムールの氷上に捕虜のわれら声無し 

○冴えざえとつきに照らされ収容所の望楼に歩哨の動くが見ゆる 

○零下五十度寒さ肌刺す庭に立ち虱の検査に上衣脱がさる 

○日本の元旦のならひ偲びつつ一切れのパン噛みしむる今朝 

○在満の子らの年令を数へつつ元旦の今朝も作業に出でたつ 

○餓じさとノルマに力尽き果てて戦友あまたシベリアに死す 

○凍土を砕きて屍を埋めたりき冬回るたびに戦友の偲ばゆ 

○シベリアゆ白鳥今年も飛来せり埋もれしままに戦友は帰らず。 

○シベリアに消ゆべき生命守りきて平成元年喜寿を迎ふる 

○港湾の工事場のブル音止みて終戦記念日のサイレン響く 

○引き揚げに子ら幾人を喪いぬ遺影幼きまま五〇年

 

中島ミヨ子 

(終戦直前直後) 

○二重窓を越して黄砂の降れる日は幾度も畳拭きし奉天 

○ライラック杏柳と一刻に萌えて花咲く満州の春 

○手引く子も背の子も吾もベール被り目鼻覆いて市場に通ふ 

○冷蔵庫に残されしごと敗戦の冬のアパートに母子四人は 

○断水にベランダの雪掘りとりて炊けど飯にはならぬ日ありき 

○銃釼もつソ連兵来て靴のまま畳に突立つ母子の部屋に 

○夫の行方不明と聞けど三人の子に支えられて度胸を据えつ 

○子連れ吾に太く握りし飯を賜ぶ引き揚げ船の飯炊きの老 

○夫拉致され後に生まれし幼児は父にまみゆる日の遂になく 

○児を胸にくくりて重きリュック背に引き揚げしこと忘れ難しも 

○既に亡き吾が児の五人がいまあらばと孤児のニュースに涙新たなり 

○老祖母を訪ねて幼き遺児二人引き揚げしとふ友の悲話聴く 

○機銃掃射に高梁畑で母を失ふ孤児の語るは敗戦の悪夢 

○残留孤児人ごとならず吾児二人同時に喪ひしわが逃避行に 

○引き揚げし病院の窓に隈なかりし名月が今も愁に沈ます 

○体温計一ぱいに上がる高熱も医薬なければ只病児抱く 

○飢えに堪え病に堪えて命の灯暫し灯しぬ四才と二才 

○命の灯消えゆく見つつかの日より不可抗力という事を知る 

○十年経て尚癒えやらぬ創跡は一人耐えつつ生くべきものぞ

 

 今回のことがきっかけで、これまで、私が「シベリア抑留」についてあまりにも知らなかったことに愕然とする。これまでといえば、香月泰男(19111974)の「シベリア・シリーズ」、高杉一郎(19082008)の『極光のかげに』などを知るくらいだった。近年公刊された沢山の体験記があることも知った。私が参加している『ポトナム』短歌会の古くからの同人であった板垣喜久子さん(板垣征四郎夫人)次男板垣正さんもシベリアに抑留されていて、帰国後の去就、その後の政治活動なども後から知ったことだった。

 

 「シベリア抑留」の実態は、いまだに不明な点が多く、日本人抑留者の数、死亡者数などですら諸説があったが、日本政府は、約575000人の抑留者の中、死亡が確認された方々が55000人との推定を発表し続けていた。1991年には、ロシアから41000人の死亡者名簿が提出され、2009年にはロシア国立軍事公文書館で旧ソ連に抑留された日本人の記録カードが最大で76万人分発見されたというニュースも流れた(『東京新聞』2009724日)。なぜこれほどの多くの人々が抑留されることになったのか。 

 ここでは詳しく述べないが、敗戦直後の関東軍で何が起きていたか。ソ連で何が起きていたか。シベリア抑留に際して登場する朝枝繁春参謀の内地への報告書などから、敗戦直後、捕虜の扱いを超えた「抑留」という名のソ連による労働力確保策と日本の自国民放棄にも似た放置策が相まっての結果だということもわかってきた。さらに、現在に至るまで、日本政府や官僚たちは実態調査を怠り、抑留者の法的、経済的救済を求めた裁判も原告敗訴の最高裁判決で司法的な決着(19994月、20041月)がつけられた形だった。民主党政権下、「戦後強制抑留者特別措置法(シベリア特措法)」は、いろいろな課題や不備を持ちながらも、自民党と公明党の欠席のもと、ともかく可決されたのは2010616日だった。これまでの年月は何であったのだろう。そして、「国土と国民を守る」「国益を守る」と胸を張る安倍政権のいう「国土」「国民」「国益」って、何なのだろう。いざとなったら、「国民」を切捨てることを何とも思わない「国」を、歴史はもの語っているのではないか。

 

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島ミヨ子さんは、5月8日に99歳でお亡くなりになりました由、中島康信さんが私へのブログにおたよりくださった直後のことでした。ご冥福を祈ります。

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2013年 5月 30日追記:

折しも新聞でつぎのような記事を見つけた。

国際シンポ「シベリア抑留の実態解明へ―求められる国際交流と官民協力」

(毎日新聞2013年5月29日夕刊)

なお、シンポの案内チラシは、下記に掲載されている。

http://www.seikei.ac.jp/university//caps/japanese/06event_information/sympo-first.pdf#search='%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99%E3%81%AE%E5%AE%9F%E6%85%8B%E8%A7%A3%E6%98%8E%E3%81%B8+%E6%88%90%E8%B9%8A%E5%A4%A7%E5%AD%A6'

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2013年5月30日 鉢から植え替えて数年、ことしも開き始めたアマリリス


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2011年5月 7日 (土)

緊急シンポジウム「原発事故とメディア」に出かけました

     緊急シンポジウム「原発事故とメディア」

日時:2011430日(土)午後130分~430

場所:新宿歴史博物館

プログラム

基調講演:「福島第一原発事故に関するメディア報道の検証」

講師:広河隆一(フォトジャーナリスト)

ディスカッション「原発事故とメディア」:

     パネリスト:後藤政志( 元東芝原子炉設計技術者)

           渡辺実(防災・危機管理ジャーナリスト)

           寺尾克彦(福島放送労働組合)

     コーディネーター:砂川浩慶(立教大学准教授)      

主催:メディア総合研究所・開かれたNHKをめざす全国連絡会

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左より講演中の広河氏、パネリストの渡辺氏、後藤氏、寺尾氏

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 会場には、40分以上も前に着いたのに、あたりは大変な混雑で、行列ができていた。講堂には椅子だけが並べられていて、100席はあるように思えたが、壁際や通路、入り口付近にも人が一杯になった。

 広河さんは、トレードマークらしい野球帽をかぶったまま、最初に話し始めたのは、312日午後336分の1号機の水素爆発を受けた、夕方からの原子力安全・保安院の会見後、「直ちに住民の健康に影響を与えるものではない」という文言が、NHKのアナウンサーと記者の言葉として語られたことの重大性だった。アナの「危険が高まったという段階ではないですね」の質問に、記者は「(原発事故の状況は)すぐさま、人体に影響を与えるものではない」と、メディアが原発の安全性をオーソライズ、追認する形が出来上がったと、指摘した。また、事故後25年になるチェルノブイリには50回以上通っているということで、原発施設の労働者や周辺住民、研究者など、個人に寄り添った取材が伝わってきた。当然、次に取材に行ったときは亡くなられていたというケースもある。報道管制下の当時のソ連の事故対策と福島の場合を比べていく中で、日本の政府や企業の事故の重大性をチェルノブイリの「10分の1にすぎないからまだ安全」という過小評価をつねにマス・メディアが追認している構造を告発していた。分かりやすくいえば、10分の1ということは、広島の原爆の50個分を意味し、大気中に流れた空間線量のみを問題にしているにすぎないという。ともかく、原発はいったん停止して、考えよう、というのが締めくくりだった。

 後藤さんは、1989年来、10数年間、東芝で原子プラント設計に携わってこられた技術者である。今回の事故では悔しさと怒りで、やむにやまれず警告を発している一人である。津波で非常用のディーゼルが止まったことに端を発する事故であるが、「止める・冷やす・閉じ込める」という原則が、核反応制御の失敗、炉心損傷、圧力容器損傷、格納容器損傷というシビアな事故に成果が上がらず、水素爆発・水蒸気爆発・再臨界を防げなかったという。その原因は、地震・津波がきっかけではあるが、機器のトラブルと人為的ミスが重なり、そもそも自然環境条件の設計ミスとプラントの原子炉の集中立地に問題があった、という。まだ、収束していない福島原発の事故では、炉心の冷却、使用済燃料プールの冷却、格納容器の損傷確認と注水など重要である、ということが分かった。

 寺尾さんは、現在は福島放送の営業部であるが、大震災の取材の応援に駆り出されたアナウンサーでもあった。地元メディアの、被災地・被災者と東京のキー局とのはざまでの苦悩もあったという。福島原発事故報道では、かなりの報道陣が決死の思いで取材にあたっていたかのような印象受けていた。しかし、寺尾さんの話によれば、放送局と社員、放送局と労組の間では、局によりその範囲はまちまちであったが、10キロ範囲には絶対入るな、なかには40キロ範囲に社員は入れるな、という取材制限がかなり厳密に実施されているという。そして「直ちに健康に影響を与えるものではない」という政府広報を繰り返していたメディアの実態をどうとらえるべきか。あえて危険を冒せとは言わないが、危ない取材は、ここでもフリーランスのジャーナリストたちなのだろうか。

 渡辺さんの話は、地震直後日本テレビ局で缶詰めになったこと、原発事故の行方が分からずシナリオが描けない・・・など、だいぶ緩いコメンテーター振りで、会場からのブーイングもあった。

 

 311日、山手線車内で地震に遭遇、帰宅困難者となったこともあって、東京へ出るのが億劫になっている昨今、広河さんや後藤さんの話が聞けてよかったと思っている。ただ、参加者との質疑の時間が取れなかったのは残念だった。同じ佐倉から参加していた友人は、「あれでおしまい?もっと先が聞きたい」との感想を漏らしていた。

 「震災報道とNHKニュース7」の後半をまとめるつもりが、取り急いでの報告と相成った次第である。

 

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2010年4月16日 (金)

書庫の隅から見つけた、私の昭和(2)昭和40年代のソ連映画

 

書棚の端の埃だらけのマチのある封筒から出てきたのは、『キネマ旬報』数冊と横長の薄いパンフレットが10冊近く。パンフには「ソビエト映画祭」とあり、並べてみると、第2回(1964年)から第12回(1974年)分までそろう。その体裁は、よくみるとA4、B5の横長、B5の縦長とめまぐるしくかわる。そういえば、このころだったのか、毎年秋になると、新聞などに発表される日程を見て、ソ連大使館に往復はがきを出しては、入場券をゲットしていたことを思い出す。まだ、映画青年のはしくれのつもりで、映画とは縁が切れていなかったわけだ。劇場で映画を見ることはめっきり少なくなっていた一方で、職場に、文学座の友の会?の友人がいてチケットを買わされたり、民芸や俳優座養成学校の卒業公演などを見に行ったりしたのもこのころだったか。

ソビエト映画祭のパンフをながめると、見ているはずの映画の題名すらも覚束ない。全国で23か所を巡回して短編も含めて36編が上映されるのが恒例であった。東京会場は、有楽町の読売ホールだったり、サンケイ会館、虎ノ門ホールだったりしている。全編を見たくて2日間通ったこともある。なにがそんなに魅力的だったのか、と思い返す。私のソ連映画体験の最初は“総天然色映画”『石の花』」(1946年製作、アレクサンドル・プトゥシュ監督、日本公開1947年)ではなかったかと思う。小学校から映画館に出かけて鑑賞した記憶があるのだが、何年生の時だったか、これもはっきりしない。高校以後の学生時代に見たソ連映画はプロパガンダ映画とばかりとの思い込みがあったが、『誓いの休暇』(1959年製作、グリゴリー・チュフライ監督、日本公開1960年)あたりから、なにか違う風を感じるようになったのも確かである。映像理論の教科書ともいわれる『戦艦ポチョムキン』(1926年製作、日本公開1959年)は、多分、ソビエト映画祭とは別に開催されてた国立近代美術館フィルムライブラリー主催「ソ連映画の歩み」(1966715~821日、16本上映)という上映会で見たかと思う(そのプログラムも今回再発見)。『戦艦ポチョムキン』のオデッサ海岸の階段シーン、転げ落ちる乳母車に向かって発砲する場面は、やはり今でも忘れ難い。19056月、実際に起こった戦艦ポチョムキンの水兵たちのツアーリズムへの反乱が主題で、水兵たちとオデッサ市民、鎮圧に来た黒船艦隊との連帯がうたわれる群衆劇である。しかし、その後の水兵たちは指導者を失い、食糧もつき、ルーマニア政府に投降、多くはルーマニアに定住、ロシアにもどった兵たちは死刑ほか強制労働に課せられたという後日談がある。

ソビエト映画祭で見た映画の詳細は、ほんとうに嘘のように記憶から消えている。わずかな記憶をたどってのことであるが、当時、私がなぜソ連映画にこだわっていたかといえば、ソ連への言い知れぬ不安や不信感があったからではないかと思う。しかし、1964年第2回ソビエト映画祭で出会った『私はモスクワを歩く』(1963年モスフィルム、ゲオルキー・シバリコフ監督)は、モスクワの街を舞台に若者たちの1日を追い、青春の普遍性をやわらかな、やさしいタッチで淡々と描いていて、夢を将来につなげそうな気がしたのを覚えている。モスクワやレニングラードで製作されるトルストイ、チェーホフなどの文芸大作や革命もの、レーニンの伝記映画の類は、私には苦手だった。しかし、映画祭で上映される作品の中には、多くの連邦共和国の作品が「紛れ込んで」いた。そうした映画への期待が毎年足を運ばせたのではないかと思っている。そこには、美しい風景とヒューマンな人々の息づかいが描かれ、社会主義体制の官僚主義に堕した組織や政策への批判や抵抗も垣間見ることができたからではないかと思う。ラトビア共和国『ふたり』(1965年、ミハイル・ボーギン監督、第3回映画祭)は、音楽院生徒の少年とサーカス学校生徒の聾唖の少女との恋を描いていた。グルジア共和国『戦火を越えて』(1964年製作、レヴァース・チヘイゼ監督、第3回映画祭)は、グルジアの農夫がドイツと闘って負傷したという息子を追い、苦労してようやく会えたのは市街戦のビルで戦闘中の息子だった。二人はビルの1階と3階で積もる話をかわすなか、息子は敵弾に倒れるというラストだった。トゥルクメン共和国『うちの嫁さん』(1972年製作、ホジャクーリ・ナルリーエフ監督、第10回映画祭)、カザフ共和国『灰色の狼』(1973年製作、トロムーン・オケエフ監督、第12回映画祭)などが、プログラムの解説や写真によってかすかによみがえるものがある程度である。

ソビエト映画祭は、1963年に始まり1979年まで続いたという。私は、1976年に東京を離れ、仕事と子育ての時代に入り、映画自体とはほぼ縁が切れたことになるのだった。

今回の資料の中には、『キネマ旬報』の「ソビエト映画の全貌(ソビエト革命50周年記念特集)」(196711月下旬号)、「1970年代のソビエト映画展望(ソビエト社会主義共和国連邦成立50周年記念)」(19721130日号増刊)も入っており、これは私が購入したと思われるが、一緒にあった『フランス映画大鑑』(増刊1954120日号増刊)、『イタリア映画大鑑』(増刊195545日号)は古書店で入手したのか、兄の持ち物だったのか、定かではない。いずれにしても、しばし「懐かしの映画」に浸ったのだった。

しかし、ソ連邦解体後の元の共和国、東欧諸国と現在のロシア政府との関係を思うと、その紛争・緊張関係、最近では、たとえばカチンの森虐殺事件追悼式典のロシアの対応等は依然として暗い影をよみがえらせるのだった。

 

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