2018年8月 9日 (木)

「共闘」という幻想、から抜け出すために

これほどのマイナス要因がつぎつぎと暴かれる安倍政権、その弱者軽視政策、まるでアメリカ・ファーストであるかのような外交・防衛政策にあきれながらも、内閣支持率が劇的に下がることはない。この政府の犯罪的な行為やスキャンダルも、メディアは、たんなるスキャンダルとして、面白おかしく騒ぎたてるが、あくまでも一過性で、深く調査報道を試みることもなく、忘れ去ってしまったかのように、次のスキャンダルへと乗り換える。また、NHKのように、政治スキャンダルはそそくさと、国会報道は、与野党の争点を深めるのではなく常に<攻防>としかとらえず、災害やスポーツの専門チャンネルかと思うほどの時間を割いて、「政府広報」に徹するメディアもある。そして、政府は、不都合が生じれば、「大騒ぎすることもない」と、ひたすら嵐の過ぎるのを待って、いつまでも安泰なのである。もちろん、こうした政府にも無関心だったり、いや、このままの政権維持でもかまわないで、と深く考えなかったりする国民も、合わせれば三分の2くらいになることも確かなのだ。

 

では、この一強に抗議する市民たちは、「アベ政治を許さない」「9条を守れ」「原発再稼働反対」などと、いつも仲間内では盛り上がるが、その輪を広げることができない。後退する運動を「継続は力なり」とみずからを慰める。近年は、多弱の「共闘」が叫ばれ、その内実は、政党や会派間の攻防・調整に精力が注がれ、なかなか実を結ばない。というのも、みずからの政党・会派の議員当選、一票でも支持票をのばすことが目標になってしまうからだろう。特定の複数政党、政党色が濃いいくつかの「市民団体」などが主導する集会に参加してみると、「共闘」を目指す議員たちが入れ替わり、連帯の挨拶や報告はするけれども、自分の番が終わると、集会の成り行きを見守るわけでもなく、参加者の声に耳を傾けることもなく会場を後にする場合が多い。大きな集会だと壇上から各党代表がつないだ手を振り上げ、その後のデモ行進の先頭には立つが、いつの間にか姿を消していたりする。

私は、特定の政党に属したり、後援会というものにも入ったりしたことがないので、詳細は分からないのだが、共闘を目指した集会などに参加して思うのは、参加した市民の熱気に反して、招かれて講演をしたり、スピーチをしたりする著名な「文化人」「学者」「ジャーナリスト」たちが、どうして、こうもいつも同じような顔ぶれで、同じような内容の話になるのだろう、ということなのだ。さまざまな市民団体が、競うように、そうした「著名人」を招いて、人集めに腐心しているかのような印象を受ける。現に、新しい情報も提案もなく、新聞・テレビ情報を繰り返し、アジテーションに終わることが多く、「またか」の徒労感がつきまとう。あるいは、かつて保守政党の「重鎮」が安倍政権批判をしたり、かつて憲法改正論を主張していた学者が、改憲批判をしたりしたからと言って、過去の言動との整合性が問われないままに、すぐに飛びついて講演依頼をしたり、執筆させたりして重用する。それだけならまだしも、少しでも、疑問を呈したり、批判したりする人物に反論するわけではなく、無視したり、排除したりすることが当たり前になっている。

それに、首長選挙で、共闘のもとに立てた統一候補者や当選者のスキャンダルが浮上したり、公約を守らなくなったりしたとき、共闘を組んだ政党や組織の対応が、あまりにも無責任なのも、納得できないことの一つなのだ。たとえば、まだ記憶に新しい、都知事選での鳥越候補、米山前新潟県知事、三反田鹿児島県知事などなど・・・。統一候補選択にあたって、知名度や人気が優先され、政治的信条の確認などがおろそかになっていたのではないか、など裏切られた思いがする。

「共闘」の成果が上がらないのは、既成の党や会派の方針からすこしでも外れると、そうした意見や活動を無視したり、排除したりするからではないか、との思いにもいたる。市民の一人一人の思いが、塊になって動き出し、政党を動かすというのが、市民運動の本来の姿にも思えるからである。 

私がつねづね思うのは、そもそも、主体的な疑問や怒りがあってこそ、なんとかしなくてはという思いにかられ、抗議や抵抗の形が決まってくるのではないかと。「なんか少しおかしくない?」という素朴な疑問が「ことの始まり」になるのが、私の場合だ。たしかに、活字や映像の情報がきっかけになることもある。後で、自分で、少し丹念に、新聞を読んでみたり、ネットで調べてみたりしていると、さらに、知りたくなるし、疑問も増えたりする。自分取り込んだ情報や知識、そして機会があって、たとえば、市民運動の現場に足を運び、当事者との交流で得た体験は、身に刻まれる。自分からも発信したくなるし、行動の起点にもなることが多い。 

著名人を追いかけたり、ひたすら署名活動に奔走したりする人たちには、どうしてもついていけない自分がいる。せめて、野次馬根性を失わず、体力だけは維持して、ということだろうか。

 

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2018年7月10日 (火)

8年ぶりの佐原、なつかしい、そして思いがけない出会いも

 疎開地佐原については、たびたび、このブログでも触れているが、78日、訪ねる機会があった。連れ合いが、佐原でのある集会で話す予定があると聞いて、ついてゆくことにした。


新しい佐原駅


 前回、家族
3人で出かけたのは、201010月、神幸祭の翌日だった。8年ぶりということになる。駅と駅前の様子はがらりと変貌を遂げていた。駅前広場には、伊能忠敬らしい銅像が立っていた。

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正面の右手、今は瀟洒な平屋だが、私の記憶では、2階建ての、1階は駅前食堂「八代商店」があった・・・

 私の脳裏にある佐原駅は、疎開中の敗戦前後の「停車場(テイシャバ)」で、当時の駅舎は、ネットで見つけた、まさに、下の写真の通りである。駅の南側になる。私たち家族が疎開して、まず身を寄せたのは、岩ケ崎の母の生家であり、そこから転居した仁井宿の馬市場の旧管理人さんの家であった。駅前には、食堂をやっていた親戚の家があって、場所柄もあり、親戚中の人たちがよく立ち寄っていた。私たち家族も2階の部屋に泊まらせた貰った記憶がある。列車が駅に着くたびに、2階はびっくりするほどよく揺れて、そのたびに目を覚ましていたらしい。1階の食堂の調理場の真ん中に井戸があって、土間だったのか、タタキだったのか、立ち働いていた人たちの姿も覚えている。「停車場」の駅員さんや交番の駐在さんも食堂のお得意さんだったらしかった。当時を知る人たちはもういない。

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正面は旧佐原駅舎、右は駐在所

新しい駅舎は、20113月開業とのこと、私たちが前回訪ねた翌年、東日本大震災直後だったことになる。南口広場の整備は2015年というから、まだ間もないことがわかった。その日の集会の会場は、駅の北口、佐原中央公民館だった。この建物も、跨線橋もあたらしい。

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数十年ぶりに従姉と会って

昨年から、ヒヨンなことから電話でのやり取りが始まったのであるが、数十年ぶりに従姉のMさんと会うことになっていた。見つけることができるだろうかとの不安もあったが、すぐにわかった。彼女は、住まいの東京から今は誰も住んでいない佐原の生家にときどき通っているとのことであった。その間に、亡くなったお連れ合いの仕事場でもあったアメリカにもよく出かけるという。数日前に帰国、成田から佐原に直行したという。そのエネルギーに脱帽しつつ、短い時間だったが、話すことができた。私の母の妹である、彼女の母親も、1950年代後半、母と一緒に作歌に励んでいたのは知っていた。そしてなんと、その叔母の歌が、毎日新聞に載っていたのを、Mさんは、今回の佐原滞在の折に、生家の引き出しから見つけたというのである。そのコピーには、

・いつになき夕焼のして厨映え菜刻むわれの指先あかし


とあった。

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 昨年、やはり偶然見つけた、母の短歌については、以下のブログにも書いたところだが、叔母の短歌も見つかったとは・・・。

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晩年の母の一首、見つけました

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/11/post-3edd.html

 母は、女流短歌連盟主催第1回「女人短歌大会」のに入選、第2回に叔母が入選していたことがわかったのである。子育てから手が離れた、母と叔母の姉妹が、切磋琢磨していたことが、よくわかるエピソードであった。ともに『ポトナム』の阿部静枝先生の指導を受けていたのである。私がまだ短歌を詠み始める前のことでもあった。


そして佐倉からも

今回の集会には、なんと、佐倉からもお一人駆けつけてくださった。当日78日の午前中は、地元の9条の会の世話人会だった。私は欠席して、連れ合いに同行したのだが、その会の代表のTさんは、午前中の世話人会を終えて、高速を走ってこられたという。事前に伺っていなかったので驚いてしまった。ご実家が牛堀なので、帰りにはそちらに立ち寄られるとのことであったが、思いがけず、うれしいことだった。佐原は、東京の大学に行くまでは、水郷大橋を越えて、本や画材を求めにやってきた町だったという。

集会での話の内容は・・・

なお集会のオープニングは、南条忠夫さんの演歌「利根の佐太郎」「祝い船」「夫婦春秋」であったのは、なかなかの趣向で、年期の入った見事な唄いぶりであった。その日の集会は「市民連合ちば10区1周年記念」とのことで、連れ合いの話は「安倍政権を退陣させる攻めどころ」と題して、森友・加計問題で追いつめる二つのルートと安倍政権への経済政策への代案―消費税に代わる財源構想、についてであった。とくに、後者については、普段聞かされる話しながら、聞くほどに、腹立たしさが募るのだった。

発行された国債の大部分は銀行が買い取り、それを日銀がまとめて預かっている367兆円、私たちの銀行預金の十倍もの利子をつけているのだから、お金が出回るわけがない、というのだ。さらに、法人税の減税分で労働者の給料を上げ、工場の海外進出を抑えるなどの目的が果たせるどころか、逆行し、非正規は増えるし、社会保障負担分をも抑え、内部留保が増えるばかりだという。この無益な法人税減税を中止し、内部留保課税に踏み込むべきだ、と強調する。内部留保税を二重課税とする論は、法人税減税の無益さと消費税こそ二重課税ではないかの論を破ることができないはず、と。

途中、雲行きも怪しかったが、夕方には、車窓から、遠くの筑波山を眺めながらの帰途となった。乗り換えの成田駅界隈は、新勝寺の祇園祭の最終日の由、大変な人出であった。


8年前の佐原紀行については、以下をご覧いただければと~。 

2010年10月14日~15日
祭のあとの佐原をゆく(1)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/10/post-7fec.html

祭のあとの佐原をゆく(2)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/10/post-3ba9.html

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2018年6月19日 (火)

今年の6月15日は・・・、第一歌集『冬の手紙』のころを思い出す

 今年の615日は、病院で少し大掛りな検査を受けた直後だったので、家で静かに過ごし、1960615日前後のことから私の第一歌集『冬の手紙』(1971年)のころまでのことを思い出していた。1960年は、私が母を亡くした翌年で、大学に入って二年目だった。末っ子で、お母さんっ子と言われていた割には、当時の立ち直りが早かったらしく、家族は、いささか安堵したらしいことを、後から聞いた。

 

1960615日は、安保闘争のさなか、学生だった樺美智子さんが、国会南通用門で、警官隊との衝突の混乱の中で死亡し、その死をめぐって、反体制運動の分断が図られようとしていた。620日の安保条約改定の自然承認を前に、私も何度か学生自治会の一員としてあるいは一人で、集会やデモに参加することがあった。在学の大学自治会は、いわゆる全学連「反主流派」と呼ばれ、「過激」とされる「主流派」とは一線を画することが強調されていた。いわばノンポリに近い、シナリオ研究所に通う映画青年?を気取ってもいた私には、その深層には触れないまま卒業した。卒業後は、2年間の私大職員を経て、国家公務員となっていた。その頃の職場の労働組合は、職員約800人のうち、管理職を除いて、ほとんどの職員が組合に加入することが当たり前という状況だった。政党色が濃い組合とされていた。そして、私の配属先の10人余りの課からは組合の委員長や執行部役員が選出されていた時期でもあった。

 

永田町の職場は、国会議事堂に近いこともあって、私は、615日の昼休みには、ひとりで、議事堂を一周して樺さんを偲び、いま、何をしたらよいのかを考える時間になればと、いささかの感傷も手伝って、毎年続けていた。その頃、職場の男性たちの間で始まっていた、昼休みの皇居一周のジョギングというものに、女だって走りたいよねと、週に23回、友人と誘い合うようになっていた。約5キロのジョギングは、当初は、かなりきつく、千鳥ヶ淵の土手で、一息入れながらストレッチをしたりしていた。約30分、それまで、知らなかった四季折々のお堀端の風景を楽しめるようにもなった。そんな折、同期採用で、組合青年部で活躍していると思っていた友人が、ある「過激派」とされる人たちの集会で、逮捕・拘留されるという事件が起きた。数か月後、保釈されたが、人事課は、職場復帰を認めなかった。その時、労働組合は、「過激派」の活動に参加していたことをもって、いっさい支援することをしなかった。この時の組合の対応がきっかけになって、「労働組合」って何だろうという疑問が、かつての615日の樺さんの死をめぐる「革新政党」の対応とつらなっていることにも気づくのだった。しかし、私は、職場内で立ち上げられた「支援」の会にも参加することをしないまま、労働組合を抜け出すということもできなかった。この私の曖昧さを、いま、どう考えたらいいのだろう。そして、いまは・・・。忸怩たる思いもある。

 

当時は、短歌に関わっていることすら、職場では言い出してはいなかったし、ごくわずかな友人にしか話していなかったと思う。こんな歌ばかりではないのだけれど、当時の拙いつぶやきを恥ずかしいながら・・・。

 ・晶子・雷鳥・菊栄らの論争いまだ越ええず<女の仕事> 

・等分に与野党責めて傷つかぬ立場というを知らされており 

・キャンパスは整いゆけるに組合の成らぬ私大に働き慣れて

 

・理事室の明るきに抗議を続けたる会を見守る側に立ちいて

 ・好奇なる問いに遇いたり新しき職場に小さき嘘を重ねん

・シュプレヒコール禁じたるマイクの声に列は少しく昂ぶり見せる

 ・少数者意見を葬る手続を自らの組織が如実に見せる

 ・首相発ちし日より一つの空席を持せる職場に冬を迎えん

 ・ひそやかに救援資金が集めらるる職場の冬の混濁におり

 ・陽に手紙かかげて解かん検閲を受けて抹殺されたる幾語

 ・ようやくに保釈なりたる友が来て涙見せたり職場の隅に

 ・いささかの力となるか抗議文手渡す友の背後に並ぶ

 『冬の手紙』(五月書房 19717月)より 

  

 獄中より職場に届いた手紙を同僚たちと、陽にかざして読んだことが、歌集名「冬の手紙」の由来となった。母の没後11年後に父を亡くした。晩年の父とはよく旅に出た。歌集には、そんなときの一首もある。

 ・すすき野にすすき折りいる父が言うぱっと明るい顔はないのか

 そして、半世紀近くが経とうとしている昨年、ネット上で公開された私の評論集への書評が縁で知り合った青年から、就職先が、私のかつての職場であることを伝えられた。それではと、職場の近くでランチをすることになった。孫の世代にもあたる若者に、話の成り行きながら、現在の組合の加入具合を尋ねてみると、2割くらい、ともいう。官民問わず、組合の組織率が著しく低下しているというのは聞いていたが、やはり愕然とした。本人が加入しているか否かは聞きそびれてしまったのだが。

 

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2018年6月 9日 (土)

短歌における「改ざん」問題 ~斎藤史を通して考える  

 『梧葉』という季刊の短歌新聞の「視点論点」に以下を寄稿しました。

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短歌における「改ざん」問題

①國こぞり戦ひとほす意気かたし今撃たずして何日の日にまた
  

❶国こぞり戦ひとほす意気かたし今起たずして何日の日にまた

 

亡き友よ今ぞ見ませと申すらく君が死も又今日の日のため
 
➋亡き友よ今ぞ見ませと申すらく君が憂ひしとき至りたり 

  ①②は、斎藤史の初版『朱天』(一九四三年)八九頁の掲載作品だが、❶➋ は、後年の『斎藤史全歌集』(一九七七年、一九九七年)の収録作品である。初版では「天つ御業」の小題のもと、②には「すぐる二・二六事件の友に」という詞書を付す。『全歌集』での小題は「天雲」となり、傍線部分が改作されている。傍線部分を比べると、作者には、『全歌集』編集時に、歌の意味を大きく変更する意図があったことは明白である。ちなみに、①②は、『大東亜戦争歌集愛国篇』(一九四三年)『新日本頌』(一九四二年)にも収録されている。 
 

  また、斎藤史は、『全歌集』編集時に、『朱天』の冒頭に「はづかしきわが歌なれど隠さはずおのれが過ぎし生き態なれば昭52記」の一首を付記した。『全歌集』刊行時、この一首は、戦時下の自らの作品を隠そうとしなかった潔い宣言として、高く評価され、その後、しばしば引用されている。ところが、『全歌集』に収録された『朱天』は、初版の『朱天』から



(あき)つ神在(ゐ)ます皇国(みくに)を醜(しこ)の翼つらね来るとも何 かはせむや

 等を含む一七首が削除されていた。その上、『全歌集』の「後記」に「・・・多少の手直しはあるが、発表当初と大差はない。世渡り上手に生きるならば削ったであろう戦争時の歌もあえてそのまま入れたの・・・」とも記していた。
 隠さずに公表したと言いながら、あとから、改ざん、削除、隠蔽が徐々に明らかになってきた、公文書改ざんの一件の構図を思い起こす。文芸の世界でも、用字・用語等の修正はともかく、一度、世に問うた作品や歌集には、表現者としての責任が伴うはずである。斎藤史は一例に過ぎない。(『梧葉』2018年4月春号 所収)

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2018年4月29日 (日)

今どきの高校生、9条をまもりたいのビラを配る

 明日から連休が始まるという、4月27日(金)に、佐倉市内の高校登校時のチラシ配布に参加した。地元の9条の会で、続けている佐倉市内の高校前宣伝の一環である。4つある市内の県立高校前でのチラシやニュース配布は、すでに4巡目に入り、、この高校では、4回目になり、私は、2回目となった。今回は、3月に発行した「ニュース」36号である。

 

 正門は、自転車通学の生徒がほとんどということで、京成佐倉駅方面からの生徒が圧倒的に多い裏門に陣取ることになる。7時30分に7人が集合、ある予備校の二人がすでに、宣伝でティッシュを配り始めていた。8時30分の始業とのことで、ピークは8時15分前後か。数日前に、教頭先生に挨拶に伺った二人が先頭で頑張ってくださったようで、8時半までに約160枚のニュースを渡すとができた。ニュースの内容は、会のプログをご覧いただきたい。 

http://sakurasizu9jo.cocolog-nifty.com/blog/files/36.PDF

  9条の会のニュースです、9条まもりたい会のニュースです、憲法9条を守りましょう、読んでみてね、等の言葉はなかなか届かず、受け取ってくれない。自衛隊の木更津駐屯地に米軍の沖縄普天間基地の24機の整備基地となったこと、自衛隊が購入するオスプレイ17機のうちの5機が、この秋にも配備されることになり、千葉の空は、いよいよ危険にさらされることになったこと。1機100億以上のアメリカの言い値で導入に加えて、陸上配備の迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」1000憶の2基導入を決め、防衛費が5兆2000億に膨らんだこと。個人的にはそんな記事を読んでほしかったのだが、生徒に配っているうちに「『君たちはどう生きるか』を知っていますか」の記事への関心が高いよ、とのことで、私も途中から、呼びかけを変えたら、なるほど、受け取ってくれる生徒がちらほら・・・。「知ってます」「読んだよ」といって、あるいは黙って手を伸ばす生徒がいたのである。 

 そういえば数日前、近くの駅ビルの本屋さんの一番目立つところに漫画本や文庫『君たちはどう生きるか』が山と積まれていたことを思い出した。たしかにブームではあるのだ。 

 私とこの本の思い出と言えば、「日本少国民文庫」という四角いハードカバーの本だったような気がする。多分、小学校高学年のとき、めったにないことなのだが母親が買ってくれたのではないか。自分で選んだ記憶がない。残念ながら、生家を出る時にどうも置いて来たらしいし、家は建て替えられてしまっている。著者の吉野源三郎のイメージから、岩波書店からだとばかり思っていたが、調べてみると、新潮社からで、国立国会図書館で所蔵している「日本少国民文庫4」(1949年)だった可能性が高い。装丁も22×19㎝で、記憶と一致する。そもそも、1937年戦時下で出版された本だったらしく、何回か書き換えられながら今日に到ったことがわかる。当時、私がほんとうに読んだのかどうかの記憶もないのだ。 

 それにしても、漫画本でも、中・高生が読んでの感想が聞きたいと思った。敗戦をはさんでの昭和期の、いわゆる教養主義へのノスタルジーの押しつけにならないか、の心配もある。10年ほど前に、1929年発表の小林多喜二の「蟹工船」ブームのようなことにならなければよいが、とも思う。

  いまの時代の歪み、居心地の悪さに気づいて、少しでも変える力に結びついて欲しいと願うばかりであった。

 

 

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2018年3月28日 (水)

『国策紙芝居からみる日本の戦争』のページを繰って(2)

<登場する短歌作品>

私が、解題篇を読んで、やはり気になったのは、短歌や和歌が「国策紙芝居」にどう登場したかであった。 

➀「風流蜀山人」(鈴木景山脚本 石原徴絵 194181日) 

・色白く羽織は黒く裏赤く御紋はあをいきいの殿様 

・唐人もここまで来いよ天の原三国一の富士を見たくば 

 

短歌ではないが、狂歌師の太田蜀山人にまつわる小噺で、何首かの狂歌もが紹介されている中の2首を記した。1首目は、紀伊の殿さまにまつわる狂歌であり、2首目は、中国を意識した時局を反映したものだろう。


②「楠木正行」(平林博作 西正世志絵 1941925日)

・かへらじとかねて思へばあずさ弓なき数にいたる名をぞ止むらん 

南朝の天皇への「忠孝」を誓い、この「忠魂」は世の若人に「道を教え、励ましを与えて」いると結ばれている。ここに、登場する後醍醐天皇の声は聞こえるが、その姿は雲のなかであって、姿は描かれていない。

 ③「忠魂の歌」(大日本皇道歌会編国民画劇研究会脚色・絵 1942531日)

・海ゆかば水漬くかばね山ゆかば草むすかばね大君のへにこそ死なめかへりみはせじ 

萬葉集収録の大友家持作が読み上げられ、「尽忠報国。まことに、皇軍勇士の亀鑑たる鈴木庄蔵軍曹のお話であります」ではじまる。「海ゆかば」は、国民精神総動員強調週間を制定した際のテーマ曲として信時潔がNHKの嘱託を受けて1937年に作曲したものだが、下の句の「天皇のそばで死ぬのだから、決して後悔はしない」とのメッセージが重要なのだろう。主人公の鈴木庄蔵は、東京羽田で父と漁師をしていたが、出征、193810月、中国、徳安城攻撃で重傷を負う。臨時東京第一陸軍病院での入院生活で短歌を看護婦の勧めで始めるが、1940810日に没する。臨終の際に、次の一首を詠むに至るストーリーである。 

・半身は陛下のみために捧ぐれどいまだ半身われに残れる

 作中には、ほかに、次のような短歌が挿入される。

・大場鎮突破なしたるその時は隊長も兵も共に泣きたり

(靖国神社権宮司 高原正作揮毫) 

・わが體砲煙の中にくだくとも陛下の御為なに惜しからん

(明治神宮権宮司 中島正國揮毫)

 なお、鈴木の作品内危篤から臨終までの遺詠が70首あるといい、そのうちの21首が『白衣勇士誠忠歌集』(由利貞三編 日本皇道歌会 1942年3月)に収録されている。また、編者の由利の解説に拠れば、1941年5月26日皇太后(貞明皇后)訪問の折、「戦傷勇士」5名12首を献上したと記す。鈴木の4首が一番多く「半身は」の他以下3首も記されている。

 

・吾が身をばかへりみるたび思ふなり陛下のみためいかに盡せし
・傷おもきわが身にあれど大君の股肱にあれば元気かはらず
・陛下より恩賜の煙草いただきて我はすはずに父におくりぬ

 

④「物語愛国百人一首」(納富康之脚本 佐東太朗子絵 斉藤瀏題字 1943820日)  

「愛国百人一首」は、日本文学報国会が、佐佐木信綱、窪田空穂、尾上柴舟、太田水穂、斎藤茂吉、土屋文明ら12名の歌人を選定委員として、「尊王愛国」を喚起するカルタの普及を目指して作成し、内閣情報局が19421120日に発表した。協賛した東京日日新聞、大阪毎日新聞はじめ、短歌雑誌はもちろん、主婦や子供向け雑誌などでも鑑賞や評釈が盛んになされた。この紙芝居では、百首の中から20首近くを紹介、その中には、前掲、大伴家持の「海行かば・・・」、楠木正行の「かへらじと・・・」などを含む次のような短歌が次々と紹介されてゆく。

 

・しきしまのやまと心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花

(本居宣長) 

・皇(おほぎみ)は神にしませば天雲の雷(いかづち)の上に盧(いほり)せるかも(柿本人麻呂)  

・身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂 

(吉田松陰)  

・御民吾生ける験あり天地の榮ゆる時に遇へらく念へば

(海犬養岡麻呂)

  題字を揮ごうした斎藤瀏は、選定委員の一人でもあり、「心の花」同人で二・二六事件に連座、反乱幇助罪で入獄。出獄後は「短歌人」を創刊、太平洋戦争下では、戦意高揚短歌を数多く作り、「短歌報国」にまい進した。斎藤史の父でもある。 

<描かれなかった天皇、登場する天皇の短歌>

 

『国策紙芝居から見る日本の戦争』における論考篇の中で、もっとも関心を寄せたのは小山亮「国策紙芝居のなかの描かれない天皇―神奈川大学所蔵コレクションから」であった。紙芝居の絵の中で、「描かれることがなかった天皇」―脚本には言及がありながら、図像には決して描かれなかった天皇について、各作品の絵と脚本とを照合しながら丹念に検証した労作である。身体の一部が絵になりながら、顔や全体像は見せなかったり、雲の上に存在を思わせながら姿を見せなかったりする紙芝居の中の天皇の存在が「御真影」との関係、他のメディアとの差異など、何を意味するのか、興味深く思われた。私は、それを読みながら、それでは紙芝居に登場する天皇の短歌はどんな場面で登場し、どんな作品が選ばれているのかを、探ってみたいと思った。制作年月日順にみてみよう。 

➀「大政翼賛」(日本教育紙芝居協会(作成)19401230日) 

19401012日の大政翼賛会が成立の直後から制作にかかったのだろうか。当時の標語「なまけぜいたくは敵」「公益優先」などの羅列と解説に終始する作品で、が引用されるということで、最終場面<臣道実践>の文字と二重橋の絵の台本に、1904年の明治天皇の短歌が記されている。 

・ほどほどに心をつくす国民のちからぞやがてわが力なる

(明治天皇)

 

②「戦士の母」(日本教育紙芝居協会脚本 西正世志絵 1941618日) 

 千葉県のある村で、息子の出征を励ます母を描きながら、強い皇軍の支えは銃後の力であり、ことに「母こそわが力」が大きいことを力説する作品だが、1904年の短歌が登場する。 

・子らは皆戦の場に出ではてゝ翁や一人山田守らん

(明治天皇) 

*こらは皆軍のにはにいではてゝ翁やひとり山田守るらん(『明治天皇御集』明治神宮社務所編刊 195211月)

 

③「産業報国」(平林博脚本 油野誠一絵 1941105日) 

 大日本産業報国会提供作品で、冒頭場面では、1904年の短歌が使用され、最終場面は工場街を背景に「護れ!職場はわれらの陣地!」の大きな文字が描かれている。 

・よもの海みなはらからと思う世になど波風の立ち騒ぐらん

(明治天皇)

 ④「あまいぶだう」(日本教育紙芝居協会脚本 羽室邦彦絵 1941105日) 

 軍事援護強化運動の一環として制作された作品で、国民学校の児童たちと近所の傷痍軍人との交流を描いている。ここでは、昭和天皇の良子皇后の短歌が引かれている。1938103日(軍事援後強化時期1034日)に寄せた短歌であった。戦時下の女性皇族の役割として、傷病兵やハンセン病者たちへの慰問などが担わされていたことがわかる。 

・あめつちの神ももりませいたつきにいたでになやむますらをの身を
(香淳皇后)

 

⑤「英東洋艦隊全滅す」(日本教育紙芝居協会脚本 小谷野半二絵 1942121日) 

 19411210日、128日の日米開戦直後の、日英マレー半島沖戦の戦闘場面を誇る戦意高揚作品。次の1905年短歌で締めくくられる。 

・世の中にことあるときぞ知られける神のまもりのおろかならぬは(明治天皇) 

⑥「大建設」(選挙粛正中央聯盟(作成)1942317日) 

表題の上段に「大東亜戦争完遂」、下段には「翼賛選挙貫徹運動」が掲げられる。太平洋線追うが始まっての翌月19421月の歌会始のお題「連峰雲」の昭和天皇の短歌が絵や台本に刷り込まれている。 

・峰つゞきおほふむら雲吹く風の早くはらへとたゞいのるなり
(昭和天皇)

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⑦「学の泉」([斎藤史弦絵] 1943123日) 

 仁徳天皇、菅原道真、伊能忠敬など歴史的人物が一人一枚で登場する「教育勅語」の解説作品のなかで、1891年の歌会始「社頭祈世」の作品が引かれている。 

・とこしへに民やすかれと祈るなるわがよをまもれ伊勢の大神

(明治天皇) 

 

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「峠」(斎田喬脚本 伊藤文乙美術 1945年7月10日)東京から農村に疎開してきた少年の成長を描く物語。斎田(1895〰1976)は香川師範卒業後、成城小学校の教師に招かれ、学校劇・自由画教育に携わった。戦後は児童劇作家協会を設立している。

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「三ビキノコブタ」(川崎大治脚本 西正世志絵 1943年3月20日)昔ながらの童話もある。川崎(1902~1980)は巌谷小波に師事、一時、プロレタリア児童文学運動にも参加、戦後は児童文学者協会設立にかかわり、後、会長となる。

 

 

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『国策紙芝居からみる日本の戦争』のページを繰って(1)

<研究会に参加できなかったけれど>

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      チラシ: http://www.kanagawa-u.ac.jp/att/16525_29237_010.pdf 

 

 325日は神奈川大学横浜キャンパスに出かける予定にしていたが、所用で、見送ることになってしまった。以下のプログラムで神奈川大学非文字資料研究センターによる研究会「アジア太平洋戦争と国策紙芝居」が開催されていた。1週間ほど前に、そのセンターから『国策紙芝居からみる日本の戦争』と題する、厚さ3センチ以上、A4 の立派な図書(同センター「戦時下日本の大衆メディア」研究班編著 勉誠出版 20182月 463頁)を頂戴した。センター所蔵「戦意高揚紙芝居コレクション」239点(193612月~19457月制作)の解題篇、論考篇、データ篇からなり、解題篇は、各作品1頁のスペースに、表題紙・書誌事項・あらすじ・解題から構成され、34枚の絵がカラーで収められている。私の紙芝居体験は、敗戦後からなので、収録の紙芝居は見たことがない。ただ、201312月、同センターの紙芝居コレクションの整理が終了した時点で、展示・実演と共にシンポジウムが開催されたときには、参加したので、何点かの実演を見せてもらっている。そのレポートは、以下のブログ記事にとどめている。

 ■「国策紙芝居」というのがあった~見渡せば「国策メディア」ばかり・・・にならないために(2013126日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/12/post-1e1c.html

  この紙芝居コレクションの旧蔵者は、櫻本富雄さんで、近年、個人的に古書を譲っていただいたり、資料のご教示をいただいたりしている方だった。そんなご縁もあったので、今回は参加できなかったのは残念なことであった。 

そもそも「国策紙芝居」とは、「政府各省や軍関係団体、政府に協力する翼賛団体などが紙芝居制作会社につくらせたもの」(「まえがき」)で、上記コレクションの大半が日本教育画劇という会社の編集出版部門である日本教育紙芝居協会が制作したものである。

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表題紙の一部、上段の絵は、後掲の「忠魂の歌」の一枚、傷痍軍人鈴木庄蔵の歌が書かれている。「わが體 砲弾の中に くだくとも 陛下の御為 なに惜しからん」とある。

<多様なメッセージのなかで>

 

解題篇の一点一点を読み進めていくと、20枚前後の絵と口演台本ながら、実に様々なメッセージが込められているのが分かる。金次郎や桃太郎、さるかに合戦、花咲か爺などの昔話をはじめ、動物ものには「森の運動会」(伊馬鵜平(春部)原作 永井貞子脚本 宇田川種治絵 19421030日)川崎大治作・西正世志絵による「コグマノボウケン」(19421130日)「三ビキノコグマ」(1943320日)などがあり、これらは幼児向けと言ってもよい。細部に時局が反映されたりするが、ほのぼのとしたものが多い。また、家庭向けの実用的な作品としては、次のように、時局を直に反映したものが多い。

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「フクチャントチョキン」(横山隆一案 19401130日)は「支那事変国債」購入の勧めである。「家庭防空陣」(日本教育紙芝居協会脚本 浦田重雄絵 19411015日)は、空襲はおそろしくない、国民の魂・気力で征服できる、一つの隣組で一つの爆弾を引き受ける覚悟などを説き、「大建設・大東亜戦争完遂、翼賛選挙貫徹運動」(選挙粛清中央聯盟編 1942317日)「總意の進軍・翼賛選挙貫徹のために」(大政翼賛会宣伝部元作翼賛紙芝居研究会脚色 近藤日出造絵 1942330日)は、表題通り、翌月に迫った430日の投票に向けた作品で、前者は種々の威勢のいい標語やスローガン、後者は東條首相の演説が取り入れられていた。「戦時お臺所設計図」(金子しげり原作 日本教育紙芝居協会脚本 浦田重雄絵 1942820日)は、食材の切れ端を工夫・活用し、ゴミ減量を説くのである。「午前二時」(鈴木景山編輯 油野誠一絵 19441020日)は、空襲は必至として、普段の備えと心構えが語られるが、珍しく単色で描かれ、真夜中の雰囲気を出しているようでもあるが、印刷の紙は粗悪らしい。この作品から、私自身の空襲への恐怖がかすかに思い起こされるのだ。夜中に眠いのを起されて、防空壕に連れ出そうとする母に「死んでもいい」と駄々をこねたことは、後から聞いた。また、病気で寝込んでいた母を、家の中の縁の下の待避場所に残して、防空壕へと父に連れ出されたときに、暗闇で布団にくるまっている母の姿の記憶がうっすらとあるのだ。そんなことがあって、父と学生だった長兄を東京に残して、母と次兄と私の三人は、母の実家に疎開することになったのだろう。

 

歴史上の人物の伝記ものでも、時代も分野も異なり、さまざまなパターンがある。 「兵制の父大村益次郎」(大政翼賛会宣伝部作 中一彌絵 19421130日)、「山本五十六元帥」(鈴木景山作 小谷野半二絵 19431215日)などは、ストレートな軍国主義、徴兵強化を意図し、「キューリー夫人傳」(鈴木紀子作 西原比呂志絵 194175日)、野口英世(木實谷喬壽原作 池田北鳥脚本 藤原成憲絵 19411231日)は、それぞれ、非常時の国防に役立つことを考えた研究者、戦う科学の戦士という位置づけであった。「二宮金次郎」(成瀬正勝構成 西正与志作絵 1941130日)など、もっぱら質素・節約を説くものもある。 

 

一方、堀尾勉作・西正世志絵というコンビによる「芭蕉」(1941101日)は、作画や印刷にも工夫がこらされ、淡い色調で、文学性が高められ(松本和樹)、「一茶」(1943110日)は、朗読によって、一堂に会して視聴する者の感動を誘うような意図が感じさせるが、一茶の消えない悲しみや苦しみが打ち出すカタルシスと文学性の成否が問われるといった解題(鈴木一史)も付されていた。どんなふうに描かれたのか、知りたいと思った。

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2018年2月12日 (月)

『九州大学生体解剖事件』を読む~スガモ・プリズンの歌会にも触れて

126日の森友学園問題を考える会主催の「院内集会」の折、出会った森友学園の地元豊中市市議の熊野さんから著書『九州大学生体解剖事件 七〇年目の真実』(熊野以素著 岩波書店 20154月)をいただいた。 

そこで展開される事実は、不勉強で、知らなかったことも多く、胸の痛む思いで読み進めた。19455月、九州大学医学部が「実験手術」の名のもとに、米軍の捕虜8人が、生体解剖の犠牲になった事件で、それにかかわった医師、鳥巣太郎についてのドキュメントである。戦後に行われた「横浜法廷」で、その首謀者の一人として死刑判決を受けたのだが、4回行われた「実験」に2回かかわったことで、極刑を言い渡された鳥巣が、その「実験」に抵抗し、回避をしてきたことを知っている妻が、判決の理不尽と戦った記録である。膨大な裁判記録や再審査資料、関係者の証言を駆使しての労作であった。 

著者の伯父鳥巣太郎・蕗子夫妻、鳥巣の苦悩、蕗子夫人の奮闘の軌跡がたどられる。夫人が苦労して書いた嘆願書が検察側の資料となる経緯、西部軍、九大側の隠蔽工作、サイデル弁護士の証言工作などが明らかになる過程、時には裏切られながらも、協力者を得てゆく過程が克明に描かれる。再審査の結果、死刑は10年に減刑されたのだった。 

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    そして私が何よりも思いがけなかったのは、鳥巣太郎が短歌を詠んでいたことであり、それが、<戦犯歌集>と呼ばれた『巣鴨』(第二書房 19539月)に収録されていたことだった。
 この歌集の「序」を鹿児島寿蔵と並んで書いていたのが阿部静枝であった。静枝は、私の母と私が師事した『ポトナム』の歌人だった。1960年代、『ポトナム』の東京歌会に参加していた頃、歌集『巣鴨』については、聞くともなく聞いていた。阿部静枝は、『女人短歌』、『潮汐』、『ポトナム』の同人たちとともに、巣鴨拘置所内での巣鴨短歌会に出向いて短歌の指導に当たっていて、その成果の一つが、この歌集であった。時を経て、知人から譲り受けた『巣鴨』を通読はしていたが、鳥巣太郎が九州大学生体解剖事件に関係する医師だったとは知らなかった。静枝は、戦前から池袋の西口、二丁目に住み、我が家も大正時代から一丁目で店を営んでいて、巣鴨拘置所へは、東口ながら歩いて行ける距離であった。1970年まで拘置所だった、その跡地には、1978年にサンシャインビル60が竣工、当時は、その高さはアジアで一番を誇っていたのだった。巣鴨拘置所は、私の生活圏のなかにあった。  

 阿部静枝は、その「序」において、「有刺鉄線の境界、アメリカの旗がひらめくその上の空、敗戦国を見下している監視塔があるスガモ・プリズンは、戦争の抽象として、人間不幸の具象として、私の感情を締め上げる場所であった。・・・」と書き起こし、講和条約締結後は、面会の制限が幾分緩やかになり、集団面会の形で歌会が持たれたという。さらに、当初は、戦争への憎悪、悲運への忿怒、孤独の狂いが歌われていたが、次第に、透徹した祈りが底流となった、とも述べている。 

 

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鳥巣太郎の「孤心」と題する50首の中から10首を選んでみた。 

・郷愁のひたにせまれば少年の頃のわが村地圖に描きをり(愁翳)
・つぎつぎに売り細りゆくわが家のせまれる生活(くらし)今日は告げ来し
・何事も死が解決するといふことを我はうべなはず生きゆかむとす
・死に就きし友の監房に入りゆけば鉛筆書きの暦のこれり(訣別)
・口數の少きままにひたぶるの眸はわれに向けをりし子よ(面会)
・永らへし命思ひぬ秋づきて朝はすがしき窓に佇ちつつ(蟋蟀)
・咳をするも一人とよみし山頭火おもひ出でつつ臥床をのぶる
・秋の陽の寂かに照れる廣庭にわが出でしとき眼(まなこ)眩みぬ(命生きて)
・ある時はわれのみを人らが目守りゐる心地覚えて護送車にゐる
・講和調印終りし今朝も平凡に護送車の中にうづくまり居り

 

 鳥巣には、『ヒマラヤ杉』(1972年)という歌集もあるという。また後年、上坂冬子とのインタビューでは、事件当時の九大医学部の医局員は一体どうすればよかったのかを尋ねられて、「どんなことでも自分さえしっかりしとれば阻止できるのです。・・・ともかくどんな事情があろうと、仕方なかったなどというてはいかんのです」と答えたそうだ。著者の熊野さんは、「最終章」で書かれている(189190頁)。

 

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2018年2月 5日 (月)

皇室とハンセン病と―名護市屋我地島の「御歌碑」

   

昨年2月の沖縄行のレポートとも一部重なりますが、『ポトナム』2月号には「歌壇時評」として、書きました。 

 

◇冬の沖縄、二つの目的をもって~難しいと逃げてはいけないこと(1)屋我地島、愛楽園を訪ねる(2017214日)

 http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/02/post-eeb9.html

   文中にある、沖縄愛楽園は、名護市の屋我地島の済井出(すむいで)にあります。沖縄本島とは屋我地大橋で結ばれ、さらに古宇利大橋で今帰仁村に属する古宇利島と結ばれ、また今帰仁村運天側の本島との間はワルミ大橋で結ばれていて、屋我地島と古宇利島は、いまや美しいビーチが自慢のリゾート地として人気があるそうです。 

 

 さきほど、昨夜11時前には、きのうの名護市市長選の結果が分かり、稲嶺進前市長の落選が報じられています。どうしてこうなってしまうのでしょうか。新人支援の小泉進次郎が「みなさん、なかよくやりましょうよ」みたいな応援演説をしている映像が流れていたのは知っていますが、こんな言葉に惑わされてしまうのでしょうか。残念です。日本の空でありながら米軍機が危険な飛行を繰り返すのに物が言えない政府、新基地建設に反対しながら、遠く離れた私に何ができるのかを考えると、とても情けない気持ちになってしまうのですが、なんとか、気を取り直して・・・。 

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同じ名護市の屋我地島と辺野古

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・つれづれの友となりても慰めよ 行くことかたきわれにかはりて 

    短歌と皇室・沖縄・ハンセン病―これらのキーワードが一直線で結びついているのではと考え始めたのはここ数年のことである。これまでも、現代短歌と天皇制との接点で、何が起こっているかに着目してきた。平成の天皇夫妻の短歌は、歌われる内容と発表の時期、タイミングを検証することによって、その政治的メッセージ性が高いことを指摘してきた。天皇は、皇太子時代を含め、沖縄には一〇回訪問し、多くの短歌と「おことば」を残した。同行の美智子皇后とともに、沖縄の伝統や文化、戦没者慰霊に深く触れ、平和への祈りとしての短歌を詠んでいる。日本政府の沖縄への姿勢や米軍とのかかわりにほとんど触れることもないのは当然のことだった。沖縄の人々の心に響くことはあっても、沖縄が抱える切実な問題の解決にはつながらず、その結果、政府の沖縄政策の補完の役割を果たしていることにも言及した(「沖縄における天皇の短歌は何を語るのか」(『社会文学』44号二〇一六年八月)。  

   冒頭の短歌は、大正天皇の節子皇太后(以下、貞明皇太后)が、一九三二年一一月大宮御所での歌会で「癩患者を慰めて」と題して詠んだ一首である。その前年の「癩予防法」の成立を受けて、内務省は、光田健輔医師らを中心に癩予防協会を設立、貞明皇太后の下賜金を受けた。以降、全国の国立療養所を中心に「無癩県運動」をスローガンに「絶対隔離政策」が展開される。上記短歌は、その療養所に下賜され、施設内には「御歌碑(みうたひ)」が建立され、貞明皇太后=皇室の「恩」としての役割を果たした。一方では、患者の強制収容、家族との離別、断種や堕胎など過酷な悲劇が繰り返され、家族への差別・偏見も助長された。一般国民に対しても「絶対隔離政策」の徹底は、差別、優生思想、民族浄化を増幅させることになった。敗戦後、新薬の普及、治療法も確立し、感染力も低く、不治の病ではないことが明らかになった後も、この政策は続いた。

「癩予防法」が廃止されたのは一九九六年であり、ハンセン病患者への差別が違憲とされたのは、二〇〇一年、熊本地裁判決であった。二〇〇五年、小泉政権下の報告書では、ハンセン病対策に皇室がかかわったことによって差別が助長されたという記述がなされている(『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』)。

 

 平成の天皇夫妻は、全国の一三の国立ハンセン病療養所すべての入所者を見舞っている。一九七五年、海洋博のため初めて沖縄を訪問した時に沖縄愛楽園(屋我地島)を訪ねている。明仁皇太子は、歓談後、見送ってくれた入所者たちを「だんじよかれよしの歌声の響 見送る笑顔目にど残る」と「琉歌」に詠んだ。二〇〇四年、沖縄のもう一つの療養所、南静園(宮古島)を訪問した折に、美智子皇后は「時じくのゆうなの蕾活けられて南静園の昼の穏(おだ)しさ」と詠んだ。その後も短歌や琉歌を通じて、療養所入所者と天皇夫妻との交流もいくつかの「物語」として語り継がれている。 

 しかし、私は、二〇一七年二月、愛楽園を訪れたときの光景を忘れることができない。敗戦時、一度は海底に投げ込まれ、一九七〇年代に再建されたという貞明皇太后の「御歌碑」が、敷地内の広場の片隅に、青いシートに覆われ、横倒しになっていた。その現実に戸惑いながら、資料館で知った療養所の人々の苦難の歴史を思った。 

 天皇の退位が迫った現在、天皇夫妻の短歌もメディアへの露出度が増すだろう。その短歌自体とその短歌を読み解いて見せる歌人や史家たちの政治的メッセージ性にも注視しなければ、と思う。(『ポトナム』20182月、所収)

 

 

 

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2018年1月27日 (土)

<もはや“詰み”だ!森友問題 責任の徹底追及を求める>院内集会

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集会の動画(全編)約1時間5030秒、ユーチューブで配信中です。
 https://www.youtube.com/watch?v=uOIWjA5SkdU

 

                     その熱気に圧倒される

通常国会は、122日に開会、衆参本会議での質疑も始まった。大阪豊中市議の木村真さんらの「森友学園問題を考える会」主催の院内集会が開かれるという。最初の集会案内チラシ見たとき、「詰み」ってなんだ、「罪」じゃないの、と思って、辞書を引いてしまったのだが、知らなかった!将棋の用語で「王将の逃げ道がなくなること、あと一歩」ということらしい。この年になって知らないことが多すぎる!と痛感。 

すこし早めに会場に向かった。茱萸坂には装甲車が並び、議員会館前には、観光バスが列をなす、いつもの光景だった。しかし、会場は、すでにスタッフたちが横断幕などを取り付けていて、参加者の出足も早い。開始10分前には満席、立ち見までいる盛況である。参加予定の佐倉の方々が入場できたか心配ではあった。 

主催の会からの木村真さんの挨拶は、2016年、地元豊中市の森友学園の瑞穂の国記念小学院の「設置認可適当」から「国有財産貸付契約」「売買契約」に到る情報開示請求が端緒となって始まった市民運動の実績を踏まえ、確信に満ちていた。若きリーダーを支えるスタッフの皆さんの熱気も伝わって来る。論点整理の報告は、議員たちのスピーチで中断、一番聞いてもらいたい、野党議員の詰めの甘さについて触れたのは大方の議員が退場した後だった。また、今治市で加計問題に取り組む黒川敦彦さんのスピーチや閉会の挨拶をした豊中市議の山本一徳さんの話も活動に裏付けられた、印象深いものだった。 

進行は、以下の通りなのだが、途中、衆参の国会議員が「入り乱れて」入場、連帯の挨拶をしては、退場していった。議員、秘書らで40人近くになったという。私のメモの限りだが、登場の議員を記しておく。

 

社民(福島)、民進(杉尾、原口)立憲(尾辻、岡本、生方、村上、初鹿、川内、森山、阿部、近藤)共産(辰巳、宮本)自由(森)希望(今井、階)

 

やってこなかったのは、当然のこととはいえ、自民党・公明党と維新の会だった。今国会で、野党は、どれほど頑張ってくれるのだろうか、あらたな調査や資料もないまま、マスメディア報道を後追いし、見解や所信を伺う、オカシイ、アヤマレを繰り返すような、甘い質問ばかりが多かったこの半年、イライラが続く昨今だった。もう少し、安倍首相や麻生大臣、官僚たちの決まりきった答弁を論理的に、さらに実証で崩す、覆す質疑をしてほしいのだ。ともかく、いま明らかになった文書やデータだけでも十分戦えるはずなのだから、頑張ってほしい。 

Photo
挨拶する木村真さんと議員たち

集会の一般参加者は200人、議会関係者40人、計240人ということだった。 

********* 

主催者あいさつ   木村 真(森友学園問題を考える会)
森友問題 論点整理 醍醐 聰(森友・加計問題の幕引きを許さない市民の会)
国会議員スピーチ
スピーチ  田中正道・藤田景崇(森友・加計告発プロジェクト) 
 
     八木啓代(健全な法治国家のために声を上げる市民の会) 

 黒川敦彦(今治加計学園問題を考える会)
国会議員スピーチ
まとめの発言    山本一徳(森友学園問題を考える会)
 
*********

  会場では、昔の職場のMさんにもお目にかかれたのもうれしかった。帰りの電車では、偶然、参加者の豊中市議の熊野イソさんと一緒になり、はじめてお話しした。彼女には、『九州大学生体解剖実験 七〇年目の真実』(2015年 岩波書店)という著書があることを知った。長年高校の先生を続けながら、伯父にもあたる、米軍捕虜の生体解剖に反対した九大の医師、その妻の証言、裁判資料を基に書かれたという。図書館で借り出さねばと思う。 

なお、冒頭にあげた、集会の動画はユープランさんの作成です。大手のメデイアが報道しない集会などでも、黙々と取り組んでいます。ほんとにいつも感謝です。

 

 

 

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