2017年11月 8日 (水)

歴博の企画展「1968」に出かけました

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見てきたその日の夕刊で

夫の仕事の合間ながら、お天気もいいことなので、急きょ、国立歴史民俗博物館に出かけた。目当ては、1010日から始まっている「<1968> 無数の問いの噴出の時代」という企画展である。一見わかりにくいネーミングだが、、さまざまな場から、様々な形で噴出してきた日本の社会運動に1968年という年で切り込もうという趣旨らしい。従来の組織による問題設定・解決方式によるのではなく、「個」「私」から主体的な問いかけにより、各地の住民運動、各大学で学生運動が盛り上がった1968年前後に焦点をあてた展示という。 

帰宅後、夕刊を広げると、朝日新聞(117日)のトップが「学生運動の軌跡 <歴史>に 60年代末全共闘・反戦・・・」とあって、そのタイミングに驚いた。この記事では、主に学生運動に焦点があてられていたが、実際の展示は、第1部「<平和と民主主義>・経済成長への問い」と題された、「べ平連」の運動、それに呼応するような戦後を問い直す神戸の街、三里塚闘争、熊本水俣病闘争、横浜新貨物線反対運動に割かれるスペースが大きく、第2部「大学という「場」からの問い―全共闘運動の展開」がやや小規模だったかな、という印象だったので、少し、偏っていた感があった。

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               いつものように町内会の回覧板でも回ってきたチラシ

そのころ、私は何をしていたのだろう

1968年といえば、私はすでに社会人となっていたが、まだ生家の池袋から永田町の職場に通っていた。明治百年という区切り方をして、政府やマスコミは賑やかだったようにも思う。60年安保の時代とは、議事堂付近の様相もずいぶんと変貌を遂げていた。職員組合から参加する集会やデモも、なんか義務的要素が色濃くなっていた。そんな中で、聞こえてくる、べ平連運動も直接は関わらなかった。三里塚闘争は、地理的には東京に近いのにもかかわらず、写真集や映像で、農地を奪われる農民の必死の抵抗、団結の重要性を感じながらも、どのくらい我がこととして考えていたかは、疑問だった。成田に隣接の佐倉市に暮らし始めて30年、成田空港を利用することも多くなって、この地に、「東京国際空港」は必要だったのだろうかと考えてしまうこともある。水俣病患者や家族と国やチッソとの闘争にあっては、その歴史を少しばかり繙いただけでも、悔しさを募らせていたことは確かだが、横浜の新貨物線反対運動も、東京には近かったのに、どれほどの関心を持っていたかとなると心細い。さまざまな住民運動が、「公共の福祉」や「国益」の名のもとに、地域エゴとして退けられてきたことを思う。そして、貨物線は完成したが、いまやトラック輸送がとってかわり、その必要度はどうなのだろうと。佐倉市における、私が住む地域でも、1960年代に計画された都市計画道路は数年前に完成したものの幹線道路とはつながらず、沿線は空き地が続く。駅近くの高層マンションや大型商業施設が出来ても、周辺の個人商店を撤退に追い込み、共存とはならなかった。たった二・三十年で住民の高齢化、空き家が増える一方の「開発」とは、いったい何だったのだろう、と。そんなことまで考えてしまう今回の展示だった。

今にもかすれて消えそうな、ガリ版刷りの資料群

展示物は、ケースのガラスに、顔を近づけないと読めないような、ガリ版刷りの集会案内のビラやニュース、手書きのメモ類からポスターや旗、ハチマキ、ヘルメットまで多種多様であった。

各地で立ち上げられたべ平連、その最初の、424日の清水谷公園からのデモ呼びかけの葉書は「声なき声の会」呼びかけ人代表として、高畠通敏、小田実の名がある。予備校生たちの「斗う浪人」創刊号の編集発行は「浪人平和運動連絡会議」で、615集会の報告から始まるが、いずれも1968年んことである。

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展示会カタログより、左が「声なき声の会」呼びかけ人代表からのデモの案内、右が「斗う浪人」創刊号

三里塚闘争での家族ぐるみ、地域ぐるみの闘争の一端とも思える、少年行動隊や高校生たちのビラにはドキッとする。それに、反対同盟が結成された集落で、同盟員集結の合図としたドラム缶の太鼓が、実際展示されていたのだ。風雪に耐えて、白茶けたザラザラな表面と打たれてかすれた団結の文字が生々しかった。

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Img344   いずれも展示会カタログより

やはり、最も関心のあった第2部は、東大と日大の闘争に焦点を当てた内容であった。東大は、医学部学生の処分問題が発端であったし、日大は、20億円の不正経理の発覚が端緒となった。首都圏や地方の大学も、各々独自の問題を抱えていたことがわかる。.大学管理だけがきつくなってゆく中、二大学の闘争の激化は、管理者との攻防という枠を超えて、周辺の市民たちにも大きな影響を与え、先行していたべ平連の運動や各地での同時多発的な住民運動と無関係ではありえなかったこともわかる。ただ、学生運動の一部は、突出した過激な闘争となり、内ゲバも激化、19706月には安保条約が自動延長になるなどすると、住民運動や市民運動は、多様化するが、個別の運動となっていくような沈静化みられるようになった、と私には感じた。

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しかし、この時代の運動を担った世代の人々が、現在に至るまで、ジャーナリストになったり、出版社を自力で興したり、あるいは教職についたり、地域の住民運動のリーダーになったりして、独自の道を歩んできた人に出会ったりすると、旧友と再会したような気分にもなる。その一方で、見事に企業人になり切った人、ここまで変節・変貌できるのかと思える人、何かはっきりしないけれど、あるいは苦悩をしているふりをしながら、陽のあたる場所を歩いている人、「元活動家」を売りにしている人と様々だが、かける言葉を失う。持続し、継承することの難しさを痛感してしまう。そして自分はどうだったのかと振り返るチャンスにもなる。

ともかく、歴博が、現代史に切り込んだ展示をしてくれたことを喜びたい。この展示のプロジェクトは、東大・日大の闘争時の活動家が数十にも及ぶ段ボールに入った資料の歴博への寄贈に始まったと言い、いろいろな経緯をたどりながら、いま大学の資料センターなどにおさまっている資料や個人蔵の資料があって、はじめて可能な展示であったろう。

出来れば多くの友人たち、佐倉市民に見てもらいたい、とくに若い世代の人たちに、との思いで、佐倉城址を後にした。アンケート先着1000名内だったらしく、歴博の招待券を頂戴した。1210日までなのでお早めに。これからの日曜日には、展示プロジェクト委員代表の荒川章二教授のギャラリートークがあるそうだ。

 

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2017年11月 5日 (日)

「忖度」が「まんじゅう」になって~正岡子規の「忖度」ふたたび

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 出先の夫から、大阪の知り合いから「忖度まんじゅう」をいただいたとのメールが入っていた。帰宅後、さっそく、熱いお茶を入れていただいたが、石川県の会社が製造した、大阪土産という、かわいらしいお饅頭であった。「商標登録申請中」と、その包み紙には刷り込まれているので、今年の「森友・加計問題」が浮上してからの急ごしらえなのだろう。

「まんじゅう」にもなった「忖度」だが、今回、永田町や霞が関で飛び交うのは「忖度」なんていう上品な言葉では言いあらわせない、もっと下世話な、犯罪のにおいすらもする実態を浮かび上がらせた。日本には、「おもねる」「媚びる」「へつらう」という言葉もあるし、日常的には「オベッカをつかう」「ゴマをする」とか「お追従」「ご機嫌をとる」という言い方もある。「迎合」「配慮」「意向をくむ」という少し上品そうな言葉もあるが、忖度する側・される側、双方の心中に共通してあるのは「贔屓」「縁故」「情実」「私情」であり、必ず「見返り」が期待され、「互酬性」を伴う。政府や役人による優遇、不正見逃しなどが横行し、「献金」「天下り」などという「金銭」「地位」「栄誉」が行き交う。その行き着く先を考えると、環境破壊、テロや戦争の土壌にもなり、人間の命を人間が奪うことにもなり得る。

「忖度」が泣き出しそうでもある。たかが「まんじゅう」されど「まんじゅう」ながら、包み紙の地の模様は、模様ではなく、いくつかの文章が連ねてあった。すなわち、石川啄木「硝子窓」、福沢諭吉「「学問の独立」、太宰治「ダス・ゲマイネ」などの一節で、いずれも「忖度」の語が使われている個所が印刷されていたのである。そして最後は、今年、生誕150年を迎えた正岡子規の「歌よみに与ふる書」から、つぎの一節が刷られていた。

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「・・・今は古人の心を忖度するの必要無之、ただ此処にては、古今東西に通ずる文学の標準(自らかく信じをる標準なり)を以て文学を論評する者に有之候。」 

 

「歌よみに与ふる書」は18892月「日本」から10回にわたって連載されたいたものだが、この節は、第6回目(224日)に掲載されたものの一部である。念のため、前後を引用しておこう。現代の短歌の世界でも、先人や同時代人の作品鑑賞や評伝などにおいて、この「忖度」が充満しているとは言えないか。自らの「文学の標準」がいつの間にか、ブレてゆく歌人も少なくはない。

 

同じ用語同じ花月にても其れに対する吾人の観念と古人のと相異する事珍しからざる事にて」云々、それは勿論の事なれどそんな事は生の論ずることと毫も関係無之候。今は古人の心を忖度する必要無之、只此処にては古今東西に通ずる文学の標準(自ら斯く信じ居る標準なり)を以て文学を論評する者に有之候。昔は風帆船が早かつた時代もありしかど蒸汽船を知りて居る眼より風帆船は遲しと申すが至当の理に有之、貫之は貫之時代の歌の上手とするも前後の歌よみを比較して貫之より上手の者外に沢山有之と思はば貫之を下手と評すること亦至当に候。歴史的に貫之を褒めるならば生も強ち反対にては無之候へども、只今の論は歴史的に其人物を評するにあらず、文学的に其歌を評するが目的に有之候。

(講談社『子規全集』に拠る青空文庫)

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2017年10月21日 (土)

私には選ぶ政党がない、人がいない!

 今回は、どういうわけか、選挙に関する世論調査と称する電話が3回もかかってきた。こんなことは珍しい。最初の二つは、「???選挙情報センター」のようなところからで、よく聞き取れなかったので、答えずに切った。3回目は、はっきりとテレビ局名を名乗ったので、答えてみることにした。

 ふだんからの信条でいえば、私には選ぶ政党がなく、選ぶ人が見当たらない。が、今回ばかりは、消去法で、なんとか結論を出して、投票に出かけたいと思っている。

安倍政権が一向に臨時国会を開こうとせず、開いたらと思ったら、冒頭での解散、そして衆院選挙へという流れのなかで、議会の終盤での森友・加計問題の解明は、いささか手詰まりの感があった。政府与党は、知らぬ、存ぜぬ、承知せず、問題はないと逃げると、質問に立つ野党の議員の資料の分析不足、ツメの甘さが目立った。答弁への反論は弱く「おかしいじゃないですか」「国民は納得しませんよ」というところにしか落着しない。

それでも、一部のメディアや市民たちが、新しい文書・音声データの入手・公表を始めると、逃げ切れないと観念して解散に踏み切ったとしか思えない早業であった。「国難」どころか、自らの身に降りかかった疑惑を一掃するための解散だったことがわかる。一方、北朝鮮の弾道ミサイル発射などをめぐる金正恩とトランプ大統領との攻防を背景に、「国民の生命と財産を守る」はずの政府は、Jアラートの一件をみても、国民には、屋内と屋内にいる時とに分けて、次のような警告?をする。今回のミサイル発射の対応、Jアラートが機能しない自治体が散在するし、誤作動もあって、かえって混乱をきたしたという。これって、自然災害と同様の対応でしかない。 こんなことまでして、危機感を煽ろうとしているのかと思うと、「違ウダロー」と叫びたくなる。

 

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 「ミサイルが落下する可能性がある」との情報伝達があった場合は、どうすれば良いのでしょうか。

【屋外にいる場合】 

 ○近くのできるだけ頑丈な建物や地下街に避難する

 ○適当な建物がない場合は、物陰に身を隠すか地面に伏せ頭部を守る

 

【屋内にいる場合】 

 ○できるだけ窓から離れ、できれば窓のない部屋へ移動する 

内閣官房国民保護ポータルサイトより 

http://www.kokuminhogo.go.jp/shiryou/nkjalertqa.html

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アメリカに追従して「核兵器禁止条約」の締結を拒み、日韓・日米の合同演習、沖縄の辺野古新基地・北演習場整備など米軍基地の拡充、さらに日本の防衛費を増額しての米からの軍装備・武器輸入、第93項に自衛隊明記など、まさに、政府自らが日本人の生命と財産を脅かしている現実を、私たちは、直視しなければならない。

安全保障環境が変わった、というのが政府の軍備強化の理由であるが、アメリカの傘の下が安全なのか、いざとなったらアメリカは助けてくれるのかは、上記の状況の中で、期待することはできないし、考えてもいないだろう。沖縄でのオスプレイ墜落、今回の東村のへリコプター墜落・炎上にしても、その原因が特定できないまま、いずれも事故後一週間での飛行再開を止めることが出来なかった日本、本土の各地で、米軍基地周辺での制空権に甘んじて、日本の空でありながら自由に飛行できない日本・・・、など、「国益」が侵されても、アメリカにもの言えぬ日本にしてしまったのは、だれなのか、なぜなのか。70年余の歴史が横たわっている。

   ひるがえって、各政党の地域での活動を見ていると、歯がゆい。きらわれないように、突出しないようにとの配慮が蔓延していて、自治体の議員は、自身の住む町の自治会などにおいては、旗幟を鮮明にしない人たちが多い。逆に、地域の諸団体を巻き込み、あたかも後援会の様相を呈するところもある。

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『さくら・志津憲法9条をまもりたい会ニュース』 第35号(20179月) より

 

       膨張し続ける防衛費~あなたは、どこの国の総理ですか

 

 トランプ政権が発足して以来、北朝鮮のミサイル発射は失敗も含めて13回にも及んだ。飛行距離、高度ともアメリカ本土をターゲットにすることも可能になったとする。1990年代からロケット打ち上げ実験を開始、2015年からは弾道ミサイルに特化しての開発を進めているらしい。810日には、北朝鮮は、日本の上空を経てグァムに向けての発射を予告した。こうした緊迫する情勢を受け、日米は817日の外務・防衛担当閣僚による安全保障協議委員会<2+2>で、日本の役割拡大を確認したという。そこでは、日本を標的とする弾道ミサイル対策として、以下のように示されていた。

 

1)イージス艦搭載ミサイル「SM3」が大気圏外で迎撃する

2)失敗した場合、地対空誘導弾備型迎撃システムパリオット(PAC3)が撃つ

 

今回の<22>で、日本政府は、アメリカが開発した陸上配備型「イージス・アショア」の導入を決定した。日本全土を2基でカバーできるという触れ込みだが、一基800億円もする高い買い物だ。現状では、ミサイルを迎撃するのが技術的困難だとするのが大方の専門家の見方である。最近、イージス艦、オスプレイの事故が続きその欠陥も明白だろう。

 

  2017年度の防衛予算は51000億を計上、過去最高であったが、来年度は、「安保環境が厳しいため予算は通りやすい」と防衛省幹部の目論見通り、52551億という数字も出ている。ミサイル攻撃の発射前に「敵基地攻撃能力の保有」を目指せば、さらに巨額の費用が必要となる。

内閣改造の目玉だった河野外務大臣と小野寺防衛大臣は、アメリカで何を決めて来たのか。去る2月、国会答弁では、日本の武器輸入は、アメリカの雇用創出に貢献するとまで、胸を張った?安倍首相、89日には、長崎の被ばく者の代表が、核兵器禁止条約の不参加に抗議し、首相に質した言葉「あなたは、どこの国の総理ですか!」と、私も問いたい。91日)(内野光子) 

 

 

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『東京新聞』(2017年8月17日夕刊)

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↑『東京新聞』(2017819日朝刊)


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 『東京新聞』(2017年8月30日夕刊)

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2017年10月15日 (日)

晩年の母と、1959年の私に出会う

 今、必要があって、国立国会図書館で『女人短歌』のバックナンバーを調べている。デジタル資料化されているので、マイクロやフィッシュと違って、現物の雑誌の頁を繰る楽しさがある。こちらの視力もあって、画面は、たしかに見にくいこともあるが、つい、今は必要のない短歌や記事に寄り道することが多い。

 33号(19579月)の作品欄の最終頁は、蒔田やよひ、清水千代、阿部静枝、五島美代子であり、その左頁の雑報欄に「第一回女流短歌連盟の会」とある。そんな「連盟」があったんだと、読み進めてみると、何と、母親の名前「内野佳子」が出てきたのだ。「えッ」と読み返す。女流短歌連盟主催、毎日新聞社後援の第一回女人短歌会では、応募1213首の中から選ばれた入選者10人の名前の中の一人として列記されていたのである。選者は生方たつゑ、長澤美津、五島美代子、阿部静枝であった。私は知らなかった!私が高校生の時代、母には、晴れがましいことだったに違いないのに、私には記憶がない。一体どんな作品だったのだろう。当時の毎日新聞を調べなければいけないと、帰宅後思い立ったのである。

 また、そんな中で、なんと、わたくしの短歌にも出会ったのである。いつだったか手元の1997年の『女人短歌』終刊号の「初出の一首一覧」のようなコーナーを目にして、自分の一首を見つけたことは覚えているが、バックナンバーがあるわけでなく、そのままになっていた。今回、1959年発行の40号と41号に掲載されていることがわかった。高校時代からほそぼそ始めていた短歌だが、大学に入学直後、母の短歌の師だった阿部静枝先生の紹介で『女人短歌』に入会したような記憶がある。しかし、錚々たる歌人のおば様たちとご一緒するのは気も引けたし、気も重かったのだろう、そして、その年の12月に母を亡くしていることもあって、早々に退会したようなのだ。現在も所属している「ポトナム短歌会」入会前のことである。恥ずかしいが、以下のような作品だった。といっても、現在の作品と何ほど違うのかと思うとつらいものがある。

40号(19596月)

コーラスの聞こゆる屋上春の風に髪を吹かせて舊師を想ふ

勇気ある判決讀みて法律を学ぶ徒のわが今日を祝へり

闇の中鐵路に残る響きありて生きものごとき心を傳ふ

41号(19599月)

店頭に少女が並べるカン詰は雨季の朝陽に鋭く光れり

水道を太くして皿洗う遅き夕飯ひとりで終えぬ

白桃を冷やしてありぬ桶の水淡き紅色明るく映す

閉店のチャイムが流れるデパートに追はるる如く干物を買ひぬ

一箱のトマトを置きて豊かなる如き厨は灯さぬままに

ミキサー車静かな廻りが暑を誘うビルに囲まれしビルの工事場

ギリギリと土掘る機械を隙間よりながめて去れり和服の老女

 40号に表れる旧字は、当時の私は書くことが出来なかったと思うので、漢和辞典を引いたのか、阿部先生が直されたのか、編集部が直されたのか、定かではない。旧かな表記に関しては、古文の知識から必死になって使ったのだろうと思う。2首目の「勇気ある判決」とは、この年の330日の東京地裁の米軍駐留を違憲とした、いわゆる伊達判決だったのだろう。当時、創刊されたばかりの『朝日ジャーナル』を小脇に抱えたりした先輩がカッコよく見えた。私自身は、学友からは「氷川下セツルメント」の活動に幾度となく誘われたり、出版まもない丸山真男の『現代政治の思想と行動』、当時はまだ上下の2巻本だったが、読書会のメンバーに声を掛けられたりした時代だったが、参加するでもなかった。他大学の高校時代の旧友で「全学連主流派」の活動家から「法律なんて、いったい何の」とか責められたりもしていたが、といって、まじめに法律の勉強をする学生にもならなかった。

41号になると旧かな・新かなの混在であって、ちょっとまずいことになっている。41号末尾の2首は、実家がある、当時の池袋は、建設ラッシュのさなかであったことがわかる。

さっそく、連れ合いにも読んでもらうと、「若いね、前向きだったんだ」との感想であった。 

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国立国会図書館新館で開催中の「挿絵の世界」2017年10月10日~11月11日、図書館に通いながら素通りだったが、この日、複写の待ち時間を利用して、大急ぎで一巡りした。すこし想像とは違っていた。第1部挿絵の確立 第2部挿絵の展開 第3部挿絵の多様化 の構成であったが、なんか焦点が定まらない形だった。同じ挿絵でも、焦点を絞るべきではなかったか。新聞小説に限るとか、児童読み物に限るとか、印刷術の発達が挿絵をどう変えたか、一人の挿絵画家を追ってもいい・・・・などと。

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2017年9月23日 (土)

「ある少国民の告発~文化人と戦争」(1994年放送)を見て

 大先輩の知人、櫻本富雄さんから、ご自身が出演の、24年前に関西で放映された番組が、突然you tube に出現したので、とのお知らせをいただいた。早速拝見、やはり映像で、櫻本さんのインタビューに答える、横山隆一、山本和夫、丸木俊、住井すゑさんたち、ご本人の証言を聞いて衝撃を受けました。私が紹介するよりは、ぜひフィルムを見ていただきたいと思いました。you tubeでは、いくつかのカット場面があり、当時の放映のままではないとのことですが、ぜひ一度、ご覧ください。個人的に何人かの友人にBCCで、お知らせしたところ、24年前のTVはこんなこともできたのか、など、いくつかの感想が返ってきました。

 

「ある少国民の告発~文化人と戦争」(毎日放送 1994年制作) 

https://www.youtube.com/watch?v=8-dC55hmhbc

 

 戦時下の文化人の表現活動には、今では想像がつかない障害があったこと知ることも大事なのですが、そこで、意に添わない活動をしたことに、その後、本人がどう向き合ったかが、重要なのかと思います。さらに、その後、どのような活動をしていたのか、行動をしてきたのか、暮らしをしていたのか、その生涯をトータルで、見極めたいと思っています。そのためには、発言・著作・制作物などを、記録にとどめ、保存し、継承するという基礎作業が問われるのではないかと、思います。その上で、その後の時代、時代に、何を残し、どう行動したのかが問われるのだと思いました。 

 

 今回の番組では、愛国少年だった櫻本さん自身が、戦時下に「あったことをなかったことにしよう」とする敗戦後の時代の流れに抗して、個人で10万冊もの雑誌や図書を収集し、戦時下の文化人たちの言動を浮き彫りにした著作を発表し続けていること、家永三郎さんも、戦時下の反省から、敗戦後の教科書裁判に踏み切ったこと、などを語っています。

 

 翻って、現在の知識人、文化人と称される人々の発言や行動において、少なくとも、敗戦後の占領期が終わった段階では、「表現の自由」があったにもかかわらず、「陽のあたる場所」を求めてでしょうか、意外と、微妙な変転、変節をしていたり、繰り返したりする人たちも多くなっています。人間、心身の成長や加齢によって、考え方も、行動様式も、変ることはあるでしょう。その人をどこまで信用していいのか、その発言にどこまで責任を持つことが出来るのか、自身で説明責任が果たせるかが問われるのではないかと。これは自らにも返ってくる問いでもあります。さらに、目前の課題に翻弄されながらの発言や行動は、とかく、より根本的な課題を置き去りにする傾向が、とくに最近目立ってはいないか、とても不安です。

 

 

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2017年9月12日 (火)

天皇の代替わりに向けて~「おめでとう」の前に

 

佐藤愛子の『九十歳。何がめでたい』がベストセラーになったのが、昨年だったか。そんなセリフを吐いて、世に憚りたいもの。「九十歳」のかわりに「〇〇」を入れて、ウサを晴らしてみても、何も解決しない。 

昨年の7月、天皇の生前退位の意向がNHKのスクープという形で突如浮上し、88日には、天皇のビデオ・メッセージが放送された後の顛末は、承知の通りで、67日の参議院特別委員会の「全会一致」で可決し、本会議を経て「退位特例法」が成立した。代替わりはすでに時間の問題となった。すでに、各メディアの今の天皇のへの称揚の記事が始まったし、やがて、昭和天皇の晩年・死去報道よりも大々的に展開されるだろう。歌人も登場して、「御製」や「御歌」を懇切に解説し、その心情に触れつつ、短歌の「奥深さ」を語り始めるのだろう。そして、天皇は、いかに平和を願い、国民に寄り添い「象徴としての務め」を果たしてきたか、歴史家や文化人が、その立場を超えて、こぞって賞賛するにちがいない。それが、現実の政治や経済の歴史や現況を一層見えにくくして、曖昧にしてしまうのは必至だろう。そこで利を得るのは誰なのだろうと思うようになった。 

 

無責任に「おめでとう」とは言えない 

直近では、秋篠宮家の長女の婚約内定発表に、新聞は多くの紙面を割き、テレビは報道に時間を費やした。これから皇族を離れてゆく人に、人々の関心はどれほどあるのだろうか。皇族たちに基本的人権はないのか、プライバシーはないのかと思う一方で、記者会見の日には、「ご婚約内定おめでとうございます」の企業広告も目立った。テレビでは、経済効果1000億に上るというコメンテイターも現れ、12万人が結婚に踏み切るとして~~みたいな皮算用をする。一方、婚約者の男性が、一カ月2万円食費のレシピ本を購入したとか近所の本屋さんが語っていたが、まさに多くの若者たちは、親がかりの住まいだったり、食費を切り詰めたりしながら、非正規で働く場合が大半なのだから、当然のことだろう。あまり縁のないカップルの「婚約内定」に「おめでとう」とは、無責任には言えない情況である。もっとも、皇族の結婚には、国から1億数千万の支度金がつくということであった。

 

日本近代史における5つの元号、もう限界なのでは 

また代替わりを控え、「元号と公文書 西暦併記の義務づけを」という「社説」(『朝日新聞』201787日)が現れた。1979年に制定され、最も短い条文の法律とされた「元号法」の「第1項 元号は、政令で定める。2項 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。」ということになっているが、年号表記が、天皇の在位ごとに変ること自体、憲法は前提にしていない。元号の不便さは、公文書に限らず、生活上、国民に大きな負担と混乱を強いている。それを少しでも解消するために、あらゆる場所での西暦統一するのがベストと私は考えるが、元号のみの年号表記がほとんどの公文書に西暦併記を義務付けてもらわないと困るという意味で、現実的な提案ではある。この国が、憲法上、天皇をいただいていること自体から生じる矛盾は、元号以外にも、というよりは根本的な問題があるが、それには触れようとしない。ずいぶんと腰が引けた社説だなと思ったものだ。 

その後『朝日新聞』の「天声人語」(2017821日)においては、もう少し、敗戦後の元号の歩みに踏み込んで、1975年の桑原武夫の「元号について」を引いて、天皇という人間の「ご一生」を国民の「あらゆる生活の基準を置くというのは,象徴ということにふさわしいとは申せません」、世界に通用する西暦を使い,元号は廃止すべしという論考を紹介している。そして、「そこまでいかなくともせめて公文書は,西暦を主,元号を従としてはどうか」という「社説」に戻るのである。 

たしかに、私自身、「明治憲法」「大正デモクラシー」「昭和恐慌」「昭和の面影」「昭和一ケタ生まれ」などの使い方をすることもあるが、元号のみによる歴史書は読んでいると、確証のないない不安に駆られることがあるので、自分がものを書くときは、西暦だけか、適宜、元号を括弧に入れて併記することもある。だから、必ず手帖の裏の「年齢早見表」を拡大し、換算表として机の上に置いている。もっとも近頃の「年齢早見表」には、明治末期からしか載っていないので、簡単な日本史年表は目につく所に置いているありさまだ。これに、もう一つの元号が加わることになるのだから・・・。 

なお、今年201741日には、民主主義をけん引するはずの日本共産党の「赤旗」は、平成以降、年号は西暦表示だけだったのが、元号併記を28年ぶりに復活させている。その理由というのが、45日付で、「今回の措置は、『西暦だけでは不便。平成に換算するのが煩わしい』『元号も入れてほしい』など読者のみなさんからの要望」によるとしている。続けて、元号の使用は、 

「歴史と国民の選択にゆだねるべきで、法律による使用の強制には反対するというのが、日本共産党のかねてからの主張です。1979年の元号法制化に際しては、天皇の代替わりごとに改元する「一世一元」は、主権在民の憲法下ふさわしくないとして、その法制化・固定化に反対しました。そのさい、元号の慣習的使用に反対するものではないこと、「昭和」後の元号についても慣習的使用の延長として憲法の範囲内で法的強制力をもたない適切な措置を検討する用意があることも表明していました」との見解を示している。 

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-04-05/2017040504_02_1.html

  これとて、元号法には主権在民の憲法下ではふさわしくないとした一方で、「慣習的使用の延長線上で強制力を伴わない措置を検討する用意がある」とした趣旨は、かなり分かりにくい。これは、一昨年2015年末に、それまで天皇を議場の玉座に迎えての国会の開会式には、「主権在民」の憲法下における議会にふさわしくないと参加しなかった日本共産党が「天皇の政治的発言はなくなったとして」開会式にも参加すると表明したことと、無関係とはいえないだろう。この件については当ブログでも言及したことがある。 

◆ことしのクリスマス・イブは(3)~なんといっても、サプライズは、国会開会式出席表明の共産党だった!(その220151228  

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/2-2dd0.html 

この問題については、『朝日新聞』は、「保守系の議員も抱える民進党などとの野党共闘も意識して柔軟路線を進めている。今回の対応についてはそうした<柔軟姿勢>の一環との見方もある。」(201741日)と解説していた。 

『毎日新聞』は、次のように伝える(「『赤旗』に元号復活 読者の要望 柔軟路線に 28年ぶり」201741日 夕刊 )。「共産党は昨年の通常国会から、天皇陛下が出席する開会式に幹部が出席し始めた。陛下の退位に関する法整備の議論にも参加し、民進党より先に特例法容認を打ち出した。 長く党を支えてきた赤旗購読者や党員の減少に悩む共産党は、保守層への支持拡大をうかがっている。元号の使用にはそうした思惑もあるようだ。党によると、赤旗の発行部数は日刊紙と日曜版を合わせて約113万部。党関係者は1日、『元号の慣習的な使用には反対しない。読者の要望に応えた』と説明した。」  

 共産党が共闘を探る、その民進党が、いまのような有様では、その「野党共闘」「柔軟路線」はすでに意味も薄れ、こんなことで、保守派の取り込みができるとは思えない。 

 

  「象徴天皇制」、その背後で
「象徴」が付される「天皇制」って、何なのだろう。私たちがかつて学校で学び、そしてまもろう、まもってほしいと努めてきた平和と自由と平等をうたう日本国憲法は、どこへいってしまうのか。そもそも、主権在民や平等とは両立しない「象徴天皇制」を擁しながらも、その本質が持つリスクをなんとかなだめつつ、憲法をまもっていきたい、国にはまもらせたいというのが、いまの正直な気持ちである。しかし、これまでも、元号・日の丸・君が代の法制化、皇族の死去や結婚などのたびに、そして、皇族の活動が活発になればなるほど、「象徴天皇制」の名のもとに、というより「象徴天皇制」を「かくれみの」として、政府は、市民の生活や思想の自由を徐々に、徐々に、脅かし続けていくだろう。もはや、天皇や皇族個人の心情や願望とは無関係に、事態は進んできてしまった。

 

災害の避難所の床にひざを折っての言葉がけや戦争犠牲者への長い祈りによって、励まされ、慰められ、感動する人々はいるだろう。しかし、被災者や遺族が、現実に立ち返ってみれば、生活環境が劇的に改善され、それぞれの不安や心痛が解消されるわけではない。それどころか、政府は、基本的な解決策を持たないまま、原発再稼働や輸出を促進し、安全保障体制を強化、軍拡を進めている。被災者や犠牲者の心情とは真逆の方向に突き進んでいるのが、現実である。

 

天皇夫妻が、皇太子時代を含め、沖縄訪問を重ねるが、戦争犠牲者に祈りを捧げ、沖縄の伝統文化を愛でる一方、沖縄をがんじがらめにしている米軍基地に一言も触れ得ず、平和を語るむなしさが、「象徴天皇制」の象徴的な姿のようにも思う。 

 

代替わり前夜でなされようとしていること
   
最近の新聞では、代替わり企画の先取りともいえる、天皇中心の平成回顧が盛んである。「退位特例法」が成立前後から、各社さまざまな連載が始まった。私は、とくに天皇と沖縄の関係に着目しながら読むことにした。直近で、手元にあるものだけでも以下の通りだ。 

①『東京新聞』:「沖縄と戦争を思い続け」<象徴天皇 いのちの旅3>(53日) 

②『朝日新聞』:「沖縄訪問 両陛下の信念」(下)<平成と天皇・第2部 平和を求めて(下)>(811日) 

③『毎日新聞』:「象徴として 第1部・沖縄への思い15」(831日~95日)

 朝日の②は、2017411日から、「平成と天皇・プロローグ 退位をめぐる攻防」として 連載が始まり、5月には「平成と天皇・第1部 退位これから」へと続いた。上記の三本の記事の基調は、いずれも、沖縄県民の「皇室」に対する「複雑な感情」が、平成の天皇夫妻の皇太子時代からの沖縄への「思い」「心遣い」と合わせて10回に及ぶ「訪問」によって、沖縄の人々の気持ちを変えていったという流れであった。「複雑な感情」の要因は、「沖縄戦」での多大な犠牲者が出して「天皇のために戦争し」、「戦争が終われば突き放されたことに県民の怒りがあったため」とする、故大田昌秀元沖縄県知事の言葉に表れているとするのが、①の記事であった。「突き放された」とは、昭和天皇が終戦2年後、連合国軍総司令部(GHQ)に沖縄占領の継続を望んだとされることを指すとも語られる。いわゆる「天皇メッセージ」と呼ばれるものである。また、③では、天皇夫妻に直接面談した大田元知事をはじめ、沖縄について進講した有識者たち、訪問の際、案内役を務めたひめゆり同窓会事務局長、対馬丸記念会理事長らは、だれもが夫妻の沖縄への深い思いに接して感動したという証言にまつわるエピソードが、切り取られて綴られている。こうしたエピソードや報道の共通点は、天皇夫妻と直接ことばを交わしたり、直接声を聞いたりした人たちの体験が基本になっている。それだけに、非常に情緒的な受け止め方に終始する。そんな体験をなし得ない一般国民との違いは明らかであろう。しかし、繰り返される、こうした報道が、いわば、大掛かりな代替わり報道の助走のような役割を果たしているのではないか。

 

ざわつく中で、親天皇へ 

さらに、上記の報道に登場するような、直接体験を経ない人たちで、これまでは、少なくとも、皇室や天皇と距離を置いていた人たち、「日本にとって、天皇制の問題は難しい」とその考え方を明確にしなかった人たち、さらには、立憲主義と天皇制は相容れないものと主張していた人たちが、近年、急にざわつき、いまの天皇・皇后は、なかなかリベラルな平和主義者である、国民に寄り添う姿勢がまっすぐに伝わって来る、天皇夫妻の慰霊と祈りの旅には、心打たれるものがある、というような声が聞こえ始めたのである。 

テレビの、ワイド番組や報道番組のコメンテイターになるようなジャーナリストやタレントや評論家は、もう当然のように、天皇に関しては、敬称と敬語をぎごちなく使い、無難なコメントか、まったくしないでスルーするか、いまの天皇夫妻をねぎらう発言があるくらいである。 

そんな中で、リベラル派とされ、多分野で活躍中の内田樹が「天皇主義者」になったと、取りざたされたので、ブログ「内田樹の研究室」で『月刊日本』(20175月)のインタビューを読んでみた。その末尾に、つぎのような発言があった。 

「両立しがたい二つの原理が併存している国の方が住みやすいのだ」と言いたい。単一原理で統治される「一枚岩」の政体は、二原理が拮抗している政体よりもむしろ脆弱で息苦しい。それよりは中心が二つの政体の方が生命力が強い。日本の場合は、その一つの焦点として天皇制がある。これは一つの政治的発明だ。そう考えるようになってから僕は天皇主義者に変わったのです。」

 

つまり、「両立しがたい二つの原理」とは、天皇制と立憲デモクラシーを指すのだが、日本に、天皇制に拮抗するほどの立憲デモクラシーが確立しているのかも疑問な現状である。すなわち「日本国憲法」の第一章は「天皇」。「日本国民統合の象徴」であって、「この地位は、主権の存する国民総意に基く」という条文の「象徴」、「総意」が何を意味するのかも明確ではない。 

先のいわば「天皇キャンペーン」ともいえる情報があふれるメディア社会、それと現在の天皇夫妻への心情的な、人間的な傾倒、それは「人気」にも連動し、政権の暴走の歯止めのような役割を期待する社会が出来上がるが、結局は、天皇の言動が、現政権への監視・抑止機能を果たし得ることは、憲法上不可能な上に、むしろ、体制への不満の受け皿ともなり、補完機能を果たすことになっているのではないかと考える。とすると、二つの楕円は幻想にも近い。天皇が替り、逆に、強権的な言動がなされる場合も当然想定してみるとよい。さらに、上記インタビューでは、昨年8月の天皇のビデオ・メッセージは、全身全霊で果たすべきは「祖霊の祭祀と国民の安寧と幸福を祈願すること」を自ら宣言した画期的な「おことば」と受け取らなければならない、ともいう。 

 こうした考え方が「天皇主義」といえるのかどうかも分からないが、天皇の人権は、さらに狭まってゆくことになろう。 

 こうした内田のようにかつての自らの主張を変えたり、あるいは明確にして来なかった「作家や知識人、政治家らがこのところ、つぎつぎと宗旨がえしつつある」として、その「思想的退行」を指摘する論者もいる(辺見庸「天皇主義宣言の思想的退行」『生活と自治』20179月)。 

 

短歌の世界でも 

同じようなことは、私が長年、眺めて来た短歌の世界でもみられる現象である。すなわち、これまでも何度か書いても来たことだが、「歌会始」の選者になったり、「歌会始」の席に陪聴者として招かれたりして、一度、二重橋を渡った歌人たちは、どういうわけか、「天皇と親しく」なって帰って来て、近頃は、安心して、それとなくあちらの様子を語り出す歌人も多くなった。さらに、これまで、「歌会始」について沈黙していた歌人やまだ二重橋を渡っていない歌人たちも、「歌会始」の世界の魅力を語り、「歌会始」へ疑義を無視するようになったのである。 

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2017年8月28日 (月)

わたしの八月十五日~薄れゆく記憶をとどめたくて(3)兵隊さんの解散式?

 前後の記憶がなくて、断片的に思い出す一シーンがある。これは八月一五日の数日後のことだと思うのだが、母親から「今晩は、ゼッタイ、家の外に出てはいけない」と。兵隊さんたちが、(この馬市場の)草っぱらに集まるから」と言われたことだけは覚えている。暗い家の中、息をひそめて、板戸の細い隙間から見えた光景の、何と頼りないことか。

 兵隊さんの列の後か先だったのか、暗闇の中を、たしかに馬に乗った人が、道路につながる家の脇を横切って、原っぱに向かったのだ。じっと一部始終を覗くこともできなかったのだろう。次の記憶は、真っ暗な、馬市場跡の広場に、兵隊さんたちが並んで、誰かの話を聞いている場面である。何を話していたのかは、もちろん私には分からなかった。わけも分からず、私は、ただ、母にしがみついていたのだろうと思う。そして、小一時間の後に、原っぱを去っていく隊列の足音を聞いたのだった。暗闇から聞く、暗闇の足音の、今から思えば、重くて、鈍い音だったに違いない。家の灯りをつけたときの、裸電球の眩しさは格別だったろう。

ほんとに不思議なことなのだが、そのことについても、家族と話した記憶が思い出せない。随分後になって、当時中学生で、7つ離れた次兄からは、あれは部隊の解散式だったはずだとの話を聞いたことがある。なんで、軍の施設や学校の校庭などもっとちゃんとした場所でやらなかったのだろうね、という話もしたことがある。佐原市史でまた調べなければならないことが増えた。

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今年のイチジクは、小ぶりながら、たくさん実をつけた。雨が続き、一時は、青い実のまま固まってしまうのではと、心配した。ヒヨもあきらめたのか、今はあまりつつきには来ない。ほのかな甘さが私は好きだ。8月27日写す

 

 

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2017年8月23日 (水)

わたしの八月十五日~薄れゆく記憶をとどめたくて(2)変電所への機銃掃射を見た

 疎開先の佐原での落ち着き先が、仁井宿の馬市場跡の管理さんの家だった。前回は、815日の薄れた思い出をたどった。

 そして、それよりどのくらい前だったのか。「変電所」への「キジュウソウシャ(機銃掃射)」の様子を、お手洗いの窓から、この目で見ている。まだ、私の背丈では、窓には届かないはずだから、母か兄かに抱っこされて覗いた窓の先、たしかに幾つもの「ショウイダン(焼夷弾)」が斜めに落ちて来るのを見たのである。大人たちが騒いでいたので、「ワタシも見たい」とせがんだのかもしれない。夜のような気もするし、昼間だったのか、棒状のバクダンが斜めに流れで落ちていくのを瞬間的に見たのだ。何日のことだったのか、佐原市の市史でも見れば出てくるだろうか。

 ネットの限りでは、確かな情報は出てこないので、あきらめかけたころ、「終戦のころの思い出」の寄稿を集めているサイトがあった。そこに、谷口敏夫さんという方が、仁井宿の変電所への爆撃で、家族を亡くされたことを書かれていたのである。http://www.s-s-m.jp/hiroba/zuisou/shusen_04.htm

 

 谷口さんご自身は、19439月、中学校3年の2学期に予科練を志願、土浦海軍航空隊に入隊し、19454月に鹿島海軍航空隊の飛行練習生課程を修了し実戦部隊の霞ヶ浦海軍航空隊に転属し、6月頃から筑波山麓の真壁の農家に民宿して、そば畑をつぶして飛行場を作る作業に従事していた。720日過ぎに上官から、佐原の実家が空襲に遭い、家族が怪我をされているからと知らされ724日に帰省すると、74日の爆撃で、弟さんが即死、母上は重傷のまま亡くなり、葬式も済んでいた。父上は、東京電灯(後の関東配電、現在の東京電力)勤務で当時は銚子営業所に通勤されていて、変電所前の社宅に家族で住まわれていたという。

 

 私が見たのは、この74日の爆撃ではなかったのか。正午前で、警戒警報の直後で、谷口さんのお宅では、小学校から帰ったばかりの弟さんと母上を亡くし、妹さんも大怪我で回復まで苦しんだという。すぐそばで、こんな悲劇があったことは知らずにいた。大人たちは知っていたのだろうか。そんな話は、後にも聞いたことがなかった。爆撃機は、P51 ムスタングだったという。

 降伏が伸びていたら、この疎開先の佐原の町も焼け野原になっていたかもしれない。77日、千葉市では、「七夕空襲」で多くの犠牲者を出している。610日の日立航空機工場の被害と合わせて、死傷者1595人、千葉市街の7割が焼失している。

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2017年8月15日 (火)

わたしの八月十五日~薄れゆく記憶をとどめたくて(1)

 地元の9条の会でも、高齢化は免れないが、戦前生まれは、どうやら私一人になったようなのだ。「語り継ぐ」というのは、難しい。なにせ、私の「戦争体験」は、小学校に上がる前のことなので、記録はないし、断片的なカスレカスレの記憶しかない。わずかな記憶を、家族の記憶とわずかな資料、そして多くは、公刊された資料や資料館、体験談などに頼るしかない。私自身の家族、父母、二人の兄も亡くなってしまって久しい。疎開先でお世話になった親類とも、叔母が亡くなってからは、お付き合いも間遠になってしまった。そんな中で、先日、数十年ぶりに、少し年上の従姉から電話があって、積もる話で長電話となり、近く会うことになったのである。

 これまでも、このブログで、折に触れ、思い出話として、当時のことを書いてきた。最近では、新聞記事に触発されて、「奉安殿」前の「拝礼」について書いたのだった。馬市場と佐原事件については数年前にも綴っていた。

71年前のきょう、1946629日、何があったのだろう(2017629日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/06/711946629-0991.html

* 祭りの後の佐原を行く~ふたたびの疎開地(2)(201010月15日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/10/post-3ba9.html

 

 すでに、どこかで書いていることと重なるかもしれないが、私の1945815日は、疎開先の千葉県佐原の仁井宿(現香取市)の借家で迎えた。簡易な馬小屋も並ぶ、馬市場が開かれていたという、広いくさ原の端っこに建つ、管理人さんが住んでいたという二階家だった。といっても、遠くから見ると、3~4本の「つっかい棒」に支えられている古家だった。それでも、1944年、池袋の店を続けていた父、学生だった長兄を残し、東京の空襲を怖れて、母と次兄と私が転がり込んだ母の実家の「ヒサシ」のひと部屋と比べたら別天地のような気がした。といっても、母の実家には、すでに母の長兄は病死したばかりで、叔母と三人の子供たちがいたのだ。そんな中で、私たち家族とやはり東京の蒲田から疎開してきた母の妹家族を受け入れてくれていたのだ。この時の恩は忘れることが出来ないのに、不義理を重ねてしまっていたのだが。

 その仁井宿の家で、裏にあった、近所の農家と共同の井戸端から戻って来た母は、815日の午後だったのだろう、「日本は戦争に負けたんだって」と、暗い土間に肩を落として立っていたのを覚えている。この日の記憶はたったこれだけなのだ。ただ、母の実家から、この家に引っ越してきてまもなく、叔母がサツマイモなどを持って、訪ねて来たとき、叔母から聞いた話は覚えていた。「負けた」と知らされ、とっさに、その話を思い浮かべたに違いないと思う。叔母は、どこから聞いてきた話だったのか、「日本が戦争に負けたらよォ・・・」と話し始め、「女はみんな、ボウズにされてヨッ」と続けたのは、みんな捕虜になって食べるものは、雑炊いっぱいで、アメリカ兵にこき使われる・・・というのだ。幼い私には、なんか怖ろしい話として、頭にこびりついていただろう、今でも鮮明に思い出す。叔母は、これに限らず、一家の大黒柱でもあったので、気丈で、情報通でもあって、話術にも長けた女性だったと、今から思う。

 この家での記憶の断片を、随時、たどっていきたい。

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2017年8月 3日 (木)

『「利己」と他者のはざまで』に触れて

  長兄の命日でもあったので、実家に出かけた。店を休みにしていた義姉を囲み姪たち家族も集まっていて、久しぶりの思い出話や親戚の消息などにもおよぶ。やがては自分たちの健康や体調の話にもなってしまう。実家を出ると、小雨が降り出し、傘を貸してもらい、先を急いだ。 

 

その日は、大学時代の恩師の松本三之介先生が卒寿にして出版された、新著『「利己」と他者のはざまで―近代日本の社会進化思想』(以文社 20176月)の合評会であった。集まるメンバーは先生のゼミ出身の研究者ばかりで、私などは参加資格がないのだけれど、メンバーの方に声をかけてもらい、末席に加わった。ただ、事前に、幹事役の五十嵐暁郎さんからは、新著へのコメントや質問を提出しなければならないという、重い宿題が課せられていた。先生はお元気で、ときには熱い講義となる場面もあり、学生時代を思い出すのだった。

 

新著は、副題にもあるように、ダーヴィンの進化論に端を発した社会進化論が、加藤弘之、内村鑑三、有賀長雄、中江兆民、徳富蘇峰、丘浅次郎、大山郁夫、穂積陳重らの思想形成にどんな影響を与えたのか、という日本における進化論の受容の系譜をたどるというものだった。素人の私には、ダーヴィンの進化論が、日本の近代思想史に、こんなにも影響を与えていたのかという驚きさえあった。

 

私の浅い理解で申し訳ないのだが、ダーヴィンの進化論は、社会進化論においても生存競争の成り行きのまま、「利己」のための集団、社会が形成され、それがやがて国家への奉仕という形で全体主義的な思想を肯定する根拠へとなってゆくのが、日本での受容の流れとなった。その流れのなかで、上記の思想家たちの受容の内実を綿密に検証されたのが新著の核だと思った。この日集まるメンバーには、兆民や蘇峰の専門家もいらっしゃるので、そこはほとんどスルーをして、私は、ともかく、これまで何らかの接点や関心があった人物への興味を糸口にするという幼稚な読み方となった。加藤弘之の天賦人権論からの明治国家近代化への転向、内村鑑三の義戦論から非戦論への転向という、真逆の「転向」にどう影響したのかを読み取ろうとした。社会進化論が、多くの場合は、リベラルな考え方や社会主義的な考え方の抑制機能を果をたしているなか、穂積陳重が法社会学的な方向を目指していたということを知ったり、大山郁夫が人類的普遍性、倫理性との融合に苦慮しながら、未成年や女性などの社会的弱者への保護に向かっていたということも知ったりした次第。

 

松本先生は、社会進化論が、自らの生命をまもるという「利己」の考え方が、日本では自然権思想に結びつく可能性が失われてゆく近代化の過程のなかから、その可能性を、現代から問い直し、探ろうという道筋を示されたのだろうと思う。本当は『「利己」のすすめ』という書名を考えないではなかったけれど、今の世の中では、理解されそうにもないともおっしゃっていた。

 

席を変えての夕食会では、大田昌秀元知事の県民葬の準備で多忙だったという比屋根照夫さんと隣り合わせになった。若いとき、短歌も詠んでいたという話から、現代の沖縄歌壇の話にも及んだ。すでに大学のリタイア組が多いメンバーの話は、1960年代から70年代の学生生活や研究生活に及び松本先生の厳しい指導や何事にも真摯に向き合われているエピソードが語られたりした。

 

帰宅してみると、この辺りは、夕方にかなり降った跡が見えた。その日も、神奈川の各地で局地的豪雨による水害が報じられていた。久しぶりの出会いもあった一日、今夜はゆっくり眠れるだろうか。

 

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