2025年3月 9日 (日)

久しぶりに、地元の9条の会に参加しました~登戸研究所見学を思い起こす

 引っ越しの前後、数か月休んでいましたので、世話人の方たちとは久しぶりでした。会報の編集中で、2月にでかけた明治大学生田キャンパスにある登戸研究所資料館見学の感想集です。私は参加できませんでしたが、皆さんの関心の向けどころが違っていて、興味深かったです。「さくら・志津憲法9条をまもりたい会」ニュース51号が楽しみです。

 以下は、2014年12月 明治大学平和教育登戸研究所資料館・NPO法人インテリジェンス研究所共催の「第9回防諜研究会」の講演会・ツアーに参加した折の感想です。当ブログの「明治大学生田キャンパス、「登戸研究所」跡を訪ねる(1)(2)(2014年12月23日)からの抜粋を再掲します。

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「陸軍の秘密戦における登戸研究所の役割―登戸研究所の軍事思想」山田朗(明治大学文学部教授、明治大学平和教育登戸研究所資料館館長)~とくに印象に残ったこと

登戸研究所の組織・沿革とその背景にある日本陸軍の軍事思想の特徴について話された。登戸研究所は、1937年11月、日中戦争の長期化に伴い、秘密戦(防諜・諜報・暴力・宣伝)の必要性が高まり、陸軍科学研究所登戸実験場として生田に設置された。その背景には、陸軍は銃砲弾重視の「火力主義」を物量不足から貫徹できず、歩兵による銃剣突撃重視の「白兵主義」が台頭、少数精鋭主義、攻勢主義、精神主義が強調されたが、これを補強する「補助手段」が必要となった。軍縮・経費節減から編み出される細菌兵器、敵国攪乱の毒ガス、謀略工作などを重視するようになった。1941年6月からは陸軍技術研究所の第九技術研究所と再編された。所長は、スタート当初よりかかわった篠田鐐中将があたる。その研究は、主なものだけでもつぎのように分かれていて、敷地11万坪、幹部所員約250人、民間人あわせて1000人以上が働いていた。

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予算・編成図、資料館の展示より


1)電波兵器(第一科)
2)風船爆弾(第一科)
3)特殊カメラやインク、毒物など諜報・謀略用品の開発(第二科)
4)対人、対動物、対植物の細菌兵器の開発(第二科
 5)経済謀略、戦費調達のための贋札づくり(第三科)


私にとっては、ほとんど初めて聞く内容だった。

2)の「風船爆弾」の風船作りについては、女学生などが勤労動員されていたことはよく聞くが、風船爆弾の機能や使われ方は、今回初めて知った。太平洋の偏西風を利用して生物兵器を搭載した風船をもってアメリカへの攻撃を計画していたが、毒ガスや生物兵器登載が国際的な使用禁止への流れの中で無理となり、爆弾を搭載して、1944年11月~1945年3月ごろまで約9300個の風船爆弾を放ったという。その内、着弾が確認できたのは361個だった。和紙とこんにゃく糊による風船は“牧歌的“にさえ思えてくるが、兵器の一部であったのである。詳しい記録や証言は少ないが、日本での放球時の爆発、アメリカでの不発弾の爆発で、それぞれ日米の犠牲者が出ている。


4)の「細菌兵器」について、思い起こすのは731(石井)部隊の医師たちの細菌などによる人体実験である。731部隊は、関東軍防疫給水部本部の研究機関の通称で、登戸研究所の研究との違いは、講師によれば、731は、野戦場における対人の兵器としての細菌研究で、登戸では、あくまでも敵国かく乱のための兵器としての生物兵器研究であったという。前者については、近年になって記録や証言、研究が多く、全貌が明らかになりつつあるが、登戸研究所については、その全貌が見えてこないという。両者とも関係者の責任、戦争犯罪に問われることがなかったのは、占領軍による研究成果の記録・情報取得を交換条件に関係者免罪が取引された結果であるとされている。


 もっとも驚いたのが、登戸研究所が「贋札づくり」の任務を担っていたことだった。国(軍隊)がニセ札を製造していたわけだから、登戸研究所の中でも「秘密の中の秘密」で、敗戦時にはほとんどの資料を焼却しているので、その実態が分からなかった。その後のわずかな証言から少しづつ明らかになってきたということだ。
  ニセ札製造とその流通の目的は何だったのか。1935年中華民国政府の蒋介石政権は米英の支援で統一通貨「法幣」を制定、浸透していたが、日本軍は物資不足・外貨不足のため長期戦を余儀なくされていた。そこで、日本軍は、ニセ札を大量に流通させてインフレを起こさせ、中国経済を混乱させること、ニセ札を使って現地の物資調達を容易にすることの二つを目的にニセ札製造に踏み切った。1939年から1945年までの間に、40億円相当(当時の日本の国家予算が200億)を発行したが、現実にはインフレは起こらなかった。このニセ札は、日本軍が発行していた「軍票」の信用がない中で、物資調達に重要な役割を果たした。製造には、巴川製紙や凸版印刷などの民間も協力させ、運搬は中野学校出身者らが担当したという。

  こうしてみると、戦争が、戦場での殺人行為を容認や競争をエスカレートさせるだけでなく、大量殺人やニセ札製造などという凶悪な犯罪行為を国家が推進していたことになる。「これが戦争というものなのだ」と納得する人間の愚かさを痛感させられる。これは、現代にも通じることで、情報収集やスパイ行為など一見頭脳的な行為にも思えることすら、CIAの情報収集や日本の公安警察に見るように、違法な国家犯罪を助長することにならないか。 


 登戸研究所資料館見学

 山田朗研究室の院生の方の案内で、資料館に向かう。キャンパスの北東の端で、登戸研究所第二科の実験棟の一つだった36号棟を改装して資料館にしたという。11万坪の敷地に40棟以上の建物が存在していたことになろう。明治大学は、敗戦後慶応大学などが借用中だったところ、1950年に、約5万坪を建物ごと購入している。1951年に明治大学農学部がこの地に移転し、80年代まではいろいろな建築物が残っていたらしい。資料館は、外観はきれいに塗装され、2010年4月から一般公開された。入口は小さく、廊下をはさんで両側に部屋が並ぶだけの構造である。36号棟は、第二科の「農作物を枯らす細菌兵器開発」実験を行っていた建物だった。どのへやにも大きな流し台が付いているのは、そのまま残されている。

  館内には5つの展示室が設けられ、第1室は沿革と組織、敷地、組織、予算などが戦局拡大と共に増大していく様子をパネルの図表で明らかにしていく。第2室は、研究所第一科が中心で開発した風船爆弾(ふ号兵器)関連の展示である。第二科は当初の電波兵器から風船爆弾開発に乗り換えたかのようで、1943年11月の風船爆弾試射実験で目途がつき、1944年11月からアメリカ本土攻撃が始まるのである。第3室は、第二科の生物兵器、毒物兵器、スパイ機材などの開発の分担組織や実態を少ない資料から浮き彫りしようというものだった。第4室では、ニセ札の製造・製版・印刷・古札仕上げ・梱包・運搬・流通の過程とニセ札以外に旅券やニセのインドルピーや米ドルなどの製造にまで及んだという。

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2014年12月23日撮影、「偽札はどうつくられたのか」。拡大してみてください。

  第5室の敗戦と登戸研究所についての展示に、私は多くの示唆を得た。闇に葬られようとした登戸研究所を歴史研究の対象の俎上に載せたのは、研究者でもなくジャーナリストでもなく、地元川崎市の市民地域学習活動の一環だったし、法政二高と長野県赤穂高校の生徒たちによる地域の歴史調査活動から始まったのだった。それまで口を閉ざしていた関係者や地元市民らが語り始め、資料を持ち寄り始めたのである。中でも元幹部所員の伴繁雄氏は、高校生との交流の中で、初めて、その体験を語り始めたそうだ。そうした活動の成果としてつぎのような本が刊行されるに及んだのである。

・川崎市中原平和教育学級編『私の街から見えた 謀略秘密基地登戸研究所の謎を追う』(教育史料出版会 1989年)
・赤穂高校平和ゼミナール・法政二高平和研究会「高校生が追う陸軍登戸研究所」(教育史料出版会1991年)
・伴繁雄『陸軍登戸研究所の真実』(芙蓉書房 2001年)

 向かって左の五号棟はニセ札の印刷工場として使用。2011年2月に解体され、 右の二十六号棟は、ニセ札の保管倉庫として使用、2009年7月に解体されてしまった。  
 

 キャンパス正門の守衛室うらの動物慰霊碑。1943年3月建立、その存在は登戸研究所で働く人にも 知られていなかった。現在も、農学部での動物慰霊碑にもなっていて、毎年ここで慰霊祭が行われている。近くに、民家も迫っている

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2024年12月23日撮影、動物慰霊碑

 資料館の見学の後は、上記のように登戸研究所の痕跡をたどった。遺された史跡、遺すよう努力された明治大学の研究者はじめ多くの方々には敬意を表したい。ここで、どうしても思い起こすのは、ドイツが国として取り組んでいる戦跡・記録保存の努力である。少し前のドイツ紀行の記事でも触れたように、たとえば、ベルリン郊外のザクセンハウゼン強制収容所は、一部を博物館にして、広大な敷地に残る建築物こそ少ないが、更地にした上で収容棟の配置を明確に残している。ベルリン市内の陸軍最高司令部跡にはドイツ抵抗運動博物館を置き、ライプチヒの国家保安省跡にルンデ・エッケ記念博物館を設置している。ホローコースト追悼記念碑やロマ・シンティ追悼記念碑をベルリンの国会議事堂・ブランデンブルグ門直近の一等地に設置している。日本との違いをどう見るべきか。

 

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2025年2月18日 (火)

「岩波の本は、返品できないんですよ、いいですね」~歌集『ゆふすげ』をめぐって

 転居先に出入りの本屋さんからの確認の電話だった。やはり、読んでおかねばと、注文した『ゆふすげ』(美智子著 岩波書店 2025年1月)の件である。著者「美智子」は、平成期の美智子皇后、美智子前皇后のこと。苗字のない著者というのも不思議な気もするが、苗字を持たない人たち、皇族たちがいることをあらためて思い知るのだった。

 「重版を待つので、少し遅れます」と本屋さんは言っていたが、意外と早く届いた。「昭和、平成の未発表歌四六六首」を収録、「昭和四十三年」(1968年)から「平成三十一年」(2019年)までの歌を暦年順に、年ごとに一首から十数首を収めている。一首もない年もある。

 これまで、美智子前皇后の歌集の代表的なものに以下がある。しかし、いずれの歌集の奥付にも、著者の名はなかった。

『ともしび 皇太子同妃両殿下御歌集』 宮内庁東宮職編 婦人画報社 1981年12月

『瀬音 皇后陛下御歌集』 企画・編集・刊行大東出版社 1987年4月(1959年~1996年作 367首 未公開191首)

  『ともしび』と『瀬音』とは重なる作があり『瀬音」と今回の『ゆふすげ』とは年代的には一部重なるが、これまでの未発表作が収録されている。また、平成期の歌は、『道』という十年ごとに刊行された明仁天皇の記録集(宮内庁編 NHK出版)の各最終章「陛下のお側にあって」のなかの「御歌(みうた)」に収められている。そこには、毎年一月一日のメディア向けに発表される三首と歌会始に発表された一首を加えて四首が、宮内庁の解説?つきで収められていた。ちなみに、元旦の新聞に載るのは皇后三首、天皇が五首と決まっていたし、『道』においては上記のように皇后は年に四首、天皇は年に十首前後と、その差は著しい。その差を埋めるべく、皇后本人の意もあって、単独の歌集が刊行される運びとなったのではと推測される。

これまで発表されてきた歌は、とくに『道』には、あくまでも「公的行事」――法的根拠がない――としてなされていた植樹祭、国民体育大会、豊かな海づくり大会のほか被災地、戦跡、訪問、福祉施設訪問などで詠んだ歌が主であったが、『瀬音』と『ゆふすげ』には、たしかにプライベートな歌が多い。明仁天皇を詠み、明治天皇、昭和天皇、香淳皇后など皇族たちへの追悼歌が散見するのは当然として、自らの父母への哀惜、自らの師や友人たちの追悼歌も多い。中でも、私が注目したのは、短歌に係る者として、美智子前皇后の歌がどのようにして形成されていったかの関心から、その指導者であった歌人五島美代子、佐藤佐太郎、佐藤志満への追悼歌であった。

 たとえば、『瀬音』の「昭和六十二年」には「佐藤佐太郎先生をいたみて」と題した三首の中につぎの歌がある。

・もの視(み)つつものを写せよと宜(の)りまししかの日のみ目を偲びてやまず

 また、『ゆふすげ』の「昭和六十二年」に「忍ぶ草 佐藤佐太郎先生をいたみて」と題した三首に中の一首である。

・みよはひを重ねましつつ弥増(いやま)せる慈(いつく)しみもて教へ給ひぬ

「平成二十一年」には「佐藤志満先生追悼三首」と題した中につぎの一首がある。

・「わが親族(うから)ゆめ誹(そし)らず」とかの大人(うし)の讃へし妻にありませし君

 佐藤夫妻への敬意と信頼をうかがわせる歌である。

  また、「お妃教育」における、五島美代子が担当した「和歌」は、週1回の2時間10回の日程であったという(『入江相政日記三』261頁)。五島美代子のエッセイによれば、開講に先立って、三つの目標、本当の気持ちをありのままに詠む、毎日古今の名歌を一首暗唱する、一日一首を百日間作り続ける、という約束を交わし、美智子前皇后はそのすべてをクリアしたという(『花時計』321~325頁)。彼女の歌には、文学的な才能や知性ばかりでなく、その努力も伺わせるエピソードである。 

   つぎに着目したのが、夫である明仁天皇を詠んだ歌であった。歌詠みにとって、濃淡はあるものの、「相聞」は、基本的なテーマでもある。憲法上特別な地位にある夫婦ではあるが、美智子前皇后は、最上級の敬語を使ってつぎのような歌を詠み続けるのだが、違和感を覚えざるを得なかった。夫婦の実態は知り得ないが、私などの世代でもそう思うのだから、若い人たちは、どう思うのか、聞いてみたい。

・高原に初めて君にまみえしは夏にて赤きささげ咲きゐし(「高原」と題して「平成四年」)

・初(うひ)にして君にまみえし高原(たかはら)にハナササゲは赤く咲きてゐたりし(「平成二十九年」)

 繰り返される最初の出会いの緊張感と胸ふたがれる思いが「赤いささげ」の花に託されているように、私には読める。

・大君に捧ぐと君は北風の中に楓の枝を手折(たお)らす(北風」と題して「昭和六十三年」)

 これは、昭和晩年の大君、昭和天皇と「君」との関係をうかがわせる。

・御列は夕映えの中ありなむか光おだやかに身に添ふ覚ゆ(「平成二年」「光」と題して。「御即位に伴ふ祝賀御列の儀」の註)

 即位後の安堵感が見て取れるが、彼女は、代替わりの諸々の儀式を乗り越えるにあたって何を思ったのだろうか。

・日輪は今日よみがへり大君のみ生まれの朝再びめぐる(「平成六年」「天皇陛下御還暦奉祝歌」と題して)
・君の揺らす灯(ともし)の動きさながらに人びとの持つ提灯揺るる(「平成十三年」「灯」と題して)

 「日輪」の歌には、いささかその大仰さに驚いたが、彼女は承知の上でのパフォーマンスにも思えるのだった。「灯」の歌も、行幸啓の先々での提灯による歓迎の模様を詠んでいる。提灯や日の丸の小旗は、地元の奉迎・奉祝の実行委員会のような組織や「日本会議」、神社庁などが配布する場合が多い。提灯を揺らしていたのは、いわば物見高い人たちや動員に近い形で集まった人たちだったのではないか。天皇と国民との交歓風景の演出だったり、創出であったりのようにも思える。。

・清(すが)やかに一筋の道歩み給ふ君のみ陰にありし四十年(よそとせ)(「平成十二年」「道」と題して)

 「君のみ陰に」「陛下のお側にあって」という表現が、天皇と皇后の関係を端的に示しているとしたら、これを認めてしまったら、憲法上象徴たる天皇、天皇家には男女平等がないことになりはしまいか。野暮なことをと言われそうだが、天皇、天皇家を、日本国憲法の「番外地」にしてはならない。

 なお、2月5日のNHK「歌人 美智子さま こころの旅路」の影響もあったのだろう、『ゆふすげ』は、共同通信によれば、10万部を超えるベストセラーになっているそうだ(「美智子さま歌集が10万部超 1月の刊行から大反響」2024年2月14日)。NHKの番組は、美智子前皇后の歌の紹介などを歌人永田和宏が行い、ゆかりのある人たちのインタビューなどにより構成されていた。もちろん、誰もが敬語を使って、その人柄や歌について語っていた。朝ドラに出演していた若い女優の語りとイメージ映像は、あまりにも情緒的であって、むしろわずらわしく思えたのだが。そういえば、2月16日の「朝日歌壇」の永田和宏選に、つぎのような一首があった。永田さんは『ゆふすげ』の解説者でもあったのである。これって、少しやり過ぎじゃないかしら?

・行きつけの小さな本屋に注文し重版待ちいる歌集『ゆふすげ』(埼玉県) 中里史子(2月16日)

また、一週間後に永田選でつぎの歌が掲載されていた。やっぱりこれって、投稿歌壇の私物化と言ってもいいのでは?

・カバーより透けて見えにしゆうすげは清らに咲きて歌集の扉(水戸市)佐藤ひろみ(2月23日)

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2024年8月23日 (金)

対馬丸沈没から80年、私たちは何をしなければならなかったのか

1944年8月22日、那覇から九州に疎開する学童たちを乗せた「対馬丸」は、奄美大島沖を過ぎた悪石島付近で、アメリカの潜水艦により撃沈された。判明した乗船者数は1788人、氏名が判明している方々1484人、その内、学童が783人とされている。

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東京新聞【20024年8月23日】より

 

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対馬丸記念館、展示より。今年は記念館開館20年節目の年。

その内、漁船などに助けられた人、奄美大島に漂着したなどして救助された人たちは、280人に過ぎない。

私は、1944年末ころか、東京の池袋から千葉県佐原にあった母の生家に母と疎開した身である。年月も両親から聞いておかなかったのではっきりしないが、両国駅での列車の混雑ぶりだけが記憶に残っている。疎開船の学童たちとの体験とは、大きく異なるけれど、他人事には思えなかった。

2016年、遅ればせながら、6月23日の慰霊の日の式典に参列した折、対馬丸記念館を訪ねることができた。壁いっぱいの亡くなった方々の遺影、多くの幼いあどけない遺影に、胸が痛む思いだった。生き残った方々の悲痛な声や映像や文字に苛まれるのだった。

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遺影と遺品の展示室にて。

今年も「小桜の塔」の前での追悼式が開かれたとの報道である。それに合わせたものなのか、内閣府は来年度、沈んだままの対馬丸の船体の再調査を来年度予算に計上したという。船体は、すでに1997年水深約870メートル海底で発見されていて、当時、生存者や遺族が引き上げを要請したが政府は、船体の強度などを理由になされなかった。が、今回、内閣府は、平和学習や戦争の記憶の継承にも役立つとして、遺品の収集などを目指すというが、何を今さら、80年も経ってぬけぬけと・・・。

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対馬丸記念館に隣接した旭丘公園内にある小桜の塔、向かって右側が対馬丸の犠牲者、左側にその他に船の犠牲者名が刻まれていた。今年の8月22日いは約400名の方々が参列したという。塔建立70年になる。

 

以下の過去記事もご覧ください。

2016年7月16日
ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(2)「対馬丸記念館」~なぜ助けられなかったのか: 内野光子のブログ (cocolog-nifty.com)

 

 

 

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2024年6月17日 (月)

1960年6月15日、その頃何を考えていたか・・・。

 数年前にも、当ブログに以下の記事を書いた。状況としては、何も変わってはいない。内閣支持率が10%台になっても(6月の時事通信世論調査16.4%)、国の行方に対して、危機感というものがなく、議員たちは自分の選挙での当落だけを考え、お金の算段に血眼なのである。政党資金規正法改正にしても、パーティー券購入先の氏名・職業公表がなぜ5万円以上なのか、政策活動費の公開がなぜ10年後なのか、委員をいつ誰が選ぶのかわからない第三者機関設置なのか、施行が2年以上先の2027年1月1日なのか、目くらましにもならない法案で決着を図りたい自民・公明・維新なのである。議会の多数決だけで「政治」が動く。                                                                                                                                   

615日、思い起すこと(2019616日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/06/post-fd0e28.html

  64年前の6月、あの時の社会の、時代の雰囲気は、どうしたら伝わるのか、私自身、どう受け止めていたのか、いつも考えてしまう。「安保反対」「岸を倒せ」闘争のきわめて個人的な体験と感想をくり返すにとどまっている。これまでの記事と重なる部分もあるのだが。

 1960年5月19日、夜10時過ぎ、衆院安保特別委員会の質疑打ち切り、新安保条約、日米地位協定などを単独可決、警官隊を導入、午前0時直前に衆院本会議で会期延長を自民党の単独採決、日付が変わった0時06分からの衆院本会議で日米相互協力・安保条約、駐留・地位協定、関連法案が討論なしで、自民単独、全員起立で可決している。直ちに参議院に送られているが、いずれにしても1か月後には自然承認されてしまうのだ。

 6月以前にも、学内でのクラス討論、学内集会、全学連反主流派集会へ出向き、安保阻止国民会議の請願デモ。私は少なくとも「請願」するという「自覚」もなく参加していたと思う。参加者の流れに添って、議員面会所にタスキをかけて立って迎える議員の前で、気勢をあげた。誰かが請願書なるものを渡していたのだろうか。背後の車道では、全学連主流派と呼ばれる学生たちの列の先頭の数人は一本の棒を握り、隊列をびっしり整え、ジグザグ行進を始める。その息の荒さと熱気に圧倒されていた。5月19日の深夜まで議事堂を囲んでいたデモには参加した記憶がない。

 私が何度も参加していた請願デモは、聞き知ってはいたが、後に知る、清水幾太郎の「いまこそ国会へ―請願のすすめ」で、われわれの手に何が残されているのか、「今こそ国会は行こう。請願は今日にも出来ることである。誰にでも出来ることである。・・・国会議事堂を幾重にも取り巻いたら・・・、そこに、何物も抗し得ない政治的実力が生まれて来る」(『世界』5月号特集<沈黙はゆるされるか>1960年4月)という呼びかけに影響を受けていたらしい。そして、規制のゆるい車道では、手をつないで車道いっぱいに広がって行進する「フランスデモ」になることが多かった。たいていは右も左も学友だったのだが、見ず知らずの人と手をつなぐこともあった。なんで<フランス>デモだったのか、近年のフランスでのデモは、いっそう過激になっているのに。

 私の記憶が鮮明なのは、「ハガチー事件」と称されるものだ。6月10日、羽田空港出口の弁天橋近くに、アイゼンハワー米大統領の来日を控えて、大統領秘書広報担当ハガチーの到着を待つべく、自治会の支持のもと、道路わきに座り込みをしていた。ハガチーが乗っている車は道をふさがれ、車の上にかけ上がる者もいて混乱、立ち往生していたが、意外と早く、米軍のヘリコプターがやって来て、マッカーサー駐日大使らとの一行は脱出した。ヘリコプターの着地や発着のときに巻き起こす風は強烈で、多くの参加者は、仰向けに吹き倒され、私は恐怖すら感じた。それくらい近くに座り込んでいたのだろう。帰宅して肘に擦り傷を負っているのに気づいた。私が目の当たりにした現場の光景は、いったい何だったのか。計画的な行動だったのか、偶発的なものだったのか。いまでもわからないが、翌日の新聞は、こうした暴力的行為は、国の恥、国際的にも非礼極まりないという論調であった。国論を二分する日米安保条約であったし、議会が機能していないこの時期に、アメリカの大統領を招くために、警備を強化するという政府こそ、暴挙に近いのではと素直に思ったものだ。

 6月13日夜、川崎市の日本鋼管川崎製鉄所労組事務所と東京教育大学自治会室に家宅捜索が入ったのを新聞で知った。在学の自治会室に「安保阻止東京都学生自治会連絡会」の事務局があったのも、初めて知ったのだった。

 そして、6月15日の樺美智子さんの惨事が起きる。その夜、私は別件で出かけていて遅い夕食のお蕎麦屋さんのテレビで事件を知って、そのショックは大きかった。それに加えて6月17日の朝刊一面の、在京新聞社七社の「共同声明」にも衝撃を受けた。「暴力を排し、議会主義を守れ」と題され「六月十五日夜の国会内外における流血事件は・・・」で始まり、「民主主義は言論をもって争わるべきものである。その理由のいかんを問わず、またいかなる政治的難局に立とうと、暴力を用いて事を運ばんとすることは断じて許されるべきではない」とし、政府の責任とともに、「社会、民社両党」の責任も問うていた。警官隊を導入しての単独採決は暴力ではなかったのか、国会周辺のデモ隊への機動隊の行動は暴力とは言えないのか。何とも納得しがたく、マスコミへの信頼が失墜した。

 その後、みずず書房の広報誌『みすず』で始まった小和田次郎の「デスク日記」を読んでいくと、ほぼ同時進行するマスコミ内部の様相、政治権力からの圧力にひれ伏しているのかも知るようになった。

 そして、私の最初の就職先、学習院大学政経学部研究室勤務により、清水幾太郎の実像の一端に接することになる。以下の当ブログの記事もご覧いただければと思うが、戦前からの足跡をたどれば、みずからも「マスコミ芸人」と称するだけあって、その変わり身のはやさに驚いたのであった。

 メデイアの中の「知識人」たち~清水幾太郎を通して考える(1)(2020年8月18日) 
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/08/post-c87232.html

メデイアの中の「知識人」たちー清水幾太郎を通して考える(2)2020年8月18日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/08/post-6bcb67.html


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『図書新聞』【2010年7月31日】所載の江刺昭子『樺美智子 聖少女伝説』。この書評を通じて、私の中で、少し整理されたかなと思う、50年前のできごとであった。

樺美智子 聖少女伝説』
等身大の活動家から何を引き継ぐべきか

 偶像化への異議申立て、なるか 

副題の「聖少女伝説」、帯の「60年安保 悲劇の英雄(ヒロイン)の素顔」の文言にも見られるように、没後五〇年、六〇年安保世代を当て込んだような出版元の宣伝が目についた。が、本書の著者は、資料や関係者の証言に添う形で、樺美智子の実像に迫り、「60年安保闘争の唯一の死者として、伝説の人物として、聖化され、美化され」(14頁)半世紀を越えることへの異議申立てを試みたと言えよう。

本書は6章からなり、1・2章では、一九三七年生れの美智子の恵まれた生い立ちと一九五七年東京大学に入学、二〇歳で日本共産党に入党し、活動家としての出発までが描かれる。3章・4章では、共産党内の分派活動家たちによる「共産主義者同盟」(ブント)へ参加、一九六〇年六月一五日の死の直前までが検証される。教養学部時代は、地域の労働者の勤務評定反対運動などを支え、国史学科へ進む。警職法反対闘争に加えて、日米安保改定反対運動が国民的にも盛り上りを見せるなか、美智子は、一九六〇年一月岸首相の訪米阻止のため空港食堂に籠城、検挙を体験、政治的な使命感をさらに強めることになる。5章「六月一五日と、その後」6章「父母の安保闘争」では、美智子の死の前後と周辺の動向が検証される。その死をめぐっては、国会構内での学生・警官隊の動き、解剖結果の死因―圧死か扼死―を巡る対立、実在しない至近学生の証言報道などの問題が提起される。「国民葬」の経緯や活動家のその後などと遺された両親の苦悩と各々の死まで担った政治的な役割についてたどる。

美智子自身の思想形成、当時の学生運動における革新政党や分派による主導権争いなどに触れている部分はあえて割愛した。まじめで勉強好きな女子学生が自覚的に傾倒してゆく社会主義的思想、正義感や使命感が格別強かった青年の行動を、私は否定することができない。同時に、二年ほど年下にあたる評者には、六〇年の日米安保改定反対闘争の結末が樺美智子の死だけに集約され、当時の多くの市民たちの多様な行動や声が掻き消されてしまうことに危惧を覚えたのも事実である。

「聖少女伝説」化がなされた過程への考察が、本書ではやや不明確なのが気になった。伝説形成の基底には二つの要素が絡み合っているのではないか。まず、一九六〇年六月一七日の朝刊に掲げられた「暴力を排し 議会主義を守れ」という在京新聞七社共同宣言について、本書では「新聞論調は全学連に批判的であった」(241頁)とあっさりとしか触れられていない。この「共同宣言」に象徴されるマス・メデイアの大きな転換、マス・メディアの責任が問われるべきだろう。宣言の「その事の依ってきたる所以を別として」「この際、これまでの争点をしばらく投げ捨て」の文言に見られるように、「事件の原因を探求し、責任の所在を突きとめ、解決の道を明らかにすべきジャーナリズムの基本姿勢を放棄」し、時の政府を免罪し、暴力批判という形で大衆運動を抑圧する側にまわった、という重大な転機(小和田次郎ほか『戦後史の流れの中で 総括安保報道』 現代ジャーナリズム出版会 一九七〇年 二六九頁)への自覚や反省が薄れていることを指摘したい。五月一九日の暴力的な日米安保改定強行採決を目の当たりにした国民の危機感が高まるなか、政府、財界からのマス・メディア工作・統制、さらには自主規制さえ露骨になった事実と皇太子の婚約に始まる皇室慶事祝賀モードへの流れの結果でもあった。以降、マス・メディアは、六月一九日に条約が自然承認された後の「挫折感」がことさら強調され、さらに今日まで「新日米安保条約」の内容自体についての論議が遠ざけられ、樺美智子の追悼と偶像化を一種の逃避として利用してきた欺瞞性はなかったか。

また、当時「新日米安保条約」に反対した人々のなかには、高度経済成長の担い手となり、その恩恵を享受する過程で、贖罪をするかのように樺美智子を美化する人も少なくない。美智子への称賛を惜しまなかった活動家や知識人たちが、保守派の論客になったり、会社経営や大学行政に携わったりしながら、その一方で「伝説化」に加担している場面に出会うことにもなる。また、当時、まったくの傍観者であったか、無関心であった人たちまでが、たんなる感傷やノスタルジィに駆られて、その偶像化に酔うこともある。こうした風潮が、今日まで「日米軍事同盟」の本質的な論議を回避し、沖縄の基地を放置し、「抑止力」なる幻想をいまだに引きずる要因になってはいないだろうか。

筆者は、現代の若者たちに、一九六〇年前後、日本の未来を真剣に考えていた青年たちや市民たちの等身大の姿を伝えたいと思った。本書が、自身を含め、多くの読者が自らの足跡を真摯に省み、今後なにをすべきなのかを考える一冊になればと願う。

(『図書新聞』2010年7月31日号所収)

 

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2024年5月19日 (日)

GWG(ミーヌス)8号、先程発売開始しました。。

 今日、5月19日東京流通センターで、文学フリマ開催中です。

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 昨年の11月、GWGミーヌス同人の方々との座談会に参加しましたが、下記のような表題でGWGミーヌス8号に収録、刊行されました。同時に、本日19日の「文学フリマ東京38」ブースH-22で発売中です。

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 座談会の紹介は、つぎのようになっています。かなり過激な?表題や見出しになっていますが、私の発言は、私の素が露わになることもしばしば。若い日本文学研究者に囲まれての気ままな発言を根気よく聞いてくださり、まとめてくださいました。古い合同歌集や歌集『冬の手紙』(1971年)にまでさかのぼり読んでいてくださり、身の引き締まる思いがしました。

 座談会:「臣下」の文学――「勲章」としての短歌】短歌によって天皇/制を「撃つ」ことは可能か。内野光子氏を迎え、短歌と天皇/制、「60/70年安保」と革命、結社と資本主義、第二芸術論・前衛短歌と「私性」、阿部静枝の「フィクション」、齋藤史・瀏と2・26事件をめぐり、大いに議論を展開した。

 8号の諸論文も力作で、広くて深い分析と考察には、いまさら私には手が届きそうにもないのですが、教えていただくことも多く、楽しんで読み進めています。一つでも関心のあるテーマがありましたら、お手に取ってみてください。

 

 

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2023年12月 1日 (金)

横浜へ~三渓園、日本大通りの銀杏、どこの黄葉も見事でした(2)

日本大通りのニュースパーク(新聞博物館、情報文化センター内)へ

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 KKRポートヒルに一泊した翌朝は、きのうの風もおさまり、快晴であった。窓からは眼下に港の見える丘公園、ベイブリッジ、キリンのように並んでいた荷揚げの重機なのか、首を曲げているものもある。きょうは、ニュースパーク(新聞博物館)へと向かう。ここでも関東大震災100年の企画展「そのとき新聞は、記者は、情報は」が開催中なので、見学することにしていて、10時オープンと同時に入館した。

 

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展示物の撮影は禁止であった。ちらしには、号外の一部などがスクラップされている。上段左から「大阪朝日新聞」(9月4日、第3号外、福馬謙造記者)、「大阪都新聞」(9月6日号外、喜多吉哉特派員)、「大阪毎日新聞」(9月4日夕刊、三好正明特派員)。

展示は、以下の4部構成であった。
Ⅰ「震災発生 そのとき新聞社は、新聞は、記者は」
Ⅱ「震源地・神奈川、横浜はどのように伝えられたか」
Ⅲ「不確かな情報、流言・デマ、混乱」
Ⅳ「関東大震災前後の震災、新聞社の防災・減災の取り組み」

 1923年9月1日正午近く発生した関東大震災は、神奈川県だけでも、死者・行方不明者3万2800余人、住家被害は12万5500余棟に及んだ。その時、新聞社、新聞、記者はどうしたかを、各新聞社は、記者の移動もままならない中、号外や新聞で、必死に伝えていたことが、当時の紙面からうかがい知ることができる。

 東京日日新聞(毎日新聞)は、皇居前広場に臨時編集局を開設、9月4日には新聞発行がなされ、朝日新聞は、帝国ホテルに臨時編集局を設置、謄写版刷りの数行の号外を出したのが9月4日、定期発行は9月12日であったことがわかる。この間、大阪朝日新聞、大阪都新聞、大阪毎日新聞などが、特派記者による東京の被害の状況を伝える号外を発行している(上記チラシのコメント参照)。
 9月6日の報知新聞(夕刊)では、秋に予定されていた摂政(皇太子)の「ご成婚は未定」、大阪毎日新聞9月4日(夕刊)には「摂政宮御沙汰を賜ふ ご内幣金一千萬万円下賜」の記事も。
 横浜市内の状況は、主に横浜貿易新報(神奈川新聞)9月13日から臨時号を発行、報道している。目に留まったのが9月30日(夕刊)に「非高工移転論熱烈」という記事。横浜高等工業学校を名古屋に移転する計画が、三渓園の原三渓らが中心になって、陳情書を提出、反対運動が実り、中止になったらしい。
 この春の横浜散策で、赤レンガ倉庫の一棟の半分が倒壊したことや山下公園が大震災の瓦礫を埋め立てて造られたことなどを知ったのだが、公園は1933年、10年後に開園していることを、今回知った

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私たちが見学中に小学生の一団がどっと会場に入ってきた。リュックを背負ったまま、揃いの黄色い画板を下げて、メモを取ったりおしゃべりしながら、せっせと通り過ぎていった。見守っていた先生に、「横浜市内からですか」尋ねたところ、千葉です、という。私も千葉からと告げると、「佐倉からです」との返事にびっくり、胸の名札を見せてくれて「西志津小学校」とあるではないか。ユーカリが丘の人とここで出会えるとはと、その先生も驚いていた。生徒たちはどのくらい理解しているのでしょうね、と失礼な質問もすると、当時の写真がみな白黒なのが気になるようでと。先生は、NHKの関東大震災特集などを見ていて、写真のカラー化したものも目にしていたそうだ。ユーカリが丘出身の女性落語家を招いた話なども話していた。見学後生徒たちは、ホールに集まって、記者OBらしき人の話を神妙に聞いていた。

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ニュースパークの一画にあるカフェで、ランチのあと、通りに出れば、銀杏並木の木漏れ日が揺れ、斜め前の神奈川県庁前の銀杏もみごとであった

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2023年11月12日 (日)

知覧、唐突ながら、知覧へ行ってきました

 鹿児島中央駅東口からの東16番の路線バスで、終点特攻観音入口まで、1時間30分ほどかかった。市街地を抜けると、南九州市、知覧へは上り坂が続く。この小旅行で、いちばんつらかったといえば、特攻隊員が出撃の前の数日間を過ごすことになっていた「三角兵舎跡」へとのぼる松林の中の山道であった。今でこそ、階段が整えられ、決して長くはない、この道をのぼる隊員たちの気持ちを思うと胸が痛い。のぼりきった平地は、陽が射さず、コケに覆われ、モグラの仕業か、地面のあちこちがひっくりかえされ、「三角兵舎跡」の碑がひっそり立っているのだった。

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角兵舎跡への階段、三角兵舎の跡の石碑。

  少し離れた、軍用施設となっていた二軒の旅館から、出撃が間近くなった隊員が、この地の兵舎に移動してくるのだった。さらに、出撃当日は、ふもとにトラックがやってきて、飛行場へと赴いたという。二本の滑走路近くには「戦闘指揮所」があって、「俺も後から行くからな」という上官や女学生たちに見送られて、機上の人となり、二度と帰ることはなかったのである。

 知覧の旧基地の一画には、知覧特攻平和会館(特別攻撃隊戦没者慰霊顕彰会、1987年2月開館)がある。九州、台湾、琉球諸島にあった特攻基地から、1945年4月1日、沖縄本島への上陸米軍への総攻撃が始まり、4月6日の第一次総攻撃から6月21日の第11次総攻撃まで、さらにその前後、とくに、1945年6月23日、牛島満軍司令官の自決をもって、沖縄戦終結後の7月、8月にも、出撃が続いている。その戦没者合わせて1036人の遺影が壁いっぱいに展示され、ケースには遺書や遺品などが並べられている。20歳前後の若者たちが、“志願”の名のもとに、殺されていたかと思うと、遺影とはいえ、彼らの視線には耐えられず、会館を後にするのだった。

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大破した、海軍ゼロ式艦上戦闘機。

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松永篤雄さん(19歳)の辞世「悠久の大義に生きん若櫻唯勇み征く沖縄の空」。

 掩体壕まで案内してくれたタクシーの運転手さんは、「特攻機も、特攻隊員も出撃までは大事にされてたわけですな」の一言には、複雑な思いがよぎるのだった。

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知覧町が、敗戦50年、1995年に建てている。

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掩体壕のめぐらされた土手の高さは4メートルほど。後方には、茶畑が広がる。

 この知覧行には、忘れ難い一件もあった。鹿児島中央駅のバス停で、台湾から来日した若い女性に出会った。上手な日本語で、二カ月の休暇で、北海道から日本を縦断する形で、旅をしてきたという。知覧を最後に、帰国するというのだ。
「日本語はどこで学んだの」には、「塾に通い、あとは独学です」と。「日本に興味を持ったきっかけは」には、「日本のアニメが好きだったのと、池上彰の話を聞いたりして・・・」という。
 知覧特攻平和会館では、ちょうど「鹿児島県の戦争遺跡」という企画展も開かれていることも知っていて、私たちもできれば聞きたいと思っていた、その日の企画展に伴う講座のことを話すと、すでに知っていて、参加するという。かなり調べていて、準備不足だった私など教えられることもあって、その学ぶ意欲に脱帽。日本の台湾旅行者で、ここまで調べている若者がいるかな、と。彼女は、終点の一つ手前の武家屋敷群前で「今日、またどこかで会えるかもしれませんね」とバスを降りていった。

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知覧飛行場跡概略図、『旅の雑誌』(南九州市)より

 

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2023年10月17日 (火)

「雨の神宮外苑」(NHKTV2000年制作)について書いた後、知って驚くことばかり(2)~「内閣調査室」のこと

  1952年、内閣官房に「内閣調査室」を立ち上げた時からのメンバー、志垣民郎については、以下の当ブログ過去記事でも紹介した。志垣が、最晩年に出版した『内閣調査室秘録―戦後思想を動かした男』(志垣民郎著 岸俊光編 文春新書 2019年7月)を読むことができた。

「雨の神宮外苑」(NHKTV2000年制作)について書いた後、知って驚くことばかり~「わだつみ会」のこと  (831日)

 同書には、どういう人物とどこで、情報交換していたのか、<研究費>と称して、手渡した金額などが日誌風に記録されている。彼らが接触するのは、たいていは高級レストランらしい。<接待費>も<研究費>も、もちろん国費で、もとはといえば税金だったわけである。私が、初めて知ったのは、鶴見俊輔とも接触があって、『共同研究 転向』上中下(平凡社 1959年1月、1960年2月、1962年4月)へ資料提供をしていたことであった。「金は手渡さなかった」との記述にほっとしたのであったが。また、さまざまな研究者の名前と手渡した金額が明記されていた。その中で、私が新卒で2年ほど勤務していた学習院大学の先生たちの名も登場する。アメリカ帰りの行動科学専攻の先生の研究室には、巨大な「電気計算機」なるものが設置されていたのだが、その後の1960年台の後半、その先生から、150万円を要求された志垣は、そんな大金には応じられないとの記述もあった。

 断捨離のさなか、紙が悪いのだろう、茶色くなった冊子が2冊出てきた。表紙にはなんと「内閣官房内閣調査室」のゴム印が押されていた。かつて勤務していた図書館には、納本される新刊書からレファレンスブックを選書する日があって、棚の片隅に、処分されそうな何冊もの副本の中から、レファレンスの事務用にと部屋に持ち帰ったのだろう。退職の時の私物に紛れ込んでしまったのかもしれない。

  • 「文学者の政治的発言」(社会風潮調査資料10)昭和三十七年(1962年)
  • 「社会風潮としてみた流行歌―歌謡曲を中心とした思潮の変遷」(1966年)(社会風潮調査資料37)昭和四十一年三月

  今回、あらためて読んでみた。①には、さまざまな文学者の名前や団体名が登場し、思想的な色分けをした上で、若干の解説が付されている。B5版の80頁ほどで、タイプ印刷のようにも見える。 巻末に参考文献も示されているが、当時としても、おそらく、あたらしい事実もないし、分析もそっけなく、内調のオファーに応じたかのような、かなり、偏向した内容でもあり、大学生の卒論くらいにしか思えなかった。②も同様に70頁ほどの冊子だが、この内容も、既刊の関係文献をなぞった程度で、巻末の「昭和の主な歌謡年表」も粗末なものである。この冊子が出されていた頃、私も、流行歌、歌謡曲には、けっこう興味を持っていて、関連の書物は何冊か今も持っている。②と対極にあるのは、「赤旗日曜版」の連載をまとめた高橋磌一『流行歌でつづる日本の現代史』(音楽評論社 1966年8月)だろうか。少し後に出された、作詞家4人による『日本流行歌史』(古茂田信男・島田芳文・矢澤保・横沢千秋著 社会思想社 1970年9月)は、歴史編・歌詞編・年表篇とに分かれ、巻末には、歌い出し・曲名・主要人名事項の索引がついている557頁もの労作である。さらに下って、『歌謡曲大全集1-5』(全音楽譜出版社 1981年)まで購入している。歌は歌でも、短歌ではなくて歌謡曲にも興味津々であった。さらに下って、戦時下の歌謡曲については、櫻本富雄『歌と戦争』(アテネ書房 2005年3月)と先の『日本流行歌史』は、調べる本として、いまでも利用している。後者は、発行が1970年だが、1964年創業のジャニーズ事務所は登場せず、言及は渡辺プロダクション止まりであった。

 話はいろいろに飛んでいったが、借りた福間良明『「戦争体験」の戦後史』(中公新書 2009年3月)が、まだ読み切れていない。

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北側のキンモクセイがいい香り漂わせていた。物置に邪魔されたキンモクセイはまだらしい。

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2023年9月30日 (土)

「雨の神宮外苑」(NHKTV2000年制作)について書いた後、知って驚くことばかり~「わだつみ会」のこと

 戦没学生の遺稿集「きけわだつみのこえ」という書名の由来は、みずからも学徒出陣した、京都の歌人藤谷多喜男の次の一首であったという。 

・なげけるか いかれるか はたもだせるか きけはてしなきわだつみのこえ

 「学徒出陣」で戦没した学生たちの一部の遺族たちが相寄って、遺稿集『きけわだつみのこえ』(東大協同組合出版部 1949年10月)が生まれ、1950年4月、遺族たちを中心に追悼と反戦平和を目指し「日本戦没学生記念会」(わだつみ会)が発足した。「雨の神宮外苑」を見て、いくつかの記事を書いたが、その後、図書館にリクエストしていた保阪正康『『きけわだつみのこえ』の戦後史』(文芸春秋 1999年11月)が届き、「わだつみ会」の変遷を知って、驚くことがいくつもあった。この書は、保阪渾身の取材による、人物を中心とした「わだつみ会」の変遷だった。とくに、保阪は遺族から提出された遺稿の原本と出版された遺稿集との照合や証言によって、戦没学生の心情に迫ろうとしていた。前述の記事で紹介した那波泰輔論文からは計り知れない、過酷な「わだつみ会」の戦後史を知ることになった。

 以下、保阪の書により振り返ってみよう。

 遺稿集『きけわだつみのこえ』の出版を契機に、戦没学生の遺族や友人、東大生らは、兄徳郎の遺族で、東大医学生の中村克郎を中心に「わだつみ会」が結成された。『きけわだつみのこえ』は、ベストセラーにもなり、映画化もされた。そして、追悼記念碑として、本郷新による「わだつみ像」も完成したが、東大構内での設置を拒否され、1953年12月には立命館大学に引きとられた。1958年には学生運動の分裂・急進化、財政難のため解散するのだが、小田切秀雄、中村克郎、安田武らにより再建が図られ、政党(共産党)に利用されない、本来の戦没学生記念事業を軸に戦争体験の継承と戦争責任を明らかにすることを主旨とし、阿部知二理事長、山下肇事務局長による第二次わだつみ会が発足した。1960年代という政治的な季節に、戦中派、高校生をふくむ戦後世代を巻き込んだ「平和団体」であった。

  1963年に、「きけわだつみのこえ」の第二集『戦没学生の遺書にみる15年戦争―開戦・日中戦争・太平洋戦争・敗戦)』 (光文社 カッパ・ブックス) を出版、1969年、立命館大学の「わだつみ像」が全共闘系の学生に破壊されるという事件もあった。1970年、戦没学生世代が中心となり、政治運動から距離を置きつつ、平和団体、思想団体を目指そうと、中村克郎理事長、渡辺清事務局長により再編された。『戦艦武蔵の最期』『砕かれた神』などを残した渡辺事務局長のもと、「わだつみ会は遺族とともにあることを忘れてはいけない」としつつ、もっと大衆的な広がりを求めた。機関誌「わだつみのこえ」では、それまでタブー化されていた天皇制についての特集を続けた。すると、機関誌の購読者も、わだつみ会の会員も増え、サラリーマンや主婦、市民活動家などが参加したという。「昭和天皇の戦争責任を問う」ことを目指した会員が増加したという、今からは想像しがたい状況ではあったが、裏返せば、「天皇制」を語る受け皿が少なかったことを意味しているかもしれない。1981年、精力的に活動していた渡辺事務局長の急逝、その後、追悼、思想中心から政治団体化していくなかで、安田武、平井啓之らの死去により調整役を失い、それまで、献身的に、財政的にも会の活動を支えてきた中村克郎は理事長の座を追われる。

 1994年2月、関西の大学から東京に戻った山下肇の中村克郎理事長への公開質問状、後に理事長となる高橋武智による声明文、1994年4月の総会にいたるさまざまなか画策による、中村克郎への糾弾、追い出しの露骨な動きは余りにも感情的で、見苦しくも見えた。よくある組織内の乗っ取りや居場所確保の結果のように思われた。                                       

 さらに、以下の文献の著者岡田裕之は、わだつみ会の理事長も務め、2006年12月「きけわだつみのこえ記念館」新設に向けて尽力し、岩波の新版の遺稿集の修正すべき個所を詳細に明示し、岩波とわだつみ会事務局に要望する。が、事務局には容れられず、2004年には排除される経緯は以下に詳しい。会に深くかかわった者からの貴重な証言である。

岡田裕之「日本戦没学生の思想~『新版・きけわだつみのこえ』の致命的な欠陥について」(上)(下)(『法政大学大原社会問題研究所雑誌』578・579号 2007年1月・2月)
file:///C:/Users/Owner/Downloads/578okada%20(1).pdf
http://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/579-03.pdf

 また、つぎの今西一によるインタビュー文献の最後尾第Ⅵ章「わだつみ会:運動史の断絶と継続」でも、その経緯が語られている。

占領下東大の学生運動と「わだつみ会」~岡田裕之氏に聞く⑴⑵
『商学討究』60巻2・3号~4号 2009年12月~2010年3月 
https://core.ac.uk/download/pdf/59174355.pdf
file:///C:/Users/Owner/Downloads/ER60(4)_1-45.pdf   
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

 1994年4月、副理事長の高橋武智が理事長に就任して、山下肇事務局長のもとスタートし、1995年に『新版・きけわだつみのこえ」(岩波書店)を出版したが、中村らの「わだつみ遺族の会」は、その新版には、誤りが多く、改ざんがあるとして、わだつみ会・岩波書店を訴えたが、1999年の第8刷によって修正されとして、訴えは取り下げられている。
 その後の動きは、「きけわだつみのこえ記念館」のホームページや『記念館たより』で知ることができる。
 2005年8月、わだつみ会は特定非営利法人わだつみ記念館基金となり、永野仁理事長、山下肇が初代館長でスタートした。毎年、12月の不戦の集い、各種の展示会や講演会、朗読会、関連映画の上映などのイベント、記念館見学者のガイド、資料集出版と地道な活動を続けているように見受けられる。2008年山下が急逝すると、永野仁理事長、高橋武智館長の時代が続く。2014年以降は、岡安茂祏理事長、渡辺総子館長を経て、 2019年には渡辺総子理事長が理事長になると、上記の岡田裕之が副理事長になり、2022年からは、岡田裕之が館長に就任している。

 前述のインタビューで、岡田は、有田芳生が資料の閲覧に出かけたときの記念館執行部、渡辺総子事務局長、永野仁理事長、岡安茂祏副理事長時代の対応を紹介、批判しているが、従来からの執行部への批判、対立は解消したのだろうか。実務は学芸員や司書たちが進めているとは思うが、理事長が87歳、館長が1928年生まれなので90代半ばである。政党の介入のない、少しでも若い人によって担われ、大事な資料の保存と利用が進められることを期待したい。 

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読売新聞(2023年8月13日「家族への悲痛な思い永遠に…戦没学生の手紙や日記「わだつみのこえ」1800点をデジタル化」渡辺総子理事長(右)と岡田裕之館長(左)

 

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2023年8月19日 (土)

NHKの8月<終戦特集>散見(2)「アナウンサーたちの戦争」と「雨の神宮外苑―学徒出陣56年目の証言」

「雨の神宮外苑~学徒出陣56年目の証言」(2000年)

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   サブタイトルに「56年目の証言」とあるように、2000年8月の放映であった。雨の神宮外苑の学徒出陣のシーンは断片的には見ていたが、番組は、今回初めてである。新しく見つけたフィルムは15分で、それまでのニュース映像の約3倍ほどもあったという。行進中の学生のクローズアップや観客席に動員されていた学生、女子学生に、陸軍戸山学校の軍楽隊の様子まで撮影されていた。学生の表情からは、悲壮な覚悟が伺われ、ぎっしり埋まった観客席の俯瞰は、北朝鮮のイベント映像を見るようであった。

 1943年10月21日、文部省主催の「出陣学徒壮行会」に参加した。学生は、77校から2万5000人といわれ、5万人の観衆が動員され、多くの制服の女子学生たちも観客席から声援を送った。番組に登場する証言者の十人近くみなが70代後半で、見送った側の3人の女性は、70代前半だった。

 証言するほとんどの人が、あたらしいフィルムを見て、あらためてマイクの前で、当時の自分の気持ちと現在の思いをどう表現したらいいのかを戸惑いながら、語る言葉の一つ一つが、重苦しく思えるのだった。生きては帰れないという怖れ、時代の流れには抗することができない諦め、地獄のような戦場の惨状・・・複雑な思いが交錯しているかのようだった。

 また、同盟通信社の記者だった人は、東条英機首相が、学徒出陣に踏み切った理由として、二つの理由を挙げていた。一つは、学生への兵役猶予の見直しの必要性であったし、一つは、当時は大学生といえばエリートで、富裕層の子弟にも兵役についてもらうことによって、下層家庭からの不満を解消し「上下一体」となることであったという。

 ただ、多くの証言の中で、この番組でもっとも言いたかったことは何だったのだろう。私には疑問だった。証言者の中で、語る頻度が一番多く、番組の大きな底流をなすように編集されていた、志垣民郎という人の証言だった。彼はよどみなく、戦争は始まってしまったのだから、国民の一人として国に協力するのは当然なことで、大学でも、自分たちだけ勉強していていいのかの思いは強く、戦争に反対したり、逃げたりする者はいなかった・・・と語るのだった。この人、戦後は、どこかの経営者にでもなった人かな、の雰囲気を持つ人であった。どこかで聞いたことのあるような名前・・・。番組終了後、調べてみてびっくりする。復員後、文部省に入り、吉田茂内閣時の1952年、なんと総理大臣官房内閣調査室(現内閣情報調査室)を立ち上げたメンバーの一人だったのである。1978年退官まで、内調一筋で、警備会社アルソックの会長を務めた人でもある。2020年5月97歳で亡くなるが、その前年『内閣調査室秘録―戦後思想を動かした男』(志垣民郎著 岸俊光編 文春新書 )を出版、敗戦後は左翼知識人批判に始まり、学者・研究者を委託研究の名のもとに左翼化を阻止したという始終を描く生々しい記録である。番組での発言にも合点がいったのである。

もうひとり、作家の杉本苑子も出演していて、動員されて参加したのだったが、学生が入場するゲイト附近で、なだれを打って声援をした思い出を語っていた。当時は許される振る舞いではなかったものの、気持ちが高ぶっての行動だったが、学徒へのはなむけにはなったと思いますよ、といささか興奮気味で話していた。が、彼女を登場させたことの意図が不明なままであった。

 そして、エンドロールを見て、また驚くのだが、制作には永田浩三、長井暁の両氏がかかわっていた。二人は、2001年1月29日から4回放映されたETV特集「戦争をどう裁くか」の「問われる戦時性暴力」への露骨な政治介入の矢面に立つことになる。さらに、その後の二人の歩み、そして現在を思うと複雑な思いがよぎるのだった。

  8月も半ばを過ぎた。その他『玉砕』(2010年)、『届かなかった手紙』(2018 年)などの旧作も見た。今年も<昭和天皇もの>が一本あったが、まだ見ていない。平和への願いを、次代に引き継ぐことは大切だ。でも、過去を振り返り、そこにさまざまな悲劇や苦悩を掘り起こし、悔恨、反省があったとしても、現在の状況の中で、いまの自分たちがなすべき方向性が示されなければ、8月15日の天皇や首相の言葉のように、むなしいではないか。表現の自由がともかく保障されている中で、NHKは、ほんとうに伝えるべき事実を伝えているのか。他のメディアにも言えることなのだが。近々では、統一教会然り、ジャニーズ然り・・・。

 

 

 

 

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