2026年5月 3日 (日)

「昭和100年記念式典」、まるで昭和歌謡ショー?ではなかったか

   腹立たしいのを通り越して、あきれて、ばかばかしくもなるが、やはり、書き留めておかねばと思う。テレビのニュースや翌日の新聞記事からは全貌が見えにくい。4月29日、さすがに、テレビ局の中継はなかったが、YouTubeで閲覧した。首相の挨拶は、官邸のホームページで確認した。注1

注1)昭和100年記念式典配信ページ 
https://youtube.com/live/JeNNacZ08e4

首相挨拶(首相官邸)
https://www.kantei.go.jp/jp/105/actions/202604/29showa100shikiten.html

  入場が済んで静まり返った武道館、あちこちに空席も目立つ。読売新聞によれば参列者約5600人の由。司会進行は、元NHKアナウンサーの青山祐子、着席からだいぶ時間が経過していたらしい。式典の進行について、天皇夫妻の入退場の際の起立・着席などについての説明から始まった。それから、天皇夫妻入場までの「しばらくお待ちください」と、7・8分前後の沈黙の時間が経過、天皇夫妻入場、木原官房長官の開会、国歌斉唱の後、首相の式辞7・8分、三権の長の挨拶が併せて10分ほどか。そして、その後の30分間がなんと、下のような流れで、海上自衛隊東京音楽隊の伴奏による男女隊員の歌唱だったのである。最初は誰が歌っているのかわからなかったが、最後に、指揮者と歌い手の名前が発表されていた(植田哲生二等海佐、三宅由佳莉二等海曹、橋本晃作二等海曹)。6曲の選曲は、首相なのか、イベント会社なのか不明だが、いずれにしても、懐メロの昭和戦後版といてもいい。自衛隊員に熱唱されても、時代の雰囲気は伝わらないだろう。官邸の動画では端折られていたが、天皇夫妻が退場してからも長い間、沈黙の着席の時間が長かった。

Photo_20260503002601
「産経新聞」2026年4月29日、より

 以上のような流れだったのだが、私は、つぎのいくつかの点に大いなる疑問を持たざるを得なかった。

1.「昭和100年」という区切り方にどんな意味があるのか。

この式典については、超党派議員連盟の麻生太郎会長(自民党副総裁)が2024年、当時の岸田文雄首相に要請し、政府は「『昭和100年』関連施策推進室」を設置し、昨年11月に閣議決定している。注2
 注2内閣官房「昭和100年」関連施策推進室による「「昭和100年」関連施策について」https://www.soumu.go.jp/main_content/000990655.pdf

  式典の主旨として、「<昭和100年>を契機に昭和を顧み、先人の躍動に学び、昭和の記憶を共有すること」をうたっているが、ここには、日中戦争、太平洋戦争への反省が捨象されている。この点については以下の過去記事をご覧いただければと思う。注3
注3)4月29日は祝日だった~「昭和の日」はどのようにして決まったのか。(2025年5月 2日 )
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2025/05/post-e63d11.html

 2.高市首相の「式辞」って何だったのか。

その内容に、大いなる疑問が生じたのだ。今回の言葉を聞いていて、「?」、どこかで聞いたような言い回しと思ったのが、ふりかえれば、首相の年頭所感だったのである。まさに、焼き直し、コピペに近い。注4
注4)高市首相年頭所感
https://www.kantei.go.jp/jp/104/statement/2026/0101nentou.html


式辞:昭和は、戦争、終戦、復興、高度経済成長といった、未曽有(みぞう)の変革を経験した時代でした。
年頭:昭和は、戦争、終戦、復興、高度経済成長といった、未曽有(みぞう)の変革を経験した時代です。


式辞:令和の現在、日本と世界は大きな変化を迎えています。日本においては、静かな有事とも言うべき少子化・人口減少の進行、長期にわたるデフレから一転しての物価高、潜在成長率の低迷、戦後最も厳しく複雑な安全保障環境。そして、世界を見渡せば、国家間の競争が激化・複雑化・常態化し、私たちが慣れ親しんできた自由で開かれた安定的な国際秩序は大きく揺らぎ、政治・経済の不確実性が高まっています。
年頭:令和の現在も、日本と世界は大きな変化を迎えています。 日本においては、静かな有事とも言うべき人口減少や、長期にわたるデフレから一転して国民の皆様が直面されている物価高、戦後最も厳しく複雑な安全保障環境。そして、世界を見渡せば、我々が慣れ親しんできた自由で開かれた国際秩序は揺らぎ、覇権主義的な動きが強まるとともに、政治・経済の不確実性が高まっています。


式辞:今年初めて投票してくださった18歳の若者も、生まれたばかりの赤ちゃんも、その多くが、22世紀を迎えることができるでしょう。その時に、日本が安全で豊かであるように。『インド太平洋の輝く灯台』として、自由と民主主義の国として、世界から頼りにされる日本であるように。若者たちが、日本に生まれたことに誇りを感じ、『未来は明るい』と自信を持って言える。そうした国を創り上げていく。『日本列島を、強く豊かに。』日本に希望を生み出していくことを、改めてここに決意いたします。
年頭:今年初めて投票する十八歳の若者も、生まれたばかりの赤ちゃんも、次の時代を担っていかれる方々です。彼らに、日本の未来を信じてほしい。「希望」を抱いてほしい。今の時代をお預かりしている私達には、「日本列島を、強く豊かに」して、次世代に贈る責任があると考えています。

 「日本列島を、強く豊かに」は、先の衆議院選挙の自由民主党のキャチフレーズであり、総裁メッセージであったのである。また、ちなみに、「年頭所感」と4月29日「式辞」の間にあたる2月20日「施政方針演説」にもつぎのような一節がある。注5

「「挑戦しない国」に、「未来」はありません。「守るだけの政治」に、希望は生まれません。「希望ある未来」は、待っていてもやって来ない。誰かがつくってくれるものでもない。私たち自身が、決断し、行動し、つくり上げていくものです。」
注5)第221回国会における高市内閣総理大臣施政方針演説(令和8年2月20日閣議決定)https://www.kantei.go.jp/jp/105/statement/2026/0220shiseihoshin.html

  さらに、4月12日の自民党大会での首相の挨拶にはつぎのようなくだりもあった。注6
「今年初めて投票して下さった18歳の若者も、生まれたばかりの赤ちゃんも、その多くが、22世紀を迎えることができるでしょう。その時に、日本が安全で豊かでありますように。「インド太平洋の輝く灯台」として、自由と民主主義の国として、世界から頼りにされる日本でありますように。そのために、日本の「成長のスイッチ」を押しまくり、日本の可能性を解き放ちましょう。「日本列島を、強く豊かに。」 挑戦しない国に「未来」はありません。守るだけの政治に「希望」は生まれません」
 注6)第93回党大会 高市早苗総裁演説(全文)
https://www.jimin.jp/news/press/212972.html

 「インド太平洋の輝く灯台」という唐突なフレーズは、2月8日の衆院選挙で圧勝した直後の2月18日に出された「大臣指示書」に登場する。前年のそれを大幅に変更して、内閣全体の基本方針に「日本列島を、強く豊かに」「インド太平洋の輝く灯台」を加えたというのだ。

 以上見てきたように、中身を伴わない、強い口調の同じキャッチフレーズが何回でも使われていることがわかる。身近で聞く議員たち、ひいては有権者、国民も、なめられたものである。野党は細って内輪もめばかりで、きちんと質すことをしない。NHKはじめメディアも気づきながら、毎回、適当に概略しか報じない。つまらない、些細なことなのだろうか。

 そして、この間、高市政権は、すでに、閣議で殺傷能力のある武器輸出を解禁することにした。また、インテリジェンス機能を強化するとして「国家情報局設置法案」は、野党も巻き込んで、4月23日衆院で可決させ、連休明けには参院での審議が始まる。
「昭和100年記念式典」は式典と称して、なんと、自民党、高市内閣、高市首相の広報、パフォーマンスの場であったのである。

3.天皇の臨席は何のためだったのか。

 天皇夫妻は、式典の半分以上、30分以上にわたって、昭和の歌謡曲6曲を披露されるとは思わなかっただろう。どことなく戸惑っている表情も伺われた。式典を権威づけ、重々しい雰囲気を醸成するなかで、首相のメッセージを際立てるために利用したことが明確になったのではないか。天皇としては、政治的活動の一端を担わされ、違憲の疑いさえ生じる。加えて、天皇を壇上に迎え、日頃の言動を牽制するような内容の「式辞」ではなかったか。

4.重光葵の短歌の登場、なぜ短歌を持ち出すのか。

  首相の「年頭所感」の冒頭では、昭和天皇のつぎの一首を引用して、以下のように述べている。 
「『山やまの 色はあらたに みゆれとも 我(わが)まつりこと いかにかあるらむ』御即位後初の歌会始での昭和天皇の御製です。昭和は、戦争、終戦、復興、高度経済成長といった、未曽有(みぞう)の変革を経験した時代です。まるで昭和が激動の時代となることを見通していたかのように、移り変わっていく山々の色を詠まれています。」

 昭和天皇の短歌は、1928年(昭和3年)、歌会始の題「山色新」のもと詠み、公表された一首である。首相は、どこから引用したのか、宮内庁侍従職が編纂した昭和天皇の歌集『おほうなはら』(読売新聞社 1992年)の表記とは、漢字や濁点などの表記が異なる。1928年といえば、2月に第1回普通選挙が実施されたが、大陸政策を強行するなか、関東軍による張作霖爆殺事件が起こり、内務省に特別高等警察が新設され、思想弾圧の強化が始まった年でもあった。「まつりこといかにかあるらむ」を首相は自分事のように読んだのかもしれない。となると。

 今回の式典の「式辞」では、重光葵の辞世とも言われる一首を引いて、つぎのように述べた。
「『霧は晴れ 国連の塔は 輝きて 高くかかげし 日の丸の旗』、同じ年(1956年)、日本は国連に加盟します。重光葵(まもる)外務大臣は、ニューヨークで高らかに詠い上げています。国際社会への復帰は、日本の悲願でした。」

  重光の短歌をあげて、国連復帰の功績をたたえるというより、「日の丸の旗」を強調したかったのではないか。式典の中で「国歌斉唱」の前に、司会者は、ことさらに参列者に「国旗」への注目を促していた。これって「国旗損壊罪」を新設したい首相の「悲願」の伏線?にも思わるのだった。昭和に学ぶといっても、たとえば、国連復帰を称える前に、1933年、なぜ国際連盟を脱退するに至り、日本は世界から孤立していったのか、を学ぶ方が有効だし、先だと思う。

「昭和100年記念式典」は式典と称して、なんと、自民党、高市内閣、高市首相の広報、パフォーマンスの場であったのである。肝心なところから目を反らされるようなことばかりが続く。

「戦争の足音」が近づき、抗議デモへの参加者や集会は、各地で確実に増えているが、メディアは、なぜか伝えようとしない。事件や災害報道、スポーツや皇室報道には熱心だし、物価高やホルムズ海峡封鎖による業界や暮らしへの影響、株価の乱高下などは盛んに報道されるが、その拠って来たるところには分け入らない。そして、その分、いま国会でどんな審議が行われているか、何が論点なのか、などの報道量は、確実に細っている。上記で触れなかった「国論を二分する」と豪語する高市政権の公約は、以下のように目白押しなのである。

スパイ防止法、非核三原則を見直し、憲法9条改正、緊急事態条項新設、防衛力強化、皇室典範改正、旧姓使用法制化、外国人政策の厳格強化・・・。

20264

202652

I3mg_3371

池の端の一本の梅、長い間花を楽しんだと思ったら、もう大きな実をつけていた。子どもの日を前にいつのまに賑やかになったコイたち。親たち3匹は、屋根のついた避難所でお昼寝中だったが、餌をやり始めると、がぜん動き出した。(5月2日)

 

 

 

| | コメント (1)

2026年4月23日 (木)

「もう、時代は変わった」のか~殺傷能力のある武器の輸出が解禁された!

 落ちぶれて武器ありますの暖簾(のれん)出す
 (大阪府 小倉三歩 朝日川柳 朝日新聞 2026422日)

 これは、1976年5月の衆議院外務委員会で、永末英一委員(民社党)の「一体わが国として兵器貿易というものをどう見るのか」の質問に、宮澤喜一外務大臣の答弁「何がしかの外貨の黒字がかせげるといたしましても、わが国は兵器の輸出をして金をかせぐほど落ちぶれてはいないといいますか、もう少し高い理想を持った国として今後も続けていくべきなのであろう。」を踏まえての作ではないか。注1

注1)衆議院外務委員会8号1976年5月14日https://kokkai.ndl.go.jp/txt/107703968X00819760514
同上委員会における宮澤喜一外務大臣の答弁https://kokkai.ndl.go.jp/txt/107703968X00819760514/46

 4月22日の朝刊はいっせいに一面で、4月21日、午前中の閣議と持ち回りの9大臣による国家安全保障会議(NSC)で、「防衛装備移転三原則」「防衛装備移転三原則の運用方針」を改訂したことを報じている。今回の改訂により、これまで輸出できる装備品を「救難・輸送・警戒・監視・掃海」の5類型に限っていたものを殺傷能力のある武器の輸出が解禁されるのである。こんな大事なことを、閣議決定と、しかも持ち回りのNSCで決まって行くのだと思うと、やはり、おそろしい思いが先に立つ。「落ちぶれた」というより「壊れた」という衝撃であった。注2

注2)「防衛装備移転三原則」について(内閣官房)https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/bouei.html

 そんな状況の中で、1976年の宮澤外務大臣の答弁が、あらためて、各所で引用され始めた。たとえば、日本共産党は、今般の衆議院選挙における政策として「武器輸出」について、「1976年に当時の三木政権が表明した「武器輸出三原則」は、「国際紛争を助長しない」という「平和国家」としての理念にもとづき事実上武器輸出を全面禁止し、1981年には衆参両院本会議が同三原則の厳格な運用を求める決議を全会一致で可決しました。自民党政府のもとでも、これが日本の基本方針でした。」に続いて、宮澤の答弁を引用している。

 3月17日の参議院予算委員会で、西田実仁(公明党)委員は、宮澤の答弁を引用して「平和よりも一時的な経済利益を貪欲に追求する国であってよいのか」質問しているが「もう時代が変わった」と高市総理が答えている。

「東京新聞」も「かつて武器輸出を「全面禁止」した日本が、高市政権で「解禁」するまでの50年を振り返る」題し、「三木武夫内閣が1976年に事実上の全面禁輸に踏み切ってから半世紀。政府は段階的に緩和してきた武器輸出を解禁した」との方針転換を、1976年の宮澤答弁に対する高市総理は「もう時代が変わった」と正当化した、と報じた(2026年4月21日)。

 そもそも、武器輸出三原則は、1967年4月の佐藤栄作内閣による武器輸出禁止規定に由来する。共産圏諸国、国連決議により武器等の輸出が禁止されている国、国際紛争の当事国又はそのおそれのある国向けへの武器輸出を禁止することを内容とするもので、衆議院決算委員会において、華山親義(日本社会党)からの質問に対する答弁だったのである。注3

注3)衆議院決算委員会(1967年4月21日、佐藤栄作総理大臣の答弁)https://kokkai.ndl.go.jp/txt/105504103X00519670421/129

ともかく、自民党政権において、まがりなりにも受け継がれてきた「武器輸出三原則」は、「武器輸出」を「防衛装備移転」と言い替えて、2014年安倍晋三内閣によって大きく変質したのである。その後の経過は以下の表によくまとめられている。

Photo_20260423232101
殺傷能力ある武器の輸出可能に、政府が装備移転三原則の運用指針見直し(Reuters2026年4月21日)より

 今回改訂の「防衛装備移転三原則」について、高市首相は4月21日の記者会見で、武器輸出が全面的に解禁されることへの懸念を問われて、「安全保障環境の厳しさが増し、自国だけでは平和と安全を守ることができなくなった。防衛装備面でもお互いを支え合うパートナーが必要で、そのパートナーからの防衛装備品への期待も大きい」「ニーズに応えた防衛装備移転はパートナー国の防衛力向上、紛争発生を未然に防ぐ」ことにつながるという主旨の答弁がなされた。

 しかし、先に示した今回改訂の「三原則」の全文を読むと「防衛装備の海外への移転は、 特にインド太平洋地域における平和と安定のために、力による一方的な現状変更を抑止して、我が国にとって望ましい安全保障環境の創出」し、また「防衛装備の適切な海外移転は、いわば防衛力そのものと位置付けられる我が国の防衛生産・技術基盤の維持・強化、ひいては我が国の防衛力の向上に資する」ものであるとしている。さらに「継戦能力確保の重要性が増す中にあって、防衛装備移転の推進により、共通の装備品を運用する同志国等を増やし、強固な防衛産業を保持し、拡大することは、有事に必要な継戦能力を支える生産能力を国内で確保する上でも大きな意義」を強調している。

 会見での答弁では、「三原則」の内容の重大さは伝わらず、「東南アジアへの防衛装備品の輸出拡大、防衛産業の拡大」などには言及せず、スルーしている。近年の防衛費増額とともに、なりふり構わない「政府、(防衛装備品)売り込みに躍起」(毎日新聞 2026年4月22日)する姿には、「死の商人」という言葉がよぎる。私などは、「殺傷能力」「継戰能力」という言葉を聞くだけでも、自らの空襲体験、現在止むことのないロシアのウクライナ侵攻、アメリカのイラン爆撃、イスラエルとパレスチナ侵攻による死者と瓦礫の街を想起してしまう。

 さらに、軍備拡大による「抑止力」云々に至っては、日本におけるアメリカの基地の存在自体が、紛争のリスクや攻撃の標的になり得ることは、イランの周辺国のアメリカ基地爆撃を見ても明らかではないのか。3月13日のウオール・ストリート・ジャーナルの報道として、すでに中東には「米海軍第7艦隊に所属し、佐世保基地(長崎県)に配備されている強襲揚陸艦「トリポリ」と、キャンプ・ハンセン(沖縄県)の第31海兵遠征部隊」が派遣されているという(読売新聞 2026年3月14日)。

 「三原則」の閣議決定当日の4月21日の「NHKテレビニュース7」では、北海道・三陸沖地震、大分県陸上自衛隊基地での3人の死者を出した事故、アメリカ・イランの停戦協議とホルムス海峡封鎖の現況のつぎに、この「三原則」改訂の報道がなされた。そのねらいとして、①同盟国・同志国との防衛強化 ②防衛産業の育成と基盤強化 の二点をあげ、歯止め策を強調していた。これって政府広報では、の印象が強かった。

Photo_20260423234601

Photo_20260423235201

Img_3335

 

<参考>
●「武器輸出禁止三原則等」(外務省ホームページ)https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/arms/mine/sanngen.html

1.武器輸出三原則(1967.4.21) 
武器輸出三原則とは、次の三つの場合には武器輸出を認めないという政策をいう。
(1)共産圏諸国向けの場合
(2)国連決議により武器等の輸出が禁止されている国向けの場合
(3)国際紛争の当事国又はそのおそれのある国向けの場合
[佐藤総理(当時)が衆院決算委(1967.4.21)における答弁で表明]
2. 武器輸出に関する政府統一見解(1976.2.27)
 「武器」の輸出については、平和国家としての我が国の立場から、それによって国際紛争等を助長することを回避するため、政府としては、従来から慎重に対処しており、今後とも、次の方針により処理するものとし、その輸出を促進することはしない。
(1)三原則対象地域については「武器」の輸出を認めない。
(2)三原則対象地域以外の地域については、憲法及び外国為替及び外国貿易管理法の精神にのっとり、「武器」の輸出を慎むものとする。
(3)武器製造関連設備の輸出については、「武器」に準じて取り扱うものとする。
[三木総理(当時)が衆院予算委(1976.2.27)における答弁において「武器輸出に関する政府統一見解」として表明]
(注)わが国の武器輸出政策として引用する場合、通常、「武器輸出三原則」(上記1.)と「武器輸出に関する政府統一見解」(上記2.)を総称して「武器輸出三原則等」と呼ぶことが多い。

●防衛装備移転三原則(201441日閣議決定)(内閣官房ホームページ)
https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/pdf/bouei1.pdf
 以下の項目に当てはまる場合には防衛装備の海外移転を認めない
①当該移転が我が国の締結した条約その他の国際約束に基づく義務に違反する場合
②当該移転が国連安保理の決議に基づく義務に違反する場合
③紛争当事国への移転となる場合

●武器輸出禁止三原則(1967421日衆議院決算委員会答弁)(国会会議録検索システム)https://kokkai.ndl.go.jp/txt/105504103X00519670421/129
佐藤内閣総理大臣 いま申しますように、防衛のために、また自国の自衛力整備のために使われるものならば差しつかえないのではないか、かように私は申しておるのであります。輸出貿易管理令で特に制限をして、こういう場合は送ってはならぬという場合があります。それはいま申し上げましたように、戦争をしている国、あるいはまた共産国向けの場合、あるいは国連決議により武器等の輸出の禁止がされている国向けの場合、それとただいま国際紛争中の当事国またはそのおそれのある国向け、こういうのは輸出してはならない。こういうことになっております。これは厳に慎んでそのとおりやるつもりであります。

 

| | コメント (0)

2026年3月30日 (月)

しょうけい館、昭和館を訪ねて(2)昭和館

 前日、北の丸公園を突切って田安門を出た折、右手に、九段会館と並んで銀色の瀟洒なビルが並んでいたのが、昭和館だった。今日は、昭和館の前も卒業式の晴れ着の女子学生たちが目立つ。

Photo_20260330234001
田安門から昭和館を望む。

Photo_20260330233901_20260410212701
昭和館前にも、卒業生たちが。

 昭和館にはシルバー料金の360円で入場、しょうけい館もそうだったが、出会う入館者がほとんどいなかったことは、やはり寂しい。
 ここでは、紙の資料ばかりでなく、実物の道具や機器、衣服などの展示、体験コーナーなど、博物館的な要素が大きい点が特徴なのだろう。
 壁面一杯の「学びの庭の壮行式」(1937年11月)は、土門拳により泰明小学校で撮影されたものだが、まず目に飛び込んでくる。朝礼台にはタスキをかけた六人の若者が緊張した面持ちで直立している。「学びの庭の・・・」の題は、土門が命名したものか。また、石川光陽「空襲下の東京」(1945年1月)、菊池俊吉「銀座四丁目付近」(1945年11月)の壁から迫る画像は、現在も、世界の各所から報じられている空爆による瓦礫の街を想起させる。
 この間、1937年7月、日中戦争が始まり、1941年12月太平洋戦争が始まり、1945年8月敗戦を迎える。これらの写真を背景にしての展示のなかで、目を引くのは、たとえば、1933年尋常小学校1年生が初めて手にする読本は「サイタ サイタ サクラガ サイタ」であり、1941年国民学校1年生が手にするのは「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」に変っている。1939年の7月には、グリコのおまけに「軍歌集」が付くのである。1940年6月、NHKラジオから「隣組(岡本一平作詞、飯田信夫作詞、国民歌謡65集収録)の歌が流れ始める。1940年2月、愛国婦人会・大日本国防婦人会・大日本連合婦人会は解散、統合して大日本婦人会が発足している。1942年10月号の『文藝』に発表した太宰治の「花火」が全面削除処分を受けている・・・。ケース内に展示された、そんな資料を一点、一点、気ままに見ていくだけでも、かなりの時間がかかりそうである。

 併設の図書室もゆっくり見たいところだが、カウンターにあったブックリストはテーマ別に9枚のリーフレットになっていて、表紙画像入りで、15冊ほどが紹介されていた。私がすでに読んだことがある本、家に持っている本、手離した本などが散見できるが、読んでみたい本も多く、帰りの電車では、退屈せずに眺めていた。

20260329_20260330234101

20260329_20260330234102

リーフレット表紙の写真がいずれも「米国国立公文書館」提供のものであった。日本では戦時下、占領期の写真や資料を残すという営為に欠けていたのだろうか。敗戦直後、官庁街では、資料を焼却する光景が見られたという。2015年10月、茨城県阿見町の「予科練平和記念館」を訪ねた折、練習生と起居を共にして撮影した土門拳のほとんどの作品が、不明で、自ら焼却したのではないかという記述に衝撃を受けたことがある。

今回の昭和館行きには、もう一つの目的があった。特別展示「昭和映画録~二度の黄金時代」であった。こちらは、無料で見られるだけあって、入場者はちらほら見かけた。しかし、その内容は、ポスター展のようでもあって、少し期待外れであった。1930年代、無声映画からトーキー映画となった時代と戦時下とGHQ占領期の統制時代を経て迎えた、1950年代の全盛時代を「黄金時代」と捉えている。戦意高揚の国策映画、占領政策の一環としての映画はトピックスとしての扱いであって、その時代を通して、時代に即して活躍した映画人たちへの評価が見えてこなかった。

 20260329_20260330234001

 

 総じて、厚生労働省社会・援護局所管の国立の施設で、1999年開館以来日本遺族会が受託、運営しているという性格上の限界なのか、残念なことではあった。

【参考】 
昭和館常設展示室紹介動画①②
https://www.youtube.com/watch?v=AU0jjju3hTc

https://www.youtube.com/watch?v=t8T8P-ta60M

==============================

Photo_20260331105801
旧堀田邸・さくら庭園に向かう桜並木、昨日から今日にかけて一気に咲きそろった。3月30日撮影。

 

| | コメント (0)

2026年3月29日 (日)

しょうけい館、昭和館を訪ねて(1)しょうけい館

  3月24日、かねてより訪ねたいと思っていた「しょうけい館(戦傷病者史料館)」に出かけた。できれば近くの「昭和館」にも寄りたいと思った。竹橋の宿を早めに出て、九段下で下車、駅構内は、かなりの混雑で、ロボットが回って交通整理をしていた。「法政大学」の腕章をつけた人たちが要所要所に並ぶ。武道館での卒業式か。私たちは目白通りに面したしょうけい館に向かったが、10時に開館とのこと、少々の時間、近くを回ることにした。地図にある築土神社は十字路の広い坂を上ったところにあった。参道の上に高層ビルがかぶさっているような具合、靖国通りから階段を上って鳥居をくぐってゆく通勤の人たちにも出会う、近道なのだろう。

Photo_20260329222101
築土神社ホームページより、一部加工。

 道路を渡ったところの標識には「中坂」とあった。その一帯は和洋学園で、「硯友社文庫」との看板もあるので、守衛さんに聞いてみると、土曜のみの開館とか。坂を上り切ると暁星学園である。今度は、目白通りに戻る坂を下ると「冬青木坂(もちのきざか)」の標識があって、正面には、しょうけい館があるビル、1階がローソン、2・3階の窓には「しょうけい館」の文字が見える。左手は、フィリピン大使館の高い石塀が続く。

 しょうけい館は、厚生労働省が戦傷病者の援護施策として戦傷病者らの戦中・戦後の労苦を伝える施設として、2006年3月に開設された。日本傷痍軍人会が運営にあたっていたが、201311月傷痍軍人会解散に伴い、民間委託に移行、イベント・展示などをプロデュースている「株式会社ムラヤマ」が運営している。常設展には、おおよそつぎのようなコーナーが設けられていた。知らなかったことも多く、忸怩たる思いもする。生家に近い池袋駅界隈には多くの白衣の傷痍軍人の人たちが募金箱を前に立っていた。ニセの人たちが多いと、大人たちの声を聞いて育ったことにも拠るのかもしれない。

①戦地に向けて ②戦地での受難、治療 ③搬送、戦時下での療養  ④家族とともに ⑤心の傷による労苦 

私がとくに印象深かった展示の一部を挙げるならば、

②では、暗いフロアに等身大の人形により野戦病院が再現され、そのリアルさに驚いた。ガイドブックの解説にあるように、「戦争末期の病院は、名ばかりのものだった」ことをうかがい知ることができる。

20260329_20260329223201
ガイドブック7頁より戦地や野戦病院で包帯がなく、日章旗や褌などが代わりにまかれたという。

③では、横浜の山下公園に係留されている、かつて日本郵船の北米航路の客船だった「氷川丸」が、1941年11月、海軍に徴用されて病院船となったことを知った。南洋諸島、太平洋諸島の戦地から戦傷病兵を内地へと送る役目だったが、幾たびもの爆撃を受け、薬品や医療用品の不足から船上で亡くなる兵士も多かったことがわかる。また、戦地でハンセン病と診断された兵士の手記によれば、診断後は、医師・看護婦・兵士たちの態度が一変し、治療も生活も劣悪なものになったと綴られていた。オーストラリアの収容所から岡山邑久光明園を経て多摩全生園に転じた戦後もさまざまな差別に苦しんでいたことがわかる。昨年の夏、しょうけい館の企画展「戦後80年・戦争とハンセン病」は残念ながら見逃してしまっていた。

20260328

ガイドブック9頁の一部。3枚のスケッチの右端、負傷兵は通常トラックで病院で運ばれるが、象で運ばれた戦地もあったことがわかる。

⑤は、新しく加わった常設展示ということで、簡単な4枚ほどのパネルで構成されていた。私は、タッチパネルにあった「国府台陸軍病院における精神・神経疾患一覧(1937年12月1日~1945年11月30日)」の資料で、1万449人の患者のうち、頭部外傷・癩癇1086人10.4%、精神分裂症4384人41.9%、ヒステリー1199人11.5%・・・という数字に出会った。これはほんの氷山の一角に過ぎないのだろう。

 というのも、近頃でこそ、戦後80年前後に至って、メディアは、いわゆる戦場体験者のPTSD(心的外傷後ストレス障害)について報道することも多くなったが、日本政府は、その実態を把握しようとせず、対策も手つかずであった。戦傷病者の遺族、家族から戦後の夫や父親たちのさまざまな症状や行動に苦しんだ体験や報告がなされるようになった。なかでも、2018年発足した黒井秋夫さんを代表とする「PTSDの日本兵家族会・寄り添う市民の会」の活動については、今回、調べていて初めて知ることも多かった。会の活動とともにメデイアによる報道、研究者からの発信と相俟って、厚労省への要請も重ねた結果、今回のしょうけい館の常設展示にもつながったという。さらなる詳細な展示を期待したい。

 ベトナム戦争やイラク戦争からのアメリカの帰還兵たちのPTSDについて、いささか知ることになっても、日本の復員兵たちのそれにまで及ばなかったことにいまさらながら反省するのだった。

[参照]
・「PTSDの日本兵家族会・寄り添う市民の会」ホームページ
https://www.ptsd-nihonhei.com/
・戦後タブーで研究進まず 戦病者67万人が精神・神経病との陸軍報告 これでも氷山の一角 トラウマ 埋もれた傷痕
産経新聞2025年8月8日
https://www.sankei.com/article/20250808-QYKXK2XETBKGHNEU6ZQA6TW2H4/
・未来に残す戦争の記憶心を壊した「熱血軍曹」の父 死後に知った戦争トラウマ、遺族の悔い
 

 企画展「戦傷病者と結核」にも、私には知らないことが多かった。父と長兄の二代続く薬屋に育った私は、ツベルクリン・BCG世代でもあり、結核の治療薬「ニッパス」や「ストレプトマイシン」の名を聞くと、当時の頃を思い出したりする。展示もさることながら、シアターでの証言映像には説得力があった。一時間に3本ほどのドキュメンタリーを上映していた。シベリヤ抑留後結核を発症した方、戦後も入退院を繰り返した方など仕事にもつけず、経済的にも精神的にも支え続けた妻たちの証言、農村の男社会での農作業に頑張った妻 、洋裁によって家計を支え切った妻たちの証言は重かった。

Photo_20260329225601

【参考】

・「しょうけい館」紹介動画
https://www.youtube.com/watch?v=AU0jjju3hTc

・木龍克己「しょうけい館について」(国立公文書館)
https://www.archives.go.jp/publication/archives/no65/6210

| | コメント (0)

2026年3月 9日 (月)

「女性の日」というけれど、高市首相と担当大臣のメッセージのむなしさ

 3月8日は「国際女性の日」で、高市首相のこの日にちなんだメッセージが公表された。記者会見でも同様の内容を話す映像を、NHK7時のニュースで見た。それを聴き、また首相官邸のHPで見て、「なに?それ!」という違和感を覚えた。というのは、とくに強調していたのが「女性の生涯にわたる健康支援」というものだった。具体的に何を支援するのか。「メッセージ」では、以下のような段落がある。

高市内閣は、性差に由来した健康課題への対応を加速すべく、診療領域を横断した対応策の整理や診療拠点の整備を進め、特に女性の生涯にわたる健康支援を強化します。女性に特有の健康課題の解決に向けて、職場や地域において理解を深める取組を全国に展開していきます」。

 これでも、何が言いたいのかよくわからないが、乳がんなどの検診促進、出産支援などが思い当たるが、どうなのか。 女性活躍・男女共同参画担当という黄川田仁志大臣もメッセージを出しているのを知って、のぞいてみると、どうでもいい挨拶に続いて、女性初の首相へのオマージュについで、以下のような段落があった。

「日本政府においては、希望する働き方を選択でき、その能力を十分に発揮できる社会の実現に向けた取組を進めてまいります。また、社会のあらゆる意思決定に女性が参画することを官民共通の目標として取り組んでまいります。」

 首相の「健康支援」とはつながらない、これまた大雑把な話であった。役人が書いた文章であったのだろう。

 そこで、「女性の生涯にわたる健康支援」なることばは、何を指すのか、これまでにもそんな発言があったのかを調べてみると、「男女共同参画白書」(令を和6年度版)に登場していた。それによれば、女性の共同参画拡大の施策を以下のように11分野に分け、その第7分野に該当するらしいことがわかった。

第1分野 政策・方針決定過程への女性の参画拡大
第2分野 雇用等における男女共同参画の推進と仕事と生活の調和
第3分野 地域における男女共同参画の推進
第4分野 科学技術・学術における男女共同参画の推進
第5分野 女性に対するあらゆる暴力の根絶
第6分野 男女共同参画の視点に立った貧困等生活上の困難に対する支援と多様性を尊重する環境の整備
第7分野 生涯を通じた健康支援
第8分野 防災・復興、環境問題における男女共同参画の推進
第9分野 男女共同参画の視点に立った各種制度等の整備
第10分野 教育・メディア等を通じた男女双方の意識改革、理解の促進
第11分野 男女共同参画に関する国際的な協調及び貢献

 「白書」だから、各省庁の横断的な課題なども総花的に記述が続くが、「第7分野 生涯を通じた健康支援」の内容は「妊娠・出産に対する支援」がほとんどで、それに「年代ごとにおける取組の推進」として「学童・思春期/成人期/更年期/老年期」に分けての課題が数行ほど示されていた。たしかに、女性の生涯において「妊娠・出産」は大事で、少子化対策の一環として、その支援も重要である。しかし、以下の分野においては、それぞれ、つぎのような大きな積み残された課題があることを忘れてはならない。

第1分野 政策・方針決定過程への女性の参画拡大
第2分野 雇用等における男女共同参画の推進と仕事と生活の調和

第5分野 女性に対するあらゆる暴力の根絶
第6分野 男女共同参画の視点に立った貧困等生活上の困難に対する支援と多様性を尊重する環境の整備

 あらゆる分野で、女性の意見が政策・方針過程に反映されないこと、非正規雇用のうちの7割が女性であること、職場や地域・家庭におけるパワハラやセクハラの横行、さまざまな業界における性加害の頻発、いくつかの要因が重なっての女性の貧困の問題こそが喫緊の課題で、政府は、すぐにでも、その一つでも真剣に取り組んでほしいのだが。

「皇位継承は男系男子」と言ってみたり、「選択的夫婦別姓」には反対で、旧姓併記いや単記とか言ってみたりの認識の首相には無理だろう。私たち高齢者、老年期にある者に、「攻めの予防医療」といいながら、医療費の実質的値上げ、OTC薬の保険外しをやってのけるのだから、絶望的でもある。

 ちなみに、女性活躍・男女共同参画担当という黄川田仁志大臣は、正式には、
「内閣府特命担当大臣」(沖縄及び北方対策、消費者及び食品安全、こども政策、少子化対策、若者活躍、男女共同参画、地方創生、アイヌ施策、共生・共助)、女性活躍担当、共生社会担当、地域未来戦略担当だそうである。これが務まるから不思議?

38

Photo_20260309005101
3月8日のミモザ、ハクモクレン、施設内に木々にも春が近い

| | コメント (1)

2026年2月 7日 (土)

選挙戦は始まったが~嘆いて、嘆いて、嘆いて・・・(5)スパイ防止法はどうなる。

 2025年10月20日のことになるが、自民党と維新の会との合意文書全文を一読することをお勧めしたい。あらためて読んでみると、実に、おそろしく、こわいことが書いてある。

自由民主党と日本維新の会の合意文書
https://storage2.jimin.jp/pdf/news/information/211626.pdf

 あす、2月8日の選挙では、自民党単独で過半数、維新を合わせるとその議席は「3分の2をうかがう勢い」だという調査もある(『毎日新聞』2026年2月6日)。となると、合意文書の大方が、その気さえ出せば、国会の議論を短縮して、各種の法律が成立してしまう可能性が高い。以下は、8頁ある文書の「インテリジェンス政策」と「エネルギー政策」の部分である。

20260206_20260207150601

 エネルギー政策では「原発推進」をうたうが、廃炉、使用済み核燃料の処理については何も語ることはない欺瞞性が露わである。
 インテリジェンス政策においては、「内閣情報調査室」を「国家情報局」に格上げし、国による「インテリジェンス(情報収集・分析などの情報活動)」を拡充する構えである。

 昨年11月には、参政党と国民民主党が「スパイ防止法案」を議会に提出している。いずれも具体性に乏しいだけに、どんな内容になるのか、国会での議論が尽くされるのか、不安が募る。昨年に提出された国民民主党と参政党の「スパイ防止法案」と今回発表された中道の政策は以下を見て欲しい。

国民民主党(2025年11月26日)
https://new-kokumin.jp/wp-content/uploads/2025/11/4969eb4a0762a37935114707329c942b.pdf

参政党「スパイ防止法案を提出(特定秘密保護法改正案も含む)」(2025年11月25日)
https://sanseito.jp/news/n6108/

中道改革連合「2026衆院選主要政策」
https://craj.jp/election2026/policies/

 これらを要領よくまとめた記事や図表などを探したが、見当たらなかった。自分で作成すべきだが今はとりあえず、東京新聞の以下の図表をお借りする。これは昨年の11月段階のものなので「中道改革連合」の政策が見当たらないが、中道改革連合「2026衆院選主要政策」の中の「インテリジェンス政策」には「横断的なインテリジェンス体制を強化します。」の一行しかない。人権・プライバシー侵害のリスクがある「スパイ防止法」制定を目指す勢力にどう向き合うのか、不安にもなる。

Ced6561d7ca23c913d8d15c913f12d2f_1

「急浮上した<スパイ防止法>制定 自民・維新は早期成立出合意 野党には賛否<監視社会>に拍車がかかる」(『東京新聞』2025年10月28日)より。

 ところで、必要があって、神奈川大学非文字資料研究センターの『国策紙芝居から見る日本の戦争』(「戦時下日本の大衆メディア」研究班編著 勉誠出版 2018年2月)を繰っていたら、つぎのような紙芝居「スパイ御用心」を見つけた。解説によれば、1941年12月20日公開、日本教育紙芝居協会によって東京市内の国民学校で巡回実演された作品という。日本が真珠湾攻撃をした12月8日直後の作品である。前年の40年11月10日には紀元2600年記念式典が国を挙げて行われ、12月6日には内閣情報部が「内閣情報局」に格上げされていた。この紙芝居には、以下のような背景があった。1941年に入ると3月7日には「国防保安法」が成立、太平洋戦争開戦の直前の10月15日はゾルゲ事件で尾崎秀実が逮捕され、10月18日には東条英機内閣が成立しているのである。

 紙芝居では、頁の左下の絵のように「宣伝に乗るな、謀略にかかるな、情報は漏らすな」と「少国民」に訴えているわけだ。現代の情報環境は大きく変化し、ネット社会での個人レベルの情報は、ほぼ全国民、全開にひとしいと思われるが、スパイ防止法では、さらに監視の対象となりかねない危惧がある。また、与党のみならず、一部野党からも声高に叫ばれている「外国人対策」とも相通ずるところがある。この紙芝居をわらって通り過ぎることができなくなったのである。

20260207

 

 

| | コメント (0)

2026年1月27日 (火)

選挙戦は始まったが~嘆いて、嘆いて、嘆いて・・・(1)元首相銃撃事件の奈良地裁判決

 嘆いて、嘆いて、嘆いて・・・、もういい加減にしてよ、の思いである。いったい日本はどこへ行くのだろうという嘆きは、やがて怒りへ。その怒りをぶつけあっているだけでは、何も変わらない

 とくに高市政権発足後、爆発的に増えてしまった、私の嘆きはどこまで続くのだろうか。まず、当面の私の思いを整理しておきたいと思った。 

  2026年1月21日、2022年7月安倍元首相銃撃事件の山上徹也被告に対して奈良地裁は、検察の求刑通り「無期懲役」の判決を言い渡した。旧統一教会信者である母親が多額の献金をしたことにより家庭が崩壊し、宗教二世としての苦しい生活を余儀なくされた生い立ちをまったく考慮しない判決であった。その理由として、計画性と悪質性がきわめて高く、不遇な生い立ちは犯行に大きく影響していないことをあげている。しかし、被告本人のみならず、母親と妹の証言によってさらに明確になった。旧統一教会への報復のため手製の銃を準備していたこと、長い間「霊感商法」としてまかり通っていた上、信者からは多額の献金を強いる犯罪集団まがいの「宗教団体」と政治家との癒着の中心的な、影響力のある人物として安倍元首相が浮上したことが裁判の過程で明らかになった。

 さらに、その過程で、多くの自民党議員とその宗教団体との密接な関係、選挙への支援活動、議員の宗教団体への行事の参加が日常的に行われていたことも、明らかになったのである。

  また、この銃撃事件を契機に、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)への批判を受け、文部科学省は、2023年10月13日解散命令を請求し、東京地裁は2025年3月25日、民法上の不法行為を根拠とした初の解散命令を決定している。東京高裁は審理を2025年11月に終結、「高裁が命令を維持すれば、最高裁に特別抗告するかどうかにかかわらず効力が生じ、清算手続きが始まる。任意団体として活動は続けられるが、礼拝施設など財産の処分が進められ、税制上の優遇措置も受けられなくなる。」(「旧統一教会、存立の瀬戸際に 解散命令、年度内にも高裁判断―安倍元首相銃撃」時事通信 2026年01月22日)という。

  上記のように、安倍元首相銃撃事件は、「宗教団体と政治、政治家との癒着」と「宗教団体としての存続」を質すという、社会的な影響をもたらしている。

  私と同い年の友人は、「彼には表彰状をあげたいくらい」と山上被告のことを言っていたが、昨年急逝してしまった。私は、今日の午後から、十数年ぶりに人間ドックを受けることになった。もう出かける時間である。(続く)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  もう何年前のことになるのだろうか、上の記事の友人が、山田昭次氏の出版記念会のような小さな集まりで、参加すると言っていた私への「お土産よ」といって、庭で咲いているというロウバイの幾枝かを持ってきてくださったのだ。その頃の彼女は、すでにフリーの映画評論家として活躍していたが、韓国映画の紹介にも努めていたらしい。思い出のロウバイの花、施設の池の端に二本のロウバイの木は満開であった。

2026124

| | コメント (0)

2025年10月27日 (月)

「黒川の女たち」、20席の小劇場で見る

 田端のシネマ・チュプキという、小さな劇場、予約しないと観られないという。駅からJR東日本の長いビルに沿って坂を下り、仲通り商店街を目指す。途中、通りがかりの方が、業務用スーパーの隣にありますよとの案内の通り、たしかにそれはあった。

20251016_20251027213701

 たしかテレビ朝日の番組や新聞記事で、おおよそのことを知っていたつもりでいたが、映画は、太平洋戦争敗戦直前、関東軍敗走の地に取り残された満蒙開拓団の若き女性たちが背負った過酷な運命を、高齢になった当事者たちの証言や活動、それを支える人たちを丹念に追ったドキュメンタリーだった。

Photo_20251027213602

 1939年11月、決して豊かとはいえなかった岐阜県加茂郡黒川村の人たちが、開拓団への分村を目指し、まず視察に赴き、以降1941年から44年にわたって、ハルピンの南、吉林省陶頼昭に入植、650人を超えた。開拓自体も青壮年層の男子は徴兵され、女性や高齢者による重労働を伴うものだった。ところが、敗戦直前、ソ連の参戦によって、ソ連軍は満州国に侵攻、黒川開拓村にも迫ると関東軍は、村民を置き去りに敗走した。中国人からの襲撃、近隣開拓民の集団自決がなされる中で、村民の安全と暮らし=食料確保のためということで、1945年9月、村民幹部は、ソ連軍への「性接待」を始めたのである。その犠牲になったのが、未婚の十代、18歳以上の女性たち15人であった。1946年5月ソ連軍撤退まで続き、15人の内4人は、現地で性病などにより命を落としたのであった。この事実は、敗戦後生還した451人の村民の間では隠蔽され、その上、犠牲となった女性たちには、こころない仕打ちがなされ、村を追われるように散り散りなっていった。

 1961年になって、現地で亡くなった開拓団員を偲んで、黒川村に「招魂碑」が建てられ、1981年、開拓団の体験記『ああ陶頼昭』が遺族会により刊行され、翌1982年には「乙女の碑」が黒川村に建てられたが、「性接待」の事実は公にされることはなかった。

Photo_20251027213601
『告白 岐阜・黒川満蒙開拓団73年の記録』の年表より。

 女性たちの長い苦難の歴史が動きだしたのは、2013年、長野県下伊那郡阿智村に満蒙開拓平和記念館がオープンし、館主催の語り部の会で、佐藤ハルエさんと安江善子さんの二人が、犠牲の当事者として初めて、事実を語り始めたことだった。家族にも語ることをしなかった他の女性たちを含めて、連絡を取り合っていた絆は強く、二人の勇気ある告知に、語り始める人、そして彼女らを支える開拓団の女性たち、遺族会会長、さらには、彼女らの子どもや孫たちにも支えられ、語り継ぎ、書き継ぐことによってメディアにも注目され始めたのであった。そして、それらの活動の成果として、「乙女の碑」の傍らに長文の記録と証言によって構成された「碑文」が設置、除幕されたのが2018年11月18日だったのである。


 関東軍によって傀儡国家満州国が建設され、軍事拠点化を図るための食糧増産の目的で大量の開拓民を必要とされ、疲弊した農村救済のためと相俟って、500万人の開拓民が送られたていた。黒川開拓団もその一つであったのだが、敗戦間際、ソ連軍の侵攻が迫ると、関東軍は開拓民を守るどころか、従軍慰安婦とともに逃げ去ったという。それまで虐げられてきた中国人の報復と侵攻してきたソ連軍の間に孤立した開拓団幹部の生き残り策が、未婚女性による「性接待」であったという事実にも、いたたまれない思いがするのだが、日本に帰還後の彼女らのたどる長い苦しい過酷な道のりがあった。戦争の悪と女性蔑視という二重の犠牲を背負いながら、史実に立ち向かった勇気ある活動に敬意を表さずにはいられなかった。

 この映画が、テレビ朝日製作、プロデューサー江口英明・松原文枝、監督松原文枝ほか、50代から、より若いスタッフによって製作されていることを心強く思った次第である。

参考映像
NHKETV特集「満蒙開拓団の女たち」(2017年8月5日)【未見】
テレビ朝日報道ステーション特集「語り継ぐ戦争と性暴力『黒川開拓団の』女性たちの告白」(2019年8月16日)
テレビ朝日「史実を刻む―語り継ぐ戦争と性暴力」(2019年8月24日)

参考資料
川 恵美、NHKETV特集取材班『告白 岐阜・黒川 満蒙開拓団73年の記録』(かもがわ出版 (2020年3月31日)
『黒川の女たち』公式パンフレット(太秦KK 2025年7月12日)
松原文枝『刻印 黒川開拓団の女性たち』(KADOKAWA 2025年8月26日)【未見】

 

| | コメント (0)

2025年8月18日 (月)

8月15日、天皇と首相の「言葉」の過大評価を考える

天皇の「語り継ぐ」とは

 8月15日、「全国戦没者追悼式」に臨んだ天皇の「おことば」の「戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います。」の一文をとりあげて、翌8月16日の各新聞は社説や記事で一様につぎのように評価していた。 

読売新聞社説:「戦中・戦後の苦難を、語り継ぐ必要性にも初めて触れられた。」

日本経済新聞社説:「『語り継ぐ』という新たな要素を加えられた。上皇さまの平和への願いを受け継ぎ、次世代に継承することへの強い思いがうかがえた。」

毎日新聞:「天皇陛下、記憶の継承に言及」の見出しで「『戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ』の一節を新たに加えられた。記憶の継承に明確に言及。」

朝日新聞:「天皇陛下 次世代に託す思い」の見出しで「『戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ』という新たな表現で、継承への思いを示すものとなった」

 またNHKの15日の夜7時のニュースでは、「戦後生まれの天皇陛下は、戦争の記憶と平和への思いを、戦争を知らない世代に継承していくことの大切さについて、記者会見などで繰り返し語られていて、今回の追悼式のおことばにも『語り継ぐ』という表現が、初めて盛り込まれました。」また、「深い反省とともに」という表現を「深い反省の上に立って」と変えたことを報じている。 

 そして、ノンフィクション作家保阪正康のコメントとして、
「『語り継ぐ』というのは、かなり主体的な意味の強い言葉で、主体的に戦争のことを語る、苦しかった人たちの思いをつないでいくという強い意思を感じる。」さらに「戦中・戦後の苦難」という言葉については「戦争は昭和20年8月では終わっていない、原爆で傷ついている人が今もいるように、戦争の傷はずっと残っている。苦難と闘っている人がいるということを、私たちは忘れてはいけないと、おっしゃっている。天皇陛下の人生観や歴史観が凝縮されていて、戦争の傷あとに対する思いが深いと感じた」と語らせている。
 さらに、天皇の「おことば」が基本的な内容は変わらないことについては、「変わらないということは、祖父・昭和天皇、父・平成の天皇の気持ちを継いでいくと、戦争に対する反省や心の痛みを継いでいくということをおっしゃっていると思う。それが天皇家の強い意思」と感じたとする。

  以下は私の素朴な感想であるが、「語り継ぐ」を盛り込んだとする一点を、これほどことごとしく揃いも揃って、高く評価する点が不思議であった。すでに多くの戦争体験者や遺族は、必死の思いで語り継いできたことは、多様なドキュメント、映像や図書などでも残されてきた。それを、いまさら「おことば」にその言葉が登場したからと言って、大げさに報道するメディアもメディアだという思いである。これまでのメディアの営為に自負はないのかとも思ったのだが。

 

石破首相の「反省」とは

 NHKは8月15日当日のニュースで「全国戦没者追悼式での総理大臣の式辞で「反省」ということばが使われたのは2012年以来となります。」と伝えた。他のテレビニュースも13年ぶりの「反省」を強調するものが多かった。

 新聞にあっては、
東京新聞社説(8月16日):「首相の「反省」 個人でなく政府が示せ」の見出しで「近年の首相は、所属政党にかかわらず戦没者追悼式の式辞で、アジア諸国に対する加害への反省を表明してきたが、安倍晋三氏は2013年以降、反省の表現を使わず、菅義偉、岸田文雄両氏も踏襲した。石破氏が反省の文言を復活させたことをまずは評価する。ただ、石破氏も何を反省するのか、具体的には示していない。」

読売新聞社説(8月16日):「終戦の日 80年続いた平和を次の世代に」の見出しで「石破首相は式辞で、2012年の野田首相以来となる、先の大戦の「反省」に言及した。」

毎日新聞社説(8月16日):「首相は反省と教訓明示を」の見出しで、戦後80年の首相談話を見送った経緯に触れた後「大戦の『反省と教訓』に言及した。『反省』は村山氏の時から式辞に盛り込まれたが、2013年の安倍氏以降は消えていた。13年ぶりに復活させた形だ。しかし、何を反省し、教訓とするのかについては、『進む道を二度と間違えない』などと曖昧に述べただけだ」

朝日新聞社説(8月16日)「終戦の日と首相 平和国家未来像語る時」の見出しで「首相式辞は、93年に細川首相がアジア近隣諸国に『哀悼の意』を表し、翌年の村山首相が『深い反省』を加えた。その後、自民党政権時代を含め、長らく踏襲されてきたが、第2次政権下の安倍首相が13年に言及をやめ、その後は使われなくなった。『反省』が13年ぶりに復活したが、アジア諸国への加害責任には触れておらず、何を反省し、教訓とするのかは明確でない。短い式辞で意は尽くせない。戦後50年の村山談話、戦後60年の小泉談話、戦後70年の安倍談話と同様、首相談話を出すべきだった」

  ここでは、13年ぶりに復活した「反省」に着目している点が共通している。「評価」すると明言するのは、上掲のなかでは東京新聞だけである。戦争を知らない、戦争体験者でもない、当事者でありえない第三者が「反省」するって、どうなの?という突込みもある。今年の天皇の「おことば」にあって、「深い反省とともに」という表現を「深い反省の上に立って」に変えたことは、その辺のことを配慮してのことだろう。
 石破首相の式辞に寄せられた「反省」の中身がないことを、いずれの新聞も指摘しているが、これは、天皇の「おことば」にも当然言えることではないか。首相には、指摘して、注文するが、天皇の「おことば」を称揚することはあっても注文をつけないのが、いまも変わらぬメディアなのである。

 首相の式辞について、朝日新聞の社説で「アジア諸国への加害責任」に触れていないことに言及するが、そもそも首相の式辞には「300万余の同胞の命」の「御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます」であって、「植民地やアジア各地での加害責任」、そこで犠牲になった「同胞」以外への追悼は読み取れなかったのである。                     

 参考 10年前に『女性展望』(2015年11・12月号)に寄稿した文章です。
戦後70年、二つの言説は何を語るのか(2016111日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/01/70-6a1c.html

資料1.天皇の「おことば」全文
 本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦においてかけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
 終戦以来80年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います。
 ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

資料2.首相の式辞
 天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、戦没者のご遺族、各界代表のご列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行いたします。
 先の大戦では、300万余の同胞の命が失われました。 祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦場に斃(たお)れた方々。広島と長崎での原爆投下、各都市への空襲並びに艦砲射撃、沖縄での地上戦などにより犠牲となられた方々。戦後、遠い異郷の地で亡くなられた方々。今、すべての御霊(みたま)の御前(おんまえ)にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。
 今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊(とうと)い命と、苦難の歴史の上に築かれたものであることを、私たちは片時たりとも忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念を捧(ささ)げます。
 未(いま)だ帰還を果たされていない多くのご遺骨のことも、決して忘れません。一日も早くふるさとにお迎えできるよう、全力を尽くします。
 先の大戦から、80年が経(た)ちました。今では戦争を知らない世代が大多数となりました。戦争の惨禍を決して繰り返さない。進む道を二度と間違えない。あの戦争の反省と教訓を、今改めて深く胸に刻まねばなりません。
 同時にこの80年間、我が国は一貫して、平和国家として歩み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてまいりました。 歳月がいかに流れても、悲痛な戦争の記憶と不戦に対する決然たる誓いを世代を超えて継承し、恒久平和への行動を貫いてまいります。未だ争いが絶えない世界にあって、分断を排して寛容を鼓(こ)し、今を生きる世代とこれからの世代のために、より良い未来を切り拓(ひら)きます。
 結びに、いま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様にはご多幸を、心よりお祈りし、式辞といたします。    
  令和7年8月15日      内閣総理大臣 石破茂                                                                                                        

                                                                                                                        

 

 

| | コメント (1)

2025年8月13日 (水)

『神近市子の猛進』を読む、神近は短歌も詠んでいた(2)神近市子、波乱の生涯

   神近市子は、長崎県出身、父と兄を幼少時に亡くし、姉二人との母子家庭で貧しかったが、読書する文学少女で,活水女学校を経て、津田梅子の女子英学塾で学ぶ。在学中に『青鞜』に参加、1913年女子英学塾卒業後、弘前の県立高等女学校の教師になるが、『青鞜』への参加がばれて一学期で退職。東京に戻り、尾竹一枝(後の富本紅吉)、伊藤野枝とも知り合い、小野賢一郎(1888~1943,俳号は蕪子)の紹介で東京日日新聞の記者となる。東京日日新聞の高木信威(1872~1935)との不倫関係にあって女児を出産、生家に預け、記者活動を続けていたことが、上記事件の公判中に明らかになった。

 1915年大杉と知り合い、16年上記の事件に至り、東京日々新聞社を退社。1919年服役後からは小説、翻訳、評論など多角的な文筆生活に入り、20年に鈴木厚と結婚、一男二女をもうけるが、39年に離婚。その間、プロレタリア文学運動にもかかわるが、28年長谷川時雨の『女人芸術』創刊より参加、その廃刊を継ぐような形で、34年には自ら『婦人文芸』を創刊する。当時の執筆メデイアは、新聞、総合雑誌、婦人雑誌、文芸雑誌、時局雑誌等多岐にわたる。人脈も広めてゆく。39年の離婚前後から、3人の子どもとの生計も神近の双肩にかかってきたためか、執筆量も多く、大手出版社による『中央公論』(中央公論社)『雄弁』(講談社)『現地報告』(文芸春秋社)『新女苑』(実業之日本社)などへの寄稿も増した。日本文学報国会の会員ではあったが、彼女の論稿の基調は、戦時下の女性労働者の重要性とその権利保護にあって、意識的に、戦意高揚に直接的につなげることを避けたきらいがある。また、とくに太平洋戦争開戦前後からは、語学力を生かして、1940年『トルキスタンの旅』『動物と人と神々』『アメリカ史物語』、1941年『アメリカ成年期に達す』、1942年『新疆紀行』、1943年『船と航海の歴史』などの翻訳が多いのが、他の評論家に見ない特色と言えるのではないか。

 近年よく使われるようになった、内閣情報局の内部資料『最近における婦人執筆者に関する調査』(1941年7月)は、婦人雑誌八誌を対象に、婦人執筆者の執筆頻度、その内容種別などを、1940年5月号から翌年の4月号までを調査、各人、各文献の解説、出版社の評価など「量的」「質的」分析がなされている資料である。今回、神近市子を調べてみると、「純粋評論家」として3点が挙げられ、決して多い方ではないが、「彼女の婦人解放の思想は此の意味に於て依然として、社会組織に於ける不合理の状態の廃止を目指して社会を変化せんとするあの社会主義的態度を思はせるものがある」などと評されている。

 『神近市子の猛進』の著者石田は、戦時下における神近の文筆活動について、つぎのように述べている。
「そこに女性の戦争協力を先導するような言説はなく、運動として表舞台に立つこともなく、街頭に進出することもなかった。戦争を奇貨とする点では同じであったが、女性の国民化という大衆運動を展開し、公職追放となる市川房枝のように、戦争協力が問われることになる女性指導者たちとは、その点で一線を画していた。」(200頁)

 戦後は、その参議院議員市川房枝らとともに、神近は売春廃止の法案を何度も国会に提出するが廃案になっていたが、さまざまな曲折を経て、不備が指摘される中、t956年5月24日公布に至り、施行させた彼女たちの功績ははかりしれないものがある。 

 私は、短歌の師であった阿部静枝が、上記の資料で「純粋評論家」として、多くの婦人雑誌に重用された実態について触れたことがある。夫、阿部温知とともに無産政党の党員としての活動の過去がありながら、戦時下において、評論家としての執筆や活動を拡大してきたのは、かつての活動で得た知見や執筆・弁舌能力と社会性を備えていたからであり、歌人という肩書も加わって、翼賛へと傾いていった過程をたどったことがある。また、彼女には、結婚前に、男児を出産し、隠すように他人に預けて活動してきた経緯があり、夫と死別してからは、子供を引き取ったことによる経済的な必要と体制やメディアから「期待」される蜜の味も手離したくなかったため執筆活動に励んだ一面もあったと推測される。そして、戦後は、社会党から分かれた民社党の党員となり、豊島区区議会議員を三期務めたことを思うと、神近市子ほどの革新性や話題性はないが、一人の女性の歩みとして、似たような軌跡ではなかったかと、あらためて感慨深いものがあった。

参考:「内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか 女性歌人起用の背景」『ポトナム』2006年1月~2月。『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房 2013年8月)所収

1941

1941_20250813205701
下段は「量的考察」の「純粋評論家」の図表の一部。氏名の五十音順で、阿部静枝は11点で座談会が多いのが目立つ。後のページで、トップは宮本百合子の22点、次が羽仁もと子の19点が突出している。

 

 

 

 

| | コメント (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

24時間営業 CIA NHK TPP すてきなあなたへ アメリカ イギリス インターネット ウェブログ・ココログ関連 オランダ オリンピック オーストリア ジェンダー スイス ソ連邦・ロシア チェコ デンマーク ドイツ ニュース ノルウェー パソコン・インターネット フェルメール フランス ベルギー ボランティア ポーランド マイナンバー制度 マス・メディア マンション紛争 ミニコミ誌 ムハ ミュシャ ラジオ・テレビ放送 世論調査 住民自治会 佐倉市 医療 千葉市 千葉県 原子力 原発事故 古関裕而 台湾 台湾万葉集 吉野作造 喫茶店 図書館 国民投票法案 土地区画整理事業 地方自治 地震_ 大店法 天皇制 女性史 寄付・募金 年金制度 憲法 憲法9条 成田市 戦争 戦後短歌 教科書 教育 文化・芸術 旅行・地域 旅行・文化 日本の近現代史 日記・コラム・つぶやき 映画 映画・テレビ 書籍・雑誌 朗読 東京大空襲 東日本大震災 栄典制度 横浜 歌会始 池袋 沖縄 消費税 災害 災害_ 特定秘密保護法 環境問題_ 生協活動 短歌 社会福祉協議会 社会詠 福祉 租税 紙芝居 経済・政治・国際 美術 美術展 航空機騒音 薬品・薬局 表現の自由 裁判・司法制度 規制緩和 趣味 農業 近代文学 道路行政 選挙 都市計画 集団的自衛権 韓国・朝鮮 音楽 高村光太郎