2023年1月21日 (土)

忘れてはいけない、覚えているうちに(11)1950年代の映画記録が~1957年から60年代へ②

1959年 浪人中~大学1年 41( 邦画30 +洋画 11)本

花のれん(豊田四郎)  初夜なき結婚(田中重雄)女ごころ(丸山誠治)

祈りのひと(滝沢英輔) キクとイサム(今井正) 新婚列車(穂積利昌)

若い川の流れ(田坂具隆)風花(木下恵介)    地上(吉村公三郎)

白い山脈(今村貞雄)  お嬢吉三(田中徳三)  狐と狸(千葉泰樹)

野獣死すべし(須川栄三)次郎長富士(森一生)  弁天小僧(伊藤大輔)

あたらしい製鉄所(瀬川順一)          子の刻参上(田坂勝彦)   

伊達騒動風雲六十二万石(佐伯清)        謎の十文字(荒井良平)

隠し砦の三悪人(黒澤明)潜水艦イー59号降伏せず(松林宗恵)

素晴らしき娘たち(家城巳代治)      千代田上炎上(安田公義)

決斗水滸伝・怒涛の対決(佐佐木康)    新吾十番勝負(松田定次)

江戸っ子判官とふりそで小僧(沢島忠)   電話は夕方鳴る(吉村公三郎)

酔いどれ天使(黒澤明) 浪花の恋の物語(内田吐夢)人間の壁(山本薩夫)

大いなる西部(ウィリアム・ワイラー)

最後の歓呼(ジョン・フォード) 

人間と狼(ジュゼッペ・デ・サンティス)

ボクの伯父さん(ジャック・タチ) 

モンプチ私の可愛い人(ヘルムート・コイトナー)

くたばれヤンキース(ジョージ・アボット、スタンリー・ドーネン) 

先生のお気に入り(ジョージ・レートン)

お熱いのがお好き(ビリー・ワイルダー) 

恋人たち(ルイ・マル) 

お嬢さん、お手やわらかに(ミシェル・ポワロン) 

騎兵隊(ジョン・フォード)

 「新平家物語」(1955年)以降、市川雷蔵(1931~1969)主演の「月形半平太」「弁天小僧」「お嬢吉三」「次郎長富士」などはマメに見ていた。いまでいう「推し」だったのかもしれない。当時は、毎月のように!!雷蔵の主演映画が公開され、大映を背負う稼ぎ頭であった。酷使された上の早世ではなかったか。社長の永田雅一は、そのワンマンぶりや語り口から「永田ラッパ」と呼ばれていた時代だった。悪名高い「五社協定」も主導し、話題になったのを思い出す。一方で、高度成長を後押しするような記録映画にも力を入れていたようで、夕張炭鉱を舞台に石炭の重要性を説く「黒い炎」(1958年)、北アルプスの景観に迫った「白い山脈」(1959年)、千葉川崎製鉄の「あたらしい製鉄所」(1959)なども封切り映画と併映されていた。

 「新・平家物語」(吉川英治)は『週刊朝日』で、「氷壁」(井上靖)、「人間の壁」(石川達三)などは、新聞の連載中にも愛読したものだが、連載が終わるとすぐに映画化されることが多かった。

 この年は、大学に入った解放感も大きかったが、夏からの半年間の闘病の末、12月に母が56歳で亡くなった寂しさもあった。前年に結婚した長兄の初孫の誕生、私の進学をも見届けてくれたのが、せめてものなぐさめであった。いまだったら、手術や化学療法で助かった命であったかもしれない。

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2023年1月17日 (火)

忘れてはいけない、覚えているうちに(10)1950年代の映画記録が~1957年から60年代へ①

 1957年からの私の映画記録は、簡略化?されていた。日付と題名と監督名だけで、その監督の名前も書かれてない場合もあるが、今、わかる範囲で補った。字数の関係で、和洋に分けた。ここでは日付を省くが、ほぼ日付順に記した。洋画にはマーカーをしている。

 1957年(高2~高326(邦画22+洋画4)本

孤独の人(西河克己)  最後の突撃(阿部豊) 真昼の暗黒(今井正)

ビルマの竪琴(市川崑) 夜の河(吉村公三郎) 早春(小津安二郎)

米(今井正)                若さま侍捕物帖・鮮血の晴着(小沢弘茂)

朱雀門(森一生)    満員電車(市川崑)       黄色いカラス(五所平之助)

正義派(渋谷実)    東京暮色(小津安二郎) 雪国(豊田四郎)

柳生武芸帖(稲垣浩)    夜の蝶(吉村公三郎)   足摺岬(吉村公三郎)

雲ながるる果てに(家城巳代治)                      爆音と大地(関川秀雄)

鮮血の人魚(深田金之介)                               青い山脈(松林宗恵)

風の中の子供・善太と三平物語(山本嘉次郎)

理由なき反抗(ニコラス・レイ )

八月十五夜の月(ダニエル・マン) 

ジャイアンツ(ジョージ・スティ―ブンスン)

世界の七不思議(テイ・ガーネット)

   受験生真っ盛りながら、ジェームス・ディーンの「理由なき反抗」「ジャイアンツ」は、見逃したくはなかったのだろう。「米」は霞ケ浦の大きく帆を張った船のワカサギ漁のシーンが印象に残っている。ストーリーは思い出せないが、親子を演じた加藤嘉と中村雅子の結婚、去年亡くなった江原真二郎と中原ひとみが兄妹役で共演、後に結婚したなどというゴシップの方をよく覚えている。

1958年 高3~浪人中 31(邦画21+洋画10)本

二人だけの橋(丸山誠二) 大当たりタヌキ御殿(佐伯幸三)

氷壁(増村保造)              陽気な仲間(弘津三男) 忠臣蔵(渡辺邦男)

恋人よ我にかえれ 宝塚花詩集(白井鐵造)*    

陽のあたる坂道(田坂具隆)羅生門(黒澤明)       野良犬(黒澤明)  

つづり方兄妹(久松静児)   鰯雲(成瀬巳喜男)      裸の太陽(家城巳代治)

波止場ガラス(伊賀山正光)無法松の一生(稲垣浩)  異母兄弟(家城巳代治)

巨人と玩具(増村保造)      遠州森の石松(マキノ雅弘)

湯島の白梅(衣笠貞之助)    スタジオはてんやわんや(浜野信雄)

月形半平太(衣笠貞之助)    黒い炎(西村元男/ドキュメンタリー)

王様と私(ウォルター・ラング) 

野郎どもと女たち(ジョセフ・L・マンキウィッツ) 

マダムと泥棒(アレキサンダー・マッケンドリック) 

殿方ご免遊ばせ(ミッシェル・ボワロン)

OK牧場の決斗(ジョン・スタージェス) 

黒い牙(リチャード・ブルックス) 

白鯨(ジョン・ヒューストン)

情婦(ビリー・ワイルダー) 

三人の狙撃者(ルイス・アレン) 

若き獅子たち(エドワード・ドミトリック) 

 摸試などの合間を縫って、受験生にしては、見ていた方ではないか。これでは、勉強の方は頼りなかったわけである。黒沢の「羅生門」や「野良犬」や戦時中の名作「無法松の一生」(1943年)を見逃すわけにはいけないという気持ちがわからないではないが、どうでもいい?作品も結構見ていた。洋画といってもアメリカ映画だが、かなりの名作を見ていたことになる。マーロン・ブランド、バート・ランカスター、モンゴメリー・クリフト、グレゴリー・ペック・・・。誰もが魅力的に思えた。
   この頃、家の商売柄、製薬会社や問屋の招待というのがときどきあって、歌舞伎座、明治座、新橋演舞場などへ、両親や兄たちが出かけていたと思う。*の宝塚公演は、私が生まれて初めての宝塚で、次兄が私の卒業祝いか、予備校入学祝い?のつもりだったか、手配してくれて、一緒に出掛けている。その頃の日記帳には、こんな歌が書きつけてあった。私の二階の部屋には、ネオンだけでなく、店の向かいのパチンコ屋の店内放送も聞こえていた。短歌会などに入会する前なので、活字にもなっていない短歌で、第一歌集『冬の手紙』にも収めていない。なんだ、ここからの成長があまりみられないではないか。

・受験誌を求めし帰路のウインドにまといてみたき服地の流れ

・極端に襟幅広きコート着る女の吐息は夜道に残る

・窓染める赤きネオンの点滅は風邪に伏したる寝床に届く

・存分に日差しを受けて本探す合否の不安しばらく忘れ

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2023年1月13日 (金)

「國の會ひにまゐらんものを」~変わらぬ女性の願いと壁

『女性展望』1・2月号の巻頭言に寄稿しました。

 『女性展望』はなじみのない方も多いと思いますが、市川房枝記念会女性と政治センター発行の雑誌です。

 1924年12月、久布白落実、市川房枝らが中心となって婦人参政権獲得期成同盟が発足、翌年、婦選獲得同盟と改称し、1927年には機関誌『婦選』を創刊します。『婦選』は、その後『女性展望』と改称し、女性の参政権獲得運動の拠点にもなった雑誌です。1940年、婦選獲得同盟が解消を余儀なくされ、婦人時局研究会へと合流する中で、『女性展望』も1941年8月に終刊します。

 敗戦後、アメリカの占領下で婦人参政権を獲得するに至り、市川は、1947年、戦時下の活動から公職追放、1950年の追放解除を経て、日本婦人有権者同盟会長として復帰します。1946年には、市川の旧居跡に婦人問題研究所によって婦選会館が建てられ、現在の婦選会館の基礎となり、1954年には、『女性展望』が創刊されています。市川の清潔な選挙を実現した議員活動については、もう知る人も少なくなったかもしれません。1980年6月の参議院議員選挙の全国区でトップ当選を果たしましたが、翌年87歳で病死後は、市川房枝記念会としてスタートし、2011年、市川房枝記念会女性と政治センターとなり、女性の政治参加推進の拠点になっています。こうして市川房枝の足跡をたどっただけでも、日本の政治史、女性史における女性の活動の困難さを痛感する思いです。 

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『女性展望』2023年1・2月号

 表題は、1927年『婦選』創刊号に、寄せられた山田(今井)邦子の短歌一首の結句からとりました。末尾の安藤佐貴子の短歌は、20年以上も前に、「女性史とジェンダーを研究する会」で、敗戦直後からの『短歌研究』の一号、一号を読み合わせているときに出会った一首です。私は、『現代短歌と天皇制』(風媒社 2001年)の準備を進めているときでもありました。安藤佐貴子については、会のメンバーでまとめた『扉を開く女たち―ジェンダーからみた短歌史1945~1953』(阿木津英・内野光子・小林とし子著 砂小屋書房 2001年)に収録の阿木津英「法制度変革下動いた女性の歌の意欲」において、五島美代子、山田あきとともに触れられています。

 

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2023年1月 1日 (日)

忘れてはいけない、覚えているうちに(6)1953年という年ー70年前のお正月は

 そんなに大きくないボール箱を開けてみたら、なんと、日記と思しき手帳が30冊くらいびっしりと入っていた。忘れていたわけではないが、一番古いのが「昭和27年」、これは中学校受験と中学校入学までの4カ月間の記入しかない。しかし、ここで、私は一つのつらい体験をしている。ある私立女子大学の付属中学校を受験して不合格となった。それだけならあきらめがつくのだが、一緒に受けたクラスメートが合格した。不合格だったことを担任に報告しにいくと、なぜか「成績が悪かったわけではなかったんだよ」「だいじょうぶ、こんど、がんばればいい」と、職員室の先生たちから慰めたり、励ましてもらったりして、「成績では負けていないはずなのに」のくやしさもあって、思わず涙をこぼすといった体験をした。そして、後から受験した国立の付属中学校に、運よく合格したので、何とか気持ちがおさまった、という経緯があった。

 次の年、「昭和28年」は、それでも1月から9月まで続いている日記で、小さな横罫のノートにややなぐり書きにも近い勢いで書いている。今から70年前の1953年の正月には、いったい何があって、何を書いていたのだろう。

「初春のよろこび」
1月1日(木)晴、くもり、午後風:今年こそ、一年間、日記を書き続けるぞ、の覚悟と人には絶対見せないから、書きたいことを書く、とも記されている。
2日(金)晴、くもり:宿題の書初めは「初春のよろこび」で、池袋東口の西武デパートに書初めの紙を買いに行っている。商店街をやって来た出初式の人に、父が二百円あげたら「はしごの途中までいってちょっとさかさまになっておりてきた。ほんとに貧弱なもんだ。竹やさんや自転車やさんはさすがにすごかった」とご祝儀の差をまざまざと見せつけられたらしい。
3日(土)晴:「今日も朝湯にいった」と店の向かいの銭湯「平和湯」に出かけ、夜は、家族と「百人一首」、次兄と「はさみしょうぎ」で遊んでもらっている。

放送討論会と「ひめゆりの塔」
1月4日(日)晴:「昨日あたりからさわがれていた秩父宮がおなくなりになりました。秩父宮様は天皇下の一つちがいの弟です。なんとかむづかしい病名だが結局はじ病の結核だろうと思う」など、一応敬語が使われているが、「陛下」を「階下」と疑いもなく書いている。もっとも、語源からすると、「陛」も「階」も同じらしいが、戦前だったら不敬罪。なんと、同じ日に、豊島公会堂でのNHKの放送討論の中継放送を見に行っている。たぶん母と一緒ではなかったかと思う。議題は「各政党の情勢判断とその対策」で、講師は自由党総務星島二郎、改進党幹事長三木武夫、右派社会党書記長浅沼稲次郎、左派社会党書記長野溝勝、司会河西三省で、いずれも懐かしい名前である。日記のその先は少し長くなるが引用してみる。

 「討論会はなかなか大変なものでやじも多く、質問も多かった。星島二郎は自由党らしくすましていて何を言われてもへいちゃら。改進党の三木はちょっと小さい声を出して皆を引きつける。そしてあんまり人気もなく、質問も少ない。かえって司会者から「三木さんへの質問ある方」といった調子。稲次郎は、相変わらずのがさがさ声をだし、結局はみんなこの人の話に興味をもちひきつけられたよう。野溝書記長は、ちょっとおもしろい顔している。質問の答が一番多かった」 

  学校に提出する日記とはちがって、勝手なことを書いているが、この頃、政治への関心というより、政治家への関心があったのか、今から読むと笑えてしまう。

9日(金):映画「ひめゆりの塔」を次兄と見に行っている。入場料80円。この映画のロケが、母の実家のある、私たち家族の疎開先であった千葉県佐原附近でなされたと聞いていて、見たかった映画だったらしい。「映画はあんまりばくげきばかりやっておもしろくなかった。そして最後のところはいそいだせいか、まとまりがぜんぜんなかった」との感想も。 

皇族の葬儀は質素がいい
1月12日(月)小雨:この日は始業式だったのだが、学校帰りに、都電組の級友5人で、「秩父宮様の御そう儀のお見送りにでも」と護国寺下車。秩父宮妃、高松宮・同妃、三笠宮を目の当たりして、やや昂った様子だが、「花輪はスポーツ界が最も多かった。豊島岡墓地をで、また護国寺停車場の方に戻り、並んでくるのをまった。ほんとうに質素なもので護なんかずい分すくない。ということは世の中が進歩した。また前のようにならずにほしい。貞明こうごうより質素、この次は秩父宮様より質素となっているのだから、今さら前のようにやろうというのは一般がゆるさないだろう」と。添削したくなるような誤字や文章だが、皇族の葬儀の簡素化を期待していたなんて。ちなみに、貞明皇后の場合は、国費から2900万円準国葬、秩父宮の場合は宮廷費から700万円国の儀式として閣議決定されていた。

再軍備をめぐって、父と兄とが大激論
1月30日(土):この頃、大学生だった次兄と父親が何かにつけて口論になることが多かったようだ。この日は、再軍備論だった。次兄は「(日本は)武器を輸出したり、作りはじめている。輸出された武器は、朝鮮で人を殺したりしている・・・」と。父は「その武器を輸出しているから日本は成り立っている。人の国で人を殺したって、日本がもうかるならいい。そして日本は昔のように大帝国、五大国にならなくては・・・」と。「光子は、お父ちゃんの話を聞いて気持ちが悪くなった。日本の武器によって人間が死んでいる。その人たちは日本に住んでいないだけの事で、世界中の人間が死んではいけない。光子は半泣きで色々話した」と書いている。当時、私は、一人称を使うことができないで、家でも自分のことを「光子は」「光子が」と話したり書いたりしていた。いまの私には、晩年の父の老いのイメージが強く、こんなひどい、おそろしいことを主張していたとは、あらためて驚いている。父は、両親を早くに亡くし、その後、二十歳そこそこで、薬剤師になって朝鮮に渡り、兵役を済ませてから、シンガポールのゴム園で働き、大正末期に帰国、結婚している。日本の植民地での<いい思い出>ばかりがよぎっていたのだろうか。夏休みの8月4日にも、父と次兄は、この問題で口論になっている。父は相変わらず、愛国心と日の丸は大和民族の誇りみたいなことをいい、アメリカは教育に力を入れているところが優れている、だから、勉強が大事という結論?になったとある。次兄は、いまから思えば<アメリカの民主主義>に一種の憧憬を持っていて、父の反対を押し切って「英米文学科」を選んだのではなかったか。赤坂のアメリカ文化センターにもよく通っていたようだった。(続く)

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門柱の下に、近頃はやらない”根性”スミレ。

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2022年12月23日 (金)

櫻本富雄著、二冊のミステリーが刊行されました。

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左:幻冬舎 2022年6月15日刊。右:鳥影社 2022年12月18日刊。                                                                                                                                          

 大先輩の知人、櫻本富雄さんが、今年6月、12月に小説二冊を立て続けに出版されました。櫻本さんとは、2006年、著書『歌と戦争―みんなが軍歌をうたっていた』の書評を「図書新聞」に執筆したご縁で、以後、多くを教示いただくことになったのです。著書は、ご覧の通りで、戦時下の、文化人、文学者の戦争責任、戦後責任を資料にもとづいて詳細に検証し、その責任を問うものがほとんどです。自身が軍国少年であったことを起点としながら、戦後は精力的に戦時下の出版物―図書や雑誌、パンフレットや紙芝居などの収集をしています。その数10万点にも及んだそうですが、それらを駆使して著書の中でも、『空白と責任』(未来社1988)『文化人たちの大東亜戦争』(青木書店 1993)『日本文学報国会』青木書店1995)『本が弾丸だったころ』(青木書店 1996)などは、戦時下の文学や評論を対象とする研究者や関心を寄せる人たちには避けては通れない文献です。

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 その櫻本さんは、もともと詩人で、小説も何篇か書かれているのですが、新刊の二冊は、数年前、蔵書の全てを処分した後に書かれています。構想はかなり前からできていたそうです。ミステリーですので、あらすじは書けませんが、二冊の舞台は、アジア・太平洋戦争末期の日本の占領地、国内の各地に展開します。事件を追う捜査関係者は別として、読み終わってみれば主な登場人物すべてが非業の死を遂げていたことが分かってきます。読むにあたっては、あたらしい地図帳がそばにあった方がいいかもしれません。

 興味を持たれた方は、近くの図書館にぜひリクエストしてみては。

 なお、櫻本さんが出演した下記の番組がユーチューブでご覧になれます。櫻本さんが資料を携え、横山隆一、山本和夫、丸木俊、住井すゑさんたちにインタビューをし、戦時下の言動を質そうとしますが、誰もが反省や後悔の弁どころか自らを正当化する様子が記録されているドキュメンタリーです。次作も執筆中とのことです。1933年生まれの櫻本さんのエネルギとゆるぎない信念に脱帽です。

・「ある少国民の告発~文化人と戦争」(毎日放送製作 1994年8月14日放映)
 https://www.youtube.com/watch?v=8-dC55hmhbc

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上記、映像から。上:戦時下の雑誌の数々。下:住井すゑにインタビュー。

 なお、当ブログの関係記事は以下の通りです。

・書評『歌と戦争―みんなが軍歌をうたっていた』― 歌と権力との親密な関係―容認してしまう人々への警鐘(『図書新聞』2005年6月11日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2006/02/post_d772.html(2006年2月17日)

 ・「ある少国民の告発~文化人と戦争」(1994年放送)を見て
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/09/1994-2d3e.html(2017年9月23日)


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2022年11月26日 (土)

二冊の遺稿集に接して(1)和田守著『徳富蘇峰 人と時代』

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萌書房、2022年10月20日

帯の表には、つぎのように紹介されています。

等身大の蘇峰の生涯を思想的変遷にも重きを置きつつ辿ることから始め,これまであまり論じられることのなかった社会事業家としての側面にもスポットを当て,この不世出の思想家・ジャーナリストの活動を青・壮年期を中心に時代状況も交えながら描出。政治思想史界の第一人者が後進の研究者に贈る畢生の成果

目次

第Ⅰ部 評伝 徳富蘇峰
序 論/第1章 新聞記者への立志と思想形成/第2章 平民主義の唱道/第3章 帝国主義への変容/
第4章 国家的平民主義
第Ⅱ部 欧米巡遊、社会と国家の新結合
第1章 徳富蘇峰の欧米巡遊/第2章 国民新聞と国民教育奨励会/第3章 青山会館の設立/第4章 国民新聞社引退と蘇峰会の設立/第5章 徳富蘇峰という存在
第Ⅲ部 思想史研究の視点から
第1章 近代日本のアジア認識 ―連帯論と盟主論について―/第2章 私の辿った思想史研究―グローカルな視点から―

 著者の和田さんとは、「法律政治学専攻」という一学年でたった16人ほどのクラスの同期でした。1959年4月入学だったから、60年安保改定を控え、大学は騒然とした雰囲気であったのです。いわばノンポリだった私は、自治会が呼びかける集会やデモには時折参加していましたが、和田さんはクラス討論や学年を越えての雑誌の発行などにも率先してかかわっていました。そんな中でも、松本三之介先生の指導の下、政治思想史の研究者になるべく努力されていたのだと思います。博士課程を了え、山形大学、静岡大学を経て、大東文化大学に移り、法科大学院の設置や大学行政にも携わっていました。2019年4月、病に倒れ、やり残した仕事もあったに違いありません。

 蘇峰に関しては、すでに『近代日本と徳富蘇峰』(御茶の水書房 1990年2月)がありますが、その後の論稿と未定稿を合わせて、伊藤彌彦さんの編纂により、今回の出版にいたったといいます。

 私など専門外のものには、清水書院「人と思想史シリーズ」の未定稿として残された序論としての蘇峰論、「自由民権」から「国家的国民主義」形成に至る青年時代までを描いた部分が読みやすく、興味深いものがありました。

 目次にありますように、これまでの蘇峰像とは異なる側面にも光があてられていますので、関心のある方は、ぜひ、近くの図書館にリクエストしてみては。

 個人的には、和田さんが山形大学に赴任してまもなくの松本ゼミOB会の研修旅行に誘われて、山形・福島の旅に参加しました。予定外だった斎藤茂吉記念館にも立ち寄ったこと、近年では、主宰されていた「思想史の会」で「沖縄における天皇の短歌」の報告の機会をいただいたことなどが思い起されます。あらためてご冥福を祈る次第です。

 

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2022年10月 3日 (月)

「私説『ポトナム』百年史」を寄稿しました。

 

 私が永らく会員となっている「ポトナム短歌会」ですが、今年の4月に『ポトナム』創刊100周年記念号を刊行したことは、すでにこのブログでもお伝えしました。上記表題の小文を『うた新聞』(いりの舎)9月号に寄稿しました。『ポトナム』100年のうち60年をともにしながら、その歴史や全貌を捉え切れていませんので、”私説”とした次第です。

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私説『ポトナム』百年史   

・ポトナムの直ぐ立つ枝はひそかなりひと時明き夕べの丘に

   一九二二年四月『ポトナム』創刊号の表紙に掲げられた小泉苳三の一首である。当時の日本の植民地、京城(現ソウル)の高等女学校教諭時代の小泉が、現地の百瀬千尋、頴田島一二郎、君島夜詩らと創刊し、誌名は「白楊」を意味する朝鮮語の「ポトナム」とした。二三年には、東京の阿部静枝も参加した。

  二〇二二年四月、創刊百年を迎え、大部な記念号を刊行した。年表や五〇〇冊余の叢書一覧にも歴史の重みを実感できるのだが、『ポトナム』が歩んだ道は決して平坦なものではなかった。

  今回の記念号にも再録された「短歌の方向―現実的新抒情主義の提唱」が発表されたのは、一九三三年一月号だった。それに至る経緯をたどっておきたい。二三年は関東大震災と不況が重なり、二五年は普通選挙法と抱き合わせの形で治安維持法が公布された。反体制運動の弾圧はきびしさを増したが、社内には新津亨・松下英麿らによる「社会科学研究会」が誕生し、二六年には『ポトナム』に入会した坪野哲久、翌年入会の岡部文夫は、ともに二八年一一月結成の「無産者歌人聯盟」(『短歌戦線』一二月創刊)に参加し、『ポトナム』を去り、坪野の作品は一変する。

・あぶれた仲間が今日も うづくまつてゐる永代橋は頑固に出来てゐら(『プロレタリア短歌集』一九二九年五月)

  苳三は、『ポトナム』二八年一二月号で、坪野へ「広い前途を祝福する」と理解を示していたが、社内に根付いたプロレタリア短歌について、三一年五月に「プロレ短歌もシュウル短歌もすでに今日では短歌の範疇を逸脱」し、短歌と認めることはできず「誌上への発表も中止する」と明言した。先の「現実的新抒情主義」について、多くの同人たちが解釈を試みているが、「提唱」の結語では「現実からの逃避の態度を拒否し、生々しい感覚をもつて現実感、をまさしくかの短歌形式によつて表現することこそ我々の新しい目標ではないか」、その実証は、「理論的努力と実践的短歌創作」にあるとした。総論的には理解できても実践となると難しいが、この提言によって『ポトナム』は困難の一つを乗り切った感もあった。

  以降、戦争の激化に伴い、短歌も歌人も「挙国一致」の時代に入り、「聖戦」完遂のための作歌が叫ばれた。四四年一月の「大東亜戦争完遂を祈る」と題して、樺太から南方に至る百人近い同人たちの名が並ぶ誌面は痛々しくもある。その年『ポトナム』は国策によって『アララギ』と合併し、三月号を最後に休刊となった。その直後、苳三と有志は「くさふぢ短歌会」を立ち上げ、敗戦後の『くさふぢ』創刊につなげ、さらに五一年一月の『ポトナム』復刊への道を開いた。

  しかし、苳三は、四七年六月、勤務先の立命館大学内の教職不適格審査委員会によって、『(従軍歌集)山西前線』(一九四〇年五月)が「侵略主義宣伝に寄与」したことを理由に教授職を免じられたのである。GHQによる公職追放の一環であった。歌集を理由に公職を追われた歌人は他に例を見ない。

・歌作による被追放者は一人のみその一人ぞと吾はつぶやく
(一九五一年作。『くさふぢ以後』収録)

  追放に至った経緯はすでに、教え子の白川静、和田周三、安森敏隆らが検証し、敗戦後の大学民主化を進める過程での人事抗争の犠牲であったともされている。大岡信は「折々のうた」でこの歌を取り上げ、審査にあたった学内の教授たちを「歌を読めない烏合の衆の血祭りにあげられた」と糾弾する(『朝日新聞』二〇〇七年二月二三日)。歌人の戦争責任を問うならば、まず、多くの指導的歌人、短歌メディア自身の主体的な反省、自浄がなされるべきだった。

  苳三は、この間も研究を続け、追放解除後は、関西学院大学で教鞭をとった。戦時下の四一年から三年かけて完成した『明治大正短歌資料大成』三巻、早くよりまとめにかかっていた『近代短歌史(明治篇)』(五五年六月)など多くの著作は近代短歌史研究の基礎をなすものだった。五六年一一月、苳三の急逝は『ポトナム』には打撃であったが、五七年からは主宰制を委員制に変更、現在は中西健治代表、編集人中野昭子、発行人清水怜一と六人の編集委員で運営されている。先の教え子たちと併せて小島清、国崎望久太郎、上田博、中西代表らにいたるまで国文学研究の伝統は、いまも受け継がれている。

  古い結社は、会員の高齢化と減少に歯止めがかからない局面に立っている。結社が新聞歌壇の投稿者やカルチャー短歌講座の受講生などの受け皿であった時代もあったが、結社内の年功序列や添削・選歌・編集・歌会などをめぐって、より拘束の少ない同人誌という選択も定着してきた。さらにインターネットの普及により発信や研鑽の場が飛躍的に広がり、多様化している。短歌総合誌は繰り返し結社の特集を組み、各結社の現況を伝え、結社の功罪を論じはするが、それも営業政策の一環のような気もする。すでに四半世紀前、一九九六年三月号で『短歌往来』は「五〇年後、結社はどうなっているか」とのアンケートを実施、一五人が回答、「短歌が亡びない限り」「世界が滅びるまで」「形を変えて」「相変わらず」存在するだろう、とするものが圧倒的に多かった。私は、「現在のような拘束力の強いとされる結社は近い将来なくなり、大学のサークルや同好会のような、出入りの自由なグループ活動が主流となり」その消長も目まぐるしく、活動も「文学的というより趣味的で遊びの要素が強くなる」と答えていたが、残念ながら二五年後を、見届けることはできない。

  私にとっての『ポトナム』は、一九六〇年入会以来、一会員として、歌を詠み続け、幾多の論稿を発表できる場所であった。婦人運動の活動家でもあり、評論家でもあった阿部静枝はじめ個性的な歌人たちから、多くを学んだことも忘れ難い。(『うた新聞』2022年9月)

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 なお、拙稿の発表後、9月18日、大甘さん(@kajinOoAMA)のつぎのようなツイートがなされているのに気づきました。大事なご指摘をありがとうございます。創刊にかかわった先達から、「白楊」と聞いておりましたまま、調べもしませんでした。


ポトナム短歌会の「ポトナム」って何だろうって思っていた。『うた新聞』9月号、内野光子氏の寄稿に、1922年、植民地朝鮮の京城にて創刊、"誌名は「白楊」を意味する朝鮮語の「ポトナム」とした"とあり、謎は解けた。久々に日韓・韓日両辞書を引っ張り出し、軽い気持ちで"確認"を試みたが… pic.twitter.com/eVWdkhMakj

 

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当ブログ過去の関連記事

1922ー2022年、『ポトナム』創刊100周年記念号が出ました(1)(2)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/04/post-559b22.html
(2022年4月6日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/04/post-a2076e.html
(2022年4月9日) 

忘れてはいけない、覚えているうちに(3)小泉苳三~公職追放になった、たった一人の歌人<1>
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/08/post-448784.html
(2022年8月10日)
忘れてはいけない、覚えているうちに(4)小泉苳三~公職追放になった、たった一人の歌人<2>
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/08/post-f5f72b.html
(2022年8月12日)



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2022年10月 2日 (日)

「国葬」に登場した山縣有朋の「短歌」

 かたりあひて尽しゝ人は先立ちぬ今より後の世をいかにせむ

  9月27日に開催された安倍晋三「国葬」における菅義偉の弔辞に登場したのが、山縣有朋の伊藤博文への弔歌であった。「今、この歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません」と結んだ。菅が「短歌を持ち出すとは」が最初の疑問だった。さらに、その前段の、安倍の議員会館の部屋の机に読みかけの岡義武の『山縣有朋』があって・・・のくだりにも、「うーん、ほんと?ちょっとできすぎでは」と思ったのだった。第一、「安倍が岡義武の本を読むか?」も疑問であった。

  今回の岸田首相の弔辞があまりにも長いばかりで無味乾燥だったため、菅の弔辞の焼き鳥屋談義や上記の追悼歌などが盛られたところから、参列者や国葬TV中継視聴者の一部から礼賛のツイートやコメントがなどが拡散していた。

そもそも、今回の弔辞の原稿作成に広告代理の手が入っているかどうかは別として、当然のことながら、岸田や菅にしても、秘書は、もちろん、ゴーストライターかスピーチライターと言われる人たちとの総力あげての?共同作成ではなかったか。

 と、この稿を書きかけたところ、10月1日、「リテラ」のつぎ記事で、その冒頭の謎が解けたのである。

・菅義偉が国葬弔辞で美談に仕立てた「山縣有朋の歌」は使い回しだった! 当の安倍晋三がJR東海・葛西敬之会長の追悼で使ったネタを
https://lite-ra.com/2022/10/post-6232.html

 詳しくは、上の記事を読んで欲しいのだが、次の2点を報じているのだ。
 一つは、上記の山縣の伊藤への「挽歌」は、安倍元首相が、今年6月17日、Facebookの投稿に、以下のくだりがあったというのである。葛西敬之JR東海名誉会長の葬儀をうけて、
 常に国家の行く末を案じておられた葛西さん。国士という言葉が最も相応しい方でした。失意の時も支えて頂きました。     葛西さんが最も評価する明治の元勲は山縣有朋。好敵手伊藤博文の死に際して彼は次の歌を残しています。
「かたりあひて尽しゝ人は先だちぬ今より後の世をいかにせむ」

 一つは、安倍元首相の2015年1月12日のFacebookで、岩波新書版の『山縣有朋 明治日本の象徴』の表紙の写真とともに、「読みかけの「岡義武著・山縣有朋。明治日本の象徴」(ママ) を読了しました」に続けて、山縣の歌を紹介していたのである。
 伊藤の死によって山縣は権力を一手に握りますが、伊藤暗殺に際し山縣は、「かたりあひて尽くしし人は先立ちぬ今より後の世をいかにせむ」と詠みその死を悼みました。

 菅の弔辞の「読みかけの・・・」のエピソードについては、安倍が読了した本を再読していたとも考えにくいし、「しるしがついていた」歌についても、数か月前の安倍のフェイスブックを読んでいたか、くだんの『山縣有朋』から拾いだしたかとなると、この物語性は崩れるのではないか。「どこか嘘っぽい」が解明できた思いだった。なお、「リテラ」によれば、2014年の年末に、安倍が葛西と会食した際に、『山縣有朋』をすすめられていたのである。

 こんな弔辞を聞かされるために、妙な祭壇を作り、4000人以上の人が集められ、会場関係費だけに2.5億円もかけ、2万人規模の警備、接遇費など合わせて16億円もかけたというのだから、国民はもっと怒らねばいけない。あすからの臨時国会で「国葬は法令に拠らずとも、時の政府が判断できる」などと「丁寧な説明」をされても、国民の多くは納得できないだろう。

 たしかに、伊藤は、1909年10月27日、ハルピン駅構内で、安重根による銃弾に斃れた。そこは共通する。伊藤は四回の首相時代を含め、山縣とは、さまざまな場面で意見を異にしている。伊藤の評価につながるものではないが、攘夷思想、憲法制定、政党政治・・・などにおいて、山縣は、攘夷、征韓論、強兵、君主制にこだわっていたのだから、伊藤への追悼の短歌は、あくまでもしらじらしい儀礼的なもので、誰への追悼にもなる、使い回しのできる平凡な一首ではあった。
  だが、この一首以前に、山縣は、自由民権運動を弾圧し、教育勅語、軍事勅語の制定をすすめた人物を登場させたこと自体、時代錯誤も甚だしく、こんな弔辞に、感動したり、涙したりする人たちの言に惑わされてはならない。

 

 

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2022年6月29日 (水)

自衛隊の「黎明の塔」参拝中止は何を語るのか

 沖縄には、まだ行かねばならない場所がたくさんあり、コロナ禍や当方の体調もあって、諦めるほかないないと、気持ちはあせる。今年の慰霊の日も、家で黙祷するほかなかった。

 翌日の『琉球新報』デジタルによれば、陸上自衛隊第15旅団の幹部らが、慰霊の日の明け方に「黎明の塔」に参拝するのが、2004年来の恒例行事だったが、今年は中止、「確認」できなかったというもの。従来から、自衛隊サイドは、あくまでも私的な参拝であって、組織的なものではないと言い続けてきたが、6月9日、『琉球新報』は、ある活動家の情報公開によって 「私的に(制服着用)黎明之塔を含む各施設に慰霊を実施」という報告文書が防衛省陸上自衛隊幕僚監部の陸幕長、陸幕副長、人事教育部長に共有されていたことが判明し、決裁欄には「報告」「部長報告後呈覧」などの記載があったことを報じていた。

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公開された文書、『琉球新報』(2022年6月9日)より。

 「黎明の塔」とは何か。沖縄県と南西諸島の守備に任じられた第32軍司令官の牛島満(大将)と参謀長の長勇(中将)の慰霊のための塔で、糸満市摩文仁の丘の平和祈念公園の85高地と呼ばれる崖の上に、1952年、元部下や関係者によって建てられている。

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 地図で見るように、「平和の礎」以外にもさまざまな慰霊碑が建てられている。この塔の参拝が、なぜ問題なのかといえば、一つは、1945年4月1日米軍の本島上陸以降、住民を巻き込んだ凄惨な地上戦は、天皇・軍部の意向を受けて、犠牲者は拡大した。さらに、第32軍司令部は、1945年5月下旬、首里城の地下壕から轟壕を経て、この地まで追い詰められた末、高台の壕から、6月19日、牛島は最後の軍命令「最後まで戦闘し、悠久の大義に生くべし」とゲリラ戦を指示した。6月22日には、大本営は組織的戦闘終結を発表、23日には、この壕内で牛島と長が自決したという経緯がある。本土の軍部、32軍司令部の状況判断に大きな誤りが、島民の四分の一が犠牲になったという悲劇をもたらしたという怨念がある。
 さらに、戦後の自衛隊がかつての軍隊の組織や体質の改革がなされていないという実態と不信感が島民、ひろく国民の間に根付いているからではないか。

 個人的には三回ほどのわずかな沖縄訪問、短い年月ながら『琉球新報』の購読を経て、理解できることもあったが、まだ知らないことが圧倒的に多い。

 今回は、一個人の情報公開によってはじめて確認された事実、なぜ、地元や全国紙・誌などのマス・メディアや研究者が見逃してきたのだろうか。
 国会論議にしても、『週刊文春』のスキャンダル報道によって、敵失に追い込んだつもりの情けなさ、政党への助成金、議員の調査研究費は、どんな使われ方をしてきたのか、国民は監視しなければならない。
 昨夜、この記事をアップしようとしたが、睡魔に勝てず、きょうになった。今朝の『東京新聞』の「こちら特報部・ニュースの追跡」で「陸自、未明の参拝確認されず/「沖縄慰霊の日」18年間続いていたが・・・」の記事が目についた。

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6月24日『琉球新報』より。6月23日未明、これだけの報道陣が待機する中、中止に追い込まれたのは、9月に控えた知事選に配慮してか、の報道もある。

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「黎明の塔」と向き合った、壕の脇には軍人・軍属をまつった「勇魂の碑」がある。2014年11月撮影。当時、修学旅行生は、平和の礎、資料館あたりまでで、険しい階段を上ってくる人はいなかった。眼下に見下ろす海と崖、崖の茂みの中にはまだ収集されない遺骨もあるという。

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2014年11月、黎明の塔を訪ねた折のレポートに以下があります。
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/11/20141111146-f07.html

 

 

 

 

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2022年6月11日 (土)

戦時下に、ひたすら家族を歌い、房総の地を詠み続けた伯父がいた~若くして、病にたおれた無念を思う(1)(2)

戦時下に、ひたすら家族を歌い、房総の地を詠み続けた伯父がいた~若くして、病にたおれた無念を思う(1)

昭和十一年
大利根の曲りて廣く見ゆるところ浚渫船は烟ながしぬ(佐原短歌誌抄)

まばゆくてま向かひがたき入りつ日にしばし目つむりあたたまりけり

昭和十二年
大土堤に登りてゆける子供たち空のさ中に見えて遊べり(寒光) 

ラヂオをばかくるべしと言ひ止めよと言ひ妻起ちゆかし心さびしも

傾きて石の祠の小高きに野火はするどく燃え寄りにけり(野焼)

椿咲く忠魂の碑に人寄りて他愛なきこと語り居にけり(さくら)

銅像は桜の上にそびえたり灯ともし頃の公園の空を

わが命つたなきものかこの十年むしばまれつつ生き来りける(病床吟)

附添ひをやめてかへれる妻はいま花札など送りよこしぬ(病院にて)

出征兵士の列車止まれる駅の屋根に早やも積もれる樫の落葉か

萬歳のとどろく汽車の中にゐてわが腑甲斐無き病を憶ふ
『宮田仁一作品集』(LD書房 1988年8月)より

 母方の伯父宮田仁一は、1901年生まれで、1941年に亡くなっている。会うことはなかったが、母方の叔母やいとこたちから話は聞いていた。とくに、長女だった母は、二歳年上の長兄仁一は、自慢の兄だったらしい。千葉県佐原で中学校卒業後、父親と同じ銀行員になったが、すぐにやめて、その後の事情は、聞いてはいないが、英語は先生に教えるほどだったと言い、当時は、ヴァイオリンも得意とし、東京には本やレコードを買いに、映画を見にも出かけていたらしい。兵役は、佐倉連隊から近衛歩兵第4連隊に移ったことも、母は誇らしげに話していた。仁一は、いっとき、東京で、サイレント映画の楽士を務めていたこともあったというから、「大正デモクラシー」のさなかに青春時代を送ったのではなかったか。

 その片鱗は、いま私の手元にある一枚のハガキにも残されていた。左の宛書(元は鉛筆書きで、後から墨でなぞった形跡が見える、薄れるのを怖れて、母がなぞったのかもしれない)は、母が千葉県女子師範学校本科第二部(高等女学校卒業後の一年制)の卒業後、教師生活を始めたのが伊能小学校だったと聞いているが、消印は読み取れない。おそらく、1922年(大正11年)年前後、東京の仁一から母に届いたハガキである。2006年には成田市に編入された伊能村にあった分教場である。ハガキの裏には、仁一の作詞・作曲と思われる歌詞と楽譜が書かれているが、薄れてしまって、判読が難しい個所もある。

ああ世の中はゆめなれや/□の小草をふみわけて/花の錦を身にまとひ/吾が故郷へきてみれば

誓ひし山はかはらねど/くみし水はかはらねど/君は昔の君ならで/悲しや去りて人の花

「おれは最高音楽と俗歌との間のリズムの妥当性と□□とを研究してゐる」との文面も読める。

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 宮田仁一は、短歌も俳句も作っていたし、クラッシク音楽にも詳しかった。長女の歌人でもあった河野和子(『橄欖』所属)が、五十年忌にあたる1988年8月、『宮田仁一作品集』(LD書房)として遺されていた短歌と俳句をまとめた。出版当時、もちろん私もいただいていたのだが、歌の背景なども知りたい、きちんとした感想も伝えたいと思いながら、当方の佐倉市への転居、転職などが重なっていたこともあって、その後も失礼を重ねていた。佐原に住んでいた河野和子とは、同じ県内なので、いつでも会えるような気がしていたが、和子さん、カッちゃんは、十数年後に鬼籍の人となってしまったのである。    そして、今、『宮田仁一作品集』を読んいると、果たせなかった夢、妻と三人の子どもを残し、時代をも嘆き、水郷佐原を愛してやまなかったが、闘病の末、41歳で亡くなった伯父の口惜しさが、思われてならなかった。肺結核からの腎臓結核で片腎を失い、父親から経済的支援を受けながら、養鶏を、養蚕を試みるも、家族を養えない闘病生活が続いた。それでも、千葉の大学病院の近くに下宿して療養生活や入退院を繰り返していた暮らしが歌われている。もちろん一冊の歌集も句集も残すことはなかった。個人的な感慨ながら、率直で、やさしい多くの作品には、ときには涙して読み続けた作品集だった。ここに、その一部を記録に留めておきたい。
 伯父は、1927年に結婚、佐原に落ち着き、長女和子、長男を授かったが、幼い長男を病気で失った頃からか、俳句や短歌を作り始め、地元の仲間たちと句会を開き、雑誌も発行しており、その一部が作品集に収められている。短歌の方は、購読していた短歌雑誌があったことは歌にも詠まれているが、寄稿していたかどうかはわからない。遺品や遺稿の中から、収集し、編集した河野和子の熱い思いも伝わってくる作品群だった。

 昭和十三年
(死児の三周年に)
壁に画きし自動車の落書は叱りたれども形見となりぬ

急性腎臓炎とわかりて医者より連れ帰りしは寒き日なり

吾子が通夜は集ふ人らにまかせつつ我は切なき思ひにふける

学校を休みたがる幼子を病と知らず行かしめにけり

(短歌日記)
積みてある薪すでにしみにけり寒き雨いま降りつづきをり

病院へ通ふ下宿にほど近く見ゆる師範学校に妹は学びき

遺りをる右腎も悪きならむと言はれ我汗ばみて緊張しぬ

樹を透きてはつかに見ゆる千葉の海ひかりきらひて春めきにけり

師範学校より竹刀の音きこえくる夕べを寒むみ佇みてをり

吾子逝きて吾子が鞦韆幾とせか雨かぜにさらされて立つなり

節分の門辺に吊す柊は祖母がなしつつ杳かなるかな

大雪を犯して活動見に行きし少年のころを思ひ出しけり

俳優の顔ぶれ移り変るのみ映画は少しも進歩してゐず

離りゐる妻を思ひて目覚むればそのままあとは眠れざりけり

一週に一度帰れる父われと会ひ居て子供らは夜更かしをせり

四十分でゆくといふ東京へゆきて見たしと脳裏に浮かぶ

長く病むたつきを噂すならむとひがみ心は妻にありけり

この汽車に遺骨を守る人らゐてその故郷へ帰りゆくなり

映画の原作者となりし友ありてその如き職う羨ましと思ふ

アララギと多磨と二つへ歌を出す進歩はせざる歌人の名あはれ

ゆくゆくは妻子が困るならむ銭をかろかろしくも費ふわれなる

金持ちでもあるが如き振舞ひを幼きときよりして来しあはれ

夕庭に白きつつじの暮れ残り子を負ふ妻は戻りにけり

むづかりし子を抱き出でて空の中の白き昼月を見するほかなし

洪水の波のさなかに映りゐるあはれに黒き電柱のかげ

入りつ日は鉄道官舎のかたはらの並み立ちそよぐポプラに射しぬ

飲み忘れし薬のまむと廊に出ぬはたと止みたるこほろぎの声

久しく家をあけしかば短歌雑誌たまり請求書も来てゐぬ 

銭なしと妻に言ひしが妻もまた銭もたざれば泪うかべぬ

子を負ひてまゆ売りて来しとふわが妻はみすぼらしくも雄々しとも思ふ

週毎に親より銭をもらひつつ幾年病院へ通ふならむか

海へ行く道 夕立の雨に会ひ県庁前の街路樹にやどりぬ

病気にて銭かかりをれどなほ写真機を買ひレコードを買はむとす

この夜頃目覚めて殊に咳出づる かの病かあらむと思ひて寝られず

水害地のはつかに実る田の端に真白き山羊はつながれてをり

防空演習の飛行機あまた飛ぶ見れば重爆などと覚えたりし吾子憶ふ

深靄に駅もポプラもほのかなる中のシグナルはね上りけり

 「短歌日記」の二首目は、まさに、妹の私の母が在学した師範学校を詠んでいる。40分もあれば、東京へ行けるのにと、好きな映画に携わっている旧友を羨ましがり、貧困に直面しながらも、カメラやレコードを買おうとする自分を戒める一面を見せる一方、つぎのような歌も詠む。

冒頭「昭和十二年」の末尾で
出征兵士の列車止まれる駅の屋根に早やも積もれる樫の落葉か

萬歳のとどろく汽車の中にゐてわが腑甲斐無き病を憶ふや

「昭和十三年」では、
師範学校より竹刀の音きこえくる夕べを寒むみ佇みてをり

この汽車に遺骨を守る人らゐてその故郷へ帰りゆくなり

防空演習の飛行機あまた飛ぶ見れば重爆などと覚えたりし吾子憶ふ

戦争の暗雲は、身近な人々へも、ひたひたと押し寄せてくる息苦しさをも歌っていた。(つづく)

 

戦時下に、ひたすら家族を歌い、房総の地を詠み続けた伯父がいた~若くして、病にたおれた無念を思う(2)

 昭和十四年
この朝のラヂオで言ひし雪降りぬ鶏の住む屋は筵掛けたり

バッハのツーヴァイオリンコンチェルト聞き居る時算術の問題を子に問はれぬ

かくばかり冷めたきものか米とぐと手を濡らしゐぬ妻臥せせしかば

買ひ与ふ事とてはなき幼年雑誌 借り集めつつ読む子となりぬ

夕焼が薄れて暮れゆくこの庭に病を忘れゐるが寂しき

妹が連れ来し子等が立ち騒ぎ魂祭る夜もしみじみとせず

夕空のあきつのむれをながめゐて 野をかへりくる妻にすまなし

いささかの蚕飼ひする身は生糸の相場をいち早く見ぬ

昂りて妻を責めたる夕つべは吾が非を悔いぬいつものごとくに

諍ひは眼にあまりたるか四歳の子われに向ひて挑みかかれり

手紙などはさみあるかと今日妻が送よこせし肌着しらべぬ

病室に陽を恋ふ幾日たちにけり三十九歳の働きざかりを

旅の歌作るによしなし歎かざらむ子規は臥しゐて歌をつくれり

さむざむと国防婦人かたまりて川の向うへ戻りゆくらし

昭和十五年
妾腹の赤子の記憶よみがへる高校受験準備してをり

十日目毎医者に支払ふ札束を出ししぶりつつ父は出したり

都合良く運ぶがままに弟を恋愛もなきところへやりぬ

女学生ら勤労奉仕の鎌もちて散らばる道をわれはゆくなり

くらぐらに起き出て村の産土神へ参りしといふ入試の朝を(和子、県立佐原高女)

江間に出て消防ポンプを洗ひをる村人達をわれは避けゆく

新体制を言挙げしつつこの村に強くいら立ちて踏むものもなし

昏れてなほ止まぬ細雨に白々と十薬の花散らばり咲けり

枯桑を透きて働く人の見ゆはるかに遠き桑畑にして

 宮田仁一は、1941年8月に亡くなるのだが、作品集には、1940年までの作品しかない。ここに挙げたのは、多く妻子を詠んだ歌に偏っているかもしれない。しばしば水害をもたらすと利根川だったが、魚釣りにもしばしば出かけた水郷の風景や庭の草花や農作業にいそしむ人々をも歌っていることも忘れてはならないだろう。また、つぎのような歌も作り続けるが、決して声高な反戦歌ではないが、憂慮する一部の国民の思いを代弁しているかのように思える。

さむざむと国防婦人かたまりて川の向うへ戻りゆくらし

女学生ら勤労奉仕の鎌もちて散らばる道をわれはゆくなり

新体制を言挙げしつつこの村に強くいら立ちて踏むものもなし

 「昭和十五年」の冒頭の二首には、やや説明がいるかもしれない。母と二人の叔母からよく聞かされた話だったのだが、この伯父も、晩年になって、このように歌っていたとなると、なかなかな複雑な人間模様だったことが、いっそう鮮明になったのである。いまは関係者が、みなが故人となられたので、私なりの理解でいうならば、つぎのようなことらしい。

仁一や母の父親は、銀行員で、二人の息子と三人の娘がいたが、その後、妻を亡くした。そして、家を出て、駅前食堂の女将だったところに住み着いしまったが、子供たちの反対もあって再婚することはなかった。息子や娘は、父親を取られたという思いがあったのかもしれない。その女将は、連れ子の娘と店を切り盛りする、いわゆる「やりて」だったらしい。そんなことから「妾」という表現がなされたのだと思う。父親とその女性との間には、一人息子が生まれ、はや、高校受験の年になり、彼は頑張って、仙台二高を経て医師となる。一方、年の離れた仁一や母たち三人姉妹の実弟、私の叔父は、例の女性の連れ子と結婚したことを詠んだのが三首目だったのである。いわば政略結婚とみていたようで、私たち家族が、東京の空襲を逃れて佐原に疎開した折も、母たち三人姉妹は、その女将と連れ子の蔭口をよくたたいていたようだった。その実弟は、実直な信用金庫勤めを全うしている。
 仁一は、そんな父親から経済的援助を受けざるを得なかった不甲斐なさにも耐えていたことになる。かくいう、私たち、疎開家族も、その祖父のお陰もあって暮らすことができた部分があったかもしれない。その頃の祖父は、食堂の奥の小さな和室で、冬は炬燵に入って食堂の客や立ち働く人たちを眺めていて、母が私を連れて立ち寄ると、なにがしかのお菓子や御馳走がふるまわれたことも確かであった。 
 疎開先で、まず世話になったのが、伯父仁一の奥さん、三人の遺児を育てているさなかに、私たち家族が転がり込んだのである。細長い庇の部屋を貸してもらって、七輪で煮炊きをしていたものの、食料も何かと融通してもらい、別の家を借りるまで、厠も風呂も使わせてもらっていた。すでに、仁一伯父が他界していたにもかかわらず、母にすれば、自分の実家という思いもあったかもしれないが、敗戦前後のお互いに苦しいときに厄介になったことになり、いま思えば、きちんとした感謝の言葉も伝える機会を失ってしまったという思いがある。

 河野和子は、母親の死後、遺品整理の中で、父親の短歌や俳句関係の資料を見出だし、『宮田仁一作品集』を編むに至ったというが、この作品集の「あとがき」の末尾に、河野和子自身の母親への挽歌が何首も綴られていた。

耐ふる事のみに終りし一生なれど母の死顔花咲くがに

色褪せぬ母との会話冬は冬の夜をぬくめつつ我らを包みき

父の遺稿編みつつ涙やまざりき国も人も貧しかりし杳かなる日よ

父の弾くバイオリンの音が聞こえ来る五十年祭の夏近づきて

 河野和子自身は、次の4冊の歌集を出版している。父宮田仁一の歌風とは違って、情熱的で、幻想的な歌も多い。いつかじっくり読みたいと思っている。まだ読み残している『作品集』の宮田仁一の俳句とともに。なお、宮田仁一、河野和子の両名は、ともに、章を違えて、新井章『房総の歌人群像』(短歌新聞社 1989年9月)に収録されている。

『花宴』 短歌研究社 1966年2月
『艶』柏葉書院 1971年2月
『移ろい』 東京四季出版 1990年10月
『ら・ろんど』 東京文芸館 1996年8月

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