2019年6月21日 (金)

いまの歌壇はどうなっているのか~1960年前後の短歌・歌人たちを振り返る(4)1960年

 

 1960年、多くの国民の支持を得た、いわば反政府運動の高揚と挫折を情緒的に振り返ろうというわけではない。あの当時から、私自身が関心を持ち始めた「短歌」を通して、歌壇の状況、歌人たちの作品や発言の断片から、1960年とやがて60年になろうとしている今日を探ってみたいという試みにすぎない。たまたま、手元にある『短歌研究』のバックナンバーやコピー資料からたどってみようというわけなのだが、あくまでも気の向くままの、独断と偏見によるスケッチ、ノートとでもいうのかもしれない。

 1960年は、『短歌研究』にとっては、ひとつの大きな曲がり角となった。1月号の奥付から「編集者 杉山正樹」が消え、「発行者 木村捨録」と印刷者の名前が並ぶだけとなった。「読者への手紙」という編集後記では、その末尾に「一月から編集陣に移動がありましたのを機会に、今年は、幅広い柔軟な目を養いながら、短歌を愛好される方々に、緊密な問題をとりあげてゆきたいと考えます。・・・」と記す。 後任の編集者の名も、この編集者交代の背景を知るすべを、今の私は知らないのだが、前々記事に登場の中井英夫(1922~1993)の『増補・黒衣の短歌史』(潮出版社 1975年)を中心に、時系列でたどってみたい(「二人のいた時代年表」『短歌研究』<中城ふみ子と中井英夫のいた時代>特集 2014年8月、「短歌年表Ⅰ~Ⅲ」『短歌研究』2017年7月~8月、『現代短歌大辞典』普及版 三省堂  2004年、参照)。 

1960年前後の短歌雑誌の編集者の推移(内野光子作成)

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 こうしてみると、1950年代から60年代前半にかけての短歌ジャーナリズムは、編集者に恵まれた、特異な貴重な時代ではなかったか、とも思われる。現代の短歌通史は、いくつかあるが、短歌ジャーナリズムの歴史といえば、参考にもした中井英夫の『黒衣の短歌史』や及川隆彦の『編集者の短歌史』(はる書房 2018年)を思いつくくらいで、雑誌の変遷や作品・記事と編集者・読者にも言及する客観的な通史が出ていないような気がする。ジャーナルとかかわりの深い歌人や編集者であった当事者の回顧も、もちろん大事なのだが、客観的な記録や分析も欲しいと切実に思う。資料の散逸や関係者が亡くなられていくことを目の当たりにして、いっそうその思いが募るのだった。

 1960年1月12日開催の歌会始、「光」への詠進歌が2万3363首に及び、戦後最多を記録した。皇太子婚約・結婚による皇室ブームが最大の理由だったと思うが、選者が吉井勇、土屋文明、四賀光子、松村英一に加えて、前年から五島美代子(1898~1978)と木俣修(1906~1983)が加わり、女性が四賀・五島の二人体制になったこと、木俣の参加で若返ったことなどが重なったからとも考えられる。当日は、入選者、選者、宮内庁からは入江相政詠進歌委員らが参加した祝賀会も催され(『短歌研究』1960年2月)、定着するかに見えた。

 戦後、国民に開かれ歌会始、“民間”歌人の選者起用をめぐって、選者らのレポートや歓迎の反応も多くみられたが、1950年代後半から、前々の当ブログ記事に紹介したように、批判的な論評が活発になった。『短歌研究』での「歌会始は誰のものか」というアンケートをまとめた記事(1959年3月)や水野昌雄、秋村功、吉田漱らによる論考だった。1960年に入ると、石井勉次郎「張りぼてのヒューマニズム―「形成」をめぐる独白」(『短歌研究』1960年2月)の「ヒューマニズムの終着駅が宮中歌会始か」という木俣修批判であった。翌月、吉野昌夫(1922~2012)「もっとまじめに考えたい―石井勉次郎の井戸端公開状に答う」(『短歌研究』3月)という木俣門下からの反論があったが、同門からという限界をぬぐい切れなかった。

また、前述のアンケートでも、歌会始と現代歌人協会の対応について糾弾していた岡井隆は、現代歌人協会の機関誌において、さらに鋭く批判を展開している(「非情の魅力について」『現代短歌』創刊号 1960年5月)。ところが、皮肉にも、岡井は、1993年以来、長い間、歌会始選者や御用掛を務めることになるのであるが、天皇制が変った、天皇が代わった、歌会始が変ったからというが、一番変わったのは岡井本人ではなかったのか。

「宮中歌会始とか召人とか参列者とかいうものが一種権威化(オオソライズ)され得るのは、実はマスメデイアの権威によるので、皇威によるものではない。この狼と狐の二重構造に一切腐敗の原因がある。この行事がマスコミのとりあげる所とならず、草深い皇居に破れ蚊帳がかかっているとしたら、現代歌人の誰が選者になりたがるか」

「それとも――それとも、この歌会始の儀につながる一切事は、旧支配者に対する民衆の残忍な戯れなのであろうか。尊王の至誠か、皇室民主化の至情か、とにかくそうした熱情の類をすっかり凍結したところに生れる非情な遊びなのだろうか。しかし、そこには美がない。この非情な穢醜を、わたしは肯定することが出来ない」

 言葉だけが激しい、品格がある文章にも思えず、引用するのもはばかられるが、その糾弾の矛先は、現代歌人協会の面々、「身近な」として土屋文明、柴生田稔、近藤芳美にも及び、『人民短歌』系の渡辺順三、坪野哲久、山田あき、という名も登場する。表現はともかく、歌会始入選者の祝賀会が、現代歌人協会、日本歌人クラブ、女人短歌会共催、歌壇挙げて、10年来続いていることへの素朴な疑問や違和感は、少なからずあったことは、前述の歌会始への異議にも伺われる。しかし、選者たちへの反発はあっても、歌人団体の対応自体への批判は、その後も聞こえてはこないまま、現在に至っている。この辺りにも、団体のメンバーの多くは、わが身に引き寄せ、考えての躊躇いというか、事は荒立てないという保身があったのかもしれない。

 編集陣が後退したのは前述の通りだが、例えば特集と思われるものを拾ってみると、以下のようになる。
1月自然詠、3月生活短歌、4月女流特集、5月新人作品・評論特集、6月沖縄特集、7月宗教と短歌、8月日本の苦悩に目をそらすな/今こそ短歌の良心を敲く(レポート・6・15を経て>の島田修二、大西民子、上月昭雄、生野俊子、小野茂樹、武川忠一によるエッセイ)、9月新人賞発表。
 また、「名作50首と解説」というシリーズが始まり、茂吉・八一、良平・左千夫、牧水・白秋、啄木・迢空、夕暮・賢治、純・節、赤彦・明星派五人、千樫・利玄、鉄幹・広子といった組み合わせで連載された。書き手を歌人に限定しない工夫も見られたが、短歌初心者向けの案内ともいえよう。
 ちなみ、実質的な編集者に富士田元彦を迎えた角川書店の『短歌』の特集を見てみるとつぎのようになり、『短歌研究』と比べると、その方向性が際立ってくるだろう。
 1月短歌作風変遷史、2月茂吉/評論(芸術性・政治性、フィクション・ノンフィクション、リアリズム・アンチリアリズム、文語定型・口語自由律)、執筆:菱川善夫・秋村功・深作光貞・上田三四二 3月夭折歌人、4月“現代の青春”と短歌、5月安保改訂を歌う作品集、6月安保改訂の歌をめぐって、8月(戦後短歌)あの頃こと/明日の短歌を展く新鋭作品集、9月再論・社会詠の方向について/作品特集安保改訂をうたう/沖縄と沖縄の短歌、10月戦後作家論集、11月祖国(朝鮮)をうたう。

つぎに、当時の作品に即して考えてみたい。(つづく)

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2019年6月 7日 (金)

いまの歌壇はどうなっているのか~1960年前後の短歌・歌人を振り返る(2)1959年

 当ブログは、2006年1月に開きましたが、今回の記事がちょうど1000件目にあたります。雑多で、つたない発信ですが、楽しいときもあり、苦しいときもありました。お訪ねくださる皆さまに支えられ、続けることができました。予想外の反響に励まされ、思いがけない出会いや情報交換のチャンスにも恵まれました。ありがとうございます。そして、リンクをしてくださっている方々には重ねてお礼を申し上げます。更新は、遅々たるものですが、ときどきの思いを綴っていきたいと思っています。今後ともよろしくお願いいたします。

 

~主題制作と長期連作の試み~

『短歌研究』1959年1月号/2月号

 現在の短歌総合雑誌の新年号といえば、若干の違いはあるものの、老若男女の著名歌人総出のアンソロジーだったり、老大家を前面に押し出したり、中堅層を集めたりと、やはり「おめでたい」感がぬぐえない。今年の『短歌研究』1月号は、なんと総力特集「平成の大御歌と御歌」であった。
 1959年、杉山正樹は、1月号の編集後記に「<新春作品特集>は、旧来の総花式なアンソロジイを排して短歌の可能性を探る試みを開始しました」として、「主題制作・生きている”戦後“日本人の心の記録」のもとに、近藤芳美・宮柊二・木俣修にはじまり、岡井隆・田谷鋭・葛原妙子・寺山修司と続き、福田栄一・坪野哲久・斎藤史の『新風十人』メンバーの作品が奈良原一高の写真とともに30・14首の交互で並ぶ。ベテランの佐藤佐太郎・吉野秀雄、新人の山崎芳江・小崎碇之介・山下富美の30首も配するが、この新年号のもう一つの試みというのが50首に近い大作の「連載短歌」で、吉井勇「人の一生」、生方たつゑ「火の系譜」、塚本邦雄「水銀傳説」である。座談会「日本の詩と若い世代」(大江健三郎・江藤淳・岡井隆・寺山修司・嶋岡晨・堂本正樹)がもっとも新年号らしいといえば言えるかもしれない。

・靴音の近付き聞こえ闇に消ゆ心よぎりし何の恐怖か
(近藤「五八年冬」)

・たたかひの後を生きつつ身に疼くくらき痛みを語りあへなく
(柊二「おもい光」)

・壓を加へんとするものはことば柔らかにわが書きものを閲(けみ)しゆきたり(修「黄の鎮み」)

・尾行(つけ)られていると信じ初めしより昂然と雷雨の街を歩めり(隆「少年行」)

・揉みあひて階のぼる群を狭(せば)めつつコンクリートの壁(へき)ありと見つ(鋭「野の靄」)

・窓に碍子(がいし)黒き夜 星黒き夜 われはなにゆゑに群(むれ)、を怖れし(妙子「風 衝」)

・一本の樫の木やさしそのなかに血は立つたまま眠れるものを
(修司「洪水以前」)

・せばめられてゆく自由われも守りたしわれの守られゆく背後なく
(栄一「一枚の罪」)

・拳銃を斜に帯びて移動する道化の一群 制服の青
(哲久「水甕交響」)

・云ひ立てて無實叫ばぬ白鳥を撃つ たはむれに基地の兵の銃丸
(史「流木」)

 

 この作者たちの思想・信条は異なりながら、共通するのは、直接的には、教員の勤務評定反対闘争、警職法改正反対闘争などで国民的な盛り上がりは見せたものの、教員の管理強化、小中学校における「道徳」の導入など国家権力による統制強化、1960年に向けて、日米間安保条約改定交渉が開始されることなどによるじわじわと締め付けられるような危機感であり、閉塞感ではなかったか。
 さらに、編集後記で、杉山は「短歌が日本人の心の記録という意味を持つとすれば憲法改定への暗い動きが底に流れる今日、戦後の心象を刻みつけたこの企劃も、ひとつの意味をもつかと思われます」とも記している、その時代背景へのスタンスも留意すべきだろう。

 翌2月号では、この企画の反響を、批評特集「現代短歌の突破口」としてまとめている。魚返善雄・大岡信・楠本憲吉と歌人6人の反応は各様だが、企画自体を評価する大方の中で、やはり、その中身、短歌作品や写真とのコラボに疑義、言及する評者も多い。「連載短歌」の吉井勇、生方たつゑ、塚本邦雄の連作は続く一方で、<新・戦後派作品特集(30首+作者のノート>(我妻泰・石川不二子・杜沢光一郎・小野茂樹ら7人)、<新鋭作品集(15首)>(石牟礼道子・水落博・中井正義ら7人)が組まれている。

・墓碑銘のなき死つぎつぎよみがえる海へきざはしふかき月かげ
(石牟礼道子「母たちの海」)

 この記事を書いているさなか、6月5日の毎日新聞(『石牟礼文学の原点発見 本紙熊本版に短歌21首投稿』)を目にする。記事によると、石牟礼の短歌のスタートは毎日新聞熊本版「熊本歌壇」(蒲池正紀選)の1952年11月11日~53年5月31日までの21首の入選作だという。その記事には、当時の「熊本歌壇」欄の2首が載っていた。

・舞ひ下りてふはりと羽をとざしたる秋の揚羽はしずかなるもの
(毎日新聞「熊本歌壇」1952年12月28日)

 かつて、私は、石牟礼道子(1927~2018)が短歌にかかわっていた時期は決して短くはなかったことを知って、「短歌に出会った女たち」の一人として、彼女の短歌との出会いと別れをたどったことがある(「石牟礼道子『苦海浄土』にたどりつくまで」『短歌に出会った女たち』三一書房 1996年)。彼女が短歌を作り始めたのは、10代の戦前までさかのぼることがわかっている。そして、『短歌研究』でのデビューはと遡ってみると、手元の資料から2件見出すことができた。バックナンバーの現物が以下の画像である。

・傷つきしけものも花も距りぬ変身の刻近づく暗さ
(「変身の刻」『短歌研究』1956年9月)

・岩礁のさけめよりしばし浮揚する藻と生々しわれの変身
(『海女の笛』『短歌研究』1956年11月)

 1首目は、五十首詠特選1人と推薦4人に続く入選者15人の一人として14首掲載されたのだが、そのうちの1首であり、2首目は、9月号で五十首詠<特選>であった小崎碇之介とともに入選8人の入選後第一作20首詠のなかにある。当時、すでに、水俣病は工業廃水が原因であるとする漁民や患者たちと認めようとしない日本チッソと闘争は激化していた。石牟礼が水俣病にかかる文章を発表しはじめるのは、少し後の1963年以降で、1970年『苦海浄土 わが水俣病』(講談社)の第1回大宅壮一ノンフィクション賞を辞退した石牟礼だったが、その後の歩みや曲折は別稿に譲りたい。

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石牟礼道子「変身の刻」1959年9月号

 

~「歌会始」が問われ始めたが~

『短歌研究』1959年3月号/4月号/5月号                  

 前年、1958年11月27日の明仁皇太子の婚約報道以降、いわゆるミッチーブームのさなか、1959年の「歌会始」は、1月12日に開催されている。「窓」の題のもと選者は、吉井勇・土屋文明・四賀光子・松村英一・五島美代子・木俣修、陪聴者には、久保田万太郎・芹沢光治良・高見順らがいたと伝え、続けて、現代歌人協会・日本歌人クラブ・女人短歌会の共催で、預選者を祝って、選者、入江相政侍従ら宮内庁詠進歌委員など90名が参加して、預選者を祝ったと報じている(『短歌研究』1959年2月号)。そして、選者に新しく、若い木俣と女性二人目として五島が加わったことが影響したことになるのか、戦後最高の応募歌数2万2400首を越えたことが注目された。

 そして、4月10日の皇太子結婚を控えた、このタイミングで、『短歌研究』3月号では、「編集部S」の名で、「歌会始はだれのものか?歌壇から選者を送って十二年 もはや遠い儀式ではない」<特別記事>が掲載された。「歌会始」が選者に民間歌人を加えて10年余を経、「現代短歌の飾窓」として、その短歌は誰の目にも止まる存在になったことで、歌会始が現代短歌と無縁な別世界の出来事ではなくなった。それを受けて、編集部は、各世代の歌人30人、短歌に関心のある文学者10余人にアンケートをとったという。質問も、回答の全容も不明ながら、当時の儀式「歌会始」の実態とその様式が定まったのは明治期に入ってからの第二期であると歴史をたどった上で、「あれはあくまで尊重すべき儀式である」とした回答が最も多かったと報告している。新しい選者の木俣のように、新聞や雑誌の短歌コンクールと同様に選歌し、よりよいものにしていけばよい、とする考え方と現代短歌と歌会始が近づいたということは、現代短歌の文学的な堕落を意味する(杉浦明平)、「(短歌)が文学であるならば、天皇制と結びついて国家権力に守られたくない。現代短歌のためにはこのままでおくべきでない」(岡井隆)という意見、選者も召人も断り続けていた土岐善麿の「われわれが歌を作るのとはモチーフが違うもので、自由自在な表現が可能かも疑問だ」との意見も紹介されている。ではどうすればいいのか、おそらく執筆者であろう杉山はつぎのような文章で締めくくっている。
 「あの第二芸術論や短歌滅亡論が、宣戦の詔勅にも終戦の詔勅にもひとしなみに感動した歌人の姿勢にはっしたことをおもいあわせれば、近く迫つた皇太子の御成婚式も短歌にとつては危険な瞬間かもしれないといえる。その意味からも、今こそ、広い眼で現代短歌の置かれている状況を見つめるべきではないだろうか」(『短歌研究』1959年3月)

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「歌会始は誰のものか」『短歌研究』1959年3月号

 また、翌月4月号で、水野昌雄は「敗北の記録を超えるために」において、歌会始の根本的矛盾は選者たちがすぐれた歌を選ぼうとするほど、天皇制のために役立つことによつて非文学化せざるを得ないとの指摘をしている。さらに、5月号では、秋村功が「道化師を操るもの」を寄せ、1月1日の新聞に(昭和)天皇の「御製」が掲げられているの目の当たりにして、暗い回想、悲観的な行方、現状への激しい憤懣という複雑な気分に包まれたという。「皇室のプライベートな慶事がそのまま庶民のめでたさに通じるかのごとく錯覚させるむなしい報道」によって、「現在の天皇には親近感に似た尊敬の念さえもつ」という庶民像が形成されてゆく。そんな中で「年に一度、天皇が主催する文学の祭典に、日本の文学の源泉である短歌をもつて」のぞむとする選者の木俣に限らず、選者たちは「誰かが作りあげた筋書きの上で踊つている悲しい道化であるかもしれない」とする。では、どうすればいいのかについて、歌会始に応募する2万人以上含む日本人の精神構造を、より合理的でより自主的な判断力をもつものへと変容させる重要性を指摘する。

 さらに、5月号の編集後記「読者への手紙」では、つぎのように記す。
「祝婚歌が巷にみちみちたあとにくる季節こそ、本当は注目すべきなのかもしれません。(中略)祭式の合唱隊と化したマス・メディアが合言葉をくりかえし告げているうちに、たれもが同じ受身の姿勢で無邪気に合言葉をかわしはじめる危険なムードが、戦後これくらいありありと感じられることはなかつた」(『短歌研究』1959年5月)

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「読者への手紙」と奥付『短歌研究』1959年5月号

 1959年、あれから、まさに60年後の今、私たちが経験している「天皇代替わり」における時代の空気を予想しているかのように思われた。私たちは、マス・メディアは、そして歌人たちは、過去に学ぶということを忘れたしまったのではないか。
 また、5月号の「歌人の日記」において、我妻泰はつぎのようにも書いていた。現在、こんな趣旨の発言ができる歌人は存在するだろうか。
「一九五九年冬 *月*日 俺の中で天皇及び皇太子は絞殺しなければならぬ制度として俺の一部分とともにのたうつているのに、日本中は皇太子妃で他愛なくにやついている。まるでシンバッドに出てくるビニールフィルムに隔てられた一眼人のように、見えていながら俺たちは手も足も出ないのか・・・・」(「九年間の状況」『短歌研究』1959年5月)

 

 

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2019年5月31日 (金)

いまの歌壇はどうなっているのか~1960年前後の短歌・歌人たちを振り返る、1958年

 ネット上で知り合い、メールでのやり取りはありながら、遠隔なので、お目にかかってはいない知人から思いがけず、1959年から60年にかけての『短歌研究』の数冊をいただいた。近年、私は、斎藤史、阿部静枝の著作年表を作成し、一部を論稿の資料として活字にしてきた。資料環境が進展し、検索やコピーが容易になったとはいえ、歌人研究には基本的な資料である『短歌研究』の原本はありがたい。デジタル資料、とくに遠隔で、目次を頼りに検索・複写をしている限り、多くの見落としもあるし、目的以外の資料はスルーしがちである。原本を閲覧することにすぐるものはなく、思いがけない作品や文章に出会い、一冊、一冊が、その時代の雰囲気を伝えてくれる。

 この1960年前後は、敗戦直後は別にして、私の体験した日本の戦後史では、まれに見る激動の時代であった。そして、自身にとっては、母を亡くした、学生時代の前期にあたる。 

 いま、手元にあるのは、晩年の母が購入していた『短歌』や『短歌研究』の端本、私が後に図書館で複写した目次や記事と今回いただいた『短歌研究』である。何から書き出すべきか、迷うところでもある。

『短歌研究』1958年1月号(編集者杉山正樹/日本短歌社):

 <新年作品特集>佐藤佐太郎・五島美代子・宮柊二・生方たつゑ・木俣修らと塚本邦雄、田谷鋭・寺山修司の30首前後の作品が並ぶ。<新鋭女流作品集>も組み、石川不二子・大西民子…北沢郁子・清原令子・冨小路禎子ら10人の作品が並び、菱川善夫の「新世代の旗手」が始まり、第1回は中城ふみ子である。前年からの近藤芳美「或る青春と歌12」、木俣修「昭和短歌史10」、高安國世「イタリー紀行7」の連載では、近藤のひたすら甘く抒情的な文章にはいささか戸惑い、高安のヨーロッパ旅行に憧れたことなど、かすかな記憶がよみがえる。

・明治六年若き天皇皇后と一夏駐輦と記録に残れり(四賀光子「箱根遊草」)
・戦後うやむやに終りて水無月の道黒く市電の内部につづく(塚本邦雄「出日本記」)

 

『短歌研究』1958年3月号(編集者杉山正樹/日本短歌社)

 <現代女流歌集>の冒頭は読売文学賞第一作として生方たつゑ(「苛斂の土」40首)、五島美代子(「原野の犂」30首)野二人の作品が並ぶ。「女歌の行方」として男性の論者5人が生方・五島を語り、女歌を論じている。そして、阿部静枝らのベテラン7人と、斎藤史、葛原妙子、森岡貞香の3人が別枠で並ぶ。そしてもう一つの特集が<沖縄の歌と現実>であった。吉田漱「“二つの日本”を訴える」、霜多正次「沖縄島の哀歓」と、吉田の編集による「沖縄作品集」からなる。吉田は、沖縄の歴史と当時置かれている政治、経済、社会の実情を丁寧に具体的に報告し、沖縄の歌壇にも言及する。沖縄の戦後の短歌は、ハンセン病療養所の「愛楽園短歌会」に始まり、本土のアララギ同人の呉我春男の尽力で「九年母」が1953年3月に結成、翌年会誌が創刊されたが、沖縄では発表できない作品が本土の『アララギ』『未来』『樹木』などに掲載されるという時代であった。

・墓石の片がはにいま陽が匂ひ子の名一つがくきやかに見ゆ
(五島美代子)
・遺りゐる礎石配置に日のうすき斑があり人間の悲話よみがへる
(生方たつゑ)
・絶望に通ずる道を歩むに似たり一日一日の悲しきいとなみ
(比屋根照夫)
・憚らず土地を接収せしされつ米琉親善をいふ双方の高官
(天久佐信)

 杉山正樹によると思われる編集後記「読者への手紙」では、<現代女流特集>について「雛祭りや才女時代に因んだわけではありませんが」の前書きがあって、文学賞受賞の五島・生方と各世代の俊秀の力作を自負していた。三月号の女性歌人特集が定例化するのは、1969年31人でスタート、1974年に123人、さらに人数はふくれ上がり現在に至っている。一方、ちなみに、5月号の男性歌人特集は、1972年、70人でスタートしている。

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『短歌研究』1958年1月号目次

 

 なお、沖縄特集の文中で出会った比屋根作品にはいささか驚いた。後に、大学のOB会で知ることになる比屋根さん、政治思想史の研究者なのだが、若いときには『琉球新報』の「歌壇」に投稿されていたという。OB会で上京された折や電話で、現在の沖縄を深く憂い、ときには、短歌論や拙著への感想などを聞かせてもらうこともある。

『短歌研究』1958年10月号(編集者杉山正樹/日本短歌社):

福田栄一「夜の谺(44首)」
ししが谷法然院の河骨の黄の花硬しこころやむわれ
争ひしあとさき先生と飲まざりしふたたび叱りてくるる人なし
死にて亡き先生に逢ひポトナムの友には逢はず争はなく
金閣寺裏山ときき先生の死にしところより寂しき金閣

 この号の第一特集は「アララギの五十年」であり、この結社の「内側の声」五味保儀ほか「外側の声」前田透ほか各数人が語り、アララギの中堅・若手、宮地伸一・我妻泰らの作品を掲載する。もう一つが「異郷に歌う(海外日本人の短歌)」で、ハワイ、ブラジル、北米の移民歌人たちの現状と作品を紹介する。木村捨録「歌壇交流記4」は大日本歌人協会の出発と解散の経過が語られている。もう、リアルタイムで当時を知る歌壇人はいないだけに興味深い。
 冒頭の福田(1909~1975)の4首は一連の中ほどにある作だが、『ポトナム』を創刊し、主宰であった小泉苳三(1894~1956)の追悼歌である。福田は、『ポトナム』の若手メンバーとともに「思索的抒情」を掲げ、1946年10月『古今』を創刊・主宰している。小泉との確執があったと思われるが、その自死の後の墓参の折の複雑な心境を歌っている。法然院には、小泉の墓と歌碑がある。私は、この『ポトナム』に1960年に入会することになる。

 

『短歌』1958年12月号(編集発行人角川源義/角川書店):

 <アンケート特集>と銘打って、一つは、「警職法改正案と中河発言をめぐって」であり、一つは「現代短歌の問題点―推進すべき方向と作品(87氏回答)」である。前者は、58年10月、岸信介内閣は、警察官の職務権限の拡大を主眼とする警察官職務執行法改正案を国会に提出し、日本社会党はじめ総評、文化団体など幅広い反対運動が展開していた時期、衆議院地方行政委員会公聴会で中河幹子が歌人の肩書で改正案賛成の意見を述べたことに由来する。しかも、その意見があまりにも俗っぽく、雑駁だったことから、多くの批判を浴びることになった。注*『短歌』編集部は、中河公述人の意見と山田あきの反対意見を載せ、20人の歌人にアンケートをとった結果をまとめている。回答があった17人は、結論的には全員反対との回答を寄せている。回答がなかったのは、土岐善麿、岡山巌、大野誠夫とわかる。問題の公聴会は、11月3日に開催、11月5日アンケート発信、12月号に掲載というスピード感と緊張感がある編集になっている。当時の実質的な編集者であった中井英夫の名で、特集末尾の「特集に添えて」において、
「歌人代表の意でないことは当然だが、これを歌人一般とはつゆさら関係ないとして楽観できるほど、『歌人という存在』に信用があるかどうかが、これが意見の岐れ目であろう。」
 さらに続けて、「このことはしかし、もう我々がタンスの奥深くに樟脳を―『戦争になれば国民として協力するのが当然』という、あの樟脳をつけて手軽にしまい込んだ戦争責任の問題を引張り出さなければ解決はつかない―」と特集の意図を記している。

 国民的な反対運動により、1958年11月22日、岸首相は、警職法改正案の提案を断念した。戦後政治史にあって、国民的な反対運動が実った稀有な出来事となった。                                            

注*以下の議事録によれば、この11月3日の公聴会公述人には、「歌人 中河幹子」「作家 高見順」が並び、東京大学教授鵜飼信成、総評事務局長岩井章らがいた。
第30国会衆議院地方行政委員会公聴会議事録(1958年11月3日)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/030/0342/03011030342001.pdf

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『短歌』1958年12月号<警職法改正案と中河発言をめぐって>アンケート回答。

 もう一つの特集のアンケートは、「現代短歌の問題点」についてのアンケート回答を、編集部がテーマごとに仕分けをしてまとめたという。その回答は、実に多岐にわたるが、みな真面目であった。その一端をのぞいてみると・・・。

三国玲子「単なる当込」:「最近、台頭してきた一部の新人達の実験的な作品には興味を持っているが、その多くは生活実体から遊離した官製の遊戯であったり西欧詩他のジャンルに於て試みられている方法論を、短歌という土壌に機械的に移植したに過ぎないように思える。言葉やポーズのきらびやかさ、華々しさに反して内容空疎主体性を欠いているから単なる当込という印象を免れないのだ。実験と当込とは自ら峻別すべきであろう・・・」。(「非写実を排す」)

玉城徹「<彫り>の深さ」:「(前略)私は古典的な方法も前衛的な方法も、または口語歌も、いずれもあつてよいと思う。しかし、そのいずれにしても、もっと<彫り>ふかく、スケッチ歌体を脱却すべきだ。これが、昭和の、特に戦後歌風の一ばんの病弊なのだ。・・・」(「深みへ降りる」)

春日井建「美の呪縛」:「皮相な日常詠やスローガンの素描から抜けだして美の深さを測ることはもつと怖れないで試みられていいことのひとつであろう。美だけに賭けることは退嬰であり徒労であるかも知れない。しかし本来抒情詩である短歌を純化するための逞しい勇気であるには違いない。・・・」(「若い世代の声」)

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5月31日のアジサイ、ドクダミの繁殖力に脱帽、さてどうしたものか。勝手口近くのフキは、湯がいて煮て、お昼にいただきました。

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2019年4月30日 (火)

改元の狂騒の中で~「寄り添う」という言葉のうらおもてを考える

 きょう、4月30日の朝日新聞は、異様な紙面構成だった。これは丸ごと保存しておかねばならない!一面トップと二面とにおいて、新元号に安倍首相が関与したことを示す記事と「退位の日『象徴』と『統合』模索は続く」と題した社説で一見バランスをとるかのようではあるが、1面からテレビ番組欄の32頁まで、天皇の退位・即位、改元関連記事で埋まる。わが家の他の購読紙3種と比べても、力の入れようが違っていた。今回の新元号関連記事は他に突出して多かったように思う。どう扱っても、祝賀ムードからは逃れられないのが、この種の記事である。今日のNHKもしかりで、読者や視聴者の関心は、もはやそんなところにはなく、復旧もままならない被災者は住まいや生計自体の不安を抱え、多くの国民は、連休の間の生活の備えは大丈夫か、消費税増税はやりきれない、公共料金・保険料や物価の値上げは続くのか、高齢者には、医療や医薬品、介護にかかる経費が心配でしかたない、というのが本音に近く、報道に登場するような、天皇の姿を見て涙したり、天皇に感謝したりするゆとりなどないのが大方ではないか。

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2019年4月30日『朝日新聞』朝刊一面

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2019年4月30日『朝日新聞」テレビ欄も・・・。

   元号が替われば<新しい時代>が来るかのような幻想を振りまいているのは誰なのか。過去の不正を、犯罪をなかったことにしたい政治家や官僚たち、商機と捉える人々、それに踊らされている一部の人たちにすぎない。10日の連休とて、満足に休暇とれる労働者は3割程度ということだし、時給で働いている人たちの減収、保育を要する子供たち、治療や介護を要する人々の多くが半ば置き去りにされる状況もあるなか、閣僚たちの<海外視察>が目白押しという。
 天皇が代わっても、当然のことながら、日本の安全保障環境の対米依存は揺るがず改元の狂騒に紛れてのトランプ大統領の来日は、アメリカからの武器爆買いを確固たるものにし、沖縄の辺野古基地新設工事は進んでしまう。労働者の正規と非正規の格差は広がるし、家庭内、教育やスポーツ界の現場における暴力問題は見えにくくなるだろう。そして何よりも恐ろしいのは、情報があふれるネット社会とは逆行するように、必要な情報が入手しにくくなる情報環境の格差・隠蔽、政府や企業、メデイアによる情報操作が助長されることなのではないか。

 今、私は、太平洋戦争下の雑誌を見ているのだが、たまたま、以下のような雑誌や新聞のコピーを見出して、妙な感覚にとらわれている。以下は、<紀元2600年>と喧伝された1940年の新聞と雑誌のコピーである。たしかに、<紀元2600年>をうたわないことには、紙も来ないし、検閲も厳しくなる時代であったと思う。しかし、メディアが競うように、積極的に体制に順応していった側面を見るような思いがする。現代も権力による情報統制は、悔しいながら、見えないところでがんじがらめになっていて、その不自由さは察しられる。

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1940年1月『婦人画報』グラビア

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1940年1月1日『東京朝日新聞』「紀元二千六百年本社の新事業」の社告

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1940年1月1日『東京朝日新聞』の「誰ぞ”紀元”の生みの親」の記事。朝日新聞は「紀元」や「新元号」をたどるのが、よほど得意なのか。少なくとも庶民にとっては、天皇も元号も、政治や企業が利用するものにしかうつらない。

  しかし、現代は、戦時下やGHQ占領下のような暴力的な検閲に比べれば、ある程度の自由は確保されているように思われる。それは、紙面や記者たちの書きぶりからもうかがわれる。そして何より、現在のところは、インターネット上の表現の自由は、ある程度確保されているので、NHKや大手メディアが報じない情報も浮上する。もちろん無責任な虚報もあり、玉石混交なので、そのリスクも負わねばならない。

 さらに、いまは手元の資料だけになるが、昭和天皇の死去と改元報道の一端を振り返ってみたい

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左が1989年1月7日『読売新聞』夕刊、右が『毎日新聞』夕刊。「ドキュメント『昭和』の終わり全報道記録」(マスコミ市民編1989年3月1日)

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1989年1が7日『毎日新聞』夕刊、中央に新元号「平成」の識者のコメントが並んでいた。『新聞紙面で見る20世紀の歩み』(毎日新聞社編刊 1998年7月)より。

  そして、いま、「平成」を振り返る報道が氾濫しているが、その解説には、頻繁に登場するのが、「寄り添う」という言葉だろう。天皇が国民の統合の象徴として、国民に「寄り添って」来たことが強調されている。象徴である天皇が国民に「寄り添う」ということはどういう意味なのか。寄り添い、寄り添われるという関係が「象徴」を介在して成り立つのだろうかと。家族や友人や仲間として、あるいは職業、報酬を伴うサービスとして成り立つものではないかと考えている。とすると、天皇と国民の関係に置き換えたとき、寄り添われた国民に生じる感情は、励まされた、ありがたい、うれしかったというレベルから尊敬の念にまで至るようなのだが、この関係が、本来「寄り添われる」べき、多くは、さまざまな意味での弱者であって、そこに届くべき政策や施策の脆弱さを覆い隠していなかったか、との思いがぬぐい切れない。その効用を天皇・政府サイドがともに了解し合っての行動にも思えてくる。まさに、天皇の政治的な行為となるであろう。

 さらには、11月に行われる大嘗祭はもちろんだが、改元前後の神道にのっとっての儀式、報じられる姿を見ているだけでも、「国民統合の象徴」とはとても思えない。こんな宗教的な儀式で、退位・即位する天皇が「象徴」ではありえない姿ではないのか。生身の人間が象徴になることはもはや不可能に近く、次にあげるような主な宮中祭祀をみただけでも、これらの宗教的儀式をおこなう以上、もはや国民の統合の象徴とはなり得ず、憲法の基本的人権を奪われた人間を前提にした「象徴天皇制」だったのである。庶民には異様な光景にしか思えない儀式ではないか。不平等を前提に特別扱いすることはすべての差別につながることから、憲法との整合性が問われ、直ちに見直さなければならない、と考えている。

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1989年2月24日、昭和天皇大喪の礼

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1990年2月23日、即位礼正殿の儀。宮内庁のホームページより。

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主要祭儀一覧 (宮内庁ホームページ)より
http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi01.html

 

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2019年4月 8日 (月)

「文京区春日・小石川=坂と文学をめぐって」に参加しました(2)伝通院から安藤坂・牛坂・金剛寺坂・今井坂・吹上坂・播磨坂を経て石川啄木終焉の地へ

 善光寺坂から伝通院へは新しい道ではなく旧道をのぼる。徳川家康の生母、於大のために建立、千姫の墓所もある。大河ドラマの世界にはあまり関心はないのだが、ここには、古泉千樫、佐藤春夫、柴田錬三郎らの墓地もある。かつては、一帯でもっとも見晴らしのよい高台であったというが、いまでは、林立するビルしか見えない。ようやくここで休憩をとることになって、ホッとする。お休み所に入ると、熱いお茶もセルフサービスで飲める。

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山門の左手には、淑徳学園がある
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著名人墓所案内、高畠達四郎。橋本明治の名もあった
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墓石の文字は釈迢空の筆になるという

 お休み所の裏側の広い窓からは正面に「簡野道明」(18651938)の墓石が見えた。「えッ、誰だっけ、見たことのある名前!」と思っていると、参加者の一人が「漢和辞典の人よ」で、思い出す。そう『字源』(1923年)の編者ではなかったか。差し入れの和菓子をごちそうになり、15分間の休憩もあっという間に過ぎた。清河八郎のお墓参りができてよかったと、参加者のお二人が感想を述べていたのが少し意外ではあった。

 伝通院前の広い道を進み、春日通りの交差点を渡った左手に、一葉の妹、樋口邦子(18741926)が夫妻で営んでいた礫川堂文具店があったところ、書籍も扱っていたという。関東大震災で家を失った幸田露伴に、先の善光寺坂の家を紹介したのが邦子だったらしい。青木玉の作品、ムクノキの前の「小石川の家」である。春日通りを渡った先が安藤坂で、その中ほどに、中島歌子(18411903)の「萩の舎跡」の立て札のみが立つ。ここに樋口一葉、田辺龍子(三宅花圃)も伊藤夏子も通ったはずだ。

 私たちは、安藤坂をくだって、牛天神(北野神社)に向かった。神社までの階段は急で、私にはかなりきつかったが、ここを牛坂と呼ぶらしい。のぼりきって本殿の右手には、中島歌子の歌碑がある。一息ついてくだった先には、かつて神田上水が流れていたところで、いまは暗渠となって、巻石通りとよばれている。

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牛天神参道の牛坂
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中島歌子歌碑「雪中竹」と題して
「ゆきのしたにねさしかためて若たけの生ひいてむとしの光ぞおもふ」
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 かつては、牛坂下のあたりまでが入江であったとも

ふたたび安藤坂に戻り、のぼって左折したところには、川口アパートメントが現れる。案内の大和田さんからは、川口松太郎・三益愛子と川口浩・野添ひとみなどという懐かしい名前が飛び出した。川口家の住居を兼ねたマンションであった。1964年、いわゆる高級マンションのはしりとして話題を呼び、多くの芸能人が住んでいたことでも有名だったのではないか。こんなところにあったのだ。外観はだいぶ、年季が入っているようにも見えた。反対側は永井荷風の生家跡で、荷風の父親がこのあたりに大きな屋敷を構えたというが、いまはマンションが立ち並ぶ。そして突き当たるのが、金剛寺坂で、漱石「それから」の代助が三千代のもとに通う坂だったとの説明を受けると、なんだか義務感で読んだ小説の一つではなかったかと思い出すのだった。

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川口・三益夫婦の子息たちは、何かと話題の多い人たちだったと記憶しているが、早世だったのでは。今はどんな芸能人が住んでいるのかな

 金剛寺坂を巻石通りへとくだって西に進むと右手に、金富小学校、本法寺がある。本法寺は夏目家の菩提寺という。漱石自身の墓は、雑司が谷墓地に立派なものが建てられていて、私も、一度お参りしたことがある。少し戻って、金富小学校の横の坂、今井坂をのぼると、「徳川慶喜公終焉屋敷跡」という表示に出会う。植栽が整えられた庭園に見えた。塀に沿って行くと、「国際仏教学大学院大学」の門があるのだが、初めて聞く名前だな、と思って帰宅後調べてみると、霊友会の研究所が基礎となって1996年設立された大学院のみの大学で、5学年20名の定員だそうで、2010年にこの地に移転したという、日本で一番小さい大学か?キャンパス内になるのか、慶喜の時代の大イチョウだけは健在のようだった。

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文京区が大幅な町名変更を開始したのは、1964年からだったので、私はすでに、大学を卒業、生活圏は、このエリアからは離れている。この案内板の最後にはつぎの短歌が記されていた。
「この町に遊びくらして三年居き寺の墓やぶふかくなりたり」(釈迢空)
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本法寺の桜が見事であった。この本堂に向かって左に、夏目漱石が1888年1月、墓参の折に母を偲んで詠んだとされる句の碑がある。
「梅の花 不肖なれども 梅の花」
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金富小学校脇の今井坂を上ると左手に「国際仏教学大学院大学」の門があり、そこから見えるイチョウ、「徳川慶喜公屋敷大銀杏」と記された石柱が
右端に見える

 さらに、小日向台の住宅街を抜けて春日通りに出ると、同心町、竹早町の旧町名表示版に出会う。私には、新しい中学校の印象があるのだが、なんと開設は1960年だった茗台中学校、その角を左に曲がると、突然、長い石段の坂を見下ろすことになる。これが庚申坂である。この谷を下った先が切支丹坂ということになるらしい。私たちは引き返し、信号を渡って、吹上坂をくだることになる。

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この庚申坂をくだって、地下鉄のガードを越えた先に切支丹屋敷跡がある。
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急な庚申坂と緩いのぼりの切支丹坂なのだが、庚申坂が切支丹坂と間違われることがあるといい、つぎの短歌も、この庚申坂を詠んだとされる。
「とぼとぼと老宣教師ののぼりくる春の暮れがたの切支丹坂」(金子薫園)

  途中、マンションの横の細い道を入って行く一行の後に続くと、石垣とマンションの間に細い枯山水のような庭の奥まったところに「極楽水跡」があった。極楽水とは、伝通院開祖の上人が、引き出した名水の泉であったということで、田山花袋(18721930)の「蒲団」にも登場しているというが、そんな記憶はもちろんない。いまは、小石川タワーマンションの敷地の一部の細い緑地帯となって残っている。

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奥に井戸が見えるが、現在は、水が湧き出ているのだろうか。こうした形で残されていることに、ほっとした気持ちになった。

 

 緩い坂をさらにくだれば、正面の街並みの背後に広がる緑は、小石川植物園で、交差するのは千川通り。右の角には、共同印刷があるはずである。現在は、白い工事シートで全面覆われ、改修中で、社屋の姿はみえない。千川通りは、もともと千川、小石川とも呼ばれるどぶ川であって、洪水も起こっていたらしいが、1934年、暗渠となり千川通りになった。千川の上流は、池袋の立教大学の北側に流れる谷端川で、私の子供のころは、そのあたりのことを長崎とか千川と呼んでいたことを思い出す。こちらの千川が暗渠となる前の小さな工場街を舞台にしたのが「太陽のない街」(1929)で、作者の徳永直(18991958)は、共同印刷の植字工であった。

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改修中の共同印刷社屋、正面の茶色い看板には、大きく「吹上坂」とある。 
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 かつて、小石川には河童が出るなどといわれた寂しいところで、この坂下には「播磨たんぼ」が広がっていた。大正時代はその面影を残していて、つぎのような短歌も読まれていた。
「雑然と鷺は群れつつおのがじしあなやるせなきすがたなりけり」
(古泉千樫)

 時代は下って、1960年代の大学のころ、友人からは、よく氷川下セツルメントへの誘いを受けていたのだが、当時の私の関心の向くところではなかった。今から思えば、少しでも参加しておくべきだったかなとも。今回の散歩コースからは外れるが、植物園の西側に、簸川(ひかわ)神社とその脇の氷川坂の下には、氷川下セツルメント発祥の地の記念碑が建っているそうだ。また茗荷谷駅前の春日通りを渡った直ぐ先に、「大橋」の表札のある大きな門構えのお屋敷があった。まったく人の出入りのない、開かずの門だったような記憶があるが、博文館創業の大橋佐平家一族の住まいだったのだろうか。今回ちょっと足を延ばして、確かめておけばよかったとも思った。

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播磨坂、桜並木の遊歩道、週末なだけに、かなりの賑わいであった。

 文学散歩は、いよいよ最終盤に入り、つぎは、週末の花見客でにぎわう播磨坂の桜並木の遊歩道を、ふたたび春日通りに向かってのぼる、その中ほどを右に折れると、マンションとマンションの間に、石川啄木の歌碑があり、その横にはガラス張りの顕彰室があった。ここが、石川啄木終焉の地であったのだ。歩き始めてすでに3時間余、私の足はすでに疲労の極度に達していた。折も折、大和田さんから、写真撮りましょうかと声をかけていただいたので、啄木の歌碑の前で撮った一枚は、なんとも情けない疲れ切った姿であった。さらに進むと左手に小石川図書館があり、その前には「団平坂」の表示板があり、道の向かいは竹早公園であった。

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石川啄木終焉の地
啄木は、1911年8月、本郷の喜の床から、この地の借家に移り住んだが、翌年1912年(明治45年)4月13日26歳の生涯を閉じる。碑面には晩年の二首が、原稿用紙一枚の草稿そのままに写し取られている。
「呼吸すれば、 胸の中にて鳴る音あり。 凩よりもさびしきその音!」
「眼閉づれど 心にうかぶ何もなし。さびしくもまた眼開けるかを」
(啄木)

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          ガラス張りの、広くはない顕彰室は、歌碑と共に、数年前に市民有志により建てられたという、新しいものである。

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  小石川図書館の前に建てられた、この案内板にも、啄木の最晩年の直筆ノートから一首が記されていた。
「椽先にまくら出させて、ひさしぶりに、ゆふべの空に親しめるかな」(啄木)

迷っていた二次会だったが、どこか座りたい、休みたい一心で、参加することにして、茗荷谷駅前の路地を入った、たしか「和来路」という店ではなかったか、十人ほどで、にぎやかにおしゃべりをしているうちに、何とか帰途につく気力をとりもどすことができた。早めに失礼して、7時半過ぎ、家の近くのバス停で、初めて傘を開いた。降られずによかった、この日の万歩計は16100歩であった。

  ふたたび、小石川の坂の名前のおさらい・・・。

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2019年4月 3日 (水)

「文京区春日・小石川=坂と文学をめぐって」に参加しました(1)富坂から堀坂・六角坂、善光寺坂へ  

 新元号発表、代替わりの迫る中ながら、3月30日、日本社会文学会が開催する「文学散歩」に初めて参加した。今回は、「春日・小石川」ということで、何とか参加したいと思っていた。というのは、池袋で育った私は、地元の池袋第五小学校(今は廃校・統合され池袋小学校)の卒業後、中学校から大学は、文京区竹早町、大塚町、大塚窪町(旧町名)にある学校に通っていたこともあって、10年間もウロウロしていたエリアだったのである。池袋東口始発の都電17番線には、伝通院行、春日町行、数寄屋橋行があって、中学校は、停留所の同心町で下車していた。高校・大学は丸ノ内線の茗荷谷下車で、余裕をもって登校することができなかった、当時の私は、茗荷谷駅から教室まで、いつも駆け足のギリギリセーフのような日々だった。それにしても、いま思えば、あまりにも周辺のことを知らな過ぎたし、無関心でもあったのだ。その後、何かのついでがあれば、すっかり変貌してしまった学校近辺を歩く程度のことしかしていなかった。

 週末の午後、後楽園駅の礫川公園前に集合、総勢15人、案内は大和田茂さん。参加者がそろうまでの間、近くで「天皇制を終わりにさせましょう」とビラを配っている人がいた。その日は、近くの文京区民センターで、「終わりにしよう天皇制」ネットワーク、「おわてんねっと」の集会が開かれる。実は、そちらの集会も参加してみたかったのだが、時間がまるでかぶっているのであきらめたのだった。

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後楽園駅頭で配布していたチラシ

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大和田さんが苦労しての散歩コース地図

 

 礫川(れきせん)公園は、文京区シビックホールや区民センターでの催しの際、横を通り過ぎるだけだった。サトーハチローの「小さい秋みつけた」の碑とハゼノキ、幸田文家庭から移植されたハンカチの木、はじめて見て回った。サトーハチローは向ヶ丘弥生町に住んでいて、そこに記念館があったそうだが、閉館の折、庭から移植したのが、童謡にも登場する、このハゼノキだったらしい。公園には、立体的な段状の噴水があり、壁泉というそうだが、水は流れていなかった。振り返れば、左手の空には、ジェットコースターが轟音と共にめぐってくる。ここからが西富坂というところには、春日局の像があったが、いかにも新しい。といっても、1989年の大河ドラマ「春日局」放映後に建てられたらしい。彼女の辞世「西に入る月を誘い法を得て今日ぞ火宅をのがれるかな」の歌碑もある。この辺一帯は、水戸藩の屋敷だったのを、庭園の後楽園のみを残し、1875年陸軍の東京砲兵工廠となったが、1933年小倉へ移転、跡地を後楽園スタジアムに売却している。後で知ったのだがすぐ近くに、東京都戦没者霊苑があったのだが、知らずに、お参りはできなかったのが残念だった。

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手前がハゼノキ、奥がハンカチの木、ビルの上には、後楽園遊園地のジェットコースターが見える

富坂には進まず、春日通りを渡って、源覚寺=こんにゃく閻魔さんで有名な浄土宗の寺に向かう。眼病の老女が好物のこんにゃくを断って供え、祈願し続けたところ、夢に現れた閻魔王みずからが片目を差し出して治してくれた、というのがいわれらしい。閻魔王の片目がないのが、お堂の中が暗すぎてよくわからなかったが・・・。一葉の「にごりえ」にも登場するという閻魔様の縁日は今でも続いているらしい。山門の正面の通りを300mほど行くと一葉の終焉の地丸山福山町だという。「にごりえ」はもう一度読みなさねばならないが、いまの私によみがえるのは、今井正監督のオムニバス映画『にごりえ』(1953年)の「にごりえ」である。「酌婦」のお力の淡島千景と山村聡、お力へ入れあげ、身を持ち崩してしまったが、思いを断ちきれない源七の宮口精二と妻の杉村春子。高校生の頃、どこかの名画座で見た記憶がある。暗い画面の中の宮口・杉村のセリフを聞きとるのに精一杯だったような。

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閻魔王に供えられたこんにゃくの山

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ここが急な堀坂、 若い人にもややきつそうな、まして・・・

 源覚寺を裏道から少し歩いたところに現れたのは、急な堀坂だった。通りの片側は、大きなマンションが建築中であった。上りつめた丁字路の左手には、島木赤彦(18761926)が下宿し、『アララギ』の編集所にもなっていた「いろは館」跡の碑があった。右手に少し進むと、「三浦梧楼将軍終焉の地」という碑があった。三浦梧楼(18471926)といえば、山形有朋の宿敵、陸軍中将から政界入りをして、枢密院顧問になっている。朝鮮の公使時代、1895108日閔妃暗殺を企てたとされる、あの人で、1962年、富坂二丁目町内会名の解説によれば「政界軍部の御意見番として隠然たる勢力」を持ち、町内会設立にも尽力、「将軍の偉徳を偲んで」建てたと記している。こうした評価だけが定着してしまうことには、危惧を感じるのだった。

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堀坂の戸建ての家の壁にはこんなポスターが張られていた

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いろは館跡の、小倉遊亀の筆になる小さな碑。右手にはいろは館という小さなマンションが建つ 

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「三浦梧楼卿終焉の地」とある


小石川2丁目となった、その緩い坂、六角坂をさらに下ると、左手には、「前川」の表札のある大邸宅の塀が続き、下った先の右の角には、立花隆の仕事部屋兼書庫という円筒のような猫ビルがあった。

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六角坂を下りきった角に立つ猫ビル 

くねった道沿いに進めば、そこは善光寺坂と呼ばれる坂で、右手、中ほどには伝通院の塔頭の一つである善光寺があり、さらに進むと、慈眼寺、沢蔵司稲荷が続き、上り切ったところには、道の中央に大樹がそびえている。その手前には幸田露伴の旧邸があり、次女の幸田文が住み、現在はその娘の青木玉が住んでいるとのことだが、背の高い木戸の脇には「幸田・青木」の表札が見えた。

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慈眼寺の芭蕉の句碑「一しぐれ 礫や降って 小石川」

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沢蔵司稲荷の狐のねぐらだった「お穴」をのぞく

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善光寺坂を上りきったところの道の真ん中に立つのは、ムクノキ、沢蔵司(たくそうず)の魂が宿ているといわれている。角の石塀に囲まれた家が幸田露伴の旧邸、戦後建て直しているが、次女の幸田文とその娘の青木玉が住む。

 

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2019年4月 2日 (火)

新元号発表狂騒でシャッフルされてはならないこと

   きのう、41日、午後の数時間、家を空けていたが、10時半頃から、新聞やテレビを飛び飛びに読んだり、見ていたりした。元号発表が何で「秒読み」までされて報道されなければならないのか。政府は、これまでの、山と積まれた失政の数々を、この政治的ショーという茶番で、シャッフルしたい思いがありありで、うんざり感にさいなまれた。マス・メディアは、分かっていていながら、その茶番に乗って、これでもか、これでもかと、どうでもよい情報を流す。アナウンサーやコメンテイターたちも、皇室や元号に詳しい<専門家>たちも、菅官房長官発表時と安倍首相談話時の背後のカーテンの色が違うとか、緊張した息遣いだったとか、一瞬、表情が緩んだとか、などなど、いい加減やめてほしいと思った。記者たちの違った質問に、首相は、元号の出典や込めた思い?として、国語の教科書や参考書程度のフレーズを間違えないように繰り返すだけであった。

 出典が「国書」というけれど、漢文と漢字による万葉仮名の和歌で成り立つ万葉集だし、万葉集よりも数世紀前の中国の詩文「帰田賦」(張衡)に「仲春令月 時和気清」の一節があり、当然万葉集もそれを踏まえているので(「座談会・新元号のメッセージ」『朝日新聞』、「初の酷暑万葉集出典 中国古典踏まえ」『東京新聞』、「中国古典の影響残す 『文選』孫引きの指摘も」『毎日新聞』ともに42日)、「国書」云々を強調すること自体、ミスリードしていることになろう。「初めての国書から」とする分野外のノーベル賞受賞者やワケのわからない出で立ちの大学教授が、有識者懇談会の模様を語っていたが、その舞い上がっている姿は見苦しかった。

 この出典に関して、日本文学研究者のローバート・キャンベルと歌人の岡野弘彦が、「元号」自体を前提にしてのことだと思うが、ともに、国書か中国の古典かにこだわる必要はない、と語っている(『東京新聞』)42日)のは、その限りでは、日本文学の成り立ちから言っても当然のことだと思った。

 安倍首相は談話で、「(万葉集は)日本最古の歌集であるとともに、天皇や皇族、貴族だけでなく防人や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められ、わが国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書」というけれど、 日本の文学史において、「天皇から庶民まで」の歌集として「万葉集」像がクローズアップされるのは、たかだか、1890年以降のことである。「読み書きを知らない人たちが口頭で謡ったり、唱えたりしたものにしては、形式が整いすぎてはいないだろうか」と東歌や防人歌の作者に疑問を呈する研究者もいる(品川悦一『万葉集の発明』)新曜社 2001年、82p)。定型短歌は文字社会の産物であり、文字は文明の産物であり、列島社会の文化でもなかったことから「中華文明を継受した支配階層が発達させた文化」と考えるからである(前掲書84p)。

 幅広い階層の人々の歌を収めたという万葉集が、戦争に立ち向かう全国民的な民族意識、ナショナリズムの高揚の必要性と正岡子規らによる和歌革新運動とがあいまって、万葉集教育の普及、万葉集研究に支えられ、「国民的歌集」になっていった歴史を知る必要があるだろう。マス・メデイアの役割も欠かせない要素であった。この「国民的歌集」は、日中、太平洋戦争中にも、もてはやされることになる。学徒出陣世代の方から、斎藤茂吉の『万葉秀歌』上下(岩波書店 1938年)を愛読する者が多かったと聞いたことがある。

 一過性で終わるとも考えられるが、現在、書店では万葉集関係書のコーナーができたり、出版社では増刷を決めたりしていると、42日の夕刊各紙が伝えている。また、歌人たちが、出番とばかりに、メディアをにぎわすかもしれない。

 そんな、騒々しいなかで、「えッ、きのうから、令和に替わったんじゃないの」という人も現れるほどだが、42日の朝刊の片隅には、「森友問題 特捜部に起訴要望」(『朝日新聞』)、「公開の法廷で白黒を 森友不起訴不当受け申立書」(『東京新聞』)の記事があった。森友問題での公文書改ざんをめぐり、佐川元局長らの不起訴処分を受けて、市民団体が大阪地検の検察審査会に起訴を求めて申し立てをしていた。先週、佐川元局長らの不起訴相当、一部不起訴不当の議決を受けた、その市民団体が、さらに大阪地検特捜部に厳正な再捜査を求めたという内容で、いくつかの市民団体が大阪地検の検察審査会に申し立てをしているがそのうちの1件だった。地道に、森友・加計問題の幕引きに異議を唱え、闘い続けている市民たちもいる。

 天皇代替わりの「新しい時代」のどさくさと演出で、数々の違法・不法・不当・不都合な事実をチャラにしたい政府、許してはいけない。

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大谷石の塀と側溝のすきまにスミレが、今年が初めてか

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2019年3月12日 (火)

改元奉祝のなかで、「天皇依存」の系譜(2)そして、歌人たち

天皇が原発をやめよと言い給う日を思いおり思いて恥じぬ(吉川宏志)
 『短歌』201110月 『燕麦』2012年所収)

   東日本大震災による原発事故の直後に、吉川宏志が発表した作品である。当時、結句の「恥じぬ」の解釈をめぐって、若干の論議が交わされた。「ぬ」は完了なのか、「打消し」なのか、つまり「恥じた」のか「恥じない」のかどちらなのかと。私は、それまでの吉川の作品や発言から当然、「恥じた」として読んだ。「打消し」なら「恥じず」とするのが自然だからとも思った。作者は、もちろん「完了」の方だと明言し、近年の平井弘とのインタビューの中で、吉川自身、この一首について、つぎのようにも語っている。

「天皇に『原発をやめよ』と言ってもらおう、という発想自体に、天皇を利用しようという心根があるわけでしょう。それが恥ずかしい、という歌なんですよ。ただ、今の状勢を見てたら、天皇が言ってもだめかもしれないですね。今の政権は、天皇の意志なんてまったく無視しているわけでしょう。」(特集 平井弘インタビュー「恥ずかしさの文体」(後編)『塔』2017年4月) 

   また別の場所で、吉川は、国旗国歌法(1999813日に公布・施行)が成立したころは「〈天皇制〉を厳しく否定する論調が、歌壇では特に強かった」という認識で、当時の歌壇、時代の空気を思い起こしながら、つぎのように記す。 

 戦争体験などをして、非常に嫌悪感をもっている人たちが存在することもよく理解している。そういった人たちが、反対するのもよくわかる気がする。けれども、「君が代を歌わない権利」がある一方、「君が代を歌う権利」があることも明らかだろう。だから、卒業式などで歌うことを強制することには反対だけれど、逆にあまりに過剰に君が代を否定することにも違和感をもつ。君が代をたまに歌ったくらいで、異常な国家主義者になるわけでもない。君が代を肯定する善男善女は、世の中に無数にいるだろう。現在では、非常に激しく君が代を非難する態度も、社会的にあまり共感されないのではないだろうか。

 左翼的な人々(の一部)は、現実の天皇制を廃止すれば良いのだ、と考えた。しかし、そうではなくて、権力と責任の存在が曖昧なシステムそれ自体に、危険性は存在していた。おそらく、現実の天皇制を批判しても、何も変わらない。
 
むしろ、今年の天皇陛下の年頭のお言葉「東日本大震災から2度目の冬が巡ってきました。放射能汚染によりかつて住んでいた地域に戻れない人々や,仮設住宅で厳しい冬を過ごさざるを得ない人々など,年頭に当たって,被災者のことが,改めて深く案じられます。」
 
を聞くと、原発事故を忘れてしまったかのような、現在の首相や政府の発言よりも、ずっと心に沁みてくる。
 
 いろいろな意見はあると思うが、私は、単純に天皇制は悪だとは考えない立場である。
 (①②とも「短歌と天皇制について」『シュガークイン日録3』20130122日) 

  「国旗国歌法」の条文には、強制、義務化の文言はない。当時の小渕首相はじめ、議会の質疑でも、強制・義務化はない、としてスタートした。その後の経緯は、どうだろう。教育現場では、学習指導要領で縛り、職務命令という形で、「君が代」斉唱時の不起立、ピアノ伴奏拒否などにより受けた処分や不利益は、教師たちの思想信条の自由を侵すものではないか、との訴訟で各所でなされた。管理者の裁量の範囲内であり違憲とは言えない、という判断が定着しつつある中、処分が重すぎるという判決もあったが、まだ係争中のケースもある。吉川は、①において、「強制することには反対だけれど」などと、天皇みたいなことを言う。「君が代をたまに歌ったくらいで、異常な国家主義者になるわけでもない。君が代を肯定する善男善女は、世の中に無数にいるだろう。」とは、どういうことか。統制や弾圧は、些細なことから始まり、それによる萎縮や自主規制が強まり、息苦しくなって、気づいたときは、すでに抵抗の手段を奪われていたという歴史を、私たちは教えられたり、学んできたりしたと思う。

 

 政治の世界に限らず、時代はすでに、数の力で、少数派や異論を無視し、排除する構図が出来上がりつつある。「寛容」や「多様性」の旗を掲げるならば、日常的な談論風発、百家争鳴、混沌こそが、民主主義の基本ではなかったか、とも思う。自分と異なる意見が多数を占め、数の力が及ばないとき、「面従腹背」と言ってしまうのか。吉川のように「天皇を利用しようとする心根」を「恥じた」のならば、いまは“リベラルで、いい人”の天皇を持ち出すのは、フェアでない。②で言うように「権力と責任の存在が曖昧なシステムそれ自体に、危険性は存在していた。」とするならば、その「曖昧なシステム」に「天皇制」が寄与していなかったかを検証する必要もあるだろう。

 「単純に天皇制は悪だとは考えない立場」をとるのは自由だが、その「危険性」に本気で向き合おうとするとき、「現実の天皇制を批判しても、何も変わらない。」とするのは、いささか「単純」すぎないか。

  たまたま、吉川は、自分の意見を表明しているが、天皇依存の歌人も多いのではないか。逆に、天皇の短歌や「おことば」が、過大に評価され、利用されているのを憂慮している歌人もいるのではないか。いまこそ、この「改元」の奉祝ムードの只中でこそ、大いに声を上げるべきだろう。

24img111 レイアウトは異なるが、2019年2月24日朝刊各紙に掲載された政府広報

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商魂たくましい、広告の数々・・・。上が「朝日新聞」2月24日朝刊、下が同紙2月25日朝刊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年3月11日 (月)

改元奉祝のなかで、「天皇依存」の系譜(1)<リベラル>な人々

  大辻隆弘の「短歌と天皇制」(217日『朝日新聞』)について書くにあたって、自著と手元の本や新聞・雑誌のスクラップなどを読み返してみた。大辻が、「リベラル派」というわけではないが、「リベラル派」の「天皇依存症」について考えてみたい。

「天皇」への依存ぶりがよくわかるのは、多くの場合、安倍政権への反発や非難が根底にあって、天皇の「おことば」や「祈り」に行きつき、よほどまともなことをと相対的に評価するというパターンである。

 

<リベラル>な人々が

  まず思い起こすのが、かつて、当ブログにも書いたことある金子兜太(19192018)の発言であった。当時の『東京新聞』が連載していた「平和の俳句」で、選者の金子が、「老陛下平和を願い幾旅路」の句を選んだ短評で「天皇ご夫妻には頭が下がる。戦争責任を御身をもって償おうとして、南方の激戦地への訪問を繰り返しておられる。好戦派、恥を知れ。」(2016429日)と記していたことに、いささか驚いたのである。太平洋戦争下においては、海軍主計中尉として戦地体験を持ち、トラック島を離れるに際して、「水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置いて去る」と詠んだ代表作もあり、戦後の社会性俳句、前衛俳句運動のリーダーでもあった金子であった。近年、安倍政権批判の市民運動でのシンボリックなプラカードとなった「アベ政治を許さない」を揮毫したことでも知られていた。

<参考>
 
「平和の俳句・老陛下平和を願い幾旅路」(『東京新聞』2016429日) (『内野光子のブログ』2016517日)
 
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/05/2016429-463d.html

 

  また最近では、マルクス経済学者として知られる金子勝(1952~)は、昨年の天皇誕生日の記者会見後、つぎのようにツイートしていた(7:53- 2018年12月23)。 

【沖縄に寄り添う】天皇陛下は記者会見で、沖縄のくだりで声を震わせて「沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました」「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」と語る。アベは聞いているのか? @masaru_kaneko

 

日本共産党では
  これらの断片的な発言では、天皇制への言及はないものの、「安倍憎し」の思いからの、平成の天皇への活動や「おことば」への心情的な共感であった。さらに、近年、日本共産党が、天皇制、天皇へのスタンスを大きく「右」に舵を切った。そのきっかけは、20147月の安保関連法閣議決定に危機感を感じてのことであったのだろうか。何とか支持者を増やしたい、嫌悪感を払拭したいとでも思ったのか、201512月には、当ブログの下記の2件で触れているが、一つは、国会開会式への出席を表明したことである。議場の「玉座」から天皇が開会の言葉を述べる、あの開会式に、新憲法以来、出席を拒否してきた日本共産党が、天皇の言葉に政治的な発言がなくなったので、出席するといい出した。私は支持者でもないが、ちょっと理解に苦しみ、ネットで「綱領」を調べてみて、やはり疑問は去らなかったので、中央委員会に電話もしてみた。関心のある方は、そのやり取りを見てほしい。
 「綱領」(2004年)には「党は、一人の個人が世襲(せしゆう)で「国民統合」の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫(しゆびいつかん)した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃(そんぱい)は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである。」とある。たしかに天皇の制度の存廃は、国民の総意によって解決されるべきものであろう。しかし、法律や制度が、つねにすべて合憲というわけではないからこそ、その改廃や運用が議会や司法に問われるのではないか。前段では、現在の天皇の制度は、民主主義と両立するものでないことを明言しているからこそ、それまでずっと、その制度の運用の一環として望ましくないとして開会式を拒んできたはずである。環境に大きな変化があったわけでもない、天皇の言葉が劇的に変わったというタイミングでもない。変えた要因は不明のまま、マス・メディアが報ずるように、「共産党アレルギー」を払拭したかったのか、あるいは、共産党の「国民の声」係が電話口で答えるように、「開会式に出席したって『べつに、イイじゃん』っていう国民がほとんどでしょう、いまは安保関連法阻止の方が重要な課題なのを理解しないあなたの方がオカシイ」ということだったのか。

  環境の激変というのであれば、翌年20168月の天皇の生前退位表明であったかもしれない。ここでも、共産党は、その中身が、違憲の可能性がある退位特例法にも「静かな環境」での論議の末、全党一致で賛成した。 

<参考>
今年のクリスマスイブは(2)なんといってもそのサプライズは、国会開会式出席表明の共産党だった(1)(20151227日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/post-6623.html

 

 

若い<論客>たち

 こうした流れの中で、安保関連法反対、憲法9条改変反対、原発再稼働反対というその一点で共通する著名人となると、保守政治家や研究者、文学者、ジャーナリストやタレントなど、過去の活動や発言などはお構いなしに、集会や講演会などに登場するという現象が蔓延する。最初は、その意外性と物珍しさもあるのだろうが、繰り返されると、多くは、準備の足りない、アジテーションで終わり、いわゆる肩書や名前への「依存度」は増す。
なお、最近、共産党の広報の一つ「生放送!とことん共産党」という動画が配信されていることを知った。そこに登場する“若き論客”の白井聡や中島岳志の天皇観というのも気になったのである。それぞれ1時間前後の小池晃との対談の動画だけからでは明確ではない。  

白井は、その動画で、日本は、戦前の天皇に代り、敗戦後は、アメリカがその地位を引き継ぎ、天皇制国家は、対米従属国家となったことを強調していた。アメリカの同盟国の中でも日本は、類を見ない屈辱的な関係を維持しているが、アメリカとしては冷戦崩壊以降、とくにトランプ政権以降は、同盟国としての存在価値は下がっていることに気づかねばいけないと。別のところでは、その属国意識が、政治も官僚もメディアも劣化させ、考えることができない人間が増やしてしまい。安倍政権の「やってる感」に国民は騙されている(「戦後体制の根幹を崩す安倍政権」『マスコミ市民』20193月)。また、昨年の新著『国体論』(文芸春秋)では、つぎのような主旨の構想を展開する。すなわち、平成の天皇は「国民統合」を志向するがゆえに、親米保守の政権が日本社会を荒廃させている現状に危機意識をもって「本来ならば国体の中心にいると観念されてきた存在=天皇が、その流れに待ったをかける行為に出たのである」とした。その決断に対する「共感と敬意」の意思を国民が受け止めることで真の民主主義への可能性を探ることができるのではないか、ということらしい。

    天皇の決断を介して、真の民主主義の可能性を探るというのも、大いなる天皇依存であって、まさに国民一人一人が考えて行動すべき本来の民主主義から大きく外れることになるのではないか、と私には思えたのである。

 また中島は、先の「とことん共産党」の対談では、苦難の中で「ブレない共産党」に敬意を表していたが、まず、天皇制に関しては曲折があったことは確かだろう。その辺をどう受け止めているのかは、どこかで語っているのだろうか、図書館にかけ込まねばならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年2月18日 (月)

私の「1950~60年代の池袋」ベスト5は~「アド街」を見て

先週土曜日の「アド街」は池袋だった。、しかも「昭和の」がついていたのである。池袋生まれの私は、見逃すわけにはいかない。ほんの時々だが、アド街は、見ることはあったが、聞き流しの程度のことが多かった。

録画こそ取らなかったが、テレビの前に座った。私は、生れも育ちも池袋で、社会人となり、家を離れた1970年代初めまで暮らしていた。敗戦後の池袋の様子を、育った環境を振り返りたくなった年になったのだろう。昨年の夏には、くすりやの娘としての体験を、このブログでも書き綴ってしまった。

参照

20190216 21:00 - 21:54

出没!アド街ック天国~昭和の池袋~

https://yomu.tv/CodWY

 

この番組は、どういう基準なのかわからないが、20位のランク付けによって、20位から順に、場所や店、人物などが紹介される。いわば、話題性が低いか高いかなのだろう。今回は、流行した歌などにひっかけているのが、特徴なのかもしれない。「私の昭和」とは、ほぼ1015年ほど、いわば一回りくらいはずれ込んでいる感じではあったが、知らなかったことも沢山あって、それなりに楽しかった。

私にとって、池袋といえば、なんだろう。「昭和」というより1950年代、60年代の池袋である。

<ヤミ市>

番組では、どういうわけか「ブラックマーケット」と呼ばれていたが、いつからそんな呼び方をするようになったのだろう。出演者の内の高齢者?に入る荒俣宏(1947~)と渡辺えり子(1955~)は「ヤミ市」と口にしていたようだった。私たち家族には、敗戦後の暮らしの衣食がかかっていた西口の「ヤミ市」であり、子ども心に、強烈な印象を残している。西口のヤミ市の入り口のヘビ屋?は不気味で怖かったが、アイスキャンデーを売っていた食堂の「のとや」があったし、大抵の食料や日用品はそろうのだった。母の買い物にはよくついていった。ヤミ米を調達したのもここだった。

 

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「戦後池袋~ヤミ市から自由文化都市へ 展示資料解説」(池袋=自由文化都市プロジェクト実行委員会編刊 2015年9月)より

<映画>
 高校からの学生時代には、ずいぶんと通った映画館である。番組でも登場した、東口の人世坐(19481968)、文芸座(19561997)、文芸地下劇場(1955~)、西口のシネマロサ(1947~)はもちろん、もっとさかのぼれば、ロサの近くにはエトワールというのもあって、邦画の二本立て、三本立てがかかっていて、ジメジメして、周りに怖いオニイさんがいるような、なんか一番居心地の悪い座席だったような気がする。ロサには、その後、シネマセレサ、シネマリリオなんて言う名の映画館も併殺されたのは、1950年代半ばだったか。さらに駅近には、ピース座(⇒松竹名画座、19511990)というのもあって、池袋演芸場(19511990、新築1993~)と同じ建物だった。さらに、さかのぼれば、旧豊島師範の先、ヤミ市を抜け出たところに邦映座というのがあった。小学校の映画教室でも入ったような気がする。下の地図で言えば東横百貨店の向かいの「東宝シネマ」ということになるのか。東口には、今のジュンク堂の先、旧雑司ヶ谷5丁目の一角に山手劇場(194671957~?)もかなり古く、松竹映画専門だったような記憶がある。家の近くの銭湯「平和湯」の脱衣所の天井近くには、映画館のポスターがぐるりとひしめいていた時代である。

下の図は、手元にあった『新旅行案内5 東京』(日本交通公社 19556月初版、19604月Ⅶ版)の「池袋付近」(84P)の地図である。これによれば、今の池袋駅北口を出たところの東口に抜ける地下道を上がった、現在のパルコ別館とビックカメラ本店のあるところ、丸物デパート(19571969、現在パルコ)の向いに、池袋日活、池袋東急、池袋日勝館の三館が並んでいるが、この辺りにも映画館は建て込んでいた。多分、この中の池袋東急だったのか、高校の映画教室で、『エデンの東』を見た記憶がある。『エデンの東』の日本封切りが195510月とあるから、高校1年か2年生の時だったのか。今でも映画教室なんてやっているのかなあ。池袋東急は、池袋東洋劇場として1949年には開館、改築後のビルで1998年からのシネマコンプレックスとして2011年まで営業していたらしい。

日勝館は、戦前からあった映画館だったらしいが、焼け跡にいち早く開館したのが1946年、1960年には池袋松竹となり1963年池袋スカラ座になっているが、日勝地下や日勝文化劇場というのも記憶にある。いずれも、ハタボーリング場などで知られる旗興行の運営だったというが、1995年再開発のためすべて閉館したという。

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      『新旅行案内5東京』(日本交通公社 19556月初版、19604月Ⅶ版)より

参照

・豊島区映画館・池袋東口地区

https://www.japan-post.com/me/data2/res-me-std.php?FRTWID=FW000237

豊島区映画館・池袋西口地区

https://www.japan-post.com/me/data2/res-me-std.php?FRTWID=FW000238

 

現在はヤマダ電機が入っている旧三越の裏手にも、いくつかの映画館があった。巣鴨プリズン跡のサンシャイン60がオープンしたのが19784月というから、私は、結婚・転職・出産、すでに両親もなくなっている池袋の生家に帰省することはめったになかった10年余を過ごしていた。この間の池袋の変貌ぶりは、大きかった。

 

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         『東京区分地図』(国際地理学協会編刊 1990年5月)より

<立教大学>
 1945414日未明の城北大空襲で、池袋は焼野原になったが、立教のキャンパスだけは大方焼け残った。長兄は、戦前に立教中学校を卒業しているし、次兄は、戦後、疎開先から立教中学校に編入し、そのまま大学に進んでいる。時代は下るが、私も娘も社会人入学した修士課程で世話になっているだけに、我が家には縁のあるキャンパス。私の場合、メデイア史をと思って入学したが、原書購読はきつかった。若い院生に助けられながら、何とか単位も取れ、修論も提出できた。学内外のメンバーで立ち上げられた天皇制研究会にも参加することができたのは貴重な体験で、その後の仕事にも活かすことができたのではないかと思っている。愛校心ともちがう、育った池袋と一体となって立ち現れる、何かと気になるキャンパスにもなっている
 「アド街」の習いによれば、私にとっての「昭和の池袋」ベスト5ということになれば、上記の「ヤミ市」「映画」「立教大学」に続くのは、やはり、「百貨店」だろうか。西口の東横・東武であり、東口の西武である。5番目が、生家のある「平和通り」か。いまは「へいわもーる」というらしいが、その商店街としての変貌ぶりを見ると、懐かしさよりは、やはり寂しさの方がまさってしまう昨今ではある。思いは、いろいろこみあげてくるものがあるのだけれど・・・。

・<池袋学>夏季講座に参加しました~生活者の視点が欲しかった―池袋のヤミ市への熱い視線は、“男のロマン”にも似て―2015年9月15日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/09/post-9a00.html

2015年、戦後70年企画として、立教大学が中心になって開催された「戦後池袋 ヤミ市から自由文化都市へ」という展示とシンポジウムをのぞいてみた。その時の報告は、以下の記事にもあるが、「自由文化都市」といわれても・・・の思いは変わらない。シンポの講師4人のだれもが池袋に住んだことのない研究者ばかりだったのである。

下の地図は「戦後イケブクロ会場案内MAP」『戦後池袋 ヤミ市から自由文化都市へ』2015年9月)より

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