2023年8月19日 (土)

NHKの8月<終戦特集>散見(2)「アナウンサーたちの戦争」と「雨の神宮外苑―学徒出陣6年目の証言」

「雨の神宮外苑~学徒出陣56年目の証言」(2000年)

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   サブタイトルに「56年目の証言」とあるように、2000年8月の放映であった。雨の神宮外苑の学徒出陣のシーンは断片的には見ていたが、番組は、今回初めてである。新しく見つけたフィルムは15分で、それまでのニュース映像の約3倍ほどもあったという。行進中の学生のクローズアップや観客席に動員されていた学生、女子学生に、陸軍戸山学校の軍楽隊の様子まで撮影されていた。学生の表情からは、悲壮な覚悟が伺われ、ぎっしり埋まった観客席の俯瞰は、北朝鮮のイベント映像を見るようであった。

 1943年10月21日、文部省主催の「出陣学徒壮行会」に参加した。学生は、77校から2万5000人といわれ、5万人の観衆が動員され、多くの制服の女子学生たちも観客席から声援を送った。番組に登場する証言者の十人近くみなが70代後半で、見送った側の3人の女性は、70代前半だった。

 証言するほとんどの人が、あたらしいフィルムを見て、あらためてマイクの前で、当時の自分の気持ちと現在の思いをどう表現したらいいのかを戸惑いながら、語る言葉の一つ一つが、重苦しく思えるのだった。生きては帰れないという怖れ、時代の流れには抗することができない諦め、地獄のような戦場の惨状・・・複雑な思いが交錯しているかのようだった。

 また、同盟通信社の記者だった人は、東条英機首相が、学徒出陣に踏み切った理由として、二つの理由を挙げていた。一つは、学生への兵役猶予の見直しの必要性であったし、一つは、当時は大学生といえばエリートで、富裕層の子弟にも兵役についてもらうことによって、下層家庭からの不満を解消し「上下一体」となることであったという。

 ただ、多くの証言の中で、この番組でもっとも言いたかったことは何だったのだろう。私には疑問だった。証言者の中で、語る頻度が一番多く、番組の大きな底流をなすように編集されていた、志垣民郎という人の証言だった。彼はよどみなく、戦争は始まってしまったのだから、国民の一人として国に協力するのは当然なことで、大学でも、自分たちだけ勉強していていいのかの思いは強く、戦争に反対したり、逃げたりする者はいなかった・・・と語るのだった。この人、戦後は、どこかの経営者にでもなった人かな、の雰囲気を持つ人であった。どこかで聞いたことのあるような名前・・・。番組終了後、調べてみてびっくりする。復員後、文部省に入り、吉田茂内閣時の1952年、なんと総理大臣官房内閣調査室(現内閣情報調査室)を立ち上げたメンバーの一人だったのである。1978年退官まで、内調一筋で、警備会社アルソックの会長を務めた人でもある。2020年5月97歳で亡くなるが、その前年『内閣調査室秘録―戦後思想を動かした男』(志垣民郎著 岸俊光編 文春新書 )を出版、敗戦後は左翼知識人批判に始まり、学者・研究者を委託研究の名のもとに左翼化を阻止したという始終を描く生々しい記録である。番組での発言にも合点がいったのである。

もうひとり、作家の杉本苑子も出演していて、動員されて参加したのだったが、学生が入場するゲイト附近で、なだれを打って声援をした思い出を語っていた。当時は許される振る舞いではなかったものの、気持ちが高ぶっての行動だったが、学徒へのはなむけにはなったと思いますよ、といささか興奮気味で話していた。が、彼女を登場させたことの意図が不明なままであった。

 そして、エンドロールを見て、また驚くのだが、制作には永田浩三、長井暁の両氏がかかわっていた。二人は、2001年1月29日から4回放映されたETV特集「戦争をどう裁くか」の「問われる戦時性暴力」への露骨な政治介入の矢面に立つことになる。さらに、その後の二人の歩み、そして現在を思うと複雑な思いがよぎるのだった。

  8月も半ばを過ぎた。その他『玉砕』(2010年)、『届かなかった手紙』(2018 年)などの旧作も見た。今年も<昭和天皇もの>が一本あったが、まだ見ていない。平和への願いを、次代に引き継ぐことは大切だ。でも、過去を振り返り、そこにさまざまな悲劇や苦悩を掘り起こし、悔恨、反省があったとしても、現在の状況の中で、いまの自分たちがなすべき方向性が示されなければ、8月15日の天皇や首相の言葉のように、むなしいではないか。表現の自由がともかく保障されている中で、NHKは、ほんとうに伝えるべき事実を伝えているのか。他のメディアにも言えることなのだが。近々では、統一教会然り、ジャニーズ然り・・・。

 

 

 

 

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2023年4月 3日 (月)

宮内庁の「広報室」って、何を広めようとするのか

 4月1日に、宮内庁総務課に「広報室」が新設され、その室長が決まったという。報道によれば、職員は、従来の記者クラブ対応の総務課報道室(15人)からの5人と兼務職員、増員3人と併せて9人、増員のうち1名は民間出身でのスタートで、室長が、警察官僚から起用された女性であった。茨城県警捜査二課、警視庁組織犯罪対策総務課長を経て、警察庁外事課経済安全保障室長からの転任である。暴力団、外国人犯罪対策、国際的な経済犯罪対策にかかわってきた経歴の持ち主が宮内庁へというのだから、ただならぬ人事といった印象であった。

 そもそも、広報室新設の背景には、秋篠宮家長女の結婚や長男をめぐっての情報が報道やネット上に氾濫したことや秋篠宮が記者会見で、事実と異なる場合に反論するための「基準作り」に言及したことなどがあげられる。

 現に、広報室は、皇室への名誉を損なう出版物に対応する専門官、あたらしい広報手法を検討する専門官も置き、SNSを含めた情報発信の強化を目指し、さらに1人、民間からの起用を予定しているという。

 ということは、裏返せば、皇室報道の規制強化、広報宣伝による情報操作をも意味するのではないか。

 象徴天皇制下にあっても、深沢七郎「風流夢譚」事件(1960年)、嶋中事件(1961年)、天皇制特集の『思想の科学』廃棄事件(1961年)、小山いと子「美智子さま」連載中止、(1963年)、富山県立美術館カタログ販売禁止(1987年)・・・にみるような皇室情報のメディア規制が幾度となく繰り返されてきた。その結果として、現在にあっても、メディアの自主規制、タブー化のさなかにあるともいえる。逆に、新聞やテレビが昭和天皇の在位〇年祝賀、昭和天皇重病・死去、平成期における天皇の在位〇年祝賀、生前退位表明・改元の前後の関係報道の氾濫状況を目の当たりにした。

 メディアの自主規制が日常化する中で、広報室長は、記者会見で「天皇陛下や皇族方のお姿やご活動について皆様の理解が深まるよう、志を持って取り組んでいきたい」と述べたそうだ。

 <マイナンバーカード普及宣伝>を民間の広告代理店にまかせたように、宮内庁も<電通>?人材を入れたりして、大々的にというより、格調高く、丁寧な?広報を始めるのだろうか。

 現在の天皇・皇后、皇族たちへの関心が薄弱になってきている現状では、情報が発信されれば、されるほど、「なぜ?」「なんなの?」という存在自体を考えるチャンスになること、メディアが確固たる自律性を取り戻すことを期待したい。

 

わが家の狭庭には桜はないけれど、春は一気にやって来た。 

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3月29日、黄スイセンは、かなり長いあいだ咲いていた。

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3月31日、レッドロビンを越え、モクレンは2階に届くほど。

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4月4日、奥のツバキは、ほぼ散ってしまったが

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2023年2月25日 (土)

『図書新聞』の時評で『<パンデミック>とフェミニズム』が紹介されたのだが

 新・フェミニズム批評の会の事務局から、下記の時評で、『<パンデミック>とフェミニズム』が取り上げられているとのことで、『図書新聞』の画像(一部)が添付されてきた。書評が少ない中で、紹介されたことはありがたいことであった。

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  『図書新聞』では、岡和田晃「《世界内戦》下の文芸時評」が連載中で、2月25日号には「アイデンティティをめぐる抹消させない<女たちの壁>」と題して展開されている。そこで拙稿「貞明皇后の短歌が担った国家的役割―ハンセン病者への<御歌碑>を手がかりに」に言及された部分を引用させていただく。 

明治天皇の歌が翼賛体制を正当化するのに使われた半面、厭戦的な内容を含む貞明皇后の歌はその陰に隠されてきた点や、皇后が「良妻賢母」的なロールモデルを担いつつ、父権的温情主義(バターナリズム)に加担したという二重性を指摘している。

  前半は、その通りなのだが、後半における「ロールモデル」と「父権的温情主義」の「二重性」を指摘しているという件には、驚いた。というのも、突如、現れた「ロールモデル」、「父権的温情主義」、「二重性」という言葉を、私は一切使用していなかったからである。さらに良妻賢母の「典型的なモデル」を“担わされた”ことと貞明皇后のハンセン病者への歌と下賜金に象徴される差別助長策を“担わされた”ことは、「二重性」というよりは、日本の近現代における天皇・皇室が時の権力に利用される存在であるという根幹でつながっていることを、実例で示したかったのである。

 なお、拙稿については、昨秋の当ブログでも記事(2022年10月31日)でも、ダウンロード先を示したが、再掲したので、ご一読いただければ幸いである。

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2023年1月21日 (土)

忘れてはいけない、覚えているうちに(11)1950年代の映画記録が~1957年から60年代へ②

1959年 浪人中~大学1年 41( 邦画30 +洋画 11)本

花のれん(豊田四郎)  初夜なき結婚(田中重雄)女ごころ(丸山誠治)

祈りのひと(滝沢英輔) キクとイサム(今井正) 新婚列車(穂積利昌)

若い川の流れ(田坂具隆)風花(木下恵介)    地上(吉村公三郎)

白い山脈(今村貞雄)  お嬢吉三(田中徳三)  狐と狸(千葉泰樹)

野獣死すべし(須川栄三)次郎長富士(森一生)  弁天小僧(伊藤大輔)

あたらしい製鉄所(瀬川順一)          子の刻参上(田坂勝彦)   

伊達騒動風雲六十二万石(佐伯清)        謎の十文字(荒井良平)

隠し砦の三悪人(黒澤明)潜水艦イー59号降伏せず(松林宗恵)

素晴らしき娘たち(家城巳代治)      千代田上炎上(安田公義)

決斗水滸伝・怒涛の対決(佐佐木康)    新吾十番勝負(松田定次)

江戸っ子判官とふりそで小僧(沢島忠)   電話は夕方鳴る(吉村公三郎)

酔いどれ天使(黒澤明) 浪花の恋の物語(内田吐夢)人間の壁(山本薩夫)

大いなる西部(ウィリアム・ワイラー)

最後の歓呼(ジョン・フォード) 

人間と狼(ジュゼッペ・デ・サンティス)

ボクの伯父さん(ジャック・タチ) 

モンプチ私の可愛い人(ヘルムート・コイトナー)

くたばれヤンキース(ジョージ・アボット、スタンリー・ドーネン) 

先生のお気に入り(ジョージ・レートン)

お熱いのがお好き(ビリー・ワイルダー) 

恋人たち(ルイ・マル) 

お嬢さん、お手やわらかに(ミシェル・ポワロン) 

騎兵隊(ジョン・フォード)

 「新平家物語」(1955年)以降、市川雷蔵(1931~1969)主演の「月形半平太」「弁天小僧」「お嬢吉三」「次郎長富士」などはマメに見ていた。いまでいう「推し」だったのかもしれない。当時は、毎月のように!!雷蔵の主演映画が公開され、大映を背負う稼ぎ頭であった。酷使された上の早世ではなかったか。社長の永田雅一は、そのワンマンぶりや語り口から「永田ラッパ」と呼ばれていた時代だった。悪名高い「五社協定」も主導し、話題になったのを思い出す。一方で、高度成長を後押しするような記録映画にも力を入れていたようで、夕張炭鉱を舞台に石炭の重要性を説く「黒い炎」(1958年)、北アルプスの景観に迫った「白い山脈」(1959年)、千葉川崎製鉄の「あたらしい製鉄所」(1959)なども封切り映画と併映されていた。

 「新・平家物語」(吉川英治)は『週刊朝日』で、「氷壁」(井上靖)、「人間の壁」(石川達三)などは、新聞の連載中にも愛読したものだが、連載が終わるとすぐに映画化されることが多かった。

 この年は、大学に入った解放感も大きかったが、夏からの半年間の闘病の末、12月に母が56歳で亡くなった寂しさもあった。前年に結婚した長兄の初孫の誕生、私の進学をも見届けてくれたのが、せめてものなぐさめであった。いまだったら、手術や化学療法で助かった命であったかもしれない。

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2023年1月17日 (火)

忘れてはいけない、覚えているうちに(10)1950年代の映画記録が~1957年から60年代へ①

 1957年からの私の映画記録は、簡略化?されていた。日付と題名と監督名だけで、その監督の名前も書かれてない場合もあるが、今、わかる範囲で補った。字数の関係で、和洋に分けた。ここでは日付を省くが、ほぼ日付順に記した。洋画にはマーカーをしている。

 1957年(高2~高326(邦画22+洋画4)本

孤独の人(西河克己)  最後の突撃(阿部豊) 真昼の暗黒(今井正)

ビルマの竪琴(市川崑) 夜の河(吉村公三郎) 早春(小津安二郎)

米(今井正)                若さま侍捕物帖・鮮血の晴着(小沢弘茂)

朱雀門(森一生)    満員電車(市川崑)       黄色いカラス(五所平之助)

正義派(渋谷実)    東京暮色(小津安二郎) 雪国(豊田四郎)

柳生武芸帖(稲垣浩)    夜の蝶(吉村公三郎)   足摺岬(吉村公三郎)

雲ながるる果てに(家城巳代治)                      爆音と大地(関川秀雄)

鮮血の人魚(深田金之介)                               青い山脈(松林宗恵)

風の中の子供・善太と三平物語(山本嘉次郎)

理由なき反抗(ニコラス・レイ )

八月十五夜の月(ダニエル・マン) 

ジャイアンツ(ジョージ・スティ―ブンスン)

世界の七不思議(テイ・ガーネット)

   受験生真っ盛りながら、ジェームス・ディーンの「理由なき反抗」「ジャイアンツ」は、見逃したくはなかったのだろう。「米」は霞ケ浦の大きく帆を張った船のワカサギ漁のシーンが印象に残っている。ストーリーは思い出せないが、親子を演じた加藤嘉と中村雅子の結婚、去年亡くなった江原真二郎と中原ひとみが兄妹役で共演、後に結婚したなどというゴシップの方をよく覚えている。

1958年 高3~浪人中 31(邦画21+洋画10)本

二人だけの橋(丸山誠二) 大当たりタヌキ御殿(佐伯幸三)

氷壁(増村保造)              陽気な仲間(弘津三男) 忠臣蔵(渡辺邦男)

恋人よ我にかえれ 宝塚花詩集(白井鐵造)*    

陽のあたる坂道(田坂具隆)羅生門(黒澤明)       野良犬(黒澤明)  

つづり方兄妹(久松静児)   鰯雲(成瀬巳喜男)      裸の太陽(家城巳代治)

波止場ガラス(伊賀山正光)無法松の一生(稲垣浩)  異母兄弟(家城巳代治)

巨人と玩具(増村保造)      遠州森の石松(マキノ雅弘)

湯島の白梅(衣笠貞之助)    スタジオはてんやわんや(浜野信雄)

月形半平太(衣笠貞之助)    黒い炎(西村元男/ドキュメンタリー)

王様と私(ウォルター・ラング) 

野郎どもと女たち(ジョセフ・L・マンキウィッツ) 

マダムと泥棒(アレキサンダー・マッケンドリック) 

殿方ご免遊ばせ(ミッシェル・ボワロン)

OK牧場の決斗(ジョン・スタージェス) 

黒い牙(リチャード・ブルックス) 

白鯨(ジョン・ヒューストン)

情婦(ビリー・ワイルダー) 

三人の狙撃者(ルイス・アレン) 

若き獅子たち(エドワード・ドミトリック) 

 摸試などの合間を縫って、受験生にしては、見ていた方ではないか。これでは、勉強の方は頼りなかったわけである。黒沢の「羅生門」や「野良犬」や戦時中の名作「無法松の一生」(1943年)を見逃すわけにはいけないという気持ちがわからないではないが、どうでもいい?作品も結構見ていた。洋画といってもアメリカ映画だが、かなりの名作を見ていたことになる。マーロン・ブランド、バート・ランカスター、モンゴメリー・クリフト、グレゴリー・ペック・・・。誰もが魅力的に思えた。
   この頃、家の商売柄、製薬会社や問屋の招待というのがときどきあって、歌舞伎座、明治座、新橋演舞場などへ、両親や兄たちが出かけていたと思う。*の宝塚公演は、私が生まれて初めての宝塚で、次兄が私の卒業祝いか、予備校入学祝い?のつもりだったか、手配してくれて、一緒に出掛けている。その頃の日記帳には、こんな歌が書きつけてあった。私の二階の部屋には、ネオンだけでなく、店の向かいのパチンコ屋の店内放送も聞こえていた。短歌会などに入会する前なので、活字にもなっていない短歌で、第一歌集『冬の手紙』にも収めていない。なんだ、ここからの成長があまりみられないではないか。

・受験誌を求めし帰路のウインドにまといてみたき服地の流れ

・極端に襟幅広きコート着る女の吐息は夜道に残る

・窓染める赤きネオンの点滅は風邪に伏したる寝床に届く

・存分に日差しを受けて本探す合否の不安しばらく忘れ

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2023年1月13日 (金)

「國の會ひにまゐらんものを」~変わらぬ女性の願いと壁

『女性展望』1・2月号の巻頭言に寄稿しました。

 『女性展望』はなじみのない方も多いと思いますが、市川房枝記念会女性と政治センター発行の雑誌です。

 1924年12月、久布白落実、市川房枝らが中心となって婦人参政権獲得期成同盟が発足、翌年、婦選獲得同盟と改称し、1927年には機関誌『婦選』を創刊します。『婦選』は、その後『女性展望』と改称し、女性の参政権獲得運動の拠点にもなった雑誌です。1940年、婦選獲得同盟が解消を余儀なくされ、婦人時局研究会へと合流する中で、『女性展望』も1941年8月に終刊します。

 敗戦後、アメリカの占領下で婦人参政権を獲得するに至り、市川は、1947年、戦時下の活動から公職追放、1950年の追放解除を経て、日本婦人有権者同盟会長として復帰します。1946年には、市川の旧居跡に婦人問題研究所によって婦選会館が建てられ、現在の婦選会館の基礎となり、1954年には、『女性展望』が創刊されています。市川の清潔な選挙を実現した議員活動については、もう知る人も少なくなったかもしれません。1980年6月の参議院議員選挙の全国区でトップ当選を果たしましたが、翌年87歳で病死後は、市川房枝記念会としてスタートし、2011年、市川房枝記念会女性と政治センターとなり、女性の政治参加推進の拠点になっています。こうして市川房枝の足跡をたどっただけでも、日本の政治史、女性史における女性の活動の困難さを痛感する思いです。 

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『女性展望』2023年1・2月号

 表題は、1927年『婦選』創刊号に、寄せられた山田(今井)邦子の短歌一首の結句からとりました。末尾の安藤佐貴子の短歌は、20年以上も前に、「女性史とジェンダーを研究する会」で、敗戦直後からの『短歌研究』の一号、一号を読み合わせているときに出会った一首です。私は、『現代短歌と天皇制』(風媒社 2001年)の準備を進めているときでもありました。安藤佐貴子については、会のメンバーでまとめた『扉を開く女たち―ジェンダーからみた短歌史1945~1953』(阿木津英・内野光子・小林とし子著 砂小屋書房 2001年)に収録の阿木津英「法制度変革下動いた女性の歌の意欲」において、五島美代子、山田あきとともに触れられています。

 

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2023年1月 1日 (日)

忘れてはいけない、覚えているうちに(6)1953年という年ー70年前のお正月は

 そんなに大きくないボール箱を開けてみたら、なんと、日記と思しき手帳が30冊くらいびっしりと入っていた。忘れていたわけではないが、一番古いのが「昭和27年」、これは中学校受験と中学校入学までの4カ月間の記入しかない。しかし、ここで、私は一つのつらい体験をしている。ある私立女子大学の付属中学校を受験して不合格となった。それだけならあきらめがつくのだが、一緒に受けたクラスメートが合格した。不合格だったことを担任に報告しにいくと、なぜか「成績が悪かったわけではなかったんだよ」「だいじょうぶ、こんど、がんばればいい」と、職員室の先生たちから慰めたり、励ましてもらったりして、「成績では負けていないはずなのに」のくやしさもあって、思わず涙をこぼすといった体験をした。そして、後から受験した国立の付属中学校に、運よく合格したので、何とか気持ちがおさまった、という経緯があった。

 次の年、「昭和28年」は、それでも1月から9月まで続いている日記で、小さな横罫のノートにややなぐり書きにも近い勢いで書いている。今から70年前の1953年の正月には、いったい何があって、何を書いていたのだろう。

「初春のよろこび」
1月1日(木)晴、くもり、午後風:今年こそ、一年間、日記を書き続けるぞ、の覚悟と人には絶対見せないから、書きたいことを書く、とも記されている。
2日(金)晴、くもり:宿題の書初めは「初春のよろこび」で、池袋東口の西武デパートに書初めの紙を買いに行っている。商店街をやって来た出初式の人に、父が二百円あげたら「はしごの途中までいってちょっとさかさまになっておりてきた。ほんとに貧弱なもんだ。竹やさんや自転車やさんはさすがにすごかった」とご祝儀の差をまざまざと見せつけられたらしい。
3日(土)晴:「今日も朝湯にいった」と店の向かいの銭湯「平和湯」に出かけ、夜は、家族と「百人一首」、次兄と「はさみしょうぎ」で遊んでもらっている。

放送討論会と「ひめゆりの塔」
1月4日(日)晴:「昨日あたりからさわがれていた秩父宮がおなくなりになりました。秩父宮様は天皇下の一つちがいの弟です。なんとかむづかしい病名だが結局はじ病の結核だろうと思う」など、一応敬語が使われているが、「陛下」を「階下」と疑いもなく書いている。もっとも、語源からすると、「陛」も「階」も同じらしいが、戦前だったら不敬罪。なんと、同じ日に、豊島公会堂でのNHKの放送討論の中継放送を見に行っている。たぶん母と一緒ではなかったかと思う。議題は「各政党の情勢判断とその対策」で、講師は自由党総務星島二郎、改進党幹事長三木武夫、右派社会党書記長浅沼稲次郎、左派社会党書記長野溝勝、司会河西三省で、いずれも懐かしい名前である。日記のその先は少し長くなるが引用してみる。

 「討論会はなかなか大変なものでやじも多く、質問も多かった。星島二郎は自由党らしくすましていて何を言われてもへいちゃら。改進党の三木はちょっと小さい声を出して皆を引きつける。そしてあんまり人気もなく、質問も少ない。かえって司会者から「三木さんへの質問ある方」といった調子。稲次郎は、相変わらずのがさがさ声をだし、結局はみんなこの人の話に興味をもちひきつけられたよう。野溝書記長は、ちょっとおもしろい顔している。質問の答が一番多かった」 

  学校に提出する日記とはちがって、勝手なことを書いているが、この頃、政治への関心というより、政治家への関心があったのか、今から読むと笑えてしまう。

9日(金):映画「ひめゆりの塔」を次兄と見に行っている。入場料80円。この映画のロケが、母の実家のある、私たち家族の疎開先であった千葉県佐原附近でなされたと聞いていて、見たかった映画だったらしい。「映画はあんまりばくげきばかりやっておもしろくなかった。そして最後のところはいそいだせいか、まとまりがぜんぜんなかった」との感想も。 

皇族の葬儀は質素がいい
1月12日(月)小雨:この日は始業式だったのだが、学校帰りに、都電組の級友5人で、「秩父宮様の御そう儀のお見送りにでも」と護国寺下車。秩父宮妃、高松宮・同妃、三笠宮を目の当たりして、やや昂った様子だが、「花輪はスポーツ界が最も多かった。豊島岡墓地をで、また護国寺停車場の方に戻り、並んでくるのをまった。ほんとうに質素なもので護なんかずい分すくない。ということは世の中が進歩した。また前のようにならずにほしい。貞明こうごうより質素、この次は秩父宮様より質素となっているのだから、今さら前のようにやろうというのは一般がゆるさないだろう」と。添削したくなるような誤字や文章だが、皇族の葬儀の簡素化を期待していたなんて。ちなみに、貞明皇后の場合は、国費から2900万円準国葬、秩父宮の場合は宮廷費から700万円国の儀式として閣議決定されていた。

再軍備をめぐって、父と兄とが大激論
1月30日(土):この頃、大学生だった次兄と父親が何かにつけて口論になることが多かったようだ。この日は、再軍備論だった。次兄は「(日本は)武器を輸出したり、作りはじめている。輸出された武器は、朝鮮で人を殺したりしている・・・」と。父は「その武器を輸出しているから日本は成り立っている。人の国で人を殺したって、日本がもうかるならいい。そして日本は昔のように大帝国、五大国にならなくては・・・」と。「光子は、お父ちゃんの話を聞いて気持ちが悪くなった。日本の武器によって人間が死んでいる。その人たちは日本に住んでいないだけの事で、世界中の人間が死んではいけない。光子は半泣きで色々話した」と書いている。当時、私は、一人称を使うことができないで、家でも自分のことを「光子は」「光子が」と話したり書いたりしていた。いまの私には、晩年の父の老いのイメージが強く、こんなひどい、おそろしいことを主張していたとは、あらためて驚いている。父は、両親を早くに亡くし、その後、二十歳そこそこで、薬剤師になって朝鮮に渡り、兵役を済ませてから、シンガポールのゴム園で働き、大正末期に帰国、結婚している。日本の植民地での<いい思い出>ばかりがよぎっていたのだろうか。夏休みの8月4日にも、父と次兄は、この問題で口論になっている。父は相変わらず、愛国心と日の丸は大和民族の誇りみたいなことをいい、アメリカは教育に力を入れているところが優れている、だから、勉強が大事という結論?になったとある。次兄は、いまから思えば<アメリカの民主主義>に一種の憧憬を持っていて、父の反対を押し切って「英米文学科」を選んだのではなかったか。赤坂のアメリカ文化センターにもよく通っていたようだった。(続く)

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門柱の下に、近頃はやらない”根性”スミレ。

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2022年12月23日 (金)

櫻本富雄著、二冊のミステリーが刊行されました。

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左:幻冬舎 2022年6月15日刊。右:鳥影社 2022年12月18日刊。                                                                                                                                          

 大先輩の知人、櫻本富雄さんが、今年6月、12月に小説二冊を立て続けに出版されました。櫻本さんとは、2006年、著書『歌と戦争―みんなが軍歌をうたっていた』の書評を「図書新聞」に執筆したご縁で、以後、多くを教示いただくことになったのです。著書は、ご覧の通りで、戦時下の、文化人、文学者の戦争責任、戦後責任を資料にもとづいて詳細に検証し、その責任を問うものがほとんどです。自身が軍国少年であったことを起点としながら、戦後は精力的に戦時下の出版物―図書や雑誌、パンフレットや紙芝居などの収集をしています。その数10万点にも及んだそうですが、それらを駆使して著書の中でも、『空白と責任』(未来社1988)『文化人たちの大東亜戦争』(青木書店 1993)『日本文学報国会』青木書店1995)『本が弾丸だったころ』(青木書店 1996)などは、戦時下の文学や評論を対象とする研究者や関心を寄せる人たちには避けては通れない文献です。

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 その櫻本さんは、もともと詩人で、小説も何篇か書かれているのですが、新刊の二冊は、数年前、蔵書の全てを処分した後に書かれています。構想はかなり前からできていたそうです。ミステリーですので、あらすじは書けませんが、二冊の舞台は、アジア・太平洋戦争末期の日本の占領地、国内の各地に展開します。事件を追う捜査関係者は別として、読み終わってみれば主な登場人物すべてが非業の死を遂げていたことが分かってきます。読むにあたっては、あたらしい地図帳がそばにあった方がいいかもしれません。

 興味を持たれた方は、近くの図書館にぜひリクエストしてみては。

 なお、櫻本さんが出演した下記の番組がユーチューブでご覧になれます。櫻本さんが資料を携え、横山隆一、山本和夫、丸木俊、住井すゑさんたちにインタビューをし、戦時下の言動を質そうとしますが、誰もが反省や後悔の弁どころか自らを正当化する様子が記録されているドキュメンタリーです。次作も執筆中とのことです。1933年生まれの櫻本さんのエネルギとゆるぎない信念に脱帽です。

・「ある少国民の告発~文化人と戦争」(毎日放送製作 1994年8月14日放映)
 https://www.youtube.com/watch?v=8-dC55hmhbc

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上記、映像から。上:戦時下の雑誌の数々。下:住井すゑにインタビュー。

 なお、当ブログの関係記事は以下の通りです。

・書評『歌と戦争―みんなが軍歌をうたっていた』― 歌と権力との親密な関係―容認してしまう人々への警鐘(『図書新聞』2005年6月11日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2006/02/post_d772.html(2006年2月17日)

 ・「ある少国民の告発~文化人と戦争」(1994年放送)を見て
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/09/1994-2d3e.html(2017年9月23日)


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2022年11月26日 (土)

二冊の遺稿集に接して(1)和田守著『徳富蘇峰 人と時代』

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萌書房、2022年10月20日

帯の表には、つぎのように紹介されています。

等身大の蘇峰の生涯を思想的変遷にも重きを置きつつ辿ることから始め,これまであまり論じられることのなかった社会事業家としての側面にもスポットを当て,この不世出の思想家・ジャーナリストの活動を青・壮年期を中心に時代状況も交えながら描出。政治思想史界の第一人者が後進の研究者に贈る畢生の成果

目次

第Ⅰ部 評伝 徳富蘇峰
序 論/第1章 新聞記者への立志と思想形成/第2章 平民主義の唱道/第3章 帝国主義への変容/
第4章 国家的平民主義
第Ⅱ部 欧米巡遊、社会と国家の新結合
第1章 徳富蘇峰の欧米巡遊/第2章 国民新聞と国民教育奨励会/第3章 青山会館の設立/第4章 国民新聞社引退と蘇峰会の設立/第5章 徳富蘇峰という存在
第Ⅲ部 思想史研究の視点から
第1章 近代日本のアジア認識 ―連帯論と盟主論について―/第2章 私の辿った思想史研究―グローカルな視点から―

 著者の和田さんとは、「法律政治学専攻」という一学年でたった16人ほどのクラスの同期でした。1959年4月入学だったから、60年安保改定を控え、大学は騒然とした雰囲気であったのです。いわばノンポリだった私は、自治会が呼びかける集会やデモには時折参加していましたが、和田さんはクラス討論や学年を越えての雑誌の発行などにも率先してかかわっていました。そんな中でも、松本三之介先生の指導の下、政治思想史の研究者になるべく努力されていたのだと思います。博士課程を了え、山形大学、静岡大学を経て、大東文化大学に移り、法科大学院の設置や大学行政にも携わっていました。2019年4月、病に倒れ、やり残した仕事もあったに違いありません。

 蘇峰に関しては、すでに『近代日本と徳富蘇峰』(御茶の水書房 1990年2月)がありますが、その後の論稿と未定稿を合わせて、伊藤彌彦さんの編纂により、今回の出版にいたったといいます。

 私など専門外のものには、清水書院「人と思想史シリーズ」の未定稿として残された序論としての蘇峰論、「自由民権」から「国家的国民主義」形成に至る青年時代までを描いた部分が読みやすく、興味深いものがありました。

 目次にありますように、これまでの蘇峰像とは異なる側面にも光があてられていますので、関心のある方は、ぜひ、近くの図書館にリクエストしてみては。

 個人的には、和田さんが山形大学に赴任してまもなくの松本ゼミOB会の研修旅行に誘われて、山形・福島の旅に参加しました。予定外だった斎藤茂吉記念館にも立ち寄ったこと、近年では、主宰されていた「思想史の会」で「沖縄における天皇の短歌」の報告の機会をいただいたことなどが思い起されます。あらためてご冥福を祈る次第です。

 

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2022年10月 3日 (月)

「私説『ポトナム』百年史」を寄稿しました。

 

 私が永らく会員となっている「ポトナム短歌会」ですが、今年の4月に『ポトナム』創刊100周年記念号を刊行したことは、すでにこのブログでもお伝えしました。上記表題の小文を『うた新聞』(いりの舎)9月号に寄稿しました。『ポトナム』100年のうち60年をともにしながら、その歴史や全貌を捉え切れていませんので、”私説”とした次第です。

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私説『ポトナム』百年史   

・ポトナムの直ぐ立つ枝はひそかなりひと時明き夕べの丘に

   一九二二年四月『ポトナム』創刊号の表紙に掲げられた小泉苳三の一首である。当時の日本の植民地、京城(現ソウル)の高等女学校教諭時代の小泉が、現地の百瀬千尋、頴田島一二郎、君島夜詩らと創刊し、誌名は「白楊」を意味する朝鮮語の「ポトナム」とした。二三年には、東京の阿部静枝も参加した。

  二〇二二年四月、創刊百年を迎え、大部な記念号を刊行した。年表や五〇〇冊余の叢書一覧にも歴史の重みを実感できるのだが、『ポトナム』が歩んだ道は決して平坦なものではなかった。

  今回の記念号にも再録された「短歌の方向―現実的新抒情主義の提唱」が発表されたのは、一九三三年一月号だった。それに至る経緯をたどっておきたい。二三年は関東大震災と不況が重なり、二五年は普通選挙法と抱き合わせの形で治安維持法が公布された。反体制運動の弾圧はきびしさを増したが、社内には新津亨・松下英麿らによる「社会科学研究会」が誕生し、二六年には『ポトナム』に入会した坪野哲久、翌年入会の岡部文夫は、ともに二八年一一月結成の「無産者歌人聯盟」(『短歌戦線』一二月創刊)に参加し、『ポトナム』を去り、坪野の作品は一変する。

・あぶれた仲間が今日も うづくまつてゐる永代橋は頑固に出来てゐら(『プロレタリア短歌集』一九二九年五月)

  苳三は、『ポトナム』二八年一二月号で、坪野へ「広い前途を祝福する」と理解を示していたが、社内に根付いたプロレタリア短歌について、三一年五月に「プロレ短歌もシュウル短歌もすでに今日では短歌の範疇を逸脱」し、短歌と認めることはできず「誌上への発表も中止する」と明言した。先の「現実的新抒情主義」について、多くの同人たちが解釈を試みているが、「提唱」の結語では「現実からの逃避の態度を拒否し、生々しい感覚をもつて現実感、をまさしくかの短歌形式によつて表現することこそ我々の新しい目標ではないか」、その実証は、「理論的努力と実践的短歌創作」にあるとした。総論的には理解できても実践となると難しいが、この提言によって『ポトナム』は困難の一つを乗り切った感もあった。

  以降、戦争の激化に伴い、短歌も歌人も「挙国一致」の時代に入り、「聖戦」完遂のための作歌が叫ばれた。四四年一月の「大東亜戦争完遂を祈る」と題して、樺太から南方に至る百人近い同人たちの名が並ぶ誌面は痛々しくもある。その年『ポトナム』は国策によって『アララギ』と合併し、三月号を最後に休刊となった。その直後、苳三と有志は「くさふぢ短歌会」を立ち上げ、敗戦後の『くさふぢ』創刊につなげ、さらに五一年一月の『ポトナム』復刊への道を開いた。

  しかし、苳三は、四七年六月、勤務先の立命館大学内の教職不適格審査委員会によって、『(従軍歌集)山西前線』(一九四〇年五月)が「侵略主義宣伝に寄与」したことを理由に教授職を免じられたのである。GHQによる公職追放の一環であった。歌集を理由に公職を追われた歌人は他に例を見ない。

・歌作による被追放者は一人のみその一人ぞと吾はつぶやく
(一九五一年作。『くさふぢ以後』収録)

  追放に至った経緯はすでに、教え子の白川静、和田周三、安森敏隆らが検証し、敗戦後の大学民主化を進める過程での人事抗争の犠牲であったともされている。大岡信は「折々のうた」でこの歌を取り上げ、審査にあたった学内の教授たちを「歌を読めない烏合の衆の血祭りにあげられた」と糾弾する(『朝日新聞』二〇〇七年二月二三日)。歌人の戦争責任を問うならば、まず、多くの指導的歌人、短歌メディア自身の主体的な反省、自浄がなされるべきだった。

  苳三は、この間も研究を続け、追放解除後は、関西学院大学で教鞭をとった。戦時下の四一年から三年かけて完成した『明治大正短歌資料大成』三巻、早くよりまとめにかかっていた『近代短歌史(明治篇)』(五五年六月)など多くの著作は近代短歌史研究の基礎をなすものだった。五六年一一月、苳三の急逝は『ポトナム』には打撃であったが、五七年からは主宰制を委員制に変更、現在は中西健治代表、編集人中野昭子、発行人清水怜一と六人の編集委員で運営されている。先の教え子たちと併せて小島清、国崎望久太郎、上田博、中西代表らにいたるまで国文学研究の伝統は、いまも受け継がれている。

  古い結社は、会員の高齢化と減少に歯止めがかからない局面に立っている。結社が新聞歌壇の投稿者やカルチャー短歌講座の受講生などの受け皿であった時代もあったが、結社内の年功序列や添削・選歌・編集・歌会などをめぐって、より拘束の少ない同人誌という選択も定着してきた。さらにインターネットの普及により発信や研鑽の場が飛躍的に広がり、多様化している。短歌総合誌は繰り返し結社の特集を組み、各結社の現況を伝え、結社の功罪を論じはするが、それも営業政策の一環のような気もする。すでに四半世紀前、一九九六年三月号で『短歌往来』は「五〇年後、結社はどうなっているか」とのアンケートを実施、一五人が回答、「短歌が亡びない限り」「世界が滅びるまで」「形を変えて」「相変わらず」存在するだろう、とするものが圧倒的に多かった。私は、「現在のような拘束力の強いとされる結社は近い将来なくなり、大学のサークルや同好会のような、出入りの自由なグループ活動が主流となり」その消長も目まぐるしく、活動も「文学的というより趣味的で遊びの要素が強くなる」と答えていたが、残念ながら二五年後を、見届けることはできない。

  私にとっての『ポトナム』は、一九六〇年入会以来、一会員として、歌を詠み続け、幾多の論稿を発表できる場所であった。婦人運動の活動家でもあり、評論家でもあった阿部静枝はじめ個性的な歌人たちから、多くを学んだことも忘れ難い。(『うた新聞』2022年9月)

ダウンロード - e7a781e8aaace3808ee3839de38388e3838ae383a0e3808fe799bee5b9b4e58fb2.pdf

 

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 なお、拙稿の発表後、9月18日、大甘さん(@kajinOoAMA)のつぎのようなツイートがなされているのに気づきました。大事なご指摘をありがとうございます。創刊にかかわった先達から、「白楊」と聞いておりましたまま、調べもしませんでした。


ポトナム短歌会の「ポトナム」って何だろうって思っていた。『うた新聞』9月号、内野光子氏の寄稿に、1922年、植民地朝鮮の京城にて創刊、"誌名は「白楊」を意味する朝鮮語の「ポトナム」とした"とあり、謎は解けた。久々に日韓・韓日両辞書を引っ張り出し、軽い気持ちで"確認"を試みたが… pic.twitter.com/eVWdkhMakj

 

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当ブログ過去の関連記事

1922ー2022年、『ポトナム』創刊100周年記念号が出ました(1)(2)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/04/post-559b22.html
(2022年4月6日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/04/post-a2076e.html
(2022年4月9日) 

忘れてはいけない、覚えているうちに(3)小泉苳三~公職追放になった、たった一人の歌人<1>
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/08/post-448784.html
(2022年8月10日)
忘れてはいけない、覚えているうちに(4)小泉苳三~公職追放になった、たった一人の歌人<2>
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/08/post-f5f72b.html
(2022年8月12日)



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