2020年2月10日 (月)

東北へ~短い旅ながら(4)仙台文学館

 翌日の午前中、仙台文学館へでかけることにしていた。仙台駅西口に広がるデッキは、どこまで続くのか、幾通りにも分かれ、複雑だ。うっかり地上に降りてしまうと、横断ができないで、また、デッキに戻ったりする。バスターミナルの宮城交通②番乗り場から、北根2丁目(文学館前)下車、進行方向に向かって右側、入口への坂を上る。この文学館は、昨年で20周年を迎えた由、初代館長は井上ひさしだったが、現在の館長は、歌人の小池光である。

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台原森林公園の一角にある仙台文学館

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文庫版ほどのリーフレットと入場券

 

  20周年記念特別展「井上ひさしの劇列車Ⅱ」からまわる。井上ひさしの特別展は何度か開催されているらしい。今回は、井上の「評伝劇」と称される宮沢賢治、樋口一葉、太宰治、林芙美子、小林多喜二、魯迅、河竹黙阿弥、吉野作造、チェーホフをテーマにした劇の直筆原稿やメモ、書簡、参考資料などの展示とともに、一作ごとの意図や主人公・登場人物への井上の思いや評価を綴るエッセイからもたどる解説がなされていた。井上が取り上げる対象は、いずれも魅力的な人物には違いない。私自身も、一葉、芙美子、作造など深入りしそうになった人たちである。演劇自体も見ず、脚本自体も読まず、軽々には言えないのだが、今回の展示を見た限り、井上は、劇の主人公、登場人物には、親しみと敬意のまなざしをもって、惚れ込んでしまっている側面がみられた。たとえば多喜二を描いた「虐殺組曲」の特高刑事が多喜二を追っていくうちに感化されていく過程とか、林芙美子の戦前・戦後の 評価などには、「実は懸命に生きた、みんないい人」という楽観的な部分が気になった。

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「虐殺組曲」の解説、右がと二人の特高刑事への思い、左が社会運動にかかわった井上の父と多喜二を重ね合わせていたなど

 

 つぎに、「手を触れないでください」という和紙による壁のトンネルを通って、常設展に進んだ。その冒頭は、館長小池光の短歌が天井からの白い布いっぱいに並べられた展示だった。ここにも井上ひさしと仙台ゆかりの文学者、土井晩翠、島崎藤村、魯迅などのコーナーがある一方、佐伯一麦、恩田陸や伊坂幸太郎などの<平成>の作家たちの大きな写真パネルが目を引く。名前は聞くが、すでに知らない小説の世界である。仙台との縁を教えられる。

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館長小池光へのオマージュが強烈で、短歌講座なども定期的に開催されているらしい。こうした傾向は山梨県立文学館長の三枝昂之の場合も同様で、館長が前面に出る催事というのはいかがなものなのだろう。

 

 つぎの「震災と表現」のコーナーは、数年前、北上市の現代詩歌文学館での東日本大震災のコーナーと比べてのことなのだが、やや物足りなさを覚えたのも確かであるが、多くの震災関係の作品を残している佐藤通雅のパネルに出会って、歌われている背後の現実に思わず祈るような気持ちにさせられるのだった。

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 最後になったが、今回の文学館訪問の目的でもあった、朗読ライブラリーの「阿部静枝」のビデオを見ることになった。連れ合いはカフェで休んでいるという。阿部静枝<1899~1974)つながりの知人Sさんからも聞いていた、たった4分ほどの朗読ビデオだったが、その操作や、ストップをしての写真撮影に手間取った。このビデオは「コム・メディア」制作(朗読黒田弘子)となっていたが、12首ほどの選歌は、静枝の特徴を捉えたもので、なるほどと思わせるところがあった。

 

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生みし子は他人に任せて顔ぬぐひ世に生きゆくは復讐の如し(『霜の道』1950年)

 

 他にもつぎのような作品が朗読されていた。カッコ内は筆者が補記した。

 

・叶はざるねがひひそむ嫉みゆゑ強ひてもひとにさからはんとす(「秋草」1926年)

・憎まんとしてなみだ落つきみをおきなにを頼りてわが生くべしや(同上)

・ひたすらに堪へんと空をみつめゐる眼底いつか熱く濡れつつ(同上)

・ひとは遂にひとりとおもふおちつきをもちてしたしき山河のながめ〈同上)

・濃むらさきを好きなのは誰なりしかなあやめのおもひでひっつにあらず(『霜の道』1950年)

・暗き海の浪迫り寄れ死は想はず生き抜きて世を見かへさんとす(同上)

・せめてわが男の子を生みしありがたさわれに似る女を想ふは苦し(同上)

・忘却の救ひがあれば生きてゐよくちびるに歌のわく日も来なむ(『冬季』1956年)

・東西を分てる橋の切断面ぎざぎざの尖まで取り歩みゆく(『地中』1968年)

・断絶の壁ある下を掘りつらぬき人の想ひを通はせし地中(同上)

・生きものなどよせつけぬ様の星を知り地上のもろもろ更に美し(同上)

 

 仙台駅に戻って、荷物を預けたホテルへの道すがら、利久という店でランチを済ませた。みやげというものをほとんど買っていない。駅構内では、かまぼこ、牛タンの店がしのぎを削っているようだったが・・・。やはり疲れていたのだろう、帰りの新幹線「はやぶさ」では、しばらく眠り込んでしまったようだ。

 

 

 

 

 

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2020年1月28日 (火)

60年前の1960年、50年前の1970年、今、何が変わったのか(2)1970年の私

 身辺の資料を整理していると、思いがけないところから、意外なものが見つかり、思わず読み入ってしまい、まるっきり片付かない日があったりする。私が在職していたころ、1970年代の国立国会図書館の組合関係の綴りが出てきた。私は、組合の役員をやったこともないのに、総会資料や機関誌、情宣ビラの一部などが結構まとめて残されていた。私は、レファレンス担当の法律政治関係の課に在籍、かなりの頻度で組合役員を出すような「自由な」雰囲気の職場だった。入館当初、直接の上司が組合の委員長でもあった。印刷カードのかなふりのローマ字が訓令式だったのを、突如ヘボン式への変更を強行しようとした、鈴木隆夫館長の<外遊みやげ>と闘っていて、館長を辞任にまで追い込んだと意気軒高!に思えた組合だった。周辺の課では、課長を除いて全課員が組合員であった。輪番制で職場委員になったこともある。当時は「婦人部」というのがあって、昇格人事における女性や学歴、それに発足当時来の非試験採用職員への差別などがいつも問題になっていた。それに、産休前後8週間要求(当時は6週間)、保育所難問題、女性職員の宿舎入居資格などが、よく取り上げられていた印象が強い。保育所入所難は、現在に至っても解消されていない大問題であるが、当時、職場内保育所設置が問題が浮上すると、「文化の殿堂たる図書館に、オムツがはためくんですかね」という男性職員も現れたりしたのだった。また、婦人部のあっせんで、「ハイム化粧品」が月一で、館内で店開きするのを手伝ったりした。安くて余計な添加物が少ない化粧品ということで、現在、生活クラブ生協でも扱っているので、私も利用することが多い。ただ、当時、池袋の実家の薬屋では、資生堂化粧品のチェーン店となって、その売り上げアップに必死になっていたころで、私も店に立てば、お客さんの花椿会入会を勧めていたりもしていた。また、女子休養室の新設が実現したので、「利用せねば」と昼休み出かけたりしたが、利用者に出くわすことはまれであった。
 そんな組合活動とは、つかず離れずの職員だったが、ある事件によって、組合というものに、一気に不信感を持つようになってしまった。私と同期入館ながら少し若い職員が、1969年11月16日、いわゆる佐藤訪米阻止闘争で逮捕され、12月初旬に起訴、年末に休職処分となる。組合執行部は、「民主勢力の統一と団結を乱す」から支持しない、組合の機関決定によらない行動だからという理由で救援しないことを決めたのである。
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組合の機関誌『スクラム』222号(1970年1月27日)。1969年の年末にでた休職処分について、各職場代表により特別委員会が設置されたことを報じる。それ以前に開かれた評議員会では、その職員の行動は、組合の決定によるものでもなく、運動方針に沿うものでもないが、基本的人権の観点から、判決前の休職処分の不当であることを確認、今後、執行部は、特別委員会の助言による旨が記されている。

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館内の有志「6/15統一行動への参加を呼びかけた会」から出された『窓』、第1号(1969年6月30日)の巻頭には、「窓をあけましょう。このままでは息がつまりそう。」とある。その編集後記では、「逆セクトは望まない。とはいっても相手のあること、どうなるかわからない。『窓』の誌名はいつでも捨てて良いと思っている。窓は壁よりこわれやすいものなのだから。自らに問い自己理解を深め、新しい意識へ、そのための広場としたい」とあった。「6/15統一行動」とは、中核など8派政治組織と15大学全共闘と市民団体が加わり229団体による「反戦・反安保・沖縄闘争勝利6・15集会実行委員会」が開いた「反戦・反安保・沖縄闘争勝利6・15統一行動」で日比谷野外音楽堂における5万人の集会で、デモのさなかに吉川勇一ら71名逮捕されている。誌面は、テーマも自在で、広く内外の政治問題から市民運動の在り方、館内の諸問題を語り合う場であったようだ。出入り自由の集いであったが、私は参加せずじまいで、昼休みの会のあと、処分職員救援や組合批判について熱く語る僚の話を聞くことが多かった。

  各職場での討議が重ねられたが、組合の決定に疑問や不信を募らせる職員も多かった。そして、処分職員を支援する会が発足した。組合は、権利の問題として処分の撤回を求め、公平委員会が開催されることになる。請求者職員の代理人として羽仁五郎や吉川勇一、直接の上司らが陳述した。中山伊知郎委員長と使用者側・職員側各二名と中立代表が衆参議院運営委員長(自民党)という構成の公平委員会のもと2回にわたる公開審査がなされた。

 初めて開催された公平委員会となって、その規程にも様々な不備が指摘される中、館当局も組合も請求者側も苦労が多かったようだ。傍聴者数も限られていたが、私も一回だけ傍聴することができた。傍聴席からヤジも飛んだりして、緊張した雰囲気の中で行われていた。記録によれば、請求者の陳述は、1万字を超えるものであった(『十一・一六佐藤訪米阻止闘争と国立国会図書館―公平委員会の記録』記録刊行会 1971年4月)。陳述で訴えたのは、自分自身の日常の生活を佐藤訪米阻止に賭けることになったのは、<真理は我らを自由にする>という国立国会図書館法前文の精神を冒涜し続けている図書館の日常、「当局者のみならず、組合さえも、その中で昇任昇格や、手当の増額しか考えず、ベトナムの問題もその手段としか考えていない。そんな状況の中で目をつぶることが出来なかったのです。王子で(1968年、野戦病院設置反対デモの野次馬であったとき)機動隊が平然と『黙れ、朝鮮人』と言ってのけるような現実を聞き流していいのでしょうか」と、その動機を述べていた。さらに、「日米安保条約のもとで参戦の道を歩み、しかもその方向がなお一層進められている私たちのまわりにはさまざまな抑圧された状況が作り出され社会不安がうずまいています」、そうした中での「佐藤訪米」「日米共同声明」の持つ意味は何なのか、と訴えている。アメリカのアジアの軍事的支配によって朝鮮、台湾、ベトナム、ひいては日本自身の平和と安全が確保され、日本への沖縄72年返還によって基地が強化されることを前提にするものであるとも述べている。自分がとった行動は「反戦という目的のため」であるにもかかわらず、「図書館内外にわたって好ましくない影響を与える恐れがあると判断し、それらの支障未然にふさぐため」といった抽象的一般的な推測をもって休職にすることは不当であり検察庁と一体となって政治的弾圧を加えていると断ぜざるを得ません」と述べている。この陳述で述べられた状況は、今でも変わっていない上に、処分理由においても「好ましくない」「恐れ」「それらの支障」「未然に」などどいう、具体性のないものであった。

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1970年9月末に開かれた組合定期総会の議案書の表紙と「起訴休職処分反対の闘い」と題した総括部分である。1.組合としての救援活動は行わない。2.館当局の同君に対するいかなる処分にも断固反対し、これを口実とする組合活動への干渉・攻撃と闘う。3.これを機会に安保廃棄、沖縄即時無条件全面返還を真にかちとるため、どう団結を強め闘うかについて積極的に組合内の合議をおこす」とある。

 1970年6月に、公平委員会は、委員の4対3の多数決で、休職処分には違憲性も違法性もなく手続き上も問題なく、承認するという判定がなされた。9月には、休職処分取消を求めて提訴し、行政訴訟の段階に入った。長い準備手続きを経て。4回の口頭弁論の末、1972年11月に原告の請求はいずれも棄却されるという判決であった。

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館内有志による会やミニコミ誌がいくつか出され、組合の朝ビラ、情宣が盛んに撒かれた時期であった。上段は、処分職員を支援する会が70年2月に創刊された「会報」で、途中で「広場」と名を変えている。行政訴訟で第一審の判決が出た後は、部落問題と図書館、図書館創設当時の副館長だった中井正一論など幅広いテーマが載るようになった。下段は、館内の「(1969年)10・11月闘争救援会」発行のニュース。前年の佐藤訪米阻止運動で捕らえられた人たちの統一公判の要求を続けている中で、ニュースによって、日常の私たちからは知り得ない事実を知ることができた。例えば、8号の「監獄法体制の粉砕を」の記事では、新憲法下での1908年の「監獄法」は基本的人権がいかに無視されているかを知ることになる。その後、今世紀になって何度かの改正、最終的には、2007年、まさに100年を経て「刑事収容施設及び被収容者等の諸郡移管する法律」となったが、現在でも、ゴーン被告や籠池被告の長期拘留など問題は絶えない。

 1970年という年は、いうまでもなく、3月には大阪万博が始まり、赤軍派によるよど号乗っ取り事件が起きている。6月23日、日米安保条約は自動延長されるいたる。企業やそこで働く日本人はエコノミックアニマル、モーレツ社員と揶揄される中、新宿駅地下広場にはフォークゲリラと呼ばれる集会も続くという時代であった。そして11月には、三島由紀夫が市ヶ谷で自衛隊決起を呼びかけ、割腹自殺を図るという事件まで起こる。いわゆる日本経済の高度成長のゆがみは「公害」として、その被害は頂点に達し、不備ながら公害関基本法はじめ関連法が成立するのはこの年の年末であった。

 なお、1970年少し前の組合青年部の機関誌『新声』8号(1968年9月30日)は100頁ほどの冊子だが、その巻頭につぎのような詩「青春について」を見出すことができた。この詩の作者滝口雅子さんは、『鋼鉄の足』(1960年)、『窓ひらく』(1963年)などの詩集を持ち、室生犀星賞を受賞した詩人で、当時レファレンス部門の人文関係の担当課に在籍の大先輩で課の場所も近かったので、私も若かったのだろう、臆せず拙い短歌をなどを見せたり、詩や詩人の話を伺ったことなどを懐かしく思い出すのだった。ただ、この詩に関して言えば、滝口さんにしては、かなり甘くて優しい作品にも思えた。当時の私などには、計り知れないながら、滝口さんの詩の中の「窓」や「扉」は果てしなく重く、「死」や「愛」は、深くて暗い水底を覗くような感想を持ったものである。

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 「青春について」滝口雅子
青春は/虹のようなものだ/うっかりしいていると/消えて跡かたもない/虹が空にかかっているうちに/そのまるい橋を渡ろう/そして空までも/旅をしよう/青春の広やかな翼を/惜しげなく/ひろげよう
青春!この不思議な魔力をもつ言葉。いま青春のなかにいて、あなたがどっぷり青春にひたっているために、
(中略)
”若さ”がダイヤモンドに匹敵し、或いはそれ以上であるかも知れないと知ったらーー
”若さは”は宝石です

 そして、個人的なことを言えば、1970年のクリスマスも近い朝、明治29年、1896年生まれの父が他界した。その年の9月、那須高原行が父娘の最後の旅となった。

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当時のことは、すでに、次のブログにも綴っているので、重なる部分もあったかもしれない。

今年の615日は、第一歌集『冬の手紙』(1971年)の頃を思い出す2018619日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/06/615-076c.html

 

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2020年1月25日 (土)

60年前の1960年、50年前の1970年、いま何が変わったのか(1)私の1960年

 今年に入って、60年前の1960年が、回顧される特集記事などをときどき見かけるようになった。日米安保条約調印が、60年前の1月18日であったからだ。私は前年の1959年12月に母を亡くしたばかりの大学生だった。調印時の記憶は定かではないのだが、6月19日の自然承認に至るまでの、半年間の記憶は、ところどころ鮮明に思い起こすことができる。これまでも、その頃のことを何回か、このブログでも書いている。年寄りの繰り言になってしまうのだが。

6月15日で、思い起こすこと(2019年6月16日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/06/post-fd0e28.html

 通っていた大学の自治会は、いわゆる全学連反主流派、共産党系に属していた。私は当時の全学連の勢力地図にもあまり関心がないまま、当然のように学内での安保反対の集会や国会周辺への“請願”デモには、ときどき参加していたように思う。勉強したいと思っていた法律関係の科目より、他の教養科目の方が面白く、やたらと聴講していたし、受験時代には我慢していた映画もよく見に行った。最初の夏休みには区役所が開いた映写技術講習会や大学が開いた書道講習に通ったりした。高校で「書」を選択した時の上条信山先生はじめ、豊道春海、熊谷恒子らそうそうたるメンバーの実技に接したりした。映画好きが高じて、1960年4月から、霞町にあったシナリオ研究所の夜間講座に通うというダブルスクールもやっていたので、ともかく忙しかった。自宅通学の私は、当時アルバイトをすることもなかったが、下宿や寮に住む友人たちは、家庭教師などのアルバイトで忙しそうだった。それでも、自宅のある池袋から、地下鉄の丸ノ内線の定期で、昼夜の通学、国会議事堂へも通えたのはありがたかった。友人とあるいは一人で集会やデモに参加すると、衆・参両議院の面会所前の歩道や車道はいつも人や隊列でごった返していた。車道では、全学連主流派の学生たちが勢いよくジグザグデモを繰り返しているのによく出会った。

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道路いっぱいに広がったフランスデモ、見ず知らずの人たちと手をつなぎ、スクラムを組んでいた。

 5月19日夜、衆院安保特別委で、新安保条約・日米協定を自民党が単独採決、19日12時直前に、警官隊を導入して、清瀬一郎衆院議長は会期延長を宣言、十数分後の20日午前0時6分に単独強行採決をしている。アイゼンハワー大統領の訪日予定が6月19日だったから、それまでには、なんとか新安保を承認させる必要があったのだ。

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1960年5月20日午前零時過ぎ清瀬二郎衆議院議長。議会への警官隊導入を最後まで反対したのが、鈴木隆夫衆議院事務総長だったそうだが、のちに、私が就職した国立国会図書館の館長になっていた。しかし、数週間後には辞任、参議院事務総長だった河野義克が着任、衆参の事務総長が交代で館長職に就くという悪弊を知るにいたった。

 6月10日、アメリカ大統領の新聞担当秘書官のハガチーが、アイク訪日の下検分のため来日、羽田空港からの車で移動中、私たち学生のデモ隊がそれを包囲した。車のボンネット上で叫ぶ学生もいた。座って待機していた私たちは、ただあとずさりするだけで、何が起こっているかわからなかったが、やがて、巨大なヘリコプターが爆風を巻き起こして着陸したかと思うと、時を置かずに周辺の草をなぎ倒し飛び立っていった。私たちも一斉に風にあおられて地面に倒れ込んでしまった。一瞬、どうなるかと思ったのだが、私も肘を擦りむいた程度で、済んだのだが、あの一機のヘリが引き起こす爆風の恐ろしさは、今も忘れることができない。

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羽田空港から都心に向かう道路のどのあたりだったのか。ハガチーは、ヘリコプターで「救出」された。

 いわゆる、このハガチー脱出事件について、学生たちの「暴力デモ」は「日本の恥」をさらし、「国際儀礼」に反すると、マスコミは、一方的に非難した。一部の地方紙を除いて、アイク訪日は政治とは無関係の親善を目的とするものだから歓迎すべきとの論が大勢を占めていた。

 自然承認の日とアイク訪問が、数日後に迫っていた6月15日の夜、樺さんの事件は起きた。私が、この報道に接したのは、デモを抜け出してシナリオ研究所の講義に出た後、青山一丁目のたしか「砂場」というおソバ屋さんのテレビであった。帰宅すると、私の整理ダンスは乱れていた。まだ樺さんの身元がわからず、着衣が報じられたときに、父や兄は、やみくもに、ヒックリ返したらしい。あの夜、私はどんな服装だったのか、いまは忘れてしまっているが、家族は、とっさに不安に駆られてそんなことをしたらしい。

 6月15日、学生が南通用門から国会構内に突入した直前、新劇人や文化人によるデモが右翼に襲撃され、負傷者が続出していたにもかかわらず、警官隊が傍観していたことが、学生の突入の引き金になっていたことを報じるテレビやラジオもあった。その衝撃が収まらない中、6月17日には、在京新聞社の七社共同宣言が発表されたときのショックは忘れ難い。政権批判らしきことも少々ちらつかせていた大手マスコミには、もはや完全に裏切られたという思いが強かった。そして、自然承認が迫る6月18日は、やはり、どうしていいかわからないまま、私は、大学の自治会の隊列の中にいた。夕方になって、国会周辺は、人で埋まり、議事堂は完全に包囲されていた。私たちは議事堂からは遠く離れた、皇居前広場近くで、身動きできない状況だったと思う。その数、33万人を超えたと後の報道で知った。夜になって、念のため買って持っていた菓子パンを隣の友人と分け合って食べた記憶がある。その辺に、スーパーやコンビニもない時代だから、ペットボトルもない。のどの渇きも我慢していたし、繰り返されるシュプレヒコールに声をからしていた。夜半近くなると、ただ座っているだけという焦燥感、無力感が募るなか、ドイツのナチス時代、国会議事堂放火事件を丁寧に聞かせてくれる友人もいた。家に門限はなかったが、地下鉄が動いている時間にと12時前に帰宅するのに、隊列から抜けるのが後ろめたかったことを覚えている。そして19日午前0時に新安保条約は自然承認され、アメリカと批准書交換を完了した岸信介首相は6月23日に辞意を表明、7月15日に総辞職している。
 大学では、夏休みを経て、少しは普通の生活に戻ったのではなかったか。私は、大学の短歌研究会に入っていたので、週に1回集まっては、ささやかな歌会、といっても持ち寄った短歌をそれぞれ黒板に書いて、なにやら、批評し合う会を持っていたし、何カ月かに1回は、風前の灯だった都内の大学歌人会の歌会も開かれていた。会場は、大学の持ち回りだったり、新宿や渋谷の喫茶店だったりということもあった。そんな中で、国学院の岸上大作さんにも一度ならず同席しているはずなのだが、年末になって、下宿で自死したという知らせを聞かされたときは、「なぜ」とその衝撃は大きかった。後になって、いろいろな事情が伝わってくることになるのだが、その死は、私には、母の死から一年後、1960年最後の事件として、忘れることができない。Img344
私のアルバムに残る、当時の大学歌人会が阿部正路、清水二三恵の歌集出版記念会として開いた「明日を展く会」(1959年6月27日、「大都会」)の集合写真。会の案内によると、会費200円となっていた。前列右から、林安一、岸上大作、高瀬隆和。二列目には、二人の著者を中央に、藤田武、篠弘、宮城謙一らが並び、後方には、馬場あき子、北沢郁子、ポトナムの先輩の只野幸雄、増田文子の姿も見える。最後の列の中ほどには、私も教育大勢の前川博、森山晴美に挟まれおさまっていた。敬称略)

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『意志表示』(白玉書房 1961年6月20日)には、高瀬隆和編「年譜」、西村尚執筆「後記」がある。オビは無残な姿で本にはさまっている。窪田章一郎、近藤芳美、吉本隆明の推薦文があった。『岸上大作全集』(思潮社 1970年12月5日)は没後10年の命日が発行日になっていた。高瀬編の「年譜」、富士田元彦「解説=六〇年に賭けた詩と死」が付されている。

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1999年10~11月、姫路文学館で開催の「岸上大作展」には、関西の所用のついでもあって、初日の10月8日に出かけている。展示は、充実したものであって、資料的にも力のこもったカタログが出来上がっていた。高瀬隆和さんと文学館のスタッフの苦労を察した。胸が詰まる思いで見入ってしまったのは、国学院に入学後の「出納簿」と母親から届く仕送りの現金封筒の束だった。12円の牛乳と15円食パンで27円の昼食、ハガキ4枚10円切手3枚50円、映画55円、電話10円、バス15円に至るまでの記帳、母へのハガキには、ときには40円のラーメンが食べたくなるとも。
上段はチラシ、中断はカタログの表紙。

 下段は、カタログの巻末近くの61首の挽歌集である。高瀬隆和さんからは事前に挽歌の寄稿依頼があって、私も送っていたのだが、作者のアイウエオ順だから岩田正と岡井隆に挟まれた格好のなんともはずかしい一首。

・議事堂にむかわむ列は異にすもひととき大学歌人会に集いき 内野光子

 さらに展示の中に、「ノート大学歌人会」NO.1(1959年11月28日)があって、岸上大作は「十月の理由」5首を寄せ、私の三首が掲載されている頁も開かれていた。同じ頁に佐佐木幸綱の作品があったからだろう。このガリ版刷の資料は手元にもなかったし、すっかり忘れていた作品だっただけに驚いたのだった。

・貨車の吐く黒き煙は万国旗揺るる屋上庭園越えゆけり

・信号が確かにとぎらす人の列風強き屋上に見下ろせり

 見学当日、会場で、高瀬さんに挨拶と思ったのだが不在であった。後から、丁寧なハガキを頂戴し、恐縮したのだが、そこには以下のような文面も見られた。高瀬さんも鬼籍に入られたので、断りもなく引用させていただき、ごめんなさい。

「先日、馬場あき子さんと電話で話した時、歌壇の右傾化?を嘆かれていました。また非常な危機意識をもっておられました。ものがいいにくくなるような状況が社会全体に広がりつつあるのではと恐ろしくなります」

 また、カタログ巻末の高瀬隆和「岸上大作展よせて」によれば、つぎの一首が故郷兵庫県福崎町田原の墓碑に刻まれ、

・意志表示せまり声なきこえを背にただ掌の中にマッチするのみ 

 母校の福崎高校には、つぎの一首を刻む歌碑があるそうだ。

・かがまりてコンロの赤き火をおこす母と二人の夢作るため 

 存命ならば、傘寿を迎えた岸上大作は、どんな歌人になっていただろうか。

 

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2019年12月10日 (火)

忘れてはならない12月8日

記憶せよ、十二月八日。
この日世界の歴史あらたまる。
アングロ・サクソンの主権、
この日東亜の陸と海とに否定さる。
否定するものは彼らのジャパン、
眇たる東海の國にして
また神の國なる日本(につぽん)なり。
そを治(しろ)しめたまふ明津御神なり。(後略)
―昭和十六年十二月十日―

 「十二月八日」と題する高村光太郎の詩である。初出は、『婦人朝日』1942 年1月号であった。詩集『大いなる日に』(道統社 1942年6月、第二刷3000部、初版1942年4月)に収められているが、「十二月十日」は作詩の月日で、真珠湾攻撃の二日後に作られたことがわかる。

 一昨日12月8日は、「真珠湾攻撃、太平洋戦争開戦」の日、78年目の日だった。一部のテレビニュースでは、ハワイでの戦没者2400人の追悼式が行われ、生き残りの兵士の参列が数少なくなったと報じていた。日本の新聞では、12月8日の、いわばサイドストーリーのように、「朝日新聞」(12月8日)は「ペリリュー島<最後の生還者>遺言」、『毎日新聞』(12月3日)、『朝日新聞』〈12月8日〉の千葉版では、船橋市の行田の海軍無線電信所の歴史を記した労作「行田無線史」と著者の郷土史家滝口昭二さん(82)の紹介記事が掲載されていた。行田無線電信所から真珠湾攻撃を命じた暗号電文「ニイタカヤマノボレ 一二〇八」から発信されていたという記事が目についた程度だった。

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『読売新聞』(2018年8月7日)より、18年7月撮影の行田無線電信所跡の現在。上の奥の楕円形のグランドは中山競馬場。私たち家族は、名古屋から千葉に転居した時、この円形の電信所跡の左上の扇形部分に建ち並ぶ公務員宿舎に半年ほど暮らしていた、懐かしい場所。
1971-1
1971年当時は無線塔がたっていたらしい (船橋市資料視聴覚センター)

 

 日本でも、太平洋戦争開戦の日は、忘れてはならない大事な日であるはずだ。この日を境に、日本軍はアジア解放のためにと標榜しながら、戦局は拡大し、日本軍の兵士はもちろんアジア各地で多くの犠牲者を出し続けた。各地での敗退が続くなか、政府は、メディアや文化人を総動員して、国民の戦意を高揚、多くの犠牲を強いた。そんな中で、高村光太郎も、従軍作家や従軍画家に先んじるかのように、戦争詩を発表し続けた。

五月二十九日の事

もとより武士(もののふ)のあはれを知らぬ彼らの眼には
ただ日本軍全滅すとのみ映じたのだ。
皇軍二千餘人悉く北洋の孤島に戦死す。
この悲愴の事実に直面して
その神の如き武人の心にわれら哭く(後略)

 光太郎自身の詞書によれば「昭和十八年六月一日作。五月卅日十七時の大本営発表によりのアツツ島守備部隊の全員玉砕を知る。(後略)」とあり、6月3日夜のNHKラジオ放送の特集番組「アツツ島の勇士に感謝し戦争完遂を誓ふ」において、朗読され、後の詩集『記録』I(龍星閣1944年3月初版 10,000部)に収められている。

 すでに1944年から始まっていた東京空襲、1945年3月10日に続く4月13・14日の大規模空襲で、光太郎自身のアトリエも焼失するのだ、その間の4月1日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸した即日4月1日に作った詩を4月2日の『朝日新聞』に発表している。この即応性と器用さが多くのメディアに重用され、政府のプロパガンダに徹したのである。

 さらに、1945年8月15日の敗戦の玉音放送を、疎開先で聞いた光太郎は、8月16日午前中に作り、翌日の『朝日新聞』に「一億の號泣」を発表しているのである。まさに、この早業に脱帽するばかりである。

一億の號泣

綸言一たび出でて一億號泣す。
昭和二十年八月十五日正午、
われ岩手花巻町の鎮守
鳥(と)谷崎(やがさき)神社社務所の畳に両手をつきて
天上はるかに流れ來(きた)る
玉音(ぎょくいん)の低きとどろきに五體をうたる
五體わななきとどめあへず
玉音ひびき終りて又音なし
この時無聲の號泣國土に起り
普天の一億ひとしく
究極に向つてひれ伏せるを知る(後略)

(1945年8月16日作『朝日新聞』『岩手日報』1945年8月17日)

 その後、疎開先から東京に戻ることなく山小屋生活を続け、「暗愚小傳」という20篇の詩作品を発表(『展望』1947年7月)し、「わが詩をよみて人死に就けり」と題する詩を書き、戦時下の活動を「自省」したという。しかし、光太郎の晩年の詩を通読して思うのは、いわゆる新聞の元旦号、雑誌の新年号を飾る「新しい年を祝う」「めでたい」作品が並ぶことだった。そしてそこに散見する「原子力の未来への期待」であったのだ。1955年1月1日『読売新聞』に発表された「新しい天の火」では、つぎのように歌い上げる。

新しい天の火

(前略)
ノアの洪水に生き残つた人間の末よ、
人類は原子力による自滅を脱し、
むしろ原子力による万物生々に向へ。
新年初頭の雲間にひかる
この原始爆発大火団の万能を捕へよ。
その光いまこのドームに注ぐ。
新しい天の火の如きもの
この議事堂を打て。
清められた新しき力ここにとどろけ。

1956年1月1日『読売新聞』に発表された最晩年の作品「生命の大河」には、こんな一連がある。

科学は後退をゆるさない。
科学は危険に突入する。
科学は危険をのりこえる。
放射能の故にうしろを向かない。
放射能の克服と
放射能の善用とに
科学は万全をかける。
原子力の解放は
やがて人類の一切を変へ
想像しがたい生活図の世紀が来る。

 

 この発表の直前12月16日には原子力基本法など関連三法が成立し、まさに新年の1月1日に施行、発足した原子力委員会の初代委員長が読売新聞の正力松太郎であったのである。この間の事情は、当ブログの以下を参照いただけたらと思う。

あらためて、髙村光太郎を読んでみた(8)晩年の「新しい天の火」
(2019年9月25日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/09/post-1f9939.html

 12月8日から、つい話は飛んでしまったが、高村光太郎の『智恵子抄』と表裏一帯をなす戦争詩を知ることによって、文芸の国家権力からの自立の重要さを知ることにもなるのではないか、の思いに至るのだった。

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2019年9月25日 (水)

あらためて、高村光太郎を読んでみた(9)芸術院会員辞退のこと

 光太郎の詩集の解説や評伝のようなものでは、彼の「反骨精神」の証として、あるいは、戦時下の活動やたくさんの戦争詩を書いたことへの「自省」の現れとして、芸術院会員への推薦を辞退したこと、しかも二度も辞退していたことを高く評価している。
 194710月と195311月の辞退の顛末については、晩年連載を始めたエッセイの第1回目に書いている(「日本芸術院のことについて―アトリエにて1」『新潮』19542月)。この件では、世間にいろいろなうわさが流れているが、自分としての記録を残しておきたいということであった。人選については若干の変化はあるようだが、日本芸術院の前身の「帝国芸術院」に抱いている不潔感、その成立自体に「政治的かけ引き」を見てしまい、その内容や機構に大した違いがない以上、「あのやうなどさくさで出来上つた芸術院の内側に自分が入ることはとても出来ない」としている。まさに、正論というほかない。後世の人間が「反骨精神」や「自省」で跡付けるのには疑問が多い。

 私も、各分野ごとの定員制をとる日本芸術院、その会員推薦や芸術院賞選考過程について、何度か書いているので、ここでは詳しく述べない。その閉鎖性と政治性は現在でも変わりはない。にもかかわらず、文化勲章や文化功労者、芸術選奨など国家による褒章制度と並んだ、日本芸術院の存在は、学術や文芸の振興に役立つところか悪影響が大きいことを指摘してきた。そういう意味でも、光太郎の対応は、現代の政府にかかる褒章制度とその恩恵にあずかる人々とそれをもてはやすメディアへの警告となるだろう。

 光太郎はつぎのような詩を残している。1回目の推薦を踏まえて作ったことになる。詩集『典型』には収録しなかった。

「赤トンボ」

禿あたまに赤トンボがとまつて

秋の山はうるさいです

うるさいといへばわれわれにとつて

芸術院というものもうるさいです

美術や文學にとつて

いつたいそれは何でせう

行政上の権利もないそんな役目を

何を基準に仰せつけるのでせう

名誉のためとかいふことですが

作品以外に何がわれわれにあるでせう

さういふことは前代の遺物でせう

芸術院会員などといふものよりも

宝くじ五六本あてたやうな現ナマの方が

作家にとつて実益になるでせう

文化勲章といふものとても

授ける以上はらくに食へる年金を

死ぬまで贈らねば無意味でせう

実益のないことは子供だましでせう

レジヨン ドヌウル ルウヴル入の時代は

もう通り越してもいいでせう

作家は作ればいいでせう

政府は作家のやれるやうにすればいいでせう

無意味なことはうるさくて

禿あたまの赤トンボのやうです

19491024日作。『展望』19501月)

   ひとまず、髙村光太郎については今回で終了、別稿では書けなかったもろもろを記録にとどめた。拙稿が活字になった折は、お知らせしたい。

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あらためて、髙村光太郎を読んでみた(8)晩年の「新しい天の火」

 光太郎は、1956年4月2日、74歳の生涯を終えるが、その最晩年における、あるテーマの詩作品をさかのぼってみた。みごとに、雑誌の新年号、新聞の元旦号を飾る詩人であったことがわかる。これは、戦争詩を書いていた頃と変わりはない。

「おれの詩」
(1948年11月25日作。『心』1949年1月、『典型』収録)

「山荒れる」
(1949年11月8日作。『心』1950年1月『典型』収録)

「明瞭に身よ」
(1950年12月14日作。『出版ニュース』1951年1月)

「新しい天の火」
(1954年12月25日作。『読売新聞』1955年1月1日)

「開びゃく以来の新年」

(1955年12月5日作。『中部日本新聞』1956年1月1日)

「お正月の不思議」                              

(1955年12月19日作。NHK放送1956年1月1日)

「生命の大河」
(1955年12月19日作。『読売新聞』1956年1月1日)

 生涯最後の詩作品とされるのがつぎの「生命の大河」であった。末尾の8行は省略したが、『読売新聞』の元旦号に掲載された。題は、壮大で、何事かと思わせるが、「原子力」の未来をうたいあげたものだった。1956年とはどういう年だったのか。前年12月16日に成立した原子力基本法など三法が56年1月1日に施行、発足した原子力委員会の初代委員長に読売新聞の正力松太郎が就任した日でもあった。前年12月26日には日米原子力協定調印、年が明けると、日本原子力産業会議、原子燃料公社発足、東海村には原子力研究所の建設が始まる。すでに、1950年前後から米ソの原爆・水爆実験が盛んに行われるが、その一方で、唯一の被爆国、日本の原子力政策は進む。1953年からは『読売新聞』傘下の日本テレビが発足し、新聞・テレビを通じて、「原子力の平和利用」のキャンペーンが展開されている。

Img301

「生命の大河」『髙村光太郎全詩集』より。読みにくいので、念のため下記にも再録する。

「生命の大河」
生命の大河ながれてやまず、
一切の矛盾と逆と無駄と悪とを容れて
がうがうと遠い時間の果つる処へいそぐ。
時間の果つるところ即ちねはん
ねはんは無窮の奥にあり、
またここに在り、
生命の大河この世に二なく美しく、
一切の「物」ことごとく光る。

人類の文化いまだ幼く
源始の事態をいくらも出ない。
人は人に勝たうとし、
すぐれようとし、
すぐれるために白己否定も辞せず、
自己保存の本能のつつましさは
この亡霊に魅入られてすさまじく
億千万の知能とたたかひ、
原子にいどんで
人類破滅の寸前にまで到着した。

科学ほ後退をゆるさない。
科学は危険に突入する。
科学は危険をのりこえる。
放射能の故にうしろを向かない。
放射能の克服と
放射能の善用とに
科学は万全をかける。
原子力の解放は
やがて人類の一切を変へ
想像しがたい生活図の世紀が来る。

(後略)

 1954年3月焼津の「第五福竜丸」が操業中ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験により多くの被爆者が出て、後、そのうちの一人久保山愛吉さんが原爆症で亡くなった。日本学術会議では原子力研究の自主・民主・公開の三原則を声明、市民による水爆禁止署名運動なども見られた。そんな中で、光太郎は、『読売新聞』1955年元旦号にも、下記の作品を寄稿している。

Img300a

「新しい天の火」『髙村光太郎全詩集』より。1955年元旦は『読売新聞』にとっては、上述のように特別の日であった。『髙村光太郎全詩稿』の北川太一によれば、「その光いまこのドームに注ぐ。/‥‥/清められた新しき力ここにとどろけ。」の末尾4行は、編集部の要請で追加されたという。元旦号第1頁の”陽を受ける国会議事堂”の写真に呼応するような主旨の要請での追加であった。最後の1行は、「真に新しきもの起れ」「すさまじく新しき光ここにとどけ」のメモが草稿の欄外に残されているが、光太郎みずからの修正要請で、「清められた新しき力ここにとどろけ」に落着した経過があるという。

 光太郎が、「原子力」を詩作品に取り込んだのは、以下の1948年の「おれの詩」が最初だろうか。1949年「山荒れる」が続く。湯川秀樹がノーベル物理学賞を受賞したのが1949年11月だった。それにしても、光太郎は、「原子爆発大火団の万能を捕へよ」と言いながら、いとも簡単に、「原子力平和利用政策」に取り込まれてしまったのか。戦争詩へとのめり込んでいったことへの「自省」とは何だったのだろうか。みずからの体験から「学習」することができなかったことへの一つの証でもあろうか。

Img298-2

「おれの詩」『典型』より。

Img298-1

山荒れる」『典型』より。末尾の9行は省略した。

 光太郎は、科学の力、原子力への期待は大きく、歌い上げるのだが、政府の原子力政策には何の疑いももなかったのだろうか。私など、子ども心に、広島や長崎の原爆の「怖さ」を見聞きするたびに、「原子力」への拒否反応のようなものがあったように思う。部分的な批判をしながらも、詩人としての髙村光太郎にもっとも影響を受けたという吉本隆明の『「反核」異論』(1983年)、前衛歌人から宮廷歌人へと「転向」した(1993年)という岡井隆のたどった道、原発事故への対応を思い起こすのだった。

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2019年9月24日 (火)

あらためて、髙村光太郎を読んでみた(7)敗戦後、天皇をどうよんだか

 光太郎は、前述のように1950年に『典型』という詩集を出版し、敗戦後の詩作品をまとめた。そこには、「暗愚小伝」という題でまとめられた20篇からなる詩があり、これは、雑誌『展望』の1947年7月号に一挙に掲載されたものである。これらの詩を念頭においてだろうか、光太郎は『典型』の「序」において「昭和二十年十月私がこの小屋に移り住んでから以降の作にかかるものであり、それ以前の作は含まない。終戰直後に花巻町で書いたものや、ここに來てから書いたものでも、その頃の感情の餘燼の殘つてゐるものははぶいた。それらのものは、いはば戰時中の詩の延長に過ぎないものであるからである。」とも書き、「この特殊国の特殊な雰囲気の中にあつて、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られてゐたかを見た。そして私の愚鈍な、あいまいな、運命的歩みに、ひとつの愚劣の典型を見るに至つて魂の戦慄をおぼえずにゐられなかつた。」と。さらに、敗戦後五年間の「これらの詩は多くの人々に悪罵せられ、軽侮せられ、所罰せられ、たはけといわれづづけて来たもののみである。私はその一切の鞭を自己の背にうけることによつて自己を明らかにしたい念慮に燃えた。その一切の憎しみの言葉に感謝した。」とも記す。当初は、この潔さに着目したのだが、実際に収録された作品やその後の戦争詩への扱い方について知るに及び、大きな疑問が残ったのである。
 「暗愚小伝」については、多くの詩人たちが、いわゆる戦争詩について、光太郎ほど「自省」をした文学者がいただろうか、との高い評価をしていることや私自身の読み方については、別稿に譲るが、ここでは、他の作品にも触れてみたい。

 

「東洋的新次元」
東洋は押石(おもし)のやうに重く、
東洋は鉄鍋のやうに暗い。
君主と英雄と先輩と親分とは
六千年の昔から頭上にあつて人を圧し、
人は虫けらとなつて営営なほ且つ痩せた。
この伝統が何に由るかを知らず、
しかもこの伝統は争ひ難い習性となつて、
千百の変貌をとげながら
綿々として今も尽きない

東洋の民の吐息は詩となるほかない。
詩は弁論の矛を持たない。
詩はただ訴へる。
東洋の詩人は民の吐息を総身にあびる。
(後略)
東洋はのろいが大きい。
東洋的新次元の発見は必ず來る。
未見の世界が世界に加はる。
東洋の美はやがて人類の上に雨と注ぎ、

東洋の詩は世界の人の精神の眼にきらめくだらう。
(後略)

(1948年8月21日作。『知識人』1948年11月、『典型』収録)        

 「詩集」の中で11頁にも及び100行に近い長詩ながら、「東洋の美」は絶対で、熱が入れば入るほど揺らぎを見せない。疲弊している敗戦後の、占領下の日本国民を励まそうとでもいうのだろうか。「東洋の美」も「東洋的新次元」の実態や具現の方向性もない。「民の吐息を総身にあびる」という詩人としての自負というか、エリート意識が顕著にも見える。戦時下の、この詩人の意識と変わらない。もっとも、光太郎自身も、この詩集の中で、つぎのように明言している。

 

「月にぬれた手」
わたくしの手は重たいから
さうたやすくはひるがへらない。
手をくつがへせば雨となるとも
雨をおそれる手でもない。
(後略)
(1949年10月10日作。『大法輪』1950年1月、『典型』収録)

 

「鈍牛の言葉」
(前略)
おれはのろのろのろいから
手をかへすやうにてきぱきと、
眼に立つやうな華やかな飛び上がつた
さういふ切りかへは出来ないが、
おれの思案の向ふところ
東西南北あけつぱなしだ。
(後略)
(1949年11月2日作。『群像』1950年1月、『典型』収録)

 後者の「鈍牛の言葉」の中には「今こそ自己の責任に於いて考へるのみだ。/随分高い代償だつたが、/いまは一切を失なつて一切を得た。」という個所もある。また詩集の題名にもなった「典型」(1950年2月27日作。『改造』1950年4月、『典型』収録)は、「今日も愚直な雪がふり/小屋はつんぼのやうに黙りこむ。小屋にいるのは一つの典型、一つの愚劣の典型だ」で始まり、「典型を容れる山の小屋、小屋を埋める愚直な雪、雪は降らねばならぬやうに降り、一切をかぶせて降りにふる。」でおわる。これらのフレーズの中の「一切」がキーワードではないのか。「典型」の結句「一切をかぶせて降りにふる」と「たやすくはひるがえさない手」とに通底するものは何なのか、を考えてみる必要がある。戦争詩でも数多く登場する「一切」などという言葉は、断定を伴い、論理性を排除する言葉だけに「たやすく」使用すべき言葉ではないはずなのだが。
 どうしても「暗愚小伝」の作品にも触れなければならない。20篇の詩の最初は、「土下座(憲法発布)」なのだが、これは、1883年生まれの光太郎が、1889年2月11日大日本帝国憲法発布の翌日、上野行幸啓の祝賀行列のときの天皇体験を綴ったものである。誰かに背負われて行列に近づいたが、人波をこじあけて、一番前に出て「土下座」をさせられた、というわけである。

 

「土下座(憲法発布)」
(前略)
錦の御旗を立てた騎兵が見え、
そのあとの馬車に
人の姿が二人見えた。
私のあたまはその時、
誰かの手に強く押へつけられた。
雪にぬれた砂利のにほひがした。
―眼がつぶれるぞ―

 その後の日本の戦争体験と父親らの天皇体験を重なり合わせ、自らの海外体験、デカタンスな生活、智恵子との出会いと別れも綴られ、日中戦争における厳しい戦局のさなか、太平洋戦争に入ると、詩人としての大政翼賛にのめりこんでいく過程が描かれる。詩によって、いわば敗戦に至るまでの「精神史」を形成したとされる。
 「真珠湾の日」と題する作品には「天皇あやふし。ただこの一語が私の一切を決定した。」とある。また、「終戦」では、つぎのように綴られているが、「六十年の重荷」と認識されていた「天皇」から解放されたのだろうか。Img295
「終戦」の前半、3頁目は省略している。『記録』より。

 ここで、吉本隆明の「高村光太郎」を開いてみると、彼は、髙村光太郎の戦争責任のつきつめ方をつぎのように分析する。「戦争責任というものに軽重があるとすれば、髙村光太郎のそれはもっとも重いかもしれなかった。髙村が、内的な世界にどのような過剰な要素をかくしていたとしても、公的な文学活動によって、いいかえれば大衆にたいする影響によって裁断するとき、戦争への没入は、たれよりも強く、かくれがなく、大きな影響を与えた」ことを前提に、「天皇(制)にたいするもの、大衆への影響、自身の思想にたいするものに分けてかんがえることができる」(「髙村光太郎論」『吉本隆明全著作集8』勁草書房 1973年166頁)とする。「天皇(制)」の問題は、光太郎にとって、天皇崇拝の父髙村光雲を持つ出自もあり、あくまでも「骨がらみの内的な問題」であって、思想の問題とはなり得ず、「意識のなかで、ひきずり落としたのではなく、ただ、追いはらったにすぎない」という(前掲書172頁)。
 吉本は、別の論稿で、光太郎の戦争詩は「自我意識に固執しながらも、もっとも典型的に日本的な近代性と庶民性との綜合された性格」をもつとした。日本人の自然観が伝統的な感性を掘り起こすことによって「必然的に絶対主義的な天皇制によって推進された戦争の肯定、讃美、プロパガンダに入った」とし、「近代意識の庶民的な意識への接着から庶民意識を超越的な論理をもちいて積極的に意味づける過程」として捉えている(「詩人の戦争責任論」『吉本隆明著作集13』 勁草書房1969年。468~469頁)。
 しかし、私は、吉本のいう光太郎の「庶民的な意識への接着」にしても、このシリーズの記事でも触れた中村稔が『髙村光太郎の戦後』でも強調していた暮らしや詩作の「庶民性」には、違和感を覚えざるを得ない。光太郎は、その出自や生育環境、海外体験、恋愛・結婚生活、詩人・彫刻家としての活動、敗戦後の花巻での山小屋蟄居生活をたどってみても、その作品をたどってみても、「庶民」というよりは、「庶民」とは隔絶した高みから、庶民を啓蒙、リードしようという意識が垣間見えてしまうのである。吉本のいう「超越的な論理」、すなわち「東方の倫理」「天然の叡智」「宇宙理法」「東洋の美」などという実体のない言葉で「煙に巻いて」いるようにも読めてしまうのである。

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2019年9月23日 (月)

あらためて、高村光太郎を読んでみた(6)戦争詩において天皇はどうよまれたか

 「戦後、髙村をほんとうに苦しめたのは、天皇(制)の問題と、自分の詩をよんで人は死んでいったという問題だけであった」 (「髙村光太郎論」『吉本隆明全著作集8』勁草書房 1973年 171頁)とは吉本隆明のいうところであるが、光太郎はほんとうに苦しんだのだろうか。

 光太郎の詩に、天皇が「天皇」として登場するのは、「紀元2600年」のころだろうか。「紀元二千六百年のむかしは昨日のやうだ。」で始まる以下の詩には、つぎのような個所がある。

 

「紀元二千六百年にあたりて」
(前略)
二千六百年の後、
今またわたしくしは此処に居る。
今はどういふ時だ。
天皇(てんのう)はわれらの親(みおや)、
その指さしたまふところ、
天然の機おのづから迫り、
むかしに変らぬ久米の子等は海超えて
今アジヤの広漠の地に戰ふ。
(後略)
(1939年11月26日作。『婦人公論』1940年1月、『大いなる日に』収録)

 

 それまでは「天皇」をよんだ作品はなかなか見あたらないのだが、光太郎が、長沼智恵子を知るのは1911年、そして翌年、明治天皇は7月30日死去、「諒闇」の時期の作品につぎの「涙」があるのだが、光太郎と智恵子は、「いみじき歎き」のさなかであって、天皇の死に涙しているわけではなかったことを作品にしていた。

 

「涙」
世は今、いみじき事に悩み
人は日比谷に近く夜ごとに集ひ泣けり
(中略)
君の小さき扇をわれ奪へり
君は暗き路傍に立ちてすすり泣き
われは物言はむとして物言はず
路ゆく人はわれらを見て
かのいみじき事に祈りするものとなせり
あはれ、あはれ
これもまた或るいみじき歎きの為めなれば
よしや姿は艶に過ぎたりとも
人よ、われらが涙をゆるしたまへ
(1912年8月作。『スバル』1912年9月、『智恵子抄』収録)

 

 ちなみに、1940年の1月には、上記の作品のほかに、「先生山を見る」(1939年11月20日作。『明日香』、『をぢさんの詩』収録)、「重大なる新年」(1939年12月19日作。『新聞聯盟』)、「源始にあり」(1939年12月30日作。『東京朝日新聞』1月2日、『大いなる日に』収録)があり、『新女苑』、『文芸』にも寄稿しているが、その後も、いわゆる、新聞での<元旦>、雑誌での<新年号>および<記念日>に登場する詩人たる地位を保つことになる。

 

「彼等を撃つ」
(前略)
理不尽のいひがかりに
東亜の国々ほとんど壊滅され、
宗教と思想との摩訶不思議に
東亜の民概ね骨を抜かる。
わづかにわれら明津(あきつ)御神(みかみ)の御稜威により、
東亜の先端に位して
代々(よよ)幾千年の錬磨を経たり。
(後略)
(1941年12月15日作。『文芸』1942年1月、『記録』収録)

 

「ことほぎの詞」
久しいかな、二千六百二年。
(中略)
世界の倫理あらたまり、
人類の秩序また再建せられんとす。
これ遠つみおやの息吹して
義(ことわり)必ず時に随ふものならざらんや。
こころすがし。
今上陛下指したまふところ、
われらよろこびおもむくなり。
あきらけきかな、大いなるかなけふの賀(よき)節(ひ)。
(1942年2月9日作。『読売新聞』2月11日、『大いなる日に』収録)

 

「海軍魂を詠ず」
(前略)
人は仰ぎ見る、
波を切る艦首に光かがやくもの、
一切を超えて高きもの、
一切を超えて聖なるもの、
金色の菊花御紋章。
(1943年5月5日作。 『中部日本新聞』5月27日『記録』収録)

 

「大決戦の日に入る」

(前略)
所謂文明を誇称する敵はわれらを知らず、
ひとへにただもみつぶさうとする。
われら大御神よりうけたみをしへのまま、
神州の権威と品格とを堅持して
一億の民空前の戦に集中する。
一億の民一切を神のみ前に捧げてすがしく、
今こそ奮然として大決戦に突入する日だ。
(1943年11月14日作。『婦人之友』12月、『記録』収録)

 

 「大決戦の日に入る」は、1943年11月に始まるブーゲンビル島で戦いをよみ、長い戦いになる局面となるが、すでにこの時期になると、「倫理」や「日本の美」をうたいあげる作品は後退し、天皇への忠誠をひたすら捧げることが叫ばれ、やがて、下記の諸作品に見るように、皇国、皇軍、皇民、神州などという言葉のみが強調され、頻用されるにいたる。
「われら海陸皇軍の機略」(「敵ゆるすべからず」『毎日新聞』1944年2月26日)「神裔国民の正気」(「必勝の品性」『西日本』1944年4月)、「われら美しき皇国の天地」(「美をすてず」『週刊朝日』1944年4月30日)「神州の臣民、神州の尊貴」(「神州護持」『主婦の友』1944年12月)「皇国必勝の枢機」(「新春に面す」『日本農業新聞』1945年1月)などの例を挙げることができる。
 
そして、敗戦直後の「一億の号泣」(『朝日新聞』1945年8月17日)、「犯すべからず」(『週刊少国民』1945年8月)においても、光太郎の天皇観は変わってはいない。まさに、戦時下の作品の延長のよう作品は省いたとする、敗戦後の詩集『典型』に収めることもしなかったのである。

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2019年9月19日 (木)

あらためて、髙村光太郎を読んでみた(5)民族の「倫理」と「美」と

 光太郎は、地政学をはじめ、天文学などに自然の必然があるかのような、そして数学・物理という論理と「倫理」「美」という言葉を頻用する。しかし、頻繁に登場するそれらのことばは、よくよく考えてみると無内容であるにもかかわらず、繰り返される。当時のほとんどの作品は、具体的な方策もありようがなく、民族の倫理や美という言葉を通じ、国民の士気を鼓舞するだけのものであった。

「必死の時」
必死にあり。
その時人きよくしてつよく、
その時こころ洋洋として豊かなのは
われら民族のならひである。
(後略)
(1941年11月19日作。『婦人公論』1942年1月号、『大いなる日に』収録)

 「必死の時」は、太平洋戦争開始前夜ともいえる頃の40行を超える詩であるが、冒頭のこの4行が末尾でも繰り返されて終わる作品である。つぎの「新しき日に」は開戦直後の作品ということになる。

「新しき日に」
新しき年真に新たなり。
東方の光世界に東方の意味を宣す。
幾千年の力鬱積していま爆発するのみ
東方は倫理なり。
東方は美なり。                                                                                                               (後略)

(1941年12月19日作。『家庭週報』1942年1月号、『大いなる日に』収録)

さらに、敗戦がもはや避けようもなくなった時期の、光太郎にとっては、敗戦直前の作品が、つぎの「勝このうちにあり」であった。

「勝このうちにあり」
(前略)
勝このうちにあり。
われらの勝や清浄(せいじょう)にして
他の無辜をいためず、自ら驕らず、

ただ民族至純の倫理動いて
おのづから人類に深き省みをあたへ
静に稀有の変革を八紘に現成(げんじやう)せんとするなり。
(1945年7月18日作。未発表か、草稿の欄外のメモに『満州良男』とある。北川『全詩稿』)

 敗戦に至るまで、光太郎の作品を読んでいて、前述の「倫理」もそうだが、光太郎にとって「美」とは何だったのか。次のような作品を立て続けに読んでしまうと、やりきれなさと空しさがよぎる。「決戦の年に志を述ぶ」では、前半に、「今年六十一の老骨でも・・・むしろ数字を逆さにして 一十六から始めたい」などという個所もある。当時、これらの詩を読んだり、朗読を聴いたりした人々は、どのような受け取り方をしたのであろうか。

「決戦の年に志を述ぶ」
(前略)
この生活の一切をかけて彼等を撃ちながら

厳として美の世界を守り抜かう
老兵必ずしも老を語らない。
(1942年12月30日作。『東京新聞』1943年1月2日、『記録』収録)

「軍人精神」
今にしておもふ、
われらが軍人精神の美
古今東西にその比なし。
美ならざるはわれらが武人にあらず、
その精神人倫の極致にいたる。
(後略)
(1943年5月9日。『読売報知新聞』6月24日、『記録』収録)

「戦に徹す」
(前略)
世界を奪はんとしてのぼせ上るは米英にして
世界を清めんとするはわれらである。
この戦のいづれに神のみこころありや。
明々白々、われら断じて信ずる。
米英破る。
世界健康の美かならず成る。
われらの手によつてかならず成る。
(1943年10月26日作。10月28日放送、『記録』収録)

  光太郎の戦前の単独詩集には、『道程』(1914年)『智恵子抄』(1941年)に続き、いわゆる「戦争詩」を収録したものに、先に紹介した『大いなる日に』(1942年)、青少年向きに編集した『をぢさんの詩』があり、『記録』(1944年)には、上記二詩集と重なる作品もある。いずれも、光太郎自身が「序」を記しており、その収録の選択は自身によるものである。そして、当然のことながら、どの「詩集」にも収録しなかった作品も数多く、戦時下の「詩集」に収録しながら、敗戦後出版の文庫本の詩集などには、戦時下の作品がすっぽり抜け落ちていることもある。

 なお、戦時下の日本放送協会における「愛国詩」の朗読の時間で、光太郎の詩は数多く放送されたが、中でも放送回数が多かったのは、つぎの作品であった。詳しくは、坪井秀人『声の祝祭―日本近代史と戦争』(名古屋大学出版会 1997年)、近刊の別稿「『暗愚小傳』は「自省」となり得るのか―中村稔『髙村光太郎の戦後』を手掛かりにして」を参照いただきたい。

  1940年において、すでに、「欲しがりません勝つまでは」(1942年大政翼賛会などが公募した標語の当選作)などと同旨の詩が書かれていたことを知った。私は、東日本大震災後のNHKから流されて続けている歌謡「花は咲く」は、形を変えた「愛国詩」なのではないかの思いがするのだった。そして、この詩人の作品に登場する「倫理」や「美」は、現代の政治家たちがよく口にする「国民に寄り添った」「被災者に寄り添って」とか、「真摯に受け止め、再発防止に努める」「できることはすべてやる」などという発言と同様、無内容で、無策でしかなく、一過性のパフォーマンス、慰撫に過ぎない、と思われてならない。 

「最低にして最高の道」
もう止そう。
ちひさな利慾とちひさな不平と、
ちひさなぐちとちひさな怒りと、
さういふうるさいけちなものは、
ああ、きれいにもう止そう。
(後略)
(「大きく生きよう」を改題、1940年7月10日作『家の光』1940年9月。『大いなる日に』収録)

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2019年9月18日 (水)

あらためて、髙村光太郎を読んでみた(4)光太郎の世界地図帳

 若いころ、国際関係論を専攻した同僚が「地政学」という言葉をよく口にしていた。なんとも古めかしく、怪しげな・・・などと思っていた。ナチスの国土拡張、侵略の理論的な支柱になっていたことなどのうろ覚えでもあったのだろう。しかし、最近になって、ときどき、「地政学」の言葉を聞くようにもなった。先日も、トランプ大統領がノルウェーの自治領であるグリーンランドを買収したいと言い出したとき、ある番組の解説者は「地政学的問題だけでなく・・・」といった形で発言していた。グリーンランドは日本の約6倍近くの広さに、6万人弱の人々が暮らしているといい、地下資源などを持つという。中国の一帯一路をけん制する意味もあると書く新聞記事もあった。サウジアラビアの石油施設攻撃のニュースでは、『石油地政学』という著書を持つ「専門家」が登場していた。現代の「地政学」とは何なのだろう。

 前の記事の「地理の書」が「日本列島の地理第一課だ」を題名にも考えていたような草稿を前の記事にも収めた。このフレーズで締めくくっている詩は、まさに、当時のナチス流の「地政学」が日本にも横行していたからだろう。光太郎は、他にも、この「地政学」を踏まえたかのような詩をたくさん書いている。以下の作品など典型的なものであろう。光太郎は、どんな地図帳と百科事典をもっていたのだろう。

 余談ながら、私の小学校時代は、『少年朝日年鑑』(1949年創刊、1988年終刊)を毎年買ってもらっていた。いまでも、地図帳と年表が嫌いではない。「紳士録」的な関心はないのだけれど、近代の歴史や文学関係の人名辞典が気になって仕方がない時代があり、古いものは若干手元にあるのだが、いまは、とりあえず、ウィキペディアのお世話になることが多い。

「ビルマの独立」

印度と支那と仏印と泰との山嶽を押しわけ、
サルウィン、イラワヂ、シッタンの大河を縦に並べ、
東南アジヤの大陸に巨大な楔をうちこむもの、
西蔵、雲南の高みからベンガル湾の波打ち際まで
チークと稲と木綿とに地表を被はれ、
天のきざはしの如く壮大に位置するもの、
北回帰線を頭上にいただき、
雨季と乾燥季と一年を恵まれ、
黄金のパゴダに國をあげて信篤きもの
ビルマはいま独立を宣する。
(後略)
(1943年7月30日作、8月1日放送。『記録』収録)

「マキン、タラワの武人達」

Img291-1

 (1943年12月27日作。『少国民文化』(少国民文化協会)1944年2月号、『全詩集』のみに収録)                        

 引用が長くなるので、その冒頭部分を画像とした。1943年11月21日マキン、タラワ両島は、米軍5万人による攻撃を受け、日本軍3000人は玉砕した戦いだった。 

 

 

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