2022年6月11日 (土)

戦時下に、ひたすら家族を歌い、房総の地を詠み続けた伯父がいた~若くして、病にたおれた無念を思う(1)(2)

戦時下に、ひたすら家族を歌い、房総の地を詠み続けた伯父がいた~若くして、病にたおれた無念を思う(1)

昭和十一年
大利根の曲りて廣く見ゆるところ浚渫船は烟ながしぬ(佐原短歌誌抄)

まばゆくてま向かひがたき入りつ日にしばし目つむりあたたまりけり

昭和十二年
大土堤に登りてゆける子供たち空のさ中に見えて遊べり(寒光) 

ラヂオをばかくるべしと言ひ止めよと言ひ妻起ちゆかし心さびしも

傾きて石の祠の小高きに野火はするどく燃え寄りにけり(野焼)

椿咲く忠魂の碑に人寄りて他愛なきこと語り居にけり(さくら)

銅像は桜の上にそびえたり灯ともし頃の公園の空を

わが命つたなきものかこの十年むしばまれつつ生き来りける(病床吟)

附添ひをやめてかへれる妻はいま花札など送りよこしぬ(病院にて)

出征兵士の列車止まれる駅の屋根に早やも積もれる樫の落葉か

萬歳のとどろく汽車の中にゐてわが腑甲斐無き病を憶ふ
『宮田仁一作品集』(LD書房 1988年8月)より

 母方の伯父宮田仁一は、1901年生まれで、1941年に亡くなっている。会うことはなかったが、母方の叔母やいとこたちから話は聞いていた。とくに、長女だった母は、二歳年上の長兄仁一は、自慢の兄だったらしい。千葉県佐原で中学校卒業後、父親と同じ銀行員になったが、すぐにやめて、その後の事情は、聞いてはいないが、英語は先生に教えるほどだったと言い、当時は、ヴァイオリンも得意とし、東京には本やレコードを買いに、映画を見にも出かけていたらしい。兵役は、佐倉連隊から近衛歩兵第4連隊に移ったことも、母は誇らしげに話していた。仁一は、いっとき、東京で、サイレント映画の楽士を務めていたこともあったというから、「大正デモクラシー」のさなかに青春時代を送ったのではなかったか。

 その片鱗は、いま私の手元にある一枚のハガキにも残されていた。左の宛書(元は鉛筆書きで、後から墨でなぞった形跡が見える、薄れるのを怖れて、母がなぞったのかもしれない)は、母が千葉県女子師範学校本科第二部(高等女学校卒業後の一年制)の卒業後、教師生活を始めたのが伊能小学校だったと聞いているが、消印は読み取れない。おそらく、1922年(大正11年)年前後、東京の仁一から母に届いたハガキである。2006年には成田市に編入された伊能村にあった分教場である。ハガキの裏には、仁一の作詞・作曲と思われる歌詞と楽譜が書かれているが、薄れてしまって、判読が難しい個所もある。

ああ世の中はゆめなれや/□の小草をふみわけて/花の錦を身にまとひ/吾が故郷へきてみれば

誓ひし山はかはらねど/くみし水はかはらねど/君は昔の君ならで/悲しや去りて人の花

「おれは最高音楽と俗歌との間のリズムの妥当性と□□とを研究してゐる」との文面も読める。

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 宮田仁一は、短歌も俳句も作っていたし、クラッシク音楽にも詳しかった。長女の歌人でもあった河野和子(『橄欖』所属)が、五十年忌にあたる1988年8月、『宮田仁一作品集』(LD書房)として遺されていた短歌と俳句をまとめた。出版当時、もちろん私もいただいていたのだが、歌の背景なども知りたい、きちんとした感想も伝えたいと思いながら、当方の佐倉市への転居、転職などが重なっていたこともあって、その後も失礼を重ねていた。佐原に住んでいた河野和子とは、同じ県内なので、いつでも会えるような気がしていたが、和子さん、カッちゃんは、十数年後に鬼籍の人となってしまったのである。    そして、今、『宮田仁一作品集』を読んいると、果たせなかった夢、妻と三人の子どもを残し、時代をも嘆き、水郷佐原を愛してやまなかったが、闘病の末、41歳で亡くなった伯父の口惜しさが、思われてならなかった。肺結核からの腎臓結核で片腎を失い、父親から経済的支援を受けながら、養鶏を、養蚕を試みるも、家族を養えない闘病生活が続いた。それでも、千葉の大学病院の近くに下宿して療養生活や入退院を繰り返していた暮らしが歌われている。もちろん一冊の歌集も句集も残すことはなかった。個人的な感慨ながら、率直で、やさしい多くの作品には、ときには涙して読み続けた作品集だった。ここに、その一部を記録に留めておきたい。
 伯父は、1927年に結婚、佐原に落ち着き、長女和子、長男を授かったが、幼い長男を病気で失った頃からか、俳句や短歌を作り始め、地元の仲間たちと句会を開き、雑誌も発行しており、その一部が作品集に収められている。短歌の方は、購読していた短歌雑誌があったことは歌にも詠まれているが、寄稿していたかどうかはわからない。遺品や遺稿の中から、収集し、編集した河野和子の熱い思いも伝わってくる作品群だった。

 昭和十三年
(死児の三周年に)
壁に画きし自動車の落書は叱りたれども形見となりぬ

急性腎臓炎とわかりて医者より連れ帰りしは寒き日なり

吾子が通夜は集ふ人らにまかせつつ我は切なき思ひにふける

学校を休みたがる幼子を病と知らず行かしめにけり

(短歌日記)
積みてある薪すでにしみにけり寒き雨いま降りつづきをり

病院へ通ふ下宿にほど近く見ゆる師範学校に妹は学びき

遺りをる右腎も悪きならむと言はれ我汗ばみて緊張しぬ

樹を透きてはつかに見ゆる千葉の海ひかりきらひて春めきにけり

師範学校より竹刀の音きこえくる夕べを寒むみ佇みてをり

吾子逝きて吾子が鞦韆幾とせか雨かぜにさらされて立つなり

節分の門辺に吊す柊は祖母がなしつつ杳かなるかな

大雪を犯して活動見に行きし少年のころを思ひ出しけり

俳優の顔ぶれ移り変るのみ映画は少しも進歩してゐず

離りゐる妻を思ひて目覚むればそのままあとは眠れざりけり

一週に一度帰れる父われと会ひ居て子供らは夜更かしをせり

四十分でゆくといふ東京へゆきて見たしと脳裏に浮かぶ

長く病むたつきを噂すならむとひがみ心は妻にありけり

この汽車に遺骨を守る人らゐてその故郷へ帰りゆくなり

映画の原作者となりし友ありてその如き職う羨ましと思ふ

アララギと多磨と二つへ歌を出す進歩はせざる歌人の名あはれ

ゆくゆくは妻子が困るならむ銭をかろかろしくも費ふわれなる

金持ちでもあるが如き振舞ひを幼きときよりして来しあはれ

夕庭に白きつつじの暮れ残り子を負ふ妻は戻りにけり

むづかりし子を抱き出でて空の中の白き昼月を見するほかなし

洪水の波のさなかに映りゐるあはれに黒き電柱のかげ

入りつ日は鉄道官舎のかたはらの並み立ちそよぐポプラに射しぬ

飲み忘れし薬のまむと廊に出ぬはたと止みたるこほろぎの声

久しく家をあけしかば短歌雑誌たまり請求書も来てゐぬ 

銭なしと妻に言ひしが妻もまた銭もたざれば泪うかべぬ

子を負ひてまゆ売りて来しとふわが妻はみすぼらしくも雄々しとも思ふ

週毎に親より銭をもらひつつ幾年病院へ通ふならむか

海へ行く道 夕立の雨に会ひ県庁前の街路樹にやどりぬ

病気にて銭かかりをれどなほ写真機を買ひレコードを買はむとす

この夜頃目覚めて殊に咳出づる かの病かあらむと思ひて寝られず

水害地のはつかに実る田の端に真白き山羊はつながれてをり

防空演習の飛行機あまた飛ぶ見れば重爆などと覚えたりし吾子憶ふ

深靄に駅もポプラもほのかなる中のシグナルはね上りけり

 「短歌日記」の二首目は、まさに、妹の私の母が在学した師範学校を詠んでいる。40分もあれば、東京へ行けるのにと、好きな映画に携わっている旧友を羨ましがり、貧困に直面しながらも、カメラやレコードを買おうとする自分を戒める一面を見せる一方、つぎのような歌も詠む。

冒頭「昭和十二年」の末尾で
出征兵士の列車止まれる駅の屋根に早やも積もれる樫の落葉か

萬歳のとどろく汽車の中にゐてわが腑甲斐無き病を憶ふや

「昭和十三年」では、
師範学校より竹刀の音きこえくる夕べを寒むみ佇みてをり

この汽車に遺骨を守る人らゐてその故郷へ帰りゆくなり

防空演習の飛行機あまた飛ぶ見れば重爆などと覚えたりし吾子憶ふ

戦争の暗雲は、身近な人々へも、ひたひたと押し寄せてくる息苦しさをも歌っていた。(つづく)

 

戦時下に、ひたすら家族を歌い、房総の地を詠み続けた伯父がいた~若くして、病にたおれた無念を思う(2)

 昭和十四年
この朝のラヂオで言ひし雪降りぬ鶏の住む屋は筵掛けたり

バッハのツーヴァイオリンコンチェルト聞き居る時算術の問題を子に問はれぬ

かくばかり冷めたきものか米とぐと手を濡らしゐぬ妻臥せせしかば

買ひ与ふ事とてはなき幼年雑誌 借り集めつつ読む子となりぬ

夕焼が薄れて暮れゆくこの庭に病を忘れゐるが寂しき

妹が連れ来し子等が立ち騒ぎ魂祭る夜もしみじみとせず

夕空のあきつのむれをながめゐて 野をかへりくる妻にすまなし

いささかの蚕飼ひする身は生糸の相場をいち早く見ぬ

昂りて妻を責めたる夕つべは吾が非を悔いぬいつものごとくに

諍ひは眼にあまりたるか四歳の子われに向ひて挑みかかれり

手紙などはさみあるかと今日妻が送よこせし肌着しらべぬ

病室に陽を恋ふ幾日たちにけり三十九歳の働きざかりを

旅の歌作るによしなし歎かざらむ子規は臥しゐて歌をつくれり

さむざむと国防婦人かたまりて川の向うへ戻りゆくらし

昭和十五年
妾腹の赤子の記憶よみがへる高校受験準備してをり

十日目毎医者に支払ふ札束を出ししぶりつつ父は出したり

都合良く運ぶがままに弟を恋愛もなきところへやりぬ

女学生ら勤労奉仕の鎌もちて散らばる道をわれはゆくなり

くらぐらに起き出て村の産土神へ参りしといふ入試の朝を(和子、県立佐原高女)

江間に出て消防ポンプを洗ひをる村人達をわれは避けゆく

新体制を言挙げしつつこの村に強くいら立ちて踏むものもなし

昏れてなほ止まぬ細雨に白々と十薬の花散らばり咲けり

枯桑を透きて働く人の見ゆはるかに遠き桑畑にして

 宮田仁一は、1941年8月に亡くなるのだが、作品集には、1940年までの作品しかない。ここに挙げたのは、多く妻子を詠んだ歌に偏っているかもしれない。しばしば水害をもたらすと利根川だったが、魚釣りにもしばしば出かけた水郷の風景や庭の草花や農作業にいそしむ人々をも歌っていることも忘れてはならないだろう。また、つぎのような歌も作り続けるが、決して声高な反戦歌ではないが、憂慮する一部の国民の思いを代弁しているかのように思える。

さむざむと国防婦人かたまりて川の向うへ戻りゆくらし

女学生ら勤労奉仕の鎌もちて散らばる道をわれはゆくなり

新体制を言挙げしつつこの村に強くいら立ちて踏むものもなし

 「昭和十五年」の冒頭の二首には、やや説明がいるかもしれない。母と二人の叔母からよく聞かされた話だったのだが、この伯父も、晩年になって、このように歌っていたとなると、なかなかな複雑な人間模様だったことが、いっそう鮮明になったのである。いまは関係者が、みなが故人となられたので、私なりの理解でいうならば、つぎのようなことらしい。

仁一や母の父親は、銀行員で、二人の息子と三人の娘がいたが、その後、妻を亡くした。そして、家を出て、駅前食堂の女将だったところに住み着いしまったが、子供たちの反対もあって再婚することはなかった。息子や娘は、父親を取られたという思いがあったのかもしれない。その女将は、連れ子の娘と店を切り盛りする、いわゆる「やりて」だったらしい。そんなことから「妾」という表現がなされたのだと思う。父親とその女性との間には、一人息子が生まれ、はや、高校受験の年になり、彼は頑張って、仙台二高を経て医師となる。一方、年の離れた仁一や母たち三人姉妹の実弟、私の叔父は、例の女性の連れ子と結婚したことを詠んだのが三首目だったのである。いわば政略結婚とみていたようで、私たち家族が、東京の空襲を逃れて佐原に疎開した折も、母たち三人姉妹は、その女将と連れ子の蔭口をよくたたいていたようだった。その実弟は、実直な信用金庫勤めを全うしている。
 仁一は、そんな父親から経済的援助を受けざるを得なかった不甲斐なさにも耐えていたことになる。かくいう、私たち、疎開家族も、その祖父のお陰もあって暮らすことができた部分があったかもしれない。その頃の祖父は、食堂の奥の小さな和室で、冬は炬燵に入って食堂の客や立ち働く人たちを眺めていて、母が私を連れて立ち寄ると、なにがしかのお菓子や御馳走がふるまわれたことも確かであった。 
 疎開先で、まず世話になったのが、伯父仁一の奥さん、三人の遺児を育てているさなかに、私たち家族が転がり込んだのである。細長い庇の部屋を貸してもらって、七輪で煮炊きをしていたものの、食料も何かと融通してもらい、別の家を借りるまで、厠も風呂も使わせてもらっていた。すでに、仁一伯父が他界していたにもかかわらず、母にすれば、自分の実家という思いもあったかもしれないが、敗戦前後のお互いに苦しいときに厄介になったことになり、いま思えば、きちんとした感謝の言葉も伝える機会を失ってしまったという思いがある。

 河野和子は、母親の死後、遺品整理の中で、父親の短歌や俳句関係の資料を見出だし、『宮田仁一作品集』を編むに至ったというが、この作品集の「あとがき」の末尾に、河野和子自身の母親への挽歌が何首も綴られていた。

耐ふる事のみに終りし一生なれど母の死顔花咲くがに

色褪せぬ母との会話冬は冬の夜をぬくめつつ我らを包みき

父の遺稿編みつつ涙やまざりき国も人も貧しかりし杳かなる日よ

父の弾くバイオリンの音が聞こえ来る五十年祭の夏近づきて

 河野和子自身は、次の4冊の歌集を出版している。父宮田仁一の歌風とは違って、情熱的で、幻想的な歌も多い。いつかじっくり読みたいと思っている。まだ読み残している『作品集』の宮田仁一の俳句とともに。なお、宮田仁一、河野和子の両名は、ともに、章を違えて、新井章『房総の歌人群像』(短歌新聞社 1989年9月)に収録されている。

『花宴』 短歌研究社 1966年2月
『艶』柏葉書院 1971年2月
『移ろい』 東京四季出版 1990年10月
『ら・ろんど』 東京文芸館 1996年8月

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2022年2月12日 (土)

「建国記念の日」だった2月11日、祝日を振り返る

 窓を開けると、前夜からの雪は止み、朝の陽ざしがまぶしかった。2月11日は何の日だっけ、三連休の初日というが。

「建国記念の日」だったのだが、近頃の祝日は、その由来も、だんだん訳がわからなくなって来た。天皇の代替わりの2019年には、天皇誕生日というものがなかったのは、私としてはすっきりしたものの、代替わり報道のものものしさに、辟易としたし、元号と西暦の換算の混乱はいまでも続く。昨年の東京オリンピックの年は、カレンダーの山の日、海の日、スポーツの日は、オリンピック日程に合わせ、移動した。

 そもそも、敗戦後の祝日法は、1948年7月に制定され、その当時は、元日(1月1日)、成人の日(1月15日)、春分の日(春分日)、天皇誕生日(4月29日)、憲法記念日(5月3日)、こどもの日(5月5日)、秋分の日(秋分日)、文化の日(11月3日)、勤労感謝の日(11月23日)だった。この九つの日であった。私の小学校からの学生時代のすべては、この祝日しかなかった。大学生になって、文化の日はかつての明治節、明治天皇の誕生日、勤労感謝の日は新嘗祭、春分の日は春季皇霊祭、秋分の日は秋季皇霊祭であったことを知った。社会人になって、退職するまで、土曜日は出勤日だった。

 いわゆる紀元節復活の動きは、占領軍か去って始動し、9回も国会に提出されながら、成立することはなかった。1965年、佐藤栄作首相は、政府は、2月11日を建国記念日とする法案を提出すると表明、神話にもとづく神武天皇の即位由来の「紀元節」「建国記念日」と名付けることを避け、「建国記念日」を設けるという祝日法改正法案が、1966年6月25日成立してしまった。同法改正では、敬老の日の9月15日、体育の日の10月10日を新設するが「建国記念日」だけは、何月何日にするのかは、政令で定めるとしたあいまいな形であった。総理府に設置した「建国記念日審議会」は9回の会議、5回の公聴会、世論調査を経て、9人の審議委員中7人の賛成多数で「2月11日」を答申、ただちに1966年12月9日の政令で、2月11日が「建国記念の日」となったという経緯がある。 敬老の日や体育の日をセットにして祝日、休日を増やすという世論操作が功を奏したのではなかったか。ちなみに、その審議会メンバーをみると、いかにも政府のシナリオ通り、出来レースの感が強いのは、現在も変わっていないのではないか。
 ちなみに、審議会の会長:菅原通濟、会長代理:吉村正、桶谷繁雄、榊原仟、田邊繁子、舟橋聖一、松下正壽各委員が2月11日に賛成。反対の阿部源一(東洋大学教授、経済学専攻)は、祝日とするのは望ましくない、強いて挙げるなら1月1日とする意見、奥田東(京都大学総長、農学専攻)は、人間社会でなく国土に重きをおくべきで、立春の日がよいとする意見であった。

 1973年からは、祝日と日曜が重なると、振替休日制度が導入され、休日は増えた。また、労働時間の短縮の流れの中で、まず、1992年4月から国家公務員の週休2日制が導入され、国公立学校においては、1992年から月一の土曜休みが始まり、完全に週休2日になったには2002年4月からであった。

 2000年代に入ると、これまで月日が固定していた祝日を移動することで、日曜日・月曜日の連休が増える仕組みが始まった。

成人の日:1948年から1月15日  ⇒ 2000年から1月第2月曜

体育の日:1966年から10月10日  ⇒  2000年から10月第2月曜

            (2020年からスポーツの日)

海の日: 1996年から7月20日  ⇒ 2001年から7月第3日曜

敬老の日:1966年から9月15日  ⇒ 2003年から9月第3日曜

 さらに、2007年から5月4日の「みどりの日」、2016年から8月11日の「山の日」を新設して、5月ゴールデンウイークの3連休の確保、8月のお盆休みのスタートを早めた。もちろん、祝日、休日が増えることは悪いことではないが、まずその恩恵に浴することできるのは、公務員や学校、大手企業の社員たちではないか。その一方、出勤日の残業、待ち帰り残業が増えたりすることもある。そもそも暦通りに休めない職種や中小・零細企業の労働者がいる。正規労働者の休日を確保するために非正規労働者で補完、夜間労働や長時間労働を非正規のシフト制でカバーする事業も増え、サービスを受ける利用者や経営者の利便性や効率性と裏腹に、労働環境の格差はますます広がっていくのが現実ではないのか。
 定年延長や再雇用が進む一方で、非正規の若者が増加し、結婚や出産が遠のいてゆく中で、ほんとうに休日を楽しめる人たちが増えているのだろうか。「新しい働き方」?弱者切り捨て、放置につながりかねない。

 祝日・休日とは、縁遠くなった身ではあるが、そんなことを考えた「祝日」ではあった。

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2月12日、今朝の雪。つばきが蕾をつけはじめたが、水仙はまだのようで、いつもより遅いかな。

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このところ、ヒヨドリに陣取られ、近づけなったメジロ、夕方になって、ようやくエサ台に現れた

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2022年1月24日 (月)

1929年、貞明皇后は詠んでいた!「世の人にひろくたからをわかつこそまことのとみといふべかるらめ」

 論文とも言えない、エッセイにしてはいかにも気の利かない原稿ながら、「貞明皇后の短歌」について書き終えた。活字になるのはいつ頃のことか。
 貞明皇后(1884~1951年)は、明治天皇には皇太子妃として、大正天皇には皇后として、昭和天皇には皇太后として、天皇三代に仕えた人だった。貞明皇后の歌集や伝記などを読んでいると、15歳で、嘉仁皇太子と結婚し、病弱な夫を助け、女官制度の改革などにも取り組み、天皇家の一夫一婦制を確立したが、その苦労も格別だったことがわかる。天皇と政府、自身と政府との間での自らの立ち位置、長男、後の昭和天皇との確執などに悩みながら、慈善事業や「神ながらの道」に活路?を見出していく過程などを知ると、その健気さと痛ましさに、同情の念さえ覚え、のめり込んでしまいそうになる。しかし、片野真佐子さんの『近代の皇后』(講談社 2003年)と原武史さんの『皇后考』(講談社 2017年)の政治思想史からの論考に助けられながら、冷静さを取り戻すことにもなった。 そんな中で、私は、つぎのような短歌に立ち止まり、しばし考えさせられた。

・かなしさを親はかくしてくにのためうせしわが子をめではやすらむ」(1907年)

・生きものににぎはひし春もありけるをかばねつみたる庭となりたる(1923年)

・世の人にひろくたからをわかつこそまことのとみといふべかるらめ(1929年)

 1首目は、日露戦争後に詠まれたものだが、太平洋戦争下では、決して公には歌ってはならぬテーマであったろう。2首目は、関東大震災直後に詠まれたもので、「庭」はどこを示しているのかは定かではないが、「宮城前広場」は、震災直後は三十万人の避難民であふれかえっていたという(原武史『皇居前広場』光文社 2003年)。3首目は、1929年世界恐慌の不況時の歌で、富の格差への疑問が率直に詠まれている。1・3首目は、『貞明皇后御歌集』(主婦の友社編刊 1988年)に収録されているが、2首目は、その生々しい内容からか、上記『御歌集』には収録されておらず、伝記の一つ『貞明皇后』(主婦の友社編刊 1971年)に記されていた1首だった(148頁)。
 3首目は、「成長と分配の好循環?」などと岸田首相は叫んでいるが、この歌を「しっかり」読みこんで欲しいとさえ思う。三首とも、皇后らしからぬ、現代にあっても決して触れてはならない領域、暗部を詠んでいて、あの平成の美智子皇后だって、詠みはしなかった。
 アメリカの富裕層や欧米9か国の富豪たちが「今こそわれら富裕層に課税せよ」と提言しているというのに、日本は、日本企業は、富豪たちは何をやっているのか。

参照
ソロス氏ら米大富豪「超富裕層に課税を」(日本経済新聞 2019年6月25日)

世界の富豪102人が19日、「今こそ私たち富裕層に課税を」(2022年1月20日 AFP=時事)

 

 

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2021年5月 5日 (水)

半藤一利さん、下馬郁郎の名で短歌も詠んでいた

  4月30日の、鈴木竹志さんのブログ「竹の子日記」を読んで、驚いた。半藤一利さんの短歌が、下馬郁郎の名で、『昭和萬葉集』に収録されている、という。鈴木さんは、『週刊文春』最新号の座談会で知ったという。早速、『昭和萬葉集』を調べた結果も書かれていた。

半藤一利さんの短歌
http://takenokonikki520.blog77.fc2.com/blog-entry-1134.html 
(2021年4月30日)

 実は、旧拙文(「皇室報道における短歌の登場はなにをもたらしたのか―昭和天皇病状報道・死去報道を中心に(『風景』1995年2月初出、『現代短歌と天皇制』2001年2月収録)において「天皇の短歌作品を中心した、歌人などの追悼文」10点のうちの一つとしてあげていた文献の執筆者が「下馬郁郎」だったのである(上記『現代短歌と天皇制』117頁)。

(8)下馬郁郎「御製にみる陛下の”平和への祈り“」『文芸春秋・大いなる昭和』特別増刊 1989年3月 712~716頁

 当時、執筆者として岡野弘彦、辺見じゅん、窪田章一郎らと並んでいた「下馬郁郎」が何者?であるか、わからずじまいのままであった。ところが、今年の2月、WAM(アクティブ・ミュージアム女たちの戦争と平和資料館)で「歌会始と天皇制」について話をする機会があって、あらためて準備を進めている中で、半藤さんの「昭和史」について調べていると、ネット上で「下馬郁郎(=半藤一利)」の記事に出会った。が、まだ半信半疑であった。さらに、半藤さんは、昭和天皇死去当時1989年、『文芸春秋』の編集長であることがわかった。編集長自らの名前で、記事を書く躊躇いがあったのか、「歌人下馬郁郎」の名で残しておきたかった記事だったのか、いずれにしても、「下馬郁郎=半藤一利」を確信するに至った。今回の『週刊文春』の記事で裏付けられたし、下馬郁郎がかつて『青遠』という結社で短歌を詠んでいたことが『昭和萬葉集』で明らかになったのである。当時、「下村郁郎」という歌人の名は聞いたことがない、などと私は思ってきたのだが、「歌人」に限らず、広く市井の歌詠みの短歌の集成でもある『昭和萬葉集』の「人名索引」を確認することをなぜしなかったのだろう。『昭和萬葉集』編纂時には『ポトナム』の選歌を担当した者として、そこに気づかなったし、調べもしなかったことには忸怩たる思いもある。史実の検証の難しさを知り、思いがけない展開もあることを知った。

  WAMでの私の話では、天皇の短歌で読む「昭和史」の危うさの例として、半藤一利、保坂正康両氏の著作をあげたのだったが。以下の当ブログ記事をご参照ください。

2月23日「<歌会始>と天皇制」について、報告しました(1)
(2021年2月25日 )
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2021/02/post-39aa28.html

 なお、上記の拙ブログのほかに、『WAMだより』47号(2021年3月)には、要約版が掲載されています。併せてご覧いただければとと思います。

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2021年4月29日 (木)

第4歌集『野にかかる橋』が出来上がりました ー元号の五つをもて語られる歴史の闇は問われぬままにー

 新型ウイルス、その変異ウイルスが蔓延するさなかですが、断捨離の途上、振り返ることも多く、拙いながら、歌集として残しておきたいと、まとめました。編集にあたって、多くの歌を落としましたが、きっぱり捨てることができず、歌数ばかり多くなってしまいました。自費出版の歌集の発送は、出版元に依頼するのが習いのようですが、読んでいただきたい方に、一筆添えて、ゆっくりとお送りしようと思っています。ながらみ書房さん(03-3234-2926)、ありがとうございました。

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表紙の写真は、ハンブルグのニコライ教会構内のモニュメント「試練」(2019年6月撮影)。ユダヤ人犠牲者追悼のため、2004年に建てられ、その礎石には、ルター派の神学者ディートリヒ・ボンヘッファーの言葉<真実は世界中の誰も変えることはできない。真実を求め、それを発見し、それを受け止めることはできる・・・>が刻まれている。彼自身も反ナチス運動のため、1945年4月9日に死刑に処さている。ナチス崩壊後の直前であった。裏表紙は、ベルリン郊外のグリューネバルト駅の「17番線ホーム」、追悼式の数日後に訪ねた(2014年10月撮影)。このホームから、ユダヤ人を乗せた列車は、毎日のように各地の強制収容所に送られていった。ホームのヘリには、年月日と人数と行き先の収容所名が示された銘板が埋め込まれ、続いている。いくつかの写真から選び、装幀してくださった伊崎忍さん、ありがとうございました

 

 

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2021年4月11日 (日)

沖縄「一中健児の塔」を「顕彰碑」とした歴史教科書が検定を通過?!

 4月3日の『東京新聞』によれば、沖縄戦に動員された沖縄県立一中の学徒隊の慰霊碑が、「顕彰碑」と紹介され、戦争を美化するような表記がある教科書が、文科省の検定をパスしていたというのだ。2022年度から使用される高校の新しい科目「歴史総合」の教科書(明成社)は、とくに問題がないと検定をパスしていたが、報道機関や元学徒らの抗議、訂正の要請を受け、出版元は訂正の意向を示しているという。

明成社:日本会議メンバーの著作を多く出版。2002年の検定にパスした地理や日本史の高校教科書での「竹島は日本の領土で、韓国が不法占拠」との記述に対して韓国政府から抗議を受けた。私の手元には『天皇陛下と沖縄』(日本会議事業センター編 明成社 2012年)がある。

 この記事に接して思い出したことがある。

 私が初めて那覇空港に降り立ったのは、2014年11月、ちょうど沖縄県知事選挙・那覇市長選挙戦が終盤に差し掛かっていたときだった。ゆいレールへの陸橋を渡るときには、すぐ下で「オール沖縄で<建白書>実現を」の横断幕をつけた宣伝カーからオナガ支持を訴えていたし、どこからか「オナガ夫人が城間市長候補の応援に駆けつけました」との声も風に乗って届くのだった。翌日、最初に向かったのが首里城だった。ゆいレールの終点首里駅の周辺には「共産党支配のオール沖縄!!」という明らかな選挙妨害のノボリが、あちこちの電柱に括りつけられ、選挙戦の激しさを物語っていた。

 首里城の長くて、高い城壁は壮観だった。あの守礼門、そして、中庭を囲む絢爛たる正殿・南殿・北殿に圧倒されたことを思い出す。2019年10月、なんとそのほとんどが炎上してしまったというニュースには驚かされたのだった。

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  その首里城と玉陵を見学した後、立ち寄ったのが、現在の首里高校とは道を隔てて、少し入ったところの首里高校同窓会館に接して建てられた「一中健児之塔」1950年4月建立)であった。

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 同窓会館の2階には「一中学徒隊資料展示室」(2005年12月開設)がある。その展示によれば、1945年、沖縄県立第一中学校では3月27日卒業式が行われた後、3~5年生を中心に鉄血勤皇隊に動員された者約144名、2年生を中心に通信隊に動員された者110名、4月19日養秀尞が艦砲弾で全焼、軍と共に南部へ撤退し、犠牲者は続出、289名を数える、という。

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  沖縄戦における学徒隊の動員は、兵力の不足を補うため、すべての中学校、高等女学校の生徒を対象とし、男子が14歳から19歳、女子は15歳から19歳の生徒で編成された。一中の生徒たちは、第32軍司令部の直轄部隊の各部に配属されていた。展示室には、爪や遺髪などの遺品、遺書、遺影、追悼集のほか、焼失前の校舎や教室の写真、教科書なども並び、学び続けたかったであろう学園生活の一端も伝えていた。

 私にとって、最も印象深かったのは、ずらりと並んだ、生徒たちの遺影であった。どれもみんな幼く、はにかんだような表情を見せる少年たちは、一見、やさしくも思えたのだった。わずかに残された写真から、拡大し、トリミングした顔写真が並ぶ。ぼやけているものも多いし、なかには、幼少時の写真が掲げられているものもある。見学を終えて、展示室を出ようと、何気なく振りかえったとき、その少年たちの視線は、いっせいに私に向けられ、悲しくも、鋭く、懸命に訴えるようにも思えたのだった。犠牲者の家族も全員亡くなって、写真一枚も見出せず、遺影がないままの生徒もいるという。

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上記の写真は。いずれも2014年11月11日、筆者撮影。展示室内の写真撮影は不可であった
下記の写真は、『養秀ニュース』56号(2016年10月)から拝借。家族にあてた遺書。教官が生徒らに遺書を書かせ、二つの壺に収められたものが地中から発見され、修復されたものの一部が展示されている

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 なお、沖縄戦における学徒隊の全貌は、沖縄県子ども生活福祉部保護・援護課の下記のホームページに詳しいです。下記の画像はその一部です。拡大してみてください。

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2021年3月28日 (日)

今年の「歌会始」から見えてくるもの~私たちは祈ってばかりいられない

 3月26日、約2カ月遅れで、延期された「歌会始」が開催された。“伝統ある古式に則った”宮中行事というけれど、テレビ中継で何度みても、まず、そのドレスコードというか、和洋混在の正装の人々の違和感が先に立つ。会場の男性はモーニング姿、入選者の高校生は制服か。皇族の女性たちはロングドレス?入選者の女性たちは和服である。それに、今年は、全員白いマスクを付け、披講の人たちは、さすがにフェイスシールドであって、席はアクリル板で仕切られていた。入選者の一人はオンライン参加という、どこか奇妙な光景であった。異様といえば異様で、これほどまでして、開催すべきものであったのか。

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 もっとも、新型ウイルスの感染状況が、第四波か第四波の入口かと言われているさなか、「聖火」リレーをスタートさせる国である。辞退者が続出し、途中で火が消えたり、スケジュール通りに繰り上げスタートさせたりと、つながらないリレーに、いったい何の意味があるのかとも思う。政府は、非常事態宣言を解除しておいて、あとから、弥縫的な感染防止や補償、救済策しか出さず、国民の生命と生活はどうにでもなれ、と放置されたようなものである。その一方、この新型ウイルス感染対策費とは桁が違う、防衛費5兆円以上を、マイナンバー普及だけにでも1000億円以上の予算を組む国でもあったのである。そもそも、2021年3月までに、19年度補正予算、20年度本予算で、デジタル関係予算は1.7兆円にもなっていたのである。
 さらにいえば、折も折、政府は、3月16日に「『退位特例法の付帯決議』に関する有識者会議」の設置とそのメンバーを発表し、23日には、初会合を開いた。「付帯決議」の主旨は、「安定的な皇位継承を確保するための諸課題を、先延ばしすることなく、速やかに、全体として整合性が取れるように検討」することだったのだが、菅首相は、会議の冒頭「議論してもらうのは国家の基本にかかわる極めて重要な事柄であるので、十分に議論して、さまざまな考え方をわかりやすい形で整理してほしい」旨の発言をし、いわば論点整理までを、当面の目標にしているようであり、メンバーから見ても、結論ありきの先送りということで決着するのではないか。
 たしかに、今年の歌会始の皇族の参加者を見ると、高齢の三笠宮妃、常陸宮夫妻は欠席、三笠宮家の孫にあたる内親王の一人も欠席、歌も発表されていない。当然のことながら、成人の男性は、天皇以外、秋篠宮一人であって、秋篠宮の長男が成人になるまでは、こんな光景が続くのだろう。このままでは皇位継承者が細る危機感が、政府に足りないという指摘があるけれども、家を継ぐ者がいない、ということは世の中によくあることだし、天皇家が途絶えたとしても、国民はどんな不利益を受けるだろうか。将来、選択制夫婦別姓が可能になれば、家名を残すなどということは、あまり意味がないし、第一、皇族には名字というものがない。天皇家の存続の有無が「国家の基本にかかわる極めて重要な事柄」という認識にこそ、私は危機感を覚えるのだった。 
 話を、「歌会始」に戻せば、今年の一般からの応募歌数は、平成以後、1991年以降の30余年の推移の中で、最も少ない1万3657首であった。選者は、2015年以降、内藤明、今野寿美、永田和宏、三枝昻之、篠弘と変わらず、2万前後を推移していた。平成期のピークは2005年「歩み」2万8758首であり、昭和期のピークは、1964年「紙」4万6908首であった。これは、皇室への関心、歌会始への関心、短歌への関心が薄れていることの反映のようにも思える。相乗的なものでもあるかもしれない。
 いわゆる「新聞歌壇」においても、投稿者の常連化、入選者の固定化、選者と入選者の個人情報が行き交うサロン化などを垣間見ることができる。歌会始の場合、長年の応募の努力が実って入選したとか、多くの入選者を出す学校には熱心な指導者がいるとか、選者や入選者と皇族にこんな交流があったとか、歌を通じて、国民と天皇・皇族とが織りなすエピソードが喧伝され、天皇や皇族の歌のメッセージを読み解く新聞や短歌雑誌はあとを絶たない。「新聞歌壇」は、往々にして、時事的な、政治的なテーマで盛り上がることもあるが、「歌会始」では、おのずと「わきまえられて」排除されることになるだろう。
短歌という文芸におけるジャンルの一つとして、あってはならないことではないのかと。

 大正天皇の短歌の資料が手元にないので、取り急ぎ、歴代四人の天皇の歌に頻出する「祈る」「願う」「思う」にかかる類似性に着目してみた。「平和」とはやって来るものではなく、私たち自身が、多くの犠牲と弛まない行動によって勝ち取るべきものなのではないか。

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徳仁天皇
人々の願ひと努力が実を結び平らけき世の到るを祈る
(2021年歌会始「実」)
明仁天皇
波立たぬ世を願ひつつ新しき年の始めを迎へ祝はむ
(1994年歌会始「波」)
平らけき世をこひねがひ人々と広島の地に苗植ゑにけり
(1995年「第四十六回全国植樹祭 広島県」)
国がためあまた逝きしを悼みつつ平らけき世を願ひあゆまむ
(1995年「戦後五十年 遺族の上を思ひてよめる」)
昭和天皇
あめつちの神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を
(1933年歌会始「朝海」)
さしのぼる朝日の光へだてなく世を照らさむぞわが願ひなる
(1960年歌会始「光」)
この旅のオリンピックにわれはただことなきをしも祈らむとする
(1964年「オリンピック東京大会」)
明治天皇
よものみなはらからと海思ふ世になど波風のたちさわぐらむ
(1904?「四海兄弟」)
神がきに朝まゐりしていのるかな国と民とのやすからむ世を
(1904年「神祇」)
あさなあさなみおやの神にいのるかなわが国民をまもりたまへと
(1907年「神祇」)

 

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2021年3月 6日 (土)

『非国民文学論』(田中綾著)の書評を書きました

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     イチジクの根方のスイセンが咲き出しました

 『社会文学』編集部からの依頼で、田中綾さんの新著『非国民文学論』の書評を書きました。金子光晴は、これまで、アンソロジーで読むくらいでしたが、今回、まとめて読む機会となりました。また、丸山才一の『笹まくら』も初めて読むことになりました。知ることのなかったことを知り、少しばかり学んだ気がしています。お気づきの点など、ご教示いただければうれしいです。

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田中綾『非国民文学論』(青弓社 2020年2月)書評     

本書の構成は以下の通りである。

第1部 非国民文学論 序章いのちの回復/第1章〈国民〉を照射する生―ハンセン病療養者/第2章〈幻視〉という生―明石海人/第3章〈漂流〉という生―『詩集三人』と『笹まくら』/終章パラドシカルな〈国民〉
第2部〈歌聖〉と〈女こども〉 第1章明治天皇御製をめぐる一九四〇年前後(昭和十年代)/第2章仕遂げて死なむ―金子文子と石川啄木

  いずれも二〇〇〇年以降十年間における論稿だが、第1部は、出版に際して、加筆・修正をしているという。序章では、北條民雄の小説「いのちの初夜」(一九三六年)を取り上げ、国家からも〈国民〉からも疎外された「ハンセン病療養者が『書く』ことを通して新しいいのちを獲得しえたこと」を評価する。第1章では、ハンセン病療養者の戦時下の短歌作品から「〈国民〉から疎外された環境にありながら、むしろ戦時のもっとも〈国民〉的なまなざし」を読み取る。第2章では、明石海人の歌集『白猫』(一九三九年)の後半「翳」に着目し、身体こそ拘束されながらも、何ものにも強制されない想像力で独自に構築していた作品世界を「〈幻視〉による生」と捉えている。これらの章では、短歌の一首一首を丁寧に読み込み、制約された環境の中で、「生き続ける」ことの意味を探り続けている作者たちに敬意を払うとともにその作品を高く評価する。著者のこれらの論述の根底には、ハンセン病に対する従来の「救癩の歴史」と「糾弾の歴史」という二項対立の構図から脱したいという思いがあり、多様な『生存』の営みの過程を具体的に明らかにした上で、近代日本のハンセン病問題を捉え直すという「新たな枠組み」(広川和花『近代日本のハンセン病問題と地域社会』 大阪大学出版会 二〇一一年)を目指しているからだろう。多様な生存の営みへの照射は重要である。しかし、たとえば、藤野豊による『「いのち」の近代史―「民族浄化」の名のもとに迫害されたハンセン病患者』(かもがわ出版 二〇〇一年)や戦前から国策としての絶対隔離政策、無癩県運動を批判してきた小笠原登医師による「強制隔離」の実態究明をも「糾弾」と捉えかねないところに、私は若干の危惧を覚えた。葬られてきたさまざまな具体的な事実を広く知らしめた役割も忘れてはならない。また、「救癩」の歴史には皇室との深いかかわりがあること、療養所内での文芸活動が「精神的慰安」になるとして政策的に奨励されていたことへのさらなる言及、検証も欲しかった。一九九六年「らい予防法」廃止以降、「らい予防法違憲判決」を経ても続くハンセン病療養者、家族、遺族たちへの差別を目の当たりにすると、一層その思いが募る。
 つぎに、著者は、金子光晴が疎開中の一九四四年一二月から四六年三月に、妻と息子の三人で綴っていた私家版の詩集「三人」(二〇〇六年古書店で発見、二〇〇八年出版、光晴の作品の一部は公表済み)に焦点をあてる。光晴は、妻森三千代、息子乾と家族三人が結束して、息子の二度の召集を病人に仕立てて逃れていた。著者は、徴兵忌避という行動のさなかの詩作に「家族以外どこにもよりどころがない漂流者としての視線」を捉える。一九三七年、光晴が出版した詩集『鮫』は抵抗詩集としての評価が高く、時には自虐的に、あるいは執拗なまでに嗜虐的に歌いあげた作品が多いと私も読んだ。光晴は、太平洋戦争下に雑誌等に発表した作品と発表のあてもなく綴っていた作品を、敗戦後の一九四八年に『落下傘』『蛾』として、一九四九年に『鬼の子の唄』として、一気に出版している。加えて、上記のような経緯で出現した詩集『三人』には、徴兵忌避をした息子を両親が守り抜き、励まし合うという詩作による「交換日記」の趣がある。その中の光晴自身の作「冨士」「戦争」「三点」「床」「おもひでの唄」が詩集『蛾』に収められた。「三人」では、呼び合っていたあだ名を、『蛾』への収録にあたって「子供」「父」「母」と普遍化し、加筆や修正も頻繁になされている。上記五篇の作品も、他の未発表作品と同様、完成させたのは敗戦後とみなすべきだろう。 
   
光晴の作品には、日付があるものとないものが混在し、雑誌への既発表作品を、詩集所収の時点で、日付を操作し(「瞰望」「真珠湾」「洪水」など、『落下傘』所収)、詩句を書き換えたりする。たとえば、『蛾』所収の「冨士」での書き換えや『落下傘』所収の「湾」は初出(『文芸』一九三七年一〇月)の「(略)地平は/音のないいかつち、/砲口は唸りで埋まる。戦はねばならない/必然のために、/勝たねばならない/信念のために」の傍線部が削除されたりする。『定本金子光晴全詩集』(筑摩書房 一九七七年六月)の光晴による「跋」には、若い時の詩に手を入れるなどするのも「しかたのないこととお宥し下さい。それから、詩集に入ってゐたもので意に充たないものは削除して」とあり、彼の作品鑑賞には、相当の考証が必要になろう。
   つぎに取り上げられた丸谷才一の小説「笹まくら」は、戦時下に徴兵拒否を選択した青年の中年に至るまでの〈漂流〉の物語である。本書では、敗戦後における、一市民の暮らしを脅かす「非国民」のレッテルの「連続性」に着目している点に、私も共感した。その「連続性」の由来については、作家も、著者も明確にはしていない。
 第2部の一九四〇年代に「明治天皇御製」の「謹解書」の類が噴出した背景についても、著者とともに考えたかったが、誌面が尽きた。(『社会文学』53号 2021年3月)

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2021年3月 2日 (火)

「諜報研究会」は初めてかも、占領下の短歌雑誌の検閲、日本人検閲官をめぐって(2)

 山本さんの新著『検察官―発見されたGHQ名簿』(新潮社)は、新聞広告を見て、近くの書店に注文したら、発売は来月ですと言われ、入荷の知らせをもらったまま、取りに行けず、この研究会に参加する羽目になった。今は、手元に置いているので、それを踏まえて、研究会の様子をお伝えしたい。
 
今回の「秘密機関CCDの正体追究―日本人検閲官はどう利用されたか」と題されたレジメの冒頭には、つぎのように記されている。
 「検閲で動員されるのは英語リテラシーのあるインテリであった。彼らは飢餓からのがれるためにCCDに検閲官として雇用され、旧敵国のために自国民の秘密を暴く役割を演じた。発見された彼らのリストと葛藤の事例を紹介しながら、CCDのインテリジェンス工作の実態に迫る。」

 長い間、CCD民間検閲局で、検閲の実務にあたっていた、検閲官の実態は謎のままであった。私も、プランゲ文庫の文書の検閲者の名前が気になっていた。文書には、検閲者の姓名や姓がローマ字で記されていて、多くは日本人とみられる名前だったのである。いったいどういう人たちがどんなところで、検閲にあたっていたのだろうかが疑問ではあった。
 山本さんは、2013年に、国立国会図書館のCCD資料の中から名簿の一部を発見し、以降わかった名簿は、インテリジェンス研究所のデータベースに収められている。CCDの職員はピーク時には8700人にも達し、東京を中心とする東日本地区、大阪を中心とする関西地区、中国九州地区で、おおよそ2万人ちかくの検察官が働いていたと推測している。しかし、その職を担ったのは、当時、まず、英語を得意とする人たちであったことは当然で、日系二世はじめ、日本人の学生からエリートにまで及んだが、その実態は明らかになっていなかった。
 そのような検閲者となった人たちは、敗戦後日本の「民主化」のためとはいえ、GHQによる「検閲」という言論統制に加担したことへの後ろめたさと葛藤があったにちがいなく、口を閉ざし、あえて名乗り出る人たちもなかったなか、時を経て、断片的ながら、さまざまな形で語り始める人たちも出てきた。甲斐弦『GHQ検閲官』(葦書房 1995年)の出版は、検閲の体験者としての貴重な記録となった。そうした検閲者たちの証言を、山本さんは、無名、有名をとわず、丹念に探索し、検閲の実態を解明しているのが、冒頭に紹介した新著であった。例えば、梅崎春生の兄の梅崎光生、ハンセン病者の光岡良二、言語学者の河野六郎、歌人の岡野直七郎、小説家の鮎川哲也、ロシア文学者の工藤幸雄、のちの国会議員の楢崎弥之助、久保田早苗らについて検証する。岡野らのように、実業界、金融業界からも、かなり多くの人たちが動員され、東大、東京女子大、津田塾らの学生らも大量に動員され、その一部の人たちの証言もたどる。
 
今回の山本さんのレポートの前半は、検閲者名簿の「Kinoshita Junji」(以下キノシタ)に着目、あの「夕鶴」で有名な劇作家の木下順二ではないかの仮説のもとに、さまざまな文献や直接間接の証言を収集、分析の結果、キノシタは木下順二との確信を得る過程を、詳しく話された。まるで、ミステリーの謎解きのような感想さえ持った。
 
木下順二(1914~2006)は1939年東大文学部英文学科卒業後、大学院に進み、中野好夫の指導を受けていた。法政大学で時間講師を務めるが、敵性言語の授業は無くなり失業、敗戦後は明治大学で講師を務めていたが、山本安英のぶどうの会との演劇活動も開始している。
 
一方、キノシタは、氏名で検索すると1946年11月4日に登場するが、49年9月26日付で病気を理由に退職している。この間、ハガキや手紙郵便物の検閲を行う通信部の監督官を務め、1948年にCCD内部で実施した2回の英語の試験で好成績をおさめている。かつて未来社の編集者として、多くの木下順二の著作出版にかかわった松本昌次(1927~2019)の証言や養女木下とみ子の証言で、確信を得たという。
 
山本さんは、新著の中で、木下順二が英語力に秀でていたこと、敗戦後の演劇活動には資金が必要であったこと、その活動が活発化したころに、CCDを退職していること、木下の著作には、アメリカへの批判が極端に少ないことなども、いわば状況証拠的な事実もあげている。
 
レポートの後半は、郵便物の検閲が実際どのようになされていたか、東京中央郵便局を例に、詳しく話された。いわゆる重要人物のウォッチリストの郵便物のチェックはきびしく、限られた場所で秘密裏に行われていたという。実際どんな場所で検閲が行われたかについてもリストがあり、東京では、中央郵便局のほかに、電信局、電話局、内務省、市政会館、松竹倉庫、東京放送会館などが明らかになっている。大阪でも同様、大阪中央郵便局、電信局、電話局、大阪放送局、朝日新聞社などで行われていた。しかし、大阪に関しては、関係資料がほとんど残されておらず、焼却されたとされている。
 
内務省やNHK、朝日新聞社などが、場所を提供していたばかりでなく、人材や情報なども提供していたと思われるが、年史や社史にも一切、記録されていないことであった。

 以上が私のまとめとはいうものの、大いなる聞き漏らしもあるかもしれない。 
 また、報告後の質疑で、興味深かったのは、『木下順二の世界』の著書もある演劇史研究の井上理恵さんが「木下順二とKinoshita Junjiが同一人物とは信じがたい。木下は、出身からしても困窮していたとは考えにくいし、CCDにつとめていたとされる頃は、演劇活動や翻訳で忙しかったはずだ」と驚きを隠せなかったようで、今後も調べたい、と発言があったことだった。また、立教大学の武田珂代子さんが、占領期の通訳や検察官におけるキリスト教系人脈はあったのか、朝鮮のソウルでのGHQの検閲の実態、検閲官として、朝鮮人がいたのか、などの質問から意見が交わされた。

 私は、あまりにも基本的な疑問で、しそびれてしまったのだが、GHQの検閲の処分理由に「天皇賛美や天皇神格化」があげられる一方で、天皇制維持や象徴天皇制へと落着することとの整合性がいつも気になっており、アメリカの占領統治の便宜だけだったのかについて、司会の加藤哲郎さんにもお聞きしたかったのだが、気後れしてしまった。

 なお、岡野直七郎についてははじめて知ったので、調べてみたいと思った。1945年12月10日採用となっているから、かなり早い採用だったと思われる。

 

 

 

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2021年2月28日 (日)

「諜報研究会」は、初めてかも~占領下の短歌雑誌検閲、日本人検閲官をめぐって(1)

 

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第34回諜報研究会(2021年2月27日(土))
ZOOMを利用してオンラインで開催

報告者:中根 誠(短歌雑誌「まひる野」運営・編集委員)
「GHQの短歌雑誌検閲」
報告者:山本 武利(インテリジェンス研究所理事長、早稲田大学・一橋大学名誉教授)
「秘密機関CCDの正体追究―日本人検閲官はどう利用されたか」  
資料
司会:加藤 哲郎(インテリジェンス研究所理事、一橋大学名誉教授)

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  今回、インテリジェンス研究所から、上のようなテーマでの研究会のお知らせが届いていた。ズームでの開催ということで、なんとなく億劫にしていたが、テーマがテーマだけにと、参加した。これまで、早稲田大学20世紀メデイア研究所の研究会には何度か参加したことはあるが、第34回という「諜報研究会」は、はじめての参加であった。

 中根誠さんの「GHQの短歌雑誌検閲」は、すでに、『プレス・コードの影~GHQの短歌雑誌検閲の実態』(短歌研究社 2020年12月)を頂戴していたので、ぜひと思っていた。
 著書は、メリーランド大学プランゲ文庫所蔵資料をもとに作成した奥泉栄三郎編『占領郡検閲雑誌目録・解題』(雄松堂書店 1982年)により国立国会図書館のマイクロフィルムを利用して、短歌雑誌111誌、331冊を対象とした論考である。GHQの検閲局に提出された短歌雑誌のゲラ刷ないし出版物の検閲過程がわかる文書の復刻と英文の部分の和訳をし、その検閲過程を解明し、解説をしている。検閲官による短歌の英訳、プレス・コードのどれに抵触するのか、その理由やコメント部分も丹念な和訳を試みている。文書は、タイプ刷りもあり、手書き文書もあり、判読が困難な個所も多いので、その作業には、苦労も多かったと思う。本書は短歌雑誌の検閲状況の全容解明への貴重な一書となるだろう。

 研究会での報告は、『短歌長崎』『短歌芸術』を例に、編集者と検察局との間でどういう文書が交わされたかを時系列で追い、出版に至るまでを検証する。国粋主義的な『言霊』を通じては、発行から事後検閲処分の遅れなどにも着目し、事後検閲の目的はどこにあったのかなどにも言及する。また国粋主義的な『不二』と『人民短歌』を例に、どんな理由で「削除」や「不許可」なったのかを量的に分析し、『不二』の違反数が圧倒的に多く、事後検閲に移行するこことがなかったのに比べ、『人民短歌』は、検閲者が一度違反と判断しても、のちに上司が「OK」に変更される例も多いことがわかったという。「レフト」(左翼)より「ライト」(右翼)にはきびしい実態を浮き彫りにする。
 各雑誌自体の編集方針の基準として、レフトとライトの間には、センター、コンサーバティブ、リベラル、ラディカル、といった仕訳がされ、文書には付記されていたことにも驚く。

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 中根さんは、事前検閲から事後検閲への移行の基準など明確に読み取れなかったことや、検閲が厳しい場合とそうでない、かなり杜撰な場合とがあることも指摘されていた。中根さんの報告の後、短歌関係なのでと、突然発言を求められ、驚いてしまったのだが、つぎのような感想しか述べられなかった。
 「一昨年、斉藤史という歌人の評伝を出版、その執筆過程で、気が付いたことなのだが、検閲の対象になった「短歌」ということになると、中央、地方の「短歌雑誌」だけでなく、さまざまなメディア、総合雑誌や文芸誌、婦人雑誌、新聞なども対象にしなければならないのではないか。斎藤史という歌人の周辺におけるGHQの検閲を調べてみると、斎藤史は、父親の歌人斎藤瀏と長野に疎開し、敗戦を迎える。地方の名士ということだろうか、斎藤史は、国鉄労組の長野支部の雑誌『原始林』(48年7月)に短歌7首を寄稿しているが、1首が削除されている。斎藤瀏は、『短歌人』という雑誌で何度か検閲処分を受けているが、宮城刑務所の文芸誌『あをば』(46年9月)に8首が掲載されていて、1首にレ点がついていた。だが、この8首は、『短歌人』(46年4月)からの転載だったので、すでに検閲済みで、1首が削除されての8首だった。二重のチェックを受けていることになるが、『あをば』1首には、「OK」の文字も見えて削除はされなかった。こんなことも起こり得るのかなと。そういうことで、プランゲ文庫の執筆者索引のありがたさや大事なことを痛感した。」
 発言では触れることができなかったのだが、史の作品の次の1首が「ナショナリズム」と「アンチ・デモクラシー」を理由に削除されている。史の『全歌集』には、収録されていない。
・この國の思想いく度變轉せしいづれも外より押されてのちに
 また、斎藤瀏のレ点のついたのはつぎの1首だった。
・皇國小さくなりたり小さけれど澄み徹りたる魂に輝け

 これまでも、私自身、旧著において、以下のようなテーマでGHQの検閲に言及してきたものの、断片的だったので、今回の中根さんの労作には、敬意を表してやまない。
①「占領期における言論統制~歌人は検閲をいかに受けとめたか」『短歌と天皇制』(風媒社 1988年10月)
②「被占領下における短歌の検閲」『現代短歌と天皇制』(風媒社 2001年2月)
③「占領軍による検閲の痕跡」『斎藤史―『朱天』から『うたのゆくへ』への時代』(一葉社 2019年1月)

 ①では、『短歌研究』1945年9月号の一部削除、『日本短歌』1945年9月号の発禁、斎藤茂吉歌集『つゆじも』、斎藤茂吉随筆集『文学直路』、原爆歌集『さんげ』などについて書いている。
 ②では、占領下の検閲についての先行研究に触れながら、検閲の対象、検閲の手続き、検閲を担当した日本人、検閲処分を受けた著者・編集者・出版社の対応について、今後の課題を提示した。とくに、桑原武夫「第二芸術論」が、彼の著作集の編集にあたっては復元することもなく、削除処分後の文章が載り、検閲についての注記もなかったことに象徴されるような潮流にも触れた。
 
③では、発言でも触れたことと、検閲を受けた歌人たちの対応について言及し、『占領期雑誌資料体系・文学編』(岩波書店 2010年)の第Ⅴ巻「短詩型文学」において、齋藤慎爾の解説「検閲に言及することは、自らの戦前、戦中の<戦争責任>の問題も絡んでくる。古傷が疼くことにあえて触れることもあるまい。時代の混乱を幸いとばかりに沈黙を決め込んだというのが実情ではないか」との指摘に共感したのだった。

山本武利先生の報告は次回で。(続く)

 

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