2017年6月29日 (木)

71年前のきょう、1946年6月29日、何があったのだろう

 きのうの朝日新聞の夕刊「あのとき・それから」の記事で、629日は、GHQの意向を受けた文部省が全国の国公私立学校に対して、「奉安殿」撤去の通牒を出した日と知った。

 

 梅雨のさなかのことだったのだなァと、「奉安殿」については、いま思い起こすことがある。私たち家族は、母の実家のある千葉県の佐原(現香取市)に疎開していた。私は、敗戦の翌年4月、佐原小学校に入学している。明治36年(1903)生まれの母が結婚前、教師として勤めていた学校でもある。入学当初の想い出は、情けないことにほとんど消えてしまっているのだが、母の実家から、町の中心部から離れた馬市場の跡、管理人さんが住んでいたという、何本かのつっかえ棒のある古い家に転居した。そこは疎開者にとっては、ありがたい場所だった。一家で、市場の広い草原を畑にして、食料不足を補うことが出来たのである。母は、あの日、近くの農家と共同で使用していた井戸端で、敗戦のニュースを聞いてきたらしく、「日本は負けたんだって」と伝えられたことを覚えている。 

 その翌年、私は小学校に入学した。「ホウアンデン」の前では礼をしなさいと教えられたことは覚えていないのだが、ある日、先生が「あしたからは、ホウアンデンの前で、お辞儀をしなくてもいいことになったのよ」と言われたことは鮮明に覚えている。その日は、朝から雨で、階段の下から「さしていた傘を横にどけて、きちんとお辞儀をしてきたのに」の思いがあったのに、「どうして?」の気持ちであったのだろう。それが、何日のことかはもちろん不明だが、私たち、母と中学生だった次兄の三人は、父や長兄に遅れて、夏休みに池袋の焼け跡に建てたバラックに引っ越している。たった一学期だけでの転校であった。だから、先生の指示は、たぶん、7月の初めか中旬のころだったのだろうか。

 

 「奉安殿」とは、18901030日、明治天皇から内閣総理大臣山県有朋、文部大臣に下賜されたのが教育勅語と翌年、文部省から下付された明治天皇の御真影を保管するための場所である。全国の国公立学校は神社風の小さな建物や別置するための部屋を設けた。保管場所としての「奉安殿」の建設が盛んに奨励されるようになったのは、1910年代から1930年代で、天皇制教育の象徴的な存在となった。

 

 敗戦後の奉安殿の撤去について、手元にあった事典とネット検索でヒットした以下の資料でたどってみた。 

①多木浩二『天皇の肖像』岩波新書 19887 

②籠谷次郎執筆「御真影」「教育勅語」『天皇・皇室辞典』 岩波書店 20053 

③白柳弘幸「東京都と神奈川県の奉安殿遺構調査」『法政史学』68号 20079 

④小野雅章「戦後教育改革期の学校儀式と御真影再下付問題」日本大学教育学会紀要 46号(2011年)。著者は、冒頭の記事にも登場し、未見ながら同じ著者による近著に『御真影と学校 「奉護」の変容』(東京大学出版会 2014年)があるようだ。

 

 冒頭の記事にあった1946629日に至るまでには、曲折があったようである。19451215日、「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止に関する件」(以下カタカナをひらがなに書き換えた)というGHQから終戦連絡中央事務局経由の日本政府に対しての覚書である。「国家神道の物的象徴となる凡てのものを設置することを禁止する、而して之等のものを直に除去することを命令する」という、いわゆる「神道指令」であった。一週間後の同月22日には、文部次官より地方長官、学校長への通牒には、「學校内に於ける神社、神祠、神棚太麻、鳥居及注連縄等は撤去すること。尚御真影奉安殿英霊室又は郷土室等に付ても神道的象徴を除去すること」とある。その後も、教育現場と文部省とのやり取りの中で、「この際、撤去することを適当と認める」「形式の如何を問わず独立の建物として奉安殿を撤去すべき」「神社形式ではない奉安殿まで撤去する意向ではない」「撤去できないものは原形をとどめないように」とか様々な混乱があったようだ。そして、19466月の文部次官通牒に至るが、必ずしも撤去が徹底していたわけではないようで、各地に、その遺構が見出されることにもつながる。

 

 文献④によれば、宮内省の「御真影」を新たな制服による写真を再下付するという通達を受けて、19451220日文部次官通牒「御真影奉還に関する件」が出された。「御真影」の一斉回収は実施されたのだが、「御真影」自体を否定するのではなく、基本的な変更はなかったという。 

 194645日宮内次官による各省次官あての通牒に付された「御写真取扱要綱」は、「国民が日本国の元首、国民大家族の慈父として深き敬愛の念を以て仰ぎ奉るべきものとし」、写真は仰ぐに適当な場所に「奉掲」するものとするが、「拝礼」を強制してはいけないこと、奉安殿などに「奉護」しないこと、を内容とするもので、これについては、1946710日のCIEの「日本の学校における教育勅語と御真影の取扱い」という覚書で追認される形となった。

 

 「教育勅語」については、森友学園問題で、系列の幼稚園で「教育勅語」を暗唱させるような教育の実態が明らかになって、にわかに注目されるようになった。1946108日、文部次官通牒により「教育勅語を以て我が国教育の唯一の淵源となす従来の考えをなくすこと、式日などに奉読をしないこと、勅語及び詔書や謄本などは学校で保管するものの神格化するような扱いをしないこと」とした。113日日本国憲法の公布、19473月教育基本法の公布を受けて、1948619日衆議院・参議院において教育勅語の排除、執行確認が決議された。こうした経過は、今回の森友学園問題の審議で知られるところとなった。この両院の決議にもとづいて、625日には文部次官通牒により教育勅語の謄本の返還が命じられたという経緯であった。

 

 朝日の記事に戻れば、戦前、根津嘉一郎が理事長だった旧制武蔵高校が、「奉安所新築」を三度も見送って軍部に抵抗する気骨を示したことやキリスト教系の学校は「建物や設備が整わず御真影を受け取るのはかえっておそれ多い」という理由で先延ばししていた例が書かれていた。

 

 こともあろうに、2017331日、森友学園の「教育勅語」教育が問題になっているさなか、安倍内閣は、戦前・戦中の教育勅語を学校教育で使うことについて、「勅語を我が国の教育の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切である」とした上で、「憲法や教育基本法等に反しないよう な形で教材として用いることまでは否定されることではない」と、何とも不可解な閣議決定までしたことは、記憶に新しい。

 

私が「お辞儀」をしていた佐原小学校の奉安殿は、その後どうなったのだろうか。転校した池袋第二小学校の校舎は空襲で焼失、1年生の教室は近くの重林寺の本堂であった。二年になると、子供の足ではかなり遠方の要町小学校に間借りしていた教室に通った。二部授業ということで午後に登校することもあった。新校舎が完成したのは、1947年の夏のことだったろうか。御真影も奉安殿も、教育勅語の記憶は一切なく、学校も、先生もそれどころではなかったのではないか。

Img311

小学校一年一学期、佐原の諏訪神社近くの諏訪公園に立っていた「伊能忠敬」の銅像の写生画。画用紙ではないわら半紙のような紙に描いた絵。母が新聞紙などで裏打ちをして残しておいてくれた、私の絵。右肩にくしゃくしゃになった銀色の紙、先生が銀賞をくださったのだろうか、下方には、壁に貼付したような張り紙も見える。母が必死で残してくれた佐原小学校の想い出の品である

| | コメント (0)

2017年6月23日 (金)

なぜ、いま、「斎藤史」なのか~6月12日の「大波小波」に寄せて

「大波小波」では

 もう、十日以上も過ぎてしまったので、旧聞に属するが、612日『東京新聞(夕刊)』の匿名のコラム「大波小波(魚)」は「<濁流>に立つ言葉」と題して、斎藤史の『魚歌』(1940年)と『朱天』(1943年)の各一首を取り上げていた。前者の「濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ」と後者の「御いくさを切に思ひて眠りたる夢ひとところ白き花あり」を引用して、史の「美しいイメージは権力に奉仕」する「一変ぶり」に「自立性」を失うことへの警告を発している。問われるのは、史ばかりではないとして「第二の<濁流>の中で立ち続ける言葉を持てるかどうかなのだ」と結んでいる。

20176img305
『東京新聞(夕刊)』2017年6月12日




  安倍政権が推し進めた特定秘密保護法(
201412月施行)成立、そして「テロ等準備罪」新設への疑問は、依然として根深い。しかも、テロ等準備罪に関しては、衆議院法務委員会で強行採決を経て、本会議で可決、参院では法務委員会の審議を打ち切り、委員長による「中間報告」をもって、即、本会議の採決とするなどの異例の手段で、可決、成立させた。法務大臣はじめ、曖昧な答弁が続き、解明されないままである。質疑は参議院に移っても、法務大臣がまともな答弁が出来ず、疑問は解明できず、「テロ等準備罪」の必要性がどんどんと崩れていった。組織的犯罪集団の解体、テロ防止、オリンピック開催に役立つどころか、監視社会の強化により市民の活動や言論は萎縮をもたらすだろう。短歌という小さな世界にかかわる表現者としても、このコラムでの指摘は、重く受け止めねばならない。

 

斎藤史研究の基礎的な作業は

斎藤史は、194112月の「開戦」を境に「一変」したというより、彼女が短歌や時代に向き合う姿勢に問題があったのではないかと思う。というのは、私自身、作歌とともに近現代短歌史に関心を持ったころから、著名歌人の戦争責任に触れないわけにはいかなくなって、斎藤史に着目した。彼女の短歌は、老若を問わず、その作品の魅力や生き方を賞賛してやまない歌人たちや読者が多い。そうした人々には、「一変」したのは時代の流れで、だれもが遭遇した、致し方のないことだったとする論調が多い。

 しかし、斎藤史に関しては、短歌にかかわる「事実」を、きちんと整理しておかなければならないことに気が付いた。もう20年以上も前のことになるが、私は『風景』という短歌同人誌に「斎藤史 戦時・占領下の作品を中心に」と題して連載していたことがある。「『斎藤史全歌集』への疑問」として、「大波小波」(東京新聞1998115日)に紹介された。基本的な作業として、史が、いつどのようなメディアに、どんな作品を発表していたかを明確にしておかなければと思った。当時に比べると、現在は、資料をめぐる環境も随分変わった。古本は、なかなか入手しにくくなる一方、国立国会図書館で、雑誌のデジタル化が進み、プランゲ文庫の新聞雑誌の検索可能になり、遠隔コピーの利用もたやすくなった。しかし、例えば、史が属していた『心の花』は復刻版もあるのでありがたいが、いわゆる短歌総合雑誌も欠号なく所蔵している図書館が少ない。父親の斎藤瀏と立ち上げた『短歌人』、さらに『原型』などを所蔵する図書館や文学館があっても欠号が多い。前川佐美雄らとの雑誌「日本歌人」「オレンジ」などになると、さらに難しい。最近思いがけず『灰皿』がデジタル化されているのを見つけたりした。
 
 史は、短歌総合雑誌だけでなく、さまざまな文芸誌、女性雑誌、業界雑誌や地方雑誌、児童雑誌、そして新聞と、その寄稿対象が広いので、網羅的な著作目録作成は不可能に近いかもしれない。これまで私は、作品を含めてほそぼそと著作目録の作成を続けて来たが、何ほどのものが集められたか心細い。史の場合は、同じ作品を、さまざまなメディアに、組み合わせを変えたり、あるいは、そっくり同じ作品を、再録との注記もなく、題を変えて、同時に発表したりすることもある。さらに、次に述べるように、歌集収録や『全歌集』収録の際の削除、改作にいたっては、夥しい数にのぼる。歌集収録に当たっての取捨や改作は、「歌集」自体を一冊の文学的な結実として評価するところから、普通によく行われていることであろう。その異同などが、作品鑑賞や研究、作家研究などの対象になることも多い。

Img309
『朱天』1943年7月15日発行の初版の奥付けと「後記」の末尾。出版会承認3000部とある。スキャンすると、どうしても歪んでしまって・・・

Img306
『朱天』1944年1月15日発行の再版の表紙とカバー。奥付けには出版会承認3000部とある。初版・再版ともに櫻本富雄氏から頂戴したものである

二つの『朱天』が意味することは

ところで、1977年刊行の『全歌集』に収録された『朱天』は、初版『朱天』より、つぎのような神がかり的な戦意高揚短歌を含む17首が削除されていたことが分かったのである。それは、『全歌集』刊行時、編集にあたった史が、どういう評価をし、どういう意図で、17首を削除したかは、定かではない。

多くの著名な歌人たちには、生前だったら自らの手で、没後は、遺族の手で、あるいは弟子や第三者の手で、さまざまな編集過程を経て、刊行される≪全歌集≫や≪全集≫を持つ。刊行の折には、明確な編集方針を示すとともに、その意図、理由をも示してほしい、というのが読者の願いでもある。そうすることが、≪全歌集≫や≪全集≫の資料的価値の決め手になるのではないかと思うからだ。歌集は、「てにをは」のミス訂正はともかく初版の原本が基本だろう。編集時の改作、作品の加除は、なすべきではないと、私は考えている。もし、どうしても、その必要があるならば、異同が生じた理由や経緯を明らかにしておくことが重要かと思われる。

 歌集『朱天』は、作歌時期によって、大きく「戦前歌」「開戦」に分かれるのだが、『全歌集』に『朱天』を収録する際に、斎藤史は、「戦前歌」という表題の下方に、「昭52記」と添え書きをして、次の1首を付記したのである。 

はづかしきわが歌なれど隠さはずおのれが過ぎし生き態なれば 昭52 

 

 そして、初版1943年、再版1944年の「後記」は、「昭和十八年二月」付で、364首を集めた、と記している。『全歌集』の収録時には、この「後記」と同じ頁に、「昭52付記今回三百四十八首」と付記した。これだけを読むと、16首(364348首)を削除したことが推測されるが、その理由などは示されていない。その上、初版の『朱天』の収録歌数の実数は、365首だったので、実際の削除は17首であることが分かったので、照合してみると、たしかに、『全歌集』に収録されていない作品が17首あり、その中に、つぎのような作品があったのである。

國大いなる使命(よざし)を持てり草莽のわれらが夢もまた彩(あや)なるを(『朱天』6頁)


 初出は『日本短歌』19412月号、「秋より冬へ」15首の内の1

首であった。さらに、「使命」の部分は「理想」であった。




現(あき)つ神在(ゐ)ます皇国(みくに)を醜(しこ)の翼つらね来るとも何かはせむや(『朱天』95頁)



 初出は、『公論』19423月号「四方清明」5首の内の1首であり、『日本短歌』19424月号「春花また」6首の中にも見出すことができる。




神怒りあがる炎の先に居て醜の草なすがなんぞさやらふ
(『朱天』
147頁)

 

初出は『文芸春秋』194212月号、「北の防人を偲びて」10首の内の1首であった。『文芸春秋』の短歌のコラムは、現在も続いている、歌人も注目のコラムであるが、斎藤史の登場は、戦前戦後を通して、他の歌人に比べれば、例がないほど、その頻度は突出している。当時、1940年以降、平均すれば、年に1回は作品を寄稿していることになるのである。 

Img307_2
『朱天』初版・再版とも頁割は同一で、最終の2頁5首の内、4首が『全歌集』から削除され、収録されたのは、最後の1首であった。綴じが崩れている個所もあって・・・


 『全歌集』刊行の
1977年以降、「昭和52付記」の「はづかしき・・・」の一首は、削除した作品を検証することもなく、独り歩きをした格好で、史が戦時下の歌集を隠すことなく、さらけ出した「勇気」や「覚悟」を称揚する論調が拡散した。

それは、戦時下においては、斎藤史が歌壇内外で“人気”の若手女性歌人であったからだろう。しかし、それは、歌人の父、斎藤瀏が226事件の反乱将校たちを幇助したとして服役し、1938年仮釈放された後、『心の花』を離れ、『短歌人』立ち上げたのが1939年であった。娘の史は、親しかった反乱将校たちを銃殺刑で失うという、“悲劇”を背負った歌人の父娘であったことと、瀏が、仮釈放後、歌壇に復帰したのが、軍国主義が強化され、軍による言論統制が露骨になった時期であり、歌壇のファッショ化の先陣を切る形での活動が始まったことと無関係ではなかった。その華々しい活動は、著作目録から見ると、他の女性歌人と比べて、そのメディア進出頻度は破格だったことが分かる。

さらに、戦後の斎藤史は、戦前の歴史的な検証というよりは昭和天皇との確執という「物語」を背負い、疎開地の長野にとどまって、父を看取り、長きにわたった母の介護に続き、夫の介護をも担うことになる。初版の『全歌集』が刊行されたのは、夫が亡くなった直後でもあった。

占領下、その後の斎藤史については、別稿としたい。


Img304_2




| | コメント (0)

2017年6月19日 (月)

戦時下の女性雑誌における「短歌欄」と歌人たち―『新女苑』を中心に   

 加計問題について調べていくと、いろいろ出て来て、書きとどめておきたいことがある。諮問会議のもとでは、ワーキンググループ、区域会議などの組織が設けられている。さらに、安倍首相が、「<分科会>で専門の先生方にも議論いただいて・・・、<分科会>知ってますか、知らないでしょう!」と、質問の議員に応えていた分科会、その議論の中身とて、首相の言う内容のあるものではないが、分科会自体と諮問会議との関係、内閣府地方創生推進事務局の中での位置づけが明確ではない・・・。今問い合わせているのだが・・・。

 今回、加計問題は小休止をして、最近、活字になった論稿をアップしておきたい。

 歌人、ジャーナリストであり、国文学研究者であった窪田空穂は、今年生誕140年、没後50年ということで、角川『短歌』6月号で「いまこそ空穂」という特集を組んでいる。私は、ここ数年、阿部静枝と斎藤史研究の基礎作業として、著作目録を作成中だが、二人とも幅広いメディアで活躍したので、かつての「婦人雑誌」と呼ばれ、多くの読者数を誇っていた女性雑誌に多くの作品やエッセイを残していた。そこでの文献探索中に、「婦人雑誌」の短歌欄に着目した。その一端を、『ポトナム』95周年記念号(2017年4月)に寄稿したので、再録しておきたい。紙面に制限があったので、かなり端折ってしまったが、あらためて、本などにまとめる際には、追補したい。

Img293

 

 空穂の戦時下の作品については、島田修三「窪田空穂、戦時詠」『昭和短歌の再検討』砂小屋書房 2001年)の論稿があり、空穂の「戦争観」をたどり、「本人の意に添っての錯誤ないしは禁忌として封殺しつづけるならば、この巨大な歌人は生の全貌を不自然に歪ませたまま短歌史の闇をさままいつづけることになりはしないか」と結んでいる。今回の特集の執筆者は、ほぼ、空穂系の歌人で固められているので、
この辺りに触れているのは、今野寿美「忘るる得たり」で、『明闇』から戦時下の作品を除いた『茜雲』編集に衝撃をうけ、戸惑い、「報道のままに歓喜する姿の浮かぶ様相は、むしろ痛ましい」ともいうが。

          ~~~~~~~~~~~~~~~~

 

戦時下の女性雑誌における「短歌欄」と歌人たち―『新女苑』を中心に 

 

はじめに

拙稿「女性歌人はマス・メディアにおいてどのように位置づけられたか―敗戦前の女性雑誌の短歌欄を中心に」(『扉を開く女たち』二〇〇一年)では、主に『主婦の友』『婦人之友』を対象とし、「内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか~女性歌人起用の背景」(『天皇の短歌は何を語るのか』二〇一三年)では、阿部静枝の執筆が多かった女性雑誌の短歌欄に言及した。本稿では、太平洋戦争下における女性雑誌『新女苑』の短歌欄と選者、女性歌人の短歌に焦点をあてたい。

『新女苑』は、『少女の友』の主筆内山基(19031983)が主筆を兼ね、一九三七年一月、實業之日本社から創刊され、当時としては、若い女性向きの斬新な雑誌であり、敗戦をはさんで一九五九年まで刊行された。「創刊のことば」によれば「若き女性の静かにして内に燃える教養の伴侶」「少女雑誌と婦人雑誌の中間的存在」を目指した雑誌であった。当時の主婦向けの実用雑誌『主婦の友』『婦人倶楽部』などとは一線を画し、働く女性たちをもターゲットにした女性雑誌であった。吉屋信子ら著名作家による小説、グラビア、エッセイ、手記、座談会などに加え、翻訳文学、海外事情などにも及び、各分野の時評欄を充実させるなど編集に工夫が見える。平塚らいてう・宮本百合子・山川菊栄・金子しげり・奥むめお・高良富子ら女性の論客たちもしきりに登場していた。そうした編集方針を背景にしている「読者文芸」の一つ、「短歌」欄における選歌の動向や入賞作品の推移を見てみよう。

 『新女苑』の研究として、入江寿賀子「『新女苑』考」(『戦争と女性雑誌』二〇〇一年)と石田あゆう「<若い女性>雑誌に見る戦時と戦後―『新女苑』を中心に」(『マス・コミュニケ―ション研究』二〇一〇年)があるが、歌人や短歌についての言及はない。内山基については、ともに二〇〇四年刊の遠藤寛子『《少女の友》とその時代』(本の泉社)、佐藤卓己「実業之日本社の場合―内山基の恨み」『言論統制』(中央公論新社)がある。 

窪田空穂が選ぶ「短歌」欄

一九三七年三月号からスタートした「読者文芸」の「短歌」欄の選者は窪田空穂(18771967)であった。

・いねし子の口は静かにほころべり夢みつるらしほほゑみのうく

(一九三七年三月 大分 黄金眞弓)

・此の襖へだてヽ未だ寝ぬ人のありと思へばお落ちつかぬかも

(同上 奈良 松谷千鶴子)

入賞作品は、家庭の日常、相聞や働く女性の歌も多く、毎月三頁にわたる一〇〇首以上の作品が掲載された。いわゆる戦時詠、銃後詠などは、他誌の読者歌壇に比べてかなり少ない。つぎに、一九四〇年二月号をのぞいてみると、四首目のような作品は極めて稀であった。

・つきつめし思ひにふれてこほろぎは一直線の聲透すなり

(西宮 徳山くら)

・務終へ心つかれし吾が目には時雨にぬれし舗道は美し

(京城 丘志津)

・つつがなく今日も終りて安らかに我が事務机ふき清めたり

 (東京 浜田彰子)

・やうやくに召さされし兄は胸張りて秋の大空にこヽろよげなり

 (鹿児島 立山成子)

一般的に、新聞・雑誌が読者歌壇を設けるのは、まず、短歌愛好者の読者獲得という営業目的のためと同時に、「短歌」は、比較的気軽に嗜むことができる文芸の一つであり、作歌をしない読者にとっても、教養・実用記事が続くなかで、ほっとできるオアシス的な存在であったのではないか。さらに、短歌愛好者、投稿者にとっては、読者層やテーマも限定的で、より親しみやすく、入選頻度が高く、満足度も高かったにちがいない。投稿される短歌も表現技術や公式的な戦意高揚を競うものではなく、心情を吐露する素直な作品が多かったことが垣間見られるのである。

『新女苑』「短歌」欄の選者は、通して窪田空穂が務めていた。『主婦之友』『婦人之友』の二誌では若山喜志子が長く、『主婦之友』では太田水穂も長かった。『婦人朝日』は今井邦子、『婦人倶楽部』は、交代ながら選者はすべて女性歌人であった。『婦女界』の佐佐木信綱も長い。『婦人画報』『婦人公論』は読者歌壇を持たなかったが、『婦人公論』は、一九四二年、「愛国の歌」を募集、土屋文明、北原白秋、佐佐木信綱が交代で選者を務めたことがある。

一九三七年七月七日中戦争開始を受けて、出版統制はますます厳しい時代に入った。翌年四月国家総動員法が成立、五月内務省警保局から「婦人雑誌ニ対スル取締方針」が発表され、九月内務省図書課から雑誌社代表に貞操軽視の小説は不可の指示が、一一月内務省から婦人雑誌編集者へは健全な母親教育・用紙節約の要請が、一二月厚生省からは婦人雑誌編集者に戦没者出征遺家族精神援護の要請が出された。一九四〇年一二月大政翼賛会は婦人雑誌編集者に対して母たる自覚の鼓吹を要請した。「要請」という名の弾圧は、さらに具体的になっていった。一方、女性執筆者に向けても、一九三八年一二月企画院は婦人団体への時局対策協力要請、一九四〇年一一月女流文学者会議発足、一九四一年五月内閣情報局の女性指導者らの時局懇談会召集などによって、統制と自主規制の両面から強化されてゆく。それは、一九四一年七月の警視庁による家庭婦人雑誌の整理統合要請につながり、八〇誌発行されていたものが一七誌に絞られ、一九四四年三月には、中央公論社解散により『婦人公論』は終刊、一九四四年末には、「婦人雑誌」として『主婦の友』『婦人倶楽部』『新女苑』、「生活雑誌」として『婦人之友』が残るのみとなった。

一九四四年、『新女苑』の「短歌」欄も、たった一頁に圧縮されてしまい、三四~五首のうち、三〇首近くが戦局・銃後詠であって、かかわらない作品は五首にも満たないという、当初との逆転現象が起きていた。選後評はなくなり、末尾に選者詠が二首だけ記されるようになった。

・引く線の機となり銃となる日の日に近し吾等励まむ

(東京 中越愛子 一九四四年九月)

・待ちしもの今し皇土に来向ふと配置に在りて人等臆せず

(島根 森蔦子 同上)

・この大事決せむ前の静けさの相見て笑めど言に出ださず

(窪田空穂 同上)

・民族の命は長し吉き事のかぎりあらぬをのちに譲らむ

(同上)

さらに、雑誌自体の頁数も激減し、「短歌」欄が見当たらない月もあって、一九四五年三月をもって、その灯は消える。三五首の入賞作から二首と選者詠二首を記しておこう。その後は、二冊の合併号を刊行して敗戦を迎える。

・わが包むこの菓子はもよ神兵の糧となるものぞ思ひ清しも

(山形 結城ひとみ 一九四五年三月)

・子の寝顔あどけなくしてゆり起すことをためらふサイレン聞きつつ

(三重 室井きよか 同上) 

・言にして怒りをいはむ時は過ぎ憎み極まる憎みを遂げむ

(窪田空穂 同上)

・奇しき火の見えぬ炎の揺らぎつつ国内をおほふこの神力

(同上)

 

Img294

『新女苑』1945年3月号の表紙、目次と1頁だけになった「短歌欄」

選者、窪田空穂にとっての敗戦

ところで、選者の空穂は、与謝野鉄幹の『文庫』をスタートとして、短歌を中心とする文学活動に入り、ジャーナリストを経て、早稲田大学を根拠地とする古典の研究者となり、『槻の木』を主宰、十数冊の歌集を出版している。一九四一年には、歌人として、斎藤茂吉、佐佐木信綱らに続いて、北原白秋と前後して帝国芸術院会員となっている。この間の作品は第一四歌集『冬日ざし』(収録一九三七~一九四〇年。一九四一年六月刊)、第一五歌集『明闇(あけぐれ)』(収録一九四一~一九四年。一九四五年二月刊)がある。これらは、いま手元にある『窪田空穂全歌集』(短歌新聞社 一九七六年一二月)には収録されているが、『明闇』の改装版としての「戦時下の詠を除いた」『茜雲』(西郊書房 一九四六年二月)だけを収録する「全歌集」や「選集」があることがわかった。『明闇』は、刊行直後の空襲により大部分が出版元で焼失したという。『茜雲』の「後記」に、つぎのように記す。「内容の点からも見ても、再版は不可能なものである。それは戦時下の著者の感慨は、新聞ラヂオの報ずるところをそのままに受け入れ、国民の一人として発しさせられたもので、その他の何物でもなかつたのである。その間の詠は終戦後の今日、戦役その物に対しての認識を改めさせられた心よりしては、再び見るに忍びないものである。」

なお、一九五三年七月刊行の選集『窪田空穂歌集』(新潮文庫)の『茜雲』末尾の自筆メモでは、「(茜雲は)長歌三首、短歌六二八首より成つてゐる。戦局の明らかに険悪となつて来た期間の作で、その方面のものが相應にあつたが、出版は占領下の検閲の厳しい際であつた」と記されている。

そして、第一七歌集『冬木原』(一九五一年七月)に到る

のだが、戦時末期一九四四年から、病弱の次男茂二郎がシベリアの捕虜収容所で病死していたことを知る一九四七年までを収め、その「後記」にも、つぎのように記す。「選をするに当たつては戦局そのものを対象としたものはすべて捨てることとした。その当時にあつては、それらが感傷の主体をなしてゐたのであるが、既に敗色の歴然たる段階であり、新聞ラヂオ刺激としての長太息に過ぎないもので、時の距離を置いて読みかへすと、きわめて空疎なもののみで、とるにたりないものばかりだつたからである。」

『冬木原』は、「慟哭の歌集」「反戦の歌集」として、評価の高い歌集である。敗戦直後に刊行された『茜雲』『冬木原』の「後記」、後年のメモなどにおける解説をどう読むべきなのか。「戦時詠」「戦局詠」を除いたのは、占領軍の検閲の故なのか、戦時報道を受け入れただけの作歌が取る足りない故だったのか、判然としない。たしかに空疎な作品が多いのは事実であろう。しかし、その時代に、多くのメディアに発表し、それを歌集となし、多くの読者を得て、さらには、結社や読者歌壇欄などで、翼賛的な作品を選んだ指導者としての責任はどうなるのだろうか。もちろん、窪田空穂だけではない多くの歌人たちが遭遇した問題であった。すなわち、敗戦後、戦時下の作品をいかに「処理」したのかは、現代にいたるまで戦争責任、戦後責任の課題を提示しているはずである。

 


『新女苑』に登場した女性歌人たち

女性歌人は、短歌作品に限らず、エッセイなどでも、柳原白蓮、今井邦子、若山喜志子、茅野雅子、四賀光子らのベテランが起用されるなかで、中堅や新進も登場した。一九三六年『暖流』を刊行、一九四〇年『新風十人』に参加した五島美代子(18981978)は、『暖流』の序文で川田順に「母性愛の歌人」と称揚され、胎動を詠んだ初めての歌人とも言われている。夫のイギリス留学に伴い、海外体験のある美代子は、空襲下のロンドンの惨状にも思いをはせるが、日米開戦前後は、二首目のような変化を見せる。

・ロンドン空襲の記事なまなましく胸にありていはけなき子のしぐさ見てゐる

(五島美代子 一九四一年三月)

・ますらをが建てやまぬ天の柱のもと踏みてかひある女の道見ゆ

(五島美代子 一九四二年一一月)

また、大正末期以降、働く女の母性、愛児の歌を詠み続けた中河幹子18951980)もつぎのような歌を寄せる。

・ますらをの北に南にいのち死に國ぬち安けきに涙ぐましき日々

 (中河幹子 一九四三年七月)

・警戒警報の笛なりわたるうす月夜子をかかへ強き女を感ず
(同上)

五島とともに、『新風十人』に参加、二・二六事件にかかわった父斎藤瀏、反乱軍として刑死した幼馴染を詠んで注目された斎藤史(19092002)も、短歌をたびたび寄稿する。

・街の果に冬雲垂りてにごりつつ我にとよもすたたかひの歌

(斎藤史 一九四一年三月)

・微少なるわれらが生を思へらくいのちはいよよしろじろと燃ゆ

(斎藤史 一九四二年九月)

 しかし、こうした女性歌人の作品すらも、一九四三年後半から登場することがなくなり、一九四四年に入ると、男性歌人のストレートな戦意高揚歌やエッセイが毎号登場するようになる。その実態と背景については別稿に譲りたい。

(『ポトナム』2017年4月所収)(画像は、ブログ再録に際して掲載した)


<参考>
Img298


Img296
いずれも『新女苑』の短歌のコラムで、1942年頃から、女性歌人に代わって男性歌人が起用され、ほかに、浅野晃、会津八一、半田良平、影山正治、逗子八郎(=井上司朗、吉井勇らの作品が登場する。

| | コメント (0)

2017年5月23日 (火)

土曜日は、共謀罪についての講演会~私たちはどこまで危険にさらされるのか

 連日、気分が悪くなるような政治家や官僚の発言や政局の動きを目の当たりにしています。こんな風にして、法律が成立し、運用され、国民は、安心・安全どころか、暮らしの不安がつのり、危険にさらされていくのをこらえていかねばならないのか、と思ってしまいます。私たちの世代ももちろんですが、これからの若い人たちの歩む道は、いっそう険しいことになるに違いないと思うのです。

 今日にも、共謀罪は衆院本会議で可決されようとしています。緊迫した空気を肌に感じながら、パソコンに向かっています。

 土曜日の20日は、明治大学リバティ・タワーの一室で開かれていた澤藤統一郎弁護士の「共謀罪―その危険な本質と狙い」という講演会(ちきゅう座主催)に参加しました。そのお話の内容を、私の理解の限りでまとめてみると・・・。

 今回の「共謀罪」は、321日、政府が国会に提出した法案では「テロ等準備罪」と言い換えましたが、「組織的犯罪処罰法」の改正案で、2003年から3回提出されていましたが、いずれも廃案になり、2009年以降、法案提出の動きはなかったのです。

安倍内閣は、急きょ、昨年から、共謀罪新設は、オリンピックを控えてのテロ対策として、「国際組織犯罪防止条約」(TOC条約、2000年採択)締結のための必須要件として、その必要性を強調し始めました。しかし、そもそもTOC条約は、マネーロンダリング対策などが主目的で、テロ対策が目的ではありません。テロ対策のための条約としては、すでに日本も「爆弾テロ防止条約」「テロ資金供与防止条約」などの国連条約やその他8つの国際条約を締結、国内法も整備しているわけで、今回の「共謀罪」とTOC条約とは、連動するものではなく、別個の問題です。殺人罪などの重要犯罪には、刑法上準備罪・予備罪も規定されています。

では、なぜ、安倍政権は、共謀罪の新設を急ぐのかといえば、

広範囲の人と行為を、早い時期から、捜査の対象とすることができる

捜査機関、とくに警察の判断で、情報収集や捜査を開始することができる

特定秘密保護法(201312月)、盗聴法の拡大、司法取引を導入した刑事訴訟法の変更(20165月)とあいまって、一般市民の監視を強化することができる

・・・・

要するに、「共謀罪」新設は、安倍政権の、一強体制のうちに、改憲へと突き進みたいための地ならしであり、同時に、一般市民への監視体制を強化して、不都合な市民の発言や活動を抑止したいがためなのだろうと思いました。

 

駿河台の街路樹のもとには、心地よい新緑の風が吹き抜けます。お茶の水駅前のスクランブル交差点には、週末にもかかわらず若い人たちが行き交っていました。いたって静かで、のどかな学生街ながら、気持ちはどこか晴れない一日となってしまいました。

Dscn1048_2

 Dscn1050
3年ぶりの剪定のビフォー・アフターです。せっかくのヤマボウシ、残念だったのですけれど。晩年は室内犬となった、主のいない犬小屋は片付けられないでいます。

| | コメント (0)

2017年5月17日 (水)

正岡子規について書きました

 今年は子規生誕150年という。『現代短歌』の特集<子規考>に書いたものです。誌上では子規作品の発表年に誤植がありましたので、送稿の原稿を掲載します。先日発売の6月号には、訂正記事が掲載されています。

 

              ◇ ◇ ◇

子規との気ままな出会いから      

 

子規について、私は、中学校の国語教科書においても、作歌を始めてからの文学史・短歌史においても、素通りに近かった。私の関心は、もっぱら現代短歌にあった。ただ、一九六〇年、学生時代に入会した『ポトナム』は、小泉苳三の書誌学的研究の伝統がまだ残っていたし、私の職場が図書館だったこともあって、書誌への関心は深まった。例えば、戦時期の発禁歌集・歌書、占領期のプランゲ文庫内歌集・歌書の目録や『ポトナム』の小泉苳三、阿部静枝らの著作目録の作成を始めたのが1970年代であった。苳三の『近代短歌史(明治篇)』(白楊社、一九五五年。一九六九年再版)では、近代短歌史の時代区分や子規の役割をめぐる考え方に違いがあることを知った(拙著「小泉苳三と『近代短歌史・明治篇』」『ポトナム』一九八四年八月)。

 

退職後、マス・メディア史を少し学ぶ時期があって、明治期の新聞史において、藩閥政府を批判する陸羯南の『日本』を根拠地とする、ジャーナリスト・俳人・歌人としての正岡子規に出会う。そこで、私が何よりも興味深く思ったのは、病身ながら従軍を思い立ち、種々の曲折を経て、実行したことであった。同僚や『国民新聞』の徳富蘇峰、国木田独歩の従軍記事に刺激されたからだろう。一九八五年三月三日広島に向かい、四月一〇日宇品港を発つが、日清戦争はすでに休戦、船上で下関条約批准を知る。日記には「五月十日 講和成り万事休す」とまで記し、五月一七日帰国船上で喀血するという顛末であった。子規の従軍日記は、愛国的というよりは、軍隊内の差別に激しく抗議する一方、戦後の大陸の山河や小動物、村人の営み、日本兵や記者たちの日常を克明に綴るものであった(拙著「子規の従軍」『運河』199712月)。

 1894年: 
生きて帰れ露の命と言ひながら(従軍の人を送る)
日の旗や淋しき村の菊の垣(天長節)

1895年: 

戦ひのあとに少き燕かな(金洲 燕) 

君が代は足も腕も接木かな(予備病院 接木) 

行かばわれ筆の花散る処まで(従軍の時) 

なき人のむくろを隠せ春の草(金洲城外 春草)

  当時の私の子規認識はここまでで、その後、『正岡子規、従軍す』(末延芳晴 平凡社 2011年)を読み、子規の従軍の目的や背景について新たな示唆を得た。子規は「なぜ、従軍したのか」について、戦争を国と国との喧嘩とみなし、正義による制裁をすべく主体的に参加する意欲と、天皇を国家の中心的頂点に位置づけ、戦争翼賛・植民地容認への過程をたどることによって解明し(304308頁)、「国家と国民は、共同の敵を打ち倒し、祖国の危機を救うという意識と使命感の共同性」を希求した結果だとする(318頁)。 

子規は、八〇句ほどの従軍俳句を詠んだが、同時に、一七もの漢詩を残した。従軍という過酷な世界の印象やイメージ、感慨や情念を、俳句ではストレートに表現できない限界を感じたのではないかとする(218219頁)。さらに、従軍俳句のベースには漢詩があったとし、俳句との相関関係を具体的に示す。「なき人のむくろを隠せ春の草」「戦のあとにすくなき燕かな」の原イメージは、漢詩「三崎山」の「枯骨に春草生じ」、「金州城外」の「乱後の亡民 求むべからず/杏花の空屋に 燕児愁ふ/遼陽の四月 草猶短く/行人の為に 髑髏を掩はず」にあったとする(229263頁)。子規の漢詩や新体詩には、「敵を斬って斬り払え」といった過激で物騒な文言が並び、アジア民族への蔑視をあらわにする。こうした傾向は子規に限らず、子規の時代に限らず、本来ならば、国家の方向を質してゆくべき多くの知識人、文学者、ジャーナリストという市民社会のリーダーたちの陥穽であったのかもしれない。 

 また、品田悦一『万葉集の発明』(新曜社 2001年)に接したときは、日本の近代化の過程で萬葉集は<発明>されたとするなか、萬葉集が時代を超えて「国民歌集」となってゆく経緯を教えられた。品田の書誌的な分析の起点は、小泉の『近代短歌史(明治篇)』の萬葉集再評価の系譜であり、さらには子規による萬葉集評価にあったのではないか。  

その後、ふたたび子規に出会ったのは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』であり、それを原作とするNHKのテレビドラマであった。その子規像は、原作とも異なり、史実とも異なるフィクションに戸惑ったのであった。

  そして今、年を経て、病床記たる『墨汁一滴』『仰臥漫録』『病牀六尺』などを読んで思うのは、子規の「終活」の見事さであり、介護を担った母と妹、律の存在であった。(『現代短歌』2017年5月)  

Img272_6




 

 

| | コメント (0)

2017年5月 6日 (土)

ほんとに、何から言い出していいのかわからないほど(4)難解な?景気判断とキラキラ政策

「緩やかな回復基調が続いている」とは

 「アベノミクス」の破たんは、安倍首相が自らの「アベノミクスは道半ば」「その果実が全国津々浦々まで行き渡り、実感していただくまで」との発言に見られる通りである。閣議を経て内閣府から発表される「月例経済報告」では、ここ数年、少なくとも2014年来、「景気は緩やかに回復している」「緩やかな回復基調が続いている」という、なんか寝ぼけたような「総括判断」が続いていることでも、明らかである。さらに、その月例報告では、景気の「先行き」についても言及するが、2012年末、野田内閣から引き継いだ安倍内閣時代に入って「輸出環境や経済対策の効果により景気回復に向かうことが期待される」として以来、「緩やかに回復していくことが期待される」が繰り返され、リスク要因としては「海外景気の下振れが我が国の景気を下押しする」とし、その要因をまず海外に振る。実態とは別に、要するに、「期待通りに」「緩やかな回復基調が続いている」という表現が、2017年の今日に至るまで続いているのである。さらに、各月の先行きリスク要因として、前述の海外景気の動向のほか、時々の国内の雇用・所得環境、デフレ、消費税引き上げ、消費者マインドなどの影響などが付け加えられるのである。

詳しくは、1980年代から各年1月の景気判断と先行きをたどる年表を作成したので、未定稿として、ご覧いただきたい。

〇「月例経済報告」における<日本経済の基調判断>の推移
(内野光子作成)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/getureikeizaihokokunenpyo.pdf

 また、下記のような、近年の安倍政権下の「月例経済報告」を例に興味深い分析がある。景気判断の表現が、なぜ、こんな曖昧な、どっちつかずなことになるのか。その理由の一つとして、そもそも、景気判断自体が、難解で、専門家によって判断が分かれ、簡単には表現できないからという。一つは、現政権が、常に「景気がいいこと」が、何よりの政権維持の要因、願望でもあることから、おのずから「政治的配慮」の結果でもある、という。そういえば、テレビ・新聞などに登場するエコノミストたちにも、明確なコメントよりも、どっちともとれる、素人でも十分語れそうな、あたりさわりのない発言が多い。まさに「政治的配慮」に十分配慮した結果なのだろう。そうした「政治的配慮」による「景気判断」が、経済政策を大きく誤らせたり、遅らせたりしていないか、安倍政権は、その瀬戸際にあるようなのだ。

〇難解な「霞が関文学」はこう読み解こう~10月の月例経済報告、景気判断引き下げ  岡田 晃)

 http://shikiho.jp/tk/news/articles/0/8900720151021日)

 

 

「世界の真ん中で輝く」とは~キラキラ感が半端でない

  安倍首相は、それでも、この三年間、201517年の年頭所感で、意味不明な「世界の真ん中で輝く日本」を強調している。国民の多くは、首相の年頭所感など関心はないと思うが、「世界の真ん中で」という報道に接するたびに、私は「何言ってんだか」のそらぞらしい思いがしていた。今回、前掲のような年表を作成していると、安倍政権の政策は、実の伴わない、キラキラ感だけがひとり歩きして、ほかの政権よりはマシと思わせている側面が、政権維持を可能にしているのではないか、の思いを強くした。ちなみに、今年の2017120日の第193回国会での安倍首相の施政演説を読んでみるとよくわかる。その目次をあげてみると・・・。 

 

一 はじめに

二 世界の真ん中で輝く国創り 

(日米同盟)  

(地球儀を俯瞰する外交) 

(近隣諸国との関係改善) 

(積極的平和主義) 

三 力強く成長し続ける国創り 

(「壁」への挑戦) 

(中小・小規模事業者への好循環) 

(地方創生) 

(観光立国) 

(農政新時代)  

四 安全・安心の国創り 

(被災地の復興) 

(国土の強靱化) 

(生活の安心)

 五 一億総活躍の国創り 

(働き方改革) 

(女性の活躍) 

(成長と分配の好循環)

 六 子どもたちが夢に向かって頑張れる国創り 

(個性を大切にする教育再生)

 (誰にでもチャンスのある教育) 

七 おわりに

 

 

さらに、以下の資料を合わせて読んでみると、そのきらびやかさ?は、格別である。そこにはつぎのような言葉が頻繁に使われるが、一語一語どういう違いがあるのかが不明である。その曖昧さの中で、つけられた予算だけが費消され、成果がなに一つ出なくとも、何ら責任をとるシステムがない。

「日本再興戦略2016~これまでの成果と今後の取組」(201662日)

内閣官房日本経済再生総合事務局

file:///C:/Users/Owner/Desktop/2016saikou_torikumiアベノミクス.pdf

 

問題、課題、整理、整備、対応、対策 

喚起、活用、再興、再生、見直し、改善、改革、革新 

構築、制度設計、創出、開発 

向上、成長、拡大、推進、促進、加速、強化、深化

連携、育成、助成、支援 

実行、実現、実施 

効率化、活性化、高度化、具体化、円滑化、一体化、簡素化

 同時に、黒田東彦日銀総裁は、14日の全国銀行協会の年頭会合で、つぎのようにも述べていた。さすがに、「毎年申し上げているように聞こえるかもしれない」などのコトワリを入れているが、「お集りの皆様の表情が和やかで明るい」「これまで以上の確信を持って」など、エコノミストらしからぬ、根拠もないまま、横文字を散りちりばめながらの「ご祝儀」にはあきれる。

日本経済はまさにいまデフレ脱却に向けた正念場であると思う。というと、毎年申し上げているように聞こえるかもしれないが、世界経済はようやく金融危機後の停滞局面を脱し、新たなフェーズを迎えている。日本経済にも前向きなモメンタム(勢い)が強まっている。  

 ここで景気動向を最も敏感に反映する指標の一つとして、本日ここにお集まりの皆様の表情を拝見していると、昨年の今ごろと比較してもより和やかで明るさが増している。 

 トランプ米次期政権の政策運営やブレグジット(英国の欧州連合離脱)など、注意を要することがないとは言わないが、私はこれまで以上に強い確信を持って、今年はデフレ脱却に向けて大きく歩みを進める年になる、と考えている。  

 日本銀行もしっかり金融緩和を進めていくが、デフレ脱却には民間の投資拡大が不可欠だ。金融機関も企業の動きを後押しし、ご自身もフィンテック(ITを生かした新たな金融サービス)をはじめ金融イノベーションを進めていただきたい。」

  日銀の「しっかりした金融緩和」政策の実態といえば、政府の国債発行は増大を続け、いまや1000兆円を超えた。市中銀行が引き受けた国債を、すぐに日銀が買い取っている(日銀トレードといわれている)。その合計は、昨年9月現在で398兆円に及んでいる。それによって世の中に出まわるお金を増やそうというのが、「異次元緩和」と呼ばれるものだった。しかし、現実は、出回るどころか、いま、日銀の市中銀行からの預かり金は、323兆円にものぼるのだ。なぜかと言えば、マイナス金利が実施されているのは、そのうちのわずか10%内外で、あとは、ゼロ金利か、利子が付いているのだから、市中銀行は、まず日銀に預けるだろう。デフレ脱却どころか、国民の生活への不安は深まり、国民は、消費を控え、低い金利ながら預貯金に回す。働く世代の所得も伸びず、非正規労働者のみならず、過酷な労働条件を強いられているという悪循環が続いているのが、現状と言える。

  さらに、年度が替わったこの4月にこんな記事もあった。4年間の責任をどう取るつもりなのだろう。

「黒田緩和、見えぬ「出口」 5年目に 物価上昇見通せず

4

4年間で景気はどう変わった?/物価は伸び悩み、日銀の保有国債は急増している

 日本銀行が黒田東彦(はるひこ)総裁の就任後に始めた大規模な金融緩和は4日、5年目に入った。大量の国債買い入れやマイナス金利など、世界でも異例の政策を打ち出したが、「物価上昇率2%」の目標は、来年4月までの総裁任期中の達成は事実上断念。出口が見えない政策が続き、低金利を背景に政府の財政が拡張し続ける・・・」2017450500分 朝日新聞デジタル)

 安倍首相は、景気が良くなったとの証拠とばかりに、求人倍率は、確実の伸びていると、しばしば胸を張る。「求人倍率」は、以下の表のようにたしかに伸びてはいた。しかし、その実態は、厚労省資料「一般職業紹介状況」[実数] (パートも含む)での「有効求人倍率」と並んだ、近くの欄に、「対有効就職率」というのがあるのだ。これは何を意味するのかと言えば、ハローワークで、求人票を見て、応募し、実際に就職した人の割合を示す。実際に就職できた人の割合である。なんと10%に満たない。就職先を選びさえしなければ、就職できるはずという「求人倍率」なのである。求職者は、待遇や労働環境などを選ぶだろうし、採用者側も、適性や人を選ぶだろう。双方のミスマッチは、まったくカウントされない数字である。それに、人手不足の業界では、必要以上に、いわば、サバをよんだ採用者数を登録する、また、本気で採用する気がなくとも、登録の費用負担はないし、ハローワーク経由の採用には助成金がでることなどの特典もある。それに、ハローワークから企業への求人呼びかけも活発である。そうした実態のもとに成り立っている「有効求人倍数」であり、「就職率」であることは、まず報道されない。あわせて、求職者人口、労働人口自体が、減少していることも無視できない。安倍首相の発言のみが報道されていることも、知っておかなければならない。

    (求人倍率)(就職率)

2013度平均 0.97%   ―
2014度平均 1.11%   ―
2015/5   1.07%   7.7%
2016/2   1.38%   8.2%
2017/2   1.53%   8.4%

 安倍首相は、3日の憲法記念日に、憲法を改正して、第91項・2項を残して、3項を加え自衛隊の存在を明記する、高等教育の無償化を書き込むとかを、言い出したのには驚いた。政権の座について以来、こうした言及は、自民党憲法草案にも、公約にも、政策にも、一度もない。改憲推進集会の場とは言え、突然の首相のメッセージであったのである。9条の12項と新設するという3項との法律的な整合性はあり得ないし、無償化に至っては、憲法条項ではないし、財源はどうするのだろう。現状を見ても教育の充実は、まだ先にやらねばならないことはたくさんあるはずである。いわば、聞こえの良い「無償化」という思いつきで、アベノミクスの破たんや失政を払拭したい焦りにも思える。「無償化」にことよせて、共謀罪と相まって、大学や学問の自由をも奪おうというのだろうか。

 

 

| | コメント (0)

2017年5月 3日 (水)

憲法改正「2020年に施行したい」 首相がメッセージ~なんと、先ほど入ってきたニュースは

憲法記念日のきょうの午後、日本会議が主導する「美しい日本の憲法をつくる国民の会」などによる「第19回公開憲法フォーラム」の改憲集会で、安倍首相は、2020年には、「憲法9条に、自衛隊を明記する条文を書き込む」改正を行い、オリンピックの年を、日本が生まれ変わる年にしたい」とのビデオメッセージを寄せたという。当ブログの前の記事で、安倍政権は、最初は、憲法9条を持ち出さずに、憲法改正を目論んでいると思っていたが、それは、やや見込み違いであった。9条の1項・2項を残して、自衛隊を明記するという。「私たちの世代の内に、自衛隊の存在を憲法上にしっかりと位置づけ、自衛隊が違憲かもしれないなどの議論が生まれる余地をなくすべきである」と述べている。メッセージで「今日、災害救助を含め、命懸けで、24時間、365日、領土、領海、領空、日本人の命を守り抜く、その任務を果たしている自衛隊の姿」とも称揚する「自衛隊」は、「専守防衛」どころか、「駆けつけ警護」、できればひそかに実施したかった「米艦防護」など、「警護」「防護」の名のもとに自衛隊の軍事活動、装備は、拡大する一方である。日米安保条約、日米地位協定、安保関連法が、それらを正当化、拡充してきた。近隣諸国との緊張関係をいたずらにあおるような昨今の安倍政権の拙劣な外交政策や情報操作は目に余る。私たちは、日本が自ら軍事強化へと進もうとする現実をしっかりと見つめ、何とか歯止めを思っている時期に、なんということを。

| | コメント (0)

2017年3月30日 (木)

二つのドキュメンタリーを見た~アウシュビッツと沖縄と(2)

「いのちの森 高江」(謝名元慶福監督作品 2016年)

 最近、友人からDVD「いのちの森 高江」を借りて見た。沖縄の基地闘争のドキュメンタリー映画は、いくつか制作されているようなのだが、私は、森の映画社のニュースリールを見る機会が何回かあった程度である。

 米軍の基地、北部訓練場の長い歴史、高江の住民たちの長い闘争の歴史と現状を怒りを込め、だが、 淡々と綴る。あわせて、アキノさんという蝶類研究者の女性が多くの小さな命の営みを求めて、高江の森を案内するのだった。

Img268

Img269

Dscn0986


Dscn0981
1970年代、米軍がベトナムの密林に見立てた訓練がなされていた

Dscn1001
北部訓練場だけでもヘリコプター事故がこれだけ起きている。さらに、オスプレイの飛行・離着陸の危険は計り知れない

Dscn1016

Dscn0990

高江の森の生態系のすべてを破壊する工事は許せないとするアキノ(宮城秋乃)さん

 

Dscn1013
高江の住民たちは、工事差し止めの訴えを起こしたが

Dscn1028
映画の中には、こんな映像もあった。生活道路が封鎖され、今はこの石碑に近づけない、との解説があった。1916年(大正5年)、大正天皇即位を記念し造林地に建てらえた石碑は傾いている

 

| | コメント (0)

二つのドキュメンタリーを見た、アウシュビッツと沖縄と(1)

「ただ涙を流すのではなく“分断する世界”とアウシュビッツ」(NHK-BS1226日)

旧聞に属するが、226日、国会や報道では、森友学園問題で大揺れであったが、夜は、NHK-BS1スペシャル「ただ涙を流すのではなく“分断する世界”とアウシュビッツ」を見ていた。番組予告では、「100万人を超えるユダヤ人が虐殺されたアウシュビッツ強制収容所。その悲劇を伝え続けているのが、世界各国出身のガイドたちだ。今、ガイドたちは、大きな危機感を抱いている。移民や難民をめぐり広がる排斥の声。世界が分断を深める中で、自分たちは何を伝えるべきなのか。ただひとりの日本人ガイド・中谷剛さんも語るべき言葉に悩んでいる。揺れるアウシュビッツのひと冬を追った。」とあった。

Dscn0933
 NHK-BS1、2017年226日午後8時~

Photo
 NHK番組紹介ホームページより

Photo_2
構内の収容所バラックのすぐ近くに、収容所長の住宅があり、家族とともに住んでいた。そこには平安な日常生活が営まれていたのだろう。私たちが見学した折は気づかなかった。NHK番組紹介ホームページより

2010年5月、私たち夫婦は、ポーランドのクラクフに2泊した折、アウシュビッツビルケナウ強制収容所見学のバスツアーに参加した。雨の朝、ホテルを出て、あちこちで道路工事の真っ只中の街に迷いながら、バスの発つマテイコ広場までたどり着くのに苦労した。ともかく、「英語コース」のバスに乗り、現地でも英語のガイドによる案内で、心細い思いをした。ただ一人の日本人ガイド、中谷剛さんとの縁はなかったけれども、この番組は逃してはならないと思った。

中谷さんは、1966年生まれ、1991年からポーランドに住み、猛烈な勉強をして、1997年アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所博物館の公式ガイドの資格をとり、ポーランドの女性と結婚されて、今もガイドの仕事を続けている。

日本から来た若い見学者のグループを伴い収容所構内や幾つもの展示室を案内するとき、ドイツナチス時代に、なぜこうした民族差別による大虐殺がなされたのかを、言葉を選びながら説明し、見学者が自ら考えるように、という思いを伝える。中谷さんは、偉そうには解説はできないと、丁寧で慎重な姿勢を崩さず、見学者に接しているようだった。同時に、ポーランド人、ドイツ人のガイドたちの悩みも語られてゆく。決して声高ではないけれど、力強く訴えるものがあった。ただ、ドイツ国民が、なぜナチスに雪崩れ打って、ここまでの虐殺がなされ得たのか、と、そこでなされた残虐の限りの実態を、そのファクトを検証する場でもある、アウシュビッツで起きたことをもっとストレートに語ってもよかったかと思った。

 私のわずかな経験からも、目の前に示される歴史上のファクトには、筆舌を超えるものがあり、それを次代に継承すること自体が、過去への反省と責任を伴って初めて成り立つことだと思えたからである。加害国のドイツ国内においてもかつての強制収容所跡を残し、ベルリンの中心部、国会議事堂直近の場所に、ホロコーストの碑を建設、様々な歴史博物館において国家としての反省の意思を示したドイツを思う。それに比べて、「自虐史観」と称して歴史教科書において、日本の侵略戦争の事実を少しでも薄めたい政府、民間人の集団自決に軍の関与がなかったような、曖昧な展示しかできない国立博物館、原発事故の原因究明がなされないまま、被災者切り捨て、原発再稼働を進める政府、教育勅語礼賛の安倍首相夫妻・・・を思うと、その格差に愕然とする。話はどこまでも拡散してしまうのだが、以下の、かつての旅行の記事も参照していただければ幸いである。

Dscn0935
展示室より

<当ブログ参考記事>

◇ポーランド、ウィーンの旅(2)古都クラクフとアウシュビッツ

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/05/post-f56e.html

2010531 ()

◇ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20289)(ザクセンハウゼン強制収容所ほか)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/11/20141020289-91f.html

20141117 ()

 

| | コメント (0)

2017年3月26日 (日)

「~してございます」~霞が関と永田町の言語生活~森友問題を通じて

霞が関話法?

 森友学園問題の国会での質疑を聴いていると、政府や役人の答弁にまず腹が立ち、野党の質問の拙さにも苛立ってしまうことがある。テレビの前で座ってばかりいるので運動不足にもなり、精神衛生上もきわめて不健康な状況が続いている。

 その上、とくに役人の答弁の「~してございます」という表現が気になって仕方がない。「霞が関文学」ともいわれているそうだが、そんな上等なものではなく「霞が関話法」と名付ける価値もない。丁寧そうな言葉遣いながら、文法的にも誤用であり、その発言内容と相まって、慇懃無礼な、無責任答弁に多用されている。「してございます」は、官僚ばかりでなく、企業人も社外向けに使うことが多く、中高年男性に愛用されているようなのだ。

 「担当職員が対応させていただいてございます」「政治的な配慮をしてございません」など、324日衆参予算委員会に森友問題で出席した、財務省と国土交通省の参考人たちも連発していた。証人として招致したところで、「知らぬ、存ぜぬ」で通すのだろう。

参考:「最近気になる放送用語―「~てございます」(2011年8月1日)

https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/term/145.html

永田町話法?

一方、政治家たちの責任逃れは、かつて「秘書が、秘書が・・・」であったことが揶揄されていたが、今回は「妻が、妻が・・・」「夫が、夫が・・・」かと思いきや、やはり「(首相夫人付)秘書が、秘書が・・・」ということにもなった。324日の国会の質疑や記者会見での次のような発言は、大いなる自己矛盾を、明白にもしている。 

4529217
2017年2月17日

安倍首相①「(妻が100万円寄付をしたかどうか)密室のやりとりなど反証できない事柄を並べ立て、事実と反することが述べられたことはまことに遺憾だ」

「(首相夫人付き秘書から籠池証人への報告ファックスについて)ゼロ回答なのだから妻が関与したことにはならない」

「(首相夫人の証人喚問要請について)今まで証人喚問に出られ方は、刑事罰がかかるかもしれない疑いの中で出られている。妻の行為は犯罪では全くない。名前を出された人たち全員証人喚問するというのか」

菅官房長官「(首相夫人付き秘書の谷氏の籠池理事長への報告ファックスについて)ゼロ回答のことわりのファックスなので、まったく問題はない」

竹下国会対策委員長「(首相夫人の寄付について)100%、200%あり得ないが、たとえあったとしてもても、まったく問題はない」

 首相①は、反証をというのならば、首相夫人を証人喚問すれば、籠池証人の答弁との比較において、議員や国民に判断の材料を提供できるし、決着がつかなければ司法の判断にゆだねることもある。首相は、別の日の答弁で「ないことの証明は<悪魔の証明>なので困難」とか言って質問をかわしていたが、そんな大げさなものではない。

首相②と官房長官の発言は、「ゼロ回答」「ことわり」だったからというが、ファックスの2枚目には、案件別に経緯が記され、その末尾には、つぎのようにある。

4)工事費立て替え払いの予算化について

一般には、工事終了時に清算払いが基本であるが、学校法人森友学園と国土交通省航空局との調整にあたり、「予算措置がつき次第返金する」旨の了解であったと承知している。平成27年度の予算での措置ができなかったため、平成28年度での予算措置を行う方向で調整中。」

このファックスは20151117日付であったが、工事費は、翌年の年度初め46日に支払われていることも判明している以上、まさに「関与」「口利き」の成果ではなかったのか。この文面をどう読んでも、問い合わせへの夫人付き秘書の「丁寧な対応」だけというには無理がある。さらに言えば、福山議員が言うように関与や口利きは「結果」「成果」がなくても成り立つものだろう。しかし、このくだりを、明確に切り込む質問がなされなかったのは残念だった。

「携帯水没後」の首相夫人と籠池夫人のショートメールの往復、316日参院予算委員会視察団に「寄付の中には、安倍首相からの100万円の寄付も入ってます」との籠池理事長の発言後、その大金の寄付の授受を「100万円の記憶がないのですが」などと悠長な文言で聞き返している首相夫人のメールには、やや驚いた。ここで、「記憶がない」という永田町の常套句、いわば「永田町話法」が、やはり登場してきたのだ。さらに、上記の首相夫人付き秘書の籠池理事長あてファックス文書は、これだけでも、公人による「働きかけ」の一端が浮上、「関与」の証拠になるはずである。

なお、首相③の発言は、憲法62条「両議院は、各々国政に関する調査を行い、これに関して、証人の出頭及び証言並びに記録の提出を要求することができる」という「国政調査権」の意味を理解していないのではないか。犯罪の嫌疑や容疑に係る者でないと喚問できないという大いなる誤解にすぎない。さらに、「名前の出た人全員・・・」云々の発言は、いつもの「民進党は支持率が上がらないじゃないですか」と同じで、「ほかにフって」しのごうとしているらしい。

竹下国対委員長の発言には、「開き直り」というか、語るに落ちた、の感がある。

安倍首相は、「私も妻も安倍事務所も、一切、国有地払い下げや学校認可にかかわっていない。関係していたら私は間違いなく首相も議員も辞めますよ」(217日衆院予算委員会)と啖呵を切っていた。いずれ、すべてが公開される日もあるかもしれないが、自民党による首相夫人と籠池夫人のメールの一部公開は、安倍首相擁護が裏目に出て、安倍夫妻への疑問はさらに深まったのではないか。今となっては、安倍首相の辞めない理由を探すのが、むしろ困難な状況に至ったようだ。

20170316172940056316
2017年3月16日




従来、政治が危機に直面したときは、冷たく「粛々と進める」冷酷さで突破するか、内外の批判には「前向きに検討し」「真摯に受け止め」「万全を期して」、「推移を見守る」と成り行きに任せることもできたのに、どうだろう、今回は。それにしても代わるべき受け皿がないのは、如何ともしがたい現実であるが、とりあえず「野党頑張れ」としか言いようがない。
 

政治家の資質と人格

このところの安倍首相は、国会の質疑で「不愉快だ」「失礼じゃないですか」「まるで犯罪者扱い」「悪意に満ちている」など、感情的な言葉を口走り、政治家の資質が問われる発言を繰り返している。

324日の衆院予算委員会での質疑では、さらに驚いた場面があった。共産党が入手した鴻池事務所の「面談メモ」をめぐっての麻生財務大臣の答弁。当初は、だれのメモかを明かさないままだったのだが、当日31日の夜に鴻池議員が自ら記者会見に及んだ経緯がある、あのメモだ。宮本議員が、麻生大臣に、そのメモについて鴻池議員に確認した件で質問したところ、次のような発言が飛び出したのだ。「訳の分からないところから『メモを取った』と偉そうにいっていたじゃないか。偉そうに」との発言に野党側からのヤジが飛ぶと、麻生大臣はさらに声を張り上げ、「俺は偉そうに聞こえたんだからしようがないだろ」と。人を指さすジェスチャーをしながら「いつも人をこうやって指さしてワンワンしゃべってる。偉そうに。失礼だろ、それは」と言い切った。実際の発言は、もっと口汚い、まるで、チンピラやくざの口ぶりそのままで、再現できないのだが、聞くに堪えなかった。麻生大臣の品格のなさは、知っていたが、こんな人間がかつて首相をやっていたかと思うと、情けない。その発言を、笑いながら受けている野党も野党だ。山本一太委員長の「麻生大臣、ご表現には気を付けてください」で、当の大臣はじめ、大笑いで落着となったのだ。

麻生発言といえば、メディアでは問題にされなかったのだが、今年の、麻生大臣の地元、九州の飯塚市の成人の日の「来賓祝辞」だった。例の昼間から賭けマージャンをして「賭けないでマージャンする人はいないだろう」と豪語していた斎藤市長が辞任を表明した直後のことだ。さすがに成人を前に挨拶できなかったとみえ、有力支持者の一人だった市長に代わっての来賓としてよばれた麻生大臣だったのか。その挨拶が、これまたびっくりだったのである。「あんたたち、成人になったら、これまでと何が違うかといったら、強姦罪、賭博、麻薬・・・でつかまったら少年A じゃすまない。自分の名前が出るんだ」と。いや、もっと罪名をあげていたと思うし、言葉も汚かったし、あくまでも「要旨」なのだが。「責任を持て」という成人へのメッセージにしては、ひどい。ひどすぎる。

「劇場」のカーテンは降ろしてはいけない

小池劇場、トランプ劇場、籠池劇場とも呼ばれて、メディアを賑わしてきたが、今回の森友問題は、政治の根幹、安倍首相夫妻に大きくかかわる問題だけに、このままの幕引きは許されない。この間、共謀罪の法案も閣議決定された。こちらの国会審議もしっかり、丁寧にした上で、廃案に追い込んで欲しい。追い込まなくてはいけない。テロ対策ができない?オリンピックが開催できない?一般人には関係がない?から共謀罪新設が必要であるというのだが、その目指すところを見極めなければならない。テロ集団か一般人とはだれが何を以て判断するのか。要するに国民全体への監視のシステムが合法化することになるのだ。天皇退位をめぐる動向、南スーダンPKO部隊派遣問題にしても、課題は山積みである。

福島県はじめ東日本大震災の実質的な復興がなかなか進まない実態、熊本地震も同様だし、沖縄の高江・辺野古基地建設問題、原発再稼働が始まった川内と伊方、再稼働を控えている地での安全対策というより原発・エネルギー政策、東京都の豊洲市場問題は、一地域の問題ではなく、国民一人一人、自分の問題として考えなければならないはずではないか。

地元では、千葉県知事選挙が展開されているはずだったが、今日は投票日。冷たい雨となった。佐倉朝日健康マラソンの日でもある。森田健作知事は、ミス〇〇とかアスリートの表敬訪問でガッツポーズをしている写真ばかりが報道され、何をしているのかがわからない。役人にとってはありがたい知事だという。県庁への出勤状況は、石原元都知事といい勝負かもしれないが、投票率は如何。

3f4a78229edfd918a3a3da482de7d1e4

3_2

4

 

 

 

| | コメント (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

CIA | NHK | TPP | すてきなあなたへ | アメリカ | イギリス | インターネット | ウェブログ・ココログ関連 | オリンピック | オーストリア | ジェンダー | ソ連邦・ロシア | チェコ | デンマーク | ドイツ | ニュース | ノルウェー | パソコン・インターネット | フェルメール | フランス | ベルギー | ボランティア | ポーランド | マイナンバー制度 | マス・メディア | マンション紛争 | ミニコミ誌 | ラジオ・テレビ放送 | 世論調査 | 住民自治会 | 佐倉市 | 千葉市 | 千葉県 | 原発事故 | 台湾 | 台湾万葉集 | 吉野作造 | 喫茶店 | 図書館 | 国民投票法案 | 土地区画整理事業 | 地方自治 | 地震_ | 大店法 | 天皇制 | 女性史 | 寄付・募金 | 年金制度 | 憲法 | 憲法9条 | 成田市 | 戦争 | 戦後短歌 | 教科書 | 教育 | 文化・芸術 | 旅行・地域 | 旅行・文化 | 日本の近現代史 | 日記・コラム・つぶやき | 映画 | 映画・テレビ | 書籍・雑誌 | 朗読 | 東京大空襲 | 横浜 | 歌会始 | 池袋 | 沖縄 | 消費税 | 災害 | 特定秘密保護法 | 環境問題_ | 生協活動 | 短歌 | 社会福祉協議会 | 社会詠 | 福祉 | 紙芝居 | 経済・政治・国際 | 美術 | 美術展 | 航空機騒音 | 表現の自由 | 規制緩和 | 趣味 | 近代文学 | 道路行政 | 都市計画 | 集団的自衛権 | 韓国・朝鮮 | 音楽