2023年9月30日 (土)

今も輝くスター55(3)「オーソン・ウェールズ」を公開します。

菅沼正子さんから届きました「オーソン・ウェールズ」、以下をご覧ください。
なお、左欄の「すてきなあなたへ」では、シリーズをまとめて読むことができます。

「オーソン・ウェールズ~映画史を語るにもう一人、このスターを忘れてはならない」
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内野付記)オーソン・ウェールズといえば、私にとっては「市民ケーン」と「第三の男」。敗戦直後のウィーンが舞台の「第三の男」で奏でられたチターの音色に魅せられ、何がきっかけであったか、日本チター協会の演奏会にまで出かけていた。

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2002年7月、日野原さんの講演もあった。チターは合奏よりも、一人での演奏の方がいい楽器かもしれない。 

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2002年11月末に出かけたウイーンは、たしかに二度目で、かなり寒く、新市庁舎前のクリスマス市もすでに始まっていた。ベルヴェデーレ宮殿前のクリスマス市では、連れ合いが、ビールのようにジョッキで飲んでいる地元の人たちをまねて、新酒のワインを口にしたものの、飲みきれるものではなかったらしい。ウイーンには、「第三の男」ロケ地ツアーもあるとのこと。オーソン・ウェールズとジョセフ・コットンが出会うプラター公園の観覧車は遠景としては見たものの、その後も乗る機会を逸している。

 

 

 

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2010年6月 7日 (月)

ポーランド、ウィーンの旅(6)ウィーン、またの日に

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シュテファン寺院の周辺で 

 今回は、美術館というところには寄らなかった。が、美術史美術館のカフェにだけはもう一度寄ってみたい、プラター公園に一度も行ったことがないし、アウルガルテンにも是非と思っていたが、叶わないまま、ウィーンを去らねばならない。ケルントナー通りに出たとたん、向いの店のウインドにお見かけしたような二人連れ、Bさんご夫妻だった。「やあやあ」「今日帰るんでしたね」「アイスランドの火山爆発の影響はなそうですね」「ニュースでも言わなくなりましたね」「お気をつけて」と別れるのだった。私たちは、まず、地図を頼りに、シュテファン寺院の東の路地を進むと、モーツアルトハウスが見つかった。まだまだ、開館の時間には間があるので、入り口の写真だけ撮る。モーツアルトが1784年から87年まで一家で暮らした家だ。

 ドーム小路からブルート小路をたどる。ジンガー通りに出て、ドイツ騎士団の館、ベートーベンの旧居を目指す。モーゼの泉のあるフランツィスカーナ教会前の広場には、ゴミ収集車が数台錯綜していた。若い女性に、地図を見せて尋ねてみると、どうもアーチ状の抜け道を通って進むらしい。自転車の女性は地元の人だろうと尋ねれば、地図上はまさにここだけど、と首をひねる。あちこちの小路には、カフェのテーブルやいすが重ねられ、昨夜の雨に打たれたのか、わびしい朝の光景ではあった。もう仕方がないとあきらめて、大通りに出ることにする。途中、建物の表札を見ながら、ここは、ジャーナリストたちの会の事務所らしい、どこかのプロフェッサーの住まいらしい、などと憶測を楽しみながら、中庭へと失礼することもある。アンカー時計の見えるホーハーマルクトに出た。実は一昨日もあるレストランを探しに、この辺をうろうろしたことがあったのだ。仕掛け時計のある、この空中の渡り廊下は、旧アンカー保険会社の社屋ビルをつなぐものだったという。いま、地図をよく見ると、きのう、めぐり廻った旧市庁もすぐ近くにあったのだった。あまり「収穫」はない散策ではあったが、シュテファン寺院近くの本屋さんTYROLIAでカレンダーでも買って帰ることにした。 

 今度こそ、事前の調査を綿密にして、効率よくウィーンめぐりをしたいとひそかに期するのだった。 

 今回、ダイヤモンド社の「地球の歩き方」、昭文社の「個人旅行」シリーズのガイドブックのほかに、各施設のカタログ、ウィーンでは、次の2冊が役に立った。

 

①山口俊明『ウィーン旧市街 とっておきの散歩道』(地球の歩き方Gem Stoneシ リーズ) ダイヤモンド社 2008年) 

②松岡由季『ウィーン 美しい都のもう一つの顔』(観光コースでないシリーズ) 

 高文研 2004年)

(どこの中庭だったか)

Nakaniwa

(シナゴーグが近い、遠くに警官が立つ)

Sinagogugatikai 

(フランツイスカーナー教会)Mozenoizumi_2

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ポーランド、ウィーンの旅(5)ウィーンの戦跡を中心に

 5月18日(火) 

レジスタンス資料室(DOM)に、今しばらく

 朝から小雨ではあったが、まずはケルントナー通り界隈にあるハイドンの住居跡、シューベルト未完成作曲の家などを探す。ウィーン市認定の史跡であることを示す国旗とパネルが目印だ。建物の壁や柱に掲げてあるのだが、つい見落とすことが多い。ドンナーの泉があるノイエル広場の南端には、皇帝墓所となっているカプツイナー教会があった。またケルントナーに戻り、シュテッフルというデパートあたりにモーツアルト終焉の地があるというが、目印が見つからずじまいだった。

 そして、シュテファン寺院前に戻って、旧市庁舎のレジスタンス資料室(DOM)を目指す。旧市庁舎はすぐに見つかるのだが、ひとまわりしても資料室が分からない。ともかく中庭に入ったが、病院の待合室にまで紛れ込んでしまった。人に尋ね、ようやく入館することができた。要するに今は雑居ビルになっていたのである。反ナチスへの抵抗の歴史が実に分かりやすくコンパクトにまとめられていた。アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所見学の後だけに、理解もしやすかったのかもしれない。1時間近く見入っていたのだが、入館者は私たち以外誰もいなかった。入館料はなし。アーカイブは、階上にありますが、と係りの青年は教えてくれるが、その方は失礼をする。旧市庁舎の裏手の古い教会は、マリア・アム・ゲシュターデ教会という。この教会や界隈は最近本ブログでも紹介した、テレビで見た『恋人までの距離』にも登場していたらしいが、もう記憶にない。

 

犠牲者記念碑、ユダヤ広場とモリツィン広場

 そして、近くのはずのユダヤ広場とユダヤ博物館を探すのだが、これもかなり迷った末、年輩の女性にたずねたところ、従いていらっしゃいという。あなた方は信者か、とも質される。あとで気付くのだが杖をついているではないか。申しわけない気持ちながら、路地を曲がると、探していた広場の白いモニュメントがぱっと目に入った。何度も何度も頭を下げてお礼をし、思わす双方から固い握手となり、別れたのであった。彼女は指に包帯を巻いていた。病院にでも行く途中だったのだろうか。いさんで、博物館に入った。入り口には、ユダヤ人の著名な人々、見上げてすぐわかるのはヨハン・シュトラウス、アイザック・スターン、ニール・セダカ、ボブ・ディランらの肖像画が垂れ幕となって天井から下げられていた。2階には中世の遺跡の模型が床いっぱいに造られていたが、展示はそれだけだったのである。他は、幾つかの分館での展示になっているという。ユダヤ広場の白いボックスはよく見ると、ぎっしり本が詰まった書棚を模した石に囲まれた家は、ショアーによる犠牲者の追悼記念碑で、その台座のプレートには65000人の名前が記されている。その広場に面した、レストランで昼食をするが、賑やかな一団はビジネスマンたちだろうか。なかなか、センスのある、感じのよい店で、食後、私が忘れた大事な手帖をとっておいてくれた店でもある。

 

 ウィーンで最古というルプレヒト教会、傍らの階段を下りてゆくとドナウ運河沿いの細長い公園に出る。モリツィン広場、そこから見上げるルプレヒト教会は、蔦の絡まる正面の塔に大きな赤白の国旗のリボンが掛けられている。モリツィン広場は大戦中ナチスの秘密警察ゲシュタポ本部として接収されたホテルがあったところで、ここだけでも数百人が虐殺され、ここから強制収容所に送られたユダヤ人も多いという。犠牲者、そして犠牲者の碑を建てた人々を思うと胸が痛い。

(モルツィン広場からルプレヒト教会を望む)

Rudoruhukyoukai

 

軍事史博物館(HGM)へたどりつく 

歩いてすぐのシュバルデン駅からUに乗り、ウイーン南駅まで行かなければならない。南駅は今大改造中で、昨年から閉鎖中だという。一つ手前の駅で降りて、バスに乗った。なるほど、あたりは大掛かりな工事中で、再開発の暁はどうなることか。かつてシェーンブルグ宮殿へ行くときに降りた駅はあとかたもない。軍事史博物館は、それとは反対側の公園を突っ切ればと何人かに教えてもらうのだが、不安である。原語が分からない上、英語にしてもarmyなのかmilitaryなのか・・・。Heeresgeschichtliches Museum(HGM)という。かつてはナチスドイツ軍の本部が置かれていたところというが、立派な建物が幾棟かあって、そのアーチをくぐったところにあった。博物館の概要を見ると、ぼう大な展示なので、閉館までの時間がない今、まず20世紀以降、第1次世界大戦以降に限ることにした。

  ありがたいことに、各展示室の入口には、各国語のA4裏表の解説が置いてあり、日本語もあったのだ。結局二部屋しか見られなかったのだが、最初の部屋「共和国と独裁者~オーストリア1918年から1945年」は見ごたえがあった。

ここも見学者はほとんどなかったが、一人の初老の男性、軍事オタクとでもいうのか、フラッシュ撮影は禁止だというのに、一台のドイツ製?のジープを、車の下にもぐったり、ドアを開けたりて、舐めるようにカメラを向けている人がいた。ときどき見回りに来る係員には何食わぬ顔をして、通り過ぎるのを待っていた。

1次大戦終結に伴うオーストリア・ハンガリー帝国の崩壊から、最後の皇帝の国外亡命、国内の政治勢力の対立・混乱の中から国家社会主義によるドルフス独裁政権を経、シューシュニッヒ政権下、ドイツナチス軍による強引な併合が進められていた。1933年、法的に併合、オーストリア国家がなくなり、第2次大戦ではロシア軍とたたかい、1940年以降は、ドイツナチスの支配下で、多くの犠牲者を出すことになる過程が、克明に描かれる。戦車、武器、飛行機、軍服、文書、新聞雑誌、写真、映画、ポスター、絵画、オブジェなどなどが発するメッセージは、ひと色ではないが、私たちが受け止めるべきものは重い。なかでも私が興味深く思ったのは、展示場の幾つかの太い柱に貼られてある、ナチスによるプロパガンダ用のポスターであり、レジスタンス運動のためのポスターの類だった。外国人の私たちにも分かりやすい内容だったからであろう。ナチスとて一挙に人々の心をとらえたわけではない。財政再建、雇用の拡大・・・。先を見極める力と目を持たねばならないと思う。

閉館後の中庭のベンチで食したチョコレートと持ち歩いていたリンゴは、歩き疲れた身には格別の味だった。

 

Gunnjihakubutukann

 

再びアルベルティーナ広場へ

 カールスプラッツまで戻り、再びアルベルティーナ広場へ行くことにした。今朝、見学したレジスタンス資料館で、ウィーンに着いた日、ホイリゲ・ツアーの集合場所だったアルベルティーナ広場には、ユダヤ人犠牲者のモニュメントがあることを知った。集合の折、ガイドは目の前にあったモニュメントには一切触れなかった。ここには、針金に縛られて石畳にはいつくばってタワシで道路を磨く石像がある。背が高い石のモニュメントンの蔭にその石像はあった。今朝の資料館では、一列に並んだユダヤ人が、ドイツ兵に見張られながらタワシで道路を磨いている写真があった。それを取り囲むウィーン市民たちも写されていたのだ。ユダヤ人にとっては屈辱の姿であろう。それを模した石像だったのである。まだまだ、暮れない広場を帰路につくのだった。今夕は、ホテルへの道すがら、中華料理店にて、私は久しぶりにタンメンと少々の点心を食し、ホテル近くのカフェ、ハイナーにて、アップルシュトゥルーデルというリンゴのパイ包み?を買い込み、熱い緑茶でのデザートとなった。

 ウイーン最後の、この旅最後の夜となった。(続く)

 

(モニュメントの間に見える、道路をタワシで洗うユダヤ人石像)

Dourowomigaku

 

 

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2010年6月 6日 (日)

ポーランド、ウィーンの旅(4)ウィーンから二つのツアーに参加して

516日(日) 

 

アルベティーナ広場も雨だった 

 いうのも憚れるのだが、ウィーンは4回目になるが、知らないことが多すぎる。

 今回の宿は、カイザリン・エリザベート、シュテファン寺院のすぐ近くで、なかなか雰囲気のあるホテルですからと代理店で勧められた。オペラ座の方からみてケルンストナー通りの右側のH&Mを曲がるとすぐのところにある。フランツ・ヨーゼフⅠ世の皇后の名にちなんだ、歴史を感じるホテルだった。私たちがこれまで利用して来たのは、ザハ、マリオット、ブリストルで、並べてみると、結構気張ったなあ、の思いもする。エリザベートのフロントには、年輩の男性が控えていたし、鍵もカード式ではない。といっても磁気を利用しているが、ホルダーがとてつもなく重い。入り口が二重の扉になっているのも重厚さを感じる。今回のウィーンは少しラクをしようと、明日のバッハウ渓谷遊覧と今晩のホイリゲ・ツアーを取り入れた。

 ツアーの集合場所はアルベティーナ美術館のエスカレーター前、雨宿りの人や修学旅行風の中学生でにぎわっていたが、これまた若い引率の教師も結構騒々しい。日本語のツアー案内を持っている女性の二人連れをみつけた。やがて現れたのは、年輩の日本人男性ガイドで、きょうはこの4人なので、バンで行きますよ、とのこと。グリンツィングまでの道中を丁寧に案内してくれるので、私たちの頭もだんだんウィーンモードに切り替わっていく。思い出すこと、まったく知らなかったこと、とくに音楽については詳しい様子。そのTさんは、ウィーン大学文学部出身で滞在36年といい、リタイア後?この仕事を楽しんでいる風情であった。

  案内されたホイリゲは、これまで、2回ほどの自力で?見つけたお店とは趣が異なり、BACH-HENGLの文字が読める。内外の要人が訪ねているようで、アランドロン、プーチン、ブッシュらの写真が所狭しと壁いっぱいに貼られてあった。“ジョッキ”一杯のワインとコース料理を十分楽しむことができた。ワインは到底のみきれる量ではなかった。同行のお二人は東京にお住まいの母娘で、娘さんは海外が初めてで、次はパリに向かうという。お母さんの方はだいぶ旅慣れている様子だった。隣の大きな部屋から日本の童謡などのアコーデオンが聞こえてきたので、のぞいてみると日本人の団体が先客のようだった。

  店を出ると、ようやく暮れかけ、中庭の灯りが雨に滲み、マロニエの落花が、テーブルや足元をピンク色に染めていた。市内の宮殿での40分ほどのコンサートもツアーにはおり込まれていた。ホテルまで送ってくれるかなと思いきや集合場所に降ろされるが、小ぶりになった雨は、程よく酔いが回った私たちにはむしろ気持ちがよかったのかもしれない。

(グリンツィングのホイリゲの夜)

Hoirige

517日(月)

 

バッハウ渓谷ツアー~偶然とはいえ 

 心配だった天候もなんとか曇り空でホッとする。集合場所のウィーン西駅に着いたものの指定の場所とは違って戸惑った。工事中の駅を半回りしたところに、あった!集合場所の写真にあるアーチが見えた。横断歩道を渡ると手を振る女性がいるではないか。今日の現地ガイドさんらしい。名前を確かめられ、「もうひと組の方はすでにお待ちです」と流ちょうな日本語になぜか安心するのだった。 

この日のツアーは夫婦二組の4人ということで、ガイドさんの自己紹介で始まり、一通りの挨拶が済んだところで、同行のご夫妻のご主人の方が「D君だよね。ボク教養で同じクラスだったBだけど」と話しかけられたつれあいは「え?Bくん?」ということで、二人は大学の同学部の同期だったのである。偶然とはいえ、世の中狭い、の思いしきりではあった。二人は卒業以来ということであったが、共通の友人たちの消息などに花が咲く。Bさんは2年前に会社を退職された由、すでに悠々自適の暮らしのご様子だった。女同士もすぐに打ち解けて、道中、子どもたちのこと、ペットのこと、転勤先のことなどなどで話は盛り上がる。 

 列車はウィーンの森を抜けて、遊覧船に乗るメルクまでは、約1時間余り、この間、ガイドのMさんには、色々聞くことができた。オーストリアの政治、経済、教育、福祉など全般にわたったが、とくにBさんは、年金・医療・住宅事情などについて質問され、Mさんは丁寧に答えてくれるので、これまで疑問に思っていたこと、日本との相異などが少しづづ分かって来るのだった。Mさんは、ウィーン大学日本語学科出身で、観光の仕事に就きたかった由、難関な資格試験にパスして、この仕事を15年続けているそうだ。大学に入るのは楽だが卒業するのはむずかしく、専攻を変えずに日本語学科を卒業したのは、20人の内3人ほどだったという自らの体験を語っていた。Mさんは車中からのケータイで現地と連絡、心配だった川の増水もなく、遊覧船は動いているとの確認をとっていた。

 

メルク修道院への坂道 

 沿道のマロニエ、ライラック、アジサイなどの花を愛でながら、この辺りはどの家でも実の成る木を植えてます、とMさんは名産にもなっている小さな実をつけたアンズの枝を引き寄せて見せてくれる。丘の上の修道院はきらびやかな二つの塔とドームが晴れてきた空に輝きを増す。黄色い建物の高い窓の一つに黒い細長い旗が垂れていた。修道士が亡くなると、あのように弔意を表わすということだった。建物は、10世紀、ハーベンベルク家のレオポルドⅠ世がベネディクト派修道院を建設したことに始まり、曲折を経つつもバロック様式による大改修が行われたのが18世紀で、宗教的、文化的な中心になったという。 

 まず、私たちはベネディクトの間に案内され、Mさんから、ベネデイクト派の成り立ちについてレクチャーを受ける。基本的な知識もないまま聞くものだから、なかなか記憶にとどまらない。が、この派の戒律は「祈り、労働、学習」にあるといい、「労働する」ことが尊ばれた。修道士たちは修道院を出て昼間は学校や施設で働き、生産に携わった。自らの荘園を持っていた上、農民たちからの税により財政的には豊かな教団であると強調する。国やハプスブルグ家からも目を掛けられていたので、博物館の展示に見られるように豪華のものが多いです、と。高位聖職者の庭を抜けて、100m以上もある長い廊下を経て、展示室に入ると、豪華さの象徴として宝石がちりばめられた「メルクの十字架」や金製の品々が現れる。また、図書室には、天井のフレスコ画、寄木細工の本棚、そこにぎっしり詰まった手書き本や古版本などは16,000点もあるといい、所蔵は10万冊にも及ぶそうだ。ちょうど12時のミサが始まるという教会に入り、控室にかしこまっていたが、5分ほどで先を促され、パイプオルガンの傍を通って、やがて明るいバルコニーに出た。ドナウ川を望む眺めには、一気に緊張感から解放させられたような気分になるのだった。

 庭園には、かつてゲストの食堂として利用されたパビリオンもあって、四季折々の木々や花々が描かれている壁の豪華さが目を引いた。私たちもいよいよレストランでの昼食、飲み物は迷ったが、アンズのネクターを水割りで頂戴した。Bさんご夫妻のジョッキのビールを横目で見ながら。船着き場への道で、この修道院を眺めると、なるほど大きな岩石の上に建っているのがよくわかるのだった。

(メルク修道院のテラスから)

Terasukara

 

 バッハウ渓谷のクルーズ 

 今回の旅行の一つの楽しみでもあった。メルクからクレムス行きの遊覧船でドゥルンシュタインへ。甲板に上がり、少しゆったりした気分でスケッチブックを広げた。岸に迫る古城や崖の頂きの教会などを眺めながらのコーヒーも悪くない。つれあいはさっそく白ワインを頼んでいた。Bさんご夫妻は、甲板に出ることもなく、もっぱらワインをたしなまれていた由、Mさんといえば、本を読んだり、数独パズルに挑戦されているようだった。甲板には、中学生たちが多数出て、おしゃべりやトランプなどを楽しんでいるようで、渓谷の景色にはまるで無関心のようであった。ちょうどこの時期、試験が終わって、小・中学校とも遠足の季節なのだそうだ。

 途中、シュピッツという船着き場から多くの客が乗り込んだ。メルクを発って約1時間半でドゥルンシュタイン着、あたりの斜面は葡萄畑である。船着き場からすぐに洞穴のような地下階段を上ってゆくと、家が迫った細い通りに出る。中世そのままの街ですよ、というMさんの声に思わず振り返るのだった。無人駅のドゥルンシュタイン、ウィーン行きの発車時刻ぎりぎりだったのだが、少々列車が遅れたので、Mさんは胸をなで下ろしていたようだった。

 今日の旅もいよいよ終盤、Bさんご夫妻は、今夕、ホイリゲに出かける由、ハイリゲンシュタットで下車という。

 Mさん、お疲れさまでした。Bさんたちとの思いがけない、楽しかった旅も終わる。

   私たちもひとまず、下車、ガイドのMさんの話にも出てきた、1920年代社会民主党市政の時代に盛んに建てられた市営住宅の一つ、カール・マルクス・ホーフを見て置こういうことになった。駅前から1キロにも及ぶ1400戸近い、この市営住宅は等間隔に設けられた大きなアーチが通路となって庭や道路に抜けられる。庭はかなりゆとりのある造りだし、道路には自転車専用道路が設けられている。ただ、この時期の市営住宅の1戸当たりの広さはかなり狭いらしい。また、家賃といえば、月収1500ユーロの世帯で、500ユーロというのが標準的な数字ともいう。これに光熱費などが加算されるから、教育・医療などの出費が少ないにしても、家計的にはかなりきびしいのではないか。現在でもウィーン市内の住宅の内3分の1が市営住宅の由、みな、Mさんから、きょう聞いたばかりである。ここでも駅近辺では大掛かりな工事が進められていた。 

(ドゥルンシュタインの葡萄畑)

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