弾痕の残る古民家で~戦場になるということ
11月13日の午前中は、多数の住民が避難し、多くの犠牲者を出した壕のほんの一部を訪ね、慰霊碑に手を合わせた。だいぶ遅くなったが、今日の昼食も、Kさんの案内で、真壁の「ちなー」という古民家レストランでとることにした。壕をめぐるとき、真壁というところを通過したような気がするが、その集落の一画にあり、地元の人でないと迷ってしまいそうなところだった。看板には「茶処」とあった。お弁当持ちのKさんと別れて、店に入ると、二方を廊下に囲まれた床の間のある部屋と仏壇のある部屋が開放され、いくつかの座卓には、すでに何組かの先客があった。私たちはそれぞれ、野菜そばとあんかけそばを注文した。部屋の天井や板壁には弾痕が残り、弾丸が貫通した柱も利用されていた。
戦場と化した沖縄の中南部、糸満市における住民の「戦没率」という資料を見て驚いた。旧真壁村の集落は、75%から94%に及ぶ。私は、沖縄県民の4人に1人が戦死しているという話は聞き知っていたが、住民の94%の方が亡くなっているという集落があるという現実を知らなかった。
銃痕の残る柱も使われていた
ごちそうさま。マンゴーのシャーベットもなかなか・・・..
ちなみに「ちなー」のブログです。
http://makabechina.ti-da.net/
後掲参考文献『ガマ』よりコピーさせていただいた
白梅の塔・24師団第一野戦病院壕(糸満市国吉)
八重瀬岳の麓にあった第一野戦病院は、戦線が南部に移った1945年6月3日分院を閉鎖、4日には本部壕を放棄、同日、解散命令を受けた県立第二高女の白梅学徒隊はさまよって、16人がこの壕にたどり着き、6月18日以降の戦闘で、10人が犠牲となっている。白梅の塔には、第二高女同窓の全戦没者を祀っていて、白梅同窓会会長の生存者中山キクさんらは、若い世代への語り継ぐ努力を続けているそうだ。塔の周辺は、もっと樹木が茂っていたそうだが、いまは育った樹木の何本がが立ち枯れたままになっているのが気がかりであった。
辺りの樹木の立ち枯れが目立つ
同窓生ほか多くの方に見守られて
摩文仁の丘へ
平和の礎の前で 摩文仁の平和祈念公園へと向かう間にも、たくさんの慰霊塔や追悼碑があった。その多くには、失礼ながら、車中から手を合わせ通過させてもらった。失礼というならば、とKさんは、まだ遺骨が収集されていないまま整地されたグリーンでゴルフに興じる人々、開発時にはたくさんの遺骨が発見され、そこに建てられたマンションに、多くは何も知らないまま、住民票を移さずにリゾート気分で暮らしている人々がいることを嘆いていた。
平和祈念公園の駐車場から資料館の建物をくぐりぬけた瞬間、目の前にひらけた空間は、想像よりも広く明るかった。きょうの空の青さと広場のあちこちに散らばっている若者たちの姿があったからかもしれない。整えられた歩道をまっすぐに進むと、円形の池の中央に円錐形のモニュメントが立っていた。よく見ると、その池の底から、日本列島が浮かび上がり、沖縄の、この位置にモニュメントが立っていたのである。修学旅行生が入れ代わり立ち代わり群れをなしていたのが、「平和の礎」の銘板がある記念碑だった。それに続く黒御影石の墓名碑の幾列、国ごとに、県ごとに、村ごとに、犠牲者の名が並ぶ。朝鮮人民共和国の犠牲者の多くは、名前が分かっていても、ここの刻名を拒む人たちも大勢いるのが現状である。毎年、判明した段階で、名前が刻まれ、いまでもその数は増え続けている。
この正面に円形の池がある。波をイメージした歩道の中央の細い溝は、霊に供える水が流れつくようにという意味が込められているという
池から資料館と左側の白い塔、韓国人慰霊塔をのぞむ
修学旅行生が献花をしたり、「平和の誓い」を読み上げたりしていた
沖縄県の刻銘碑、ツル、カメ、ウサ・・・、同姓同名も多い。氏名が不詳で「○○の孫」といった表示も見られる
毎年、この数字は書き換えられている
島守の塔 1945年1月に着任した、最後の沖縄県知事、島田叡(1902~1945)は、いまでも県民からの敬愛は厚い。米軍の艦砲射撃や空襲が続くなか、沖縄県民の生活の安全や食糧確保、疎開・避難等にあたって尽力したことを、県民は忘れていないことを端々に伺わせている。Kさんもそうだった。神戸一中(県立兵庫高校)、三高、東京帝大と進んだ官僚でありながら、県庁組織解散時、ともに自決をしようとした側近たちには「生き延びて、沖縄のために尽くせ」と諭し、荒井退造警察部長と留まり、のち、摩文仁に向かった以降、消息が掴めなくなっているので、この地を終焉の地としているという。いまでもボランティアの手で、遺骨の発掘が行われているが、その在り処は依然不明である。
1951年6月25日、県民の有志が「戦没沖縄県知事島田叡/沖縄県職員慰霊塔」を建立、知事と職員458名の慰霊塔である。島守の会が維持に当たっている。1971年6月23日には、三高野球部有志によって「鎮魂碑」建てられ、同期の山口誓子の句碑と山根斎の歌碑が建てられている。島田の出身地、兵庫県と沖縄県民の絆はいまでも厚く、とくに甲子園での高校野球では、沖縄県代表校に次いで、兵庫県代表校を応援するとのこと。兵庫県出身の夫もその話は知っていたらしい。
手前の歌碑「ふるさとのいやはて見んと摩文仁山の巌に立ちし島守のかみ」
作者の仲宗根政善は、ひめゆり隊の引率教諭で、後、琉球大学教授となった。
山口青邨の句碑
鎮魂碑の右にある碑には島田の座右の銘「断而敢行鬼神避之」(断じて行えば鬼神もこれを避ける)」が刻まれている。2008年兵庫高校創立100周年記念として、同じ碑が同時に兵庫高校内にも建てられた
国立沖縄戦没者墓苑 これまでも見てきたように、沖縄県下の各地において、住民による遺骨収拾は、早くより進められ、各所に納骨所や慰霊碑が設けられた。1953年から政府による遺骨収拾も始まり、身元不明の遺骨は那覇市の中央納骨所に集められたが、さらに1979年、厚生省社会援護局により、この地の納骨所に遺骨は移転して、1980年2月25日、国立沖縄戦没者墓苑として開かれた。18万余柱が合祀され、いまも、あらたな遺骨は毎年納められている。
ここにお参りして、あらためて思うのは、軍人、軍属であるがゆえに、なぜ、一宗教法人の靖国神社(246万7000柱)に祀られなければならないか、A級戦犯の合祀がなぜ秘密裡に行われたのか、さらに合祀を拒む遺族の気持ちを無視するのか、国立の無宗教である戦没者の納骨や慰霊を担う施設がなぜ推進されないのだろうか。東京には、国立の千鳥ヶ淵戦没者墓苑(35万8000柱)がある。身元不明の遺骨や引取り手のない遺骨を合祀している。それを拡大したような形で、ここ沖縄の平和祈念公園の平和の礎のような墓名碑を東京でも設置することはできないのだろうか。皇居前広場、皇居の一部を開放したり、分散したりしてでも、作れないものだろうか。それこそ、遺された者の犠牲者への気持ちを各様に示せる施設を切に願うのであった。10月にドイツにおけるさまざまな追悼施設や歴史博物館をめぐっているときも、同じ思いだった。
国立沖縄こ戦没者墓苑
公園内の芝生上にたくさん落ちていたこんな木の実と葉っぱ。運転手さんからは「モモタモの木」と聞いたのだが、調べても分からなかった。ご存知の方教えていただければ・・・。ちなみに、落ちたときは緑だが、夜なるとやって来る蝙蝠がつつくと真ん中のようになり、やがて最上段のようになるとのことであった。
*12月2日、読者の方から「モモタマナ」ではないかとのおたよりを頂戴いたしました。私もネットで調べたところ、亜熱帯の植物で、枝が横に伸びるのも特徴で、沖縄には、野生も植栽もあるとのことでした。情報をどうもありがとうございました。
こんな風に落ちている。夏はとても良い日蔭を作ってくれる木だそうだ
公園内にはこんなバスが走っていた。たしかに広い
のじぎくの塔 平和祈念公園には、都道府県別に各様のデザインの慰霊碑が設置されているなかの一つ。設置者は、各自治体か遺族会かどちらかの設置がほとんどである。「のじぎく」は兵庫県の県花である。兵庫県は、沖縄、北海道に次いて犠牲者が多く3073名と記されていた。1964年6月13日遺族会が中心の建立委員会によって建てられた。建立当時の金井元彦知事の銘板と坂井時忠の歌碑がある。夫は、自分の出身である多紀郡にも67名が刻されているのを見出した。知り人こそいなかったが、遠く離れた沖縄で亡くなっていた人々の霊に祈った。
しづたまの碑 1969年、沖縄遺族連合会により建てられ、1988年にこの地に移転。1500余柱を納める。1975年当時の皇太子夫妻が参拝したとの記念碑もあった。これだけたくさんの慰霊碑があるなか、選んだのがここであったのだろう。辺りには、都道府県別の慰霊塔のほかに、郵政関係者の慰霊塔、NHK沖縄放送局関係者の慰霊塔といった、職能別のものもあった。
「85高地」に追い詰められて~黎明の塔・勇魂の碑・第32軍司令部終焉の地 都道府県別等の慰霊塔が途切れた先の階段を上り切ると目に入ったのが、「黎明の塔」の文字であった。めぐらされた柵の先はもう海へとなだれる崖であった。鬱蒼とした樹木に覆われ、「85高地」とも呼ばれているらしい。ここに広がる海は、6月23日と何が変わり、何が変わらないのかを、見つめているに違いない。この塔は、1952年6月、第32軍司令部の牛島満中将の部下や沖縄仏教会などによりと牛島中将と長勇参謀長の二人を祀って建てられた。1945年5月下旬、首里城の地下壕から轟壕を経て、この地まで追い詰められた第32軍司令部は、この高台の崖っぷちの壕に入り込み、6月19日、牛島は最後の軍命令「最後まで戦闘し、悠久の大義に生くべし」とゲリラ戦を指示した。6月22日、大本営は組織的戦闘終結を発表、23日には、牛島と長が自決した。その6月23日が沖縄戦終結の日とされている。しかし、現実には、各地での壕では、軍に投降することを拒まれたまま、餓死や自決、逃げ惑う中を撃たれて果てた兵士や住民が激増する。終焉の地となった第32軍司令部壕の横には、司令部の軍人・軍属約600名の黒御影石の墓銘碑と「勇魂之碑」が建てられた。ほんとうに「勇ましい魂」だったのだろうか。みじめさと悔しさの中、苦しんだ兵士の心が思われてならなかった。「英霊」認識を垣間見て、いまの私には違和感を覚えるのだった。
「勇魂の碑」1974年(昭和49年6月)建立の文字が読める
「第32軍司令部終焉の地」表示があるが中には入れない
韓国人慰霊塔 駐車場から平和祈念資料館に向かって振り返ると、気づかなかった白くて高い塔が立っていた。これが、韓国人慰霊塔で、今夏の旅で、ここを訪れた夫も素通りしてしまったらしい。今回は、じっくり時間をかけて周り、犠牲になった人々の思いに至るのだった。いまの日本で横行している「ヘイトスピーチ」の犯罪的な暴言・暴挙を“見守る”だけの警備、関係団体と閣僚たちとの親密さを思うとやりきれない気持ちになるのだった。
1975年8月に建立されている
帰りの時間も気になり、夫は前回入館しているとのことで、平和祈念資料館は素通りした。もし、もう一度沖縄を訪ねることができたらと、後に託すことにした。韓国人慰霊塔の裏側には、児童遊園もあり、隣接して風力発電の風車が何基か並んでいた。そういえば、沖縄では風力発電はどうなのだろうと尋ねてみると、Kさんは、風が強すぎてあまり適さないようだといい、自宅での太陽熱発電もセールスマンから勧められるが、海風で傷みが早いのは眼に見えているので断っているとのことだった。
そんな話をしながら、米須の辺りで、なんと私がメモを取っていたスケッチブックがないことに気づいた。そうだ、資料館のトイレの台に置き忘れたことは確かだ。「ああ、なんというドジ・・・」、外国でのスケッチが何枚かあり、先般のドイツ旅行のメモもある。しかし「もういいです」とあきらめると、Kさんと夫は「それはまずい」と引き返してくれた。
第24師団第一野戦病院本部壕跡(八重瀬)~白梅看護隊の足跡
帰りも遅くなり、なんとなく気は焦っていたのだが、つぎにKさんが黙って案内してくれたのが、ここだった。白梅学徒隊が、第24師団第一野戦病院看護教育隊(東風平)に入隊したのが1945年3月6日だった。3月24日、第24師団第一野戦病院(八重瀬岳)に56人全員が配置された。移動の足跡ににも図示されているように、6月4日白梅学徒隊は解散命令を受けて、本部壕を放棄したあと、戦場をさまよい、国吉の「白梅之塔」下の壕へ16人がたどり着いたが、21日までに犠牲者は10人となり、白梅学徒隊は、あわせて22人の犠牲者を出していることが分かる。
深くはないが、もう一つの開口部が見えるまで進んだ
白梅看護隊の足跡
11月13日、朝9時から夕方の5時半まで。私たちもかなり疲れたが、Kさんの懇切な案内にはずいぶん助けられた。私たちだけでは、とうてい体験できないことも多かったに違いない。そんなKさんから、奥様が庭で収穫した青みかんと「カニステル」というだいだい色の果実をお土産にいただいた。カニステル?話によれば「すぐには食べられないが、しばらくして皮がはじけるころが食べごろ」とのことだった。たしかに、4~5日して、おそるおそる皮をむいて、食べたところ、食感はアボガドのようでもあり、ほのかに甘くて、クリームのようなおいしさであった。しばらくの間、朝食のデザートで楽しむことができた。ありがとう。
旅先での拙い思いはところどころで吐露したり、嘆いたりしたが、ドイツ旅行や沖縄で体験したことは、私が知らなかったことが多く、書物や映像では、なかなか身体や心に届かなかったことが、じわりじわり浸み込んで来るような刺激的な旅となった。こんな旅がどれほど続けられることだろう。お付き合いには感謝のひとことである。写真ももっと上手になりたいなあとも。
<主な参考文献>
・観光コースでない沖縄 第三版 新崎盛暉ほか編 高文研 1997年
・おきなわの戦跡ブック『ガマ』 改訂版 沖縄県高教組教育資料センター『ガマ』編集委員会編 沖縄時事出版 2013年
・公益財団法人沖縄県平和祈念財団ホームページ「慰霊碑・塔等」など
http://heiwa-irei-okinawa.jp/01ireitou/index.html
・読谷バーチャル平和館
http://heiwa.yomitan.jp/3/2530.html
・いとまん観光ナビ「平和学習コース」
http://www.city.itoman.lg.jp/kankou-navi/guide/heiwagakushu.html
付録・沖縄旅行で出会った歌碑・短歌
沖縄陸軍病院の塔・歌碑
・春くるとひたすら待ちし若草の萌えたついのち君に捧げぬ(長田紀春)
・水汲みに行きし看護婦死ににけり患者の水筒四つ持ちしまま(同上)
梯梧の塔・歌碑
・いたましく二八に散りし乙女らの血潮に咲けるくれないの花(藤岡豊子)
・ゆさぶりて碑をゆさぶりて思い切りきけどもきけぬ声をききたし(瑞慶覧道子)
・一人来て抱きしめて見ぬわが友の名の刻まれし碑文(同上)
陸軍病院第一外科壕・碑文(1974年 6月 ひめゆり同窓会)
・しらじらとあけそむる野を砲弾のあめにちりゆくすがた目にみゆ(作者不明)
・血にそまる巌のしづくは地底にしみていのちのいずみとわきていでなむ(作者不明)
島守の塔・歌碑(摩文仁)
・ふるさとのいやはて見んと摩文仁山の巌に立ちし島守のかみ(仲宗根政善)
島守の塔・鎮魂碑(摩文仁)(1971年 第三高等学校野球部有志)
・島守の塔にしづもるこのみ魂紅萌ゆるうたをききませ(山根斎)
・島の果世の果繁るこの丘が(山口誓子)
のじぎくの塔・歌碑(摩文仁)(兵庫県遺族会)
・しろじろとしおじはるかにかがやけるマブニのおかにきみをまつらん(坂井時忠)
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