2023年10月 4日 (水)

<関東大震災100年>特集に思う~5首を発表しました。

 関東大震災100年ということで、多くのメディアが特集やシリーズものを組んでいた。短歌雑誌の『歌壇』9月号では、≪その時歌人たちはどう詠んだか―関東大震災から百年≫が組まれ、私も「『ポトナム』揺籃期の震災詠」を寄稿した。9月2日の当ブログにも収録している。今回は、『現代短歌新聞』10月号の特集≪関東大震災100年≫に拙作五首を発表している。ご笑覧のほどを。3頁にわたり43人が出詠していた。★

観音寺の鐘楼   内野光子(ポトナム)

縛られて〈払い下げ〉られし六人を殺せと命じられし村びと
息つめて向うは高津観音寺晩夏の雨に鐘楼濡れおり
朝鮮の技にて成りし鐘楼に犠牲者慰霊の礼のひたすら
命じられ殺めし人らを供養せる碑には銘なく落葉とどまる
二九六の往来激しき道の辺に潜まり建つは〈無縁仏の墓〉
(『現代短歌新聞』2023年10月)

 関東大震災について、私は、書物や映像でしか知らない。両親は結婚する前で、父は海外にいたし、母は千葉県の佐原で小学校教師をしていたはずだが、震災の話を聞いた記憶がない。書物や映像からの作歌は、むずかしいし、私は、なるべく戒めることにしている。数年前、佐倉市の隣町、八千代市内に大震災時に犠牲となった朝鮮人の慰霊碑がいくつかあり、毎年、追悼式が行われていることを知った。高津団地に近い「高津山観音寺」では追悼式と同時に開かれる学習会にフィールドワークが開催されているが、一度参加したことがある。「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」の主催である。ことしは9月9日に百周年慰霊祭が行われたが、猛暑の中、体調に自信がなく、残念ながら参加できなかった。

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『いしぶみ』は「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」の機関誌で、1978年創刊という。さまざまな関連行事の案内や報告、研究論文も掲載される。最新号の「関東大震災朝鮮人虐殺をめぐる質問主意書の意義」は2015年から資料を巡る質問書は八回も出され経過、今年は、5月23日の参院内閣委における杉尾議員も関係資料について質問までを追跡している。8月30日の記者会見で松野官房長官の「政府として調査した限り、政府内において事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」との発言は記憶に新しい。ちなみに質問主意書については、以下に詳しい。


関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会HP<質問主意書一覧>
https://www.shinsai-toukai.com/top-japanese-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E/%E8%B3%87%E6%96%99%E5%AE%A4-japanese/%E8%B3%AA%E5%95%8F%E4%B8%BB%E6%84%8F%E6%9B%B8-%E7%AD%94%E5%BC%81%E6%9B%B8/

「<100年ぶり>の国会質問に政府の答えは? まもなく発生100年の関東大震災「朝鮮人・中国人虐殺」問題」『東京新聞』2023年5月24日https://www.tokyo-np.co.jp/article/251995

★『現代短歌新聞』の特集の作品の中で、気になったのが、柳宣宏さんの「一会員」と題する五首だった。
・「まひる野」の会員たりしえみこさんは大杉栄と伊藤野枝の子
 第一首目と『天衣』という歌集を残したという第五首目を手掛かりに調べてみると、伊藤には、辻潤との間に二人、大杉との間に五人の子供がいる。「えみこさん」は、三女の「エマ」さんで、後に笑子と改名している。『天衣』は、1988年に出版されていたが、著者は野沢恵美子となっていた。

 

 

 

 

 

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2017年3月11日 (土)

さまざまなニュースが錯綜する中で、3月11日を迎えた~南スーダンからPKO派遣部隊の撤退の意味

 きのう310日の夕方、南スーダンへのPKO派遣の自衛隊施設部隊の撤退のニュースはあまりにも、唐突で、不自然だった。森友学園籠池理事長の記者会見に割って入った形の、首相の記者発表であった。施設部隊の仕事が「一定の区切り」がつく5月末をもって撤収するのだという。昨年の9月ごろから検討していたという。治安が悪化しているからではないのかという記者の質問には答えない3分間のぶら下がりだった。追いかけるように、菅官房長官、稲田防衛大臣、自衛隊トップは、治安悪化が撤退の原因ではないと必死の弁明が続いた。

11日、245分が過ぎた。6年前、私たち夫婦は、浅草での東京大空襲の写真展を見学、体験者の話を聞いた後、新宿に向かう山手線に乗っていた。車内に一時間半ほど閉じ込められた後、線路上に降ろされ、代々木駅近くから新宿まで歩いたが、もちろん家に帰る交通は断たれたので、思いつくまま、ひたすら池袋の私の実家へと歩き、7時過ぎにたどり着いた。いわゆる「帰宅難民」であったことを思い出す。その後、津波の被害、福島原発事故の深刻さを知ることになった。亡くなった人々、行方不明の人々の家族に、いまだに避難生活を余儀なくされている12万人の人々、生活再建のめどが立たないまま不安な日々を送っている人々に、何と声を掛けたらいいのだろう。

 

きのう、310日の朝刊には、週刊文春と新潮の、森友学園と安倍政権の関係のドロドロを競うように報じる広告が出た。新聞報道はじめ、テレビのワイド番組でも、新しい映像や情報が飛び交っていた。午前11時過ぎには、韓国の憲法裁判所が朴大統領の弾劾訴追を受けて罷免を宣告した。午後3時からは、小池都知事の定例記者会見が行われていたが、私は途中でテレビは切っていた。夕方、夫が書斎から下りて来て、5時半から、森友学園小学校申請取り下げの籠池理事長の記者会見があるらしいと。塚本幼稚園の会見場に現れた理事長が話し始めたが、前日の小学校建設現場での2回のぶら下がりでの独演の繰り返しであって、いつまで続くのやらと思っていた矢先、突然の速報が、冒頭の首相の記者発表だったのである。

  この日は、さらに、クアランプール空港で殺害された男性は金正男と特定したというニュースも届き、38日には金正男の長男の動画がネット上投稿されたニュースも流されていた。

騒然としたニュースが続くなか、首相の妻と森友学園との関係や言動の公私の混同がクローズアップされたり、政治家からの働きかけがあちこちから噴出してきたり、少なくとも籠池理事長の国会への参考人招致の世論の声が色濃くなる中で、首相の身に危険が迫ってきているのを察知したのだろう。そして、3月の中旬を迎え、各社の世論調査日程の直前のタイミングで、南スーダンからの撤退が発表されたのではないか。この見え透いた、目くらましまがいによる世論操作に騙されてはならないと思う。騙されるとしたら、まさに国民の民度が問われる場面だろう。

それにしても、派遣の自衛隊員は、どうか無事に帰国してほしい。すでに、昨年7月、現地で悲惨な戦闘場面を目撃して心的外傷後ストレス障害(PTSD)のケアが必要になった隊員が複数、約20人いることが、防衛省関係者への取材で分かったという報道もある(『毎日新聞』夕刊 2017311日)。

森本学園問題も、これで収束してはならないはずで、国有地の不透明な格安払下げ、森本学園での教育勅語暗唱などの偏向教育、小学校認可関連で、安倍首相夫妻はじめとする政治家たちと役人たちの動向が何を意味するのかを、徹底的に解明してほしい。

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2015年8月 1日 (土)

代々木の婦選会館を訪ねて(1)さまざまな戦争体験を聞く

こう暑くなると、東京に出るのも一仕事である。日比谷野外音楽堂の集会や国会包囲行動も、体調との相談である。やはり、代々木の市川房枝記念会女性と政治センター(婦選会館)での「女性展望カフェ」には出掛けたいと思った。婦選会館の図書室で調べものもしたかったのだが、下記のイベントが開催されるのだ。関さんは、被爆者としてのさまざまな活動をなさっているジャーナリストとして有名でもある。山口さんは、私の元の職場の大先輩で、女性史の研究家で市川房枝記念会の運営や資料整備にもかかわっている方で、私も資料の件ではいろいろお世話になっている。

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女性展望カフェ いま語る―戦争の時代を生きて

場所:婦選会館

日時:2015730日(木)13:3016:15

講師:木﨑和子さん(繊維製造業)…310東京大空襲を逃れて

関 千枝子さん(ジャーナリスト)…広島で被ばくして

鳥海哲子さん(元編集者)…勤労動員で風船爆弾づくり

山口美代子さん(元国立国会図書館職員)…北朝鮮からの引揚げ

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新宿南口の喧騒を離れて・・・。都営新宿線6番出口からは2・3分のところです

 関さんや山口さんの体験については、これまでも一部は書物で読んだ記憶があるが、あとのお二人の体験談は初めてであった。4人の戦争体験は、それぞれ場所も状況も異なってはいたが、学童や思春期の、多感な時期に遭遇した、太平洋戦争末期から敗戦直後の悲痛な体験であった。

 木崎さんは、強制疎開によって、300mほど離れた、墨田区横網町の関東大震災の犠牲者を祀る東京都慰霊堂近くに暮らしはじめてまもなく、310日の大空襲に遇い、親戚をたより山形県に逃れたが、肺結核であった長兄はで22歳、母親は49歳で、敗戦を知らずに病死した。残された父親は、棟梁の仕事で足を悪くしていたので、疎開先では、製材所の木端で鍋・釜のフタを売ったり、強制疎開の立ち退き料だった3万円を取り崩し、疎開してあったわずかなものを売り食いしたりして、木崎さんと姉との3人暮らしで、1950年に東京に戻れたということであった。横網町公園にある東京都慰霊堂の現在の資料をたくさん用意してくださっていた。

 関さんは、広島第二県女学校2年生の時、級友たちは建物疎開のために動員された出先で被爆、病気欠席をしていた関さんを除き、全員が亡くなったと語った。毎年、86日には、広島の少年少女の死を悼むフィールドワークを開催、案内役を務めている。広島平和記念資料館のまとめによれば、動員学徒8222人中5846人が犠牲になったとされているが、実数はもっと多いだろうとのことであった。

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関さんは、写真と共に、平和大通りに建てられた、犠牲となった少年少女たちの慰霊碑をめぐる

 鳥海さんは、旧千葉県立市原高等女学校3年生のとき、それまでは援農という動員であったが、19452月に、五井(現市原市)にできた風船爆弾工場に動員された。和紙をこんにゃく糊で何枚も何枚も重ね合わせた紙をひたすらつくらされた。秘密兵器作成の一端を担う作業だから家族にも漏らしてはならない、洩らしたらスパイとして罰せられると緘口令がしかれていたが、2カ月もすると、市原高女の校舎は司令部が入り、生徒たちは軍属として、815日まで務めた。風船爆弾については、後になって、直径10mにも及ぶ大きな風船に水素ガスを詰め、爆弾をぶら下げて、工場近くの一宮海岸からジェット気流に乗せて太平洋を越え、アメリカ本土に至らせ、爆発させようというものだったと知る。

 この風船爆弾の研究・作成していたのが、川崎市生田の旧陸軍登戸研究所であって、昨年12月開催の明治大学内「登戸研究所」跡の博物館見学と研究会には、私も参加、その時のレポートを本ブログ記事としているので、ご覧ください。

20141223日:明治大学生田キャンパス「登戸研究所」を訪ねて(1)(2)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/12/post-1fea.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/12/post-242d.html

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人影と比べるとその大きさがわかる。風船爆弾作成に動員されたのは、主に高等女学校生徒を中心に、群馬県以西、宮崎県までの18都府県と満州にまで及び、100校ちかくを数える。女子の方が指先が器用だったからと言われている。都内だけでも、国公私立をふくめ、35校に及び、千葉では、鳥海さんが在学されていた市原高女だけだったらしい。完成品をチェックするには天井の高いスペースが必要で、東京では日劇、宝塚劇場、国技館などがしようされたという

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上総一宮海岸の風船爆弾打ち上げ基地跡。打ち上げ基地は、茨城県大津と福島県勿来の海岸の三か所だった

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これだけの風船爆弾がアメリカに着地していた。戦後、オレゴン州でピクニック中の一家が
風船爆弾に触れて6人が犠牲となっっている

 山口さんは、横浜の小学校を卒業後、父親の判事の転任に伴い、一家で任地の朝鮮の京城、さらに元山に転居した。ご自身は、4年で元山高等女学校を卒業後は元山女子師範学校に進学して、815をむかえている。その直後、父親がソ連軍によって拘束、元山郊外の抑留所に収容されて、19451231日に解放されたが、それからが一家の苦難の引揚げ行になったという。敗戦当初の朝鮮の人たちの反応や38度線までたどり着いたときの喜び、乗り継いで釜山に着き、博多からの船に乗った時の思いなどがなまなましく語られた。「平和なくして平等なく 平等なくして平和なし」という市川房枝のことばで締めくくられた。

 いずれの体験も、軍国少女であり、十分な教育を受けられなかった時代を振り返り、戦争は戦場での犠牲ばかりでなく、生き残った多くの人々にも苦難をもたらすものであることを際立たせた。2度と繰り返してはならない、繰り返さないためにも、いまの政治のありようには、さまざまな方法で抗議する重要性を訴えているようだった。コーヒーブレイクをはさんで、多くの方の質疑によって、体験や覚悟が交わされるのだった。

 

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2014年11月29日 (土)

沖縄の戦跡を歩く~遅すぎた<修学旅行> 2014年11月11日~14日(6)

弾痕の残る古民家で~戦場になるということ

 

  1113日の午前中は、多数の住民が避難し、多くの犠牲者を出した壕のほんの一部を訪ね、慰霊碑に手を合わせた。だいぶ遅くなったが、今日の昼食も、Kさんの案内で、真壁の「ちなー」という古民家レストランでとることにした。壕をめぐるとき、真壁というところを通過したような気がするが、その集落の一画にあり、地元の人でないと迷ってしまいそうなところだった。看板には「茶処」とあった。お弁当持ちのKさんと別れて、店に入ると、二方を廊下に囲まれた床の間のある部屋と仏壇のある部屋が開放され、いくつかの座卓には、すでに何組かの先客があった。私たちはそれぞれ、野菜そばとあんかけそばを注文した。部屋の天井や板壁には弾痕が残り、弾丸が貫通した柱も利用されていた。

 戦場と化した沖縄の中南部、糸満市における住民の「戦没率」という資料を見て驚いた。旧真壁村の集落は、75%から94%に及ぶ。私は、沖縄県民の4人に1人が戦死しているという話は聞き知っていたが、住民の94%の方が亡くなっているという集落があるという現実を知らなかった。
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銃痕の残る柱も使われていた

 

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ごちそうさま。マンゴーのシャーベットもなかなか・・・..

 

ちなみに「ちなー」のブログです。
http://makabechina.ti-da.net/

 

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後掲参考文献『ガマ』よりコピーさせていただいた

 

白梅の塔・24師団第一野戦病院壕(糸満市国吉)

 

 八重瀬岳の麓にあった第一野戦病院は、戦線が南部に移った194563日分院を閉鎖、4日には本部壕を放棄、同日、解散命令を受けた県立第二高女の白梅学徒隊はさまよって、16人がこの壕にたどり着き、618日以降の戦闘で、10人が犠牲となっている。白梅の塔には、第二高女同窓の全戦没者を祀っていて、白梅同窓会会長の生存者中山キクさんらは、若い世代への語り継ぐ努力を続けているそうだ。塔の周辺は、もっと樹木が茂っていたそうだが、いまは育った樹木の何本がが立ち枯れたままになっているのが気がかりであった。

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辺りの樹木の立ち枯れが目立つ

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同窓生ほか多くの方に見守られて

摩文仁の丘へ

平和の礎の前で   摩文仁の平和祈念公園へと向かう間にも、たくさんの慰霊塔や追悼碑があった。その多くには、失礼ながら、車中から手を合わせ通過させてもらった。失礼というならば、とKさんは、まだ遺骨が収集されていないまま整地されたグリーンでゴルフに興じる人々、開発時にはたくさんの遺骨が発見され、そこに建てられたマンションに、多くは何も知らないまま、住民票を移さずにリゾート気分で暮らしている人々がいることを嘆いていた。

 平和祈念公園の駐車場から資料館の建物をくぐりぬけた瞬間、目の前にひらけた空間は、想像よりも広く明るかった。きょうの空の青さと広場のあちこちに散らばっている若者たちの姿があったからかもしれない。整えられた歩道をまっすぐに進むと、円形の池の中央に円錐形のモニュメントが立っていた。よく見ると、その池の底から、日本列島が浮かび上がり、沖縄の、この位置にモニュメントが立っていたのである。修学旅行生が入れ代わり立ち代わり群れをなしていたのが、「平和の礎」の銘板がある記念碑だった。それに続く黒御影石の墓名碑の幾列、国ごとに、県ごとに、村ごとに、犠牲者の名が並ぶ。朝鮮人民共和国の犠牲者の多くは、名前が分かっていても、ここの刻名を拒む人たちも大勢いるのが現状である。毎年、判明した段階で、名前が刻まれ、いまでもその数は増え続けている。

 

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この正面に円形の池がある。波をイメージした歩道の中央の細い溝は、霊に供える水が流れつくようにという意味が込められているという

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池から資料館と左側の白い塔、韓国人慰霊塔をのぞむ

 

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修学旅行生が献花をしたり、「平和の誓い」を読み上げたりしていた


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沖縄県の刻銘碑、ツル、カメ、ウサ・・・、同姓同名も多い。氏名が不詳で「○○の孫」といった表示も見られる

 

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毎年、この数字は書き換えられている

 

島守の塔  19451月に着任した、最後の沖縄県知事、島田叡(19021945)は、いまでも県民からの敬愛は厚い。米軍の艦砲射撃や空襲が続くなか、沖縄県民の生活の安全や食糧確保、疎開・避難等にあたって尽力したことを、県民は忘れていないことを端々に伺わせている。Kさんもそうだった。神戸一中(県立兵庫高校)、三高、東京帝大と進んだ官僚でありながら、県庁組織解散時、ともに自決をしようとした側近たちには「生き延びて、沖縄のために尽くせ」と諭し、荒井退造警察部長と留まり、のち、摩文仁に向かった以降、消息が掴めなくなっているので、この地を終焉の地としているという。いまでもボランティアの手で、遺骨の発掘が行われているが、その在り処は依然不明である。
 
 1951625日、県民の有志が「戦没沖縄県知事島田叡/沖縄県職員慰霊塔」を建立、知事と職員458名の慰霊塔である。島守の会が維持に当たっている。1971623日には、三高野球部有志によって「鎮魂碑」建てられ、同期の山口誓子の句碑と山根斎の歌碑が建てられている。島田の出身地、兵庫県と沖縄県民の絆はいまでも厚く、とくに甲子園での高校野球では、沖縄県代表校に次いで、兵庫県代表校を応援するとのこと。兵庫県出身の夫もその話は知っていたらしい。

 

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手前の歌碑「ふるさとのいやはて見んと摩文仁山の巌に立ちし島守のかみ」
作者の仲宗根政善は、ひめゆり隊の引率教諭で、後、琉球大学教授となった。

 

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山口青邨の句碑

 

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鎮魂碑の右にある碑には島田の座右の銘「断而敢行鬼神避之」(断じて行えば鬼神もこれを避ける)」が刻まれている。2008年兵庫高校創立100周年記念として、同じ碑が同時に兵庫高校内にも
建てられた

国立沖縄戦没者墓苑   これまでも見てきたように、沖縄県下の各地において、住民による遺骨収拾は、早くより進められ、各所に納骨所や慰霊碑が設けられた。1953年から政府による遺骨収拾も始まり、身元不明の遺骨は那覇市の中央納骨所に集められたが、さらに1979年、厚生省社会援護局により、この地の納骨所に遺骨は移転して、1980225日、国立沖縄戦没者墓苑として開かれた。18万余柱が合祀され、いまも、あらたな遺骨は毎年納められている。

 

 ここにお参りして、あらためて思うのは、軍人、軍属であるがゆえに、なぜ、一宗教法人の靖国神社(2467000柱)に祀られなければならないか、A級戦犯の合祀がなぜ秘密裡に行われたのか、さらに合祀を拒む遺族の気持ちを無視するのか、国立の無宗教である戦没者の納骨や慰霊を担う施設がなぜ推進されないのだろうか。東京には、国立の千鳥ヶ淵戦没者墓苑(358000柱)がある。身元不明の遺骨や引取り手のない遺骨を合祀している。それを拡大したような形で、ここ沖縄の平和祈念公園の平和の礎のような墓名碑を東京でも設置することはできないのだろうか。皇居前広場、皇居の一部を開放したり、分散したりしてでも、作れないものだろうか。それこそ、遺された者の犠牲者への気持ちを各様に示せる施設を切に願うのであった。10月にドイツにおけるさまざまな追悼施設や歴史博物館をめぐっているときも、同じ思いだった。

 

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国立沖縄こ戦没者墓苑

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公園内の芝生上にたくさん落ちていたこんな木の実と葉っぱ。運転手さんからは「モモタモの木」と聞いたのだが、調べても分からなかった。ご存知の方教えていただければ・・・。ちなみに、落ちたときは緑だが、夜なるとやって来る蝙蝠がつつくと真ん中のようになり、やがて最上段のようになるとのことであった。
*12月2日、読者の方から「モモタマナ」ではないかとのおたよりを頂戴いたしました。私もネットで調べたところ、亜熱帯の植物で、枝が横に伸びるのも特徴で、沖縄には、野生も植栽もあるとのことでした。情報をどうもありがとうございました。

 

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こんな風に落ちている。夏はとても良い日蔭を作ってくれる木だそうだ

 

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公園内にはこんなバスが走っていた。たしかに広い

 

 のじぎくの塔  平和祈念公園には、都道府県別に各様のデザインの慰霊碑が設置されているなかの一つ。設置者は、各自治体か遺族会かどちらかの設置がほとんどである。「のじぎく」は兵庫県の県花である。兵庫県は、沖縄、北海道に次いて犠牲者が多く3073名と記されていた。1964613日遺族会が中心の建立委員会によって建てられた。建立当時の金井元彦知事の銘板と坂井時忠の歌碑がある。夫は、自分の出身である多紀郡にも67名が刻されているのを見出した。知り人こそいなかったが、遠く離れた沖縄で亡くなっていた人々の霊に祈った。

しづたまの碑  1969年、沖縄遺族連合会により建てられ、1988年にこの地に移転。1500余柱を納める。1975年当時の皇太子夫妻が参拝したとの記念碑もあった。これだけたくさんの慰霊碑があるなか、選んだのがここであったのだろう。辺りには、都道府県別の慰霊塔のほかに、郵政関係者の慰霊塔、NHK沖縄放送局関係者の慰霊塔といった、職能別のものもあった。

 

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85高地」に追い詰められて~黎明の塔・勇魂の碑・第32軍司令部終焉の地  都道府県別等の慰霊塔が途切れた先の階段を上り切ると目に入ったのが、「黎明の塔」の文字であった。めぐらされた柵の先はもう海へとなだれる崖であった。鬱蒼とした樹木に覆われ、「85高地」とも呼ばれているらしい。ここに広がる海は、623日と何が変わり、何が変わらないのかを、見つめているに違いない。この塔は、19526月、第32軍司令部の牛島満中将の部下や沖縄仏教会などによりと牛島中将と長勇参謀長の二人を祀って建てられた。19455月下旬、首里城の地下壕から轟壕を経て、この地まで追い詰められた第32軍司令部は、この高台の崖っぷちの壕に入り込み、619日、牛島は最後の軍命令「最後まで戦闘し、悠久の大義に生くべし」とゲリラ戦を指示した。622日、大本営は組織的戦闘終結を発表、23日には、牛島と長が自決した。その623日が沖縄戦終結の日とされている。しかし、現実には、各地での壕では、軍に投降することを拒まれたまま、餓死や自決、逃げ惑う中を撃たれて果てた兵士や住民が激増する。終焉の地となった第32軍司令部壕の横には、司令部の軍人・軍属約600名の黒御影石の墓銘碑と「勇魂之碑」が建てられた。ほんとうに「勇ましい魂」だったのだろうか。みじめさと悔しさの中、苦しんだ兵士の心が思われてならなかった。「英霊」認識を垣間見て、いまの私には違和感を覚えるのだった。

 

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「勇魂の碑」1974年(昭和49年6月)建立の文字が読める

 

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「第32軍司令部終焉の地」表示があるが中には入れない

 

韓国人慰霊塔  駐車場から平和祈念資料館に向かって振り返ると、気づかなかった白くて高い塔が立っていた。これが、韓国人慰霊塔で、今夏の旅で、ここを訪れた夫も素通りしてしまったらしい。今回は、じっくり時間をかけて周り、犠牲になった人々の思いに至るのだった。いまの日本で横行している「ヘイトスピーチ」の犯罪的な暴言・暴挙を“見守る”だけの警備、関係団体と閣僚たちとの親密さを思うとやりきれない気持ちになるのだった。

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1975年8月に建立されている

 

 帰りの時間も気になり、夫は前回入館しているとのことで、平和祈念資料館は素通りした。もし、もう一度沖縄を訪ねることができたらと、後に託すことにした。韓国人慰霊塔の裏側には、児童遊園もあり、隣接して風力発電の風車が何基か並んでいた。そういえば、沖縄では風力発電はどうなのだろうと尋ねてみると、Kさんは、風が強すぎてあまり適さないようだといい、自宅での太陽熱発電もセールスマンから勧められるが、海風で傷みが早いのは眼に見えているので断っているとのことだった。

 そんな話をしながら、米須の辺りで、なんと私がメモを取っていたスケッチブックがないことに気づいた。そうだ、資料館のトイレの台に置き忘れたことは確かだ。「ああ、なんというドジ・・・」、外国でのスケッチが何枚かあり、先般のドイツ旅行のメモもある。しかし「もういいです」とあきらめると、Kさんと夫は「それはまずい」と引き返してくれた。

 

第24師団第一野戦病院本部壕跡(八重瀬)~白梅看護隊の足跡
  

 帰りも遅くなり、なんとなく気は焦っていたのだが、つぎにKさんが黙って案内してくれたのが、ここだった。白梅学徒隊が、第24師団第一野戦病院看護教育隊(東風平)に入隊したのが1945年3月6日だった。3月24日、第24師団第一野戦病院(八重瀬岳)に56人全員が配置された。移動の足跡ににも図示されているように、6月4日白梅学徒隊は解散命令を受けて、本部壕を放棄したあと、戦場をさまよい、国吉の「白梅之塔」下の壕へ16人がたどり着いたが、21日までに犠牲者は10人となり、白梅学徒隊は、あわせて22人の犠牲者を出していることが分かる。

 

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深くはないが、もう一つの開口部が見えるまで進んだ

 

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白梅看護隊の足跡

 

 11月13日、朝9時から夕方の5時半まで。私たちもかなり疲れたが、Kさんの懇切な案内にはずいぶん助けられた。私たちだけでは、とうてい体験できないことも多かったに違いない。そんなKさんから、奥様が庭で収穫した青みかんと「カニステル」というだいだい色の果実をお土産にいただいた。カニステル?話によれば「すぐには食べられないが、しばらくして皮がはじけるころが食べごろ」とのことだった。たしかに、45日して、おそるおそる皮をむいて、食べたところ、食感はアボガドのようでもあり、ほのかに甘くて、クリームのようなおいしさであった。しばらくの間、朝食のデザートで楽しむことができた。ありがとう。

 

旅先での拙い思いはところどころで吐露したり、嘆いたりしたが、ドイツ旅行や沖縄で体験したことは、私が知らなかったことが多く、書物や映像では、なかなか身体や心に届かなかったことが、じわりじわり浸み込んで来るような刺激的な旅となった。こんな旅がどれほど続けられることだろう。お付き合いには感謝のひとことである。写真ももっと上手になりたいなあとも。

 

<主な参考文献>

・観光コースでない沖縄 第三版 新崎盛暉ほか編 高文研 1997

・おきなわの戦跡ブック『ガマ』 改訂版 沖縄県高教組教育資料センター『ガマ』編集委員会編 沖縄時事出版 2013

・公益財団法人沖縄県平和祈念財団ホームページ「慰霊碑・塔等」など
http://heiwa-irei-okinawa.jp/01ireitou/index.html 

・読谷バーチャル平和館

 http://heiwa.yomitan.jp/3/2530.html

・いとまん観光ナビ「平和学習コース」

http://www.city.itoman.lg.jp/kankou-navi/guide/heiwagakushu.html

 

 

 付録・沖縄旅行で出会った歌碑・短歌

 

沖縄陸軍病院の塔・歌碑

・春くるとひたすら待ちし若草の萌えたついのち君に捧げぬ(長田紀春)

・水汲みに行きし看護婦死ににけり患者の水筒四つ持ちしまま(同上)

 

梯梧の塔・歌碑

・いたましく二八に散りし乙女らの血潮に咲けるくれないの花(藤岡豊子)

・ゆさぶりて碑をゆさぶりて思い切りきけどもきけぬ声をききたし(瑞慶覧道子)

・一人来て抱きしめて見ぬわが友の名の刻まれし碑文(同上)

 

陸軍病院第一外科壕・碑文1974 6 ひめゆり同窓会)

・しらじらとあけそむる野を砲弾のあめにちりゆくすがた目にみゆ(作者不明)

・血にそまる巌のしづくは地底にしみていのちのいずみとわきていでなむ(作者不明)

 

島守の塔・歌碑(摩文仁)

・ふるさとのいやはて見んと摩文仁山の巌に立ちし島守のかみ(仲宗根政善)

 

島守の塔・鎮魂碑(摩文仁)(1971年 第三高等学校野球部有志)

・島守の塔にしづもるこのみ魂紅萌ゆるうたをききませ(山根斎)

・島の果世の果繁るこの丘が(山口誓子)

 

のじぎくの塔・歌碑(摩文仁)(兵庫県遺族会)

・しろじろとしおじはるかにかがやけるマブニのおかにきみをまつらん(坂井時忠)

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2014年9月16日 (火)

91年前の9月、身近な町でなされたこと~関東大震災でいわれなく殺された人々

91年前の9月、身近な町でなされたこと

 311から3年半、1923年関東大震災から91年になる。97日、隣町の八千代市高津の観音寺での「朝鮮人犠牲者、追悼・慰霊祭」に参列した。昨年90年のとき、連れ合いが参列しているので、お知らせも届き、誘われた。

 京成八千代台駅からバスで数分の高津山観音寺は住宅街に接し、やや高台にある。早朝が雨のこともあって、今年は本堂での追悼・慰霊祭となり、椅子にも座ることもできた。主催者のひとつ「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」代表の吉川清さんの挨拶に続いて献花や焼香が行われた。こうした慰霊祭は1983年から行い、1999年「関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑」をこの観音寺に建ててから16回目ということであった。きょうは、昨年就任のA市長の参列もあって、これまでにないことだとの報告もあった。八千代の場合、犠牲となった朝鮮人は、当時の陸軍演習場にあった東習志野捕虜収容所(現在、東習志野保育園)から、「払い下げ」と称して地元の人々に渡され、地元の人の手によって殺されたという異常な事件が、証言や記録などで明らかになり、知られるようになった。強制的に加害者にさせられたという点で被害者となった地元に人々の衝撃も大きく、長い間、沈黙が続くことになった。 

 

高津、観音寺の慰霊碑

 本堂での次第が済むと、まず、観音寺境内の韓国式鐘楼と慰霊碑へと向かった。鐘楼は1985年に「関東大震災韓国人犠牲者慰霊の鐘を送る会」が、韓国からの鐘や建材、そしてやってきた職人さんによって建てられた。「関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑」は地元高津区の人々と観音寺、千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会の三者で建てられた。192397日に6人の朝鮮人を引き渡され、演習場に接するなぎの原での惨劇となった後、埋葬され、戦後、地元の方々と観音寺住職によりひそかに供養されていた。

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むくげの花が咲いていた

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韓国式の鐘楼

 

一本松の「無縁仏之墓」

 高津、観音寺での慰霊祭のあと、参列者は、実行委員会の方の車に分乗させていただき、墓地・慰霊塔めぐりに出発する。まず、最初に訪ねたのは、大和田新田447番地、296沿いのおかざき外科前にあった小さな「無縁仏の墓」であった。実行委員会お世話役の大竹さんは、大和田小学校時代に、大震災当時小学校3年だった阿部こう先生から、「910日頃、役場から3人の朝鮮人引き渡しの通達を受け、3人が路上で針金で縛られているのを見た」などの証言を聞いたそうだ。それ以来、大竹さんもこうした事実を後世に伝えていかねばと思われたそうだ。この辺は一本松と呼ばれていたらしいが、遺骨もないまま、何の説明書きもないまま、地元の人々によって供養が続けられているという。車の往来も激しく、多くの人が知らないまま通り過ぎてゆく。 

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お参りしている人の背後は296の往来がせわしい

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大竹さんの話をきく参加者、この日、千葉日報の記者とカメラマンも取材で一緒に巡った

萱田下、長福寺「震災異国人犠牲者 至心供養塔」
 29616号線の交差点近くの長福寺、1983年、村のもみよ共同墓地が宅地造成にかかったとき、地元の君塚国治さんの尽力で、3人の朝鮮人の遺骨を、この長福寺に改葬したそうだ。いまその共同墓地跡には超高層のマンションが建ち、お寺を見下ろしている。君塚さんは、改葬にあたって、村の人々に発掘やその後の供養について説得したという。その努力のあとは、供養塔碑面にある「異国人」が端的に示していよう。君塚さんは、供養塔の隣のお墓から見守っているようだった。

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村の共同墓地もみよ墓地からの改葬であった

 

萱田上、中台墓地「無縁供養塔」

 最後に訪ねたのが、八千代市民会館横の中台墓地だった。広い駐車場の脇が墓地への坂道になっている。「大震災の数日後、村の半鐘がなり、半鐘の下には一人の朝鮮人が縛りつけられていて、その坂道を上って墓地に連れて行かれた。墓地では目隠しをされて松の木に縛られていて、すでに穴が掘られていた」と当時小学校4年生だった女性が証言した。昨年亡くなられたそうだが、1995年には、地元の有志の方々と、墓地の中央に大きな「無縁供養塔」を建てられたが、その碑の裏には、「中台墓地関係者一同」としか記されていないのは、地元の方々の苦渋が見られる。

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事件の経緯や供養塔建立の経緯には触れることはないが、
地元の人々の気持ちはどう引き継かれていくのだろう

  慰霊碑の巡拝に参加してみて思うのは、警察や役場が組織的に動いて、自警団に朝鮮人を虐殺させたり、引き取らせて市民に手を下させたさせたりしたことについて、誰も責任を取ってこなかったことである。そして、やむにやまれず、当時の関係者や遺族、地元住民、研究者らが追悼や慰霊の気持ちに突き動かされて、それぞれさまざまな方法で、活動しているのが現況なのだろうと思う。しかし、年が経つほどに、関係者は高齢化し、亡くなっていく。今すぐにでも自分に降りかかってくる危機かもしれないという自覚をもって、真相究明と過ちを繰り返さない覚悟が必要だと思った。いま各地で、こうした慰霊碑や記念碑の撤去や解説の書き直しなどを迫る勢力が台頭してきているからこそ、と思うことしきりであった。

 

日本弁護士会は

日本弁護士会は、20038月、ある虐殺事件に関する人権救済申立事件について調査した結果、内閣総理大臣小泉純一郎あてに「関東大震災人権救済申立事件調査報告書」(日本弁護士連合会人権擁護委員会20037月)を付して、勧告書を提出している。その趣旨はつぎの通りだった。

 1、国は関東大震災直後の朝鮮人、中国人に対する虐殺事件に関し、軍隊による虐殺の被害者、 遺族、および虚偽事実の伝達など国の行為に誘発された自警団による虐殺の被害者、遺族に対し、 その責任を認めて謝罪すべきである。

 2、国は、朝鮮人、中国人虐殺の全貌と真相を調査し、その原因を明らかにすべきである。

 

国立歴史民俗博物館では 

 今年の3月11日から東日本大震災3年目の企画展示「歴史に見る震災」においても、震災直後に朝鮮人・中国人と誤認された日本人、監視対象の社会主義者無政府主義者らの虐殺事件が各地で発生したことに触れるパネルと資料の展示がなされていた。下記のブログ記事で指摘のように、主として官庁資料による検証に過ぎなかった。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/05/post-1faa.html

 

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2010年11月 8日 (月)

古本まつりと『冬の小鳥』

神田古本まつりの最終日、好天にも恵まれ、連れだって出かけることになった。神保町駅から地上に出るとすぐに青空市が始まり、最初の店からつっかかってしまう。ついでにと立ち寄った岩波ホール『冬の小鳥』、第1回上映なら1時過ぎに終わる、ということで入館、外出券で寸暇を惜しんでの青空市めぐり、数冊、目星をつけておいた。

映画評も見ず、予備知識もないまま、愛らしい少女のポスターにも魅せられてのことだが、席に着くとすでにホールは満席だった。

 自転車のお父さんの背中に頬を寄せ、うれしそうな少女の背景には、ソウルの繁華街の風景が流れる。新しい服、新しい靴を買ってもらい、レストランでの食事を済ませ、大きなケーキを抱え、二人が着いたのは、聖公会の女子孤児院だった。すぐに迎えにくるといって去っていく若い父親、それが父との別れだったのだ。

 しかし、少女は父親が迎えに来ると信じてやまない。孤児ではないと、孤児院にはなじもうとせず、少女が思いつくあらゆる反抗と抵抗を試み、ひたすら父の迎えを待つ。そんな少女を気遣う年上の友だち、やさしい寮母、適度の距離を置きながら見守る教師たち、決して叱らず、嫌な顔を見せない院長・・・。ものは豊かではないが、教育的配慮も垣間見せながら淡々と描かれていく孤児院生活。物語の舞台はもっぱら孤児院の教室、庭、寝室、食堂、台所と限られ、唯一、門の外に出るのは教会での礼拝だけだったような気がする。息が詰まりそうな設定ながら、少女が少しずつ笑顔を見せるまでになるが、心を許すようになった友が養女になって孤児院を去ると、また少女の心の空白は埋めようもなく深まるのだった。突然ながら、少女は、フランス人から養女に請われ、かつての友たちが見送られたように、全員の歌で院を去り、パリの空港までの一人旅をするところで物語は終わる。養親になる人の写真を見せられ「少し年取り過ぎている」と言葉少なに語った、その養親のもとへと歩く不安と決意を秘めた、そして少し醒めた少女の表情が印象的だった。

監督・脚本のウニー・ルコントは、1970年代の自らの実体験をもとに描いたといい、実母とは再会したものの、父親を探すことはしなかったという。フランスの養親のもとで韓国語を忘れたという彼女は、この脚本をフランス語で書いたそうだ。孤独と一人たたかった少女の物語は、時代と国をこえて普遍なものに違いない。少しだけ、涙で眼鏡が曇った。

 

 昼食後、古本まつりの雑踏に戻り、道すがら、大雲堂、一誠堂、巌松堂書店などにも立ち寄った。店頭のワゴンに三一書房の自著を見つけ、思わず価格を確かめたときの心境は複雑だった。二人で、15冊ほどを購入、無料の宅急便は明日の午前中には届くという。ちょっと欲張った「文化の日」ではなかったか。

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2010年10月28日 (木)

ある歴史教育シンポジウムに参加して~「韓国併合」をどう伝えるのか

 会場が目白の学習院大学だったこともあって、次のシンポジウムに出かけてみた。高校の先生の実践レポートもあるというのも魅力だった。日本歴史学協会では、毎年歴史教育のシンポジウム実施しているらしい。私はもちろん初めての飛び込みである。

シンポジウム:「韓国併合」100年と歴史教育(日本歴史学協会主催)
日時:2010年10月23日(土)13:30~17:30
姜徳相(滋賀県立大学名誉教授) 「錦絵と日本の対韓ナショナリズム」
加納格(法政大学教授) 「ロシア帝国と極東問題」
関原正裕(埼玉県立越谷北高校教諭) 「日清・日露戦争と韓国併合の授業」
場所:学習院大学 北2号館10階大会議室

この日の学習院大学は、目白寄りの西門に「オープンキャンパス」の横断幕が掲げられ、あたりは受験生や保護者でにぎわっていた。北2号館は、正門から入ってすぐの木立の中の白い木造建て、北別館(旧図書館・現史料館。1909年建造、国登録有形文化財)の奥だった。参加者は60人ほどだったか。

 討論に先立つ3人の報告は、素人の私にはどれも新鮮で興味深いものだったが、姜氏は、「錦絵の主題の変遷に見る日本の国や民衆の朝鮮観」をテーマに、日本の朝鮮蔑視の形成過程を話された。レジメがなかったので、以下は私のメモによる。江戸時代、朝鮮通信使外交が停止される1811年までは、日朝の友好関係や文化交流は良好で、民衆レベルにおいても、通信使を歓迎する様子が錦絵にもたびたび描かれていた。それがいつなぜ変わったのか。朝鮮がテーマとなる錦絵には、神功皇后の新羅征討、豊臣秀吉・加藤清正の朝鮮出兵などがあるが、江戸時代末期、19世紀前半は神功皇后の錦絵が多くなり、1850~60年には加藤清正のトラ狩りの錦絵が多くなって、数の上で逆転する。古事記や日本書紀に依拠する朝鮮を属国だとする前提と尊王思想と結びつき、討幕を実現した明治政府の支配層の底流には征韓論が定着し始めたが、民衆までは巻き込むことができなかった。そこで、明治政府は、教育においても教科書に上記の錦絵などを取り込み、朝鮮の属国化、蔑視の思想を浸透させ、地方の神社では神功皇后由来を強調し、国民の朝鮮蔑視の思想を普及させたという。朝鮮支配をめぐっての日清戦争において、直前からの朝鮮国内の内戦や抗日運動、戦場となった朝鮮については、日本国民の朝鮮蔑視の下地を大いに利用し、勝利に導いた。その間に犯した日本の朝鮮への暴虐は、「日本のジェノサイド」として記憶にとどめるべきである。という趣旨のことを、時には声を震わせ、熱情的に語ったのだった。

 次の加納氏は、朝鮮をめぐる日露関係を中心に、韓国併合に至る過程が時系列で詳しく、ロシアはもちろん、清国、ヨーロッパ諸国の対応を丁寧に辿るのだった。教科書だったら数行のところ、情報が多すぎて私には消化不良だったかもしれない。 

 最後の関原氏のレポートでは、「高校日本史」の「学習指導要領」改訂(2009年3月告示)、「解説」改訂(2009年12月)の前後の差異、教科書「詳説日本史B」(山川出版社)の「日清戦争」、「日露戦争・韓国併合」部分の記述と問題点を検証、教室で生徒に配布した教材のプリントを資料に、関原氏の授業の流れと留意点、プリントと板書の実際が説明された。教科書記述の分量のバランスと不備が指摘された。

 「解説」では、
①わが国が独立を保ち近代国の基盤を形成しえたが背景と明治維新の意義に気付かせる
②欧米諸国以外ではいち早く憲法を持ったことに気付かせる
③諸外国と結んだ条約を比較するなどして朝鮮などアジア近隣諸国に対して欧米諸国と同じような姿勢をとる結果になったことにも着目させる
④日清日露戦争前後に我が国が資本主義国家としての基礎を確立したことを踏まえ、戦争への過程や韓国併合、満州への勢力拡大などを通じ植民地支配を進めてきたことを、国内政治の動向や国際環境と関連させながら考察させる。特に日露戦争の勝利がアジア諸民族の独立や近代化に刺激を与えたことに気付かせる

 となっている。関原氏は、③④において、「韓国併合」が朝鮮の人々に何をもたらしたかの視点が抜け落ちていることが不備だという。すなわち教科書の叙述を見ると、1894年朝鮮王宮占拠、東学農民軍の第2次蜂起・鎮圧、日清戦争の主戦場が朝鮮であったこと、戦局の推移とともに勝利を絶賛するが、戦争の加害、・被害、悲惨さなど、戦争の実態が伝えられていないことなどを指摘した。日清戦争における朝鮮民衆の虐殺、物資の略奪がなされた事実、皇国意識によって朝鮮への優越感が助長されていったことにも言及された。 

 私の理解では、こんな概略だった。討議の時間になった。私は、関原氏の報告を聞いている間、数か月前に読んだ加藤陽子著『それでも日本人は戦争を選んだ』を思い出していた。現役の高校生との質疑形式で著者が日本の近代史を語り進めてゆくものだった。ただ、その基調にあるのは、通読する限り、それぞれの戦争が「仕方がない」「必然」だったというニュアンスが伝わってくる内容に、とても苛立った覚えがよみがえった。著者の問題提起、発問、それにこたえる高校生たちの応答や疑問を引き取る形で進められるものだったから、一層その感を強くしたのかもしれない。ハーバードのサンデル教授の講義をテレビで見たときの感想にも似て。

 会場の質問も少なそうだったので、思い切って加藤陽子教授の上記著作についての感想を聞いてみた。ちょっと残念だったのだが、関原氏は、書店で話題の書として立ち読みをしてみたが、自分の考えとは相容れないことが分かったので、買いもせず、それ以上読むこともなかった…とのことだった。また、会場からは、質問の答えになるかどうかといって「山川の日本史Bの教科書の執筆者に加藤陽子さんの名前がありますよ」と教えてくださった人がいた。

 現在の教科書の一端をプリントのコピーで知り、読んでみると、戦争の記述はほとんどが「勃発」始まり、「戦局」の推移に終始することが多いのに気付いた。これだけ読んでいたのでは、なぜ戦争が起こったのか、戦地の実態や兵士の実情が見えてこないだろう。姜氏は、司馬遼太郎は朝鮮史の現実を知らず、朝鮮の犠牲の上に成り立った日本のナショナリズムを語っているに過ぎない、と漏らしていた。関原氏は、開国から日清・日露戦争に至る日本近代史像について、司馬遼太郎が描く『坂の上の雲』は、植民地になるか、富国強兵により帝国主義国に並ぶか、二つの方法しかなく、日本が後者の道を選び、国際的地位を向上させたというサクセスストーリーに仕上げているが、教師としては、生徒たちに「別の道」を考えさせたい、と結んでいた。

 会場を出ると、目白の森はすでに暮れ、オープンキャンパス終了の放送が流れていた。大学卒業後、ともかく2年間働いた、最初の職場が学習院大学だった。青春の思い出に浸るには、やや重いシンポジウムであった。 

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