2023年8月31日 (木)

「雨の神宮外苑~学徒出陣56年目の証言」(2000年)における「加害」の行方

江橋慎四郎

 前の記事をアップしたあと、どうしても気になっていたのが、神宮外苑の学徒出陣壮行会で、学徒を代表して答辞を読んだ江橋慎四郎(1920~2018)であった。その答辞は漢文調で、番組で聞いただけではすぐには理解できないところも多かった。後で資料を見ると「生等今や、見敵必殺の銃剣をひっ提げ、積年忍苦の精進研鑚を挙げて、悉くこの光栄ある重任に獻げ、挺身以て頑敵を撃滅せん。生等もとより生還を期せず。」の「生等もとより生還を期せず」がいろいろと問題になっていることを知った。「生等(せいら)」というのも聞き慣れない言葉だったが、「生還を期せず」と誓った本人が、戦後、生還したことについて、いろいろ取りざたされたらしい。

 江橋は、出陣後の12月に陸軍に入隊、航空審査部に属し、整備兵として内地を転々、滋賀で敗戦を迎えている。戦後は、文部省を経て、東大に戻り、研究者の道を選び、「社会体育学」を専攻している。東大教授などを務めた後、国立の鹿屋体育大学創設にかかわり、1981年初代学長となっている。この間、「生還」したことについてのさまざまな中傷もあったりしたが、反論もせず、学徒出陣や兵役について語ることはなかったという。

 ところが90歳を過ぎた晩年になって、マス・メディアの取材にも応じるようになった。その一つに「終戦まで1年9カ月。戦地に向かうことはなかった。代表を戦死させまいとする軍部の配慮はあったかもしれない。ただ、当時はそう考える余裕もなかった」、 「僕だって生き残ろうとしたわけじゃない。でも、『生還を期せず』なんて言いながら死ななかった人間は、黙り込む以外、ないじゃないか」と語り、記事の最後では、「自分より優秀な学生もいたが、大勢が亡くなった。自分が話すことが、何も言えずに亡くなった人の供養になる。最近そう思っている」と結ぶ(「学徒出陣70年:「生還期せず」重い戦後 答辞の江橋さん」『毎日新聞』 2013年10月20日)。
 亡くなる前年の2019年になって、『内閣調査室秘録―戦後思想を動かした男』 の刊行に至った志垣民郎の心境と共通するものが伺える。

田中梓さん

壮行会に参加し、「雨の神宮外苑」に出演の田中梓さんが、今年の1月に99歳で亡くなっていたことを、数日前に届いた「国立国会図書館OB会会報」73号(2023年9月1日)で知った。田中さんは、私が11年間在職していた図書館の上司だった。 といっても部署が違うので、口をきいたこともなく、管理職の一人として、遠望するだけのことだった。ここでは「さん」づけ呼ばせてもらったのだが、温厚な、国際派のライブラリアンという印象であった。

「戦争体験」の継承、「受難」と「加害者性」

 この記事を書いているさなか、朝日新聞に「8月ジャーナリズム考」(2023年8月26日)という記事が目についた(NHKのディレクターから大学教員になった米倉律へのインタビューを石川智也記者がまとめている)。前後して、ネット上で「わだつみ会における加害者性の主題化の過程― 1988 年の規約改正に着目して」(那波泰輔『大原社会問題研究所雑誌』764号2022年6月
http://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/764_05.pdf)を読んだ。後者は、一橋大学での博士論文のようである。

(1)「8月ジャーナリズム考」(『朝日新聞』2023826日)
「8月ジャーナリズム」を3つに類型化して、①過酷な「被害」体験と「犠牲」体験を語り継ぐ「受難の語り」 ②戦後民主主義の歩みを自己査定する「戦後史の語り」 ③唯一の被爆国として戦争放棄を誓った「平和主義の語り」とした。「ここでは、侵略、残虐行為、植民地制覇などの『加害』の要素は完全に後景化しています。描かれているのは、軍国主義の被害者となった民衆という自画像です」と語り、「受難の語り」に偏重、「加害の後景化」への警鐘だと読んだ。「後景化」というのも聞き慣れない言葉だが、「後退」の方が十分伝わる。「加害」の語りが活発になったのは、戦後50年の1995年前後、歴史教科書問題、従軍慰安婦訴訟などを通じて戦争責任や歴史認識を問い直す記事や番組が多くなったが、それが逆に、右派からの激しい抗議や政府の圧力や新保守主義の論者の批判によって記事や番組は萎縮して、現代に至っていると分析する。

 しかし、私からすれば、外圧によって萎縮したというよりは、たとえば、NHKは、自ら政府の広報番組と紛うばかりのニュースを流し続けている。加えて、「受難」の語りに回帰したというよりは、むしろ積極的に昭和天皇や軍部、政治のリーダーたちの苦悩や苦渋の選択に、ことさらライトをあてることによって、加害の実態を回避しているようにしか見えないのである。「忖度」の結果というならば、番組制作の現場の連帯と抵抗によって跳ね返す力を見せて欲しい。そのあたりの指摘も見えない。現場から離れたNHKのOBとしての限界なのか。 NHKの8月の番組を見ての違和感やモヤモヤの要因はこの辺にあるのだろう。

 ここで、余分ながら、NHKのアナウンサーや記者、ディレクターだった人たちが定年を前に、民放のアナウンサーや報道番組のコメンテイター、大学教員となって辞めていく人々があまりにも多い。NHKは、アナウンサーや大学教員の養成機関になってはいないか。私たちの受信料で高給を支払い、年金をもつけて、養成していることになりはしまいか。受信料はせめてスクランブル制にしてほしい所以でもある。

2)那波泰輔「わだつみ会における加害者性の主題化の過程― 1988 年の規約改正に着目して」(『大原社会問題研究所雑誌』76420226月)
 那波論文は、「わだつみの会」の変遷を ①1950~58年『きけわだつみのこえ』の出版を軸に記念事業団体の平和運動体 ②1959~戦中派の知識人中心の思想団体 ③1970~天皇の戦争責任を鮮明にした運動体 ④1994~『きけわだつみのこえ』の改ざん問題で、遺族のらが新版の出版社岩波書店を訴えたことを契機に戦後派の理事長が就任した運動体 と捉えた。とくに、第3次わだつみ会の1988年になされた規約改正の経緯を詳述し、人物中心ではない、組織や制度からの分析がなされている。

 規約改正とは、以下の通りで、「戦争責任を問い続け」が挿入されたことにある。
・1959 年 11 月(改正前) 第二条 本会はわだつみの悲劇を繰り返さないために戦没学生を記念し,戦争を体験した世代と戦争体験を持たない世代の協力,交流をとおして平和に寄与することを目的とする
・1988 年 4 月(改正後) 第二条 本会は再び戦争の悲劇を繰り返さないため,戦没学生を記念することを契機とし,戦争を体験した世代とその体験をもたない世代の交流,協力をとおして戦争責任を問い続け,平和に寄与することを目的とする

 1988年以前から、天皇の戦争責任のみならず戦争体験者の加害者意識の欠如や戦争責任に対しての不感性を指摘する会員もいたが、この時期になって、会の担い手は戦後派が多くなり、会員の対象を拡大、思想団体を越えて行動団体への移行を意味していた、とする。さらに、「現在のわだつみ会は、さまざまな会の規約改正が政治問題にコミットし、戦争責任や加害者性にも積極的に言及しており、こうした現在の方向性は1980年代の会の規約改正が影響を与えている」とも述べる。
 しかし、現在のわだつみ会の活動は、私たち市民にはあまり聞こえてこないし、時代の流れとして、先の(1)米倉律の発言にあるように、戦争責任の追及や加害者性は、今や後退しているのではないだろうか。 

 余分ながら、那覇論文にも、学徒兵と他の戦死者を同列に扱うことによって「学徒兵がわだつみ会の中で後景化した」という記述に出会った。若い研究者が、好んで使う「視座」「通底」「切り結ぶ」などに、この「後景化」も続くのだろうか。

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8月の半ばに、2週間ほど続けてゴーヤをいただいた。ご近所にもおすそ分けして、冷凍庫で保存できると教えていただいた。ワタを除いて刻み、ジッパーつきのポリ袋に平らに詰めて置けばよいということだった。なるほど。

 

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2023年8月19日 (土)

NHKの8月<終戦特集>散見(2)「アナウンサーたちの戦争」と「雨の神宮外苑―学徒出陣56年目の証言」

「雨の神宮外苑~学徒出陣56年目の証言」(2000年)

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   サブタイトルに「56年目の証言」とあるように、2000年8月の放映であった。雨の神宮外苑の学徒出陣のシーンは断片的には見ていたが、番組は、今回初めてである。新しく見つけたフィルムは15分で、それまでのニュース映像の約3倍ほどもあったという。行進中の学生のクローズアップや観客席に動員されていた学生、女子学生に、陸軍戸山学校の軍楽隊の様子まで撮影されていた。学生の表情からは、悲壮な覚悟が伺われ、ぎっしり埋まった観客席の俯瞰は、北朝鮮のイベント映像を見るようであった。

 1943年10月21日、文部省主催の「出陣学徒壮行会」に参加した。学生は、77校から2万5000人といわれ、5万人の観衆が動員され、多くの制服の女子学生たちも観客席から声援を送った。番組に登場する証言者の十人近くみなが70代後半で、見送った側の3人の女性は、70代前半だった。

 証言するほとんどの人が、あたらしいフィルムを見て、あらためてマイクの前で、当時の自分の気持ちと現在の思いをどう表現したらいいのかを戸惑いながら、語る言葉の一つ一つが、重苦しく思えるのだった。生きては帰れないという怖れ、時代の流れには抗することができない諦め、地獄のような戦場の惨状・・・複雑な思いが交錯しているかのようだった。

 また、同盟通信社の記者だった人は、東条英機首相が、学徒出陣に踏み切った理由として、二つの理由を挙げていた。一つは、学生への兵役猶予の見直しの必要性であったし、一つは、当時は大学生といえばエリートで、富裕層の子弟にも兵役についてもらうことによって、下層家庭からの不満を解消し「上下一体」となることであったという。

 ただ、多くの証言の中で、この番組でもっとも言いたかったことは何だったのだろう。私には疑問だった。証言者の中で、語る頻度が一番多く、番組の大きな底流をなすように編集されていた、志垣民郎という人の証言だった。彼はよどみなく、戦争は始まってしまったのだから、国民の一人として国に協力するのは当然なことで、大学でも、自分たちだけ勉強していていいのかの思いは強く、戦争に反対したり、逃げたりする者はいなかった・・・と語るのだった。この人、戦後は、どこかの経営者にでもなった人かな、の雰囲気を持つ人であった。どこかで聞いたことのあるような名前・・・。番組終了後、調べてみてびっくりする。復員後、文部省に入り、吉田茂内閣時の1952年、なんと総理大臣官房内閣調査室(現内閣情報調査室)を立ち上げたメンバーの一人だったのである。1978年退官まで、内調一筋で、警備会社アルソックの会長を務めた人でもある。2020年5月97歳で亡くなるが、その前年『内閣調査室秘録―戦後思想を動かした男』(志垣民郎著 岸俊光編 文春新書 )を出版、敗戦後は左翼知識人批判に始まり、学者・研究者を委託研究の名のもとに左翼化を阻止したという始終を描く生々しい記録である。番組での発言にも合点がいったのである。

もうひとり、作家の杉本苑子も出演していて、動員されて参加したのだったが、学生が入場するゲイト附近で、なだれを打って声援をした思い出を語っていた。当時は許される振る舞いではなかったものの、気持ちが高ぶっての行動だったが、学徒へのはなむけにはなったと思いますよ、といささか興奮気味で話していた。が、彼女を登場させたことの意図が不明なままであった。

 そして、エンドロールを見て、また驚くのだが、制作には永田浩三、長井暁の両氏がかかわっていた。二人は、2001年1月29日から4回放映されたETV特集「戦争をどう裁くか」の「問われる戦時性暴力」への露骨な政治介入の矢面に立つことになる。さらに、その後の二人の歩み、そして現在を思うと複雑な思いがよぎるのだった。

  8月も半ばを過ぎた。その他『玉砕』(2010年)、『届かなかった手紙』(2018 年)などの旧作も見た。今年も<昭和天皇もの>が一本あったが、まだ見ていない。平和への願いを、次代に引き継ぐことは大切だ。でも、過去を振り返り、そこにさまざまな悲劇や苦悩を掘り起こし、悔恨、反省があったとしても、現在の状況の中で、いまの自分たちがなすべき方向性が示されなければ、8月15日の天皇や首相の言葉のように、むなしいではないか。表現の自由がともかく保障されている中で、NHKは、ほんとうに伝えるべき事実を伝えているのか。他のメディアにも言えることなのだが。近々では、統一教会然り、ジャニーズ然り・・・。

 

 

 

 

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2023年8月17日 (木)

NHK8月の<終戦特集>散見(1)「アナウンサーたちの戦争」と「雨の神宮外苑 学徒出陣56年目の証言」

「アナウンサーたちの戦争」(2023年)

「アナウンサーたちの戦争」は、前評判の高いドラマであった。アジア太平洋戦争下のNHKアナウンサーたちの「葛藤と苦悩」を描くというもので、実在のアナウンサーが実名で登場する。
 私も、これまで、若干、NHKの歴史について調べたことがあったので、関心も高かったが、とくに目新しい展開はなかった。ただ、神宮外苑の学徒出陣の中継は、和田信賢の担当だったが、マイクの前で絶句、隣の志村正順に手渡して、その場を去り、学生たちの行進に悶絶するという場面だった。というのも、事前に、多くの学徒たちに取材し、「死にたくない」と涙ながらの本音を引き出していたからであり、それを原稿には反映できないまま、徹夜で仕上げた原稿を前に、語り出せなかったという設定であった。また、一つは、国策の「宣伝者」、プロパガンダこそが任務として「雄叫び派」の先頭に立っていた館野守男が、インパールで<死の行進>を目の当たりにして、帰還後は一転する。館野の変容は事実ではあったことは、どこかで読んだことがある。
 ただ、和田の一件は、はじめてだった。いまのNHKは、ドキュメンタリーでもドラマでも、平気で史実を曲げることが多いし、編集で都合の悪いところは切ってしまうのが日常だから、この辺は調べてみたい。
 なお、学徒出陣の中継を担当したアナウンサーについては、思い出すことがある。敗戦直後、我が家にはミシンがなく、洋裁が苦手だった母は、自分の着物をほどいたものや安い生地が、闇市で手に入ったりすると、近所のKさんという洋裁の得意なおばさんに、寸法を測ってもらって、ジャンバースカート、ワンピース、トッパ―?などをしつらえていたことがあった。駄菓子屋の裏手に間借りをしていた。これは母からのまた聞きなのであるが、Kさんは苦労人で、先のアナウンサーとは離婚して、子どもを自分の手では育てられなかったと。当時はまだラジオだけだったが、それでも、はなやかな職業の人にも、いろんなことがあるのだと、子ども心に知った。現在でも、NHKの職場はどうなっているんだと思うような、過労死あり、不倫あり、ストーカーあり、ひき逃げあり、・・・。

 戦時下のNHKの報道のニュースソースはすべて、国策に沿った同盟通信社であったから、大本営発表の嘘を平気で放送した。それに、現在のように「記者」はいなくて「放送員」というアナウンサーが原稿を書いていた時代である。だから、アナウンサーに問われるのは、いわゆる「淡々調」か「雄叫び調」にとどまらない、放送内容に深くかかわっていたのである。館野は、敗戦後は解説委員になっている。

 それにしても、登場のアナウンサーたちは、みんなどこか”かっこよく“、美談を背負ってソフトランディングをしているではないか。占領下のNHKはGHQとどう対峙してきたのか。独立後は、そして現在は、表現の自由が憲法に定められているのにもかかわらず。ETV特集「国際女性法廷」、クローズアップ現代「郵政簡保」、統一教会報道などに見る、政府からの圧力、政府への忖度は後を絶たない。
 現在のNHKのアナウンサーは民放に移ったり、フリーになったり、定年後はコメンテイターや大学教員になったりと華やかながら、報道やエンターテイメント番組にしても、その劣化は著しく、国営放送と見まがう国策報道に徹し、ジャニーズのタレントを登用し続け、民放で人気になったタレントを引き入れるのは日常茶飯である。

 なお、和田、館野の上司である米良忠麿がマニラ放送局を死守して亡くなるのだが、赴任中、家族にあてた手紙や絵はがきが残っており、放送文化研究所に寄贈されている。その一部が、「アナウンサーたちの戦争」のWEB特集で紹介されている。日本映画社の友人がフィルムの航空便で日本に送り、家族に届けられた、検閲なしのたよりだった。日本の占領下にあるマニラの町の人々や戦局悪化の中での暮らしの様子などが、うかがい知ることができる貴重な資料にもなっている。

☆☆☆☆☆2023年8月14日 午後10:00~11:30☆☆☆☆☆

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【作】倉光泰子 【音楽】堤裕介 【語り】橋本愛 (和田実枝子役)【取材】網秀一郎 大久保圭祐【演出】一木正恵【制作統括】新延明
【出演者】森田剛(和田信賢アナ) 橋本愛(和田実枝子アナ) 高良健吾(館野守男アナ)浜野謙太(今福祝アナ) 大東駿介(志村正順ア ナ) 藤原さくら(赤沼ツヤアナ) 中島歩(川添照夫アナ)渋川清彦(長笠原栄風アナ) 遠山俊也(中村茂アナ)古舘寛治(松内則三アナ) 安田顕(米良忠麿アナ) ほか

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2020年10月19日 (月)

「エール」で「NHKはウソをつきません」というセリフがありましたが ~「NHK森下経営委員長の義務違反の究明を求める」請願書を国会に提出へ

 朝ドラ「エール」は急展開の上、先週、敗戦後になりました。10月16日放送で「鐘の鳴る丘」の作者、菊田一夫と思われる人物とNHK職員との会話で、職員が「NHKですからウソをつきません」とのセリフが飛び出した。これって、その演出も、まさしく自虐ネタと思われるフシがあった。スポニチもウェブで流していたが。というのも・・・。   

 放送法では、個別の番組には介入してはいけないはずのNHK経営委員会が、かんぽ生命保険の不正販売を報じた番組に対して、当時の上田NHK会長に「厳重注意」をしたこと、その経緯を示す経営委員会の議事録を公開しないことについて、多くの視聴者やメディアから批判されているにも関わらず、頬かむりのまま動かない。

 表題のような「請願書」を国会に提出するのを期して、以下のような集会が開かれます。この時期に、一見、地味に見える請願であり、集会でありますが、表現の自由を侵す重大な問題なので、国会でも十分究明して欲しいということで、衆参両院に請願書を提出することになったそうです。全国で40名近い世話人の努力で請願者は2200人を超えています。私も請願者の一人に加わりました。

       ***************

       請願書提出にあたっての院内集会 

日 時:  2020年10月26日(月) 16時~17時30分(予定)
会 場:  衆議院第二議員会館 多目的会議室(1階) 

世話人会からの出席者:
岩崎貞明(「放送レポート」編集長) 
小田桐 誠(ジャーナリスト/大学講師)
小玉美意子(武蔵大学名誉教授) 
杉浦ひとみ(弁護士)
楚山大和(「日本の政治を監視する上尾市民の会」代表)

醍醐 聰(「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」共同代表)
長井 暁(NHK・OB/大学教員)
日巻直映(「郵政産業労働者ユニオン」中央執行委員長)|

 ご出席の衆参両院の紹介議員へ請願書を提出します。なお集会参加者は、ご自身の体調管理とマスク着用などの対策をお願いいたします。 

      *************

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2020年10月14日 (水)

朝ドラ「エール」は、戦時下の古関裕而をどう描いているか

  9月末の週から「エール」は戦時下に入った。これまでのドラマの進行は、古関裕而の自伝『鐘よ鳴り響け』とも、いくつかに評伝とも、かけ離れていって、古関作曲の歌と周辺の都合のよい事実をつなぎ合わせたフィクションであることは、本ブログ記事でも、『現代短歌』の拙稿でも述べているが、戦時下に入ってからは、その度合いが一層色濃くなっている。この間、朝ドラを欠かさず見てるわけではなかったが、昼の再放送、土曜日のまとめ、NHK+などを利用して、なるべく見るようにはしていた。9月半ばの、放送再開前後の、8時半からの「あさイチ」での番組宣伝が半端ではなかった。ドラマに登場のタレントを連日ゲストとして出演させていたし、「歴史ヒストリア」などでも取り上げるという熱心さであった。

 肝心のドラマでの古関裕而(古山裕一)が、あのように立て続けに、戦時歌謡、軍歌を作曲し続けていたことだけは、隠しようもない事実なので、NHKは、そして脚本家たちは、必死になって周辺人物を作り出し、彼らに、戦争への疑問、統制・弾圧の強化、戦局の厳しさ、生活の不自由さを語らせている。今週は、従軍先の、さらにインパール作戦の前線での小学校の恩師との再会と戦死という展開を見せる。現実の古関は、ラングーンに留まり、危険な戦場には赴いていない。恩師や自分の歌をさっきまで歌っていた兵士たちが斃れていくのを目前にした古山は、恐怖と驚愕で、何かを叫んでいる?のが、10月14日のラストであった。だが、恩師との再会も戦死も事実ではない。古関裕而の妻の実家は、10人近くものきょうだいがいたが、ドラマでは、作家となる妹と軍人の妻になる姉の三姉妹という設定で、母親とともにクリスチャンということで、常に特高に監視されたり、妹の夫の家業の馬具づくり職人も入信し、馬具が軍隊に納められて、戦争に役立っていることへの疑問を語り、古山(古関)に「戦意高揚の歌は作らないで下さい」と願う場面を作ったり、商魂たくましいレコード会社や映画会社のプロデューサーは、コメディタッチで描かれたりするなかで、「国のために、戦っている兵士のために」作曲するという信念は動かない・・・。妻も、音楽教室から音楽挺身隊への転換を見せながらは、普通の家庭の主婦らしさが強調され、こんなブラウス、こんな割烹着、代用食・・・みたいな時代考証がなされているが、資料には妻・実家サイドの動向があまり見えないなか、盛りに盛ったストーリーに仕立てているように思えた。

 ドラマの古山の活躍は、さらに拡大する戦争末期に入ろうとしているが、どんな展開になるのだろうか。

 そんな折、「NHKとメディアを考える会(兵庫)」のニュース54号(2020年10月)が届いた。今号は、「ヤジと民主主義~小さな自由が排除された先に~」(北海放送制作 2020年4月26日放送)がギャラクシ賞報道活動部門優秀賞、日本ジャーナリスト賞の受賞を記念しての、24頁に及ぶ再録特集であった。連れ合いに送られてくる、この兵庫の会の会報とその活動ぶりには目を見張るものがあって、感心していたのだった。その会員のどなたかの目に留まったのか、先の本ブログ記事で紹介した拙稿「古関裕而はだれにエールを送ったのか」(『現代短歌』2020年11月号)の要約版を会報に載せたいとの依頼があったのだ。 
 表を含めて3頁をとってくださったのである。以下要約版ではあるが、ぜひ読んでいただきたく、ここにPDF版を掲載した。この作業の中で、雑誌での私の校正ミスをただすことができた。『現代短歌』の「古関裕而作曲の戦時歌謡の主な公募歌・委嘱歌一覧」89頁、「防空青年の歌」の作詞者は「柴野為亥知」であった。お詫びして訂正したい。

ダウンロード - e585b5e5baabe381aee4bc9ae3838be383a5e383bce382b9no54ke7a2bae5ae9ae78988e58fa4e996a2e8a395e8808c.pdf

下記の画像を拡大するか、上記のPDF版をご覧ください。

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2020年7月29日 (水)

古関裕而をめぐる動きから目を離せない(2)

 さまざまなエピソードで盛り上げるのは

 朝ドラ「エール」がきっかけになって、古関出身の福島市、福島県では、「古関裕而記念館」や地元の新聞や放送局、観光協会などが、「郷土の偉人」をめぐる情報やイベントを盛り上げている。先の「あなたが選ぶ古関メロデイー」の企画もそうであったが、つぎのような記事もあった。 

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「東京新聞」2020年1月23日

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『毎日新聞』2020年5月28日

 また、「中国新聞」では、つぎのような長い記事がネットで見られる。広島への原爆投下の一年後に古関はつぎのような歌詞での作曲を依頼されていたことがわかり、どこにも音源は残っておらず、古関裕而記念館でも把握していない作品であったという。
 1946年、原爆投下一周年という時期に「中国新聞」が「歌謡ひろしま」を公募して、その当選作を古関裕而が作曲している。「中国新聞」デジタルでは次のように伝えていた。

「原爆投下の翌年、広島の復興を願う歌が生まれた。「歌謡ひろしま」。被爆から1年の事業として中国新聞社が歌詞を公募した。曲を付けたのが古関である。「声も高らに 歌謡ひろしま」「古関氏鏤骨(るこつ)のメロデー完成」。そんな見出しとともに、歌は1946年8月9日付の朝刊で発表された。記事には古関のコメントも載る。「作曲にも苦心して何処でも誰にでもうたへるやうにした」。力の入れようが分かる。」

古関裕而を探して 戦没者への鎮魂の「鐘」
(2020年1月3日)
https://www.chugoku-np.co.jp/culture/article/article.php?comment_id=615326&comment_sub_id=0&category_id=1163

  つぎの公募歌発表当時の新聞記事1946年8月9日の写真によれば、五番までの歌詞と楽譜がっ掲載されているが、著作権法に触れるかもしれないので、ここでは、一~三番を再録する。作詩の入選者山本紀代子は、長男を原爆で亡くした歌人と報じられているが、調べてみると、当時の中国新聞社員で歌誌「真樹」を主宰していた歌人山本康夫の妻であることも分かって、私は少々驚いた。五番まである歌詞は、作曲者古関の「談」では「品があって、むづかしくなく、だれにでも歌える立派な」と評されていたが、その歌詞の内容の「軽さ」に、私はいささか違和感を覚えたのである。当時の市民たちの暮らしや気持ちからはかけ離れているようにも思えた。やがて、市民からも忘れ去られていったのではないか。それにしても、古関の変わり身の早さというか、「いつでも、どこでも、誰にでも」エールを贈っていることについての自覚があったのだろうかと。「歌謡ひろしま」(山本紀代子作)には、「誰がつけたかあの日から/原子砂漠のまちの名も/いまは涙の語り草」とか、「七つ流れの川も澄む/平和うつして川も澄む」などの文言が見える。

 以上のように、あちこちでの新聞記事やNHKの番組宣伝によっても量産・拡散される古関情報がもたらすものは何なのか。きっと、あの「戦時歌謡」も、さまざまなエピソードが付されて、「国民的な、天才作曲家」像が作られてゆくのだろう。 

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『赤旗』は、朝ドラ「エール」への応援が半端ではなく、<今週の「エール」>みたいな紹介もある。NHKにも”いい番組”がある、とのスタンスを崩さない。その報道の政府広報ぶりを改めさせなければ、受信料をとっての公共放送ではありえないのではないか

************   ようやく図書館から借り出せた、戸ノ下達也『音楽を動員せよ 統制と娯楽の十五年戦争』(青弓社 2008年2月)を何とか読み終えた。もっと早くに読むべき本だったと痛感しながら多くを教えられた。いまは『第三帝国の音楽』(エリック・リーヴィー著 望田幸男ほか訳 名古屋大学出版会 2000年12月)という翻訳書を読み始めている。私には、カタカナの人名や地名、曲名などが錯綜し、なかなか進まない。著者は序文で、ナチス時代の音楽活動に関する研究が進まない要因として、学術的資料が乏しいことと20世紀のドイツ音楽界の指導層の一貫性をあげている。つまり、ナチスの反ユダヤ主義政策は、たしかに影響力のある人たちを追い立てたが、「大多数の音楽家たちはナチスのもとにとどまることを選択し」、成功を収めた。そして、彼らの多くは、「戦後ドイツにおいても影響力の地位を保持したので、彼らとナチ体制との個別的関係を立ち入って調査することを妨げるのに多大の努力を払ったのである」と述べていたのである。ナチスの戦争犯罪に時効はないと、現在でも追及し続ける、あのドイツにおいてさえも、の思いしきりなのである。一体どういうことなのか、読み進めねばならない。

 

 

 

 

 

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古関裕而をめぐる動きから目を離せない(1)

                                      

なぜ古関裕而なのか

 私は、学生時代から短歌を作っていたが、30代になって、戦時下の歌人たちが発表した短歌や動向に触れることがあって、時代の大きなうねりに呑み込まれ、大政翼賛的な短歌や評論が横行していたことを知った。また、そうした歌人たちの、敗戦後の「平和な」「自由な」時代においても変わらず活動も続けていたと知ることになった。そして、現代の歌人たちが、その先人たちの作品や評論をたどるとき、戦時下の作品や活動には目をつむるようにして、それを語ることをタブー視するのが大方の流儀となった。そればかりか、その歌人の戦時下の作品や活動について、言論が不自由な時代に、時代と真摯に向き合い、国や天皇に報いたとて、批難されるべきものではなく、困難な時代の営為を評価するという流れさえ生まれてきた。いまさら、戦争責任を云々するのは、時代遅れの、野暮なことでもあるかのような風潮もある。ましてや、短歌と天皇制との関係に触れようとすると、ここまで国民の間に定着してきた象徴天皇制に言及することも、同様に忌避されるようになった。

 最近の投書から

 そうした「歌壇」の動向と今回の古関裕而をモデルとするNHKの朝ドラ「エール」をめぐるさまざまな言動とが重なって見えるのだった。たまたま、目に留まった投書があった。
 朝ドラ「エール」が3月末に始まるが、その1月に、古関の出身地の地元紙「福島民報」社が主催し、レコード会社などが共催する古関裕而生誕110周年記念「あなたが選ぶ古関メロディーベスト30」の企画が東京新聞にも発表された。その東京新聞の投書「古関氏の多面性伝えて」(「ミラー」欄、59歳男性、2020年1月22日)は、以下のように訴えていた。東京新聞の記事は古関の応援歌や戦後の歌謡曲ばかりを代表作として紹介していたが、彼は軍歌を量産し、国家総動員体制を支える積極的な役割を果たした人であることに一切触れていなかったことには違和感を覚えた。各時代において音楽が果たした役割や人間性の多面性についても伝えてほしいというものだった。
 また、最近では、朝日新聞「声」欄の「平和のバトン」企画として、古関の歌にまつわる三人の投書が並んで掲載されていた(2020年7月25日)。まず、「若鷲の歌(予科練の歌)」にまつわる「元予科練生 古関作品に万感」(91歳男性)、「「若鷲の歌」あこがれと現実」(90歳男性)の二つで、前の方は1944年夏中学三年生のときに「海軍甲種飛行予科練習生」を志願、「敗戦後、(生き残った)予科練生のたどった道は複雑であった。背後の数多の先輩の死を背負って生きていった。古関先生も同様であったろう」とし、両者の思いを一つにまとめて、鎮魂の交響曲「予科練」を創ったらどうか、というものであった。後の方は、「七つボタン」にあこがれて、「東京陸軍少年飛行兵学校」での訓練の現実は厳しいものだったことを語った。卒寿を迎えた二人の「少国民」の声を真摯に受け止めたいと思う一方、バトンを受け取った者たちは、「鎮魂」という形とは別に、あの戦争が、負け戦が、かくも長く続いたのかの史実を掘り起こし、検証することが大事ではないかと思った。まだやり尽くしてないことがたくさんあるように思う。

 私は、数年前、友人たちと茨城県阿見町にある「予科練平和祈念館」の見学に出かけたことがある。霞ケ浦海軍航空隊におかれた海軍飛行予科の練習生、予科練の少年たちの生活や心情に迫る展示が印象的ではあったが、特攻隊として死に直面する極限状況におかれた若者たちをノスタルジックに、情緒的なスタンスで展示されてはいないかが不安になった。1944年6月から数週間、少年たちと生活を共にしながら写真を撮り続けた、あの土門拳の大量の作品の行方が知れず、自ら処分したのではないかとも聞かされた。展示されているのは、たまたま病床あった練習生に届けられた写真42枚が空襲にも遭わず残されたものであることが分かったのである。

<参照記事>
雨の霞ケ浦~吉崎美術館の高塚一成個展と予科練平和記念館と(2)
(2015年10月15日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/10/post-3abf.html

 もう一つの投書というのは「『長崎の鐘』に永井博士を思う」(77歳男性)と題するものであった。投書者は、永井隆と同郷で「長崎の鐘」は「被爆者治療に身を捧げた永井博士の生涯をたたえた曲」で、時代を超えて引き継がれている「長崎の鐘」を聞くと胸がいっぱいになり、朝ドラ「エール」でその曲が流れるのを心待ちにしているという主旨であった。

サトウハチロー作詩、古関の作曲になる「長崎の鐘」については、最近の私のブログでも書いた通り、この歌の背景には、かなり深刻な問題が潜んでいることを忘れてはならないと思う。

<参照記事>
「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くのか(3)
(2020年5月31日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/05/post-48157e.html

 「長崎の鐘」の歌詞は、長崎原爆投下の犠牲者にささげた鎮魂の歌とされているが、モデルとなった永井隆の『長崎の鐘』(1941年1月)は、GHQの検閲下、半分近くの頁を日本軍のマニラにおけるキリスト教徒虐殺の記録「マニラの悲劇」の記事に割く本として出版された。この著書はじめ、永井は「浦上への原爆投下による死者は神の祭壇に供えられた犠牲で、生き残った被爆者は苦しみを与えてくださったことに感謝しなければならない」と繰り返し、原爆投下の責任を一切問うことをしていない。そして、これらの言説が、長崎のカソリック信者たちを、長い間、呪縛し続けたという。

 私自身は、信ずる神を持たないが、カソリックで、教会内部でのパワハラなどとも戦っている、若い時の歌友からは「浦上への原爆投下は『神の摂理』であり、死者は祭壇に供えられた犠牲であり、生き残った者には愛するゆえに苦しみを与えてくださったことに感謝しなければという考えは、カトリック教会の中ではいまでも罷り通っています。私自身、引き続く天災地変やウイルス禍を『神の怒り』と捉えたこともあります。そう捉えるのが簡単だからでしょうか。これまた反省してやみません」との感想もいただいたところである。

<参照記事>
長崎の原爆投下の責任について<神の懲罰>か<神の摂理>を考える
(2013年5月30日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/05/post-15f2.html

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2020年6月26日 (金)

びっくり仰天、ここまでやるか、NHK「エール」の番宣!

 古関裕而がモデルという、朝ドラ「エール」の“喜劇的”な展開には、驚いている。自伝や評伝ともかなり異なるストーリーになっているのは確かである。私の漫画歴は、「サザエさん」どまり、近くでは、雁屋さんの「美味しんぼ」や天皇制をテーマにした劇画を少しばかりかじった程度なので、最近の状況はわからない。「漫画的」といっては叱られるかもしれないが、幽霊が出没したり、役者が気の毒なるような誇張した振付けだったりで、もううんざりしているさなかだった。理由の詳細は知らないが、最初の脚本家が降板したのもわかるような気がする。

 その上、さらに驚いたというのは、「エール」の短い番組宣伝のスポット番組に登場した丸山明宏篇(現在は美輪明宏と改名しているらしい)と、かのデヴィ夫人篇だった。他にもあるのかもしれないが、とりあえず、私が6月21日、22日に見た二つの番組を紹介しよう。

 一つは、「長崎の鐘」の紹介で、あのキンキラキンの衣装で、自らの被爆体験と永井隆体験を通じて、丸山は、鎮魂の歌、平和を願う歌として高く評価した。歌「長崎の鐘」の成り立ちと永井隆については、当ブログでも、すでに触れたように、永井隆のエッセイが世に出た経緯やアメリカ、GHQの原爆投下、被爆状況の実態の隠ぺい対策を語らずに、永井隆にまつわる「悲しい美談」の増幅、サトウハチローの情緒的な歌詞に支えられた古関メロディーであったことを忘れてはならない。丸山の胸には、十字架のペンダントが光っていたが、永井の言葉に苦しみ続けた信者たちは、どう思うだろう。

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一つは、「愛国の花」の紹介で、どういうわけか、部屋いっぱいの胡蝶蘭の鉢を背に、現れたのがデヴィ夫人だった。インドネシアの大統領スカルノの第三夫人だったというタレントであることは知っているが、スカルノが愛したという「愛国の花」のインドネシア語訳を歌って見せた。インドネシアと日本との親交の証だという。「日本の国の花、さくら、インドネシアにはジャスミンという国の花があり、同じように花を愛でる気持ちでアジアは一つになる」という解説もする。

愛国の花 (1938年 福田正夫)

真白き富士の けだかさを/こころの強い 楯(たて)として
御国(みくに)につくす 女(おみな)等(ら)は/輝く御代の やま桜
地に咲き匂う 国の花  

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   そもそも「愛国の花」は上記に見るように、国のため、天皇のために尽くす銃後の女性たちを「花」にたとえた歌である。そして、1942年3月、日本軍がオランダ植民地だったインドネシアに侵攻、日本軍政下においては、オランダ語使用の禁止、インドネシア語を公用語としながら、日本語教育の一環として国民学校から大学では教科として、社会人には職場での実用日本語教育に力を入れた。その教育の手段の一つが日本の歌―童謡や戦時歌謡、軍歌であったのである。インドネシアの独立運動やナショナリズムの気運を利用する形で、指導者のスカルノらを取り込んだが、連合軍と闘う中で、多くの強制労働者ロームシャや犠牲者を出すことになる。このような背景を無視して、「愛国の花」にまつわる、日本とインドネシアのエピソードとして語らせる歴史認識は、戦時下のNHKと変わっていないのではないか。なお、知人からの情報によると、敗戦直後にスタートしたNHKの「婦人の時間」のテーマ曲が「愛国の花」のメロディだったそうである。

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  なお、この「愛国の花」は、現在でも、自衛隊のイベントや音楽祭、地域でのさまざまなイベントにおいて、陸海空の中央音楽隊はじめ、各地域での音楽隊による演奏が行われ、三宅由佳莉三等海曹、中川麻梨子海士長らによる歌唱が通常に行われているのが、you tube などで聞くことができる。イベントの司会者などからは、往年のヒット曲で、「現在も東南アジアの各地で愛唱されています」との紹介があるのみで、上記のような背景は語られることはない。

   ということは、戦時下の軍国主義や天皇制について、なんのわだかまりもなく、現在も歌い継いでいる、歌い継がせようとするメディアや自衛隊、それに異議を申し立てることもない人々、日本は変わってないのだな、だから、こんな体たらくの政権が倒れることもなく続いているのだとつくづく思う。

 

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2020年6月17日 (水)

「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くのか(8)

短歌の歌謡曲と朗読と

 古関裕而について書き続けていると、キリもなく、伝えたいことは、満載なのだが、もうこの辺で終わりにしたい。なお、今回の作業で、興味深い一件があった。というのは、古関が有名な歌人の短歌に曲をつけて、レコード化していたことだった。

 一つは、敗戦まもない、1947年3月放送のラジオドラマ「音楽五人男」の主題歌として、藤山一郎が歌った「白鳥の歌」である。これは若山牧水の「白鳥はかなしからずや空の青海の青にも染まずただよふ」に曲をつけたものである。その後、47年6月3日公開の映画『音楽五人男』(東宝、小田基義監督)では、「夢淡き東京」(サトウ・ハチロー作詞/藤山一郎・小夜福子)などの主題歌とともに挿入歌として「白鳥の歌」(藤山一郎・松田トシ)歌われたのは、「幾山河越えさり行かばさびしさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」「いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのさびしさに君は耐うるや」の2首も加えられた3首で、レコードにもなった。当時にあっても愛唱性の高い人気の3首であったのだろう。

 一つは、芸術座公演「悲しき玩具」(1962年10月5日~27日、菊田一夫作・演出)の舞台で流された伊藤久男による石川啄木の「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたわむる」を含む17首で、同年LP盤で発売されている。短歌を選んだのは菊田で、作曲者の古関ではなかったらしい。古関は、短歌は、短すぎて曲がつけにくいと漏らしていたそうだが、17首の中の何首かの第五句が繰り返されている。実際の舞台ではどのように流されていたかはわからないのだが、ネット上で聴くかぎり、30分近くかかり、一首一首のつながりがなく、似たような間奏で歌い継がれるのだが、気分的にも盛り上がりがないように思えた。ただ古関裕而自身は、この「白鳥の歌」が自信作であったらしい(辻田⑦219頁)

 もう1件は、長崎医科大学で放射線医学を専門とする永井隆は、自らの白血病とも闘いながら、原爆の被災地長崎と原爆症患者たちの治療にあたる様子を記したエッセイ集『長崎の鐘』(日比谷出版社 1949年1月)にまつわる短歌だった。この書をモチーフに、サトウ・ハチローが作詞し、古関作曲の1949年7月に発売した「長崎の鐘」(藤山一郎)に感銘を受けた永井から、返礼として、つぎの2首が届けられたという。

・新しき朝の光りのさしそむる荒野に響け長崎の鐘
・原子野に立ち残りたる悲しみの聖母の像に苔つきにけり

それに曲をつけたものが「新しい朝の」であった。1950年9月22日に公開された映画『長崎の鐘』(松竹、大庭秀雄監督)の主題歌ともなった。ただ、「長崎の鐘」の歌詞も映画の物語も、長崎の原爆投下の経緯と原爆の犠牲者たちの実態に直接対峙することにはならなかった。というのも、前述のようにGHQの検閲下に制作されたものであり、永井の著書出版の経緯にも、大きな制約があった。それと同時に、クリスチャンの永井隆が「浦上への原爆投下による死者は、神の祭壇に供えられる犠牲であり、生き残った被爆者は、浦上を愛するがゆえに苦しみを与えてくださったことに心から感謝しなければならない、それが神の摂理というものである」と繰り返したことで、後の反核運動や多くのカトリック信者や被爆者たちは、その呪縛から逃れられなかったという。GHQによる原爆投下の責任や日本の戦争責任あいまいにし、免責へと連動していったことを思うと、「鎮魂」や「美談」では済まされない問題を内包したのではなかったか。(注)

(注)以下の過去記事も参照いただければと思う
・長崎の原爆投下の責任について~「神の懲罰」と「神の摂理」を考える (2013年5月30日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/05/post-15f2.html

 なお、今回の古関裕而のシリーズは、とりあえず終える。短歌や詩に音や声を伴ったときに、短歌や詩は、ある種の変貌を遂げるのではないか、音声表現が源流なのかと、考えてきた。かつて、短歌の朗読について、戦時下にあっては、「朗読」が推奨されていたことなどについて、当ブログでも何件か書いている。近くでは、高村光太郎についても、彼の詩が、戦時下で、どのように書かれ、発表され、NHKラジオから「愛国詩」として放送されたかについて言及したことがある。参考までにあげておこう。

 

短歌の森(*)「短歌の「朗読」、音声表現をめぐって」1~4
(初出:短歌の「朗読」、音声表現をめぐって1~11 『ポトナム』2008.3~2009.1)
「短歌の森」は当ブログ画面の左下の「短歌の森」の記事の中からお選びください  

関連文献:「暗愚小傳」は「自省」となりうるのか―中村稔『髙村光太郎の戦後』を手掛かりとして 『季論21』 46号 2019年10月                        

 

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芸術座公演の「悲しき玩具」(1962年10月)パンフレット、スタッフ・キャストには懐かしい名前。ハイシーは、我が家の薬局でもよく売れた栄養剤であった

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額縁に入った映画「長崎の鐘」のポスターを見つけて拝借。キャストにも懐かしい名前が並ぶ。左端には、音楽古関裕而の名はあるが、主題歌藤山一郎の文字は見当たらない。なお、脚本には、新藤兼人、橋田スガ子(寿賀子)の名前が読める

 

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「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くのか(7)

  前述のように、敗戦直後、古関の活動は、菊田一夫とのコンビで、NHKのラジオドラマ「山から来た男」「鐘の鳴る丘」により再開する。「鐘の鳴る丘」の制作は、占領軍GHQの戦災孤児対策の一環としての要請であった。古関は、その主題歌の「とんがり帽子」とドラマの音楽を担当した。そして、「鐘の鳴る丘」は、私の小学生時代、リアルタイムで聞き続けた番組であったことはすでに述べた。

  その後、古関の放送界やレコード業界、演劇界での作曲活動には、華々しいものがある。古関のメロディーは、敗戦後の人々の心をとらえ、1960年代から70年代にかけては、東京オリンピック、札幌冬季オリンピックの行進曲や讃歌などによって、日本経済の高度成長期の人々の士気を高め、ときには、テレビや映画、舞台から流れるメロディーが人々の心を癒したかもしれない。すでに、紹介、引用している歌もあるが、戦時下にあっては、つぎのような歌詞の曲が盛んに流され、多くの人々に歌われた。そして、このような歌に見送られて出征し、このような歌を歌って戦場に果てた兵士たちが数え切れず、餓死や病死していった兵士が圧倒的に多いのだ。戦場には慰安婦たちもいただろう。銃後では、夫や息子のいない留守宅で頑張る妻や母もいただろう。さらに、最近こんなことも知った。植民地下の朝鮮の国民学校卒業前の少女たちを甘い言葉で募集し、いわゆる女子挺身隊として、内地、不二越の富山工場で労働を強いられていた。その少女たちが、いま年老いても、「君が代」を毎朝歌い、「勝って来ると勇ましく・・・」と歌って行進していたと証言していた。歌詞も間違いの少ない日本語で歌っていたのだ(TBS「報道特集」2020年6月13日、チューリップテレビの取材)。

  しかし、自伝や評伝を読んでいても、古関の戦時下の作曲活動が、軍部や新聞・雑誌・放送局・レコード会社の要請をそのままに受け入れていた事実に対して、多くを語らない。シリーズ記事の(6)で引いた評伝の執筆者や遺族の言葉からの聞こえてくるメッセージは以下のようなものであった。刑部は、古関の作曲になる「長崎の鐘」「フランチェスカの鐘」「ニコライの鐘」「みおつくしの鐘」など、多くのヒット曲に「鐘」が鳴り響くのは「かつて自分が作った戦時歌謡に送られて死んでいった人たちへの鎮魂と、生き残った人たちに対して、明るい希望を与えたいという想いが込められているように思えてならない」ともいう(刑部⑥184頁)。辻田は「古関の歩みとは昭和の歴史であり、政治、経済、軍事の各方面でよくも悪くも暴れまわった日本の黄金時代の記録であった。それゆえ、その生涯と作品は、音楽史やレコードファンの垣根を超えて、今後も広く参照され続けるだろう。昭和は古関裕而の時代でもあった」と総括する(辻田⑦291頁)。いずれにしても、いまとなっては開催も危ぶまれる「東京オリンピック2020」にあやかったNHK朝ドラ「エール」に便乗しての出版であるから、当然といえば当然なのだが、両者とも、貴重な資料や証言を入手した上での総括にしては、あまりにも、軽くて迎合的ではなかったか。とくに「よくも悪くも暴れまわった日本の黄金時代」と言い切れる認識には、執筆者世代の受けてきたと思われる日本の近現代史教育の影が如実に反映しているように思われた。(続く)

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露営の歌(1937年 薮内 喜一郎)から

勝って来るぞと 勇ましく/ちかって故郷(くに)を 出たからは
手柄たてずに 死なりょうか/進軍ラッパ 聴くたびに
瞼に浮かぶ 旗の波

土も草木も 火と燃える/果てなき曠野 踏みわけて
進む日の丸 鉄兜/馬のたてがみ なでながら
明日(あす)の命を 誰が知る

思えば今日の 戦闘(たたかい)に/ 朱(あけ)に染まって にっこりと
笑って死んだ 戦友が/ 天皇陛下 万歳と
残した声が 忘らりょか

愛国の花 (1938年 福田正夫)から

真白き富士の けだかさを/こころの強い 楯(たて)として
御国(みくに)につくす 女等(ら)は/輝く御代の やま桜
地に咲き匂う 国の花  

暁に祈る(1940年 野村俊夫)から

あああの顔で あの声で/手柄頼むと 妻や子が
ちぎれる程に 振った旗/遠い雲間に また浮かぶ

ああ傷ついた この馬と/飲まず食わずの 日も三日
捧げた生命 これまでと/月の光で 走り書き

あああの山も この川も/赤い忠義の 血がにじむ
故国(くに)まで届け 暁に/あげる興亜の この凱歌

若鷲の歌(1943年 西条八十)から

若い血潮の 予科練の/七つボタンは 桜に錨今日も飛ぶ飛ぶ 

霞ヶ浦にゃ/でっかい希望の 雲が湧く
*
仰ぐ先輩 予科練の/手柄聞くたび 血潮が疼く

ぐんと練れ練れ 攻撃精神/大和魂にゃ 敵はない

嗚呼神風特別攻撃隊(1944年 野村俊夫)から 

無念の歯噛み堪えつつ/待ちに待ちたる決戦ぞ

今こそ敵を屠らんと/奮い立ちたる若桜

この一戦に勝たざれば/祖国の行く手いかならん

撃滅せよの命受けし/神風特別攻撃隊

熱涙伝う顔上げて/勲を偲ぶ国の民

永久に忘れじその名こそ/神風特別攻撃隊

神風特別攻撃隊

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