2025年8月26日 (火)

今どきの中学生が出会う短歌~国語教科書に登場の歌人たち、その作品は(2)

光村図書出版『国語2』

 この教科書には、中学3年間で、古典の和歌、近・現代短歌への格別の配慮がみられる。詩については1年生で、短歌については2年生で、俳句と古典和歌について3年生でという学習指導要領に従い、基本的には各社共通ではあるが、光村の場合は、各年に、コラム「四季のたより」として、和歌・短歌や俳句などを掲載している。また、一年生の教科書にも「百人一首を味わう」として、20首を収録している。

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 2年生では、栗木京子の書下ろしエッセイの「短歌に親しむ」に以下の五首を掲載している。

・くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる(正岡子規)(学図・東書・三省堂・光村)⇒三省堂、教育出版、光村

・夏のかぜ山よりきたり三百の牧の若馬耳吹かれけり(与謝野晶子) ⇒光村*新

・死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞こゆる(斉藤茂吉)(学図・三省堂・教育)⇒光村*新

・鯨の世紀恐竜の世紀いづれにも戻れぬ地球の水仙の白(馬場あき子) ⇒光村*新

・蛇行する川には蛇行の理由あり急げばいいってもんじゃない(俵万智)⇒光村*新

  

 同じく栗木の「短歌を味わう」では、つぎの六首を鑑賞の対象としている。

・白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ(若山牧水)(東書・三省堂・教育・光村)⇒三省堂、光村

・不来方のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心(石川啄木)(東書・学図・三省堂・光村)⇒三省堂、教育出版*新、光村

・のぼり坂のペダル踏みつつ子は叫ぶ「まっすぐ?」、そうだ、どんどんのぼれ(佐佐木幸綱)(学図)⇒光村*新

・ぽぽぽぽと秋雲浮き子供らはどこか遠くに遊びに行けり(河野裕子)⇒光村*新

・観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生(栗木京子)(東書・学図・三省堂・教育・光村)⇒三省堂、教育出版、光村

・一本の道をゆくとき風は割れぼくの背中で元に戻った(木下龍也)⇒光村*新

  ここでは、中学校国語教科書のいわば定番の短歌と併せて、河野裕子と木下龍也の短歌が登場する。木下は、近年の短歌ブームの渦中にある若手であって、その評価には異論もあるが、栗木は、作品として定着したとみたのだろう。光村出版の編集は上記、栗木の「短歌に親しむ」「短歌を味わう」に見るように、その重用が顕著である。

 2年生の「広がる読書」には、近・現代短歌に関しては、以下をあげている。

栗木京子『短歌を楽しむ』岩波書店 1999年(12月)
栗木京子『短歌をつくろう』岩波書店 2010年(11月)
東直子『短歌の時間』春陽堂書店 2022年(3月)

 

 以下は「季節のしおり」に収録された近・現代短歌で、学年と季節を示す。このコーナーでは、俵万智を除いて、光村出版としては、これまでとっていなかった、伝統的な近代の歌人の短歌を意識的に収録したのかもしれない。

・なつかしき冬の朝かな。湯をのめば、湯気がやはらかに、顔にかかれり(石川啄木)<1年・冬> ⇒光村*新

・やはらかに柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに(石川啄木)<2年・春>(教育)⇒ 光村*新

・清水へ祇園をよぎる桜月夜今宵逢ふ人みなうつくしき(与謝野晶子)<2年・春>⇒ 光村*新

・海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり(寺山修司)<2年・夏>(東書・光村)⇒光村

・葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり(釈迢空)<2年・秋>(三省堂)光村*新

・街をゆき子供の傍を通る時蜜柑の香せり冬がまた来る(木下利玄)<2年・冬>  ⇒ 光村*新

・「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ(俵万智)<2年・冬>(東書・三省堂・教育)⇒三省堂、光村*新

  

 さらに、3年生の教科書の巻末には、「郷土ゆかりの作家・作品」ということで、文学全般にわたって、北海道から沖縄県まで、都道府県ごとにリスト化している。近・現代短歌が採られている都道府県名を記した。こうしてみると、茂吉の「みちのくの・・・」を除いて、他社の教科書にない短歌を「郷土ゆかり」のいわば「ご当地短歌」として登場させていることに注目すべきだろう。

・みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる(斎藤茂吉)<山形県>(教育)⇒三省堂*新、教育出版、光村*新

・陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ(斎藤茂吉)<山形県> ⇒光村*新

・海恋し潮の遠鳴りかぞへては少女となりし父母の家(与謝野晶子)<大阪府>⇒光村*新

・ふるさとの和泉の山をきはやかに浮けし海より朝風ぞ吹く(与謝野晶子)<大阪府>⇒光村*新

・幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく(若山牧水)<宮崎県>光村*新

・ふるさとの尾鈴の山のかなしさよ秋もかすみのたなびきて居り(若山牧水)<宮崎県> ⇒光村*新 

 

 また、3年では、「君待つと」と題して、萬葉、古今、新古今からの名歌が収録され、さらに古典の名作としても古典和歌が取り上げられている。

 以上みたように、光村出版の中学校国語教科書は、和歌・短歌を全学年通じて、さまざまな工夫で、さまざまな個所で取り上げ、和歌・短歌への関心と理解を深めさせようとする意図が見えるのが特色と言えよう。

  つぎに、東京書籍の「新編新しい国語2」を検討したいが、参考のため、当ブログの過去記事と2016年版の概要一覧をご覧ください。

<参考>

中学校国語教科書の中の近代・現代短歌と短歌作品~しきりに回る「観覧車」(2011年11月30日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2011/11/post-de32.html

<中学校国語教科書における「近代・現代短歌」の概要(2016年度版)>
201576日作成 内野光子)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/tyuugakkkokokugoitiran.pdf

なお、遡っては、以下の記事と比較表もご覧ください。

中学校国語教科書の中の近代・現代短歌と短歌作品~しきりに回る「観覧車」(2011年11月30日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2011/11/post-de32.html

<中学校国語教科書平成18年度・24年度比較表>
http://dmituko.cocolog-nifty.com/hikakuhyou.pdf

(つづく)

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8月25日、ベランダに出ると小さな「朝の訪問者」、カメラを向けると顔を隠した雨蛙。昨夜の「夜の訪問者」ヤモリは、さすがに写真を撮る気にはならなかったが。

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2025年8月25日 (月)

今どきの中学生が出会う短歌~国語教科書に登場する歌人たち、その作品は(1)  

   2025年4月から中学校の教科書が新しくなった。2016年から採用の中学校の国語教科書、2年生で扱われる「近・現代の短歌」について調べたことがある。この10年間にもう一回の検定を挟むが、今回の検定で、どう変わっているのか、変わっていないのか、調べてみようと思う。十年前には、三省堂、東京書籍、教育出版、学校図書、光村出版の五社であったが、今回は学校図書が撤退して四社となった。学校図書は、親会社の数研出版の伝統もあって理系に重点を置きたかったのかなとも。

 三省堂『現代の国語2』

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 「第3章ものの味方・感性を養う」に登場するのが短歌で、俵万智「短歌の世界」という書下ろしのエッセイが冒頭に置かれている。ここでは、短歌は、伝統のある定型の詩形であること、短いこととリズムが特徴であり、自作と栗木の二首をあげ、いずれのも「恋の歌」と紹介されている。「心の揺れ」が作歌の第一歩とする2頁ほどの短い文章。 
 以下、短歌の作者名あとの(括弧内)は、2016年度版の収録教科書を示し、⇒三省堂教科書の収録の新旧を示す。調査対象教科書が初めて収録した短歌については緑のマーカーで示した。

・「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ(俵万智)(東書・三省堂・教育)⇒三省堂
・観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生(栗木京子)
(東書・学図・三省堂・教育・光村)⇒三省堂

     

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「短歌十首」
では

・くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる(正岡子規)(三省堂・学校図書・東京書籍・光村)⇒三省堂

・その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな(与謝野晶子) (三省堂)⇒三省堂

・みちのくの母のいのちを一目みん一目みんとぞたたにいそげる(斎藤茂吉)(教育出版)三省堂*新

・草わかば色鉛筆の赤き粉のちるがいとしく寝て削るなり(北原白秋) (東書・三省堂)⇒三省堂

・白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ(若山牧水)(東書・三省堂・教育・光村)⇒三省堂

・不来方のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心(石川啄木)(東書・学図・三省堂・光村)⇒三省堂

・列車にて遠く見ている向日葵は少年のふる帽子のごとし(寺山修司)(三省堂)⇒三省堂

・シャボンまみれの猫が逃げ出す午下り永遠なんてどこにもないさ(穂村弘)(三省堂)⇒三省堂

・空をゆく鳥の上には何がある 横断(ゼブラ)歩道(ゾーン)に立ち止まる夏(梅内美華子) 三省堂*新

・細胞のなかに奇妙な構造のあらわれにけり夜の顕微鏡(永田紅)(三省堂)⇒三省堂

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 2016年版と比べると、茂吉の「死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞こゆ
(学図・三省堂・教育)」が上記と入れ替わり、釈迢空「葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり」が除かれ、梅内の作品が新規に入ったことになる。俵「「寒いね」・・」と栗木「観覧車・・・」は俵のエッセイで触れているからか、「十首」には二人とも登場しない。今回新しく収録された歌人は、迢空と入れ替わった梅内のみで、これはかなり大胆な変更であったが、作品が替えられたのは茂吉だけという異動であって、全体的には、オーソドックスな人選と選歌がなされているのではないか。

 また、歌人の顔写真がモノクロとカラーの違いがあるのは、まさに世代の違いを表していて興味深い。「私の本棚広がる短歌の世界」として、以下の3冊が書影入りで紹介されている。参考のため、(  )で、初版発行年月を示した。

俵万智『あなたと読む恋の歌百首』朝日新聞社(1997年8月)
栗木京子『短歌をつくろう』岩波書店(2010年11月)
枡野浩一『ドラえもん短歌』小学館 (2005年9月)

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 巻末の「小さな図書館」42冊の中には、村上しいこ「歌うとは小さないのちのひろいあげ」(講談社 2015年5月)をあげ、短歌甲子園を目指す高校生の物語が紹介されている。
 なお、三年生で、俳句と古典和歌―萬葉集、古今集、新古今集を学ぶのは変わらない。


教育出版『伝え合う言葉中学国語2』

 短歌は、「第六章想像を広げる」に含まれる。穂村弘の書下ろしエッセイ「短歌の味わい」では、つぎの自作を含めた四首の鑑賞がなされている。斎藤史の登場はいささか唐突にも思えた。教師も生徒も、この一首の時代的背景を理解するのは、容易ではないかもしれない。

・白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ(若山牧水)(東書・三省堂・教育・光村)⇒三省堂、教育出版
・濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ(斎藤史) ⇒教育*新
・観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生(栗木京子)(東書・学図・三省堂・教育・光村)⇒三省堂、教育出版
・春のプール夏のプール秋のプール冬のプールの星が降るなり(穂村弘) 教育出版*新

 「短歌十首」ではつぎの作品を挙げている。

・くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる(正岡子規)(三・学・東・光)⇒三省堂、教育出版

・ああ皐月(さつき)仏)蘭西(フランス)の野は火の色す君も雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟(コクリコ)(与謝野晶子) ⇒教育出版*新

・みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞたたにいそげる(斎藤茂吉)(教育)⇒三省堂*新、教育出版

・不来方のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心(石川啄木)(東書・学図・三省堂・光村)⇒三省堂、教育出版*新

・日本を脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも(塚本邦雄) 教育出版*新

・海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり(寺山修司)(東書・光村)⇒教育出版*新

・俺は帰るぞ俺の明日へ 黄金の疲れに眠る友よおやすみ(佐佐木幸綱)  ⇒教育出版*新

・自転車のカゴからわんとはみ出してなにか嬉しいセロリの葉っぱ(俵万智) ⇒教育出版*新

・おねがいねって渡されているこの鍵をわたしは失くしてしまう気がする(東直子) 教育出版*新

・もう二度とこんなに多くのダンボールを切ることはない最後の文化祭(小島なお) ⇒教育出版*新

  2016年版は、「近代の短歌」として晶子2首、茂吉3首、白秋1首、牧水1首、啄木2首、合計9首が収録されていたのが、「短歌十首」として、大幅に世代交代が行われ、新しく塚本邦雄、寺山修司、佐佐木幸綱、東直子、小島なおの短歌が採られ、その異動が顕著であった。
 作品としては、晶子の「なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな」「小百合さく小草がなかに君まてば野末にほひ虹あらはれぬ」が上記の1首に。
 啄木は「やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに」「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」の2首に替わって「不来方・・・」が入り、俵は「『寒いね』・・・」に替わって、上記の作品が採られている。

 穂村のエッセイに登場する4人の短歌は、ここには入っていない。

 なお、穂村はもう一本「少しだけ変えてみる」というエッセイで、啄木の「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」などを例に、一文字、一語変えるだけで、一首の世界が変わり、広がることを説いている。

 各章ごとに「広がる本の世界」という読書案内が付されているが、第六章では以下が紹介されている。
小島なお・千葉聡「短歌部、ただいま部員募集中!」(岩波書店2022年4月)

 コラムの「四季のたより」では、古典和歌一首と俳句が掲載されている。また、三年生になると、俳句と古典和歌の単元があり、萬葉集、古今集、新古今集を学ぶようになっている。さらに評論として、穂村弘「青春の歌―無名性の光」が登場する。
 教育出版は、穂村の重用が目立つほか、若手歌人の起用が顕著であることもわかる。ちなみに、私が住む佐倉市は、この国語教科書を採用して久しい。

 なお、巻頭に掲げられた詩は、二社ともに、新川和江の「名づけられた葉」であった。
(つづく)

 

 

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2022年8月31日 (水)

図書館が危ない!司書という仕事

 もう、終活の方が迫っているのだが、たまに外出して、車内で就活スーツの女子学生に出会うと、「頑張ってね」との思いが募る。かれこれ60年前の就活について思い出しては、危ない橋を渡ってきたものだと、思い返す昨今である。

 つい最近、ネット上で、つぎのような見出しの記事に出会った。神戸新聞の「まいどなニュース」である。

「手取り9万8000円では暮らせない」非正規図書館員の訴え 知っていますか図書館の“現実”
8/26(金) 19:30配信
https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/omoshiro/202208/0015586692.shtml

 30年近く、図書館職員として働いていてきた身としては、やはり気になる見出しだった。最近、古巣でもある国立国会図書館の資料はデジタル化されて、検索や遠隔複写、個人配信の資料も増えたので、よく利用する。買ってもいいかな、と思う本は、まず、地元の公共図書館の所蔵を調べて、なるべく借りて読むようにしている。新刊のベストセラーものは、ブームが去ってからでないとまず借りられない。所蔵してない古い図書や学術書を読みたい場合は、相互利用制度によって他館から貸し出してもらい、多くは自宅に持ち帰って利用する。現代詩歌文学館などは、雑誌などでも貸出してもらえるが、自宅には持ち帰れず、館内閲覧・コピーしかできないながら、大いに助かっている。 
   こうして、近くの市立図書館を利用していて思うのは、カウンターの女性がよく変わることだった。市の広報で、一年限りの、いわゆる「会計年度任用職員」募集の記事のなかに、保育士、栄養士、看護師、保健師などとともに図書館職員の募集も見かけたことがある。「任期付き職員」の募集もあって、こちらの方は2年とやや長期で、待遇も職員並みとあるが、図書館職員の募集記事は見かけない。

   冒頭の「まいどなニュース」によれば、日本図書館協会の統計では、全国の公共図書館3316館の専任職員(いわゆる正規職員)の数はここ20年、減少傾向にあり、2001年には1万5347人だったのが2021年には9459人に減少、逆に、非正規職員は、職員全体の7割を占め、その9割が女性だというのである。
   30年近く前ながら、私の最後の職場だった千葉県の新設大学の図書館では、退職時、私を含めて職員二人に、アルバイト三人だった。その後どうなったか。その前に、11年間働いていた名古屋の短大図書館では、職員四人、バイト二人であった。ここは、すでに四年制大学になって久しく、新館も完成、学部新設でキャンパスは二つなったが、その後の状況はわからない。国公立大学の図書館でも、非正規職員の激増が伝えられている。

  地元の佐倉市立図書館の場合、2021年、「令和3年度の当初予算」で見てみよう。図書館としては分館を入れて4館の職員の21人分の給与・手当・共済費併せて人件費総額約1億8972万円、会計年度任用の図書整理員42人分の報酬・手当・共済費は、図書館の一般事務費のなかに約6638万円計上されている。総額を人数で割れば、ざっくり、職員856万、非正規158万と待遇の差は、信じられないほど歴然としていた。税金や共済費が天引きされるわけだから、冒頭の記事にある「手取り9万8000円」という実態に近いのではないか。
   市立図書館のみならず、学校司書の場合も、状況はかなりきびしい。佐倉市は小学校23校、中学校11校あるが、「学校図書館活性化事業/令和3年度」の説明書によると、会計年度任用職員は11人、1校当たり年間勤務数平均50日、月平均25時間という数字が示されている。報酬・手当などを合わせて1177万円になる。1人が1週間で3校を回るという目まぐるしさ、佐倉市は各校の司書配置などは念頭にないらしい。

 また、佐倉市の2021年6月市議会での質疑によれば、2021年4月1日現在、佐倉市の市職員が1006人、会計年度任用職員は63種職、819人に及ぶという(6月16日、萩原陽子議員)。図書館は、21人の職員、非正規42人なのだから、正職員は3分の1ということで、全国平均でもある。非正規職員採用を通り越して、図書館の民間委託が隣の印西市で検討を始めているという。全国的には、すでに、ツタヤが委託されて運営する公共図書館もある。佐倉市においても、学校用務員、学童保育所は、すでに、民間委託が定着してしまったようだし、近くの学童保育所は、まとめて地元開発業者のグループ会社が指定管理者になっている。政府は、「働き方改革」、「人への投資」とかを口にするが、家庭や学校でのいじめや虐待の対応の無責任さ、教員の超過勤務・人手不足、奨学金返済困難者の激増、若手研究者の任期付き採用などが引き起こすさまざまな悲劇が明らかになると、具体的な解決策が示されないまま「再発防止」とか「第三者機関設置」とかでやり過ごすことが多い。「人への投資」というならば、国民の健康・福祉、教育・研究が基本であろうに、行政の手抜き・無為無策とさえ思われる事案、企業の都合が優先されてしまう無力感に苛まれる昨今である。

 司書として働く人たちは、熱心で使命感をもっている人が多い。箱モノとしての図書館ではなく、蔵書構成、整理、選書、レファレンス、出納業務などを利用者目線でこなすためには、暮らしのできる報酬とともに、安心して、長期展望のもとで働き、研鑽できる環境が必要で、ときには他館の利用者となってみる余裕があってもよいはずである。

 新町にある佐倉図書館が、移転新築されて、来年3月には開館予定であるというが、その建設費25億が30億に膨らみ、総額37憶5000万円になるという。総合施設の中の地下スペースが図書館になるとして、市民団体が反対運動をする過程で、様々な問題が浮上、いま裁判にもなっている。そして、こともあろうに、新館の新規購入は、ヤングアダルト用と大型絵本に限るという方針が打ち出されていることがわかった。何を考えているのか、図書館は崩壊の道を歩んでいる。

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「佐倉図書館等新町活性化複合施設実施設計」のパースの一枚。この入り口のキャノピーだけでも5000万円、いまでも、必要性と安全性を問い続けたい。

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「よりよい佐倉図書館が欲しい会」の会報53号には、姿を現したキャノピーの写真が右下に収められている。なんときゃしゃな造りで、風雨に耐えられるのだろうか。城下町?佐倉に似合いそうもないではないか。

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2022年8月12日 (金)

忘れてはいけない、覚えているうちに(4)小泉苳三~公職追放になった、たった一人の歌人<2>

   そして、冒頭の件にもどって、苳三は、なぜ、公職追放に至ったのか。

 その経緯は、『ポトナム』の一般会員には、なかなか伝わってこなかった。未見ながら、平成の初め、1989年、『立命館文学』(511号1989年6月)に、苳三の立命館での教え子である白川静が、その「真相」を明かしているとのことであった。以降1990年代になると、苳三について書かれた文献は、その経緯に言及するようになった。後掲の和田周三、大西公哉によるものだった。2000年代になると、白川静により詳細な経緯が知らされるようになった。

参考文献⑨⑩によると、
苳三は、「中川(*小十郎、立命館創立者)総長の意を承けて北京師範大学の日本語教授として赴任され、相互の親善に努力されたことがあり、東亜の問題にも深い関心を持たれていた。それで支那事変が勃発すると、その前線の視察を希望され、軍の特別の配慮(*陸軍省嘱託)で、河北、河南から南京に及ぶまで、すべての前線を巡られた」 *は筆者注
 とあり、『山西前線』から、つぎの二首をあげて、

 〇〇の敵沈みたる沼の水青くよどみて枯草うかぶ
 〇〇の死骸埋まれる泥沼の枯草を吹く風ひびきつつ
  *1939年3月6日作。○は伏字。(下関馬太路附近)「揚子江遡行(中支篇)」

 「この歌集において、あくまでも歌人としての立場を貫かれた。この一巻を掩うものは、あくまでも悲涼にして寂寥なる戦争の実相にせまり、これを哀しむ歌人の立場である。」として、「このような歌集が、どうして戦争を謳歌するものと解釈され、不適格の理由とされ、不適格の理由とされたのだろうか。その理由は、先生の歌や歌人としての行動にあるのではない。それはおそらく、学内の事情が根底にあったのであろうと思われる。」

 参考文献⑩の白川静「苳三先生遺事」では、さらに詳しく、つぎのような状況が記されている。

 「大学に禁衛隊を組織して京都御所の禁衛に任じ、そのことを教学の方針としていたので、もっとも右傾的な大学とみなされ、その存続が懸念されていた。それで、相当数の非適格者を出すことが、いわば免責の条件であるように考えられていた。」(253頁) 

 学内では、民主化が急がれ、進歩派とされる人たちと保身をはかるかつての陣営とが入り乱れるなか、学内の教職員適格審査委員会についてつぎのように述べる。

「故中川総長の信望がもっとも篤かった小泉先生が、その標的とされた。審査委員会は、先生の『山西前線』の巻末の一首<東亜の民族ここに闘へりふたたびかかる戦(いくさ)なからしめ>をあげて、『本書最終歌集は、所謂支那事変は、東亜に再び戦なからしむる聖戦であるとの意味をもつ一首である』

 としたが、この一首が、戦争の悲惨を哀しみ、ひたすらに戦争を否定する願望を歌ったものであることは、余りにも明白であり、この程度の理解力で先生の歌業の適否を判断し得るものではない」(254頁)と訴える。その後、白川ら教え子たち17名により再審要求書が中央審査会に提出されたが、覆されることはなかった。


 では、『山西前線』とはどんな歌集だったのだろうか。
 1938年12月12日に陸軍省嘱託に任ぜられ、22日に日本の○を出港し、28日北支の○港から上陸している。北支篇・山西前線篇一・山西前線篇二・中支篇からなり、天津・北京から前線に入り、兵士たちの戦闘の過酷さ哀歓をともにした記録的要素の高い歌を詠む。当時の立命館総長中川小十郎と支那派遣軍総参謀長板垣征四郎の序文が付されている。そして、この歌集の序歌と巻頭の一首をあげてみる。

戈(ほこ)とりて兵つぎつぎに出(い)で征(ゆ)けりおほけなきかなやペン取りて吾は(序歌) 
心ふかく願ひゐたりし従軍を許されて我の出征(いでゆ)かんとす(従軍行)

 従軍中の1月中旬からは半月以上の野戦病院での闘病生活を経験するが、南京、上海を経て、1939年4月1日に帰国する。巻末には「聖戦」と題する五首があり、最後の一首が「東亜の民族ここに闘へりふたたびかかる戦(いくさ)なからしめ」であったのである。
 そこで、ほんとうに、先の一首だけが教職不適格の理由であったのだろうか。不適格判定がなされた年月日、判定の法的根拠は、『ポトナム』の記念号の年表や小泉苳三を論じた文献・年譜には記載がなく、あるのは、1947年6月に「昭和22年政令62号第3条第1項」(*1947年5月21日)によって職を免ぜられた、という記述である。その後の⑦の『立命館百年史』及び⑨⑩の白川静の文献により、判定月日が1946年10月26日であることがわかった。46年10月26日に判定され、翌47年6月に「教職不適格者」として「指定を受けた者が教職に在るときは、これを教職から去らしめるものとする」というのが上記政令の第3条第1項であった。
 上記の判定内容についてとなると、前述の白川文献と『立命館百年史』にあるつぎのような記述で知ることしかできなかった。しかも、『百年史』の方は『京都新聞』(1946年10月29日)の引用であった。

「小泉藤造(苳三)教授(国文学) 従軍歌集を出版し侵略主義宣伝に寄与」

  そして、⑪の来嶋による資料の提供で、全貌が明らかになってきた。苳三から窪田空穂にあてた「再審査請求」するに際して「御見解を御示し下され度御願ひ申上候」という手紙とともに学内の教職員適格審査委員会委員長名による「判定書」と苳三自身による再審査請求のための「解釈草稿」を読むことができたのである。「判定書」の理由部分は、画像では読みにくいので核心部分を引用する。『山西前線』の刊行経緯を述べた後、つぎのように述べる。

 「本書(*『山西前線』)によれば氏の従軍は他からの強制といふが如き事に由るのではなく、自らの希望に出たものである事は明らかであり且本書最終歌(東亜の民族ここに闘へりふたたびかかる戦なからしむ)は、所謂支那事変は東亜に再び戦なからしむる聖戦であるとの意味をもつ一首となつてゐる」

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来嶋靖生「ある手紙からー小泉苳三〈教職追放の闇〉」『ポトナム』90周年記念 2012年4月

 これに続き、「更に氏の主宰するポトナム誌には」として、誌上に発表された、「撃ちてしやまむ」「八紘一宇の理念ぞ輝け」などと歌う六首を無記名であげ、「もとより以上は和歌によるとはいへ、その和歌を通して、また上記の行動によつて侵略主義の宣伝に積極的に協力したもの、もしくはこの種の傾向に迎合したもので」明らかに法令に該当する者と認められるので「教職不適格と判定する」としていた。「判定書」の後半には、苳三が主宰する『ポトナム』に発表された六首が具体的に引用されていたことを知った。この部分への言及がなかったのは、六首の作者へ同人たちへの配慮であったのだろうか。
 一方、苳三は、判定理由について、当時発表していた著述論文などには一切触れず、「私が歌人として中国に旅行し、その歌集山西前線を刊行したこと、及び戦争中の多数の作品の中から僅か六首の歌をとりあげて、私への不適格の理由としてゐる。私が中国に旅行したのは、戦争といふ現実を、国民として身を以て体験し、真実を歌はうとする文学的な要求からであった。戦場を通るには、軍の取り計らひがなくては不可能であつたことは、常識的にも分る筈である。旅行の目的は、私の実際の作品によつて実証されてゐる。(後略)」と「判定」へ反論をしている。
 来嶋は、苳三の依頼に空穂がどう対応したかは不明としていたが、白川文献によれば、前述の17名による再審査請求書とは別に、窪田空穂・頴田島一二郎の両名が個人として「意見書」を中央審査会に提出していたことが明らかになっている。
 なお、上記大学の教職員適格審査委員会による苳三に対する「判定」根拠法令は、「教職員の除去・就職禁止及び復職の件(昭和21年勅令263号)」(*1946年5月7日)と同時に、この勅令を受けた「教職員の除去・就職禁止及び復職の件の施行に関する件(閣令・文部省令1号)」の範囲を定めた「別表第一」の「一の1」によるのではないかと思う。来嶋文献では、「別表第1の11号」と読めるが、別表第一には11号がない。「別表第一」の「一の1号」は、以下の通りであった。

「一 講義・講演・著述・論文等言論その他の行動によつて、左の各号に当たる者。」
 侵略主義あるひは好戦的国家主義を鼓吹し、又はその宣伝に積極的に協力した者及び学説を以て大亜細亜政策、東亜新秩序

 1.その他これに類似した政策や、満州事変、支那事変又は今次の戦争に理念的基礎を与えた者。」

 ここで、GHQによる公職追放の流れと立命館大学の対応と小泉苳三の動向以下のような年表にまとめてみた。

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  苳三は、1951年報道などにより、追放解除が近いことを知ると、夏には、つぎのように歌う。その後に歌われた、わずかな追放関係短歌から選んでみた。いずれも『くさふぢ以後』からである。

歌作による被追放者は一人のみその一人ぞと吾はつぶやく
追放解除の訴願を説く友に吾は答へず成り行くままに
省みて四年過ぎしと思ひをりあわただしくてありし月日を
天皇制を倒せ学長を守れといふビラ貼りてあり門の入口に
(*以上1951年作)
図書館の暗きに歌書を調べをり久しく見ざりしこの棚の書を
(*1952年作)
正面の図書館楼上の大時計過ぎゆく時を正しく指し居り
(*1953年作)
病み臥してかなしきおもひ極ればそのまま眠に入れよとねがふ
(*1954年作)
追放解除の後の生活がやや落ちつくに病み弱くなれり
(*1955年作)

 最初の3首は、口惜しさとあきらめがないまぜになった心境だろうか。4首目は、1951年9月に追放の指定解除がなされた後の年末、かつての職場の立命館大学を訪れた折の作で、「R大学 十二月八日」の小題を持つ一連の冒頭歌である。敗戦直後から立命館大学学長に就任し、大学の民主化を目指した末川博を詠んだものである。末川は、1933年いわゆる「滝川事件」で京大を辞職し、大阪商科大学教授となっていたが、前述のように乞われて立命館大学学長となって、数々の大学民主化を図ったとして有名である。しかし、苳三にとっては「教書不適格者」と「判定」した最高責任者であった。前述の『立命館百年史 通史2』によれば、「巣鴨入りで石原を失った末川が強力なリーダーシップを発揮したことはほぼ間違いであろう。」とも。さらに続けて「適格審査に末川の意向がどれだけ影響を及ぼしたかを語る資料は残されていないが」としながら「末川の勇み足ともいわれたような事件も起こっている」として、1946年10月の教職不適格者判定と同時に、休職処分としてしまったことをあげている(113頁)。本来ならば、「判定」後、指定が決定するまでは、身分保留にしなければならい制度であったのである
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 小泉苳三は、2回ほど登場した、大岡信「折々のうた」。上段の歌は、上記の1首目、学内の教職員適格審査委員会は「烏合の衆」とまで評されている(2007年2月23日)。

 5首目は、すでに1940年苳三が自ら収集した近代短歌史の膨大な資料の大半を寄贈していた立命館大学図書館を訪ねた折の作である。埃をかぶっていたり、見当たらない図書もあったりしているのを嘆く一連の一首である。この資料群は、没後にも遺族から立命館大学図書館に追加寄贈され、「白楊荘文庫」と名付けられ、現在も、近代短歌資料の貴重な文庫として利用されている。この文庫については、参考文献⑬に詳しい。6首目は、指定解除後、関西学院大学教授となり、あたらしい職場となるキャンパスの図書館の時計塔を歌っているが、学究としての意欲をも伺わせる一首ではないだろうか。晩年の作となる最後の二首は、自らの病や出版社経営上の苦境などが重なって、さびしい死を遂げる前兆のような気がしてならない。
 戦中・戦後を変わり身早く、強引に生き抜いてきた歌人たちもいる。戦犯と称される政治家たちが再登場するのをやすやす受け入れてしまった国民の在り様、戦前回帰や保守一強を願う人たちがいることを目の当たりにする昨今ではある。ほんとうに責任をとるべきだった人たちがいたことを忘れてはならないだろう。 
 これまで、私自身、曖昧にやり過ごしてきたことが、『ポトナム』創刊100周年記念を機に、少しはっきりしてきたのでなかったか。

<参考文献>

①岡部文夫「ポトナム回顧」『ポトナム』1954年11月/中野嘉一『新短歌の歴史』昭森社 1967年5月(再版)
②新津亨「回想のプロ短歌」/内野光子「小泉苳三著作年表・編著書解題」、ともに『ポトナム』600号記念特集 1976年4月
③和田周三「小泉苳三の軌跡」/大西公哉「創刊より復刊まで」、ともに『ポトナム』800号記念特集 1992年12月
④和田周三「小泉苳三・人と学芸」/内野光子・相楽俊暁「小泉苳三資料年表」、ともに『ポトナム』小泉苳三生誕百年記念   1994年4月
⑤和田繁二郎(周三)「小泉苳三先生の人と学問」『立命館文学論究日本文学』61号 1995年3月
⑥大西公哉「山川を越えては越えて―ポトナム七十五年小史/ 和田周三「小泉苳三歌集『山西前線』」、ともに『ポトナム』創刊75周年記念特集 1997年4月、所収
⑦『立命館百年史 通史』1・2 同編纂委員会編刊 1999年3月、2006年3月
⑧拙著「ポトナム時代の坪野哲久」『月光』2002年2月(『天皇の短歌は何を語るのか』所収)
⑨白川静「小泉先生の不適格審査について」/片山貞美ほか「小泉苳三の歌」(小議会)」、 ともに『短歌現代』2002年11月、所収
⑩白川静「苳三先生遺事」/白川静「小泉先生の不適格審査について」(栞文、⑨の再録)/上田博「生命ありてこの草山の草をしき」、ともに「『小泉苳三全歌集』2004年4月
⑪来嶋靖生「ある手紙から 小泉苳三<教職追放>の謎」『ポトナム』90周年記念特集 2012年4月
⑫安森敏隆「小泉苳三論―『山西前線』を読む」『同志社女子大学日本語日本文学』2012年6月
⑬中西健治「白楊荘文庫のいま」『ポトナム』創刊100周年記念特集 2022年4月

ほか『ポトナム』記念号・追悼号など。

           <再掲>

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ポトナム短歌会と立命館大学図書館・白川静東洋文字文化研究所との共催で『ポトナム』創刊百周年記念の展覧会が開催されている。立命館大学図書館の特殊コレクション「白楊荘文庫(旧小泉苳三所蔵資料)を中心とした展示となっている。衣笠キャンパスでの開催は終わったが、現在は大阪いばらきキャンパスで開催中、10月7日からは、びわこ・くさつキャンパスでで開催される。私も、コロナ感染が収まったら、ぜひ出かけたいと思っている。お近くの方は、ぜひ立ち寄ってみてください。

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2022年8月10日 (水)

忘れてはいけない、覚えているうちに(3) 小泉苳三~公職追放になった、たった一人の歌人<1>

 今年の4月、私が会員となっているポトナム短歌会の『ポトナム』が創刊百周年を迎え、その記念号が出た。そのついでに、さまざまな思い出をつづったのが、当ブログのつぎの2件であった。

1922~2022年、『ポトナム』創刊100周年記念号が出ました(1)(2)
(2022年4月6日、9日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/04/post-559b22.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/04/post-a2076e.html

 また、今月は、『ポトナム』百周年について書く機会があった。あらためて、手元にある、これまでの何冊かの記念号や『昭和萬葉集』選歌の折、使用した戦前の『ポトナム』のコピーを持ち出し、頁を繰っていると、立ち止まることばかりである。今回の依頼稿でも詳しくは触れることができなかったのは、1922年『ポトナム』を創刊した小泉苳三(1894~1956)の敗戦後の公職追放についてであった。これまで、気にはなっていたので、若干の資料も集めていた。その一部でも記録にとどめておきたいと思ったのである。実は、2年前にも、故小川太郎さんからの電話の思い出にかかわり、この件に触れてはいる。

小泉苳三、そして小川太郎のこと(2020年12月13日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/12/post-691047.html

 私は、1960年ポトナム短歌会に入会しているので、苳三の生前を知らないが、『ポトナム』600号記念(1976年4月)に、図書館勤めをしていたこともあってか、編集部からの依頼で「小泉苳三著作年表」と「著作解題」を発表している。もちろん公職追放の件は知ってはいた。ただ、『(従軍歌集)山西戦線』(1940年5月)の一冊をもって、なぜ、立命館大学教授の職を追われなければならなかったのか。戦意高揚の短歌を発表し、歌集も出版していた歌人はたくさんいたのに、なぜ苳三だけがという漠然とした疑問はもっていたが、その歌集も真面目には読んでいなかった。

 苳三の職歴や教職歴をみると、平たんではなかったようだ。東洋大学の夜間部を出て中学校教員の資格を得た後も、養魚、金魚養殖をやったり、朝鮮に渡ったりしている。福井県、埼玉県での中学校教諭を経て、1922年28歳で、京城の高等女学校教諭に赴任、現地で、百瀬千尋、頴田島一二郎、君島夜詩らと「ポトナム短歌会」を立ち上げ、4月に『ポトナム』を創刊している。東京に戻った後も、東京、新潟、長野県での国語科教諭の傍ら、作歌と大伴家持研究など国文学研究、『ポトナム』の運営を続け、1932年、38歳で、立命館大学専門学部の教授に就任する。1931年9月「満州事変」に端を発した日中戦争が拡大する。恐慌は深刻化し、農村不況の中、労働争議が頻発し、弾圧もきびしくなるが、プロレタリア短歌運動は活発であった。『ポトナム』の作品にも、口語・自由律短歌も多くなると、苳三は、プロレタリア短歌もシュールリアリズム短歌も、もはや「短歌の範疇を越える」ものとして排除し(『ポトナム』1931年5月)、坪野哲久と岡部文夫が去っている。1933年1月号において、「現実的新抒情主義」を提唱し、「ポトナム短歌会」という結社の指針を示した。現在でも、結社として、その理念を引き継いできているが、その内容はわかりにくい。要は、短歌は目の前の現実を歌うのではなく、「現実感」を詠んで、「抒情」を深めよということではないかと、私なりに理解している。
 戦争が激化し、短歌も歌人も「挙国一致」「聖戦」へと雪崩れてゆくのだが、苳三は、創刊した『ポトナム』、自ら創刊・編集した『立命館文学』や種々の雑誌、NHK大阪放送局などで近代・現代短歌研究の成果などを矢継ぎ早に発表している。1940~42年には、『明治大正短歌資料大成』全三巻を完成させ、近代短歌史研究の基本的資料となり、1955年6月に刊行された『近代短歌史(明治篇)』は、その後の短歌史研究には欠かせない文献となった。短歌史研究上の評価については、『ポトナム』同人の研究者、国崎望久太郎、和田周三、白川静、上田博、安森敏隆らにより、社外からは、木俣修、篠弘、佐佐木幸綱らによっても高く評価されている。
 生前の歌集には、①『夕潮』(1922年8月)②『くさふぢ』(1933年4月)③『(従軍歌集)山西戦線』((1940年4月)があり、没後には④『くさふぢ以後』(1960年11月)⑤『小泉苳三歌集』(1975年11月)⑥『小泉苳三全歌集』(2004年4月)が編まれた。④は、墓所のある法然院に歌碑建立した際の記念歌集で、①は全作品収録されたが、②③④については抄録であり、⑥は、①~④をすべて収録した上、略年譜、短歌初句索引、著書解題、資料として追悼号や記念号で発表された、和田周三、阿部静枝、小島清、君島夜詩、国崎望久太郎による苳三研究論文が収録されている。さらに、白川静と上田博による書下ろしの評伝も収録された。
 いまここで、私の気になる何首かを上げたいところだが、各歌集から一首だけにして、先を急ごう。

①『夕潮』「大正十年」
白楊(ポトナム)の直ぐ立つ枝はひそかなりひととき明き夕べの丘に(朝鮮へ)

②『くさふぢ』「桔梗集 自昭和五年至昭和七年」
わがちからかたむけて為(な)し来(きた)りつること再(ふたた)び継(つ)ぐ人あらむや(書庫)

③『山西前線』「山西前線篇二」
 最後まで壕に拠りしは河南学生義勇軍の一隊なりき(黄河々畔)

④『くさふぢ以後』「Ⅲ自昭和二十一年 至三十一年」
ある時は辛(から)きおもひに購ひし歌書の幾冊いづち散りけむ(一月八日)

(続く)

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ポトナム短歌会と立命館大学図書館・白川静と用文字文化研究所との共催で『ポトナム』創刊百周年記念の展覧会が開催されている。立命館大学図書館の特殊コレクション「白楊荘文庫(旧小泉苳三所蔵資料)を中心とした展示となっている。衣笠キャンパスでの開催は終わったが、現在は大阪いばらきキャンパスで開催中、10月7日からは、びわこ・くさつキャンパスでで開催される。私も、コロナ感染が収まったら、ぜひ出かけたいと思っている。お近くの方は、ぜひ立ち寄ってみてください。

 

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2022年3月22日 (火)

『津田梅子―科学への道、大学の夢』(古川安)を読む~津田梅子は何と闘ったのか

 東大出版会のPR誌「UP」3月号に載っていた著者古川安氏の「ブリンマーと津田梅子と私」という執筆余話を読んで、本書を読みたくなった。新刊なので、どうかなと思ったが、市立図書館ですんなり借りることができた。

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1892年6月、再留学時の写真と思われる、の説明がある

 津田梅子(1864~1929)が、1871年、北海道開拓使による女子留学生五人の内の一人としてアメリカへ渡ったのが七歳で、最年少であった。歴史の教科書で知ってはいたものの想像がつかない世界だった。アメリカの家庭において11年にわたる中等教育を受けて、帰国後、華族女学校の英語教師などに就き、1900年女子英学塾(後の津田塾大学)を創立、女子の高等教育の向上、「職業婦人」の育成を目指した、近代日本の教育史や女性史には必ず登場する女性である。かつて大庭みな子による伝記『津田梅子』(朝日新聞社 1990年)を読んだことがあった。梅子は短歌を詠んでいないかなという関心からだったが、どうも、短歌とは縁がなかったようだ。

  本書の著者は、科学史が専攻の研究者で、サバティカル休暇でペンシルバニア大学に留学中に、従来の梅子の伝記ではあまり語られることのなかったブリンマー大学に再留学し、生物学を学んだ三年間に関心を深めたという。学業に専念し、研究者としての成果を上げ、後に、ノーベル賞を受けるトマス・H・モーガン教授の指導の下、共著の論文を公表していたことも知り、さらに丹念に調べていくうちに本書を書くに至ったという。
  本書を読み始めると、梅子が1882年17歳で帰国後、就いた英語教師や日本での女性の地位の低さに落胆、葛藤の末、1889年、再び留学を決意、華族女学校からの官費により92年までの三年間、フィラデルフィア市近郊のブリンマー大学で、生物学を学びながら、教育現場の視察などにも熱心だったことがわかる。ブリンマー大学ほかアメリカの大学のコレクションやアーカイブに残された資料、津田塾大学津田梅子資料室、学習院アーカイブ、宮内庁の公文書館などの資料を駆使してしての渾身の津田梅子の伝記である。ブリンマー大学からは、研究者として残ることを勧められながらも、帰国していたこともわかる。もし続けていたら、日本の女性科学者の嚆矢になっていたかもしれない。当時の梅子の心情は、どうであったのか、興味深いところでもある。
 それにしても、最初に留学した折の船旅を共にした岩倉具視使節団一行の一人伊藤博文との交情、アメリカでの育ての親ともいうべきプロテスタント教徒のランマン夫妻、ともに帰国した山川(大山)捨松、永井(瓜生)繁子との友情、迎えた少弁務使の森有礼との出会い、華族女学校の下田歌子、女子英学塾の創立に尽力した新渡戸稲造、星野あい・山川菊栄らとの師弟愛・・・。実に多くの人たちとの交流、支援があったこともわかってくる。

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本書22~23頁から。右上:1871年渡米直後、ランマン夫妻の家にて。右下:1976年11歳頃。
左:1876年夏、フィラデルフィア万国博覧会で再会した、左から梅子、山川捨松、永井繁子。
                                                                                

 そういえば、梅子の父親の津田仙(1837~1908)は、私の住む佐倉市ゆかりの人である。佐倉藩の武士の家に生まれ、1861年江戸の武士の家の津田初子(1842~1909)と結婚、婿養子となり、夭折の子を含め五男七女を成し、梅子は次女であった。早くよりオランダやイギリスの医師から英語を学び、幕府の通訳として訪米したことから、アメリカの文化や農業に触れ、維新後は、外国人用ホテルで働き、西洋野菜アスパラガス、イチゴなどを栽培、1873年ウィーンの万国博博覧会に随行、オーストリアで農業技術を学び、1876年学農社農学校を起こし、農作物の栽培、販売、輸入、『農業雑誌』創刊など、農業技術の発展に努めている。それに先立ち1874年夫婦でメソジスト派の洗礼を受け、青山学院の前身である女子小学校、筑波大付属盲学校の前身である特殊学校の創立にかかわり、普連土学園の名付け親にもなり、女子教育の向上にも努めた。農学校の教師に内村鑑三らを迎え、卒業生には『農業雑誌』の編集人を務める巖本善治らを輩出、足尾鉱毒事件の田中正造を支援するといった、その活動と人脈の広さには目を見張るものがある。

 その津田仙を顕彰しようと、佐倉市では、命日の4月23日前後に、市内の全小中学校給食に、西洋野菜をふんだんに使った「津田仙メニュー」が供されている。それも大事だが、明治を駆け抜けた、いわば型破りともいえるの津田仙・梅子親子にも光を当ててほしいな、とも思う。

 なお、3月5日にテレビ朝日のドラマ「津田梅子―お札になった留学生」(脚本橋部敦子、監督藤田明二)が放映された。ドラマは、広瀬すず演ずる梅子の最初の留学後、そして二回目の留学後も日本の女性の地位の低さ、女性にとっての職業や結婚への男性の偏見と闘う姿、めげずに最初の留学同期の山川捨松、永井繁子との曲折を経ながらも熱く結ばれた友情、女子英学塾創立に至る時代に焦点が当てられていた。伊藤英明演ずる津田仙もたびたび登場するが、六歳の梅子を留学させる英断、仙の幅広い社会的活動とは裏腹に、旧態然とした家族観、結婚観などが梅子の活動のブレーキにもなっていたことにも触れていて興味深いものがあった。仙には二人の婚外子もいたという。ちなみに、佐倉藩旧堀田邸でのロケも行われたらしいが、舞台が佐倉というわけではない。衣裳考証さん、広瀬すずさん、頑張りましたね。伊藤博文役の田中圭、森有礼役のディーン・フジオカ、ご苦労様でした。二人とも暗殺されるのだが、ドラマではスルー?

 2024年、新5000円札は、樋口一葉から津田梅子に代わる。

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2022年3月5日放映、テレビ朝日ドラマ「津田梅子~お札になった留学生」のキャスト

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広瀬すずを真ん中に池田エライザ(山川捨松)、佐久間由衣(永井繁子)。広瀬以外、二人の女優を私は知らなかった。

 

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2022年2月17日 (木)

秋篠宮家の長男の進学先が決まったらしい

 在学中の中学校と進学先の筑波大学付属高校との間の時限的な提携校進学制度を活用した上、一般入試も受験し、2月16日に合格が確定したとの報道である。ちなみに今年の募集要項をみると、男女ほぼ同数の合計80名、英・国・数・理・社の五教科(300点満点)と調査書(80点満点)をもって総合的に判断する、となっていた。大学名は変わったが、私の母校には違いなかったので、なんとなく気にはなっていた。
   私が受験した当時は、五科目に加えて、音楽、体育、職業・家庭、図工が加わっての9科目であった。苦手だった音楽と体育の実技の試験が不安であった。体育は、運動場に出て、先生(後から思えば広井先生)の前で逆上がりをやった記憶がある。この実技に、私は半そでの体操服でのぞんでいたのを、手伝いか何かで、どこかで見ていた内部進学の生徒がいたらしい。あとで、「寒いのに、かなり張り切っていたじゃない」とからかわれたのを覚えている。また、音楽は、一人づつ教室に入って、黒板に書かれた楽譜の楽典的な知識と歌唱のテストであったと思う。

 募集定員は男子30名、女子15名であった。付属中学校からの内部進学者と合わせて各クラス男子30名、女子15名の5クラス編成で、高校からの外部入学者は、五クラスに男子6名、女子3名が配属されたことになる。入学当初は、「付属文化」?みたいなものに戸惑いながら、高校からの女子3人が固まっていることも多かったが、それぞれの性格や選択科目の違いもあって、まじりあっていくことができたのだろう。私は、嫌いではなかった「書道」を選択、上条信山先生の時間は楽しかった思い出がある。高校なのに、第二外国語があるというので、ドイツ語を選択したものの挫折した。大学でもドイツ語を選択、英語も一緒なのだが、まったくものになっていない。後に海外旅行をするたびにいやというほど知らされた。
 担任は三年間、化学の米山勝太郎先生だった。授業では「なぜって、おめぇ」が口癖だった。数年前、白寿を全うされた。数学の横地清先生は「もう、人生に疲れたな」風のボヤキで始まる授業だったが、指導はきびしく、あてられて黒板で立ち往生、解答できないと、妙な宿題が課せられた。理不尽ながら従うしかなかった。そうして、時どき、勧められたのが「ヴィーチャとその友達」という少年向けの物語だった。ロシアの子どもたちはみな教え合って向上するという話らしかったが、読みかけたものの登場人物の名がややこしくて、こんな余裕はないみたいなことで挫折?いまだに先生の宿題は果たしていない。世界史の山本洋幸先生は、物語調の弁舌で、聞いていて楽しかったが、受験対策としてはどうであったのだろう。
 数年後、大学での「社会科」の教育実習で、母校でお世話になるのだが、指導の金原左門先生には絞られた。「一般社会」で「国際社会の成立」?あたりの授業だったのだが、人前で話すことが苦手だった私は、「君は教職には向かないかも」とも言われた。一方、池袋の薬屋で育った私は、店番に立つことは、けっこう好きで、栄養剤を勧めたり、資生堂の高い化粧品を売って、花椿会入会の勧誘をしたりした。土地柄、男性用品を買いに来たお客には「ダースですか、バラですか」なんて応じていたのだから。

 高校での校外生活、夏の富浦海岸、蓼科高原での生活、二年の東北、三年の関西の修学旅行は、かなりの日数、家を離れることになり、出先から、何枚ものハガキを家に書いていたらしい。休業日もなく働いていた家族たち、旅行などというものは七つ上の兄が高校の修学旅行に出かけたくらいだったからだろう。いまのようなスイミングスクールなどない時代、富浦では、クラスのほとんどが遠泳に挑戦していたが、私はボートから氷砂糖を渡すくらいの応援しかできなかった思い出もある。
  スポーツでは、対外戦も盛んで、学習院との大掛かりな試合は「院戦」と呼ばれた。馬術とか開成とのボートレースとかの観戦も体験することができた。

 私の最初の就職先が学習院大学で、二年で飛び出したっけ。そして、いつの頃からか、天皇制への関心が高まった。妙な因縁ではある。
  コロナ禍の前に、高校最後の同期会というので、何十年ぶりかで参加した。これも数十年前のたった一冊の同窓会名簿も処分した。会費は納めていないが、同窓会「会報」だけは頂戴している昨今である。

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岩波少年文庫で、1954年1
月に出版されてたというから、当時は新刊であった。

 

 

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2021年4月11日 (日)

沖縄「一中健児の塔」を「顕彰碑」とした歴史教科書が検定を通過?!

 4月3日の『東京新聞』によれば、沖縄戦に動員された沖縄県立一中の学徒隊の慰霊碑が、「顕彰碑」と紹介され、戦争を美化するような表記がある教科書が、文科省の検定をパスしていたというのだ。2022年度から使用される高校の新しい科目「歴史総合」の教科書(明成社)は、とくに問題がないと検定をパスしていたが、報道機関や元学徒らの抗議、訂正の要請を受け、出版元は訂正の意向を示しているという。

明成社:日本会議メンバーの著作を多く出版。2002年の検定にパスした地理や日本史の高校教科書での「竹島は日本の領土で、韓国が不法占拠」との記述に対して韓国政府から抗議を受けた。私の手元には『天皇陛下と沖縄』(日本会議事業センター編 明成社 2012年)がある。

 この記事に接して思い出したことがある。

 私が初めて那覇空港に降り立ったのは、2014年11月、ちょうど沖縄県知事選挙・那覇市長選挙戦が終盤に差し掛かっていたときだった。ゆいレールへの陸橋を渡るときには、すぐ下で「オール沖縄で<建白書>実現を」の横断幕をつけた宣伝カーからオナガ支持を訴えていたし、どこからか「オナガ夫人が城間市長候補の応援に駆けつけました」との声も風に乗って届くのだった。翌日、最初に向かったのが首里城だった。ゆいレールの終点首里駅の周辺には「共産党支配のオール沖縄!!」という明らかな選挙妨害のノボリが、あちこちの電柱に括りつけられ、選挙戦の激しさを物語っていた。

 首里城の長くて、高い城壁は壮観だった。あの守礼門、そして、中庭を囲む絢爛たる正殿・南殿・北殿に圧倒されたことを思い出す。2019年10月、なんとそのほとんどが炎上してしまったというニュースには驚かされたのだった。

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  その首里城と玉陵を見学した後、立ち寄ったのが、現在の首里高校とは道を隔てて、少し入ったところの首里高校同窓会館に接して建てられた「一中健児之塔」1950年4月建立)であった。

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 同窓会館の2階には「一中学徒隊資料展示室」(2005年12月開設)がある。その展示によれば、1945年、沖縄県立第一中学校では3月27日卒業式が行われた後、3~5年生を中心に鉄血勤皇隊に動員された者約144名、2年生を中心に通信隊に動員された者110名、4月19日養秀尞が艦砲弾で全焼、軍と共に南部へ撤退し、犠牲者は続出、289名を数える、という。

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  沖縄戦における学徒隊の動員は、兵力の不足を補うため、すべての中学校、高等女学校の生徒を対象とし、男子が14歳から19歳、女子は15歳から19歳の生徒で編成された。一中の生徒たちは、第32軍司令部の直轄部隊の各部に配属されていた。展示室には、爪や遺髪などの遺品、遺書、遺影、追悼集のほか、焼失前の校舎や教室の写真、教科書なども並び、学び続けたかったであろう学園生活の一端も伝えていた。

 私にとって、最も印象深かったのは、ずらりと並んだ、生徒たちの遺影であった。どれもみんな幼く、はにかんだような表情を見せる少年たちは、一見、やさしくも思えたのだった。わずかに残された写真から、拡大し、トリミングした顔写真が並ぶ。ぼやけているものも多いし、なかには、幼少時の写真が掲げられているものもある。見学を終えて、展示室を出ようと、何気なく振りかえったとき、その少年たちの視線は、いっせいに私に向けられ、悲しくも、鋭く、懸命に訴えるようにも思えたのだった。犠牲者の家族も全員亡くなって、写真一枚も見出せず、遺影がないままの生徒もいるという。

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上記の写真は。いずれも2014年11月11日、筆者撮影。展示室内の写真撮影は不可であった
下記の写真は、『養秀ニュース』56号(2016年10月)から拝借。家族にあてた遺書。教官が生徒らに遺書を書かせ、二つの壺に収められたものが地中から発見され、修復されたものの一部が展示されている

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 なお、沖縄戦における学徒隊の全貌は、沖縄県子ども生活福祉部保護・援護課の下記のホームページに詳しいです。下記の画像はその一部です。拡大してみてください。

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2020年2月 8日 (土)

東北へ~今回も短い旅ながら(3)宮城県美術館へ

 東北大学の中善並木と反対方向に進むと地下鉄東西線の川内駅へ。中層の白い住宅棟が並ぶ団地(公務員住宅らしい)に突き当たり、右の坂を下りると、宮城県美術館である。 まず、常設展の方から見ることにした。大方、写真撮影はOKのようだった。最初の部屋は、「洲之内徹コレクション」だけの作品であった。洲之内(1913~87)といえば「気まぐれ美術館」なのだが、すでに記憶も遠く、画商の傍ら美術評論家としての発言が思い出される。その経歴をこれまでよく知らなかった。東京美術学校在学中の1932年にプロレタリア運動にかかわったとして検挙、退学している。故郷の松山でも、運動を続け再び検挙され、転向後の1938年、軍の宣撫工作のため中国にわたる。戦後はこの時代に知り合った田村泰次郎が始めた画廊を引き継ぎ、特異な画家たちの発掘や展覧会に尽力した。この部屋の萬鉄五郎(1885~1927)の風景画と中村彝(1887~1924)の自画像が目を引いた。

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上段が、洲之内コレクション、
萬鉄五郎「春」(1912年)
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洲之内コレクションの中村彝「自画像(帽子を被る自画像)」(1909年頃)、「帽子を被る自画像」(1910年)の習作か。

  つぎの「日本の近現代美術」の部屋にある萬の自画像も洲之内コレクションだった。この部屋の冒頭が、あの鮭の絵で有名な高橋由一の三点、松島の二点はともかく「宮城県庁門前図」は、馬車の配置、当時の雰囲気がよく伝わる作品に思えた。18 81年は明治天皇の東北行幸があり、宮城県にも立ち寄っている。直接の関係はないかもしれないが、県の依頼により描かれたという。

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高橋由一「宮城県庁門前図」(1881年)。江戸時代の学問所養賢堂だったが、1945年7月10日の仙台空襲で焼失した。

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洲之内コレクション、萬鉄五郎「自画像」(1915年)

 つぎのコーナーでは「地下鉄停車場」(1924年)が目を引いたが、清水登之(1887~1945)の作品だった。清水は、若くして渡米、働きながらの修行、画業が長く、都市の人々や光景を描いていたが、件の作品は、フランスに渡ったばかりの1924年制作である。清水といえば、かつて、東京国立近代美術館で見た戦争画の中の一点「工兵隊架橋作業」(1942年)の印象が強い。テーマはまるで異なるのだが、展示会場の他の近辺の画家とは何か別のメッセージ、「生活」や「労働」というものが直に伝わってくるからだろうか。

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清水登之「地下鉄停車場」(1924年)。オルレアンの文字も読める。

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清水登之「工兵隊架橋作業」(1942年)、マレー半島を進む日本軍が爆破された橋の
架け直し工事の様子を描いている。

 また、松本峻介(1912~1948)の五点に出会えたのも収穫だった。なかでも大作「画家の像」は、街を背景に、家族を傍らにしっかりと大地に立つ構図は、代表作「立てる像」を思い起こさせる。まだ少年の面差しさえ伺わせる画家の自画像である

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五点のうち、左より、洲之内コレクション松本竣介「白い建物」(1941年頃)・「ニコライ堂」(1941年頃)と「画家の像」

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松本竣介「立てる像」(1942年)、『新人画展(カタログ)』(2008年11月22日~2009年1月12日、板橋区立美術館開催)より。

 他にパウル・クレー(1879 ~1940 )とカンディンスキー(1886~1944)の展示室も興味深いものがあった。二人はミュンヘンで出会い、ドイツの前衛芸術運動の「青騎士」に参加、ともに、バウハウスで教鞭をとることになる。クレーは1931年にナチス政権によりバウハウスを追われ、移ったデュッセルドルフ大学も解雇され、出身のスイスに避難する。カンディンスキーも、1933年、ナチスによるバウハウス閉校後は、パリへと居を移している。クレーといえば、2002年11月下旬、粉雪が舞い始めたベルンの街をめぐり、市立美術館で、クレーの作品に出会った時を思い出す。現在は、篤志家の支援で、2005年ベルン郊外にオープンしたパウル・クレー・センターに、市立美術館所蔵作品と遺族寄贈の作品およそ4000点が一堂に集められているという。できればもう一度と、かなわない夢を。さらに、カンディンスキーのつぎのような作品もあるのを知っていささか意表を突かれたのである。

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カンディンスキー「商人たちの到着」(1905年)

 併設の佐藤忠良記念館もめぐることに。宮城県大和町出身の彫刻家、佐藤忠良(1912~2011)自身の寄贈により、1990年にオープン。展示は年に何回か入れ替えがあるらしい。今回は、さまざまな「顔」、さまざまな「しぐさ」といったテーマで幾つか部屋に分かれていた。彫刻は、どちらかというと苦手ではあるが、佐藤の作品は、どれも優しく、清潔感のある、わかりやすい作品が多かった。

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「さまざまな顔」の部屋には、「群馬の人」のほか、左「母の顔」(1942年)と右「オリエ」(1949年)が並ぶ。オリエは、新劇女優の佐藤オリエの少女期のものである

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さまざまなしぐさの作品が並ぶ。正面が「足なげる女」(1957年)その左右の女性像の作品名は失念。窓の外に見える右が「少年の像」(1981年)、左が「夏」、ほかに、「あぐら」(1978年)などという作品もあった。

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「ボタン」(1967-69年)

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「甦りの踊り」(1974年)

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「このはづく」(1970年)、こんなフクロウの像が家の部屋にあったらな、とも。

 以上、1時間半余り、疲れて館内カフェで、ランチ代わりのお茶をしながら、朝から別行動の連れ合いにメールをすると、なんと企画展「アイヌの美しき手仕事」を見終わったところだという。夫は、ホール近くのベンチでメモをとっていた。仙台駅近くの朝市をめぐってのランチ、仙台戦災・復興記念館をすべて歩きで回ってきたという。記念館では、88歳の空襲体験者からの話を聞きながら見学したということだった。お茶のあと、私は企画展へ、夫は常設展へ向かった。

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タルトはイチゴかリンゴか迷ったが、イチゴもなかなかの美味。イチゴといえば、夫が朝市で買ってきた仙台イチゴ「もういっこ」は、ホテルの夕食後、部屋でたっぷり食しもした。カフェでしっかりと休んだ後、私は、企画展会場に入った。下段、カフェから中庭をのぞむ。この美術館は前川国男の設計なのだが、いま、村井宮城県知事から県民会館との統合施設として仙台医療センター跡地に移転する計画が出され、郡仙台市長が市民の意向に反するものと、異議を唱え、大きな問題になっているらしい。秋保のホテルで、知事・市長の協議が始まったとのニュースを見たばかりだった。

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柳宗悦と芹沢銈介のコレクションからの出展であった。

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2019年3月12日 (火)

改元奉祝のなかで、「天皇依存」の系譜(2)そして、歌人たち

天皇が原発をやめよと言い給う日を思いおり思いて恥じぬ(吉川宏志)
 『短歌』201110月 『燕麦』2012年所収)

   東日本大震災による原発事故の直後に、吉川宏志が発表した作品である。当時、結句の「恥じぬ」の解釈をめぐって、若干の論議が交わされた。「ぬ」は完了なのか、「打消し」なのか、つまり「恥じた」のか「恥じない」のかどちらなのかと。私は、それまでの吉川の作品や発言から当然、「恥じた」として読んだ。「打消し」なら「恥じず」とするのが自然だからとも思った。作者は、もちろん「完了」の方だと明言し、近年の平井弘とのインタビューの中で、吉川自身、この一首について、つぎのようにも語っている。

「天皇に『原発をやめよ』と言ってもらおう、という発想自体に、天皇を利用しようという心根があるわけでしょう。それが恥ずかしい、という歌なんですよ。ただ、今の状勢を見てたら、天皇が言ってもだめかもしれないですね。今の政権は、天皇の意志なんてまったく無視しているわけでしょう。」(特集 平井弘インタビュー「恥ずかしさの文体」(後編)『塔』2017年4月) 

   また別の場所で、吉川は、国旗国歌法(1999813日に公布・施行)が成立したころは「〈天皇制〉を厳しく否定する論調が、歌壇では特に強かった」という認識で、当時の歌壇、時代の空気を思い起こしながら、つぎのように記す。 

 戦争体験などをして、非常に嫌悪感をもっている人たちが存在することもよく理解している。そういった人たちが、反対するのもよくわかる気がする。けれども、「君が代を歌わない権利」がある一方、「君が代を歌う権利」があることも明らかだろう。だから、卒業式などで歌うことを強制することには反対だけれど、逆にあまりに過剰に君が代を否定することにも違和感をもつ。君が代をたまに歌ったくらいで、異常な国家主義者になるわけでもない。君が代を肯定する善男善女は、世の中に無数にいるだろう。現在では、非常に激しく君が代を非難する態度も、社会的にあまり共感されないのではないだろうか。

 左翼的な人々(の一部)は、現実の天皇制を廃止すれば良いのだ、と考えた。しかし、そうではなくて、権力と責任の存在が曖昧なシステムそれ自体に、危険性は存在していた。おそらく、現実の天皇制を批判しても、何も変わらない。
 
むしろ、今年の天皇陛下の年頭のお言葉「東日本大震災から2度目の冬が巡ってきました。放射能汚染によりかつて住んでいた地域に戻れない人々や,仮設住宅で厳しい冬を過ごさざるを得ない人々など,年頭に当たって,被災者のことが,改めて深く案じられます。」
 
を聞くと、原発事故を忘れてしまったかのような、現在の首相や政府の発言よりも、ずっと心に沁みてくる。
 
 いろいろな意見はあると思うが、私は、単純に天皇制は悪だとは考えない立場である。
 (①②とも「短歌と天皇制について」『シュガークイン日録3』20130122日) 

  「国旗国歌法」の条文には、強制、義務化の文言はない。当時の小渕首相はじめ、議会の質疑でも、強制・義務化はない、としてスタートした。その後の経緯は、どうだろう。教育現場では、学習指導要領で縛り、職務命令という形で、「君が代」斉唱時の不起立、ピアノ伴奏拒否などにより受けた処分や不利益は、教師たちの思想信条の自由を侵すものではないか、との訴訟で各所でなされた。管理者の裁量の範囲内であり違憲とは言えない、という判断が定着しつつある中、処分が重すぎるという判決もあったが、まだ係争中のケースもある。吉川は、①において、「強制することには反対だけれど」などと、天皇みたいなことを言う。「君が代をたまに歌ったくらいで、異常な国家主義者になるわけでもない。君が代を肯定する善男善女は、世の中に無数にいるだろう。」とは、どういうことか。統制や弾圧は、些細なことから始まり、それによる萎縮や自主規制が強まり、息苦しくなって、気づいたときは、すでに抵抗の手段を奪われていたという歴史を、私たちは教えられたり、学んできたりしたと思う。

 

 政治の世界に限らず、時代はすでに、数の力で、少数派や異論を無視し、排除する構図が出来上がりつつある。「寛容」や「多様性」の旗を掲げるならば、日常的な談論風発、百家争鳴、混沌こそが、民主主義の基本ではなかったか、とも思う。自分と異なる意見が多数を占め、数の力が及ばないとき、「面従腹背」と言ってしまうのか。吉川のように「天皇を利用しようとする心根」を「恥じた」のならば、いまは“リベラルで、いい人”の天皇を持ち出すのは、フェアでない。②で言うように「権力と責任の存在が曖昧なシステムそれ自体に、危険性は存在していた。」とするならば、その「曖昧なシステム」に「天皇制」が寄与していなかったかを検証する必要もあるだろう。

 「単純に天皇制は悪だとは考えない立場」をとるのは自由だが、その「危険性」に本気で向き合おうとするとき、「現実の天皇制を批判しても、何も変わらない。」とするのは、いささか「単純」すぎないか。

  たまたま、吉川は、自分の意見を表明しているが、天皇依存の歌人も多いのではないか。逆に、天皇の短歌や「おことば」が、過大に評価され、利用されているのを憂慮している歌人もいるのではないか。いまこそ、この「改元」の奉祝ムードの只中でこそ、大いに声を上げるべきだろう。

24img111 レイアウトは異なるが、2019年2月24日朝刊各紙に掲載された政府広報

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商魂たくましい、広告の数々・・・。上が「朝日新聞」2月24日朝刊、下が同紙2月25日朝刊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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