2017年7月12日 (水)

自治会等からの消防団への寄付は、違法性が問われ、廃止の方向へ~迷走する佐倉市の対応に驚く~

 九州、福岡での水害では、懸命の救出作業が進む中、多くの犠牲者が出ている。災害時における自衛隊や消防団員の活動には感謝したい。今回は、消防団員の犠牲者も伝えられている。 

 その一方で、地域の自治会や町内会からの消防団への寄付が、いま問題になっている。当ブログでも四月上旬に、私の住む街での自治会の出来事に端を発して、消防庁や佐倉市に問い合わせたり、判例や各地の動向などを調べたりして、以下の記事を書いた。

 

消防団・社協・日赤などへの寄付を強制されていませんか~自治会の自治とは(1)(2)201749 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/04/post-8f66.html 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/04/post-7804.html

   

1.消防団への寄付について、ふたたび 

行政とのやり取りの中でも、疑問は解明できず、411日に佐倉市に質問書を提出していた。佐倉市の場合、「市長への手紙」や質問や要望に対する回答は、多くは、内容に実のない回答ではあったが、ともかく、回答は3週間をめどに、届いていた。ところが、今回は、数回の督促にもかかわらず、回答が届いたのは6月末日であった。2か月半以上かかってしまったわけで、担当の「危機管理室」の名とはあまりにもかけ離れているではないか。 

 私が、佐倉市長あての質問・要望書は、先の記事と重なる部分もあるが、その要点は、以下のようなものだった。 

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(質問)
 
.市内の各地域で実施されている「消防団への寄付」(協力金、後援会費等含む)は、以下の①②③の条文からして違法と思われます。「公務外の仕事に対して、各自治会などが消防団へ寄付することは、消防団への感謝や慰労の気持ちであって問題がない」とする根拠はなにか。以下の条文・判決内容に沿って回答願います。
 
①消防組織法第9条・15条:消防団は地方行政団体の行政機関である
 
②地方公務員法第63項の五:消防団員は非常勤の地方公務員である
 
③地方財政法第4条の五:割当的寄付金等が禁止されている
 
2010324日、横浜地裁の判決:
 

〇消防団員の慰労のために,市民等から寄附金等を受け取ることは,公務員が本来の職務やそれに関連する業務につき金員を受領しているとも受け取られる可能性があるから、決して好ましいものではない
 
〇消防団が,本来業務のほか本来業務との関連が疑われる活動につき,市民等から慰労などの趣旨で直接寄附金を受領することは、違法となる余地がある
 
⑤『消防団の概要』(危機管理室・消防団本部)では、
 

「4.消防団の仕事」に「(1)消防団員の身分・仕事・権限⇒[1]消防団員の身分⇒3.消防団員は社会に奉仕する団体である⇒②消防活動に対して何らの代価も求めない」とある。


 
2.消防団員が個人としてではなく、制服を着て、公務と類似の業務をすることは、外形上、公務とみなされ、団員たちの認識による判別には意味がない。さらに、前掲『消防団の概要』では
 

「4.消防団の仕事」に「(1)消防団員の身分・仕事・権限⇒[2]消防団員の仕事⇒2.災害発生時以外 ⇒ ①火災発生予防 ②警備警戒活動 ③教育訓練活動 ④機械器具等の点検」 

とあり、災害発生時以外の①~④の業務も「消防団の公務」とされている。消防団員としての地域での諸活動を「公務外の活動」とする理由は何か。

(要望)
 
今年度ないし次年度、直ちに実施できることとして以下を要望します。
 
1.消防団が寄付を請求するはもちろん、消防団が寄付を受け取ることも、法令に従って、禁止してください。あわせて『自治会長・町内会長・区長の手引き』における「消防団の後援会費」についての質疑を削除するとともに、自治会等と消防団の金品の授受の禁止を明記してください。
 
2.他の市町村の条例には、団員の「遵守事項」の一つに「金品や酒食の接待の請求や受けることも禁止する」主旨の条文があるが、佐倉市の「消防団条例」には示されていない。「遵守事項」として条例化してください。
 
3.同時に、まず慣例と実態を知ることが大事なので、佐倉市は、自治会等及び消防団において、消防団への寄付がどのように集められ、渡されているのかの調査をしてください。

 

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 2.消防団による祭礼の警備や野焼きや花火の監視活動は、公務か公務外か 

2か月半後、回答ではない中間報告が届き、そこでは、重大な訂正がなされていた。先の記事にも紹介した、電話でのやり取りで「消防団の地域での活動の中には公務外の活動もあって、それに対する自治会などからの慰労や謝礼の気持ちである寄付には問題がない」とする部分への訂正と思われる。詳しくは、添付資料Aを見ていただきたい。要は、「地域貢献活動として本来の業務以外である自主的な警戒活動をはじめとする地域の祭礼の警備、野焼きの監視活動などの『公務外の活動』に対して地域住民が『慰労や気持ち』として任意に支援しているものであり、市では関知することはできないもの」と説明したが、『公務外の活動』は、『公務の範囲』と訂正する、という内容であった。上記質問書の2.に応えたつもりかもしれないが、なぜ見解が一変したか明らかではない。

 

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資料A・中間報告↑

  これは、「公務の範囲」での上記のような活動に、地域住民の『慰労や気持ち』として任意に支援していることに市は関知しない、と読み替えなければならない。本来「公務」に従事する公務員に「慰労や気持ち」が入り込む余地はないはずである。寄付をする方も受領する方も、まさに刑事犯にあたる行為となる。佐倉市内でも、一世帯当たり千円単位で、自治会として数十万単位で消防団への寄付を強いられている地域もあり、これに関知しないということは、佐倉市自体も、行政機関「消防団」への「公務」に対する寄付は、受領するならば佐倉市への収入として処理していないことになる。   

 

「回答書」の文章をたどれば、そこにも大いなる矛盾が 

 6月末日にようやく届いた回答書は、添付資料Bをご覧いただきたい。その冒頭には、「消防団員が特別地方公務員であること、消防団が消防組織法に規定する行政機関であること、および地方財政法により割り当て寄付が禁じられていることは、事実ですが、これらの規定を踏まえても、当市の消防団への自治会等からの寄付が違法であるとの結論」には飛躍があるという。その次の文章は「自治会等からの寄付は消防団という組織に対する寄付であり、消防団員がこれを受領することはありません」とあり、「消防団という組織」は、回答書冒頭にあるように「行政機関」への寄付であることを明確にしている。飛躍でもなんでもなく、行政機関への寄付であることは、自明のことであるので、「ふるさと納税」のような制度がない限り、受け取ってはならない寄付であり、返還しなければならない性格のものである。 

 回答書にはさらに、消防団への寄付は、「自治会町内会等の自主的・自立的判断に基づく任意の自治活動であり」というが、行政機関たる「消防団」への寄付は、だれからであろうと、何の目的であろうと、行政機関の収入である。行政機関が、市の関知しない収入を得て、関知しない支出をすることは、ほかの行政機関を例に考えても、想定外であって、違法である。しかも、市は、当然のことながら、条例に基づいて、消防団の予算は約7000万円(うち報酬費約5000万円)、渡し切りの交付金も支払われ、消防団員は、特別公務員として、役職によって異なるものの、年間の一律報酬や出動手当、退職報償金なども支払われているのである。

 

 近年、消防団員の成り手が少ない自治体が続出して、消防団の機能が弱体化している例が多く聞かれるのも事実である。少子高齢化、地域の過疎化、地域共同体・家族の在り方自体が変容している中で、消防団制度を維持することに限界に来ているのは確かである。しかし、そのことと地域からの「慰労や謝礼」の印として「寄付」を合法化するのは筋違いで、別問題として考えなければならない。

 

 また、回答書に、寄付が割り当てられていない、寄付をしない自治会もある、ことが任意の証左といい、消火活動は寄付の有無にかかわらず公平に行っていることをもって、行政が関知しない理由としているようであるが、述べてきたように、要は、行政機関が寄付を受領していることの適法性を担保することにはならないだろう。

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資料B・回答書↑

 

 ともかく、佐倉市は、この件の実態を知りたくない、関わりたくないの一点での弁明、いささかあきれた対応が続いている。 

全国的な動向として、各地で、自治会等の寄付の在り方をめぐって、議論が起こっているし、消防団の寄付については横浜地裁の判例などがきっかけで、消防団への寄付を廃止する市町村も増えている。昔のムラ社会意識から抜け出せない佐倉市、後れを取らないように。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年5月14日 (土)

連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(7)女川町の選択

女川の戦死者に

PR館から戻る途中、魚雷回天の基地だったというのが気になり、停めていただいた。そこは、2010年まで、女川第六小学校と第四中学校の在った場所で、学校はかつての海軍の回天魚雷などの基地があったところに建てられた。Aさんも昔、お年寄りから聞いたことがあるとのことであった。帰宅後少し調べてみると、『女川町誌』(1960年、続編1991年)にも記述があるそうだ。

日本海軍は、連合軍の本土上陸に備え、小型舟艇の基地を太平洋沿岸に造ることを計画していた。小型舟艇とは、10人乗りの潜水艇咬龍、2人乗りの潜水艇海龍、1人乗りの人間魚雷の回天、1人乗りのモーターボートの震洋、そういえば、昨秋訪ねた霞ケ浦の予科練平和記念館でも聞いたことがある。牡鹿半島一帯には第七突撃戦隊に所属する第一四突撃隊(嵐部隊)が配され、本部が、ここに置かれていたというのである。当初、各種の小型舟艇が配備される予定であったそうだ。敗戦時は、「大浜」「天草」など5隻と海龍12隻と隊員600人規模であったが、海龍を隠すための壕が、車でも通過した飯子浜(いいごはま)などに、いまも残されているそうだ。そして、1945710日の仙台空襲に続いて、8月の9日・10日の女川空襲では、その軍用船や舟艇が、石巻の中瀬の村上造船所とともに狙われた。女川では、防衛隊だけでも157名(「女川湾戦没者慰霊塔」1966年、木村主税町長による撰文)と合わせると200名近い死者が出ていることも知った。

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女川防衛隊本部が小学校・中学校となり、町の人口減少に伴い、2010年、女川第六小学校と第四中学校が閉校となり、立派な二つの閉校記念碑が建てられていた。

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「ゆたかな心光る汗」の標語の看板が残る



女川の津波被害の犠牲者へ

女川駅に戻って、少し高台の地域医療センターまでのぼると、駅前のかさ上げ工事が一望できる。山を崩し、町全体を7mかさ上げし、高い防潮堤は、海の町としてはむしろ不要であくまで「海の見える町」にこだわった町民の選択だったという。女川町・都市再生機構・鹿島による一大復興プロジェクトである。三月一一日には、この小高い病院にも津波が押し寄せ、玄関には、ここまで達したという赤い線が表示されていた。1階部分のほぼ天井までと見ていいのだろう。だから、地震直後の対応で、1階で働いていた人や患者さんが間に合わず被害に遇われている。慰霊碑にお参りし、一回りすると、この復興計画の途方もなさが思われた。議会を前にながい時間をかけて、ご案内いただいたAさんが最後におっしゃる、原発に頼らない、町民の取り組みによる、ほんとうの復興、復興の先にある不安と期待、被災地はどこも、とくに女川は原発を抱え、さらに困難な再生の過程のほんの一部を実感するのだった。

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地域医療センターの玄関の柱に表示された津波の高さ

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町全体7mのかさ上げ工事

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病院での犠牲者慰霊碑から望む



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いのちの石碑プロジェクト、後世につなぐために。人口10014人、死亡・行方不明者827人総家屋数4411棟の内、全壊2924棟・・・。

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中央の白い翼のような屋根が新女川駅

石巻でも聞いていた、新しい商業施設「シーパルピア女川」が駅から海までの一直線で、そこだけが妙に浮き上がって明るい感じの一画になっている。周辺はすべて工事中なのである。祝日でもあったので、民族舞踊のフェステイバルのようなものが開かれ、あたりには大音響が響く。ランチが気軽に楽しめる店がないね、旅行者の気ままさで「ワカメうどん」を食するのであった。

三泊四日の陸奥の旅も終わりに近づいた。

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石巻線終点、海の見える駅、女川

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万石浦にしばらく沿って石巻に向かう

 

 

 

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連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(6)女川原発へ

朝の教会

石巻二日目の朝、朝食前に散歩と相成った。前日、食堂「まるか」で出会った人の言っていた、古い教会はすぐ近くだった。「ハリストス正教会」はあった。掲示板によれば、東京駿河台のニコライ堂と、その宗旨一にする教会で、この地には1880年聖使徒イオアン聖堂として建てられたが、1978年の宮城沖地震で被害を受け、新聖堂に建て替えられた。その際、旧聖堂は石巻市に寄贈され、現在石ノ森萬画館のある中州の中瀬公園内に移築し、日本最古の木造教会建築として保存されていた。ところが2011年の津波により、2階まで冠水し、流出こそしなかったが、崩壊したのを受けて、解体、再建することになったという。この教会の二度の津波被害、ロシア正教会の歴史に思いは至り、信者たちの気持ちは複雑だろう、と。

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1978年宮城沖地震後の1980年に新築された

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旧教会堂は、中瀬公園に移築再建されたが、2011年3月11日直後の惨状

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中瀬公園の旧ハリストス正教会解体の模様、復元へ

女川原子力発電所へ

  きょうは、女川、955分着。かねてより、知人にご紹介いただいていた地元のAさんと待ち合わせ、初対面である。Aさんは、父親とともに原発反対、脱原発、廃炉を掲げて活動してこられた方である。乗車するなり、「役場は、ヨウ素剤を配り始めました」と言うのがAさんの第一声だった。まずは原発の見えるところまでと、車を走らせる。女川駅からは直線距離で8キロ余だが、41号線は、海岸に沿ったり離れたりしながら、進んだ。途中、小乗(このり)浜などの仮設住宅、大がかりな高白浜と横浦とのトンネル工事の現場を過ぎ、まだ、ブイが木々の枝の先に引かかったままだったり、野々浜では、むかし回天魚雷の基地の宿舎が小中学校となり、いまは廃校のままになっているところだったりを通過する。また、Aさんのお父さんが建てたという「原発反対」の立て看板が2か所あった。だいぶ古くなっていて、運動の歴史を物語るものだろう。昨年の世界防災会議参加者の数人もこの立て看板に注目したという。原子力発電所の全景が見えるところと言えば、ここしかないと降ろしてくださったのが、小屋取の浜だった。向かいの原発の建つ浜「鳴浜」は「ならはま」と呼ばれ、女川では鳴り砂が一番美しい浜だったそうだ。いまは、29mの防潮堤を建設、再稼働に備えている。小屋取の海の正面には山王島という小さな親子島がある。そばの定点観測の鉄塔とともに津波に襲われたという。女川湾には、11の集落と浜があり、復興案の一つとして集約しようという計画もあったらしいが、まとまらなかったという。そこから少し戻った塚浜には、原発のPRセンターがある。東北電力の原発用地買収当時、塚浜の漁師たちは、2500万円で漁業権を放棄したという。それも、個別の交渉が秘密裏の裡に行われ、原発自体に最後まで反対していた地主が突如寝返ったりした経緯もあったそうだ。一号機運転開始1984年、三号機が2002年という、そんな悔しさをAさん親子は味わったらしい。

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終点、女川駅下車、瓦礫の中のホーム

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「なくせ!原発~事故で止めるか、みんなで止めるか」

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小屋取から女川原発全景

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山王島

女川原子力発電所PR館へ

 私はこの種の施設は初めてだった。想定内のPRぶりであったが、東京電力の福島原発と比較して、東北電力の女川原発は、いかに大震災に耐えたかの成功のストーリーが出来上がっているようだった。しかし、PR館配置資料 『そのとき女川は~東日本大震災に耐えた原子力発電所』(東北エネルギー懇談会編刊 20144月)をよくよく読んだり、展示を見たりすると、2号機建屋の海水浸水や1号機重油タンクの倒壊という危機にさらされていたのである。津波被害を免れたと言っても、海抜14.8mの敷地が、地震のため1m地盤沈下したところに13mの津波が襲ったので、あと0.8mの余裕しかなかったことになり、事故とならなかったのは偶然に近かったのではないか。にもかかわらず、311当日、津波警報を聞いた地元民が、PR館に幾人か避難してくると、地域への貢献とばかりに受け入れた上、電気や非常時の備えなどから原発内の方が適切との判断で、原発内の体育館で受け入れることになったという。通勤用バスやヘリコプターなども動員、近隣からの避難住民を積極的に受け入れたという。このことが、いかにも美談のように流布されたらしい。現実には、1号機では高圧電源盤で火災が発生、2台の非常用ディーゼル発電機のうち1台が使用不能に。2号機は、配管通路から海水が浸入し、建屋地下部分にある熱交換器室が一時、深さ約25mまで浸水した。発電機も故障した。体育館では、周辺集落から最大360人が避難生活を送った。Aさんは、必ずしも安全でない原発内に3カ月も避難住民を留めたことに疑問を持っていた。

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受付では、ゴーヤの種と「東北電力女川原子力発電所」の「潮位時刻付きカレンダー」とパンフレット類が渡される。干潮・満潮の時刻がわかるというカレンダー、よく考えると「怖い!」

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左から、1号機2号機3号機と並ぶ。PRセンターが左上に、2本の送電塔の右に体育館が見える。ここが避難所になっていた。『そのとき女川は~東日本大震災に耐えた原子力発電所』から作成

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こんなパネルも

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電気事業連合会のパンフも入ってました。どこかで見たことのある人たち、こんなところで一役?かっていたんですね

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2016年5月12日 (木)

連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(5)パン工房「パオ」と食堂「まるか」

石巻市復興まちづくり情報交流館

ガイドのTさんが最後に案内してくださったのが、「石巻市復興まちづくり情報交流館(中央館)」だった。被災の状況、復興の様子などがコンパクトにまとめられている展示室で、石巻に20数年住んでいるイギリス人のリチャードさんが館長さんを務めている。昨年3月仙台市で国連世界防災会議が開かれたが、その開催直前にオープンしたらしい。交流のためのスペースも用意されているが、どのくらい活用されているのだろうか。ちょっと中途半端な気がしないでもなく、どうも役所臭が抜け切れてないような、そんな印象ではあった。


食堂「まるか」

身体は冷えて、靴も靴下もビショビショ、一度ホテルに戻って、着替えてから、また雨の町へ。少し遅い昼食ながら、ガイドさんに紹介された、「まるか」食堂へ。どんぶりに好きな刺身をトッピングできて、価格もリーズナブルと言われて、入った店内は、何のことはない、大きな魚屋さんで、真ん中に長机と椅子が並んでいる。レジのおばさんに、教えてもらいながら、ともかく定食のご飯とみそ汁を頼み、あとは冷蔵ケースにびっしりと並んでいる、小振りにパックされた刺身類をレジに持って行って支払い、後はセルフサービスである。冷えた体には、駆けつけのお茶がおいしかったこと、上等なお茶に違いないと。定食の汁ものはカニのみそ汁だった。私たちは、ウニとマグロといかの天ぷら、酢の物・・・。他にもたくさんあったのだが食べられそうにもなく断念。ごちそうさまでした。一人前900円弱。食後は、店内をめぐると金華ブランドのサバやイワシ、牡蠣や海鞘、カニやホウボウ、アナゴ・・・所狭しと箱が重ねられている。ひときわ鮮やかな赤い魚、よく見ると「吉次」の札がのせてある。そこへ地元の主婦の方が、「キチジ、今日はおいしそう」と言うのを聞いて「キチジと読むんですね」と思わず尋ねてしまう。もちろん持ち帰りもできないのだが調理法なども伺い、話ははずむ。ご自身も被災者で、復興住宅に住んでいるとのこと。明日、女川を訪ねると言えば、父親の転勤で女川に数年住んだことがあるそうだ。ついでに、近くでお勧めの場所はありますかと尋ねると、ホテルの近くだったら、たしか古い教会があるはずですよ、とのことであった。

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目移りがして困った・・・

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いちばん奥の赤い魚が「吉次」

復興ふれあい商店街、パン工房「パオ」

あちこちと空き地が多い街ではあったが、食べ物屋さんとバーが多いのは港町だからか。地図を頼りに、復興ふれあい商店街に寄ってみることにした。プレハブの細長い3棟ほどが並んでいるが、相変わらず足もとが悪いし、雨のため戸を閉めている店も多く閑散としていた。「パン」の旗を掲げている店に入ってみた。「どこから来ましたか」に始まって、いろいろ話していくうちに、ともかく、このパン工房パオのお店長お勧めの生ゆばを練り込んだ食パンを買い、おやつのケーキを買ったところで、コーヒーをどうぞ、この甘食どうかしら、ラスクはどう、サービスですよ、の問わず語りに、店を開いた経緯、この仮店舗も一度の延期を経て、この10月には引き払わなければならないことなどもろもろの話になった。そもそも市内にあった店に津波が運んできた漁船が突っ込んだが、その直前に高台にある我が家に駆け上がって、とにかく命は助かった、という。店先の漁船は、いくつかの写真で報道されたといい、新聞記事や記録写真集を見せてもらった。パン工房は廃業かと思う日もあったが、全国の「生ゆばパン」のファンの励ましで、再開すると注文が途絶えず、今日にいたっているという。と言っても、店の再開には資金も必要なので、不安も多いというが、元気な、前向きの方だった。途中で、ビタミンCを補うべく、いちご「あきひめ」1パックを買って、ホテルに戻った。

夕食は、ホテル内のレストランだったが、このホテルも、1階は津波の被害に見舞われたが、他は無事だったので、近くの住民の避難場所になったといい、駅近くでも場所によってはボートで移動したという。ホテルも全面再開には半年くらいかかりましたよ、との話だった。海からの津波ではなく、北上川の堤防を乗り越えてきた津波だった。海側の防潮堤もさることながら河川堤防の重要なことを認識したという。そういえば、石巻の駅舎には、津波はここまでという表示がされていた。

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復興ふれあい商店街というが・・・

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パン工房「パオ」の店長さん

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石巻駅の津波表示

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石巻駅ホームから市役所と建設中の市立病院

 

 

 

 

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2016年5月11日 (水)

連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(4)その津波の壮絶さ

     翌日は、予報通りの雨と風。私は薄手のコートは着ていたがかなり寒い。連れ合いは、セーター姿の軽装に、近くのコンビニで、ビニール合羽を購入、一日中脱ぐことはなかった。  駅近くの観光協会で、かねてよりお願いしていた語り部ガイドTさんとタクシーの運転手さんと待ち合わせ、9時半過ぎ出発。最初に下車したのが、日和山、大きな鳥居が目に入る。運転手さんから 足もとの水たまりに気をつけてくださいよ、言われつつ、まず、北上川河口の市街が見渡せる場所に立つ。背後には日和山神社、ガイドさんの第一声は、「ここへ避難され方は全部助かりました。でも、わが家が、眼下で大津波に流されていくのを見て呆然とした方も多かったです」と。Tさんは、3月11日当時は消防職員として、3日間、ご自身の家族の安否が分からないまま、救助活動を続けた。みぞれの吹き荒れる、あの夜の水温は、1・2度、首までつかっての救助に携わったという。

石ノ森萬画館

見おろした正面の川の中央には、中洲が広がり、その端にきのこ状の白い建物が目立つ。「石ノ森(章太郎)萬画館」だそうだ。「きのこ」でなくて「宇宙船」を模したそうだ。この中洲の他の建物は流出してしまったが、ここは残った。津波の当時、萬画館の最上階にいた人は、頭上を漁船が押し流され、船底を仰ぎ見たという。石ノ森(1938~1998)は、宮城県登米郡中田町石森の出身で、その郷里にも記念館があるはずだ(2000年7月オープン)。自慢ではないけれど、私は、石の森の父親の小野寺さんと会って?いる。というのも1973年、私の短歌の師、阿部静枝の歌碑が郷里石森の神社に建てられ、その修祓式のお祝いの宴席で、地元代表で挨拶されたのだ。石の森の漫画は読んだことはないのだけれど、そんな関係で、なんとなく親しみのある作家だった。それに、池袋のトキワ荘にも手塚治虫らと住んでいた時代もあったという。しかし、石巻と石ノ森との縁は何かと言えば、若いころ、石森から、この石巻の中州にある映画館に、なんと自転車で通っていたというのだ。その映画館の跡地に、石巻振興の一環として建てられたというのである。石巻には「まんがロード」が設けられ、街角にヒーローやヒロインの人形が立つ。「漫画」でなくなぜ「萬画」というのか、萬画館のホームページには「1989年に石ノ森先生が提唱した『萬画宣言』によるものです。『萬画宣言』の中で石ノ森先生は、漫画はあらゆるものを表現できる無限の可能性を秘めたメディアであることから、もはや『漫画』ではなく万物を表現できる『萬画』であると提唱しました」とあった。

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中州の先に見える白い石ノ森萬画館
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市役所前のフィギュア、この市役所は、3・11の一年前、駅前さくら野デパートをそのまま譲り受けたものという

復興祈念公園予定地

日和山から北上川河口の方に目を転ずると、日和大橋をはさんで右岸一帯には、いま、建物が見当たらない。Tさんによれば「これから案内すると所だけれど、あの辺り一帯は、にぎやかな港町だったが、あっという間に津波にのまれた」地区というのだ。河口の左手は「石巻漁港で、後ほど案内しますが、立派な魚市場が完成したばかり」との説明だった。 次に、下車したのは、その、何もない港町だったところだ。瓦礫こそないが、しばらく焼野原のような、道なき道を進んだ、荒れ野の真ん中であった。よく映像で見たことのある「がんばろう!石巻」の看板の立つところだった。5年後の、この4月に、新しく建て替えられたというニュースは見たことがあった。 ほんとうに何もない焼け跡、私の数少ない体験でいえば、東京の池袋の焼野原に建てたバラックの我が家に、疎開先から一家で引っ越してきたときの記憶につながる。それでも、町内の石造りの蔵が、2か所ほど焼け残っていたし、池袋駅前の闇市までの平和通りには、すでにバラックも数軒建てられていた。1946年7月のことである。 ここ、南浜地区の40ヘクタールには、まだ何も建てられてはいない。すでに「復興祈念公園」となることが昨年決定している。看板の立っている場所はもともと門脇町の水道配管工事店があったところで、オーナーが瓦礫の山の中からベニヤ板とパイプを探し出し、ともかく「元気を出さねば」の思いで、4月11日に完成させたといい、5年の間に、祈りの場ともなって、さまざまな追悼行事がなされるようになり、訪れる人も多くなった。祈念公園完成後も引き継がれるという。この地には約4700人の方が住んでいらしたが、死者572人、行方不明者が42名におよび、月命日にはその捜索も実施されてきたが、いまは数か月に一度になったとのことであった。 Tさんの説明には、私たちにはずいぶん配慮されているところがあることもわかるのだが、津波が引いた後も約3週間で200棟近くが焼け出されたという。私たちが接する報道では、津波に襲われた後、あちこちから火の手が上がった気仙沼の映像が記憶に残っているが、石巻も、その火災で犠牲になった方もいらした。日和幼稚園園児5人が、地震直後、バスで家へ送り届けられる途中、津波に呑み込まれたのち、延焼の末、亡くなったという悲劇があった。幼稚園から、避難所の小学校に、小学校から日和山に避難した園児たちは助かったという。なぜ、海に向かって、津波に向かって園児を乗せて走ったのか、遺族から園の責任が問われているという。 帰宅後、3月11日当日の日和山から市街の様子を撮影したいくつかの動画を見ることができた。みぞれがレンズを打ち、海鳥が群れをなして画面を横切っていく中、津波が、船やビル、家々を押し流していくさまをあらためて目の当たりにした衝撃を忘れてはならない。

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「石巻市南浜地区復興祈念公園基本構想」より

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手前の建設中のビルは、復興住宅だが、津波で壊滅的な被害を受けた跡地に建設したため入居者が3割ほどしか決まってないという。

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日和大橋を望む、津波は高さ18mの橋の下に押し寄せ、たまたま橋を通過していた車は助かったそうだ

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5年を経て、4月に少し移動して建てられたばかりであった

世界一長い石巻魚市場へ

つぎに下車したのが、南浜地区から日和大橋を渡って、昨年完成したばかりの魚市場だった。876m、世界一を誇る長さの魚市場だそうだ。約3年間で、200億、鹿島による工事だったという。市場内の衛生管理はハイテク管理で、鳥一匹の侵入も許さない!というシステムだそうだ。もうすでに水揚げ量からすれば9割は復旧したそうである。 地元の政治家が大きく動いたのでは…というのが、地元の見解のようであったが、復興の象徴になっているという。構内には、宿泊や商業施設のビルも建設中で、完成の暁の観光客も見込まれている。今年の3月に、天皇夫妻はここへ立ち寄り、これまたできたばかりの漁業関係者の慰霊碑にも参ったそうだ。

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石巻魚市場、鹿島のHPより

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駐車場から雨に濡れずに市場棟に移動できるはずが・・・

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すでにセリは終了していて、がらんどう・・・

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2014年10月18日 (土)

あのヘリコプターの編隊は何だ~10月26日、百里基地観閲式の訓練らしい・・・

  1015日、正午近く、私は西の空を南から北へ編隊で飛んで行くヘリを見た。5機ほどの編隊が二つ、雁のように編隊を組んで10機ほどが飛んでいくのを見た。これは、通常の訓練ではない、何だろうか。それでもその日は、一回きりだったように思う。16日は、家を離れていたので分からないが、17日の10時半ころ、今度はもっと低空で、北西から南東へと10機ほどが我が家の上空を飛んで行った。この日になって、下総の航空自衛隊の基地に問い合わせてみたところ、下総からはヘリは飛んでいない。どこの基地から飛んでいるかは、県に届けが出ているので県が把握しているはずとしか答えてもらえなかった。

千葉県庁の代表番号に、ヘリコプターの件でというと、「オスプレイについてですか」と問い返される。最初は生活環境?…という部署だったが、企画政策課?に回された。ここではケンモホロロに自衛隊のことは自衛隊に聞け、こちらでは「答えられない」の一点張り。自衛隊と言っても、可能性のある基地は分かるのではないか、その連絡先をといえば、航空機は、日本中どこからでも飛んでくるからどの基地からかはわからない!とまで言い放った。この県民の不安はいったいどうしたら解決されるのだろう。「自衛隊のことは自衛隊に聞け」ともう一度、下総に電話して、広報窓口に経過を話せば、代わった上司らしき人は、「これは、正確な答えではなく、あくまでも自分の推測ではありますが・・・」と答えてたところに拠れば、1026日、茨城県の百里基地で航空自衛隊の観閲式が開催されるので、その訓練ではないかと思う、とのことであり、次の日曜日は、総予行訓練日なので、また騒音で迷惑をかけるかもしれないということであった。

下総基地でも、最初からその程度の答えは、聞かせてほしかったし、千葉県は、おそらく承知しながら、面倒を避けるため、答えることを拒んだのだろう。ああ、集団的自衛権行使が容認され、特定秘密保護法が施行される段には、国防のためならばもう秘密は何でもアリ、ということになってしまうのではないか。日に日に身めぐりの不自由さを感じるこの頃、国民の暮らしと命を守るという首相の言葉は空しい。

その後、百里基地のホームページを開いてみると、1026日の観閲式と13日の訓練が台風のため1017日になったというお知らせは載せていた。陸海空の自衛隊の観閲式は、百里基地で行われ、1年交代で、3年で一回りするそうで、今年は60周年になるという。

災害救助隊として派遣されて活躍する自衛隊員には、ほんとうにその苦労に感謝することが多くなった。御嶽山での行方不明者の捜索にあたっても、二重遭難が危惧される状況の中、捜索の成果がなく下山してきた隊の責任者にマイクを向けるメディア・・・。軍隊ではなく、戦争のための、戦場のための訓練ではなく、戦力増強ではなく、その予算をもって、災害救助隊としての最高の装備とスキルを備えてほしい。

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2014年5月 1日 (木)

新緑の歴博へ、企画展「歴史にみる震災」はこれでよかったのか(2)

  

企画展「趣旨」と「ごあいさつ」のあいだ

展示会冒頭のキャプションや貞観地震での解説に見られる、東日本大震災の“枕詞”にもなっていた「想定外」「1000年に1度」への異議申し立ての姿勢に納得し、第2部「近代の震災」では、阪神淡路大震災と直近の東日本大震災をどのように総括するのかに期待した。歴博のホームページにおける、今回の企画展の「趣旨」ではつぎのように述べられている。

「本展示は、東北地方の歴史上の震災と、近現代の震災という、大きく二つの角度から構成しています。前者が、歴史を大きくさかのぼりながら、長いスパンで、311に至るまでの地震災害の連続性を捉えるものであるのに対して、後者は、近い時代の震災の中に、今日と通底する問題を見いだしていこうとするものです。(中略)

被災地のイメージは、最も被害の大きかった地域を中心に形作られるケースが多く、そこから距離のある地域の被害や被災者は、ともすると忘れられがちになります。

また他方で、被災者の救済が、震災では大きな課題になります。今日的にいえば、「復興」のなかには、本来的にこの救済が含まれるのですが、実際にはそのなかで、救済の網の目からこぼれ落ちる人びとを出してしまいがちなのもまた事実です。震災の歴史とは、そうした救済の欠落に向き合おうとしてきた歴史であるともいえます。

本展示では、これら、いわば人や社会によって、震災がどう経験され、何が学ばれ、そして何が忘れられるのかといった点を、時代性や社会史の視点から紐解くと同時に、自然科学的な知見と人文科学を交差させる形で、災害史の研究成果を反映させつつ、震災を立体的に捉え直す場にしたいと思います。」

 

しかし、阪神淡路、東日本大震災についての展示は極端に少なく、関東大震災が大きな比重を占め、近現代の大きな震災における「各論」の展開を見たかったので、少しアテが外れた思いがした。

「カタログ」の人間文化研究機構(国立歴史民俗博物館)による「ごあいさつ」では、つぎのように記されていた。

「(前略)本展示の企画は、東日本大震災を目の前にしながら、いま、歴史博物館という場で何ができるのかを問いながら始まりました。地震と津波が大きな被害をもたらすという事実を、私たちはいやがおうにも認識させられ、また、身を以て体験された方も数多くいらっしゃいます。そうしたなかあらためて歴史という視点から何を示すことができるのかということが、非常に大きな課題でした。

実は、この難しい課題に対して、未だすっきりとした答えを出せているわけではありません。一人ひとりが、被災後の変化し続ける条項を、それぞれに異なる痛みや喪失感を抱きながら、なんらかの意味で「当事者」として生きているいま、多くの方々に向けて一義的に発することができることはそもそもないのかもしれません。

そうしたなかで、いまできることは、歴史のなかに、いまを考えるための材料が潜在していることを信じながら、これまでの研究の一端をお示しするということに尽きるのだろうと思います。(後略)」

 

ウーン、ずいぶんと謙虚な言い回しだな、という印象を受けた。「博物館」なので、文字資料、音声・映像・建造物などの非文字資料とともにそれらを超えた資料の収集・展示が仕事だと思うけれど、たとえば、阪神淡路、東日本大震災における資料収集の片鱗でも、積極的に展示してもよかったのではないかと思う。「趣旨」でいう、ともすれば「忘れられがちな被害や被災者」への視線、「救済の欠落」との対峙は、震災の歴史を語る上で不可欠な要素であったはずであるが、現代の震災になるほど、それが抜け落ちてしまっているように見受けられた。「契機」としての阪神淡路大震災、東日本大震災ではなく、その内実に迫る資料の展示が少なかったのである。とくに、「原発事故」に関しての資料の展示は、除染工事にかかる写真が幾枚か展示されていたくらいだったか。「原発事故」に関する資料は、いまだ評価が定まらない、ということなのだろうか。そもそも、「東日本大震災」自体を今回のメインの展示対象から外しているのたが、それでは、いつ「歴史にみる東日本大震災」の展示が可能なのだろうか。

 

関東大震災から戦時期・占領期の震災

たしかに、「歴史上」の震災となった関東大震災についての展示には見るべきものが多かった。情報手段が、現在に比べて格段に少なかった時代、しかも広範囲に被害をもたらした地震であったから、被害状況を写した写真や絵画による絵葉書、大震災の流行歌が流布したりしている。東京はもちろんだが、横浜・湘南、房総半島南部の東京湾沿岸等の死者数や倒壊家屋が多かったことをあらためて知らされた。また、「殺された人びと」のコーナーでは、1枚のパネルと朝鮮人、中国人、戒厳令下の社会主義者・無政府主義者らの虐殺事件については、主として官庁資料の展示であり、カタログの解説でも、虐殺された朝鮮人の数の信憑性への疑問、本所大島町の中国人労働者300人殺害事件自体の隠蔽処理の過程への言及にとどまるものだった。内務省警保局資料では、警察署別に犯罪として起訴された事件の概要が記され、「鮮人と誤認された邦人」が殺傷されたケースも多いことがわかる。千葉県に限っても、場所や犯人が特定できないケースで起訴に至らない事件の関係資料や証言も多いはずであり、習志野捕虜収容所に収容された朝鮮人・中国人も多く、その実態は、種々の証言や映画「払い下げられた朝鮮人~関東大震災と習志野収容所」などでも知られるところである。習志野収容所から上海に送還された中国人の証言、中国政府による調査結果がカタログで紹介されてはいたが、展示では、その全容は見えてこない。

これまで戦時期の地震被害については、極端な報道管制下にあったということは聞いていたが、今回の展示で知ることも多かった。19439月の鳥取地震、194412月の東南海地震、19451月の三河地震において、多数の死者が出ているにもかかわらず、報道がされなかったばかりか、専門家による現地調査や調査研究がなされず、残るデータも少ないという。「内務省警保局検閲課新聞検閲係勤務日誌」(昭和1911~12月)によると報道機関につぎのような通達を電話でしたとある。

①被害状況は誇大刺激的にわたらないこと②軍関係施設、交通通信の被害など戦力低下を推知させる事項は掲載しないこと③被害程度は当局発表・資料に基づくこと④災害現場写真は掲載しないこと、の旨が記されている。

さらに、194612月の南海地震、19486月の福井地震は、占領下にあったため、災害報道自体の抑制からは解放されたものの、用紙不足による報道の縮小を余儀なくされた。福井地震による死者は、震源の丸岡町から福井市に及び全体陀3769人にのぼった。GHQ福井軍政部の将校として駐屯していたジェームス・原谷は、救援活動の一環として、被災後の状況をカラー写真に収め、多数の写真を残し、「ライフ」にも紹介された「半壊の大和百貨店」などがある。カラーで被害状況を伝える貴重な資料となっている。

ギャラリートークの原山氏は、震災年表のパネルを示しながら、19439月の鳥取から19486月の福井地震までの死者の数10831223230613303769を合計すると9711名となり、多くの国民に知られることもなく命を落とし、阪神淡路大震災の犠牲者をはるかに上回ることになることを強調されていた。その阪神淡路大震災の1995117日まで、大きな地震に見舞われることがなかった時代と日本の高度経済成長期が重なったことの意味を示唆していたのだが・・・。

阪神淡路、東日本大震災の展示が少ないままに、後半の第2部が終わってしまったのには、なんとなく尻切れトンボの感を抱きながら、会場を後にしたのだった。いつか近い将来に、現代の震災について企画展を期待したい。(続く)

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2014年4月29日 (火)

新緑の歴博へ、企画展「歴史にみる震災」はこれでよかったのか(1)

 地元の国立歴史民俗博物館で、311日から始まった企画展示が気になっていた。東日本大震災では、千葉県では旭の津波被害、浦安ほか各地での液状化、県北西部は佐倉も含めての放射線量のホットスポットなどが問題になっているので他人ごとではない。日本人は、震災の歴史から何を学んできたのか。この日は、担当者によるギャラリートークもあるというので、早めに出かけた。

 京成佐倉駅から私が乗ったバスは、新緑の愛宕坂を上って、博物館入口まで運んでくれる。アプローチの大階段をのぼり、企画展示の地階までの、これまた大階段を下り、さらに奥まったところが企画展示室である。今回の展示は、Ⅰ.東北の地震・津波 Ⅱ.近代の震災の2部構成であった。第1部では、「東北の津波」被害に焦点があてられている。

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旧佐倉連隊営門を過ぎると愛宕坂

~~~~☆

1.東北の地震・津波

1 前近代の被災
 
2)近現代の地震・津波

2.近代の震災

1)関東大震災            
2)北但馬・北丹後地震             
3)東南海・南海地震
 
4)福井地震

~~~~☆

 東日本大震災の津波は<想定外>の<1000年に1度の>の規模だったのか

 第1部の入り口の冒頭の大きなスクリーンには、東日本大震災の津波がいつ、どこで、どのくらいの高さになったかが、秒刻みでの変化が見られるようになっていた。そして、東日本大震災は、仙台市若林区荒浜地区採取の地層剥ぎ取りの標本と「日本三大実録」の記録などから、貞観地震(869年)とほぼ同規模の地震と津波被害を東北地方太平洋沿岸にもたらしていたと推測され、その「説明」には、「2011年の津波は、決して想定外の規模ではなかったのである」と記されていた。また、慶長地震津波(1611)についても、歴史資料や堆積物調査によって、明治三陸地震津波(1896615日)、昭和三陸地震津波(193333日)の被害よりもさらに内陸まで津波は及び、東日本大震災の規模に匹敵することが示されているという。東日本大震災の直後、政府関係者、原発関係者、メデイアで盛んに喧伝された「1000年に1度」の大災害という事実はなく、「見直し」の必要が記されていた(「図録」13p)。

 慶長地震の被害状況の一部が、はからずも、日本に「金銀島探検」に来ていたスペインの探検家ビスカイノの報告書に記録されていたのである。「想定外」「1000年に1度」などと、いかにも人間の知恵と技術で制御しきれなかったような「言い訳」として、軽々しく使っていた人々を、あらためて記憶に留めなくてはいけないと思うのだった。

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正面の大きな窓には、満開の桜がみごとだった由

 

 

<情報>も大切だが、<記録>が大事

 今回の企画展で思ったのは、現代のような情報社会においてももちろんなのだが、まだ、情報量そのものが少なかった、あるいは情報統制が厳しかった明治・大正・昭和における災害の原因や実態を後世に伝える手立ては、かなり難しいことがわかった。第1部の第2節「近現代の地震・津波」に登場するつぎのような人々の仕事が私の目を引いた。

 遠野の山奈宗真(18471909)は、城下で戸籍調べや地租改正調査にあたったが、明治三陸津波直後、町会議員として岩手県下の津波被害調査を建言、県からの支援を得て、自らが指揮を取り、190個所にわたる各種調査報告書をまとめた。また、中島待乳アルバムとして残った48枚の写真には、3人のカメラマンによる大船渡から釜石周辺の被害状況が写されていた。また、写真師末崎仁平(鍬が﨑町、宮古市)19枚の写真には、この町に限られた被害状況と救助活動が写されていた。瓦礫に埋め尽くされた街、倒壊の家屋、打ち上げられた漁船、流された鳥居、生き埋めの人らの救助活動、遺体が荼毘にふされる様子など、私たちが目にした東日本大震災の報道写真とかわらない光景であった。しかもこれらの写真は、両者とも、東日本大震災後の2012年から2013年にかけて、さまざまな経緯で、初めて全貌が判明した写真群であったという。

 さらに、続いて「昭和三陸津波」「遠地津波による被害―チリ津波」(1960524)と「東日本大震災」(2011311日)のコーナーが設置されている。チリ津波は、チリの地震後、20数時間後にやってきた津波のメカニズムを恐ろしく思ったものである。19605月と言えば、東京では「安保反対」「岸を倒せ」のデモで騒然としていた頃である。なお、今回の展示には見かけなかったが、奥尻島地震の津波の高さも驚異的であったのが思い出される。カタログの年表によれば230人の犠牲者を出している。昭和以降の地震・津波の資料類は格段の量に及び、情報手段も多様化したと思う。しかし、だからといって、後世に、確実に、正確に伝わっていくかとなると、必ずしもそうではない。これは、幾重もの意図的な隠蔽や情報操作が複雑に絡み合って、国民に届かない情報も少なくなかったことは、東日本大震災の例を見ても明らかであろう。(続く)

 

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2013年10月30日 (水)

福島第一原発事故の汚染水問題から見えるもの

福島第1原発の汚染水漏れ問題は、安倍首相のIOC総会でのプレゼン「状況はコントロール下に」「汚染水の影響は完全にブロック」発言以降、逆に注目されるに至った。国会での質疑の中で、「全体として状況は・・・」となり、「汚染水の影響はブロック」と「完全に」が消えたではないかと質されていた。しかし、言葉の問題以前に、少なくとも、東電が発表する限りにおいても、現実は、汚染水の漏えいは続き、海への流出は続いている。いったいどういう経過だったのだろうという疑問が、頭をかすめる。私のいつもの流儀で、情報整理のため、以下のような、「福島第1原発の<汚染水>漏れ問題経過年表」を作成し始めた。当初は簡単なつもりがだんだん大掛かりな年表づくりになってしまった。これからも追加や手直しを続けたいが、出来上がった年表をながめて、総じて言えるのは、97日の安倍発言は、当然のことながら、その信頼性は国内外で、あっという間に崩れていった。各種の世論調査でも、時がたつにつれて、国民は、その嘘を見抜いて、80%以上が信頼していないことを示した。汚染水の問題が、93日の原子力災害対策本部会議における基本方針で「解決に至っていない」としながらの安倍発言であったこともわかった。国内向けと、海外向けを使い分けるということになる。

 汚染水問題の基本でもある、福島第1原発では、原子炉冷却のための汚染水は、どのように処理されているのか。処理されるはずだったのか。その、どの過程で、どこで漏えいが続いているのかを時系列でたどると、少し見えてくるものがある。以下は私の理解での感想となる。

「福島第一原発<汚染水>問題経過年表」

http://dmituko.cocolog-nifty.com/fukusimaosensuikeika.pdf

(当初の年表を修正・補充版に差し替えました。10月30日)

・「汚染水」という呼び方

当初は、「放射性物質を含む汚染水」「放射線汚染水」「放射性汚染水」などと記述されながら、「汚染水」に定着してしまった。強制わいせつや強姦を「いたずら」「乱暴」、暴行や虐待を「いじめ」などと表記するのと一緒で、その犯罪性を後退させる役目をしてないか。こんな川柳があった。

「汚染水 きちんと言おう ヒバク水」(茅ヶ崎市 K・K)

(「時事川柳」『東京新聞』20131012日)

・汚染水処理の流れ 

建屋の地下貯水槽:2013年1月までに1~7号まで完成、その最大貯水量は約5.8万トン

(原子炉への注水一日約360トン、地下水・雨水流入一日約400トン)

      ↓                         ↑(注水)

セシウム除去装置   ⇒   淡水化装置   ⇒   淡水受けタンク

                  ↓          

              濃縮塩水受けタンク

                  ↓

                 アルプス 

                   ↓

          地上貯水槽(高濃度トリチウム含む)

20138月現在量33万トン、容量39万トン、20173月までに80万トンまで増やす予定)

 ↓              ↓

 (高線量の廃棄物)        (薄めて海へ放出予定) 

 ・汚染水問題はいつから?

 311直後の、201144日、東電から放射性物質を含む汚染水11500トンを  海 に放出したとの発表があったことから始まる。いきなり大量の海への放出、そ の重大さと過去はどうであったのだろうとの認識が、当時の私などには薄かった。政府は「危険回避のため止むを得なかった」とした。稼働し始めた淡水化装置や汚染水セシウム浄化装置からの漏水は20116月に発覚、東電は、港湾内や外洋への流出は認めようとしなかった。しかし、東電は、地下貯水槽自体からの汚染水漏えいの可能性を、201345日になって初めて認めた。また、海への流出を認めざるを得なくなったのは、海に近い観測井戸におけるトリチウムの数値が増加していた事実からであり、2013722日であった。国の対策も遅れるわけである。それでも、201393日には、原子力災害対策本部会議で「汚染水問題に関する基本方針」が出され、汚染水問題は「いまだ解決に至っていない」から、国が前面に出でて470億投入するとした。安倍発言への布石だったのだろう。 

・汚染水はどこから漏れるのか・・・

 地下貯水槽、汚染水浄化装置及びその周辺、汚染水移送配管、地上貯水槽及び堰からの漏えいが想定される。漏えい確認は、上記個所以外のほか観測井戸、港湾内海水、外洋海水などに放射性物質がどの単位で検出されたかどうかが目安になる。現実には、漏えい個所が特定できないまま、放射性物質の検出数値が高くなるケースも多く、地元が懸念する海に近い井戸、港湾内、外洋での数値が高くなっても、長いあいだ、証拠がないと、海への流出を認めようとしなかった。

・「汚染水浄化装置」の故障が続く

 汚染水漏れの原因が浄化装置だったという事実も皮肉だが、新聞報道などでは、

  「汚染水浄化装置」としか伝えられなかったが、セシウム除去装置であり、まず使  用されたのが、フランスのアレバ社製、アメリカのキュリオン社製の装置だった。その不具合は拭いようもなく、アレバは621日に停止した。東芝製の「サリー」も登場するが、2011924日にはこれも停止になった。

・放射性物質除去装置ALPSは機能しなかった・・・

  汚染水処理の切り札として、20129月東芝が完成させ、20133月福島第1原発で試運転が始まったが、6月にタンクの水漏れから一部停止、88日不具合から停止した。927日再開直後不具合から即日停止となった。930日再開、104日停止、原因不明という。62種の放射性物質は除去できるが、トリチウムだけは除去できない。平均処理能力は一日640トンと言われる。試運転の再開と停止を繰り返すのは、完成品ではなく、試作の段階ではなかったのか。

・汚染水問題が解決しない一方で

  福島第1原発事故の解決や復興が進まないさなか、安倍首相は原発の再稼働に向け、外遊しては、原発輸出の前提ともなる「原子力協定」を、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、インド、トルコ・・・で進める、その心と目は、国民を無視するものではないか。

 

・「会議は踊る」ようなことになっては?

1022日、衆院予算委員会の笠井議員の「93日の原子力災害対策本部会議で基本方針を決めたが、その後会議は開いたか」の質問に答えて、茂木経産相は「たくさんの会議を作って、連日のように会議だけが踊っていれば問題が解決するとはわれわれは思っていません」と答えていたが、そのまま、政府にそっくりお返ししたいセリフである。年表を見ればわかるように、汚染水問題についても沢山の会議が作られたが、現状の改善は全く見られず、むしろ悪化の一途をたどっているような状況である。上記の、原子力災害対策本部会議は第3293日以降、1030日現在開催されてはいないのである。本部長の首相は、トルコへの原発売込み営業に奔走中である。

 

37日:  1回廃炉対策推進会議(議長茂木経産相)

426日: 1回汚染水処理対策委員会(委員長大西有三)

(廃炉対策推進会議のもと)

71日:  1回陸側遮水壁タクスフォース(主査大西有三)

 (汚染水処理対策委員会のもと)

99日:  1回汚染水対策現地調整会議

(赤羽原子力災害現地対策本部長/経産省副大臣)

910日: 1回廃炉・汚染水対策関係閣僚等会議

(原子力災害対策本部会議のもと)

廃炉・汚染水対策チーム会議 (チーム長茂木経産相)

 

こうした会議の他に原子力規制委員会は、つぎのような会議を発足させた。

20121221日:第1回特定原子力施設監視・評価検討会

201382日:第1回特定原子力施設監視・評価検討会・汚染水対策検討

       ワーキンググループ

2013913日:第1回海洋モニタリングに関する検討会

       (担当名中村佳代子原子力規制委員) 

 

これでは、仕事が進まないはずである。まさに「会議は踊る」ではなかったのか。

 

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2013年9月 3日 (火)

自治会の防災訓練に参加して~公助はどこへ

会場の中学校が借用できるか否かで、急遽前倒しとなり、8月最後の土曜日に決まった防災訓練。この猛暑の中、何かと心配だったが、考えてみれば防災の日を明日に控えた絶好の日和だったかもしれない。私は、防災委員ながら、腰を痛めていたので力仕事はお任せで、受付と防災井戸・防災倉庫の市の防災課職員の説明のタイムキーパーを務めた。職員Uさんの話はつい熱が入って10分が15分、いやそれ以上に延びる。20人ほどの5グループが、他のコーナーを回って順繰りにやってくる。

防災井戸はできたが・・・ 

防災井戸については、私も東日本大震災の折、初めて知ることも多く、市役所ともやり取りしたので、おおよそのことは心得ていたし、この2年間で何回か、話も聞いている。佐倉市では、今年で、39か所の広域避難所のうち一つを残し、防災井戸が設置された。大震災当時は、11か所しか設置されていなかったし、震災直後すべてが稼働したわけではなかった。この日の会場の中学校の防災井戸も、直後は給水できなかった。その原因が、防災課と水道局とでは違っていて、器具の不具合とか、地下水脈の破断とかの言い逃れも聞いた。要するに、緊急時の対応に不備があったらしい。あのときは、市場から飲用水のペットボトルが消え、水道水の放射性物質混入の可能性から「乳幼児には水道水は避けて欲しい」旨の防災放送が流されていた。防災井戸の給水が始まると、この井戸にも遠くから母親や祖父母たちが水を汲みに来ていた。結局、昨年の3月までは、この防災井戸は開放されていた。定期の水質検査、常時の塩素消毒、捨て水、発電機などの対策で、防災井戸は、非常時の開栓により給水可能になったのは、大震災が残した一つの成果でもあった。8090mの地下からのくみ上げは手漕ぎでは無理で、印旛沼に近いこの辺の浅井戸の水は飲めたものではないと強調していた。防災井戸の水でも乳児用には、その硬度から危険だということも言っていた。佐倉市が水道水の一部に使っている井戸水は150m以上の深層水とのことだった。せめて、この水道水の水質を保ちたいものだが、八ン場ダムからの取水にメリットはあるのか、の思いにもつながる。 

防災倉庫の食料配布、避難所への避難はお断り・・・

 東日本大震災後、そしてとくに91日、防災の日前後のメディアは、防災対策の指南に忙しい。そこはまさに、自助・共助の大合唱である。自分で備蓄せよ、ご近所との絆が大事と、国や自治体は役割放棄に躍起となっているとしか、私には思えない。自助や共助の基盤づくりがないところに、自助と共助に丸投げをしているかに見える。

防災訓練の日の市職員も、これまでになく高姿勢で、「この地域では、床上浸水も土砂崩れの心配もない上、地震でも家が半壊以上でないと、避難所へ来てもらっても何もできませんよ。この防災倉庫の備蓄食料も分けることは、法律上できないことになっています、お帰り下さい」と言うしかないという。「一人住まいで不安だ、余震が怖い」という人には、避難所は減るものでないからどうぞ、くらいしか言えない。だから、食料や水は3日分というよりは自分で1週間分は用意しておいてください。インフラの中で下水の復旧がいちばん時間がかかるから、排泄の始末も自宅で解決してください、という。行政は頼りにするものではないと、行政が市民を脅し、危機感をあおり、不安に陥れようとしている構図である。防災の日に話す内容なのだろうか。東日本大震災の復興予算が残ってしまう理由がよくわかる。自助や共助は、強制されるものでなく、市民が体験から学び、学びながら覚悟していくものだろう。私たちが父母から聞き、歴史で学んだ「常会」や「警防団」の世界が見え隠れする。もっとも、「内閣情報局」新設などと言い出す安倍政権だから、こちらも真剣に構えねばならない。

職員は、防災倉庫の前で、こんなことも言う。大災害のあとのガソリン不足は、安全保障、国防の必要上、国が管理するからで、当然のことある。大災害の時こそ、いつ敵国が襲ってくるかもしれない、その時みなさん死ぬ覚悟がありますかと、ガソリン不足には普段から満タンにしておく心掛けを説くではないか。こんな風に役人は育てられていくのか。仮想敵国に憎悪を募らせようとする外交の拙劣さを役人や国民にさらしているからだろう。 

根性スイカの緊急報告

夏休み最後の週末、近くの少年野球のメンバーたちが、その帰りがけの自転車で、例のスイカの周りを囲んでいた。「誰が植えたのかな」「こんなに大きくなるんだ」「食べられるかな」「家の庭で捨てたごみから南瓜ならできたよ」などとかしましい。これらスイカの行方は、私も気になる。駐車場の草刈りの人が、わざわざ気を利かして、これだけを残しておいてくれた。写真添付で娘にメールすると、八社大神にでもお供えしたら・・・の返信を貰っていた。その手があるのだ。大きい方は、何とかこの少年たちに渡し、小さい方はお供えをしよう。私は彼らに、「小さい方は、みんなの交通安全を祈ってお供えするからね」と伝えておいた。

そして翌朝、のぞいてみると、その小さい方に小さな割れ目が・・・。収穫するなら「イマでしょ」と中学校を横切り、神社へと急いだ。八社大神の南西側の樹木は、すったもんだで、だいぶ伐採されてしまったのだが、それでも杜への階段を上ると涼風が心地よかった。スイカを供え、明日から、小学校も新学期、交通見守りも始まるので、子どもたちと見守る私たちボランティアの交通安全を祈願したというわけである。

ところが、92日の夕方、犬の散歩に出てみると、大きなスイカは、見事になくなっていた。誰の手に渡ったのか。ご近所のお子さんたちならばよいが・・・。でも、どこかで、ほっとしたのも正直な気持ちだった。

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