2023年12月 1日 (金)

横浜へ~三渓園、日本大通りの銀杏、どこの黄葉も見事でした(2)

日本大通りのニュースパーク(新聞博物館、情報文化センター内)へ

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 KKRポートヒルに一泊した翌朝は、きのうの風もおさまり、快晴であった。窓からは眼下に港の見える丘公園、ベイブリッジ、キリンのように並んでいた荷揚げの重機なのか、首を曲げているものもある。きょうは、ニュースパーク(新聞博物館)へと向かう。ここでも関東大震災100年の企画展「そのとき新聞は、記者は、情報は」が開催中なので、見学することにしていて、10時オープンと同時に入館した。

 

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展示物の撮影は禁止であった。ちらしには、号外の一部などがスクラップされている。上段左から「大阪朝日新聞」(9月4日、第3号外、福馬謙造記者)、「大阪都新聞」(9月6日号外、喜多吉哉特派員)、「大阪毎日新聞」(9月4日夕刊、三好正明特派員)。

展示は、以下の4部構成であった。
Ⅰ「震災発生 そのとき新聞社は、新聞は、記者は」
Ⅱ「震源地・神奈川、横浜はどのように伝えられたか」
Ⅲ「不確かな情報、流言・デマ、混乱」
Ⅳ「関東大震災前後の震災、新聞社の防災・減災の取り組み」

 1923年9月1日正午近く発生した関東大震災は、神奈川県だけでも、死者・行方不明者3万2800余人、住家被害は12万5500余棟に及んだ。その時、新聞社、新聞、記者はどうしたかを、各新聞社は、記者の移動もままならない中、号外や新聞で、必死に伝えていたことが、当時の紙面からうかがい知ることができる。

 東京日日新聞(毎日新聞)は、皇居前広場に臨時編集局を開設、9月4日には新聞発行がなされ、朝日新聞は、帝国ホテルに臨時編集局を設置、謄写版刷りの数行の号外を出したのが9月4日、定期発行は9月12日であったことがわかる。この間、大阪朝日新聞、大阪都新聞、大阪毎日新聞などが、特派記者による東京の被害の状況を伝える号外を発行している(上記チラシのコメント参照)。
 9月6日の報知新聞(夕刊)では、秋に予定されていた摂政(皇太子)の「ご成婚は未定」、大阪毎日新聞9月4日(夕刊)には「摂政宮御沙汰を賜ふ ご内幣金一千萬万円下賜」の記事も。
 横浜市内の状況は、主に横浜貿易新報(神奈川新聞)9月13日から臨時号を発行、報道している。目に留まったのが9月30日(夕刊)に「非高工移転論熱烈」という記事。横浜高等工業学校を名古屋に移転する計画が、三渓園の原三渓らが中心になって、陳情書を提出、反対運動が実り、中止になったらしい。
 この春の横浜散策で、赤レンガ倉庫の一棟の半分が倒壊したことや山下公園が大震災の瓦礫を埋め立てて造られたことなどを知ったのだが、公園は1933年、10年後に開園していることを、今回知った

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私たちが見学中に小学生の一団がどっと会場に入ってきた。リュックを背負ったまま、揃いの黄色い画板を下げて、メモを取ったりおしゃべりしながら、せっせと通り過ぎていった。見守っていた先生に、「横浜市内からですか」尋ねたところ、千葉です、という。私も千葉からと告げると、「佐倉からです」との返事にびっくり、胸の名札を見せてくれて「西志津小学校」とあるではないか。ユーカリが丘の人とここで出会えるとはと、その先生も驚いていた。生徒たちはどのくらい理解しているのでしょうね、と失礼な質問もすると、当時の写真がみな白黒なのが気になるようでと。先生は、NHKの関東大震災特集などを見ていて、写真のカラー化したものも目にしていたそうだ。ユーカリが丘出身の女性落語家を招いた話なども話していた。見学後生徒たちは、ホールに集まって、記者OBらしき人の話を神妙に聞いていた。

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ニュースパークの一画にあるカフェで、ランチのあと、通りに出れば、銀杏並木の木漏れ日が揺れ、斜め前の神奈川県庁前の銀杏もみごとであった

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2023年10月 4日 (水)

<関東大震災100年>特集に思う~5首を発表しました。

 関東大震災100年ということで、多くのメディアが特集やシリーズものを組んでいた。短歌雑誌の『歌壇』9月号では、≪その時歌人たちはどう詠んだか―関東大震災から百年≫が組まれ、私も「『ポトナム』揺籃期の震災詠」を寄稿した。9月2日の当ブログにも収録している。今回は、『現代短歌新聞』10月号の特集≪関東大震災100年≫に拙作五首を発表している。ご笑覧のほどを。3頁にわたり43人が出詠していた。★

観音寺の鐘楼   内野光子(ポトナム)

縛られて〈払い下げ〉られし六人を殺せと命じられし村びと
息つめて向うは高津観音寺晩夏の雨に鐘楼濡れおり
朝鮮の技にて成りし鐘楼に犠牲者慰霊の礼のひたすら
命じられ殺めし人らを供養せる碑には銘なく落葉とどまる
二九六の往来激しき道の辺に潜まり建つは〈無縁仏の墓〉
(『現代短歌新聞』2023年10月)

 関東大震災について、私は、書物や映像でしか知らない。両親は結婚する前で、父は海外にいたし、母は千葉県の佐原で小学校教師をしていたはずだが、震災の話を聞いた記憶がない。書物や映像からの作歌は、むずかしいし、私は、なるべく戒めることにしている。数年前、佐倉市の隣町、八千代市内に大震災時に犠牲となった朝鮮人の慰霊碑がいくつかあり、毎年、追悼式が行われていることを知った。高津団地に近い「高津山観音寺」では追悼式と同時に開かれる学習会にフィールドワークが開催されているが、一度参加したことがある。「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」の主催である。ことしは9月9日に百周年慰霊祭が行われたが、猛暑の中、体調に自信がなく、残念ながら参加できなかった。

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『いしぶみ』は「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」の機関誌で、1978年創刊という。さまざまな関連行事の案内や報告、研究論文も掲載される。最新号の「関東大震災朝鮮人虐殺をめぐる質問主意書の意義」は2015年から資料を巡る質問書は八回も出され経過、今年は、5月23日の参院内閣委における杉尾議員も関係資料について質問までを追跡している。8月30日の記者会見で松野官房長官の「政府として調査した限り、政府内において事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」との発言は記憶に新しい。ちなみに質問主意書については、以下に詳しい。


関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会HP<質問主意書一覧>
https://www.shinsai-toukai.com/top-japanese-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E/%E8%B3%87%E6%96%99%E5%AE%A4-japanese/%E8%B3%AA%E5%95%8F%E4%B8%BB%E6%84%8F%E6%9B%B8-%E7%AD%94%E5%BC%81%E6%9B%B8/

「<100年ぶり>の国会質問に政府の答えは? まもなく発生100年の関東大震災「朝鮮人・中国人虐殺」問題」『東京新聞』2023年5月24日https://www.tokyo-np.co.jp/article/251995

★『現代短歌新聞』の特集の作品の中で、気になったのが、柳宣宏さんの「一会員」と題する五首だった。
・「まひる野」の会員たりしえみこさんは大杉栄と伊藤野枝の子
 第一首目と『天衣』という歌集を残したという第五首目を手掛かりに調べてみると、伊藤には、辻潤との間に二人、大杉との間に五人の子供がいる。「えみこさん」は、三女の「エマ」さんで、後に笑子と改名している。『天衣』は、1988年に出版されていたが、著者は野沢恵美子となっていた。

 

 

 

 

 

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2023年4月 5日 (水)

バングラデシュ、ダッカの衣料品市場で火災

 

 5日、数時間前の先ほどのNHK「キャッチ」で、2500軒の店が建て込むダッカ最大の衣料品市場で火災が発生したとのニュースが流れた。ダッカにはこうした衣料品市場と4500の衣料工場があるそうだ。これまでだったら、遠くの出来事として見過ごすところだったが、やっぱりと、こころ痛むニュースであった。まず、昨年、岩波ホールでの映画「メイド イン バングラデシュ」を想起した。劣悪な環境の縫製工場で働く女性たちが妨害を受けながら労働組合結成に至る内容だった。本ブログの下記記事を参照していただければ幸いである。

岩波ホール、さようなら~「メイド イン バングラデシュ」(2022年5月17日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/05/post-13a535.html

  きつい管理の下、一か月の給料はTシャツ3枚分の売り値にも満たない。不平を言えば即刻クビにもなる環境で、働く女性たちとその家族たちが丁寧に描かれていた。改善しようとしない経営者を行政は見て見ぬふりをする怠慢ばかりか、行政との癒着ぶりをも、告発していた。工場の火災での負傷にも保障はない・・・。そんな画面が浮かんでくる。

 今回の火災は、衣料品市場の火災であって、すべてを失った店主が、この先どうすればいいのかと嘆いていた。そして、さらに驚くのは、近年に限っても、ダッカでは、2019年2月に旧市街、3月に中心街の高層ビル、8月にスラム街での大規模な火災が発生、2022年6月にはコンテナ集積地での火災も発生していて、いずれも、密集した建築物、狭い道路のため、消火活動が思うようにできない状況で、多くの犠牲者を出していた。まさに人災でもあったのである。

 お気に入りのTシャツやパンツのタグをもう一度、確かめてみて欲しい。どこの国で、どんな工場で、どのような人たちが縫い上げたものなのか、を考えるチャンスとしたい。

<追記>2023年4月19日
今日の毎日新聞朝刊で、上記火災の詳報とこの10年の動向を追跡した現地からの報告記事があった。
「バングラ<縫製ビル>崩壊10年 安い労働力っ苦境の今も 先進国側の都合優先・・・」
記事によれば、低価格ブランドのGUやイタリアのベネトンなどの衣料品製造を請け負う現地の企業グループと日本の東レの子会社との共同ベンチャーが2015年に設立されたそうだ。「環境重視」への転換は、まだ模索中という。

以下で記事の半分ほど読むことが出来る。
https://mainichi.jp/articles/20230419/ddm/002/030/110000c

 

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2021年3月10日 (水)

十年目の3月11日、どうしたらいいのか

 3月5日、山本宣治の命日だった。3月8日は、国際女性デーであった。そして、首都圏の非常事態宣言は2週間延長された日でもある。千葉県などは、いまだに、三桁の新規感染者が続くこともある。

 そして、今日は、東京大空襲の日であった。10万人の犠牲者を出し、東京の下町を焼き尽くしていた炎が遠い西の空を染めていたのをたしかに見ていた、かすかな記憶がよみがえる。疎開地の千葉県佐原から、母に促されてみたのだろう。店を守っていた父と専門学校の学生だった長兄が残っていた池袋の生家が無事だったのもつかの間、4月14日の未明、その我が家も城北大空襲で焼失、命からがらに憔悴して疎開地にやってきた父と兄、私は父に、いつものようにお土産をねだっていたという。何もわかっていなかったのである。

 そして、明日は3月11日、まず、思い起こすのは、あの日の私自身の記憶につながることではある。しかし、その後、次から次へと伝えられたテレビや新聞で報道された画像や記事、そして、10年にわたって、さまざまな人たちの証言や専門家による検証であった。津波に襲われることなく、福島の原発から遠く離れた、この地にあっても、強烈な恐怖となって迫ってくるのは、原発事故の眼に見えない、収束のない被害と津波の恐ろしさである。自身のわずかな体験ながら、津波に襲われ、多くの命と街を奪われた石巻、津波の被害に加え、原発を擁する女川の地を訪ねて、その感を一層強くしたのだった。その思いの一端を、このブログでも記してきた。

 昨3月9日の閣議で「東日本大震災復興の基本方針」の改定が決定されたという。そのポイントというのが、
①復興庁の設置は、10年間延長し、その前半5年間は第二期の「復興・創生期間」とする
②地震と津波の被災者の心のケアなどソフト事業に重点を置く
③原発事故の被災地では、避難指示が解除された地域への帰還や移住を促進し、国際的な教育研究拠点を整備する
④原発の汚染水処理の処分については、先送りできない課題だとして、風評対策も含め、適切なタイミングで結論を出す

 それに先立ち「第29回復興推進会議及び第53回原子力災害対策本部会議の合同会合」を開催し、上記の基本方針を議論したというが、首相は次のように述べたという(首相官邸ホームページ)。

「間もなく、東日本大震災から10年の節目を迎えます。被災地の方々の絶え間ない御努力によって、復興は着実に進展しています。
 昨年12月、岩手・宮城では、商業施設や防潮堤などを視察し、まちづくりやインフラ整備の進捗を実感しました。今後、これらの地域における被災者の心のケアやコミュニティ形成といったソフト面の施策に注力してまいります。
 昨年9月に続いて、先週末も福島を訪問し、地元の方々と移住されてきた方々が協力して、新しい挑戦を行う熱い思いに触れることができました。福島の復興のため、その前提となる廃炉の安全で着実な実施、特定復興再生拠点区域の避難指示解除に向けた取組と区域外の方針検討の加速、さらに移住の促進など、取り組んでまいります。
 こうした状況を踏まえ、来年度から始まる復興期間に向けて、『復興の基本方針』を改定いたします。
 福島の復興なくして、東北の復興なし。東北の復興なくして、日本の再生なし。 この決意の下に、引き続き政府の最重要課題として取り組んでいく必要があります。閣僚全員が復興大臣であると、その認識の下に、被災地の復興に全力を尽くしていただきたいと思います。」

 この日のNHK夜7時のニュースは、基本方針のポイントと、閣議前の復興会議の議論を踏まえての発言の最後のフレーズだけを放映していた。「福島の復興なくして、東北の復興なし。東北の復興なくして、日本の再生なし。」とはなんと白々しい、と思うことしきりであった。

  災害や痛ましい事件のあとに、被災者や被害者、その周辺の人たちへの「心のケア」の大切さが言われるが、少なくとも、東日本大震災の被災者には「心のケア」より、何より大切なのは、生活再建、経済支援なのではないか。いくら避難指示が解除されたからといって、仕事が確保され、生活環境が整わないかぎり、「望郷の念」だけでは戻れないだろう。首相がインフラ整備の一部を視察したからと言って、災害公営住宅の家賃の値上げや廃炉・汚染水処理が進まないなかのエネルギーミックスなど言われては、不信感は募るばかりだろう。
  その一方で、聖火ランナーの辞退者が続き、途切れてしまうし、海外からの一般客は断念しながらも開催するというのだから、福島復興の証としての五輪は、幻想でしかなかったのだ。
  それを質すべき野党の体たらくに、期待することはできない。政府も野党もアテにならない。客観性に欠けるマス・メディアの報道、テレビや新聞に登場する常連のコメンテイターたちも、自分の“居場所大事”な人が多い。たまにまともなことを言うと、すぐに炎上し、自粛へと傾いていく。若い人は、新聞もテレビさえ見ない、まして本を読まない人が多いらしい。

  ならば、私たちはどうしたらいいのか。自分と異なる人の意見もしっかりと聞く。悩みは増えるけれど、自分が感じたり、思ったり、考えてたりしたことを、率直に発信していくほかないのかもしれない。そして、先人の残した知見から少しでも学ぶことなのだろうか。平凡なことながら、それが難しい。高齢者にはつらい日が続く。3月は、私の誕生月でもあったのである。

 

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2020年10月30日 (金)

女川原発2号機はどうなるのか~再稼働反対の声が届かない(付年表改訂版)

 

改訂版の「女川原発関係年表」です。

ダウンロード - onagawagenpatunennpyo.pdf

その後の女川原発2号

 宮城県議会は10月22日、女川原発2号機再稼働を求める請願を採択、県議会は再稼働の容認を表明したことになり、村井嘉浩知事が近く、再稼働同意に踏み切るとみられている。10月23日には、東北電力女川原発(宮城県女川町、石巻市)30キロ圏の石巻市民17人が、重大事故時の住民避難計画の不備を理由に、県と市の2号機再稼働への同意差し止めを求めた仮処分で、仙台高裁は、申し立てを却下した地裁決定を支持、市民側の即時抗告を棄却する決定を出した。

 8月の下記の当ブログ記事にも書いたように、1号機は廃炉に決まったが、2号機の再稼働はなんとしても阻止しなければならないと思っている。宮城県議会へは、すでに県民11万に及ぶ署名によって住民投票条例制定を求めたが、自民・公明による反対で否決、さらに野党による条例案も否決されている。要するに住民投票の結果、民意が示されるのを畏れているとしか思えない。私が女川原発にこだわるのは、2016年に、一度女川町を訪ね、1960年代より、父親の代から夫妻で原発設置反対運動を続けてこられたAさんの話を聞いているからかもしれない。

女川原発のいま、東日本大震災から9年が過ぎて(2020年8月28日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/08/post-413b15.html

 上記記事の年表にもあるように、東北電力の土地買収当初から1984年の1号機運転開始、95年の2号機、2002年3号機運転開始を経て、2011年東日本大震災での被災・自動停止、福島の原発事故に至り、その後も国内外での原発事故が続出している。 
 女川町議会の再稼働容認の意思表示はあったが、周辺自治体の中には、原発事故が起きたときの避難計画の実効性への疑念から反対している市や町がある。大震災後、女川原発は耐震対策や津波対策として海抜29mもの防潮堤を建設したが、そもそも巨大地震を繰り返す震源に近く、福島第一原発と同型の原子炉であるというリスクも抱えている。
 
女川町の場合は、過疎化、高齢化に加えて、大震災被害からの復旧の遅れによる経済的な疲弊から脱出のため原発マネーをアテにせざるを得ない状況下に追い込まれての「未来志向」の選択であった、というのが賛成派の大義名分であろう。しかし、こうした構図は、女川町に限らない。
 
ところが、その原発マネーは、政府、電力会社と自治体、工事受注会社をめぐりにめぐるが、自治体や市民に残されるのは、安全性に疑問を残したままの原子炉、いわゆる立派な箱モノ、不安定な雇用だけというのは、原発を持つ自治体に共通するのではないか。原発によってだれが潤っているのかは、よく見極めなければならない。関西電力と高浜町をめぐる大掛かりな汚職事件は記憶に新しい。地元市民や電力消費者は、もっと怒ってもいいはずなのに。

Jijicom:関西電力・高浜町原発マネー還流事件まとめ
https://www.jiji.com/jc/v7?id=201909kdkzgm

ほんとうに原発は必要なのか
 
こうした現実を前に、私は、いま、果たして、ほんとうに原子力発電が必要なのかという基本的な問題に突き当たってしまう。10月26日の菅首相の所信表明では、「温室効果ガス排出量を2050年までにゼロ」を打ち出したが、その裏付けは未知数である。日本の電源構成は、2018年の実績と2030年エネルギー基本計画によれば、以下のようになる。

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 原子力による電源の推移を見てみると、2011年東日本大震災の福島原発事故以来、限りなくゼロから再稼働により若干増えて、数パンセントなのが現状である。これを、政府は、1930年には20~22%にすることを目標とした。大震災直前に近い数値で、原発の再稼働・新設は必至ということになる。新設はもちろん、再稼働や廃炉、廃棄物処理への過程での安全性の担保を考えると、その人材と時間に加え、そのコストは、とてつもない数字になる。原発は安全で安価という神話は、すでに崩れつつあるのを、私たちはうすうす知ってしまった。エネルギーミックスによって、原子力発電は供給の安定性がメリットとも言われてきたが、ひとたび事故が発生すれば、福島原発事故に見るように、一斉に稼働を停止し、点検の必要が生じるのではないか。 

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  電気事業連合会のホームページより 

   私は、将来の人口減に加えて、省エネの覚悟と水力・風力・太陽光などの再生エネルギーによる電力供給を拡大することによって、原発ゼロも温室ガス排出量を限りなくゼロにすることも、不可能ではないと考えるようになった。

 女川原発の歴史を振り返ってみよう。1967年末、女川町を含む石巻地区の石巻市他9町による原発誘致の請願に始まり、翌年、東北電力は女川町の小屋取を適地として建設地と決定した。それ以降、雄勝、牡鹿、女川三町の建設反対期成同盟と漁協による反対運動が盛りあがったが、東北電力の土地買収交渉が強引に進められた。小屋取の大地主さんは、当初反対であったが、東北電力の分裂工作にのってしまう革新政党があり、とうとう買取りに応じてしまったと、女川で話を聞いたAさんは、その悔しさを語っていた。そんなことでも苦労されたのだなと思う。1973年第一次オイルショックにより各漁協が漁業権を売り渡し、埋め立て工事の同意が続いたという。1979年アメリカのスリーマイル島、1986年ソ連のチェルノブイリ原発事故と続く中でも、工事は着々と進み、2002年3号機運転開始にまで至るのである。上記建設反対運動に始まり、1号機運転差し止め、2号機設置許可取り消し行政不服審査異議申し立て、3号機建設反対1・2号機運転中止申し入れなど、要望や法廷闘争を繰り返すなかで、2011年、東日本大震災により、1・2・3号機が自動停止となって、前述のように1号機廃炉、2号機再稼働の道が進められている。3号機のプルサーマル計画はどうなるのか、いずれも住民には大きな不安をもたらしている。

女川と鹿島 
 一方、ゼネコンの鹿島建設とそのグループは、東北地方では、原発に強いといわれ、女川原発3機とあわせて関連工事もすべて鹿島であった。2011年の段階で、全国で54機ある原発の20機以上が鹿島による建設だった。公共事業ではない電力会社と建設会社との民・民契約であるため、競争入札はないので、粗利益は高いとされている。関連工事のみならず、今後は廃炉にも多大の資金が投入されるだろう(「なぜ鹿島は原発の建設に強いのか」『週刊東洋経済』2011年12月3日号)。
 また、東日本大震災前ながら、鹿島建設のホームページには、「鹿島紀行」というコーナーがあって、鹿島の施工工事と女川町との関係をつぎのように記している(「宮城県女川町~緑あり・海あり・魚あり」『鹿島紀行臨時版』2005年11月)。 

【女川町と鹿島】
 当社と女川町との関わりは,1960年の日本水産女川冷食工場建設(79年同工場増設)と,68年の野々浜地区の牡鹿半島有料道路(コバルトライン)工事に始まる。前後して女川原子力発電所取付け道路などを施工した。
 女川原子力発電所は79年から敷地造成工事に着手し,以降1号機(80年),2号機(88年),3号機の各本館建屋(96年)に着工した。
 女川町総合運動場では85年に造成工事を受注。引き続き町民野球場,町民庭球場,陸上競技場を受注した。02年に万石浦トンネル,04年に(仮称)第1五部浦トンネルを受注している。

 さらに、東日本大震災の津波により壊滅的な被害を受けた女川町の復興事業の概要は、以下の通りだが、2012年3月に、女川町と独立行政法人都市再生機構は「女川町復興まちづくりパートナーシップ協定」を締結、同年10月に、独立行政法人都市再生機構と鹿島・オオバJVは「女川町震災復興事業の工事施工等に関する一体的業務」について協定を結んでいる。女川町は、都市再生機構を通じて鹿島に丸投げしたことになる。以降、復興まちづくりのモデル事業として、しばしば報道され、話題にもなっていた。そして、今年2020年3月、7年半にわたる復興事業は完了したという。

 あの大掛かりな造成工事は完了したのだろうか。駅前のみならず、街のにぎわいを見せているのだろうか。

【女川町震災復興事業】
事業者:女川町
発注者:独立行政法人 都市再生機構
施工者:鹿島・オオバ女川町震災復興事業共同企業体(おながわまちづくりJV)
業務内容:震災復興の造成工事に関するマネジメント業務、
地質調査、地形測量、詳細設計、許認可に関わる図書作成および施工業務
工事概要:中心市街地222ha、離半島部14地区55ha
工期:2012年10月~2020年3月

首相と天皇 
 私たちが女川を訪ねたのは2016年4月、女川駅と周辺のわずかな区画の商業施設が完成したばかりであったが、いかにもにわか作りの感がぬぐえなかった。食事をしようにも満足な店が見つからず、どこか半端な店が並んでいた程度だった。あたり一帯はかさ上げ工事のさなかで、大量の重機が首を振り、大きく削られた山肌が生々しかった。そして、直前の3月17日には天皇夫妻が、2月21日には安倍首相がすでに立ち寄っていたことを教えられた。迎えるための準備と警備は、格別のことであったろう。行幸や視察の実質的な意味は、まず皆無であろう。被災者の気持ちに「寄り添い」「励ます」というが、私などは信じがたいのだが、それよりも先にやることがあるだろうと、いつもやるせない思いに駆られてしまう。

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首相官邸のホームページより

  2015年3月、女川駅が開業した折の美智子皇后の短歌「春風も沿ひて走らむこの朝(あした)女川(をながは)駅を始発車いでぬ」が、すでに16年1月に発表されていた。宮内庁の発表によれば、天皇夫妻の3月17日の女川での日程は、以下の通りであった。昼食をはさんで、滞在時間はどのくらいだったのだろうか。「ヤマホン」というのは、水産加工会社のようであった。女川の日程の前後には、石巻市で「宮城県水産会館(時間調整のためお立ち寄り・宮城県漁業協同組合東日本大震災犠牲者慰霊碑ご拝礼)」、帰りにも、「時間調整のためお立ちより・宮城県漁業協同組合経営管理委員会会長ご懇談」とあった。「ご聴取」「ご視察」「ご覧」「ご訪問」「ご懇談」との使い分けがあって、なかなかややこしい・・・。

女川町長より復興状況等ご聴取(女川町まちなか交流館)
昼食会ご主催(宮城県知事,県議会議長,女川町長,町議会議長)(女川町まちなか交流館)
ご視察(シーパルピア女川(テナント型商業施設)
ご覧(女川駅)
ご訪問(株式会社ヤマホン、施設概要ご聴取,ご視察)

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産経新聞より。この日の丸は、だれが用意したのだろう。  

  最近、女川町の江島出身の知人Wさんに会う機会があった。女川は「ふるさと」ながら、訪ねるたびに、どんどん変わっていく様を目の当たりにして、やりきれなさというか、女川の記事や映像も拒みたくさえなるという。2万人が暮らして漁業が盛んな町だったが、原発が出来て1万になり、大震災の被害でさらに半減してしまったことにもなると嘆くとしきりであった。「女川に来なくても短歌は作れてしまう」と皇后の短歌の話にも及んだ。

 女川町のもう一つの島、出島(いずしま)のこんな記事を見つけた。

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出島の人口は、大震災後、5分の1の100人になった。2023年には、本土との橋が開通するそうだ。河北新報(2020年7月22日)

関係年表を以下改訂しました。クリックして拡大できます。
冒頭のPDF版もご利用ください。

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2020年8月28日 (金)

女川原発のいま、東日本大震災から9年が過ぎて

 2016年、東日本大震災から5年を経た女川を訪ねることができ、下記のような記事をブログにも載せた。それからすでに4年を経てしまったのだが、女川原発の動向が気になっていた。

連休の前、5年後の被災地へはじめて~盛岡・石巻・女川へ(6)女川原発へ
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/05/5-5cf0.html 
連休の前、5年後の被災地へはじめて~盛岡・石巻・女川へ(7)女川町の選択 
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/05/5-be09.html
(2016年5月14日)

   8月24日の朝刊のいくつかは、女川町に「女川小・中学校(一貫校)」の開校を報じていた。「復興した町で学びの成長を」(東京新聞)、「新校舎に笑い声」(毎日新聞)とある。総工費約56億は復興交付金27億5000万、原発立地地域共生交付金10億8000万、カタールからの寄付金8億7000万などで賄われている。財源の内訳も、調べてみてわかったのだが、その数字を報じる新聞記事は少ない。大震災前には3つの小学校と2つの中学校があったが、被災や世帯の移転で少子化が進み、小学生196人、中学生103人が高台の新校舎で学ぶことになった、と明るく報道した。町の人口は現在約5700人、大震災発生時からはほぼ半減に近い。

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2020年8月24日毎日新聞より

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原子力発電施設立地地域共生交付金交付規則に基づく地域振興計画(宮城県 2016年2月、2019年8月最終変更)file:///C:/Users/Owner/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/TIQWZOHI/752064.pdf

 しかし、その数日前の8月19日、女川町議会特別委員会は女川原発2号機の再稼働推進の4つの陳情を賛成多数で採択、再稼働反対の請願が反対多数で不採択となった。同委員会は全町議会議員から構成されているので、9月の本会議を待たず再稼働が事実上の容認されたことになると報じている。請願、陳情の提出団体とその理由に着目してほしい。請願の提出団体は、原発関係者の輸送や滞在による経済効果とコロナ禍によって低迷した観光業の復旧に期待しているが、安全性への不安が高まる中、一時的な消費や需要が地元の振興につながるのかは曖昧なままである。1984年に運転開始した1号機は、老朽化のためにすでに廃炉が決まっているが、1995年に運転開始した2号機は、大丈夫なのか、素朴な疑問が残る。さらに請願の一つは2008年に3号機のプルサーマル計画が発表されたが、東日本大震災を経て、いまだに計画は棚ざらしに近い状況での2号機再稼働の不安、危険性を表していると思う。

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   同じ日8月19日に、仙台市の「脱原発仙台市民会議」ほか11団体が仙台市長あてに、事故が起きた場合、市民にも危険が及ぶなどとして、県から意見を求められた際、女川原発2号機の再稼働に反対するよう、要望書を提出していることを地元の新聞やテレビ局は報じている。
 それに先立ち、2018年12月には、1号機の度重なる事故を踏まえて、廃炉が決定していたが、今年に入って、2020年2月26日、原子力規制委員会は、2号機の審査で正式に合格したことを発表していたのである。

 東日本大震災後の福島原発事故後は、原発を擁する地元民だけでなく、多くの国民の間で、原発への不信感、原発事故への不安感は、拭いようもなく深刻なものになっている。各地の原発事故や各電力会社の不正や情報の隠匿などが報じられるたびに、市民にとって必要不可欠な電力、電気なだけに、なんとしても、原発促進阻止、廃炉への道筋を念じるばかりであった。一方で、電力の安定供給、エネルギーミックスを標榜する国と電力会社による原発促進政策は、交付金や補助金攻勢によって、過疎地区振興の名のもとに、自治体・議会の原発容認、促進を取り付けるという手法でしかなく、市民との乖離はますます増幅の一途をたどっている。

 かつてのブログ記事でも書いているように、私は、夫とともに、4年前に、女川原発反対運動の中心的な役割を引き継いで来られたAさんに、女川原発の現状や女川の津波被害・復興計画の状況を聞きながら、町内を案内していただいた。いま、ここで、あらためて、女川原発の歩みを振り返ってみると、「日本の原発の作り方」の典型を見るようで、いまも変わらない、国の在り方を見るようで恐ろしくなった。国民の命と財産を守るはすの政府は、真逆の、目前の一部の人間の経済的利益を優先して、負の結果には責任を取らないという構図が見えてくる。 

 年表は、以下の資料と、新聞記事などを参考に作成してみた。太字は女川原発に限った事項である。
(クリックすると拡大されます)
日本の反原発運動略年表(はんげんぱつ新聞)
http://cnic.jp/hangenpatsu/category/intro 
原子力年表(女川町) 
http://www.town.onagawa.miyagi.jp/05_04_04_04.html#1970

 

年表は、改訂しました。以下でも、ご覧になれます。この方が鮮明です。苦労して作成しました。(2020年10月31日)
ダウンロード - onagawagenpatunennpyo.pdf

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    年表を見ていると、原発を擁する自治体やその市民も、同じような苦渋の選択を迫られてきたのではないかとの思いである。初期の段階での選択にあたって、例えば、地権者が土地を売り渡したり、漁民が漁業権を放棄したりするときに、電力会社や行政から十分な情報が開示されず、市民の間でも誤った情報が流布したことも、女川原発反対運動を続けているAさんは指摘していた。壮絶なまでの反対運動を踏まえて、現在も地道な運動を続けている人たちに敬意を表したい。

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原発への道の途中にあった「なくせ!原発」「事故で止めるか みんなで止めるか」、地元女川、牡鹿、雄勝三町の反対期成同盟の立て看板であった。(2016年4月)

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「一番の防災は原発をなくすこと」の文字が読める(2016年4月)

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鳴浜の原発施設を小屋取浜より望む(2016年4月)

  私たちが2016年、女川を訪ねたとき、「震災復興のモデル」のように語られていた女川だった。2015年には完成した新しい女川駅、その駅周辺の商店街シーパルピアも開業したばかりであった。その中には地域の交流館も温泉施設もあった。30分もあれば一回りできる範囲なのだが、建物は新しく、防波堤に遮られず、海へと延びるが街路は美しいのだが、施設の中身となる、私たちのような訪問客、観光客にとって、どれも魅力的なものには思えなかったのである。食事をとろうとしても、少し高めな海鮮丼の店やうどん店などがあり、私たちは迷った末、「わかめうどん」を食するしかなかった。そして周辺は、大規模なかさ上げ工事の真っただ中であったが、4年後の今はどうなっているのだろうか。

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いのちの石碑プロジェクトの一つ、東日本大震災の被害状況が示されていた。10014人であった人口は、今年の6月1日現在(推定)、約5700人というからほぼ半減したことになる

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かさ上げ工事が進む(2016年4月

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高台の医療センターから白い屋根の女川駅をのぞむ(2016年4月)

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2017年11月7日、東京新聞より

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2018年12月15日、毎日新聞より。町の慰霊碑、希望した854人の名が刻まれている

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2019年11月 4日 (月)

首里城焼失、「心を一つに再建を」への不安

 私が初めて沖縄を訪ねたのは2014年11月11日だった。ホテルに荷を預け、最初に向かったのが首里城だった。長くて高い城壁を見上げながら進んで、歓会門から入り、いくつかの門をくぐり、奉神門からは有料ということであった。中庭から南殿、正殿、北殿と順路に沿って回ったのだが、建物といい、調度品といい、日本とは違う、その絢爛豪華さには、目を見張るものがあった

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正殿と南殿の間から中庭と北殿をのぞむ

 米軍による空襲で、跡形もなく灰塵に帰したあと、1992年大方が完成し、まだ、復元は続いているときいた。外形は、中国風もあり、日本風もあり、正殿には双方折衷の跡がたどれるという。屋内は撮影禁止なので、うまく伝えられない。しかし、私には、その内装は琉球王国の、ただ、ただ絢爛たる印象が強烈だった。当時の思いは、当ブログにも記したが、その印象はいまでも変わりはない。

2014年11月19日 (水)沖縄の戦跡を歩く~遅すぎた<修学旅行>2014年11月11日~14日(2)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/11/20141111142-57f.html

  今回の火災では、主な建築物7棟が全焼し、調度品・収蔵品・資料なども焼失してしまったという。復元への道のりは、もちろんカラー写真はなく、設計図などの資料が残されていなかったので困難を極め、人々の叡知と労力の賜物だったことを知ると、多くの県民の喪失感には、私たちには計り知れないものがあるのかもしれない。

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『琉球新報』(11月2日)「首里城焼失 国が防火設備撤去 安全管理のに通しの甘さ浮き彫り」の記事より。今回の火災時に水が吹き出る装置ドレンチャーは作動したが、「放水銃」は熱気のため作動できなかったという。

  一方、この首里城の地下には、1945年3月の空襲激化に伴い、移転してきた第32軍司令部があった。 この地下壕は、地下30m以上、坑道は1000mにも及ぶという。1945年4月1日、米軍の本島上陸後の攻撃により、司令部は、5月22日には、南部の摩文仁への再度の移転が決定した。以降、軍民混在のままの悲惨な敗退で、多くの犠牲者を出している。司令官であった牛島満陸軍中将は、降伏を拒み、戦災と死者をさらに拡大していった。これらの経過は、2012年2月に設置された司令部跡の説明板にも、以下のように記されている。 

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  なお、つぎの「壕内のようす」の説明文については、歴史研究者の委員たちが執筆した原稿が、県によって一方的に了解なく、削除された部分があり、県議会などでも問題になったというが、現在も、そのままで、修正されていないそうだ。3行目、「女性軍属、慰安婦などが」との案文から「慰安婦」が削除され、この案文の最後に続いていた「司令部壕周辺では、日本軍に〈スパイ視〉された沖縄住民の虐殺などもおこりました」が削除されたのである。(『沖縄の戦跡ブック・ガマ』改訂版 沖縄県高教組教育資料センタ―『ガマ』編集委員会編 2013年) 

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 そんなことを考えていると、復元された首里城は、沖縄を、沖縄文化を象徴する存在ではあるかもしれないが、マス・メディアが口にする「沖縄の平和の象徴」ではありえないのではないか。たとえば、河野防衛大臣は、嘉手納基地での夜間のパラシュート降下訓練は日米協議事項、違反だと抗議したが、無視されたままなのである。こんな時こそ、呼びつけて「無礼者?!」とも言うべきではなかったか。いや、それ以前に、日米安保体制下の地位協定の名のもとにアメリカに従属するばかりで、沖縄の米軍基地は、いわば使い放題の上、沖縄県民の権利と生活を脅かし続けているにもかかわらず、日本政府は、アメリカに「寄り添い」続けているではないか。そんな政府と「心を一つに首里城の再建を」「再建に心を寄せ合って」と言われても、不安を感じてしまうのは、私だけだろうか。「再建」に政府は、なにほどのことをするのだろう。選挙や県民投票にあらわれた民意に耳を傾けようともしない政府が、この「首里城再建」を基地問題の対立にからめて利用するのではないかという不安に駆られてしまう。玉城知事は、本土復帰50年にあたる2022年をめどに具体化したいと表明している。

Photo_20191104021101 『毎日新聞』(11月2日)11月1日首相官邸にて。会談は冒頭のみ公開され、玉城知事は「県民の心のよりどころである首里城は必ず再建しなければいけない」と強調。菅氏も「政府として財政措置も含めてやれることは全てやる。一日も早く再建に向けて全力で取り組む」と約束した。 玉城知事は、復帰50年にあたる2022年には具体的な計画を表明したいとしている。焼失前の復元については33年間で総計240億円がかかったとしている。

 

 

 

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2019年10月29日 (火)

それでも「饗宴」は続くのか

 即位礼の祝賀パレードを11月10日に延期した理由は何だったのだろう。台風被害に配慮してとのことだったが。天皇夫妻が即位礼参列者への返礼として開催される「饗宴の儀」は、下記の資料に見るように4回開かれる。すでに2回は終了し、あと2回を残している。平成改元の折は7回、3400人を招待したが、今回は4回とし、2600人に絞ったということだが、予算は、増額されているのだ。しかも、その招待客の差別化が、あまりにも露骨なので驚きもする。

 この時期に、こうした一連の行事が開催されていることについて、野党も、新聞やテレビの報道(番組)でも決して異議を唱えない。テレビの「即位の礼」報道では、参列したコメンテイターを複数まじえ、10月22日、朝からの雨も即位礼が終わる頃には、日が射してきて、虹までかかり、新しい時代の到来を告げたかのようだとか、その感動を語らせるのだった。外国の参列者を迎える天皇夫妻が晴れやかだったとか、首相夫人のドレスがおかしくないかとか、どうでもいいことではないか。新しい皇后の病気が快復したのはいいけれど、これまではいったい何だったのだろうか。高御座の幕が開けられて天皇が現れるという光景は、仕掛けばかりが大きい手品を見せられているようだった。天皇の「おことば」に「平和」が何回出てきたとか、「国民に寄り添う」姿勢は平成と変わりはないとか、丁寧に解説されても、政治的権能のない天皇の発信に感動したり、ことさら評価したりすることは何を意味するのだろう、というのが私の率直な疑問と感想だった。

 即位礼に続く「饗宴の儀」は、2018年11月20日の閣議決定で概要は決まったが、詳細、経過は、以下の首相官邸HPの「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う式典委員会」、さらに実務的な資料は、宮内庁HPの「大礼委員会」を見てほしい。二つの委員会はともに、2018年10月12日発足している。

宮内庁/大礼委員会
https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/shiryo/tairei/

 首相官邸(内閣官房・内閣府 皇位継承式典事務局)/天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う式典委員会https://www.kantei.go.jp/jp/singi/gishikitou_iinkai/

 平成改元の折の饗宴の儀と比較している資料(第6回2019年6月20日天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う式典委員会配布資料3-1)があるが、以下のように簡単にまとめた記事があった。

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 JIJICOM(10月27日)より

 台風15号、19号、そして今回の大雨での千葉県の被害は、尋常ではなかった。いずれも、私の住む地域では、大きな被害はなかったのだが、テレビや新聞の上空からの佐倉市の映像を見て心が痛む。ふだん目にしていた光景が一変したのだ。

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氾濫した鹿島川『毎日新聞』(10月26日)より

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10月26日9時5分撮影『毎日新聞』(10月27日)より
 

今回の大雨で高崎川は氾濫し、JR佐倉駅と周辺の冠水をもたらした。駅の線路も水没したという。鹿島川の氾濫は、当地に引っ越してきて30年余、これまで聞いたことがなかったが、広範囲の冠水と土砂崩れを引き起こした。国立歴史民俗博物館の駐車場も土砂崩れがあったらしい。

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歴博周辺の浸水地域  東京新聞(10月28日)より


 
印旛沼のサイクリングロードは、かつて、家族で、自転車で何度か出かけ、阿宗橋から船戸大橋、竜神橋、鹿島橋まで走らせたこともある。雨が上がった後も、印旛沼の水位が上がっているとの報道もあり、27日も取材のヘリコプターが飛んでいた。千葉県内では犠牲者が9人にもなり、農業被害や家屋の倒壊・浸水など、再建や復旧が危ぶまれる事態が続いている。
 房総半島の南部では、屋根のブルーシートが破れたり、停電が復旧した矢先の大雨で再び冠水したりして、泥だらけの家電や畳を運びだす人々、倒壊したビニールハウスを前に途方に暮れる人々を目の当たりにすると、やりきれない。がれきの処理も一自治体では処理できない状況が続いている。一度訪ねたことのある館山の「かにた村」もどうなったことか、心配でもある。
 さらに、福島や宮城県では、台風被害・大雨被害での犠牲者に加え、放射能汚染土のフレコンパックの仮置き場からの流出、風評被害から立ち直りかけた農家の方たちへの打撃は、言葉では表せないほどの口惜しさと将来への不安を募らせたことだろう。

 こんな状況の中で、なぜ「饗宴」は続けられるのか。招く側も、招かれる側も、一度立ち止まって、いま何をすべきなのかを考えてほしい。

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2017年7月12日 (水)

自治会等からの消防団への寄付は、違法性が問われ、廃止の方向へ~迷走する佐倉市の対応に驚く~

 九州、福岡での水害では、懸命の救出作業が進む中、多くの犠牲者が出ている。災害時における自衛隊や消防団員の活動には感謝したい。今回は、消防団員の犠牲者も伝えられている。 

 その一方で、地域の自治会や町内会からの消防団への寄付が、いま問題になっている。当ブログでも四月上旬に、私の住む街での自治会の出来事に端を発して、消防庁や佐倉市に問い合わせたり、判例や各地の動向などを調べたりして、以下の記事を書いた。

 

消防団・社協・日赤などへの寄付を強制されていませんか~自治会の自治とは(1)(2)201749 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/04/post-8f66.html 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/04/post-7804.html

 

1.消防団への寄付について、ふたたび 

行政とのやり取りの中でも、疑問は解明できず、411日に佐倉市に質問書を提出していた。佐倉市の場合、「市長への手紙」や質問や要望に対する回答は、多くは、内容に実のない回答ではあったが、ともかく、回答は3週間をめどに、届いていた。ところが、今回は、数回の督促にもかかわらず、回答が届いたのは6月末日であった。2か月半以上かかってしまったわけで、担当の「危機管理室」の名とはあまりにもかけ離れているではないか。

 私が、佐倉市長あての質問・要望書は、先の記事と重なる部分もあるが、その要点は、以下のようなものだった。

~~~~~~~~~~~~~ 

(質問)
 
.市内の各地域で実施されている「消防団への寄付」(協力金、後援会費等含む)は、以下の①②③の条文からして違法と思われます。「公務外の仕事に対して、各自治会などが消防団へ寄付することは、消防団への感謝や慰労の気持ちであって問題がない」とする根拠はなにか。以下の条文・判決内容に沿って回答願います。
 
①消防組織法第9条・15条:消防団は地方行政団体の行政機関である
 
②地方公務員法第63項の五:消防団員は非常勤の地方公務員である
 
③地方財政法第4条の五:割当的寄付金等が禁止されている
 
2010324日、横浜地裁の判決:
 

 

〇消防団員の慰労のために,市民等から寄附金等を受け取ることは,公務員が本来の職務やそれに関連する業務につき金員を受領しているとも受け取られる可能性があるから、決して好ましいものではない
 
〇消防団が,本来業務のほか本来業務との関連が疑われる活動につき,市民等から慰労などの趣旨で直接寄附金を受領することは、違法となる余地がある
 
⑤『消防団の概要』(危機管理室・消防団本部)では、
 

「4.消防団の仕事」に「(1)消防団員の身分・仕事・権限⇒[1]消防団員の身分⇒3.消防団員は社会に奉仕する団体である⇒②消防活動に対して何らの代価も求めない」とある。

 

 2.消防団員が個人としてではなく、制服を着て、公務と類似の業務をすることは、外形上、公務とみなされ、団員たちの認識による判別には意味がない。さらに、前掲『消防団の概要』では 

「4.消防団の仕事」に「(1)消防団員の身分・仕事・権限⇒[2]消防団員の仕事⇒2.災害発生時以外 ⇒ ①火災発生予防 ②警備警戒活動 ③教育訓練活動 ④機械器具等の点検」 

 

とあり、災害発生時以外の①~④の業務も「消防団の公務」とされている。消防団員としての地域での諸活動を「公務外の活動」とする理由は何か。

(要望)
 
今年度ないし次年度、直ちに実施できることとして以下を要望します。
 
1.消防団が寄付を請求するはもちろん、消防団が寄付を受け取ることも、法令に従って、禁止してください。あわせて『自治会長・町内会長・区長の手引き』における「消防団の後援会費」についての質疑を削除するとともに、自治会等と消防団の金品の授受の禁止を明記してください。
 
2.他の市町村の条例には、団員の「遵守事項」の一つに「金品や酒食の接待の請求や受けることも禁止する」主旨の条文があるが、佐倉市の「消防団条例」には示されていない。「遵守事項」として条例化してください。
 
3.同時に、まず慣例と実態を知ることが大事なので、佐倉市は、自治会等及び消防団において、消防団への寄付がどのように集められ、渡されているのかの調査をしてください。

~~~~~~~~~~~~~~~

 2.消防団による祭礼の警備や野焼きや花火の監視活動は、公務か公務外か 

2か月半後、回答ではない中間報告が届き、そこでは、重大な訂正がなされていた。先の記事にも紹介した、電話でのやり取りで「消防団の地域での活動の中には公務外の活動もあって、それに対する自治会などからの慰労や謝礼の気持ちである寄付には問題がない」とする部分への訂正と思われる。詳しくは、添付資料Aを見ていただきたい。要は、「地域貢献活動として本来の業務以外である自主的な警戒活動をはじめとする地域の祭礼の警備、野焼きの監視活動などの『公務外の活動』に対して地域住民が『慰労や気持ち』として任意に支援しているものであり、市では関知することはできないもの」と説明したが、『公務外の活動』は、『公務の範囲』と訂正する、という内容であった。上記質問書の2.に応えたつもりかもしれないが、なぜ見解が一変したか明らかではない。

 

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資料A・中間報告↑

 

  これは、「公務の範囲」での上記のような活動に、地域住民の『慰労や気持ち』として任意に支援していることに市は関知しない、と読み替えなければならない。本来「公務」に従事する公務員に「慰労や気持ち」が入り込む余地はないはずである。寄付をする方も受領する方も、まさに刑事犯にあたる行為となる。佐倉市内でも、一世帯当たり千円単位で、自治会として数十万単位で消防団への寄付を強いられている地域もあり、これに関知しないということは、佐倉市自体も、行政機関「消防団」への「公務」に対する寄付は、受領するならば佐倉市への収入として処理していないことになる。   

「回答書」の文章をたどれば、そこにも大いなる矛盾が 

 

 6月末日にようやく届いた回答書は、添付資料Bをご覧いただきたい。その冒頭には、「消防団員が特別地方公務員であること、消防団が消防組織法に規定する行政機関であること、および地方財政法により割り当て寄付が禁じられていることは、事実ですが、これらの規定を踏まえても、当市の消防団への自治会等からの寄付が違法であるとの結論」には飛躍があるという。その次の文章は「自治会等からの寄付は消防団という組織に対する寄付であり、消防団員がこれを受領することはありません」とあり、「消防団という組織」は、回答書冒頭にあるように「行政機関」への寄付であることを明確にしている。飛躍でもなんでもなく、行政機関への寄付であることは、自明のことであるので、「ふるさと納税」のような制度がない限り、受け取ってはならない寄付であり、返還しなければならない性格のものである。 

 

 回答書にはさらに、消防団への寄付は、「自治会町内会等の自主的・自立的判断に基づく任意の自治活動であり」というが、行政機関たる「消防団」への寄付は、だれからであろうと、何の目的であろうと、行政機関の収入である。行政機関が、市の関知しない収入を得て、関知しない支出をすることは、ほかの行政機関を例に考えても、想定外であって、違法である。しかも、市は、当然のことながら、条例に基づいて、消防団の予算は約7000万円(うち報酬費約5000万円)、渡し切りの交付金も支払われ、消防団員は、特別公務員として、役職によって異なるものの、年間の一律報酬や出動手当、退職報償金なども支払われているのである。

 

 近年、消防団員の成り手が少ない自治体が続出して、消防団の機能が弱体化している例が多く聞かれるのも事実である。少子高齢化、地域の過疎化、地域共同体・家族の在り方自体が変容している中で、消防団制度を維持することに限界に来ているのは確かである。しかし、そのことと地域からの「慰労や謝礼」の印として「寄付」を合法化するのは筋違いで、別問題として考えなければならない。

 

 また、回答書に、寄付が割り当てられていない、寄付をしない自治会もある、ことが任意の証左といい、消火活動は寄付の有無にかかわらず公平に行っていることをもって、行政が関知しない理由としているようであるが、述べてきたように、要は、行政機関が寄付を受領していることの適法性を担保することにはならないだろう。

 

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資料B・回答書↑

 

  ともかく、佐倉市は、この件の実態を知りたくない、関わりたくないの一点での弁明、いささかあきれた対応が続いている。 

全国的な動向として、各地で、自治会等の寄付の在り方をめぐって、議論が起こっているし、消防団の寄付については横浜地裁の判例などがきっかけで、消防団への寄付を廃止する市町村も増えている。昔のムラ社会意識から抜け出せない佐倉市、後れを取らないように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年5月14日 (土)

連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(7)女川町の選択

 

女川の戦死者に

PR館から戻る途中、魚雷回天の基地だったというのが気になり、停めていただいた。そこは、2010年まで、女川第六小学校と第四中学校の在った場所で、学校はかつての海軍の回天魚雷などの基地があったところに建てられた。Aさんも昔、お年寄りから聞いたことがあるとのことであった。帰宅後少し調べてみると、『女川町誌』(1960年、続編1991年)にも記述があるそうだ。

日本海軍は、連合軍の本土上陸に備え、小型舟艇の基地を太平洋沿岸に造ることを計画していた。小型舟艇とは、10人乗りの潜水艇咬龍、2人乗りの潜水艇海龍、1人乗りの人間魚雷の回天、1人乗りのモーターボートの震洋、そういえば、昨秋訪ねた霞ケ浦の予科練平和記念館でも聞いたことがある。牡鹿半島一帯には第七突撃戦隊に所属する第一四突撃隊(嵐部隊)が配され、本部が、ここに置かれていたというのである。当初、各種の小型舟艇が配備される予定であったそうだ。敗戦時は、「大浜」「天草」など5隻と海龍12隻と隊員600人規模であったが、海龍を隠すための壕が、車でも通過した飯子浜(いいごはま)などに、いまも残されているそうだ。そして、1945710日の仙台空襲に続いて、8月の9日・10日の女川空襲では、その軍用船や舟艇が、石巻の中瀬の村上造船所とともに狙われた。女川では、防衛隊だけでも157名(「女川湾戦没者慰霊塔」1966年、木村主税町長による撰文)と合わせると200名近い死者が出ていることも知った。

 

 

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女川防衛隊本部が小学校・中学校となり、町の人口減少に伴い、2010年、女川第六小学校と第四中学校が閉校となり、立派な二つの閉校記念碑が建てられていた。

 

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「ゆたかな心光る汗」の標語の看板が残る



女川の津波被害の犠牲者へ

女川駅に戻って、少し高台の地域医療センターまでのぼると、駅前のかさ上げ工事が一望できる。山を崩し、町全体を7mかさ上げし、高い防潮堤は、海の町としてはむしろ不要であくまで「海の見える町」にこだわった町民の選択だったという。女川町・都市再生機構・鹿島による一大復興プロジェクトである。三月一一日には、この小高い病院にも津波が押し寄せ、玄関には、ここまで達したという赤い線が表示されていた。1階部分のほぼ天井までと見ていいのだろう。だから、地震直後の対応で、1階で働いていた人や患者さんが間に合わず被害に遇われている。慰霊碑にお参りし、一回りすると、この復興計画の途方もなさが思われた。議会を前にながい時間をかけて、ご案内いただいたAさんが最後におっしゃる、原発に頼らない、町民の取り組みによる、ほんとうの復興、復興の先にある不安と期待、被災地はどこも、とくに女川は原発を抱え、さらに困難な再生の過程のほんの一部を実感するのだった。

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地域医療センターの玄関の柱に表示された津波の高さ

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町全体7mのかさ上げ工事

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病院での犠牲者慰霊碑から望む



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いのちの石碑プロジェクト、後世につなぐために。人口10014人、死亡・行方不明者827人総家屋数4411棟の内、全壊2924棟・・・。

 

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中央の白い翼のような屋根が新女川駅

 

石巻でも聞いていた、新しい商業施設「シーパルピア女川」が駅から海までの一直線で、そこだけが妙に浮き上がって明るい感じの一画になっている。周辺はすべて工事中なのである。祝日でもあったので、民族舞踊のフェステイバルのようなものが開かれ、あたりには大音響が響く。ランチが気軽に楽しめる店がないね、旅行者の気ままさで「ワカメうどん」を食するのであった。

三泊四日の陸奥の旅も終わりに近づいた。

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石巻線終点、海の見える駅、女川

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万石浦にしばらく沿って石巻に向かう

 

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