2026年9月26日 (土)

「怖い短歌」? 8首を発表。

 住まいに近い高崎川の氾濫、続いて北印旛沼の堤防決壊の映像は、ほんとに「怖い」の一語に尽きる。救急車、消防車のサイレン、ヘリコプターの音に、その「怖さ」が増幅される数日間であった。しかし、家屋や車、田畑への浸水、倉庫の新米、農機具、ビニールハウス、養魚場の浸水などの被害に遭われた方たちには、復旧、再建のための苦難の道が待ち受けている。政府は「激甚災害」に認定したというが、毎度のことながら、実際被害者に届く経済的支援は細り、その時期を思うと怒りさえ覚える。

 『短歌往来』10月号の特集は「現代のこわいうた」だった。拙作の「こわいうた」8首とエッセイ、短歌のみご笑覧ください。

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『短歌往来』10月号、目次の一部

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そこにある国旗            

重大なニュースはむしろ短めで試合運びは丹念過ぎる

アマゾンの送迎バスはひとらを降ろしこれから働くひとらを乗せる

主催者の最後の発言「ハチドリの一滴」のたとえは慰藉にも似たり

壇上にニーメラーの詩を読む人に私はなぜか苛立ちており

郵便局の「人生ノート」のしばらくは机上にあるも資源ごみとなす

「彼女とは恋愛関係にあったのでパワハラではない」との電話を受ける

回収は半数に満たない世論調査内閣支持率の差は何の意か

会見に先立ち右手に礼をするそこに国旗があるかららしい

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2026年9月22日 (火)

佐倉市、またも豪雨に見舞われる!

 今回の台風25号の豪雨は、日付が変わった9月22日、午前零時過ぎなっても、降り続いている。近くに、遠くに、救急車や消防車が行き来しているサイレンの音が何度でも聞こえてきた。国土交通省の川の災害情報マップを見ていると、住まいに近い表町、鏑木町2丁目が高崎川氾濫の被害に見舞われ、たいへんなことになっていた。JR佐倉駅へ出る折や買い物でスーパーや寺崎の商業施設に出かける折のバス道路が冠水して通行止めになっていた。表町は、8月の豪雨の折にも、家屋の浸水被害を受けている。先ほどのニュースによれば、市内の六崎では土砂崩れの被害も発生したという。

 当地、鏑木町1丁目に転居して2年目だが、こんなことがあって初めて、佐倉市内の大きな地図を広げて、あらためて、いまの住まいや、旧居の辺りの位置を確認したりしている。田畑の被害も心配だが、人命にかかわる被害が出ないことを切に願うばかりである。8月の豪雨で、佐倉市は4人もの方が犠牲になっている。 

緊急安全確保レベル5:命を守る行動を:対象地域
表町全域9/21 21:43 発令1,492世帯2,416人
鏑木町二丁目9/21 21:43 発令226世帯372人

  我が家でも、慌てて、かつてから用意していた防災グッズを確認してみたが、衣類や雑多な生活用品はある程度揃ってはいたものの、災害時のための備蓄食品が、まるでない。とりあえずあるのは、ペットボトルの水だけだった。日々の暮らしのための食料や食品に気がとられてしまって、おろそかになっているの気づいたのだった。近頃は地震も多いし、油断は禁物、少しづつ、備えていかねばと思う。

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9月22日の朝は、ヘリコプターの音で目が覚めた。窓を開ければ、きのうと違って青空に白い雲をさっと掃いたように晴れ上がっていた。いつまでたってもヘリの音は続く。上記写真は、羽鳥モーニングショーから拝借した。想像もつかない光景だった。

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2026年8月18日 (火)

千葉豪雨~現代の「治山治水」とは

  今回の8月13日からの「千葉豪雨」には、ほんとうに驚いた。佐倉市の雨量も半端ではなかったが、雨戸のない部屋には、雷鳴と共に落雷するのではないかとさえ思えるような状況が続いた。2019年の台風の時の雨量が6時間あたり234mmに対し、今回は454mmと約2倍であったという。とりあえず、近辺の被害は、見当たらなくほっとしたところである。

 佐倉市内で2名の犠牲者が出たとの報道に接したが、しばらくの間、その状況が分からなかった。8月14日の夜のニュースで、犠牲者の一名はタクシーの乗客の女性と知った。しかも、一昨年まで住んでいた場所から遠くない「小竹」だったといい、田んぼの中で水没している一台のタクシーの映像が放映されていた。車の屋根には、旧居と勝田台間で、よく利用していたタクシー会社の標識ついていた。8月13日の夜半、猛烈の雷雨の中、あのタクシーはどこからどこへ向かおうとしていたのだろう。運転手は一命をとりとめたというが、身につまされる事故であった。

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8月14日、TBSテレビニュースより

  14日から15日にかけて、知人や友人からお見舞いのメールをいただき、恐縮する。16日には、旧居近くの友人と会う機会があったが、道路が冠水、危うく玄関に水が入りそうになった由、雨の中、近所の男性たちとグレーチングにたまったごみの撤去に大変だったとのこと。動けなくなった車も近くにあったというが、こうした一度水没し、動けなくなった車は、県内で2700台にも及んだという報道もある。実際はもっと多いのではないか。ユーカリが丘駅近くの商業施設に働く人たちの中には、帰宅できず、店に泊った人たちも多かったそうだ。また、千葉市内の友人からは、一時期、電気やガスもストップし、マンホールの水が逆流、浸水し、高齢者にはあと片付けはきついとのメールも入った。

 家屋の浸水や土砂崩れ、農作物への被害も甚大だが、地下施設の浸水や車の水没、それに伴う交通障害といった、都市に発生しやすい被害も目立つようになった。

 8月15日には、熊谷千葉県知事が佐倉市の被害状況を視察に来たようだ。地元選挙区選出の衆院議員や県議3人と自民党小林政調会長もぞろぞろ。なんだかな、選挙対策芬々の光景であった。その様子は知事がXに投稿している。(https://x.com/kumagai_chiba)

 2019年の台風の時も、佐倉市内の街川は氾濫し、大きな水害をもたらした。山火事やクマ被害対策にしても、「治山治水」は現代においても、政治の大きな課題なのである。AIの促進やデーターセンター建設にうつつを抜かしていて、いいものなのだろうか。高齢者は不安なのである。

 

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2026年8月12日 (水)

欠陥法案、続々、もうこの国を愛せない(4)~国会閉会後はというと

 高市首相の熊本地震の被災者避難所の視察が「3分」に過ぎなかったと報じられ(「田中龍作ジャーナル」2026年8月3日)、拡散されると、氷川中学校の滞在時間は五十何分だと、内閣広報官が反論する羽目になった。https://tanakaryusaku.jp/2026/08/00033801)

 朝日新聞8月4日の「首相動静3日」によれば、避難所の氷川中学校到着3時13分、視察が午後3時21分から34分、35分から54分までが被災者との意見交換をしたことになっている。実際に、避難所になっている氷川中学校の教室に滞在したのはかなり短かったことは推測できる。その前には、校長室で地元住民との意見交換が行われていたらしい。また、首相官邸からは、BGM付きの首相の「熊本視察動画」が発信されたことも批判されている。たしかに、真新しい防災服を着て、走るように移動する動画は、子どもが燥いでいるのようにも見える。6日経っての視察先での「激甚災害指定」の宣言といい、予備費からの200億円で「国ができることはすべてやる、先手、先手で」との発言は、失笑をかった。電気、水、道路を断たれ、家を失い、瓦礫の中で暮らす被災者や車中泊を余儀なくされている人たちをさかなでしないか。災害の政治利用、パフォーマンスといわれても仕方がない。
 折も折、8月1日、2024年1月の能登地震の復興計画の一環での公営住宅整備3100戸のうち、2棟14戸が七尾市に完成し、入居した旨の報道がなされた。2年半以上がたってもこんな状況であることを知らなかった私は驚いた。この事態を、物々しく、いかにも復興が進展しているかのように報道する方もおかしい。遅れているのはなぜなのか、何がネックなのかことこそ深堀りするのが報道ではないのか。能登半島地震、今回の熊本地震の復旧・復興対策一つをとっても、後手、後手の結果ではないのか。

 6月末には「日本成長戦略概要~「強い経済」の構築による、強く豊かな日本列島の実現~」が明らかになった。https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/nipponseichosenryaku/pdf/jgs2026gaiyou.pdf(内閣官房)

 また、7月21日、政府は「骨太方針」を閣議決定した。その中の「安全保障の強化」という項目には「5年以内の防衛力の変革を明記。その一環として、有事に備えて弾薬などの生産ラインを維持するため、工場を国が保有し運営は民間に委託する「公設民営化」の検討を盛り込ん」でいる(東京新聞7月22日)。

 さらに、政府は8月4日の閣議で、2026年版「防衛白書」を了承したのである。無人機や人工知能(AI)を活用した「新しい戦い方」の出現を踏まえて1章を創設した。「新しい戦い方」って、いったいどこと戦うというのか。中国と太平洋進出や中国とロシアの動向を念頭に置いているという。すでに今年の3月、熊本市の健軍陸上自衛隊駐屯地に、住民の反対を押し切って、中国の沿岸部や北朝鮮が射程に入る長距離ミサイルが配備された。10年かけて、各地に配備、反撃能力(敵基地攻撃能力)を高めるというのだ。防衛費の総額は、9兆353億円(対前年度比+3.8%)で、長距離ミサイルを含むスタンド・オフ防衛能力分野では、総額の約1割の9733億円で、2023年度から5年計画で毎年1兆円近くが計上されて来た。重点分野の内訳は、以下の通りである。

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【参考】

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jijicom 2025年12月26日より

 物価対策の一環としての食料品消費税減税のはずであったが、8%を1%に下げたところで、生鮮食品を含む食料品の物価上昇はすでに、7%をとっくに上回っていることは、多くの国民はスーパーや生協での支払いで実感済みである。来年4月からの2年後に8%に戻すという。8月5日、財源を示さないままの閣議決定であるが、8月6日の首相の記者会見では、2年後には「私が責任をもって、8%に戻す」覚悟?が確認されている。

   8月7日には、農林水産省は、食料自給率を公表した。図表に見るような長期推移を以下のように分析している。
「食料自給率は、長期的に見ると、米の消費が減少する一方で畜産物や油脂類の消費が増大する等の食生活の変化により、低下傾向が続いてきましたが、2000年代に入ってからは概ね横ばい傾向で推移しています」

 たしかに、横ばい状態が続いているが、カロリーベース37%というのは過去にもあったが最低である。カロリーベースの自給率の計算式は以下の通りとなる。

カロリーベース 食料自給率 = 国産供給熱量÷ 国内総供給熱量
= 1人・1日当たり国産供給熱量÷ 1人・1日当たり総供給熱量
= (830kcal/人・日)÷(2,237kcal/人・日≒37%

   この食料自給率は先進7カ国(G7)の中で最も低い水準で、食料供給のうち、国産で賄えない63%分は米国(26%)やカナダ(11%)、豪州(10%)などからの輸入に頼る。自給率が下がれば紛争や為替変動などの影響を受けやすく、食料安全保障上のリスクとなるわけである(jiji.com 2026年8月7日)。 品目別の自給率はでは、米が96%、野菜73%、魚介類46%、砂糖類33%と続くが、果実28%、大豆25%、小麦になると17%となる。相当危ういことになってはいないか。知っているようで、この数字を目にするとあらためて驚いてしまう。物価上昇に歯止めがかからないのは、ここにも原因の一つがあるようだ。

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jiji.com 2026年8月7日より

 【参照】 
農林水産省(2026年8月7日)
令和7年度食料自給率(カロリーベース・生産額ベース)
https://www.maff.go.jp/j/zyukyu/zikyu_ritu/attach/pdf/012-20.pdf

 こんなことを調べたり書いたりしていると、心はますます萎えてくる。この辺でやめたいと思う。

 

 

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2026年4月 7日 (火)

被災地訪問に「原発と天皇」を考える

 天皇夫妻と長女の三人は、3月6日、福島県双葉町の県立「東日本大震災・原子力災害伝承館」を訪問し、設けられた献花台に花を供え、帰還した被災者と懇談している。双葉町は、原発事故後、町民全員7000人近くが避難を強いられ、今も町の85%は帰宅困難区域であり、2026年1月現在の人口は帰還町民と移住者をあわせて196人(朝日新聞デジタル2026年2月2日)という。双葉町ホームページによれば、県と復興庁の三者で毎年全国各地に避難している世帯の「住民意向調査」を行っているが、ここ数年、その回収率は、激減している(https://www.town.fukushima-futaba.lg.jp/9246.htm)。2020年3018世帯のうち1486世帯が回答49.2%、2023年38.3%、2025年29.3%という具合で、双葉町への関心自体が薄れている。というのも回答世帯の80%近くがすでに回答者自身ないし家族が所有する家があり、定住している。さらに70歳以上が50%超えるというのが実情である。関係者の努力があったとしても町としての復旧・復興は不可能に近いのではないか。

 そのような双葉町に訪れた天皇家の三人が、被災して帰還した三人、「東日本大震災・原子力災害伝承館」で語り部をする70歳の男性、ファストフード店で働く54歳の女性、町営住宅で管理組合長を務める76歳の男性が選ばれ、懇談している。「事故を起こした原発が立地する双葉町を皇室として初めて訪れ、被災者の話に熱心に聴き入り、復興への取り組みを励ました」という。76歳の男性には「多くの人が帰って来るといいですね」と天皇は話している(朝日新聞 20206年4月7日)。
 「寄り添い」「励ます」とは真逆のように、この訪問に際して、伝承館は4~7日は休館となり、6・7日は大規模な交通規制がなされている。

 そして、きょう4月7日には、富岡町のとみおかアーカイブ・ミュージアム、大熊町のlinkる大熊、同町の教育施設「学び舎(や)ゆめの森」、浪江町の道の駅なみえを訪問し、各訪問先で復興状況などを視察し、学び舎ゆめの森でも被災者と懇談するという。Jビレッジに一泊の強行日程の中で、三人は原発事故と津波の被災地の何を見て、被災者から何を聴いたというのだろう。復旧・復興のほんの「一画」をめぐり、数人の被災者と「懇談」したからといって、何が変わるのだろうか。にわか仕立ての献花台に花を供えて祈ることが犠牲者を追悼することになるのだろうか。

  原発事故から15年が経ち、今年の1月から3月にかけて、メディアは、復興の困難さ、原発回帰、原発再稼働、除染土や核燃料廃棄物の最終処分場の混迷など、特集記事や社説をもって、政府に疑問を投げかけるものが多かった。

 そんな中での、天皇一家の福島県訪問である。メディアの報道の仕方は、地元の歓迎ぶり、祈る姿、被災者への励まし・・・とそのパターンは変わらない。

 

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2023年12月 1日 (金)

横浜へ~三渓園、日本大通りの銀杏、どこの黄葉も見事でした(2)

日本大通りのニュースパーク(新聞博物館、情報文化センター内)へ

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 KKRポートヒルに一泊した翌朝は、きのうの風もおさまり、快晴であった。窓からは眼下に港の見える丘公園、ベイブリッジ、キリンのように並んでいた荷揚げの重機なのか、首を曲げているものもある。きょうは、ニュースパーク(新聞博物館)へと向かう。ここでも関東大震災100年の企画展「そのとき新聞は、記者は、情報は」が開催中なので、見学することにしていて、10時オープンと同時に入館した。

 

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展示物の撮影は禁止であった。ちらしには、号外の一部などがスクラップされている。上段左から「大阪朝日新聞」(9月4日、第3号外、福馬謙造記者)、「大阪都新聞」(9月6日号外、喜多吉哉特派員)、「大阪毎日新聞」(9月4日夕刊、三好正明特派員)。

展示は、以下の4部構成であった。
Ⅰ「震災発生 そのとき新聞社は、新聞は、記者は」
Ⅱ「震源地・神奈川、横浜はどのように伝えられたか」
Ⅲ「不確かな情報、流言・デマ、混乱」
Ⅳ「関東大震災前後の震災、新聞社の防災・減災の取り組み」

 1923年9月1日正午近く発生した関東大震災は、神奈川県だけでも、死者・行方不明者3万2800余人、住家被害は12万5500余棟に及んだ。その時、新聞社、新聞、記者はどうしたかを、各新聞社は、記者の移動もままならない中、号外や新聞で、必死に伝えていたことが、当時の紙面からうかがい知ることができる。

 東京日日新聞(毎日新聞)は、皇居前広場に臨時編集局を開設、9月4日には新聞発行がなされ、朝日新聞は、帝国ホテルに臨時編集局を設置、謄写版刷りの数行の号外を出したのが9月4日、定期発行は9月12日であったことがわかる。この間、大阪朝日新聞、大阪都新聞、大阪毎日新聞などが、特派記者による東京の被害の状況を伝える号外を発行している(上記チラシのコメント参照)。
 9月6日の報知新聞(夕刊)では、秋に予定されていた摂政(皇太子)の「ご成婚は未定」、大阪毎日新聞9月4日(夕刊)には「摂政宮御沙汰を賜ふ ご内幣金一千萬万円下賜」の記事も。
 横浜市内の状況は、主に横浜貿易新報(神奈川新聞)9月13日から臨時号を発行、報道している。目に留まったのが9月30日(夕刊)に「非高工移転論熱烈」という記事。横浜高等工業学校を名古屋に移転する計画が、三渓園の原三渓らが中心になって、陳情書を提出、反対運動が実り、中止になったらしい。
 この春の横浜散策で、赤レンガ倉庫の一棟の半分が倒壊したことや山下公園が大震災の瓦礫を埋め立てて造られたことなどを知ったのだが、公園は1933年、10年後に開園していることを、今回知った。

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私たちが見学中に小学生の一団がどっと会場に入ってきた。リュックを背負ったまま、揃いの黄色い画板を下げて、メモを取ったりおしゃべりしながら、せっせと通り過ぎていった。見守っていた先生に、「横浜市内からですか」尋ねたところ、千葉です、という。私も千葉からと告げると、「佐倉からです」との返事にびっくり、胸の名札を見せてくれて「西志津小学校」とあるではないか。ユーカリが丘の人とここで出会えるとはと、その先生も驚いていた。生徒たちはどのくらい理解しているのでしょうね、と失礼な質問もすると、当時の写真がみな白黒なのが気になるようでと。先生は、NHKの関東大震災特集などを見ていて、写真のカラー化したものも目にしていたそうだ。ユーカリが丘出身の女性落語家を招いた話なども話していた。見学後生徒たちは、ホールに集まって、記者OBらしき人の話を神妙に聞いていた。

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ニュースパークの一画にあるカフェで、ランチのあと、通りに出れば、銀杏並木の木漏れ日が揺れ、斜め前の神奈川県庁前の銀杏もみごとであった。

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2023年10月 4日 (水)

<関東大震災100年>特集に思う~5首を発表しました。

 関東大震災100年ということで、多くのメディアが特集やシリーズものを組んでいた。短歌雑誌の『歌壇』9月号では、≪その時歌人たちはどう詠んだか―関東大震災から百年≫が組まれ、私も「『ポトナム』揺籃期の震災詠」を寄稿した。9月2日の当ブログにも収録している。今回は、『現代短歌新聞』10月号の特集≪関東大震災100年≫に拙作五首を発表している。ご笑覧のほどを。3頁にわたり43人が出詠していた。★

観音寺の鐘楼   内野光子(ポトナム)

縛られて〈払い下げ〉られし六人を殺せと命じられし村びと
息つめて向うは高津観音寺晩夏の雨に鐘楼濡れおり
朝鮮の技にて成りし鐘楼に犠牲者慰霊の礼のひたすら
命じられ殺めし人らを供養せる碑には銘なく落葉とどまる
二九六の往来激しき道の辺に潜まり建つは〈無縁仏の墓〉
(『現代短歌新聞』2023年10月)

 関東大震災について、私は、書物や映像でしか知らない。両親は結婚する前で、父は海外にいたし、母は千葉県の佐原で小学校教師をしていたはずだが、震災の話を聞いた記憶がない。書物や映像からの作歌は、むずかしいし、私は、なるべく戒めることにしている。数年前、佐倉市の隣町、八千代市内に大震災時に犠牲となった朝鮮人の慰霊碑がいくつかあり、毎年、追悼式が行われていることを知った。高津団地に近い「高津山観音寺」では追悼式と同時に開かれる学習会にフィールドワークが開催されているが、一度参加したことがある。「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」の主催である。ことしは9月9日に百周年慰霊祭が行われたが、猛暑の中、体調に自信がなく、残念ながら参加できなかった。

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『いしぶみ』は「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」の機関誌で、1978年創刊という。さまざまな関連行事の案内や報告、研究論文も掲載される。最新号の「関東大震災朝鮮人虐殺をめぐる質問主意書の意義」は2015年から資料を巡る質問書は八回も出され経過、今年は、5月23日の参院内閣委における杉尾議員も関係資料について質問までを追跡している。8月30日の記者会見で松野官房長官の「政府として調査した限り、政府内において事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」との発言は記憶に新しい。ちなみに質問主意書については、以下に詳しい。


関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会HP<質問主意書一覧>
https://www.shinsai-toukai.com/top-japanese-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E/%E8%B3%87%E6%96%99%E5%AE%A4-japanese/%E8%B3%AA%E5%95%8F%E4%B8%BB%E6%84%8F%E6%9B%B8-%E7%AD%94%E5%BC%81%E6%9B%B8/

「<100年ぶり>の国会質問に政府の答えは? まもなく発生100年の関東大震災「朝鮮人・中国人虐殺」問題」『東京新聞』2023年5月24日https://www.tokyo-np.co.jp/article/251995

★『現代短歌新聞』の特集の作品の中で、気になったのが、柳宣宏さんの「一会員」と題する五首だった。
・「まひる野」の会員たりしえみこさんは大杉栄と伊藤野枝の子
 第一首目と『天衣』という歌集を残したという第五首目を手掛かりに調べてみると、伊藤には、辻潤との間に二人、大杉との間に五人の子供がいる。「えみこさん」は、三女の「エマ」さんで、後に笑子と改名している。『天衣』は、1988年に出版されていたが、著者は野沢恵美子となっていた。

 

 

 

 

 

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2023年4月 5日 (水)

バングラデシュ、ダッカの衣料品市場で火災

 

 5日、数時間前の先ほどのNHK「キャッチ」で、2500軒の店が建て込むダッカ最大の衣料品市場で火災が発生したとのニュースが流れた。ダッカにはこうした衣料品市場と4500の衣料工場があるそうだ。これまでだったら、遠くの出来事として見過ごすところだったが、やっぱりと、こころ痛むニュースであった。まず、昨年、岩波ホールでの映画「メイド イン バングラデシュ」を想起した。劣悪な環境の縫製工場で働く女性たちが妨害を受けながら労働組合結成に至る内容だった。本ブログの下記記事を参照していただければ幸いである。

岩波ホール、さようなら~「メイド イン バングラデシュ」(2022年5月17日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/05/post-13a535.html

  きつい管理の下、一か月の給料はTシャツ3枚分の売り値にも満たない。不平を言えば即刻クビにもなる環境で、働く女性たちとその家族たちが丁寧に描かれていた。改善しようとしない経営者を行政は見て見ぬふりをする怠慢ばかりか、行政との癒着ぶりをも、告発していた。工場の火災での負傷にも保障はない・・・。そんな画面が浮かんでくる。

 今回の火災は、衣料品市場の火災であって、すべてを失った店主が、この先どうすればいいのかと嘆いていた。そして、さらに驚くのは、近年に限っても、ダッカでは、2019年2月に旧市街、3月に中心街の高層ビル、8月にスラム街での大規模な火災が発生、2022年6月にはコンテナ集積地での火災も発生していて、いずれも、密集した建築物、狭い道路のため、消火活動が思うようにできない状況で、多くの犠牲者を出していた。まさに人災でもあったのである。

 お気に入りのTシャツやパンツのタグをもう一度、確かめてみて欲しい。どこの国で、どんな工場で、どのような人たちが縫い上げたものなのか、を考えるチャンスとしたい。

<追記>2023年4月19日
今日の毎日新聞朝刊で、上記火災の詳報とこの10年の動向を追跡した現地からの報告記事があった。
「バングラ<縫製ビル>崩壊10年 安い労働力っ苦境の今も 先進国側の都合優先・・・」
記事によれば、低価格ブランドのGUやイタリアのベネトンなどの衣料品製造を請け負う現地の企業グループと日本の東レの子会社との共同ベンチャーが2015年に設立されたそうだ。「環境重視」への転換は、まだ模索中という。

以下で記事の半分ほど読むことが出来る。
https://mainichi.jp/articles/20230419/ddm/002/030/110000c

 

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2021年3月10日 (水)

十年目の3月11日、どうしたらいいのか

 3月5日、山本宣治の命日だった。3月8日は、国際女性デーであった。そして、首都圏の非常事態宣言は2週間延長された日でもある。千葉県などは、いまだに、三桁の新規感染者が続くこともある。

 そして、今日は、東京大空襲の日であった。10万人の犠牲者を出し、東京の下町を焼き尽くしていた炎が遠い西の空を染めていたのをたしかに見ていた、かすかな記憶がよみがえる。疎開地の千葉県佐原から、母に促されてみたのだろう。店を守っていた父と専門学校の学生だった長兄が残っていた池袋の生家が無事だったのもつかの間、4月14日の未明、その我が家も城北大空襲で焼失、命からがらに憔悴して疎開地にやってきた父と兄、私は父に、いつものようにお土産をねだっていたという。何もわかっていなかったのである。

 そして、明日は3月11日、まず、思い起こすのは、あの日の私自身の記憶につながることではある。しかし、その後、次から次へと伝えられたテレビや新聞で報道された画像や記事、そして、10年にわたって、さまざまな人たちの証言や専門家による検証であった。津波に襲われることなく、福島の原発から遠く離れた、この地にあっても、強烈な恐怖となって迫ってくるのは、原発事故の眼に見えない、収束のない被害と津波の恐ろしさである。自身のわずかな体験ながら、津波に襲われ、多くの命と街を奪われた石巻、津波の被害に加え、原発を擁する女川の地を訪ねて、その感を一層強くしたのだった。その思いの一端を、このブログでも記してきた。

 昨3月9日の閣議で「東日本大震災復興の基本方針」の改定が決定されたという。そのポイントというのが、
①復興庁の設置は、10年間延長し、その前半5年間は第二期の「復興・創生期間」とする
②地震と津波の被災者の心のケアなどソフト事業に重点を置く
③原発事故の被災地では、避難指示が解除された地域への帰還や移住を促進し、国際的な教育研究拠点を整備する
④原発の汚染水処理の処分については、先送りできない課題だとして、風評対策も含め、適切なタイミングで結論を出す

 それに先立ち「第29回復興推進会議及び第53回原子力災害対策本部会議の合同会合」を開催し、上記の基本方針を議論したというが、首相は次のように述べたという(首相官邸ホームページ)。

「間もなく、東日本大震災から10年の節目を迎えます。被災地の方々の絶え間ない御努力によって、復興は着実に進展しています。
 昨年12月、岩手・宮城では、商業施設や防潮堤などを視察し、まちづくりやインフラ整備の進捗を実感しました。今後、これらの地域における被災者の心のケアやコミュニティ形成といったソフト面の施策に注力してまいります。
 昨年9月に続いて、先週末も福島を訪問し、地元の方々と移住されてきた方々が協力して、新しい挑戦を行う熱い思いに触れることができました。福島の復興のため、その前提となる廃炉の安全で着実な実施、特定復興再生拠点区域の避難指示解除に向けた取組と区域外の方針検討の加速、さらに移住の促進など、取り組んでまいります。
 こうした状況を踏まえ、来年度から始まる復興期間に向けて、『復興の基本方針』を改定いたします。
 福島の復興なくして、東北の復興なし。東北の復興なくして、日本の再生なし。 この決意の下に、引き続き政府の最重要課題として取り組んでいく必要があります。閣僚全員が復興大臣であると、その認識の下に、被災地の復興に全力を尽くしていただきたいと思います。」

 この日のNHK夜7時のニュースは、基本方針のポイントと、閣議前の復興会議の議論を踏まえての発言の最後のフレーズだけを放映していた。「福島の復興なくして、東北の復興なし。東北の復興なくして、日本の再生なし。」とはなんと白々しい、と思うことしきりであった。

  災害や痛ましい事件のあとに、被災者や被害者、その周辺の人たちへの「心のケア」の大切さが言われるが、少なくとも、東日本大震災の被災者には「心のケア」より、何より大切なのは、生活再建、経済支援なのではないか。いくら避難指示が解除されたからといって、仕事が確保され、生活環境が整わないかぎり、「望郷の念」だけでは戻れないだろう。首相がインフラ整備の一部を視察したからと言って、災害公営住宅の家賃の値上げや廃炉・汚染水処理が進まないなかのエネルギーミックスなど言われては、不信感は募るばかりだろう。
  その一方で、聖火ランナーの辞退者が続き、途切れてしまうし、海外からの一般客は断念しながらも開催するというのだから、福島復興の証としての五輪は、幻想でしかなかったのだ。
  それを質すべき野党の体たらくに、期待することはできない。政府も野党もアテにならない。客観性に欠けるマス・メディアの報道、テレビや新聞に登場する常連のコメンテイターたちも、自分の“居場所大事”な人が多い。たまにまともなことを言うと、すぐに炎上し、自粛へと傾いていく。若い人は、新聞もテレビさえ見ない、まして本を読まない人が多いらしい。

  ならば、私たちはどうしたらいいのか。自分と異なる人の意見もしっかりと聞く。悩みは増えるけれど、自分が感じたり、思ったり、考えてたりしたことを、率直に発信していくほかないのかもしれない。そして、先人の残した知見から少しでも学ぶことなのだろうか。平凡なことながら、それが難しい。高齢者にはつらい日が続く。3月は、私の誕生月でもあったのである。

 

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2020年10月30日 (金)

女川原発2号機はどうなるのか~再稼働反対の声が届かない(付年表改訂版)

 

改訂版の「女川原発関係年表」です。

ダウンロード - onagawagenpatunennpyo.pdf

その後の女川原発2号

 宮城県議会は10月22日、女川原発2号機再稼働を求める請願を採択、県議会は再稼働の容認を表明したことになり、村井嘉浩知事が近く、再稼働同意に踏み切るとみられている。10月23日には、東北電力女川原発(宮城県女川町、石巻市)30キロ圏の石巻市民17人が、重大事故時の住民避難計画の不備を理由に、県と市の2号機再稼働への同意差し止めを求めた仮処分で、仙台高裁は、申し立てを却下した地裁決定を支持、市民側の即時抗告を棄却する決定を出した。

 8月の下記の当ブログ記事にも書いたように、1号機は廃炉に決まったが、2号機の再稼働はなんとしても阻止しなければならないと思っている。宮城県議会へは、すでに県民11万に及ぶ署名によって住民投票条例制定を求めたが、自民・公明による反対で否決、さらに野党による条例案も否決されている。要するに住民投票の結果、民意が示されるのを畏れているとしか思えない。私が女川原発にこだわるのは、2016年に、一度女川町を訪ね、1960年代より、父親の代から夫妻で原発設置反対運動を続けてこられたAさんの話を聞いているからかもしれない。

女川原発のいま、東日本大震災から9年が過ぎて(2020年8月28日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/08/post-413b15.html

 上記記事の年表にもあるように、東北電力の土地買収当初から1984年の1号機運転開始、95年の2号機、2002年3号機運転開始を経て、2011年東日本大震災での被災・自動停止、福島の原発事故に至り、その後も国内外での原発事故が続出している。 
 女川町議会の再稼働容認の意思表示はあったが、周辺自治体の中には、原発事故が起きたときの避難計画の実効性への疑念から反対している市や町がある。大震災後、女川原発は耐震対策や津波対策として海抜29mもの防潮堤を建設したが、そもそも巨大地震を繰り返す震源に近く、福島第一原発と同型の原子炉であるというリスクも抱えている。
 
女川町の場合は、過疎化、高齢化に加えて、大震災被害からの復旧の遅れによる経済的な疲弊から脱出のため原発マネーをアテにせざるを得ない状況下に追い込まれての「未来志向」の選択であった、というのが賛成派の大義名分であろう。しかし、こうした構図は、女川町に限らない。
 
ところが、その原発マネーは、政府、電力会社と自治体、工事受注会社をめぐりにめぐるが、自治体や市民に残されるのは、安全性に疑問を残したままの原子炉、いわゆる立派な箱モノ、不安定な雇用だけというのは、原発を持つ自治体に共通するのではないか。原発によってだれが潤っているのかは、よく見極めなければならない。関西電力と高浜町をめぐる大掛かりな汚職事件は記憶に新しい。地元市民や電力消費者は、もっと怒ってもいいはずなのに。

Jijicom:関西電力・高浜町原発マネー還流事件まとめ
https://www.jiji.com/jc/v7?id=201909kdkzgm

ほんとうに原発は必要なのか
 
こうした現実を前に、私は、いま、果たして、ほんとうに原子力発電が必要なのかという基本的な問題に突き当たってしまう。10月26日の菅首相の所信表明では、「温室効果ガス排出量を2050年までにゼロ」を打ち出したが、その裏付けは未知数である。日本の電源構成は、2018年の実績と2030年エネルギー基本計画によれば、以下のようになる。

Jiji

 原子力による電源の推移を見てみると、2011年東日本大震災の福島原発事故以来、限りなくゼロから再稼働により若干増えて、数パンセントなのが現状である。これを、政府は、1930年には20~22%にすることを目標とした。大震災直前に近い数値で、原発の再稼働・新設は必至ということになる。新設はもちろん、再稼働や廃炉、廃棄物処理への過程での安全性の担保を考えると、その人材と時間に加え、そのコストは、とてつもない数字になる。原発は安全で安価という神話は、すでに崩れつつあるのを、私たちはうすうす知ってしまった。エネルギーミックスによって、原子力発電は供給の安定性がメリットとも言われてきたが、ひとたび事故が発生すれば、福島原発事故に見るように、一斉に稼働を停止し、点検の必要が生じるのではないか。 

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  電気事業連合会のホームページより 

   私は、将来の人口減に加えて、省エネの覚悟と水力・風力・太陽光などの再生エネルギーによる電力供給を拡大することによって、原発ゼロも温室ガス排出量を限りなくゼロにすることも、不可能ではないと考えるようになった。

 女川原発の歴史を振り返ってみよう。1967年末、女川町を含む石巻地区の石巻市他9町による原発誘致の請願に始まり、翌年、東北電力は女川町の小屋取を適地として建設地と決定した。それ以降、雄勝、牡鹿、女川三町の建設反対期成同盟と漁協による反対運動が盛りあがったが、東北電力の土地買収交渉が強引に進められた。小屋取の大地主さんは、当初反対であったが、東北電力の分裂工作にのってしまう革新政党があり、とうとう買取りに応じてしまったと、女川で話を聞いたAさんは、その悔しさを語っていた。そんなことでも苦労されたのだなと思う。1973年第一次オイルショックにより各漁協が漁業権を売り渡し、埋め立て工事の同意が続いたという。1979年アメリカのスリーマイル島、1986年ソ連のチェルノブイリ原発事故と続く中でも、工事は着々と進み、2002年3号機運転開始にまで至るのである。上記建設反対運動に始まり、1号機運転差し止め、2号機設置許可取り消し行政不服審査異議申し立て、3号機建設反対1・2号機運転中止申し入れなど、要望や法廷闘争を繰り返すなかで、2011年、東日本大震災により、1・2・3号機が自動停止となって、前述のように1号機廃炉、2号機再稼働の道が進められている。3号機のプルサーマル計画はどうなるのか、いずれも住民には大きな不安をもたらしている。

女川と鹿島 
 一方、ゼネコンの鹿島建設とそのグループは、東北地方では、原発に強いといわれ、女川原発3機とあわせて関連工事もすべて鹿島であった。2011年の段階で、全国で54機ある原発の20機以上が鹿島による建設だった。公共事業ではない電力会社と建設会社との民・民契約であるため、競争入札はないので、粗利益は高いとされている。関連工事のみならず、今後は廃炉にも多大の資金が投入されるだろう(「なぜ鹿島は原発の建設に強いのか」『週刊東洋経済』2011年12月3日号)。
 また、東日本大震災前ながら、鹿島建設のホームページには、「鹿島紀行」というコーナーがあって、鹿島の施工工事と女川町との関係をつぎのように記している(「宮城県女川町~緑あり・海あり・魚あり」『鹿島紀行臨時版』2005年11月)。 

【女川町と鹿島】
 当社と女川町との関わりは,1960年の日本水産女川冷食工場建設(79年同工場増設)と,68年の野々浜地区の牡鹿半島有料道路(コバルトライン)工事に始まる。前後して女川原子力発電所取付け道路などを施工した。
 女川原子力発電所は79年から敷地造成工事に着手し,以降1号機(80年),2号機(88年),3号機の各本館建屋(96年)に着工した。
 女川町総合運動場では85年に造成工事を受注。引き続き町民野球場,町民庭球場,陸上競技場を受注した。02年に万石浦トンネル,04年に(仮称)第1五部浦トンネルを受注している。

 さらに、東日本大震災の津波により壊滅的な被害を受けた女川町の復興事業の概要は、以下の通りだが、2012年3月に、女川町と独立行政法人都市再生機構は「女川町復興まちづくりパートナーシップ協定」を締結、同年10月に、独立行政法人都市再生機構と鹿島・オオバJVは「女川町震災復興事業の工事施工等に関する一体的業務」について協定を結んでいる。女川町は、都市再生機構を通じて鹿島に丸投げしたことになる。以降、復興まちづくりのモデル事業として、しばしば報道され、話題にもなっていた。そして、今年2020年3月、7年半にわたる復興事業は完了したという。

 あの大掛かりな造成工事は完了したのだろうか。駅前のみならず、街のにぎわいを見せているのだろうか。

【女川町震災復興事業】
事業者:女川町
発注者:独立行政法人 都市再生機構
施工者:鹿島・オオバ女川町震災復興事業共同企業体(おながわまちづくりJV)
業務内容:震災復興の造成工事に関するマネジメント業務、
地質調査、地形測量、詳細設計、許認可に関わる図書作成および施工業務
工事概要:中心市街地222ha、離半島部14地区55ha
工期:2012年10月~2020年3月

首相と天皇 
 私たちが女川を訪ねたのは2016年4月、女川駅と周辺のわずかな区画の商業施設が完成したばかりであったが、いかにもにわか作りの感がぬぐえなかった。食事をしようにも満足な店が見つからず、どこか半端な店が並んでいた程度だった。あたり一帯はかさ上げ工事のさなかで、大量の重機が首を振り、大きく削られた山肌が生々しかった。そして、直前の3月17日には天皇夫妻が、2月21日には安倍首相がすでに立ち寄っていたことを教えられた。迎えるための準備と警備は、格別のことであったろう。行幸や視察の実質的な意味は、まず皆無であろう。被災者の気持ちに「寄り添い」「励ます」というが、私などは信じがたいのだが、それよりも先にやることがあるだろうと、いつもやるせない思いに駆られてしまう。

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首相官邸のホームページより

  2015年3月、女川駅が開業した折の美智子皇后の短歌「春風も沿ひて走らむこの朝(あした)女川(をながは)駅を始発車いでぬ」が、すでに16年1月に発表されていた。宮内庁の発表によれば、天皇夫妻の3月17日の女川での日程は、以下の通りであった。昼食をはさんで、滞在時間はどのくらいだったのだろうか。「ヤマホン」というのは、水産加工会社のようであった。女川の日程の前後には、石巻市で「宮城県水産会館(時間調整のためお立ち寄り・宮城県漁業協同組合東日本大震災犠牲者慰霊碑ご拝礼)」、帰りにも、「時間調整のためお立ちより・宮城県漁業協同組合経営管理委員会会長ご懇談」とあった。「ご聴取」「ご視察」「ご覧」「ご訪問」「ご懇談」との使い分けがあって、なかなかややこしい・・・。

女川町長より復興状況等ご聴取(女川町まちなか交流館)
昼食会ご主催(宮城県知事,県議会議長,女川町長,町議会議長)(女川町まちなか交流館)
ご視察(シーパルピア女川(テナント型商業施設)
ご覧(女川駅)
ご訪問(株式会社ヤマホン、施設概要ご聴取,ご視察)

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産経新聞より。この日の丸は、だれが用意したのだろう。  

  最近、女川町の江島出身の知人Wさんに会う機会があった。女川は「ふるさと」ながら、訪ねるたびに、どんどん変わっていく様を目の当たりにして、やりきれなさというか、女川の記事や映像も拒みたくさえなるという。2万人が暮らして漁業が盛んな町だったが、原発が出来て1万になり、大震災の被害でさらに半減してしまったことにもなると嘆くとしきりであった。「女川に来なくても短歌は作れてしまう」と皇后の短歌の話にも及んだ。

 女川町のもう一つの島、出島(いずしま)のこんな記事を見つけた。

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出島の人口は、大震災後、5分の1の100人になった。2023年には、本土との橋が開通するそうだ。河北新報(2020年7月22日)

関係年表を以下改訂しました。クリックして拡大できます。
冒頭のPDF版もご利用ください。

(1)

 

Img012

(2)
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