2023年3月12日 (日)

2011年3月11日、あれから12年、原発回帰は許さない

 あの日は、すばらしい晴天に恵まれた朝だった。私たち夫婦は、浅草公会堂での東京大空襲展を見学、被災者の体験談のコーナーで話をお聞きした後、新宿の写真展に向おう山手線に乗っていた。午後2時46分、大きな揺れとともに電車は止まった。なんどもの余震、車内の停電、不安は募るばかりだった。九段会館の天井が落下、死者が出たというニュースが車内でささやかれていた。4時をまわった頃、先頭車両から線路に降ろされ、最寄りの代々木駅まで歩き、さらに新宿まで歩くほかなかった。新宿駅南口は、すでに人でごった返していて、駅頭の大きなテレビ画面には、被害の状況と津波予想の日本地図がなんども映し出されていたが、巨大津波の被害や原発事故は、知る由もなかった。千葉県佐倉市の自宅に帰る術もなく、池袋の実家に向かうことしか思いつかなかった。歩いたことはないが、歩けない距離でないだろうと。それでも、連れ合いは、近いホテルに飛び込んだり、問い合わせたりしたが断られ、携帯もつながらなくなっていた。明治通りの歩道は人の列でいっぱいになり、道路いっぱいの車列の動きは鈍くなっていた。進まぬ人間の塊、動かない車列・・・。公衆電話への長い列があれば、歩道の人間の列は少しく崩れる。そんな目に何度か会いながら、ただただ黙々と歩いて、千歳橋まで来ると、サンシャインの明かりだけが親しく思えた。二人とも持っていたカメラだったが、この状況を写すということを思いつかなかった、そんな気持ちのゆとりもなかったのだろう。電話もつながらないまま、義姉が一人住む池袋西口の実家へたどり着き、玄関口を開けてもらったときは、ほっとしたものだった。
 「帰宅難民」ということばも、この地震で流布し始めたのではなかったか。私たちは、まさに帰宅難民だったわけだが、実家へ歩ける距離でなかったら、どうなっていたのだろう。 
 しかし、岩手、宮城、福島県、そして千葉県の人たちも、津波では多くの人が肉親を失い、家や職場を失うという被災者となった。原発事故は、住む家のみならず、町や村自体を失い、避難を余儀なくされ、その関連による多くの犠牲者をももたらした。その悲劇や打撃は「帰宅難民」の比ではない。 

 そんなことを思い出させる一日だったが、3月10日、仙台高裁(小林久起裁判長)は、原発事故の国の賠償責任を認めない判決が出た。2022年6月、国の賠償責任を否定した最高裁判決後の初めての高裁判決であった。この判決では、政府が公表していた地震予測「長期評価」にもとづき津波は予測でき、東電に津波対策を命じていれば「重大事故を避けられた可能性は相当程度高く」「経産相が規制権限を行使しなかった不作為に義務違反がある」としながらも「津波の防護措置には幅があり、取られる措置によって必ず重大事故を防げたと断定はできない」として国家賠償法上、権限の行使を怠ったことで原告に損害を与えたとは言えず、賠償責任はないとの結論を下したのである。東電には、国の賠償基準の「中間指針」を上回る賠償額を命じた。

 国は、上記指針を上回る賠償を東電に命じる判決が相次いで出されても、その指針を見直すことにすら消極的で、昨年の12月に、9年ぶりに改訂するありさまであった。

 折も折、岸田政権は、原発の建て替えと運転期間の60年以上を容認する方針を決定した。これは、福島第一原発事故後の2014年、「可能な限り原発依存度を低減」し、「再生エネルギーの導入を加速」すると明記していた第4次「エネルギー基本計画」を大きく転換するものである。3月3日の参院予算委員会で「エネルギーの安定確保」と「脱炭素」への対応として原発の必要性を明言した。「再生エネルギーの主力電源化」は掛け声だけで終わったのか。

 さらに、原発事故後に発生している汚染水の置き場所がないことを理由に、薄めて海へ放流するという拙速な計画が、地元の漁業関係者はじめ、県民、国民の不安が募る中、実施されようとしている。

 国民の命と暮らしを守ると言いながら、真逆のことを進め、防衛費の増強、軍拡への道は、国民の命と財産を守るどころか、アメリカ依存、アメリカへの隷従を強化することによって、国民の不安は高まり、ことによっては、国自体をも危うくしているのではないか。

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2022年11月15日 (火)

写真集『原発のまち 50年のかお』(一葉社)の勁さとやさしさ

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カバーの写真は、1976年9月23日、女川原子力発電所絶対阻止三町連合決起集会

 編者の阿部美紀子さんは、「度重なる奇跡のような出来事で」、この女川原発阻止闘争の写真集を出版するにいたったという。その奇跡とは。阿部さんは、地元で原水協の活動をされていた町議の父、阿部宗悦さんと共に、大学卒業以来、長年、女川原発阻止の活動をされてきた方だ。東日本大震災の津波で、家ごとすべて流されて、活動の記録も写真も失った。大震災の3年前に、町役場から、反対闘争も町の歴史だからと写真のデータベース化をした折、CD版ももらっていたが、それももちろん流されたが、そのデータをパソコンに取り込んでいた仙台のお仲間がいたという。ほとんど美紀子さんが撮影したその写真を中心に、地元のカメラマンや仲間の撮影による写真を集成したのが今回の写真集で、詳細な年表も付す。また、後半の「原発と暮らす」のインタビューは、どれも、一緒に活動してきた雄勝湾、女川湾、鮫浦湾に面したいくつもの浜の漁師さんたちへの阿部さんのやさしい問いかけに、かつての活動や近況などが立ち上がってくる。

目次
「女川原発差し止め訴訟」意見陳述書(要旨)
写真集発刊にあたって
<参考>「三町期成同盟」当時の女川町周辺略図
かつて、まちは――奇跡の証言写真
大津波のまちで――ありえない原発との共存
原発と暮らす――生き証人は語る
<資料>女川原発反対運動の略史

 知人に紹介していただいた阿部美紀子さんとは、2016年5月、私たち夫婦が女川を訪ねた折、かさ上げ工事さなかの町と鳴浜にある原発の近くまで車で案内していただいたご縁がある。道中、小雨の降るなか、まだ木立に引っ掛かったままのブイ、原発へのトンネルの工事現場、特攻艇の戦跡、廃校跡など下車しては説明をしてくださったことを思い出す。
 
 
 女川の原発阻止闘争は、1967年3月原子力委員会が、女川を原発立地予定地として公表した時から始まる。9月女川町議会は、原発誘致を全会一致で決議、東北電力の土地買収が始まり69年1月女川原発設置反対女川・雄勝・牡鹿三町期成同盟会結成、6月女川漁協反対決議を経る。三町期成同盟による数千人規模の海上デモや現地集会が続くが、70年代に入ると、東北電力による女川漁協幹部の切り崩しが始まる。

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75年12月7日、第1回原発反対総決起大会、壇上に並ぶ各浜代表のうち3人は大震災で亡くなっているという

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1976年6月14日、東北電力への抗議、交渉が続く

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1976年6月23日、 女川町主催の漁業説明会、阿部宗悦・美紀子さん

 女川漁協ョット臨時総会では、77年1月には条件闘争を強行採決、78年8月漁業権放棄を可決。79年3月28日スリーマイル島原発事故があるも、12月一号機着工に至り、81年12月女川原発建設差止訴訟、仙台地裁に提訴、2000年12月最高裁の上告棄却。この間、95年2号機、2002年3号機営業開始に至る。そして11年3月11日、東日本大震災の津波により女川町は壊滅的な被害を受け、女川原発は三号機とも停止、福島第一原発事故発生。以降、脱原発、女川原発再稼働阻止の運動は、宮城県民による運動となる。18年10月女川原発1号機廃炉は決定するが、20年11月11日村井宮城県知事女川原発2号機再稼働同意表明している。

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2011年4月19日、小屋取漁港(日下郁郎撮影)

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2011年4月19日、小屋取の集落の被害(日下郁郎撮影)

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2011年4月30日、鷲神の阿部家被災地跡に、流れ着いていた股引に「すべての原発廃炉に!チェルノブイリ25周年」と書き、掲げる阿部宗悦さん(スペース21撮影)。5月連休明けに自衛隊によりガレキはすべて撤去されたという。宗悦さんは、2012年7月7日に逝去された。美紀子さんは、宗悦さんの遺志を継ぎ、町議選に臨み、2012年11月から、現在三期目となる。「女川から未来を考える会」代表。

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阿部さんに案内していただとき、2016年5月撮影、女川原発がもっともよく見える場所、小屋取浜から望む。
29m防潮堤が築かれているという。

 美紀子さん、貴重な一冊をありがとうございました。この写真集にも、お会いしたときの寡黙ながら、やさしさとゆるぎない意思を感じとることができました。

 なお、写真集の出版社、一葉社は、拙著『斎藤史~「朱天」から『うたのゆくへ』の時代』(2019年1月)でお世話になっている。

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関連の過去記事

女川原発2号機はどうなるのか~再稼働反対の声は届かない(2020年10月30日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/10/post-bb75a1.html

連休前、5年後の被災地へ、初めての盛岡・石巻・女川へ(6)(7)(2016年5月14日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/05/5-5cf0.html


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2022年3月12日 (土)

2022年3月11日、そして、これから

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私たちは、この町の名前忘れてはならない。2022年3月『毎日新聞』より 

  14時46分、私は、病院の会計待ちで、電光板と脇の時計を見ていた。まず、思い起すのは、新宿に向かう山手線で、電車が大きく揺れたと思ったら停車し、2時間近く閉じ込められ、帰宅困難者となったことだった。そして、五年後、訪ねた女川の高台の病院、津波に襲われ、奪われた多くの命、石巻の日和山でガイドさんから聞いた家ごと、バスごと流され、失われた命を思い、うつむくほかなかった。また、福島の原発事故から逃れ、故郷に戻れない人々にも思いをはせるばかりであった。病院を出た後は、歯痛のため慌てて予約した歯科クリニックにも寄った。この日、私はいったい何をしていたのか、あわただしいばかりの一日であった。この11年間、いったい、私は何を見て、何をしてきたのか。

 マス・メディアは、犠牲者を慰霊し、残された家族や被災者の「絆」や再出発の希望を、ことさら報じるけれども、離れて暮らす私たちには、その現実は、なかなか見えてこない。 それでも、たとえば『東京新聞』の「こちら原発取材班」の記事などで、福島第一原発事故の見えない収束の実態を知り、被災地の歌人たちの歌集などで、その思いが伝わってくる。 ボランティア体験も乏しく、想像力も旺盛とは言えない私の根底には、ささやかな現地体験と限りある収集の術による情報しかない。

 2011年3月11日当日、自宅の佐倉には帰宅できないことを知った私たち夫婦は、新宿から私の実家のある池袋へとひたすら明治通りを歩くしかなかった。実家にもケータイではつながらず、途中の公衆電話は、どこも長蛇の列だった。高層ビルが続く明治通りは、まるで海の底のようで、隙間がない人々の黒い塊が、まるで巨体生物が実にゆっくり移動する様にも思えた。みな黙々と足を運ぶだけだった。サンシャインビルの灯りを目指し、神田川を渡ると池袋も近いと思う反面、義姉が一人暮らす実家はどうなのだろうと不安でもあった。車道の車の列は、どちらの車線にもびしりと連なり、まったく動く気配がなかった。不思議なことに、私たち二人はカメラを持っていながら、この状況を一枚も撮っていないことが後になってわかった。周辺の人たちも、カメラを持ち出す人はまず見受けられなかった。

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3月11日4時半近く、山手線の電車を降ろされ、歩き出す、原宿駅付近。

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3月11日4時半近く、新宿駅に向かって歩く、このころまでは写真を撮る余裕があったのか。

 当日の4時半ころ、歩くしかないと決めた新宿南口の巨大テレビ画面でも、津波予報の日本地図が映し出されてはいたが、津波の被害状況は分からなかった。7時少し前に着いた実家での熱いお茶に、ともかく恐怖心から解放されたという思いだった。その後にもたらされる、津波、原発事故のおそらしさを知らないままではあった。

 五年後、縁あって、父親の代から原発反対の運動にかかわっていらした女川町議会のA議員の話を聞きながら、女川原発近くまで案内していただいた。沿道の木立の枝にひっかかったままのブイや新たなトンネル工事、廃校跡、太平洋戦争時の特攻艇庫の跡などを目の当たりにした。原発が見える窓からの撮影は禁止という、原発のPRのための施設のそらぞらしさは、現在流されている電気事業協会の石坂浩二のエネルギーミックスのCMにもつながる。
 石巻では、ガイドの案内のあと、雨の中、私たちだけで、街中を歩いた。そこで、出会ったのが立町のプレハブの仮設商店街のパン屋さんだった。津波で流された店を継ぐ形で立ち上げたというパン工房パオ。仮設もあと数カ月で立ち退かなければならない中、頑張っていた。周辺の店に立ち寄る客の姿もなく寂しい限りであった。パオさんの名物、ゆば食パンは、いまも移設先で健在らしい。漁師相手のバーや居酒屋が立ち並んでいたであろう一画は、ほとんど更地になっていて、残された看板と街の角々に立つ石ノ森章太郎のキャラクターが記憶から去らない。

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2022年3月7日『朝日新聞』より

 最近の新聞で、上記「復興商店街 再生の正念場」(『朝日新聞』2022年3月7日)という記事を見かけた。そういえば、女川駅前の、完成して間もない「シーパルピア」はどうなっているのだろう。安倍首相や天皇夫妻を迎えた折の写真が目についたが、私たち観光客を迎えるにしては、さびしげな店が並んでいるだけだった。新しい駅舎の山側では、削った土砂でのかさ上げ工事の真っ盛りであった。高い防潮堤を築かず、海の見える街を目指し、女川町と都市再生機構URと鹿島・オオバ共同体による復興事業は、復興のシンボルのようにもてはやされていた。基盤工事は完了、鹿島は、そのホームページで、女川町の「震災復興から次のステージへ」と「祈念」するが、どれほどの人たちが戻ってきたのだろうか(「東日本大震災における鹿島の取組み―女川まちづくり事業」)。
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2014年3月、女川駅周辺、この2枚は、鹿島のホームページから。
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2020年3月、女川駅周辺。新しい駅は、2015年、中央の煉瓦通りの手前に建設されている

 石巻でも、2兆円近い復興費を注がれたものの、街の賑わいは戻らないという(「復興1・9兆 街には空き地」『朝日新聞』2021年1月28日)。
 福島の場合はより深刻なのではないか。たとえば、大熊町では、来年4月に町立義務教育学校「学び舎 ゆめの森」が開かれる。新学校は小・中学校が一貫し、認定こども園(保育園と幼稚園)も併設され、0歳から15歳までを対象にするという。国からの予算をもとに総工費は45億3900万円に及んだが、来年通学予定の児童・生徒たちは6人だという。会津若松市へ避難した保護者たちからは、就業や住環境が整わない大熊町に戻るメリットがないというのだ。大熊町は、約6割が帰還困難区域になっているが、地図で見る青色地域が「特定復興再生拠点区域」になるという。

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大熊町の青色の地域に限って、帰還できるといい、学校も建設したのだろうけれど。環境省除染情報サイトより。

 復興というが、復旧もままならず、国や自治体がすることは、ほんとうに住民の意に沿うものなのか、疑問は増すばかりである。

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2021年3月10日 (水)

十年目の3月11日、どうしたらいいのか

 3月5日、山本宣治の命日だった。3月8日は、国際女性デーであった。そして、首都圏の非常事態宣言は2週間延長された日でもある。千葉県などは、いまだに、三桁の新規感染者が続くこともある。

 そして、今日は、東京大空襲の日であった。10万人の犠牲者を出し、東京の下町を焼き尽くしていた炎が遠い西の空を染めていたのをたしかに見ていた、かすかな記憶がよみがえる。疎開地の千葉県佐原から、母に促されてみたのだろう。店を守っていた父と専門学校の学生だった長兄が残っていた池袋の生家が無事だったのもつかの間、4月14日の未明、その我が家も城北大空襲で焼失、命からがらに憔悴して疎開地にやってきた父と兄、私は父に、いつものようにお土産をねだっていたという。何もわかっていなかったのである。

 そして、明日は3月11日、まず、思い起こすのは、あの日の私自身の記憶につながることではある。しかし、その後、次から次へと伝えられたテレビや新聞で報道された画像や記事、そして、10年にわたって、さまざまな人たちの証言や専門家による検証であった。津波に襲われることなく、福島の原発から遠く離れた、この地にあっても、強烈な恐怖となって迫ってくるのは、原発事故の眼に見えない、収束のない被害と津波の恐ろしさである。自身のわずかな体験ながら、津波に襲われ、多くの命と街を奪われた石巻、津波の被害に加え、原発を擁する女川の地を訪ねて、その感を一層強くしたのだった。その思いの一端を、このブログでも記してきた。

 昨3月9日の閣議で「東日本大震災復興の基本方針」の改定が決定されたという。そのポイントというのが、
①復興庁の設置は、10年間延長し、その前半5年間は第二期の「復興・創生期間」とする
②地震と津波の被災者の心のケアなどソフト事業に重点を置く
③原発事故の被災地では、避難指示が解除された地域への帰還や移住を促進し、国際的な教育研究拠点を整備する
④原発の汚染水処理の処分については、先送りできない課題だとして、風評対策も含め、適切なタイミングで結論を出す

 それに先立ち「第29回復興推進会議及び第53回原子力災害対策本部会議の合同会合」を開催し、上記の基本方針を議論したというが、首相は次のように述べたという(首相官邸ホームページ)。

「間もなく、東日本大震災から10年の節目を迎えます。被災地の方々の絶え間ない御努力によって、復興は着実に進展しています。
 昨年12月、岩手・宮城では、商業施設や防潮堤などを視察し、まちづくりやインフラ整備の進捗を実感しました。今後、これらの地域における被災者の心のケアやコミュニティ形成といったソフト面の施策に注力してまいります。
 昨年9月に続いて、先週末も福島を訪問し、地元の方々と移住されてきた方々が協力して、新しい挑戦を行う熱い思いに触れることができました。福島の復興のため、その前提となる廃炉の安全で着実な実施、特定復興再生拠点区域の避難指示解除に向けた取組と区域外の方針検討の加速、さらに移住の促進など、取り組んでまいります。
 こうした状況を踏まえ、来年度から始まる復興期間に向けて、『復興の基本方針』を改定いたします。
 福島の復興なくして、東北の復興なし。東北の復興なくして、日本の再生なし。 この決意の下に、引き続き政府の最重要課題として取り組んでいく必要があります。閣僚全員が復興大臣であると、その認識の下に、被災地の復興に全力を尽くしていただきたいと思います。」

 この日のNHK夜7時のニュースは、基本方針のポイントと、閣議前の復興会議の議論を踏まえての発言の最後のフレーズだけを放映していた。「福島の復興なくして、東北の復興なし。東北の復興なくして、日本の再生なし。」とはなんと白々しい、と思うことしきりであった。

  災害や痛ましい事件のあとに、被災者や被害者、その周辺の人たちへの「心のケア」の大切さが言われるが、少なくとも、東日本大震災の被災者には「心のケア」より、何より大切なのは、生活再建、経済支援なのではないか。いくら避難指示が解除されたからといって、仕事が確保され、生活環境が整わないかぎり、「望郷の念」だけでは戻れないだろう。首相がインフラ整備の一部を視察したからと言って、災害公営住宅の家賃の値上げや廃炉・汚染水処理が進まないなかのエネルギーミックスなど言われては、不信感は募るばかりだろう。
  その一方で、聖火ランナーの辞退者が続き、途切れてしまうし、海外からの一般客は断念しながらも開催するというのだから、福島復興の証としての五輪は、幻想でしかなかったのだ。
  それを質すべき野党の体たらくに、期待することはできない。政府も野党もアテにならない。客観性に欠けるマス・メディアの報道、テレビや新聞に登場する常連のコメンテイターたちも、自分の“居場所大事”な人が多い。たまにまともなことを言うと、すぐに炎上し、自粛へと傾いていく。若い人は、新聞もテレビさえ見ない、まして本を読まない人が多いらしい。

  ならば、私たちはどうしたらいいのか。自分と異なる人の意見もしっかりと聞く。悩みは増えるけれど、自分が感じたり、思ったり、考えてたりしたことを、率直に発信していくほかないのかもしれない。そして、先人の残した知見から少しでも学ぶことなのだろうか。平凡なことながら、それが難しい。高齢者にはつらい日が続く。3月は、私の誕生月でもあったのである。

 

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2020年10月30日 (金)

女川原発2号機はどうなるのか~再稼働反対の声が届かない(付年表改訂版)

 

改訂版の「女川原発関係年表」です。

ダウンロード - onagawagenpatunennpyo.pdf

その後の女川原発2号

 宮城県議会は10月22日、女川原発2号機再稼働を求める請願を採択、県議会は再稼働の容認を表明したことになり、村井嘉浩知事が近く、再稼働同意に踏み切るとみられている。10月23日には、東北電力女川原発(宮城県女川町、石巻市)30キロ圏の石巻市民17人が、重大事故時の住民避難計画の不備を理由に、県と市の2号機再稼働への同意差し止めを求めた仮処分で、仙台高裁は、申し立てを却下した地裁決定を支持、市民側の即時抗告を棄却する決定を出した。

 8月の下記の当ブログ記事にも書いたように、1号機は廃炉に決まったが、2号機の再稼働はなんとしても阻止しなければならないと思っている。宮城県議会へは、すでに県民11万に及ぶ署名によって住民投票条例制定を求めたが、自民・公明による反対で否決、さらに野党による条例案も否決されている。要するに住民投票の結果、民意が示されるのを畏れているとしか思えない。私が女川原発にこだわるのは、2016年に、一度女川町を訪ね、1960年代より、父親の代から夫妻で原発設置反対運動を続けてこられたAさんの話を聞いているからかもしれない。

女川原発のいま、東日本大震災から9年が過ぎて(2020年8月28日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/08/post-413b15.html

 上記記事の年表にもあるように、東北電力の土地買収当初から1984年の1号機運転開始、95年の2号機、2002年3号機運転開始を経て、2011年東日本大震災での被災・自動停止、福島の原発事故に至り、その後も国内外での原発事故が続出している。 
 女川町議会の再稼働容認の意思表示はあったが、周辺自治体の中には、原発事故が起きたときの避難計画の実効性への疑念から反対している市や町がある。大震災後、女川原発は耐震対策や津波対策として海抜29mもの防潮堤を建設したが、そもそも巨大地震を繰り返す震源に近く、福島第一原発と同型の原子炉であるというリスクも抱えている。
 
女川町の場合は、過疎化、高齢化に加えて、大震災被害からの復旧の遅れによる経済的な疲弊から脱出のため原発マネーをアテにせざるを得ない状況下に追い込まれての「未来志向」の選択であった、というのが賛成派の大義名分であろう。しかし、こうした構図は、女川町に限らない。
 
ところが、その原発マネーは、政府、電力会社と自治体、工事受注会社をめぐりにめぐるが、自治体や市民に残されるのは、安全性に疑問を残したままの原子炉、いわゆる立派な箱モノ、不安定な雇用だけというのは、原発を持つ自治体に共通するのではないか。原発によってだれが潤っているのかは、よく見極めなければならない。関西電力と高浜町をめぐる大掛かりな汚職事件は記憶に新しい。地元市民や電力消費者は、もっと怒ってもいいはずなのに。

Jijicom:関西電力・高浜町原発マネー還流事件まとめ
https://www.jiji.com/jc/v7?id=201909kdkzgm

ほんとうに原発は必要なのか
 
こうした現実を前に、私は、いま、果たして、ほんとうに原子力発電が必要なのかという基本的な問題に突き当たってしまう。10月26日の菅首相の所信表明では、「温室効果ガス排出量を2050年までにゼロ」を打ち出したが、その裏付けは未知数である。日本の電源構成は、2018年の実績と2030年エネルギー基本計画によれば、以下のようになる。

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 原子力による電源の推移を見てみると、2011年東日本大震災の福島原発事故以来、限りなくゼロから再稼働により若干増えて、数パンセントなのが現状である。これを、政府は、1930年には20~22%にすることを目標とした。大震災直前に近い数値で、原発の再稼働・新設は必至ということになる。新設はもちろん、再稼働や廃炉、廃棄物処理への過程での安全性の担保を考えると、その人材と時間に加え、そのコストは、とてつもない数字になる。原発は安全で安価という神話は、すでに崩れつつあるのを、私たちはうすうす知ってしまった。エネルギーミックスによって、原子力発電は供給の安定性がメリットとも言われてきたが、ひとたび事故が発生すれば、福島原発事故に見るように、一斉に稼働を停止し、点検の必要が生じるのではないか。 

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  電気事業連合会のホームページより 

   私は、将来の人口減に加えて、省エネの覚悟と水力・風力・太陽光などの再生エネルギーによる電力供給を拡大することによって、原発ゼロも温室ガス排出量を限りなくゼロにすることも、不可能ではないと考えるようになった。

 女川原発の歴史を振り返ってみよう。1967年末、女川町を含む石巻地区の石巻市他9町による原発誘致の請願に始まり、翌年、東北電力は女川町の小屋取を適地として建設地と決定した。それ以降、雄勝、牡鹿、女川三町の建設反対期成同盟と漁協による反対運動が盛りあがったが、東北電力の土地買収交渉が強引に進められた。小屋取の大地主さんは、当初反対であったが、東北電力の分裂工作にのってしまう革新政党があり、とうとう買取りに応じてしまったと、女川で話を聞いたAさんは、その悔しさを語っていた。そんなことでも苦労されたのだなと思う。1973年第一次オイルショックにより各漁協が漁業権を売り渡し、埋め立て工事の同意が続いたという。1979年アメリカのスリーマイル島、1986年ソ連のチェルノブイリ原発事故と続く中でも、工事は着々と進み、2002年3号機運転開始にまで至るのである。上記建設反対運動に始まり、1号機運転差し止め、2号機設置許可取り消し行政不服審査異議申し立て、3号機建設反対1・2号機運転中止申し入れなど、要望や法廷闘争を繰り返すなかで、2011年、東日本大震災により、1・2・3号機が自動停止となって、前述のように1号機廃炉、2号機再稼働の道が進められている。3号機のプルサーマル計画はどうなるのか、いずれも住民には大きな不安をもたらしている。

女川と鹿島 
 一方、ゼネコンの鹿島建設とそのグループは、東北地方では、原発に強いといわれ、女川原発3機とあわせて関連工事もすべて鹿島であった。2011年の段階で、全国で54機ある原発の20機以上が鹿島による建設だった。公共事業ではない電力会社と建設会社との民・民契約であるため、競争入札はないので、粗利益は高いとされている。関連工事のみならず、今後は廃炉にも多大の資金が投入されるだろう(「なぜ鹿島は原発の建設に強いのか」『週刊東洋経済』2011年12月3日号)。
 また、東日本大震災前ながら、鹿島建設のホームページには、「鹿島紀行」というコーナーがあって、鹿島の施工工事と女川町との関係をつぎのように記している(「宮城県女川町~緑あり・海あり・魚あり」『鹿島紀行臨時版』2005年11月)。 

【女川町と鹿島】
 当社と女川町との関わりは,1960年の日本水産女川冷食工場建設(79年同工場増設)と,68年の野々浜地区の牡鹿半島有料道路(コバルトライン)工事に始まる。前後して女川原子力発電所取付け道路などを施工した。
 女川原子力発電所は79年から敷地造成工事に着手し,以降1号機(80年),2号機(88年),3号機の各本館建屋(96年)に着工した。
 女川町総合運動場では85年に造成工事を受注。引き続き町民野球場,町民庭球場,陸上競技場を受注した。02年に万石浦トンネル,04年に(仮称)第1五部浦トンネルを受注している。

 さらに、東日本大震災の津波により壊滅的な被害を受けた女川町の復興事業の概要は、以下の通りだが、2012年3月に、女川町と独立行政法人都市再生機構は「女川町復興まちづくりパートナーシップ協定」を締結、同年10月に、独立行政法人都市再生機構と鹿島・オオバJVは「女川町震災復興事業の工事施工等に関する一体的業務」について協定を結んでいる。女川町は、都市再生機構を通じて鹿島に丸投げしたことになる。以降、復興まちづくりのモデル事業として、しばしば報道され、話題にもなっていた。そして、今年2020年3月、7年半にわたる復興事業は完了したという。

 あの大掛かりな造成工事は完了したのだろうか。駅前のみならず、街のにぎわいを見せているのだろうか。

【女川町震災復興事業】
事業者:女川町
発注者:独立行政法人 都市再生機構
施工者:鹿島・オオバ女川町震災復興事業共同企業体(おながわまちづくりJV)
業務内容:震災復興の造成工事に関するマネジメント業務、
地質調査、地形測量、詳細設計、許認可に関わる図書作成および施工業務
工事概要:中心市街地222ha、離半島部14地区55ha
工期:2012年10月~2020年3月

首相と天皇 
 私たちが女川を訪ねたのは2016年4月、女川駅と周辺のわずかな区画の商業施設が完成したばかりであったが、いかにもにわか作りの感がぬぐえなかった。食事をしようにも満足な店が見つからず、どこか半端な店が並んでいた程度だった。あたり一帯はかさ上げ工事のさなかで、大量の重機が首を振り、大きく削られた山肌が生々しかった。そして、直前の3月17日には天皇夫妻が、2月21日には安倍首相がすでに立ち寄っていたことを教えられた。迎えるための準備と警備は、格別のことであったろう。行幸や視察の実質的な意味は、まず皆無であろう。被災者の気持ちに「寄り添い」「励ます」というが、私などは信じがたいのだが、それよりも先にやることがあるだろうと、いつもやるせない思いに駆られてしまう。

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首相官邸のホームページより

  2015年3月、女川駅が開業した折の美智子皇后の短歌「春風も沿ひて走らむこの朝(あした)女川(をながは)駅を始発車いでぬ」が、すでに16年1月に発表されていた。宮内庁の発表によれば、天皇夫妻の3月17日の女川での日程は、以下の通りであった。昼食をはさんで、滞在時間はどのくらいだったのだろうか。「ヤマホン」というのは、水産加工会社のようであった。女川の日程の前後には、石巻市で「宮城県水産会館(時間調整のためお立ち寄り・宮城県漁業協同組合東日本大震災犠牲者慰霊碑ご拝礼)」、帰りにも、「時間調整のためお立ちより・宮城県漁業協同組合経営管理委員会会長ご懇談」とあった。「ご聴取」「ご視察」「ご覧」「ご訪問」「ご懇談」との使い分けがあって、なかなかややこしい・・・。

女川町長より復興状況等ご聴取(女川町まちなか交流館)
昼食会ご主催(宮城県知事,県議会議長,女川町長,町議会議長)(女川町まちなか交流館)
ご視察(シーパルピア女川(テナント型商業施設)
ご覧(女川駅)
ご訪問(株式会社ヤマホン、施設概要ご聴取,ご視察)

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産経新聞より。この日の丸は、だれが用意したのだろう。  

  最近、女川町の江島出身の知人Wさんに会う機会があった。女川は「ふるさと」ながら、訪ねるたびに、どんどん変わっていく様を目の当たりにして、やりきれなさというか、女川の記事や映像も拒みたくさえなるという。2万人が暮らして漁業が盛んな町だったが、原発が出来て1万になり、大震災の被害でさらに半減してしまったことにもなると嘆くとしきりであった。「女川に来なくても短歌は作れてしまう」と皇后の短歌の話にも及んだ。

 女川町のもう一つの島、出島(いずしま)のこんな記事を見つけた。

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出島の人口は、大震災後、5分の1の100人になった。2023年には、本土との橋が開通するそうだ。河北新報(2020年7月22日)

関係年表を以下改訂しました。クリックして拡大できます。
冒頭のPDF版もご利用ください。

(1)

 

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(2)
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2020年8月28日 (金)

女川原発のいま、東日本大震災から9年が過ぎて

 2016年、東日本大震災から5年を経た女川を訪ねることができ、下記のような記事をブログにも載せた。それからすでに4年を経てしまったのだが、女川原発の動向が気になっていた。

連休の前、5年後の被災地へはじめて~盛岡・石巻・女川へ(6)女川原発へ
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/05/5-5cf0.html 
連休の前、5年後の被災地へはじめて~盛岡・石巻・女川へ(7)女川町の選択 http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/05/5-be09.html
(2016年5月14日)

   8月24日の朝刊のいくつかは、女川町に「女川小・中学校(一貫校)」の開校を報じていた。「復興した町で学びの成長を」(東京新聞)、「新校舎に笑い声」(毎日新聞)とある。総工費約56億は復興交付金27億5000万、原発立地地域共生交付金10億8000万、カタールからの寄付金8億7000万などで賄われている。財源の内訳も、調べてみてわかったのだが、その数字を報じる新聞記事は少ない。大震災前には3つの小学校と2つの中学校があったが、被災や世帯の移転で少子化が進み、小学生196人、中学生103人が高台の新校舎で学ぶことになった、と明るく報道した。町の人口は現在約5700人、大震災発生時からはほぼ半減に近い。

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2020年8月24日毎日新聞より

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原子力発電施設立地地域共生交付金交付規則に基づく地域振興計画(宮城県 2016年2月、2019年8月最終変更)file:///C:/Users/Owner/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/TIQWZOHI/752064.pdf

 しかし、その数日前の8月19日、女川町議会特別委員会は女川原発2号機の再稼働推進の4つの陳情を賛成多数で採択、再稼働反対の請願が反対多数で不採択となった。同委員会は全町議会議員から構成されているので、9月の本会議を待たず再稼働が事実上の容認されたことになると報じている。請願、陳情の提出団体とその理由に着目してほしい。請願の提出団体は、原発関係者の輸送や滞在による経済効果とコロナ禍によって低迷した観光業の復旧に期待しているが、安全性への不安が高まる中、一時的な消費や需要が地元の振興につながるのかは曖昧なままである。1984年に運転開始した1号機は、老朽化のためにすでに廃炉が決まっているが、1995年に運転開始した2号機は、大丈夫なのか、素朴な疑問が残る。さらに請願の一つは2008年に3号機のプルサーマル計画が発表されたが、東日本大震災を経て、いまだに計画は棚ざらしに近い状況での2号機再稼働の不安、危険性を表していると思う。

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   同じ日8月19日に、仙台市の「脱原発仙台市民会議」ほか11団体が仙台市長あてに、事故が起きた場合、市民にも危険が及ぶなどとして、県から意見を求められた際、女川原発2号機の再稼働に反対するよう、要望書を提出していることを地元の新聞やテレビ局は報じている。
 それに先立ち、2018年12月には、1号機の度重なる事故を踏まえて、廃炉が決定していたが、今年に入って、2020年2月26日、原子力規制委員会は、2号機の審査で正式に合格したことを発表していたのである。

 東日本大震災後の福島原発事故後は、原発を擁する地元民だけでなく、多くの国民の間で、原発への不信感、原発事故への不安感は、拭いようもなく深刻なものになっている。各地の原発事故や各電力会社の不正や情報の隠匿などが報じられるたびに、市民にとって必要不可欠な電力、電気なだけに、なんとしても、原発促進阻止、廃炉への道筋を念じるばかりであった。一方で、電力の安定供給、エネルギーミックスを標榜する国と電力会社による原発促進政策は、交付金や補助金攻勢によって、過疎地区振興の名のもとに、自治体・議会の原発容認、促進を取り付けるという手法でしかなく、市民との乖離はますます増幅の一途をたどっている。

 かつてのブログ記事でも書いているように、私は、夫とともに、4年前に、女川原発反対運動の中心的な役割を引き継いで来られたAさんに、女川原発の現状や女川の津波被害・復興計画の状況を聞きながら、町内を案内していただいた。いま、ここで、あらためて、女川原発の歩みを振り返ってみると、「日本の原発の作り方」の典型を見るようで、いまも変わらない、国の在り方を見るようで恐ろしくなった。国民の命と財産を守るはすの政府は、真逆の、目前の一部の人間の経済的利益を優先して、負の結果には責任を取らないという構図が見えてくる。 

 年表は、以下の資料と、新聞記事などを参考に作成してみた。太字は女川原発に限った事項である。
(クリックすると拡大されます)
日本の反原発運動略年表(はんげんぱつ新聞)
http://cnic.jp/hangenpatsu/category/intro 
原子力年表(女川町) 
http://www.town.onagawa.miyagi.jp/05_04_04_04.html#1970

 

年表は、改訂しました。以下でも、ご覧になれます。この方が鮮明です。苦労して作成しました。(2020年10月31日)
ダウンロード - onagawagenpatunennpyo.pdf

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   年表を見ていると、原発を擁する自治体やその市民も、同じような苦渋の選択を迫られてきたのではないかとの思いである。初期の段階での選択にあたって、例えば、地権者が土地を売り渡したり、漁民が漁業権を放棄したりするときに、電力会社や行政から十分な情報が開示されず、市民の間でも誤った情報が流布したことも、女川原発反対運動を続けているAさんは指摘していた。壮絶なまでの反対運動を踏まえて、現在も地道な運動を続けている人たちに敬意を表したい。

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原発への道の途中にあった「なくせ!原発」「事故で止めるか みんなで止めるか」、地元女川、牡鹿、雄勝三町の反対期成同盟の立て看板であった。(2016年4月)

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「一番の防災は原発をなくすこと」の文字が読める(2016年4月)

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鳴浜の原発施設を小屋取浜より望む(2016年4月)

  私たちが2016年、女川を訪ねたとき、「震災復興のモデル」のように語られていた女川だった。2015年には完成した新しい女川駅、その駅周辺の商店街シーパルピアも開業したばかりであった。その中には地域の交流館も温泉施設もあった。30分もあれば一回りできる範囲なのだが、建物は新しく、防波堤に遮られず、海へと延びるが街路は美しいのだが、施設の中身となる、私たちのような訪問客、観光客にとって、どれも魅力的なものには思えなかったのである。食事をとろうとしても、少し高めな海鮮丼の店やうどん店などがあり、私たちは迷った末、「わかめうどん」を食するしかなかった。そして周辺は、大規模なかさ上げ工事の真っただ中であったが、4年後の今はどうなっているのだろうか。

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いのちの石碑プロジェクトの一つ、東日本大震災の被害状況が示されていた。10014人であった人口は、今年の6月1日現在(推定)、約5700人というからほぼ半減したことになる

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かさ上げ工事が進む(2016年4月

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高台の医療センターから白い屋根の女川駅をのぞむ(2016年4月)

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2017年11月7日、東京新聞より

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2018年12月15日、毎日新聞より。町の慰霊碑、希望した854人の名が刻まれている

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2019年12月10日 (火)

忘れてはならない12月8日

記憶せよ、十二月八日。
この日世界の歴史あらたまる。
アングロ・サクソンの主権、
この日東亜の陸と海とに否定さる。
否定するものは彼らのジャパン、
眇たる東海の國にして
また神の國なる日本(につぽん)なり。
そを治(しろ)しめたまふ明津御神なり。(後略)
―昭和十六年十二月十日―

 「十二月八日」と題する高村光太郎の詩である。初出は、『婦人朝日』1942 年1月号であった。詩集『大いなる日に』(道統社 1942年6月、第二刷3000部、初版1942年4月)に収められているが、「十二月十日」は作詩の月日で、真珠湾攻撃の二日後に作られたことがわかる。

 一昨日12月8日は、「真珠湾攻撃、太平洋戦争開戦」の日、78年目の日だった。一部のテレビニュースでは、ハワイでの戦没者2400人の追悼式が行われ、生き残りの兵士の参列が数少なくなったと報じていた。日本の新聞では、12月8日の、いわばサイドストーリーのように、「朝日新聞」(12月8日)は「ペリリュー島<最後の生還者>遺言」、『毎日新聞』(12月3日)、『朝日新聞』〈12月8日〉の千葉版では、船橋市の行田の海軍無線電信所の歴史を記した労作「行田無線史」と著者の郷土史家滝口昭二さん(82)の紹介記事が掲載されていた。行田無線電信所から真珠湾攻撃を命じた暗号電文「ニイタカヤマノボレ 一二〇八」から発信されていたという記事が目についた程度だった。

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『読売新聞』(2018年8月7日)より、18年7月撮影の行田無線電信所跡の現在。上の奥の楕円形のグランドは中山競馬場。私たち家族は、名古屋から千葉に転居した時、この円形の電信所跡の左上の扇形部分に建ち並ぶ公務員宿舎に半年ほど暮らしていた、懐かしい場所。
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1971年当時は無線塔がたっていたらしい (船橋市資料視聴覚センター)

 

 日本でも、太平洋戦争開戦の日は、忘れてはならない大事な日であるはずだ。この日を境に、日本軍はアジア解放のためにと標榜しながら、戦局は拡大し、日本軍の兵士はもちろんアジア各地で多くの犠牲者を出し続けた。各地での敗退が続くなか、政府は、メディアや文化人を総動員して、国民の戦意を高揚、多くの犠牲を強いた。そんな中で、高村光太郎も、従軍作家や従軍画家に先んじるかのように、戦争詩を発表し続けた。

五月二十九日の事

もとより武士(もののふ)のあはれを知らぬ彼らの眼には
ただ日本軍全滅すとのみ映じたのだ。
皇軍二千餘人悉く北洋の孤島に戦死す。
この悲愴の事実に直面して
その神の如き武人の心にわれら哭く(後略)

 光太郎自身の詞書によれば「昭和十八年六月一日作。五月卅日十七時の大本営発表によりのアツツ島守備部隊の全員玉砕を知る。(後略)」とあり、6月3日夜のNHKラジオ放送の特集番組「アツツ島の勇士に感謝し戦争完遂を誓ふ」において、朗読され、後の詩集『記録』I(龍星閣1944年3月初版 10,000部)に収められている。

 すでに1944年から始まっていた東京空襲、1945年3月10日に続く4月13・14日の大規模空襲で、光太郎自身のアトリエも焼失するのだ、その間の4月1日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸した即日4月1日に作った詩を4月2日の『朝日新聞』に発表している。この即応性と器用さが多くのメディアに重用され、政府のプロパガンダに徹したのである。

 さらに、1945年8月15日の敗戦の玉音放送を、疎開先で聞いた光太郎は、8月16日午前中に作り、翌日の『朝日新聞』に「一億の號泣」を発表しているのである。まさに、この早業に脱帽するばかりである。

一億の號泣

綸言一たび出でて一億號泣す。
昭和二十年八月十五日正午、
われ岩手花巻町の鎮守
鳥(と)谷崎(やがさき)神社社務所の畳に両手をつきて
天上はるかに流れ來(きた)る
玉音(ぎょくいん)の低きとどろきに五體をうたる
五體わななきとどめあへず
玉音ひびき終りて又音なし
この時無聲の號泣國土に起り
普天の一億ひとしく
究極に向つてひれ伏せるを知る(後略)

(1945年8月16日作『朝日新聞』『岩手日報』1945年8月17日)

 その後、疎開先から東京に戻ることなく山小屋生活を続け、「暗愚小傳」という20篇の詩作品を発表(『展望』1947年7月)し、「わが詩をよみて人死に就けり」と題する詩を書き、戦時下の活動を「自省」したという。しかし、光太郎の晩年の詩を通読して思うのは、いわゆる新聞の元旦号、雑誌の新年号を飾る「新しい年を祝う」「めでたい」作品が並ぶことだった。そしてそこに散見する「原子力の未来への期待」であったのだ。1955年1月1日『読売新聞』に発表された「新しい天の火」では、つぎのように歌い上げる。

新しい天の火

(前略)
ノアの洪水に生き残つた人間の末よ、
人類は原子力による自滅を脱し、
むしろ原子力による万物生々に向へ。
新年初頭の雲間にひかる
この原始爆発大火団の万能を捕へよ。
その光いまこのドームに注ぐ。
新しい天の火の如きもの
この議事堂を打て。
清められた新しき力ここにとどろけ。

1956年1月1日『読売新聞』に発表された最晩年の作品「生命の大河」には、こんな一連がある。

科学は後退をゆるさない。
科学は危険に突入する。
科学は危険をのりこえる。
放射能の故にうしろを向かない。
放射能の克服と
放射能の善用とに
科学は万全をかける。
原子力の解放は
やがて人類の一切を変へ
想像しがたい生活図の世紀が来る。

 

 この発表の直前12月16日には原子力基本法など関連三法が成立し、まさに新年の1月1日に施行、発足した原子力委員会の初代委員長が読売新聞の正力松太郎であったのである。この間の事情は、当ブログの以下を参照いただけたらと思う。

あらためて、髙村光太郎を読んでみた(8)晩年の「新しい天の火」
(2019年9月25日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/09/post-1f9939.html

 12月8日から、つい話は飛んでしまったが、高村光太郎の『智恵子抄』と表裏一帯をなす戦争詩を知ることによって、文芸の国家権力からの自立の重要さを知ることにもなるのではないか、の思いに至るのだった。

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2019年3月12日 (火)

改元奉祝のなかで、「天皇依存」の系譜(2)そして、歌人たち

天皇が原発をやめよと言い給う日を思いおり思いて恥じぬ(吉川宏志)
 『短歌』201110月 『燕麦』2012年所収)

   東日本大震災による原発事故の直後に、吉川宏志が発表した作品である。当時、結句の「恥じぬ」の解釈をめぐって、若干の論議が交わされた。「ぬ」は完了なのか、「打消し」なのか、つまり「恥じた」のか「恥じない」のかどちらなのかと。私は、それまでの吉川の作品や発言から当然、「恥じた」として読んだ。「打消し」なら「恥じず」とするのが自然だからとも思った。作者は、もちろん「完了」の方だと明言し、近年の平井弘とのインタビューの中で、吉川自身、この一首について、つぎのようにも語っている。

「天皇に『原発をやめよ』と言ってもらおう、という発想自体に、天皇を利用しようという心根があるわけでしょう。それが恥ずかしい、という歌なんですよ。ただ、今の状勢を見てたら、天皇が言ってもだめかもしれないですね。今の政権は、天皇の意志なんてまったく無視しているわけでしょう。」(特集 平井弘インタビュー「恥ずかしさの文体」(後編)『塔』2017年4月) 

   また別の場所で、吉川は、国旗国歌法(1999813日に公布・施行)が成立したころは「〈天皇制〉を厳しく否定する論調が、歌壇では特に強かった」という認識で、当時の歌壇、時代の空気を思い起こしながら、つぎのように記す。 

 戦争体験などをして、非常に嫌悪感をもっている人たちが存在することもよく理解している。そういった人たちが、反対するのもよくわかる気がする。けれども、「君が代を歌わない権利」がある一方、「君が代を歌う権利」があることも明らかだろう。だから、卒業式などで歌うことを強制することには反対だけれど、逆にあまりに過剰に君が代を否定することにも違和感をもつ。君が代をたまに歌ったくらいで、異常な国家主義者になるわけでもない。君が代を肯定する善男善女は、世の中に無数にいるだろう。現在では、非常に激しく君が代を非難する態度も、社会的にあまり共感されないのではないだろうか。

 左翼的な人々(の一部)は、現実の天皇制を廃止すれば良いのだ、と考えた。しかし、そうではなくて、権力と責任の存在が曖昧なシステムそれ自体に、危険性は存在していた。おそらく、現実の天皇制を批判しても、何も変わらない。
 
むしろ、今年の天皇陛下の年頭のお言葉「東日本大震災から2度目の冬が巡ってきました。放射能汚染によりかつて住んでいた地域に戻れない人々や,仮設住宅で厳しい冬を過ごさざるを得ない人々など,年頭に当たって,被災者のことが,改めて深く案じられます。」
 
を聞くと、原発事故を忘れてしまったかのような、現在の首相や政府の発言よりも、ずっと心に沁みてくる。
 
 いろいろな意見はあると思うが、私は、単純に天皇制は悪だとは考えない立場である。
 (①②とも「短歌と天皇制について」『シュガークイン日録3』20130122日) 

  「国旗国歌法」の条文には、強制、義務化の文言はない。当時の小渕首相はじめ、議会の質疑でも、強制・義務化はない、としてスタートした。その後の経緯は、どうだろう。教育現場では、学習指導要領で縛り、職務命令という形で、「君が代」斉唱時の不起立、ピアノ伴奏拒否などにより受けた処分や不利益は、教師たちの思想信条の自由を侵すものではないか、との訴訟で各所でなされた。管理者の裁量の範囲内であり違憲とは言えない、という判断が定着しつつある中、処分が重すぎるという判決もあったが、まだ係争中のケースもある。吉川は、①において、「強制することには反対だけれど」などと、天皇みたいなことを言う。「君が代をたまに歌ったくらいで、異常な国家主義者になるわけでもない。君が代を肯定する善男善女は、世の中に無数にいるだろう。」とは、どういうことか。統制や弾圧は、些細なことから始まり、それによる萎縮や自主規制が強まり、息苦しくなって、気づいたときは、すでに抵抗の手段を奪われていたという歴史を、私たちは教えられたり、学んできたりしたと思う。

 

 政治の世界に限らず、時代はすでに、数の力で、少数派や異論を無視し、排除する構図が出来上がりつつある。「寛容」や「多様性」の旗を掲げるならば、日常的な談論風発、百家争鳴、混沌こそが、民主主義の基本ではなかったか、とも思う。自分と異なる意見が多数を占め、数の力が及ばないとき、「面従腹背」と言ってしまうのか。吉川のように「天皇を利用しようとする心根」を「恥じた」のならば、いまは“リベラルで、いい人”の天皇を持ち出すのは、フェアでない。②で言うように「権力と責任の存在が曖昧なシステムそれ自体に、危険性は存在していた。」とするならば、その「曖昧なシステム」に「天皇制」が寄与していなかったかを検証する必要もあるだろう。

 「単純に天皇制は悪だとは考えない立場」をとるのは自由だが、その「危険性」に本気で向き合おうとするとき、「現実の天皇制を批判しても、何も変わらない。」とするのは、いささか「単純」すぎないか。

  たまたま、吉川は、自分の意見を表明しているが、天皇依存の歌人も多いのではないか。逆に、天皇の短歌や「おことば」が、過大に評価され、利用されているのを憂慮している歌人もいるのではないか。いまこそ、この「改元」の奉祝ムードの只中でこそ、大いに声を上げるべきだろう。

24img111 レイアウトは異なるが、2019年2月24日朝刊各紙に掲載された政府広報

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商魂たくましい、広告の数々・・・。上が「朝日新聞」2月24日朝刊、下が同紙2月25日朝刊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2017年5月 1日 (月)

ほんとに、何から言い出していいのかわからないほど(2)政治家の「失言」ではない「虚言」

 政治家の「ウソ」は「失言」ではあり得ず、確信犯的な「虚言」といっていい。政策や公約に沿った形での発言が多いので見破りにくい。それだけに、本音の「失言」よりもたちが悪い上、国や国民へ影響大ながら、責任追及が難しい。国民が、有権者がよほどしっかりしなければならない。

 私がふだん、「ウソばっかり!」と思わず叫んでしまう、いくつかを紹介してみよう。自分の薄れた記憶をよみがえらせ、少し調べてみた結果でもある。

 

「東北の復興なくして、日本の再生なし」とは

 

 東日本大震災後5年を経た、このときの記者会見では、「東北の復興なくして、日本の再生なし」としめくくった。首相は、被災地に30回以上も訪ねたと、前置きして、次のようにも述べている。

「3年前に訪れた時、見渡す限りの更地であった、宮城県の女川町の中心地は、先月、その景色を一変させていました。地域の皆さんの<足>であるJR石巻線が復旧し、木の温もりを感じる新しい駅舎の前には、電気屋さん、青果店、フラワーショップ。素敵な商店街が完成し、たくさんの人たちで賑わっていました。 政権交代した3年前、計画すらなかった高台移転は、ほぼ全ての事業が着工し、この春には、全体の4分の3の地区で造成が完了します。ほぼ全ての漁港が復旧します。7割を超える農地が作付可能となり、9割近い水産加工施設が再開を果たしました。」

 ここでも、「政権交代した3年前、計画すらなかった」と前政権の批判を欠かさないなか、女川町の復興に言及している。同じ年の20164月に私も、女川を訪ねている。町会議員のAさんに女川原発と町内を案内していただいた。町の中心地であった場所に新しい女川駅舎と商業施設がオープンして間もなかったのである。首相は、賑わいを強調するが、私たちが訪ねたのは、大型連休の初めで、イベントの開催中であったが、閉店中の店もあり、地元の人が日常の買い物をするような場所でもなく、観光客で賑わっているという風でもなかった。ランチをと思っても、ワカメうどんの店かマグロ丼かがメインの店しかなかった。

 航空写真を見ても分かるように、安倍首相は、鳥の眼も虫の目も持ち合わせていないのだろう。女川駅舎の北の高台、町立病院から見おろせるのは、かさ上げ工事真っ最中であって、下の写真のように、造成地の形がまだ見えなかった。飛び地のような商業施設、工場やその他の施設と復興住宅が道路と結ばれても、まさに点と線の「まちづくり」となってしまわないか、の危惧が去らない。Aさん家族も、まだ病院近くの仮設住宅に住んでいるとのことだった。 「復興のトップランナー」と言われた女川町、Aさんは、これまでの5年間は、何とか頑張れたが、これからの5年が大変だろうとも語っていた。

 

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(左)地盤をかさ上げし、約200m内陸に移設されたJR女川駅(左下)。駅前には遊歩道が海に向かって延び、両側には商業施設が並ぶ。昨年末に開業した=2016年2月19日、本社へリから喜屋武真之介撮影。(右)津波で街が流された旧JR女川駅(右)周辺2011年3月19日、撮影。 

 宮城県女川町では、住宅約4400棟のうち約2900棟が全壊し、死者・行方不明者は872人(震災関連死含む)に上った。震災前に1万人余だった人口は7000人を割った。2017年度までに864戸の災害公営住宅(復興住宅)を整備する計画だが、完成したのは3割の258戸。=毎日新聞2016310日から=

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女川町立病院の在る高台から見た海側と山側のかさ上げ工事。町立病院の脇にも
いくつかの慰霊碑があったが、下の写真の道路脇にも見える=2016年4月29日、筆者撮影。撮影時からちょうど一年、どれほど進捗しているだろうか

 

 今回の今村前復興相の「東北でよかった」発言は、自主避難者への借り上げ住宅の無償提供の打ち切り方針に対して、「故郷を捨てるのは簡単だ」(2017312NHK日曜討論)、「福島原発事故による自主避難者が帰還できないのは自己責任」(前記事参照、44日記者会見)の発言に続くもので、安倍内閣の原発事故の国や東電の責任を認めようとしない、被災者切り捨て、復興予算を残してしまうという「復興政策」の破たんを体現する発言であって、「東北の復興なくして、日本の再生なし」「東北の復興が最優先課題」などのキャッチフレーズは、もはや裏付けを失っているのだ。 

「世界で最も厳しい水準の安全規制」とは

 原発の安全性について、安倍首相が「世界で最も厳しいレベルの新規制基準」「世界で最も厳しい水準の規制基準」と胸を張って答弁するのを何度見てきたことか。20129月、田中委員長を含む5人の委員による原子力規制委員会が立ち上げられ、新規制基準は、2013619日決定、78日に施行された。2014124日第186回国会施政方針演説で、安倍首相は「世界で最も厳しい水準の安全規制を満たさない限り、原発の再稼働はありません」と宣言し、同年4月11日の閣議決定「エネルギー基本計画」において、「原子力発電所の安全性については、原子力規制委員会の専門的な判断に委ね、原子力規制委員会により世界で最も厳しい水準の規制基準に適合すると認められた場合には、その判断を尊重し原子力発電所の再稼働を進める。その際、国も前面に立ち、立地自治体等関係者の理解と協力を得るよう、取り組む」として以来、様々な場面で、その真偽が質されることになる。日本の原発の安全性、新基準による再稼働の安全性については、日々、その説得力を失いつつあるのが現実であろう。

 例えば、菅直人元首相は、2014416日に提出した「エネルギー基本計画に関する質問主意書」で、「世界で最も厳しい水準の規制基準」という根拠は何か、を問うたところ、政府答弁書(2014425日)では、つぎのようにいう。

「(新規制基準は)国際原子力機関や諸外国の規制基準を参考にしながら、我が国の自然条件の厳しさ等も勘案し、地震や津波への対策の強化やシビアアクシデント対策の導入を図った上で、世界最高水準の基準となるよう策定したものである。

 なお、新規制基準においては、事業者が満足しなければならない性能の水準を定めており、これを実現する方法の詳細についてあらかじめ指定しておらず、国際的にも、原子力に係る規制基準においては、性能基準を規定していると承知している。

 この答弁に見るよう、「世界最高水準の基準となるよう」策定したにすぎず、水準をクリアする具体的な方法は、事業者任せとしか読めない。

 また、201472日、原子力規制委員会田中委員長は、記者会見で、つぎのようにも述べる。「最高水準にあるというのは、様々な、いわゆる重大事故対策について我が国の場合は特に外的な要因、自然条件が厳しいということを含めて、そういうものに対する対応というのは相当厳しいものを求めているということから最高水準であるということ」、そして、「世界最高水準とか世界最高とかいうのは、やや政治的というか言葉の問題なので、具体的ではなく、今、私どもが求めているのは適合性」でしかなく、適合したからと言って「安全性」を担保するわけではないとの発言は、幾度となく繰り返されている。

 また、20141021日参議院内閣委員会での山本太郎議員の「日本の原発は世界で最も厳しい安全基準といえるか」の質問に、田中委員長はつぎのようにも答えている。

 「政府特別補佐人(田中俊一君) 正確に申し上げますと、世界で最も厳しい基準とは言っていなくて、最も厳しいレベルの基準と言っているんです。ですから、そこのところは間違えないようにしていただきたいと思います。」やはり、山本議員の質問主意書への答弁(2014年11月25日)の中で、つぎのように明言しているのである。「世界最高水準の基準となるよう策定したものであるが、必ずしも最も厳しい基準であることを意味するものではない」と。

 

以上のことからも、日本では、「世界で最も厳しい規制基準によって、原発の安全性は確保されているわけでない」ことは明白になった。それでは、その安全性に責任を持つのは、原子力規制委員会の「専門家」の委員なのか、その専門性を「尊重」する政府なのか。少なくとも、安倍首相の「世界で最も厳しい水準の安全規制」は、少なくとも現実を正しく伝えてはいない。騙される国民が悪いのか。

かつてテレ朝の「報道ステーション」で、「世界一厳しい規制基準なのか」を問うた番組(2014725日)を見たことを思い出し、薄れた記憶と紹介記事でたどってみた。すると、先の記者会見の速記録や議員の質問書への政府答弁やの国会質疑の答弁とも重なる。

 その日の報道ステーションは、フィンランドのオルキルオト原発とそれに併設されたオンカロなどの取材に基づき、日本の新しい規制基準とを比較している。

フィンランドの岩盤の強固さと地震国日本との違い、そして、地下450mのオンカロの併設、日本では、使用済み核燃料、汚染水・汚染土などの中間処分場、最終処分場が確保されてないことを前提にしての比較である。①原子炉の二重の格納設備②フィルターベント(圧力を下げ、放射の物質を除く)③メルトダウン対策としてのコアキャッチャー、の有無が指摘された。 

 ①は、テロ対策にも備えることにもなっている。③は、原子炉創設時には可能だが、現存の原子炉に備えるのは困難であり、原子力規制委員会の田中委員長は、コアキャッチャはーは、「広げて冷却する装置なので、、事故後の時間稼ぎ」程度にしかならないとしばしば明言している。

 以上は、私なりのまとめなので、参考資料と合わせお読みいただきたい。と同時に、フィンランドのように、いかに厳しい規制基準のもと「夢の原子炉」への道を歩み始めたものの、その過程でいくつかのトラブルに見舞われ、その工事を受注していた、フランス原子炉メーカー「アレバ」自体が、倒産の危機に直面し、大幅な工期の遅れが生じてもいるのも現実である。原発に関しては、世界一厳しい規制基準などあり得ないことを知るのであった。

 首相や政府は、原子力規制委員会が「世界で最も厳しい水準の規制基準を目指して」策定した基準に適合したことを以って、原発再稼働の安全性を担保してないことは、明らかなのだ。「だれも世界一厳しい安全基準なんて、言った覚えはないよ、世界で最も厳しい水準を目指して策定した基準に過ぎないんだから」と、すでに開き直っているようなものではないか。

 また原発事故関連の政治家の「虚言」で忘れてはならないのは、20139月、東京オリンピック招致のプレゼンテーションでの安部首相の福島原発事故による汚染水はコント―ロル下に置かれている、「アンダーコントロール」されているとの発言であった。ちなみに、そのプレゼン直前にの94日の東京オリンピック招致委員会の竹田理事長が、汚染水問題で集中質問を浴びたブェノスアイレスでの記者会見で、「福島は東京から250キロ以上も離れている。東京は安全であり問題がない」と答え、当時も福島県民の顰蹙をかっていたことを思い出す。これらの発言については、本ブログでも記事にしたことがあるので、合わせてご覧いただければと思う。

 

〇これでいいのか、2020東京オリンピック(201399日) 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/09/2020-d1d1.html

〇オリンピック東京招致はいいことなのか(201397日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/09/post-77a7.html

 

参考

〇報道ステーションの紹介記事

http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-3843.html

http://saigaijyouhou.com/blog-entry-3302.html

〇原子力規制委員会の記者会見速記録

file:///C:/Users/Owner/Desktop/000068790201472日原子力規制委員会記者会見.pdf

〇山本太郎ホームページ

https://www.taro-yamamoto.jp/national-diet/3816

山本太郎質問主意書への20141125日の答弁http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/187/touh/t187083.htm

安全な原発は夢か 仏アレバの新型炉建設が難航  (安西巧)
2015/1/26 7:00 日本経済新聞 電子版版http://www.nikkei.com/article/DGXMZO82205990R20C15A1000000/

〇経営崖っぷち 仏原発アレバ
2017年3月7日 東京新聞

ttps://silmarilnecktie.wordpress.com/2017/03/07/37%E7%B5%8C%E5%96%B6%E5%B4%96%E3%81%A3%E3%81%B7%E3%81%A1%E3%80%80%E4%BB%8F%E5%8E%9F%E7%99%BA%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%90-%E7%B4%AF%E7%A9%8D%E8%B5%A4%E5%AD%97%EF%BC%91%E5%85%86%E5%86%86%E8%B6%85/

 

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各地のプロジェクトで、工期の大幅な遅れが繰り返されている。
=日本経済新聞電子版2015126日より=


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 仏原子力大手アレバ、16年は最終赤字が縮小:3月1日、経営再建中のフランスの原子力大手アレバが発表した2016年決算は、最終赤字が6億6500万ユーロ(7億0200万ドル)で、15年の20億4000万ユーロ、14年の48億3000万ユーロから縮小した。写真はロゴ、パリ近郊で2015年5月撮影(2017年 ロイター/Charles Platiau)=2017 3 1日 ダイヤモンドオンラインhttp://diamond.jp/articles/-/119879

 

 

 

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2016年7月30日 (土)

「時代」の所為(せい)にはするな~私の歌壇時評

以下もやや旧聞に属することになってしまったが、5月中旬締め切りで、歌誌『ポトナム』に寄せた時評である。

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2015927日、緊急シンポジウム「時代の危機に抵抗する短歌」(同実行委員会主催)が京都で、同年126日、緊急シンポ「時代の危機と向き合う短歌」(強権に確執を醸す歌人の会主催、現代歌人協会・日本歌人クラブ後援)が東京で開催された。「時代の危機」という言葉もあいまいながら、どちらにも参加できず、隔靴掻痒の感はぬぐえないが、その感想を記録にとどめておきたい。

京都での呼びかけ人、吉川宏志は「安保法制など、憲法を揺るがす事態が起こっている現在、私たちは何をどのように歌っていくのか。近現代の短歌史を踏まえつつ、言葉の危機に抵抗する表現について考えます」と訴え、表題の「時代の危機」は「言葉の危機」に置き換えられていた。京都での三枝昻之は、戦中戦後の短歌雑誌に対する検閲にかかわり、歌人みずからの自己規制の危うさを語り、永田和宏は、最近の政治家の失言を例に、脅迫的な暴言を繰り返す危険な言葉遣いを指摘、歌人は危機感をもっと率直に表明することの大切さを語った、と総括する(吉川宏志「時代の危機に抵抗する短歌~緊急シンポジウムを終えて」『現代短歌新聞』201511月)。

東京では、永田が「危うい時代の危うい言葉」と題して、民衆の表現の自由が民主主義の根幹ながら、その言葉が様々な手段で奪われようとしている危機を語り、レジメには、「権力にはきつと容易く屈するだらう弱きわれゆゑいま発言す」などの短歌が記された。今野寿美は「時代の中の反語」と題して与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」を例に時代状況の中で曲解・悪用されてきた事実を指摘、表現者のとして自覚の重要性を説いた。予告にあった佐佐木幸綱の「提言」は、本人が風邪のため中止になったらしい。

東京での呼び掛け人であった三枝は、シンポの表題を京都のそれと比べ、「時代の危機と向き合う・・・」として、「ソフト」にしたのだといい、シンポの主題は、「安保法案の是非ではなく、政治の言葉の是非」であると、繰り返し述べている(「2015126日シンポジウムを振りかえる」(『現代短歌』20163月)。

二つの集会のキーマンである吉川、永田、三枝の三者は共通して、「時代の危機」というよりは「言葉の危機」を強調したかったのではなかったか。「時代の危機」を前提にしながらも、あえて「言葉の危機」「政治の言葉」に置き換えたことは、見逃してはならないと思う。「安保の是非」は横に置いておいて、歌人は「言葉の危機」にどう対応するかの念押しに、参加者の多くは、やや肩透かしを食らった気がしたのではないか。

東京の集会に参加した石川幸雄は、永田の「投獄されて死んでゆくのは犬死だ」と怯える姿を目の当たりにした後、「ここで 登壇者の内三名(三枝、永田、今野)が宮中歌会始めの選者であることに気づいた」と記す(「カナリアはいま卒倒するか」『蓮』20163月)。岩田亨は、永田は「怖い」を連発していたが、何がそんなに「怖い」のか、「<NHK短歌>や新聞歌壇の選者から降ろされるのがこわいのか。考えて見ると歌人の地位を失うのがこわいらしい」と、三枝については「『昭和短歌の精神史』は戦中の歌人の戦争責任を不問に付し」た「歴史観が今日の状況を作ったのではないか」と報告している(ブログ「岩田亨の短歌工房」2015128日)。私には、壇上の歌人たちが時代に「異議を申し立てた」という「証拠」を残すために、こうした発言の場を設けたように思われた。一過性で終わることのない本気度を見せてほしいと思った。近く記録集(*注)が出るというので、若い人たちの討論の内容も確かめたいと思う。(『ポトナム』20167月号所収)

*注 『(シンポジウム記録集) 時代の危機と向き合う短歌~原発問題・特定秘密保護法・安保法制までの流れ』(三枝昻之・吉川宏志共編 青磁社 2016年5月8日)の書名で刊行された。

 

 

 

 

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