2020年10月30日 (金)

女川原発2号機はどうなるのか~再稼働反対の声が届かない(付年表改訂版)

 

改訂版の「女川原発関係年表」です。

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その後の女川原発2号

 宮城県議会は10月22日、女川原発2号機再稼働を求める請願を採択、県議会は再稼働の容認を表明したことになり、村井嘉浩知事が近く、再稼働同意に踏み切るとみられている。10月23日には、東北電力女川原発(宮城県女川町、石巻市)30キロ圏の石巻市民17人が、重大事故時の住民避難計画の不備を理由に、県と市の2号機再稼働への同意差し止めを求めた仮処分で、仙台高裁は、申し立てを却下した地裁決定を支持、市民側の即時抗告を棄却する決定を出した。

 8月の下記の当ブログ記事にも書いたように、1号機は廃炉に決まったが、2号機の再稼働はなんとしても阻止しなければならないと思っている。宮城県議会へは、すでに県民11万に及ぶ署名によって住民投票条例制定を求めたが、自民・公明による反対で否決、さらに野党による条例案も否決されている。要するに住民投票の結果、民意が示されるのを畏れているとしか思えない。私が女川原発にこだわるのは、2016年に、一度女川町を訪ね、1960年代より、父親の代から夫妻で原発設置反対運動を続けてこられたAさんの話を聞いているからかもしれない。

女川原発のいま、東日本大震災から9年が過ぎて(2020年8月28日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/08/post-413b15.html

 上記記事の年表にもあるように、東北電力の土地買収当初から1984年の1号機運転開始、95年の2号機、2002年3号機運転開始を経て、2011年東日本大震災での被災・自動停止、福島の原発事故に至り、その後も国内外での原発事故が続出している。 
 女川町議会の再稼働容認の意思表示はあったが、周辺自治体の中には、原発事故が起きたときの避難計画の実効性への疑念から反対している市や町がある。大震災後、女川原発は耐震対策や津波対策として海抜29mもの防潮堤を建設したが、そもそも巨大地震を繰り返す震源に近く、福島第一原発と同型の原子炉であるというリスクも抱えている。
 
女川町の場合は、過疎化、高齢化に加えて、大震災被害からの復旧の遅れによる経済的な疲弊から脱出のため原発マネーをアテにせざるを得ない状況下に追い込まれての「未来志向」の選択であった、というのが賛成派の大義名分であろう。しかし、こうした構図は、女川町に限らない。
 
ところが、その原発マネーは、政府、電力会社と自治体、工事受注会社をめぐりにめぐるが、自治体や市民に残されるのは、安全性に疑問を残したままの原子炉、いわゆる立派な箱モノ、不安定な雇用だけというのは、原発を持つ自治体に共通するのではないか。原発によってだれが潤っているのかは、よく見極めなければならない。関西電力と高浜町をめぐる大掛かりな汚職事件は記憶に新しい。地元市民や電力消費者は、もっと怒ってもいいはずなのに。

Jijicom:関西電力・高浜町原発マネー還流事件まとめ
https://www.jiji.com/jc/v7?id=201909kdkzgm

ほんとうに原発は必要なのか
 
こうした現実を前に、私は、いま、果たして、ほんとうに原子力発電が必要なのかという基本的な問題に突き当たってしまう。10月26日の菅首相の所信表明では、「温室効果ガス排出量を2050年までにゼロ」を打ち出したが、その裏付けは未知数である。日本の電源構成は、2018年の実績と2030年エネルギー基本計画によれば、以下のようになる。

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 原子力による電源の推移を見てみると、2011年東日本大震災の福島原発事故以来、限りなくゼロから再稼働により若干増えて、数パンセントなのが現状である。これを、政府は、1930年には20~22%にすることを目標とした。大震災直前に近い数値で、原発の再稼働・新設は必至ということになる。新設はもちろん、再稼働や廃炉、廃棄物処理への過程での安全性の担保を考えると、その人材と時間に加え、そのコストは、とてつもない数字になる。原発は安全で安価という神話は、すでに崩れつつあるのを、私たちはうすうす知ってしまった。エネルギーミックスによって、原子力発電は供給の安定性がメリットとも言われてきたが、ひとたび事故が発生すれば、福島原発事故に見るように、一斉に稼働を停止し、点検の必要が生じるのではないか。 

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  電気事業連合会のホームページより 

   私は、将来の人口減に加えて、省エネの覚悟と水力・風力・太陽光などの再生エネルギーによる電力供給を拡大することによって、原発ゼロも温室ガス排出量を限りなくゼロにすることも、不可能ではないと考えるようになった。

 女川原発の歴史を振り返ってみよう。1967年末、女川町を含む石巻地区の石巻市他9町による原発誘致の請願に始まり、翌年、東北電力は女川町の小屋取を適地として建設地と決定した。それ以降、雄勝、牡鹿、女川三町の建設反対期成同盟と漁協による反対運動が盛りあがったが、東北電力の土地買収交渉が強引に進められた。小屋取の大地主さんは、当初反対であったが、東北電力の分裂工作にのってしまう革新政党があり、とうとう買取りに応じてしまったと、女川で話を聞いたAさんは、その悔しさを語っていた。そんなことでも苦労されたのだなと思う。1973年第一次オイルショックにより各漁協が漁業権を売り渡し、埋め立て工事の同意が続いたという。1979年アメリカのスリーマイル島、1986年ソ連のチェルノブイリ原発事故と続く中でも、工事は着々と進み、2002年3号機運転開始にまで至るのである。上記建設反対運動に始まり、1号機運転差し止め、2号機設置許可取り消し行政不服審査異議申し立て、3号機建設反対1・2号機運転中止申し入れなど、要望や法廷闘争を繰り返すなかで、2011年、東日本大震災により、1・2・3号機が自動停止となって、前述のように1号機廃炉、2号機再稼働の道が進められている。3号機のプルサーマル計画はどうなるのか、いずれも住民には大きな不安をもたらしている。

女川と鹿島 
 一方、ゼネコンの鹿島建設とそのグループは、東北地方では、原発に強いといわれ、女川原発3機とあわせて関連工事もすべて鹿島であった。2011年の段階で、全国で54機ある原発の20機以上が鹿島による建設だった。公共事業ではない電力会社と建設会社との民・民契約であるため、競争入札はないので、粗利益は高いとされている。関連工事のみならず、今後は廃炉にも多大の資金が投入されるだろう(「なぜ鹿島は原発の建設に強いのか」『週刊東洋経済』2011年12月3日号)。
 また、東日本大震災前ながら、鹿島建設のホームページには、「鹿島紀行」というコーナーがあって、鹿島の施工工事と女川町との関係をつぎのように記している(「宮城県女川町~緑あり・海あり・魚あり」『鹿島紀行臨時版』2005年11月)。 

【女川町と鹿島】
 当社と女川町との関わりは,1960年の日本水産女川冷食工場建設(79年同工場増設)と,68年の野々浜地区の牡鹿半島有料道路(コバルトライン)工事に始まる。前後して女川原子力発電所取付け道路などを施工した。
 女川原子力発電所は79年から敷地造成工事に着手し,以降1号機(80年),2号機(88年),3号機の各本館建屋(96年)に着工した。
 女川町総合運動場では85年に造成工事を受注。引き続き町民野球場,町民庭球場,陸上競技場を受注した。02年に万石浦トンネル,04年に(仮称)第1五部浦トンネルを受注している。

 さらに、東日本大震災の津波により壊滅的な被害を受けた女川町の復興事業の概要は、以下の通りだが、2012年3月に、女川町と独立行政法人都市再生機構は「女川町復興まちづくりパートナーシップ協定」を締結、同年10月に、独立行政法人都市再生機構と鹿島・オオバJVは「女川町震災復興事業の工事施工等に関する一体的業務」について協定を結んでいる。女川町は、都市再生機構を通じて鹿島に丸投げしたことになる。以降、復興まちづくりのモデル事業として、しばしば報道され、話題にもなっていた。そして、今年2020年3月、7年半にわたる復興事業は完了したという。

 あの大掛かりな造成工事は完了したのだろうか。駅前のみならず、街のにぎわいを見せているのだろうか。

【女川町震災復興事業】
事業者:女川町
発注者:独立行政法人 都市再生機構
施工者:鹿島・オオバ女川町震災復興事業共同企業体(おながわまちづくりJV)
業務内容:震災復興の造成工事に関するマネジメント業務、
地質調査、地形測量、詳細設計、許認可に関わる図書作成および施工業務
工事概要:中心市街地222ha、離半島部14地区55ha
工期:2012年10月~2020年3月

首相と天皇 
 私たちが女川を訪ねたのは2016年4月、女川駅と周辺のわずかな区画の商業施設が完成したばかりであったが、いかにもにわか作りの感がぬぐえなかった。食事をしようにも満足な店が見つからず、どこか半端な店が並んでいた程度だった。あたり一帯はかさ上げ工事のさなかで、大量の重機が首を振り、大きく削られた山肌が生々しかった。そして、直前の3月17日には天皇夫妻が、2月21日には安倍首相がすでに立ち寄っていたことを教えられた。迎えるための準備と警備は、格別のことであったろう。行幸や視察の実質的な意味は、まず皆無であろう。被災者の気持ちに「寄り添い」「励ます」というが、私などは信じがたいのだが、それよりも先にやることがあるだろうと、いつもやるせない思いに駆られてしまう。

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首相官邸のホームページより

  2015年3月、女川駅が開業した折の美智子皇后の短歌「春風も沿ひて走らむこの朝(あした)女川(をながは)駅を始発車いでぬ」が、すでに16年1月に発表されていた。宮内庁の発表によれば、天皇夫妻の3月17日の女川での日程は、以下の通りであった。昼食をはさんで、滞在時間はどのくらいだったのだろうか。「ヤマホン」というのは、水産加工会社のようであった。女川の日程の前後には、石巻市で「宮城県水産会館(時間調整のためお立ち寄り・宮城県漁業協同組合東日本大震災犠牲者慰霊碑ご拝礼)」、帰りにも、「時間調整のためお立ちより・宮城県漁業協同組合経営管理委員会会長ご懇談」とあった。「ご聴取」「ご視察」「ご覧」「ご訪問」「ご懇談」との使い分けがあって、なかなかややこしい・・・。

女川町長より復興状況等ご聴取(女川町まちなか交流館)
昼食会ご主催(宮城県知事,県議会議長,女川町長,町議会議長)(女川町まちなか交流館)
ご視察(シーパルピア女川(テナント型商業施設)
ご覧(女川駅)
ご訪問(株式会社ヤマホン、施設概要ご聴取,ご視察)

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産経新聞より。この日の丸は、だれが用意したのだろう。  

  最近、女川町の江島出身の知人Wさんに会う機会があった。女川は「ふるさと」ながら、訪ねるたびに、どんどん変わっていく様を目の当たりにして、やりきれなさというか、女川の記事や映像も拒みたくさえなるという。2万人が暮らして漁業が盛んな町だったが、原発が出来て1万になり、大震災の被害でさらに半減してしまったことにもなると嘆くとしきりであった。「女川に来なくても短歌は作れてしまう」と皇后の短歌の話にも及んだ。

 女川町のもう一つの島、出島(いずしま)のこんな記事を見つけた。

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出島の人口は、大震災後、5分の1の100人になった。2023年には、本土との橋が開通するそうだ。河北新報(2020年7月22日)

関係年表を以下改訂しました。クリックして拡大できます。
冒頭のPDF版もご利用ください。

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2020年8月28日 (金)

女川原発のいま、東日本大震災から9年が過ぎて

 2016年、東日本大震災から5年を経た女川を訪ねることができ、下記のような記事をブログにも載せた。それからすでに4年を経てしまったのだが、女川原発の動向が気になっていた。

連休の前、5年後の被災地へはじめて~盛岡・石巻・女川へ(6)女川原発へ
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/05/5-5cf0.html 
連休の前、5年後の被災地へはじめて~盛岡・石巻・女川へ(7)女川町の選択 http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/05/5-be09.html
(2016年5月14日)

   8月24日の朝刊のいくつかは、女川町に「女川小・中学校(一貫校)」の開校を報じていた。「復興した町で学びの成長を」(東京新聞)、「新校舎に笑い声」(毎日新聞)とある。総工費約56億は復興交付金27億5000万、原発立地地域共生交付金10億8000万、カタールからの寄付金8億7000万などで賄われている。財源の内訳も、調べてみてわかったのだが、その数字を報じる新聞記事は少ない。大震災前には3つの小学校と2つの中学校があったが、被災や世帯の移転で少子化が進み、小学生196人、中学生103人が高台の新校舎で学ぶことになった、と明るく報道した。町の人口は現在約5700人、大震災発生時からはほぼ半減に近い。

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2020年8月24日毎日新聞より

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原子力発電施設立地地域共生交付金交付規則に基づく地域振興計画(宮城県 2016年2月、2019年8月最終変更)file:///C:/Users/Owner/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/TIQWZOHI/752064.pdf

 しかし、その数日前の8月19日、女川町議会特別委員会は女川原発2号機の再稼働推進の4つの陳情を賛成多数で採択、再稼働反対の請願が反対多数で不採択となった。同委員会は全町議会議員から構成されているので、9月の本会議を待たず再稼働が事実上の容認されたことになると報じている。請願、陳情の提出団体とその理由に着目してほしい。請願の提出団体は、原発関係者の輸送や滞在による経済効果とコロナ禍によって低迷した観光業の復旧に期待しているが、安全性への不安が高まる中、一時的な消費や需要が地元の振興につながるのかは曖昧なままである。1984年に運転開始した1号機は、老朽化のためにすでに廃炉が決まっているが、1995年に運転開始した2号機は、大丈夫なのか、素朴な疑問が残る。さらに請願の一つは2008年に3号機のプルサーマル計画が発表されたが、東日本大震災を経て、いまだに計画は棚ざらしに近い状況での2号機再稼働の不安、危険性を表していると思う。

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   同じ日8月19日に、仙台市の「脱原発仙台市民会議」ほか11団体が仙台市長あてに、事故が起きた場合、市民にも危険が及ぶなどとして、県から意見を求められた際、女川原発2号機の再稼働に反対するよう、要望書を提出していることを地元の新聞やテレビ局は報じている。
 それに先立ち、2018年12月には、1号機の度重なる事故を踏まえて、廃炉が決定していたが、今年に入って、2020年2月26日、原子力規制委員会は、2号機の審査で正式に合格したことを発表していたのである。

 東日本大震災後の福島原発事故後は、原発を擁する地元民だけでなく、多くの国民の間で、原発への不信感、原発事故への不安感は、拭いようもなく深刻なものになっている。各地の原発事故や各電力会社の不正や情報の隠匿などが報じられるたびに、市民にとって必要不可欠な電力、電気なだけに、なんとしても、原発促進阻止、廃炉への道筋を念じるばかりであった。一方で、電力の安定供給、エネルギーミックスを標榜する国と電力会社による原発促進政策は、交付金や補助金攻勢によって、過疎地区振興の名のもとに、自治体・議会の原発容認、促進を取り付けるという手法でしかなく、市民との乖離はますます増幅の一途をたどっている。

 かつてのブログ記事でも書いているように、私は、夫とともに、4年前に、女川原発反対運動の中心的な役割を引き継いで来られたAさんに、女川原発の現状や女川の津波被害・復興計画の状況を聞きながら、町内を案内していただいた。いま、ここで、あらためて、女川原発の歩みを振り返ってみると、「日本の原発の作り方」の典型を見るようで、いまも変わらない、国の在り方を見るようで恐ろしくなった。国民の命と財産を守るはすの政府は、真逆の、目前の一部の人間の経済的利益を優先して、負の結果には責任を取らないという構図が見えてくる。 

 年表は、以下の資料と、新聞記事などを参考に作成してみた。太字は女川原発に限った事項である。
(クリックすると拡大されます)
日本の反原発運動略年表(はんげんぱつ新聞)
http://cnic.jp/hangenpatsu/category/intro 
原子力年表(女川町) 
http://www.town.onagawa.miyagi.jp/05_04_04_04.html#1970

 

年表は、改訂しました。以下でも、ご覧になれます。この方が鮮明です。苦労して作成しました。(2020年10月31日)
ダウンロード - onagawagenpatunennpyo.pdf

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   年表を見ていると、原発を擁する自治体やその市民も、同じような苦渋の選択を迫られてきたのではないかとの思いである。初期の段階での選択にあたって、例えば、地権者が土地を売り渡したり、漁民が漁業権を放棄したりするときに、電力会社や行政から十分な情報が開示されず、市民の間でも誤った情報が流布したことも、女川原発反対運動を続けているAさんは指摘していた。壮絶なまでの反対運動を踏まえて、現在も地道な運動を続けている人たちに敬意を表したい。

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原発への道の途中にあった「なくせ!原発」「事故で止めるか みんなで止めるか」、地元女川、牡鹿、雄勝三町の反対期成同盟の立て看板であった。(2016年4月)

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「一番の防災は原発をなくすこと」の文字が読める(2016年4月)

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鳴浜の原発施設を小屋取浜より望む(2016年4月)

  私たちが2016年、女川を訪ねたとき、「震災復興のモデル」のように語られていた女川だった。2015年には完成した新しい女川駅、その駅周辺の商店街シーパルピアも開業したばかりであった。その中には地域の交流館も温泉施設もあった。30分もあれば一回りできる範囲なのだが、建物は新しく、防波堤に遮られず、海へと延びるが街路は美しいのだが、施設の中身となる、私たちのような訪問客、観光客にとって、どれも魅力的なものには思えなかったのである。食事をとろうとしても、少し高めな海鮮丼の店やうどん店などがあり、私たちは迷った末、「わかめうどん」を食するしかなかった。そして周辺は、大規模なかさ上げ工事の真っただ中であったが、4年後の今はどうなっているのだろうか。

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いのちの石碑プロジェクトの一つ、東日本大震災の被害状況が示されていた。10014人であった人口は、今年の6月1日現在(推定)、約5700人というからほぼ半減したことになる

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かさ上げ工事が進む(2016年4月

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高台の医療センターから白い屋根の女川駅をのぞむ(2016年4月)

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2017年11月7日、東京新聞より

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2018年12月15日、毎日新聞より。町の慰霊碑、希望した854人の名が刻まれている

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2019年12月10日 (火)

忘れてはならない12月8日

記憶せよ、十二月八日。
この日世界の歴史あらたまる。
アングロ・サクソンの主権、
この日東亜の陸と海とに否定さる。
否定するものは彼らのジャパン、
眇たる東海の國にして
また神の國なる日本(につぽん)なり。
そを治(しろ)しめたまふ明津御神なり。(後略)
―昭和十六年十二月十日―

 「十二月八日」と題する高村光太郎の詩である。初出は、『婦人朝日』1942 年1月号であった。詩集『大いなる日に』(道統社 1942年6月、第二刷3000部、初版1942年4月)に収められているが、「十二月十日」は作詩の月日で、真珠湾攻撃の二日後に作られたことがわかる。

 一昨日12月8日は、「真珠湾攻撃、太平洋戦争開戦」の日、78年目の日だった。一部のテレビニュースでは、ハワイでの戦没者2400人の追悼式が行われ、生き残りの兵士の参列が数少なくなったと報じていた。日本の新聞では、12月8日の、いわばサイドストーリーのように、「朝日新聞」(12月8日)は「ペリリュー島<最後の生還者>遺言」、『毎日新聞』(12月3日)、『朝日新聞』〈12月8日〉の千葉版では、船橋市の行田の海軍無線電信所の歴史を記した労作「行田無線史」と著者の郷土史家滝口昭二さん(82)の紹介記事が掲載されていた。行田無線電信所から真珠湾攻撃を命じた暗号電文「ニイタカヤマノボレ 一二〇八」から発信されていたという記事が目についた程度だった。

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『読売新聞』(2018年8月7日)より、18年7月撮影の行田無線電信所跡の現在。上の奥の楕円形のグランドは中山競馬場。私たち家族は、名古屋から千葉に転居した時、この円形の電信所跡の左上の扇形部分に建ち並ぶ公務員宿舎に半年ほど暮らしていた、懐かしい場所。
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1971年当時は無線塔がたっていたらしい (船橋市資料視聴覚センター)

 

 日本でも、太平洋戦争開戦の日は、忘れてはならない大事な日であるはずだ。この日を境に、日本軍はアジア解放のためにと標榜しながら、戦局は拡大し、日本軍の兵士はもちろんアジア各地で多くの犠牲者を出し続けた。各地での敗退が続くなか、政府は、メディアや文化人を総動員して、国民の戦意を高揚、多くの犠牲を強いた。そんな中で、高村光太郎も、従軍作家や従軍画家に先んじるかのように、戦争詩を発表し続けた。

五月二十九日の事

もとより武士(もののふ)のあはれを知らぬ彼らの眼には
ただ日本軍全滅すとのみ映じたのだ。
皇軍二千餘人悉く北洋の孤島に戦死す。
この悲愴の事実に直面して
その神の如き武人の心にわれら哭く(後略)

 光太郎自身の詞書によれば「昭和十八年六月一日作。五月卅日十七時の大本営発表によりのアツツ島守備部隊の全員玉砕を知る。(後略)」とあり、6月3日夜のNHKラジオ放送の特集番組「アツツ島の勇士に感謝し戦争完遂を誓ふ」において、朗読され、後の詩集『記録』I(龍星閣1944年3月初版 10,000部)に収められている。

 すでに1944年から始まっていた東京空襲、1945年3月10日に続く4月13・14日の大規模空襲で、光太郎自身のアトリエも焼失するのだ、その間の4月1日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸した即日4月1日に作った詩を4月2日の『朝日新聞』に発表している。この即応性と器用さが多くのメディアに重用され、政府のプロパガンダに徹したのである。

 さらに、1945年8月15日の敗戦の玉音放送を、疎開先で聞いた光太郎は、8月16日午前中に作り、翌日の『朝日新聞』に「一億の號泣」を発表しているのである。まさに、この早業に脱帽するばかりである。

一億の號泣

綸言一たび出でて一億號泣す。
昭和二十年八月十五日正午、
われ岩手花巻町の鎮守
鳥(と)谷崎(やがさき)神社社務所の畳に両手をつきて
天上はるかに流れ來(きた)る
玉音(ぎょくいん)の低きとどろきに五體をうたる
五體わななきとどめあへず
玉音ひびき終りて又音なし
この時無聲の號泣國土に起り
普天の一億ひとしく
究極に向つてひれ伏せるを知る(後略)

(1945年8月16日作『朝日新聞』『岩手日報』1945年8月17日)

 その後、疎開先から東京に戻ることなく山小屋生活を続け、「暗愚小傳」という20篇の詩作品を発表(『展望』1947年7月)し、「わが詩をよみて人死に就けり」と題する詩を書き、戦時下の活動を「自省」したという。しかし、光太郎の晩年の詩を通読して思うのは、いわゆる新聞の元旦号、雑誌の新年号を飾る「新しい年を祝う」「めでたい」作品が並ぶことだった。そしてそこに散見する「原子力の未来への期待」であったのだ。1955年1月1日『読売新聞』に発表された「新しい天の火」では、つぎのように歌い上げる。

新しい天の火

(前略)
ノアの洪水に生き残つた人間の末よ、
人類は原子力による自滅を脱し、
むしろ原子力による万物生々に向へ。
新年初頭の雲間にひかる
この原始爆発大火団の万能を捕へよ。
その光いまこのドームに注ぐ。
新しい天の火の如きもの
この議事堂を打て。
清められた新しき力ここにとどろけ。

1956年1月1日『読売新聞』に発表された最晩年の作品「生命の大河」には、こんな一連がある。

科学は後退をゆるさない。
科学は危険に突入する。
科学は危険をのりこえる。
放射能の故にうしろを向かない。
放射能の克服と
放射能の善用とに
科学は万全をかける。
原子力の解放は
やがて人類の一切を変へ
想像しがたい生活図の世紀が来る。

 

 この発表の直前12月16日には原子力基本法など関連三法が成立し、まさに新年の1月1日に施行、発足した原子力委員会の初代委員長が読売新聞の正力松太郎であったのである。この間の事情は、当ブログの以下を参照いただけたらと思う。

あらためて、髙村光太郎を読んでみた(8)晩年の「新しい天の火」
(2019年9月25日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/09/post-1f9939.html

 12月8日から、つい話は飛んでしまったが、高村光太郎の『智恵子抄』と表裏一帯をなす戦争詩を知ることによって、文芸の国家権力からの自立の重要さを知ることにもなるのではないか、の思いに至るのだった。

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2019年3月12日 (火)

改元奉祝のなかで、「天皇依存」の系譜(2)そして、歌人たち

天皇が原発をやめよと言い給う日を思いおり思いて恥じぬ(吉川宏志)
 『短歌』201110月 『燕麦』2012年所収)

   東日本大震災による原発事故の直後に、吉川宏志が発表した作品である。当時、結句の「恥じぬ」の解釈をめぐって、若干の論議が交わされた。「ぬ」は完了なのか、「打消し」なのか、つまり「恥じた」のか「恥じない」のかどちらなのかと。私は、それまでの吉川の作品や発言から当然、「恥じた」として読んだ。「打消し」なら「恥じず」とするのが自然だからとも思った。作者は、もちろん「完了」の方だと明言し、近年の平井弘とのインタビューの中で、吉川自身、この一首について、つぎのようにも語っている。

「天皇に『原発をやめよ』と言ってもらおう、という発想自体に、天皇を利用しようという心根があるわけでしょう。それが恥ずかしい、という歌なんですよ。ただ、今の状勢を見てたら、天皇が言ってもだめかもしれないですね。今の政権は、天皇の意志なんてまったく無視しているわけでしょう。」(特集 平井弘インタビュー「恥ずかしさの文体」(後編)『塔』2017年4月) 

   また別の場所で、吉川は、国旗国歌法(1999813日に公布・施行)が成立したころは「〈天皇制〉を厳しく否定する論調が、歌壇では特に強かった」という認識で、当時の歌壇、時代の空気を思い起こしながら、つぎのように記す。 

 戦争体験などをして、非常に嫌悪感をもっている人たちが存在することもよく理解している。そういった人たちが、反対するのもよくわかる気がする。けれども、「君が代を歌わない権利」がある一方、「君が代を歌う権利」があることも明らかだろう。だから、卒業式などで歌うことを強制することには反対だけれど、逆にあまりに過剰に君が代を否定することにも違和感をもつ。君が代をたまに歌ったくらいで、異常な国家主義者になるわけでもない。君が代を肯定する善男善女は、世の中に無数にいるだろう。現在では、非常に激しく君が代を非難する態度も、社会的にあまり共感されないのではないだろうか。

 左翼的な人々(の一部)は、現実の天皇制を廃止すれば良いのだ、と考えた。しかし、そうではなくて、権力と責任の存在が曖昧なシステムそれ自体に、危険性は存在していた。おそらく、現実の天皇制を批判しても、何も変わらない。
 
むしろ、今年の天皇陛下の年頭のお言葉「東日本大震災から2度目の冬が巡ってきました。放射能汚染によりかつて住んでいた地域に戻れない人々や,仮設住宅で厳しい冬を過ごさざるを得ない人々など,年頭に当たって,被災者のことが,改めて深く案じられます。」
 
を聞くと、原発事故を忘れてしまったかのような、現在の首相や政府の発言よりも、ずっと心に沁みてくる。
 
 いろいろな意見はあると思うが、私は、単純に天皇制は悪だとは考えない立場である。
 (①②とも「短歌と天皇制について」『シュガークイン日録3』20130122日) 

  「国旗国歌法」の条文には、強制、義務化の文言はない。当時の小渕首相はじめ、議会の質疑でも、強制・義務化はない、としてスタートした。その後の経緯は、どうだろう。教育現場では、学習指導要領で縛り、職務命令という形で、「君が代」斉唱時の不起立、ピアノ伴奏拒否などにより受けた処分や不利益は、教師たちの思想信条の自由を侵すものではないか、との訴訟で各所でなされた。管理者の裁量の範囲内であり違憲とは言えない、という判断が定着しつつある中、処分が重すぎるという判決もあったが、まだ係争中のケースもある。吉川は、①において、「強制することには反対だけれど」などと、天皇みたいなことを言う。「君が代をたまに歌ったくらいで、異常な国家主義者になるわけでもない。君が代を肯定する善男善女は、世の中に無数にいるだろう。」とは、どういうことか。統制や弾圧は、些細なことから始まり、それによる萎縮や自主規制が強まり、息苦しくなって、気づいたときは、すでに抵抗の手段を奪われていたという歴史を、私たちは教えられたり、学んできたりしたと思う。

 

 政治の世界に限らず、時代はすでに、数の力で、少数派や異論を無視し、排除する構図が出来上がりつつある。「寛容」や「多様性」の旗を掲げるならば、日常的な談論風発、百家争鳴、混沌こそが、民主主義の基本ではなかったか、とも思う。自分と異なる意見が多数を占め、数の力が及ばないとき、「面従腹背」と言ってしまうのか。吉川のように「天皇を利用しようとする心根」を「恥じた」のならば、いまは“リベラルで、いい人”の天皇を持ち出すのは、フェアでない。②で言うように「権力と責任の存在が曖昧なシステムそれ自体に、危険性は存在していた。」とするならば、その「曖昧なシステム」に「天皇制」が寄与していなかったかを検証する必要もあるだろう。

 「単純に天皇制は悪だとは考えない立場」をとるのは自由だが、その「危険性」に本気で向き合おうとするとき、「現実の天皇制を批判しても、何も変わらない。」とするのは、いささか「単純」すぎないか。

  たまたま、吉川は、自分の意見を表明しているが、天皇依存の歌人も多いのではないか。逆に、天皇の短歌や「おことば」が、過大に評価され、利用されているのを憂慮している歌人もいるのではないか。いまこそ、この「改元」の奉祝ムードの只中でこそ、大いに声を上げるべきだろう。

24img111 レイアウトは異なるが、2019年2月24日朝刊各紙に掲載された政府広報

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商魂たくましい、広告の数々・・・。上が「朝日新聞」2月24日朝刊、下が同紙2月25日朝刊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2017年5月 1日 (月)

ほんとに、何から言い出していいのかわからないほど(2)政治家の「失言」ではない「虚言」

 政治家の「ウソ」は「失言」ではあり得ず、確信犯的な「虚言」といっていい。政策や公約に沿った形での発言が多いので見破りにくい。それだけに、本音の「失言」よりもたちが悪い上、国や国民へ影響大ながら、責任追及が難しい。国民が、有権者がよほどしっかりしなければならない。

 私がふだん、「ウソばっかり!」と思わず叫んでしまう、いくつかを紹介してみよう。自分の薄れた記憶をよみがえらせ、少し調べてみた結果でもある。

 

「東北の復興なくして、日本の再生なし」とは

 

 東日本大震災後5年を経た、このときの記者会見では、「東北の復興なくして、日本の再生なし」としめくくった。首相は、被災地に30回以上も訪ねたと、前置きして、次のようにも述べている。

「3年前に訪れた時、見渡す限りの更地であった、宮城県の女川町の中心地は、先月、その景色を一変させていました。地域の皆さんの<足>であるJR石巻線が復旧し、木の温もりを感じる新しい駅舎の前には、電気屋さん、青果店、フラワーショップ。素敵な商店街が完成し、たくさんの人たちで賑わっていました。 政権交代した3年前、計画すらなかった高台移転は、ほぼ全ての事業が着工し、この春には、全体の4分の3の地区で造成が完了します。ほぼ全ての漁港が復旧します。7割を超える農地が作付可能となり、9割近い水産加工施設が再開を果たしました。」

 ここでも、「政権交代した3年前、計画すらなかった」と前政権の批判を欠かさないなか、女川町の復興に言及している。同じ年の20164月に私も、女川を訪ねている。町会議員のAさんに女川原発と町内を案内していただいた。町の中心地であった場所に新しい女川駅舎と商業施設がオープンして間もなかったのである。首相は、賑わいを強調するが、私たちが訪ねたのは、大型連休の初めで、イベントの開催中であったが、閉店中の店もあり、地元の人が日常の買い物をするような場所でもなく、観光客で賑わっているという風でもなかった。ランチをと思っても、ワカメうどんの店かマグロ丼かがメインの店しかなかった。

 航空写真を見ても分かるように、安倍首相は、鳥の眼も虫の目も持ち合わせていないのだろう。女川駅舎の北の高台、町立病院から見おろせるのは、かさ上げ工事真っ最中であって、下の写真のように、造成地の形がまだ見えなかった。飛び地のような商業施設、工場やその他の施設と復興住宅が道路と結ばれても、まさに点と線の「まちづくり」となってしまわないか、の危惧が去らない。Aさん家族も、まだ病院近くの仮設住宅に住んでいるとのことだった。 「復興のトップランナー」と言われた女川町、Aさんは、これまでの5年間は、何とか頑張れたが、これからの5年が大変だろうとも語っていた。

 

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(左)地盤をかさ上げし、約200m内陸に移設されたJR女川駅(左下)。駅前には遊歩道が海に向かって延び、両側には商業施設が並ぶ。昨年末に開業した=2016年2月19日、本社へリから喜屋武真之介撮影。(右)津波で街が流された旧JR女川駅(右)周辺2011年3月19日、撮影。 

 宮城県女川町では、住宅約4400棟のうち約2900棟が全壊し、死者・行方不明者は872人(震災関連死含む)に上った。震災前に1万人余だった人口は7000人を割った。2017年度までに864戸の災害公営住宅(復興住宅)を整備する計画だが、完成したのは3割の258戸。=毎日新聞2016310日から=

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女川町立病院の在る高台から見た海側と山側のかさ上げ工事。町立病院の脇にも
いくつかの慰霊碑があったが、下の写真の道路脇にも見える=2016年4月29日、筆者撮影。撮影時からちょうど一年、どれほど進捗しているだろうか

 

 今回の今村前復興相の「東北でよかった」発言は、自主避難者への借り上げ住宅の無償提供の打ち切り方針に対して、「故郷を捨てるのは簡単だ」(2017312NHK日曜討論)、「福島原発事故による自主避難者が帰還できないのは自己責任」(前記事参照、44日記者会見)の発言に続くもので、安倍内閣の原発事故の国や東電の責任を認めようとしない、被災者切り捨て、復興予算を残してしまうという「復興政策」の破たんを体現する発言であって、「東北の復興なくして、日本の再生なし」「東北の復興が最優先課題」などのキャッチフレーズは、もはや裏付けを失っているのだ。  

 

「世界で最も厳しい水準の安全規制」とは

 原発の安全性について、安倍首相が「世界で最も厳しいレベルの新規制基準」「世界で最も厳しい水準の規制基準」と胸を張って答弁するのを何度見てきたことか。20129月、田中委員長を含む5人の委員による原子力規制委員会が立ち上げられ、新規制基準は、2013619日決定、78日に施行された。2014124日第186回国会施政方針演説で、安倍首相は「世界で最も厳しい水準の安全規制を満たさない限り、原発の再稼働はありません」と宣言し、同年4月11日の閣議決定「エネルギー基本計画」において、「原子力発電所の安全性については、原子力規制委員会の専門的な判断に委ね、原子力規制委員会により世界で最も厳しい水準の規制基準に適合すると認められた場合には、その判断を尊重し原子力発電所の再稼働を進める。その際、国も前面に立ち、立地自治体等関係者の理解と協力を得るよう、取り組む」として以来、様々な場面で、その真偽が質されることになる。日本の原発の安全性、新基準による再稼働の安全性については、日々、その説得力を失いつつあるのが現実であろう。

 例えば、菅直人元首相は、2014416日に提出した「エネルギー基本計画に関する質問主意書」で、「世界で最も厳しい水準の規制基準」という根拠は何か、を問うたところ、政府答弁書(2014425日)では、つぎのようにいう。

「(新規制基準は)国際原子力機関や諸外国の規制基準を参考にしながら、我が国の自然条件の厳しさ等も勘案し、地震や津波への対策の強化やシビアアクシデント対策の導入を図った上で、世界最高水準の基準となるよう策定したものである。

 なお、新規制基準においては、事業者が満足しなければならない性能の水準を定めており、これを実現する方法の詳細についてあらかじめ指定しておらず、国際的にも、原子力に係る規制基準においては、性能基準を規定していると承知している。

 この答弁に見るよう、「世界最高水準の基準となるよう」策定したにすぎず、水準をクリアする具体的な方法は、事業者任せとしか読めない。

 また、201472日、原子力規制委員会田中委員長は、記者会見で、つぎのようにも述べる。「最高水準にあるというのは、様々な、いわゆる重大事故対策について我が国の場合は特に外的な要因、自然条件が厳しいということを含めて、そういうものに対する対応というのは相当厳しいものを求めているということから最高水準であるということ」、そして、「世界最高水準とか世界最高とかいうのは、やや政治的というか言葉の問題なので、具体的ではなく、今、私どもが求めているのは適合性」でしかなく、適合したからと言って「安全性」を担保するわけではないとの発言は、幾度となく繰り返されている。

 また、20141021日参議院内閣委員会での山本太郎議員の「日本の原発は世界で最も厳しい安全基準といえるか」の質問に、田中委員長はつぎのようにも答えている。

 「政府特別補佐人(田中俊一君) 正確に申し上げますと、世界で最も厳しい基準とは言っていなくて、最も厳しいレベルの基準と言っているんです。ですから、そこのところは間違えないようにしていただきたいと思います。」やはり、山本議員の質問主意書への答弁(2014年11月25日)の中で、つぎのように明言しているのである。「世界最高水準の基準となるよう策定したものであるが、必ずしも最も厳しい基準であることを意味するものではない」と。

 

以上のことからも、日本では、「世界で最も厳しい規制基準によって、原発の安全性は確保されているわけでない」ことは明白になった。それでは、その安全性に責任を持つのは、原子力規制委員会の「専門家」の委員なのか、その専門性を「尊重」する政府なのか。少なくとも、安倍首相の「世界で最も厳しい水準の安全規制」は、少なくとも現実を正しく伝えてはいない。騙される国民が悪いのか。

かつてテレ朝の「報道ステーション」で、「世界一厳しい規制基準なのか」を問うた番組(2014725日)を見たことを思い出し、薄れた記憶と紹介記事でたどってみた。すると、先の記者会見の速記録や議員の質問書への政府答弁やの国会質疑の答弁とも重なる。

 その日の報道ステーションは、フィンランドのオルキルオト原発とそれに併設されたオンカロなどの取材に基づき、日本の新しい規制基準とを比較している。

フィンランドの岩盤の強固さと地震国日本との違い、そして、地下450mのオンカロの併設、日本では、使用済み核燃料、汚染水・汚染土などの中間処分場、最終処分場が確保されてないことを前提にしての比較である。①原子炉の二重の格納設備②フィルターベント(圧力を下げ、放射の物質を除く)③メルトダウン対策としてのコアキャッチャー、の有無が指摘された。 

 ①は、テロ対策にも備えることにもなっている。③は、原子炉創設時には可能だが、現存の原子炉に備えるのは困難であり、原子力規制委員会の田中委員長は、コアキャッチャはーは、「広げて冷却する装置なので、、事故後の時間稼ぎ」程度にしかならないとしばしば明言している。

 以上は、私なりのまとめなので、参考資料と合わせお読みいただきたい。と同時に、フィンランドのように、いかに厳しい規制基準のもと「夢の原子炉」への道を歩み始めたものの、その過程でいくつかのトラブルに見舞われ、その工事を受注していた、フランス原子炉メーカー「アレバ」自体が、倒産の危機に直面し、大幅な工期の遅れが生じてもいるのも現実である。原発に関しては、世界一厳しい規制基準などあり得ないことを知るのであった。

 首相や政府は、原子力規制委員会が「世界で最も厳しい水準の規制基準を目指して」策定した基準に適合したことを以って、原発再稼働の安全性を担保してないことは、明らかなのだ。「だれも世界一厳しい安全基準なんて、言った覚えはないよ、世界で最も厳しい水準を目指して策定した基準に過ぎないんだから」と、すでに開き直っているようなものではないか。

 

 また原発事故関連の政治家の「虚言」で忘れてはならないのは、20139月、東京オリンピック招致のプレゼンテーションでの安部首相の福島原発事故による汚染水はコント―ロル下に置かれている、「アンダーコントロール」されているとの発言であった。ちなみに、そのプレゼン直前にの94日の東京オリンピック招致委員会の竹田理事長が、汚染水問題で集中質問を浴びたブェノスアイレスでの記者会見で、「福島は東京から250キロ以上も離れている。東京は安全であり問題がない」と答え、当時も福島県民の顰蹙をかっていたことを思い出す。これらの発言については、本ブログでも記事にしたことがあるので、合わせてご覧いただければと思う。

 

 

〇これでいいのか、2020東京オリンピック(201399日) 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/09/2020-d1d1.html

〇オリンピック東京招致はいいことなのか(201397日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/09/post-77a7.html

 

参考

〇報道ステーションの紹介記事

http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-3843.html

http://saigaijyouhou.com/blog-entry-3302.html

〇原子力規制委員会の記者会見速記録

file:///C:/Users/Owner/Desktop/000068790201472日原子力規制委員会記者会見.pdf

〇山本太郎ホームページ

https://www.taro-yamamoto.jp/national-diet/3816

山本太郎質問主意書への20141125日の答弁http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/187/touh/t187083.htm

安全な原発は夢か 仏アレバの新型炉建設が難航  (安西巧)
2015/1/26 7:00 日本経済新聞 電子版版http://www.nikkei.com/article/DGXMZO82205990R20C15A1000000/

〇経営崖っぷち 仏原発アレバ
2017年3月7日 東京新聞

ttps://silmarilnecktie.wordpress.com/2017/03/07/37%E7%B5%8C%E5%96%B6%E5%B4%96%E3%81%A3%E3%81%B7%E3%81%A1%E3%80%80%E4%BB%8F%E5%8E%9F%E7%99%BA%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%90-%E7%B4%AF%E7%A9%8D%E8%B5%A4%E5%AD%97%EF%BC%91%E5%85%86%E5%86%86%E8%B6%85/

 

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各地のプロジェクトで、工期の大幅な遅れが繰り返されている。
=日本経済新聞電子版2015126日より=


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 仏原子力大手アレバ、16年は最終赤字が縮小:3月1日、経営再建中のフランスの原子力大手アレバが発表した2016年決算は、最終赤字が6億6500万ユーロ(7億0200万ドル)で、15年の20億4000万ユーロ、14年の48億3000万ユーロから縮小した。写真はロゴ、パリ近郊で2015年5月撮影(2017年 ロイター/Charles Platiau)=2017 3 1日 ダイヤモンドオンラインhttp://diamond.jp/articles/-/119879

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年7月30日 (土)

「時代」の所為(せい)にはするな~私の歌壇時評

以下もやや旧聞に属することになってしまったが、5月中旬締め切りで、歌誌『ポトナム』に寄せた時評である。

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2015927日、緊急シンポジウム「時代の危機に抵抗する短歌」(同実行委員会主催)が京都で、同年126日、緊急シンポ「時代の危機と向き合う短歌」(強権に確執を醸す歌人の会主催、現代歌人協会・日本歌人クラブ後援)が東京で開催された。「時代の危機」という言葉もあいまいながら、どちらにも参加できず、隔靴掻痒の感はぬぐえないが、その感想を記録にとどめておきたい。

京都での呼びかけ人、吉川宏志は「安保法制など、憲法を揺るがす事態が起こっている現在、私たちは何をどのように歌っていくのか。近現代の短歌史を踏まえつつ、言葉の危機に抵抗する表現について考えます」と訴え、表題の「時代の危機」は「言葉の危機」に置き換えられていた。京都での三枝昻之は、戦中戦後の短歌雑誌に対する検閲にかかわり、歌人みずからの自己規制の危うさを語り、永田和宏は、最近の政治家の失言を例に、脅迫的な暴言を繰り返す危険な言葉遣いを指摘、歌人は危機感をもっと率直に表明することの大切さを語った、と総括する(吉川宏志「時代の危機に抵抗する短歌~緊急シンポジウムを終えて」『現代短歌新聞』201511月)。

東京では、永田が「危うい時代の危うい言葉」と題して、民衆の表現の自由が民主主義の根幹ながら、その言葉が様々な手段で奪われようとしている危機を語り、レジメには、「権力にはきつと容易く屈するだらう弱きわれゆゑいま発言す」などの短歌が記された。今野寿美は「時代の中の反語」と題して与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」を例に時代状況の中で曲解・悪用されてきた事実を指摘、表現者のとして自覚の重要性を説いた。予告にあった佐佐木幸綱の「提言」は、本人が風邪のため中止になったらしい。

東京での呼び掛け人であった三枝は、シンポの表題を京都のそれと比べ、「時代の危機と向き合う・・・」として、「ソフト」にしたのだといい、シンポの主題は、「安保法案の是非ではなく、政治の言葉の是非」であると、繰り返し述べている(「2015126日シンポジウムを振りかえる」(『現代短歌』20163月)。

二つの集会のキーマンである吉川、永田、三枝の三者は共通して、「時代の危機」というよりは「言葉の危機」を強調したかったのではなかったか。「時代の危機」を前提にしながらも、あえて「言葉の危機」「政治の言葉」に置き換えたことは、見逃してはならないと思う。「安保の是非」は横に置いておいて、歌人は「言葉の危機」にどう対応するかの念押しに、参加者の多くは、やや肩透かしを食らった気がしたのではないか。

東京の集会に参加した石川幸雄は、永田の「投獄されて死んでゆくのは犬死だ」と怯える姿を目の当たりにした後、「ここで 登壇者の内三名(三枝、永田、今野)が宮中歌会始めの選者であることに気づいた」と記す(「カナリアはいま卒倒するか」『蓮』20163月)。岩田亨は、永田は「怖い」を連発していたが、何がそんなに「怖い」のか、「<NHK短歌>や新聞歌壇の選者から降ろされるのがこわいのか。考えて見ると歌人の地位を失うのがこわいらしい」と、三枝については「『昭和短歌の精神史』は戦中の歌人の戦争責任を不問に付し」た「歴史観が今日の状況を作ったのではないか」と報告している(ブログ「岩田亨の短歌工房」2015128日)。私には、壇上の歌人たちが時代に「異議を申し立てた」という「証拠」を残すために、こうした発言の場を設けたように思われた。一過性で終わることのない本気度を見せてほしいと思った。近く記録集(*注)が出るというので、若い人たちの討論の内容も確かめたいと思う。(『ポトナム』20167月号所収)

*注 『(シンポジウム記録集) 時代の危機と向き合う短歌~原発問題・特定秘密保護法・安保法制までの流れ』(三枝昻之・吉川宏志共編 青磁社 2016年5月8日)の書名で刊行された。

 

 

 

 

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2016年5月14日 (土)

連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(7)女川町の選択

 

女川の戦死者に

PR館から戻る途中、魚雷回天の基地だったというのが気になり、停めていただいた。そこは、2010年まで、女川第六小学校と第四中学校の在った場所で、学校はかつての海軍の回天魚雷などの基地があったところに建てられた。Aさんも昔、お年寄りから聞いたことがあるとのことであった。帰宅後少し調べてみると、『女川町誌』(1960年、続編1991年)にも記述があるそうだ。

日本海軍は、連合軍の本土上陸に備え、小型舟艇の基地を太平洋沿岸に造ることを計画していた。小型舟艇とは、10人乗りの潜水艇咬龍、2人乗りの潜水艇海龍、1人乗りの人間魚雷の回天、1人乗りのモーターボートの震洋、そういえば、昨秋訪ねた霞ケ浦の予科練平和記念館でも聞いたことがある。牡鹿半島一帯には第七突撃戦隊に所属する第一四突撃隊(嵐部隊)が配され、本部が、ここに置かれていたというのである。当初、各種の小型舟艇が配備される予定であったそうだ。敗戦時は、「大浜」「天草」など5隻と海龍12隻と隊員600人規模であったが、海龍を隠すための壕が、車でも通過した飯子浜(いいごはま)などに、いまも残されているそうだ。そして、1945710日の仙台空襲に続いて、8月の9日・10日の女川空襲では、その軍用船や舟艇が、石巻の中瀬の村上造船所とともに狙われた。女川では、防衛隊だけでも157名(「女川湾戦没者慰霊塔」1966年、木村主税町長による撰文)と合わせると200名近い死者が出ていることも知った。

 

 

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女川防衛隊本部が小学校・中学校となり、町の人口減少に伴い、2010年、女川第六小学校と第四中学校が閉校となり、立派な二つの閉校記念碑が建てられていた。

 

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「ゆたかな心光る汗」の標語の看板が残る



女川の津波被害の犠牲者へ

女川駅に戻って、少し高台の地域医療センターまでのぼると、駅前のかさ上げ工事が一望できる。山を崩し、町全体を7mかさ上げし、高い防潮堤は、海の町としてはむしろ不要であくまで「海の見える町」にこだわった町民の選択だったという。女川町・都市再生機構・鹿島による一大復興プロジェクトである。三月一一日には、この小高い病院にも津波が押し寄せ、玄関には、ここまで達したという赤い線が表示されていた。1階部分のほぼ天井までと見ていいのだろう。だから、地震直後の対応で、1階で働いていた人や患者さんが間に合わず被害に遇われている。慰霊碑にお参りし、一回りすると、この復興計画の途方もなさが思われた。議会を前にながい時間をかけて、ご案内いただいたAさんが最後におっしゃる、原発に頼らない、町民の取り組みによる、ほんとうの復興、復興の先にある不安と期待、被災地はどこも、とくに女川は原発を抱え、さらに困難な再生の過程のほんの一部を実感するのだった。

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地域医療センターの玄関の柱に表示された津波の高さ

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町全体7mのかさ上げ工事

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病院での犠牲者慰霊碑から望む



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いのちの石碑プロジェクト、後世につなぐために。人口10014人、死亡・行方不明者827人総家屋数4411棟の内、全壊2924棟・・・。

 

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中央の白い翼のような屋根が新女川駅

 

石巻でも聞いていた、新しい商業施設「シーパルピア女川」が駅から海までの一直線で、そこだけが妙に浮き上がって明るい感じの一画になっている。周辺はすべて工事中なのである。祝日でもあったので、民族舞踊のフェステイバルのようなものが開かれ、あたりには大音響が響く。ランチが気軽に楽しめる店がないね、旅行者の気ままさで「ワカメうどん」を食するのであった。

三泊四日の陸奥の旅も終わりに近づいた。

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石巻線終点、海の見える駅、女川

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万石浦にしばらく沿って石巻に向かう

 

 

 

 

 

 

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連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(6)女川原発へ

朝の教会

石巻二日目の朝、朝食前に散歩と相成った。前日、食堂「まるか」で出会った人の言っていた、古い教会はすぐ近くだった。「ハリストス正教会」はあった。掲示板によれば、東京駿河台のニコライ堂と、その宗旨一にする教会で、この地には1880年聖使徒イオアン聖堂として建てられたが、1978年の宮城沖地震で被害を受け、新聖堂に建て替えられた。その際、旧聖堂は石巻市に寄贈され、現在石ノ森萬画館のある中州の中瀬公園内に移築し、日本最古の木造教会建築として保存されていた。ところが2011年の津波により、2階まで冠水し、流出こそしなかったが、崩壊したのを受けて、解体、再建することになったという。この教会の二度の津波被害、ロシア正教会の歴史に思いは至り、信者たちの気持ちは複雑だろう、と。

 

 

 

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1978年宮城沖地震後の1980年に新築された

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旧教会堂は、中瀬公園に移築再建されたが、2011年3月11日直後の惨状

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中瀬公園の旧ハリストス正教会解体の模様、復元へ

女川原子力発電所へ

  きょうは、女川、955分着。かねてより、知人にご紹介いただいていた地元のAさんと待ち合わせ、初対面である。Aさんは、父親とともに原発反対、脱原発、廃炉を掲げて活動してこられた方である。乗車するなり、「役場は、ヨウ素剤を配り始めました」と言うのがAさんの第一声だった。まずは原発の見えるところまでと、車を走らせる。女川駅からは直線距離で8キロ余だが、41号線は、海岸に沿ったり離れたりしながら、進んだ。途中、小乗(このり)浜などの仮設住宅、大がかりな高白浜と横浦とのトンネル工事の現場を過ぎ、まだ、ブイが木々の枝の先に引かかったままだったり、野々浜では、むかし回天魚雷の基地の宿舎が小中学校となり、いまは廃校のままになっているところだったりを通過する。また、Aさんのお父さんが建てたという「原発反対」の立て看板が2か所あった。だいぶ古くなっていて、運動の歴史を物語るものだろう。昨年の世界防災会議参加者の数人もこの立て看板に注目したという。原子力発電所の全景が見えるところと言えば、ここしかないと降ろしてくださったのが、小屋取の浜だった。向かいの原発の建つ浜「鳴浜」は「ならはま」と呼ばれ、女川では鳴り砂が一番美しい浜だったそうだ。いまは、29mの防潮堤を建設、再稼働に備えている。小屋取の海の正面には山王島という小さな親子島がある。そばの定点観測の鉄塔とともに津波に襲われたという。女川湾には、11の集落と浜があり、復興案の一つとして集約しようという計画もあったらしいが、まとまらなかったという。そこから少し戻った塚浜には、原発のPRセンターがある。東北電力の原発用地買収当時、塚浜の漁師たちは、2500万円で漁業権を放棄したという。それも、個別の交渉が秘密裏の裡に行われ、原発自体に最後まで反対していた地主が突如寝返ったりした経緯もあったそうだ。一号機運転開始1984年、三号機が2002年という、そんな悔しさをAさん親子は味わったらしい。

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終点、女川駅下車、瓦礫の中のホーム

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「なくせ!原発~事故で止めるか、みんなで止めるか」

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小屋取から女川原発全景

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山王島

女川原子力発電所PR館へ

 私はこの種の施設は初めてだった。想定内のPRぶりであったが、東京電力の福島原発と比較して、東北電力の女川原発は、いかに大震災に耐えたかの成功のストーリーが出来上がっているようだった。しかし、PR館配置資料 『そのとき女川は~東日本大震災に耐えた原子力発電所』(東北エネルギー懇談会編刊 20144月)をよくよく読んだり、展示を見たりすると、2号機建屋の海水浸水や1号機重油タンクの倒壊という危機にさらされていたのである。津波被害を免れたと言っても、海抜14.8mの敷地が、地震のため1m地盤沈下したところに13mの津波が襲ったので、あと0.8mの余裕しかなかったことになり、事故とならなかったのは偶然に近かったのではないか。にもかかわらず、311当日、津波警報を聞いた地元民が、PR館に幾人か避難してくると、地域への貢献とばかりに受け入れた上、電気や非常時の備えなどから原発内の方が適切との判断で、原発内の体育館で受け入れることになったという。通勤用バスやヘリコプターなども動員、近隣からの避難住民を積極的に受け入れたという。このことが、いかにも美談のように流布されたらしい。現実には、1号機では高圧電源盤で火災が発生、2台の非常用ディーゼル発電機のうち1台が使用不能に。2号機は、配管通路から海水が浸入し、建屋地下部分にある熱交換器室が一時、深さ約25mまで浸水した。発電機も故障した。体育館では、周辺集落から最大360人が避難生活を送った。Aさんは、必ずしも安全でない原発内に3カ月も避難住民を留めたことに疑問を持っていた。

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受付では、ゴーヤの種と「東北電力女川原子力発電所」の「潮位時刻付きカレンダー」とパンフレット類が渡される。干潮・満潮の時刻がわかるというカレンダー、よく考えると「怖い!」

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左から、1号機2号機3号機と並ぶ。PRセンターが左上に、2本の送電塔の右に体育館が見える。ここが避難所になっていた。『そのとき女川は~東日本大震災に耐えた原子力発電所』から作成

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こんなパネルも

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電気事業連合会のパンフも入ってました。どこかで見たことのある人たち、こんなところで一役?かっていたんですね

 

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2016年5月12日 (木)

連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(5)パン工房「パオ」と食堂「まるか」

石巻市復興まちづくり情報交流館

ガイドのTさんが最後に案内してくださったのが、「石巻市復興まちづくり情報交流館(中央館)」だった。被災の状況、復興の様子などがコンパクトにまとめられている展示室で、石巻に20数年住んでいるイギリス人のリチャードさんが館長さんを務めている。昨年3月仙台市で国連世界防災会議が開かれたが、その開催直前にオープンしたらしい。交流のためのスペースも用意されているが、どのくらい活用されているのだろうか。ちょっと中途半端な気がしないでもなく、どうも役所臭が抜け切れてないような、そんな印象ではあった。


食堂「まるか」

身体は冷えて、靴も靴下もビショビショ、一度ホテルに戻って、着替えてから、また雨の町へ。少し遅い昼食ながら、ガイドさんに紹介された、「まるか」食堂へ。どんぶりに好きな刺身をトッピングできて、価格もリーズナブルと言われて、入った店内は、何のことはない、大きな魚屋さんで、真ん中に長机と椅子が並んでいる。レジのおばさんに、教えてもらいながら、ともかく定食のご飯とみそ汁を頼み、あとは冷蔵ケースにびっしりと並んでいる、小振りにパックされた刺身類をレジに持って行って支払い、後はセルフサービスである。冷えた体には、駆けつけのお茶がおいしかったこと、上等なお茶に違いないと。定食の汁ものはカニのみそ汁だった。私たちは、ウニとマグロといかの天ぷら、酢の物・・・。他にもたくさんあったのだが食べられそうにもなく断念。ごちそうさまでした。一人前900円弱。食後は、店内をめぐると金華ブランドのサバやイワシ、牡蠣や海鞘、カニやホウボウ、アナゴ・・・所狭しと箱が重ねられている。ひときわ鮮やかな赤い魚、よく見ると「吉次」の札がのせてある。そこへ地元の主婦の方が、「キチジ、今日はおいしそう」と言うのを聞いて「キチジと読むんですね」と思わず尋ねてしまう。もちろん持ち帰りもできないのだが調理法なども伺い、話ははずむ。ご自身も被災者で、復興住宅に住んでいるとのこと。明日、女川を訪ねると言えば、父親の転勤で女川に数年住んだことがあるそうだ。ついでに、近くでお勧めの場所はありますかと尋ねると、ホテルの近くだったら、たしか古い教会があるはずですよ、とのことであった。

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目移りがして困った・・・

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いちばん奥の赤い魚が「吉次」(キンキ)だった

復興ふれあい商店街、パン工房「パオ」

あちこちと空き地が多い街ではあったが、食べ物屋さんとバーが多いのは港町だからか。地図を頼りに、復興ふれあい商店街に寄ってみることにした。プレハブの細長い3棟ほどが並んでいるが、相変わらず足もとが悪いし、雨のため戸を閉めている店も多く閑散としていた。「パン」の旗を掲げている店に入ってみた。「どこから来ましたか」に始まって、いろいろ話していくうちに、ともかく、このパン工房パオのお店長お勧めの生ゆばを練り込んだ食パンを買い、おやつのケーキを買ったところで、コーヒーをどうぞ、この甘食どうかしら、ラスクはどう、サービスですよ、の問わず語りに、店を開いた経緯、この仮店舗も一度の延期を経て、この10月には引き払わなければならないことなどもろもろの話になった。そもそも市内にあった店に津波が運んできた漁船が突っ込んだが、その直前に高台にある我が家に駆け上がって、とにかく命は助かった、という。店先の漁船は、いくつかの写真で報道されたといい、新聞記事や記録写真集を見せてもらった。パン工房は廃業かと思う日もあったが、全国の「生ゆばパン」のファンの励ましで、再開すると注文が途絶えず、今日にいたっているという。と言っても、店の再開には資金も必要なので、不安も多いというが、元気な、前向きの方だった。途中で、ビタミンCを補うべく、いちご「あきひめ」1パックを買って、ホテルに戻った。

夕食は、ホテル内のレストランだったが、このホテルも、1階は津波の被害に見舞われたが、他は無事だったので、近くの住民の避難場所になったといい、駅近くでも場所によってはボートで移動したという。ホテルも全面再開には半年くらいかかりましたよ、との話だった。海からの津波ではなく、北上川の堤防を乗り越えてきた津波だった。海側の防潮堤もさることながら河川堤防の重要なことを認識したという。そういえば、石巻の駅舎には、津波はここまでという表示がされていた。

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復興ふれあい商店街というが・・・

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パン工房「パオ」の店長さん

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石巻駅の津波表示

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石巻駅ホームから市役所と建設中の市立病院

 

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2016年5月11日 (水)

連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(4)その津波の壮絶さ

     翌日は、予報通りの雨と風。私は薄手のコートは着ていたがかなり寒い。連れ合いは、セーター姿の軽装に、近くのコンビニで、ビニール合羽を購入、一日中脱ぐことはなかった。  駅近くの観光協会で、かねてよりお願いしていた語り部ガイドTさんとタクシーの運転手さんと待ち合わせ、9時半過ぎ出発。最初に下車したのが、日和山、大きな鳥居が目に入る。運転手さんから 足もとの水たまりに気をつけてくださいよ、言われつつ、まず、北上川河口の市街が見渡せる場所に立つ。背後には日和山神社、ガイドさんの第一声は、「ここへ避難され方は全部助かりました。でも、わが家が、眼下で大津波に流されていくのを見て呆然とした方も多かったです」と。Tさんは、3月11日当時は消防職員として、3日間、ご自身の家族の安否が分からないまま、救助活動を続けた。みぞれの吹き荒れる、あの夜の水温は、1・2度、首までつかっての救助に携わったという。

石ノ森萬画館

見おろした正面の川の中央には、中洲が広がり、その端にきのこ状の白い建物が目立つ。「石ノ森(章太郎)萬画館」だそうだ。「きのこ」でなくて「宇宙船」を模したそうだ。この中洲の他の建物は流出してしまったが、ここは残った。津波の当時、萬画館の最上階にいた人は、頭上を漁船が押し流され、船底を仰ぎ見たという。石ノ森(1938~1998)は、宮城県登米郡中田町石森の出身で、その郷里にも記念館があるはずだ(2000年7月オープン)。自慢ではないけれど、私は、石の森の父親の小野寺さんと会って?いる。というのも1973年、私の短歌の師、阿部静枝の歌碑が郷里石森の神社に建てられ、その修祓式のお祝いの宴席で、地元代表で挨拶されたのだ。石の森の漫画は読んだことはないのだけれど、そんな関係で、なんとなく親しみのある作家だった。それに、池袋のトキワ荘にも手塚治虫らと住んでいた時代もあったという。しかし、石巻と石ノ森との縁は何かと言えば、若いころ、石森から、この石巻の中州にある映画館に、なんと自転車で通っていたというのだ。その映画館の跡地に、石巻振興の一環として建てられたというのである。石巻には「まんがロード」が設けられ、街角にヒーローやヒロインの人形が立つ。「漫画」でなくなぜ「萬画」というのか、萬画館のホームページには「1989年に石ノ森先生が提唱した『萬画宣言』によるものです。『萬画宣言』の中で石ノ森先生は、漫画はあらゆるものを表現できる無限の可能性を秘めたメディアであることから、もはや『漫画』ではなく万物を表現できる『萬画』であると提唱しました」とあった。

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中州の先に見える白い石ノ森萬画館
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市役所前のフィギュア、この市役所は、3・11の一年前、駅前さくら野デパートをそのまま譲り受けたものという

復興祈念公園予定地

日和山から北上川河口の方に目を転ずると、日和大橋をはさんで右岸一帯には、いま、建物が見当たらない。Tさんによれば「これから案内すると所だけれど、あの辺り一帯は、にぎやかな港町だったが、あっという間に津波にのまれた」地区というのだ。河口の左手は「石巻漁港で、後ほど案内しますが、立派な魚市場が完成したばかり」との説明だった。 次に、下車したのは、その、何もない港町だったところだ。瓦礫こそないが、しばらく焼野原のような、道なき道を進んだ、荒れ野の真ん中であった。よく映像で見たことのある「がんばろう!石巻」の看板の立つところだった。5年後の、この4月に、新しく建て替えられたというニュースは見たことがあった。 ほんとうに何もない焼け跡、私の数少ない体験でいえば、東京の池袋の焼野原に建てたバラックの我が家に、疎開先から一家で引っ越してきたときの記憶につながる。それでも、町内の石造りの蔵が、2か所ほど焼け残っていたし、池袋駅前の闇市までの平和通りには、すでにバラックも数軒建てられていた。1946年7月のことである。 ここ、南浜地区の40ヘクタールには、まだ何も建てられてはいない。すでに「復興祈念公園」となることが昨年決定している。看板の立っている場所はもともと門脇町の水道配管工事店があったところで、オーナーが瓦礫の山の中からベニヤ板とパイプを探し出し、ともかく「元気を出さねば」の思いで、4月11日に完成させたといい、5年の間に、祈りの場ともなって、さまざまな追悼行事がなされるようになり、訪れる人も多くなった。祈念公園完成後も引き継がれるという。この地には約4700人の方が住んでいらしたが、死者572人、行方不明者が42名におよび、月命日にはその捜索も実施されてきたが、いまは数か月に一度になったとのことであった。 Tさんの説明には、私たちにはずいぶん配慮されているところがあることもわかるのだが、津波が引いた後も約3週間で200棟近くが焼け出されたという。私たちが接する報道では、津波に襲われた後、あちこちから火の手が上がった気仙沼の映像が記憶に残っているが、石巻も、その火災で犠牲になった方もいらした。日和幼稚園園児5人が、地震直後、バスで家へ送り届けられる途中、津波に呑み込まれたのち、延焼の末、亡くなったという悲劇があった。幼稚園から、避難所の小学校に、小学校から日和山に避難した園児たちは助かったという。なぜ、海に向かって、津波に向かって園児を乗せて走ったのか、遺族から園の責任が問われているという。 帰宅後、3月11日当日の日和山から市街の様子を撮影したいくつかの動画を見ることができた。みぞれがレンズを打ち、海鳥が群れをなして画面を横切っていく中、津波が、船やビル、家々を押し流していくさまをあらためて目の当たりにした衝撃を忘れてはならない。

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「石巻市南浜地区復興祈念公園基本構想」より

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手前の建設中のビルは、復興住宅だが、津波で壊滅的な被害を受けた跡地に建設したため入居者が3割ほどしか決まってないという。

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日和大橋を望む、津波は高さ18mの橋の下に押し寄せ、たまたま橋を通過していた車は助かったそうだ

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5年を経て、4月に少し移動して建てられたばかりであった

世界一長い石巻魚市場へ

つぎに下車したのが、南浜地区から日和大橋を渡って、昨年完成したばかりの魚市場だった。876m、世界一を誇る長さの魚市場だそうだ。約3年間で、200億、鹿島による工事だったという。市場内の衛生管理はハイテク管理で、鳥一匹の侵入も許さない!というシステムだそうだ。もうすでに水揚げ量からすれば9割は復旧したそうである。 地元の政治家が大きく動いたのでは…というのが、地元の見解のようであったが、復興の象徴になっているという。構内には、宿泊や商業施設のビルも建設中で、完成の暁の観光客も見込まれている。今年の3月に、天皇夫妻はここへ立ち寄り、これまたできたばかりの漁業関係者の慰霊碑にも参ったそうだ。

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石巻魚市場、鹿島のHPより

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駐車場から雨に濡れずに市場棟に移動できるはずが・・・

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すでにセリは終了していて、がらんどう・・・

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