2017年5月 1日 (月)

ほんとに、何から言い出していいのかわからないほど(2)政治家の「失言」ではない「虚言」

 政治家の「ウソ」は「失言」ではあり得ず、確信犯的な「虚言」といっていい。政策や公約に沿った形での発言が多いので見破りにくい。それだけに、本音の「失言」よりもたちが悪い上、国や国民へ影響大ながら、責任追及が難しい。国民が、有権者がよほどしっかりしなければならない。

 私がふだん、「ウソばっかり!」と思わず叫んでしまう、いくつかを紹介してみよう。自分の薄れた記憶をよみがえらせ、少し調べてみた結果でもある。

 

「東北の復興なくして、日本の再生なし」とは

2016310日、安倍首相の官邸での記者会見)

 

 東日本大震災後5年を経た、このときの記者会見では、「東北の復興なくして、日本の再生なし」としめくくった。首相は、被災地に30回以上も訪ねたと、前置きして、次のようにも述べている。

「3年前に訪れた時、見渡す限りの更地であった、宮城県の女川町の中心地は、先月、その景色を一変させていました。地域の皆さんの<足>であるJR石巻線が復旧し、木の温もりを感じる新しい駅舎の前には、電気屋さん、青果店、フラワーショップ。素敵な商店街が完成し、たくさんの人たちで賑わっていました。 政権交代した3年前、計画すらなかった高台移転は、ほぼ全ての事業が着工し、この春には、全体の4分の3の地区で造成が完了します。ほぼ全ての漁港が復旧します。7割を超える農地が作付可能となり、9割近い水産加工施設が再開を果たしました。」

 ここでも、「政権交代した3年前、計画すらなかった」と前政権の批判を欠かさないなか、女川町の復興に言及している。同じ年の20164月に私も、女川を訪ねている。町会議員のAさんに女川原発と町内を案内していただいた。町の中心地であった場所に新しい女川駅舎と商業施設がオープンして間もなかったのである。首相は、賑わいを強調するが、私たちが訪ねたのは、大型連休の初めで、イベントの開催中であったが、閉店中の店もあり、地元の人が日常の買い物をするような場所でもなく、観光客で賑わっているという風でもなかった。ランチをと思っても、ワカメうどんの店かマグロ丼かがメインの店しかなかった。

 航空写真を見ても分かるように、安倍首相は、鳥の眼も虫の目も持ち合わせていないのだろう。女川駅舎の北の高台、町立病院から見おろせるのは、かさ上げ工事真っ最中であって、下の写真のように、造成地の形がまだ見えなかった。飛び地のような商業施設、工場やその他の施設と復興住宅が道路と結ばれても、まさに点と線の「まちづくり」となってしまわないか、の危惧が去らない。Aさん家族も、まだ病院近くの仮設住宅に住んでいるとのことだった。 「復興のトップランナー」と言われた女川町、Aさんは、これまでの5年間は、何とか頑張れたが、これからの5年が大変だろうとも語っていた。

 

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(左)地盤をかさ上げし、約200m内陸に移設されたJR女川駅(左下)。駅前には遊歩道が海に向かって延び、両側には商業施設が並ぶ。昨年末に開業した=2016年2月19日、本社へリから喜屋武真之介撮影。(右)津波で街が流された旧JR女川駅(右)周辺2011年3月19日、撮影。 

 宮城県女川町では、住宅約4400棟のうち約2900棟が全壊し、死者・行方不明者は872人(震災関連死含む)に上った。震災前に1万人余だった人口は7000人を割った。2017年度までに864戸の災害公営住宅(復興住宅)を整備する計画だが、完成したのは3割の258戸。=毎日新聞2016310日から=

 

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女川町立病院の在る高台から見た海側と山側のかさ上げ工事。町立病院の脇にも
いくつかの慰霊碑があったが、下の写真の道路脇にも見える=2016年4月29日、筆者撮影。撮影時からちょうど一年、どれほど進捗しているだろうか

 今回の今村前復興相の「東北でよかった」発言は、自主避難者への借り上げ住宅の無償提供の打ち切り方針に対して、「故郷を捨てるのは簡単だ」(2017312NHK日曜討論)、「福島原発事故による自主避難者が帰還できないのは自己責任」(前記事参照、44日記者会見)の発言に続くもので、安倍内閣の原発事故の国や東電の責任を認めようとしない、被災者切り捨て、復興予算を残してしまうという「復興政策」の破たんを体現する発言であって、「東北の復興なくして、日本の再生なし」「東北の復興が最優先課題」などのキャッチフレーズは、もはや裏付けを失っているのだ。 

 

「世界で最も厳しい水準の安全規制」とは

 原発の安全性について、安倍首相が「世界で最も厳しいレベルの新規制基準」「世界で最も厳しい水準の規制基準」と胸を張って答弁するのを何度見てきたことか。20129月、田中委員長を含む5人の委員による原子力規制委員会が立ち上げられ、新規制基準は、2013619日決定、78日に施行された。2014124日第186回国会施政方針演説で、安倍首相は「世界で最も厳しい水準の安全規制を満たさない限り、原発の再稼働はありません」と宣言し、同年4月11日の閣議決定「エネルギー基本計画」において、「原子力発電所の安全性については、原子力規制委員会の専門的な判断に委ね、原子力規制委員会により世界で最も厳しい水準の規制基準に適合すると認められた場合には、その判断を尊重し原子力発電所の再稼働を進める。その際、国も前面に立ち、立地自治体等関係者の理解と協力を得るよう、取り組む」として以来、様々な場面で、その真偽が質されることになる。日本の原発の安全性、新基準による再稼働の安全性については、日々、その説得力を失いつつあるのが現実であろう。

 例えば、菅直人元首相は、2014416日に提出した「エネルギー基本計画に関する質問主意書」で、「世界で最も厳しい水準の規制基準」という根拠は何か、を問うたところ、政府答弁書(2014425日)では、つぎのようにいう。

「(新規制基準は)国際原子力機関や諸外国の規制基準を参考にしながら、我が国の自然条件の厳しさ等も勘案し、地震や津波への対策の強化やシビアアクシデント対策の導入を図った上で、世界最高水準の基準となるよう策定したものである。

 なお、新規制基準においては、事業者が満足しなければならない性能の水準を定めており、これを実現する方法の詳細についてあらかじめ指定しておらず、国際的にも、原子力に係る規制基準においては、性能基準を規定していると承知している。

 この答弁に見るよう、「世界最高水準の基準となるよう」策定したにすぎず、水準をクリアする具体的な方法は、事業者任せとしか読めない。

 また、201472日、原子力規制委員会田中委員長は、記者会見で、つぎのようにも述べる。「最高水準にあるというのは、様々な、いわゆる重大事故対策について我が国の場合は特に外的な要因、自然条件が厳しいということを含めて、そういうものに対する対応というのは相当厳しいものを求めているということから最高水準であるということ」、そして、「世界最高水準とか世界最高とかいうのは、やや政治的というか言葉の問題なので、具体的ではなく、今、私どもが求めているのは適合性」でしかなく、適合したからと言って「安全性」を担保するわけではないとの発言は、幾度となく繰り返されている。

 また、20141021日参議院内閣委員会での山本太郎議員の「日本の原発は世界で最も厳しい安全基準といえるか」の質問に、田中委員長はつぎのようにも答えている。

 「政府特別補佐人(田中俊一君) 正確に申し上げますと、世界で最も厳しい基準とは言っていなくて、最も厳しいレベルの基準と言っているんです。ですから、そこのところは間違えないようにしていただきたいと思います。」やはり、山本議員の質問主意書への答弁(2014年11月25日)の中で、つぎのように明言しているのである。「世界最高水準の基準となるよう策定したものであるが、必ずしも最も厳しい基準であることを意味するものではない」と。

以上のことからも、日本では、「世界で最も厳しい規制基準によって、原発の安全性は確保されているわけでない」ことは明白になった。それでは、その安全性に責任を持つのは、原子力規制委員会の「専門家」の委員なのか、その専門性を「尊重」する政府なのか。少なくとも、安倍首相の「世界で最も厳しい水準の安全規制」は、少なくとも現実を正しく伝えてはいない。騙される国民が悪いのか。

かつてテレ朝の「報道ステーション」で、「世界一厳しい規制基準なのか」を問うた番組(2014725日)を見たことを思い出し、薄れた記憶と紹介記事でたどってみた。すると、先の記者会見の速記録や議員の質問書への政府答弁やの国会質疑の答弁とも重なる。

 その日の報道ステーションは、フィンランドのオルキルオト原発とそれに併設されたオンカロなどの取材に基づき、日本の新しい規制基準とを比較している。

フィンランドの岩盤の強固さと地震国日本との違い、そして、地下450mのオンカロの併設、日本では、使用済み核燃料、汚染水・汚染土などの中間処分場、最終処分場が確保されてないことを前提にしての比較である。①原子炉の二重の格納設備②フィルターベント(圧力を下げ、放射の物質を除く)③メルトダウン対策としてのコアキャッチャー、の有無が指摘された。 

 ①は、テロ対策にも備えることにもなっている。③は、原子炉創設時には可能だが、現存の原子炉に備えるのは困難であり、原子力規制委員会の田中委員長は、コアキャッチャはーは、「広げて冷却する装置なので、、事故後の時間稼ぎ」程度にしかならないとしばしば明言している。

 以上は、私なりのまとめなので、参考資料と合わせお読みいただきたい。と同時に、フィンランドのように、いかに厳しい規制基準のもと「夢の原子炉」への道を歩み始めたものの、その過程でいくつかのトラブルに見舞われ、その工事を受注していた、フランス原子炉メーカー「アレバ」自体が、倒産の危機に直面し、大幅な工期の遅れが生じてもいるのも現実である。原発に関しては、世界一厳しい規制基準などあり得ないことを知るのであった。

 首相や政府は、原子力規制委員会が「世界で最も厳しい水準の規制基準を目指して」策定した基準に適合したことを以って、原発再稼働の安全性を担保してないことは、明らかなのだ。「だれも世界一厳しい安全基準なんて、言った覚えはないよ、世界で最も厳しい水準を目指して策定した基準に過ぎないんだから」と、すでに開き直っているようなものではないか。

 また原発事故関連の政治家の「虚言」で忘れてはならないのは、20139月、東京オリンピック招致のプレゼンテーションでの安部首相の福島原発事故による汚染水はコント―ロル下に置かれている、「アンダーコントロール」されているとの発言であった。ちなみに、そのプレゼン直前にの94日の東京オリンピック招致委員会の竹田理事長が、汚染水問題で集中質問を浴びたブェノスアイレスでの記者会見で、「福島は東京から250キロ以上も離れている。東京は安全であり問題がない」と答え、当時も福島県民の顰蹙をかっていたことを思い出す。これらの発言については、本ブログでも記事にしたことがあるので、合わせてご覧いただければと思う。

〇これでいいのか、2020東京オリンピック(201399日) 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/09/2020-d1d1.html

〇オリンピック東京招致はいいことなのか(201397日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/09/post-77a7.html

 

参考

〇報道ステーションの紹介記事

http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-3843.html

http://saigaijyouhou.com/blog-entry-3302.html

〇原子力規制委員会の記者会見速記録

file:///C:/Users/Owner/Desktop/000068790201472日原子力規制委員会記者会見.pdf

〇山本太郎ホームページ

https://www.taro-yamamoto.jp/national-diet/3816

山本太郎質問主意書への20141125日の答弁http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/187/touh/t187083.htm

安全な原発は夢か 仏アレバの新型炉建設が難航  (安西巧)
2015/1/26 7:00 日本経済新聞 電子版版http://www.nikkei.com/article/DGXMZO82205990R20C15A1000000/

〇経営崖っぷち 仏原発アレバ
2017年3月7日 東京新聞

ttps://silmarilnecktie.wordpress.com/2017/03/07/37%E7%B5%8C%E5%96%B6%E5%B4%96%E3%81%A3%E3%81%B7%E3%81%A1%E3%80%80%E4%BB%8F%E5%8E%9F%E7%99%BA%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%90-%E7%B4%AF%E7%A9%8D%E8%B5%A4%E5%AD%97%EF%BC%91%E5%85%86%E5%86%86%E8%B6%85/

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各地のプロジェクトで、工期の大幅な遅れが繰り返されている。
=日本経済新聞電子版2015126日より=


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 仏原子力大手アレバ、16年は最終赤字が縮小:3月1日、経営再建中のフランスの原子力大手アレバが発表した2016年決算は、最終赤字が6億6500万ユーロ(7億0200万ドル)で、15年の20億4000万ユーロ、14年の48億3000万ユーロから縮小した。写真はロゴ、パリ近郊で2015年5月撮影(2017年 ロイター/Charles Platiau)=2017 3 1日 ダイヤモンドオンラインhttp://diamond.jp/articles/-/119879

 

 

 

 

 

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2016年7月30日 (土)

「時代」の所為(せい)にはするな~私の歌壇時評

以下もやや旧聞に属することになってしまったが、5月中旬締め切りで、歌誌『ポトナム』に寄せた時評である。

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2015927日、緊急シンポジウム「時代の危機に抵抗する短歌」(同実行委員会主催)が京都で、同年126日、緊急シンポ「時代の危機と向き合う短歌」(強権に確執を醸す歌人の会主催、現代歌人協会・日本歌人クラブ後援)が東京で開催された。「時代の危機」という言葉もあいまいながら、どちらにも参加できず、隔靴掻痒の感はぬぐえないが、その感想を記録にとどめておきたい。

 

京都での呼びかけ人、吉川宏志は「安保法制など、憲法を揺るがす事態が起こっている現在、私たちは何をどのように歌っていくのか。近現代の短歌史を踏まえつつ、言葉の危機に抵抗する表現について考えます」と訴え、表題の「時代の危機」は「言葉の危機」に置き換えられていた。京都での三枝昻之は、戦中戦後の短歌雑誌に対する検閲にかかわり、歌人みずからの自己規制の危うさを語り、永田和宏は、最近の政治家の失言を例に、脅迫的な暴言を繰り返す危険な言葉遣いを指摘、歌人は危機感をもっと率直に表明することの大切さを語った、と総括する(吉川宏志「時代の危機に抵抗する短歌~緊急シンポジウムを終えて」『現代短歌新聞』201511月)。

 

東京では、永田が「危うい時代の危うい言葉」と題して、民衆の表現の自由が民主主義の根幹ながら、その言葉が様々な手段で奪われようとしている危機を語り、レジメには、「権力にはきつと容易く屈するだらう弱きわれゆゑいま発言す」などの短歌が記された。今野寿美は「時代の中の反語」と題して与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」を例に時代状況の中で曲解・悪用されてきた事実を指摘、表現者のとして自覚の重要性を説いた。予告にあった佐佐木幸綱の「提言」は、本人が風邪のため中止になったらしい。

 

東京での呼び掛け人であった三枝は、シンポの表題を京都のそれと比べ、「時代の危機と向き合う・・・」として、「ソフト」にしたのだといい、シンポの主題は、「安保法案の是非ではなく、政治の言葉の是非」であると、繰り返し述べている(「2015126日シンポジウムを振りかえる」(『現代短歌』20163月)。

 

二つの集会のキーマンである吉川、永田、三枝の三者は共通して、「時代の危機」というよりは「言葉の危機」を強調したかったのではなかったか。「時代の危機」を前提にしながらも、あえて「言葉の危機」「政治の言葉」に置き換えたことは、見逃してはならないと思う。「安保の是非」は横に置いておいて、歌人は「言葉の危機」にどう対応するかの念押しに、参加者の多くは、やや肩透かしを食らった気がしたのではないか。

 

東京の集会に参加した石川幸雄は、永田の「投獄されて死んでゆくのは犬死だ」と怯える姿を目の当たりにした後、「ここで 登壇者の内三名(三枝、永田、今野)が宮中歌会始めの選者であることに気づいた」と記す(「カナリアはいま卒倒するか」『蓮』20163月)。岩田亨は、永田は「怖い」を連発していたが、何がそんなに「怖い」のか、「<NHK短歌>や新聞歌壇の選者から降ろされるのがこわいのか。考えて見ると歌人の地位を失うのがこわいらしい」と、三枝については「『昭和短歌の精神史』は戦中の歌人の戦争責任を不問に付し」た「歴史観が今日の状況を作ったのではないか」と報告している(ブログ「岩田亨の短歌工房」2015128日)。私には、壇上の歌人たちが時代に「異議を申し立てた」という「証拠」を残すために、こうした発言の場を設けたように思われた。一過性で終わることのない本気度を見せてほしいと思った。近く記録集(*注)が出るというので、若い人たちの討論の内容も確かめたいと思う。(『ポトナム』20167月号所収)

*注 『(シンポジウム記録集) 時代の危機と向き合う短歌~原発問題・特定秘密保護法・安保法制までの流れ』(三枝昻之・吉川宏志共編 青磁社 2016年5月8日)の書名で刊行された。

 

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2016年5月14日 (土)

連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(7)女川町の選択

女川の戦死者に

PR館から戻る途中、魚雷回天の基地だったというのが気になり、停めていただいた。そこは、2010年まで、女川第六小学校と第四中学校の在った場所で、学校はかつての海軍の回天魚雷などの基地があったところに建てられた。Aさんも昔、お年寄りから聞いたことがあるとのことであった。帰宅後少し調べてみると、『女川町誌』(1960年、続編1991年)にも記述があるそうだ。

日本海軍は、連合軍の本土上陸に備え、小型舟艇の基地を太平洋沿岸に造ることを計画していた。小型舟艇とは、10人乗りの潜水艇咬龍、2人乗りの潜水艇海龍、1人乗りの人間魚雷の回天、1人乗りのモーターボートの震洋、そういえば、昨秋訪ねた霞ケ浦の予科練平和記念館でも聞いたことがある。牡鹿半島一帯には第七突撃戦隊に所属する第一四突撃隊(嵐部隊)が配され、本部が、ここに置かれていたというのである。当初、各種の小型舟艇が配備される予定であったそうだ。敗戦時は、「大浜」「天草」など5隻と海龍12隻と隊員600人規模であったが、海龍を隠すための壕が、車でも通過した飯子浜(いいごはま)などに、いまも残されているそうだ。そして、1945710日の仙台空襲に続いて、8月の9日・10日の女川空襲では、その軍用船や舟艇が、石巻の中瀬の村上造船所とともに狙われた。女川では、防衛隊だけでも157名(「女川湾戦没者慰霊塔」1966年、木村主税町長による撰文)と合わせると200名近い死者が出ていることも知った。

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女川防衛隊本部が小学校・中学校となり、町の人口減少に伴い、2010年、女川第六小学校と第四中学校が閉校となり、立派な二つの閉校記念碑が建てられていた。

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「ゆたかな心光る汗」の標語の看板が残る



女川の津波被害の犠牲者へ

女川駅に戻って、少し高台の地域医療センターまでのぼると、駅前のかさ上げ工事が一望できる。山を崩し、町全体を7mかさ上げし、高い防潮堤は、海の町としてはむしろ不要であくまで「海の見える町」にこだわった町民の選択だったという。女川町・都市再生機構・鹿島による一大復興プロジェクトである。三月一一日には、この小高い病院にも津波が押し寄せ、玄関には、ここまで達したという赤い線が表示されていた。1階部分のほぼ天井までと見ていいのだろう。だから、地震直後の対応で、1階で働いていた人や患者さんが間に合わず被害に遇われている。慰霊碑にお参りし、一回りすると、この復興計画の途方もなさが思われた。議会を前にながい時間をかけて、ご案内いただいたAさんが最後におっしゃる、原発に頼らない、町民の取り組みによる、ほんとうの復興、復興の先にある不安と期待、被災地はどこも、とくに女川は原発を抱え、さらに困難な再生の過程のほんの一部を実感するのだった。

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地域医療センターの玄関の柱に表示された津波の高さ

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町全体7mのかさ上げ工事

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病院での犠牲者慰霊碑から望む



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いのちの石碑プロジェクト、後世につなぐために。人口10014人、死亡・行方不明者827人総家屋数4411棟の内、全壊2924棟・・・。

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中央の白い翼のような屋根が新女川駅

石巻でも聞いていた、新しい商業施設「シーパルピア女川」が駅から海までの一直線で、そこだけが妙に浮き上がって明るい感じの一画になっている。周辺はすべて工事中なのである。祝日でもあったので、民族舞踊のフェステイバルのようなものが開かれ、あたりには大音響が響く。ランチが気軽に楽しめる店がないね、旅行者の気ままさで「ワカメうどん」を食するのであった。

三泊四日の陸奥の旅も終わりに近づいた。

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石巻線終点、海の見える駅、女川

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万石浦にしばらく沿って石巻に向かう

 

 

 

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連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(6)女川原発へ

朝の教会

石巻二日目の朝、朝食前に散歩と相成った。前日、食堂「まるか」で出会った人の言っていた、古い教会はすぐ近くだった。「ハリストス正教会」はあった。掲示板によれば、東京駿河台のニコライ堂と、その宗旨一にする教会で、この地には1880年聖使徒イオアン聖堂として建てられたが、1978年の宮城沖地震で被害を受け、新聖堂に建て替えられた。その際、旧聖堂は石巻市に寄贈され、現在石ノ森萬画館のある中州の中瀬公園内に移築し、日本最古の木造教会建築として保存されていた。ところが2011年の津波により、2階まで冠水し、流出こそしなかったが、崩壊したのを受けて、解体、再建することになったという。この教会の二度の津波被害、ロシア正教会の歴史に思いは至り、信者たちの気持ちは複雑だろう、と。

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1978年宮城沖地震後の1980年に新築された

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旧教会堂は、中瀬公園に移築再建されたが、2011年3月11日直後の惨状

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中瀬公園の旧ハリストス正教会解体の模様、復元へ

女川原子力発電所へ

  きょうは、女川、955分着。かねてより、知人にご紹介いただいていた地元のAさんと待ち合わせ、初対面である。Aさんは、父親とともに原発反対、脱原発、廃炉を掲げて活動してこられた方である。乗車するなり、「役場は、ヨウ素剤を配り始めました」と言うのがAさんの第一声だった。まずは原発の見えるところまでと、車を走らせる。女川駅からは直線距離で8キロ余だが、41号線は、海岸に沿ったり離れたりしながら、進んだ。途中、小乗(このり)浜などの仮設住宅、大がかりな高白浜と横浦とのトンネル工事の現場を過ぎ、まだ、ブイが木々の枝の先に引かかったままだったり、野々浜では、むかし回天魚雷の基地の宿舎が小中学校となり、いまは廃校のままになっているところだったりを通過する。また、Aさんのお父さんが建てたという「原発反対」の立て看板が2か所あった。だいぶ古くなっていて、運動の歴史を物語るものだろう。昨年の世界防災会議参加者の数人もこの立て看板に注目したという。原子力発電所の全景が見えるところと言えば、ここしかないと降ろしてくださったのが、小屋取の浜だった。向かいの原発の建つ浜「鳴浜」は「ならはま」と呼ばれ、女川では鳴り砂が一番美しい浜だったそうだ。いまは、29mの防潮堤を建設、再稼働に備えている。小屋取の海の正面には山王島という小さな親子島がある。そばの定点観測の鉄塔とともに津波に襲われたという。女川湾には、11の集落と浜があり、復興案の一つとして集約しようという計画もあったらしいが、まとまらなかったという。そこから少し戻った塚浜には、原発のPRセンターがある。東北電力の原発用地買収当時、塚浜の漁師たちは、2500万円で漁業権を放棄したという。それも、個別の交渉が秘密裏の裡に行われ、原発自体に最後まで反対していた地主が突如寝返ったりした経緯もあったそうだ。一号機運転開始1984年、三号機が2002年という、そんな悔しさをAさん親子は味わったらしい。

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終点、女川駅下車、瓦礫の中のホーム

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「なくせ!原発~事故で止めるか、みんなで止めるか」

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小屋取から女川原発全景

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山王島

女川原子力発電所PR館へ

 私はこの種の施設は初めてだった。想定内のPRぶりであったが、東京電力の福島原発と比較して、東北電力の女川原発は、いかに大震災に耐えたかの成功のストーリーが出来上がっているようだった。しかし、PR館配置資料 『そのとき女川は~東日本大震災に耐えた原子力発電所』(東北エネルギー懇談会編刊 20144月)をよくよく読んだり、展示を見たりすると、2号機建屋の海水浸水や1号機重油タンクの倒壊という危機にさらされていたのである。津波被害を免れたと言っても、海抜14.8mの敷地が、地震のため1m地盤沈下したところに13mの津波が襲ったので、あと0.8mの余裕しかなかったことになり、事故とならなかったのは偶然に近かったのではないか。にもかかわらず、311当日、津波警報を聞いた地元民が、PR館に幾人か避難してくると、地域への貢献とばかりに受け入れた上、電気や非常時の備えなどから原発内の方が適切との判断で、原発内の体育館で受け入れることになったという。通勤用バスやヘリコプターなども動員、近隣からの避難住民を積極的に受け入れたという。このことが、いかにも美談のように流布されたらしい。現実には、1号機では高圧電源盤で火災が発生、2台の非常用ディーゼル発電機のうち1台が使用不能に。2号機は、配管通路から海水が浸入し、建屋地下部分にある熱交換器室が一時、深さ約25mまで浸水した。発電機も故障した。体育館では、周辺集落から最大360人が避難生活を送った。Aさんは、必ずしも安全でない原発内に3カ月も避難住民を留めたことに疑問を持っていた。

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受付では、ゴーヤの種と「東北電力女川原子力発電所」の「潮位時刻付きカレンダー」とパンフレット類が渡される。干潮・満潮の時刻がわかるというカレンダー、よく考えると「怖い!」

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左から、1号機2号機3号機と並ぶ。PRセンターが左上に、2本の送電塔の右に体育館が見える。ここが避難所になっていた。『そのとき女川は~東日本大震災に耐えた原子力発電所』から作成

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こんなパネルも

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電気事業連合会のパンフも入ってました。どこかで見たことのある人たち、こんなところで一役?かっていたんですね

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2016年5月12日 (木)

連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(5)パン工房「パオ」と食堂「まるか」

石巻市復興まちづくり情報交流館

ガイドのTさんが最後に案内してくださったのが、「石巻市復興まちづくり情報交流館(中央館)」だった。被災の状況、復興の様子などがコンパクトにまとめられている展示室で、石巻に20数年住んでいるイギリス人のリチャードさんが館長さんを務めている。昨年3月仙台市で国連世界防災会議が開かれたが、その開催直前にオープンしたらしい。交流のためのスペースも用意されているが、どのくらい活用されているのだろうか。ちょっと中途半端な気がしないでもなく、どうも役所臭が抜け切れてないような、そんな印象ではあった。


食堂「まるか」

身体は冷えて、靴も靴下もビショビショ、一度ホテルに戻って、着替えてから、また雨の町へ。少し遅い昼食ながら、ガイドさんに紹介された、「まるか」食堂へ。どんぶりに好きな刺身をトッピングできて、価格もリーズナブルと言われて、入った店内は、何のことはない、大きな魚屋さんで、真ん中に長机と椅子が並んでいる。レジのおばさんに、教えてもらいながら、ともかく定食のご飯とみそ汁を頼み、あとは冷蔵ケースにびっしりと並んでいる、小振りにパックされた刺身類をレジに持って行って支払い、後はセルフサービスである。冷えた体には、駆けつけのお茶がおいしかったこと、上等なお茶に違いないと。定食の汁ものはカニのみそ汁だった。私たちは、ウニとマグロといかの天ぷら、酢の物・・・。他にもたくさんあったのだが食べられそうにもなく断念。ごちそうさまでした。一人前900円弱。食後は、店内をめぐると金華ブランドのサバやイワシ、牡蠣や海鞘、カニやホウボウ、アナゴ・・・所狭しと箱が重ねられている。ひときわ鮮やかな赤い魚、よく見ると「吉次」の札がのせてある。そこへ地元の主婦の方が、「キチジ、今日はおいしそう」と言うのを聞いて「キチジと読むんですね」と思わず尋ねてしまう。もちろん持ち帰りもできないのだが調理法なども伺い、話ははずむ。ご自身も被災者で、復興住宅に住んでいるとのこと。明日、女川を訪ねると言えば、父親の転勤で女川に数年住んだことがあるそうだ。ついでに、近くでお勧めの場所はありますかと尋ねると、ホテルの近くだったら、たしか古い教会があるはずですよ、とのことであった。

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目移りがして困った・・・

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いちばん奥の赤い魚が「吉次」

復興ふれあい商店街、パン工房「パオ」

あちこちと空き地が多い街ではあったが、食べ物屋さんとバーが多いのは港町だからか。地図を頼りに、復興ふれあい商店街に寄ってみることにした。プレハブの細長い3棟ほどが並んでいるが、相変わらず足もとが悪いし、雨のため戸を閉めている店も多く閑散としていた。「パン」の旗を掲げている店に入ってみた。「どこから来ましたか」に始まって、いろいろ話していくうちに、ともかく、このパン工房パオのお店長お勧めの生ゆばを練り込んだ食パンを買い、おやつのケーキを買ったところで、コーヒーをどうぞ、この甘食どうかしら、ラスクはどう、サービスですよ、の問わず語りに、店を開いた経緯、この仮店舗も一度の延期を経て、この10月には引き払わなければならないことなどもろもろの話になった。そもそも市内にあった店に津波が運んできた漁船が突っ込んだが、その直前に高台にある我が家に駆け上がって、とにかく命は助かった、という。店先の漁船は、いくつかの写真で報道されたといい、新聞記事や記録写真集を見せてもらった。パン工房は廃業かと思う日もあったが、全国の「生ゆばパン」のファンの励ましで、再開すると注文が途絶えず、今日にいたっているという。と言っても、店の再開には資金も必要なので、不安も多いというが、元気な、前向きの方だった。途中で、ビタミンCを補うべく、いちご「あきひめ」1パックを買って、ホテルに戻った。

夕食は、ホテル内のレストランだったが、このホテルも、1階は津波の被害に見舞われたが、他は無事だったので、近くの住民の避難場所になったといい、駅近くでも場所によってはボートで移動したという。ホテルも全面再開には半年くらいかかりましたよ、との話だった。海からの津波ではなく、北上川の堤防を乗り越えてきた津波だった。海側の防潮堤もさることながら河川堤防の重要なことを認識したという。そういえば、石巻の駅舎には、津波はここまでという表示がされていた。

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復興ふれあい商店街というが・・・

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パン工房「パオ」の店長さん

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石巻駅の津波表示

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石巻駅ホームから市役所と建設中の市立病院

 

 

 

 

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2016年5月11日 (水)

連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(4)その津波の壮絶さ

     翌日は、予報通りの雨と風。私は薄手のコートは着ていたがかなり寒い。連れ合いは、セーター姿の軽装に、近くのコンビニで、ビニール合羽を購入、一日中脱ぐことはなかった。  駅近くの観光協会で、かねてよりお願いしていた語り部ガイドTさんとタクシーの運転手さんと待ち合わせ、9時半過ぎ出発。最初に下車したのが、日和山、大きな鳥居が目に入る。運転手さんから 足もとの水たまりに気をつけてくださいよ、言われつつ、まず、北上川河口の市街が見渡せる場所に立つ。背後には日和山神社、ガイドさんの第一声は、「ここへ避難され方は全部助かりました。でも、わが家が、眼下で大津波に流されていくのを見て呆然とした方も多かったです」と。Tさんは、3月11日当時は消防職員として、3日間、ご自身の家族の安否が分からないまま、救助活動を続けた。みぞれの吹き荒れる、あの夜の水温は、1・2度、首までつかっての救助に携わったという。

石ノ森萬画館

見おろした正面の川の中央には、中洲が広がり、その端にきのこ状の白い建物が目立つ。「石ノ森(章太郎)萬画館」だそうだ。「きのこ」でなくて「宇宙船」を模したそうだ。この中洲の他の建物は流出してしまったが、ここは残った。津波の当時、萬画館の最上階にいた人は、頭上を漁船が押し流され、船底を仰ぎ見たという。石ノ森(1938~1998)は、宮城県登米郡中田町石森の出身で、その郷里にも記念館があるはずだ(2000年7月オープン)。自慢ではないけれど、私は、石の森の父親の小野寺さんと会って?いる。というのも1973年、私の短歌の師、阿部静枝の歌碑が郷里石森の神社に建てられ、その修祓式のお祝いの宴席で、地元代表で挨拶されたのだ。石の森の漫画は読んだことはないのだけれど、そんな関係で、なんとなく親しみのある作家だった。それに、池袋のトキワ荘にも手塚治虫らと住んでいた時代もあったという。しかし、石巻と石ノ森との縁は何かと言えば、若いころ、石森から、この石巻の中州にある映画館に、なんと自転車で通っていたというのだ。その映画館の跡地に、石巻振興の一環として建てられたというのである。石巻には「まんがロード」が設けられ、街角にヒーローやヒロインの人形が立つ。「漫画」でなくなぜ「萬画」というのか、萬画館のホームページには「1989年に石ノ森先生が提唱した『萬画宣言』によるものです。『萬画宣言』の中で石ノ森先生は、漫画はあらゆるものを表現できる無限の可能性を秘めたメディアであることから、もはや『漫画』ではなく万物を表現できる『萬画』であると提唱しました」とあった。

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中州の先に見える白い石ノ森萬画館
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市役所前のフィギュア、この市役所は、3・11の一年前、駅前さくら野デパートをそのまま譲り受けたものという

復興祈念公園予定地

日和山から北上川河口の方に目を転ずると、日和大橋をはさんで右岸一帯には、いま、建物が見当たらない。Tさんによれば「これから案内すると所だけれど、あの辺り一帯は、にぎやかな港町だったが、あっという間に津波にのまれた」地区というのだ。河口の左手は「石巻漁港で、後ほど案内しますが、立派な魚市場が完成したばかり」との説明だった。 次に、下車したのは、その、何もない港町だったところだ。瓦礫こそないが、しばらく焼野原のような、道なき道を進んだ、荒れ野の真ん中であった。よく映像で見たことのある「がんばろう!石巻」の看板の立つところだった。5年後の、この4月に、新しく建て替えられたというニュースは見たことがあった。 ほんとうに何もない焼け跡、私の数少ない体験でいえば、東京の池袋の焼野原に建てたバラックの我が家に、疎開先から一家で引っ越してきたときの記憶につながる。それでも、町内の石造りの蔵が、2か所ほど焼け残っていたし、池袋駅前の闇市までの平和通りには、すでにバラックも数軒建てられていた。1946年7月のことである。 ここ、南浜地区の40ヘクタールには、まだ何も建てられてはいない。すでに「復興祈念公園」となることが昨年決定している。看板の立っている場所はもともと門脇町の水道配管工事店があったところで、オーナーが瓦礫の山の中からベニヤ板とパイプを探し出し、ともかく「元気を出さねば」の思いで、4月11日に完成させたといい、5年の間に、祈りの場ともなって、さまざまな追悼行事がなされるようになり、訪れる人も多くなった。祈念公園完成後も引き継がれるという。この地には約4700人の方が住んでいらしたが、死者572人、行方不明者が42名におよび、月命日にはその捜索も実施されてきたが、いまは数か月に一度になったとのことであった。 Tさんの説明には、私たちにはずいぶん配慮されているところがあることもわかるのだが、津波が引いた後も約3週間で200棟近くが焼け出されたという。私たちが接する報道では、津波に襲われた後、あちこちから火の手が上がった気仙沼の映像が記憶に残っているが、石巻も、その火災で犠牲になった方もいらした。日和幼稚園園児5人が、地震直後、バスで家へ送り届けられる途中、津波に呑み込まれたのち、延焼の末、亡くなったという悲劇があった。幼稚園から、避難所の小学校に、小学校から日和山に避難した園児たちは助かったという。なぜ、海に向かって、津波に向かって園児を乗せて走ったのか、遺族から園の責任が問われているという。 帰宅後、3月11日当日の日和山から市街の様子を撮影したいくつかの動画を見ることができた。みぞれがレンズを打ち、海鳥が群れをなして画面を横切っていく中、津波が、船やビル、家々を押し流していくさまをあらためて目の当たりにした衝撃を忘れてはならない。

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「石巻市南浜地区復興祈念公園基本構想」より

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手前の建設中のビルは、復興住宅だが、津波で壊滅的な被害を受けた跡地に建設したため入居者が3割ほどしか決まってないという。

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日和大橋を望む、津波は高さ18mの橋の下に押し寄せ、たまたま橋を通過していた車は助かったそうだ

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5年を経て、4月に少し移動して建てられたばかりであった

世界一長い石巻魚市場へ

つぎに下車したのが、南浜地区から日和大橋を渡って、昨年完成したばかりの魚市場だった。876m、世界一を誇る長さの魚市場だそうだ。約3年間で、200億、鹿島による工事だったという。市場内の衛生管理はハイテク管理で、鳥一匹の侵入も許さない!というシステムだそうだ。もうすでに水揚げ量からすれば9割は復旧したそうである。 地元の政治家が大きく動いたのでは…というのが、地元の見解のようであったが、復興の象徴になっているという。構内には、宿泊や商業施設のビルも建設中で、完成の暁の観光客も見込まれている。今年の3月に、天皇夫妻はここへ立ち寄り、これまたできたばかりの漁業関係者の慰霊碑にも参ったそうだ。

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石巻魚市場、鹿島のHPより

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駐車場から雨に濡れずに市場棟に移動できるはずが・・・

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すでにセリは終了していて、がらんどう・・・

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2016年5月 8日 (日)

連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(1)

 連休中にもかかわらず、当ブログにお訪ねくださった方も多く、恐縮しています。時節柄、多くは、自治会会費や社協・日赤関係記事へのアクセスですが、熊本地震への義捐金にかかわってのアクセスも混じっていたと思います。続く余震の中、被災者の方々には、ただただお見舞いの言葉しか申し上げられず、むなしさが募っています。  一か月以上も、長い間、ブログへの投稿が途切れてしまいました。ともかく、目の前の仕事に追われ、その途中、かねてからの予定通り、連休前に、東北旅行に出ました。4月29日に帰宅した折には、わが家の垣根は、テッセンの花盛りになっていました。  

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北海道新幹線「函館北斗行き・はやぶさ・こまち」に乗って  

   4月26日午後、連れ合いが、盛岡で、岩手県生協関係団体のTPP学習会で報告をするというので、便乗してついて行くことにしていた。はらずも、開業間もない「はやぶさ」10時24分発に乗ることになり、指定も7割くらいは埋まっていたか。盛岡には12時半過ぎには到着。ホテルに荷物を預け、学習会会場へ。「TPP合意の内容、くらしへの影響」と題された話、端々には聞いてはいるものの、まともに客席で聴いたのは久しぶりである。国会審議最中に明らかになった西川公也『TPPの真実』の内容、結局出版取りやめになったものの、ゲラ刷りが出回って、交渉過程は秘密と言いながら、結構踏み込んで書かれているという。熊本地震対応もあって、結局批准は先送りになった。問題は山積みで、この日は、TPPは、定着しかけてきた「地産地消」を侵害し、高額医療・薬価高止まりを助長し、国民の命が危なくなるという話は身につまされた。ご苦労様でした。  

高松の池、平和の像は桜吹雪くなか   

    生協、農協関係の二方のご案内で、桜の名所でもあるという「高松の池」まで。「先週末が最後の見ごろ」ということだったが、遊歩道は、ジョガーが行き交い、散った桜が薄紅のじゅうたんを敷いたようでもあった。ここには、二つの平和の像があるという。最初に案内してもらったのは、岩手県生協連と婦人団体、青年団体、原爆被害団体協議会4つの市民団体の提唱・賛同により、1995年に建立された、郷土の彫刻家、舟越保武とその弟子による家族の群像「望み」だった。もう一つは、池のちょうど対岸に位置する、自身もシベリア抑留体験者であった佐藤忠良による「ひまわり」、とてもかわいらしい少女像である。少し風が冷たくなり、池の端の桜並木から、目を空に転じると、雪を頂いた岩手山が望めるのだった。

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高松の池、平和記念像「望み」舟越保武他制作

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高松の池から岩手山を望む

    そして次にと案内いただいたのは、材木町の「光原社」だった。材木町の「いはーとぶアベニュー」と名付けられた商店街は、なかなか雰囲気のある通りで、その真ん中あたり、生前の宮沢賢治が出版した唯一の童話集「注文の多い料理店」、その印刷・出版をしたのが友人の経営になる「光原社」だったらしい。通りから一歩、店の中庭に踏み入れると、大正の香がする、独特の世界が展開する。喫茶室も資料室もあり、中庭を突き抜けると、北上川に直面する。通りの向かいには、民芸店があり、陶器、鉄器、笊、織物からアクセサリーまで有り、時間が許すなら、ゆっくりしたいところであった。  夜は、生協連の方々との会食となり、さまざまはお話を伺うことになった。ありがとうございました。

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光原社中庭

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光原社、中庭から望む北上川
かつては松尾鉱山から流れる汚水で川は赤かったそうだ

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2014年12月 2日 (火)

福島から避難して千葉で暮らす、千代田さんの話を聞きました

   去る11月22日(土)、「さくら・志津憲法9条をまもりたい会」主催の「福島から避難して千葉で暮らす、千代田信一さんの話を聞く会」(午後2時~ 佐倉市志津コミュニティセンター)に参加しました。佐倉市、四街道市、千葉市から20名程が参加しました。そのときのお話の要約と報告です。

     千代田信一さん(72歳)は、福島第1原発から6㎞ の双葉町で被災され、四街道市へ避難された。 原発事故によって、千代田さんの豊かな自然に恵まれた農業経営、家族や地域の人々との和やかな暮らしを一瞬にして覆された。地震発生時のパニック状態に加えて、避難のさなかでの過酷な状況、奥様の実家のある千葉への避難の決断は事故後集団で行動していた人々との別れともなり、仲間の「行くところがあっていいなあ」との言葉がつらかった。
  避難先の千葉の親戚に家族一同十数人が寄宿することは、短期間ならともかく、双方の負担は大きく、四街道市鹿島荘の避難所暮らしとなった。さまざまな支援を受けて有難かったが、市職員からまるで監視されるような一面もあった暮らしであった。さらに、四街道市内での転居が続き、落ち込む中、息子さんの「釣りでもしたらどうか」の一言、その心遣いに目が覚め、さらに息子さんの提案で一緒に住む物件を探し、千葉市に落ち着いた。病を得た奥様の通院に便利なところでもあった。 四街道市や地元の人々との様々な交流によって支えられ、現在に至っている。
  それにしても、原発建設の過程や原発稼働中の東電(原発安全協会)による説明会は、ひどいものだった。第一部が大学教授ら研究者の“原発安全講話”と質疑、第二部が芸能人やスポーツ選手のアトラクション(ケーシー高峰、桑田真澄、中畑清、パンチ佐藤・・・)、地元の人たちは、第二部に浮き足たち、質問もそぞろだった。たとえ質問をしても、安心安全のみの答弁だった。その一方で、東電関係者は、原発の近くに住むことなく、ヨウ素材配布の用意をしていた。
  各地に、千葉県にも多くの避難者がいる中で、いわれのない差別を受け、孤立を余儀なくされている。同郷の人たちが集い、会えるから「葬式が楽しみ」とさえいう避難者の言葉は重い。
  原発をゼロにすることと、中間貯蔵場ではなく「捨て場」の確保が課題なのに、安倍政権は、原発事故の終息がないまま、避難者は放置された状態で、さらに原発再稼働、原発輸出を進めているのは許せないし、怒りを覚える。安倍政権は絶対に変えなければならないと。 

   ときには、涙しながらのお話に、 私たちが接するメディアは、原発事故の実態、被災者、避難者の現状を正確には伝えていないことをあらためて知らされました。お話の最後に歌われた「福島慕情」の民謡で鍛えられた素晴らしい声量に圧倒されました。また、飼われていた山羊の最期や猫の行方、そして愛犬コロとの再会の経緯にも涙を誘われました。被災地の様子を伝えるテレビ画面で偶然にも愛犬の姿を発見して、現地での再会がかなったものの連れて帰れず、ボランテイア団体のエサやりや保護をへて、2年半後、ようやく千葉で一緒に住めるようになったそうです。愛犬コロとの「物語」は、ネット上でも「餌を運ぶ賢い犬」として話題になり、以下のユー・チューブで見られます。
  http://www.youtube.com/watch?v=aMH6sNgx1Oc

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2014年9月 5日 (金)

「女性活躍・少子化担当大臣」って?!なぜ「男女共同参画」ではないのか

   93日、安倍改造内閣は、女性5人の入閣、1人の党役員人事でスタートした。顔ぶれを見ると、女性ならば誰でもいいのか、割合さえ高ければ女性の地位が向上したことになるのか、情けない思いがする。6人の経歴やこれまでの言動を知る限りでも、期待ができないだけではなく、大いなる不安と暗雲が漂う。

有村治子女性活躍・少子化担当大臣は、国家公務員制度、消費者・食品安全、規制改革、行政改革の7分野を担当する。「男女共同参画」に反対する「日本会議」のメンバーだし、マクドナルドの全店舗にポスターを張って比例代表で当選した参議院議員だし、2012年、今年との中国からの偽装食肉輸入についてのマクドナルドの対応を見ていると、食の安全など守れるのか疑問が去らない。「女性活躍・少子化」といかにも実務的な受けそうなネーミングではあるが、だとすると、これまで、一体何をしてきたのか、あらたな担当大臣や新法を作っても、まさに、本気度がみえない、実効性がない。

 高市総務大臣は言わずと知れた、首相応援団の急先鋒で、首相にしては、いまやってもらってはまずい?ことまで先走るタカ派である。毎年、みんなで靖国参拝をする議員の会の先頭を切って、参拝する映像や討論番組での松下政経塾でトレーニングしましたみたいな「笑顔」は見るに堪えない。

政党や派閥を渡り歩いたことでは、山谷えり子も同じで、もともと信頼してはいけない人物ではある。「サンケイリビング」の編集長だった時代を知らないが、「産経新聞」「正論」はじめ、カトリック信者でありながら「神社新報」「世界日報」(統一教会機関紙)などへの執筆が多く、ジェンダーフリー教育や性教育、男女共同参画にも反対の論陣を張る。

松島みどりは、名前はみどりだが、勝負服は赤とのことで、朝日新聞出身というが、体育会系でもあって、単純な人のようだ。2000年、自民党初の公募で、比例東京ブロックで衆議院議員当選し、政治家としてのスタートを切った。すぐに、当選前の帝京大学グループからの給与隠しで問題になったらしい。法務大臣として適任なのかどうか。

小渕優子通産大臣は、まだ荷が重すぎるのではないか。就任の弁で、2児の母親としても、原発再稼働に不安があるのは当然だから、国民にはテイネイに説明していきたいと語っていたが、説明して安全になるものではないのが原発であり、原発事故なのである。汚染水の処理も不可能に近く、放射性物質の中間貯蔵施設も「金目」の解決に持ち込もうとするのに必死の状況である。原発の安全性判断の責任を原子力規制委員会も政府も取る気がない中で、安倍首相のエネルギー政策暴走を女性という目くらましで緩和、柔軟化をはかろうとする思惑が見え隠れする。

 何も女性ばかりが弱体なのではなく、たとえば、待機組の江渡防衛・安保体制担当大臣は、就任内定時の議員室で、実にうれしそうに、「いま必死に勉強中で、何度もこれを読んでいる」と記者に見せたのが「安倍政権と安保法制」と読めるペーパーバック様の本だった。こんなものを何度も読んでどうする!もう国会答弁のお粗末さは目に見えるようで、安倍首相と同様、テープレコーダーのように繰り返すのが想像できる。ちなみに、その本というのは、調べてみると、自民党の岐阜県連のHPにこんなお知らせがあった。

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書籍出版のお知らせ「安倍政権と安保法制」【H26.7.3発行】

このたび自由民主党では、「安倍政権と安保法制」を出版いたしました。

本書は、憲法と自衛隊に関する一般常識、安倍政権の安全保障体制の整備、

安保法制に関する閣議決定、35種のQ&Aなどで、

どなたにもご理解をいただける内容となっております。

ご興味をお持ちの方は是非ご一読ください。

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それは、自民党政務調査会調査役 田村重信著『安倍政権と安保法制』(内外出版)で、要するに、自民党員や支援者向けに書かれた本なのだろう。安保法制担当大臣のテキストがこれ一冊?それを臆面もなく記者に披露するとは!

ふりかえれば、消費税増税判断、特定秘密保護法の自公協議末の強行採決、NHKはじめマスコミへの介入の連鎖、ジリジリと後退を迫られているTPP交渉、集団自衛権行使容認を閣議決定でやってのけ、歯止めにならない公明党、原発再稼働や輸出に踏み切った安倍政権だって、随分危ない橋を渡って、攻めどころ満載だったのに、押し切られた野党もだらしない。さらに麻生大臣のナチス発言、石原大臣の福島での「金目」発言、下村大臣の国会答弁ミス、高市自民党政務調査会長の福島原発事故の死者はいない発言、石破幹事長のデモはテロ行為発言、首相の広島の土砂災害発生時の別荘でのゴルフ対応などなど・・・、これらを攻めきれなかった野党もだらしないが、よくも600日も続けさせてしまった国民、支持率も株価も小幅な動きに落ち着くのか・・・。そして新たに続く安倍政権なのである。

安倍改造内閣に見る閣僚担当のネーミング~キラキラネーム、ここまで波及~

 すったもんだで新設された、石破地方創生・国家戦略担当大臣の席、「地方創生」「国家戦略」も言語明瞭、意味不明の部類ではないか。文部科学・教育再生担当大臣の「教育再生」も経済再生・一体改革担当大臣の「経済再生」「一体改革」も不明瞭で、他の省庁との重複状況も不明である。いずれも、人目を引こうとする、自己満足的な、中身の変わらない、一種のキラキラネームのような気がする。

宝塚やタレントの芸名でもあるまいし、と思うような、いわゆる新生児のキラキラネームが話題になってから久しい。最近では、大学名、大学学部名、学科名などにも波及しているらしい。かつて、「観光学部」「不動産学部」などは大学というより専修学校めくと思ったものである。国際、総合、文化、人間、環境などの文字がやたらと付された学部・学科が続々誕生した時代もあった。いまでは「異文化コミュニケーション学部」、「フロンティアサイエンス学部」、「芸術学部パフォーミング・アーツ学科」、「グローバル・メディア・スタディーズ学部」などカタカナが多くなり、一読、何を学べるのかが不明である。少子化の中で学生募集に躍起となっている私立大学の苦悩が見えるようだが、本末転倒のような気がする。国公立大学では、辛うじて、伝統的な名前の学部や学科がまだ健在のようであるが、研究所や研究機構の命名がまさにキラキラネームなのである。

たとえば、東京大学の「知の構造化センター」、「総括プロジェクト機構」って?また、「サステイナビリティ学連携研究機構」が「新領域創成学研究科環境学系サステイナビリティ学大学院プログラム」に移行したという説明もあったが、ますます分からなくなってしまう。理系か文系なのか、学際的でグローバルと言われてみても、こうしたところに、企業からの寄付や膨大な税金が研究費として投入されているのである。今回の理化学研究所のような事件は氷山の一角なのかも知れない。

しかし、国の組織がやたらに名前を変え、業務の担当を変え、ポスト名変えたり増やしたりしていると、予算ばかり増えて、仕事の効率も悪く、責任が曖昧になってゆく。これぞ、政治家や官僚の目くらましではないか。829日に出そろった来年度予算の概算要求は101兆円を超えているというではないか。

9月5日各省庁から集めた70人でスタートしたという「まち ひと しごと創生本部事務局」など、「事ここに極まれる」の感があり、その看板掛けの映像が流れていた。いずれどうなることやら・・・。

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2014年5月28日 (水)

側溝清掃の朝~空き家にハクビシン、捕獲のニュース

先の日曜は側溝清掃の日だった。 311以降、佐倉市の町内一斉の側溝清掃は2年間中止となり、昨年から再開した。側溝の土砂は放射線量が高く、集めても保管するところがないので、除染をせずに放置するというのが、佐倉市の言い分だった。放射線量が特別高いところは再測定後、個別に対応するということだった。

我が家の家周りの側溝も一時は1マイクロシーベルトを超えていた。この2年は測定していない。家周りのグレーチングの土砂は、今年はほとんど堆積しておらず、見送って、もっぱら路傍の草取りに終始した。集積場所にゴミ袋を運ぶ近所のご主人が通りかかり、ついでだからとわが家の分も運んでくださるという。「いまね、カルガモの赤ちゃんが見つかってね、3匹はどうも猫にやられたらしい。3匹を、いま、○さんが公園の池に運ぶところ」との話。親は?どこで生まれたのだろう?近くの公園の池、溜池までには直線で400m近くはある住宅街なのだ。うまく育ってくれるのだろうか。「ハクビシンも▽さんの庭で、市役所に捕獲されたんですよ」とのニュースも。珍獣ではないけれど、街で見かける生き物ではない。▽さんのお宅は、2区画の立派な家で、庭木が鬱蒼としているのだが、この15年ほど空き家のままなのだ。隣の八千代市に住んでいるというが、手入れは行き届かず、枯れ枝や虫の被害がご近所を悩ませているのは聞いていた。が、ハクビシンとは。「なんか、<野生の王国>状態ですね」といえば、「ソウソウ、八木治郎ね」と返ってきた。ひとしきり、八木アナウンサーの話になって、井戸端会議は続く・・・。

ああ、八木治郎、久しぶりに聞く名前だった。NHKでは地味で誠実そうだったけれど、フリーになって、かなりムリをしていないかな、と思っていたときに急逝された。次兄が就職活動をしている1950年代後半、八木アナウンサーが、母の実家のある佐原の出身と聞いて、母は知り合いを辿り、紹介してもらい、NHK受験の次兄は一度だけお会いしたようなことを言っていた。そんなこともあって、フリーになっても気になるアナウンサーであったのだ。調べてみると、1949NHK入局、1965年にフリーとなって、1983年に57才で亡くなっている。次兄は、中学校の英語教師を定年まで務め、62才で急逝した。

私たちの住宅地は30年前に開発され、その後も区画整理などによる開発で、周辺の緑地や雑木林はほとんどなくなってしまった。雑木林のそばに住んでいた町内の友人は、「昔は、タヌキもキジも出没してたんだけどね」という土地柄だったのだが。

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今年のヤマボウシ

 

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