2023年6月30日 (金)

 梅雨空の下諏訪~今井邦子という歌人

  国家公務員共済の宿「諏訪湖荘」のビーナスラインの観光バスと北八ヶ岳ロープウェイを乗り継ぎ、坪庭一周という企画を楽しみにしていたが、あいにくの霧と雨に見舞われた。足に自信がなかったので、私は坪庭はあきらめ、ロープウェイ山頂駅のやたらと広い無料休憩所で、お弁当を一足先に失礼し、スケッチをしてると、40分ほどで一行は戻ってきた。足元がかなり悪かったらしい。観光バスの窓は拭ってもぬぐってもすぐ曇り、百人乗りも可というロープウェイの窓は、往復とも雨滴が流れるほどで、眺望どころではなかった。

 とはいうものの、前日は、夫とともに、下諏訪の今井邦子文学館とハーモ美術館を訪ねることができたし、翌日は雨もやみ、原田泰治美術館に寄り、館内のカフェでのゆったりとランチを楽しむこともできた。鈍色の湖面には水鳥が遊び、対岸の岡谷の町は遠く霞んでいた。諏訪湖一周は16キロあるとのこと、再訪が叶えば、内回り、外回りの路線バスを利用して美術館巡りをしてみたいとも。

 今井邦子文学館は、ところどころ、宿場町の面影を残す中山道沿いの茶屋「松屋」の二階であった。邦子(1890~1948)は、幼少時よりこの家の祖父母に育てられ、『女子文壇』の投稿などを経て、文学を志し、上京し、暮らしが苦しい中、ともかく『中央新聞』社の記者となったが、1911年、同僚の今井健彦(1883~1966。衆議院議員1924~1946年、後公職追放)と結婚、出産、16年に「アララギ」入会、同郷の島木赤彦に師事、短歌をはじめ創作に励むも、自らの病、育児、夫との関係にも苦しみ、一時「一灯園」に拠ったこともあった。困難な時代に女性の自立を目指し、1936年、「アララギ」を離れ、女性だけの短歌結社「明日香」社を創立、1943年には、『朝日新聞』短歌欄の選者を務める。戦時下は、萬葉集『主婦の友』と発行部数を競った『婦人倶楽部』の短歌欄選者をローテーションで務めいる。1944年、親交のあった神近市子の紹介による都下の鶴川村への疎開を経て、1945年4月には、下諏訪の家に疎開したが、1948年7月、心臓麻痺により急逝している。58歳だった。 

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  今井邦子への関心は、かつて『扉を開く女たち―ジェンダーからみた短歌史 1945ー1953』(阿木津英・小林とし子・内野光子著 砂小屋書房 2001年9月)をまとめる過程で、敗戦前後の女性歌人の雑誌執筆頻度を調べた頃に始まる。20年以上前のことだったので検索の手段はアナグロの時代であって、決して網羅的ではないが、今井邦子の登場頻度が高かったことを思い出す。最近では、邦子が、つぎのような歌を『婦選』創刊号(1927年1月)に山田邦子の名で寄せていることを知って、紹介したことがある(『女性展望』市川房枝記念会女性と政治センター編刊 2023年1・2月号)。

・をみな子の生命(いのち)の道にかゝはりある國の會(つど)ひにまいらんものを

 1924年5月の総選挙で、夫、今井健彦が千葉県二区から衆議院議員に当選している。18歳歳以上の男女に選挙権をという普選運動は、1925年3月が普通選挙法が成立、1928年3月の総選挙で初めて実施されたのだが、婦人参政権獲得運動の願いもむなしく、女性は取り残されたまま、そんな中で、久布白落実、市川房枝らによって創刊されたのが『婦選』であった。邦子が寄せた歌にもその口惜しさがにじみ出ているのだった。

  今井邦子文学館は1995年、松屋跡地に復元再建して開館、二階が展示室になっているだけだった。展示目録もなかったようだし、当方のわずかな写真とメモだけで語るのはもどかしい。それでも、斎藤茂吉や島木赤彦からの直筆の手紙、邦子から茂吉のへ手紙など、活字に起こされていて、生々しい一面も伺われて興味深かった。

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展示室の冒頭、詩などを投稿していた『女子文壇』と姉との写真が目を引いた。転任の多かった父の仕事の関係で、邦子は、姉はな子とともに、祖父母に預けられ、育てられ、両親との確執は続く。その姉との絆は強かったが、若くして死別する。

 1911年の結婚、翌年の長女出産を経てまとめた歌文集『姿見日記』(1912年)には相聞歌も見られるが、出産を機に、つぎのような歌が第一歌集『片々』(1915年)には溢れだすのである。

・月光を素肌にあびつ蒼く白く湯気あげつゝも我人を思ひぬ『姿見日記』
・暗き家淋しき母を持てる児がかぶりし青き夏帽子は」『片々』 
・物言はで十日すぎける此男女(ふたり)けものゝ如く荒みはてける
・入日入日まつ赤な入日何か言へ一言言ひて落ちもゆけかし

 1916年アララギ入会、島木赤彦に師事、1917年長男妊娠中にリューマチを患い、治療はかどらず、以降足が不自由な身となる。1924年夫の政界進出、1926年島木赤彦の死をへて1931年に出版した『紫草』では、赤彦の影響は色濃く、作風の変化がみてとれる。「あとがき」によれば「大正五年から昭和三年(1916~1928年)まで」の3000余首から781首を収めた歌集だった。私にとって、気になる歌は数えきれないほどであったが・・・。子供、夫との関係がより鮮明に表れ、思い煩い、嘆き、心が晴れることがなく、一種の諦観へとなだれていくようにも読める。身近に自分を支えてくれた人たち、その別れにも直面する時期に重なる。以下『紫草』より。

・眠りたる労働者の前をいく群の人汗を垂り行きにけるかも(砲兵工廠前)(「しぶき」大正五年)
・青草の土手の下なる四谷駅夜ふけの露に甃石(いし)は濡れ見ゆ(「夜更け」大正六年)
・病身のわれが為めとて蓬風呂焚き給ふ姉は烟にむせつ(「帰郷雑詠」大正六年)
・三年(みととせ)ぶり杖つかず来て程近き郵便箱に手紙入れけり(「荒土」大正八年)
・もの書かむ幾日のおもひつまりたる心は苦し居ねむりつつ(「さつき」大正九年)
・争ひとなりたる言葉思ひかへしくりかへし吾が嘆く夜ふけぬ(「なげき」大正十年)
・つくづくとたけのびし子等やうつし世におのれの事はあきらめてをり(「梅雨のころ」大正十二年)
・土の上にはじめてい寝てあやしかも人間性来の安らけさあり(「関東震災」大正十二年)
・夫に恋ひ慕ひかしづく古り妻の君が心の常あたらしき(「喜志子様に」大正十三年)
・真木ふかき谿よりいづる山水の常あたらしき命(いのち)あらしめ(「山水」大正十四年)
・うつし世に大き命をとげましてなほ成就(とげ)まさむ深きみこころ(「赤彦先生」大正十五年)
・みからだをとりかこみ居るもろ人に加はれる身のかしこさ(「赤彦先生」大正十五年)
・嘆きゐて月日はすぎぬかにかくに耐ふる心に吾はなりなむ(「梅雨くさ」昭和二年)  
・姉上の野辺のおくりにふみしだく山草にまじる空穂の花は(「片羽集二」)
・ありなれて優しき仕へせざりしをかへりみる頃と日はたちにけり(夫に)(「萩花」昭和三年)

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展示会で見た時は、気が付かなかったが、よく見ると謹呈先が「山田邦子様」となっているではないか。今井邦子が旧姓にちなむ、かつてのペンネームであった「山田邦子」あてなのである。かつての自分への「ごほうび」?「おつかれさま」?なのか、ユーモアなのか。

 1935年にはアララギを離れ、翌年には『明日香』(1936年5月~2016年12月)創刊し、みずからも萬葉集などの古典を学び、後進の指導にもあたる。女性歌人の第一人者として、歌壇ばかりでなく、一般メディアへの登場も著しい。その一例として、つぎの調査結果を見てみたい。戦時下の内閣情報局による『最近に於ける婦人執筆者に関する調査』(1941年7月)という部外秘の資料からは、当時の八つの婦人雑誌への女性歌人の執筆頻度がわかる。期間は1940年5月号から1941年4月号までの一年間の執筆件数ではあるが、今井邦子は、他を引きはなし、婦女界5、婦人公論2,婦人朝日2、婦人画報1、新女苑1で計11件、五島美代子4件、茅野雅子3件、柳原白蓮3件であった。さらに2件以下として四賀光子、杉浦翠子、中河幹子、築地藤子、北見志保子、若山喜志子が続いている。いわゆる、当時は「名流夫人」として、名をはせた歌人たちであった。今井健彦、五島茂、茅野蕭々、宮崎龍介夫人であったのである。

 また、短歌雑誌ではどうだろうか。かつて、敗戦前後の女性歌人たちの執筆頻度を調べたことがある(前掲『扉を開く女たち』)今回、若干手直ししてみると、次のようになった。もし、邦子が敗戦後も活動できていたら、どんな歌を残していたか、どんなメッセージを発信していたのか、興味深いところである。

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上記の表から、今井邦子と四賀光子は、敗戦を挟んで激減し、阿部静枝と杉浦翠子は、増加している。生方、水町、中河は変わりなく、一番若かった斎藤史は倍増していることがわかる。

 なお、1942年11月、日本文学報国会の選定、内閣情報局によって発表された「愛国百人一首」について、「一つ残念な事があります」として、声を上げていたのである(「婦人と愛国百人一首」『日本短歌』1944年1月)。選定された百首のうち女性歌人の作が「わづか四人であるといふ、驚くべき結果を示されて居ります。現在の短歌の流行を考へ合わせると、そこにもだし難き不思議ななりゆきを感ずる訳であります」と訴えている。小倉百人一首には女性歌人が二十人選定されている一方、昭和の時代の選定に四人だけということを「長い長い歴史に於て真面目に婦人として考へて見なければならぬ事ではありますまいか」と婦人の無気力を反省しながらも、それはそれとして「女の心は女こそ知る、女も一人でも二人でもその片はしなりと相談にあづかるべきではなかつたらうかと、今も口惜く思ふ次第であります」と、12人の選定委員に女性がひとりもいなかったことにも抗議していた。「愛国百人一首」が国民にどれほど浸透していたかは疑問ながら、こうした発言すら、当時としてはかなりの勇気を要したのではなかったかという点で、注目したのだった。

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戦時下、雑誌統合により休刊となった『明日香』は、1945年10月には、謄写版が出され、その熱意が伝わってくる。1946年2月、邦子の下諏訪の家を発行所として復刊号が出されている。扉の一首「雨やみし故郷の家に居て見れば街道が白くかはきて通る」。

 また、『明日香』は、邦子の没後、姉の娘岩波香代子、川合千鶴子らによって続けられたが、2016年終刊に至る。

 

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2023年2月25日 (土)

『図書新聞』の時評で『<パンデミック>とフェミニズム』が紹介されたのだが

 新・フェミニズム批評の会の事務局から、下記の時評で、『<パンデミック>とフェミニズム』が取り上げられているとのことで、『図書新聞』の画像(一部)が添付されてきた。書評が少ない中で、紹介されたことはありがたいことであった。

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  『図書新聞』では、岡和田晃「《世界内戦》下の文芸時評」が連載中で、2月25日号には「アイデンティティをめぐる抹消させない<女たちの壁>」と題して展開されている。そこで拙稿「貞明皇后の短歌が担った国家的役割―ハンセン病者への<御歌碑>を手がかりに」に言及された部分を引用させていただく。 

明治天皇の歌が翼賛体制を正当化するのに使われた半面、厭戦的な内容を含む貞明皇后の歌はその陰に隠されてきた点や、皇后が「良妻賢母」的なロールモデルを担いつつ、父権的温情主義(バターナリズム)に加担したという二重性を指摘している。

  前半は、その通りなのだが、後半における「ロールモデル」と「父権的温情主義」の「二重性」を指摘しているという件には、驚いた。というのも、突如、現れた「ロールモデル」、「父権的温情主義」、「二重性」という言葉を、私は一切使用していなかったからである。さらに良妻賢母の「典型的なモデル」を“担わされた”ことと貞明皇后のハンセン病者への歌と下賜金に象徴される差別助長策を“担わされた”ことは、「二重性」というよりは、日本の近現代における天皇・皇室が時の権力に利用される存在であるという根幹でつながっていることを、実例で示したかったのである。

 なお、拙稿については、昨秋の当ブログでも記事(2022年10月31日)でも、ダウンロード先を示したが、再掲したので、ご一読いただければ幸いである。

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2023年2月 5日 (日)

若い女性歌人の「仕事」の困難さと楽しさと

 読売新聞で「女が叫ぶみそひともじ」というシリーズが昨秋から始まっているのをネット上で知りました。「男が叫ぶみそひともじ」というシリーズが成り立つのか、と思うと複雑なものがあります。短歌雑誌でも「仕事の歌」といった<特集>は見かけ、さまざまな職種の人たちの短歌を知ることができて、興味深く読んできました。今回の読売のシリーズは、まず、比較的若い女性歌人を対象に、仕事の歌と仕事にまつわるエッセイを同時に載せているところが特色と言えるかもしれません。10人ほどの記事しか読んでいない段階での執筆でしたが、以下が『ポトナム』2月号の歌壇時評です。

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   昨年一〇月から読売新聞が「女が叫ぶみそひともじ」を連載しているのをネット上で知った。「若手女性歌人三五人が、働くことにまつわる短歌とエッセーをリレー形式で連載します。三一文字に詰めこまれた、さまざまな喜怒哀楽を感じてください。」と銘打って、すでに一〇人を数える。一九八〇~九〇年代生まれが対象だろうか。歌壇では知られているベテラン、結社で、あるいはツイッターなどで活躍している人などさまざまである。一〇人の作品は、私にとっては「今風」であっても共感できる作品が多く、各人のエッセーには、女性の働き方が変わってきたようで、決して変わってはいない労働環境のなかで、働き続ける困難と楽しさが見えてくる。

・風に逆らって面接 わたしがわたしでいるために必要なものはなんだろう
(初谷むい 一九九六年生 事務アルバイト)

働くことをやめていた日々もあった作者は「楽しいことが少しずつ増えて、今になった。働く、とはなんなんだろう、とよく思う。お金がもらえる、だけではたぶん、ないのだろう」の思いに至る。

・事務職をやっていますと言うときの事務は広場のようなあかるさ
(佐伯紺 一九九二年生 人材派遣会社員)

人材派遣会社で働きながら、転職活動中という複雑な環境にいる作者は「会社に仕事をしているとめちゃくちゃたくさん人間がいるなと思うから絶望しないでいられるのかもしれない」と語る。

・上司のLINE無視をする朝 その午後も許可もらったり判子もらったり
(竹中優子 大学職員)

職歴も長い作者は「私はよく働く辛さを短歌にする。いつも他人が羨ましく、自分は損をしている気がする。(中略)こんな私が最後にたどり着く場所はどこだろう。本当はただ単純に、誰かに必要とされたり必要としたりして生きていたい」と究極に分け入る。

・資料室に深くに潜ってゆく午後の非常灯から緑の光
(戸田響子 一九八一年生 事務員『未来』)

作者は働き続ける秘訣のように「働くのがしんどいなぁと思ったら、心が逃げていった方向を注意深く見る。おもちゃの指輪のような他愛ない、でもちょっとステキなものがそこに光っている」と。

・パソコンを抱えて帰るバッテリーの熱もいつしか温もりになる
(奥村知世 会社員『心の花』)

結婚し、子育てをしながら働いている作者は「先人が変えていってくれたからこそ、今、私は楽しく働くことができていると思うことも多々ある。そのような良い連鎖の一部になれるようにと願いながら、時々とても疲れてしまう日があっても、前を向いて仕事を続けていると思う」と先人を称える。

 その「先人」たちとは、私などの世代でいえば、働いて生計を立てていた女性歌人たちのつぎのような作品であった。

・俸給を小出しに父へ渡すことみづから憎むわが狭さなり
(富小路禎子『吹雪の舞』一九九三年刊、一九二六~二〇〇二)

・屈託なき若さはややに煩わしく共に働く地下の倉庫に
(三国玲子『蓮歩』一九七八年刊、一九二四~一九八七)

・クレー画集編むよろこびに往来せし妻恋坂も雪降りてゐむ
(三国玲子『鏡壁』一九八六年刊)

・明日の夜になさむ仕事を残しおく眠りゐる間に死ならざむため
(大西民子『野分の章』 一九七八年刊、一九二四~一九九四)

・牧草に種子まじりゐし矢車の咲きいでて六月となる
(石川不二子『牧歌』一九七六年、一九三三~二〇二〇)

(『ポトナム』20232月)

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2023年1月13日 (金)

「國の會ひにまゐらんものを」~変わらぬ女性の願いと壁

『女性展望』1・2月号の巻頭言に寄稿しました。

 『女性展望』はなじみのない方も多いと思いますが、市川房枝記念会女性と政治センター発行の雑誌です。

 1924年12月、久布白落実、市川房枝らが中心となって婦人参政権獲得期成同盟が発足、翌年、婦選獲得同盟と改称し、1927年には機関誌『婦選』を創刊します。『婦選』は、その後『女性展望』と改称し、女性の参政権獲得運動の拠点にもなった雑誌です。1940年、婦選獲得同盟が解消を余儀なくされ、婦人時局研究会へと合流する中で、『女性展望』も1941年8月に終刊します。

 敗戦後、アメリカの占領下で婦人参政権を獲得するに至り、市川は、1947年、戦時下の活動から公職追放、1950年の追放解除を経て、日本婦人有権者同盟会長として復帰します。1946年には、市川の旧居跡に婦人問題研究所によって婦選会館が建てられ、現在の婦選会館の基礎となり、1954年には、『女性展望』が創刊されています。市川の清潔な選挙を実現した議員活動については、もう知る人も少なくなったかもしれません。1980年6月の参議院議員選挙の全国区でトップ当選を果たしましたが、翌年87歳で病死後は、市川房枝記念会としてスタートし、2011年、市川房枝記念会女性と政治センターとなり、女性の政治参加推進の拠点になっています。こうして市川房枝の足跡をたどっただけでも、日本の政治史、女性史における女性の活動の困難さを痛感する思いです。 

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『女性展望』2023年1・2月号

 表題は、1927年『婦選』創刊号に、寄せられた山田(今井)邦子の短歌一首の結句からとりました。末尾の安藤佐貴子の短歌は、20年以上も前に、「女性史とジェンダーを研究する会」で、敗戦直後からの『短歌研究』の一号、一号を読み合わせているときに出会った一首です。私は、『現代短歌と天皇制』(風媒社 2001年)の準備を進めているときでもありました。安藤佐貴子については、会のメンバーでまとめた『扉を開く女たち―ジェンダーからみた短歌史1945~1953』(阿木津英・内野光子・小林とし子著 砂小屋書房 2001年)に収録の阿木津英「法制度変革下動いた女性の歌の意欲」において、五島美代子、山田あきとともに触れられています。

 

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2022年10月31日 (月)

「貞明皇后の短歌」についてのエッセイを寄稿しました

 「新・フェミニズム批評の会」が創立30年になるということで記念論集『<パンデミック>とフェミニズム』(翰林書房 2022年10月)が出版されました。私が友人の誘いで入会したのは、十数年前なので、今回、創立の経緯など初めて知ることになりました。毎月きちんと開かれている研究会にも、なかなか参加できないでいる会員ですが、2012年以降の論文集『<3・11フクシマ>以後のフェミニズム』(御茶の水書房 2012年)、『昭和前期女性文学論』(翰林書房 2016年)、『昭和後期女性文学論』(翰林書房 2020年)には寄稿することができました。30周年記念の論集は、エッセイでも可ということでしたので、「貞明皇后の短歌」について少し調べ始めていたこともあって、気軽に?書き進めました。ところが「査読」が入って、少し慌てたのですが、何とかまとめることができました。

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執筆者は、30人。表紙は、鳩の下の羽根には花畑が、上の羽根には、ブランコに乗った女性いる?という、やさしい装画(竹内美穂子)でした。

 

「貞明皇后の短歌が担った国家的役割――ハンセン病者への「御歌」を手がかりに」

1.沖縄愛楽園の「御歌碑」

2.「をみな」の「しるべ」と限界

3.届かなかった声

4.変わらない皇后短歌の役割

以下で全文をご覧になれます【12月11日】

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2022年9月21日 (水)

忘れてはいけない~覚えているうちに(5)60年前の女子の就活

 私が大学に入ったその年の暮れに、母は56歳で病いで急逝した。その母は、女も資格を持って働き続けなければというのが持論で、大正末期、師範学校を出ながら、出産のため数年で小学校教師を辞めなければならなかったことを嘆いていた。薬局という自営業の父を助け、三人の子育てもしたが、少しは、暮らしに余裕ができて、これから自由にという矢先だったに違いない。もう60年以上も前のことである。

 私も教育系の大学だったので、高校の社会科の教員になるのが第一志望だったが、卒業当時、高校の社会科の教員は、東京都は募集もなかった。近県の教員試験はパスして名簿に登録はされたものの、四月採用は無理だと知らされた。一方で、何の準備もなく大学の就職課の掲示板を眺めては、受験資格「女子も可」という朝日新聞社、岩波書店、中央公論社、講談社・・学生社、グラムフォンなども受けていたが、いずれも一次や二次で落とされていた。当時は、会社説明会なんてなかったのでは。教授や先輩の伝手で、電通や東映などへも、紹介状を持って訪ねていたが、受験には至らなかったのだろう。しかし、なに一つ特技など持たない女子には、厳しかった。不採用通知は今でもファイルに残してある。法律専攻だったので、男子たちは、金融・製造関係や公務員、進学を目指すものが多かった。私は、不勉強がたたって、公務員試験にはまったく自信がなかった。それでも、ようやく年内に、内定をもらっていたのが流通業界、いまでこそ大手スーパーを経営する会社だった。「商売を覚えて来いよ」?と父も喜んでくれた。

スーパーか大学の「助手」か
 ところが、G大学から非常勤でこられていた先生とゼミの先生が勧めてくださったのが、G大学の「助手」にならないかという話だった。G大学は、翌年の法学部新設に伴い共同研室勤務の「助手」が必要だったのである。「大学の助手」の名に惹かれたというのか、ただのミーハーだったのか、大学職員として、ともかく二年間務めた。この間のことは、当ブログでも何回か触れているが、色々な先生たちの「生態」や「私立大学」の実情を垣間見ることができたし、生家の池袋や出身大学にくらべると、目白のキャンパスは別世界のようで、楽しかった。考えてみれば当たり前だったのだが、共同研究室の「助手」の仕事はあくまでも先生方の「お手伝い」であることが分かって、二年目にして転職を考えなければならなかった。

図書館で働く
 国家公務員試験には、手が届きそうもない。国立国会図書館(NDL)が独自の採用試験を実施していることを知って、もしかしたらと、にわか勉強の末、何とか、面接までたどり着いた。古巣のゼミの先生にその顛末を告げると、OBのNDL職員を紹介してくださり、会うことになった。さらに、そのOBの先輩の職員にも会い、アドバイスを受けた。面接試験の日も迫ってのことだった。面接の内容は、もう思い出せないのだが、ともかく合格し、本格的な職業生活のスタートを切った。後から考えると、この年の採用は、新館完成を控え、採用人数が、例年になく多い年だったのだ。紛れ込んだといってもよかったかもしれない。
 もう、「ここで、一生働くぞ」との思いだった。一時期、働きながら司法試験を目指す大学の友人たちのグループに入ったりもしたが、基礎学力不足と私の性格からムリとあきらめたこともある。もし、第一志望通り、教員になれたとしても、教育実習先の母校の高校で指導に当たった先生からは、「君は教師には向かないかも」とまで言われていたし、内定していたスーパー業界に入ってたとしても、激烈な競争業界で無事すごせたか、どちらも長続きできたか、怪しいものである。
 NDLでの仕事は、法律関係のレファレンス部門だったが、自分のペースで仕事ができる雰囲気の職場だった。飛び込んでくる利用者にも、ある程度、「過去問」の蓄積で回答できるものもわかってきたり、一緒に閲覧カード!!(現在はすべて撤去)を検索したりした。電話での質問も多く、即答できるものもあれば、時間をもらって回答することも多かった。外部から届く文書での質問は、上司から振り当てられたが、課内にある書誌や参考図書からスタートして、書庫との往復で、ずばり回答に近い資料に行きあたればよろこび、回答には至らなかったものについては検索過程を知らせるようにして、悔しい思いもする。その過程で、多くの先輩たちの残した資料や指導には教えられることが多かった。そして、何より楽しみだったのが、毎週1回「選書日」というのがあって、納本された図書をこの目で確かめられることできたことである。自分の課でレファレンス用として欲しい副本を選んでカードを挟むのが本来の目的だった。ともかく、背表紙だけでも新刊書と出会えるのがうれしかった。それに課内でのお茶の時間、年1回の職場旅行、暑気払い、忘年会、有志でのスキーなども結構盛んであった。書道サークルでの展覧会や合宿もと、忙しかった。

名古屋の女子短大図書館へ
 10年後には、縁あって結婚したが、連れ合いの職場が名古屋だったもので、名古屋で職が見つかるまでは、このまま、頑張る!と、私の単身赴任?が続いた。当時はまだ、「単身赴任」といういい方はなく、「別居結婚」とか言われていた。週末には、どちらか名古屋と当時私の住まいのあった川崎と行ったり来たりという生活だった。その間、名古屋での就活では、NDLの上司からの紹介により、当時、県立図書館長にお会いしたところ、市内のT女子短大の図書館の話が持ち上がった。翌年の四月採用ということであったのだが、なんと出産予定日が八月とわかり、この話は、半分諦めかけていた。それでも、短大の面接に出かけ、実情を話した。が、すんなり、決まったのである。
 その年の三月三一日までNDLに出勤し、翌四月一日には名古屋の短大図書館に出勤していた。短大での同僚の女性二人は年下で、短大の卒業生で、司書資格を持っていた。彼女たちに、私の八月出産のことは「聞いていない!」と言われたときはショックであった。短大の先生たちの産休には、もちろん先例はあったが、職員は初めてだという。当時は産前産後の休暇は6週間であった。ともかく、6週間前まで務め、夏休みを挟み、産後は診断書をもらい2週間延長して8週間の休暇をもらった。教員が主力の労働組合であったが、アドバイスももらったが、代替要員などについては、事務局も応じることはなかった。
 何しろ、その短大図書館は、当時、図書購入費が2000万円を越える規模で、全国の短大でもトップクラスであった。大部分が研究図書費で、多くは研究室に別置され、図書館で利用できる図書が極端に少なかった。副学長、館長を含む教員たちによる図書館委員会では、研修の必要性を説き、地元の短大図書館協議会はじめ、全国短大図書館協議会の研修会、全国図書館大会ほかいくつかの研修会には、職員三人が交代で参加できるようにし、図書館職員の「出張」が認められるようになった。図書館業務にも機械化が進み、その研修などにも追われた。徐々に学生が利用できる雑誌を増やし、図書も増やし、研修、ニュースの発行なども重なると、今度は人員が足りなくなる。アルバイト1人、2人と増えたが、やはり正職員が欲しかった。その後、男子職員も入ったが、県立高校長を退職した上司を迎えるはめになった。 
 名古屋に転職した翌年、お世話になった県立図書館長から、それまで兼任されていた愛知学院大学司書講習会講師の話をいただいた。「参考書誌演習」という科目(2単位ながら1日4コマ1週間)を10年間担当していた。講習会は、夏の休暇を中心に展開されるので、一週間とはいえ、娘の保育園・小学校時代と重なるので、苦労も多かった。「教える」ことはまさに学ぶことでもあって、苦しいこともあったが、楽しさもあった。毎年200人前後の受講生を相手に、概論の後、少人数のグループごとに演習課題を課し、発表してもらい、講評するという手順だった。テキストの作成と補充、演習課題は、毎年少しづつ新しいものに変えていくのは、短大の仕事とは違う楽しさもあり、名古屋を離れるまで、ちょうど十年にわたっての仕事となった。いまのようなネット社会が来るとは思わなかったが、現在も「演習」は形を変えて残っているようで、愛知学院大学の司書講習会は120人規模で健在であった。

千葉の新設大学図書館に
 名古屋弁も聞きなれた10年後には、連れ合いの東京への転任が決まった。仕事を手離したくなかった私は、またもや就活である。こちらも若くはなかったが、続けるとしたら、やはり図書館しかないと、思いつめていた。結局、『図書館雑誌』の求人欄に応募して、都内の私立大学の図書館の非常勤職員として、四月半ばから勤めることになっていた。名古屋から千葉県の仮住まいに転居し、引っ越し荷物の整理のさなか、まったくの前触れもなく、千葉県に新設されたばかりの大学のN図書館長という人の訪問を受けた。いま職員は二人いるが、図書館業務の経験のある人を探しているというのである。ある国立大学で助手を務めていた友人の上司にあたる教授から当方のことを聞いたという。希望するならば、正職員として採用の予定だから、大学の理事長に会って欲しいと。二日後には、面接を受けて、前職直近の給与、図書館は土曜も開館するが、週休二日でという条件を出してみたところ、即決してしまったのである。N図書館長は、後から伺うと、NDLからある研究所に転職、定年まで勤められ、新設大学の教授となった方だった。その新設大学は、中・高等学校を含む学園の創業者の発言力が強いことがわかった。図書館が発行する「図書館だより」の中身までチェックされるようになり、仕事が増えても、増員は非正規でしか補われなかった。


 結局、六年余りで、早期退職し、進学の道を選ぶことになる。振り返れば、どの場面の就活でも、なんと多くの方々にお世話になったことかと感慨深い。きちんとした謝意を伝えられたのか、期待に応えた仕事ができたのかも心細い。そして、支えてくれた家族にも。考えてみると、四つの職場を渡り歩いた三十年余りの半端な職業生活ではあったが、いまの暮らしや考え方に大きな影響を受けていることは確かなようである。
 ネットを見れば転職サイト、テレビでも転職を進めるCMも多い時代である。いまの若い人の「転職」の考え方も知りたい。とくに女性は働きやすくなったのか、女性が非正規という働き方の受け皿になっていないのか、転職が「正解」なのか、転職するしかなかったのか。就活スーツの女性を見ると「就活」頑張ってね!「転職」して大丈夫?と声をかけたくなるのだが。

 

 

 

 

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2022年6月26日 (日)

忘れてはいけない、覚えているうちに(1)「戦後短歌史とジェンダーを研究する会」の最後の会計係

 あまり好きな言葉ではないが、「断捨離」のさなか、身辺整理を始めてはいるが、なかなか片付かない。この間は、台所の食器類を整理した。まるで使ってないワイングラスのセットやコーヒーカップ、菓子皿や茶たくなどを取り出してみた。近くの散歩コースにある高齢者施設には、いきなり声をかけさせてもらった。若い施設長がやって来て、「ほんとに欲しいものだけでいいんですか」「これはお客さん用に」「花びんはありがたいです。季節の花は、皆さんよろこばれますから」と段ボール一杯ほどだが引き取ってくださった。雑誌や本、ノート、コピーした資料、手紙などになるとそう簡単にはいかない。

 古いファイルの一つを開いてみると、「戦後短歌史とジェンダーを研究会 会計ノート」と会場借用料の領収書が出てきた。記帳によると、2002年11月30日から2009年11月20日までで、残高2805円とあり、現金が入った封筒が挟まれていた。ノートによれば、私が、2009年6月から会計係を務めていたらしい。

 この会のあらましは、『扉を開いた女たち―ジェンダーからみた短歌史』(砂小屋書房 2002年3月)の「あとがき」にも記しているが、1995年秋、阿木津英の呼びかけで、1996年1月、銀座の「滝沢」で8名の女性歌人によって立ち上げられた。当初は、ほぼ2カ月おきに、戦後の短歌雑誌を、ひとまず1953年まで読み込んでみようということで、交代のレポートをもとに検証を進めた。そして、その成果は、最後まで残った阿木津、小林とし子と私の3人の共著『扉を開いた女たち』となった。この書は、東京女性財団の出版助成100万円を受けたことも忘れ難い。当時の石原都知事は、2001年度をもって、この事業を廃止してしまったのである。

 その出版を受けて、あたらしいメンバーで、再スタートした痕跡が、上記ノートに残されていた。2002年11月、銀座ルノアールで、上記の阿木津、小林、内野に、森山晴美、藤木直実、佐竹游が参加、その後は、空室を求めて中央区の区民館―銀座、人形町、新場、久松町、堀留町、京橋・・・と転々とした。途中、浜田美枝子も参加したが、去るメンバーもあって、2010年9月7日、銀座ルノアールの会で、研究会は中止となった。その成果を会として、まとめられなかったのは残念な思いもするが、その後は、各自が、ここに挙げるまでもなく、自らの研究成果や歌集を出版され、活躍されているのは、かつての、あの熱量を懐かしむとともに、心強くも思う昨今である。

 残高は、私がいつも古切手をお送りしている、かにた婦人の村「かにた後援会」(千葉県館山市大賀594)にカンパさせてもらうつもりなのだが、それでよろしいものか。

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先日、シルバーサービスのK
さんたち二人にお願いして、ドクダミほかの草引きをしていただいた。二年半ぶりなので、今度は早めにと言われてしまった。7月初めには、庭木の剪定もお願いしているが、スケジュールが込んでいるそうだ。写真左、数年前、移植したあじさいも今年は咲いてくれそう。

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2022年6月 7日 (火)

『喜べ、幸いなる魂よ』(佐藤亜紀)~フランドル地方が舞台と知って

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  近年、めったに小説など読むことはないのだが、主人公がフランドル地方のゲント(現地の読み方がヘントらしい)のベギン会の修道院で暮らす女性と知って、読み始めた。というのも、すでに20年も前のことなのだが、2002年の秋、ブリュッセルに何泊かしたときに、日帰りで、ゲントに出かけて、その小さな街の雰囲気が印象深かったこと、ブルージュに出かけた日は、ふと立ち寄ったベギン会修道院のたたずまいが忘れがたいこともあって、ぜひ、読まねばとの思いに駆られた。 

  小説は、18世紀、亜麻糸を手堅く商う家に生まれた双子の姉ヤネケと養子として引き取られたヤンとの愛の物語である。読書が大好きで、数学や天文学などにも関心が深いヤネケはまるで実験かのようにヤンと愛し合い、二人の間に生まれた子は、二人と引き離され乳母に預けられる。ヤネケは、母方の叔母が暮らすベギン会修道院に入ってしまう。ヤンは、子への愛を断ち切れず引き取り、亜麻糸の商人として働きながら育てるのだった。当時の女性は子を産むことと家を守ることに専念すべきで、学問をするなど許される時代ではなく、双子の弟のテオやヤンの名前で本を出版して、認められるようにもなってゆく。テオは、野心家の市長の娘と結婚するが不慮の事故で急逝すると、市長の娘とヤンは結婚、亜麻糸商を任されることになる。ヤンは、店の帳簿を、数字に強いヤネケに点検してもらうために、修道院に通ったり、ヤネケは、二人ならば許されるという外出を利用して、しばしば生家を訪れたりして、ヤンや子供のレオとの交流もする。

  ベギン会の修道院は、一般社会と切断されているものではなく、統括する組織もなく、信仰に入った単身女性たちは、敷地内のテラスハウスのような住居を所有する。外出も可能で、居住区以外は、男性の出入りもできたという。それぞれ、資産を持ち、亜麻を梳いたり、レース編みをしたり、あるいは家庭教師になったり、さまざまな技能と労働をもって、自分で生計を立て、貯えもする。

  敷地内で、ヤネケが育てているリンゴの木、毎年少しづつ美味になってゆく果実をヤンと食す場面が象徴的でもある。市長の娘の妻との暮らしもつかの間、風邪をこじらせ急逝、今度は、ヤンが市長の座にふさわしい妻をということで、貴族の未亡人と結婚したが、出産時に死去、ふたたびひとり身になるのだ。

 ただ、成長した子供のレオは、ヤネケが母とは知らず、なつかないまま、商売の手伝いをするわけでもなく、やがて家を出てしまう。そして、ヤネケとヤンの老齢期に近づくころ、二人にとっても、フランドル地方にとっても思わぬ展開になるのだが、二人の愛は、揺らぐものではなかった・・・。

 登場人物の名をなかなか覚えられないので、外国文学は苦手なのだが、この小説でも登場人物一覧にときどき立ち戻るのだった。著者は、フランスへの留学経験があるものの、研究書などによる時代考証に苦労したに違いないが、女性の自立と愛の形を問いかける一冊となった。

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ブルージュの街を散策中、長い石塀をめぐらせている施設があったので、何の気なしに小さな戸口から入ってみると、そこには、林の中に白い建物が立ち並ぶ静寂な世界が広がっていた。旧ベギン会の修道院で、13世紀のフランドル伯夫人の手により設立されたが、現存の建物は、17世紀にさかのぼる。いまはベネデイクト会女子修道院として利用されている。ゲントには、二つのベギン会の修道院があるが、訪ねることができなかった。フランドル地方に14あったベギン会修道院は、ユネスコ世界遺産に登録されてるという。

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上が、ゲント市内全景。2002年当時の現地の観光案内書から。下は、正面が聖バーフ大聖堂。

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ゲントは、どこを切り取っても絵になるような街である。

ゲントについては、下記の当ブログ記事でもふれている。

エミール・クラウス展とゲントの思い出(2)(2013年7月9日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/07/post-d279.html

 

 

 

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2022年3月22日 (火)

『津田梅子―科学への道、大学の夢』(古川安)を読む~津田梅子は何と闘ったのか

 東大出版会のPR誌「UP」3月号に載っていた著者古川安氏の「ブリンマーと津田梅子と私」という執筆余話を読んで、本書を読みたくなった。新刊なので、どうかなと思ったが、市立図書館ですんなり借りることができた。

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1892年6月、再留学時の写真と思われる、の説明がある

 津田梅子(1864~1929)が、1871年、北海道開拓使による女子留学生五人の内の一人としてアメリカへ渡ったのが七歳で、最年少であった。歴史の教科書で知ってはいたものの想像がつかない世界だった。アメリカの家庭において11年にわたる中等教育を受けて、帰国後、華族女学校の英語教師などに就き、1900年女子英学塾(後の津田塾大学)を創立、女子の高等教育の向上、「職業婦人」の育成を目指した、近代日本の教育史や女性史には必ず登場する女性である。かつて大庭みな子による伝記『津田梅子』(朝日新聞社 1990年)を読んだことがあった。梅子は短歌を詠んでいないかなという関心からだったが、どうも、短歌とは縁がなかったようだ。

  本書の著者は、科学史が専攻の研究者で、サバティカル休暇でペンシルバニア大学に留学中に、従来の梅子の伝記ではあまり語られることのなかったブリンマー大学に再留学し、生物学を学んだ三年間に関心を深めたという。学業に専念し、研究者としての成果を上げ、後に、ノーベル賞を受けるトマス・H・モーガン教授の指導の下、共著の論文を公表していたことも知り、さらに丹念に調べていくうちに本書を書くに至ったという。
  本書を読み始めると、梅子が1882年17歳で帰国後、就いた英語教師や日本での女性の地位の低さに落胆、葛藤の末、1889年、再び留学を決意、華族女学校からの官費により92年までの三年間、フィラデルフィア市近郊のブリンマー大学で、生物学を学びながら、教育現場の視察などにも熱心だったことがわかる。ブリンマー大学ほかアメリカの大学のコレクションやアーカイブに残された資料、津田塾大学津田梅子資料室、学習院アーカイブ、宮内庁の公文書館などの資料を駆使してしての渾身の津田梅子の伝記である。ブリンマー大学からは、研究者として残ることを勧められながらも、帰国していたこともわかる。もし続けていたら、日本の女性科学者の嚆矢になっていたかもしれない。当時の梅子の心情は、どうであったのか、興味深いところでもある。
 それにしても、最初に留学した折の船旅を共にした岩倉具視使節団一行の一人伊藤博文との交情、アメリカでの育ての親ともいうべきプロテスタント教徒のランマン夫妻、ともに帰国した山川(大山)捨松、永井(瓜生)繁子との友情、迎えた少弁務使の森有礼との出会い、華族女学校の下田歌子、女子英学塾の創立に尽力した新渡戸稲造、星野あい・山川菊栄らとの師弟愛・・・。実に多くの人たちとの交流、支援があったこともわかってくる。

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本書22~23頁から。右上:1871年渡米直後、ランマン夫妻の家にて。右下:1976年11歳頃。
左:1876年夏、フィラデルフィア万国博覧会で再会した、左から梅子、山川捨松、永井繁子。
                                                                                

 そういえば、梅子の父親の津田仙(1837~1908)は、私の住む佐倉市ゆかりの人である。佐倉藩の武士の家に生まれ、1861年江戸の武士の家の津田初子(1842~1909)と結婚、婿養子となり、夭折の子を含め五男七女を成し、梅子は次女であった。早くよりオランダやイギリスの医師から英語を学び、幕府の通訳として訪米したことから、アメリカの文化や農業に触れ、維新後は、外国人用ホテルで働き、西洋野菜アスパラガス、イチゴなどを栽培、1873年ウィーンの万国博博覧会に随行、オーストリアで農業技術を学び、1876年学農社農学校を起こし、農作物の栽培、販売、輸入、『農業雑誌』創刊など、農業技術の発展に努めている。それに先立ち1874年夫婦でメソジスト派の洗礼を受け、青山学院の前身である女子小学校、筑波大付属盲学校の前身である特殊学校の創立にかかわり、普連土学園の名付け親にもなり、女子教育の向上にも努めた。農学校の教師に内村鑑三らを迎え、卒業生には『農業雑誌』の編集人を務める巖本善治らを輩出、足尾鉱毒事件の田中正造を支援するといった、その活動と人脈の広さには目を見張るものがある。

 その津田仙を顕彰しようと、佐倉市では、命日の4月23日前後に、市内の全小中学校給食に、西洋野菜をふんだんに使った「津田仙メニュー」が供されている。それも大事だが、明治を駆け抜けた、いわば型破りともいえるの津田仙・梅子親子にも光を当ててほしいな、とも思う。

 なお、3月5日にテレビ朝日のドラマ「津田梅子―お札になった留学生」(脚本橋部敦子、監督藤田明二)が放映された。ドラマは、広瀬すず演ずる梅子の最初の留学後、そして二回目の留学後も日本の女性の地位の低さ、女性にとっての職業や結婚への男性の偏見と闘う姿、めげずに最初の留学同期の山川捨松、永井繁子との曲折を経ながらも熱く結ばれた友情、女子英学塾創立に至る時代に焦点が当てられていた。伊藤英明演ずる津田仙もたびたび登場するが、六歳の梅子を留学させる英断、仙の幅広い社会的活動とは裏腹に、旧態然とした家族観、結婚観などが梅子の活動のブレーキにもなっていたことにも触れていて興味深いものがあった。仙には二人の婚外子もいたという。ちなみに、佐倉藩旧堀田邸でのロケも行われたらしいが、舞台が佐倉というわけではない。衣裳考証さん、広瀬すずさん、頑張りましたね。伊藤博文役の田中圭、森有礼役のディーン・フジオカ、ご苦労様でした。二人とも暗殺されるのだが、ドラマではスルー?

 2024年、新5000円札は、樋口一葉から津田梅子に代わる。

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2022年3月5日放映、テレビ朝日ドラマ「津田梅子~お札になった留学生」のキャスト

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広瀬すずを真ん中に池田エライザ(山川捨松)、佐久間由衣(永井繁子)。広瀬以外、二人の女優を私は知らなかった。

 

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2022年2月 3日 (木)

根付く「不平等」の壁

 以下は、『ポトナム』に寄稿した歌壇時評である。
 一つ前の記事は、貞明皇后の短歌を引いた。今回は、明治天皇美子皇后、昭憲皇太后の短歌の引用で始まる。今は、旧著でも、このブログでも何回か触れているが、平成期の美智子皇后の短歌を読み、少しまとまった文章を書こうと思っている。昭和期の良子皇后、現代の雅子皇后も含めて、近現代の皇后は、それぞれに、ことなった性格や能力を持っていたと思うが、彼女らの行動や例えば短歌にしても、政治に利用されるという大きな役割からはみ出すことはなかった。あったであろう葛藤や配慮が痛ましいだけに、現代こそ、天皇制そのものが、不平等や格差を広げ、その根源になっていることを自覚しなければならないだろう。

=============

・松が枝にたちならびてもさく花のよわきこころは見ゆべきものを(「男女同権といふこと」)

・むつまじき中洲にあそぶみさごすらおのづからなる道はありけり(「夫婦有別」)

 最近、明治以降の皇后の短歌を読んでいる。類歌が多い中で、「詞書」が珍しかったので、この二首に立ち止まった。一八七九年、明治天皇の美子皇后の歌である。教育、とくに女子教育の普及に熱心であったことは知られるところだが、女性の「よわきこころ」、「おのづからなる道」、その弱さ、役割分担というものをわきまえ、それを積極的に自覚すべきだと説いている。皇后としては、女性の「エリート」の育成を目論みながらも、女性低位の教育制度をはみ出るものではなかった。当時、中村正直によるJ・S・ミルの訳書や福沢諭吉の『学問のすすめ』などが刊行され、「新聞紙上では”男女同権”が一大流行語になった」(関口すみ子「男女同権論」『女性学事典』岩波書店 二〇〇二年六月 三三三頁)ことを、見逃さずに詠んだものと思う。

 「男女同権」とは、もはや死語に近いのかもしれない。近年は、ジェンダーの平等、多様性の尊重という言葉に入れ替わりながら、平等が語られるようになった。二〇一五年、国連サミットで、二〇三〇年を達成期限として採択された「SDGs(持続可能な開発目標)」の一七の目標の一つとして「ジェンダー平等を実現しよう」が掲げられた。政治家やタレントたちが、あの一七色?のドーナツ型のバッジをつけはじめた。「世界中の人々が豊かに暮らし続けていくための世界共通」の「開発目標」の一環なのかと思うと、どこか違和感を持ってしまう。さらに、社会的性差、文化的性差をなくすことが「多様性の尊重」に束ねられてしまうことにも危惧を覚えてしまう。あのバッジが氾濫しても、現実には「世界経済フォーラム」によるジェンダーギャップ指数はいずれの分野でも低位から抜け出せず、各様のパワハラ、セクハラは後を絶たない。夫婦別姓すらも法制化することができない。

・「新しい女」と言ひしは百年前いまなほ上書き入力つづく
    寺島博子『歌壇』二〇二一年八月

・旧姓を筆名とするその後の厨の海鼠は真夜ふとりぬ
    大野景子「作品点描」『角川短歌年鑑』二〇二二年版

   新刊の『角川短歌年鑑』では、「作品点描」「自選作品集」の配列が、従来の世代別から五十音順に変更された。「編集後記」によれば年代を超えてより多くの作品に触れ、氏名による検索がしやすいようにということであった。年齢によって作品の評価がされがちなことから解放されるという意味でもよかったと思う。
   また、最近、大学を拠点とする短歌会出身の若い歌人たちが活躍するようになった。すると、歌壇では、大学院生とか大学教員などの肩書がさりげなく表示されることが多くなり、いまだ学歴社会を引きづっているようにも思う。そして、職業に貴賤はないというものの、「図書館長になった」の詞書のある、つぎのような一首に出会った。館長は閑職ではなく、激職のはずなのに。

・大学の最後の仕事 書生らの守り神なりわれはよろこぶ
   坂井修一「漏刻」『短歌』二〇二一年一〇月

   三〇余年、その大半を大学図書館で働いてきた身としては、「いまだに変わっていないな」の思いしきりであった。教員にとって、図書館職員は「書生?」なのである。(『ポトナム』2022年2月) 

 

 

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