2017年11月 5日 (日)

晩年の母の一首、見つけました

 風邪でしばらく外出を控えていたが、図書館通いを再開、国立国会図書館にでかけた。10月15日のブログ記事、母の晩年の短歌を知りたく、「女流短歌連盟」の「第1回女人短歌会」の入選作を報じる記事があればと、後援が毎日新聞社なので開催日1957627日直後の『毎日新聞縮刷版』7月号をのぞくと、なんと72日にずばりの記事があった。

「入選者決まる 第一回女人短歌会」の見出しで、十人の入選者の作品と名前があった。十人の中には、岡山たづ子(岡山巌夫人)や山本かね子(後の『沃野』代表)の名前があったのも驚きであった。

内野佳子(東京) 

磨きたる廻転窓の玻璃すきて厨浄むる如く陽の射す

 そういえば、この一首、母が色紙に書いているのを見たことがあった。母にとっては大事な一首であったにちがいない。阿部静枝先生も指導に当たっていた、地元の『豊島新聞』の歌会や『ポトナム』の歌会に参加して間もないころの入選である。これが励みになって、短歌からは離れられなくなっていったのだろう。

 この記事の翌日73日には、生方たつゑが「生活のうた 『女人短歌会』のこと」という記事で、入選作品の短評と以下のような総評もなされていた。

「日本の体質は短歌的であり、女性の体質はさらに短歌的である。情感で享け、情感で消化しやすい。しかし、今回多くの応募歌の選をしながら発見しえたことは、女性がたしかに思惟の世界をもちつつあるということであった。じめじめした女の暗さや、血のねばねばした詠嘆から、もっと知的な、内発的な開眼が行われつつある。・・・」

 母は、長兄は、大正15年年生まれなので、昭和の歴史とともに母として、商店の主婦として働き、三人の子を育てた。このころ、末っ子の私が高校生で、教育やPTAの役員などからの解放感もあったのではないか。これからいろいろやってみたいことがあったろうに、二年半後、母は56歳の若さで亡くなる。いまの医学をもってしたら、きっと克服できたにちがいないとも。親孝行したいときには・・・、としみじみ思った日もすでに遠い。

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2017年6月19日 (月)

戦時下の女性雑誌における「短歌欄」と歌人たち―『新女苑』を中心に   

 加計問題について調べていくと、いろいろ出て来て、書きとどめておきたいことがある。諮問会議のもとでは、ワーキンググループ、区域会議などの組織が設けられている。さらに、安倍首相が、「<分科会>で専門の先生方にも議論いただいて・・・、<分科会>知ってますか、知らないでしょう!」と、質問の議員に応えていた分科会、その議論の中身とて、首相の言う内容のあるものではないが、分科会自体と諮問会議との関係、内閣府地方創生推進事務局の中での位置づけが明確ではない・・・。今問い合わせているのだが・・・。

 今回、加計問題は小休止をして、最近、活字になった論稿をアップしておきたい。

 歌人、ジャーナリストであり、国文学研究者であった窪田空穂は、今年生誕140年、没後50年ということで、角川『短歌』6月号で「いまこそ空穂」という特集を組んでいる。私は、ここ数年、阿部静枝と斎藤史研究の基礎作業として、著作目録を作成中だが、二人とも幅広いメディアで活躍したので、かつての「婦人雑誌」と呼ばれ、多くの読者数を誇っていた女性雑誌に多くの作品やエッセイを残していた。そこでの文献探索中に、「婦人雑誌」の短歌欄に着目した。その一端を、『ポトナム』95周年記念号(2017年4月)に寄稿したので、再録しておきたい。紙面に制限があったので、かなり端折ってしまったが、あらためて、本などにまとめる際には、追補したい。

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 空穂の戦時下の作品については、島田修三「窪田空穂、戦時詠」『昭和短歌の再検討』砂小屋書房 2001年)の論稿があり、空穂の「戦争観」をたどり、「本人の意に添っての錯誤ないしは禁忌として封殺しつづけるならば、この巨大な歌人は生の全貌を不自然に歪ませたまま短歌史の闇をさままいつづけることになりはしないか」と結んでいる。今回の特集の執筆者は、ほぼ、空穂系の歌人で固められているので、
この辺りに触れているのは、今野寿美「忘るる得たり」で、『明闇』から戦時下の作品を除いた『茜雲』編集に衝撃をうけ、戸惑い、「報道のままに歓喜する姿の浮かぶ様相は、むしろ痛ましい」ともいうが。

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戦時下の女性雑誌における「短歌欄」と歌人たち―『新女苑』を中心に 

 

はじめに

拙稿「女性歌人はマス・メディアにおいてどのように位置づけられたか―敗戦前の女性雑誌の短歌欄を中心に」(『扉を開く女たち』二〇〇一年)では、主に『主婦の友』『婦人之友』を対象とし、「内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか~女性歌人起用の背景」(『天皇の短歌は何を語るのか』二〇一三年)では、阿部静枝の執筆が多かった女性雑誌の短歌欄に言及した。本稿では、太平洋戦争下における女性雑誌『新女苑』の短歌欄と選者、女性歌人の短歌に焦点をあてたい。

『新女苑』は、『少女の友』の主筆内山基(19031983)が主筆を兼ね、一九三七年一月、實業之日本社から創刊され、当時としては、若い女性向きの斬新な雑誌であり、敗戦をはさんで一九五九年まで刊行された。「創刊のことば」によれば「若き女性の静かにして内に燃える教養の伴侶」「少女雑誌と婦人雑誌の中間的存在」を目指した雑誌であった。当時の主婦向けの実用雑誌『主婦の友』『婦人倶楽部』などとは一線を画し、働く女性たちをもターゲットにした女性雑誌であった。吉屋信子ら著名作家による小説、グラビア、エッセイ、手記、座談会などに加え、翻訳文学、海外事情などにも及び、各分野の時評欄を充実させるなど編集に工夫が見える。平塚らいてう・宮本百合子・山川菊栄・金子しげり・奥むめお・高良富子ら女性の論客たちもしきりに登場していた。そうした編集方針を背景にしている「読者文芸」の一つ、「短歌」欄における選歌の動向や入賞作品の推移を見てみよう。

 『新女苑』の研究として、入江寿賀子「『新女苑』考」(『戦争と女性雑誌』二〇〇一年)と石田あゆう「<若い女性>雑誌に見る戦時と戦後―『新女苑』を中心に」(『マス・コミュニケ―ション研究』二〇一〇年)があるが、歌人や短歌についての言及はない。内山基については、ともに二〇〇四年刊の遠藤寛子『《少女の友》とその時代』(本の泉社)、佐藤卓己「実業之日本社の場合―内山基の恨み」『言論統制』(中央公論新社)がある。 

窪田空穂が選ぶ「短歌」欄

一九三七年三月号からスタートした「読者文芸」の「短歌」欄の選者は窪田空穂(18771967)であった。

・いねし子の口は静かにほころべり夢みつるらしほほゑみのうく

(一九三七年三月 大分 黄金眞弓)

・此の襖へだてヽ未だ寝ぬ人のありと思へばお落ちつかぬかも

(同上 奈良 松谷千鶴子)

入賞作品は、家庭の日常、相聞や働く女性の歌も多く、毎月三頁にわたる一〇〇首以上の作品が掲載された。いわゆる戦時詠、銃後詠などは、他誌の読者歌壇に比べてかなり少ない。つぎに、一九四〇年二月号をのぞいてみると、四首目のような作品は極めて稀であった。

・つきつめし思ひにふれてこほろぎは一直線の聲透すなり

(西宮 徳山くら)

・務終へ心つかれし吾が目には時雨にぬれし舗道は美し

(京城 丘志津)

・つつがなく今日も終りて安らかに我が事務机ふき清めたり

 (東京 浜田彰子)

・やうやくに召さされし兄は胸張りて秋の大空にこヽろよげなり

 (鹿児島 立山成子)

一般的に、新聞・雑誌が読者歌壇を設けるのは、まず、短歌愛好者の読者獲得という営業目的のためと同時に、「短歌」は、比較的気軽に嗜むことができる文芸の一つであり、作歌をしない読者にとっても、教養・実用記事が続くなかで、ほっとできるオアシス的な存在であったのではないか。さらに、短歌愛好者、投稿者にとっては、読者層やテーマも限定的で、より親しみやすく、入選頻度が高く、満足度も高かったにちがいない。投稿される短歌も表現技術や公式的な戦意高揚を競うものではなく、心情を吐露する素直な作品が多かったことが垣間見られるのである。

『新女苑』「短歌」欄の選者は、通して窪田空穂が務めていた。『主婦之友』『婦人之友』の二誌では若山喜志子が長く、『主婦之友』では太田水穂も長かった。『婦人朝日』は今井邦子、『婦人倶楽部』は、交代ながら選者はすべて女性歌人であった。『婦女界』の佐佐木信綱も長い。『婦人画報』『婦人公論』は読者歌壇を持たなかったが、『婦人公論』は、一九四二年、「愛国の歌」を募集、土屋文明、北原白秋、佐佐木信綱が交代で選者を務めたことがある。

一九三七年七月七日中戦争開始を受けて、出版統制はますます厳しい時代に入った。翌年四月国家総動員法が成立、五月内務省警保局から「婦人雑誌ニ対スル取締方針」が発表され、九月内務省図書課から雑誌社代表に貞操軽視の小説は不可の指示が、一一月内務省から婦人雑誌編集者へは健全な母親教育・用紙節約の要請が、一二月厚生省からは婦人雑誌編集者に戦没者出征遺家族精神援護の要請が出された。一九四〇年一二月大政翼賛会は婦人雑誌編集者に対して母たる自覚の鼓吹を要請した。「要請」という名の弾圧は、さらに具体的になっていった。一方、女性執筆者に向けても、一九三八年一二月企画院は婦人団体への時局対策協力要請、一九四〇年一一月女流文学者会議発足、一九四一年五月内閣情報局の女性指導者らの時局懇談会召集などによって、統制と自主規制の両面から強化されてゆく。それは、一九四一年七月の警視庁による家庭婦人雑誌の整理統合要請につながり、八〇誌発行されていたものが一七誌に絞られ、一九四四年三月には、中央公論社解散により『婦人公論』は終刊、一九四四年末には、「婦人雑誌」として『主婦の友』『婦人倶楽部』『新女苑』、「生活雑誌」として『婦人之友』が残るのみとなった。

一九四四年、『新女苑』の「短歌」欄も、たった一頁に圧縮されてしまい、三四~五首のうち、三〇首近くが戦局・銃後詠であって、かかわらない作品は五首にも満たないという、当初との逆転現象が起きていた。選後評はなくなり、末尾に選者詠が二首だけ記されるようになった。

・引く線の機となり銃となる日の日に近し吾等励まむ

(東京 中越愛子 一九四四年九月)

・待ちしもの今し皇土に来向ふと配置に在りて人等臆せず

(島根 森蔦子 同上)

・この大事決せむ前の静けさの相見て笑めど言に出ださず

(窪田空穂 同上)

・民族の命は長し吉き事のかぎりあらぬをのちに譲らむ

(同上)

さらに、雑誌自体の頁数も激減し、「短歌」欄が見当たらない月もあって、一九四五年三月をもって、その灯は消える。三五首の入賞作から二首と選者詠二首を記しておこう。その後は、二冊の合併号を刊行して敗戦を迎える。

・わが包むこの菓子はもよ神兵の糧となるものぞ思ひ清しも

(山形 結城ひとみ 一九四五年三月)

・子の寝顔あどけなくしてゆり起すことをためらふサイレン聞きつつ

(三重 室井きよか 同上) 

・言にして怒りをいはむ時は過ぎ憎み極まる憎みを遂げむ

(窪田空穂 同上)

・奇しき火の見えぬ炎の揺らぎつつ国内をおほふこの神力

(同上)

 

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『新女苑』1945年3月号の表紙、目次と1頁だけになった「短歌欄」

選者、窪田空穂にとっての敗戦

ところで、選者の空穂は、与謝野鉄幹の『文庫』をスタートとして、短歌を中心とする文学活動に入り、ジャーナリストを経て、早稲田大学を根拠地とする古典の研究者となり、『槻の木』を主宰、十数冊の歌集を出版している。一九四一年には、歌人として、斎藤茂吉、佐佐木信綱らに続いて、北原白秋と前後して帝国芸術院会員となっている。この間の作品は第一四歌集『冬日ざし』(収録一九三七~一九四〇年。一九四一年六月刊)、第一五歌集『明闇(あけぐれ)』(収録一九四一~一九四年。一九四五年二月刊)がある。これらは、いま手元にある『窪田空穂全歌集』(短歌新聞社 一九七六年一二月)には収録されているが、『明闇』の改装版としての「戦時下の詠を除いた」『茜雲』(西郊書房 一九四六年二月)だけを収録する「全歌集」や「選集」があることがわかった。『明闇』は、刊行直後の空襲により大部分が出版元で焼失したという。『茜雲』の「後記」に、つぎのように記す。「内容の点からも見ても、再版は不可能なものである。それは戦時下の著者の感慨は、新聞ラヂオの報ずるところをそのままに受け入れ、国民の一人として発しさせられたもので、その他の何物でもなかつたのである。その間の詠は終戦後の今日、戦役その物に対しての認識を改めさせられた心よりしては、再び見るに忍びないものである。」

なお、一九五三年七月刊行の選集『窪田空穂歌集』(新潮文庫)の『茜雲』末尾の自筆メモでは、「(茜雲は)長歌三首、短歌六二八首より成つてゐる。戦局の明らかに険悪となつて来た期間の作で、その方面のものが相應にあつたが、出版は占領下の検閲の厳しい際であつた」と記されている。

そして、第一七歌集『冬木原』(一九五一年七月)に到る

のだが、戦時末期一九四四年から、病弱の次男茂二郎がシベリアの捕虜収容所で病死していたことを知る一九四七年までを収め、その「後記」にも、つぎのように記す。「選をするに当たつては戦局そのものを対象としたものはすべて捨てることとした。その当時にあつては、それらが感傷の主体をなしてゐたのであるが、既に敗色の歴然たる段階であり、新聞ラヂオ刺激としての長太息に過ぎないもので、時の距離を置いて読みかへすと、きわめて空疎なもののみで、とるにたりないものばかりだつたからである。」

『冬木原』は、「慟哭の歌集」「反戦の歌集」として、評価の高い歌集である。敗戦直後に刊行された『茜雲』『冬木原』の「後記」、後年のメモなどにおける解説をどう読むべきなのか。「戦時詠」「戦局詠」を除いたのは、占領軍の検閲の故なのか、戦時報道を受け入れただけの作歌が取る足りない故だったのか、判然としない。たしかに空疎な作品が多いのは事実であろう。しかし、その時代に、多くのメディアに発表し、それを歌集となし、多くの読者を得て、さらには、結社や読者歌壇欄などで、翼賛的な作品を選んだ指導者としての責任はどうなるのだろうか。もちろん、窪田空穂だけではない多くの歌人たちが遭遇した問題であった。すなわち、敗戦後、戦時下の作品をいかに「処理」したのかは、現代にいたるまで戦争責任、戦後責任の課題を提示しているはずである。

 


『新女苑』に登場した女性歌人たち

女性歌人は、短歌作品に限らず、エッセイなどでも、柳原白蓮、今井邦子、若山喜志子、茅野雅子、四賀光子らのベテランが起用されるなかで、中堅や新進も登場した。一九三六年『暖流』を刊行、一九四〇年『新風十人』に参加した五島美代子(18981978)は、『暖流』の序文で川田順に「母性愛の歌人」と称揚され、胎動を詠んだ初めての歌人とも言われている。夫のイギリス留学に伴い、海外体験のある美代子は、空襲下のロンドンの惨状にも思いをはせるが、日米開戦前後は、二首目のような変化を見せる。

・ロンドン空襲の記事なまなましく胸にありていはけなき子のしぐさ見てゐる

(五島美代子 一九四一年三月)

・ますらをが建てやまぬ天の柱のもと踏みてかひある女の道見ゆ

(五島美代子 一九四二年一一月)

また、大正末期以降、働く女の母性、愛児の歌を詠み続けた中河幹子18951980)もつぎのような歌を寄せる。

・ますらをの北に南にいのち死に國ぬち安けきに涙ぐましき日々

 (中河幹子 一九四三年七月)

・警戒警報の笛なりわたるうす月夜子をかかへ強き女を感ず
(同上)

五島とともに、『新風十人』に参加、二・二六事件にかかわった父斎藤瀏、反乱軍として刑死した幼馴染を詠んで注目された斎藤史(19092002)も、短歌をたびたび寄稿する。

・街の果に冬雲垂りてにごりつつ我にとよもすたたかひの歌

(斎藤史 一九四一年三月)

・微少なるわれらが生を思へらくいのちはいよよしろじろと燃ゆ

(斎藤史 一九四二年九月)

 しかし、こうした女性歌人の作品すらも、一九四三年後半から登場することがなくなり、一九四四年に入ると、男性歌人のストレートな戦意高揚歌やエッセイが毎号登場するようになる。その実態と背景については別稿に譲りたい。

(『ポトナム』2017年4月所収)(画像は、ブログ再録に際して掲載した)


<参考>
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いずれも『新女苑』の短歌のコラムで、1942年頃から、女性歌人に代わって男性歌人が起用され、ほかに、浅野晃、会津八一、半田良平、影山正治、逗子八郎(=井上司朗、吉井勇らの作品が登場する。

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2016年12月 9日 (金)

婦人矯風会創立130周年記念集会へ、講演とコンサート

東京生まれながら、大久保という駅には下りたことがなかった。駅から徒歩1分の新宿区百人町にある「矯風会館」も、初めてである。まさに、130年前の今日、1886126日に、矢島楫子ら56人のキリスト教徒の女性たちが、「禁酒・純潔・平和」をかかげて立ち上げたのが「東京婦人矯風会」だった。一夫一婦の確立、在外売笑婦取締り、廃娼運動から大正以降は婦人参政権獲得運動、昭和の敗戦後は売春防止法制定、平和運動にも大きく貢献してきた「日本キリスト教婦人矯風会として、現在まで続く。

この日のプログラムと機関誌『婦人新報』の最新号は以下に掲げた。30分ほどの礼拝があり、聖書の話、祈り、献金、祝祷と続いた。ホールは横に広く、百数十人だろうか、やはり、年配の方が圧倒的に多い。

続いて、矯風会理事長の川野安子さんから挨拶があった。長い歴史は苦難の歴史でもあり、日中戦争下における矯風会の在り方にも及び、柏木義円の名を挙げて、反省にも言及された。

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『婦人新報』は、1895年2月に創刊、1893年11月創刊された『婦人矯風雑誌』の後継 誌である。多くの婦人運動の論客や活動家も執筆している歴史ある雑誌である。来年4月から、その誌名が『k-peace』と横文字になってしまうそうだ。ちょっと残念な気もするのだが。

そして、小林緑さんの講演は「見せない半分/聴かない半分~クラシックの女性作曲家“不在”の理由」と題して、作曲家でハーピストのフランスのアンリエット・ルニエ(18751956)をめぐるジェンダー問題のさまざまについてであった。小林さんの話は何回かお聞きしているが、ルニエに特化しての話は、私は初めてである。ハープを語ることは、ルニエを語ること、ハーピストとして自ら作曲、ハープのための編曲、ハープの指導に貢献したが、クラシックの世界では、フランス人であること、女性であること、ハープであることという幾重もの壁になって、音楽事典にも載らず、知られざる音楽家になってしまったというのだ。

続いての、演奏は、今日はすべて、ルニエの作曲、編曲になるもので、若い演奏者の力強いハーモニーは快かった。当日のプラグラムは以下の通りであった。

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2016年11月12日 (土)

小春日和の青山通り~「音を紡ぐ女たち―女性作曲家を知り、聴くPart2 」とマルシェ

 かねてよりご案内いただいていた、表記のコンサートに夫と出かけた。東京ウィメンズプラザフォーラムの一環としてのコンサートで、昨年に続く2回目だった。知られざる作曲家を広める活動をされている小林緑さんの事務所の企画である。

 

今日は、ハープが主役である。ハープは、ピアノよりも長い歴史を持ち、重要な楽器でありながら、現在ではオーケストラの一部としかみなされない楽器になってしまった。しかも、その音色から、女性にふさわしい、いや「女々しい」楽器とさえ言われるようになった歴史もあるということだ。今回は、この優美な楽器のために作曲・演奏した女性たちに焦点をあてたとのこと。ヨーロッパでは、男性のハーピニストも増えているとのこと、小林さんからの解説があった。

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 演奏者の有馬律子さんは、ピアノを習っていたが、8歳のとき、自らハープを望み、始めたという。ハープ一筋で芸大を卒業後は、チェコのヤナ・プシュコヴァに師事、帰国したばかりの新進。190センチに近い、40キロを超え、47弦、7つのペタルの楽器を駆使する颯爽とした姿で、繊細で、しなやかな、やさしい音色を奏でるのだった。

 

 コッリ=ドゥシェク(17751831?)の「ハープのためのソナタ」、パラディス(17591824)の「シシリエンヌ」、ド=グランヴァル(18281907)の「メランコリックなワルツ」は、伊藤倫子さんのフルートとのアンサンブルだった。さらに、ヴァルター=キューネ(18701930)、ルニエ(18751956)のハープ演奏、とくにルニエの「バラード第2番」(1911)は、本邦初演ではないかとのことであった。

 久しぶりのハープの音色に癒されるひとときを過ごした。

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 昼下がりのウィメンズプラザを出ると、青山通りには、テントが立ち並ぶマルシェが出現、大変な人出であった。毎週土日に開催しているファーマーズマーケットだという。どのテントでも普段、近くのスーパーではお目にかかれない野菜や様々な食材が並んでいた。

 青森のりんごの店では、おすすめの「おいらせ」、スターキング系の掛け合わせといい、品種を聞き逃した王林よりはやや黄色がかったものと2種類を、屋久島のお茶「縄文」というのを購入・・・、あれもこれもと欲しくなるのだが、食事のコーナーへと移る。ここも様々な移動車での呼び込みが盛んである。ようやく座れた相席のテーブルで、ピザとおでんというメニューとなったのがおかしかった。今日は、日本酒のフェアーが開かれている由、19の蔵元が参加、辺りは、おちょこ片手で、ご機嫌の人も多かった。ヨーロッパ旅行では、よく出会うマルクト広場の市場、我が家の近くにもこんなマーケットが欲しい、と帰路につくのだった。

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2016年11月 6日 (日)

『昭和前期女性文学論』(新・フェミニズム批評の会編 2016年10月)に寄稿しました

 すでに二年ほど前に提出した「阿部静枝の短歌はどう変わったか―無産女性運動から翼賛へ」と題する拙稿が、上記論文集に収録され、ようやく活字になりました。執筆者は、コラムを入れると、総勢30人を超え、511頁の大冊になりました。カバーの一部と参考までに出版案内のチラシを載せました。
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出版案内チラシ
 
 「新・フェミニズム批評の会」って?
 1991年に発足、「フェミニズム/ジェンダー批評を取り入れて文学作品の再評価や発掘をはかると同時に、これまで女性作家やその作品を正当に評価してこなかった日本の文学史の書き換えを目指し」(本書「はしがき」)、毎月一回の研究会を開き、これまでも『明治女性文学論』(2007年)『大正女性文学論』(2010年、ともに翰󠄀林書房)を刊行し、このシリーズ第三弾にあたります。他に『樋口一葉を読み直す』『『青鞜』を読む』も刊行していす。直近の 『<311フクシマ>以後のフェミニズム』(御茶の水書房 2012年7月)に、私は「311はニュースを変えたか~NHK総合テレビ<ニュース7>を中心に」を寄稿しています。
 
「阿部静枝」って?
 決してポピュラーな歌人ではありませんが、大正時代に創刊の短歌結社『ポトナム』の指導者の一人で、私が学生時代、短歌に関心を持つきっかけにもなった「阿部静枝」(18991974年)は、私の生家にも近い池袋に住まい、ながらく豊島区議会議員を務めていました。毎月の「東京ポトナム」の歌会では、きびしくも、必ず褒める一か所を見い出してくれる師でもありました。
 阿部静枝については、これまで、断片的にいくつか書いてきましたが、今回は、阿部温知という無産政党政治家との結婚を機に、短歌のテーマや表現に広がりを見せ、その社会的活動も活発となりながら、夫の急逝を経、無産政党終息への過程でその知見と弁舌は、政府、軍、多様なメディアにより重用されていきます。この時代の静枝に焦点をあてました。近著『天皇の短歌は何を語るのか』に収録した「戦時下の阿部静枝~内閣情報局資料を中心に」は、発見以後、あまり利用されることががなかった内閣情報局の内部資料により、当時の女性作家や評論家がいかにマークされ、利用されようとしていたかを考えましたが、それと対をなすものです。
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2016年2月17日 (水)

ふたたび、阿部静枝について、報告しました

 213日、ある研究会で「阿部静枝の歌集『霜の道』と戦後の短歌評論活動は、短歌史上どう位置づけられたか」を報告した。準備を進めていた矢先、1月下旬、インフルエンザにかかってしまった。いまだに咳が抜けきらないでいる。言い訳にはならないけれど、添付のようなレジメは作成したが、後半部分が駆け足になってしまった。当日配布した図表は省略している。前回のレポートほか、関連の過去記事は本稿の末尾の通り。

報告の前半は、阿部静枝の第一歌集『秋草』(1926)から長い年月を隔て、敗戦後に出版された第二歌集『霜の道』(1950)についてとなった。出版当時、そのフィクション性をめぐって、歌壇の注目を集め、議論の的となったが、私は、『霜の道』において、なぜ戦時下の大政翼賛的な作品が多く省略されたか、にも着目、静枝自身にとってどういう意味があったのかについても、合わせて検証したいと思った。

報告の中心は、短歌ジャーナリズムにおいて女性歌人がいかに進出してきたか、その中で阿部静枝がどんな役割を果たしてきたのか、『女人短歌』の中心的な人物であったにもかかわらず、短歌ジャーナリズムへの登場が少なくなる1960年以降、そして1974年没後、今日に至るまで、各種のアンソロジーにも収録されず、短歌史上も頁を割かれることがなく、ほとんど注目されることのない、女性歌人となった。齊藤史、葛原妙子、森岡貞香、中城ふみ子、山中智恵子などが、その名を留め、いまの若い人からも鑑賞や評論の対象となっていることに比べるとその感が強い。あらためて、その足跡をたどれればと思っての報告であった。

報告概要
http://dmituko.cocolog-nifty.com/abesizuerejime.pdf

なお、昨年の12月、私の阿部静枝に関するブログ記事がきっかけで、思いがけない情報が飛び込んできたことも、お知らせしたいと思う。「内野光子のブログ」の阿部静枝関係の一つの記事に、仙台に住む女性からコメントがついた。ご自分の祖父の妻は、阿部静枝の夫、阿部温知の姉であり、母方の祖父が静枝の母ときょうだいという方が現れたのである。それから、メールでの交信が始まり、その方は、お仕事の傍ら、知る限りの親せきに問い合わせを始められたようだった。いろいろな情報を集められ、自作の家系図やこれまで見たことがなかった静枝と温知と一緒に写っている写真などのコピーが送信されてきた。その中で、阿部温知の兄の子、静枝の甥にあたる阿部徹雄氏の名を知ることになる。毎日新聞(東京日日新聞)のカメラマンであったが、没後、毎日新聞社にその作品が寄贈されたことも教えていただいた。外部の者もアクセスできる「フォトバンク」に収められていて、静枝の写真も何枚か見ることができた。徹雄氏は、戦場カメラマンとしての活動も顕著であったが、戦後は、アジア・ヨーロッパ・アメリカを訪ね、各国の美術紀行や写真集など数冊を刊行、その確かな技術と観賞眼は高く評価されている。評伝「写真に生きる」(玉川選書、2002年)もある。ご遺族も、祖父が阿部温知の兄であり、温知が、子を宿していた静枝と結婚したことは聞いているが、それ以上のことは不明の由、ということであった。その後も、仙台の方からは、家系図の訂正版やあらたに見つかった写真などの送信が続いている。思いがけないうれしい出会いであった。ブログ記事が取りもってくれたご縁の一つ、いつか、友愛労働歴史館の静枝コーナーの前で、お目にかかれたらなあ、と楽しみも増えたのである。

 

 

(参考過去記事)

ある研究会での報告~阿部静枝歌集『秋草』から『霜の道』へ、その空白

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http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/12/post-d675.html

 

・阿部静枝の若き日の肖像画に出会う~初めての友愛労働歴史館にて
 
201474

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/07/post-927a.html

 

・再び友愛労働歴史館へ~阿部静枝コーナーの展示が始まった

2014911

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/09/post-501c.html

 

 

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2015年11月16日 (月)

「愛に生きた歌人・柳原白蓮の生涯展」へ

 池袋の実家に出かけるついでに、西武別館ギャラリーで開催中(~1116日まで)の表記「白蓮展」に出かけた。まさに、予想通り、高齢の女性たちが人垣を作っていた。歌人白蓮に関心がある人たちというよりテレビ「花子とアン」のファン層が多かったのではないか。

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 展示会への違和感はどこから

カタログや出品資料目録もないので、メモを取ろうとペンと手帳を取り出すと、係員が飛んできて「ペンはいけません」と制止する。「すみません、鉛筆を貸してもらえますか」とお願いすると「ご用意はいたしておりません。メモすることがいけないことになっています」「なぜですか、少しメモを取りたいのですが」「申し訳ありません、そういうことになっております」とのこと。仕方がないので、ロッカーまで戻って、バッグのポケットから鉛筆を探して持ち出した。あとは、係員の目を気にしながら、最小限度のメモを走り書きするしかなかった。なぜ? 写真がイケないというのは、理解できないことではない。しかし、メモ自体がイケないとは!

 戦時下の白蓮は

会場は、チラシにあるように、十四の章に分かれていた。やはり私が気になるのは、戦時下の白蓮の活動をどう伝えるかであった。これも予想にたがわず、空白なのであった。つまり、「第十章 歌人柳原白蓮」「第十一章 平和運動へ」「第十二章 中国との交流」「十三章 晩年 安らかな暮らし」という流れだったので、戦時中にあたる章を設けていなかった。第十一章に、「香織の戦死、平和運動へ」との解説があり、学徒出陣で出征中の長男が、敗戦の4日前、鹿児島空襲で亡くなった衝撃から立ち直って翌年1946年には「悲母の会」を立ち上げ、平和運動に参加していく経過がたどられる。そして「十二章」は、戦前からの宮崎龍介とその父との関係から、戦前・戦後を通した、蒋介石や孫文、毛沢東らとの交流が多くの写真と共に語られていたが、「十二章」の冒頭の解説には「戦局悪化に伴い、宮崎家は、中国との懸け橋になるべくギリギリの活動を行ったが・・・」といった趣旨のことが書かれているのみだった。宮崎龍介の無産政党運動の中での位置づけも不明確なままだった。龍介が、近衛文麿の蒋介石への「密使」として送られようとした「密使事件」として言及し、白蓮ともども「反戦」思想の持ち主のような捉え方が強調されていた。

戦時下の白蓮の活動については、当ブログの以下を参照されたい。

◇ これでいいのか、花子と白蓮の戦前・戦後(4)「花子とアン」が終わって白蓮の戦前戦後を振り返る(2014年10月)

  http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/10/post-2de4.html  

 私には、一つの宿題があった。「花子とアン」放送中、上記ブログを書いている折、櫻本富雄さんから柳原白蓮選によるアンソロジー『支那事変歌集 塹壕の砂文字』(協和書院 19389月)を送りいただいていた。自筆と思われる贈呈先の名前と白蓮の署名と日付が書かれているものだった。その献本先の氏名に心当たりがないかとのことでもあったので、とりあえず、女性史や女性文学史、歌人関係の辞典や書物を調べてみたが、不明だった。もしかしたらとも思ったが、展示にかかるものからは分からなかった。あらためて、再び家でネット検索していると、「生長の家」の幹部であるらしいことが分かった。

そのアンソロジーは、白蓮の「あとがき」によれば「前線にあられる方々と、銃後の留守を預かる私共と、双方を結びつける魂と魂との親交を願って、せめてお互ひに励ましあひ」とあり、白蓮身辺の歌集とともに、新聞歌壇などの作品にも対象を広げたとある。白蓮自身も巻末に、つぎのような10首を寄せている。

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売店で、展示会カタログの代わりという「ガイドブック」を購入したところ、章立てと構成が異なるものの、今回の展示の概要がわかる形にはなっていた(『柳原白蓮の生涯 愛に生きた歌人』宮崎蕗苳監修 河出書房新社 201511)。その売店のところで、私が参加している研究会での大先輩でいらっしゃる近代文学専攻の渡辺澄子さんにお遭いした。このガイドブック巻頭の論考を書かれているとのことだった。帰路の車内で早速読み始めると、その論考でも、このアンソロジーに触れていることが分かった。

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やはり、ここでも「年譜の空白」

さらにこの「ガイドブック」を読み進めると、巻末に1頁の「白蓮略年譜」が付されていた。やっぱりというか「昭和12年(1937)盧溝橋事件、龍介の密使事件のため憲兵隊に召喚」とあり、次の行が「昭和20(1945)811日学徒出陣中の香織、鹿児島県の串木野(現・いちき串木野市)にて空爆により戦死」とあり、上記アンソロジーの出版の記述もない。

当ブログでも触れた「土門拳記念館」の「年譜」でも、1944年、海軍省の依頼による霞ケ浦の予科練での密着取材の件に触れられることなく、空白であった。ここに、共通する姿勢は何なのか。一人の人間、とくに文芸の表現者の生涯をたどるとき、ある時期の表現活動を封じるということが、なにを意味するのか。さまざまな表現者たちが、そうした「操作」を繰り返すことは、史実を歪め、歴史を歪めることになるのではないか。

そう考えると、私が必要上よく利用する、歌人の年譜や短歌史年表の類の一行は、編者や作成者の思想がまともに反映する、大切な一行であることを痛感するのだった。

絢爛たる「恋文」

今回の展示会の圧巻は、なんといっても白蓮が伊藤伝衛門邸のもとから宮崎龍介へと送った恋文の公開だろうか。2年間にわたる約700通の手紙が残されているという。実に華やかな大阪の柳屋製の竹久夢二が描く絵封筒、巻紙、便箋はじめ、白蓮自作の歌が刷り込まれた歌封筒などが用いられている。その一部が展示されていた。さらに、白蓮が伊藤家を出奔した「白蓮事件」後、いわば幽閉されていた時期に龍介とかわされた書簡などの展示も初公開だという。パソコンや携帯電話、スマホなどのない時代の、その書状の量に圧倒されたことは確かである。現代の恋人たちは、いったいどんなふうに、ことばをかわすのだろうか。

なお、会場には、白蓮の肉声を聞かせるコーナーがあって1957310日、NHKラジオ放送番組の一部を流していた。シャキシャキした、気さくな物言いで、華族女学校在学中の様子を語る部分だったのだろうか、先生の下田歌子について「ほんとうにおきれいな方でしたよ、その頃の先生と言えば、きれいな方はいなかったんですけれど・・・」みたいなことを、さらっと言ってのけていたのには、少々驚いた。かつて皇太子と正田美智子さんの婚約が成立したとき、異を唱えていたという白蓮の一面と共通したものを感じるのだった。複雑な家族関係や生い立ち、その後の2度の結婚による抑圧された生活が逆に作用しているのだろうかとも。

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2015年11月13日 (金)

「音を紡ぐ女たち―女性作曲家を知り、聴く」を聴く

かねてよりご案内いただいていた、表題のコンサートに行ってきた。この日、117日は、午後がNHK包囲行動であり、宮下公園までのデモの後、会場のウィメンズプラザ・ホールへは、週末の宮益坂を経て、歩いてもそう遠くはない距離だった。東京ウィメンズプラザフォーラムのプログラムの一つであった。企画・構成が「小林緑カンパニー」、小林緑さんは、国立音楽大学で教鞭をとられていた研究者だが、昼のNHKへの抗議行動とも無関係ではない。小林さんは、数年前まで、NHKの経営委員を2期務められ、NHKの内部を知って、NHKの改革を提唱しているお一人である。825日の第1回NHK包囲行動集会の折は、リレートークをされた。私が参加する地元の「憲法9条をまもりたい会」の講演会にもお呼びしている。

久し振りのウィメンズプラザのホールは初めてである。この日のプログラムは以下の通り。

最初の「乙女の祈り」(1851年)は、聴き慣れた曲ではあるが、プロの方の生演奏は初めてのような気がする。作曲のテクラ・バダジェフスカ(ポーランド語の読みだと異なるらしいのだが)17歳の時の曲で、その後、結婚、5人の子をもうけ、1859年頃、音楽雑誌に楽譜が載って以降、大人気になったという。私たちが想像するような感傷的な“乙女の祈り”ではなく、分割統治されていた祖国ポーランドの平和への「祈り」ではなかったかとの解説であった。

吉田隆子の歌曲、1949年発表の「君死に給ふことなかれ」(与謝野晶子18781942)は、すでに聴いたことがあるが(以下の当ブログ参照)。

   
 

「雪よりも、雪よりも、白くなし給え、君がみめぐみに」~「吉田隆子の世界」聴きにいきました

 
 

13/04/11

 

組曲『道』からの「頬」(竹内てるよ19042001)は初めて聴いた。竹内てるよ「頬」(『花とまごころ』所収 渓文社 1933)は、作者の没後、美智子皇后の国際児童図書評議会(IBBY)創立50周年記念大会(2002929日、スイス:バーゼル市)でのスピーチの結びで「子どもを育てていた頃に読んだ,忘れられない詩があります。・・・」と「頬」の冒頭を引用したことでも知られるようになった。スピーチは英語でなされ、つぎのように訳されている。

 

生まれて何も知らぬ 吾子の頬に

母よ、 絶望の涙を落とすな

その頬は赤く小さく

今はただ一つの巴旦杏(はたんきょう)にすぎなくとも

いつ 人類のための戦いに

燃えて輝かないということがあろう

Of your innocent newly born,

Mothers,

Do not drop

Tears

Of your own despair.・・・ 

 

コンサートでは、歌詞の「絶望」が「悲しみ」と歌われていたようである。てるよの詩人としてのスタートは、貧困と闘病のさなかの1920年代、アナーキスト系の詩人と言われていたが、1940年代に入ると、多くの文学者とともに日本文学報国会の諸事業に参加するようになり(櫻本富雄『日本文学報国会』青木書店 1995)、『辻詩集』(日本文学報国会編刊 1943)や種々のアンソロジーに作品が収録されるようになり、詩集も数多く出版された。朗読会やラジオ放送では「白梅」「母の大義」「女性永遠の歌」などの作品が朗読されている(坪井秀人『声の祝祭』名古屋大学出版会 1997)。

クララ・シューマンのピアノ協奏曲から「ロマンツェ」(1835)、ル・ボー「チェロとピアノのための4つの小品」(1881)、ガルシア・ヴィアルド「歌曲集」(1864)から「夜に」「星」の2曲だった。

いずれの作曲家も、日本でいえば幕末から明治にかけての時代を生き抜いた人たちで、西欧といえども女性へのさまざまな偏見にさらされていたのだろうと想像ができた。だからこそ、現代には、きちんとした評価がなされなければならないと思った。素人の私には、ピアノの河野さんは、テレビ「のだめカンタービレ」の上野樹里の手や音の吹き替えをした方とか、ヴィアルドの生涯にあっては、ロシアのツルゲーネフの存在が大きかった、といったエピソードも興味深く、チェロの江口さんのやさしい音色にも魅せられた。まだまだにぎやかな表参道の街を、コンサートの余韻をまとい、帰路につくのだった。

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2015年8月 2日 (日)

代々木の婦選会館を訪ねて(3)『語り継ぐ戦争の記憶~戦争のない平和な世界をめざして』が出版されました

 今回の報告者のお二人、鳥海哲子さんと山口美代子さんの体験記録も収録されている、表題の『語り継ぐ戦争の記憶~戦争のない平和な世界をめざして』が、日本婦人有権者同盟から出版されたばかりと、紹介された。発行日は2015年8月15日となっている。46人の女性による戦争体験記録集である。その内容は、以下の通りであるが、体験者も、体験のない方も、是非一読をされたらと思う。全国各地から寄せられた、執筆の方々の苦難と悲痛の連続であった体験に及ぶことはできないが、私も、戦後体験を共有するものとして、自らの家族史や地域史と重ね合わせながら読み進めるのであった。

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(目次)

・国家総動員―勤労奉仕・学徒動員・挺身隊

・戦中・戦後の生活・教育

・疎開――集団学童疎開・縁故疎開

・思想統制と疑心暗鬼の社会――特高・治安維持法

・東京大空襲

・沖縄地上戦――ひめゆり隊

・地方都市の空襲――岡山・水戸・仙台・郡山・岐阜・宮崎・熊本・鹿児島

・原爆の投下――ヒロシマ・ナガサキ

・出征・強制連行

・外地からの引き揚げ――満州・朝鮮・樺太

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2015年8月 1日 (土)

代々木の婦選会館を訪ねて(2)市川房枝の資料・記録への執念に触れる

 前述の「女性展望カフェ」に先だって、市川房枝記念図書室で調べものをすることにしていた。市川房枝(18931981)については、当ブログでも、以下の二つの記事でも書いているので、ここでは詳しくは触れない。市川は、教師・新聞記者を経て、平塚らいてうと新婦人協会を設立、アメリカの女性・労働運動を学び、婦選獲得同盟創立に参加、婦人参政権運動のリーダーとなったが、戦時下の大日本婦人会、大日本言論報国会などの活動により、戦後公職追放を受けた。解除後は、日本婦人有権者同盟、売春禁止、再軍備反対の運動にかかわり、1953年以降無所属の参議院議員として、清潔な選挙を実践した。市川の資料や記録を丹念に保存整理し、戦時下には資料の疎開までして、後世に残している。会議資料、種々活動の宣伝用パンフやチラシ、催事のプログラムや参加者名簿や領収書などを含む、その膨大な資料・記録群をデータベース化しているのが、図書室である。市川の執念にも似て、収集・保存していた資料や記録を、後付けをし、照合しながら整理、データベースを構築するという地道な作業を続けているスタッフにも敬意を表したい思いでいっぱいになった。

入江たか子や村岡花子の回答ハガキから~~~
 いま、私が調べている阿部静枝についての資料も何点かあるのを、かつて教示していただいたので、今回、その一部を閲覧しようと思った。検索結果では、かつてよりは増えて23点ほどヒットした。数点を出してもらい、最初に開いた封筒には、はがきの束が入っていた。1939年、市川房枝が設立した婦人問題研究所が19434月に実施した女性執筆者の履歴事項調査の返信ハガキが180枚ほどが束ねてあった。記載事項は、下記の写真のように、氏名・ペンネーム、現住所・電話番号、勤務先、出身学校、関係団体・関係官庁、主なる著述の欄がある。まさに個人情報が満載である。当時の八大婦人雑誌が対象の「最近に於ける婦人執筆者に関する調査(19405月~19414月)」(情報局第一部発行の部外秘資料 19417月 75頁)より対象人物は格段に広く、履歴事項は、ほぼ同様でながら、「自筆」というところに意味があるだろう。婦人問題研究所の手元資料であって、活字となったものは、いまのところ見当たらないらしい。

 一枚、一枚ハガキを繰って、まず「阿部静枝」の記入をみると、とくに新しい情報はなかったが、本籍地が岩手県一関町になっているのが気になるところだった。おそらく夫、阿部温知の本籍地なのだろうか。「山本千代(山本安英)」の勤務先が「日本放送協会芸能嘱託」とあり、一時、実年齢が違っていたという記事を読んだことがあるが、ここでは1906年となっていた。「田村英子(入江たか子)」の勤務先は「東宝東京撮影所」となっており、長い間秘密にしていたという田村道美という俳優との結婚を明らかにしていたのが分かる。どうもこんな寄り道も楽しいのだが、「村岡花子」のハガキには、いささか驚かされた。出身学校の東洋英和が「東洋永和」となっている点と「関係団体・関係官庁」の欄の末梢の仕方が異様だった。このハガキヘの記入が本人の筆跡なのか否かは、にわかには判断できないのだが、本人か身近な人が記入し、考え直して抹消したのだと思うがその本意は何なのか。また、一方、アナーキストの時代を経て、『母の世紀の序』(1940年)など国家主義的な母性像を提言し、母たちを戦争に駆り立てた書物を多数刊行していた「伊福部敬子」の空欄には、別の意図を感じてしまうほどである。一枚のハガキながら、その記入内容ばかりでなく、生の記録から見えてくるさまざまな情報が興味深い。今回は時間がなく、わずかな資料しか閲覧できなかったので、しばらくは通わなければならないだろう。  

201394
ひさしぶりにラジオ深夜便を聴く~明日へのことば「市川房枝が残したもの」①②
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/09/post-2877.html

2013128

「平塚らいてうと市川房枝~女たちは会報をめざす」(NHKETV2013127日放送)を見て

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/01/127-6f56.html

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阿部静枝のの回答ハガキ

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右上、奥むめおから時計回りに、伊福部敬子、市川房枝、村岡花子の回答ハガキ

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Photo

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女性展望カフェ終了後の展示室
上3枚は、カメラの具合が悪くなって、ケータイで撮った

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