2025年10月27日 (月)

「黒川の女たち」、20席の小劇場で見る

 田端のシネマ・チュプキという、小さな劇場、予約しないと観られないという。駅からJR東日本の長いビルに沿って坂を下り、仲通り商店街を目指す。途中、通りがかりの方が、業務用スーパーの隣にありますよとの案内の通り、たしかにそれはあった。

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 たしかテレビ朝日の番組や新聞記事で、おおよそのことを知っていたつもりでいたが、映画は、太平洋戦争敗戦直前、関東軍敗走の地に取り残された満蒙開拓団の若き女性たちが背負った過酷な運命を、高齢になった当事者たちの証言や活動、それを支える人たちを丹念に追ったドキュメンタリーだった。

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 1939年11月、決して豊かとはいえなかった岐阜県加茂郡黒川村の人たちが、開拓団への分村を目指し、まず視察に赴き、以降1941年から44年にわたって、ハルピンの南、吉林省陶頼昭に入植、650人を超えた。開拓自体も青壮年層の男子は徴兵され、女性や高齢者による重労働を伴うものだった。ところが、敗戦直前、ソ連の参戦によって、ソ連軍は満州国に侵攻、黒川開拓村にも迫ると関東軍は、村民を置き去りに敗走した。中国人からの襲撃、近隣開拓民の集団自決がなされる中で、村民の安全と暮らし=食料確保のためということで、1945年9月、村民幹部は、ソ連軍への「性接待」を始めたのである。その犠牲になったのが、未婚の十代、18歳以上の女性たち15人であった。1946年5月ソ連軍撤退まで続き、15人の内4人は、現地で性病などにより命を落としたのであった。この事実は、敗戦後生還した451人の村民の間では隠蔽され、その上、犠牲となった女性たちには、こころない仕打ちがなされ、村を追われるように散り散りなっていった。

 1961年になって、現地で亡くなった開拓団員を偲んで、黒川村に「招魂碑」が建てられ、1981年、開拓団の体験記『ああ陶頼昭』が遺族会により刊行され、翌1982年には「乙女の碑」が黒川村に建てられたが、「性接待」の事実は公にされることはなかった。

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『告白 岐阜・黒川満蒙開拓団73年の記録』の年表より。

 女性たちの長い苦難の歴史が動きだしたのは、2013年、長野県下伊那郡阿智村に満蒙開拓平和記念館がオープンし、館主催の語り部の会で、佐藤ハルエさんと安江善子さんの二人が、犠牲の当事者として初めて、事実を語り始めたことだった。家族にも語ることをしなかった他の女性たちを含めて、連絡を取り合っていた絆は強く、二人の勇気ある告知に、語り始める人、そして彼女らを支える開拓団の女性たち、遺族会会長、さらには、彼女らの子どもや孫たちにも支えられ、語り継ぎ、書き継ぐことによってメディアにも注目され始めたのであった。そして、それらの活動の成果として、「乙女の碑」の傍らに長文の記録と証言によって構成された「碑文」が設置、除幕されたのが2018年11月18日だったのである。


 関東軍によって傀儡国家満州国が建設され、軍事拠点化を図るための食糧増産の目的で大量の開拓民を必要とされ、疲弊した農村救済のためと相俟って、500万人の開拓民が送られたていた。黒川開拓団もその一つであったのだが、敗戦間際、ソ連軍の侵攻が迫ると、関東軍は開拓民を守るどころか、従軍慰安婦とともに逃げ去ったという。それまで虐げられてきた中国人の報復と侵攻してきたソ連軍の間に孤立した開拓団幹部の生き残り策が、未婚女性による「性接待」であったという事実にも、いたたまれない思いがするのだが、日本に帰還後の彼女らのたどる長い苦しい過酷な道のりがあった。戦争の悪と女性蔑視という二重の犠牲を背負いながら、史実に立ち向かった勇気ある活動に敬意を表さずにはいられなかった。

 この映画が、テレビ朝日製作、プロデューサー江口英明・松原文枝、監督松原文枝ほか、50代から、より若いスタッフによって製作されていることを心強く思った次第である。

参考映像
NHKETV特集「満蒙開拓団の女たち」(2017年8月5日)【未見】
テレビ朝日報道ステーション特集「語り継ぐ戦争と性暴力『黒川開拓団の』女性たちの告白」(2019年8月16日)
テレビ朝日「史実を刻む―語り継ぐ戦争と性暴力」(2019年8月24日)

参考資料
川 恵美、NHKETV特集取材班『告白 岐阜・黒川 満蒙開拓団73年の記録』(かもがわ出版 (2020年3月31日)
『黒川の女たち』公式パンフレット(太秦KK 2025年7月12日)
松原文枝『刻印 黒川開拓団の女性たち』(KADOKAWA 2025年8月26日)【未見】

 

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2025年8月13日 (水)

『神近市子の猛進』を読む、神近は短歌も詠んでいた(2)神近市子、波乱の生涯

   神近市子は、長崎県出身、父と兄を幼少時に亡くし、姉二人との母子家庭で貧しかったが、読書する文学少女で,活水女学校を経て、津田梅子の女子英学塾で学ぶ。在学中に『青鞜』に参加、1913年女子英学塾卒業後、弘前の県立高等女学校の教師になるが、『青鞜』への参加がばれて一学期で退職。東京に戻り、尾竹一枝(後の富本紅吉)、伊藤野枝とも知り合い、小野賢一郎(1888~1943,俳号は蕪子)の紹介で東京日日新聞の記者となる。東京日日新聞の高木信威(1872~1935)との不倫関係にあって女児を出産、生家に預け、記者活動を続けていたことが、上記事件の公判中に明らかになった。

 1915年大杉と知り合い、16年上記の事件に至り、東京日々新聞社を退社。1919年服役後からは小説、翻訳、評論など多角的な文筆生活に入り、20年に鈴木厚と結婚、一男二女をもうけるが、39年に離婚。その間、プロレタリア文学運動にもかかわるが、28年長谷川時雨の『女人芸術』創刊より参加、その廃刊を継ぐような形で、34年には自ら『婦人文芸』を創刊する。当時の執筆メデイアは、新聞、総合雑誌、婦人雑誌、文芸雑誌、時局雑誌等多岐にわたる。人脈も広めてゆく。39年の離婚前後から、3人の子どもとの生計も神近の双肩にかかってきたためか、執筆量も多く、大手出版社による『中央公論』(中央公論社)『雄弁』(講談社)『現地報告』(文芸春秋社)『新女苑』(実業之日本社)などへの寄稿も増した。日本文学報国会の会員ではあったが、彼女の論稿の基調は、戦時下の女性労働者の重要性とその権利保護にあって、意識的に、戦意高揚に直接的につなげることを避けたきらいがある。また、とくに太平洋戦争開戦前後からは、語学力を生かして、1940年『トルキスタンの旅』『動物と人と神々』『アメリカ史物語』、1941年『アメリカ成年期に達す』、1942年『新疆紀行』、1943年『船と航海の歴史』などの翻訳が多いのが、他の評論家に見ない特色と言えるのではないか。

 近年よく使われるようになった、内閣情報局の内部資料『最近における婦人執筆者に関する調査』(1941年7月)は、婦人雑誌八誌を対象に、婦人執筆者の執筆頻度、その内容種別などを、1940年5月号から翌年の4月号までを調査、各人、各文献の解説、出版社の評価など「量的」「質的」分析がなされている資料である。今回、神近市子を調べてみると、「純粋評論家」として3点が挙げられ、決して多い方ではないが、「彼女の婦人解放の思想は此の意味に於て依然として、社会組織に於ける不合理の状態の廃止を目指して社会を変化せんとするあの社会主義的態度を思はせるものがある」などと評されている。

 『神近市子の猛進』の著者石田は、戦時下における神近の文筆活動について、つぎのように述べている。
「そこに女性の戦争協力を先導するような言説はなく、運動として表舞台に立つこともなく、街頭に進出することもなかった。戦争を奇貨とする点では同じであったが、女性の国民化という大衆運動を展開し、公職追放となる市川房枝のように、戦争協力が問われることになる女性指導者たちとは、その点で一線を画していた。」(200頁)

 戦後は、その参議院議員市川房枝らとともに、神近は売春廃止の法案を何度も国会に提出するが廃案になっていたが、さまざまな曲折を経て、不備が指摘される中、t956年5月24日公布に至り、施行させた彼女たちの功績ははかりしれないものがある。 

 私は、短歌の師であった阿部静枝が、上記の資料で「純粋評論家」として、多くの婦人雑誌に重用された実態について触れたことがある。夫、阿部温知とともに無産政党の党員としての活動の過去がありながら、戦時下において、評論家としての執筆や活動を拡大してきたのは、かつての活動で得た知見や執筆・弁舌能力と社会性を備えていたからであり、歌人という肩書も加わって、翼賛へと傾いていった過程をたどったことがある。また、彼女には、結婚前に、男児を出産し、隠すように他人に預けて活動してきた経緯があり、夫と死別してからは、子供を引き取ったことによる経済的な必要と体制やメディアから「期待」される蜜の味も手離したくなかったため執筆活動に励んだ一面もあったと推測される。そして、戦後は、社会党から分かれた民社党の党員となり、豊島区区議会議員を三期務めたことを思うと、神近市子ほどの革新性や話題性はないが、一人の女性の歩みとして、似たような軌跡ではなかったかと、あらためて感慨深いものがあった。

参考:「内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか 女性歌人起用の背景」『ポトナム』2006年1月~2月。『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房 2013年8月)所収

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下段は「量的考察」の「純粋評論家」の図表の一部。氏名の五十音順で、阿部静枝は11点で座談会が多いのが目立つ。後のページで、トップは宮本百合子の22点、次が羽仁もと子の19点が突出している。

 

 

 

 

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2025年8月12日 (火)

『神近市子の猛進』を読んだ、神近は短歌も詠んでいた(1)神近市子の短歌

・ひとり居て思うことあり 嬉しきは孤独に生きる力もつこと

  神近市子が、このような短歌を詠んでいることを、石田あゆう『神近市子の猛進 婦人運動家の隘路』(創元社 2025年3月)で知った。なるほど、神近らしい、と思った。

 神近市子(1888~1981)といえば、なんといっても、アナーキストで自由恋愛を主張する大杉栄と恋愛関係にあったが、妻堀保子と愛人伊藤野枝(辻潤の妻)の四人の複雑な関係と確執から、1916年11月9日、葉山の日蔭茶屋で大杉を刺傷したという事件が有名で、裁判を経て、17年10月から2年間服役している。当時は、神近の嫉妬による犯行であるといったスキャンダルめいた報道が多かったようである。今ならば、有名人のW不倫以上の複雑な関係が取り沙汰されるに違いない事件だった。
  私は、神近市子の「社会党左派」の議員であった、もう一つの顔の方が身近だった。私の若いころ、生家のあった地元池袋を含む当時の中選挙区「東京5区」選出の政治家としての姿が印象に残っている。母と出かけた演説会や選挙ポスターから受ける印象はやはり、「闘士」の面影が色濃かった。1953年、吉田茂首相の「バカヤロー解散」後の選挙で 初当選、65歳であった。ちなみに、そのときの東京都の当選者は以下の図表の通りで、なんとなつかしい名前ばかりである。

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1953年4月衆議員選挙東京都当選者。5区に鈴木仙八、神近市子、河野密、中村梅吉の名前が見える。淡い空色が社会党左派で原彪、鈴木茂三郎、帆足計、島上善五郎、山花秀雄。ブルーが浅沼稲次郎、加藤勘十、三輪寿壮、菊川忠雄、山口シズエ、中村高一。社会党が強かった!

 

  この後も、神近は、60年11月の一度の落選を挟んで、55年1月、58年5月、63年11月、67年1月の選挙で当選、5期を務め、81歳で政界を引退している。

 1919年の出獄後から1953年衆議院選挙で初当選するまでの間の活動は、断片的に垣間見ることはあったが、『神近市子の猛進』で初めて知ることも多かった。

 その一つが、神近と短歌の出会いであった。(66頁)出典は、神近の長男鈴木黎児編集による『神近市子文集(三)』(武州工房 1987年11月)であった。さいわいにも、国立国会図書館でデジタル化されており、しかも個人送信により入手することができた。そこには、二本の短歌関係の随筆が収められていた。それらの文献によれば、神近が鈴木厚との結婚時に「(淀橋区)下落合」に住んでいたのは、半田良平宅の道路を隔てた向かいであり、その後も近くに家を建てたらしい。半田良平夫妻、子どもたちと家族ぐるみの交流があったことと、今井邦子の『明日香』には、気ままに投稿する仲だったことが書かれている。

 北海道に遊説で道南を回った折にはつぎの歌を含む五首を書き留めている。
・見はるかす札幌のかた夕陽はえて ポプラの並木赤くもえたつ(月寒の丘にて)

・開拓の長き苦難をかたるかに 古きサイロ山合にみゆ(倶知安にて)

 衆議院の法務委員会で、岐阜・愛知へ視察に出かけたとき、岐阜の宿で、請われて色紙に書いたのは、東海道での光景を詠んだつぎの歌だった。同行の議員たちも、その光景を見ていたので、喝さいを浴びたという。
・白鷺はおもしろきかな畔にいて 田植える人を眺めて立てり

  当時の「心境にはつぎの歌がもっともピッタリとくる」として、エッセイを閉じている。
・つれづれを史記よみてあり愛しきは 夏殷周の興亡のあと

 (以上「歌と詩と――半田氏の自称弟子」『随筆サンケイ』1961年3月。『神近市子文集(三)』所収)

 

 さらに、もう一本のエッセイ「私の短歌」では、今井邦子との出会いに始まり、自分の勉学の道をひらいてくれた家族やふるさとの大村藩という経済的に豊かだった背景にも及んでつぎのような短歌が記されている。
・ふるさとは友ありてよしこの宵を 心ゆくまでかたりあかして

  1958年7月のソ連視察時、公務が終わっての自由行動の折、トルストイの生地行きを提案、一同向かい、トルストイの墓を訪ねる。彼の墓はトルストイ一族の立派な墓ではなく、樹木の下にひっそりと石一つがあるのを目の当たりにして「何だか悲しかった」としながら、詠んだのがつぎの二首である。
・大樹の下に長方形の石一つ 墓をたずぬる人絶えまなし

・妻や子とは離れて眠るトルストイ 墓をたずぬる人絶えまなし

 二通りの表現を試みて、「主観と客観の違いだけで、どちらに重点をおいたわけでもない」と歌作にも余裕が感じられる一場面である。

 また、1959年、北欧諸国の福祉施設の視察で回ったときに「こんな一首がひょいと頭に浮かんだ」とある。
・北海の波分けてくる船ひとつ 我に希望もたらすがごと

 さらに、このエッセイの終わり近くには、「こうして原稿を書いていると、自分の生涯のことが次々に追憶され、私の生涯が成功と失敗の連続だったことが思い出されて来る」として、冒頭の一首が挙げられている。
・ひとり居て思うことあり 嬉しきは孤独に生きる力もつこと

  「孤独は自分でつくりだせることを知らなくてはならない。周囲に人なく物なくそれを孤独と考えるのは外形的なもので、外に求め、あこがれる場合は孤独ではない。求めず、あこがれぬ心境こそ孤独というものだろう。」「(芸術の)作者の側にも世俗に惑わされず、真実をあくなく追及してそれを表現する努力につとむべきだろう。」と。
(以上「私の短歌」『朝日新聞』1975年8月。『神近市子文集(三)』所収)

  なお、この『神近市子文集(一)(二)(三)』を編集した鈴木黎児は、神近と鈴木厚の長男で、離婚の際には神近に引き取られたのだが、苦労も多かったようだ。それでも、母の書き残したものを、自分なりの眼で収集しての私家版であったようだ。『神近市子著作集』全六巻(日本図書センター 2008年)が刊行される20年以上も前のことになる。さらに、鈴木黎児は、各文章の末尾に、解説を付し、執筆の背景や鈴木自身の率直な感想や批判もしているのである。その収集の努力と遺族による顕彰のみに陥りやすさを抑制している営為には敬意を表したい気持ちである。

  なお、今井邦子との関係ついて、神近の以下の文章がある。
「最後に会った今井さん」『明日香』今井邦子追悼号 13巻8号 1948年11月
「最後の会見」(今井邦子追悼講演録)『明日香路』1巻4・5合併号 1949年5月

  また、堀江玲子『今井邦子の短歌と生涯』(短歌新聞社 1998年1月)にも、邦子が鶴川村への疎開を紹介されたこと、再疎開した下諏訪の生家に、神近が4・5回訪ねていること、亡くなる年1948年2月にも見舞っていることなどが記されていた。

 半田良平については、さきの『文集』にも何度か出て来るが、「隣人としての半田先生(一)(二)」(『沃野』31~32号 1949年10月=11月)に詳しい。

*引用の短歌は、原文では二行の分かち書きになっているが、ここでは一字アキで示した。

(つづく)

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2025年2月 2日 (日)

皇室はもはや「無法地帯」?~皇室における女性の基本的人権は

「皇族は男女平等番外地」(東京都 長谷川節)
(朝日川柳 2025年1月31日)

 天皇制が憲法の「番外地」というならば、皇族の人権も「番外地」ということになるのだろうか。皇室はもはや「無法地帯」と言っていいかもしれない。
 1月31日の上記の川柳が目についた。日本国憲法の「第一章 天皇」を、天皇制を、憲法の「番外地」と称して容認する識者もいる。上記の川柳は、皇室において男女平等が認められないこと、憲法の男女平等条項は皇室の女性に及ばないことを「番外地」と詠んだ川柳。「番外地」のなかでさらに「番外地」となると、「無法地帯」に等しいのではないか。

 2024年10月29日、 女性差別の撤廃を目指す国連の女子差別撤廃委員会は、日本政府に対して、男系男子による皇位継承を定めた日本の皇室典範の改正や、選択的夫婦別姓の導入に向けた民法改正を勧告していた。ところが、2025年1月29日、外務省は、これに抗議して、国連の女性差別撤廃委員会を、日本の拠出金の使途から除外することを決めたというではないか。女性差別撤廃どころか、なんとえげつないことをするのだろう。その理由として「皇位につく資格は基本的人権に含まれていないことから、皇室典範において皇位継承資格が男系男子に限定されていることは女性に対する差別に該当しない」「皇位継承のあり方は国家の基本に関わる事項であり、女性差別撤廃条約に照らし、取り上げることは適当でない」とするのである。要するに皇位、皇位継承者には基本的人権の適用外、皇位継承事項は国家の重要事項であって、女性差別撤廃条約の適用外、外からとやかく言われる筋合いはないというのである。

 また、2021年12月22日、政府に提出された皇位継承に関する有識会議の報告書では、皇族数の確保策として、


〈1〉女性皇族が結婚後も皇族の身分を保持
〈2〉旧宮家の男系男子が養子として皇族に復帰

の二案が示されたことを思い出す。一案では、女性皇族に結婚後の身分保持―眞子さんのように自由になれない。二案では、女性皇族は旧宮家男系男子と養子縁組をさせられることになるかもしれないのである。しかも、いずれの案も皇位継承者の確保には直結はしない。「有識者」の人選もさることながら、彼らは、女性皇族たちの人権について思いは至らなかったらしい。

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どのメンバーも、各省庁の審議会などの常連であって、「皇位継承」ないし「皇室」についての有識者とは思えない。富田(1951~)清家(1954~)
宮崎(1958~)細谷(1971~)中江(1973~)、大橋(1975~)ということで、従来の有識者会議メンバーより若返ったというが、彼らとて、大方はイエスマンで、上昇志向の高い人ばかりに見受けられた。

 さらに、この二案を示された政府も、誰も関わりたくなかったかのように、積極的に論議せずに今日まで手付かずであった。ところが、この1月31日、衆参両院の各党派代表者による皇室課題に関する全体会議が開かれ、今国会中に結論を得たいとすることに多くの党が賛成したという。

 有識者会議報告の一案については、各党派の賛成が多いが、女子皇族の結婚後の夫や子供の身分をどうするとか、二案の旧宮家男系男子の養子縁組による皇室復帰させるかについては、各党派での違いがあるという。この先の議論で、皇室典範の改正ができたとしても、憲法の基本的人権条項に反することになり、違憲は明らかながら、皇室のタブー化は進むに違いない。

 皇族の「国事行為」以外の外国訪問、被災地訪問、戦跡訪問はじめ、さまざまな行事参加は、まったく法的根拠がないまま実施されて来た。また、大嘗祭はじめ皇位継承の様々な儀式についても、明治時代の太政官令を持ち出し、伝統の名のもと前例踏襲のまま実施してきたのが実態である。日本は法治国家であるはずなのに。

 にもかかわらず、近年の宮内庁は、「公的行為」を拡張して、皇族たちの露出度を高め、必死になって広報し、国民の関心をつなぎとめようとしている。それらの情報をひたすら拡散しているのが、いまのマス・メディアの姿といえるのではないか。

 

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2024年12月17日 (火)

1903年(明治36年)生まれの亡母は何がしたかったのだろう~わずかに残されていた敗戦直後から晩年の婦人雑誌(2)

 晩年に購読していたらしい、二・三の雑誌

 1955年10月号の『婦人公論』は創刊四十周年記念特大号とある。目次で執筆者を一望すると、当時の女性作家、女性論者が総動員されていて、中央公論社時代の面目躍如の感があり、壮観でもある。創刊が1916年(大正5年)1月なので、大正から昭和の激動の40年間を駆け抜けてきた雑誌である。「目で見る婦人公論四十年史」は、大正6年10月の神近市子大杉栄刺傷事件(日影茶屋事件)から昭和30年8月6日原水爆禁止世界大会の広島大会会場の写真で終わるは40頁近いグラビアが圧巻である。窪田空穂選による「歌壇」があるはずなのだが、破り取られているのは、その頃から母が短歌を作り始めたのではないかと伺わせる証ではないか。別冊付録「女の一生100問100答」は残念ながら残されていない。

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グラビアには、マダム・マサコによるフランスのヴォーグ紹介があるが、ここでもこれらファッションは、遠い憧れではなかったか。実用的で、働くイメージの強いファッションは今でこそ通用するのでは。

 1958年2月号『婦人指導者』は『婦人と教育』の前身らしい。この頃の母は、末っ子の私がすでに高校生で、長兄も結婚したので、家業や家事から解放された感があったのだろう。長兄が生まれるまでの数年間小学校教師をしていたので、もう一度学びたい、社会とのつながりを持ちたいと思い始めたのではないか。私の小学校時代はPTAのクラス役員などもしていたが、そのための外出を父親は快くは思っておらず、「また、行くのか」と嫌味をいわれていた記憶がある。また、1958年当時、ご近所の島田美恵子さんが主宰する「母親勉強会」にも入り、町内会の婦人部(?)にも顔を出し、夏祭りの際には、子どもたちの出しものの踊りなどを教えていたらしい。

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暉峻とし子、山川菊栄の名も見える。さまざまな形の地域の婦人団体の活動報告が続く。

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NHK第二放送で1957年10月14日から5日間にわたって放送された「女子教育史」が好評だったのを受けて、誌上録音し、その一回分が掲載されている。番組の冒頭では与謝野晶子「山の動く日来る」が朗読されたらしい。

 

  1959年7月発行の『土曜会会報』23号(土曜会、20頁)というサークル誌が残っている。ちょうどこの号には、1959年度の総会報告が掲載されていて、会員70名とあり、もう一つの会員アンケート紹介は、名簿も兼ねていて、住所・子供の年齢性別・職業・活動歴・会への希望が一覧できる。母は、「職業欄」に「時事問題に悩んでいる(安保、勤評)。教員をしている子も大学に行っている子もこれを中心に話すので」と記し、「希望欄」には、「時事問題などの講演を聞きたい」として丸岡秀子、市川房枝、伊藤昇、波多野勤子の名を挙げている。

 しかしこのサークル誌が発行された1959年の夏には、がんの手術をしたのだが、手遅れのため12月には、亡くなっているのである。その年の博文館の「当用日記」も残されている。夏以降、短歌の下書きや走り書き、もちろん家族のことはもちろんだが、病状と悪化への不安が綴られていて、読むのがつらい。

 母親は、何を学びたかったのか、何をしたかったのか、私には、それを尋ねる余裕もなく、母を見送ってしまった。もう少し長生きをしてくれたなら、私の最初の職場には、波多野勤子さんの『少年期』のその「少年」が、アメリカの国連勤務から帰国、教員になった大学に勤めていたり、二番目の職場では、丸岡さんの親戚がいらして、お宅に連れて行ってもらったり、近年は、市川房枝記念会ともご縁があって、『女性展望』に執筆させてもらったりして、現在は維持会員でもある。共通の話題が、たくさんたくさんあったのに・・・。もっともっとと話したかったのに。

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メジロが盛んに来るようになった。皮まで食べ尽くしているのがわかる。ヒヨドリは、例年より少ない

 

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2024年12月16日 (月)

1903年(明治36年)生まれの母は何がしたかったのだろう~わずかに残されていた敗戦直後から晩年の婦人雑誌(1)

敗戦直後の雑誌2冊

 長兄の代になって実家が小さなビルに建て替えるとき、屋根裏の物置から母の遺品を持ち出したのだろう。12月の母の命日は過ぎてしまったのだけれど、手元に何冊か半端に遺された「婦人雑誌」を記録にとどめておきたい。当時の婦人雑誌は、A5判で60頁ほどで、ざら紙で劣化も著しく、スキャンするにも綴じが今にも崩れそう。いや崩れてしまっているものもある。

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 この『婦人倶楽部』(大日本雄弁会講談社、64頁)1948年7月号の「夏の新型スタイル集」、何と懐かしいファッションだろう、杉野芳子(右端中央に見える)のデザインらしい。こんなワンピースやブラウスを着ている人を、身近に見ることはまずなかった。グラビアと言っても白黒だが、水泳の兵頭(前畑)秀子とスケートの茨木(稲田)悦子の子育てさなかの写真であった。裏表紙の広告がおもしろい。家業は薬屋だったし、私は店番が好きだったので、薬や化粧品の名前や製薬会社にも覚えがある。仁丹、山ノ内、三共、武田などは今も健在であるが、クラブ乳液のクラブ化粧品は今のクラブコスメティックになり、バニシングクリームのマスターがいまのマスターコスメティックかは不明。当時母はまだ短歌を作り始めてはいないようなので、私の関心から、短歌講座「歌のこころ」というコラムは、名歌というよりは、子や妻との微妙な関係を歌った作品の鑑賞が興味深い。ちなみに、このコラムの右側は、芹沢光治良の「新婚」という連載物の最終頁である。

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 『婦人界』(婦人界社、64頁)の表紙絵は志村立美。当時は、おゃれをしようと思えば、洋裁や和裁のできる人に仕立ててもらうか、自分で縫うしかなく、必ず型紙が付つけられていた。ここでもデザイン杉野芳子、田中千代が活躍する。つぎの斎藤茂吉の巻頭言のカットが中川一政である。

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左頁下段が目次、上段が茂吉の「白玉の憂ひ」と題して伊藤左千夫の

・白玉のうれひをつつむ戀人がただうやうやし物を云はなく

を引き、豊麗な肉体にこもる日本女性の情調を詠んだものとし、健康な女体の美を称えている。読みものでは、美濃部達吉の妻、美濃部多美子の「夫とともに歩んできた道」では、達吉が詠んだ短歌も紹介されていたのである。息子の美濃部亮吉の孫を大層可愛いがっていたそうで、つぎのような歌を孫への手紙に書き添えていたという。

・夏木立しげれる宿にかはらねど幼き子等の聲は聞こえず

 また、自宅に上げた客が暴漢と化して達吉は銃に撃たれ、入院するが、そのさなか、1936年2月26日2・26事件が起き、つぎのように詠んでいたという。

・我はただ我行く道を歩むなりいかに嵐はあれくるふとも

 なお、中河幹子選の短歌欄と中村汀女選の俳句欄は、最終頁に掲載されている。一等賞金100円、この雑誌が40円だから3か月分にもならないが。

 

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2024年8月 1日 (木)

国立女性教育会館、改編、存続決まる

 昨年12月、埼玉県嵐山町にある「国立女性教育会館」の閉鎖方針が文科省・内閣府より示された。そのニュースを聞いた時は、私もいささか戸惑った。国立女性教育会館は、1977年、国立婦人教育会館として発足(2001年1月に「婦人」を「女性」に変更、2001年4月に独立行政法人となる)、全国の自治体や市民団体による女性の地位向上、男女平等の普及活動の中心的な役割を担い、女性関係資料のアーカイブの充実にも寄与してきたはずなのに、なぜ?と思ったのである。それに、私は、戦後短歌史をジェンダーの視点からたどってみようという小さな研究会のメンバーとして、国立女性教育会館の「女性学・ジェンダー研究フォーラム」1998年・99年に参加、その熱気に圧倒されたという思い出がある。さらに翌2000年には、会館主催の研修会に”講師”として招ばれもしたという縁もあったのである。詳しくは、過去の関連記事をご覧ください。

嵐山の女性教育会館が閉鎖?!これまでの実績を思う(2024年1月16日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2024/01/post-61eb52.html

 その会館の閉鎖方針の行方が心配であったが、きのう7月31日「埼玉の嵐山町に女性活躍司令塔 組織改編、移転せず」という見出しの小さな記事があった(『東京新聞』7月31日)。「見出し」だけでは、はっきりしなかったが、埼玉県、嵐山町の強い要望もあって、移転、閉鎖の方針を転換し、全国約360ある男女共同参画センターと連携、活動の支援強化をすることになったらしい。

 あたらしい方針によれば、女性教育会館が行ってきた研修、調査研究、関係機関の連携促進など事業内容の高度化を図り、必要な機能を本館に集約し、老朽化した宿泊棟、体育施設などは2030年度までに撤去を目指す、という(『埼玉新聞』7月31日)。

 私も泊ったことがある、160室もある宿泊棟、研修施設を目指すなら新しい宿泊施設は当然必要だろうし、あの広大な緑豊かな敷地も大切にしてほしいと思う。存続が決まって、ほっとしたところだが、これからの動向を注視していきたい。

 

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5月末、夫は、急に思い立って、庭の隅を掘り起こし、トマトやナスの苗を植えた。それからは、毎日、天気予報を欠かさず見て、水やりやとぎ汁、畝にビニールをかぶせたりと、丹精込めて育ててきた。これまでも、一つ二つとれてはいたが、この日、ようやく大量の?収穫にこぎつけた。さっそくナスと牛肉を素揚げして、南蛮漬けにしてみた。トマトは、これからも毎日とれそうで、サラダにできると楽しみにしている。

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2024年5月 1日 (水)

「天皇制はない方がよい」3%、そこに留まる一人として

  4月29日は、天皇誕生日、いや、みどりの日だった。いや、いまは、なんと「昭和の日」だった。2007年から、みどりの日は5月4日に移動して、「昭和の日」になっていたのだった。そして、もう忘れかけそうな、4月30日には、どんな事情があったのだろう、5年前の、この半端な時期に、平成の明仁天皇が退位し、2019年5月1日に徳仁天皇が即位している。きょうの 朝刊を見ると、天皇家の令和の5年間を振り返る記事が並んでいる。「時代や社会に応じ<象徴>を模索/国民と苦楽を共にする」(東京)「国民の中に広がる活動」(朝日)、「苦難と向き合い 国民と歩み」(毎日)という見出しであった。「国民とともに」といわれてみても、私たち国民にその実感はない。訪問先や被災地でのふれあいは、限定的でもあり、一過性でもある。歌会始や園遊会、文化勲章など国家的な褒章制度などは、国民の栄誉欲と権威付けが伴う活動の場となっているのではないか。

そんなカレンダーを踏まえ、しかも、「安定的な皇位継承の在り方」に関するか各党の見解が出そろった4月28日、共同通信社は「皇室」に関する世論調査結果を発表した。

 近年の皇室に関する世論調査には、女性天皇、女系天皇の賛否を問う質問が必ず登場するようになった。上記の世論調査でも、全体で20の質問事項の中で、2問への結果はつぎのようであった。どちらも圧倒的に賛成と出た。

 問7女性天皇の賛否:

 賛成52%、どちらかといえば賛成38%、 併せて90%
 反対3%、 どちらかといえば反対  6%、 併せて 9%

問10女系天皇の賛否:

 賛成38%、どちらかといえば賛成46%、 併せて84%
 反対  5%、どちらかといえば反対 9%、 併せて14 %

(2024年4月 共同通信社世論調査)

  なお、4年前の共同通信社の世論調査結果は以下のようであった。

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「女性・女系天皇 「支持」が高く 天皇に「親しみ」58%」東京新聞 2020年4月26日 

  これは、高齢者にとっては男女平等、若年層にとっては、ジェンダーによる差別なくそうとする考え方がある程度浸透してきたことと女性皇族—美智子さん、雅子さん、愛子さんらの行動とその報道などが反映されていると思う。

 しかし、このことは、当ブログでも何度も述べているように、天皇制自体が平等を前提としておらず、男女を問わず皇族たちのごく当たり前の基本的人権が認められていない仕組みなので、女性天皇、女系天皇で皇位をつなげたとしても、その平等・人権に反する状況は何も変わらない。

 今回の世論調査で、私が着目したのは、以下の問3であった。

 問3あなたは、日本に天皇制があった方がよいと思いますか、ない方がよいと思いますか

 あった方がよい:        44%
 どちらかといえばあった方がよい:44%
 どちらかといえばないほうがよい: 7% 
 ない方がよい:          3%
   無回答:             1%

   この種の世論調査で、「天皇制」の存否をストレートに問う質問事項が登場するのは稀である。さらに、その回答は、私にとっては、“どちらかといえば” 想定外なものであった。これほどまでの差があるとは思わなかった。あわせて88%があった方がよい、であり、ない方がよい、10%という低さだったのである。私は、この質問をするならば、その理由も聞いてみたかった。が、別の問15において、即位後の活動について、評価する活動の二択において、以下のような結果だった。

海外訪問や外国賓客のもてなしなど国際親善53%、
訪問先での国民とのふれあい42%、
被災地のお見舞い38%、
憲法の定める国事行為18%
戦没者の慰霊、宮中祭祀が各8%

 ここに、あった方がよいとする理由を垣間見ることができるような気がする。国事行為の18%をのぞいては、法的根拠のない、公的行為か、私的行為に過ぎない。平成期の天皇夫妻が、拡大してきた「公的行為」であり、「私的行為」の広報や公務化を、令和期の天皇夫妻も踏襲してそのままに報道するようになった。そうしたことが、問15や問3の回答結果に反映しているのではないかと思う。

 「天皇制」はない方がよい3%にとどまって何ができるのか、どちらかといえばない方がいい7%とともに、進む道はあるのか、心細いながら考えていきたい。

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 「「皇室」世論調査の詳報」(一部) 東京新聞 2020年4月26日
読みにくいのですが、クリックすると拡大します。

 

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2024年2月 9日 (金)

大人の対応?私の「オバサン」騒動の顛末

 1月30日、麻生自民党副総裁が地元福岡での講演の際、上川外務大臣を名指ししての「オバサン」発言は、謝罪と撤回でケリがついたようだが、上川大臣は「大人の対応」でかわしたらしい。

 2007年のことなので、20年近く前のことながら、私にも「オバサン」体験があった。佐倉市には、「市民の声」係や「市長への手紙」などを通じて、市民の要望を聞く仕組みがある。当時、私は、まだ元気があったのだろう。5年ほどの自治会役員から解放されたあとも、町内の人たちと、地域の都市計画事業に伴う環境問題などについて開発業者や市役所と交渉したり、市への情報公開請求や市政への要望書をよく提出したりしていた。

 どんな用向きであったか、今では「記憶にない」のだが、「市民の声」係に電話したところ、電話口に出た女性が、「少々お待ちください」のあと、他の係員に「あの、なんかオバサンからの電話なんだけど・・・」との声がしたのである。いまのように保留のメロディが流れることもなかったのだろう、まともに「オバサン」呼ばわりされているのを聞いてしまったのである。

 私もまだ、「若かった」のだろう、代わって電話口に出た男性に、用件より先に、女性の「オバサン」発言に抗議したのである。「市民の声の窓口ともあろう人が、そのような、いかにも市民軽視の発言や対応は許されるものではない」と。その場で、男性が一言謝罪したかもしれないのだが、私の怒りは収まらず、女性やその上司にも反省を求めた。そして、今後、同じようなことが起こらないためにも、その反省を形で示して欲しいとの要望もした。

 後日、以下のような書類が、秘書課長名の送り状付きで届いた。上が、「オバサン」発言の女性によるもので「誤解を生じやすい表現を用いたことにより、市民の方に不快な思いをさせてしまいました。・・・」の一文は、「誤解を招く」「誤解を生じる」は、現在の役人や政治家も好んで使用する「言い訳」である。「誤解」じゃないだろうと、この頃はテレビに向かって叫んでいる。
 また、上司の副申書にある「お客様」なる表現にも、違和感があり、私は、あなたの「お客」ではなく、「市民」です、というやりとりをすることが多い。

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2023年12月18日 (月)

女性皇族は、皇室の広告塔? ~生き残りをはかる天皇制!

                                                                                                                                                                                      

近頃の皇室報道

 12月に入って、皇室の記事がやたら目につくようになった、一年を振り返るということもあるのか。この4月には、宮内庁に広報室が新設されたことにも拠るのだろう。雅子皇后が12月9日に60歳になり、12月1日には愛子さんが22歳になった。私の目にした範囲でも、大きく報道されていたが、皇后については、12月9日、公表された文書での感想と略年表、写真などを付した特集が組まれたりしている。

朝日新聞:「絆と歩む 自らの道」と題して、「誓った社会に貢献」「覚悟と努力の日々」1頁全面と社会面「皇后さま60歳≺また新たな気持ちで一歩を>」の記事(多田晃子)
毎日新聞:「<人の役に>たゆまぬ歩み」と題して、「苦労実り 大輪の花に」「雅子さま60歳 陛下の支えとともに」1頁全面と社会面「<新たな気持ちで一歩> 皇后雅子さま60歳に」の記事(高島博之)
東京新聞:社会面「皇后さま60歳に」「新たな気持ちで歩む」(山口登史)、4面「皇后さま60歳 感想要旨」の2か所の記事

 特集記事の表題や小見出しを見ても明らかなように、皇后の文書での感想をベースに、結婚以来の曲折を踏まえ、勤めに励んできたことを称えるスタンスであった。朝日、毎日では、ともに、皇后の中学時代からの同じ友人を登場させて、その友情にまつわるエピソードを紹介していた。その点、東京新聞の記事は短く、淡々とした報道に思えた。

 さらに、今年の4月に、宮内庁に広報室が新設して以来、皇室記事、とくに私的な動向を伝える報道が増えたような気がする。このところの推移は、前の記事に追加して、以下のような表にしてみた。

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<参考過去記事>
天皇はどこへ行く、なぜインドネシアだったのか(2023年7月28日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2023/07/post-1eb3c3.html

宮内庁広報室全開?!天皇家、その笑顔の先は(2023年6月12日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2023/06/post-9183da.html

 

佳子さんの奮闘は、何を意味するか

 ネット上の朝日とNHKのデータをもとにして、調べて分かったことだが、ほぼ、同じ傾向を示している。一つ違うといえば、秋篠宮家関係が、朝日51件に比べNHKが68件と多いことである。皇位継承者上位二人がいることが配慮されているのだろう。記事内容を見ると、秋篠宮家の佳子さんの記事がかなりの数を占めていることもわかる。

 それというのも、宮内庁のホームページに登載の天皇家と秋篠宮家の「ご活動」をみると、なお明確になる。広報室からの発信と思われるが、ちなみに一家を含め佳子さんの活動件数をみてみると、4~11月において31件、この中には、イベントやペルー訪問に先立っての説明や進講を受けたりした場合も含まれ、10件近く、ほぼ3分の1を占める。これらは記事やニュースにほとんどならない。それにしても、佳子さんの参加イベント、公的な活動と思われるものが記事になり、ニュースになり、もしかしたら、単独活動では一番多いかもしれない。そもそも、女性皇族に「公務」はないので、あくまでも「公的な、純然たるプライベートではない」程度のことではある。

 一方、愛子さんは、ほとんどが天皇夫妻と一緒の活動であって、20件に満たないし、単独の活動は見当たらない。4月ウイーン少年合唱団の鑑賞、御料牧場静養、5月天皇夫妻の即位5年成婚30年記念展見学、8月那須静養、今井信子演奏会鑑賞、9月日本伝統工芸展見学、10月日本赤十字社関東大震災100年展見学、11月三の丸尚蔵館記念展、やまと絵展見学など、ほとんどが純然たるプライベートな活動にすぎない。これらの中には、一家で参加している養蚕関係行事も含むのだが、上記のほとんどが新聞、テレビなどで報道されている。「優雅で、文化的な、仲良し家族で結構ですね」との感想は持つが、報道の価値がいかほどあるものなのか、と思ってしまう。たんなるセレブ?の家族とはちがい、そんな暮らしを、国が、国民がストレートに支え続ける意味はどこにあるのだろうかと。しかし、憲法上存在する制度で、財政的に支えなければならないというのであれば、宮内庁は、全面的に情報を公開すべきであるし、新聞等での「首相の動向」のような欄でも公開すべきであろう。

 さらに、愛子さんの単独活動がないのは、共同通信配信記事「愛子さま、まだ単独公務の予定なし ほかの皇族に比べて遅いデビュー、その本当の理由は」(2023年12月10日)によれば、学業優先が主な理由として挙げられてはいるが、研究者河西秀哉によれば、皇位継承者秋篠宮悠仁の手前、現在皇位継承者ではない立場で、あまり目立ってはいけないという配慮があると言い、小田部雄次によれば、皇位継承問題が決着しない限り、単独公務はかなり難しいのではとの見解を紹介している。

 となると、佳子さんの今の活動ぶりは何を意味するのか。いわゆる公的活動を拡大して、さまざまな活動に積極的なのは、彼女自身の意向というよりは、宮内庁の方針で多様なオファーにつとめて応えているというのが実態なのではないか。

 皇位継承者と目されることもなく、いずれ皇室を離れるだろうから、いま一番人気の彼女にはどんどん励んでいただこう、広告塔のお役を果たしてもらおうというのが宮内庁、広報室の本音ではないかとも思えてくる。

 

たしかに宮内庁は、焦っている

 12月1日には、こんな記事も出ていた。「識者に聞く皇室」と題しての君塚直隆へのインタビューである(聞き手、須藤孝。『毎日新聞』2023年12月1日)。「生き残るため 国民の前へ」と題して「広報 隠すより赤裸々に」の見出しのもとに「政府や宮内庁の広報は発信(だけ)ではなく、隠したり抑えたりしています」、スキャンダルを恐れているのかもしれないが、スキャンダルはどの王室にもあるので、隠すのではなく、赤裸々に示して理解を求めた方がよい。さらに、政府の足らざるところ、弱者への対応を補っていくことを提案している。「赤裸々」だったかは別として、政府や宮内庁は、すでに、必死になって発信し、皇族たちも、戦争被害者、災害被災者、病者、障がい者など、いわゆる弱者と呼ばれる人々への「心のケア」を担ってきたことだろう。とくに、平成期の天皇夫妻が、見ていても痛々しいほど努力してきたことを垣間見てきたが、なぜ、これほどまでにして、天皇制は生き残らねばならないのだろうか。

 政府は、皇位継承者問題を先送りし、日本共産党も民主主義とは相容れない天皇制へのすり寄りを見せ、フェミニストたちでさえ、女系・女性天皇待望論を語り、差別の根源たる天皇制自体の問題から逃げているとしか思えない。宮内庁は、この難しい局面に立って焦っているのではないか。

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