2023年1月13日 (金)

「國の會ひにまゐらんものを」~変わらぬ女性の願いと壁

『女性展望』1・2月号の巻頭言に寄稿しました。

 『女性展望』はなじみのない方も多いと思いますが、市川房枝記念会女性と政治センター発行の雑誌です。

 1924年12月、久布白落実、市川房枝らが中心となって婦人参政権獲得期成同盟が発足、翌年、婦選獲得同盟と改称し、1927年には機関誌『婦選』を創刊します。『婦選』は、その後『女性展望』と改称し、女性の参政権獲得運動の拠点にもなった雑誌です。1940年、婦選獲得同盟が解消を余儀なくされ、婦人時局研究会へと合流する中で、『女性展望』も1941年8月に終刊します。

 敗戦後、アメリカの占領下で婦人参政権を獲得するに至り、市川は、1947年、戦時下の活動から公職追放、1950年の追放解除を経て、日本婦人有権者同盟会長として復帰します。1946年には、市川の旧居跡に婦人問題研究所によって婦選会館が建てられ、現在の婦選会館の基礎となり、1954年には、『女性展望』が創刊されています。市川の清潔な選挙を実現した議員活動については、もう知る人も少なくなったかもしれません。1980年6月の参議院議員選挙の全国区でトップ当選を果たしましたが、翌年87歳で病死後は、市川房枝記念会としてスタートし、2011年、市川房枝記念会女性と政治センターとなり、女性の政治参加推進の拠点になっています。こうして市川房枝の足跡をたどっただけでも、日本の政治史、女性史における女性の活動の困難さを痛感する思いです。 

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『女性展望』2023年1・2月号

 表題は、1927年『婦選』創刊号に、寄せられた山田(今井)邦子の短歌一首の結句からとりました。末尾の安藤佐貴子の短歌は、20年以上も前に、「女性史とジェンダーを研究する会」で、敗戦直後からの『短歌研究』の一号、一号を読み合わせているときに出会った一首です。私は、『現代短歌と天皇制』(風媒社 2001年)の準備を進めているときでもありました。安藤佐貴子については、会のメンバーでまとめた『扉を開く女たち―ジェンダーからみた短歌史1945~1953』(阿木津英・内野光子・小林とし子著 砂小屋書房 2001年)に収録の阿木津英「法制度変革下動いた女性の歌の意欲」において、五島美代子、山田あきとともに触れられています。

 

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2022年10月31日 (月)

「貞明皇后の短歌」についてのエッセイを寄稿しました

 「新・フェミニズム批評の会」が創立30年になるということで記念論集『<パンデミック>とフェミニズム』(翰林書房 2022年10月)が出版されました。私が友人の誘いで入会したのは、十数年前なので、今回、創立の経緯など初めて知ることになりました。毎月きちんと開かれている研究会にも、なかなか参加できないでいる会員ですが、2012年以降の論文集『<3・11フクシマ>以後のフェミニズム』(御茶の水書房 2012年)、『昭和前期女性文学論』(翰林書房 2016年)、『昭和後期女性文学論』(翰林書房 2020年)には寄稿することができました。30周年記念の論集は、エッセイでも可ということでしたので、「貞明皇后の短歌」について少し調べ始めていたこともあって、気軽に?書き進めました。ところが「査読」が入って、少し慌てたのですが、何とかまとめることができました。

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執筆者は、30人。表紙は、鳩の下の羽根には花畑が、上の羽根には、ブランコに乗った女性いる?という、やさしい装画(竹内美穂子)でした。

 

「貞明皇后の短歌が担った国家的役割――ハンセン病者への「御歌」を手がかりに」

1.沖縄愛楽園の「御歌碑」

2.「をみな」の「しるべ」と限界

3.届かなかった声

4.変わらない皇后短歌の役割

以下で全文をご覧になれます【12月11日】

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2022年9月21日 (水)

忘れてはいけない~覚えているうちに(5)60年前の女子の就活

 私が大学に入ったその年の暮れに、母は56歳で病いで急逝した。その母は、女も資格を持って働き続けなければというのが持論で、大正末期、師範学校を出ながら、出産のため数年で小学校教師を辞めなければならなかったことを嘆いていた。薬局という自営業の父を助け、三人の子育てもしたが、少しは、暮らしに余裕ができて、これから自由にという矢先だったに違いない。もう60年以上も前のことである。

 私も教育系の大学だったので、高校の社会科の教員になるのが第一志望だったが、卒業当時、高校の社会科の教員は、東京都は募集もなかった。近県の教員試験はパスして名簿に登録はされたものの、四月採用は無理だと知らされた。一方で、何の準備もなく大学の就職課の掲示板を眺めては、受験資格「女子も可」という朝日新聞社、岩波書店、中央公論社、講談社・・学生社、グラムフォンなども受けていたが、いずれも一次や二次で落とされていた。当時は、会社説明会なんてなかったのでは。教授や先輩の伝手で、電通や東映などへも、紹介状を持って訪ねていたが、受験には至らなかったのだろう。しかし、なに一つ特技など持たない女子には、厳しかった。不採用通知は今でもファイルに残してある。法律専攻だったので、男子たちは、金融・製造関係や公務員、進学を目指すものが多かった。私は、不勉強がたたって、公務員試験にはまったく自信がなかった。それでも、ようやく年内に、内定をもらっていたのが流通業界、いまでこそ大手スーパーを経営する会社だった。「商売を覚えて来いよ」?と父も喜んでくれた。

スーパーか大学の「助手」か
 ところが、G大学から非常勤でこられていた先生とゼミの先生が勧めてくださったのが、G大学の「助手」にならないかという話だった。G大学は、翌年の法学部新設に伴い共同研室勤務の「助手」が必要だったのである。「大学の助手」の名に惹かれたというのか、ただのミーハーだったのか、大学職員として、ともかく二年間務めた。この間のことは、当ブログでも何回か触れているが、色々な先生たちの「生態」や「私立大学」の実情を垣間見ることができたし、生家の池袋や出身大学にくらべると、目白のキャンパスは別世界のようで、楽しかった。考えてみれば当たり前だったのだが、共同研究室の「助手」の仕事はあくまでも先生方の「お手伝い」であることが分かって、二年目にして転職を考えなければならなかった。

図書館で働く
 国家公務員試験には、手が届きそうもない。国立国会図書館(NDL)が独自の採用試験を実施していることを知って、もしかしたらと、にわか勉強の末、何とか、面接までたどり着いた。古巣のゼミの先生にその顛末を告げると、OBのNDL職員を紹介してくださり、会うことになった。さらに、そのOBの先輩の職員にも会い、アドバイスを受けた。面接試験の日も迫ってのことだった。面接の内容は、もう思い出せないのだが、ともかく合格し、本格的な職業生活のスタートを切った。後から考えると、この年の採用は、新館完成を控え、採用人数が、例年になく多い年だったのだ。紛れ込んだといってもよかったかもしれない。
 もう、「ここで、一生働くぞ」との思いだった。一時期、働きながら司法試験を目指す大学の友人たちのグループに入ったりもしたが、基礎学力不足と私の性格からムリとあきらめたこともある。もし、第一志望通り、教員になれたとしても、教育実習先の母校の高校で指導に当たった先生からは、「君は教師には向かないかも」とまで言われていたし、内定していたスーパー業界に入ってたとしても、激烈な競争業界で無事すごせたか、どちらも長続きできたか、怪しいものである。
 NDLでの仕事は、法律関係のレファレンス部門だったが、自分のペースで仕事ができる雰囲気の職場だった。飛び込んでくる利用者にも、ある程度、「過去問」の蓄積で回答できるものもわかってきたり、一緒に閲覧カード!!(現在はすべて撤去)を検索したりした。電話での質問も多く、即答できるものもあれば、時間をもらって回答することも多かった。外部から届く文書での質問は、上司から振り当てられたが、課内にある書誌や参考図書からスタートして、書庫との往復で、ずばり回答に近い資料に行きあたればよろこび、回答には至らなかったものについては検索過程を知らせるようにして、悔しい思いもする。その過程で、多くの先輩たちの残した資料や指導には教えられることが多かった。そして、何より楽しみだったのが、毎週1回「選書日」というのがあって、納本された図書をこの目で確かめられることできたことである。自分の課でレファレンス用として欲しい副本を選んでカードを挟むのが本来の目的だった。ともかく、背表紙だけでも新刊書と出会えるのがうれしかった。それに課内でのお茶の時間、年1回の職場旅行、暑気払い、忘年会、有志でのスキーなども結構盛んであった。書道サークルでの展覧会や合宿もと、忙しかった。

名古屋の女子短大図書館へ
 10年後には、縁あって結婚したが、連れ合いの職場が名古屋だったもので、名古屋で職が見つかるまでは、このまま、頑張る!と、私の単身赴任?が続いた。当時はまだ、「単身赴任」といういい方はなく、「別居結婚」とか言われていた。週末には、どちらか名古屋と当時私の住まいのあった川崎と行ったり来たりという生活だった。その間、名古屋での就活では、NDLの上司からの紹介により、当時、県立図書館長にお会いしたところ、市内のT女子短大の図書館の話が持ち上がった。翌年の四月採用ということであったのだが、なんと出産予定日が八月とわかり、この話は、半分諦めかけていた。それでも、短大の面接に出かけ、実情を話した。が、すんなり、決まったのである。
 その年の三月三一日までNDLに出勤し、翌四月一日には名古屋の短大図書館に出勤していた。短大での同僚の女性二人は年下で、短大の卒業生で、司書資格を持っていた。彼女たちに、私の八月出産のことは「聞いていない!」と言われたときはショックであった。短大の先生たちの産休には、もちろん先例はあったが、職員は初めてだという。当時は産前産後の休暇は6週間であった。ともかく、6週間前まで務め、夏休みを挟み、産後は診断書をもらい2週間延長して8週間の休暇をもらった。教員が主力の労働組合であったが、アドバイスももらったが、代替要員などについては、事務局も応じることはなかった。
 何しろ、その短大図書館は、当時、図書購入費が2000万円を越える規模で、全国の短大でもトップクラスであった。大部分が研究図書費で、多くは研究室に別置され、図書館で利用できる図書が極端に少なかった。副学長、館長を含む教員たちによる図書館委員会では、研修の必要性を説き、地元の短大図書館協議会はじめ、全国短大図書館協議会の研修会、全国図書館大会ほかいくつかの研修会には、職員三人が交代で参加できるようにし、図書館職員の「出張」が認められるようになった。図書館業務にも機械化が進み、その研修などにも追われた。徐々に学生が利用できる雑誌を増やし、図書も増やし、研修、ニュースの発行なども重なると、今度は人員が足りなくなる。アルバイト1人、2人と増えたが、やはり正職員が欲しかった。その後、男子職員も入ったが、県立高校長を退職した上司を迎えるはめになった。 
 名古屋に転職した翌年、お世話になった県立図書館長から、それまで兼任されていた愛知学院大学司書講習会講師の話をいただいた。「参考書誌演習」という科目(2単位ながら1日4コマ1週間)を10年間担当していた。講習会は、夏の休暇を中心に展開されるので、一週間とはいえ、娘の保育園・小学校時代と重なるので、苦労も多かった。「教える」ことはまさに学ぶことでもあって、苦しいこともあったが、楽しさもあった。毎年200人前後の受講生を相手に、概論の後、少人数のグループごとに演習課題を課し、発表してもらい、講評するという手順だった。テキストの作成と補充、演習課題は、毎年少しづつ新しいものに変えていくのは、短大の仕事とは違う楽しさもあり、名古屋を離れるまで、ちょうど十年にわたっての仕事となった。いまのようなネット社会が来るとは思わなかったが、現在も「演習」は形を変えて残っているようで、愛知学院大学の司書講習会は120人規模で健在であった。

千葉の新設大学図書館に
 名古屋弁も聞きなれた10年後には、連れ合いの東京への転任が決まった。仕事を手離したくなかった私は、またもや就活である。こちらも若くはなかったが、続けるとしたら、やはり図書館しかないと、思いつめていた。結局、『図書館雑誌』の求人欄に応募して、都内の私立大学の図書館の非常勤職員として、四月半ばから勤めることになっていた。名古屋から千葉県の仮住まいに転居し、引っ越し荷物の整理のさなか、まったくの前触れもなく、千葉県に新設されたばかりの大学のN図書館長という人の訪問を受けた。いま職員は二人いるが、図書館業務の経験のある人を探しているというのである。ある国立大学で助手を務めていた友人の上司にあたる教授から当方のことを聞いたという。希望するならば、正職員として採用の予定だから、大学の理事長に会って欲しいと。二日後には、面接を受けて、前職直近の給与、図書館は土曜も開館するが、週休二日でという条件を出してみたところ、即決してしまったのである。N図書館長は、後から伺うと、NDLからある研究所に転職、定年まで勤められ、新設大学の教授となった方だった。その新設大学は、中・高等学校を含む学園の創業者の発言力が強いことがわかった。図書館が発行する「図書館だより」の中身までチェックされるようになり、仕事が増えても、増員は非正規でしか補われなかった。


 結局、六年余りで、早期退職し、進学の道を選ぶことになる。振り返れば、どの場面の就活でも、なんと多くの方々にお世話になったことかと感慨深い。きちんとした謝意を伝えられたのか、期待に応えた仕事ができたのかも心細い。そして、支えてくれた家族にも。考えてみると、四つの職場を渡り歩いた三十年余りの半端な職業生活ではあったが、いまの暮らしや考え方に大きな影響を受けていることは確かなようである。
 ネットを見れば転職サイト、テレビでも転職を進めるCMも多い時代である。いまの若い人の「転職」の考え方も知りたい。とくに女性は働きやすくなったのか、女性が非正規という働き方の受け皿になっていないのか、転職が「正解」なのか、転職するしかなかったのか。就活スーツの女性を見ると「就活」頑張ってね!「転職」して大丈夫?と声をかけたくなるのだが。

 

 

 

 

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2022年6月26日 (日)

忘れてはいけない、覚えているうちに(1)「戦後短歌史とジェンダーを研究する会」の最後の会計係

 あまり好きな言葉ではないが、「断捨離」のさなか、身辺整理を始めてはいるが、なかなか片付かない。この間は、台所の食器類を整理した。まるで使ってないワイングラスのセットやコーヒーカップ、菓子皿や茶たくなどを取り出してみた。近くの散歩コースにある高齢者施設には、いきなり声をかけさせてもらった。若い施設長がやって来て、「ほんとに欲しいものだけでいいんですか」「これはお客さん用に」「花びんはありがたいです。季節の花は、皆さんよろこばれますから」と段ボール一杯ほどだが引き取ってくださった。雑誌や本、ノート、コピーした資料、手紙などになるとそう簡単にはいかない。

 古いファイルの一つを開いてみると、「戦後短歌史とジェンダーを研究会 会計ノート」と会場借用料の領収書が出てきた。記帳によると、2002年11月30日から2009年11月20日までで、残高2805円とあり、現金が入った封筒が挟まれていた。ノートによれば、私が、2009年6月から会計係を務めていたらしい。

 この会のあらましは、『扉を開いた女たち―ジェンダーからみた短歌史』(砂小屋書房 2002年3月)の「あとがき」にも記しているが、1995年秋、阿木津英の呼びかけで、1996年1月、銀座の「滝沢」で8名の女性歌人によって立ち上げられた。当初は、ほぼ2カ月おきに、戦後の短歌雑誌を、ひとまず1953年まで読み込んでみようということで、交代のレポートをもとに検証を進めた。そして、その成果は、最後まで残った阿木津、小林とし子と私の3人の共著『扉を開いた女たち』となった。この書は、東京女性財団の出版助成100万円を受けたことも忘れ難い。当時の石原都知事は、2001年度をもって、この事業を廃止してしまったのである。

 その出版を受けて、あたらしいメンバーで、再スタートした痕跡が、上記ノートに残されていた。2002年11月、銀座ルノアールで、上記の阿木津、小林、内野に、森山晴美、藤木直実、佐竹游が参加、その後は、空室を求めて中央区の区民館―銀座、人形町、新場、久松町、堀留町、京橋・・・と転々とした。途中、浜田美枝子も参加したが、去るメンバーもあって、2010年9月7日、銀座ルノアールの会で、研究会は中止となった。その成果を会として、まとめられなかったのは残念な思いもするが、その後は、各自が、ここに挙げるまでもなく、自らの研究成果や歌集を出版され、活躍されているのは、かつての、あの熱量を懐かしむとともに、心強くも思う昨今である。

 残高は、私がいつも古切手をお送りしている、かにた婦人の村「かにた後援会」(千葉県館山市大賀594)にカンパさせてもらうつもりなのだが、それでよろしいものか。

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先日、シルバーサービスのK
さんたち二人にお願いして、ドクダミほかの草引きをしていただいた。二年半ぶりなので、今度は早めにと言われてしまった。7月初めには、庭木の剪定もお願いしているが、スケジュールが込んでいるそうだ。写真左、数年前、移植したあじさいも今年は咲いてくれそう。

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2022年6月 7日 (火)

『喜べ、幸いなる魂よ』(佐藤亜紀)~フランドル地方が舞台と知って

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  近年、めったに小説など読むことはないのだが、主人公がフランドル地方のゲント(現地の読み方がヘントらしい)のベギン会の修道院で暮らす女性と知って、読み始めた。というのも、すでに20年も前のことなのだが、2002年の秋、ブリュッセルに何泊かしたときに、日帰りで、ゲントに出かけて、その小さな街の雰囲気が印象深かったこと、ブルージュに出かけた日は、ふと立ち寄ったベギン会修道院のたたずまいが忘れがたいこともあって、ぜひ、読まねばとの思いに駆られた。 

  小説は、18世紀、亜麻糸を手堅く商う家に生まれた双子の姉ヤネケと養子として引き取られたヤンとの愛の物語である。読書が大好きで、数学や天文学などにも関心が深いヤネケはまるで実験かのようにヤンと愛し合い、二人の間に生まれた子は、二人と引き離され乳母に預けられる。ヤネケは、母方の叔母が暮らすベギン会修道院に入ってしまう。ヤンは、子への愛を断ち切れず引き取り、亜麻糸の商人として働きながら育てるのだった。当時の女性は子を産むことと家を守ることに専念すべきで、学問をするなど許される時代ではなく、双子の弟のテオやヤンの名前で本を出版して、認められるようにもなってゆく。テオは、野心家の市長の娘と結婚するが不慮の事故で急逝すると、市長の娘とヤンは結婚、亜麻糸商を任されることになる。ヤンは、店の帳簿を、数字に強いヤネケに点検してもらうために、修道院に通ったり、ヤネケは、二人ならば許されるという外出を利用して、しばしば生家を訪れたりして、ヤンや子供のレオとの交流もする。

  ベギン会の修道院は、一般社会と切断されているものではなく、統括する組織もなく、信仰に入った単身女性たちは、敷地内のテラスハウスのような住居を所有する。外出も可能で、居住区以外は、男性の出入りもできたという。それぞれ、資産を持ち、亜麻を梳いたり、レース編みをしたり、あるいは家庭教師になったり、さまざまな技能と労働をもって、自分で生計を立て、貯えもする。

  敷地内で、ヤネケが育てているリンゴの木、毎年少しづつ美味になってゆく果実をヤンと食す場面が象徴的でもある。市長の娘の妻との暮らしもつかの間、風邪をこじらせ急逝、今度は、ヤンが市長の座にふさわしい妻をということで、貴族の未亡人と結婚したが、出産時に死去、ふたたびひとり身になるのだ。

 ただ、成長した子供のレオは、ヤネケが母とは知らず、なつかないまま、商売の手伝いをするわけでもなく、やがて家を出てしまう。そして、ヤネケとヤンの老齢期に近づくころ、二人にとっても、フランドル地方にとっても思わぬ展開になるのだが、二人の愛は、揺らぐものではなかった・・・。

 登場人物の名をなかなか覚えられないので、外国文学は苦手なのだが、この小説でも登場人物一覧にときどき立ち戻るのだった。著者は、フランスへの留学経験があるものの、研究書などによる時代考証に苦労したに違いないが、女性の自立と愛の形を問いかける一冊となった。

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ブルージュの街を散策中、長い石塀をめぐらせている施設があったので、何の気なしに小さな戸口から入ってみると、そこには、林の中に白い建物が立ち並ぶ静寂な世界が広がっていた。旧ベギン会の修道院で、13世紀のフランドル伯夫人の手により設立されたが、現存の建物は、17世紀にさかのぼる。いまはベネデイクト会女子修道院として利用されている。ゲントには、二つのベギン会の修道院があるが、訪ねることができなかった。フランドル地方に14あったベギン会修道院は、ユネスコ世界遺産に登録されてるという。

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上が、ゲント市内全景。2002年当時の現地の観光案内書から。下は、正面が聖バーフ大聖堂。

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ゲントは、どこを切り取っても絵になるような街である。

ゲントについては、下記の当ブログ記事でもふれている。

エミール・クラウス展とゲントの思い出(2)(2013年7月9日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/07/post-d279.html

 

 

 

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2022年3月22日 (火)

『津田梅子―科学への道、大学の夢』(古川安)を読む~津田梅子は何と闘ったのか

 東大出版会のPR誌「UP」3月号に載っていた著者古川安氏の「ブリンマーと津田梅子と私」という執筆余話を読んで、本書を読みたくなった。新刊なので、どうかなと思ったが、市立図書館ですんなり借りることができた。

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1892年6月、再留学時の写真と思われる、の説明がある

 津田梅子(1864~1929)が、1871年、北海道開拓使による女子留学生五人の内の一人としてアメリカへ渡ったのが七歳で、最年少であった。歴史の教科書で知ってはいたものの想像がつかない世界だった。アメリカの家庭において11年にわたる中等教育を受けて、帰国後、華族女学校の英語教師などに就き、1900年女子英学塾(後の津田塾大学)を創立、女子の高等教育の向上、「職業婦人」の育成を目指した、近代日本の教育史や女性史には必ず登場する女性である。かつて大庭みな子による伝記『津田梅子』(朝日新聞社 1990年)を読んだことがあった。梅子は短歌を詠んでいないかなという関心からだったが、どうも、短歌とは縁がなかったようだ。

  本書の著者は、科学史が専攻の研究者で、サバティカル休暇でペンシルバニア大学に留学中に、従来の梅子の伝記ではあまり語られることのなかったブリンマー大学に再留学し、生物学を学んだ三年間に関心を深めたという。学業に専念し、研究者としての成果を上げ、後に、ノーベル賞を受けるトマス・H・モーガン教授の指導の下、共著の論文を公表していたことも知り、さらに丹念に調べていくうちに本書を書くに至ったという。
  本書を読み始めると、梅子が1882年17歳で帰国後、就いた英語教師や日本での女性の地位の低さに落胆、葛藤の末、1889年、再び留学を決意、華族女学校からの官費により92年までの三年間、フィラデルフィア市近郊のブリンマー大学で、生物学を学びながら、教育現場の視察などにも熱心だったことがわかる。ブリンマー大学ほかアメリカの大学のコレクションやアーカイブに残された資料、津田塾大学津田梅子資料室、学習院アーカイブ、宮内庁の公文書館などの資料を駆使してしての渾身の津田梅子の伝記である。ブリンマー大学からは、研究者として残ることを勧められながらも、帰国していたこともわかる。もし続けていたら、日本の女性科学者の嚆矢になっていたかもしれない。当時の梅子の心情は、どうであったのか、興味深いところでもある。
 それにしても、最初に留学した折の船旅を共にした岩倉具視使節団一行の一人伊藤博文との交情、アメリカでの育ての親ともいうべきプロテスタント教徒のランマン夫妻、ともに帰国した山川(大山)捨松、永井(瓜生)繁子との友情、迎えた少弁務使の森有礼との出会い、華族女学校の下田歌子、女子英学塾の創立に尽力した新渡戸稲造、星野あい・山川菊栄らとの師弟愛・・・。実に多くの人たちとの交流、支援があったこともわかってくる。

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本書22~23頁から。右上:1871年渡米直後、ランマン夫妻の家にて。右下:1976年11歳頃。
左:1876年夏、フィラデルフィア万国博覧会で再会した、左から梅子、山川捨松、永井繁子。
                                                                                

 そういえば、梅子の父親の津田仙(1837~1908)は、私の住む佐倉市ゆかりの人である。佐倉藩の武士の家に生まれ、1861年江戸の武士の家の津田初子(1842~1909)と結婚、婿養子となり、夭折の子を含め五男七女を成し、梅子は次女であった。早くよりオランダやイギリスの医師から英語を学び、幕府の通訳として訪米したことから、アメリカの文化や農業に触れ、維新後は、外国人用ホテルで働き、西洋野菜アスパラガス、イチゴなどを栽培、1873年ウィーンの万国博博覧会に随行、オーストリアで農業技術を学び、1876年学農社農学校を起こし、農作物の栽培、販売、輸入、『農業雑誌』創刊など、農業技術の発展に努めている。それに先立ち1874年夫婦でメソジスト派の洗礼を受け、青山学院の前身である女子小学校、筑波大付属盲学校の前身である特殊学校の創立にかかわり、普連土学園の名付け親にもなり、女子教育の向上にも努めた。農学校の教師に内村鑑三らを迎え、卒業生には『農業雑誌』の編集人を務める巖本善治らを輩出、足尾鉱毒事件の田中正造を支援するといった、その活動と人脈の広さには目を見張るものがある。

 その津田仙を顕彰しようと、佐倉市では、命日の4月23日前後に、市内の全小中学校給食に、西洋野菜をふんだんに使った「津田仙メニュー」が供されている。それも大事だが、明治を駆け抜けた、いわば型破りともいえるの津田仙・梅子親子にも光を当ててほしいな、とも思う。

 なお、3月5日にテレビ朝日のドラマ「津田梅子―お札になった留学生」(脚本橋部敦子、監督藤田明二)が放映された。ドラマは、広瀬すず演ずる梅子の最初の留学後、そして二回目の留学後も日本の女性の地位の低さ、女性にとっての職業や結婚への男性の偏見と闘う姿、めげずに最初の留学同期の山川捨松、永井繁子との曲折を経ながらも熱く結ばれた友情、女子英学塾創立に至る時代に焦点が当てられていた。伊藤英明演ずる津田仙もたびたび登場するが、六歳の梅子を留学させる英断、仙の幅広い社会的活動とは裏腹に、旧態然とした家族観、結婚観などが梅子の活動のブレーキにもなっていたことにも触れていて興味深いものがあった。仙には二人の婚外子もいたという。ちなみに、佐倉藩旧堀田邸でのロケも行われたらしいが、舞台が佐倉というわけではない。衣裳考証さん、広瀬すずさん、頑張りましたね。伊藤博文役の田中圭、森有礼役のディーン・フジオカ、ご苦労様でした。二人とも暗殺されるのだが、ドラマではスルー?

 2024年、新5000円札は、樋口一葉から津田梅子に代わる。

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2022年3月5日放映、テレビ朝日ドラマ「津田梅子~お札になった留学生」のキャスト

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広瀬すずを真ん中に池田エライザ(山川捨松)、佐久間由衣(永井繁子)。広瀬以外、二人の女優を私は知らなかった。

 

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2022年2月 3日 (木)

根付く「不平等」の壁

 以下は、『ポトナム』に寄稿した歌壇時評である。
 一つ前の記事は、貞明皇后の短歌を引いた。今回は、明治天皇美子皇后、昭憲皇太后の短歌の引用で始まる。今は、旧著でも、このブログでも何回か触れているが、平成期の美智子皇后の短歌を読み、少しまとまった文章を書こうと思っている。昭和期の良子皇后、現代の雅子皇后も含めて、近現代の皇后は、それぞれに、ことなった性格や能力を持っていたと思うが、彼女らの行動や例えば短歌にしても、政治に利用されるという大きな役割からはみ出すことはなかった。あったであろう葛藤や配慮が痛ましいだけに、現代こそ、天皇制そのものが、不平等や格差を広げ、その根源になっていることを自覚しなければならないだろう。

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・松が枝にたちならびてもさく花のよわきこころは見ゆべきものを(「男女同権といふこと」)

・むつまじき中洲にあそぶみさごすらおのづからなる道はありけり(「夫婦有別」)

 最近、明治以降の皇后の短歌を読んでいる。類歌が多い中で、「詞書」が珍しかったので、この二首に立ち止まった。一八七九年、明治天皇の美子皇后の歌である。教育、とくに女子教育の普及に熱心であったことは知られるところだが、女性の「よわきこころ」、「おのづからなる道」、その弱さ、役割分担というものをわきまえ、それを積極的に自覚すべきだと説いている。皇后としては、女性の「エリート」の育成を目論みながらも、女性低位の教育制度をはみ出るものではなかった。当時、中村正直によるJ・S・ミルの訳書や福沢諭吉の『学問のすすめ』などが刊行され、「新聞紙上では”男女同権”が一大流行語になった」(関口すみ子「男女同権論」『女性学事典』岩波書店 二〇〇二年六月 三三三頁)ことを、見逃さずに詠んだものと思う。

 「男女同権」とは、もはや死語に近いのかもしれない。近年は、ジェンダーの平等、多様性の尊重という言葉に入れ替わりながら、平等が語られるようになった。二〇一五年、国連サミットで、二〇三〇年を達成期限として採択された「SDGs(持続可能な開発目標)」の一七の目標の一つとして「ジェンダー平等を実現しよう」が掲げられた。政治家やタレントたちが、あの一七色?のドーナツ型のバッジをつけはじめた。「世界中の人々が豊かに暮らし続けていくための世界共通」の「開発目標」の一環なのかと思うと、どこか違和感を持ってしまう。さらに、社会的性差、文化的性差をなくすことが「多様性の尊重」に束ねられてしまうことにも危惧を覚えてしまう。あのバッジが氾濫しても、現実には「世界経済フォーラム」によるジェンダーギャップ指数はいずれの分野でも低位から抜け出せず、各様のパワハラ、セクハラは後を絶たない。夫婦別姓すらも法制化することができない。

・「新しい女」と言ひしは百年前いまなほ上書き入力つづく
    寺島博子『歌壇』二〇二一年八月

・旧姓を筆名とするその後の厨の海鼠は真夜ふとりぬ
    大野景子「作品点描」『角川短歌年鑑』二〇二二年版

   新刊の『角川短歌年鑑』では、「作品点描」「自選作品集」の配列が、従来の世代別から五十音順に変更された。「編集後記」によれば年代を超えてより多くの作品に触れ、氏名による検索がしやすいようにということであった。年齢によって作品の評価がされがちなことから解放されるという意味でもよかったと思う。
   また、最近、大学を拠点とする短歌会出身の若い歌人たちが活躍するようになった。すると、歌壇では、大学院生とか大学教員などの肩書がさりげなく表示されることが多くなり、いまだ学歴社会を引きづっているようにも思う。そして、職業に貴賤はないというものの、「図書館長になった」の詞書のある、つぎのような一首に出会った。館長は閑職ではなく、激職のはずなのに。

・大学の最後の仕事 書生らの守り神なりわれはよろこぶ
   坂井修一「漏刻」『短歌』二〇二一年一〇月

   三〇余年、その大半を大学図書館で働いてきた身としては、「いまだに変わっていないな」の思いしきりであった。教員にとって、図書館職員は「書生?」なのである。(『ポトナム』2022年2月) 

 

 

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2021年9月 4日 (土)

『ねむらない樹』(侃侃房)?!に「阿部静枝」について書きました。

 8月31日は、阿部静枝の命日であった。葬儀は、1974年9月10日、地元の池袋の祥雲寺で執り行われた。歌人、阿部静枝について知る人は、歌人でも少ないかもしれない。よく間違われた歌手「あべしずえ」すら知る人も少なくなった昨今である。私は、『ポトナム』という短歌雑誌で、阿部静枝の晩年に師事したことになる。
 今回、侃侃房(かんかんぼう)の『ねむらない樹』7号に、葛原妙子特集の中での「阿部静枝」についてという依頼であった。『ねむらない樹』、まだ、手にしたこともない雑誌、このムックは若い歌人たちの活動の場らしい評判は聞いていた。少し戸惑いながら、2頁ほどの文章ならと書くことにした。若い人たちに阿部静枝や「女人短歌会」について、知ってもらうことがでできればと思った。

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 このさし絵の静枝は、いつの頃の写真をもとに描いたのだろう。若々しい。静枝の甥にあたる阿部徹雄は、毎日新聞のカメラマンだった。彼の手になる戦前の静枝の写真に接することができた。ブログの記事が縁で、徹雄の子息阿部力さんから送信していただいた。また、静枝の遠縁にあたる櫻井敦子さんからは、自ら作成した詳細な静枝のルーツを示す系図をいただいている。これもブログの記事が縁であった。お二人とはいまも、メールでの情報交換が続ている。ありがたいことである。

クリックするとpdf版でお読みいただけます。
ダウンロード - e998bfe983a8e99d99e69e9de58685e9878ee58589e5ad90.pdf

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2020年4月 1日 (水)

女性歌人のいま・むかし~二つの文章が活字になりました

 三月末に、以下が刊行されました。

① 「阿部静枝の戦後―歌集『霜の道』と評論活動をめぐって」(新・フェミニズム批評の会編『昭和後期女性文学論』 翰林書房 2020年3月28日)
② 「女性歌人の評価は変わったのか―『短歌研究』『短歌』の数字からみる」(『ポトナム』 ポトナム短歌会 2020年4月)

 ①は、すでに数年前の「新・フェニミズム批評の会」でのレポートを踏まえています。
「ふたたび、阿部静枝について、報告しました」 2016217
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/02/post-c250.html

 また、今回の論稿は、すでに刊行された以下の二拙著に連なるものとなります。

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★阿部静枝の短歌はどう変わったのか―無産女性運動から翼賛へ(新・フェミニズム批評の会編『昭和前期女性文学論』 翰林書房 2016年10月15日)

★内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか―女性歌人起用の背景(拙著『天皇の短歌は何を語るのか』 御茶の水書房 2013年8月15日) 

 「阿部静枝って、だれ?」「新・フェミニズム批評の会とは?」と思われた方は、とりあえず、つぎの当ブログ記事をお読みいただけたらと思います。

『昭和前期女性文学論』(新・フェミニズム批評の会編 201610月)に寄稿しました」2016116
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/11/201610-3cc6.html

  ②は、かねてより、いくつかのデータを収集、作成していましたが、その一部を使って、書いたものです。執筆予定者に代わってのピンチヒッターでした。どこかにミスはなかったか、どれほどのことを伝えられたか、不安です。5頁なので、全文をここに掲げますので、ご教示いただきたいと思います。

不鮮明ですが、クリックしていただければ読めると思います

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2020年3月 3日 (火)

歌壇における女性歌人の過去と現在

 今日は「ひな祭り」なのだが、おひな様を出さなくなって久しい。花より団子で、私の好物の穴子を散らしたお寿司とヒラマサのお刺身、ポテトサラダという妙な献立で、二人だけで祝った?のだった。生活クラブのはまぐりは、娘が帰省していた折、すでにお吸い物にしてしまっていた。

 ひな祭りと言えば、『短歌研究』という雑誌は、三月号は、毎年女性歌人特集をするのが恒例であった。1960年前後から、時折、女性作品特集が組まれていたが、定例化したのは1969年以降で、ほぼ例外なく踏襲されてきたし、1980年代からは五月号の男性歌人特集もセットになった。ところが、今年の三月号には、どうだろう、その女性歌人特集が消えていた。節句にちなむ特集などよく続いたものだとむしろ感心もしていた。私などもちろん縁がなかったのだが、三月号の特集が、女性歌人へのせめてものサービス、量的にも質的にも勝っている女性歌人への「ガス抜き」の様相を呈していたので、どこかすっきりした感じがしないでもない。五月号の男性歌人踏襲もなくなるのだろう。これからの歌壇において女性歌人が、どういう評価をされていくのか、注視していきたいところである。

 今年の1月中旬締め切りで、同人になっている『ポトナム』誌の「歌壇時評」に以下を寄稿した。同じようなテーマで、すでに昨12月の当ブログでも記事にしているので、併せてご覧いただけたら幸いである。

・歌壇、この一年を振り返る季節(2)歌人によるパワハラ?セクハラ?~見え隠れする性差(2019年12月22日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/12/post-b5862e.html

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  昨年、「阿部静枝の戦後」について調べ、作成中の静枝の「著作・関連文献年表」を眺めていると、精力的なまでに、多くの短歌作品と短歌評論を残していたことを改めて知るのだった。しかし、アンソロジーや短歌史に、その名を見いだすことがまれなのはなぜかの思いにもいたったのである。短歌以外の新聞や雑誌、女性、教育雑誌をはじめ、政治から料理までという広い分野のメディアにも頻繁に登場し、座談会や人生相談にまで応じていた。
  静枝(一八九九~一九七四)の敗戦後の短歌評論や発言は、二〇代から、夫、温知とともに無産運動の活動家としての経験――婦人参政権獲得、女子労働・母性保護、母子扶助運動の実践―などを踏まえ、やや生硬な表現を伴いながらも、率直かつ厳しいもので、多くの男性歌人や女性歌人にとっても、耳の痛いことが多かったのではないか。
  静枝の没後から四五年も過ぎた今日にあっても、社会や歌壇における女性差別は改まらない。そんなことを考えていた矢先、歌壇において、男性歌人による「ミューズ発言」が、問題になっていることを知った。一昨年六月、名古屋での「ニューウェーブ三〇年」というシンポジウムで「ニューウェーブに女性歌人はいないのか」との会場からの質問に、パネリストの加藤治郎はみずから「加藤、荻原裕幸、西田政史、穂村弘の四人だけがニューウェーブだ」と断定したという。さらに、昨年二月、加藤が「ニューウェーブに女性歌人はいないのか」の題で「水原紫苑は、ニューウェーブのミューズだった。・・・」とツイートしたことが、短歌雑誌やネット上の歌壇時評で批判されることになった。
  短歌史上、「ニューウェーブ」の明確な定義は見当たらないが、私は、一九八〇年代後半、俵万智『サラダ記念日』出版以降、いわゆるライトヴァースの延長線上の若い歌人たちによる口語的発想で、日常の些細なことがらや微妙な違和感などを軽妙に歌い、ときには現代文明批判めいた作品に仕上げる傾向の短歌というくらいの認識であった。私には意味不明な歌が、もてはやされたりして戸惑ったりしたが、その担い手を、なぜ特定の男性歌人四人に限るのかは理解できない。さらに、ミューズ発言の前後には、女性差別以外にも差別表現があったというが、現在、そのツイートは削除されている。
   このあたりの顛末は、高島裕「これ以上ニューウェーブを語らないために」(『未来』二〇一九年二月)、川野芽生「うつくしい顔」(『現代短歌』同四月)、中西亮太「川野芽生『うつくしい顔』について」(ブログ「和爾、ネコ、ウタ」同三月一七日)、中島裕介「ニューウェーブと『ミューズ』」(『短歌研究』同四月)などで知ることができる。さらに、中島は、自らのツイッターや「note」において、加藤発言を追跡、批判を発信し続け、加藤も、反省、謝罪、画策、反論などを繰り返している。その過程で、決着の糸口になるのかどうか、加藤・中島が属する未来短歌会の理事会は、一選者のハラスメントについての事実確認と検討委員会設置などの協議を始める旨を決めたらしい(「未来短歌会」ホームページ二〇一九年一一月三〇日)。
   政治や企業の世界だけでなく、人権にかかわるハラスメントが、文芸やスポーツの世界、そして家族間においてまで、顕在化してきたことの現れでもあろう。しかし、最新の二つの『短歌年鑑』では、これらの動向についてだれも触れようとしなかった。かつて、〈女流歌壇〉と括ることにさえ疑問を呈しながら、女性歌人が低位に置かれている実態に抗議していた阿部静枝の声(「女流歌壇展望」『短歌声調』一九五〇年一月)が聞こえてくるようだ。(『ポトナム』2020年3月号所収)

 

 

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