2025年2月 2日 (日)

皇室はもはや「無法地帯」?~皇室における女性の基本的人権は

「皇族は男女平等番外地」(東京都 長谷川節)
(朝日川柳 2025年1月31日)

 天皇制が憲法の「番外地」というならば、皇族の人権も「番外地」ということになるのだろうか。皇室はもはや「無法地帯」と言っていいかもしれない。
 1月31日の上記の川柳が目についた。日本国憲法の「第一章 天皇」を、天皇制を、憲法の「番外地」と称して容認する識者もいる。上記の川柳は、皇室において男女平等が認められないこと、憲法の男女平等条項は皇室の女性に及ばないことを「番外地」と詠んだ川柳。「番外地」のなかでさらに「番外地」となると、「無法地帯」に等しいのではないか。

 2024年10月29日、 女性差別の撤廃を目指す国連の女子差別撤廃委員会は、日本政府に対して、男系男子による皇位継承を定めた日本の皇室典範の改正や、選択的夫婦別姓の導入に向けた民法改正を勧告していた。ところが、2025年1月29日、外務省は、これに抗議して、国連の女性差別撤廃委員会を、日本の拠出金の使途から除外することを決めたというではないか。女性差別撤廃どころか、なんとえげつないことをするのだろう。その理由として「皇位につく資格は基本的人権に含まれていないことから、皇室典範において皇位継承資格が男系男子に限定されていることは女性に対する差別に該当しない」「皇位継承のあり方は国家の基本に関わる事項であり、女性差別撤廃条約に照らし、取り上げることは適当でない」とするのである。要するに皇位、皇位継承者には基本的人権の適用外、皇位継承事項は国家の重要事項であって、女性差別撤廃条約の適用外、外からとやかく言われる筋合いはないというのである。

 また、2021年12月22日、政府に提出された皇位継承に関する有識会議の報告書では、皇族数の確保策として、


〈1〉女性皇族が結婚後も皇族の身分を保持
〈2〉旧宮家の男系男子が養子として皇族に復帰

の二案が示されたことを思い出す。一案では、女性皇族に結婚後の身分保持―眞子さんのように自由になれない。二案では、女性皇族は旧宮家男系男子と養子縁組をさせられることになるかもしれないのである。しかも、いずれの案も皇位継承者の確保には直結はしない。「有識者」の人選もさることながら、彼らは、女性皇族たちの人権について思いは至らなかったらしい。

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どのメンバーも、各省庁の審議会などの常連であって、「皇位継承」ないし「皇室」についての有識者とは思えない。富田(1951~)清家(1954~)
宮崎(1958~)細谷(1971~)中江(1973~)、大橋(1975~)ということで、従来の有識者会議メンバーより若返ったというが、彼らとて、大方はイエスマンで、上昇志向の高い人ばかりに見受けられた。

 さらに、この二案を示された政府も、誰も関わりたくなかったかのように、積極的に論議せずに今日まで手付かずであった。ところが、この1月31日、衆参両院の各党派代表者による皇室課題に関する全体会議が開かれ、今国会中に結論を得たいとすることに多くの党が賛成したという。

 有識者会議報告の一案については、各党派の賛成が多いが、女子皇族の結婚後の夫や子供の身分をどうするとか、二案の旧宮家男系男子の養子縁組による皇室復帰させるかについては、各党派での違いがあるという。この先の議論で、皇室典範の改正ができたとしても、憲法の基本的人権条項に反することになり、違憲は明らかながら、皇室のタブー化は進むに違いない。

 皇族の「国事行為」以外の外国訪問、被災地訪問、戦跡訪問はじめ、さまざまな行事参加は、まったく法的根拠がないまま実施されて来た。また、大嘗祭はじめ皇位継承の様々な儀式についても、明治時代の太政官令を持ち出し、伝統の名のもと前例踏襲のまま実施してきたのが実態である。日本は法治国家であるはずなのに。

 にもかかわらず、近年の宮内庁は、「公的行為」を拡張して、皇族たちの露出度を高め、必死になって広報し、国民の関心をつなぎとめようとしている。それらの情報をひたすら拡散しているのが、いまのマス・メディアの姿といえるのではないか。

 

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2024年12月17日 (火)

1903年(明治36年)生まれの亡母は何がしたかったのだろう~わずかに残されていた敗戦直後から晩年の婦人雑誌(2)

 晩年に購読していたらしい、二・三の雑誌

 1955年10月号の『婦人公論』は創刊四十周年記念特大号とある。目次で執筆者を一望すると、当時の女性作家、女性論者が総動員されていて、中央公論社時代の面目躍如の感があり、壮観でもある。創刊が1916年(大正5年)1月なので、大正から昭和の激動の40年間を駆け抜けてきた雑誌である。「目で見る婦人公論四十年史」は、大正6年10月の神近市子大杉栄刺傷事件(日影茶屋事件)から昭和30年8月6日原水爆禁止世界大会の広島大会会場の写真で終わるは40頁近いグラビアが圧巻である。窪田空穂選による「歌壇」があるはずなのだが、破り取られているのは、その頃から母が短歌を作り始めたのではないかと伺わせる証ではないか。別冊付録「女の一生100問100答」は残念ながら残されていない。

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グラビアには、マダム・マサコによるフランスのヴォーグ紹介があるが、ここでもこれらファッションは、遠い憧れではなかったか。実用的で、働くイメージの強いファッションは今でこそ通用するのでは。

 1958年2月号『婦人指導者』は『婦人と教育』の前身らしい。この頃の母は、末っ子の私がすでに高校生で、長兄も結婚したので、家業や家事から解放された感があったのだろう。長兄が生まれるまでの数年間小学校教師をしていたので、もう一度学びたい、社会とのつながりを持ちたいと思い始めたのではないか。私の小学校時代はPTAのクラス役員などもしていたが、そのための外出を父親は快くは思っておらず、「また、行くのか」と嫌味をいわれていた記憶がある。また、1958年当時、ご近所の島田美恵子さんが主宰する「母親勉強会」にも入り、町内会の婦人部(?)にも顔を出し、夏祭りの際には、子どもたちの出しものの踊りなどを教えていたらしい。

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暉峻とし子、山川菊栄の名も見える。さまざまな形の地域の婦人団体の活動報告が続く。

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NHK第二放送で1957年10月14日から5日間にわたって放送された「女子教育史」が好評だったのを受けて、誌上録音し、その一回分が掲載されている。番組の冒頭では与謝野晶子「山の動く日来る」が朗読されたらしい。

 

  1959年7月発行の『土曜会会報』23号(土曜会、20頁)というサークル誌が残っている。ちょうどこの号には、1959年度の総会報告が掲載されていて、会員70名とあり、もう一つの会員アンケート紹介は、名簿も兼ねていて、住所・子供の年齢性別・職業・活動歴・会への希望が一覧できる。母は、「職業欄」に「時事問題に悩んでいる(安保、勤評)。教員をしている子も大学に行っている子もこれを中心に話すので」と記し、「希望欄」には、「時事問題などの講演を聞きたい」として丸岡秀子、市川房枝、伊藤昇、波多野勤子の名を挙げている。

 しかしこのサークル誌が発行された1959年の夏には、がんの手術をしたのだが、手遅れのため12月には、亡くなっているのである。その年の博文館の「当用日記」も残されている。夏以降、短歌の下書きや走り書き、もちろん家族のことはもちろんだが、病状と悪化への不安が綴られていて、読むのがつらい。

 母親は、何を学びたかったのか、何をしたかったのか、私には、それを尋ねる余裕もなく、母を見送ってしまった。もう少し長生きをしてくれたなら、私の最初の職場には、波多野勤子さんの『少年期』のその「少年」が、アメリカの国連勤務から帰国、教員になった大学に勤めていたり、二番目の職場では、丸岡さんの親戚がいらして、お宅に連れて行ってもらったり、近年は、市川房枝記念会ともご縁があって、『女性展望』に執筆させてもらったりして、現在は維持会員でもある。共通の話題が、たくさんたくさんあったのに・・・。もっともっとと話したかったのに。

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メジロが盛んに来るようになった。皮まで食べ尽くしているのがわかる。ヒヨドリは、例年より少ない

 

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2024年12月16日 (月)

1903年(明治36年)生まれの母は何がしたかったのだろう~わずかに残されていた敗戦直後から晩年の婦人雑誌(1)

敗戦直後の雑誌2冊

 長兄の代になって実家が小さなビルに建て替えるとき、屋根裏の物置から母の遺品を持ち出したのだろう。12月の母の命日は過ぎてしまったのだけれど、手元に何冊か半端に遺された「婦人雑誌」を記録にとどめておきたい。当時の婦人雑誌は、A5判で60頁ほどで、ざら紙で劣化も著しく、スキャンするにも綴じが今にも崩れそう。いや崩れてしまっているものもある。

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 この『婦人倶楽部』(大日本雄弁会講談社、64頁)1948年7月号の「夏の新型スタイル集」、何と懐かしいファッションだろう、杉野芳子(右端中央に見える)のデザインらしい。こんなワンピースやブラウスを着ている人を、身近に見ることはまずなかった。グラビアと言っても白黒だが、水泳の兵頭(前畑)秀子とスケートの茨木(稲田)悦子の子育てさなかの写真であった。裏表紙の広告がおもしろい。家業は薬屋だったし、私は店番が好きだったので、薬や化粧品の名前や製薬会社にも覚えがある。仁丹、山ノ内、三共、武田などは今も健在であるが、クラブ乳液のクラブ化粧品は今のクラブコスメティックになり、バニシングクリームのマスターがいまのマスターコスメティックかは不明。当時母はまだ短歌を作り始めてはいないようなので、私の関心から、短歌講座「歌のこころ」というコラムは、名歌というよりは、子や妻との微妙な関係を歌った作品の鑑賞が興味深い。ちなみに、このコラムの右側は、芹沢光治良の「新婚」という連載物の最終頁である。

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 『婦人界』(婦人界社、64頁)の表紙絵は志村立美。当時は、おゃれをしようと思えば、洋裁や和裁のできる人に仕立ててもらうか、自分で縫うしかなく、必ず型紙が付つけられていた。ここでもデザイン杉野芳子、田中千代が活躍する。つぎの斎藤茂吉の巻頭言のカットが中川一政である。

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左頁下段が目次、上段が茂吉の「白玉の憂ひ」と題して伊藤左千夫の

・白玉のうれひをつつむ戀人がただうやうやし物を云はなく

を引き、豊麗な肉体にこもる日本女性の情調を詠んだものとし、健康な女体の美を称えている。読みものでは、美濃部達吉の妻、美濃部多美子の「夫とともに歩んできた道」では、達吉が詠んだ短歌も紹介されていたのである。息子の美濃部亮吉の孫を大層可愛いがっていたそうで、つぎのような歌を孫への手紙に書き添えていたという。

・夏木立しげれる宿にかはらねど幼き子等の聲は聞こえず

 また、自宅に上げた客が暴漢と化して達吉は銃に撃たれ、入院するが、そのさなか、1936年2月26日2・26事件が起き、つぎのように詠んでいたという。

・我はただ我行く道を歩むなりいかに嵐はあれくるふとも

 なお、中河幹子選の短歌欄と中村汀女選の俳句欄は、最終頁に掲載されている。一等賞金100円、この雑誌が40円だから3か月分にもならないが。

 

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2024年8月 1日 (木)

国立女性教育会館、改編、存続決まる

 昨年12月、埼玉県嵐山町にある「国立女性教育会館」の閉鎖方針が文科省・内閣府より示された。そのニュースを聞いた時は、私もいささか戸惑った。国立女性教育会館は、1977年、国立婦人教育会館として発足(2001年1月に「婦人」を「女性」に変更、2001年4月に独立行政法人となる)、全国の自治体や市民団体による女性の地位向上、男女平等の普及活動の中心的な役割を担い、女性関係資料のアーカイブの充実にも寄与してきたはずなのに、なぜ?と思ったのである。それに、私は、戦後短歌史をジェンダーの視点からたどってみようという小さな研究会のメンバーとして、国立女性教育会館の「女性学・ジェンダー研究フォーラム」1998年・99年に参加、その熱気に圧倒されたという思い出がある。さらに翌2000年には、会館主催の研修会に”講師”として招ばれもしたという縁もあったのである。詳しくは、過去の関連記事をご覧ください。

嵐山の女性教育会館が閉鎖?!これまでの実績を思う(2024年1月16日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2024/01/post-61eb52.html

 その会館の閉鎖方針の行方が心配であったが、きのう7月31日「埼玉の嵐山町に女性活躍司令塔 組織改編、移転せず」という見出しの小さな記事があった(『東京新聞』7月31日)。「見出し」だけでは、はっきりしなかったが、埼玉県、嵐山町の強い要望もあって、移転、閉鎖の方針を転換し、全国約360ある男女共同参画センターと連携、活動の支援強化をすることになったらしい。

 あたらしい方針によれば、女性教育会館が行ってきた研修、調査研究、関係機関の連携促進など事業内容の高度化を図り、必要な機能を本館に集約し、老朽化した宿泊棟、体育施設などは2030年度までに撤去を目指す、という(『埼玉新聞』7月31日)。

 私も泊ったことがある、160室もある宿泊棟、研修施設を目指すなら新しい宿泊施設は当然必要だろうし、あの広大な緑豊かな敷地も大切にしてほしいと思う。存続が決まって、ほっとしたところだが、これからの動向を注視していきたい。

 

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5月末、夫は、急に思い立って、庭の隅を掘り起こし、トマトやナスの苗を植えた。それからは、毎日、天気予報を欠かさず見て、水やりやとぎ汁、畝にビニールをかぶせたりと、丹精込めて育ててきた。これまでも、一つ二つとれてはいたが、この日、ようやく大量の?収穫にこぎつけた。さっそくナスと牛肉を素揚げして、南蛮漬けにしてみた。トマトは、これからも毎日とれそうで、サラダにできると楽しみにしている。

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2024年5月 1日 (水)

「天皇制はない方がよい」3%、そこに留まる一人として

  4月29日は、天皇誕生日、いや、みどりの日だった。いや、いまは、なんと「昭和の日」だった。2007年から、みどりの日は5月4日に移動して、「昭和の日」になっていたのだった。そして、もう忘れかけそうな、4月30日には、どんな事情があったのだろう、5年前の、この半端な時期に、平成の明仁天皇が退位し、2019年5月1日に徳仁天皇が即位している。きょうの 朝刊を見ると、天皇家の令和の5年間を振り返る記事が並んでいる。「時代や社会に応じ<象徴>を模索/国民と苦楽を共にする」(東京)「国民の中に広がる活動」(朝日)、「苦難と向き合い 国民と歩み」(毎日)という見出しであった。「国民とともに」といわれてみても、私たち国民にその実感はない。訪問先や被災地でのふれあいは、限定的でもあり、一過性でもある。歌会始や園遊会、文化勲章など国家的な褒章制度などは、国民の栄誉欲と権威付けが伴う活動の場となっているのではないか。

そんなカレンダーを踏まえ、しかも、「安定的な皇位継承の在り方」に関するか各党の見解が出そろった4月28日、共同通信社は「皇室」に関する世論調査結果を発表した。

 近年の皇室に関する世論調査には、女性天皇、女系天皇の賛否を問う質問が必ず登場するようになった。上記の世論調査でも、全体で20の質問事項の中で、2問への結果はつぎのようであった。どちらも圧倒的に賛成と出た。

 問7女性天皇の賛否:

 賛成52%、どちらかといえば賛成38%、 併せて90%
 反対3%、 どちらかといえば反対  6%、 併せて 9%

問10女系天皇の賛否:

 賛成38%、どちらかといえば賛成46%、 併せて84%
 反対  5%、どちらかといえば反対 9%、 併せて14 %

(2024年4月 共同通信社世論調査)

  なお、4年前の共同通信社の世論調査結果は以下のようであった。

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「女性・女系天皇 「支持」が高く 天皇に「親しみ」58%」東京新聞 2020年4月26日 

  これは、高齢者にとっては男女平等、若年層にとっては、ジェンダーによる差別なくそうとする考え方がある程度浸透してきたことと女性皇族—美智子さん、雅子さん、愛子さんらの行動とその報道などが反映されていると思う。

 しかし、このことは、当ブログでも何度も述べているように、天皇制自体が平等を前提としておらず、男女を問わず皇族たちのごく当たり前の基本的人権が認められていない仕組みなので、女性天皇、女系天皇で皇位をつなげたとしても、その平等・人権に反する状況は何も変わらない。

 今回の世論調査で、私が着目したのは、以下の問3であった。

 問3あなたは、日本に天皇制があった方がよいと思いますか、ない方がよいと思いますか

 あった方がよい:        44%
 どちらかといえばあった方がよい:44%
 どちらかといえばないほうがよい: 7% 
 ない方がよい:          3%
   無回答:             1%

   この種の世論調査で、「天皇制」の存否をストレートに問う質問事項が登場するのは稀である。さらに、その回答は、私にとっては、“どちらかといえば” 想定外なものであった。これほどまでの差があるとは思わなかった。あわせて88%があった方がよい、であり、ない方がよい、10%という低さだったのである。私は、この質問をするならば、その理由も聞いてみたかった。が、別の問15において、即位後の活動について、評価する活動の二択において、以下のような結果だった。

海外訪問や外国賓客のもてなしなど国際親善53%、
訪問先での国民とのふれあい42%、
被災地のお見舞い38%、
憲法の定める国事行為18%
戦没者の慰霊、宮中祭祀が各8%

 ここに、あった方がよいとする理由を垣間見ることができるような気がする。国事行為の18%をのぞいては、法的根拠のない、公的行為か、私的行為に過ぎない。平成期の天皇夫妻が、拡大してきた「公的行為」であり、「私的行為」の広報や公務化を、令和期の天皇夫妻も踏襲してそのままに報道するようになった。そうしたことが、問15や問3の回答結果に反映しているのではないかと思う。

 「天皇制」はない方がよい3%にとどまって何ができるのか、どちらかといえばない方がいい7%とともに、進む道はあるのか、心細いながら考えていきたい。

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 「「皇室」世論調査の詳報」(一部) 東京新聞 2020年4月26日
読みにくいのですが、クリックすると拡大します。

 

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2024年2月 9日 (金)

大人の対応?私の「オバサン」騒動の顛末

 1月30日、麻生自民党副総裁が地元福岡での講演の際、上川外務大臣を名指ししての「オバサン」発言は、謝罪と撤回でケリがついたようだが、上川大臣は「大人の対応」でかわしたらしい。

 2007年のことなので、20年近く前のことながら、私にも「オバサン」体験があった。佐倉市には、「市民の声」係や「市長への手紙」などを通じて、市民の要望を聞く仕組みがある。当時、私は、まだ元気があったのだろう。5年ほどの自治会役員から解放されたあとも、町内の人たちと、地域の都市計画事業に伴う環境問題などについて開発業者や市役所と交渉したり、市への情報公開請求や市政への要望書をよく提出したりしていた。

 どんな用向きであったか、今では「記憶にない」のだが、「市民の声」係に電話したところ、電話口に出た女性が、「少々お待ちください」のあと、他の係員に「あの、なんかオバサンからの電話なんだけど・・・」との声がしたのである。いまのように保留のメロディが流れることもなかったのだろう、まともに「オバサン」呼ばわりされているのを聞いてしまったのである。

 私もまだ、「若かった」のだろう、代わって電話口に出た男性に、用件より先に、女性の「オバサン」発言に抗議したのである。「市民の声の窓口ともあろう人が、そのような、いかにも市民軽視の発言や対応は許されるものではない」と。その場で、男性が一言謝罪したかもしれないのだが、私の怒りは収まらず、女性やその上司にも反省を求めた。そして、今後、同じようなことが起こらないためにも、その反省を形で示して欲しいとの要望もした。

 後日、以下のような書類が、秘書課長名の送り状付きで届いた。上が、「オバサン」発言の女性によるもので「誤解を生じやすい表現を用いたことにより、市民の方に不快な思いをさせてしまいました。・・・」の一文は、「誤解を招く」「誤解を生じる」は、現在の役人や政治家も好んで使用する「言い訳」である。「誤解」じゃないだろうと、この頃はテレビに向かって叫んでいる。
 また、上司の副申書にある「お客様」なる表現にも、違和感があり、私は、あなたの「お客」ではなく、「市民」です、というやりとりをすることが多い。

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2023年12月18日 (月)

女性皇族は、皇室の広告塔? ~生き残りをはかる天皇制!

                                                                                                                                                                                      

近頃の皇室報道

 12月に入って、皇室の記事がやたら目につくようになった、一年を振り返るということもあるのか。この4月には、宮内庁に広報室が新設されたことにも拠るのだろう。雅子皇后が12月9日に60歳になり、12月1日には愛子さんが22歳になった。私の目にした範囲でも、大きく報道されていたが、皇后については、12月9日、公表された文書での感想と略年表、写真などを付した特集が組まれたりしている。

朝日新聞:「絆と歩む 自らの道」と題して、「誓った社会に貢献」「覚悟と努力の日々」1頁全面と社会面「皇后さま60歳≺また新たな気持ちで一歩を>」の記事(多田晃子)
毎日新聞:「<人の役に>たゆまぬ歩み」と題して、「苦労実り 大輪の花に」「雅子さま60歳 陛下の支えとともに」1頁全面と社会面「<新たな気持ちで一歩> 皇后雅子さま60歳に」の記事(高島博之)
東京新聞:社会面「皇后さま60歳に」「新たな気持ちで歩む」(山口登史)、4面「皇后さま60歳 感想要旨」の2か所の記事

 特集記事の表題や小見出しを見ても明らかなように、皇后の文書での感想をベースに、結婚以来の曲折を踏まえ、勤めに励んできたことを称えるスタンスであった。朝日、毎日では、ともに、皇后の中学時代からの同じ友人を登場させて、その友情にまつわるエピソードを紹介していた。その点、東京新聞の記事は短く、淡々とした報道に思えた。

 さらに、今年の4月に、宮内庁に広報室が新設して以来、皇室記事、とくに私的な動向を伝える報道が増えたような気がする。このところの推移は、前の記事に追加して、以下のような表にしてみた。

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<参考過去記事>
天皇はどこへ行く、なぜインドネシアだったのか(2023年7月28日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2023/07/post-1eb3c3.html

宮内庁広報室全開?!天皇家、その笑顔の先は(2023年6月12日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2023/06/post-9183da.html

 

佳子さんの奮闘は、何を意味するか

 ネット上の朝日とNHKのデータをもとにして、調べて分かったことだが、ほぼ、同じ傾向を示している。一つ違うといえば、秋篠宮家関係が、朝日51件に比べNHKが68件と多いことである。皇位継承者上位二人がいることが配慮されているのだろう。記事内容を見ると、秋篠宮家の佳子さんの記事がかなりの数を占めていることもわかる。

 それというのも、宮内庁のホームページに登載の天皇家と秋篠宮家の「ご活動」をみると、なお明確になる。広報室からの発信と思われるが、ちなみに一家を含め佳子さんの活動件数をみてみると、4~11月において31件、この中には、イベントやペルー訪問に先立っての説明や進講を受けたりした場合も含まれ、10件近く、ほぼ3分の1を占める。これらは記事やニュースにほとんどならない。それにしても、佳子さんの参加イベント、公的な活動と思われるものが記事になり、ニュースになり、もしかしたら、単独活動では一番多いかもしれない。そもそも、女性皇族に「公務」はないので、あくまでも「公的な、純然たるプライベートではない」程度のことではある。

 一方、愛子さんは、ほとんどが天皇夫妻と一緒の活動であって、20件に満たないし、単独の活動は見当たらない。4月ウイーン少年合唱団の鑑賞、御料牧場静養、5月天皇夫妻の即位5年成婚30年記念展見学、8月那須静養、今井信子演奏会鑑賞、9月日本伝統工芸展見学、10月日本赤十字社関東大震災100年展見学、11月三の丸尚蔵館記念展、やまと絵展見学など、ほとんどが純然たるプライベートな活動にすぎない。これらの中には、一家で参加している養蚕関係行事も含むのだが、上記のほとんどが新聞、テレビなどで報道されている。「優雅で、文化的な、仲良し家族で結構ですね」との感想は持つが、報道の価値がいかほどあるものなのか、と思ってしまう。たんなるセレブ?の家族とはちがい、そんな暮らしを、国が、国民がストレートに支え続ける意味はどこにあるのだろうかと。しかし、憲法上存在する制度で、財政的に支えなければならないというのであれば、宮内庁は、全面的に情報を公開すべきであるし、新聞等での「首相の動向」のような欄でも公開すべきであろう。

 さらに、愛子さんの単独活動がないのは、共同通信配信記事「愛子さま、まだ単独公務の予定なし ほかの皇族に比べて遅いデビュー、その本当の理由は」(2023年12月10日)によれば、学業優先が主な理由として挙げられてはいるが、研究者河西秀哉によれば、皇位継承者秋篠宮悠仁の手前、現在皇位継承者ではない立場で、あまり目立ってはいけないという配慮があると言い、小田部雄次によれば、皇位継承問題が決着しない限り、単独公務はかなり難しいのではとの見解を紹介している。

 となると、佳子さんの今の活動ぶりは何を意味するのか。いわゆる公的活動を拡大して、さまざまな活動に積極的なのは、彼女自身の意向というよりは、宮内庁の方針で多様なオファーにつとめて応えているというのが実態なのではないか。

 皇位継承者と目されることもなく、いずれ皇室を離れるだろうから、いま一番人気の彼女にはどんどん励んでいただこう、広告塔のお役を果たしてもらおうというのが宮内庁、広報室の本音ではないかとも思えてくる。

 

たしかに宮内庁は、焦っている

 12月1日には、こんな記事も出ていた。「識者に聞く皇室」と題しての君塚直隆へのインタビューである(聞き手、須藤孝。『毎日新聞』2023年12月1日)。「生き残るため 国民の前へ」と題して「広報 隠すより赤裸々に」の見出しのもとに「政府や宮内庁の広報は発信(だけ)ではなく、隠したり抑えたりしています」、スキャンダルを恐れているのかもしれないが、スキャンダルはどの王室にもあるので、隠すのではなく、赤裸々に示して理解を求めた方がよい。さらに、政府の足らざるところ、弱者への対応を補っていくことを提案している。「赤裸々」だったかは別として、政府や宮内庁は、すでに、必死になって発信し、皇族たちも、戦争被害者、災害被災者、病者、障がい者など、いわゆる弱者と呼ばれる人々への「心のケア」を担ってきたことだろう。とくに、平成期の天皇夫妻が、見ていても痛々しいほど努力してきたことを垣間見てきたが、なぜ、これほどまでにして、天皇制は生き残らねばならないのだろうか。

 政府は、皇位継承者問題を先送りし、日本共産党も民主主義とは相容れない天皇制へのすり寄りを見せ、フェミニストたちでさえ、女系・女性天皇待望論を語り、差別の根源たる天皇制自体の問題から逃げているとしか思えない。宮内庁は、この難しい局面に立って焦っているのではないか。

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2023年9月21日 (木)

歌壇におけるパワハラ、セクハラ問題について、いま一度

 2019年末から翌年に下記の当ブログ記事において、短歌結社雑誌『未来』の選者の一人のパワハラ、セクハラ問題について触れていた。そんなこともあって、短歌史や資料の件で何かとご教示いただいている中西亮太さんとのご縁で、上記パワハラ、セクハラ問題ついて、当事者の加藤治郎氏とのツイートやnoteで追及されている中島裕介さんに中西さんと二人でお話を伺う機会があった。

・歌壇、この一年を振り返る季節(2)歌人によるパワハラ?セクハラ?~見え隠れする性差(2019年12月22日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/12/post-b5862e.html

・歌壇における女性歌人の過去と現在(2020年3月 3日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/03/post-d8f3d9.html

  インターネット上で、加藤・中島間のやり取りを見ていると、論理的な中島さんに感情的に答える場面も多いのだが、やはり、それだけでは、何が真実か、どの情報を信頼すべきか、正直、迷うこともあった。今回、私たち二人の疑問にもていねいに応える中島さんの話のなかで、わずかに伝えられた被害者の方々からの情報を間接的ながら知ることによっても、その全容が少し見えてきたように思う。

 『未来』のホームページによれば、2019年11月30日、理事会報告で 理事1人から提出されたハラスメントの事実確認をすることとハラスメントに関する委員会、相談会設置することなどを表明して以来、2020年1月19日に、ハラスメント相談窓口設置発表、2022年7月21日、「ハラスメント防止ガイドライン」「ハラスメント相談窓口フロー」を発表するにとどまり、表だった動きが見えない。『未来』の会員にも、公式には、これ以上の報告はないようである。『未来』会員の中島さんからに限らず、名指しされている選者の一人のセクハラ問題なのである。ハラスメント委員会はこれまでの間、どのような活動をしてきたのだろうか。理事(=選者)会には、女性も多いのに、何とか解決の糸口はなかったのだろうか。できれば表ざたになるようなことはしたくないという結社自体の保身、そして、理事たちの保身がこうした結果をもたらしているようにしか思えない。男女各1名のハラスメント相談窓口を開設以来、相談件数はゼロであったという、大辻隆弘理事長からの報告もある。結社内の人間が担当したのでは、非常にハードルが高く、機能は果たし得ないのではないか。

 また、短歌関係メディアは、「噂」としては知っていた、あるいは、少なくともネット上の情報で知り得ていた情報の真偽を確かめようとなかったのだろう。なぜ、そのまま放置して、当事者の起用を続けているのだろう。現に、起用を控えているメディアもあることは、誌面によりうかがい知ることもできる。決して、一結社の問題ではないはずである。

 ハラスメントを、セクハラを受けた側から考えれば、加害者の名前を見るのも、画像を見るのもいたたまれないのではないか、メディアはそうした想像力を働かせてほしい。ジャニーズ問題は、どんな組織にも起こり得た問題だったのである。

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2023年6月30日 (金)

 梅雨空の下諏訪~今井邦子という歌人

  国家公務員共済の宿「諏訪湖荘」のビーナスラインの観光バスと北八ヶ岳ロープウェイを乗り継ぎ、坪庭一周という企画を楽しみにしていたが、あいにくの霧と雨に見舞われた。足に自信がなかったので、私は坪庭はあきらめ、ロープウェイ山頂駅のやたらと広い無料休憩所で、お弁当を一足先に失礼し、スケッチをしてると、40分ほどで一行は戻ってきた。足元がかなり悪かったらしい。観光バスの窓は拭ってもぬぐってもすぐ曇り、百人乗りも可というロープウェイの窓は、往復とも雨滴が流れるほどで、眺望どころではなかった。

 とはいうものの、前日は、夫とともに、下諏訪の今井邦子文学館とハーモ美術館を訪ねることができたし、翌日は雨もやみ、原田泰治美術館に寄り、館内のカフェでのゆったりとランチを楽しむこともできた。鈍色の湖面には水鳥が遊び、対岸の岡谷の町は遠く霞んでいた。諏訪湖一周は16キロあるとのこと、再訪が叶えば、内回り、外回りの路線バスを利用して美術館巡りをしてみたいとも。

 今井邦子文学館は、ところどころ、宿場町の面影を残す中山道沿いの茶屋「松屋」の二階であった。邦子(1890~1948)は、幼少時よりこの家の祖父母に育てられ、『女子文壇』の投稿などを経て、文学を志し、上京し、暮らしが苦しい中、ともかく『中央新聞』社の記者となったが、1911年、同僚の今井健彦(1883~1966。衆議院議員1924~1946年、後公職追放)と結婚、出産、16年に「アララギ」入会、同郷の島木赤彦に師事、短歌をはじめ創作に励むも、自らの病、育児、夫との関係にも苦しみ、一時「一灯園」に拠ったこともあった。困難な時代に女性の自立を目指し、1936年、「アララギ」を離れ、女性だけの短歌結社「明日香」社を創立、1943年には、『朝日新聞』短歌欄の選者を務める。戦時下は、萬葉集『主婦の友』と発行部数を競った『婦人倶楽部』の短歌欄選者をローテーションで務めいる。1944年、親交のあった神近市子の紹介による都下の鶴川村への疎開を経て、1945年4月には、下諏訪の家に疎開したが、1948年7月、心臓麻痺により急逝している。58歳だった。 

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  今井邦子への関心は、かつて『扉を開く女たち―ジェンダーからみた短歌史 1945ー1953』(阿木津英・小林とし子・内野光子著 砂小屋書房 2001年9月)をまとめる過程で、敗戦前後の女性歌人の雑誌執筆頻度を調べた頃に始まる。20年以上前のことだったので検索の手段はアナグロの時代であって、決して網羅的ではないが、今井邦子の登場頻度が高かったことを思い出す。最近では、邦子が、つぎのような歌を『婦選』創刊号(1927年1月)に山田邦子の名で寄せていることを知って、紹介したことがある(『女性展望』市川房枝記念会女性と政治センター編刊 2023年1・2月号)。

・をみな子の生命(いのち)の道にかゝはりある國の會(つど)ひにまいらんものを

 1924年5月の総選挙で、夫、今井健彦が千葉県二区から衆議院議員に当選している。18歳歳以上の男女に選挙権をという普選運動は、1925年3月が普通選挙法が成立、1928年3月の総選挙で初めて実施されたのだが、婦人参政権獲得運動の願いもむなしく、女性は取り残されたまま、そんな中で、久布白落実、市川房枝らによって創刊されたのが『婦選』であった。邦子が寄せた歌にもその口惜しさがにじみ出ているのだった。

  今井邦子文学館は1995年、松屋跡地に復元再建して開館、二階が展示室になっているだけだった。展示目録もなかったようだし、当方のわずかな写真とメモだけで語るのはもどかしい。それでも、斎藤茂吉や島木赤彦からの直筆の手紙、邦子から茂吉のへ手紙など、活字に起こされていて、生々しい一面も伺われて興味深かった。

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展示室の冒頭、詩などを投稿していた『女子文壇』と姉との写真が目を引いた。転任の多かった父の仕事の関係で、邦子は、姉はな子とともに、祖父母に預けられ、育てられ、両親との確執は続く。その姉との絆は強かったが、若くして死別する。

 1911年の結婚、翌年の長女出産を経てまとめた歌文集『姿見日記』(1912年)には相聞歌も見られるが、出産を機に、つぎのような歌が第一歌集『片々』(1915年)には溢れだすのである。

・月光を素肌にあびつ蒼く白く湯気あげつゝも我人を思ひぬ『姿見日記』
・暗き家淋しき母を持てる児がかぶりし青き夏帽子は」『片々』 
・物言はで十日すぎける此男女(ふたり)けものゝ如く荒みはてける
・入日入日まつ赤な入日何か言へ一言言ひて落ちもゆけかし

 1916年アララギ入会、島木赤彦に師事、1917年長男妊娠中にリューマチを患い、治療はかどらず、以降足が不自由な身となる。1924年夫の政界進出、1926年島木赤彦の死をへて1931年に出版した『紫草』では、赤彦の影響は色濃く、作風の変化がみてとれる。「あとがき」によれば「大正五年から昭和三年(1916~1928年)まで」の3000余首から781首を収めた歌集だった。私にとって、気になる歌は数えきれないほどであったが・・・。子供、夫との関係がより鮮明に表れ、思い煩い、嘆き、心が晴れることがなく、一種の諦観へとなだれていくようにも読める。身近に自分を支えてくれた人たち、その別れにも直面する時期に重なる。以下『紫草』より。

・眠りたる労働者の前をいく群の人汗を垂り行きにけるかも(砲兵工廠前)(「しぶき」大正五年)
・青草の土手の下なる四谷駅夜ふけの露に甃石(いし)は濡れ見ゆ(「夜更け」大正六年)
・病身のわれが為めとて蓬風呂焚き給ふ姉は烟にむせつ(「帰郷雑詠」大正六年)
・三年(みととせ)ぶり杖つかず来て程近き郵便箱に手紙入れけり(「荒土」大正八年)
・もの書かむ幾日のおもひつまりたる心は苦し居ねむりつつ(「さつき」大正九年)
・争ひとなりたる言葉思ひかへしくりかへし吾が嘆く夜ふけぬ(「なげき」大正十年)
・つくづくとたけのびし子等やうつし世におのれの事はあきらめてをり(「梅雨のころ」大正十二年)
・土の上にはじめてい寝てあやしかも人間性来の安らけさあり(「関東震災」大正十二年)
・夫に恋ひ慕ひかしづく古り妻の君が心の常あたらしき(「喜志子様に」大正十三年)
・真木ふかき谿よりいづる山水の常あたらしき命(いのち)あらしめ(「山水」大正十四年)
・うつし世に大き命をとげましてなほ成就(とげ)まさむ深きみこころ(「赤彦先生」大正十五年)
・みからだをとりかこみ居るもろ人に加はれる身のかしこさ(「赤彦先生」大正十五年)
・嘆きゐて月日はすぎぬかにかくに耐ふる心に吾はなりなむ(「梅雨くさ」昭和二年)  
・姉上の野辺のおくりにふみしだく山草にまじる空穂の花は(「片羽集二」)
・ありなれて優しき仕へせざりしをかへりみる頃と日はたちにけり(夫に)(「萩花」昭和三年)

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展示会で見た時は、気が付かなかったが、よく見ると謹呈先が「山田邦子様」となっているではないか。今井邦子が旧姓にちなむ、かつてのペンネームであった「山田邦子」あてなのである。かつての自分への「ごほうび」?「おつかれさま」?なのか、ユーモアなのか。

 1935年にはアララギを離れ、翌年には『明日香』(1936年5月~2016年12月)創刊し、みずからも萬葉集などの古典を学び、後進の指導にもあたる。女性歌人の第一人者として、歌壇ばかりでなく、一般メディアへの登場も著しい。その一例として、つぎの調査結果を見てみたい。戦時下の内閣情報局による『最近に於ける婦人執筆者に関する調査』(1941年7月)という部外秘の資料からは、当時の八つの婦人雑誌への女性歌人の執筆頻度がわかる。期間は1940年5月号から1941年4月号までの一年間の執筆件数ではあるが、今井邦子は、他を引きはなし、婦女界5、婦人公論2,婦人朝日2、婦人画報1、新女苑1で計11件、五島美代子4件、茅野雅子3件、柳原白蓮3件であった。さらに2件以下として四賀光子、杉浦翠子、中河幹子、築地藤子、北見志保子、若山喜志子が続いている。いわゆる、当時は「名流夫人」として、名をはせた歌人たちであった。今井健彦、五島茂、茅野蕭々、宮崎龍介夫人であったのである。

 また、短歌雑誌ではどうだろうか。かつて、敗戦前後の女性歌人たちの執筆頻度を調べたことがある(前掲『扉を開く女たち』)今回、若干手直ししてみると、次のようになった。もし、邦子が敗戦後も活動できていたら、どんな歌を残していたか、どんなメッセージを発信していたのか、興味深いところである。

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上記の表から、今井邦子と四賀光子は、敗戦を挟んで激減し、阿部静枝と杉浦翠子は、増加している。生方、水町、中河は変わりなく、一番若かった斎藤史は倍増していることがわかる。

 なお、1942年11月、日本文学報国会の選定、内閣情報局によって発表された「愛国百人一首」について、「一つ残念な事があります」として、声を上げていたのである(「婦人と愛国百人一首」『日本短歌』1944年1月)。選定された百首のうち女性歌人の作が「わづか四人であるといふ、驚くべき結果を示されて居ります。現在の短歌の流行を考へ合わせると、そこにもだし難き不思議ななりゆきを感ずる訳であります」と訴えている。小倉百人一首には女性歌人が二十人選定されている一方、昭和の時代の選定に四人だけということを「長い長い歴史に於て真面目に婦人として考へて見なければならぬ事ではありますまいか」と婦人の無気力を反省しながらも、それはそれとして「女の心は女こそ知る、女も一人でも二人でもその片はしなりと相談にあづかるべきではなかつたらうかと、今も口惜く思ふ次第であります」と、12人の選定委員に女性がひとりもいなかったことにも抗議していた。「愛国百人一首」が国民にどれほど浸透していたかは疑問ながら、こうした発言すら、当時としてはかなりの勇気を要したのではなかったかという点で、注目したのだった。

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戦時下、雑誌統合により休刊となった『明日香』は、1945年10月には、謄写版が出され、その熱意が伝わってくる。1946年2月、邦子の下諏訪の家を発行所として復刊号が出されている。扉の一首「雨やみし故郷の家に居て見れば街道が白くかはきて通る」。

 また、『明日香』は、邦子の没後、姉の娘岩波香代子、川合千鶴子らによって続けられたが、2016年終刊に至る。

 

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2023年2月25日 (土)

『図書新聞』の時評で『<パンデミック>とフェミニズム』が紹介されたのだが

 新・フェミニズム批評の会の事務局から、下記の時評で、『<パンデミック>とフェミニズム』が取り上げられているとのことで、『図書新聞』の画像(一部)が添付されてきた。書評が少ない中で、紹介されたことはありがたいことであった。

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  『図書新聞』では、岡和田晃「《世界内戦》下の文芸時評」が連載中で、2月25日号には「アイデンティティをめぐる抹消させない<女たちの壁>」と題して展開されている。そこで拙稿「貞明皇后の短歌が担った国家的役割―ハンセン病者への<御歌碑>を手がかりに」に言及された部分を引用させていただく。 

明治天皇の歌が翼賛体制を正当化するのに使われた半面、厭戦的な内容を含む貞明皇后の歌はその陰に隠されてきた点や、皇后が「良妻賢母」的なロールモデルを担いつつ、父権的温情主義(バターナリズム)に加担したという二重性を指摘している。

  前半は、その通りなのだが、後半における「ロールモデル」と「父権的温情主義」の「二重性」を指摘しているという件には、驚いた。というのも、突如、現れた「ロールモデル」、「父権的温情主義」、「二重性」という言葉を、私は一切使用していなかったからである。さらに良妻賢母の「典型的なモデル」を“担わされた”ことと貞明皇后のハンセン病者への歌と下賜金に象徴される差別助長策を“担わされた”ことは、「二重性」というよりは、日本の近現代における天皇・皇室が時の権力に利用される存在であるという根幹でつながっていることを、実例で示したかったのである。

 なお、拙稿については、昨秋の当ブログでも記事(2022年10月31日)でも、ダウンロード先を示したが、再掲したので、ご一読いただければ幸いである。

ダウンロード - e8b29ee6988ee79a87e5908ee381aee79fade6ad8c.pdf

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