2014年11月16日 (日)

ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20~28(8)

この辺り一帯をベンドラー・ブロックと呼ぶらしい

 未消化ながら、その抵抗精神を貫いた人々の足跡に圧倒されながら、抵抗運動記念博物館を後にしたわけだが、外に出てみると、Polizeiの文字の車が並び、点々と警官が立っている。何ごとかと思えば、絵画館前辺りで、気勢をあげている一団、せいぜい20 人くらいの人たちが、遠目で分からないのだが旗を振りながらシュプレヒコールをしているのを、多くの警官が囲んでいるではないか。ネオ・ナチ?詳細が分からないまま、私たちは反対側の歩道を進んだ。この辺り一帯は、都市計画の設計者にちなんでベンドラー・ブロックと呼ばれているらしい。さまざまな公的な文化施設が立ち並んでいて、「文化フォーラム」と名付けられている。その一角に、翌日再び来ることになるコンサートホールの「フィルハーモニー」もあったのである。

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「文化フォーラム」翌日訪ねたフィルハーモニーも、新国立美術館もこの一角にあった

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近づくのが憚られ、遠景になった

 つぎは、ポツダム広場を経て、ブランデンブルグまで、歩くことになった。広場では、残された「壁」の付近を写真におさめた後、広大なティーア・ガルテンを左にしながら、黄葉の並木道を歩くのは苦にならなかった。2008年の際は、あのブランデンブルグ門わき、いわば都心の一等地に建設されたホロコースト追悼モニュメント、方形の、高さの異なるコンクリート塊による“巨大迷路”のような建造物に圧倒されたのを思い出す。「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のために」2005年5月に完成して、3年目であったのだ。議事堂をもまじかに控えたこの地に、ドイツが、こうしたモニュメントを建設したこと自体、日本という国の在り方、歴史認識の違いを目の当たりにして驚いたのであった。きょうは、ウンター・デン・リンデン通りを進み、博物館島あたりまで歩いてみようということになった。かつては素通りしてしまったカフェ・アインシュタインにも立ち寄りたいと連れ合いはいう。また、その前に、たしか議事堂脇の道端にあった、ブランデンブルグの東西分断の壁越えをしようとして犠牲になった人たち、多くは若者たちを追悼する碑をもう一度訪ねたいというのが連れ合いの希望だったが、どうしても見つからなかった。

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ホロコースト碑、19073平方メートルに2711基の石によるオブジェだが、墓石のようにも、石棺のようにも・・・

シンティ・ロマ族追悼記念碑

 そこで、迷い込んだ?のが、新しいアクリル板の長いモニュメントに囲まれ、円形の池を擁する一画であった。パネルの説明と出口で手にしたリーフレットによれば、ナチス時代のシンティ・ロマ族のジェノサイドによる犠牲者の追悼記念碑であった。荘厳な音楽が辺りに流れ、池の周囲には、真新しい花束がいくつか供えられていた。よく見ると、1024日に式典が行われているらしかった。ジプシーであった少数民族シンティ・ロマ族は、ドイツ民族の純潔を汚すとして、1933年から迫害が始まり、絶滅政策の犠牲になった。ユダヤ民族への迫害・絶滅については、多くの記録が残され、語り継がれているが、シンティ・ロマ族に関しては、知られることが少なかったという。この記念碑建設までには、その立地、解説文などを巡って、多くの歳月を要し、201210月に完成している。私も無知に等しかったが、ドイツやナチスの歴史には、わずかながらページを割き、書かれていたのをあとで知った次第である。今回は素通りの国会議事堂の、まさに足もとにこうした追悼記念碑が建設されたことに、先のホローコスト追悼記念碑の建設と同様な感慨を覚えるのであった。

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石畳のところどころに、犠牲者の名前が彫られていた

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リーフレットの一部(1)

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リーフレットの一部(2)

ブランデンブルグ、その周辺
 一帯は、相変わらず観光客が引きも切らず賑わっていたが、門の正面には、たしか以前にはなかった、一風変わったモニュメントがあるのに気付いた。ポーランド絶滅戦争についてのメッセージが込められているのだろうか、金網で囲われた厚い壁のような柱状の中に人間の顔ほどの大きさの石が積まれているのだ。側面には、その歴史を語る写真と解説パネルが貼られていた。「ここにも・・・」の思いが去らない。なお、もう少し進むと右手の大きなビルには、ホテル・アドロンの表示があった。ここは、かつて三国同盟時代の松岡洋右外相が泊ったホテルであったが、ベルリン市街戦下では野戦病院にもなったといい、1945年3月には焼け落ちている。ホテル再開は1997年で、いまはケンピンスキー系列の五つ星のホテルになっている。オバマ大統領も泊ったそうだ。ホテルを右に折れる街路は、ナチス時代の各省が並んでいた官庁街、現在は、ホテルと街路をはさんでは警察本部が、ホテルの並びにはイギリス大使館などが並んでいた。

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「ポーランドにおける絶滅の戦争」(?)名付けられていた

 さらに進むと、向かいのスタバの前を、絵画館前にいた一団が警官に守られながら?行進をしているのに再会する。そちら側に渡ってしばらくすると、ブラント元首相の資料館があった。連れ合いは、寄ってみたいが時間が気になると、まずはカフェに急ぐ。アインシュタインの店内は満席に近く、ようやく見つけた相席で、頼んだラテ・コーヒーとバニラクリームつきのケーキは格別だった。よく考えてみると、結局昼食抜きで4時過ぎまで歩いていたのだが、ケーキは二人で一つを分け合って正解だった。その大きかったこと。一息ついて、はや暮れかかった通りを進めば、巨大なフリードリヒ大王の騎馬像が目に入る。ただ、いまだ再開発の工事だろうか、これも背が高いクレーンが、頭上高くコンクリート塊を挟んだまま止まっているのは恐ろしかった。まずフンボルト大学の門をくぐり、建物に入ればエントランスホールは、明るくにぎやかだった。前庭の様々な銅像のいわれを知りたいが、先を急がねば。振り返れば、大学の建物は少し前にライトアップされたようだった。

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ごちそうさまでした 

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フンボルト大学のライトアップ

 道路を挟んだベーベル広場には、今日の目的でもあるナチス時代の焚書の記念モニュメントがあるはずである。この広場の左手は国立歌劇場だが、大改修工事中らしい。かつての国立図書館に面したベーベル広場は焚書広場とも呼ばれているのに、見渡しても、そのモニュメントらしきものがない。「焚書」を象徴する「空っぽの図書館」があるはずなのだが・・・。すると、すでに薄暗くなった広場の工事中の板塀付近に人だかりがしているので、近づいてみると、ありました!足もとの石畳が大きく繰りぬかれ、ガラス張りの下には真っ白な書棚だけが見え、みんなが覗いていたのである。地上には、板塀に、その表示があるだけだった。それだけのことだったのだが、「焚書」という歴史的事実を忘れないためのモニュメントとして、地下からの白い光の束は、やはり衝撃的であった。

 

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工事中の板塀に、こんな表示だけがあった。1933年5月10日、ナチスによりハイネ、ブレヒト、ツヴァイク、マルクス、ケストナーらの本が焼き払われた

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深さ5mというが、空洞で、焼かれた2万5000冊の本が収まる空っぽの本棚

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抵抗運動記念博物館に展示されていた「焚書」時の写真

 すっかり暮れてしまい、昼食抜きで歩いたためか、疲れもピークか、ここからバスの100系でZoo中央駅に引き返すのだが、初めてバスの2階席に上がってみた。かなりの大回りながら、街の夜景が眩しかった。明日は、少し遠出の予定である。レストランに行くのが面倒と、ホテルでのテイクアウトの夕食とあいなった。

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2014年11月15日 (土)

ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20~28(7)

国立図書館で遊ぶ?

1025日(土)の午後は、グリューネヴァルトからポツダム広場へ直行、そこから遠くはないはずの「ドイツ抵抗運動博物館」(Gedenkstatte Deutscher Widerstand/ドイツレジスタンスメモリアルセンター)をめざす。ポツダム通りを道なりに行けばいいはず。その途中で外壁には足場が組まれている建物に、Staats Bibiliothek、国立図書館の文字が見える。元図書館員としては寄らないわけにはいかないだろう。中に入ると広いホール、カウンタはずーっと奥で、その手前には、人間の背丈ほどもありそうなロッカーが並ぶコーナー、パソコンの検索機が並び、展示パネルも並ぶ。そして、当然のことながら、奥のトイレ近くに、カードボックスが追いやられていた。展示は、図書館の沿革がわかりすく解説されていた。 ちなみにと、検索機で、私たち二人の著書を検索してみたが、見つからずじまい。それならば、「森鷗外」「村上春樹」とで検索してみると、百件単位で出てくるのだから、検索が間違ってはいないのだろう。そんないたずらをしたあとは、ホールのベンチで一休みし、目的地に向かう。

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外壁工事が続く、国立図書館 

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 図書館ホール

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 カードボックスは、ホールの片隅に

 

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 十数分野に分かれたリーフレットのガイド

  
ドイツ抵抗運動博物館
 図書館の向かいのマタイ教会と新ナショナルギャラリーの間の道を進むと、それはあった。入口は狭いが、中庭は広い。ここはかつての陸軍最高司令部で、ヒトラー暗殺計画に関与した軍人たちが銃殺されたという惨劇の広場でもあり、その追悼碑と中央には男性立像がある。二の腕を胸につけて突き出した拳の両手を直角に組んでいるのは、その抵抗の意思の強さを示すのだろうか。

 そして、中に入って、また驚いた。ガイドのリーフレットに拠れば、テーマや事件、活動主体ごとに18室に分かれている。どこを重点的に見ればいいのか。リーフレットにも英文が併記されているので、それを頼りに、展示室を進む。受付で尋ねたところ、日本語のカタログはないが、英語ならありますと、あちこちの棚から選んで持ってこられた。比較的薄い冊子を購入することにした。展示室は、たとえばワイマール共和国時代から国家社会主義の台頭、労働者、芸術家、文学者、クリスチャン、赤いオーケストラ、白バラ、移民、ユダヤ、シンティ・ロマなどをテーマにまとめられている。とくに、200人以上が逮捕され、その中心的リーダーたちがここの広場で銃殺された、1944720日ヒトラー暗殺計画事件については幾室にもわたって詳しく展示・解説されていた。また、第7室は、たった一人でヒトラー暗殺事件を計画、未遂に終わり、1939118日に逮捕された家具職人ゲオルグ・エルザーについてで、彼の生い立ちから始まって、ザクセンハウゼン強制収容所を経て、19454月9日ダッハウ強制収容所で銃殺されるまでの足跡を克明に追跡した記録が展示されていた。第15室は、映画「白バラの祈り」で、私も初めて知った、ミュンヘン大学の女子学生ゾフィー・ショルと兄や仲間たちとの抵抗運動についてまとめられていた。どの室の展示もさまざまな工夫が凝らされ、弾圧と抵抗の詳細が分かるようになっていた。しかし、写真からのメッセージはインパクトはあるが、解説を即座に理解するのは至難の業で、眺めて、通りすぎる程度であった。小ホールでは、見学の生徒たちが館員から説明を受けているようであった。丁寧に見ていたら一日はかかりそうな、といっても、言葉の壁はもはや苦痛だろう。帰国後、たとえば、クライザウ・サークル(KreisauCircle)とかジプシーSintiRomaについて初めて知ることも多かった。

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ドイツ抵抗運動博物館の入り口に、その沿革が。英訳も付されているが

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ヒトラー暗殺計画の軍人たちが銃殺された中庭、中央に男性立像の追悼モニュメントが見えるだろうか

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処刑者の追悼碑

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ドイツ抵抗運動博物館リーフレット

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第7室 ゲオルグ・エルザーの生涯

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処刑されたゾフィー・ショル(右)とミュンヘン大学、白バラの学生たち、左隣がショルの兄

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2014年11月 6日 (木)

ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20~28(5)

マルクト広場に金曜の市場が

 1024()、今日の午前中で、ライプチッヒを離れる。まず、マルクト広場を経て、元国家保安省にあるルンデ・エッケ記念博物館に行ってみることになった。今朝のマルクト広場は、乗り入れの車とテント、市場の準備に実ににぎやかで、すでに買い物を始めている人もいる。

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金曜朝のマルクト市場、かぼちゃもごろごろ・・・。

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”kaki"は、平たいものでなく、筆柿を大きくしたような形で、甘かったので、今回、2度ほど買い込んだ

 

ルンデ・エッケ記念博物館~まーるい角の国家保安省跡に
 ルンデ・エッケ記念館というのは、ナチス時代、東独時代における国家保安省の建物に、当時の国民監視・弾圧の実態を詳細に、その実際の手口などが紹介されているという程度の前知識である。ちょっと想像もつかなかったのだけれど、トーマス教会前のマルティン・ルター・リングを、昨日と反対の東に折れて広い公園の緑地に沿ってしばらく歩く。もうこの辺なのにと思い、通行の男性に尋ねると、やはり近かった。大きな垂れ幕のある円形の建物が見えてきた。1010分前、開館を待つ23人が見えた。今日はスムーズにたどり着けたぞ、の思い。ここも、入場無料。入り口正面の階段上には、「この建物は政府と国民会議によって建てられた?」の垂れ幕が。1989年までは、国家保安省としての機能を果たしていた場所に、なるほど、案内にあったように、14室と狭い廊下には、壁の展示と展示物でいっぱいであった。展示は、写真や図表が多いので、私にはわかりやすい部分もあった。1989124日、ライプチィヒ地区の秘密警察本部はデモ隊により占拠され、平和革命の象徴的な出来事だったという。「ルンデ・エッケ」とは、丸い角とよばれた国家保安省の建物を指している。ナチス時代、青少年や女性の教育、組織にいかに力を入れたか。そしてスポーツ、マスゲームなどを通じて、統制を強めて行ったかなど、数々の写真が示していた。それは東独時代も同様であった。さらに、信書や電話の秘密がいかに侵されていたか、住居や会議がいかに監視されていたかなどが、具体的にどんな組織や機器で実施していたかが説明されている。現在の中国・北朝鮮・ロシア、アメリカのCIAなどにおいても、その技術こそ進化しているけれど、似たようなことをしているに違いない。日本におけるかつての特別高等警察いわゆる「特高」やアメリカの占領軍が、その手口をこれほどまで克明に明かしているだろうか。「ナチスを真似れば」の発言で物議をかもした閣僚もいる日本である。やはり不安を禁じ得なかった。

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ルンデ・エッケ記念博物館の10時の開館を待つ

Gedc3861「子どもとスポーツ」とあり、見出しは、すべて段ボールをちぎって、凹凸のある裏側に手書きされていた

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通信・電話の秘密?(盗聴の仕組み)

ようやくのメンデルスゾーン・ハウス

 重い気分で出たルンデ・エッケだったが、あらためて、メンデルスゾーン・ハウスに再挑戦した。近くまで来ているはずなのだがと、乳母車を押す若い女性に尋ねてはみるが分からなっかった。さらに少し歩いたところで、今度は、年配のご夫婦づれに尋ねると、「こんにちは」と日本語が返ってきた。「このすぐ先です」とのこと。聞けば、大阪に仕事で住んでいたことがあるということだった。もっとお話ししたい気持ちだったが、ライプチッヒを離れる時も迫っているので、「ありがとう、さよなら」と先を急いだ。通り過ぎてしまいそうな入り口であった。この博物館は、若死にしたメンデルスゾーン(18091847年)が最晩年1845年から住んでいた家で、丁寧に修復された後、1997年にオープンしている。そんな昔のことではないことが分かった。日本語のオーディオ解説が聞けるというのでお借りした。係員は、その機器の使い方と館内の回り方を案内してくれる。ほんとうは、ゆっくり説明を聞きながら、回りたかったけれど、3040分ほどで切り上げたのが残念だった。メンデルスゾーンの早くよりその才能に着目した父親による英才教育、メンデルスゾーン自身はイギリスはじめ各国の演奏旅行をしながら多くの文化人と交流をし、作曲家としても注目された様子が伺われた。また、バッハ音楽復興にも尽力している。ユダヤ系の一族は、迫害を受けていたが、ナチス時代には、彼の曲の演奏まで禁じられた。ゲバント・ハウス前の記念像は1936年撤去され、トーマス教会前の公園で、バッハ像と向かい合っているように思えたメンデルススゾーン像は、比較的最近の2008年に、再建されたものだという。

ライプチッヒ中央駅1453分発、ベルリンに向かう。

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建物は大きいのだが、入り口は、うっかりすると通り過ぎてしまいそうなメンデルスゾーン・ハウス

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 書斎

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 中庭、正面のバラに囲まれた胸像と白いベンチが眩しい

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メンデルスゾーン・ハウスのガイドとチケット

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 このタワービルを目印に、道を教えてくれたのだが 

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 ライプチッヒ中央駅、さようなら

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ドイツ鉄道の駅のホームは、どこも広く、日本の倍以上はありそうだ。
ホーム・線路改修工事に働く人々。駅に改札というものはないが、長距離の場合は、
必ず車掌の検札がまわってくる

 

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2014年2月 5日 (水)

戦争体験文庫企画展示「愛国百人一首を読む」展へ行ってみたい~少し遠い奈良県立図書情報館

 

 

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 ネット検索をしていたら拙著の一冊がヒットしたサイトがあったので、アクセスをしてみると、上記の展示に行きあたった。1月から3月までの展示なので、お正月にゆかりのある「百人一首」にちなんだ企画だったのだろう。拙著との関係でいえば、この展示会の「展示資料リスト」の最後尾に『現代短歌と天皇制』(風媒社 2001年)が記されていたのだ。

http://www.library.pref.nara.jp/event/booklist/W_2013_36/book.html 

戦争体験文庫とは

 実は、今回、この奈良の県立図書館において200511月開設された「戦争体験文庫」の存在とそれを核にした企画展示が、2006年以降、今回で36回に及んでいることを知った。それぞれの小テーマをもっての展示会は毎回13か月の期間で、ブランクなく続いているようで、その一覧を見ていると、館長や職員たちスタッフたちの資料収集と保存の心意気と何よりも資料を通じて歴史を伝えようとする姿勢に感動さえ覚える。こうした地味な活動が営々となされていたことに敬意を表したく、出かけてみたい気持ちにもなり、とりあえず紹介したいと思った。

5万点以上の資料の中から、たとえば、「戦地と手紙」シリーズでは、「出征」「戦地からの手紙」「戦地への手紙」「帰還」の4回、「戦争と食べもの」シリーズでは「コメの配給と供出」「野菜」「調味料」「代用食」の4回、最近では「かるたで読む『戦陣訓』」「日赤奈良班看護婦の手記から」シリーズでは「原爆の惨禍を目のあたりにして」「病院船上にて」「灼熱の陽の光の下で」「815で終らなかった戦争」4回、「大和の隣組・戦争を支えた地域組織」「貯蓄報国」などという、キメのこまやかさで、戦争体験を伝えようとしている企画であった。当時の図書・雑誌資料に限らず、非文字資料や軍票やチラシなどもふんだんに展示した上、さらに背景及び周辺の軍関係資料、国や地方の行政資料、現在に至る歴史研究の成果なども併せて展示されているのが特徴と言えよう。「看護婦の手記」は、日赤奈良支部に寄せられた直筆の体験記を翻刻したものがテーマに合わせて数点づつが展示されている。銃後の衣食住は、現在の朝ドラ「ごちそうさん」などの時代考証に役立つものばかりだろう。

http://www.library.pref.nara.jp/sentai/kikaku.html

 私の戦争体験記録へのこだわりは、遡ること数十年前、私の国立国会図書館職員時代、外部からの依頼で、初めて作成したのが、「戦争体験記文献目録」(阪上順夫編著『戦争体験の教材化と授業』明治図書 19759月)であったからだ。現在にあっては、戦争体験記録自体の絶対量がケタ違いに多くなっているだろうし、その公開態様、電子版、私家版、自費出版など多様化、死蔵されている例も多くその発掘、検索ツールも多様化して、膨大なものになるだろう。追補版いやあらたな作成をする時間と体力がもはやないのは確かとなってしまったので、こうした奈良県立図書情報館、一自治体での事業を心強く思うのだった。なお、かつて紹介したこともあるが、NHKの「戦争証言アーカイブ」の努力も評価したい。いま、結論を急げば、究極的には、国立国会図書館などが中心になって、早急に進める計画が立てられないものだろうか(吉田裕「戦争体験記録を後世へ~国の責任で専用の図書館創設を」毎日新聞 2013815日)。

NHK戦争証言アーカイブ

http://www.nhk.or.jp/shogenarchives/

「愛国百人一首を読む」展

 今回の展示のテーマである「愛国百人一首」とは、何であったのか。展示の解説においては、日本文学報国会が「昭和1711月〈愛国百人一首〉として、上古から近世までの〈愛国歌〉百首を発表しました。これは、佐佐木信綱、釈迢空(折口信夫)、斎藤茂吉ら第一流の歌人からなる日本文学報国会短歌部会が、 歴史家や大政翼賛会、内閣情報局や新聞社などの協力を得て選定したもので、数多くのかるたや解説本が商品化されるなど、大きな反響を呼びました。 終戦までの3年弱と短い期間ながらも、異種百人一首としては異例の普及を遂げた愛国百人一首」であったと述べている。

 

また、今回の「資料展示リスト」は、つぎの4部立てになっていた。「愛国百人一首」は、が発表されたのは、194211月、新聞、雑誌、ラジオでの宣伝はもちろん解説書類の出版にはすさまじいものがあった。私が、これまで、比較的よく検索してきた『短歌研究』などの短歌雑誌、結社誌、婦人雑誌においても、「愛国百人一首」の解説記事が氾濫した。その一部が、以下の13のリストにも表れている。

 

1. 解説本(11冊)

2. 選者の歌論など(36冊)

3. 日本文学報国会の刊行物(7冊)

4. 文学史的位置づけ(4冊)

 

 解説本のうち、いま私の手元にあるのは、昨年末、櫻本富雄さんから頂いた『定本愛国百人一首解説』(日本文学報国会編纂 毎日新聞社 1943325日発行、4371日再版、70000部)であり、このリストにはない、つぎの2冊もあった。

 

・『愛国百人一首年表』(日本文学報国会編 協栄出版社 194311日、一万部

・『愛国百人一首』(窪田空穂著 開発社 1943721日、1万部1944318日、6千部)

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 用紙不足のこの時期、発行部数を見ても、当時のこの種の書物がいかに優遇されたかがわかる。これまで私の調査の限りでも、通常の歌書や評論集などでも多くて30005000部が通常であった。上記の解説書『定本愛国百人一首解説』で見てみると、 選者は、佐佐木信綱、窪田空穂、尾上柴舟、太田水穂、斎藤茂吉、釈迢空、土屋文明、松村英一、川田順、吉植庄亮、斎藤瀏の11人であった。

上記『定本愛国百人一首解説』の「凡例」によれば、日本文学報国会が、情報局、大政翼賛会の後援、毎日新聞社の協力により、選者11人とともに選定顧問として、文部省・陸軍省・海軍省・日本放送協会などの役職と徳富蘇峰・下村海南・辻善之助・平泉澄・久松潜一らが名を連ねる。なお、緒論は窪田、解説は土屋・尾上・吉植・川田・松村の5人が分担執筆している。緒論では、愛国百人一首の選定は、「現在われわれが抱いている愛国の至情が祖先の血肉と共に伝えられ来たものであることと、高貴な和歌の形式をもつて伝えられてゐることを一般に味解させる事業」である、と言う趣旨のことを述べている。さらに、「解説は、名のごとく解説に止どめ、その事の精細は期してゐるが、文芸としての和歌の方面へは、心して亘らせまいとして」いるとも記していることは着目したい。柿本人麻呂「大君の神にしませば天雲の雷の上にいほりせるかも」から橘曙覧「春にあけてまづみる書も天地のはじめの時と読み出づるかな」までの各首のに大意・作者略伝・制作事情・語釈・出典が示される。丁寧な解説書にはなっているが、短歌とあまり縁のない一般国民はどんなふうに受けとめていたのだろうか。各種のテキストや解説書などが今日のベストセラーなみに流布していたと思われるがその受容が知りたいと思った。

 

 「2.選者の歌論など」では、選者たちの、「愛国百人一首」発表前後の著作が、いわば時代の背景として展示され、本展の中でも一番の多い冊数となった。「3.日本文学報国会の刊行物」では、詩歌、詩や俳句の分野での出版物が紹介されている。「4.文学史的位置づけ」において、拙著は以下のように4冊の1冊としてリストに掲げられていたのだ。

                                                               
   

書名

   
   

責任表示

   
   

出版者

   
   

出版日付

   
 

911.16-コイケ

 
 

昭和短歌の再検討

 
 

小池光ほか著

 
 

砂子屋書房

 
 

2001.7

 
 

911.16-118

 
 

昭和短歌史

 
 

木俣修著

 
 

明治書院

 
 

1964.10

 
 

911.16-サエク

 
 

昭和短歌の精神史

 
 

三枝昂之編著

 
 

本阿弥書店

 
 

2005.7

 
 

911.16-ウチノ

 
 

現代短歌と天皇制

 
 

内野光子著

 
 

風媒社

 
 

2001.2

 

 

 

 

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2013年9月27日 (金)

ようやくの葉山、「戦争/美術1940—1950―モダニズムの連鎖と変容」へ

  

 猛暑のこともあって、延び延びになっていた「戦争/美術」展へ行ってきた。9月に入って、拙著をお送りしたご縁で、大学で表象文化論を講じているKさんより招待券まで送っていただいた。その日は、曇り空でもあったので、車中の冷房がややきつく思われたが、戸塚で湘南ラインに乗り換えると、タンクトップに短パンという若い外国の女性グループや大きな荷物の外国人カップルが目立つ。大方が、鎌倉でどっと降りて行った。逗子駅下車、バスの1番乗り場の「海岸回り」葉山行と駅前交番で確認。前回は新逗子駅から乗ったのだった。途中、「日影茶屋」の前を通る。いまは高島屋の経営らしい。一度、神近市子を偲びながらランチでもと思うが、今日も無理かもしれない。約20分弱、三が丘下車。神奈川県立近代美術館・葉山館まで、家を出てから、ちょうど3時間の道中だった。

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展示のコンセプトは

 

 展示作品一覧のようなプリントがないので、尋ねてみると、カタログの巻末出展作品の一覧表のコピーならどうぞ、ということで頂戴した。どういう構成になっているのか、どうも1940年の直前辺りから、編年体の展示で、1950年代まであるらしい。時代背景や解説は極力排して、作品自体を見てもらうというコンセプトであると、新聞の美術時評で読んだことがある。それに今回は、1945815日で区切ることなく、一続きの画家たちの営為をたどろうとする試みであったという。神奈川県立近代美術館所蔵の作品が主力で、美術館葉山の公式ホームページには、つぎのようにあった。

  

「・・・総動員体制のもと自由が圧殺され戦争に突入し、敗戦をきっかけにしがらみから解放されるという極端な振れ幅の時代のなかで、優れた才能はどのような創造の営みを続けていたのか、あるいは、中断や挫折を余儀なくされたのか。しなやかに、したたかに、ときには強情に生き抜いた画家たち(の足跡を辿る)。・・・」 

 

 

 「しなやかに、したたかに、ときには強情に生き抜いた」とある部分に、私は、違和感を覚えていたのだが、どんな展示になっているのだろうか。うーん、美術の世界でも、こうした戦時下の画家の「見直し」が着々となされているのだな、という思いだった。

 

編年体で構成されている展示を、以下、便宜的に私流にまとめている。

 

前史~1930年代後半

 

 1940年までの序章の一枚目が、山口蓬春の「立夏」と名付けられた、紫黒色の花をいくつも付けた一本のタチアオイであった。松本竣介「建物」、靉光「満州風景」、内田巌「裸婦」、原精一「青年立像」に続く、上野誠の版画、朝井閑右衛門、山下菊二、村井正誠、麻生三郎らの1930年代後半の作品は、重厚な写実あり、都会的なモダニズムありで、その多様な作品からは戦争の影が見い出だせない展示になっていた。

 

原精一(19081986)のコーナーになって、戦時色は色濃くなる。軍隊内のさまざまなスケッチからは、時を選ばず、紙と鉛筆だけの、ときにはわずかな色遣いの水彩画の中の兵士たちの現実、画家のやさしさが伝わってくる。30点近くは、最初の応召で中国に出征した折の作品、年配の「戦友」を正面から描いたパステル画、膝元に拠る犬と戯れている兵士を描いた「横山隊の兵士」、「岳陽報道部」の走り書きがある、椅子を寄せて会議をする部員の背には緊張感も漂う「報道部」などが印象的だった。Kさんもお勧めの作品群であった。

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193841年、日本版画協会が刊行した「新日本八景」シリーズも興味深かった。谷中安規「大川端」恩地幸四郎「雲仙一景」などに交って、前川千帆「朝鮮金剛山」などの外地の名所も現れる。

 

1940年、1941

 

上野誠の版画の労働讃歌の主調は変わらない。日本画の丸木位里(19011995)の「不動」(1941)、彼と結婚した、洋画を学んだ赤松俊子(丸木俊19122000)の「アンガウル島に向かう」(1941)は、ゴーギャンを目指しての南洋諸島体験の成果でもある。紙に描かれた両作品は、日本画か洋画か判別はできない。同じ頃、靉光の人物画も紙の淡彩で、当時、ジャンルの枠組みを相対化するような動きであったことがわかる。この頃の丸木夫妻、内田巌(19001953)の「鷲」(1941)などの作品には、彼らの戦後の仕事や生き方、「原爆の図」作成への情熱や社会的活動への萌芽があったのかもしれない。

 

1942年、1943年、1944

 

 同様のことは、この時期の松本竣介(19121948)「工場」「立てる像」(1942)、もっぱら家族の人物像や静物を描き続けた麻生三郎(19132000)、井上長三郎(19051995)の決戦美術展から撤去された「漂流」(1943)にも言えるのではないか。松本,麻生、井上、靉光と鶴岡政男、今回登場はしない糸園和三郎、大野五郎、寺田政明のあわせて8名が「新人画会」を結成した1943年から統制が厳しい戦中に3回の展覧会を開き、自らの芸術を追求していた。数年前、板橋区立美術館の「新人画会展」で彼らの絵に出会ったときの新鮮さと抵抗の様々な形を思い出していた。その時のブログ記事を合わせてお読みいただければと思う。

 

20081228日「新人画会展―戦時下の画家たちが―絵があるから生きている」(板橋区立美術館)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2008/12/post-d70f.html

 

なお、今回の展示では主要画家に位置付けられている藤田嗣治(18861968)と山口蓬春(18931971)だが、藤田は、当時の軍部の要請で「作戦記録図」の作成に積極的にかかわり、戦後は、占領軍の「戦争画」収集にもかかわった。山口は、会場の葉山館の敷地の向かいの高台に住んでいて、いまは山口蓬春記念館となっている。葉山とは縁が深い日本画家である。山口は、当初、東京美術学校の西洋画科に学んだが、のち日本画に転向した経歴を持つ。1942年には、陸軍省から南方に派遣され、サイゴン、香港、広東に滞在、この会場には、香港の作が5点並んでいた。この日の会場には、唯一の「作戦記録画」と目される「香港島最後の総攻撃図」の下絵があった。本体は、東京国立近代美術館の「戦争画」(アメリカからの無期限貸与)153点の中の1点で、前期の展示であったらしい。他の香港風景は、いずれも、穏やかで明るく、海辺の国際都市の雰囲気がただよう風景画であった。藤田の出展作は「ブキテマの夜戦」(1944)と「ソロモン海域に於ける米兵の末路」(1943)の2点であり(ちなみに、上記東京国立近代美術館の153点のなか、最も多いのが藤田で14点を数える)、山口の作風とは対照的であった。ブキテマはシンガポールの中心部から10キロほどの高地、1942年、英軍と闘った激戦地で、作品は、激戦の跡が克明に描かれている。散乱しているものは何なのか、目を凝らさないと分からない暗さである。他の1点は夜の荒海に漂流する小舟に10人近くがひしめいている米兵を描く。また、東京国立近代美術館の戦争画についてと藤田嗣治については、本ブログの以下において書いたことがある。

 

20081213日「上野の森美術館<レオナール・フジタ展>、欠落年表の不思議」

 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2008/12/post-13fc.html

 

2009921日「国立近代美術館へ~ゴーギャン展と戦争画の行方」

 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/09/post-5b23.html 

 

 

1945年~

 

「戦争記録画」というのであれば、丸木位里・俊夫妻による「原爆の図」こそが「戦争記録画」と言えるだろう。「原爆の図」シリーズは、不覚にもこれまで見たことがなかった。埼玉県の女性教育会館までは足を運んでいながら、丸木美術館に行かずじまいであったから、今回、その一部を見ることができたのがありがたかった。四曲一双屏風となった「原爆の図・第二部 火」(1950)「原爆の図・第四部 虹」(1951)には圧倒される思いであった。「火」では、原爆の赤い炎が黒い塊になっている人間たちのなま身を焼きつくしてゆくさまを描き、「虹」では、惨い静寂の中の、右端に、倒れている馬と真裸の母子像の頭上の淡い虹を描く。浜田知明のエッチングの「初年兵哀歌」シリーズは自らの2度にわたる軍隊生活の回顧による作品のえぐられるような鋭さが印象に残った。

 

これまで見てきた画家たちの1940年代後半から50年代かけての作品の展示が、どういう意味を持つのかは、やや曖昧さが残る。「連鎖と変容」、一人の画家が持ち続けていたものを探る作業と変容を見極めるのには、編年体ゆえにやや散漫にも思え、捉えにくい。描いた年による「輪切り」での横断的な構成としては、選んだ画家が恣意的ではなかったか。それにあえて省略したと思われる「年表」の類も、会場に欲しかった。 

「しなやかに、したたかに、ときに強情に生き抜いた画家たち」と束ねてしまえるのか、やはり疑問を残しつつ、会場を後にした。 

これからも、戦争と美術を検証しようするならば、戦時下に描かれた作品の発掘と収集・保存・公開への努力が必要だろう。さらに、現に東京国立近代美術館に「もどって来た」戦争記録画の早期全面公開を、市民として強く求めて行きたいと思うが、たとえば、全国の美術館が一丸となって、公開を要請することはできないのだろうか。 

今回の会場の展示ケースには、大量の関連文献も展示されていた。画家たちの従軍記やエッセイ集、画集やカタログ、美術雑誌など貴重な資料が多かった。かなりのものが「青木文庫」となっていたので、地下室の図書室に寄って尋ねてみた。長い間、美術館の学芸員、館長などを務められたのち、現在は大学の教職に就かれた青木茂氏の寄贈資料だということがわかった。『書痴・戦時下の美術書を読む』』(平凡社 2006年)の著書があることも知った。未整理の資料やまだ青木氏のお手元にある資料は膨大らしいと聞いた。

↓図書室の入り口には、今回の関連テーマの書物が集められていた。

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↓遅い昼食を済まして、レストランを望む。庭園には赤とんぼが群れをしなして飛んでいた。台風20号が近づいて、少し波頭  が立つ一色海岸

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↓町内会の掲示板の津波避難経路らしい。

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↓「山口蓬春記念館は歩いて2分です」の看板に誘われて、「蓬春こみち」を

 上ってゆく。

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↓残念ながら、リニューアル中で休館でした。

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↓山口蓬春「夏の印象」(1950)とチケットでした。
 

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2013年7月29日 (月)

短歌総合誌の役割

(以下は『ポトナム』7月号「歌壇時評」です。) 

短歌総合誌の購読をいつ辞めようかと迷う。自分が所蔵してなくても、どこかの図書館へコピー依頼ができればよい。が、短歌雑誌関係の記事索引が整備されていないので、総合誌だけでも手元に置きたいという思いに駆られる。夥しい数の結社誌や同人誌はもちろん、何種かあるタブロイドの新聞については尚更で、検索の手段がないということは、掲載の作品・エッセイ・論文や記事は消耗品のようになってしまう。国立国会図書館、日本現代詩歌文学館、国文学研究資料館、日本近代文学館などがデータベース化していても不思議はないのだが、短歌雑誌に関しては、その採録対象がどこも半端なことで終っている。その間隙を補うような形で、年間の記事索引作成のような仕事は、一部、一時期、短歌総合誌が担ってきた。 

角川の『短歌年鑑』に、結社誌や同人誌も含めた文献目録が掲載されなくなったのはいつからだったか。私が所蔵している一番古い一九六六年版には「一九六五年度短歌年表」(阿部正路道編)があり、すでにその欄は設けられていた。三一〇頁のうち四六頁を割いている。平成八年度版(一九九五年一二月刊)には、「平成七年度短歌評論年表」(編集部)として続いていたが、その数年前から採録対象は『短歌』『短歌研究』『短歌現代』の三誌に限られていた。平成八年度版、平成九年度版(一九九六年一二月刊)の「編集後記」のいずれも、この「年表欄」の中止に触れることなく、静かに消えてしまっていた。その後、数年間のブランクがあって、現在のように、自誌『短歌』のみの一年分の目次を載せるようになった。短歌研究社の『短歌年鑑』では、二〇〇三年版(二〇〇二年一二月刊)から「全国結社同人誌主要論文一覧〈作家論・古典研究・現代短歌論〉」が登場する。他の「評論展望」「特集展望」欄などと合わせれば、短歌雑誌の年間索引として利用できるし、わずかな点数の抄録もある。が、対象雑誌の網羅性は望めないし、キーワードでの検索ができない。それでも、国立国会図書館「NDL-OPAC」、国文学研究資料館「国文学論文目録データベース」を補完する目録とはなるだろう。こうした地味な仕事は、誌面と人材の関係でなかなか続かないが、少なくとも、今の形でもいいからぜひ継続してほしい。 

このように文献探索が容易ではないからと言って、身近なところで〈見つけた〉資料や身辺の文献をことごとしく掲げ、先行研究や文献、出典等の紹介や提示がおろそかな論文やエッセイが横行していいというわけではない。都合の悪い先行研究は無視し、読者が検証できる手がかりを残そうとしない場合もある。『ポトナム』には、小泉苳三の書誌学的な蓄積や伝統もあり、国文学の研究者も多いなか、歌壇に模範を示していくべきだろう。 

なお、『短歌研究』は、二〇一三年の場合、三月に「現代代表女性歌人作品集」、五月に「現代の104人」というように、毎年、各々の節句に由来する特集が組まれる。今年の三月には一五一人と付記されていた。五月は、長い間「現代の88人」が定着していたが、近年は、寄稿の歌人の数が少しづつ増えている。男性が「現代の・・」であり、三月だけに「女性」と明記されるのはいかにも不自然ではないか。作品集への女性の寄稿者数が男性より多いものの、「歌壇」の実態や読者の数は、その比ではなく圧倒的に女性が多い。また、「現代代表女性歌人作品集」となったのは二〇一二年からで、それまでは「現代代表女流歌人作品集」だった。「女流」は、「男流」という対語がないことから差別的な意味合いがあるとして、影を潜めたと思っていたのだが、歌壇にはどっこい生きていたことになる。

(『ポトナム』2013年7月号所収) 

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2013年6月 4日 (火)

『出版人の萬葉集』の思い出~「図書館」という場所

 先の記事(6月 3日)に登場した『出版人の萬葉集』に、私は「図書館員」ということで声をかけられ参加した。16首ほど収録されているなかで、「図書館」という項目の冒頭に収録されている一首「亡きひとは図書係とて図書室の椅子に背広を掛けたるままに」の思い出である。古書店を営んでいたこともある、評論家の出久根達郎氏が、エッセイ集『粋で野暮天』(オリジン出版 1998年)では、つぎのように紹介してくださっていた。もちろん面識はない。 

 「歌の方が散文よりも、ある面で多くを語っているということができる。たとえば、つぎの一首。 

・亡きひとは図書係とて図書室の椅子に背広を掛けたるままに(内野光子) 

私はこの歌から短編小説風の物語を思い浮かべた。背広は霜降りがいい。汚れが目立たないから、と故人が好んでいた柄である。椅子に掛けてあったそれは、新調したばかりのものである。そして、―いや、よそう。」

 

 何となく面映ゆさを感じる鑑賞であった。実は、この図書係の方は、私が当時勤めていた短大図書館の隣にあった姉妹校の女子高の若い先生であった。女子高に就職して23年だったのだろうか、精神的な負担が大きく教壇に立てなくなって、図書室専任になったと聞いていた。それから、何か月目だったのだろうか、自殺だったという訃報が届き、用事で出かけた、その図書室の端に置かれていた机と椅子、その椅子に、まだ彼の背広がかかっていたのである。

 

 私が勤めていたころ、一般的に大学や学校の中で、職場でやや問題があると、「図書館に回される」ということがひそかに語られていたのである。なんとその数年後、私たちの職場にも、降りかかってきた。市立図書館を定年前に退職した職員を迎えることになった。この男性を責めるわけにはいかないのだが、どういうわけか、学校法人の幹部は、精神にやや問題のあることを承知の上で、図書館への配属を決めたらしい。1か月もたたないうちに、一緒には仕事ができないことがわかって、事務長や館長、労働組合にも相談するが埒が明かず、解決にはだいぶ時間がかかったのであった。 

 「図書館」への偏見は、今でもときどき垣間見ることがある。現在にあっては、公共図書館にTUTAYAが参入する時代になったが、安上がりの図書館でありさえすればいいのか、情報社会における図書館の役割を行政や教育現場で、ほんとうに理解しているのだろうか、とときどき疑問に思うことがある。 

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2012年10月24日 (水)

久しぶりの新宿で3・11を振り返る、職場のOB会へ

 新宿駅で降りるのは久しぶり、というより今日の目的地南口の小田急サザンタワーへの道は、去年の311当日、代々木駅方面から逆に歩いてきた道で、それ以来ということになる。あの日は、乗り合わせていた山手線を降ろされ代々木駅まで線路上を歩き、代々木駅からは道路いっぱいに広がった人々の流れのままに運ばれ、ようやく新宿駅南口が見えてきた場所である。線路側の平屋のカフェや雑貨の店の中は、一部ガラスが割れ、棚が傾き、イスや商品が散乱しているところもあった。反対側の高層ビルの直下はどんなだったか記憶にない。南口には、もう人々の塊りで埋め尽くされ、その塊りが留まっているのか、鈍く動いているのか定かでない状態の中を、夫と私はひたすら歩いて、公衆電話を探し、明治通りに出ようとしていたところでもあった。
 今日は、8年ぶりという、国立国会図書館時代のある部課のOB有志の会である。前回とは少しメンバーが変わって男女同数の計8人。私が11年間所属していた課だが、在職中指導を仰いだ先輩やその後もご縁のあった方々、私の退職後その課に入った方々と、かかわりはいろいろだが、声を掛けていただき、参加した。皆さんは、定年まで全うした方々ばかりで、一番の長老はもうすぐ86歳になるSさん、一番若いお二人が1944年生まれだという。男性陣は、第二のお勤めの大学も定年で辞められている三人。若い二人の一人、Oさんも退職後は私大で図書館学を教えていたが、この4月に、なんと図書館長として古巣に迎えられたのである。これまで、衆議院・参議院の事務総長の天下りや外部の大学人が就いていた職に、初めて図書館職員はえぬきの館長ということで、新聞でも話題になった。 これまでは図書館職員は副館長までにはなるが、それがトップだった。元職員にとっても画期的な出来事であった。Oさんは、大学の同じ学科のちょうどすれ違いの後輩でもあったので、一度、激励の言葉でも掛けたかったので、今日はよい機会だとも思った。一通りの近況報告では、介護や自らの健康法の話が多かったが、各々の性格も見える暮らしぶりが披露された。
 
Sさんは、加えて、いい機会なので、現役館長に提案があると、メモを取り出した。私の在籍中には組合の執行委員長をもされた人だ。①近頃の国立国会図書館の新聞記事が、非常に少ない、専任の職員をもって広報に力を入れよ ②図書館退職者の能力を活用せよ、OB会は就職あっせんなどにも積極的に乗り出してほしい、というものであった。なるほどとは思うが、新聞離れも著しい若い人には、ネット上の広報なども重要で、ホームページなどの充実もその一つではないかと思う。②については、退職者全体を束ねているOB会の前会長も現会長も居合わせていて、お二人からは、「OB会の加入率もあまり良くないし、業務の上でOBに介入されたくないという思いが、現役には強い。それに悪しき例が多かったのではないか」との感想も出た。館長からは、退職者の能力を活用できないかの検討は今後も進めていきたいとの言。私は、一利用者として、資料のデジタル化が進んだのはありがたいが、今年1月には検索システムが大きく変わって、戸惑っている。多様な情報の中に書誌的事項が隠れてしまっていることを何度か経験したことをいえば、「利用者には、ともかく慣れていただくことも大切で・・・」との答えに「当局的な答弁にも慣れてきたね」とのヤジも飛びだした。また、いま著作権の問題でとん挫しているという、テレビ番組の網羅的な保存についても要望して置いた。NHKだけに関しても、愛宕の放送博物館、川口のアーカイブでも、網羅的ではない。横浜の放送博物館では民放の番組も閲覧できるが、番組全体からしたらほんのわずかであること。国レベルでの網羅的な収集とアーカイブのシステムの構築に期待したいと。
 何の話からか、新聞の品定めに入った。朝日が良心的という「神話」が流布していた時代もあったが、最近の朝日の堕落ぶりはひどい、それでも読売よりは、いや、読売やサンケイだって読めるところはある、毎日の取材が一番良心的だった、日経の文化欄がいいね、近頃東京新聞が頑張っている・・・。

話は尽きないのだが、会食の席は3時までとのこと。店員さんに集合写真を撮ってもらってお開きになった。風邪気味だった私は、乗換の少ないルートで帰路についたのだったが、翌日の夜中に発熱、咳に見舞われ、ただ今、謹慎中である。

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↑新宿南口、小田急サザンタワーへ。3・11は写真を撮る余裕がなかった

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↑最初の御馳走 

 

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