2018年3月28日 (水)

『国策紙芝居からみる日本の戦争』のページを繰って(2)

<登場する短歌作品>

私が、解題篇を読んで、やはり気になったのは、短歌や和歌が「国策紙芝居」にどう登場したかであった。 

➀「風流蜀山人」(鈴木景山脚本 石原徴絵 194181日) 

・色白く羽織は黒く裏赤く御紋はあをいきいの殿様 

・唐人もここまで来いよ天の原三国一の富士を見たくば 

 

短歌ではないが、狂歌師の太田蜀山人にまつわる小噺で、何首かの狂歌もが紹介されている中の2首を記した。1首目は、紀伊の殿さまにまつわる狂歌であり、2首目は、中国を意識した時局を反映したものだろう。


②「楠木正行」(平林博作 西正世志絵 1941925日)

・かへらじとかねて思へばあずさ弓なき数にいたる名をぞ止むらん 

南朝の天皇への「忠孝」を誓い、この「忠魂」は世の若人に「道を教え、励ましを与えて」いると結ばれている。ここに、登場する後醍醐天皇の声は聞こえるが、その姿は雲のなかであって、姿は描かれていない。

 ③「忠魂の歌」(大日本皇道歌会編国民画劇研究会脚色・絵 1942531日)

・海ゆかば水漬くかばね山ゆかば草むすかばね大君のへにこそ死なめかへりみはせじ 

萬葉集収録の大友家持作が読み上げられ、「尽忠報国。まことに、皇軍勇士の亀鑑たる鈴木庄蔵軍曹のお話であります」ではじまる。「海ゆかば」は、国民精神総動員強調週間を制定した際のテーマ曲として信時潔がNHKの嘱託を受けて1937年に作曲したものだが、下の句の「天皇のそばで死ぬのだから、決して後悔はしない」とのメッセージが重要なのだろう。主人公の鈴木庄蔵は、東京羽田で父と漁師をしていたが、出征、193810月、中国、徳安城攻撃で重傷を負う。臨時東京第一陸軍病院での入院生活で短歌を看護婦の勧めで始めるが、1940810日に没する。臨終の際に、次の一首を詠むに至るストーリーである。 

・半身は陛下のみために捧ぐれどいまだ半身われに残れる

 作中には、ほかに、次のような短歌が挿入される。

・大場鎮突破なしたるその時は隊長も兵も共に泣きたり

(靖国神社権宮司 高原正作揮毫) 

・わが體砲煙の中にくだくとも陛下の御為なに惜しからん

(明治神宮権宮司 中島正國揮毫)

 なお、鈴木の作品内危篤から臨終までの遺詠が70首あるといい、そのうちの21首が『白衣勇士誠忠歌集』(由利貞三編 日本皇道歌会 1942年3月)に収録されている。また、編者の由利の解説に拠れば、1941年5月26日皇太后(貞明皇后)訪問の折、「戦傷勇士」5名12首を献上したと記す。鈴木の4首が一番多く「半身は」の他以下3首も記されている。

 

・吾が身をばかへりみるたび思ふなり陛下のみためいかに盡せし
・傷おもきわが身にあれど大君の股肱にあれば元気かはらず
・陛下より恩賜の煙草いただきて我はすはずに父におくりぬ

 

④「物語愛国百人一首」(納富康之脚本 佐東太朗子絵 斉藤瀏題字 1943820日)  

「愛国百人一首」は、日本文学報国会が、佐佐木信綱、窪田空穂、尾上柴舟、太田水穂、斎藤茂吉、土屋文明ら12名の歌人を選定委員として、「尊王愛国」を喚起するカルタの普及を目指して作成し、内閣情報局が19421120日に発表した。協賛した東京日日新聞、大阪毎日新聞はじめ、短歌雑誌はもちろん、主婦や子供向け雑誌などでも鑑賞や評釈が盛んになされた。この紙芝居では、百首の中から20首近くを紹介、その中には、前掲、大伴家持の「海行かば・・・」、楠木正行の「かへらじと・・・」などを含む次のような短歌が次々と紹介されてゆく。

 

・しきしまのやまと心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花

(本居宣長) 

・皇(おほぎみ)は神にしませば天雲の雷(いかづち)の上に盧(いほり)せるかも(柿本人麻呂)  

・身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂 

(吉田松陰)  

・御民吾生ける験あり天地の榮ゆる時に遇へらく念へば

(海犬養岡麻呂)

  題字を揮ごうした斎藤瀏は、選定委員の一人でもあり、「心の花」同人で二・二六事件に連座、反乱幇助罪で入獄。出獄後は「短歌人」を創刊、太平洋戦争下では、戦意高揚短歌を数多く作り、「短歌報国」にまい進した。斎藤史の父でもある。 

<描かれなかった天皇、登場する天皇の短歌>

 

『国策紙芝居から見る日本の戦争』における論考篇の中で、もっとも関心を寄せたのは小山亮「国策紙芝居のなかの描かれない天皇―神奈川大学所蔵コレクションから」であった。紙芝居の絵の中で、「描かれることがなかった天皇」―脚本には言及がありながら、図像には決して描かれなかった天皇について、各作品の絵と脚本とを照合しながら丹念に検証した労作である。身体の一部が絵になりながら、顔や全体像は見せなかったり、雲の上に存在を思わせながら姿を見せなかったりする紙芝居の中の天皇の存在が「御真影」との関係、他のメディアとの差異など、何を意味するのか、興味深く思われた。私は、それを読みながら、それでは紙芝居に登場する天皇の短歌はどんな場面で登場し、どんな作品が選ばれているのかを、探ってみたいと思った。制作年月日順にみてみよう。 

➀「大政翼賛」(日本教育紙芝居協会(作成)19401230日) 

19401012日の大政翼賛会が成立の直後から制作にかかったのだろうか。当時の標語「なまけぜいたくは敵」「公益優先」などの羅列と解説に終始する作品で、が引用されるということで、最終場面<臣道実践>の文字と二重橋の絵の台本に、1904年の明治天皇の短歌が記されている。 

・ほどほどに心をつくす国民のちからぞやがてわが力なる

(明治天皇)

 

②「戦士の母」(日本教育紙芝居協会脚本 西正世志絵 1941618日) 

 千葉県のある村で、息子の出征を励ます母を描きながら、強い皇軍の支えは銃後の力であり、ことに「母こそわが力」が大きいことを力説する作品だが、1904年の短歌が登場する。 

・子らは皆戦の場に出ではてゝ翁や一人山田守らん

(明治天皇) 

*こらは皆軍のにはにいではてゝ翁やひとり山田守るらん(『明治天皇御集』明治神宮社務所編刊 195211月)

 

③「産業報国」(平林博脚本 油野誠一絵 1941105日) 

 大日本産業報国会提供作品で、冒頭場面では、1904年の短歌が使用され、最終場面は工場街を背景に「護れ!職場はわれらの陣地!」の大きな文字が描かれている。 

・よもの海みなはらからと思う世になど波風の立ち騒ぐらん

(明治天皇)

 ④「あまいぶだう」(日本教育紙芝居協会脚本 羽室邦彦絵 1941105日) 

 軍事援護強化運動の一環として制作された作品で、国民学校の児童たちと近所の傷痍軍人との交流を描いている。ここでは、昭和天皇の良子皇后の短歌が引かれている。1938103日(軍事援後強化時期1034日)に寄せた短歌であった。戦時下の女性皇族の役割として、傷病兵やハンセン病者たちへの慰問などが担わされていたことがわかる。 

・あめつちの神ももりませいたつきにいたでになやむますらをの身を
(香淳皇后)

 

⑤「英東洋艦隊全滅す」(日本教育紙芝居協会脚本 小谷野半二絵 1942121日) 

 19411210日、128日の日米開戦直後の、日英マレー半島沖戦の戦闘場面を誇る戦意高揚作品。次の1905年短歌で締めくくられる。 

・世の中にことあるときぞ知られける神のまもりのおろかならぬは(明治天皇) 

⑥「大建設」(選挙粛正中央聯盟(作成)1942317日) 

表題の上段に「大東亜戦争完遂」、下段には「翼賛選挙貫徹運動」が掲げられる。太平洋線追うが始まっての翌月19421月の歌会始のお題「連峰雲」の昭和天皇の短歌が絵や台本に刷り込まれている。 

・峰つゞきおほふむら雲吹く風の早くはらへとたゞいのるなり
(昭和天皇)

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⑦「学の泉」([斎藤史弦絵] 1943123日) 

 仁徳天皇、菅原道真、伊能忠敬など歴史的人物が一人一枚で登場する「教育勅語」の解説作品のなかで、1891年の歌会始「社頭祈世」の作品が引かれている。 

・とこしへに民やすかれと祈るなるわがよをまもれ伊勢の大神

(明治天皇) 

 

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「峠」(斎田喬脚本 伊藤文乙美術 1945年7月10日)東京から農村に疎開してきた少年の成長を描く物語。斎田(1895〰1976)は香川師範卒業後、成城小学校の教師に招かれ、学校劇・自由画教育に携わった。戦後は児童劇作家協会を設立している。

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「三ビキノコブタ」(川崎大治脚本 西正世志絵 1943年3月20日)昔ながらの童話もある。川崎(1902~1980)は巌谷小波に師事、一時、プロレタリア児童文学運動にも参加、戦後は児童文学者協会設立にかかわり、後、会長となる。

 

 

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『国策紙芝居からみる日本の戦争』のページを繰って(1)

<研究会に参加できなかったけれど>

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      チラシ: http://www.kanagawa-u.ac.jp/att/16525_29237_010.pdf 

 

 325日は神奈川大学横浜キャンパスに出かける予定にしていたが、所用で、見送ることになってしまった。以下のプログラムで神奈川大学非文字資料研究センターによる研究会「アジア太平洋戦争と国策紙芝居」が開催されていた。1週間ほど前に、そのセンターから『国策紙芝居からみる日本の戦争』と題する、厚さ3センチ以上、A4 の立派な図書(同センター「戦時下日本の大衆メディア」研究班編著 勉誠出版 20182月 463頁)を頂戴した。センター所蔵「戦意高揚紙芝居コレクション」239点(193612月~19457月制作)の解題篇、論考篇、データ篇からなり、解題篇は、各作品1頁のスペースに、表題紙・書誌事項・あらすじ・解題から構成され、34枚の絵がカラーで収められている。私の紙芝居体験は、敗戦後からなので、収録の紙芝居は見たことがない。ただ、201312月、同センターの紙芝居コレクションの整理が終了した時点で、展示・実演と共にシンポジウムが開催されたときには、参加したので、何点かの実演を見せてもらっている。そのレポートは、以下のブログ記事にとどめている。

 ■「国策紙芝居」というのがあった~見渡せば「国策メディア」ばかり・・・にならないために(2013126日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/12/post-1e1c.html

  この紙芝居コレクションの旧蔵者は、櫻本富雄さんで、近年、個人的に古書を譲っていただいたり、資料のご教示をいただいたりしている方だった。そんなご縁もあったので、今回は参加できなかったのは残念なことであった。 

そもそも「国策紙芝居」とは、「政府各省や軍関係団体、政府に協力する翼賛団体などが紙芝居制作会社につくらせたもの」(「まえがき」)で、上記コレクションの大半が日本教育画劇という会社の編集出版部門である日本教育紙芝居協会が制作したものである。

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表題紙の一部、上段の絵は、後掲の「忠魂の歌」の一枚、傷痍軍人鈴木庄蔵の歌が書かれている。「わが體 砲弾の中に くだくとも 陛下の御為 なに惜しからん」とある。

<多様なメッセージのなかで>

 

解題篇の一点一点を読み進めていくと、20枚前後の絵と口演台本ながら、実に様々なメッセージが込められているのが分かる。金次郎や桃太郎、さるかに合戦、花咲か爺などの昔話をはじめ、動物ものには「森の運動会」(伊馬鵜平(春部)原作 永井貞子脚本 宇田川種治絵 19421030日)川崎大治作・西正世志絵による「コグマノボウケン」(19421130日)「三ビキノコグマ」(1943320日)などがあり、これらは幼児向けと言ってもよい。細部に時局が反映されたりするが、ほのぼのとしたものが多い。また、家庭向けの実用的な作品としては、次のように、時局を直に反映したものが多い。

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「フクチャントチョキン」(横山隆一案 19401130日)は「支那事変国債」購入の勧めである。「家庭防空陣」(日本教育紙芝居協会脚本 浦田重雄絵 19411015日)は、空襲はおそろしくない、国民の魂・気力で征服できる、一つの隣組で一つの爆弾を引き受ける覚悟などを説き、「大建設・大東亜戦争完遂、翼賛選挙貫徹運動」(選挙粛清中央聯盟編 1942317日)「總意の進軍・翼賛選挙貫徹のために」(大政翼賛会宣伝部元作翼賛紙芝居研究会脚色 近藤日出造絵 1942330日)は、表題通り、翌月に迫った430日の投票に向けた作品で、前者は種々の威勢のいい標語やスローガン、後者は東條首相の演説が取り入れられていた。「戦時お臺所設計図」(金子しげり原作 日本教育紙芝居協会脚本 浦田重雄絵 1942820日)は、食材の切れ端を工夫・活用し、ゴミ減量を説くのである。「午前二時」(鈴木景山編輯 油野誠一絵 19441020日)は、空襲は必至として、普段の備えと心構えが語られるが、珍しく単色で描かれ、真夜中の雰囲気を出しているようでもあるが、印刷の紙は粗悪らしい。この作品から、私自身の空襲への恐怖がかすかに思い起こされるのだ。夜中に眠いのを起されて、防空壕に連れ出そうとする母に「死んでもいい」と駄々をこねたことは、後から聞いた。また、病気で寝込んでいた母を、家の中の縁の下の待避場所に残して、防空壕へと父に連れ出されたときに、暗闇で布団にくるまっている母の姿の記憶がうっすらとあるのだ。そんなことがあって、父と学生だった長兄を東京に残して、母と次兄と私の三人は、母の実家に疎開することになったのだろう。

 

歴史上の人物の伝記ものでも、時代も分野も異なり、さまざまなパターンがある。 「兵制の父大村益次郎」(大政翼賛会宣伝部作 中一彌絵 19421130日)、「山本五十六元帥」(鈴木景山作 小谷野半二絵 19431215日)などは、ストレートな軍国主義、徴兵強化を意図し、「キューリー夫人傳」(鈴木紀子作 西原比呂志絵 194175日)、野口英世(木實谷喬壽原作 池田北鳥脚本 藤原成憲絵 19411231日)は、それぞれ、非常時の国防に役立つことを考えた研究者、戦う科学の戦士という位置づけであった。「二宮金次郎」(成瀬正勝構成 西正与志作絵 1941130日)など、もっぱら質素・節約を説くものもある。 

 

一方、堀尾勉作・西正世志絵というコンビによる「芭蕉」(1941101日)は、作画や印刷にも工夫がこらされ、淡い色調で、文学性が高められ(松本和樹)、「一茶」(1943110日)は、朗読によって、一堂に会して視聴する者の感動を誘うような意図が感じさせるが、一茶の消えない悲しみや苦しみが打ち出すカタルシスと文学性の成否が問われるといった解題(鈴木一史)も付されていた。どんなふうに描かれたのか、知りたいと思った。

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2013年12月 6日 (金)

「国策紙芝居」というのがあった!見渡せば「国策メディア」ばかり・・・にならないために

“なつかしい”六角橋商店街

早くより、お知らせいただいていた「戦時下大衆メディアとしての紙芝居―国策紙芝居とはなにか」公開研究会(2013124日、神奈川大学非文字資料センター・図書館共催)で、櫻本富雄さんが話される。会場は、横浜の白楽にある神奈川大学。白楽駅下車13分とあるから、少し早目に着いて歩き出した。“なんとなつかしい”六角橋商店街ではないか。池袋の商店街に育った私には、どこかホッとする空間である。路地に入ると、休憩所やトイレがあって、細い仲見世が続く。その中のひとつに入り込んだら、大学への道がわからなくなって、中華まんじゅう屋さんに尋ねる。角々で人に尋ねながら着いた図書館のホールは満席に近い。後で聞けば、入りきれない方々がいらしたとか。

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デジカメを忘れ、携帯で撮ってみたものの・・・

初めてお目にかかる櫻本富雄さん~そのライフワークへの熱情

開会の直前、ようやく櫻本富雄さんとお目にかかれた。永らくメールのやりとりやご本を頂戴したりしていた櫻本さんとようやくお話しすることができた。ちょっと前に風邪をひかれたと伺っていたが、お元気そうで、何よりだった。先日の拙著の批評会のレジメと書評のコピーを手渡しすることができた。櫻本さんの講演は、冒頭はどんな話の展開になるのかと思ったが、執念のライフワークに至る、壮絶な内容であった。

櫻本さん(1933~)については、このブログの以下の記事をあわせて読んでいただければと思う。

2012117

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/11/post-1f5b.html

Kamisibai_tirasi

ご自身も詩人でありながら、1970年代から詩人たちの戦時下の著作や発言に着目、その戦争責任、表現責任を厳しく追及し始める(『詩人と戦争』、『詩人と責任』1978年)。以降、戦時下の文化人たちの表現責任と戦後、決して責任を取ろうとしなかった彼らを、みずから収集した著作物、資料から綿密な検証をし続けている。紙芝居、ラジオ、映画、さまざまなジャンルの文学作品、漫画、歌謡などに及び、その著作は20数冊を数える(『文化人たちの大東亜戦争』1993年、『日本文学報国会』1995年、『戦争とマンガ』2000年、『歌と戦争』2005年など)。

この日は、その中の紙芝居についての研究会であって、櫻本さんの演題は「国策紙芝居とはなにか」であった。長野県小諸市出身、小学校での担任教師とクラスからの無視や虐めを受けて、その屈辱は優秀な航空兵になって見返してやろうという皇国少年だったという。ところが、櫻本少年が見た戦後の教師たちはじめ、翼賛文化人たちは、みごとに民主主義を唱え、戦時下の著作物や発言を隠蔽して口を拭ったのを目の当たりにする。その悔しさと怒りが、これまでの仕事を支えてきたという。昔、見た紙芝居は、戦後保存されているところがなく、古書店にあることもまれで、むしろ古道具屋さんの片隅に、新聞・雑誌類と一緒に積まれていることが多く、地方にも出かけ、500点くらいは集める。しかし、戦時下のいわゆる「国策紙芝居」の全貌がいまだにつかめていないという。このたび、櫻本さんが集めた紙芝居の一部が、古書店を通じて、神奈川大学非文字資料研究センターに購入され、整理されての、研究会である。収蔵の241点は、神奈川大学図書館OPACでの検索が可能になったが、絵と台本のみのデータで、どのくらいの部数が印刷され、そのテキストがどこで、だれによって、どう読まれたか、どう演じられていたかとなるとほとんど記録に残されていないという。

櫻本さんの話には、資料に裏付けられているという「責任を取らない」「戦前・戦後、あべこべのことをいう」「戦前の本当のことを隠す」文化人の名前がポンポン飛び出す。金子光晴、佐木秋夫、藤田嗣治、古関裕而、本郷新、住井すゑ、吉屋信子、北村西望、加太こうじ・・・。おや?という人物も次から次へと飛び出すではないか。

「国策紙芝居」とは

「国策紙芝居」は、多くは手書きの、いわゆる「街頭紙芝居」に対して、「印刷紙芝居」に属するもの。街頭紙芝居は、1930年頃には貸元制度により浸透・定着、一日の客100万人といわれ、1940年ごろまでは人気を博していた。1938年、警視庁による検閲が始まり、日本教育紙芝居協会が発足、軍事保護院、勧業銀行などのスポンサーつきの紙芝居が作られ始めた「国策紙芝居」、1940年、日本教育紙芝居協会の紙芝居出版部門として朝日新聞が出資、「日本教育画劇」が設立され、常会等での実演が盛んになり、地方へ、そして外地での紙芝居の実演が活発になる。

 神奈川大学が受け入れた紙芝居の目録を見ると、そのほとんどが「日本教育画劇」出版のもので、キーワード別にみると、勤倹貯蓄、皇軍物語、銃後物語、東西偉人伝、戦局ニュースなどのほか、小説、童話、漫画などもある。

 「チョコレートと兵隊」「神兵と母」・・・

櫻本さんの講演の前の第1部では、「紙芝居」4本の実演があったのだ。

①『敵だ!倒すぞ米英を』(大政翼賛会宣伝部作 近藤日出造画 大政翼賛会宣伝部刊 194212月)実演:神奈川大学放送研究会(斎藤さん)

②『チョコレートと兵隊』(国分一太郎脚本 小谷野半二絵画 日本教育画劇刊19417月)

 実演:神奈川大学放送研究会(草刈さん)

③『空の軍神加藤少将』(鈴木景山脚本 小谷野半二絵画 日本教育紙芝居協会制作 194311月)   

実演:なつかし亭 岸本茂樹さん

④『神兵と母』(宮下正美原作 馬々川鷹四脚色 山川惣治画 大日本画劇刊 19449月)

実演:なつかし亭 岸本茂樹さん

①は、「戦局ニュース」に分類される作品で、時局解説風で、台本にはつぎのような場面がある。

「ドーン!日本はサツと起ち上がった。起ち上がりざまにABCDを殴りつけた。真珠湾に、マレー沖に。シンガポールやビルマに、ヒリツピンやジャワに、ソロモン海戦に、つづけざまにドーン!ドーン!と米英共を殴つてやつた。大東亜民族の擁護のために、皇国日本を守るために。連勝、連勝」

最後は「敵だ!倒すぞ米英を。一億の手で、団結で」で終る12枚の作品。絵を描いた近藤は、戦後、似顔絵による政治風刺漫画はマス・メディアで人気だったことを覚えている人も多いであろう。

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②は、すでに映画(193811月、佐藤武監督、鈴木紀子脚本、藤原鎌足、沢村貞子、小高まさる、高峰秀子出演)にもなっていた実話に基づく作で、日本教育紙芝居協会刊行の1939年版もあり、ラストが国分の台本とは異なるものが、九段の昭和館に所蔵されているそうだ。ストーリーは、明治製菓が売り出した、包装紙の点数を集めるとチョコレートがもらえるという懸賞で始まる。戦場の父親が、慰問袋に見つけたそのチョコレートの包装紙を必死に集めて、家の妻子に送ってくる。幼い兄妹が製菓会社に手紙を出して、待ちに待ったそのチョコレートが届いた日に、父親の戦死の公報が届いたという悲話である。国分一太郎(19111985)は、綴り方教育で著名な理論家でもあり、実践家でもあった。

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③は、加藤建夫隼戦闘隊長(19031942)について、私の世代は、名前程度しか知らないのではないか。部下思いで、操縦技術に長け、家族思いだった加藤の活躍は「空の軍神」として、西条八十、勝承夫、田中林平の作詞で歌謡になり、藤山一郎、藤原義江、灰田勝彦によって歌われたという。1944年には陸軍省の全面的な協力を得て、山本嘉次郎監督、藤田進主演の映画にもなり、大ヒットした。紙芝居は22枚による長編、演者の岸本さんは、横浜を中心に紙芝居の継承に務めている人で、台本にもない、すべて声による擬音の挿入などは見事なものだった。

④の挿絵は、なんと山川惣治。「少年ケニヤ」の作者で、晩年を佐倉市で過ごし、私も小さな展覧会で姿を見かけたことがある。近年、佐倉市立美術館で大掛かりな展覧会も開催された。この紙芝居は、手の障害を母と共に克服した少年が、あこがれの落下傘部隊で活躍、「天皇陛下万歳」「お母さん」と叫んで戦死する話で、「おお、讃へよ母の手、皇国の手―その勲功は皇国と共に不滅である」のセリフで結ばれる16枚の作品。出版元の「大日本画劇」は、1937年、街頭紙芝居の制作会社16社が統合し発足している。

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これもぼやけていて。左から安田、櫻本、富沢、中島さんです。

公開座談会「戦意高揚紙芝居コレクションの位置づけを巡って」
 
櫻本さんの講演のあとは、神奈川大学の中島三千男教授の進行、安田常雄教授、富沢達三講師の3人が加わっての座談会になった。安田教授は、広義の紙芝居の特徴は、演者・観客の直接性―手渡し文化であること、作者の内的必然性―作家性、まだ解明できていない演じられた場所などの実態に着目したいとした。富沢講師は、1967年生まれ、家族らの戦争体験や自らの反戦メディア体験から話し始める。「戦争紙芝居」の特徴として、大量生産による観客の多様性、絵物語風のデッサンがしっかりしたもの、20枚前後で完結するストーリーの密度とメッセージ性、露骨な戦意高揚よりも銃後における家族愛・同僚愛とくに母親を描いた作品の訴求力に注目したい、との発言だった。

短いながら、会場からはセンターへの期待や今後の課題が投げかけられた。

参考:

神奈川新聞20131130日の関連記事

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1311300001/ 

私にとっての紙芝居

私の小学校時代1950年前後にイモアメをしゃぶりながら見た紙芝居は「街頭紙芝居」に分類される。紙芝居史上、二度目の黄金期でもあったと知る。小学校時代に紙芝居を作ったらしく、薄い画用紙?にクレヨンで描いた、すすけたような「かぐや姫」の何枚かが古い段ボール箱から出てきた。長女が1970年代後半、保育園や図書館で見ていた紙芝居は、印刷紙芝居で教育的な目的をもって作成されていたのだろう。また、長女が名古屋の学童保育所に通っていた頃、畳一枚ほどの「じごくのそうべい」という手作りの大型紙芝居を父母の前で演じた子どもたちの満足げな顔を思い出す。よちよち歩きの子どももスマホを操るような、現代の子どもたちの紙芝居って、どうなんだろう。 

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