2025年4月12日 (土)

沖縄の渡嘉敷島の「戦没者」慰霊祭に思う~住民を守らなかった日本軍

  先月3月29日、『東京新聞』に「2025戦後80年」シリーズとして、「『二度と戦争やめて』沖縄・渡嘉敷島 戦没者の鎮魂祈る」という小さな記事があった。「集団自決」で亡くなったとされる330人の慰霊碑「白玉之塔」の前での慰霊祭に約100人が参加、戦没者の鎮魂を祈ったとし、それに続いて「集団自決」の模様を以下のように伝えていた。

「米軍は1945年3月27日、渡嘉敷島に上陸。島北端の山中に逃げた住民は28日、集団自決に追い込まれた。鎌で切りつけたり、縄で首を絞めたりして、肉親同士が殺し合った」

 簡潔で、間違ってはいないと思われる記事なのだが、私たちが、渡嘉敷島の現地での見聞や書物の記述とは、ずいぶんと違っているように思えた。
 私たちが、渡嘉敷島を訪ねたのは2017年2月6日、那覇港から、欠航の合間を縫って、ようやく渡ったのだった。高波にも見舞われながらの70分の船旅、日帰りの強行軍だったが、タクシーの運転手兼ガイドさんの女性の案内でかなり精力的にまわったのではなかったか。

Photo_20250412095801

Photo_20250412170501

   記事に「島北端の山中」とあるが、現在は、起伏こそあるが、広がる草原の先には、「国立沖縄市青少年交流の家」があり、野球場も見渡せ、海に向かえば、座間味島、阿嘉島も見える。のどかな光景なのだが、1960年、米軍がミサイル配備の基地建設のため、辺りの山は削られ、谷を埋め、地形は一変したという。69年に基地は閉鎖され、本土復帰の数年後に返還されたというのだ。もともとニシヤマと呼ばれたこの山間の地で、「集団自決」という凄惨な殺戮が繰り広げられたのである。現在は、1993年3月28日に建てられた「集団自決跡地」の碑がある。敗戦直後の1951年3月28日には「白玉之塔」は建てられていたのだが、米軍の基地建設のため接収され、現在の位置に移設されていた。

  Dscn0828_20250412170601

   現在では、体験者の多くの証言により、渡嘉敷での「集団自決」は、軍の命令や関与があったことは明らかになっている。以下の証言でも、日本軍は住民を守るどころか、殺人や自決に至らしめたのである。

例えば、『沖縄タイムス』の社説にもあるように、軍は「敵に捕まった場合の投降も事実上禁止されたほか、「米軍に捕らえられれば女は辱められ、男は股割きにされる」という恐怖を住民に植え付けたのである」とし、一人の男性の証言をつぎのように続けている。

「あの日。金城さんの家族5人がいた壕では村長の「天皇陛下万歳」三唱が合図となりあちこちで手りゅう弾が爆発した。金城さんは、死にきれなかった妻子を小木でめった打ちにする男性の姿を見て「やるべきことが分かった」という。兄と2人で泣き叫びながら母と弟妹の頭に石を打ち下ろした。」(「[沖縄戦80年]慶良間「集団自決」悲劇の背景に軍の存在」2025年3月26日)

  同じく地元紙の『琉球新報』は、慰霊祭の記事ではつぎのように伝えている。

「1945年3月27日、渡嘉敷島に米軍が上陸し、住民は日本軍の命令で北山(にしやま)に集められた。翌28日に「集団自決」が起き、当時の村民の4割に当たる330人が犠牲となった。」(「渡嘉敷島「集団自決」80年の慰霊祭 刻まれた肉親の名を呼ぶ 沖縄戦」『琉球新報』 2025年03月28日)

『読売新聞オンライン』では、死んだふりをして難を逃れた女性の証言としてつぎのように伝えている。

「隣の座間味島(座間味村)に米軍が侵攻した翌日の3月27日、集落に「米軍が攻めてくる」といううわさが広がり、家族や知人らと山へ逃げ込んだ。夜通し歩き続け、日本軍の拠点にたどり着いたが、兵士に立ち入りを拒まれた。」(「沖縄戦で恐慌状態になり「親族同士で殺し合い」2025年3月27日」

 ところが、総務省がまとめた「渡嘉敷村における戦災の状況」では、「集団自決」について、以下のように記されている。

「日本軍の特攻部隊と、住民は山の中に逃げこんだ。パニック状態におちいった人々は避難の場所を失い、北端の北山(にしやま)に追込まれ、3月28日、かねて指示されていたとおりに、集団を組んで自決した。手留弾、小銃、かま、くわ、かみそりなどを持っている者はまだいい方で、武器も刃物ももちあわせのない者は、縄で首を絞めたり、山火事の中に飛込んだり、この世のできごととは思えない凄惨な光景の中で、自ら生命を断っていったのである」(総務省「(沖縄県)渡嘉敷村における戦災の状況」『一般戦災死没者追悼』所収)

 なお、渡嘉敷村のホームページ「慶良間諸島の沖縄戦」にも、上記と全く同文の段落があるので、総務省は、このページから一部を引用したものと思われるが、どうしたわけか、段落の冒頭部分「物量に劣る日本軍の特攻部隊と・・・」の「物量に劣る」が省かれている。総務省は、こんな姑息な「忖度」までを“日本軍”にするのかと。

 しかし、渡嘉敷村HPでも、「かねて指示されていたとおりに」というが、「いつ」「誰」が不明である上、「母と弟妹」は殺されたのであって、「自ら生命を断っていったのである」は、多く証言から、事実に反する記述ではないかと思う。さらに、同じHP上には、「大東亜戦争及び沖縄戦における本村関係者全戦没者数」の一覧表の欄外に*を付した「注意書」?では以下のような記述があるのである。

「狭小なる沖縄周辺の離島において、米軍が上陸直前又は上陸直後に警備隊長は日頃の計画に基づいて島民を一箇所に集合を命じ「住民は男、女老若を問わず軍と共に行動し、いやしくも敵に降伏することなく各自所持する手榴弾を以て対抗できる処までは対抗し癒々と言う時にはいさぎよく死に花を咲かせ」と自決命令を下したために住民はその命をそのまま信じ集団自決をなしたるものである。」

 渡嘉敷村HPにおけるこれらの齟齬を担当だという村の教育委員会に尋ねたところ、古いことなのでわからない、とのことだった。
「慶良間諸島の沖縄戦」
https://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/material/files/group/1/jiketsu01.pdf

 渡嘉敷島では驚かされた一件があった。曽野綾子撰文による「戦跡碑」である。かねてより保守の論客としても知られる作家の曽野綾子(1931~2025年2月)の撰文の一部を見てみたい。

「(前略)3 月 27 日、豪雨の中を米軍の攻撃に追いつめられた島の住民たちは、恩納河原ほか数か所 に集結したが、翌 28 日敵の手に掛かるよりは自らの手で自決する道を選んだ。一家は或いは、 車座になって手榴弾を抜き或いは力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは 愛であった。この日の前後に 394 人の島民の命が失われた。 その後、生き残った人々を襲ったのは激しい飢えであった。(中略)  315 名の将兵のうち 18 名は栄養失調のために死亡し、 52 名は、 米軍の攻撃により戦死した。 昭和 20 年 8 月 23 日、軍は命令により降伏した」(全文参照「戦争の悲劇的結末への宣誓」観光庁「地域観光資源の多言語解説文データベース」https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/H30-01471.html

「力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは 愛であった。」という唐突な「愛」への疑問はぬぐいようもなく、家族による「殺人」に至らしめた要因をも「家族愛」「家族制度」に包み込んでしまっている。

 さらに、撰文末尾近くの将兵の死因にも言及する。住民の「集団自決」と将兵たちのその徹底抗戦を賛美するかのような書きぶりだが、栄養失調や戦死した犠牲者は浮かばれず、その遺族の口惜しさは格別だろう。ともかく、生き残った割合は、住民より将兵の方がはるかに高いのである。日本軍は住民を守るどころか「集団自決」という「殺戮」後に、抗戦していたことになる。

Photo_20250412170601
 総務省や観光庁の公式見解がまかり通っている現実と、いまここでは触れないが、教科書検定問題の決着は、「歴史を正しく次代に継承すること」とは真逆の道をたどっていると言っていいだろう。

 戦争や戦場の悲惨さを伝えることは重要だし、平和を祈る気持ちも大切にしなければならないが、メディアも「識者」も、なぜそのような戦争が始まったのか、戦場や銃後での理不尽な死者たちにも、しかと目を向けるべきだろう。安易に「戦没者」とひとくくりに出来ない死者たちがいることも私たちは知る必要があるのではないかと思う。

Photo_20250412095601

 ガイドさんと話に夢中になっていて、「白玉之塔」に参るのを失念してしまった。

 

以下の過去記事もご覧いただければと、ご参考までに。

冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(3)2017年2月19日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/02/3-e774.html

冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(4)渡嘉敷村の戦没者、集団自決者の数字が錯綜する、その背景2017年2月22日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/02/post-0e0c.html

| | コメント (0)

2025年4月 8日 (火)

沖縄の「チビチリガマ慰霊祭」に思う

  4月6日の全国紙の朝刊は、沖縄県読谷村のチビチリガマで5日に行われた慰霊祭について報じていた。『朝日新聞』は「戦後80年」のシリーズとして「<集団自決>の地 語り継ぐ」、『東京新聞』は「2025年戦後80年」のシリーズとして「集団自決の過ち 繰り返さない」という記事だった。慰霊祭は、遺族会により行われ、生存者の参列はなく、遺族30人を含む約100人が参列している。1945年4月1日、米軍の沖縄本島への上陸が始まり、追い詰められてガマに避難した住民140人は、4月2日、住民同士や家族同士で殺し合った末、83人が犠牲となり、その6割が18歳以下だった。いわゆる「集団自決」による犠牲者だった。そうした中で生き残った者は「戦後長く口を閉ざし、証言するようになったのは80年代以降」(『朝日新聞』)だった。

   私たち夫婦が、このチビチリガマを訪ねたのは、2014年11月だった。ガイドも務める運転手さんによれば、米兵に突撃して射殺された2人を含み、狭い壕内で毛布に火が放たれもして、毒薬の注射や自決などにより85人が命を落とした。赤ちゃんの泣き声は、敵に居所を知らせるから、早くここを出るなり、殺せと兵士たちに迫られた母親もいたという。

  体験者の証言や聞き取り、研究者による調査研究などによって、こうした真相がわかってきたのは1980年代で、1985年には遺族たちと地域住民により追悼の平和の像が完成した。が、間もなく何者かに破壊されたので、石の壁で囲われるようになったとのことだった。

  私たちがガマに着いたときは、修学旅行の高校生が来ていて、ガイドの女性が説明をしているところだった。少し壕に近づき手を合わせたい気もしたが、運転手さんは、高校生たちの邪魔にならないようにしましょう、とその場を離れたのだった。

Photo_20250408174801

  では、なぜ集団自決がなされたのか、その背景を『朝日』は「皇民化教育や〈軍官民共生共死〉という軍の方針があった」と言い、『東京』は「日本軍の強制や誘導があり〈強制集団死〉とも呼ばれる」と伝えている。
  NHK沖縄放送局の4月5日のニュースでは、この集団自決の背景を「捕虜になることを許さないとした当時の教育や軍の方針などがあったと考えられています」と伝えた。

  では、その「軍の方針」「軍の強制」とは何だったのか。上記の記事では。その辺が不明確なのである。これまで、私は「軍官民共生共死」という「軍の方針」とはどんなものだったのか、をあまり深く調べもしなかったのだが、とくに、沖縄の日本軍において、実践されたようなのだ。

  石原昌家教授のインタビューによると、1944年8月に赴任した第32軍の牛島満司令官が、同月31日、全兵団長を集めて行った訓示は「最後の一兵に至るまで敢闘精神を堅持」「一木一草といえどもこれを戦力化すべし」と言うものだった。さらに、第32軍が44年11月18日に作成した「報道宣伝防諜(ぼうちょう)等に関する県民指導要綱」によって「軍官民共生共死の一体化」と称して、「住民は戦場に動員されたり、飛行場や陣地の構築にかり出されたりし、軍民が一体化する中で米英軍の激しい攻撃にさらされ、多くの命が失われた」という結果を招いたというのである(「『県民の総決起』強いた沖縄戦の実相 数千の証言集めた研究者に聞く」『朝日新聞』2023年7月13日)。

 よく言われる「軍人勅諭」「戦陣訓」だけでなく、沖縄には、さらに密接な形での軍の方針が住民を苦しめた。その上、兵士たちは恐怖を煽るばかりでなく、住民たちに手をかけ、住民たちも家族同士、住民同士の殺傷に及び、失われた命だったのである。「自決」というのは、自らの意思による、潔い自裁さえ思わせるが、現実は、それとは程遠い殺戮が展開されたのではなかったか。「集団自決」は「強制集団死」と言い替えられることも多いが、「誰に」強制されたかがやはり不明である。「軍の誘導や強制により」と書き添えられることも多いのだが、体験者の証言などからは、より切迫した恐怖感があったからとしか思えない。

 

| | コメント (0)

2024年8月23日 (金)

対馬丸沈没から80年、私たちは何をしなければならなかったのか

1944年8月22日、那覇から九州に疎開する学童たちを乗せた「対馬丸」は、奄美大島沖を過ぎた悪石島付近で、アメリカの潜水艦により撃沈された。判明した乗船者数は1788人、氏名が判明している方々1484人、その内、学童が783人とされている。

Img_2350
東京新聞【20024年8月23日】より

 

P6202039
対馬丸記念館、展示より。今年は記念館開館20年節目の年。

その内、漁船などに助けられた人、奄美大島に漂着したなどして救助された人たちは、280人に過ぎない。

私は、1944年末ころか、東京の池袋から千葉県佐原にあった母の生家に母と疎開した身である。年月も両親から聞いておかなかったのではっきりしないが、両国駅での列車の混雑ぶりだけが記憶に残っている。疎開船の学童たちとの体験とは、大きく異なるけれど、他人事には思えなかった。

2016年、遅ればせながら、6月23日の慰霊の日の式典に参列した折、対馬丸記念館を訪ねることができた。壁いっぱいの亡くなった方々の遺影、多くの幼いあどけない遺影に、胸が痛む思いだった。生き残った方々の悲痛な声や映像や文字に苛まれるのだった。

20166p6202060
遺影と遺品の展示室にて。

今年も「小桜の塔」の前での追悼式が開かれたとの報道である。それに合わせたものなのか、内閣府は来年度、沈んだままの対馬丸の船体の再調査を来年度予算に計上したという。船体は、すでに1997年水深約870メートル海底で発見されていて、当時、生存者や遺族が引き上げを要請したが政府は、船体の強度などを理由になされなかった。が、今回、内閣府は、平和学習や戦争の記憶の継承にも役立つとして、遺品の収集などを目指すというが、何を今さら、80年も経ってぬけぬけと・・・。

P6202070

対馬丸記念館に隣接した旭丘公園内にある小桜の塔、向かって右側が対馬丸の犠牲者、左側にその他に船の犠牲者名が刻まれていた。今年の8月22日いは約400名の方々が参列したという。塔建立70年になる。

 

以下の過去記事もご覧ください。

2016年7月16日
ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(2)「対馬丸記念館」~なぜ助けられなかったのか: 内野光子のブログ (cocolog-nifty.com)

 

 

 

| | コメント (0)

2024年6月29日 (土)

沖縄の離島の悲劇を忘れてはいけない―「慰霊の日」に(2)

ハンセン病者の人体実験が続けられていた!

 この稿を終わろうとしたとき、「ハンセン病開発中の薬、療養所で 副作用確認後も投与試験」の報道に接した(『朝日新聞』2024年6月25日)。熊本県「菊池恵楓園」の調査報告書の公表を受けての報道であった。園長室で薬剤「虹波」を服用させたり、半ば強制的に注射をさせたりする人体事件のようなことが戦中・戦後も繰り返されていたというのである。

 「菊池恵楓園」といえば、1952年、あるハンセン病患者が証拠不十分なまま逮捕され、不当な裁判を受け、その結果、死刑となった「菊池事件」を思い起す。この療養所の医師にハンセン病と診断され、療養所への入所を執拗に迫られた被告が村の衛生担当者を殺害したと疑われた事件である。逮捕後は、構内の仮拘置所に隔離され、療養所内の特別法廷においては、本人が否認する中、一度も出廷したことがないままに、第3次再審中の1962年9月、福岡拘置所への移送直後2時間後に死刑が執行されるという異例の事件であった。この事件の背景には、戦時下の「無らい県運動」を引き継いだような病者の強制隔離政策と差別助長の社会的風潮があったのである。

<詳しくは、以下を参照>
・熊本県HP 3-1.菊池事件
https://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/attachment/49316.pdf

・菊池事件略年表(菊池事件再審を求める会作成)
ダウンロード - e88f8ae6b1a0e4ba8be4bbb6e795a5e5b9b4e8a1a8.pdf

 今回の報告書では「薬剤投与試験」1942年から開始されたとする。戦後も続けられたがいつまでかは不明で、調査中という。1943年アメリカでは新薬プロミンが開発され、1947年国内でも使用開始したにもかかわらず、1948年「優生保護法」で、ハンセン病者や障害者の断種や中絶が続き、1953年「らい予防法」では隔離政策は維持されていたのである。1996年「らい予防法」の廃止、2001年熊本地裁が「らい予防法」の違憲性、国家賠償請求を認め、国は控訴せず謝罪、「ハンセン病補償法」成立、2009年「ハンセン問題基本法」成立後も、さまざまな偏見と差別が続いているのが実態である。長島愛生園初代園長で、「無らい県運動」を率先して進めた、戦後も「らい予防法」での隔離政策を維持した医師光田健輔に1951年、文化勲章が授与されている。

なぜ、沖縄に、二つの国立ハンセン病療養所があるのか

 こうした日本のハンセン病小史を省みて、私の沖縄旅行で忘れられない一件がある。2017年2月、今は本島と橋でつながっている屋我地島の国立ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」を訪ねたときのことである。米軍機が兵舎と間違えて空爆がなされた愛楽園であったが、ここにも、病者への過酷な隔離と差別の歴史があった。

 私の「愛楽園」訪問の目的は、「癩」と皇室との関係への関心から、貞明皇后の「御歌(みうた)碑」を確認することだった。1932年11月、大正天皇の皇后、貞明皇后が「つれづれの友となりても慰めよ行くことかたきわれにかはりて」と詠み、この歌を全国のハンセン病療養所に下賜金とともに贈ったことから、歌碑が建てられたのである。「愛楽園」の10万坪近い敷地は出入り自由らしいので、地図と案内板を頼りにまわったものの、その歌碑を見つけることができなかった。海岸に出れば、水子の供養塔があり、思わずドキリとした。広い砂浜の先には小島や岩が点々とし、左には古宇利島への長い橋も見えた。その日は、交流会館の閉館時間も過ぎていたので、翌日、出直すことにした。通常の病院と変わらないたたずまいで、夕方とあって建物の間を白衣の人たちや配膳の人たちが行き来していた。

P2044091

 翌日、交流会館の展示で、「沖縄愛楽園」の沿革と国策によるハンセン病者の強制隔離と差別の実態をあらためて目の当たりにするのだった。

P2054207_20240628171301
米軍の空爆後、瓦礫と化した屋外で解剖がなされている。1945年7月10日米軍の撮影による

P2044097

P2044094
1944年3月に着任した2代目愛楽園園長の早田晧は、7月から空襲時の避難壕の掘削を開始、手足の不自由な患者たちにも、掘ることを課し、病状を悪化する者が続出した。それが原因で、米軍の上陸後一年で死者が274人に上っている。下の銘板は自治会の名で1997年に建てられている。上の写真は、「早田壕」と呼ばれた壕の入り口の一つである。

 翌日、交流会館の展示を見て、「御歌碑」のたどった経緯も分かってきた。

P2054190
 上記の写真は、1932年11月に貞明皇后が詠んだ歌が全国のハンセン病療養所に下賜され、愛楽園では1943年2月に建立された「御歌碑」である。この写真説明には「絶対強制隔離政策の正当化と強化の役割を果たした」と明記されていた。皇室の威をかりての国策推進の典型といえよう。

P2054210
 上記の写真は、空爆による焼跡の中に立つ「御歌碑」だが、米軍の指示により、台座からはずされ、沖合の海に沈められたと説明されている。続いて、米軍は「国家神道」につながるものとして撤去を命じた、とも説明する。「国家神道」というより、GHQは、天皇、皇族崇拝につながるものとして撤去を命じたのではないか。

 案内の地図にある現在の「御歌碑」はどんなふうになっているのか、ふたたび構内を歩き回るのだが、見つからない。半分諦めかけていたところ、草ぼうぼうの広場の片隅に、思いもよらない姿をさらしていた。はじめは信じられなかったのだが、ボロボロになったブルーシートの間から、「貞明皇后」と読める文字、「つれづれの・・・」の文字も見える。

P2044079_20240628235501

P2044080

 帰り際に、交流会館に寄って、係の人に尋ねてみた。見つけたのは古いもので、新しい歌碑があるのではないかとも。どこかあいまいな返答で、釈然としないまま、愛楽園を後にしたのだった。

 平成期の天皇夫妻が、1975年7月、皇太子時代に沖縄国際海洋博の開会式のために、沖縄に初めて訪問した際、沖縄愛楽園を訪問している。その時、「御歌碑」は再建されていたのか。横倒しの歌碑は、沈められた歌碑と石の形も台座も異なるところから、再建されたには違いないが、あのような姿になったのはいつだったのか。交流会館の前には、「高松宮妃殿下」「三笠宮妃寛仁殿下妃殿下」の記念植樹があった。

  あの「御歌碑」はどうなっているのか、気になっていた。2018年、沖縄愛楽園開所80周年の記事を見たので、園に電話してみた。「元の位置に戻しました、あの時はまだ工事中でして」とのことであった。工事中にしては、相当長い間放置されていた姿ではあった。正直なところ、自治会は、あのまま海に沈めてもよかったのではと思う一方、日本のハンセン病の歴史的遺構として、残されるべきものであったかもしれない。残す以上は、しっかりとその果たした役割を伝えてゆかねばならないと。

 なお、沖縄県には、もう一つ、宮古島に、国立ハンセン病療養所南静園がある。全国に13ある国立ハンセン病療養所のうち、二つが沖縄にあることになる。大正期の1916年8月、前述の光田健輔が多摩全生園の園長時代、西表島に3万人の患者を隔離できる候補地として、視察に来ている。収容人数の拡大と逃亡防止のためだったとするが、地元の猛反対行動に、逃げるように島を離れたとの、当時の報道もある。現在の沖縄の基地問題に共通するものがあるのではないか。
 

<以下もご参照ください>
冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(1)
沖縄、屋我地島、愛楽園を訪ねる(2017年2月14日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/02/post-eeb9.html

 

なぜ、貞明皇后だったのか

  また、なぜ、貞明皇后の「御歌碑」だったのかについては、以下の拙著も併せてお読みいただければと。

「貞明皇后の短歌が担った国家的役割 — ハンセン病者への<御歌>を手掛かりに」
『<パンデミック>とフェミニズム(新フェミニズム批評の会創立30周年記念論集)』翰林書房 2022年10月

ダウンロード - img166.pdf

 

| | コメント (0)

2024年6月26日 (水)

沖縄の離島の悲劇を忘れてはいけない―「慰霊の日」にふたたび(1)

 沖縄は、6月20日に梅雨が明けて、6月23日の慰霊の日前後の新聞は、『沖縄タイムス』と『琉球新報』はもちろん各新聞は、温度差があるものの、さまざまな形の特集や記事を掲載している。手元の四紙に目を通して思ったのは、式典の様子や平和の礎に祈る人々への取材がほとんどであった。

Img_5be7978090cae541af0c187a05c0790f1165Img159

左「沖縄タイムズ」【2024年6月23日」臨時号
右「東京新聞」(2014年6月24日)より

 中に一つ、東京新聞の「集団自決 息絶えた母」は、渡嘉敷島へ米軍が上陸した際、日本軍が住民を集め、手りゅう弾を渡し、集団自決を迫ったという事件を報じている。母と弟を目の前で殺された遺族の姉妹に取材した記事だった(2024年6月24日)。死にきれなかった者は、日本兵や身内が手をかけ殺すといった凄惨な場面を目撃した姉妹は死んだふりをして難を逃れたという。渡嘉敷島の住民にとって「慰霊の日」は、集団自決がなされた3月28日であった。90歳と86歳の姉妹は、6月23日に「平和の礎」を訪れ、日本軍への怒りと悲しみを新たにしたとある。

渡嘉敷島へ~欠航の合間に

 2017年2月初旬、私たちは、夫の強い要望で渡嘉敷島へ渡ったのは、村の人口よりやや多い、700人以上のマラソンランナーたちが去った直後だった。高速船は欠航だったが、波に強いというフェリーで出港、内海を出ると、甲板にいた私たちは波しぶきを浴びた。島では、タクシーの女性運転手のガイドによって、「観光案内書」にはないコースを巡ることになった。

  大江健三郎の『沖縄ノート』(岩波書店 1970年)を巡る裁判や教科書裁判で争われた「集団自決」について少しでも知りたいと思ってのことだった。渡嘉敷村のHPには、以下のように記されている。「パニック状態に陥り」「かねて指示されたとおりに」「集団を組んで」と、曖昧な表現となっている。

「3月27日には渡嘉敷島にも上陸、占領し、沖縄本島上陸作戦の補給基地として確保しました。日本軍の特攻部隊と、住民は山の中に逃げこみました。パニック状態におちいった人々は避難の場所を失い、北端の北山に追込まれ、3月28日、かねて指示されていたとおり、集団を組んで自決しました。手留弾、小銃、かま、くわ、かみそりなどを持っている者はまだいい方で、武器も刃物ももちあわせのない者は、縄で首を絞めたり、山火事の中に飛込んだり、この世のできごととは思えない凄惨な光景の中で、自ら生命を断っていったのです。」

   Dscn0828
 

 一方、1979年、曽野綾子らによって建立されたのが「戦跡碑」であった。その碑文には、一家が集団自決をする凄惨な場面が記述されたあとに「そこにあるのは愛である」という文言が唐突であり、いささか驚いた。

 27 日、豪雨の中を米軍の攻撃に追いつめられた島の住民たちは、恩納河原ほか数か所 に集結したが、 28 日敵の手に掛かるよりは自らの手で自決する道を選んだ。一家は或いは、 車座になって手榴弾を抜き或いは力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは 愛であった。この日の前後に 394 人の島民の命が失われた。 その後、生き残った人々を襲ったのは激しい飢えであった。(中略)  315 名の将兵のうち 18 名は栄養失調のために死亡し、 52 名は、 米軍の攻撃により戦死した。 昭和 20  8  23 日、軍は命令により降伏した」

Photo_20240626121301

赤丸が訪ねたところ、黒丸が訪ねたかったところです。

以下の当ブログの過去記事もご覧いただければと。
 冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(5)「アリラン慰霊のモニュメント」をめぐる 2017.02.24

 冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(4)渡嘉敷村の戦没者、集団自決者の数字が錯綜する、その背景 2017.02.22

 冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(3) 2017.02.19

 

伊江島で何が起きていたのか

  2016年6月、本部(もとぶ)港から伊江島に渡っている。島の中央に突起したグスク山を目指し、フェリーで30分の船旅であった。島内は地元出身の運転手さんに案内してもらったが、今やリゾート地としての島、百合の花の島、伊江牛の島が自慢らしかった。

P6212092

 伊江島に米軍が上陸したのは1945年4月16日、六日間の激戦の末、4月21日には占領された。本島に疎開できず残っていた島民の半数近くの1500人、兵士2000人が犠牲となった。米軍は、伊江島の滑走路が何としても欲しかったという。その後、米軍は、「銃剣とブルドーザー」により島民の土地を収用、島民は追い出され、米軍基地がおかれた。一時は全面返還の話もあったが、現在も島の3分の1以上が米軍基地である。その四分の三600ヘクタールの私有地には、防衛省が地代を払い続け、1800人ほどの地主に、毎年16億の予算が付けられている。基地内には「黙認耕作地」というものがあって、耕作地、住宅地にも利用されている。
 なお、案内の運転手は、「地代が年に1000万以上の農家もざらにいるさ」とも話していたが、実際は、6割以上の地主は、100万以下ともいう。また、基地内の私有地が、不動産屋により売買され、「絶対返却されることはない」からと投資の対象にもされている。

 P6212105
 1961年、「伊江島の土地を守る会」が発足、米軍に対する非暴力による抗議運動の根拠地となった団結小屋である。もちろん今は無人で、外壁には、大きな文字で、伊江島の土地を守る会、そしてその運動の中心だった阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう/1901~2002年)からのメッセージが書かれている。

ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(4)伊江島1(2016年 月17日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/07/post-2b26.html

ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(5)伊江島2
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/07/post-4891.html

Photo_20240625152601
 1948年8月6日、米軍の上陸用舟艇に積まれていた未使用砲弾が爆発、島民107名の犠牲者を出した。地上戦で生き残った島民の命が奪われた大惨事であった。

Photo_20240625152502  
苛烈な激戦で、
唯一残骸をさらしている「公益質屋」。1929年の世界恐慌は、島民の暮らしを直撃し、高利貸しに苦しむ村民に、村が設けた質屋であった。

Photo_20240625152501

ガマの一つ、手前の平らな部分が広く、多くの人々が潜んでいた。

Img165

『毎日新聞』(2024年6月20日)の記事では、1943年日本軍は伊江島に飛行場建設を決定、戦況が悪化する中、要塞化を進め、1945年4月16日米軍上陸後は、軍は住民を巻き込み、多くの犠牲者を出した。毎日新聞は、このシリーズで、6月21日は、与那国島出身の大舛松市大尉の戦死を軍神とあがめ、戦意を高揚した同調圧力を、22日には、波照間島の島民が強制避難した先でマラリアに感染、島民の3割に当たる477人が犠牲になったことを報じていた。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 私が6月23日の追悼式に参加したのは2016年だったから、すでに8年も経つ。会場に入るのは二重のチェック、式典後の帰りのバスから見た会場周辺の光景、青い制服の警備スタッフがが延々と続く。安倍首相の時代である。ことしはどうだったのだだろう。

623

623_20240625164401

23

 私のわずかな沖縄体験ながら、沖縄本島はもちろんだが、伊江島、屋我地島、渡嘉敷島を訪ねただけでも、多くを知り、考えさせられることも多々あった。次回は、国立ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」のある屋我地島について書いておきたい。

 

 

| | コメント (0)

2023年11月12日 (日)

知覧、唐突ながら、知覧へ行ってきました

 鹿児島中央駅東口からの東16番の路線バスで、終点特攻観音入口まで、1時間30分ほどかかった。市街地を抜けると、南九州市、知覧へは上り坂が続く。この小旅行で、いちばんつらかったといえば、特攻隊員が出撃の前の数日間を過ごすことになっていた「三角兵舎跡」へとのぼる松林の中の山道であった。今でこそ、階段が整えられ、決して長くはない、この道をのぼる隊員たちの気持ちを思うと胸が痛い。のぼりきった平地は、陽が射さず、コケに覆われ、モグラの仕業か、地面のあちこちがひっくりかえされ、「三角兵舎跡」の碑がひっそり立っているのだった。

2023114  

202314
角兵舎跡への階段、三角兵舎の跡の石碑。

  少し離れた、軍用施設となっていた二軒の旅館から、出撃が間近くなった隊員が、この地の兵舎に移動してくるのだった。さらに、出撃当日は、ふもとにトラックがやってきて、飛行場へと赴いたという。二本の滑走路近くには「戦闘指揮所」があって、「俺も後から行くからな」という上官や女学生たちに見送られて、機上の人となり、二度と帰ることはなかったのである。

 知覧の旧基地の一画には、知覧特攻平和会館(特別攻撃隊戦没者慰霊顕彰会、1987年2月開館)がある。九州、台湾、琉球諸島にあった特攻基地から、1945年4月1日、沖縄本島への上陸米軍への総攻撃が始まり、4月6日の第一次総攻撃から6月21日の第11次総攻撃まで、さらにその前後、とくに、1945年6月23日、牛島満軍司令官の自決をもって、沖縄戦終結後の7月、8月にも、出撃が続いている。その戦没者合わせて1036人の遺影が壁いっぱいに展示され、ケースには遺書や遺品などが並べられている。20歳前後の若者たちが、“志願”の名のもとに、殺されていたかと思うと、遺影とはいえ、彼らの視線には耐えられず、会館を後にするのだった。

Photo_20231112175602
大破した、海軍ゼロ式艦上戦闘機。

Photo_20231112175601
松永篤雄さん(19歳)の辞世「悠久の大義に生きん若櫻唯勇み征く沖縄の空」。

 掩体壕まで案内してくれたタクシーの運転手さんは、「特攻機も、特攻隊員も出撃までは大事にされてたわけですな」の一言には、複雑な思いがよぎるのだった。

2023114_20231112161801
知覧町が、敗戦50年、1995年に建てている。

2023114_20231112161802
掩体壕のめぐらされた土手の高さは4メートルほど。後方には、茶畑が広がる。

 この知覧行には、忘れ難い一件もあった。鹿児島中央駅のバス停で、台湾から来日した若い女性に出会った。上手な日本語で、二カ月の休暇で、北海道から日本を縦断する形で、旅をしてきたという。知覧を最後に、帰国するというのだ。
「日本語はどこで学んだの」には、「塾に通い、あとは独学です」と。「日本に興味を持ったきっかけは」には、「日本のアニメが好きだったのと、池上彰の話を聞いたりして・・・」という。
 知覧特攻平和会館では、ちょうど「鹿児島県の戦争遺跡」という企画展も開かれていることも知っていて、私たちもできれば聞きたいと思っていた、その日の企画展に伴う講座のことを話すと、すでに知っていて、参加するという。かなり調べていて、準備不足だった私など教えられることもあって、その学ぶ意欲に脱帽。日本の台湾旅行者で、ここまで調べている若者がいるかな、と。彼女は、終点の一つ手前の武家屋敷群前で「今日、またどこかで会えるかもしれませんね」とバスを降りていった。

Photo_20231112191501
知覧飛行場跡概略図、『旅の雑誌』(南九州市)より

 

| | コメント (0)

2022年7月 2日 (土)

目取真俊ロングインタビュー「死者は沈黙の彼方に」を聴いた

 初回放送は2021年8月29日だったそうだが、7月2日、NHK沖縄復帰50年シリーズの一環としての再放送だったらしい。マスク越しの目取真の話はやや聞き取りにくいこともあったが、彼の怒りは切々と伝わってきた。NHKの質問者に詰問する場面もあるにはあったが、だいぶ編集されているのではないかとも思われた。
 1960年生まれの彼は、身近な人々が語る戦争体験から想像もつかない凄惨さを知り、多くの人びとが戦争体験を語ることなく、この世を去っていくのを目の当たりにしたという。彼にとって小説とは、彼らの「代弁」というよりは、少しでも「近づく」ことであると力説していたように思う。
 番組での「水滴」などの朗読は、沖縄出身の津嘉山正種によるものだったが、あの思い入れたっぷりの、重々しい演技と声は、私には、むしろ聞き苦しかった。というより、もっと淡々と朗読した方が、聞き手には、届きやすかったのではないか。 
 いや、それ以上に、目取真のインタビューというならば、「こころの時代 宗教・人生」という番組ではなく、行動する小説家に至った過程をもっと丹念に追跡する番組にしてほしかった。辺野古での基地反対活動のさなかに逮捕(2016年)されたことや天皇制と真正面に取り組んだ数少ない小説「平和通りと名付けられた街を歩いて」(1986年)などに触れるべきではなかったのか。「こころ」の問題、宗教?に集約してしまうのが、NHKの限界?だったと済ましてしまってよいのか。
 番組では、去年の6月23日、慰霊の日に「国頭支隊本部壕・野戦病院跡」を訪ね、供え物をしていた場面で、傷ついた兵士たちには手りゅう弾が手渡され、放置されたことが語られていた。彼は、今年も、平和祈念公園の追悼式典には参加せず、本部町の八重岳にある「三中学徒之碑」と「国頭支隊本部壕・野戦病院跡」を訪ねたとブログ「海鳴りの島から」に記されていた。(以下参照)
沖縄戦慰霊の日/本部町八重岳の「三中学徒之碑」と「本部壕・病院壕跡」

https://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/aada4eefbafc810d153c75d719f8b102?fm=entry_awp 2022-06-23 23:43:23 

 また、私は一度だけ、数年前に、目取真俊の講演会に出かけたことがある。(以下参照)

目取真俊講演会に出かけました(2018年7月16日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/07/post-a28a-1.html

| | コメント (0)

2022年6月29日 (水)

自衛隊の「黎明の塔」参拝中止は何を語るのか

 沖縄には、まだ行かねばならない場所がたくさんあり、コロナ禍や当方の体調もあって、諦めるほかないないと、気持ちはあせる。今年の慰霊の日も、家で黙祷するほかなかった。

 翌日の『琉球新報』デジタルによれば、陸上自衛隊第15旅団の幹部らが、慰霊の日の明け方に「黎明の塔」に参拝するのが、2004年来の恒例行事だったが、今年は中止、「確認」できなかったというもの。従来から、自衛隊サイドは、あくまでも私的な参拝であって、組織的なものではないと言い続けてきたが、6月9日、『琉球新報』は、ある活動家の情報公開によって 「私的に(制服着用)黎明之塔を含む各施設に慰霊を実施」という報告文書が防衛省陸上自衛隊幕僚監部の陸幕長、陸幕副長、人事教育部長に共有されていたことが判明し、決裁欄には「報告」「部長報告後呈覧」などの記載があったことを報じていた。

Photo_20220629163901
公開された文書、『琉球新報』(2022年6月9日)より。

 「黎明の塔」とは何か。沖縄県と南西諸島の守備に任じられた第32軍司令官の牛島満(大将)と参謀長の長勇(中将)の慰霊のための塔で、糸満市摩文仁の丘の平和祈念公園の85高地と呼ばれる崖の上に、1952年、元部下や関係者によって建てられている。

Photo_20220629130901

 地図で見るように、「平和の礎」以外にもさまざまな慰霊碑が建てられている。この塔の参拝が、なぜ問題なのかといえば、一つは、1945年4月1日米軍の本島上陸以降、住民を巻き込んだ凄惨な地上戦は、天皇・軍部の意向を受けて、犠牲者は拡大した。さらに、第32軍司令部は、1945年5月下旬、首里城の地下壕から轟壕を経て、この地まで追い詰められた末、高台の壕から、6月19日、牛島は最後の軍命令「最後まで戦闘し、悠久の大義に生くべし」とゲリラ戦を指示した。6月22日には、大本営は組織的戦闘終結を発表、23日には、この壕内で牛島と長が自決したという経緯がある。本土の軍部、32軍司令部の状況判断に大きな誤りが、島民の四分の一が犠牲になったという悲劇をもたらしたという怨念がある。
 さらに、戦後の自衛隊がかつての軍隊の組織や体質の改革がなされていないという実態と不信感が島民、ひろく国民の間に根付いているからではないか。

 個人的には三回ほどのわずかな沖縄訪問、短い年月ながら『琉球新報』の購読を経て、理解できることもあったが、まだ知らないことが圧倒的に多い。

 今回は、一個人の情報公開によってはじめて確認された事実、なぜ、地元や全国紙・誌などのマス・メディアや研究者が見逃してきたのだろうか。
 国会論議にしても、『週刊文春』のスキャンダル報道によって、敵失に追い込んだつもりの情けなさ、政党への助成金、議員の調査研究費は、どんな使われ方をしてきたのか、国民は監視しなければならない。
 昨夜、この記事をアップしようとしたが、睡魔に勝てず、きょうになった。今朝の『東京新聞』の「こちら特報部・ニュースの追跡」で「陸自、未明の参拝確認されず/「沖縄慰霊の日」18年間続いていたが・・・」の記事が目についた。

2022623
6月24日『琉球新報』より。6月23日未明、これだけの報道陣が待機する中、中止に追い込まれたのは、9月に控えた知事選に配慮してか、の報道もある。

201411gedc4281-1
「黎明の塔」と向き合った、壕の脇には軍人・軍属をまつった「勇魂の碑」がある。2014年11月撮影。当時、修学旅行生は、平和の礎、資料館あたりまでで、険しい階段を上ってくる人はいなかった。眼下に見下ろす海と崖、崖の茂みの中にはまだ収集されない遺骨もあるという。

Photo_20220629135001

2014年11月、黎明の塔を訪ねた折のレポートに以下があります。
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/11/20141111146-f07.html

 

 

 

 

| | コメント (0)

2021年4月11日 (日)

沖縄「一中健児の塔」を「顕彰碑」とした歴史教科書が検定を通過?!

 4月3日の『東京新聞』によれば、沖縄戦に動員された沖縄県立一中の学徒隊の慰霊碑が、「顕彰碑」と紹介され、戦争を美化するような表記がある教科書が、文科省の検定をパスしていたというのだ。2022年度から使用される高校の新しい科目「歴史総合」の教科書(明成社)は、とくに問題がないと検定をパスしていたが、報道機関や元学徒らの抗議、訂正の要請を受け、出版元は訂正の意向を示しているという。

明成社:日本会議メンバーの著作を多く出版。2002年の検定にパスした地理や日本史の高校教科書での「竹島は日本の領土で、韓国が不法占拠」との記述に対して韓国政府から抗議を受けた。私の手元には『天皇陛下と沖縄』(日本会議事業センター編 明成社 2012年)がある。

 この記事に接して思い出したことがある。

 私が初めて那覇空港に降り立ったのは、2014年11月、ちょうど沖縄県知事選挙・那覇市長選挙戦が終盤に差し掛かっていたときだった。ゆいレールへの陸橋を渡るときには、すぐ下で「オール沖縄で<建白書>実現を」の横断幕をつけた宣伝カーからオナガ支持を訴えていたし、どこからか「オナガ夫人が城間市長候補の応援に駆けつけました」との声も風に乗って届くのだった。翌日、最初に向かったのが首里城だった。ゆいレールの終点首里駅の周辺には「共産党支配のオール沖縄!!」という明らかな選挙妨害のノボリが、あちこちの電柱に括りつけられ、選挙戦の激しさを物語っていた。

 首里城の長くて、高い城壁は壮観だった。あの守礼門、そして、中庭を囲む絢爛たる正殿・南殿・北殿に圧倒されたことを思い出す。2019年10月、なんとそのほとんどが炎上してしまったというニュースには驚かされたのだった。

 Photo_20210410234401

 201411_20210410234501

  その首里城と玉陵を見学した後、立ち寄ったのが、現在の首里高校とは道を隔てて、少し入ったところの首里高校同窓会館に接して建てられた「一中健児之塔」1950年4月建立)であった。

 2014

 2014_20210410234301

 同窓会館の2階には「一中学徒隊資料展示室」(2005年12月開設)がある。その展示によれば、1945年、沖縄県立第一中学校では3月27日卒業式が行われた後、3~5年生を中心に鉄血勤皇隊に動員された者約144名、2年生を中心に通信隊に動員された者110名、4月19日養秀尞が艦砲弾で全焼、軍と共に南部へ撤退し、犠牲者は続出、289名を数える、という。

 201411

  沖縄戦における学徒隊の動員は、兵力の不足を補うため、すべての中学校、高等女学校の生徒を対象とし、男子が14歳から19歳、女子は15歳から19歳の生徒で編成された。一中の生徒たちは、第32軍司令部の直轄部隊の各部に配属されていた。展示室には、爪や遺髪などの遺品、遺書、遺影、追悼集のほか、焼失前の校舎や教室の写真、教科書なども並び、学び続けたかったであろう学園生活の一端も伝えていた。

 私にとって、最も印象深かったのは、ずらりと並んだ、生徒たちの遺影であった。どれもみんな幼く、はにかんだような表情を見せる少年たちは、一見、やさしくも思えたのだった。わずかに残された写真から、拡大し、トリミングした顔写真が並ぶ。ぼやけているものも多いし、なかには、幼少時の写真が掲げられているものもある。見学を終えて、展示室を出ようと、何気なく振りかえったとき、その少年たちの視線は、いっせいに私に向けられ、悲しくも、鋭く、懸命に訴えるようにも思えたのだった。犠牲者の家族も全員亡くなって、写真一枚も見出せず、遺影がないままの生徒もいるという。

201411_20210410234201

上記の写真は。いずれも2014年11月11日、筆者撮影。展示室内の写真撮影は不可であった
下記の写真は、『養秀ニュース』56号(2016年10月)から拝借。家族にあてた遺書。教官が生徒らに遺書を書かせ、二つの壺に収められたものが地中から発見され、修復されたものの一部が展示されている

Img_1331

 なお、沖縄戦における学徒隊の全貌は、沖縄県子ども生活福祉部保護・援護課の下記のホームページに詳しいです。下記の画像はその一部です。拡大してみてください。

file:///C:/Users/Owner/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/XLUAEPA6/0106220gakuto21.pdfImg108

 

 

| | コメント (0)

2020年6月24日 (水)

きのうは、沖縄の「慰霊の日」、4年前のあの日

Dscn0435
2016年6月23日、平和の灯は、かすかに炎をあげていた

P6232177                                    
2016年6月23日、平和の礎、こんな光景があちこちで見られた

  あの日私たちが乗った那覇の県庁前から出るシャトルバスは、だいぶ早めだったので、空席もあった。2016年6月23日は、摩文仁の丘の真夏の日差しも広がる海もまぶしかった。私は二度目の平和の礎だったが、追悼式に参列するのは初めてだった。会場に入るのに、ボディチェックのゲートを通る。テント内の席は早めに陣取ったのだが、なにせ演壇には遠い。前の方は、県内外の要人や遺族会の方々のために、確保されていたのである。元気なころの翁長知事の声は聞こえたが、遠くて、かろうじて頭だけが見えるだけだった。安倍首相の挨拶は、まるで判で押したようで、印象に残らない。

Dscn0446 

Photo_20200624155201
2016年6月23日、追悼式会場、翁長知事の挨拶

  追悼式のあとは、平和公園内のさまざまな慰霊碑を回り、第32軍の牛島満司令官らが追い詰められ、自決したという高台まで登ってみた。見下ろせば鬱蒼とした崖が海にまでなだれ、多くの犠牲者の遺骨が、いまだ放置されているという。

 この、最後の司令部跡のわずかな敷地に「黎明の塔」という旧陸軍の顕彰碑があり、毎年6月23日未明には、地元の陸上自衛隊第15旅団の幹部たちが参り、批判を浴びている。今年も30人ほどが制服で参拝したが、あくまでも個人的な参拝であって往復の交通費も花束も私費であったとのことである(『沖縄タイムズ』2020年6月24日)。閣僚や議員の靖国神社参拝と同じような構図なのだろう。

2020623

2020年6月23日未明、「黎明の塔」前の自衛隊員たち

 

 例年は5000人規模の追悼式だが、今年は、200人規模に縮小、主催者発表によれば161人の参加者で行われ、テント内では、距離を置いたイスに、ポツンポツンと参加者が座っている映像が流れた。いつもは罵声を浴びせられる安倍首相は、ビデオメッセージでの挨拶となり、会場に行かなくていい口実が出来てほっとしているかもしれない。

 それにしても、イージスアショア導入を停止をするならば、地元の建設自体反対の民意を押し切って、欠陥だらけの工事を進める政府は、直ちに辺野古新規市建設を中止すべきではないのか。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

24時間営業 CIA NHK TPP すてきなあなたへ アメリカ イギリス インターネット ウェブログ・ココログ関連 オランダ オリンピック オーストリア ジェンダー スイス ソ連邦・ロシア チェコ デンマーク ドイツ ニュース ノルウェー パソコン・インターネット フェルメール フランス ベルギー ボランティア ポーランド マイナンバー制度 マス・メディア マンション紛争 ミニコミ誌 ムハ ミュシャ ラジオ・テレビ放送 世論調査 住民自治会 佐倉市 医療 千葉市 千葉県 原子力 原発事故 古関裕而 台湾 台湾万葉集 吉野作造 喫茶店 図書館 国民投票法案 土地区画整理事業 地方自治 地震_ 大店法 天皇制 女性史 寄付・募金 年金制度 憲法 憲法9条 成田市 戦争 戦後短歌 教科書 教育 文化・芸術 旅行・地域 旅行・文化 日本の近現代史 日記・コラム・つぶやき 映画 映画・テレビ 書籍・雑誌 朗読 東京大空襲 東日本大震災 栄典制度 横浜 歌会始 池袋 沖縄 消費税 災害 災害_ 特定秘密保護法 環境問題_ 生協活動 短歌 社会福祉協議会 社会詠 福祉 租税 紙芝居 経済・政治・国際 美術 美術展 航空機騒音 薬品・薬局 表現の自由 裁判・司法制度 規制緩和 趣味 農業 近代文学 道路行政 選挙 都市計画 集団的自衛権 韓国・朝鮮 音楽 高村光太郎