2022年6月29日 (水)

自衛隊の「黎明の塔」参拝中止は何を語るのか

 沖縄には、まだ行かねばならない場所がたくさんあり、コロナ禍や当方の体調もあって、諦めるほかないないと、気持ちはあせる。今年の慰霊の日も、家で黙祷するほかなかった。

 翌日の『琉球新報』デジタルによれば、陸上自衛隊第15旅団の幹部らが、慰霊の日の明け方に「黎明の塔」に参拝するのが、2004年来の恒例行事だったが、今年は中止、「確認」できなかったというもの。従来から、自衛隊サイドは、あくまでも私的な参拝であって、組織的なものではないと言い続けてきたが、6月9日、『琉球新報』は、ある活動家の情報公開によって 「私的に(制服着用)黎明之塔を含む各施設に慰霊を実施」という報告文書が防衛省陸上自衛隊幕僚監部の陸幕長、陸幕副長、人事教育部長に共有されていたことが判明し、決裁欄には「報告」「部長報告後呈覧」などの記載があったことを報じていた。

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公開された文書、『琉球新報』(2022年6月9日)より。

 「黎明の塔」とは何か。沖縄県と南西諸島の守備に任じられた第32軍司令官の牛島満(大将)と参謀長の長勇(中将)の慰霊のための塔で、糸満市摩文仁の丘の平和祈念公園の85高地と呼ばれる崖の上に、1952年、元部下や関係者によって建てられている。

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 地図で見るように、「平和の礎」以外にもさまざまな慰霊碑が建てられている。この塔の参拝が、なぜ問題なのかといえば、一つは、1945年4月1日米軍の本島上陸以降、住民を巻き込んだ凄惨な地上戦は、天皇・軍部の意向を受けて、犠牲者は拡大した。さらに、第32軍司令部は、1945年5月下旬、首里城の地下壕から轟壕を経て、この地まで追い詰められた末、高台の壕から、6月19日、牛島は最後の軍命令「最後まで戦闘し、悠久の大義に生くべし」とゲリラ戦を指示した。6月22日には、大本営は組織的戦闘終結を発表、23日には、この壕内で牛島と長が自決したという経緯がある。本土の軍部、32軍司令部の状況判断に大きな誤りが、島民の四分の一が犠牲になったという悲劇をもたらしたという怨念がある。
 さらに、戦後の自衛隊がかつての軍隊の組織や体質の改革がなされていないという実態と不信感が島民、ひろく国民の間に根付いているからではないか。

 個人的には三回ほどのわずかな沖縄訪問、短い年月ながら『琉球新報』の購読を経て、理解できることもあったが、まだ知らないことが圧倒的に多い。

 今回は、一個人の情報公開によってはじめて確認された事実、なぜ、地元や全国紙・誌などのマス・メディアや研究者が見逃してきたのだろうか。
 国会論議にしても、『週刊文春』のスキャンダル報道によって、敵失に追い込んだつもりの情けなさ、政党への助成金、議員の調査研究費は、どんな使われ方をしてきたのか、国民は監視しなければならない。
 昨夜、この記事をアップしようとしたが、睡魔に勝てず、きょうになった。今朝の『東京新聞』の「こちら特報部・ニュースの追跡」で「陸自、未明の参拝確認されず/「沖縄慰霊の日」18年間続いていたが・・・」の記事が目についた。

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6月24日『琉球新報』より。6月23日未明、これだけの報道陣が待機する中、中止に追い込まれたのは、9月に控えた知事選に配慮してか、の報道もある。

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「黎明の塔」と向き合った、壕の脇には軍人・軍属をまつった「勇魂の碑」がある。2014年11月撮影。当時、修学旅行生は、平和の礎、資料館あたりまでで、険しい階段を上ってくる人はいなかった。眼下に見下ろす海と崖、崖の茂みの中にはまだ収集されない遺骨もあるという。

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2014年11月、黎明の塔を訪ねた折のレポートに以下があります。
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/11/20141111146-f07.html

 

 

 

 

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2021年4月11日 (日)

沖縄「一中健児の塔」を「顕彰碑」とした歴史教科書が検定を通過?!

 4月3日の『東京新聞』によれば、沖縄戦に動員された沖縄県立一中の学徒隊の慰霊碑が、「顕彰碑」と紹介され、戦争を美化するような表記がある教科書が、文科省の検定をパスしていたというのだ。2022年度から使用される高校の新しい科目「歴史総合」の教科書(明成社)は、とくに問題がないと検定をパスしていたが、報道機関や元学徒らの抗議、訂正の要請を受け、出版元は訂正の意向を示しているという。

明成社:日本会議メンバーの著作を多く出版。2002年の検定にパスした地理や日本史の高校教科書での「竹島は日本の領土で、韓国が不法占拠」との記述に対して韓国政府から抗議を受けた。私の手元には『天皇陛下と沖縄』(日本会議事業センター編 明成社 2012年)がある。

 この記事に接して思い出したことがある。

 私が初めて那覇空港に降り立ったのは、2014年11月、ちょうど沖縄県知事選挙・那覇市長選挙戦が終盤に差し掛かっていたときだった。ゆいレールへの陸橋を渡るときには、すぐ下で「オール沖縄で<建白書>実現を」の横断幕をつけた宣伝カーからオナガ支持を訴えていたし、どこからか「オナガ夫人が城間市長候補の応援に駆けつけました」との声も風に乗って届くのだった。翌日、最初に向かったのが首里城だった。ゆいレールの終点首里駅の周辺には「共産党支配のオール沖縄!!」という明らかな選挙妨害のノボリが、あちこちの電柱に括りつけられ、選挙戦の激しさを物語っていた。

 首里城の長くて、高い城壁は壮観だった。あの守礼門、そして、中庭を囲む絢爛たる正殿・南殿・北殿に圧倒されたことを思い出す。2019年10月、なんとそのほとんどが炎上してしまったというニュースには驚かされたのだった。

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  その首里城と玉陵を見学した後、立ち寄ったのが、現在の首里高校とは道を隔てて、少し入ったところの首里高校同窓会館に接して建てられた「一中健児之塔」1950年4月建立)であった。

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 同窓会館の2階には「一中学徒隊資料展示室」(2005年12月開設)がある。その展示によれば、1945年、沖縄県立第一中学校では3月27日卒業式が行われた後、3~5年生を中心に鉄血勤皇隊に動員された者約144名、2年生を中心に通信隊に動員された者110名、4月19日養秀尞が艦砲弾で全焼、軍と共に南部へ撤退し、犠牲者は続出、289名を数える、という。

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  沖縄戦における学徒隊の動員は、兵力の不足を補うため、すべての中学校、高等女学校の生徒を対象とし、男子が14歳から19歳、女子は15歳から19歳の生徒で編成された。一中の生徒たちは、第32軍司令部の直轄部隊の各部に配属されていた。展示室には、爪や遺髪などの遺品、遺書、遺影、追悼集のほか、焼失前の校舎や教室の写真、教科書なども並び、学び続けたかったであろう学園生活の一端も伝えていた。

 私にとって、最も印象深かったのは、ずらりと並んだ、生徒たちの遺影であった。どれもみんな幼く、はにかんだような表情を見せる少年たちは、一見、やさしくも思えたのだった。わずかに残された写真から、拡大し、トリミングした顔写真が並ぶ。ぼやけているものも多いし、なかには、幼少時の写真が掲げられているものもある。見学を終えて、展示室を出ようと、何気なく振りかえったとき、その少年たちの視線は、いっせいに私に向けられ、悲しくも、鋭く、懸命に訴えるようにも思えたのだった。犠牲者の家族も全員亡くなって、写真一枚も見出せず、遺影がないままの生徒もいるという。

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上記の写真は。いずれも2014年11月11日、筆者撮影。展示室内の写真撮影は不可であった
下記の写真は、『養秀ニュース』56号(2016年10月)から拝借。家族にあてた遺書。教官が生徒らに遺書を書かせ、二つの壺に収められたものが地中から発見され、修復されたものの一部が展示されている

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 なお、沖縄戦における学徒隊の全貌は、沖縄県子ども生活福祉部保護・援護課の下記のホームページに詳しいです。下記の画像はその一部です。拡大してみてください。

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2020年6月24日 (水)

きのうは、沖縄の「慰霊の日」、4年前のあの日

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2016年6月23日、平和の灯は、かすかに炎をあげていた

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2016年6月23日、平和の礎、こんな光景があちこちで見られた

  あの日私たちが乗った那覇の県庁前から出るシャトルバスは、だいぶ早めだったので、空席もあった。2016年6月23日は、摩文仁の丘の真夏の日差しも広がる海もまぶしかった。私は二度目の平和の礎だったが、追悼式に参列するのは初めてだった。会場に入るのに、ボディチェックのゲートを通る。テント内の席は早めに陣取ったのだが、なにせ演壇には遠い。前の方は、県内外の要人や遺族会の方々のために、確保されていたのである。元気なころの翁長知事の声は聞こえたが、遠くて、かろうじて頭だけが見えるだけだった。安倍首相の挨拶は、まるで判で押したようで、印象に残らない。

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2016年6月23日、追悼式会場、翁長知事の挨拶

  追悼式のあとは、平和公園内のさまざまな慰霊碑を回り、第32軍の牛島満司令官らが追い詰められ、自決したという高台まで登ってみた。見下ろせば鬱蒼とした崖が海にまでなだれ、多くの犠牲者の遺骨が、いまだ放置されているという。

 この、最後の司令部跡のわずかな敷地に「黎明の塔」という旧陸軍の顕彰碑があり、毎年6月23日未明には、地元の陸上自衛隊第15旅団の幹部たちが参り、批判を浴びている。今年も30人ほどが制服で参拝したが、あくまでも個人的な参拝であって往復の交通費も花束も私費であったとのことである(『沖縄タイムズ』2020年6月24日)。閣僚や議員の靖国神社参拝と同じような構図なのだろう。

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2020年6月23日未明、「黎明の塔」前の自衛隊員たち

 

 例年は5000人規模の追悼式だが、今年は、200人規模に縮小、主催者発表によれば161人の参加者で行われ、テント内では、距離を置いたイスに、ポツンポツンと参加者が座っている映像が流れた。いつもは罵声を浴びせられる安倍首相は、ビデオメッセージでの挨拶となり、会場に行かなくていい口実が出来てほっとしているかもしれない。

 それにしても、イージスアショア導入を停止をするならば、地元の建設自体反対の民意を押し切って、欠陥だらけの工事を進める政府は、直ちに辺野古新規市建設を中止すべきではないのか。

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2019年11月 4日 (月)

首里城焼失、「心を一つに再建を」への不安

 私が初めて沖縄を訪ねたのは2014年11月11日だった。ホテルに荷を預け、最初に向かったのが首里城だった。長くて高い城壁を見上げながら進んで、歓会門から入り、いくつかの門をくぐり、奉神門からは有料ということであった。中庭から南殿、正殿、北殿と順路に沿って回ったのだが、建物といい、調度品といい、日本とは違う、その絢爛豪華さには、目を見張るものがあった

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正殿と南殿の間から中庭と北殿をのぞむ

 米軍による空襲で、跡形もなく灰塵に帰したあと、1992年大方が完成し、まだ、復元は続いているときいた。外形は、中国風もあり、日本風もあり、正殿には双方折衷の跡がたどれるという。屋内は撮影禁止なので、うまく伝えられない。しかし、私には、その内装は琉球王国の、ただ、ただ絢爛たる印象が強烈だった。当時の思いは、当ブログにも記したが、その印象はいまでも変わりはない。

2014年11月19日 (水)沖縄の戦跡を歩く~遅すぎた<修学旅行>2014年11月11日~14日(2)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/11/20141111142-57f.html

  今回の火災では、主な建築物7棟が全焼し、調度品・収蔵品・資料なども焼失してしまったという。復元への道のりは、もちろんカラー写真はなく、設計図などの資料が残されていなかったので困難を極め、人々の叡知と労力の賜物だったことを知ると、多くの県民の喪失感には、私たちには計り知れないものがあるのかもしれない。

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『琉球新報』(11月2日)「首里城焼失 国が防火設備撤去 安全管理のに通しの甘さ浮き彫り」の記事より。今回の火災時に水が吹き出る装置ドレンチャーは作動したが、「放水銃」は熱気のため作動できなかったという。

  一方、この首里城の地下には、1945年3月の空襲激化に伴い、移転してきた第32軍司令部があった。 この地下壕は、地下30m以上、坑道は1000mにも及ぶという。1945年4月1日、米軍の本島上陸後の攻撃により、司令部は、5月22日には、南部の摩文仁への再度の移転が決定した。以降、軍民混在のままの悲惨な敗退で、多くの犠牲者を出している。司令官であった牛島満陸軍中将は、降伏を拒み、戦災と死者をさらに拡大していった。これらの経過は、2012年2月に設置された司令部跡の説明板にも、以下のように記されている。 

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  なお、つぎの「壕内のようす」の説明文については、歴史研究者の委員たちが執筆した原稿が、県によって一方的に了解なく、削除された部分があり、県議会などでも問題になったというが、現在も、そのままで、修正されていないそうだ。3行目、「女性軍属、慰安婦などが」との案文から「慰安婦」が削除され、この案文の最後に続いていた「司令部壕周辺では、日本軍に〈スパイ視〉された沖縄住民の虐殺などもおこりました」が削除されたのである。(『沖縄の戦跡ブック・ガマ』改訂版 沖縄県高教組教育資料センタ―『ガマ』編集委員会編 2013年) 

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 そんなことを考えていると、復元された首里城は、沖縄を、沖縄文化を象徴する存在ではあるかもしれないが、マス・メディアが口にする「沖縄の平和の象徴」ではありえないのではないか。たとえば、河野防衛大臣は、嘉手納基地での夜間のパラシュート降下訓練は日米協議事項、違反だと抗議したが、無視されたままなのである。こんな時こそ、呼びつけて「無礼者?!」とも言うべきではなかったか。いや、それ以前に、日米安保体制下の地位協定の名のもとにアメリカに従属するばかりで、沖縄の米軍基地は、いわば使い放題の上、沖縄県民の権利と生活を脅かし続けているにもかかわらず、日本政府は、アメリカに「寄り添い」続けているではないか。そんな政府と「心を一つに首里城の再建を」「再建に心を寄せ合って」と言われても、不安を感じてしまうのは、私だけだろうか。「再建」に政府は、なにほどのことをするのだろう。選挙や県民投票にあらわれた民意に耳を傾けようともしない政府が、この「首里城再建」を基地問題の対立にからめて利用するのではないかという不安に駆られてしまう。玉城知事は、本土復帰50年にあたる2022年をめどに具体化したいと表明している。

Photo_20191104021101 『毎日新聞』(11月2日)11月1日首相官邸にて。会談は冒頭のみ公開され、玉城知事は「県民の心のよりどころである首里城は必ず再建しなければいけない」と強調。菅氏も「政府として財政措置も含めてやれることは全てやる。一日も早く再建に向けて全力で取り組む」と約束した。 玉城知事は、復帰50年にあたる2022年には具体的な計画を表明したいとしている。焼失前の復元については33年間で総計240億円がかかったとしている。

 

 

 

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2019年6月12日 (水)

いまの歌壇はどうなっているのか~1960年前後の短歌・歌人たちを振り返る(3)1959年(続)

短歌研究1959年6月号/7月号/8月号/9月号                  

社会問題、天皇制からの切り口へ
 1959年の後半も「主題制作」と「長期連作」の企画は続き、「連載短歌」は吉井勇、生方たつゑ、塚本邦雄に代わって、5月号からは、佐藤佐太郎「北の海」「佛桑華」「雨季」、斎藤史「密閉部落Ⅰ~Ⅲ」が始まっていた。また、6月号からは、<未発表歌集シリーズ>という新企画が始まる。第一弾が木俣修青春歌集「市路の果」152首(1928年3月~1931年6月)は、北原白秋系の『香蘭』時代の作品が中心で、木俣は、1935年6月には白秋創刊『多磨』に参加している。8月号は、前川佐美雄青春歌集「”春の日”以前」150首(1920~1925年)であった。

・教室をおはれし友はつひにまた會ふはなからむと重々といふ
・とめどなく思ひまよふ十行に足らぬ履歴を紙にしるして
(木俣修「市路の果」『短歌研究』1959年6月)

・野の駅に汽車待ちをれば少女子が和えに雨に濡れ来て川をたためり
・俄雨に合歓の花散る草山をから傘すぼめてわれら行くなる
(前川佐美雄「”春の日”以前」『短歌研究』1959年8月

・落人は笛の音のごとく痩せながら空よるべなくさまよひにけり
・とほき歴史のかたより落つ聲かともはるかにたかし 天上の雁
(斎藤史「密閉部落Ⅱ」『短歌研究』1959年6月)

 また、6月号で目についたのは、竹山広(1920~2010)の作品だった。
・ものかげに潜みて燠を吹くごときくるしき愛をわれら遂げきつ
・朝来てなほ生ける脈しるしゆく残るくるしみをはかり見むため
(竹山広「ルルドの水」『短歌研究』1959年6月)  

 竹山の『心の花』に復帰直後の発表作で、長崎で結核療養中に被爆、兄を失い、長い空白の後、被爆体験の作品を出版したのは、1981年、第一歌集『とこしへの川』であったのである。 

 7月号・8月号には、「短歌による社会時評」があり、7月号の吉田漱「皇室ブーム」、井伊文子「今日の沖縄」、君島夜詩「北鮮帰還」は、歌人による時評であった。8月号のそれは、勤評闘争のさなかの教師の短歌、少年院や女子刑務所の入所者の短歌、ハンセン病者の短歌、労働者の短歌を現場に近い歌人が紹介する形をとる。私が注目したのは、吉田による、皇太子結婚への慶祝短歌の背景を分析したもので、大きく皇室への関心層と無関心層に分け、前者には、もっとも時流に敏感で、警職法反対と奉祝歌が同居できる「率先型」から懐疑型、傍観型、憧れ型、天皇制自体には決定的な意見を持たない良心型、天皇制廃止の抵抗型などに分けているのが辛辣であった。つぎのような結語部分は重大な指摘であったと、いまさら思う。
「天皇制、皇室、国家、これらの、ふりかえりが、本当にまだ各々のうちで、不十分なところに、実は問題があるので、その大きな大衆層は、いつたいどういうものかの分析、「保守的ムード」の検討、マスメデアに対する考察、ひいては世界の機構、国家の位置に目がとどかぬかぎり、今回のようなブームはきわめて容易におこる」

 前後するが、前記事の5月号の秋村功「道化師を操るもの」の反響として、6月号の「読者の批評」欄には、2件の投稿があった。秋村・吉田のいう「皇室ブーム」について共感し、皇室ブームへの疑問や違和感を持つ人たちが、声を上げていたことの証ではないか。その一つは、秋村の「皇室のプライベートな慶事がそのまま庶民のめでたさに通じるかのごとく錯覚させるむなしい報道」や「日本文学の源泉である短歌」と、歌会始にのぞむ選者たちは「誰かが作りあげた筋書きの上で踊つている悲しい道化であるかもしれない」とする主旨に対して、重要な問題を投げかけているとして、「文学の将来を左右するような切実な問題に、目を蔽って見すごすことは、とりも直さず“戦前“の愚を再びおかそうとする危険なしとしないからだ」「伝統があるから尊いのではなく、その発展を求めてこそ伝統は生き継がれるので、未来に通(じ)る詩でなくては伝統も死に絶えて終う」と訴えていたことも目に留まった。寄稿は、「大阪市 片山碩」となっていた。『覇王樹』の1960年代の同人だったらしい。
 皇太子の結婚をきっかけとしたミッチーブーム、皇室ブームへの歌壇の反応は、天皇制自体への疑問と危機感を率直に吐露している編集者、執筆者も、読者も、実に健全であったことを示しているのではないか。現在の天皇の代替わりをきっかけに、当然論議されるべきであった課題を、野党もメディアも歌人も、スルーして、奉祝ムードになだれ込んでいる実態を目の当たりにして、いっそうその感を強くした。
 また、歌人であり、琉球王家、尚家出身の井伊文子(1917~2004)の「今日の沖縄」は、当時、沖縄の情報が少ないなか、貴重なレポートであったと思う。中野菊夫や吉田漱らとともに、短歌を通じて沖縄と本土と数少ないパイプの役割を果たしたことは見逃せない。
 さらに、8月号の斉木創(香川県青松歌人会、1914~1995)による「H氏病者の現状」は、ハンセン病者の短歌が盛んになった昭和初期、「療園と皇室との紐帯は周知のように、極めて厳密な格別の庇護のもとにあり」、数知れないご慈悲に守られ、“聖恩感謝”の思想」は、病者にとっては血肉化された金科玉条であった、と書き起こされる。斉木は、自作「厳かしき世代におはし来て天皇は癩の上にすらやさしかりける」を引いて、昭和天皇の1950年、四国視察の際の「あな悲し病忘れて旗をふる人の心のいかにと思へば」に応えた過去のさまざまな呪縛から放たれ、意識変革をもたらしたのは民主憲法であったと述べながらも、現実の厳しさ、レプラ・コンプレックスを取り払う道を探ろうとする。斉木は、らい予防法が撤廃される1996年を目前に亡くなっている。
 なお、9月号の五十首詠では、特選は、山口雅子「春の風車」、石井利明「座棺土葬」であったが推薦作3人の内の一人に新井節子「流離の島」があったことにも着目したい。新井は、沖縄県屋我地島の国立療養所沖縄愛楽園に暮らすハンセン病者であり、その作品は、つぎのようなものだった。
・離れ島の中また隔つ境界の並木に日暮れの風こもり鳴る
・爆撃に皹破れし窓揺さぶりて北風酷薄の日を育ち来ぬ

(新井節子「流離の島」『短歌研究』1959年9月)

 なお、この年の5月号にさかのぼるのだが、中野菊夫「署名簿」(20首)は、私が近年知ることになる、ハンセン病者とされて、殺人事件の容疑者(熊本県の菊池恵楓園入所者)が最高裁まで争った「菊池事件」を詠んだ連作である。死刑が確定したのが1957年9月、直後に「救う会」が発足し、再審、助命嘆願、特赦など様々な運動を展開したが、1962年9月には、死刑が執行されたのである。中野は、事件自体にも冤罪ではないかという疑問、裁判制度への怒りをあらわにして、死刑確定後の被告にも面会し、恩赦申請の署名活動を進めていた。中野は、前述のように、早くより、ハンセン病者の短歌指導も積極的に行っていた。作品にある「隔離裁判」とは、感染などを理由に、ハンセン病者が裁判所以外の「特別法廷」でなされた裁判のことで、最高裁は、2016年になって、その特別法廷は法の下の平等な裁判を受ける権利を侵して違法であることを認め、謝罪している。1996年「らい予防法」の廃止後も、ハンセン病者や家族への差別は依然と根強く、「菊池事件」の再びの再審請求もいまだ続いている。現代においても、皇族のハンセン病者に「寄り添う」姿が、ことさら強調されるということは、何を意味しているのだろうか。
・隔離裁判なしたる狭き法廷に椅子ありうすく埃かぶりて
・ライを忌み親しきすら詳言をなさざりき偏見は今も變らず
・無力にして皇太子結婚をいまは待つ君の恩赦をたのめるがため
(中野菊夫「署名簿」『短歌研究』1959年5月)

 なお、8月号には、1956年の五十首詠特選となった小崎碇之介(『ポトナム』同人、1918~1995)が、「焱と死者の街」(53首)を発表している。小崎は、船員で、公務のため門司に赴く途中、広島駅近くの壕で仮眠中に被爆するが、助かった直後に綴った作品で、14年間、筐底に秘めていたという。GHQの占領下では、原爆に言及する出版物には極めて厳しい検閲がなされていたので、その後も、多くの歌人たちは出版には慎重だった時期でもある。
・まなぶたを刺す閃光にまどろみの覚めき砂零る壕におびえて
・雨昏く火の街にふり死者へふり生者をうちて心狂はしむ
(小崎碇之介「焱と死者の街」『短歌研究』1959年8月)

短歌研究1959年10月号/11月号

<未刊歌集>という方法

 10月号の未刊歌集は、斎藤史の「杳かなる湖」(87首、1943~45年、1946年)であった。1946年分は、歌文集『やまぐに』(臼井書房 1947年7月)に収めたと、「あとがき」には記している。また「総数百首」とも書く(うーん、簡単な足し算のはずだが)。この「杳かなる湖」の成り立ちと『斎藤史全歌集』への収録状況などは、拙著『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』でも触れている(表5「『全歌集』に収録された敗戦前後の「歌集」と初版『歌集』の歌数などの比較」)。史は、この未刊歌集をもって、「昭和三年から頃から今日までのものを、どこかに一応整理したことになるのだろうが、年月の風化の中に、どれほどとどまるものやら・・・」とも述べている。
・からからと子の乳母車押しながら風に逆らひゆく夕昏れを
・我は今かく渇(かは)けるをいづ方に夕凪美(は)しき湖(うみ)はありなむ
・東京に居らざる我をおとしむることば伝へて来し秋だより
(斎藤史「杳かなる湖」『短歌研究』1959年10月

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拙著『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』から

 新しい企画が重層的に展開するのはめまぐるしくもあるが、書き手の意欲もそそり、雑誌全体から躍動感が伝わり、読者の期待感も大きかったことだろう。しかし、主題制作や連作については、加藤克己、高尾亮一や当時の若い論者、菱川善夫、秋村功らによる厳しい批判も現れていた。たとえば、小崎の五十首詠特選(8月号)について、「私の五選」10月号で、高尾は「異常な体験の作品としては叙述的にすぎている」、加藤は「一首一首の終着の常識性、報道性のため主題を貫く思想が寸断される」、秋村は「被爆当時の死や実体として捉えず、その後の観念化された視点からしか捉えられていないのが惜しい」と。斎藤の「密閉部落」についても、秋村は「あらかじめ予定された視点から、悲劇の観念が事実との遭遇により、形を持つたまでであ」り、「”部落“を支える深部を抉り出すようにつとめてこそ、通俗ロマン主義的傾向から脱しうる道なのだ」とする。
 また、10月号で岡井隆「暦表(カレンダア)組曲」が3回で完結するのだが、加藤は、9月号の「私の五選」で、岡井の生活批評として注目するが、「持前の生への傲慢と不逞の変形として、もつときびしい深傷の感覚をふまえた上での、現実へのもうひとつ痛烈な風刺のコトバがほしい」と評している。同号では、9月号の五十首詠について、前身の編集部選から1958年選考委員方式になって2年目、初めて特選となった山口雅子「春の風車」、石井利明「座棺土葬」の批評もあり、なかなか手厳しいものであった。
 11月号の<未刊歌集>は近藤芳美の未発表歌集「大地の河」(120首、1940年9月~1941年末)であった。『早春歌』前の召集兵として戦地から妻への軍事郵便で送付した短歌がノートにまとめられていたのを忘れかけていたが、今回、若干手直しをしてをまとめたと「あとがき」に記している。
・前線に夜半発ち行くトラックか塀の銃眼をてらしつづけり
(敵前上陸の訓練をうく。暁舞台と呼ばれる)
・死せる兵運ばれて去り夜具一つたたまれており朝明くる窓
(軍医に胸を病んでいることを告げられ、そのまま内科病棟に移された)
・白衣着て佇つ身にまぶし夏となる大地の河の黄なるみなぎり
(朝鮮人娼婦らの一団に見送られて病院船に乗る)

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『短歌研究』1959年10月号、11月号より

 また、11月号では、三大連載と銘打った、山本健吉「人麻呂私抄」が11回、木俣修「昭和短歌史」が24回、柴生田稔「斎藤茂吉・その歌と生涯」11回と佳境に入っていた。そして、現在から振り返ってみれば、毎号、一冊、一冊に意欲的な作品や論文が多く、歌人研究や短歌史における資料的な価値が高い。現在の短歌総合誌の大方の「軽さ」からは想像もつかない。

 

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2019年2月25日 (月)

在位30年記念式典にやはり登場した、天皇・皇后の短歌

きょう224日の政府主催の在位30年記念式典は、NHKだけが、14時から1時間の予定でフルの中継をしていた。もう一度録画で見るつもりだが、とりあえずの感想を述べておきたい。どこで少し狂ったのか、式典は、10分近く延びて、NHK15時から5分間のニュースが1510分から始まった。
 入場と同じく、安倍首相が先導して退場する天皇夫妻は、舞台に整列している祝辞を述べた人たちや演奏をした人たち、ひとり一人に言葉をかけ、挨拶をしているようだった。途中で、招待客1100人ともいう会場の人々に対しても、天皇は、ながらく手を振る場面もあって、首相と菅官房長官は、夫妻の前後で、少し戸惑っているようにも見えた。想定外だったのかもしれない。

 最初に画面で示された式次第のなかに、「御製、御歌の朗読」というのがあった。沖縄出身の歌手が、天皇の「琉歌」に皇后が作曲した「歌声の響」を歌うということは、かなり前からマス・メディアで喧伝されていた。「御製・御歌」を波乃久里子が朗読することを私は知らなかったが、 朗読されたのは、二首とも、2003年歌会始の「御題」の「町」として発表された短歌だった。選歌は天皇夫妻の希望であったのだろうか。

・我が国の旅重ねきて思ふかな年経るごとに町はととのふ
(天皇)

・ひと時の幸分かつがに人びとの佇むゆふべ町に花降る
(皇后)

 つぎに、登場した、上記の「歌声の響」は、天皇夫妻が皇太子時代1975年、初めての沖縄訪問時に、屋我地島(名護市)の国立療養所沖縄愛楽園を訪れ、その別れ際に、ハンセン病の入園者たちから、「だんじょかれよし」という地元の船出歌で見送られたことに、心打たれた夫妻、のちに天皇が琉歌を作り、皇后が曲を付けたものを愛楽園に送ったという、経緯を持つ楽曲だった。歌い手が三浦大知、ピアノ千住明、バイオリン千住真理子であった。その琉歌というのは、沖縄に伝わる八・八・八・六という三十音の歌謡であり、式典では、繰り返しなどを取り入れて歌われていた。

 

だんじよかれよしの歌声の響 見送る笑顔 目にど残る

だんじよかれよしの歌や湧上がたん ゆうな咲きゆる島 肝に残て

 この琉歌の舞台となっている沖縄愛楽園は、その前身は、1938年に国策であったハンセン病者の強制隔離のために開設された国立国頭療養所であり、1972年沖縄の本土復帰とともに厚生省に移管となり国立療養所沖縄愛楽園となった。1996年、らい予防法が廃止された後、今日に至るまで、元患者の方々のさまざまな差別や苦痛が続いている現実もある中で、昨年、沖縄愛楽園は開設80年を迎え、『沖縄タイムス』は、社説で、次のように述べている。

  「愛楽園は1938年11月10日開園した。80年の間に延べ3904人が入所し、2100人が退園、1372人が園で亡くなった。現在も142人の入所者が暮らす。
 入所者の平均年齢は84歳。(中略) 元患者たちの、家族や親族、社会から受けた激烈な差別の記憶は鮮明だ。実名を明かせないまま生涯を終えた人は数知れず、長い年月を経て今ようやく語り始めた人たちもいることを思えば、国の誤った政策の影響の甚大さ、根深さを知る。」

 

「社説」の全文は、以下を参照ください。

◇沖縄タイムス社説
[沖縄愛楽園80年]謝罪・反省に終わりなし(2018122日)
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/353190

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  いわば、政府主催の天皇の「お祝いごと」としての式典で、こうした入園者たちとの交流というエピソードがことさら、一つの物語、美談のように流布されることには、どうしても違和感というか、やりきれなさがともなってしまう。そして、上記社説は、「隔離政策の根拠となった「らい予防法」が施行(96年に廃止)されて1世紀以上たつが、元患者や家族の人権回復は道半ばだ。国策にならい、ハンセン病への差別と偏見を助長してきたメディアの責任も重い。過ちへの謝罪と反省に終わりはない。」と結んでいる。
 メディアの責任とともに、国策に積極的にかかわって協力していた貞明皇后はじめ皇室の責任も決して軽くはないはずである。この件については、以下の私のブログを参照いただければと思う。

◇冬の沖縄、二つの目的をもって~難しいと逃げてはいけないこと
(1)屋我地島、愛楽園を訪ねる(2017214日)
 
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/02/post-eeb9.html

◇皇室とハンセン病と―名護市屋我地島の「御歌碑」(201822日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/02/post-abe5.html

 さらに、式典最後の天皇の「お言葉」では、その結びの部分で、皇后の次の歌を紹介していた。

  「平成は昭和天皇の崩御と共に、深い悲しみに沈む諒闇(りょうあん)の中に歩みを始めました。そのような時でしたから、この歌にある「言葉」は、決して声高に語られたものではありませんでした。
しかしこの頃、全国各地より寄せられた「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています。」

 ともどもに平(たひ)らけき代(よ)を築かむと諸人(もろひと)のことば国うちに充(み)つ(皇后)

*皇后の歌集『瀬音』(大東出版社 1997年)の「平成二年」の最後の 一首として収録されている。

 しかし、この結びの部分は、「お言葉」の中ほどの段落で、次のように述べている個所と共通する一面を持っていると思えたのである。全国各地からの寄せられた言葉を「皇室と共に平和な日本を・・・」ととらえ、下記のように「務めをはたしてこられたのは、この国の持つ民度のお陰」と述べている点であった。こんなとき、「民度」なんていう言葉を使うのかなあ、というのが正直な気持ちだった。「国民に寄り添う」という言葉も実体がとらえにくいなか、それにしても「寄り添いながら」「民度」を見極められているのかなとも。

  「これまでの私の全ての仕事は、国の組織の同意と支持のもと、初めて行い得たものであり、私がこれまで果たすべき務めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、過去から今に至る長い年月に、日本人がつくり上げてきた、この国の持つ民度のお陰でした。」
 当日にと思って、書き始めたのだが、日付が変わってしまった。きのうは、沖縄県民投票の日であったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2018年10月 2日 (火)

沖縄県、新知事誕生、私たちがやらなければいけないこと

  沖縄の県知事選挙では運動の在り方とその結果に、いろいろと考えさせられている。

佐喜真候補は、政権与党の政党色を前面に押し出しながら、肝心の辺野古新基地建設への対応を回避した、というより隠ぺいした。公明党を佐喜真支持へ引き入れるための方策だったのだろう。その代わりなのか、突如、スマホ料金4割値下げなど、自治体マターでない公約が飛び出したりした。対立より対話をと経済振興を強調したものの、菅官房長官の3度の沖縄入りも、普段の、あの面倒くさそうな記者会見を見せられているので、演壇でいかに愛想を振りまこうとも、むしろマイナスだったろう。同じく、小泉進次郎の総裁選での優柔不断さとタレントのような振る舞いには、いささかげんなりした県民も多かったのではと思う。

一方、玉城候補は、政党色を極力出さず、支援政党の幹部と並ぶことなく、翁長知事の遺志を引き継ぎ、辺野古の新基地建設を阻止すべく働きたい、通学のバス料金を無料にしたいなどの公約を訴えた。ゆいレール以外に鉄道がない沖縄では、バスは大事な基幹交通機関なのだから、県民にとっては切実であったに違いない。そんなことも、無党派層の7割を引き寄せ、自民党・公明党の支持者の一部も玉城候補に投票したのではないか。これからは、専門家?の選挙分析情報が流れるに違いない。それにしても、翁長知事の「遺言」で、玉城候補の名前があったという情報が流れたときは、ハラハラした。「遺言」で候補者が決まるなんて、あってはならないと思ったからだ。結果的ではあるが、政党色を前面に掲げず、プロのタレントとしての経験による親しみやすさが、当選に繋がったのではないかと思った。

玉城新知事の行く先は、課題も多く、政府やアメリカ政府との交渉にも難題は待ち構えている。「野党共闘」「オール沖縄」の勝利というわけにもいかないのが現実である。しかし、安倍政権への打撃になったことは確かなので、これを機会に、本土の私たちは、自分たちの問題として考えなければならない。私は、かねてより、一刻も早く、日米安保体制、日米地位協定、日本の防衛政策の見直し、自衛隊法改正に踏み込むべきだと思い、野党にはそういう攻め方をしてほしい、と思っている。米軍オスプレイの横田基地への正式配備が決まり、自衛隊のオスプレイの佐賀空港配備も決定した。山口県と秋田県では、自衛隊のイージス・アショア設置の候補地の反対運動が展開中である。どこに、ではなく、一基1000億以上、その他の備品・経費を入れると2基で6000億にも及ぶという、迎撃ミサイルシステムの必要性が問われている。いまの安保環境の中では、いわば無用の長物ともいえ、その効用すら、専門家からも危ぶまれながら、<専守防衛><抑止力>という名のもとに導入が強行されようとしている。私の住む千葉県でも、木更津駐屯地は、米軍のオスプレイの整備基地になってしまったし、自衛隊のオスプレイも飛んでくる日は近い。あの得体のしれないトランプ大統領に、そこまでひれ伏する安倍政権には、外交や、防衛政策への見識が見出せない。<土台>はそのままに、続行するという安倍政権だが、わが身には遠いことではなくて、私たちの町にも、日本の福祉の貧困や防衛費ばかりの肥大化の影響が迫ってきている。

やや旧聞に属するが9月の半ばの休日、最寄りの駅前で、地元の9条の会でビラまきをした。 2006年、会の発足以来37号を数えるニュースを配ったのだが、反応は、決して良いとは言えなかった。「憲法9条を守りましょう」、「憲法9条への自衛隊明記を阻止しましょう」、「戦争のできる国にしてはいけません」と訴えても、スマホから目を離さない人、まっすぐ前を向いて私たちを避けるように通り過ぎる人、両手に手荷物一杯の暮しが第一という買い物帰りの人、手を払って、怒りをあらわにする人・・・。私自身も無党派層の一人ではあるが、なかなか沁み込んではいかない私たちの声。少しでも一緒に考えるのには、いったいどうしたらいいのだろう。

それでも、会の代表のTさんが、急きょ作ってくれた、色とりどりのお手製のサンバイザーをかぶって、マイクを握り、ニュースを配ったのだが。

20181002145821





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2018年8月11日 (土)

ある一首をめぐって~パネルディスカッション「分断をどう越えるか~沖縄と短歌」

 

 

前記事の『現代短歌』8月号採録の那覇市で開催されたパネルディスカッション「分断をどう越えるか~沖縄と短歌」(2018617日 現代短歌社主催)において、パネリスト、当日の会場の参加者の間で、話題になった作品につぎの一首があった。

 

・次々と仲間に鞄持たされて途方に暮るる生徒 沖縄

(佐藤モニカ『夏の領域』(2017年)

平敷武蕉:「沖縄の痛みのある現実を内面的に受け止めていて、感心した歌ですが、不満もあります」、「沖縄が強いられてきた歴史的現実」をあげて「これらをいじめの場面でたとえるのは認識として軽すぎるんじゃないか」

吉川宏志:「とてもいいな、と共感して読んだ歌なのですが、クラスのいじめにたとえるのは軽すぎるのではないか、という批判もよくわかるんです。ただ、読者に負荷をかけないで平明な歌い方によって、若い世代や県外の人たちにも広がっていく面もあります」


屋良健一郎:「歌の展開の上では、鞄を持たされている生徒がいて、そこからふいに『沖縄』が出てくることで世界が沖縄に広がったといいますか、歌の場が沖縄だとわかるわけですよ」

 

名嘉真恵美子:「たぶん、方法の問題なんですかね。外から見た感じで…外から見たという言い方もおかしいんだけど作者は外にいますよね。ちがいます?それでは沖縄は詠えないんじゃないかと・・・」

 会場からは、「遊びの延長で鞄を持たせている、そういう場面に作者は沖縄を見た」、「沖縄の現実を詠っているのではない。沖縄の現実を詠えば、もっと別の詠い方になる」、「沖縄を詠んだ歌として読んで、胸が痛くなった。本人がこの鞄を投げ出す以外に突破口はないと感じた。<沖縄>の結句の重さを考えると別の読み方をするには無理がある」・・・

 

ちなみに、この一首の作者は、沖縄出身の夫と結婚して、沖縄に暮らして数年になるということだ。

 

 

 

 

 

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2018年8月 9日 (木)

「分断を越えて」とは―そこに生れる「分断」はないか~ある短歌雑誌の特集に寄せて

地域での市民活動や住民運動に目を向けてみると、目指すところが一致しながらも、ちょっとでも異論を唱える、うるさそうな?グループや人間には声をかけないということもある。「共闘」というとき、「排除」の論理も働いていることを忘れてはならないだろう。さらに、最近は「分断をこえて」などとの掛け声も聞こえ、小異を捨てて大同につけ、ということも言われ、一見、度量の広さやなごやかさが強調される。けれども、少し立ち止まって考えてみたい。

組織の大小にかかわらず、異論を無視したり、少数意見に耳を傾けようとしなかったりすることが続くと、言いたいこともひっこめてしまう自主規制が当たり前になってしまわないかの不安がよぎる。無視されたり、口封じをされたり、「される側」の人間の立場にならないと気付かないことは多い。疑問や自由な議論を経ないままの決まりごとや活動は、長続きも、広がりにも限界があり、やがて、その活動はしぼんでしまい、いつの間にか、権力や武力を持つ体制側に与せざるを得なくなっていくのではないか・・・と。ボランティアで支えられている住民自治会などで「ボランティアなんだから、手を抜いたりしたって文句を言われる筋合いはない」みたいな風潮もめずらしくない。多数側が、反対勢力の「分断」をはかるのは、常套手段でもある。

折しも、短歌という世界においても、考えさせられる一件があった。那覇市で、パネルディスカッション「分断をどうえるか~沖縄と短歌」(2018617日 現代短歌社主催)が開かれたという。その記録の一部が『現代短歌』8月号<沖縄のうた>特集に掲載されていた。基調講演は、吉川宏志「沖縄の短歌 その可能性」、パネリストは、名嘉真恵美子、平敷武蕉、屋良健一郎、司会は、吉川の四氏が登壇している。俳人でもあり幅広く文芸評論も手掛ける平敷以外は、みな歌人である。

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8月号には、ディスカッションの記録とパネリストが提出した「沖縄のうた十首」と参加者7人の「印象記」が掲載されているが、講演録と当日会場で配布された資料の掲載はない。ほかに吉川「六月十八日、辺野古」と平敷「危機の時代・文学の現在」などの文章は掲載されていた。

討論の中で、私が着目したのは、名嘉真は発言の冒頭に「沖縄の短歌における分断とは何というのがわからなかったので・・・」と『現代短歌』の編集・発行人に尋ねたとある。そして「沖縄の短歌の世界で分断はないというのが私の実感です」と明言していたことだ。「編集後記」では、特集の趣旨を「基地を容認するか反対するか。生活者としておのおの立場を異にするにしても、僕らの生命線である表現の自由を固守するには、立場を異にする者の歌をこそ受け容れねばなるまい。受け容れた上で批評する。・・・」と、しごく当然のことが述べられているが、ここには、越えるべき「分断」が何なのか見出しにくい。

現に、この特集のために寄せられた文章にも、執筆者が「分断」について、直接言及している部分は見当たらなかった。ただ、討論での平敷発言は「分断というとき、日本人あるいは本土人が沖縄人に比して当事者性を持たない、傍観しているということに加えて、沖縄人どうしのなかにも基地に賛成の人と反対の人がいる。誰がそうさせたかというと、時の権力者です。・・・」で始まり、その認識には共感を覚えるのだった。当日の資料ではない『南瞑』からの転載という「危機の時代・文学の現在」において、平敷は、全国の自治体やさまざまなメディアにも蔓延しつつある「自主規制・自粛」が、沖縄の短歌の世界にもあったことについて言及し、その危機を警告していた。また、参加者の久場勝治は「『分断』を越えることは『表現の自粛』に繋がらないか?」と題して、「本土と沖縄に分断があるとすれば、それは短歌を超えた問題で、沖縄の状況や歴史的文化的経緯に由来するものであろう。分断が越えがたいのは、それを生み出した沖縄社会の問題解決や日本における沖縄の役割再検討(今後も基地の島か)を必要とするからだと考える。」で始まり、「分断を越えることが『個性を薄めた全国規格への併合』でなければ良いのだが。」と結ぶ「印象記」を寄せていた。 


なお、『現代短歌』は、20183月号においても<分断はえられるか>という特集が組まれ、福島市で開催されたパネルディスカッション「分断をどうえるか~福島と短歌」(2018121日)が採録されている。このときの司会の太田美和が「分断と文学の可能性」、佐藤通雅が「リセットということ」、屋良健一郎が「分断をもたらすもの~沖縄の現在」を寄せている。この特集では、「越」と「超」が混在していて、特別意味がないのならば統一すべきではなかったか。仙台在住の佐藤の文章では、311体験から感得した二つの原点として、「生者と死者の境界の消滅」したこと、「つい先日まで人間の歴史と言われたもの、文化・倫理といわれたもの、それらすべてが一瞬にして解体され、リセット状態になった」ことを挙げていたが、「分断」の語やその認識は読み取れなかった。「編集後記」では、「佐藤通雅氏に『東北を分断するもの』をテーマに寄稿いただいた。津波に呑み込まれたあの地点に立ち戻れば、分断をリセットできる、とはなんとむごたらしく美しい認識だろう。僕はそう読んだがあなたはどう読むか」とあったが、やや、強引のような気もしたのだが。

ことさらに、「分断を越えて」ということを強調することは、あらたな「分断」や「自粛」を促しはしないか、の不安は去らない。

 

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2018年7月16日 (月)

目取真俊講演会に出かけました

 猛暑の土曜日714日、どうしても聴いておきたかった。目取真俊の小説「平和通りと名付けられた街を歩いて」を読んだことから、天皇制への確固たる批判の姿勢を知り、他の作品からは、沖縄の抱える問題を鋭く分析、提示していることを知り、多くを考えさせられた。昭和、平成の天皇の沖縄との関係を調べるきっかけになった。私は、とくに、その短歌に着目しながら、いくつかの論稿をしたためた。そして、沖縄の歌人たちの短歌、本土の歌人たちの詠む沖縄、本土の歌人たちの沖縄の歌人たちへの対応についても、いささかながら言及してきたからでもある。

 そして何より、辺野古の海を守るため、基地建設に反対・抗議するカヌーチームの一人として発信する「海鳴りの島から」を読みながら、励まされ、座り込みにいけないのを嘆く日々を過ごしているので、目取真さんの声を聴きたかったのである。

 講演の前半は、目取真さん自身が、毎日、撮り続けている海上での抗議活動の様子を伝える映像を中心に進められた。前日713日の活動を撮ったものも映し出され、その速報性にも驚いた。ブログ「海鳴りの島から」をまず見ると生々しい写真が続く。すでに715日の記事には、この日の講演会の報告もなされていた。 

〇海鳴りの島から 沖縄・ヤンパルより…目取真俊

https://blog.goo.ne.jp/awamori777

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 工事の進行状況と海上の抗議行動とその弾圧の熾烈さ、まず海岸に工事用の道路ができ、両端から始まった護岸工事K-1N-3は繋がり、もはや完了間近いと思われる。しかし、カヌーは、幾重ものフロートやフェンスを越え、振り落とされながらも、工事船に接近してスクリューを回らないようにし、クレーンから降ろされる10トンの石が積まれたモッコの下で待ち受けるなどの抵抗によって、工事は一日でも一時間でも遅らせるという、過酷な戦いでもある。毎朝、7時には、海岸に着き、4時ごろまで活動は続き、家での入浴と食事、ブログ執筆などで、一日が終わるという。最近の工事現場では、カヌーが来ない朝6時から工事を始めることもあるという。もし、抗議をしなかったら工事は進む。踏みとどまって抵抗しないと、沖縄には逃げる場所がない、だからあきらめてはいけないと。

 後半は、沖縄の歴史、米軍基地の沿革―本土に散在していた米軍基地が地元の反対運動に遭って、次々と人口140万の沖縄に移され、そして、沖縄の中では、中南部から人口10万の北部に基地が集中していく現況に言及する。本土と沖縄の関係が沖縄県内でも基地のある所とない所の関係が生し、中南部にますます人口が集中するという現象がみられる。沖縄の経済を支えていた3K―基地・きび・公共事業から、観光の比重が高まり、平和の大事さも浸透している一方、本土には知られない、基地がもたらす犯罪多発、教育環境の悪化など目に余るのが実態である。

さらに、817日に、土砂投入工事を開始するとしている沖縄防衛局に対して、承認撤回などをめぐる翁長知事への評価をめぐっての言及もあった。沖縄の革新はすでに革新首長が十分の七の時代から十分のゼロへ衰退し、翁長知事にしても、稲嶺前名護市長にしても、もともと保守派であったのだが、現在に至っている。ともかく、いまは、闘病のなかの決断を迫られている知事を見守りたい、すべての元凶は政府、安倍政権にあるのだからとも。

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新基地建設が進むきょんぷシュワブ沿岸6月29日、名護市辺野古全景(小型無人機撮影)、 「沖縄タイムス」2018年7月13日

 もっと、いろいろな話をされたと思うが、うまくまとまらない。しかし、基地の本土引取り論、沖縄独立論、県民投票の賛否など核心に迫る質疑応答もあって、目取真さんは丁寧に答え、私の理解も少しだけ深まったようにも思う。引き取り論については、安保を前提にしながら引き取ろうと言っても、いったいどこがどういう基地機能を担うのか、具体的な道筋とその可能性が見えない以上賛成できない、という。独立論も、研究者や評論家らによって長い間主張されてきていて、高まりつつも、その実現性に欠け、現在の反基地の闘い、新基地建設を止める運動にはなっていないという。県民投票については、若い人たちが中心になって進めている運動ながら、まず、県民投票をするための条例制定を目指して、有権者の50分の1、約24000名の署名を集めなければならない。723日が締め切りだが、その数のクリアも危うい。たとえ、クリアしたとしても、実際に県民投票にいたるまでの手続きに時間がかかりすぎ、タイミングが悪すぎ、新基地建設の歯止めにはならない。それに、目取真さんは、署名の集計状況を見て、基地を抱える伊江村、東村などが限りなくゼロに近い数字にも驚いたともいう。Photo_6

「『辺野古』県民投票の会」より発表

なお、会場の若い男性から、海上抗議行動を始めた動機を尋ねられ、始めて4年になるが、かつて生家のある今帰仁の海岸で、青い海にウミガメが泳ぎ、ウミガメの産卵も目の当たりにしていた少年の頃を思い出し、ウミガメが産卵の海岸を奪われ、赤土でサンゴが死滅してゆく現実を前に、始めたという。カヌーは自分の手で漕いで、海に出るので、五感で辺野古の海の美しさを感じることができるからだとも、語っていた。

さまざまな思いで、辺野古に座り込みをする人々、カヌーで抗議を続ける人々に対して、陸上では、機動隊員と多くの警備会社アルソックの人たちがごぼう抜きをする。海上では海上保安庁の隊員と警備会社セントラル警備が請け負い、カヌーの侵入を阻止し、突き落とそうともする実態にも触れた。海上の民間警備は、かつてマリン・セキュリティが請け負っていたが、予算の水増しが告発されて交代したという経緯もあったという。

私が最初に読んだ短編小説「平和通りと名付けられた街を歩いて」のラストシーンは忘れがたい。次第に体が冷たくなっていく祖母を背負い、二人の大切な場所に向かう孫の少年の心の陰影、その優しさには、読むたびに、人に伝えるたびに涙してしまう。皇太子夫妻を沖縄に迎えるにあたって、かつて平和通りで魚を商い、一家を支えていた祖母が徘徊しないようにとの警察からの要請で、その当日、家族は祖母を部屋に閉じ込めた。だが、いつの間にか抜け出して、皇太子夫妻の乗る車のフロントガラスに汚物にまみれた手形をつけて、こと切れるという、いわば「不敬」小説なのである。難解にも思える、ミステリアスな、短編も多いのだが、そこには、いつもどこかに人間のやさしさが秘められているのが特徴に思われた。今回、話を聞いて少し納得したような気がしている。

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辺野古に新たな柵設置 ゲート前、抗議激化に備えてか、
米軍キャンプシュワブの工事用車両用ゲート前で進められる柵の設置作業、7月15日午前1時18分、名護市辺野古で。「東京新聞」18716 朝刊。深夜の突貫工事であることが分かる

<7月18日付記>

目取真さんの話の中で、大事なことを一つ書き忘れていた。大型船によるボーリング調査が始まったのは昨年2017年3月だったが、すでに、埋め立て予定地の一部の海底が軟弱なことがわかって、さらに調査を進めるためではなかったかという。工事予定が中止され、一部変更の理由は明らかにされていないが、海底は40mの厚さの泥状態の軟弱地盤で、45トンのコンクリートブロックは沈み込んでしまい、埋め立ては不可能だというのだ。今朝の東京新聞「こちら特報部」によれば、沖縄の市民団体の情報公開によって明らかになった、2014年から2年にわたってのボーリング調査の結果は、地盤の固さを示すN値がゼロであったというのである。国は詳細な調査を出さず、いずれ総合的な判断をするとしているが、海底地盤改良には巨額の費用が不可欠となる、という。

 

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