2026年5月27日 (水)

アンドリュース・ワイエス展、行ってきました。

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チラシの作品は「クリステイーナ・オルソン」(1947、マイロン・クニン・コレクション)。幾何学的にも思われる陰、黒いワンピースのクリステイーナの前面が浮き立つように見えた。

  上野の都美術館で開催中の「ワイエス展」に行ってきた。開館時刻に間に合うように家を出たが、上野駅公園口で下車すると、あちこちに修学旅行生が群れをなしていた。シーズンなんだなと。それに美術館手前の広場では、大陶器市の旗が林立するテントの下は大賑わいであった。

  都美術館は、都民でなくとも、シニア料金ということで、2300円のところ1600円。なんでも値上がりの昨今、2千円でおつりがくると用意していると、やはりシニアの女性の方が「もしよかったら、これをどうぞ、ムダになってしまうので」とチケットを差し出された。驚いたが「いいんですか、ありがとうございます」と利用させていただくことにした。その方はご夫婦でロッカーに荷物を預けていらしたのを見かけたので、もう一度お礼の言葉を掛けた。約束した友人の都合でもわるくなったのかな。得をしたというより、ちょっぴり幸せな気分であった。

 作品一覧をみると、前の記事でも触れた「丸沼芸術の森」所蔵の「オルソン・ハウス」一連の作品も多い。そのカタログでしか見ていない「オルソン・ハウス」の作品は、習作も多いが、現物にお目にかかれるのはうれしい。オルソン・ハウスの模型も作られていて、この窓の絵は、ここの窓、このドアからの眺めがはこちらの絵という図解まであった。窓からの光、その光が織りなす翳と風を描き切ったかのような作品には不思議な魅力があった。

 1974年のワイエス展の個々の作品の記憶はすでに薄れているが、当時のカタログを見ていて好きだった作品にも出会うことができた。

 今回の展示で、私には初めての作品も多かった。『冬の野』(1942年 ホイットニー美術館)、「ハリケーンの海」(1944、ボストン美術館)、横長の「粉ひき場」(1962、フィラデルフィア美術館)、猫が可愛い「うたた寝」(1963、ファーンズワース美術館)など、個人蔵のものを近年、寄贈されたという記述が目立つ。

 また、1974年のカタログではモノクロだった作品を鑑賞できた喜びは大きい。たとえば、以下の「洗濯物」「ゼラニウム」であった。撮影可の二階にあった「ゼラニウム」は人気らしく、若い人たちも入れ替わりでスマホに収めていた。

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「ゼラニウム」(1960年、ファーンズワース美術館)。窓を通して見える向こうの窓との間には、クリスティーナと思われる後姿とゼラニウムの鮮明な赤が描かれ、窓をめぐる板塀の質量感にも圧倒される。

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「洗濯物」(1961年 カマ―美術館)。日差しを浴びて海からの風にはためく洗濯物の下では、かごの横で気持ちよさそうに寝そべっている犬がいるではないか。

 なお、今回の展示には「丸沼芸術の森」、福島県立美術館所蔵のほかにも、国内の企業や愛知美術館、メナード美術館の作品もあったのだが、「ユニマットグループ」所蔵のものがかなり多かったのである。「ユニマットグループ」って?知らなかった!調べてみると、1968年、個人商店からスタートして、不動産、リゾート・オフィス、メンテナンス、インテリアから飲食、美容・健康、保育・教育事業など手広く展開する企業と知った。その内、メセナの一環で美術館でも建てるのかしらとも。

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「松ぼっくり男爵」(1976年、福島県立美術館)。松ぼっくりは、さかさになった鉄カブトに集められている。この鉄カブトは、ワイエスの隣人カーナー牧場の主が、第一次大戦に出征した折に使用していたものだという。

 最後の展示室を出たところでは、ワイエスの技法を解説した映像が流されていた。描く対象の色合いや材質感を作り出すための、気が遠くなるほどの積み重ねがなされれているのを知った。

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「薄氷」(1969年、三井住友銀行)を例にテンペラの画法を解説していた。

 なお、今回の展示では、オルソン・ハウスに住む姉弟の姉クリスティーナを描いた作品は少なかったし、晩年、その作品群が明らかになった「ヘルガ」一連の作品はなかった。ワイエス全体像を見るにはやや不足感を否めなかった。

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 以下の当ブログ記事も参照いただければ幸いです。
アメリカへ行ったことがないのに、アメリカの画家三人に魅了されて(1)ワイエス(2026年4月28日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2026/04/post-1885f0.html

アメリカへ行ったことがないのに、アメリカの画家三人に魅了されて(2)ワイエス(2026年5月 6日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2026/05/post-4532ad.html

 

 

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2026年5月20日 (水)

アメリカへ行ったことがないのに、アメリカの画家三人に魅了されて(4)ベン・シャーン

 ベン・シャーン(1898~1969)についても、すでに何回か当ブログでも書いている。彼は、リトアニア出身で、幼少期にロシア皇帝の独裁下から逃れ、一家で移民としてアメリカにたどり着き、苦労を重ねている。これまでのブログでは、私のベン・シャーンとの出会いにも触れてきた。つぎの二つの記事で、私の思いは言い尽くされているのだが、現在の、トランプ政権下のアメリカからの報道を見るにつけ、亡くなってから半世紀以上も経つというのに、この画家からのメッセージの力強さと新鮮さを思い知るのだった。彼が告発し続けた分断、差別、貧困、原爆、戦争という社会的なテーマは、現代のアメリカにおいて、そして現在の日本でも直面している問題であることがわかる。 

・葉山の「ベン・シャーン展~クロスメディア・アーティスト」へ行ってきました~はじめての神奈川近代美術館葉山館(1)2012年1月26日http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/01/1-1cf0.html

・葉山の「ベン・シャーン展~クロスメディア・アーティスト」へ行ってきました~はじめての神奈川近代美術館葉山館(2)2012年1月26日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/01/post-5478.html

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左が神奈川県立近代美術館葉山館のベン・シャーン展カタログ表紙。右は、葉山館所蔵の「麻生三郎コレクション」の版画集「リルケ「マルテの手記・一篇の詩の最初の言葉』」の絵はがき、ペンの力の強さを描いた普遍的なメッセージが伝わってくる一枚に思う。。

  上記事の葉山館での展示は、ベン・シャーンの画業のみならず、写真家としても、デザイナーとしても、ポスター、レコードジャケット、本の装丁、レタリングなど多岐にわたる。そして、これらの仕事の根底には、つねに社会的な弱者の味方として、社会の不条理にはきびしい批判や抵抗を示すという一貫した志が脈打っていることをあらためて知った。このカタログや数十年前の展覧会で購入した絵はがき、そして、古本で購入した、画家の没後、夫人の編集による“BEN SHAHN”(by Bernarda Bryson Shahn, H.N.Abrams New York 1972 ) などを眺めていると、初めて気づくことも多い。

 ベン・シャーンの絵には、「ベン・シャーン ペーパーズ」として見出された画家自らが収集していた写真や記事やメモをソースにした作品が多い。彼が初期に手掛けた「ザッコ・ヴァンゼティ」シリーズは、冤罪事件がテーマであった。1920年4月、二人の労働者は製靴工場の二人を射殺した強盗事件の容疑者として逮捕され、反政府運動に関与していたというだけで、明確な証拠がないまま死刑判決を受け、21年8月に処刑された。彼らの無実が公表されたのは1977年であったという。ベンは、1931ー32年、このシリーズを制作、33年にニューヨークで開催された個展は大きな反響を呼んでいる

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「四人の検事」(1931-32)は、パンフレット「ザッコとヴァンゼティ事件の話し」1921年掲載の4人の刑事の写真をソースに描かれた。検事たちの表情は、神妙ではあるが、まるで容疑者のように見えてしまう。上記葉山館カタログ22頁より。

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 左「ザッコとヴァンゼッティ」(1931-32)、右「ザッコとヴァンゼッティの受難」(1931-32)。二人をつなぐ手錠と棺から受ける衝撃は大きい。前掲、1972年ニューヨークで出版された画集130,131頁より

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左は2006年9月集英社から出版された詩画集の表紙は「That Friday,YAIZU」の一部。右は「落下物」(1957)ベンは、1954年3月、焼津のマグロ漁船「第五福竜丸」が、ビキニ環礁付近のアメリカの水爆実験で被ばくした事件に強い関心を寄せ、「第五福竜丸」を「ラッキー・ドラゴン」と名付け、「ラッキー・ドラゴン」シリーズとして、1957年から65年にかけて描き続けている。アメリカの原子核物理学者ラルフ・E・ラップ経由の調査や写真が参照されているという(上記、葉山館展カタログ解説)。

 ベンは、1920年代と1960年の二度日本を訪れている。前者の詳細は不明という。1960年3月から4月にかけて、京都を中心に一カ月以上滞在している。日本への関心と取材は旺盛だったといい、聞きつけた日本の画家たちとの面会もなされている(藤慶之<抄録>「ヒューマニズムの画家ベン・シャーン」上記葉山館展のカタログ)。

 私が、今回、あらためて画集を見ていて気付いたのは、以下の絵が「ワルシャワ」と名付けられていることだった。そしてこの絵のソースは下段にあるデッサンと写真であった。              

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 さらに、この構図は、どこかで見たようなと、思い出すのは、つぎのハンブルグのニコライ教会で出会ったモニュメントだった。すでに当ブログでも触れているが、ナチスに抵抗した牧師のボンヘッファーの「試練」と題する言葉が刻まれている銘板の前で、頭を抱えるモニュメントは、2004年に制作されたらしい。あくまで、推測ではあるが、ベン・シャーンの先の絵が念頭にあったのではないか思うのだった。

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なぜ、いま「ボンヘッファー」か~神を信じなくとも: 内野光子のブログ   2025年11月30日)
オランダとハンブルグへの旅は始まった(15)ハンブルグの交通路線図にようやく慣れて: 内野光子のブログ2019年8月29日)

 ベン・シャーンの「ワルシャワ」と題する絵の構図は、さまざまな絵にも登場するが、その一つが、つぎの絵だった。

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「クラリネットとティン・ホルンのコンポジション」(1951)、1970年の「ベン・シャーン展」で求めた絵はがき。

 また、つぎの本のカバーが、どういう訳か、ファイルの中に紛れ込んでいた。どうして私の手元にあるのだろうか。いま、思い出せないでいる。友人の誰かが、私のベン・シャーン推し?を知ってカバーだけ譲ってくれたのだろうか。著者のプロフィルなのだろうか。ベンは、様々な人物の肖像画も描いている。オッペンハイマー、ハマショールド、そして第五福竜丸で被ばくした久保山さんの絵も。

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 以下は、1991年新宿の伊勢丹美術館でのチケットと気に入った「スーパーマーケット」(1957)と題する絵はがきだった。199120260516

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2026年5月10日 (日)

アメリカへ行ったことがないのに、アメリカの画家三人に魅了されて(3)モンドリアン

 モンドリアン(1872-1944)はアメリカの画家と言えないかもしれないが、最晩年をアメリカで過ごし、精力的に制作したことをもって、私は、勝手にそう呼んでいる。同じアメリカの画家と言っても、ワイエスとモンドリアンとの共通点は、何なのだろう。素人の私には、脈絡なく惹かれるものがあったのである。

 モンドリアンについては、このブログでも何度か触れたことがある。

・アンジェイ・ワイダの遺作『残像』を見て~ワイダと画家からのメッセージ
(2017年7月27日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/07/post-8567.html

・はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(9)デン・ハーグ市立美術館のモンドリアン(2019年8月13日 )
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/08/post-ab1282.html

 というのも、これらの記事で、私の第一歌集『冬の手紙』(1971年)の「あとがき」につぎのように書いていたからである。繰り返しになるが。

「モンドリアンの抽象に出遭ったとき、あの冷徹さに戸惑いながら惹かれていったのはなぜだろうかと考えています。そこには猥雑なものをいっさい拒否しようとする、ひとりの人間の生き方の美と思想があると思いました。この画家の幾何学的構成にいたる過程は、<樹木>連作が雄弁に語っています。さらに光と影から解放された垂直と水平の世界の展開を見せられたときの感動を忘れることができないでいます。主観的な表現を極度に排し、求めてやまなかったものはなんであったろう。・・・」

 

 2019年、出身のオランダのアムステルダムの王立美術館で出会ったモンドリアン、ハーグ市立美術館で、「モンドリアンコレクション」の<樹木>シリーズを目の当たりにしたときも、抽象への展開のナゾは解けたわけではないが、どちらの絵にも、短歌の精神と技法を見たような気がした。もちろん私は、抽象画への境地にはたどり着けない。映画やニュースで知る限りのニューヨークだが、その猥雑さと活力を色鮮やかな幾何学的構成もって描いた作品には不思議な魅力があったのである。

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モンドリアン展(西武美術館1987年)カタログより。右上段の絵は、叔父のフリッツ・モンドリアンの作品「小川の牛」。

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1987モンドリアン展のチラシより。

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2026年5月 6日 (水)

アメリカへ行ったことがないのに、アメリカの画家三人に魅了されて(2)ワイエス

 1990年、年頭の「ワイエス ヘルガ展」は、今はなつかしい、池袋のセゾン美術館(1975~1999)で見ている。残念ながら、カタログは買わずじまいだった。いま手元に残っているのは、チケットの半券と二枚の絵ハガキである。当時、ワイエスといえば、私は、メイン州のオルソン・ハウスとペンシルヴァニア州のチャッズ・フォードの住まいの周辺とそこに住む人々を丹念に、愛情をこめて描き続けていた、国民的人気も高い画家という印象が強かった。ところが、日本で「ワイエス ヘルガ展」が開かれる前から、1971から85年の15年間、隣家の農場で働く中年の女性ヘルガのヌードや肖像を、双方の家族にも知られず描き続けた未発表の作品群が公になったとの報道を聞くようになった。一つの対象を、一人のモデルを描き続けてきたワイエスなので、どんな作品なのだろうかと、興味津々だった。鉛筆によるデッサンや水彩画、テンペラ画と使い分けて、ヘルガを描き続ける執念は、胸に迫るものがあるが、ワイエスの妻も、ヘルガの夫も知らない間に二百数十点の作品が残されていたとは、驚異でもあり、そんなことってあるだろうかと不思議に思ったものである。少なくとも、ワイエスの妻は、気づいていたはずである、と下世話な推測もしているところである。

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上段は、「農道」(1979年)①、下段は「果樹園にて」(1982)②。

 いま改めて、1987年ニューヨークでに出版された画集“The Helga Pictures ”(Harry N.Abrahams,Inc.)の翻訳を見ている(「ワイエス画集Ⅲ」リブロポート 1987年5月)。この画集には、ヘルガシリーズコレクションのオーナーによる文章とナショナルギャラリー副館長の「アンドリュー・ワイエスの「ヘルガ組曲」」と題する、欧米美術史の中でのワイエスの位置づけと評価を丹念に追っている論文が付されている。画集は、裸の、戸外の、室内の眠っているヘルガなど、様々な季節、時間における30のポーズごとに関連する作品が集められている構成になっている。上記の副館長の論文の冒頭では「このシリーズ全体を通して明らかにされるのは、抑制と複雑さ、画面の質感と深い情感の表現に重要な焦点があてられていることだ」と評価している。

 例えば、上記の絵はがきとなっている「果樹園にて」のテーマのもとに、水彩画は1973年から85年まで10枚、鉛筆によるデッサンが1973年から1982年までの9枚の作品で編集されている。絵はがきの1982年の作品②が完成品というわけではなく、1985年にも季節が違う作品③が制作されている。デッサン④も、異なる構図で、長い年月にわたって描かれていることがわかる。同じモチーフで繰り返し、年月をかけて、さまざまな視角で対象を捉えていることになる。

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「果樹園にて」(1985)③

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「果樹園にて」(1973)④

 また、上記の絵はがき「農道」①と題される作品はこれ一作のみであった。また、ヌードの中には、「ネルと一緒に」(1979)⑤のような作品もあって、微笑ましくもなるのだった。

 今回のワイエス展が楽しみである。

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 「ネルと一緒に」(1979)⑤

 

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2026年5月 5日 (火)

憲法改正、急ぐに及ばず~憲法記念日の世論調査にみる

  5月3日の朝日新聞は「高市政権で改憲 賛否拮抗 本社世論調査 賛成47% 反対43%」、毎日は「改憲《賛成》37% 本社世論調査 首相人気 機運押し上げ」と一面で報じている。憲法記念日恒例の世論調査である。この日のための世論調査の結果報道、社説や特集が組まれ、市民団体による意見広告も散見できる。

  この頃、「世論調査」というのに疑問を持ち始めている。まず、思うのは設問・回答の在り方と回収率の低さと調査方法である。最近、ケータイや固定電話に、何か所からかのさまざま「世論調査」らしき電話を受けるようになったが、私自身、警戒心の方が強く切ってしまうので、回答者が世論を反映しているかな、と思ってしまう。かつて、新聞社の文書による世論調査を受けたことがあり、その時はもの珍しさもあって、じっくり考えて記入したものである。

朝日新聞の見出しになっている賛成47%というのは、
・「高市首相は憲法改正を目指すことを明言しています。高市政権のもとで憲法改正を実現することに、賛成ですか、反対ですか。」

  という設問の回答だったのである。正直、この質問には、私だったら回答できない。この設問の直前の二問の問い方とその回答も付してみた。

・「自民党は、憲法9条の1項と2項をそのままにして、新たに自衛隊の存在を明記する憲法改正案を提案しています。こうした9条の改正に賛成ですか、反対ですか。」賛成52%、反対40%
 賛成の理由:明記することで、海外活動がしやすくなる21%
   反対の理由:明記することで、自衛隊の海外活動拡大の恐れがある25%

・「いまの憲法を変える必要があると思いますか。変える必要はないと思いますか。」必要がある49%、必要はない44%

 これらの設問の幾つか前には、つぎのような設問もある。

・「以下は、憲法第9条の条文です。(条文略)憲法9条を変えるほうがよいと思いますか。変えないほうがよいと思いますか」 変えるほうがよい30%、変えないほうがよい63%

 9条に関しては、二つの設問があって、一つは、条文をあげて、1・2項の変更の有無を問うもの、一つは、その後に設けられていて、1・2項はそのままに、(3項として)自衛隊の明記の可否を問うものであった。回答から見えてくるのは、現行9条の「戦争の放棄」と「戦力及び交戦権の否認」はそのままに、自衛隊を明記するというのが大きな流れのように読み取ることができる。

以下の画像は、いずれも拡大て読めます。

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朝日新聞2026年5月3日朝刊、「世論調査」結果の一部

 他の新聞、NHKを見てみよう。憲法改正という設問は共通しているが、毎日が高市首相在任中という条件を付けているが、憲法改正の賛成・反対はたしかに拮抗していると言える。読売とNHKは、改正賛成は、反対をかなり上回っている。もっとも、NHNの世論調査は、「どちらとも言えない」が賛成と同様38%を占めている。NHKの世論調査では、「どちらとも言えない」の選択肢を設けるのが「得意技?」と言ってもよい。ときには「どちらかと言えば賛成」「どちらかと言えば反対」の選択肢を設けることもある。今回は「どちらとも言えない」の選択肢によって、賛成、反対の差を広げたようにも思える。「どちらかと言えば・・・」の回答を用意していたら、賛成・反対の差は縮まるのではないか。

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 朝日と読売は、今回、憲法改正問題だけでなく設問は多岐にわたっているのが、他と異なる所であり、憲法9条についても、両者は、同様である。「自衛隊明記」といういわば「加憲」に特化した設問もNHK以外は用意しているが、いずれも明記に賛成する方がかなり上回っていることがわかる。その理由を問うている朝日の結果によれば、明記賛成の理由で多いのが「海外での活動がしやすくなる」で、反対理由で多いのが「海外での活動が拡大する恐れがある」という真逆の理由であった。

 なお、読売は「今後、9条はどうあるべきか」の設問の回答の選択肢として、つぎの三つを用意していたが、その結果から、①+③を「改正しない」とカウントした。

①これまで通り解釈や運用で対応する43%
②解釈や運用で対応するのは限界なので改正する38%
③9条を厳密に守り、解釈や運用で対応しない12%

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読売新聞2026年5月3日朝刊、「世論調査」結果の一部

 なお、今回調査の対象としなかったが、日本経済新聞の世論調査で「高市首相に優先的に処理してほしい課題」として、憲法改正は8つの選択肢の最下位で、11%に過ぎなかった。また、NHKの設問はいささか異なるが、今国会において、「憲法改正以外の課題を優先すべき」だとする回答が、52%も占めていた。

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日本経済新聞デジタルニュース、2026年5月2日より

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NHK2026年5月3日、
news7より

 世論調査自体は、その回収率からしても、どこか頼りないのだが、各社の結果を総体的にみると、要するに、国民の大半は、いま、憲法改正を望んではいないということではないか。なぜ、そんなに急ぐのか。「法の支配」と「自由と民主主義」を標榜する国のやることかと、不安は増すばかりである。

 

 

 

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2026年4月28日 (火)

アメリカへ行ったことがないのに、アメリカの画家三人に魅了されて(1)ワイエス

 派手なネクタイで、カメラに向かってこぶしを上げたり、手を振ってみたりして登場するトランプ大統領が、ジェスチャーたっぷりで会見する映像を、毎日見せられると、もううんざりという感じの昨今である。そんなとき、ふと、ワイエスの『アメリカの詩情 オルソン・ハウスの物語』(丸沼芸術の森 2010年)をひらくと、そこには、あまりにも静寂な、海辺の一軒家にひっそりと暮らす姉弟の物語が繰り広げられる。アメリカ東部メイン州の海辺の丘の上のオルソン家の体が不自由だが自立心の高い姉と農業に勤しむ弟の暮らしを分け入るように子細に描き続けた画家の物語でもある。折しも4月28日から、上野の都美術館で開館100周年記念の「アンドリュー・ワイエス展」が開かれると知った。なんという偶然!

 アンドリュー・ワイエス(1917~2009)は、ペンシルヴァニア州のチャッズ・フォードに生まれ、著名な挿絵画家だった父親の教育もあって、幼少時から水彩画を描き始め、二十歳のころには、地元で個展を開くまでになっていた。1939年兵役に志願するが、身体虚弱で不合格になり、その翌年から、夏の間の避暑地であったメイン州のグッシングのオルソン家にアトリエを提供されるようになり、二拠点生活が始まり、姉弟が亡くなる1960年末まで続いたのである。

 姉弟を描くといっても、その姿が描かれるのは稀である。さまざまな視角でとらえられたオルソン家の全景と共に壁、屋根、窓であったり、納屋の中の農具や馬具であったり、収穫したトウモロコシを積んだ手押し車、ブルーべリーを運ぶバスケット、水を運ぶバケツなどをあるがままのその場所で克明に描いている。以下はいずれも、前掲「オルソン・ハウス物語」からのコピーである。この画集は、2010年9月から埼玉立近代美術館で開催された「丸沼芸術の森」所蔵の展覧会のカタログである。今回の都美術館の展示作品一覧によれば、「丸沼芸術の森」所蔵の作品もかなり多いようだ。直接、絵に出会えるのを楽しみにしている。

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「アメリカの詩情 オルソン物語」の表紙「オルソンの家」(1969)

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「干し草をかき集めるアルヴァロ」(1947)、右手遠くに家が見える

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「玄関の前に座るアルヴァロ」(1942)、働きづめだったアルヴァロは、1967年12月24日に死去。

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「クリスティーナの世界」習作(1948)何枚もある中の1枚。

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「クリスティナーの世界」習作(1967)、クリスティーナは、弟の後を追うように1968年1月27日死去、最後の肖像画となった。

 ワイエスに私が初め出会ったのは、1974年、東京国立近代美術館での「アンドリュー・ワイエス展」であった。職場の近くでもあったので、土曜の午後にでも出かけたのではなかったか。当時は週休2日など夢の夢であった。
 あらためて、このワイエス展のカタログを取り出してみると、すっかり茶色になった新聞切り抜きが落ちてきた。こんな記事を読んで出かけてみる気になったのかもしれない。

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   上記左の朝日新聞の記事は、文面から74年5月と分かるのだが、日にちは不明、執筆は小川正隆。毎日新聞の方は74年4月19日(夕刊)、執筆は安井収蔵記者となっている。調べてみると、両者ともすでに故人となっているが、社内の美術担当から、美術評論家となり、大学教員や美術館館長になっていたことを知る。なにせ半世紀以上も前のことだったのだ。当時の薄れたメモによれば、衝撃を受けたのは「冬の蜂の巣」(1959)と下記の「卵の計り」(1959)のリアルさだった。さらに、つぎの2点の寡黙さに注目していたようだ。後から思えば、オルソン家の姉クリスティーナと弟アルヴァロの暮らし方や生き方を象徴しているような作品だったのである。姉弟の晩年と没後のオルソン家のたたずまいが伺われる。

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「風下」(1965)

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「アルヴァロとクリステイーナの家」(1968)

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チケットの作品は「遥か彼方に」(1952)だった。

  ワイエスは、アメリカでも国民的画家とも言われ、人気が高いそうだが、日本でも、その後、何回か展覧会が開催されている。渋谷のbunkamuraで1995年「アンドリュー・ワイエス展 アメリカの郷愁」、2008年「アンドリュー・ワイエス展 創造の道程」などが開催されている。この時にも、以下のような記事を書いていたのである。

ワイエス展、Bunkamuraへ(2008年11月28日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2008/11/bunkamura-7f3a.html

 私が次に出かけたのは、1990年、池袋のセゾン美術館で開催された「ワイエス展 静逸な生命の肖像 ヘルガ」であった。ワイエスの後半生の意外な展開に驚かされたのであったが。(つづく)

 

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2026年4月14日 (火)

刻々状況が変わる中で、高市自民党は、何をしているのか

 テレビで、トランプ大統領とネタニヤフ首相の映像が流れ、高市首相の無内容な国会答弁が聞こえてくると、いたたまれず席を立つが、気持ちが乱れてくる。これまで犠牲になった兵士、市民、子どもたちの命を思い、街への爆撃で舞い上がる黒煙と炎と逃げ惑う人たちの映像が再現されると、それが、どこの国の、どこの町であっても、なぜ、止められないのかと落ち込んでしまう。
 メデイアは、現地の民間人の犠牲者数と日本人の在住者数や無事の有無などを報じるのが常である。人間の命は平等なはずなのにといつも違和感を覚えつつ聴いている。
  犠牲となった兵士たちの数はどうして報じられないのだろう。軍事上の秘密だからか。日本人さえ無事であれば良いとするかのような報じ方である。今回の戦争で、米兵の戦死者は、星条旗につつまれ、大統領の敬礼をもって帰還している。英雄的処遇をすることによって、遺族は慰撫されているのだろうか。アメリカ国民はどう見ているのだろうか。かつて、日本の戦死した兵士たちは「英霊」として称えられていたことを想起する。父を、夫を、息子を失った家族にとっては、残酷なことであったことには違いないのではないか。私には幼児の戦争体験しかないので、すべてが疑問形になってしまう。

 

 4月8日、アメリカとイランの2週間の「一時停戦合意」後のイスラエルのレバノン爆撃、イランのイスラエルへの反撃・ホルムズ海峡封鎖、トランプ大統領のイランへの大規模攻撃という恫喝発言などが続く。4月12日のパキスタンの仲介によるイラン・アメリカとの協議は、合意に至らず、決裂、さらに、トランプ大統領は、軍事力によるホルムズ海峡封鎖を予告している。

 ペルシャ湾内に閉じ込められた船舶は、乗組員たちの暮らしは、どうなっているのかと不安になる。全体像が見えにくい中、やや古い資料だが、ウォール・ストリート・ジャーナル報道によれば、ペルシャ湾内には、3000隻以上の船舶が停留しているという。さらに、内閣官房発表によればで、「日本関係船舶」は45隻で、そのうち、日本籍船は5隻、日本人乗船船舶は5隻、日本人乗組員数は24人だという。日本籍船以外はいわゆる「便宜置籍船」である。とはいえ、便宜置籍船の多さと日本人乗組員の少なさとを今回はじめて知った。(内閣官房「ペルシャ湾内における日本関係船舶の状況(3月23日時点)」https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/chyutoujyousei/dai1/pdf/siryou3.pdf

 その後、ペルシャ湾の船舶から下船した日本人乗組員4人が帰国したと木原官房長官は記者会見で述べている(読売新聞 2026年3月30日)一時停戦後、3隻がホルムズ海峡を通過、日本人乗組員4人が下船しているのでペルシャ湾に足止めとなっている政府定義の日本関係船舶は、4月6日午後2時時点で42隻となっている(日本海事新聞2026年4月7日)。

 木原官房長官は、4月6日「船舶の運航については運航会社の判断であり、政府としての回答は差し控える」、4月13日午前の会見では、米イランの協議を念頭に「関連の動向を注視しているところだ」とし、「最も重要なことは今後ホルムズ海峡の航行の安全確保を含む事態の沈静化」「外交的な最終的合意への期待」を語るのみ。トランプのホルムズ海峡逆封鎖の受け止めを問われて「トランプ大統領の発言を含めまして、米国の政府関係者の発言、この逐一にコメントすることは差し控える」と答えている。
 高市首相も4月13日政府与党連絡会議で、「ペルシャ湾内にとどめ置かれている船舶、日本関係の船舶を含むあらゆる船舶の安全確保に向けて、引き続きあらゆるレベルで主体的に取り組みを進める」と発言。日本政府は、動向を注視船舶の安全を繰り返すばかり。茂木外相が電話でイランの外相に航行の安全確保の要請をしたというが、トランプ大統領からは日本は協力的でないと言われ、「できないことは、できない」ときっぱり要請したのだろうか。

 まして、日本国民の暮らしと安全を守ると言いながら、ガソリン価格対策として補助金を出したと言っても、財源は直ぐに切れるし、物価高に苦しむより多くの国民、石油関連資材不足に追い詰められている事業者への対策が見えてこない。


 そんな中で、高市首相は、イギリスのロックバンド「ディープ・パープル」と会って、ファンぶりをアピールしたとか、また、自民党大会では、世良公則に「「燃えろいい女」を歌わせ、最後のサビでは「燃えろサナエ~」との絶叫に、立ちあがって手拍手を送ったとか(時事ドットコム2026年14月12日)聞くと、政党の大会でやることかとあきれた。さらに、自衛隊の女子隊員に制服で「君が代」を歌わせもした。これは自衛隊法における自衛隊の中立性に違反して完全にアウトではないか(自衛隊法第61条第1項)。高市首相は、自衛隊員が歌うとは知らなかったといい、小泉防衛大臣は、記者会見で報告を受けてなかったいう。責任転嫁、無責任も甚だしい。こんな自民党が圧勝していたのだ。とんでもない舞い上がりの、まさに“言うだけ番長”を総裁とする自民党、「憲法改正の時が来た」と叫ぶ首相なのである。
 そういえば、高市首相が訪米の折、トランプ大統領主催の晩餐会で、ファンを自称しているXジャパンの曲が流れたからと言って、”絶叫“する首相でもあった。

【参考】自衛隊法第六十一条 隊員は、政党又は政令で定める政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法をもつてするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除くほか、政令で定める政治的行為をしてはならない。

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のどかな池の鯉、子どもの鯉が急に増えて驚いたが、この左手に続く池には、こまかいネットが張られていた。サギに狙われないように元気に育ってほしい。

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新緑が映える中庭の先に見えるポスト

 

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2026年3月19日 (木)

気の休まるときがない中で、桜の季節を迎えた

 昨夜、高市首相がアメリカに発った。とんでもない大きな土産を背負ってこなければいいがと気がもめる。トランプの機嫌を損ねないように、何を言い出すか分からないトランプを相手に、首相は難しい局面に立たされているとか「専門家」たちが「真面目」に解説したり、「できることとできないことがある」との答弁を高く評価したりするのを聞いていると、情けなくなる。「手の内」を明かさないことや「曖昧」にすることが外交手腕のように取り沙汰されることもあるが、国際法違反の戦争には加担できない、憲法上、自衛隊法などの国内法から見ても、自衛隊を派遣することはない、という明確な発言こそが「国益」に沿うことになるのではないのか。

 アメリカとの関税交渉の中で、合意したアメリカへの80兆円強という巨額な投資の中身についても話し合われるが、その内容が明らかになって来た。
 時事ドットコムニュースによれば、その1弾としてば、5.5兆円、ガス・発電、原油輸出、人工ダイヤの3件で(2026年02月18日)、2弾として、10兆円でGEベルノバと日立による次世代型の小型モジュール炉(SMR)を建設する計画、天然ガス発電施設2カ所の建設事業が盛り込まれる見通しだという(2026年03月18日)。アラスカの原油増産に協力も具体化するらしい。

*「GEベルノバ」は、旧称ジェネラル・エレクトリック
* SMRとは、発電容量が30万キロワット以下と大型原発の3分の1ほど。構造が簡素で事故リスクを低減でき、建設しやすく工期も短くてすむとされる次世代型の原子炉

 日立の原子炉輸出といえば、イギリスからの撤退のニュースが思い出される。2019年1月、ウェールズ地方で進めてきた原発建設プロジェクトを断念したのだ。地元の反対も大きかった上、融資も人材も見通しが立たなかったという。

* 英国原子力発電所建設プロジェクト事業運営からの撤退について(日立のHP 2020年9月16日)
https://www.hitachi.com/ja-jp/press/articles/2020/09/0916/

 SMRについては、東南アジアへの輸出も視野に入れてのことらしい。事故リスクが低減できたとしても、廃棄物の処理はどうするのか。日本国内において原発の再稼働、新設に意欲を示す高市政権、使用済み燃料、核のゴミの最終処分場として南鳥島への打診が始まった。福島の原発事故から15年、日本は、学習をしない国、反省しない国であることが露わになったと言えよう。

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春は足早にやって来た。ベランダ先の枝垂れ桜、何本かの支柱に支えられ頑張っている。上段は2月9日、下段はきょう3月19日撮影、ほぼ同じアングルだったのだが。

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2024年6月29日 (土)

沖縄の離島の悲劇を忘れてはいけない―「慰霊の日」に(2)

ハンセン病者の人体実験が続けられていた!

 この稿を終わろうとしたとき、「ハンセン病開発中の薬、療養所で 副作用確認後も投与試験」の報道に接した(『朝日新聞』2024年6月25日)。熊本県「菊池恵楓園」の調査報告書の公表を受けての報道であった。園長室で薬剤「虹波」を服用させたり、半ば強制的に注射をさせたりする人体事件のようなことが戦中・戦後も繰り返されていたというのである。

 「菊池恵楓園」といえば、1952年、あるハンセン病患者が証拠不十分なまま逮捕され、不当な裁判を受け、その結果、死刑となった「菊池事件」を思い起す。この療養所の医師にハンセン病と診断され、療養所への入所を執拗に迫られた被告が村の衛生担当者を殺害したと疑われた事件である。逮捕後は、構内の仮拘置所に隔離され、療養所内の特別法廷においては、本人が否認する中、一度も出廷したことがないままに、第3次再審中の1962年9月、福岡拘置所への移送直後2時間後に死刑が執行されるという異例の事件であった。この事件の背景には、戦時下の「無らい県運動」を引き継いだような病者の強制隔離政策と差別助長の社会的風潮があったのである。

<詳しくは、以下を参照>
・熊本県HP 3-1.菊池事件
https://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/attachment/49316.pdf

・菊池事件略年表(菊池事件再審を求める会作成)
ダウンロード - e88f8ae6b1a0e4ba8be4bbb6e795a5e5b9b4e8a1a8.pdf

 今回の報告書では「薬剤投与試験」1942年から開始されたとする。戦後も続けられたがいつまでかは不明で、調査中という。1943年アメリカでは新薬プロミンが開発され、1947年国内でも使用開始したにもかかわらず、1948年「優生保護法」で、ハンセン病者や障害者の断種や中絶が続き、1953年「らい予防法」では隔離政策は維持されていたのである。1996年「らい予防法」の廃止、2001年熊本地裁が「らい予防法」の違憲性、国家賠償請求を認め、国は控訴せず謝罪、「ハンセン病補償法」成立、2009年「ハンセン問題基本法」成立後も、さまざまな偏見と差別が続いているのが実態である。長島愛生園初代園長で、「無らい県運動」を率先して進めた、戦後も「らい予防法」での隔離政策を維持した医師光田健輔に1951年、文化勲章が授与されている。

なぜ、沖縄に、二つの国立ハンセン病療養所があるのか

 こうした日本のハンセン病小史を省みて、私の沖縄旅行で忘れられない一件がある。2017年2月、今は本島と橋でつながっている屋我地島の国立ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」を訪ねたときのことである。米軍機が兵舎と間違えて空爆がなされた愛楽園であったが、ここにも、病者への過酷な隔離と差別の歴史があった。

 私の「愛楽園」訪問の目的は、「癩」と皇室との関係への関心から、貞明皇后の「御歌(みうた)碑」を確認することだった。1932年11月、大正天皇の皇后、貞明皇后が「つれづれの友となりても慰めよ行くことかたきわれにかはりて」と詠み、この歌を全国のハンセン病療養所に下賜金とともに贈ったことから、歌碑が建てられたのである。「愛楽園」の10万坪近い敷地は出入り自由らしいので、地図と案内板を頼りにまわったものの、その歌碑を見つけることができなかった。海岸に出れば、水子の供養塔があり、思わずドキリとした。広い砂浜の先には小島や岩が点々とし、左には古宇利島への長い橋も見えた。その日は、交流会館の閉館時間も過ぎていたので、翌日、出直すことにした。通常の病院と変わらないたたずまいで、夕方とあって建物の間を白衣の人たちや配膳の人たちが行き来していた。

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 翌日、交流会館の展示で、「沖縄愛楽園」の沿革と国策によるハンセン病者の強制隔離と差別の実態をあらためて目の当たりにするのだった。

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米軍の空爆後、瓦礫と化した屋外で解剖がなされている。1945年7月10日米軍の撮影による

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1944年3月に着任した2代目愛楽園園長の早田晧は、7月から空襲時の避難壕の掘削を開始、手足の不自由な患者たちにも、掘ることを課し、病状を悪化する者が続出した。それが原因で、米軍の上陸後一年で死者が274人に上っている。下の銘板は自治会の名で1997年に建てられている。上の写真は、「早田壕」と呼ばれた壕の入り口の一つである。

 翌日、交流会館の展示を見て、「御歌碑」のたどった経緯も分かってきた。

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 上記の写真は、1932年11月に貞明皇后が詠んだ歌が全国のハンセン病療養所に下賜され、愛楽園では1943年2月に建立された「御歌碑」である。この写真説明には「絶対強制隔離政策の正当化と強化の役割を果たした」と明記されていた。皇室の威をかりての国策推進の典型といえよう。

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 上記の写真は、空爆による焼跡の中に立つ「御歌碑」だが、米軍の指示により、台座からはずされ、沖合の海に沈められたと説明されている。続いて、米軍は「国家神道」につながるものとして撤去を命じた、とも説明する。「国家神道」というより、GHQは、天皇、皇族崇拝につながるものとして撤去を命じたのではないか。

 案内の地図にある現在の「御歌碑」はどんなふうになっているのか、ふたたび構内を歩き回るのだが、見つからない。半分諦めかけていたところ、草ぼうぼうの広場の片隅に、思いもよらない姿をさらしていた。はじめは信じられなかったのだが、ボロボロになったブルーシートの間から、「貞明皇后」と読める文字、「つれづれの・・・」の文字も見える。

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 帰り際に、交流会館に寄って、係の人に尋ねてみた。見つけたのは古いもので、新しい歌碑があるのではないかとも。どこかあいまいな返答で、釈然としないまま、愛楽園を後にしたのだった。

 平成期の天皇夫妻が、1975年7月、皇太子時代に沖縄国際海洋博の開会式のために、沖縄に初めて訪問した際、沖縄愛楽園を訪問している。その時、「御歌碑」は再建されていたのか。横倒しの歌碑は、沈められた歌碑と石の形も台座も異なるところから、再建されたには違いないが、あのような姿になったのはいつだったのか。交流会館の前には、「高松宮妃殿下」「三笠宮妃寛仁殿下妃殿下」の記念植樹があった。

  あの「御歌碑」はどうなっているのか、気になっていた。2018年、沖縄愛楽園開所80周年の記事を見たので、園に電話してみた。「元の位置に戻しました、あの時はまだ工事中でして」とのことであった。工事中にしては、相当長い間放置されていた姿ではあった。正直なところ、自治会は、あのまま海に沈めてもよかったのではと思う一方、日本のハンセン病の歴史的遺構として、残されるべきものであったかもしれない。残す以上は、しっかりとその果たした役割を伝えてゆかねばならないと。

 なお、沖縄県には、もう一つ、宮古島に、国立ハンセン病療養所南静園がある。全国に13ある国立ハンセン病療養所のうち、二つが沖縄にあることになる。大正期の1916年8月、前述の光田健輔が多摩全生園の園長時代、西表島に3万人の患者を隔離できる候補地として、視察に来ている。収容人数の拡大と逃亡防止のためだったとするが、地元の猛反対行動に、逃げるように島を離れたとの、当時の報道もある。現在の沖縄の基地問題に共通するものがあるのではないか。
 

<以下もご参照ください>
冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(1)
沖縄、屋我地島、愛楽園を訪ねる(2017年2月14日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/02/post-eeb9.html

 

なぜ、貞明皇后だったのか

  また、なぜ、貞明皇后の「御歌碑」だったのかについては、以下の拙著も併せてお読みいただければと。

「貞明皇后の短歌が担った国家的役割 — ハンセン病者への<御歌>を手掛かりに」
『<パンデミック>とフェミニズム(新フェミニズム批評の会創立30周年記念論集)』翰林書房 2022年10月

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2024年6月26日 (水)

沖縄の離島の悲劇を忘れてはいけない―「慰霊の日」にふたたび(1)

 沖縄は、6月20日に梅雨が明けて、6月23日の慰霊の日前後の新聞は、『沖縄タイムス』と『琉球新報』はもちろん各新聞は、温度差があるものの、さまざまな形の特集や記事を掲載している。手元の四紙に目を通して思ったのは、式典の様子や平和の礎に祈る人々への取材がほとんどであった。

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左「沖縄タイムズ」【2024年6月23日」臨時号
右「東京新聞」(2014年6月24日)より

 中に一つ、東京新聞の「集団自決 息絶えた母」は、渡嘉敷島へ米軍が上陸した際、日本軍が住民を集め、手りゅう弾を渡し、集団自決を迫ったという事件を報じている。母と弟を目の前で殺された遺族の姉妹に取材した記事だった(2024年6月24日)。死にきれなかった者は、日本兵や身内が手をかけ殺すといった凄惨な場面を目撃した姉妹は死んだふりをして難を逃れたという。渡嘉敷島の住民にとって「慰霊の日」は、集団自決がなされた3月28日であった。90歳と86歳の姉妹は、6月23日に「平和の礎」を訪れ、日本軍への怒りと悲しみを新たにしたとある。

渡嘉敷島へ~欠航の合間に

 2017年2月初旬、私たちは、夫の強い要望で渡嘉敷島へ渡ったのは、村の人口よりやや多い、700人以上のマラソンランナーたちが去った直後だった。高速船は欠航だったが、波に強いというフェリーで出港、内海を出ると、甲板にいた私たちは波しぶきを浴びた。島では、タクシーの女性運転手のガイドによって、「観光案内書」にはないコースを巡ることになった。

  大江健三郎の『沖縄ノート』(岩波書店 1970年)を巡る裁判や教科書裁判で争われた「集団自決」について少しでも知りたいと思ってのことだった。渡嘉敷村のHPには、以下のように記されている。「パニック状態に陥り」「かねて指示されたとおりに」「集団を組んで」と、曖昧な表現となっている。

「3月27日には渡嘉敷島にも上陸、占領し、沖縄本島上陸作戦の補給基地として確保しました。日本軍の特攻部隊と、住民は山の中に逃げこみました。パニック状態におちいった人々は避難の場所を失い、北端の北山に追込まれ、3月28日、かねて指示されていたとおり、集団を組んで自決しました。手留弾、小銃、かま、くわ、かみそりなどを持っている者はまだいい方で、武器も刃物ももちあわせのない者は、縄で首を絞めたり、山火事の中に飛込んだり、この世のできごととは思えない凄惨な光景の中で、自ら生命を断っていったのです。」

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 一方、1979年、曽野綾子らによって建立されたのが「戦跡碑」であった。その碑文には、一家が集団自決をする凄惨な場面が記述されたあとに「そこにあるのは愛である」という文言が唐突であり、いささか驚いた。

 27 日、豪雨の中を米軍の攻撃に追いつめられた島の住民たちは、恩納河原ほか数か所 に集結したが、 28 日敵の手に掛かるよりは自らの手で自決する道を選んだ。一家は或いは、 車座になって手榴弾を抜き或いは力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは 愛であった。この日の前後に 394 人の島民の命が失われた。 その後、生き残った人々を襲ったのは激しい飢えであった。(中略)  315 名の将兵のうち 18 名は栄養失調のために死亡し、 52 名は、 米軍の攻撃により戦死した。 昭和 20  8  23 日、軍は命令により降伏した」

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赤丸が訪ねたところ、黒丸が訪ねたかったところです。

以下の当ブログの過去記事もご覧いただければと。
 冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(5)「アリラン慰霊のモニュメント」をめぐる 2017.02.24

 冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(4)渡嘉敷村の戦没者、集団自決者の数字が錯綜する、その背景 2017.02.22

 冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(3) 2017.02.19

 

伊江島で何が起きていたのか

  2016年6月、本部(もとぶ)港から伊江島に渡っている。島の中央に突起したグスク山を目指し、フェリーで30分の船旅であった。島内は地元出身の運転手さんに案内してもらったが、今やリゾート地としての島、百合の花の島、伊江牛の島が自慢らしかった。

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 伊江島に米軍が上陸したのは1945年4月16日、六日間の激戦の末、4月21日には占領された。本島に疎開できず残っていた島民の半数近くの1500人、兵士2000人が犠牲となった。米軍は、伊江島の滑走路が何としても欲しかったという。その後、米軍は、「銃剣とブルドーザー」により島民の土地を収用、島民は追い出され、米軍基地がおかれた。一時は全面返還の話もあったが、現在も島の3分の1以上が米軍基地である。その四分の三600ヘクタールの私有地には、防衛省が地代を払い続け、1800人ほどの地主に、毎年16億の予算が付けられている。基地内には「黙認耕作地」というものがあって、耕作地、住宅地にも利用されている。
 なお、案内の運転手は、「地代が年に1000万以上の農家もざらにいるさ」とも話していたが、実際は、6割以上の地主は、100万以下ともいう。また、基地内の私有地が、不動産屋により売買され、「絶対返却されることはない」からと投資の対象にもされている。

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 1961年、「伊江島の土地を守る会」が発足、米軍に対する非暴力による抗議運動の根拠地となった団結小屋である。もちろん今は無人で、外壁には、大きな文字で、伊江島の土地を守る会、そしてその運動の中心だった阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう/1901~2002年)からのメッセージが書かれている。

ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(4)伊江島1(2016年 月17日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/07/post-2b26.html

ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(5)伊江島2
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/07/post-4891.html

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 1948年8月6日、米軍の上陸用舟艇に積まれていた未使用砲弾が爆発、島民107名の犠牲者を出した。地上戦で生き残った島民の命が奪われた大惨事であった。

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苛烈な激戦で、
唯一残骸をさらしている「公益質屋」。1929年の世界恐慌は、島民の暮らしを直撃し、高利貸しに苦しむ村民に、村が設けた質屋であった。

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ガマの一つ、手前の平らな部分が広く、多くの人々が潜んでいた。

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『毎日新聞』(2024年6月20日)の記事では、1943年日本軍は伊江島に飛行場建設を決定、戦況が悪化する中、要塞化を進め、1945年4月16日米軍上陸後は、軍は住民を巻き込み、多くの犠牲者を出した。毎日新聞は、このシリーズで、6月21日は、与那国島出身の大舛松市大尉の戦死を軍神とあがめ、戦意を高揚した同調圧力を、22日には、波照間島の島民が強制避難した先でマラリアに感染、島民の3割に当たる477人が犠牲になったことを報じていた。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 私が6月23日の追悼式に参加したのは2016年だったから、すでに8年も経つ。会場に入るのは二重のチェック、式典後の帰りのバスから見た会場周辺の光景、青い制服の警備スタッフがが延々と続く。安倍首相の時代である。ことしはどうだったのだだろう。

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 私のわずかな沖縄体験ながら、沖縄本島はもちろんだが、伊江島、屋我地島、渡嘉敷島を訪ねただけでも、多くを知り、考えさせられることも多々あった。次回は、国立ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」のある屋我地島について書いておきたい。

 

 

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