2023年12月 1日 (金)

横浜へ~三渓園、日本大通りの銀杏、どこの黄葉も見事でした(2)

日本大通りのニュースパーク(新聞博物館、情報文化センター内)へ

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 KKRポートヒルに一泊した翌朝は、きのうの風もおさまり、快晴であった。窓からは眼下に港の見える丘公園、ベイブリッジ、キリンのように並んでいた荷揚げの重機なのか、首を曲げているものもある。きょうは、ニュースパーク(新聞博物館)へと向かう。ここでも関東大震災100年の企画展「そのとき新聞は、記者は、情報は」が開催中なので、見学することにしていて、10時オープンと同時に入館した。

 

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展示物の撮影は禁止であった。ちらしには、号外の一部などがスクラップされている。上段左から「大阪朝日新聞」(9月4日、第3号外、福馬謙造記者)、「大阪都新聞」(9月6日号外、喜多吉哉特派員)、「大阪毎日新聞」(9月4日夕刊、三好正明特派員)。

展示は、以下の4部構成であった。
Ⅰ「震災発生 そのとき新聞社は、新聞は、記者は」
Ⅱ「震源地・神奈川、横浜はどのように伝えられたか」
Ⅲ「不確かな情報、流言・デマ、混乱」
Ⅳ「関東大震災前後の震災、新聞社の防災・減災の取り組み」

 1923年9月1日正午近く発生した関東大震災は、神奈川県だけでも、死者・行方不明者3万2800余人、住家被害は12万5500余棟に及んだ。その時、新聞社、新聞、記者はどうしたかを、各新聞社は、記者の移動もままならない中、号外や新聞で、必死に伝えていたことが、当時の紙面からうかがい知ることができる。

 東京日日新聞(毎日新聞)は、皇居前広場に臨時編集局を開設、9月4日には新聞発行がなされ、朝日新聞は、帝国ホテルに臨時編集局を設置、謄写版刷りの数行の号外を出したのが9月4日、定期発行は9月12日であったことがわかる。この間、大阪朝日新聞、大阪都新聞、大阪毎日新聞などが、特派記者による東京の被害の状況を伝える号外を発行している(上記チラシのコメント参照)。
 9月6日の報知新聞(夕刊)では、秋に予定されていた摂政(皇太子)の「ご成婚は未定」、大阪毎日新聞9月4日(夕刊)には「摂政宮御沙汰を賜ふ ご内幣金一千萬万円下賜」の記事も。
 横浜市内の状況は、主に横浜貿易新報(神奈川新聞)9月13日から臨時号を発行、報道している。目に留まったのが9月30日(夕刊)に「非高工移転論熱烈」という記事。横浜高等工業学校を名古屋に移転する計画が、三渓園の原三渓らが中心になって、陳情書を提出、反対運動が実り、中止になったらしい。
 この春の横浜散策で、赤レンガ倉庫の一棟の半分が倒壊したことや山下公園が大震災の瓦礫を埋め立てて造られたことなどを知ったのだが、公園は1933年、10年後に開園していることを、今回知った

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私たちが見学中に小学生の一団がどっと会場に入ってきた。リュックを背負ったまま、揃いの黄色い画板を下げて、メモを取ったりおしゃべりしながら、せっせと通り過ぎていった。見守っていた先生に、「横浜市内からですか」尋ねたところ、千葉です、という。私も千葉からと告げると、「佐倉からです」との返事にびっくり、胸の名札を見せてくれて「西志津小学校」とあるではないか。ユーカリが丘の人とここで出会えるとはと、その先生も驚いていた。生徒たちはどのくらい理解しているのでしょうね、と失礼な質問もすると、当時の写真がみな白黒なのが気になるようでと。先生は、NHKの関東大震災特集などを見ていて、写真のカラー化したものも目にしていたそうだ。ユーカリが丘出身の女性落語家を招いた話なども話していた。見学後生徒たちは、ホールに集まって、記者OBらしき人の話を神妙に聞いていた。

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ニュースパークの一画にあるカフェで、ランチのあと、通りに出れば、銀杏並木の木漏れ日が揺れ、斜め前の神奈川県庁前の銀杏もみごとであった

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2023年10月 4日 (水)

<関東大震災100年>特集に思う~5首を発表しました。

 関東大震災100年ということで、多くのメディアが特集やシリーズものを組んでいた。短歌雑誌の『歌壇』9月号では、≪その時歌人たちはどう詠んだか―関東大震災から百年≫が組まれ、私も「『ポトナム』揺籃期の震災詠」を寄稿した。9月2日の当ブログにも収録している。今回は、『現代短歌新聞』10月号の特集≪関東大震災100年≫に拙作五首を発表している。ご笑覧のほどを。3頁にわたり43人が出詠していた。★

観音寺の鐘楼   内野光子(ポトナム)

縛られて〈払い下げ〉られし六人を殺せと命じられし村びと
息つめて向うは高津観音寺晩夏の雨に鐘楼濡れおり
朝鮮の技にて成りし鐘楼に犠牲者慰霊の礼のひたすら
命じられ殺めし人らを供養せる碑には銘なく落葉とどまる
二九六の往来激しき道の辺に潜まり建つは〈無縁仏の墓〉
(『現代短歌新聞』2023年10月)

 関東大震災について、私は、書物や映像でしか知らない。両親は結婚する前で、父は海外にいたし、母は千葉県の佐原で小学校教師をしていたはずだが、震災の話を聞いた記憶がない。書物や映像からの作歌は、むずかしいし、私は、なるべく戒めることにしている。数年前、佐倉市の隣町、八千代市内に大震災時に犠牲となった朝鮮人の慰霊碑がいくつかあり、毎年、追悼式が行われていることを知った。高津団地に近い「高津山観音寺」では追悼式と同時に開かれる学習会にフィールドワークが開催されているが、一度参加したことがある。「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」の主催である。ことしは9月9日に百周年慰霊祭が行われたが、猛暑の中、体調に自信がなく、残念ながら参加できなかった。

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『いしぶみ』は「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」の機関誌で、1978年創刊という。さまざまな関連行事の案内や報告、研究論文も掲載される。最新号の「関東大震災朝鮮人虐殺をめぐる質問主意書の意義」は2015年から資料を巡る質問書は八回も出され経過、今年は、5月23日の参院内閣委における杉尾議員も関係資料について質問までを追跡している。8月30日の記者会見で松野官房長官の「政府として調査した限り、政府内において事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」との発言は記憶に新しい。ちなみに質問主意書については、以下に詳しい。


関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会HP<質問主意書一覧>
https://www.shinsai-toukai.com/top-japanese-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E/%E8%B3%87%E6%96%99%E5%AE%A4-japanese/%E8%B3%AA%E5%95%8F%E4%B8%BB%E6%84%8F%E6%9B%B8-%E7%AD%94%E5%BC%81%E6%9B%B8/

「<100年ぶり>の国会質問に政府の答えは? まもなく発生100年の関東大震災「朝鮮人・中国人虐殺」問題」『東京新聞』2023年5月24日https://www.tokyo-np.co.jp/article/251995

★『現代短歌新聞』の特集の作品の中で、気になったのが、柳宣宏さんの「一会員」と題する五首だった。
・「まひる野」の会員たりしえみこさんは大杉栄と伊藤野枝の子
 第一首目と『天衣』という歌集を残したという第五首目を手掛かりに調べてみると、伊藤には、辻潤との間に二人、大杉との間に五人の子供がいる。「えみこさん」は、三女の「エマ」さんで、後に笑子と改名している。『天衣』は、1988年に出版されていたが、著者は野沢恵美子となっていた。

 

 

 

 

 

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2023年9月 2日 (土)

関東大震災100年、日付が変わってしまいましたが。

 雑誌『歌壇』9月号の特集「その時歌人たちはどう詠んだかー関東大震災から百年」に寄稿しました。一頁の短文ですが、ご覧ください。私が会員の『ポトナム』は、1922年創刊ですから101年目、私の入会が1960年、会員歴だけは長くなっていますので、依頼があったのだと思います。ところが、肝心の1923~24年の『ポトナム』の所蔵館が少なく、難儀しました。

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 『ポトナム』揺籃期の震災詠   

一九二二年四月、小泉苳三は赴任先の朝鮮、京城で百瀬千尋と『ポトナム』を創刊した。大震災で、東京の発行所で発送直前の九月号を焼失している。一二月号の編集後記で、苳三は、所用で東京市内を移動中、大森の吉植庄亮宅で地震に遭遇し、翌日、ようやく片瀬の住まいにたどり着いたと記し、「雑然とした歌を並べたり、有名無名の大家の作を頂いて以て光栄としてゐる醜態」を嫌い、「ポトナム」の拓くべき境地は「量よりも質こそ芸術に於ては尊まるべき」と結ぶ(「片瀬より」『ポトナム』一九二三年一二月)。苳三自身の震災詠は見当たらない。以下、出典が『ポトナム』の場合は省略した。

『水甕』の尾上柴舟に師事していた阿部静枝は『ポトナム』にも『水甕』にも同時に震災詠を残している。

・地の震れにおびえあかしし今朝さむし倒れたる垣に朝顔咲けり(「災後(八首)」一九二四年一月)

・黒き煙来るとみえしやたちまちに割れて火焔のうづまきあがる(「地変(六首)」『水甕』一九二四年一月)

市川信一郎は、東京の冬の厳しさを次のように詠む。

・やけあとにひとつのこれる井戸の水をくまむとて霜のみち遠く来し(「入日(八首)」一九二四年二月)

平塚の農業高校に勤める小泉穂村は、パンを握ったまま逃げ果せたが、校長の「御真影を」との声に、再び駆け込み持ち出した後、次は牛舎から牛を助け出し、「生きてあることのうれしさたらちねの手をとりてただなみだこぼせり」と詠む(「震災雑感」一九二四年一月)。

 お互いに無事を喜び合う家族がいる一方、社会では残虐な悲劇が起きていた。『ポトナム』にも「地震」と題した歌の中に「姿(なり)わろき人のちまたを行く見れば心は躍るもしも鮮人(よぼ)かと」といった一首を見出してドキリとしたのである。「よぼ」は朝鮮語本来の意味を離れて、当時の日本人が蔑称として使用する「差別語」であった。

大震災直後、『ポトナム』は京城で発行、編輯者である苳三は、創刊翌年の六月まで『水甕』に在籍、一九二四年六月には、吉植庄亮の『橄欖』と合併し、半年後には復刊という不安定な時期であったためか、所蔵館は少ない。一部、中西健治ポトナム代表の提供に拠った。(『歌壇』2023年9月)

「『ポトナム』揺籃期の震災詠」(「歌壇」2023年9月)
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2021年3月10日 (水)

十年目の3月11日、どうしたらいいのか

 3月5日、山本宣治の命日だった。3月8日は、国際女性デーであった。そして、首都圏の非常事態宣言は2週間延長された日でもある。千葉県などは、いまだに、三桁の新規感染者が続くこともある。

 そして、今日は、東京大空襲の日であった。10万人の犠牲者を出し、東京の下町を焼き尽くしていた炎が遠い西の空を染めていたのをたしかに見ていた、かすかな記憶がよみがえる。疎開地の千葉県佐原から、母に促されてみたのだろう。店を守っていた父と専門学校の学生だった長兄が残っていた池袋の生家が無事だったのもつかの間、4月14日の未明、その我が家も城北大空襲で焼失、命からがらに憔悴して疎開地にやってきた父と兄、私は父に、いつものようにお土産をねだっていたという。何もわかっていなかったのである。

 そして、明日は3月11日、まず、思い起こすのは、あの日の私自身の記憶につながることではある。しかし、その後、次から次へと伝えられたテレビや新聞で報道された画像や記事、そして、10年にわたって、さまざまな人たちの証言や専門家による検証であった。津波に襲われることなく、福島の原発から遠く離れた、この地にあっても、強烈な恐怖となって迫ってくるのは、原発事故の眼に見えない、収束のない被害と津波の恐ろしさである。自身のわずかな体験ながら、津波に襲われ、多くの命と街を奪われた石巻、津波の被害に加え、原発を擁する女川の地を訪ねて、その感を一層強くしたのだった。その思いの一端を、このブログでも記してきた。

 昨3月9日の閣議で「東日本大震災復興の基本方針」の改定が決定されたという。そのポイントというのが、
①復興庁の設置は、10年間延長し、その前半5年間は第二期の「復興・創生期間」とする
②地震と津波の被災者の心のケアなどソフト事業に重点を置く
③原発事故の被災地では、避難指示が解除された地域への帰還や移住を促進し、国際的な教育研究拠点を整備する
④原発の汚染水処理の処分については、先送りできない課題だとして、風評対策も含め、適切なタイミングで結論を出す

 それに先立ち「第29回復興推進会議及び第53回原子力災害対策本部会議の合同会合」を開催し、上記の基本方針を議論したというが、首相は次のように述べたという(首相官邸ホームページ)。

「間もなく、東日本大震災から10年の節目を迎えます。被災地の方々の絶え間ない御努力によって、復興は着実に進展しています。
 昨年12月、岩手・宮城では、商業施設や防潮堤などを視察し、まちづくりやインフラ整備の進捗を実感しました。今後、これらの地域における被災者の心のケアやコミュニティ形成といったソフト面の施策に注力してまいります。
 昨年9月に続いて、先週末も福島を訪問し、地元の方々と移住されてきた方々が協力して、新しい挑戦を行う熱い思いに触れることができました。福島の復興のため、その前提となる廃炉の安全で着実な実施、特定復興再生拠点区域の避難指示解除に向けた取組と区域外の方針検討の加速、さらに移住の促進など、取り組んでまいります。
 こうした状況を踏まえ、来年度から始まる復興期間に向けて、『復興の基本方針』を改定いたします。
 福島の復興なくして、東北の復興なし。東北の復興なくして、日本の再生なし。 この決意の下に、引き続き政府の最重要課題として取り組んでいく必要があります。閣僚全員が復興大臣であると、その認識の下に、被災地の復興に全力を尽くしていただきたいと思います。」

 この日のNHK夜7時のニュースは、基本方針のポイントと、閣議前の復興会議の議論を踏まえての発言の最後のフレーズだけを放映していた。「福島の復興なくして、東北の復興なし。東北の復興なくして、日本の再生なし。」とはなんと白々しい、と思うことしきりであった。

  災害や痛ましい事件のあとに、被災者や被害者、その周辺の人たちへの「心のケア」の大切さが言われるが、少なくとも、東日本大震災の被災者には「心のケア」より、何より大切なのは、生活再建、経済支援なのではないか。いくら避難指示が解除されたからといって、仕事が確保され、生活環境が整わないかぎり、「望郷の念」だけでは戻れないだろう。首相がインフラ整備の一部を視察したからと言って、災害公営住宅の家賃の値上げや廃炉・汚染水処理が進まないなかのエネルギーミックスなど言われては、不信感は募るばかりだろう。
  その一方で、聖火ランナーの辞退者が続き、途切れてしまうし、海外からの一般客は断念しながらも開催するというのだから、福島復興の証としての五輪は、幻想でしかなかったのだ。
  それを質すべき野党の体たらくに、期待することはできない。政府も野党もアテにならない。客観性に欠けるマス・メディアの報道、テレビや新聞に登場する常連のコメンテイターたちも、自分の“居場所大事”な人が多い。たまにまともなことを言うと、すぐに炎上し、自粛へと傾いていく。若い人は、新聞もテレビさえ見ない、まして本を読まない人が多いらしい。

  ならば、私たちはどうしたらいいのか。自分と異なる人の意見もしっかりと聞く。悩みは増えるけれど、自分が感じたり、思ったり、考えてたりしたことを、率直に発信していくほかないのかもしれない。そして、先人の残した知見から少しでも学ぶことなのだろうか。平凡なことながら、それが難しい。高齢者にはつらい日が続く。3月は、私の誕生月でもあったのである。

 

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2020年8月28日 (金)

女川原発のいま、東日本大震災から9年が過ぎて

 2016年、東日本大震災から5年を経た女川を訪ねることができ、下記のような記事をブログにも載せた。それからすでに4年を経てしまったのだが、女川原発の動向が気になっていた。

連休の前、5年後の被災地へはじめて~盛岡・石巻・女川へ(6)女川原発へ
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/05/5-5cf0.html 
連休の前、5年後の被災地へはじめて~盛岡・石巻・女川へ(7)女川町の選択 
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/05/5-be09.html
(2016年5月14日)

   8月24日の朝刊のいくつかは、女川町に「女川小・中学校(一貫校)」の開校を報じていた。「復興した町で学びの成長を」(東京新聞)、「新校舎に笑い声」(毎日新聞)とある。総工費約56億は復興交付金27億5000万、原発立地地域共生交付金10億8000万、カタールからの寄付金8億7000万などで賄われている。財源の内訳も、調べてみてわかったのだが、その数字を報じる新聞記事は少ない。大震災前には3つの小学校と2つの中学校があったが、被災や世帯の移転で少子化が進み、小学生196人、中学生103人が高台の新校舎で学ぶことになった、と明るく報道した。町の人口は現在約5700人、大震災発生時からはほぼ半減に近い。

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2020年8月24日毎日新聞より

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原子力発電施設立地地域共生交付金交付規則に基づく地域振興計画(宮城県 2016年2月、2019年8月最終変更)file:///C:/Users/Owner/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/TIQWZOHI/752064.pdf

 しかし、その数日前の8月19日、女川町議会特別委員会は女川原発2号機の再稼働推進の4つの陳情を賛成多数で採択、再稼働反対の請願が反対多数で不採択となった。同委員会は全町議会議員から構成されているので、9月の本会議を待たず再稼働が事実上の容認されたことになると報じている。請願、陳情の提出団体とその理由に着目してほしい。請願の提出団体は、原発関係者の輸送や滞在による経済効果とコロナ禍によって低迷した観光業の復旧に期待しているが、安全性への不安が高まる中、一時的な消費や需要が地元の振興につながるのかは曖昧なままである。1984年に運転開始した1号機は、老朽化のためにすでに廃炉が決まっているが、1995年に運転開始した2号機は、大丈夫なのか、素朴な疑問が残る。さらに請願の一つは2008年に3号機のプルサーマル計画が発表されたが、東日本大震災を経て、いまだに計画は棚ざらしに近い状況での2号機再稼働の不安、危険性を表していると思う。

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   同じ日8月19日に、仙台市の「脱原発仙台市民会議」ほか11団体が仙台市長あてに、事故が起きた場合、市民にも危険が及ぶなどとして、県から意見を求められた際、女川原発2号機の再稼働に反対するよう、要望書を提出していることを地元の新聞やテレビ局は報じている。
 それに先立ち、2018年12月には、1号機の度重なる事故を踏まえて、廃炉が決定していたが、今年に入って、2020年2月26日、原子力規制委員会は、2号機の審査で正式に合格したことを発表していたのである。

 東日本大震災後の福島原発事故後は、原発を擁する地元民だけでなく、多くの国民の間で、原発への不信感、原発事故への不安感は、拭いようもなく深刻なものになっている。各地の原発事故や各電力会社の不正や情報の隠匿などが報じられるたびに、市民にとって必要不可欠な電力、電気なだけに、なんとしても、原発促進阻止、廃炉への道筋を念じるばかりであった。一方で、電力の安定供給、エネルギーミックスを標榜する国と電力会社による原発促進政策は、交付金や補助金攻勢によって、過疎地区振興の名のもとに、自治体・議会の原発容認、促進を取り付けるという手法でしかなく、市民との乖離はますます増幅の一途をたどっている。

 かつてのブログ記事でも書いているように、私は、夫とともに、4年前に、女川原発反対運動の中心的な役割を引き継いで来られたAさんに、女川原発の現状や女川の津波被害・復興計画の状況を聞きながら、町内を案内していただいた。いま、ここで、あらためて、女川原発の歩みを振り返ってみると、「日本の原発の作り方」の典型を見るようで、いまも変わらない、国の在り方を見るようで恐ろしくなった。国民の命と財産を守るはすの政府は、真逆の、目前の一部の人間の経済的利益を優先して、負の結果には責任を取らないという構図が見えてくる。 

 年表は、以下の資料と、新聞記事などを参考に作成してみた。太字は女川原発に限った事項である。
(クリックすると拡大されます)
日本の反原発運動略年表(はんげんぱつ新聞)
http://cnic.jp/hangenpatsu/category/intro 
原子力年表(女川町) 
http://www.town.onagawa.miyagi.jp/05_04_04_04.html#1970

 

年表は、改訂しました。以下でも、ご覧になれます。この方が鮮明です。苦労して作成しました。(2020年10月31日)
ダウンロード - onagawagenpatunennpyo.pdf

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    年表を見ていると、原発を擁する自治体やその市民も、同じような苦渋の選択を迫られてきたのではないかとの思いである。初期の段階での選択にあたって、例えば、地権者が土地を売り渡したり、漁民が漁業権を放棄したりするときに、電力会社や行政から十分な情報が開示されず、市民の間でも誤った情報が流布したことも、女川原発反対運動を続けているAさんは指摘していた。壮絶なまでの反対運動を踏まえて、現在も地道な運動を続けている人たちに敬意を表したい。

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原発への道の途中にあった「なくせ!原発」「事故で止めるか みんなで止めるか」、地元女川、牡鹿、雄勝三町の反対期成同盟の立て看板であった。(2016年4月)

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「一番の防災は原発をなくすこと」の文字が読める(2016年4月)

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鳴浜の原発施設を小屋取浜より望む(2016年4月)

  私たちが2016年、女川を訪ねたとき、「震災復興のモデル」のように語られていた女川だった。2015年には完成した新しい女川駅、その駅周辺の商店街シーパルピアも開業したばかりであった。その中には地域の交流館も温泉施設もあった。30分もあれば一回りできる範囲なのだが、建物は新しく、防波堤に遮られず、海へと延びるが街路は美しいのだが、施設の中身となる、私たちのような訪問客、観光客にとって、どれも魅力的なものには思えなかったのである。食事をとろうとしても、少し高めな海鮮丼の店やうどん店などがあり、私たちは迷った末、「わかめうどん」を食するしかなかった。そして周辺は、大規模なかさ上げ工事の真っただ中であったが、4年後の今はどうなっているのだろうか。

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いのちの石碑プロジェクトの一つ、東日本大震災の被害状況が示されていた。10014人であった人口は、今年の6月1日現在(推定)、約5700人というからほぼ半減したことになる

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かさ上げ工事が進む(2016年4月

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高台の医療センターから白い屋根の女川駅をのぞむ(2016年4月)

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2017年11月7日、東京新聞より

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2018年12月15日、毎日新聞より。町の慰霊碑、希望した854人の名が刻まれている

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2016年5月14日 (土)

連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(7)女川町の選択

 

女川の戦死者に

PR館から戻る途中、魚雷回天の基地だったというのが気になり、停めていただいた。そこは、2010年まで、女川第六小学校と第四中学校の在った場所で、学校はかつての海軍の回天魚雷などの基地があったところに建てられた。Aさんも昔、お年寄りから聞いたことがあるとのことであった。帰宅後少し調べてみると、『女川町誌』(1960年、続編1991年)にも記述があるそうだ。

日本海軍は、連合軍の本土上陸に備え、小型舟艇の基地を太平洋沿岸に造ることを計画していた。小型舟艇とは、10人乗りの潜水艇咬龍、2人乗りの潜水艇海龍、1人乗りの人間魚雷の回天、1人乗りのモーターボートの震洋、そういえば、昨秋訪ねた霞ケ浦の予科練平和記念館でも聞いたことがある。牡鹿半島一帯には第七突撃戦隊に所属する第一四突撃隊(嵐部隊)が配され、本部が、ここに置かれていたというのである。当初、各種の小型舟艇が配備される予定であったそうだ。敗戦時は、「大浜」「天草」など5隻と海龍12隻と隊員600人規模であったが、海龍を隠すための壕が、車でも通過した飯子浜(いいごはま)などに、いまも残されているそうだ。そして、1945710日の仙台空襲に続いて、8月の9日・10日の女川空襲では、その軍用船や舟艇が、石巻の中瀬の村上造船所とともに狙われた。女川では、防衛隊だけでも157名(「女川湾戦没者慰霊塔」1966年、木村主税町長による撰文)と合わせると200名近い死者が出ていることも知った。

 

 

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女川防衛隊本部が小学校・中学校となり、町の人口減少に伴い、2010年、女川第六小学校と第四中学校が閉校となり、立派な二つの閉校記念碑が建てられていた。

 

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「ゆたかな心光る汗」の標語の看板が残る



女川の津波被害の犠牲者へ

女川駅に戻って、少し高台の地域医療センターまでのぼると、駅前のかさ上げ工事が一望できる。山を崩し、町全体を7mかさ上げし、高い防潮堤は、海の町としてはむしろ不要であくまで「海の見える町」にこだわった町民の選択だったという。女川町・都市再生機構・鹿島による一大復興プロジェクトである。三月一一日には、この小高い病院にも津波が押し寄せ、玄関には、ここまで達したという赤い線が表示されていた。1階部分のほぼ天井までと見ていいのだろう。だから、地震直後の対応で、1階で働いていた人や患者さんが間に合わず被害に遇われている。慰霊碑にお参りし、一回りすると、この復興計画の途方もなさが思われた。議会を前にながい時間をかけて、ご案内いただいたAさんが最後におっしゃる、原発に頼らない、町民の取り組みによる、ほんとうの復興、復興の先にある不安と期待、被災地はどこも、とくに女川は原発を抱え、さらに困難な再生の過程のほんの一部を実感するのだった。

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地域医療センターの玄関の柱に表示された津波の高さ

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町全体7mのかさ上げ工事

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病院での犠牲者慰霊碑から望む



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いのちの石碑プロジェクト、後世につなぐために。人口10014人、死亡・行方不明者827人総家屋数4411棟の内、全壊2924棟・・・。

 

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中央の白い翼のような屋根が新女川駅

 

石巻でも聞いていた、新しい商業施設「シーパルピア女川」が駅から海までの一直線で、そこだけが妙に浮き上がって明るい感じの一画になっている。周辺はすべて工事中なのである。祝日でもあったので、民族舞踊のフェステイバルのようなものが開かれ、あたりには大音響が響く。ランチが気軽に楽しめる店がないね、旅行者の気ままさで「ワカメうどん」を食するのであった。

三泊四日の陸奥の旅も終わりに近づいた。

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石巻線終点、海の見える駅、女川

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万石浦にしばらく沿って石巻に向かう

 

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連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(6)女川原発へ

朝の教会

石巻二日目の朝、朝食前に散歩と相成った。前日、食堂「まるか」で出会った人の言っていた、古い教会はすぐ近くだった。「ハリストス正教会」はあった。掲示板によれば、東京駿河台のニコライ堂と、その宗旨一にする教会で、この地には1880年聖使徒イオアン聖堂として建てられたが、1978年の宮城沖地震で被害を受け、新聖堂に建て替えられた。その際、旧聖堂は石巻市に寄贈され、現在石ノ森萬画館のある中州の中瀬公園内に移築し、日本最古の木造教会建築として保存されていた。ところが2011年の津波により、2階まで冠水し、流出こそしなかったが、崩壊したのを受けて、解体、再建することになったという。この教会の二度の津波被害、ロシア正教会の歴史に思いは至り、信者たちの気持ちは複雑だろう、と。

 

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1978年宮城沖地震後の1980年に新築された

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旧教会堂は、中瀬公園に移築再建されたが、2011年3月11日直後の惨状

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中瀬公園の旧ハリストス正教会解体の模様、復元へ

女川原子力発電所へ

  きょうは、女川、955分着。かねてより、知人にご紹介いただいていた地元のAさんと待ち合わせ、初対面である。Aさんは、父親とともに原発反対、脱原発、廃炉を掲げて活動してこられた方である。乗車するなり、「役場は、ヨウ素剤を配り始めました」と言うのがAさんの第一声だった。まずは原発の見えるところまでと、車を走らせる。女川駅からは直線距離で8キロ余だが、41号線は、海岸に沿ったり離れたりしながら、進んだ。途中、小乗(このり)浜などの仮設住宅、大がかりな高白浜と横浦とのトンネル工事の現場を過ぎ、まだ、ブイが木々の枝の先に引かかったままだったり、野々浜では、むかし回天魚雷の基地の宿舎が小中学校となり、いまは廃校のままになっているところだったりを通過する。また、Aさんのお父さんが建てたという「原発反対」の立て看板が2か所あった。だいぶ古くなっていて、運動の歴史を物語るものだろう。昨年の世界防災会議参加者の数人もこの立て看板に注目したという。原子力発電所の全景が見えるところと言えば、ここしかないと降ろしてくださったのが、小屋取の浜だった。向かいの原発の建つ浜「鳴浜」は「ならはま」と呼ばれ、女川では鳴り砂が一番美しい浜だったそうだ。いまは、29mの防潮堤を建設、再稼働に備えている。小屋取の海の正面には山王島という小さな親子島がある。そばの定点観測の鉄塔とともに津波に襲われたという。女川湾には、11の集落と浜があり、復興案の一つとして集約しようという計画もあったらしいが、まとまらなかったという。そこから少し戻った塚浜には、原発のPRセンターがある。東北電力の原発用地買収当時、塚浜の漁師たちは、2500万円で漁業権を放棄したという。それも、個別の交渉が秘密裏の裡に行われ、原発自体に最後まで反対していた地主が突如寝返ったりした経緯もあったそうだ。一号機運転開始1984年、三号機が2002年という、そんな悔しさをAさん親子は味わったらしい。

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終点、女川駅下車、瓦礫の中のホーム

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「なくせ!原発~事故で止めるか、みんなで止めるか」

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小屋取から女川原発全景

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山王島

女川原子力発電所PR館へ

 私はこの種の施設は初めてだった。想定内のPRぶりであったが、東京電力の福島原発と比較して、東北電力の女川原発は、いかに大震災に耐えたかの成功のストーリーが出来上がっているようだった。しかし、PR館配置資料 『そのとき女川は~東日本大震災に耐えた原子力発電所』(東北エネルギー懇談会編刊 20144月)をよくよく読んだり、展示を見たりすると、2号機建屋の海水浸水や1号機重油タンクの倒壊という危機にさらされていたのである。津波被害を免れたと言っても、海抜14.8mの敷地が、地震のため1m地盤沈下したところに13mの津波が襲ったので、あと0.8mの余裕しかなかったことになり、事故とならなかったのは偶然に近かったのではないか。にもかかわらず、311当日、津波警報を聞いた地元民が、PR館に幾人か避難してくると、地域への貢献とばかりに受け入れた上、電気や非常時の備えなどから原発内の方が適切との判断で、原発内の体育館で受け入れることになったという。通勤用バスやヘリコプターなども動員、近隣からの避難住民を積極的に受け入れたという。このことが、いかにも美談のように流布されたらしい。現実には、1号機では高圧電源盤で火災が発生、2台の非常用ディーゼル発電機のうち1台が使用不能に。2号機は、配管通路から海水が浸入し、建屋地下部分にある熱交換器室が一時、深さ約25mまで浸水した。発電機も故障した。体育館では、周辺集落から最大360人が避難生活を送った。Aさんは、必ずしも安全でない原発内に3カ月も避難住民を留めたことに疑問を持っていた。

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受付では、ゴーヤの種と「東北電力女川原子力発電所」の「潮位時刻付きカレンダー」とパンフレット類が渡される。干潮・満潮の時刻がわかるというカレンダー、よく考えると「怖い!」

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左から、1号機2号機3号機と並ぶ。PRセンターが左上に、2本の送電塔の右に体育館が見える。ここが避難所になっていた。『そのとき女川は~東日本大震災に耐えた原子力発電所』から作成

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こんなパネルも

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電気事業連合会のパンフも入ってました。どこかで見たことのある人たち、こんなところで一役?かっていたんですね

 

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2016年5月12日 (木)

連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(5)パン工房「パオ」と食堂「まるか」

石巻市復興まちづくり情報交流館

ガイドのTさんが最後に案内してくださったのが、「石巻市復興まちづくり情報交流館(中央館)」だった。被災の状況、復興の様子などがコンパクトにまとめられている展示室で、石巻に20数年住んでいるイギリス人のリチャードさんが館長さんを務めている。昨年3月仙台市で国連世界防災会議が開かれたが、その開催直前にオープンしたらしい。交流のためのスペースも用意されているが、どのくらい活用されているのだろうか。ちょっと中途半端な気がしないでもなく、どうも役所臭が抜け切れてないような、そんな印象ではあった。

食堂「まるか」

身体は冷えて、靴も靴下もビショビショ、一度ホテルに戻って、着替えてから、また雨の町へ。少し遅い昼食ながら、ガイドさんに紹介された、「まるか」食堂へ。どんぶりに好きな刺身をトッピングできて、価格もリーズナブルと言われて、入った店内は、何のことはない、大きな魚屋さんで、真ん中に長机と椅子が並んでいる。レジのおばさんに、教えてもらいながら、ともかく定食のご飯とみそ汁を頼み、あとは冷蔵ケースにびっしりと並んでいる、小振りにパックされた刺身類をレジに持って行って支払い、後はセルフサービスである。冷えた体には、駆けつけのお茶がおいしかったこと、上等なお茶に違いないと。定食の汁ものはカニのみそ汁だった。私たちは、ウニとマグロといかの天ぷら、酢の物・・・。他にもたくさんあったのだが食べられそうにもなく断念。ごちそうさまでした。一人前900円弱。食後は、店内をめぐると金華ブランドのサバやイワシ、牡蠣や海鞘、カニやホウボウ、アナゴ・・・所狭しと箱が重ねられている。ひときわ鮮やかな赤い魚、よく見ると「吉次」の札がのせてある。そこへ地元の主婦の方が、「キチジ、今日はおいしそう」と言うのを聞いて「キチジと読むんですね」と思わず尋ねてしまう。もちろん持ち帰りもできないのだが調理法なども伺い、話ははずむ。ご自身も被災者で、復興住宅に住んでいるとのこと。明日、女川を訪ねると言えば、父親の転勤で女川に数年住んだことがあるそうだ。ついでに、近くでお勧めの場所はありますかと尋ねると、ホテルの近くだったら、たしか古い教会があるはずですよ、とのことであった。

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目移りがして困った・・・ちばん奥の赤い魚が「吉次」(キンキ)だった

 

復興ふれあい商店街、パン工房「パオ」

 

あちこちと空き地が多い街ではあったが、食べ物屋さんとバーが多いのは港町だからか。地図を頼りに、復興ふれあい商店街に寄ってみることにした。プレハブの細長い3棟ほどが並んでいるが、相変わらず足もとが悪いし、雨のため戸を閉めている店も多く閑散としていた。「パン」の旗を掲げている店に入ってみた。「どこから来ましたか」に始まって、いろいろ話していくうちに、ともかく、このパン工房パオのお店長お勧めの生ゆばを練り込んだ食パンを買い、おやつのケーキを買ったところで、コーヒーをどうぞ、この甘食どうかしら、ラスクはどう、サービスですよ、の問わず語りに、店を開いた経緯、この仮店舗も一度の延期を経て、この10月には引き払わなければならないことなどもろもろの話になった。そもそも市内にあった店に津波が運んできた漁船が突っ込んだが、その直前に高台にある我が家に駆け上がって、とにかく命は助かった、という。店先の漁船は、いくつかの写真で報道されたといい、新聞記事や記録写真集を見せてもらった。パン工房は廃業かと思う日もあったが、全国の「生ゆばパン」のファンの励ましで、再開すると注文が途絶えず、今日にいたっているという。と言っても、店の再開には資金も必要なので、不安も多いというが、元気な、前向きの方だった。途中で、ビタミンCを補うべく、いちご「あきひめ」1パックを買って、ホテルに戻った。

 

夕食は、ホテル内のレストランだったが、このホテルも、1階は津波の被害に見舞われたが、他は無事だったので、近くの住民の避難場所になったといい、駅近くでも場所によってはボートで移動したという。ホテルも全面再開には半年くらいかかりましたよ、との話だった。海からの津波ではなく、北上川の堤防を乗り越えてきた津波だった。海側の防潮堤もさることながら河川堤防の重要なことを認識したという。そういえば、石巻の駅舎には、津波はここまでという表示がされていた。

 

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復興ふれあい商店街というが・・・

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パン工房「パオ」の店長さん

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石巻駅の津波表示

 

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石巻駅ホームから市役所と建設中の市立病院

 

 

 

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